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洪水の年(上)
洪水の年(上) (JUGEMレビュー »)
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マーガレット・アトウッド
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 (JUGEMレビュー »)

まず私たちの生命と暮らしを脅かす事実を知ること。それにたいしてどのような認識を持つのか。この国のみならず、世界を壊滅させる災厄とどう向き合うのか。次世代に対してどう責任を取るのか、そもそも責任を取れるのか。自分に何ができるのか。この現実にどう向き合うのか。それを教えるのが教育のはずだが、この国には教育も哲学も存在しない。
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「最悪」の核施設 六ヶ所再処理工場 (集英社新書)
「最悪」の核施設 六ヶ所再処理工場 (集英社新書) (JUGEMレビュー »)
小出 裕章,渡辺 満久,明石 昇二郎
原発よりもはるかに危険な六ヶ所村再処理工場。私たちの日々の生活が薄氷の上で営まれていることを痛感させられる。同時に、この国には「国民の生命・財産・自由を守り抜く!」と威勢のいいことを言う総理大臣と無能の政治家しかいないことに絶望する。核燃料サイクルと言い、下北半島の再処理工場と言い、3兆円以上の国民の税金がつぎ込まれ、いまだ後始末も将来の見通しもたっていない現実をどう考えているのか。彼らは核兵器を持ちたいという願望と税金をロンダリングして私腹を肥やすことしか眼中にない。北海道の地震だけに目を奪われてはならない。六ヶ所村は今回の震源地の目と鼻の先にあるのだ。
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幻影(イメジ)の時代―マスコミが製造する事実 (現代社会科学叢書)
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D.J.ブーアスティン
私にとっては古典の中の古典。三度読みました。そしてその慧眼にいまだに驚いています。
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殺人犯はそこにいる (新潮文庫)
殺人犯はそこにいる (新潮文庫) (JUGEMレビュー »)
清水 潔
ジャーナリストと称する職業がある。自称ジャーナリストもいれば、テレビのコメンテーターとしてリベラルに媚びる政権批判をし、名を売り、講演で稼ぐ職業をジャーナリストと呼ぶ者もいる。とんだ茶番である。ジャーナリストとはどこまでも「事実」を追いかける。テレビに出て能天気な解釈や感想を垂れ流している暇などないはずだ。ジャーナリストを志す若い人には清水氏の著作は避けて通れない。その名に値する本物のジャーナリストがここにいる。
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デジタル・ポピュリズム 操作される世論と民主主義 (集英社新書)
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福田 直子
おそらく自民党・安倍政権はSNSを駆使し、分析するデータサイエンス(日本版なのでレベルはまだ低いですが)の重要性に着目し、選挙にどうすれば勝てるか、自分たちに有利な世論を形成し、国民を誘導・分断するにはどうすればいいのかが分かっているのです。そのためのノウハウも蓄積しつつあります。安倍首相の貧困な語彙力からは想像できないカタカナ言葉を聞いていると、それがSNSを分析している集団から教えられたものであることがよくわかります。ただ彼らの致命的な弱点は将来の社会を導く理想がないことです。おそらく、思いもかけない結果が待っていることでしょう。なぜなら、所詮、彼らはアメリカとビッグデータの奴隷でしかないのですから。これからの政治は、好むと好まざるとにかかわらず、この本に書かれていること抜きには語れなくなっているのです。
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 (JUGEMレビュー »)

安倍政権に対するメディアの忖度が云々されていますが、元々同じ穴のムジナなのです。忘れてならないのは、日中戦争から太平洋戦争にかけて、日本の世論と新聞のほぼ全部は好戦的・拡張主義的だったのです。しかも、当時はまだ言論統制体制が発足していなかったのです。この本は、そうした「一貫して好戦的な世論とそれに便乗する新聞」が先導し、近衛文麿はじめ文民政治家がそれに便乗、軍部がさらに便乗、という構図を一次資料で克明に論証しています。安倍政権を支持するネトウヨの皆さんの日本語力では、まともな読解は無理ですので勧めません。一方、正確な歴史を知るためには「世論」の不気味さを知ることだと気づいている若い人には是非一読を勧めます。
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茫漠の曠野 ノモンハン
茫漠の曠野 ノモンハン (JUGEMレビュー »)
松本草平
著者は大分市にある『天心堂へつぎ病院』の院長、松本文六氏の御尊父、松本草平(本名松本弘)氏です。詳しくは、ブログで紹介したいと思いますが、第一次資料として極めて価値の高いものです。40年ぶりに復刻版を出された松本文六氏と出版社に感謝する他ありません。
戦略も何もない、無謀・無慈悲な戦争を語り継ぐことは、最も崇高で重要な人間の営為だと私は考えています。作家の司馬遼太郎氏は、電話で草平氏に次のように伝えてきたそうです。「先生の臨場感のあるノモンハン戦記に出会えて本当にありがとうございました。私は大東亜戦争の折、戦車隊の一員として従軍しましたが、先生の従軍記以上のものを創ることはできません。」と。
一人でも多くの方がこの本を読まれることを望みます。ちなみに松本文六氏は伊方原発差止め訴訟の原告でもあります。その縁で、この本に出会うことができました。
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「南京事件」を調査せよ (文春文庫)
「南京事件」を調査せよ (文春文庫) (JUGEMレビュー »)
清水 潔
全国のネトウヨの皆さんへの推薦図書です。清水氏のこの本を読んでから、「南京事件はなかった!」「南京事件は捏造だ!」と叫びましょうネ。
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日本列島の全原発が危ない! 広瀬隆 白熱授業  DAYS JAPAN(デイズジャパン)2018年1月号増刊号
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広瀬隆
広瀬氏をアジテーターだの、オオカミ少年だの、悲観主義に過ぎると言って批判する人がいる。しかし、ブログで何度も述べてきたように、真の悲観主義こそがマインドコントールによって奴隷根性のしみ込んだ私たちの精神を浄化してくれるのだ。そもそも無知では悲観が生まれようもないではないか。国などいくら破れても結構。せめて山河だけでも次世代に残そうと考える人ならぜひとも読むべき本である。いや、これから幾多の春秋に富む若い人にこそすすめたい。
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チャヴ 弱者を敵視する社会
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オーウェン・ジョーンズ,Owen Jones
【本書への賛辞】

「怒りが生んだ、最高の本」
──ガーディアン紙

最高の論争がみなそうであるように、知性に裏打ちされた怒りが本書を支えている。
──エコノミスト誌

暴動や世界中に広がったオキュパイ運動に照らして考えると、分断社会に関する著者の鋭い分析は、
不気味なほど未来を予知していたことがわかる。
──アートフォーラム誌

情熱と、思いやりと、すぐれた道徳性が結実した仕事だ。
──ニューヨーク・タイムズ紙

政治の定説を見直す大胆な試み。著者は戦後のイギリス史を縦横無尽に往き来し、
階級、文化、アイデンティティといった複雑な問題を軽々とまとめてみせ、
結果として「階級」問題に火をつけ、大きな効果をあげている。
──インディペンデント紙

いまの制度が貧しい人々を見捨てていることに対する苛烈な警告──それが本書だ。
──ブログサイト「デイリー・ビースト」

ジョーンズは、「地の塩」だった労働者階級が政治のせいで「地のクズ」と見なされるようになった経緯を見事に説明している。
──タイムズ紙

この本は、新しいタイプの階級嫌悪と、その裏にあるものを痛烈にあばいて見せてくれる。
──ジョン・ケアリー(The Intellectuals and the Masses著者)

これは「イギリスはおおむね階級のない社会である」という考え方への、論理的で情報満載の大反撃だ。
──オブザーバー紙

情熱的で示唆に富む……この声が届くことを心から願う。
──スコットランド・オン・サンデー紙
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 (JUGEMレビュー »)

紹介していない本が山のようにあります。数日前にこの本を本棚の奥から引っ張り出し再読しました。いや〜面白かった。。とにかくこの本のことを忘れていた自分が信じられない。読んでない人に熱烈に勧めます。ハイ。
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新・日米安保論 (集英社新書)
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柳澤 協二,伊勢崎 賢治,加藤 朗
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英語の実際的研究 (1969年)
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秋山 敏
高校生にとって、今でも一押しの不朽の名著。でもこの本をことを知っている英語教師は少ないと思います。是非復刊してほしいものです。
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スノーデン 日本への警告 (集英社新書)
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エドワード・スノーデン,青木 理,井桁大介,金昌浩,ベン・ワイズナー,宮下紘,マリコ・ヒロセ
2017年4月18日、朝日新聞がようやく「パノプティプコン」を取り上げました。遅すぎますね。
これから先の日本社会は、ますます荒廃が進み、国民の不満が頂点に達し、やがて爆発します。それを未然に防ぐために、国は国民の監視を強化します。
実際アメリカでは「愛国者法」により、電子メールや携帯の通話履歴が監視の対象になっています。誰が、いつ、どこで、何を読んで、誰と通信を交わしたか、すべて国に筒抜けです。
「パノプティプコン」とはフランスの哲学者フーコーが用いた概念ですが、国民が刑務所の囚人のように監視される体制を言います。監視者の姿は見えませんが、囚人は監視者不在でも、監視を意識することによって管理統制されるのです。これを「パノプティシズム」と言います。
このシステムから解放されるためには、権力がどう管理・統制しようとしているかを知らねばなりません。この本はそれを知るための第一歩です。あなたが無知のまま、奴隷の人生を送りたければ、読む必要はありません。
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A.ミラー
アリスミラーのこの本は、塾を始めるきっかけになりました。ただ生活のためだけなら、他のことをしていたでしょう。『才能ある子のドラマ』とあわせて、当時の私には衝撃的な本でした。人生はどこでどう転ぶかわかりません。人間の奥深さを知ることで、何とか自分を維持していたのです。この本を読むと当時のことが、ありありと思い出されます。ある意味で、私の人生を方向づけた本かもしれません。
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朽ちていった命:被曝治療83日間の記録 (新潮文庫)
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NHK「東海村臨界事故」取材班

2月18日のブログでも書きましたが、仕事のために読むビジネス書の類は、最終的には効率を重視し、最小の資本と労力の投下で、いかにして最大の利益を上げるかということに尽きていると思います。そのための働き方改革であり、そのための賃上げです。そのための人心掌握術であり、顧客対応です。ビジネス書を読めば読むほど、人間は軽薄になり、視野が狭くなっていきます。もしあなたがそれを自覚するきっかけがほしいなら、是非この本を読むことを勧めます。読書はビジネスのためにするのではないということが分かると思います。この本は私たちの日常の風景を一変させるだけのインパクトを持っています。いわば、ことばの最高の意味における「闖入者」なのです。
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服従
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黒い巨塔 最高裁判所
黒い巨塔 最高裁判所 (JUGEMレビュー »)
瀬木 比呂志
この本はまだ発売されていません。自分で読んでいない本を推薦するのは邪道でしょう。しかし、これまでの『絶望の裁判所』『ニッポンの裁判』(ともに講談社現代新書)に続く裁判所、司法批判の第3弾が長編の権力小説だということで、過去2冊の本の面白さからして、推薦に値する本だと思いました。『原発ホワイトアウト』の最高裁判所ヴァージョンだと思います。読んでからコメントを追加したいと思います。
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そして、僕はOEDを読んだ
そして、僕はOEDを読んだ (JUGEMレビュー »)
アモン・シェイ
学校なる場所に通っていた時、毎年夏になると課題図書を読んで、読書感想文を書かねばならないのが苦痛でした。課題図書の選定には学校と書店の密約があるに違いないと思っていたくらいです。

偶然巡り合った面白い本の感想を書くのならまだ我慢できたかもしれません。つくづく学校というところは、余計なことをしてくれると思ったものです。

あまりにめんどうくさいので、「あとがき」を参考に、あらすじを書いて提出したら、トリプルAをもらいました。

学校というところは、もしかしたら、人生の退屈に耐える訓練をする場所だったのかもしれません。この本を読んで、改めてそのことを確認しました。別に先生を責めているわけではありません。それほど自覚的に生きるということは難しいのだとため息をついているだけです。
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選挙 [DVD]
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想田和弘監督の観察映画。音楽による演出は一切なく、徹頭徹尾監督の視点で撮られたドキュメンタリー映画。見終わった後、日本の選挙風土の貧困さが浮かび上がる。この国に民主主義はない、ということを改めて確認し、そこから出発するしかない。その勇気を持つ人には必見の映画です。合わせて『選挙2』もどうぞ。
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職業としての政治 (岩波文庫)
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マックス ヴェーバー
ウェーバーの死の1年前、1919年、学生達に向けた講演の記録です。
一部抜粋します。

「自分が世間に対して捧げようとするものに比べて、現実の世の中が―自分の立場からみて―どんなに愚かであり卑俗であっても、断じてく挫けない人間。どんな事態に直面しても「それにもかかわらず!」と言い切る自信のある人間。そういう人間だけが政治への「天職」を持つ。」(P105〜106)

「さて、ここにおいでの諸君、10年後にもう一度この点について話し合おうではないか。残念ながら私はあれやこれやいろんな理由から、どうも悪い予感がしてならないのだが、10年後には反動の時代がとっくに始まっていて、諸君の多くの人が―正直に言って私もだが―期待していたことのまずほとんどは、まさか全部でもあるまいが、少なくとも外見上たいていのものは、実現されていないだろう。」(P103〜104)

10年後には、ワイマール体制は機能不全に陥り、1933年にはヒトラーが首相に就任します。

平和憲法は、日本人にとって310万人の命と引き換えに手に入れた唯一と言っていい理念であり、アイデンティティーでした。その唯一の誇りを、日本人は損得勘定で葬り去ろうとしています。言い古された言葉ですが、歴史は繰り返すのです。
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熊楠の星の時間 (講談社選書メチエ)
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中沢 新一
小学校を卒業するころ、将来なりたい職業として思い描いていたのが、天文学者か生物学者でした。プロ野球選手は、自分のセンスでは無理だと悟りました。物ごころついたころから興味があったのは宇宙や昆虫や植物の世界でした。そんなわけで南方熊樟に出会うのは必然的な成り行きだったのです。人間は言葉によって世界を把握しますが、それ以外の把握の仕方があるはずだと、ずっと思ってきました。南方熊樟は、小林秀雄と同じく、直観による世界の把握の仕方を教えてくれました。この本は、言葉によって構成された世界秩序の外に出て、世界を改めて考えたい人に大いなるヒントをあたえてくれます。安倍政権によるゴキブリのフンのような、あまりにばかばかしい政治状況を見せつけられているので、精神の衛生学として一気に読みました。
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本間龍
こどもの教育から裏金を使ったオリンピック誘致、原発再稼働、戦争準備から武器の売却、安倍政権の裏の権力としてメディアに絶大な影響力を行使する電通。私たちは電通が作り上げた「箱」の中でいいようにマインドコントロールされている。自分の意見だと思っていたものが、実はそう思わされていただけだということに気づかなければならない。音楽をはじめとする芸能情報、その中で踊らされるミュージシャンやタレント、果てはデザイン業界までを席巻する。今や電通の介在しないメディアはないと言ってもいい。利権あるところに電通あり、です。
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英語教育に携わる人は、一度この本を読んでみるべきではないでしょうか。言葉は悪いですが「英語ばか」がこの国には余りにも多すぎる気がします。
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矢部 宏治
前作『日本はなぜ「基地」と「原発」止められないのか』に続く著者渾身の力作。自分の人生を生きたい人にすすめます。ただそれだけです。18歳で選挙権が与えらる高校生が政治を考える際の基本的なテキストになる日がくるといいですね。無理でしょうが。これ以上余計なコメントはしません。まず手に取ってみてください。
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菅野 完
メディアで取り上げられるよりはるか前から日本会議の存在について私は言及していました。電通と同じくタブー視するメディアには心底失望したものです。報道すればタブーはタブーでなくなるのです。何を恐れているのでしょうか。干されれば、何とか生活をする工面をすればよい。それだけのことです。
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磯崎新
帯に「祝祭都市にスタジアムはいらない」とあります。そもそも2020年まで天災と原発事故をやり過ごし、経済危機を乗り越えて存在しているでしょうか。極めて怪しいですね。偶然書店で手に取って読みました。彼の文章を読むと、建築は現世の権力に奉仕するものではなく、想像力の王国を作るものだと思わされます。建築にそれほど興味のない人でも、読めます。いや、いつのまにか引き込まれているでしょう。
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りぼん・ぷろじぇくと
難関中高一貫校で学び、東大に合格しても、それはもはや知性のバロメーターではありません。この本に書かれていることが真実だと見破れることこそが本物の知性です。ニセの知性は既得権益を守るためにはどんな屁理屈でもひねり出します。おまえは何も知らないと言って他人を見下し、金と権力におもねるのです。ニセの知性は理想の灯を掲げることができません。「脳内お花畑」などという幼稚な言葉を使って揶揄するしかないのです。彼らの決まり文句は、他国が攻めてきたらどうするのかという、それこそ「脳内お花畑」的なものです。「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」とは、まさに至言です。
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私の元塾生の縁でお会いしたことのある烏賀陽弘道氏の渾身のレポート。事実を丹念に調べ上げ(これがジャーナリストの本来やることです)事実をして語らしめることのできる稀有なジャーナリスト。この本を読まずに福島第一原発の事故の本質に迫ることはできない。ダブル選挙の前に一人でも多くの国民が読むことを期待します。
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松岡正剛氏の本はどれも面白く、シリーズの千夜千冊を除けばほとんど読んでいます。『多読術』は、高校生にぜひ勧めたいと思います。高校時代に、この本を読んでおくと、さまざまな分野の知的見取り図を手に入れることができます。学校の授業だけではなく、この本を手掛かりにして知の荒野に歩みを進めてほしいと思います。
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カント
安倍首相は「この道しかない」と言って消費税を上げ、集団的自衛権の行使を可能にする閣議決定をし、公約とは正反対のTPPを批准することで、日本の文化=アイデンティティーを破壊しようとしています。

もし私たちが生き延びたければ、そのヒントがこの本の中に書かれています。日本は超大国の「夢」を代弁するだけの国になってはなりません。
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山本氏の国会での質問を、本になって改めて読み直して感じることは、文字通り「みんなが聞きたい」質問をしてくれたということです。安倍首相が小学生に「なぜ政治家になったのですか」と質問された時、「父親も祖父も政治家をしていたからです」と答えていました。小学生相手に、何と言う悲しい答えでしょうか。語るべき理想を持たない政治家など、所詮は官僚に利用されるだけです。それに対して、山本氏には語るべき理想がある。「政治なんてそんなものさ」というリアリストが発散する腐臭を吹き飛ばすさわやかさがある。それは、彼の身体には収まりきれない理想が持つ力そのものです。彼は言います。「力を貸してほしい。少なくとも、あなたが必要だと思われる社会、私が必要だと思われる社会を作っていきたい。そう思うんです」と。日本の総理大臣にふさわしいのはどちらでしょうか。
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ジョン・W・ダワー,ガバン・マコーマック
おそらく、日本人自身よりも海外の知識人のほうが、日本の問題を正確にとらえていると思わせる本です。読み終えて何気なくテレビを見たら、わが大分県選出の国会議員、岩屋毅氏と江藤晟一氏が、2016年ミスユニバース大分県代表を選ぶ催し物に出ていました。名誉顧問だそうです。いかがわしい宗教団体をバックに票を稼ぐだけでは飽き足らず、こんな大会に顔を出して名前を売ろうとする。大分市長の佐藤樹一郎氏も出席していました。このお三方は、こんなことをするために国会議員や市長になったのでしょうか。国民の税金を使ってやることといえば、テレビに出演してにやけた顔をさらすことでしょうか。もう物事の軽重が全く分かっていません。せめてこの本くらい読んではどうでしょうか。私はこの本に書かれていることの大部分に賛成です。
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蓮池 透
出版されてすぐ読みました。国会で、読んでもいないのに、安倍首相が躍起になって否定した事実が書かれています。蓮池氏はあちこちから人格攻撃の対象とされてきましたが、自分にも落ち度があったと認めています。自分は総理大臣なのだから落ち度はないと居直る人間とは好対照です。この本を読んで、拉致問題について今一度国民が考えることを望みます。
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渡邉 格
2年半ほど前に求めて、一気に読みました。マルクスの『資本論』の中に書かれていることを、著者が自分なりに消化し実践していく過程が書かれているので、一種のドキュメンタリー文学として読めます。きっと著者と同じ思いの若者は全国にたくさんいると思います。かけがえのない一回きりの人生を、充実して生きたいと思っている人に勇気を与える本です。
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スベトラーナ・アレクシエービッチ
今年度ノーベル文学賞受賞作品。チェルノブイリは言うまでもなく、フクシマでさえ人々は忘れたがっています。もう過去のことだと言い聞かせて。しかし、過去のことではなく、まぎれもない現在進行中の現実であり、私たちが生きている世界そのものです。この本を読んだ後、橋下徹が御堂筋をイルミネーションで照らし出し、F1カーに乗って写真を撮っているところを見ました。その時のセリフ。「大阪はここまでできる!」

もう何と言うか、別世界を生きている人間です。彼の発する言葉は文学とは無縁です。人間が言葉を持ったのは、言葉にしがたいものを言葉にしようとするためです。政治家が発する言葉の軽さと言ったらありません。それだけ現実も軽いものになったということでしょう。
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鈴木 大拙
鈴木大拙の言わんとすることが、ようやくわかりかけてきました。年齢を重ね、日本文化の基底にあるものをじっくり味わうことで開示される世界があるのです。日々の生活に追われていては、この本を読み、味わう暇などないでしょうが、それだからこそ手に取ってみてはいかがでしょう。
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人間は、条件次第で、喜々として殺人を犯す。そして、その条件を整備しつつあるのが、安倍政権とその背後でうごめく『日本会議』である。このことに気づいていても、「配慮する」ことを最優先して報道しないメディア(特にNHK・読売新聞・産経新聞)。そしてそこに寄生する学者やコメンテーター、芸能人。このドキュメンタリー映画は、彼らの自画像である。たまには、自らの顔をじっくり眺めてみるがよい。
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ジョナサン・ハイト
私が長年考えてきた問題を解明するヒントになりました。ブログで書いたように、まず感情を基にした結論があって、それを正当化するために人は「知性」を動員するという、ごく当たり前のことが書かれている。つまり、知の粉飾決算報告書である。
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中村 好文
中村さんの著作の中では、個人的に最も好きな本です。読んでいるだけで楽しくなります。限りなく優しい、でも、痛烈な文明批評です。これからの生き方のヒントが満載です。それを一人でも多くの人と分かち合いたいと思い、中村好文論・その3の中で引用させていただきました。
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暮らしを旅する
暮らしを旅する (JUGEMレビュー »)
中村 好文
以下は私がアマゾンのレビューに投稿したものです。再録します。
「もし人に幸福な生き方があるとしたら、中村好文さんのような生き方だろうと、ずっと思ってきました。
建築雑誌をパラパラとめくりながら、ふむ、と思って手が止まると、そこには必ずと言っていいほど中村さんの設計した住宅がありました。
文は人なりと言いますが、その人の書く文章のエッセンスがこれほど見事に建築にも表現されている例はめったにありません。
建築に限らず、食の分野でも、ことばと実物の乖離がはなはだしい時代に、中村さんの設計した住宅や美術館に出会うと、どこか安心するのですね。
そういうわけで、著者の本はすべて読ませてもらっています。
この本も偶然、年末に本屋さんで手に入れ、装丁やカバーの手触りを楽しみながら読んでいます。
読みながらいつの間にかほのぼのとしている自分を発見します。
一日に一編か二編を過去の記憶をたどるようにして読んでいます。
この本の平明さ、やさしさがどこから来るのか。そんなことを分析するのは野暮というものです。
とにかくこの素敵な小さな本は、旅のお供にどうぞ!とすすめたくなります。」
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中村 好文,神 幸紀
中村さんの書かれた本はすべて読みました。どの本もおすすめです。これから家を建てようと考えている人は、どの本でもいいですから、一冊中村さんの本を読んでみてはいかがでしょうか。エッセイとしても十分楽しめます。この本は北海道にあるパン屋さんの建物を作りながら、人は「パンのみにて生きるにあらず」を実践したものです。ダジャレ好きの中村さんらしい(笑)。
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中村さんの本を全部は読めないという人向けに、一冊だけ選ぶとすればこれでしょうか。普通、設計したらそれで終わりという建築家が多い中、かってのクライアントを訪問して話を聞き、それを本にしたものです。クライアントといい関係が築けてないと難しいですね。加えて自信がないとなかなかできることではありません。
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堀部 安嗣
堀部氏のスケッチと自身で撮った写真集。これ見よがしの作家性を前面に押し出したところがない。簡素で謙虚だが、気品に満ちた佇まいは何度見ても見飽きることがない。ブログを書くために、もう一度最初から読み直してみたが、やはり素晴らしい。
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「民主主義が終わってるなら、始めるぞ!」そのとおりです。彼らは「○○大学、○○○○(氏名)、私は戦争法案に反対します」と堂々と個人の責任で発言している。ネット上で匿名で反対意見を罵倒する勢力に比べると何とすがすがしいことか。デモや民主主義について一から考えたい人、あるいは、それくらいのことはわかってるつもりだという学者の皆さんに読んでもらいたい。もちろん大学生や18歳で選挙権を持つ若い人たちにも。ただし、民主主義は感情統治だの多数決だのと言っている橋下徹やホリエモンこと堀江貴史は読まなくてよい。あなたたちはSEALDsの新しさを理解する能力を欠いているから。
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亡国記 (JUGEMレビュー »)
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Kさんからの便り。
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    塾を始めた30代の初め、ある生徒が授業の後、独り言のようにつぶやきました。

    「誰も分かってくれる人がいない」と。

     

     

    まだ若かった私は答えました。

     

     

    「僕はどうでもいい100人からわかってもらうよりも、心ある一人の人からわかってもらうことのほうが大事だと思う。100人、いや1万人から支持されても、その中に尊敬できる人が一人もいなかったら、これほど虚しいことはないだろう。人間にとって最も大事なことは、多数決で決めることはできないんだからね。僕は僕なりの仕方でしか君のことを理解できないし、それも間違っているかもしれない。でも僕は人生で出会った人が誰であれ、その人にとって心ある一人の理解者でありたいと思う。そうなるように心がけていくつもりだよ。」と。

     

     

     

    今から思えば赤面するような青臭いセリフですが、しかし、その思いは今も変わっていません。おおぜいから支持される生き方は、どこか胡散臭いのです。逆に、ある人を本当に理解しようとすれば、必ず世間的な常識とぶつかります。つまり孤立を余儀なくされるのです。

     

     

     

    私たちは偶然この世に産み落とされます。人間の生は極めて不条理なものです。私たちが主体的に選択できるものは限られています。どんなに強い意志や理想があっても、理不尽なことに翻弄される運命を免れないのです。

     

     

     

    しかし、群れから離れた一人の時間だけが、本当になるべき自分に気づかせ、心から望む生を実現する構想力を生み出します。私は生徒に自分の人生を生きて欲しいと思っています。難関大学に合格するなどということは、瑣末なことです。単なる通過地点や手段を人生の目的と勘違いしてはなりません。

     

     

     

    今から2ヶ月半ほど前、長野県に住む元教え子のKさんを訪ねました。以下はそのKさんからもらったメールです。懐かしく、うれしい便りです。人生はまだまだ続きます。どうかお元気で。機会があれば、今度はゆっくり信州を旅したいと思っています。

     

     

     

    ― 先生、昨年は、青木村の拙宅までお越しいただきまして、ありがとうございました。

    その後、お元気でお過ごしでしょうか。

     

     

    とても嬉しい再会で、お礼のお便りをと思いながら気づけば年を越してしまいました。

    今頃になってご連絡差し上げる失礼をお許しください。

     

     

    地縁も血縁もない信州で、自分の子ども時代と思春期にお世話になった恩師と再会するというのは、実に不思議な感覚でした。月日の流れなどなかったように、先生も奥様も当時のままで、一気に時間を飛び越えた心持ちになりました。

     

     

    未来塾のホームページとブログを見つけて、ランダムに投稿を読ませていただきました。

     

    先生も歌手の浜田真理子さんがお好きで、キース・ジャレットもお好きで、ネトウヨが大嫌いで、大分を離れてもうずいぶん経つのに、相変わらず私は“未来塾チルドレン”なのだと笑いがこみあげてきました。

    (浜田真理子さんのライブ、ぜひ一度行かれてください! 最高でした)

     

     

    会社を辞め、仕事を一旦手放し(夫婦揃って高給も手放し!)、見知らぬ土地へ軽々しく移住して、その後はずっと手つかずだった真っ暗な天井裏を掃除し続けるような約3年でした。

     

     

    いまだに、「あれ? 私会社がこんなに嫌だったんだ。いや、けっこう楽しい思いもしたんだけどな……そうだったのか」と気づくなど、ずいぶん遅い何かを経験しています。

     

     

    わりと後悔の多い人生で、特に長生きしたいとも思わず生きてきましたが、最近読んだ本の影響で「長生きしたい」と思うようになりました。

     

     

    年を重ねるごとに、世界から感得できるものは増え、センサーの精度も上がっている気がします。

    まあ、そのうち使い物にならなくなるかもしれませんが。

    とりあえずは、この世を味わい尽くしたいと今は思っています。

     

     

    その前に、子どもがまだまだ小さいので、そちらを何とかしないといけません。

    といっても、勝手に育っていくのですが。

     

     

    お会いした時には、長男・泰生の態度をきちんと叱れず、失礼しました。

    日々の雑事に追われるばかりで、親業も10年近く経つのに肝心のところがちゃんとできないままです。

     

     

    泰生は学校に通わない道を今は選んでいて、結局なんだかんだで学校に行き通した私と夫の知らない景色を見せてくれています。すっかり学校嫌いになってしまった私たちは、下のふたりもできれば学校には通わせたくないのが本音ですが、これまたどうなるのでしょうか。

     

     

    悲しいかな編集者は「人生ネタになってナンボ」の精神が染みついているので、何があっても楽しもうと思っています。

     

     

    次はいつ大分に帰れるかわかりませんが、今度は未来塾に伺えると嬉しいです。

    「母ちゃんは、ここで人生の礎を築いたのだよ」と子どもに言ってみたいです。

     

     

    次にお目にかかれる時まで、先生のブログをコツコツ読んで、流れた月日の間を埋めていきたいと思います。

     

     

    日は少しずつ長くなってきましたが、まだまだ寒い日が続きます。

    どうぞくれぐれもご自愛ください。

     

    奥様にもどうぞ、くれぐれもよろしくお伝えください。

     

    それでは、また。

     

    | 身辺雑記 | 12:37 | comments(0) | - |
    真理とは方向感覚である。
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      一つの国が滅びるというのはこういうことなのだと、最近つくづく思います。地震や津波、火山の破局噴火、台風などの天変地異によって国が滅ぶこともあるでしょうが、これは私たちの意思の及ばない出来事なのでどうしようもありません。

       

       

       

      しかし、滅亡を回避しようと思えばできるにもかかわらず、私たちは不作為によってこの国の衰退と滅亡を自ら招き寄せています。南海トラフ地震がスタンバイしているときに、原発を再稼働させ、使用済み核燃料の処分を放置しているのですから。もちろんこれは一例に過ぎません。

       

       

       

      危機に直面していても、根拠のない安心感をいだくのは、「みんな仲良く」というスローガンを教室の壁に張っただけで、「みんな仲良く」なれると錯覚するような教育のせいかもしれません。

       

       

       

      その結果、高校生や大学生になっても、いや社会人ですら、「政治的な発言はダサいよね」「世の中を批判するのって、コンビニの店員にクレーム付けてるような感じじゃん」「皆が幸せになれるなんて幻想だよ」「やっぱ、自己責任でしょ」というような、誰に対して発言しているのかわからない、他者意識のない言葉を発するようになったのです。

       

       

       

      ネトウヨの発言はまさにこれです。しかし、こういった言葉の集積こそが国の土台を切り崩し、存立を危うくしていることに気付かねばなりません。

       

       

       

      地震や津波の後、国土がかろうじて残ったとしても、原発が暴発し、放射能によって国土が半永久的に汚染されれば(福島で現実に起こっていることです)、この国は終わるのです。豊かな水と大地、季節の巡りとともにあった五穀豊穣を祝う村々の祭りと祈り。それも遠い昔の記憶として風化の運命をたどります。

       

       

       

      このままでは、日本は、世界の核のゴミ捨て場になるしかありません。それは大げさだ、そんなことはありえないというのであれば、その根拠を示してほしいと思います。私は愚かな政権によって、ロシアンルーレットの実験台にされたくないのです。

       

       

       

      3年半前に亡くなった鶴見俊輔氏はインタビューの中で次のように語っています。

       

       

      「 私にとっては戦後50年よりも戦中の方が重いんですよ。 その戦中のほうが重いという感覚が重大だと思う。 真理は間違いから逆算される。間違いは間違いとして認識する。こういう間違いを自分がした。その記憶は自分の中にはっきりある。

       

      だけどこの間違いの道がこうあって、ゆっくり考えていけば、それがある方向をさしている。それが真理の方向だ。だから真理は方向感覚と考える。その場合、間違いの記憶をぎゅっと持っていることが必要だ。これは消極的能力だ。負けたことは忘れない。戦中の様々な記憶を保ち続ける、それが未来だと思う 」と。

       

       

       

      今この国で、誰よりも「間違いの記憶をぎゅっと持っている」のが天皇皇后両陛下です。両陛下は私たち国民に代わって、戦争で犠牲になった310万人の魂を慰霊する旅を続けてこられました。両陛下は靖国神社に一度も参拝していません。死者の魂を国家の都合で差別することは、真理の方向が逆だと認識しているからです。

       

       

       

      1975年、皇太子ご夫妻として初めて沖縄を訪問された時、反対派から火炎瓶を投げられたにもかかわらず、鎮魂の思いは変わらず、周囲に「何度でも沖縄に行きたい」と語り、6月23日の「沖縄慰霊の日」には欠かさず黙禱(もくとう)をささげてきました。退位前に沖縄に足を運びたいというお二人の強い希望により、昨年11回目の訪問が実現しました。両陛下こそが、間違いから逆算して真理に到達しているのです。

       

       

       

      今この国の支配層は、完全に方向感覚を失っています。歪んだ歴史認識と復古的ナショナリズムに侵されたカルト集団が新自由主義的イデオロギーの洗礼を受けているからです。

       

       

       

      沖縄に寄り添うと言いながら、辺野古に土砂を投入し、政権の御用放送局・NHKのインタビューでサンゴはあらかじめ移しているなどと平気でウソを言う男は、戦争犠牲者のみならず、被災者や社会的弱者に常に心を寄せてきた天皇皇后両陛下の対極に位置しています。

       

       

       

      こんな男がこの国のトップにふんぞり返り、国民から一定の支持を得ていることそのものがこの国の劣化です。アベノミクスのおこぼれに預かってはしゃいでいるうちにこの国は確実に滅亡へと近づいています。私はネトウヨのような無知・無思考ではないので具体的な論拠を一つだけ挙げます。

       

       

       

      経団連の中西宏明会長(日立製作所会長)は、年初のインタビューで、3.11以降、東日本の原発が1基も再稼働していないことを例にあげて「国民が反対するものはつくれない。反対するものをエネルギー業者や日立といったベンダーが無理につくることは民主国家ではない」と語っていました。

       

       

      経団連の中西宏明会長

       

       

       

       

      ところが15日、原発の再稼働が進まない状況について、「私はどんどん進めるべきだと思っている。原子力というエネルギーを人類のために使うべきだ」との見解を示し、そのうえで「原子力に関する議論が不足している」と述べ、政界や学界などを巻き込んだ討論会の開催を訴えたのです。そして同日の定例会見では「安全性の議論を尽くした原発も多いが、自治体が同意しないので動かせない。次のステップにどうやって進めるのか。電力会社だけの責任では済まされない」と語ったのです。

       

       

       

      財界関係者によると「安倍官邸から怒られたのではないか。原発推進は安倍政権の基本政策なのに、『国民が反対するものはつくれない』と異を唱えた。安倍官邸から激怒されておかしくありません。世論調査では反対が多数ですからね。それで慌てて官邸に聞こえるように“原発推進”を叫んだのではないか、とみられています」とのことです。

       

       

       

      いずれにせよ、政権の中枢にいる人間たちが「方向感覚」を喪失しているのです。福島の原発事故の後、国内で原発を作ることは難しくなったので、国民の税金を担保に海外で売ろうとしました。何という反倫理的な所業でしょうか。それもことごとく頓挫しました。

       

       

       

      かくなる上は、もう一度国内でと考えているのです。バカにつける薬はないとはこのことです。こういった一連の流れを画策しているのは、坊ちゃん総理ではありません。そんな発想も能力も彼にはありません。

       

       

       

      では一体誰が暗躍して、この国を滅亡へと導いているのでしょうか。私たちが忘れてはならない中心人物を3人だけ挙げておきます。

       

       

      国土交通省出身の和泉洋人首相補佐官。経産省出身の今井尚哉(たかや)首相秘書官。そして元首相秘書官の柳瀬唯夫氏です。この3人は「森友問題」「加計学園」問題に関与している「官邸官僚」です。彼らが「官邸ポリス」と組んで、方向感覚ゼロの坊ちゃん総理の劣情に媚び、国家を私物化し、小さな権力欲を満足させている哀れな人間たちです。

       

       

      和泉洋人首相補佐官

       

       

      今井尚哉(たかや)首相秘書官

       

       

       

      元首相秘書官の柳瀬唯夫氏

       

       

       

       

      さて、私たち国民はどうすればいいのでしょうか。簡単です。生き延びたければ、そしてこの国の自然環境を少しでもましな状態で次の世代に手渡したければ、自公政権と維新の会に投票しなければいいのです。でもそれが難しいのですね。そうしないように教育されているので・・・。

       

       

      | 文学・哲学・思想 | 12:48 | comments(0) | - |
      最もアクセス数の多い二つの記事について。
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        ブログを書き始めてから4年が経過します。この間、543本の記事を書いてきましたが、アクセス数が突出して多いのが以下の二つの記事です。

         

         

        .「反日」で「左翼」の妻は「極左雑誌」を愛読しています。

        http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=281

         

        .「ビリギャル本」の詐欺性について。

        http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=292

         

         

         

        特に1は、『通販生活』の記事について書いたものですが、毎日100を超えるアクセスがあります。おそらく、「反日」「左翼」「極左雑誌」をキーワードに検索しているネトウヨに「人気」なのでしょう。その割には全く反論がありませんが・・・。ネトウヨの実態については、次回改めて取り上げる予定です。

         

         

         

        その『通販生活』が、また時機を得た本質的で分かりやすい動画を作りました。ぜひご覧下さい。

         

         

         

         

         

        いわゆる戦争法案によって、自衛隊は米軍とともに世界のあらゆる地域で「活動」できるようになったのに、なぜ安倍政権は改憲にこだわる必要があるのかと不思議に思う人もいるでしょう。安倍首相の歪んだ認識と心理はひとまず置いておきます。

         

         

         

        その答えは、以前から当ブログで指摘してきたように、緊急事態条項を憲法に書き込むためです。これによって、文字通り安倍政権によるファシズム体制が完成するのです。それを「背後」で(安倍氏のように「せご」などと読む人はいないでしょうね)推し進めているのが、法務省や警察官僚です。

         

         

         

        にもかかわらず、大手マスメディアは、現実を正確な言葉で表現し、進行している事態を批判するという最も基本的な責務を放棄しています。「安倍一強体制」ではなく「安倍独裁体制」という言葉を使うべきです。彼らは、歴史的事実を指摘して国民の警戒心を高めるよりも、現体制に与することを選んでいるのです。

         

         

         

        例えば、『報道ステーション』は、映画『ボヘミアン・ラプソディー』を「世界中で大ヒットとなっている映画です!」と紹介したにもかかわらず、ブライアン・メイ氏が呼びかけた辺野古埋め立て中止請願署名のことは完全スルーしました。報道番組がバラエティ番組に堕したことの証左です。安倍官邸の意向を損ねるかどうかというフィルターで番組作りをしているのですから、番組のレベルも小学生並みになるわけです。

         

         

         

        なぜこんなことを言うかというと、わずか2年前、その『報道ステーション』が素晴らしい特集番組を作っていたからです。タイトルは『独・ワイマール憲法の"教訓" − なぜ独裁がうまれたのか?』です。

         

         

         

        これは『報道ステーション』のスタッフが叡智を結集して送り出した過去最高の特集です。放映された当時、私はすぐブログで動画を取り上げたので鮮明に覚えています。しかし、その後まもなく、「著作権者により削除されました」とのことで、観ることができなくなっていました。同じテレビ局でもこれほどまでに変わるものかと驚きます。

         

         

         

        今回その動画が復元できたので、再びアップします。削除されないうちにご覧下さい。およそ社会科や歴史の教師でこの特集の意味が理解できない人は、AIによってほどなく職を奪われる運命にあることを自覚しておいた方がよいでしょう。

         

         

         

         

         

        | 文学・哲学・思想 | 15:24 | comments(0) | - |
        映画『A GHOST STORY』 − 魂を浄化するために。
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          大晦日は、見たい番組がないので、ブログを書いた後、いつものようにお気に入りのCDを聴いて過ごしました。元旦は午前中に家の用事を済ませ、午後からシネマ5に向かいました。A GHOST STORYを観るためです。登場人物は二人だけ。セリフもほとんどありません。製作費は何と1千万円。しかし、印象的な音楽とともに、私には忘れられない映画となりました。

           

           

           

           

           

           

          帰宅してからも、余韻が尾を引いていました。一つ一つの場面を思い返しながらこの映画のテーマについて考えました。映画のパンフレットには「これは、記憶の旅の物語−」「自分がいなくなった世界で 残された妻を見守る一人の男の切なくも美しい物語」とあります。

           

           

           

          しかし、この映画がパンフレット通りであれば、不思議で言葉にならない奇妙な余韻がいつまでも尾を引くことはなかったでしょう。そして、余韻について考えているうちに、この映画はテーマについて考えさせるのではなく、観た人の内面にある変化を引き起こすことが目的だったのだと気づきました。恋愛ものでもなく、エンタテインメントでもない、見方によっては退屈極まりないストーリーかもしれません。

           

           

           

          私はブログで時間と記憶こそがその人の人生そのものである、と書きました。コーポラティズムと新自由主義のイデオロギーが、本来独自性を持っているはずの時間を市場世界の絶対時間に服従させ、記憶をすら画一化しているのだと述べてきました。

           

           

           

          こういった考えは、様々な建築を見て回るうちに、ある場所に積もっている記憶と時間の本質について、稲妻に打たれるように理解したことが元になっています。

           

           

           

          時間とは直線的なベクトルを持ったものではなく、ある場所にミルフィーユのように積み重なっているのだ、それを発見するには考古学的な想像力を必要とする、と書きました。あるいは、時間は時計で測るものではなく、本来、私たちを取り巻いているものの変化として感得するしかないのだ、とも書きました。

           

           

           

          この映画の中で、妻を見守るゴーストは、場所に執着します。二人のかけがえのない思い出が宿る場所を、数百年、いや宇宙的ともいえる時間が流れます。そこにゴーストは立ち続けます。そして、宇宙の輪廻=巡り来る時間と記憶に遭遇するのです。

           

           

           

          人間の魂は身体の中に閉じ込められていて、他者の魂と一つになることができません。愛という、断崖絶壁に架けられた狭い橋を渡ることによってのみそれが可能になるのだと思います。

           

           

           

          人間の魂は個人に帰属しているのではなく、小さな魂が寄り集まって、大きな綿菓子のようなものを創っているのではないか、魂とは本来そういうものだというのが私の考えです。

           

           

           

          この映画は、ある場所に執着する魂(愛)を、時間と記憶の長い旅を通過させることで、浄化させ再生させることを試みた稀有な作品だと言えます。愛なんて詩人の夢に過ぎないと考えている幼稚な大人には勧めません。途中で居眠りするだけでしょうから。でも、もしあなたが・・・

           

           

          | 読書・映画 | 15:54 | comments(0) | - |
          今年の1冊 − よりよき〈生〉を生きるために。
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            人生には自分の意思でどうにかできることと、どうにもできないことがあります。おそらく、どうにもできないことの方が多いような気がします。私の人生は、人や書物との出会いを始めとして、幸運と呼ぶしかない偶然の集積で成り立っていると、今はそう思います。

             

             

             

            それでも、私は自分の意思でどうにかできる領域を拡げてきました。それは既存の価値序列との摩擦を引き起こすこともあります。それを避けて、その他大勢の人と同じコースをたどることもできたのかもしれませんが、結局それができなかったのですね。40年前、妻と駆け落ちして一緒になったのもその例でしょう。

             

             

             

            思うに、人生を人任せにするのではなく、なんとか自分なりに狭き門を通り抜けようとする意思というか、生まれてきた意味や真実がどこかにある筈だという思いが、宗教や政治的カルト集団の思想的基盤を見破り、ニヒリズムに陥ることを防いでくれたのだと思います。

             

             

             

            幸運な偶然を引き寄せたのは、既存の価値序列すなわち匿名のシステムの中に自分の足場を作ろうとしなかったからではないかと、今になって思います。

             

             

             

            前置きが長くなりました。今年の1冊を紹介します。家系や人脈を利用して既存の価値序列の階段を駆け上がり、国民を見下し(「国民」は理想的な審判者として存在しています。疑う人は天皇陛下を見よ!)、公文書を偽造し、国家を私物化して、あげくの果てにアメリカが日本に対して好意を持っているはずだという幻想にしがみつく。これほど幼稚で愚かな人間はかつていませんでした。

             

             

             

            そんな人間が、なぜ、どのようにして登場してきたのか、彼らに反撃するにはどうすればいいのか。それをを知りたい人には、以下の本がヒントになると思います。

             

             

             

             

            ナオミ・クレインの『NO IS NOT ENOUGH』です。右の本は、以前紹介した世界的ベストセラー『チャヴ』の著者であるオーウェン・ジョーンズの新著『エスタブリッシュメント』です。彼はナオミ・クレインの本を「An essential blueprint for a worldwide counterattack」と評しています。私の尊敬するノーム・チョムスキーは、この本を「Urgent, timely and necessary」と言っています。高校生はペンギンブック版で読んでみましょう。

             

             

            それでは、良いお年をお迎え下さい。来年が皆さんにとってよい年でありますように!

             

             

            | 中高生の皆さんへ | 13:26 | comments(0) | - |
            うれしい便りをいただきました。
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              12月22日の記事「助け人」を読んだ方から、思いがけずうれしいお便りをいただきました。

               

               

               

              「はじめまして、私、大阪在住の53才、小学6年生の女児の父親です。私の能力では読み砕けない記事も多々ありますが考えさせられることしばしばです。

              以前、奈良・大和小泉の慈光院がお好きであるとの記事を見て、その時にもコメントを送りたかったのですが、勇気が出ず…()
              でも、どうしてもお薦めのCDを聴いていただきたくて。

              The melody at night with You
              キース・ジャレット

              です。
              できましたら一度聴いてみて下さい。
              もし御存知でしたら申し訳ありません()

              突然のコメントお許しください。」

               

               

               

              ありがとうございます。偶然ですが、私もキース・ジャレットの音楽は大好きです。15年ほど前になりますが、妻と八ヶ岳の山麓をドライブしていて、休憩のために小さなカフェに立ち寄りました。老夫婦が二人だけでやっているカフェでした。お二人の趣味と洗練された美意識が感じられて、本当に居心地のいい空間でした。生活に対する考え方の確かさというか、ゆったりとした時間とともにある日々の生活の中から徐々に立ち現われてきたものが空間に落ち着きと安らぎを与えていたのです。時々思い出しては、あの夫婦はどうしているだろうかと、妻と話しています。

               

               

               

              そこで流れていたのが、キース・ジャレットの曲でした。ご主人に尋ねたところ、それが「The melody at night with You」でした。帰宅して早速注文し、以来暇さえあれば聴いていたので、妻に呆れられたほどです。その後出会った『ケルン・コンサート』は生涯の伴侶となりました。わが家を訪問した人から、誰の曲?と尋ねられることも一度や二度ではありません。これからも、素敵な曲があればぜひご紹介下さい。

               

               

              キース・ジャレットThe Melody At Night With You」と「THE KOLN CONCERT(ケルン・コンサート)」。もう一枚 「PARIS / LONDON Testament」も玄人好みのいい曲ですね。

               

               

               

               

               

              ところで、奈良・大和小泉の慈光院は二度訪れています。建築的な小難しいことは抜きにして、何度訪れてもいい場所ですね。そのヒューマンスケールというか、プロポーションが素晴らしい。私の中では、京都の詩仙堂、大徳寺高桐院と並んで忘れがたい建築です。京都・奈良は学生時代に住んでいたのですが、見落としている場所がまだまだあると思います。いい場所がありましたら、ぜひご紹介下さい。

               

               

              慈光院へと続くアプローチ。慈光院庭園。

               

               

               

               

              今年も残すところ少なくなりました。どうかお元気で新年を迎えられますように!それではまた。

               

               

              | 音楽 | 18:48 | comments(0) | - |
              冬期講習が始まりました。
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                たまには塾のことも書いてみましょう。中学3年生は入試まで80日を切りました。でも全くあわてる必要はありません。焦って試験に出そうなところをあれもこれもと無秩序に頭に詰め込むと、逆に思考力を弱めてしまいます。記憶すべき知識は、一日の勉強の始めと終わりに時間を決めて集中的に取り組めばいいのです。

                 

                 

                 

                冬期講習会の授業では最初に数学の問題をやります。黒板に一問だけ問題を書いておきます。複雑な計算を要する問題ではなく、答えを出すまでの思考のプロセスを発見させる問題です。

                 

                 

                 

                まず問題をじっくり読む。これがおろそかになっている生徒が多いのです。つまり、与えられている数値情報がどこで必要になるのか考える前に計算を始めるのです。私はよく次のように言います。

                 

                 

                 

                「問題を見ると、鉛筆を持ってすぐに計算を始める人がいますが、それはやめて下さい。覚えている解き方をあてはめて、適当に計算して答えを出す。間違っていれば、またゼロからやり直し。記憶に頼って、ああでもない、こうでもないと計算しているうちに正解したとしても、それは偶然答えが合っただけだと分かっているはずです。つまりそういったアプローチは自信につながらないのです。鉛筆を持って計算する前に解答への道筋を発見することの方が大事です。黒板の問題を解くのに複雑な計算はいりません。暗算でできるのです。でも思考のプロセスを発見できない人は、1時間かけてもできないでしょう。制限時間は15分です。答えが分かった人は手を挙げて下さい。」

                 

                 

                 

                こういう指示を出すと、生徒は筆記用具を使わずにじっと問題を見つめます。しばらくすると、パッと顔が明るくなる生徒がいます。思考の転換点というかポイントに気がついたのですね。逆説的に聞こえますが、限られた時間内で問題を解くためには、普段からじっくりと問題に取り組んでいなければならないのです。

                 

                 

                 

                「この考えでは解けない、行き詰る。他の方法を探さなければならない。しかし、問題を解くための情報量があまりにも少ない。補助線を引けばいいのかな、でもどこに?線分の長さを求める問題なのに三平方の定理も相似比も使えない。そうか!補助線を引いて面積比を使えばできそうだ!というのが実力=自信をつけるための思考錯誤です。鉛筆を持つのはその発想が有効かどうかを確かめるためです。くれぐれも、この逆をやらないように。」

                 

                 

                 

                「ストップウオッチやキッチンタイマーを使って、ハイ始め!ハイ終わり!などと大声で叫ぶのは、思考の楽しさとは無縁なのです。塾の教師は君たちをドッグレースに駆り立てるためにいるのではありません。これまでの経験から、思考の楽しさを最後まで手放さなかった人は高校であれ大学であれ、確実に合格しています。考えていれば時間が経つのを忘れます。思わず集中してしまうからです。そうなれば、変なミスもしません。根拠のない情報に一喜一憂することもありません。この時期になって他人が使っている問題集や塾の情報に振り回される人は、自分で不合格を招き寄せているようなものです。」

                 

                 

                 

                導入に数学の問題を1問やった後、英語の勉強に入ります。以下の問題がスラスラ解ければ、どこの高校でも合格します。出題傾向と「長文読解」に慣れるために過去問をひたすらつぶしている塾もあるようですが、実に馬鹿げています。高校入試に「長文」などありません。塾の教師が「長文読解」などと言うので、生徒もそう思い込んでしまうのです。

                 

                 

                 

                「君たちはこれを長文だと思っているの?数十ページあるならともかく、因果関係が怪しい短文の寄せ集めじゃないか。もし君たちに英語の基礎力がついていれば、この英作文の問題などスラスラ解けるはずです。」と言ってプリントを配ります。

                 

                 

                 

                冬期講習の一日目にやった問題は以下の通りです。皆さんもぜひチャレンジしてみて下さい。

                 

                 

                問:以下の日本語を英語にしなさい。

                 

                 

                1:カッコいいジーンズだね。いつどこで買ったのか教えてよ。僕もそれがほしいから。

                 

                2:高校生の時、修学旅行でオーストラリアに行ったことがあるよ。

                 

                3:外国人なのに、いつから日本の歴史に興味を持つようになったのですか?

                 

                4:私は子どもの頃、3年間ほどシアトルに住んでいたことがあるわ。

                 

                5:オレがさあ、今いくらお金を持っていると思う?

                 

                6:あのガイドさんが、そのお寺がいつ誰によって建てられたのか僕たちに説明してくれたんだよ。

                 

                7:先週からずっと体調がよくないので、君とゲームする時間がないよ。

                 

                8:その問題を見た時、どうやって解いたらいいか全く分からなかったね。

                 

                9:君ができると思えばどんなことだってできるさ。

                 

                10:このお店は何時まで開いているんですか?

                 

                11:映画が始まるまであとどのくらいありますか?

                 

                12:この自転車を買ったら、消費税(consumption tax)はいくら払わなければならないんですか?

                 

                13:高校生だった頃、よくこのあたりで彼女とデートしていたものさ。

                 

                14:まずあなたがしなければならないことは、高校入試に合格するために最善を尽くすことです。

                 

                15:お前さあ、誰に口きいてると思ってるんだよ?

                 

                16:お前さあ、自分を何様だと思ってるの?

                 

                17:げっ、おれたちの教室の窓が割れてるぜ。

                 

                18:母さん、弟のやつまたおねしょしてるよ。

                 

                19:彼女が本当に言いたかったことはなんだろう?

                 

                20:バスは何分おきに来るかご存知ですか?

                 

                 

                 

                中学時代にまともに勉強していれば、英会話学校などいらないということがお分かりでしょう。2や4の問題で現在完了を使う人は、まだまだ実力不足です。とてもいい問題ですから、プリントアウトして塾や学校の先生といっしょにやってみてはどうでしょうか。

                 

                | 中高生の皆さんへ | 22:22 | comments(0) | - |
                「助け人」
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                  今年は私にとって忘れられない年になりそうです。4月には義父が95年の生涯を閉じました。そして、2年前に脳梗塞で倒れた義母の命が今まさに、燃え尽きる寸前の蠟燭のように、消えようとしています。

                   

                   

                   

                  この2年余り、毎週1〜2回は佐伯の病院に義理の父母を見舞ってきました。義父が亡くなってからは、日曜日ごとに義母を見舞っています。今日は土曜日ですが、義母の容態がよくないということで、午前中の授業を済ませ、午後から妻と佐伯の介護施設に向かいました。

                   

                   

                   

                  義母はただ眠っているだけで、呼びかけても反応しなくなりました。日によっては目で合図するときもありましたが、日々反応がなくなっていくのが分かります。過酷な労働から解放されてきれいになった手はやせ細り、骨だけになっています。

                   

                   

                   

                  「今日は、もう少し付き添うから・・・。あなたは仕事があるから先に帰って」と言い、妻は病室へ戻って行きました。義父の死を看取ったのも妻でした。帰途、車の中で義母の存在が私にとっていかに大きなものであったか、しみじみと思い出し、いい歳をして涙滂沱となってしまいました。

                   

                   

                   

                  「助け人」という言葉がありますが、義母はまさに「助け人」そのものでした。家族や親戚はもとより、地域の人だけでなく、見も知らぬ貧しい人にも手を差し伸べました。戦後の貧しい時代を生き抜き、家の仕事(真珠の養殖・加工・販売、漁業・林業など、要するに一次産業の生産労働に従事し、牛馬のごとく働く人生でした。これは筆舌に尽くしがたいほど大変だったのです。)をしながら、5人の子供を育てました。自分の時間などあるはずもなく、文字通り朝から晩まで働き、夜なべをして子どもたちの服を縫っていたのです。

                   

                   

                   

                  貧しさに負けまいと、人々が一つ屋根の下に肩を寄せ合って生きていた時代です。それでも、子どもたちは明るく奔放で、親の目の届かないところで遊びに興じていました。

                   

                   

                   

                  夕刻になると、三々五々、家々から大人や子どもが出て来て、道端で世間話をしたり、水を撒いたり、遊んだりしていました。その何とも言えない、やわらかで優しいひとときが好きでした。

                   

                   

                   

                  今思えば、大人が子どもたちを何よりも大事にし、優しいまなざしを向けていた時代でした。私の母はよく、「銀(しろがね)も金(くがね)も玉も何せむにまされる宝子にしかめやも(子ども以上に大事な宝物はない)」という「万葉集」にある山上憶良の歌を口ずさんでいました。

                   

                   

                   

                  そんなことを思い出しながら家に帰り着くと、アマゾンから荷物が届いていました。注文していたCDでした。何というタイミングでしょう。それから1時間ほど音楽に耳を傾け、義母の人生を思い返していたのです。それが以下のCDです。

                   

                   

                  ヨーヨー・マのバッハ『無伴奏チェロ組曲(全曲)』。20代で一度、40代にさしかかった頃に一度、そして60代の今回、三度目の録音です。素晴らしい。それにしても音楽とは不思議なものです。今回の演奏が一番自由で深みがあります。ワインの熟成に年月が必要なように、ヨーヨー・マの演奏にも積み重なった時間を感じます。おすすめです。

                   

                   

                   

                  私にとって、音楽と建築と文学は生きる上での「助け人」です。久しぶりに今年の大晦日はこのCDを聴いて過ごしたいと思います。

                   

                  | 人生 | 22:41 | comments(0) | - |
                  大晦日におすすめのCD
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                    早いもので今年も残すところ2週間となりました。最近は西郷どんではありませんが「もうここらでよか」という内心の声がどこからともなく聞こえてきます。何が「もうここらでよか」なのか、はっきり分かっているわけではありません。それをあえて追求しないようにしています。

                     

                     

                    余談ですが、西郷隆盛の最期は、史実によると介錯されるのですが、NHKはそこを変えています。そればかりか来年の大河ドラマ「いだてん」は東京オリンピックがテーマだそうです。二度目の東京オリンピックを成功させようという政治的なキャンペーンですね。さすがに「皆さまのNHK」です。受信料返せ!と言いたいところですが、そもそも払ってないので言えません。

                     

                     

                     

                    ところで、毎年大晦日に決まって聴く曲があります。それが以下のCDです。

                     

                    フランク・ペーター・ツィンマーマンとエンリコ・パーチェの『バッハ:ヴァイオリン・ソナタ全曲(SONY)』です。

                     

                     

                     

                     

                    もう11年聴き続けています。たまには他の曲をと思うのですが、知識不足のためにふさわしい曲が思い浮かびません。

                     

                     

                    今から15年前になりますが、八ヶ岳の南麓に広がる清里高原を車で回り、清泉寮に立ち寄って(ちょうど秋の収穫祭の時期でした)地ビールを買い込み、予約していたロッジ風のホテルに泊まりました。

                     

                     

                     

                     

                    夕食後、ピアノの生演奏があるということで、レストランを出て別棟の演奏会場へと向かいました。そこは小さなホールになっていて、ピアノが一台置かれていました。聴衆は20人ほどでした。きれいな白いドレスで正装した若い女性のピアニストが出て来て、椅子に座りました。大きく深呼吸して譜面を見つめ、弾き始めました。曲が終わる度に立ち上がり、こちらを向いてお辞儀します。曲と同じくその所作が初々しく、妻と顔を見合わせて微笑みました。

                     

                     

                    その時彼女が弾いていたのが、バッハのパルティータ第6番ホ短調とシューベルトのピアノ・ソナタ第17番ニ長調でした。そういうわけで、この曲を聞くたびに、初秋の清里高原の空気と駆け出しの女性ピアニストの初々しい表情が目に浮かぶのです。

                     

                     

                    音楽と記憶は分かちがたく結びついているので、何かの拍子にある曲を聴くと、それを聴いた場所や季節や時間、一緒にいた人の声や表情を鮮やかに思い出します。

                     

                     

                    これからの私の楽しみは、昔読んで影響された本をゆっくり再読することです。一度訪ねた場所を再訪するのも新しい発見があっていいものです。

                     

                     

                    話は戻りますが、ツィンマーマンは、ピアノのルービンシュタイン、リヒテルの演奏に対する姿勢に魅せられたと言います。

                     

                     

                    「ルービンシュタインは45歳から練習方法を変えて90歳で引退するまで精力的な活動を続けましたし、リヒテルは65歳でハンマークラヴィーアをようやく演奏できるようになったと語っています。私もゆっくり成長し、息の長い活動をしたい。ここ10年でイントネーションがだいぶ変わり、譜面の読み方も深くなったと感じていますから」

                     

                     

                    「もうここらでよか」などと気取っている私は、まだ鼻たれ小僧なのかもしれませんね。

                     

                    | 音楽 | 14:00 | comments(0) | - |
                    順天堂大学よ、「ごまかすな。それはただの性差別だ!」
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                      「コミュ力高い」に抗議の沈黙デモ。医学生らが順大前で。

                       

                       

                       

                       

                      あなたは医師を志し、懸命に勉強しています。そして、親や友人に励まされ、挫けそうになる心と闘いながら入試の日を迎えます。結果は不合格。理由はあなたが「コミュ力高い女子だから」と言われたらどうでしょう。

                       

                       

                       

                      10日、順天堂大で開かれた記者会見で、新井一学長と代田浩之医学部長は女子受験生を不利に扱った理由を語りました。

                       

                       

                      いわく「女子の方がコミュニケーション能力が高く、男子を救う必要がある」「18歳の時は女性が高くても、20歳で一緒なら、数年後に高くなる男子学生を救うため」「客観的データに基づいており、差異を補正するものと考えていた」。(朝日新聞デジタル)

                       

                       

                       

                      要は、男子の受験者は「コミュ力」が低いので不利になる、だから女子の合格ラインを高く設定して、男子に下駄を履かせたというのです。

                       

                       

                       

                      はあ〜?(最近こればっかりです。)もうめちゃくちゃです。そもそも、判断する人間の主観でどうとでも受け取れる「コミュ力」なるものが、客観的で公正であるべき合否の判断基準になると考える時点で、新井一学長と代田浩之医学部長の頭がピーマンだと分かります。

                       

                       

                       

                      もっとも、この合否の判断基準を曖昧化することこそが彼らの目的なのですが。曖昧化こそが「大学経営に資する」(自分たちのふところが潤う)というわけです。

                       

                       

                       

                      しかも取ってつけたように「客観的データに基づいており、差異を補正するものと考えていた」などと、屁理屈を並べます。「差異を補正する」って、要は男子に下駄をはかせるってことですよね。バカであればある程、真実を隠蔽するために小難しい言い回しを使うのです。

                       

                       

                       

                      この国の大学の劣化はとどまるところを知らない、回復は絶望的に不可能だ、と何度もブログに書いてきました。大学入試の合否が受験者本人の能力ではなく「コミュ力」や性別によって決まっていたのですから、私の言うこともあながち大げさではなかったということです。これこそが「日本版」AO入試の内実です。そして、安倍首相のお友達が総長を務める早稲田大学が先頭に立ってこれを推し進めようとしているのです。

                       

                       

                       

                      行政の私物化、司法の私物化、税金の私物化つまり国家の私物化を合法化するには、民営化するに限る、というわけです。今に始まったことではありませんが、今回の私立大学の医学部入試の不正操作こそが、民営化の本当の目的を可視化してみせたのです。

                       

                       

                       

                      私は塾の教師をしているので、受験生の悔しさがわかります。将来を託すべき若者に、こんな理不尽な思いをさせている責任は大人にあるのです。上と横ばかり見て、安倍政権と同一化することで私腹を肥やそうとする大人に。

                       

                       

                       

                      若者は異議を唱えなければなりません。画像の女子大生のように。「ごまかすな。それはただの性差別だ!」「下駄を脱がせろ!」と叫ぶのです。政治的な意思表明は、あなたが人間として生きるために必要なことです。

                       

                       

                       

                      | 中高生の皆さんへ | 13:07 | comments(0) | - |
                      私立大学の医学部は錬金術師たちの巣窟である。
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                        そもそも経済的にゆとりのある家庭でなければ、私立大学の医学部を志望することはできません。ましてや受験など論外です。多くの人が知っているので話題にもなりませんが、私立大学の歯学部も同じです。

                         

                         

                         

                        ブログで何度も言及してきましたが、日本の私立大学はもはや大学ではありません。学生とその保護者を ATM と勘違いした錬金術師たちの巣窟と化しています。そこに政財界の「大物」が絡んで、本来なら民主主義的手続きによって決めるべき学長選挙を牛耳っているのです。

                         

                         

                         

                        むろん国立大学も、文科省を通じて政財界の軍門に下っています。国の言うことを聞かなければ、蛇口を締めてカネの流れを止めるぞ、と脅迫されて素直に従っているのですから。「役に立たない」文系学部を廃止する方針を打ち出したりするのもその流れです。

                         

                         

                         

                        要するに、彼らは学問を「生産性」と「錬金術」の観点からしか見ていないのです。「生産性」とは財界の意向に沿うということであり、「錬金術」とは天下り先を確保することです。それを隠蔽するために屁理屈にすらなっていない屁理屈をこねます。

                         

                         

                         

                        13日付けの朝日新聞朝刊によると、日本大学の医学部は、一般入試で繰り上げ合格者を決める際、医学部卒業生の子供計18人を優先して合格させていたとのことです。文科省から「不適切だ」と指摘されたことに、高山忠利医学部長は「入学意識が高く、大学の維持発展に資する可能性が高いためだった」と説明しています。しかもそれは「私立大学の裁量の範囲内だ」と言うのです。

                         

                         

                         

                        「はあ〜、マジかよ?」という言葉がぴったりですね。「裁量の範囲内だ」という言葉は便利です。要は「入学者の選別は自分達が自由に決めていいのだ」と言っているのです。思えば、フェイクサイトを立ち上げて「許容範囲だ」と自分で勝手に判断していた大分市田尻にある学習空間LのK塾長は時代の先端を走っていたのですね。

                         

                         

                         

                        ところで、「入学意識が高い」とは、どういう意味でしょうか。「学習意欲が高い」という言葉なら聞いたことがあるのですが・・・。具体的に言い換えてみましょう。

                         

                         

                         

                        「パパがいつも言ってるように、ガツガツ勉強するのは貧乏人のやることでしょ。そんな勉強はまっぴらだよ。勉強は合格してからするから、なんとか医学部に合格させてよ〜。友達はみんな親の力とか金で合格してるよ。安倍首相も真っ赤なスポーツカーに乗って成蹊大学に通っていたというじゃない。とにかく合格したいんだよ!」というようなバカ息子を、日本大学の医学部は、「入学意識が高」いと言うのでしょうね。全国津々浦々でネトウヨ医師が跳梁跋扈しているのもうなずけます。

                         

                         

                         

                        さらに「大学の維持発展に資する可能性が高い」とは、寄付金のみならず、国家試験にかこつけた特別講座や進級に際してたっぷり金を払ってくれそうだからという意味でしょう。要するに、いいカネづるになるということです。

                         

                         

                        また同じ日、「文部科学省から、入試で性別や年齢によって差をつけていることが疑われる」と指摘された聖マリアンナ医科大は「属性による一律評価は行わず、受験生を個々に総合評価している」と反論し、問題はないとしています。

                         

                         

                         

                        「属性による一律評価は行わず」とは「医師になる最低限の能力が備わっているかどうかを、公平な入学試験で判断しない」という意味でしょう。「公平なテスト」を「一律」という言葉を使って欠陥があるように見せかけ「個々に総合評価している」と言うのです。

                         

                         

                         

                        「個々に総合評価している」とは、密室での談合を意味します。「一人一人の人脈・金脈を考慮して、自分たちに利益をもたらしてくれそうな受験生(の保護者)をピックアップして合否を決める」と言っているのです。ものは言いようですね。

                         

                         

                         

                        私はこういう事実を聞いても驚きません。ブログで何度も指摘してきました。例えば2年以上前に書いた以下の記事をご覧下さい。

                         

                         

                        「早稲田大学のAO・推薦入試について」

                        http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=136

                         

                        「民主主義は大学の門前で立ちすくむ。−慶応大学の学長選挙について。」

                        http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=427

                         

                         

                         

                        当の早稲田大学は、「属性による一律評価は行わず」、ひたすら推薦入試枠の拡大へと舵を切っています。その一方で、入試では「論理的思考力を試す」と言っているのですから、これほどの茶番もありません。

                         

                         

                         

                        前にも書いたように、国民国家が空洞化し、アメリカ資本と一部の大企業が支配するコーポラティズムが国家の中心に居座っているのですから、当然の帰結です。この国は、大学も高校も義務教育すら株式会社化・民営化に向けてまっしぐらに突き進んでいます。その象徴が、山本太郎が言うように、利益相反行為を屁とも思わない竹中平蔵であり安倍晋三なのです。

                         

                         

                         

                        ブログで書いてきたことがことごとく現実化しています。もはや手遅れでしょうが、この国を愛する者として、無抵抗で座視するわけにはいきません。来るべき経済恐慌と大地震、それに続く原発事故に備えようと思います。

                         

                         

                        | 文学・哲学・思想 | 09:11 | comments(0) | - |
                        浜田真理子という「歌い手」
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                          音楽には不案内なので、そもそも歌手になるためには、どういう活動をするのか知りません。

                           

                           

                          ・オーディションを受ける
                          ・ライブに出演する
                          ・ネット上に歌を公開する
                          ・音楽事務所にデモテープを送る

                           

                           

                          というくらいのことしか思いつきません。もちろん、甘っちょろい考えではプロの歌手になれないのは誰でもわかっています。だから、歌手は特殊な職業として認知されています。プロの歌手を目指して猛特訓に耐え、不遇の時代を乗りこえてメジャーデビューを果たすといったような。

                           

                           

                           

                          でも、職業としての歌手を目指すのではなく、その人の生き方・感受性が否応なく歌うことを必要としていて、気付けば運命に導かれるようにして歌を歌っていたということもあるのではないでしょうか。だからそういう人を、僕は「歌い手」と呼んでいます。そんなことどっちだっていいだろう、同じじゃないかと思う人も多いでしょう。でも僕にとってはかなりというか、決定的に違うのです。

                           

                           

                           

                          優劣を比較しているのではありません。僕の好みを話しているのです。これまでの経験から、どういうわけか、「歌い手」の歌に共感するからです。「歌い手」は聴衆に迎合しません。商業主義に毒された流行を追いかけません。万葉の歌人たちが歌を詠んだように、感情や思想が歌という表現形式をとってあふれ出るまで待っているのです。僕たちは、時を置いて、深化し更新された歌に再会するだけです。

                           

                           

                           

                          2002年、そういう歌い手の一人、浜田真理子に出会いました。当時、彼女のライブを収録したCD、『月の記憶』をよく聴きました。昨年は久しぶりのアルバム『タウン・ガール・ブルー』で眠れない夜をやり過ごしていたのです。

                           

                           

                           

                          僕が持っている浜田真理子のCDはこれですべてです。一番右が一番新しい『タウン・ガール・ブルー』です。昭和の懐かしい風情が漂っています。スタジオ収録よりもライブが圧倒的にいいですね。彼女は松江を中心に活動しているので、いつか生の演奏を聴きに行きたいものです。

                           

                           

                           

                           

                           

                          彼女が弾くピアノの音は、一つ一つが砕かれた氷のように透明で明晰です。そのピアノにあわせて歌う声は、正直で自然かつ素朴です。僕は音楽には、いい音といい声があると単純に信じているだけです。だからそれに出会った時は救われた気持ちになります。これ以上余計なコメントはいりませんね。もしよかったら、深夜、一人で聴いてみて下さい。

                           

                           

                           

                           

                           

                          | 音楽 | 11:51 | comments(0) | - |
                          今年の1枚(CD)
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                            融通無碍というか、懐が深いというか、ジャズはいろいろな楽器のコラボを可能にしますね。というわけで、今年の1枚は以下のCDです。リラックスして全身をゆだねることができる稀有な作品です。

                             

                            ガンガバ=パリ

                             

                             

                             

                            演奏しているのはこの二人です。左がジャン・フィリップ・リキエル、右がランシネ・クヤテです。輸入版CDなので届くのにアマゾンで約1ヵ月かかりました。

                             

                             

                             

                            ジャン・フィリップ・リキエルはデザイナーのソニア・リキエルの息子さんです。1961年フランス生まれ。先天的に視力がなく、視覚記憶のない作曲家、編曲家、音楽家、キーボード奏者です。幼少より神童として音楽の才能を開花させますが、障害児であることをいたずらに取りざたされることを避けるため、デビューは1970年代後半まで保留とされたそうです。

                             

                             

                            ランシネ・クヤテは1968年、西アフリカのマリでグリオーの家系に生まれ、著名な女流吟遊詩人シラモリ・ジャバテを母に持ちます。バラフォン(西アフリカの木琴)演奏を父ナンコマン・クヤテから学びます。ちなみにグリオーとは、西アフリカの世襲制の伝統伝達者のことで、それぞれの家系により取り扱う楽器が限定されており、それぞれの演奏技法を肉親より受け継ぐ形をとっています。グリオーの存在は神聖化されており、一般の人は楽器に触れることが許されていないそうです。

                             

                             

                            内容紹介は以下の通りです。

                             

                            盲目のキーボーディスト/ピアニスト、ジャン = ピエール・リキエルとバラフォン演奏の継承者ランシネ・クヤテ。その長年に渡る音楽共同制作と友情の日々の中で生まれたのが本作品である。電子楽器を多用せず、余分なものを極限までそぎ落とし、リラックスした中でハーモニーを重ねていった結果、この美しいデュオが誕生した。民俗音楽とジャズが持つ異なる二つの特性、そしてピアノとバラフォンという構造も音色も異なる二つの打楽器が、時に奇跡のような同一性を持ちながら、煌びやかなハーモニーを奏でる。快活で刺激的な相互作用と、たおやかで温かい調和を一度に味わえる奇跡の一枚。

                             

                             

                            | 今年の1枚 | 11:46 | comments(0) | - |
                            高校生に読んでほしい1冊の本 − 受験英語の向こう側へ。
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                              高校生の皆さんこんにちは。私たちが英語を学ぶ目的は何でしょうか。旅行や買い物のため?それとも契約書や製品の仕様書を読むためでしょうか?あるいは外国人に道を尋ねられた時、自信を持って答えるためでしょうか?

                               

                               

                               

                              僕は外国人に道を尋ねられたことはありません。かりに尋ねられたとして、道順や目的地を知っている確率はどのくらいでしょうか。今はスマホで調べれば簡単にわかる時代です。グーグルの翻訳機能を使えば、数十ヵ国の言語に翻訳できます。実用的な英語はAIに取って代わられるのです。実用英語のフォーマットはビッグデータに無数と言っていいくらい蓄積されているのですから。

                               

                               

                               

                              英語を学ぶ目的は、母語的な枠組みを抜け出して、未知のもの、新しいものに出会うことです。当然とされているものの見方に揺さぶりをかけるためです。それは英米の文化を深く学ぶことによってのみ可能となります。

                               

                               

                               

                              今回は高校生の時に読んでほしい本(小説)を紹介します。高校生の時でなければダメなのか、小説なんていつ読んでもいいではないかと思う人もいるでしょうね。

                               

                               

                               

                              そもそも今の高校生は、小説はおろか本も読まないと言われています。でも、中には、小説や詩を読むことで、自分の感受性が世界の感受性とつながっていることを発見する人もいるでしょう。自分の感受性の変化が世界の変化につながる、そこに希望がある、と考えるのです。

                               

                               

                               

                              自分の経験を振り返ってみると、小説から深く影響されるには、それを読む年代やタイミングがあるように思います。深く影響されるとは、現実と拮抗する世界を自分の内部に築くということです。つまり、その世界を基準にして逆に現実を見るということです。

                               

                               

                               

                               

                              現実を絶対視し、それに屈服し、その中でよろしくやることだけを考えるようになってからでは遅いのです。僕は比較的早い時期に大人世界のイカサマ性というか鈍感さ、権力的な体質を嗅ぎ取ることができました。

                               

                               

                               

                              以来、大人のやっていることに、いちいちムカついていました。頭ではバカげていると分かっていたのですが、受け入れようとすると身体が拒否反応を示すのです。そして自分もあんな大人になっていくのかもしれない。それは何となく予感できる。でもあんな大人にだけはなりたくない、なるまいと考える。

                               

                               

                               

                              つまり「世の中はみんな金や地位といった外形的なことしか考えないバカばっかりで、自分だけが正しい」と思いつめるのです。これは若い時の特権ですね。今回紹介する小説は、そんな高校生のギリギリのところを描いた作品です。

                               

                               

                               

                              その小説は次のように始まります。

                               

                               

                              If you really want to hear about it, the first thing you’ll probably want to know is where I was born, and what my lousy childhood was like, and how my parents were occupied and all before they had me, and all that David Copperfield kind of crap, but I don’t feel like going into it.

                               

                               

                               

                               この小説は高校を中退せざるを得なかった少年が語り手なのですが、冒頭部分を読んで皆さんはどんな感じがしましたか。理路整然とした冷静な語り口でしょうか。違いますね。どこかせわしない、落ち着きのない感じです。青年期特有の不安も見え隠れしています。もちろんこれはかなり読み進んでわかることです。

                               

                               

                               

                              僕がこの小説を始めて読んだのは、大学受験に失敗して浪人しているときでした。まあ、ギリギリ高校生と言える時期ですね。「you」って誰、オレのことかな。「it」って何のことだよ。まして、and all がこの語り手の口癖で、「〜とか」という意味だとは知る由もありませんでした。lousy だとか crap という単語も見たことがなかったのです。学校の教科書には出てきませんからね。

                               

                               

                               

                              それでも読み進めました。我慢して数十ページほど読み進めると、語り手の高校生の声が聞こえて来て、気持ちが分かるようになりました。英語の小説を読むときは「今は分からなくても、そのうち分かるようになる」という経験を積み重ねることが大事ですね。

                               

                               

                               

                              そんなわけで僕が英語を勉強していてよかったと思うのは、英米の現代小説を読んで、作者の個性つまりそれを生みだしている社会の根底にある「文化」に触れた時なのです。英語を通じて獲得するものが「文化」でないとしたら、一体外国語を学ぶ意味などあるのでしょうか。

                               

                               

                               

                              文部科学省の推進する英語の4技能向上とは、つまるところアメリカの植民地で行われる宗主国の言語教育を意味します。それは宗主国アメリカに仕え、日本の富を売り渡すことになんら痛痒を感じない官僚や財界人が、自分たちの地位を保全するために考え出した仕掛けに過ぎません。それを国民の税金を使ってやるのです。

                               

                               

                               

                              彼らの言語観は「言葉は道具(ツール)である」というものです。その根底には、意味さえ伝わればいいと考える貧困な言語観があります。

                               

                               

                               

                              文科省の『「英語ができる日本人」の育成のための行動計画の策定について』には、「金」と「競争」と「格付け」の話しか出てきません。平田オリザさんに言わせると、日本の英語教育は「ユニクロのシンガポール支店長を育てる教育」だそうです。言い得て妙ですね。

                               

                               

                               

                              話がそれました。小説の話でしたね。上に挙げた小説の冒頭を日本語に訳してみましょう。

                               

                               

                               

                              「もしあなたがそれについて本当に聞きたいなら、あなたがおそらく最初に知りたいのは、私がどこで生まれて、私のお粗末な少年時代がいかなるものであったか、そして私を生む前に私の両親がどのようなことに従事していたか等々のデイヴィッド・コパフィールド風の下らぬ話であろうが、私はそれに立ち入る気はない。」

                               

                               

                               

                              この訳は構文を正確にとらえた、大学入試なら満点の訳です。「言葉は道具(ツール)である」とする言語観からすれば見事な出来栄えと言うほかありません。

                               

                               

                               

                              しかし本当でしょうか。言葉には意味だけではなく、姿があります。文体と言ってもいいですね。人にたたずまいがあるように、文にもそれがあります。そして僕たちの精神に影響を与えるのは、語り口、トーン、すなわち作者の個性なのです。意味を抽出したら言葉は用済みだとすれば、人間が書く文とAIが書く文の区別はつかなくなってしまいます。

                               

                               

                               

                              同じ箇所の別の訳文を挙げます。

                               

                               

                              「もし君がほんとに僕の話を聞きたいんだったら、まず知りたがるのはたぶん、僕がどこで生まれたかとか、子どもの頃のしょうもない話とか、僕が生まれる前に両親は何をやっていたかとかなんとか、そういうデイヴィッド・コパフィールドっぽい寝言だろうと思うんだけど、そういうことって、話す気になれないんだよね。」

                               

                               

                               

                              この訳はどうでしょう。とてもいいですね。これなら語り手の高校生の個性が伝わってきます。先を読みたくなりますね。でも「デイヴィッド・コパフィールドっぽい寝言」とはどういう意味でしょうか。

                               

                               

                               

                              デイヴィッド・コパフィールドはイギリスの文豪チャールズ・ディケンズの小説です。実は「僕はデイヴィッド・コパフィールドみたいなどうでもいい話はしたくない」というのは「僕はイギリス人みたいな話はしたくない」ということなのです。

                               

                               

                               

                              ここはよくわかります。僕が初めて読んだ長編小説はペンギンブック版で600ページ以上ある『 Of Human Bondage 』(人間の絆)でした。イギリスの作家、サマセット・モームが書いた小説です。デイヴィッド・コパフィールドも700ページ以上ある長編小説です。この両者とも、主人公が生まれたところから始まって、世間の無理解や逆境を乗り越え、波乱万丈の人生を生きて、最後に「いい人生だったなあ」と回想する話です。これはイギリスの小説の典型です。

                               

                              初めて読んだ長編小説。『 Of Human Bondage 』表紙にフィルムを貼って補修しています。ちなみに左のページクリップは高3のY・Nさんからのプレゼントです。

                               

                               

                               

                               

                               

                               

                              そこには、自分という人間を語るのに、どこで生まれ、親はどこの誰それで、どういう親戚がいて、どういう暮らしをしてきたのか、それを順序立てて話すことが、自分を語ることになるという前提があるのです。

                               

                               

                               

                              しかし、アメリカ人の語り手である少年にはこれがウザい。そんなことで自分を語った気にはなれない。どこで生まれたかとか、親がどんなだったとか、自分が子どものころどうだったかさえ、そんなことをしゃべっても、自分を分かってもらえる気がしない。過去や世界とのつながりなんてしゃべったところで自分を語った気になれない。今ここにいる自分がすべてなんだ、というわけです。これは極めてアメリカ的な考え方です。

                               

                               

                               

                              アメリカの後を追いかける日本もいわゆる格差社会・階級社会になりつつあります。本来なら、そういった格差や不平等に対して嫌悪を感じるはずの若い人たちでさえ、学歴や勤めている会社、親の職業、住んでいる場所など、外形的なもので人を値踏みする傾向があります。いわゆる「知的な職業」や「専門職」についている人ほど、この傾向を受け入れています。

                               

                               

                               

                              作者J・D・サリンジャーは、そういった大人社会を軽蔑し、憎みながらも不安にかられ、出口の見えない世界でもがき続ける少年の内面を描いたのです。つまり、社会に適応できない少年の撞着を文学に昇華したのですね。よかったら、村上春樹氏の翻訳で読んでみて下さい。原題は『ライ麦畑でつかまえて』( The Catcher in the Rye)です。共感するか反発するか、それはあなた次第です。長くなりました。ここまで読んでくれてありがとう。それではまた次回お会いしましょう。

                               

                               

                               

                              | 中高生の皆さんへ | 13:06 | comments(1) | - |
                              飼いならされるな、高校生!
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                                高校生の皆さんこんにちは。今回のタイトルを見て、一体いつの時代のアジテーションだと思う人もいるでしょうね。もちろん普段は授業をしています。こんなことを叫び続けてきたわけではありません。でもなんだかんだ言っても、これが私の最も言いたいことです。

                                 

                                 

                                知性主義の前提が崩れ去った今、言い換えれば知が大学の専有物ではなくなった社会で、大学の先生や有名な権威ある思想家の言葉をコピーすれば知性が身に付くと勘違いすることほど危険なことはありません。

                                 

                                 

                                具体例を挙げてみます。『超訳・ニーチェの言葉』という詐欺本、トンデモ本がベストセラーになったのは、2015年のことです。「愛がいかに人を盲目にし、愚かな判断を下すか」を批判していたニーチェの文章が、この本の中では愛の美しさをたたえるような正反対の意味になっています。

                                 

                                 

                                当の『善悪の彼岸』の中には、「今日のヨーロッパの道徳は、家畜の群れの道徳なのだ」という痛烈な1節があるのです。ニーチェは今ある社会の秩序や価値基準に適応し、その内側でのみ成功しようとする俗人を徹底的に軽蔑した人です。ドイツ語を正確に訳せないので「超訳」、ニーチェの「思想」ではなく「言葉」。いくらでも言い逃れができるようになっています。

                                 

                                 

                                同じ年、ブログでも取り上げた『学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶応大学に現役合格した話』という詐欺本もベストセラーになっています。以上の2冊は、それぞれ100万部以上を売り上げ、日本でポスト・トゥルースのさきがけとなった本です。

                                 

                                 

                                『ビリギャル本』の中には、私立の中学受験を突破した生徒が「聖徳太子」を読めずに、「しょうとくタコ」と読むエピソードが出てきます。この本の読者はこの種の話に違和感を覚えずに読み進められる人たちなのでしょう。あるいは、「話を盛る」のは、普通のことだとして気にも留めないのでしょうね。

                                 

                                 

                                そう言えば、ポスト・トゥルースの風潮の中、フェイクニュースならぬフェイクサイトを立ち上げて、塾の宣伝をしていた大分市田尻のK塾長のような人物もいました。フェイクサイトを立ち上げるくらいは「許容範囲だと思った」そうです。「許容範囲」かどうかを自分で決めるところがすごい。一橋大学法学部で一体何を勉強していたのでしょうか。

                                 

                                 

                                話を元に戻します。『ビリギャル本』の主人公は、学校では爆睡。それを注意されると、お母さんが「学校しか、寝る場所がないんです・・・慶応に行く子なんです。寝かせて下さい」と押し切ったそうです。慶応に行かない子は、役にも立たない授業を真面目に受けろというのでしょうか。

                                 

                                 

                                自分の子供を「慶応に行く子」と形容し、だから特別扱いしろと学校にねじ込むとは、どこまで自分勝手でわがままな親なのでしょうか。「あなたの授業は受験に関係ないから、寝かせろ」と言われた教師は悔しくなかったのでしょうか。

                                 

                                 

                                要は、『ビリギャル本』の著者が冒頭のモノローグで言うように、この本の功績は「人間にとって一番大切なのは、このゼッタイ無理を、克服した体験だ」という価値観を広めたことだそうです。

                                 

                                 

                                逆に言うと「ゼッタイ無理」だと思えることを成し遂げるなら、目標は慶応はおろか大学受験である必要はないのです。水の中に10分間潜っているとか、フルマラソンを1時間で走るとか。でもこれは本物の「ゼッタイ無理」です。この著者は言葉を「盛る」のが得意ですね。

                                 

                                 

                                そういうわけで、この種の話は「受験モノ」になることが多い。格差社会に挑んでいるように見えて、格差社会の価値観を強化しているところが読者の潜在的な願望を刺激するのでしょうね。

                                 

                                 

                                それになんと言っても、結果が偏差値や合否に表われるので分かりやすい。何より、まともな思考力のない、ミーハーの読者をねらって出版社や映画会社が儲けることができます。最近では、ビリギャル本人がこの価値観を広めるべく全国の高校で講演して回っているそうです。「佐藤ママ」が本を出版し、講演しているのと同じ「現象」です。

                                 

                                 

                                さらに言えば、「べつに、大学くらい出とけっていわれるから来ただけだよ。就職するときヤバいかもって。本当にやりたいことなんかあるわけないじゃん。大学なんて就職までの時間を楽しく過ごす場所だと思ってるし・・・」という、ごく普通の若者の感性が社会現象になったということです。

                                 

                                 

                                つまり、大学は「形式」だけで、内実を伴わなくてもよい。むしろ内実があれば勉強しなくてはならないから、邪魔でウザい。大学の価値がそういうものになり果てたということです。

                                 

                                 

                                最初に書こうとしていたことから話が大きくそれてしまいました。高校生の時にどうしても読んでほしい(と私が思う)本を挙げるつもりでした。それは、飼いならされる人生なんてごめんだ、と感じている少数の高校生に向けてのものです。長くなるので今回はここまでにします。続きは次回に譲ります。

                                 

                                | 中高生の皆さんへ | 16:25 | comments(0) | - |
                                あとは野となれ山となれ。
                                0

                                  「あとは野となれ山となれ」とは、目先のことさえ解決できれば、後はどうなってもかまわないというたとえをいいます。またの名を、「あとの祭り化政策」といいます。それを推進しているのが財界と官僚(日米合同委員会)です。

                                   

                                   

                                   

                                  彼らは記憶喪失に陥った痴呆のごとく日本の国富を次々に売り飛ばし、政治家を顎で使っています。これが安倍自公政権とそれにヒルのごとく吸いついておこぼれにありつく日本維新の会のトライアングルシンジケートです。

                                   

                                   

                                   

                                   

                                  彼らの精神構造は、公共と名のつくもの、たとえば社会保障や水道事業は言うまでもなく、果ては公教育を民営化して食い物にすることを使命とするものです。その先兵となるのが、前回指摘した英語教育改革です。

                                   

                                   

                                   

                                   

                                  さらには、種子法を廃止し種苗法を改悪して農業を大資本の傘下に収め、私たちの食べるものさえ投機の対象にする算段をしているのです。彼らはそれを批判したり邪魔したりする人間たちを罵倒し生理的に毛嫌いするように教育されています。自分の意見や政策を語っているつもりでしょうが、何のことはない、単なる操り人形です。しゃべっているのは後ろにいる腹話術師なのです。

                                   

                                   

                                   

                                   

                                  私は何も大げさなことを言っているのではありません。6年前から同じ事を言い続けているので、事ここに至っては、「あとは野となれ山となれ」と言いたくなっています。簡単に言えば、「知ったことか。勝手にしろ!」という心境です。

                                   

                                   

                                   

                                   

                                  それにしても3・11の東日本大震災と福島の原発事故を経験した後の日本社会が、まさかこんな体たらくになろうとは予想だにしていませんでした。私たちが正気を取り戻したのは、ほんの一瞬だったのですね。もう少しまともな人間もいるのではないかと期待した自分が愚かでした。

                                   

                                   

                                   

                                   

                                  その極めつけが東京オリンピックと大阪万博です。大阪万博は時代遅れのカジノを大阪に誘致するための口実、お祭りに過ぎません。

                                   

                                   

                                   

                                  朝日新聞デジタルは次のように伝えています。

                                   

                                   

                                  「24日未明、大阪・中之島のホテルの一室は、歓喜に包まれていた。パリで開かれていた2025年万博の開催地を決める博覧会国際事務局(BIE)総会の映像を見守るため、国会議員や財界幹部ら約300人が集合。大阪開催が決まり、大いに沸いた。

                                   

                                   

                                   その直後、突然スクリーンに安倍晋三首相のビデオメッセージが映し出された。「大阪万博を最高の万博にしていきましょう」。首相が笑顔で語ると、拍手が起きた。ほぼ同時に発表された首相コメントには「地域経済が活性化する『起爆剤』になると確信する」と書かれていた。

                                   

                                   

                                   25年大阪万博は、政府が20年東京五輪後の景気対策として誘致をめざしてきた。地元自治体や財界と連携した総力戦で、4年間で約35億円を誘致費につぎ込み、万博が実現した場合は途上国など約100カ国に約240億円を支援する計画も公表。パビリオンの建設費などを支援する「経済カード」で支持拡大を図った。

                                   

                                   

                                  会場予定地の整備費や鉄道インフラの延伸などで少なくとも約2千億円以上かかるとされ、具体的な開催内容も固まっていない。歓喜の先には、課題が山積している。」

                                   

                                   

                                   

                                   

                                  私はこの記事を読みながら、これは何かの間違い、白昼夢なのではないかと思いました。同時に、ジョージ・オーウエルの『1984』を思い出し、何ともいえない気持ちになりました。私を支えていた心棒がポキンと折れる音を聞いたのです。

                                   

                                   

                                   

                                  猿回しの猿よろしく、いい大人が飛び跳ねる図。世耕ケイサン大臣、榊原経団連名誉会長、そしてヤクザの松井大阪府知事。

                                   

                                   

                                  例によって例のごとく登場する二人。全く中身のない空疎な言葉をもてあそぶ「合理的な愚か者」。

                                   

                                   

                                   

                                   

                                  私は1年以上前に『イベント人間は信用できない』という記事を書きました。そこで書いたことを再確認する思いでした。http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=412

                                   

                                   

                                   

                                   

                                  世の中が、やれ東京オリンピックだ、大阪万博だと盛り上がっているときに、冷や水を浴びせるような人間は必要とされないのでしょう。これからは世間の片隅で土を耕し野菜でも作ることにしましょう。私の役目は完全に終わったのだと思う晩秋の昼下がりです。

                                   

                                  | 文学・哲学・思想 | 14:58 | comments(0) | - |
                                  晩秋の朝、英語教育について考える。
                                  0

                                    午前7時。新聞を取りに玄関へ近づくと窓の外が明るいのです。ドアを開けて外に出ると、晩秋の紅葉と一面の落葉に朝日が反射していました。野鳥の鳴き声が空気を切り裂き、冬の到来を告げています。

                                     

                                     

                                    玄関から見た晩秋の前庭。どことなくさびしい風情が一年の終わりが近づいていることを告げています。

                                     

                                     

                                     

                                    夏の間、鬱蒼とした木陰を作っていたカツラの木も、今はほとんどの葉を落として冬支度です。

                                     

                                     

                                     

                                    今年も残り少なくなりました。センター試験も近づいています。この時期は塾教師にとって、何となくあわただしい日々なのです。高校3年生と勉強する機会もあとわずかです。夜遅い時間に、津久見や臼杵から通って来てくれた生徒さんたちには感謝するしかありません。そしてもうすぐお別れです。慌ただしさの中には、寂しさも多少含まれているのかもしれませんね。

                                     

                                     

                                     

                                    それはともかく、私は塾教師でよかったとつくづく思います。なぜなら、文部科学省から一律かつ一方的に下される「命令」に従わなくて済むからです。その命令を実質的に下しているのは財界であり、ブログで何度も言及してきた新自由主義・コーポラティズムのイデオロギーなのです。

                                     

                                     

                                     

                                    この種のイデオロギーの先兵・走狗になっているのが日本の英語教育です。「読み」「書き」「聞く」「話す」4技能を身につけさせると宣言するだけで(文科省の仕事は口先で幻想をふりまくことなのでしょうか)、人材育成も予算配分も現場に丸投げしています。

                                     

                                     

                                     

                                    考えても見て下さい。例えば、中学や高校の美術の教師がいきなりテニス部の顧問をしなければならなくなったときのことを。あるいは剣道一筋でやって来た教師が野球部の顧問を命じられた時のことを。

                                     

                                     

                                     

                                    即席でルールブックを読み、指導方法を研究するのがせいぜいでしょう。そもそも4技能のうち1つの技能すら身についていない英語教師が、いったいどうして4技能を身につけさせることができるのでしょうか。

                                     

                                     

                                     

                                    それでも見切り発車で英語教育を推進するのであれば、ほとんどの生徒は振り落とされ、学習環境が整備され優秀な人材が確保できる都市部の学校が有利になるに決まっています。

                                     

                                     

                                     

                                    しかも民間試験の受験料はTOEFULでは約2万6千円、TOEICは5千725円です。TOEICの年間受験者は270万人を超えています。いったい多額の受験料はどこへ消えているのでしょう。TOEFULでは受験者数すら公表されていません。

                                     

                                     

                                     

                                     

                                    まともな神経をしていれば、英語教育を取り巻くバカ騒ぎは正視に堪えないはずです。にもかかわらず、今が儲け時だと走り出す塾・予備校、英会話業界。その説明会に出て洗脳される塾教師たち。これほど心暗くなる光景がかってあったでしょうか。

                                     

                                     

                                     

                                    安倍政権の強権的なヤクザ政治にホトホト嫌気がさしているときに、予算の裏付けも根拠となるデータもない幻想によって振り回されているのですから、これで心暗くならない人は幸せなるかな、です。私は落ちているエサをわれ先に拾うサルになることはどうしてもできません。ちっぽけなプライドが許さないのではなく、サルに教えられる子供たちがあまりに気の毒だからです。

                                     

                                     

                                     

                                    なんだかんだ言っても、世間とはこんなものだとも思います。しかし、幻想は所詮幻想でしかないことを痛切に思い知った後で、これ以上騙されることは私には精神的な拷問を受けているに等しいのです。

                                     

                                     

                                     

                                    例えば、今の英語教育業界を支配している幻想を挙げてみましょう。

                                     

                                     

                                    1.英語はネイティブスピーカーから学ぶのが一番だ。

                                     

                                    2.英語学習は幼少期から、できるだけ早く始めたほうがよい。

                                     

                                    3.英語力は社会的・経済的成功をもたらす。

                                     

                                    4.英語ができれば世界中誰とでも意思疎通ができる。

                                     

                                    5.英語は英語で学んだほうがよい。

                                     

                                    6.英語を学ぶことは欧米の社会や文化を知ることにつながる。

                                     

                                     

                                     

                                    以上はすべて根拠のない誤った俗説です。もうお分かりでしょうが、日本の英語教育はこの種の幻想によって駆動されています。その結果、子どもたちはテストを通じて序列化されるモルモットのような扱いを受けているのです。少しでも子供が上位に位置することを望む親御さんは、投資だと割り切って気前よくお金を払います。

                                     

                                     

                                     

                                    実は、すべての人に平等に機会を保障するという建前のもと、社会的・経済的格差がロンダリングされているのです。すでに書きましたが、日本の英語教育は世界へ通じる通路を開いたりしません。今回の改革も、成績上位層にとって有利に働くだけです。日本社会の中で選別のモノサシとして機能するだけの外国語教育など、100年遅れているのです。

                                     

                                     

                                     

                                    はっきり言いましょう。日本における「外国語」教育は、アメリカやイギリスの白人社会で使われる標準英語をお手本とした「英語」教育でしかないのです。英語を母語とする国々の人口は世界人口の6%に過ぎません。しかもそれらの国はすべて多民族国家です。私たちがお手本とする標準英語を話す人の割合は、おそらく全人口の1%を切っていると思います。

                                     

                                     

                                     

                                    文科省は「国際共通語としての英語力向上」だの「グローバル化に対応した英語教育」などと言いますが、「国際共通語」の中身も「グローバル化」もまったく分かっていません。それどころか、塾・英会話業界のキャッチコピーかと見紛うほどの偏見と誤謬に満ちています。この程度の認識では、国内の格差を拡大させるだけでなく、新たなレイシズムの温床になる可能性もあります。いや、すでにそうなっています。

                                     

                                     

                                     

                                    お前はいつも文句ばっかり言っているけど実際どんな授業をしているんだ、と言われることも承知しています。その答えは次回以降に譲ります。あまり気が進まないのですが、何のために英語を勉強し、どんなときに英語を勉強していてよかったと思えるのか、今現にどんな勉強をしているのかを少しずつ明らかにしていこうと思います。今回はここまでにしておきます。暇があればまたお付き合い下さい。

                                     

                                     

                                    | 英語教育 | 22:45 | comments(0) | - |
                                    人生をカスタマイズする。
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                                      漂泊の思い止まず、秋の空気と高くなった空に誘われるようにして1週間ほど古寺巡礼の旅に出ていました。もちろん車での旅です。全行程2500キロ。疲れたと言いたいところですが、実はそれほどでもありませんでした。道中ずっと人生第4期に当たる計画について思いを巡らせていたからでしょう。

                                       

                                       

                                       

                                      途中、兵庫県宝塚市に自分でこだわりの家を建てた甥を訪ねたり、東京の大手出版社を退社し子供3人とご主人の5人家族で長野県上田市青木村に移住した教え子を訪ねたりしました。この話はまたいつか。

                                       

                                       

                                      留守にしていた間に、色づき始めていたオオバモミジも百日紅もすっかり紅葉していました。時間の流れを感じる季節です。落葉の始末も大変です。

                                       

                                       

                                       

                                       

                                       

                                       

                                      ところで、出発の前日、第2回大分県合同模試の結果が届きました。

                                       

                                       

                                       

                                       

                                       

                                      毎年、毎回、同じような結果です。今年は途中で塾をやめる生徒もいて、もともと少人数のクラスが5名になりました。3名が上野丘高へ、2名が西高に合格するでしょう。

                                       

                                       

                                       

                                      私は塾を始めた時から、生徒を特定の高校や大学に合格させることを目標にしたことはありません。地域に密着した小さな塾ですから、授業内容も進学先も地域性に大きく左右されます。それでも全国最難関の大学や国公立大学の医・歯学部に合格する生徒もかなりいます。

                                       

                                       

                                       

                                      「目指せ県立トップ校」というキャッチコピーは分かりやすいでしょうが、それは前年度よりも少しでも売上を伸ばすことを至上命題にする塾産業のやることで、私のような個人塾の経営者のやることではありません。

                                       

                                       

                                       

                                      売り上げを伸ばすために、さまざまな宣伝ツールを駆使し、進学実績なるものをでっち上げ、消費者である親や子供たちの意識をコントロールしたり、媚びたりしようとも思いません。

                                       

                                       

                                       

                                      生徒が多いときもあれば、少ないときもあります。能力の高い生徒が集まる年もあれば、そうでない年もあります。それぞれの時期で偶然出会った生徒たちとの交流を楽しむといった風情で、無理をせずにやってきました。

                                       

                                       

                                       

                                      そのせいでしょうか、30年以上にわたって一人で塾を続けることができました。この間、いろいろなスタイルの塾が進出しては消えて行ったのを見ると、私の時代遅れの考え方にも多少意味はあるのかなと思っています。

                                       

                                       

                                       

                                      塾教師として最もうれしいのは、生徒が希望校に合格した時はもちろんですが、むしろ人格的にしっかりしてきたのが分かる瞬間です。当然、それにともなって学力もついてきます。

                                       

                                       

                                       

                                      人間はAIではありません。テストや入試で求められる知識を効率的かつ短時間でインプットすることなど、土台無理なのです。倫理観や想像力、どこまでも思考を展開したくなる衝動、既存の枠組みを疑う知性、そういったものを代償として払わずに高速事務処理ロボットになることはできません。

                                       

                                       

                                       

                                      ゲーテは言っています。「地上の子らのしあわせは、何になってもいいから自分が自分であるところのものを失わないことだ」と。

                                       

                                       

                                       

                                      幸福とは、匿名のシステムにから離脱した時に感じる普遍的な感情です。真の自由がさまざまな制約や桎梏から解放されてはじめて知覚できるのと同じです。

                                       

                                       

                                       

                                      それにしても、私は何を願望して生徒の前に立ち続けてきたのでしょうか。その自問自答に対する答えは今なら一言で言えます。それは、人生をカスタマイズする意味と方法を教えたいということに尽きるのです。

                                       

                                       

                                       

                                      私が教えた生徒が、誰でもいい誰かの人生を生きるのではなく、自分自身の人生を生きているのを見ること、あるいはその萌芽に立ち会えることが私の幸せなのです。それを願望して塾教師を続けてきたのです。

                                       

                                       

                                       

                                      私たちの社会では、教育を通じて、多少のヴァリエーションはあるものの、同じ中身を同じ教科書を使って修得することを要求されます。これは社会にとって必要なことです。しかし、個人にとって本当に必要なのかという問いは封印されたままです。

                                       

                                       

                                       

                                      かくして、車やIT機器をカスタマイズすることは思いついても、私たちは人生そのものをカスタマイズすることからは疎外されているのです。

                                       

                                       

                                       

                                      私たちの関心は常に未来に向けられています。社会がそれを推奨し、強制しています。教育しかり。スポーツしかり。もちろん政治もそうです。その結果何が起こるでしょうか。文化の空洞化、歴史の空洞化が進行します。ひいては人格そのものが空洞化するのです。

                                       

                                       

                                       

                                      私たちが未来に目を向けるのは、欲しいものを手に入れるためです。それは過去の行為から目を背け、あたかも自分がそれに値するかのように自分にウソをつき、自分を偽る可能性が出てきます。何かにつけ結果だけを求める風潮は、こういった人間の身勝手さから出てくるのです。

                                       

                                       

                                       

                                      長くなりました。もう終わりにします。最後に、人生をカスタマイズするときにぜひ思い出してほしい人物を紹介します。彼はすぐに役立つあれこれの知識を教えてくれはしません。しかし、人間の尊厳について教えてくれます。幸福とは何かを教えてくれます。彼は言います。

                                       

                                       

                                       

                                      「注目すべきことは、未来にばかり関心を奪われると、ありのままの現在が見えなくなるばかりでなく、往々にして過去を再編成したくなるということである」深い洞察力に富む言葉です。(エリック・ホッファー「The Passionate State of Mind」より)

                                       

                                       

                                      | 中高生の皆さんへ | 15:58 | comments(0) | - |
                                      絶望するのはたやすい。学ぶことをやめればいいのだから。
                                      0

                                        相も変わらず同じようなネタをグダグダ書いて何が楽しいんだよ、と言われそうですが、これは私が自分にツッコミを入れているだけです。いいかげんバカバカしいと思うのですが、やめるわけにはいきません。

                                         

                                         

                                         

                                        それに私の書くものは「ネタ」ではなく、世界を読み解くために必要な真実です。誤った情報や流行りの言葉に騙されて、猿回しのサルの人生を生きるのはまっぴらです。あるいは人生の岐路でどちらの道を選択すればいいのか考えあぐねているうちに餓死するビュリダンのロバにもなりたくありません。絶望するのはたやすいのです。学ぶことをやめればいいのですから。

                                         

                                         

                                         

                                        お前は何のために、誰のために生きているのか、と問われて答えに窮するようでは人として生きている資格がありません。私はこの青臭い問いに答えようとして生きてきました。そして今思うのは、青年期と老年期に必要なのは哲学だということです。

                                         

                                         

                                         

                                        結婚して所帯を持ってからは家族のため、子供のために働きました。ひねくれ者の私は、わけのわからない会社のために働くくらいなら、日銭を稼いででも生き延びてやろうと思い、塾教師稼業を続けてきました。

                                         

                                         

                                         

                                        その結果、エリック・ホッファーではありませんが「私が満足するのに必要なものはごくわずかである。一日二回のおいしい食事、タバコ、私の関心を引く本、少々の著述を毎日。これが私にとっては生活のすべてである」と考えるようになりました。タバコではなく、コーヒーですが。

                                         

                                         

                                         

                                        ところで今日は大分地裁に行く日です。伊方原発差し止め訴訟の原告の一人として、第11回の口頭弁論を傍聴するためです。先日の仮処分の決定を見れば、佐藤重憲裁判長が私たちの訴えを却下することは分かっています。

                                         

                                         

                                         

                                        安倍政権や金もうけしか考えない電力会社トップの価値観を内面化している人間たちは、仮処分の決定を聞いて「ザマ〜見ろ」と思った事でしょう。しかし想像してみて下さい。私たちの考えや行動が正しかったと分かる日のことを。

                                         

                                         

                                         

                                        MOX燃料を使っている伊方原発が過酷事故を起こせば、チェルノブイリや福島よりもはるかに深刻な影響をもたらすはずです。端的に言ってこの国は終わるのです。したがって、「その日」が来て、私たちの正しさが立証されることだけはあってはならないのです。権力を持っていない私たちの武器は言論しかありません。

                                         

                                         

                                         

                                        私たちは言葉によって世界を認識します。言葉が歪めば世界の像も歪みます。「具体的な危険」など存在しない、原発が危険かどうかは「社会通念」で判断すればよい、というのがこの国の裁判所の態度です。安倍首相の言語運用能力すなわち知力と同等なのです。

                                         

                                         

                                         

                                        彼らの使う紋切型の言葉は、ただ不都合な真実を覆い隠すためだけに使われています。安倍首相の言語運用能力(官僚の書いたフリがな付きのペーパーを読むだけ)と貧困な想像力では、国民がやがて遭遇する破局を予見できるはずもありません。歪んだ人格は歪んだ言葉しか発することができないのですから。

                                         

                                         

                                         

                                        若者はハロウィンの仮装パレードで浮かれ、それを重大事件のように報道するマスコミ。愚民化政策はかつてないほど成功を収めています。そういった「幸せな日常」が突然破壊される日がすぐそこに迫っています。

                                         

                                         

                                         

                                        巨大地震の襲来を予告するNHKの番組も、それが原発事故につながってこの国が終わる可能性があることには触れません。いや、わかっているけど報道できないのでしょう。

                                         

                                         

                                         

                                        実は、この状況を変えるのはコンビニでコーヒーを注文するくらい簡単です。一人一人が真実を学び、声を挙げればいいだけです。しかし、それこそが難しい。格差社会の中では利害が衝突し、「知的で合理的な愚か者」が政治的な分断を加速させているからです。

                                         

                                         

                                         

                                         

                                        さて、そろそろ裁判所に行く時間です。たとえ結果が分かっていても、裁判官が原告の訴えに耳を貸さなくても、絶望する必要はありません。なぜなら、今、生きていることが至上の幸福なのですから。

                                         

                                         

                                        | 中高生の皆さんへ | 13:12 | comments(0) | - |
                                        悲しすぎる現実。
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                                          先日用事があって近くの郵便局へ行きました。待っている間、それとなくあたりを見回すと、一枚のポスターが目に飛び込んできました。よくできたポスターだったので、スマホで写真を撮りました。それが以下のポスターです。よ〜くご覧ください。

                                           

                                           

                                           

                                           

                                          社会の敵を一刀両断。なかなか迫力がありますね。その横にわざわざ二色刷りで、暴力団を「利用しない」。暴力団に「を出さない」。暴力団を「れない」。暴力団と「交際しない」。と書かれています。私はこのポスターを見てニヤニヤしていました。この4つのすべてに当てはまる誰かさんへの強烈な皮肉だと思ったからです。

                                           

                                           

                                           

                                          ちょうどそのとき昔の教え子が私を発見して声をかけてくれました。普段の私はと言えば、待ち時間は椅子に腰かけ、持ってきた本を開いて眉間にしわを寄せ、小難しそうな顔をしています。そこにはおいそれと声などかけられない知的で厳粛なオーラが立ち込めているはずです、たぶん。ところがその日はたまたまニヤニヤしていたので、声をかけやすかったのでしょう。

                                           

                                           

                                           

                                          「先生、○○です。お久しぶりです。まだ塾をやっているそうですね。来年子供が中学生になるのでよろしくお願いします。ところで、なにをニヤニヤしていたんですか」。

                                           

                                          「おっ、○○君、久しぶり。元気そうじゃないか。君の言う通り、他にとりえがないので『まだ』がんばっているよ。ニヤニヤしていたのは、このポスターが気に入ったからさ。傑作だと思わないかい?僕は思わず写真まで撮ったよ」

                                           

                                          「へ〜、そうスか?普通のポスターだと思いますが・・・」

                                           

                                           

                                          で、そのあとよもやま話をして別れました。なぜニヤニヤしていたのか、以下の動画をご覧いただければお分かり頂けると思います。

                                           

                                           

                                          山本太郎一人です。総理とヤクザの関係を国会で取り上げ、総理に面と向かって辞任せよと迫れるのは。この事件は総理の辞任に即つながるので、他の大手メディアは取り上げません。共産党も含めて、他の野党議員も追及しません。歳費泥棒もいいかげんにしてもらいたい。伊藤詩織さんの件も同様です。

                                           

                                           

                                           

                                           

                                           

                                           

                                           

                                          普通なら(私が見るところ10回以上)政権が倒れてもおかしくない事件や不祥事が持ち上がっても、安倍政権は倒れません。森友学園にまつわる国有地詐取事件、加計学園にまつわる補助金詐取事件、安倍首相の子飼いのジャーナリスト山口敬之の伊藤詩織さんレイプ事件(なんとBBCが世界に向けてドキュメンタリーを制作しました)のもみ消し等々。枚挙にいとまがありません。そして極めつきは上の動画です。

                                           

                                           

                                           

                                          私は4年以上も前から、安倍政権は犯罪者集団だと言ってきました。そしてその行動原理はヤクザそのものだと指摘しました。にもかかわらず、安倍政権は延命しています。憲法改定が悲願だと言っていますが、それは表向きの理由です。

                                           

                                           

                                           

                                          「ヤクザの友情−安倍政権の本質」

                                          http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=30

                                           

                                           

                                           

                                          それにしても、政権の延命に手を貸しているのは、他ならぬNHKや読売新聞を始めとする大手メディアおよびジャーナリズムそのものです。その根底には、政権批判そのものがいわば「いい子ぶりっこ」に過ぎないとする、櫻井よしこや西岡力といった極右言論人たちの粗雑で俗耳に入りやすい言い分に同調する無責任な体質があるからにほかなりません。

                                           

                                           

                                           

                                          要するに、事実を一つ一つ腑分けし、何が真実かを見極めようとする地味で執拗な調査報道の精神を投げ捨てて、総理大臣と会食して政治動向を見極めようとする奴隷根性が蔓延してしまったのです。

                                           

                                           

                                           

                                          何度も言うように、今や国民の多くが政権批判を「コンビニで店員に怒鳴り散らすのと同じような利己的で、はた迷惑で、非常識な行為」だと感じるようになっています。それは以下の動画を見ても変わらないのでしょうか。悲しすぎる現実ではありませんか?

                                           

                                           

                                          テレビ東京はよく取材しましたね。遅すぎますが。それでも全く報道しない「皆様のNHK」よりはるかにましです。

                                          NHKは「公共放送」の看板を下ろすべきです。

                                          「安倍様のNHK」に受信料など払う必要はありません。

                                           

                                          公文書の書き換え・偽造は犯罪です。それを指示した人間は国税庁長官に出世し、記者会見すら開かず、財務大臣は居座る。総理大臣がこれを許すどころか、自分のための布陣を固める。道徳教育?憲法改定?そんなこと言ってる場合か、と思うのですが、責任は国民にあるのですから仕方ありませんね。私は塾で毎日子供たちに読み書きそろばんと外国語を教えながら、押し寄せる空しさをどうすることもできません。

                                           

                                           

                                           

                                           

                                          | 政治 | 17:32 | comments(0) | - |
                                          ネトウヨを一掃する!
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                                            やれやれ、またネトウヨさんからコメントをいただきました。20代だと名乗っていますがウソでしょうね。しかも山本太郎が動画のなかで主張していることを全く理解していません。理解していれば今回のようなコメントは書けないはずです。にもかかわらず、山本太郎を「気狂い」だと言っています。さすがネトウヨだけのことはあります。

                                             

                                             

                                            以下は10月21日に行われた最新版の街頭演説。自分の選挙区ではない神戸で訴えています。前回の動画と内容はダブっていますが、それでも聞く気にさせます。彼は専門用語を駆使して国民を騙すようなことはしません。普通のことばでしゃべっています。つまり、山本太郎はただ一人国民の側に立つ政治家なのです。

                                             

                                             

                                             

                                             

                                             

                                            それはともかく、私は読むに耐える批判やコメントであれば、必ず返信するようにしています。それが私の信条です。しかし、一度として読むに耐える批判をいただいたことはありません。

                                             

                                             

                                             

                                            特にネトウヨからの批判は、一読しただけで脱力するレベル(こんな言葉は使いたくないのですが)で、反論する気にすらなりません。しかも100%匿名です。実名でなくてもURLくらい公開してサイト上で議論しませんか、と提案するのですが、応じてくれた人は皆無です。屁をカマして逃げるのが彼らの習性なのです。

                                             

                                             

                                             

                                            ネトウヨではありませんが、「佐藤ママにエールを!」のコメント主さんのように、結果主義を信奉するあまり、考えることそのものを放棄している人に対しても、少しですが、相手をしました。なぜなら、彼女もネトウヨも、自分では一応考えているつもりになっているからです。

                                             

                                             

                                             

                                            さて前回の私の記事『山本太郎は日本のバーニー・サンダースである』に対して、コメントを寄せた「革命戦士」と名乗るネトウヨさんの記事は以下の通りです。もっとも本人は、「俺はネトウヨではない」と思っているかもしれませんね。しかし、正真正銘のネトウヨです。

                                             

                                             

                                             

                                            引用開始

                                            ― そうですね山本太郎という男は園遊会で天皇陛下に手紙を直接手渡すなんてことができる気狂いですから彼なら日本を破滅に導くような偉業が達成できるでしょう。

                                             

                                             

                                            「若い人たちのなかには、『政権を批判する』行為は『コンビニで店員に怒鳴り散らす』のと同じような 『利己的で、はた迷惑で、非常識な行為』だと感じている人もいるようです。これこそが教育の敗北です」と書いて居ますが若者が安倍を支持するのは当然、私は20代ですがアベノミクスのおかげでありがたいことに売り手市場です。私が学生時代民主党政権下では買い手市場もいいとこ、ネットカフェ難民なんてのもいましたね。

                                             

                                             

                                            トランプ的安倍晋三的ネトウヨ的言説が増えたのももうグローバリズムとか左派政党が嫌になったんですよ。鳩山的ネトサヨ的はもううんざりです。私から見れば自民党は革新的で、野党こそ保守です。憲法改正や自由貿易の拡大、安倍晋三及び自民党こそ進歩的です。― 引用終わり

                                             

                                             

                                             

                                             

                                            こんな日本語しか書けない人間に対して、いちいち反論する気にはなりません。すべての文章が論理的に破綻しています。それを指摘すると5〜6回分の記事を書かなくてはなりません。どんなに暇でもそれはできない相談です。「革命戦士」さんは私が書いた以下の記事を理解できるでしょうか。

                                             

                                             

                                             

                                            『私の国語の授業−文章を正確に読むために』

                                            http://www.segmirai.jp/essay_library/essay058.html

                                             

                                             

                                             

                                            それにしても、今から5年前の9月、安倍首相がニューヨークの証券取引所で行ったスピーチを忘れることができません。以下、首相官邸のHPから引用します。

                                             

                                             

                                             

                                            引用開始

                                             

                                            世界第三位の経済大国である日本が復活する。これは、間違いなく、世界経済回復の大きなけん引役となります。日本は、アメリカからたくさんの製品を輸入しています。日本の消費回復は、確実にアメリカの輸出増大に寄与する。そのことを申し上げておきたいと思います。
                                             ゴードン・ゲッコー風に申し上げれば、世界経済回復のためには、3語で十分です。

                                             「Buy my Abenomics」

                                             

                                            引用終わり

                                             

                                             

                                             

                                            ちなみに「Buy my Abenomics」は映画「ウォール街」の中で嘘と裏切りのマネーゲームに明け暮れる主人公ゴードン・ゲッコーが「俺の本を買えばすべて分かるぜ」と言い放ったセリフです。安倍首相にぴったりのセリフです。

                                             

                                             

                                             

                                            株価の上昇だけで日本経済を論じたり、実質賃金が上がってもいないのに消費が回復していると強弁したり、目も当てられません。今時、アベノミクスのからくりは中学生でもわかっています。日本の粉飾経済の化けの皮が剥がれるのももうすぐです。その時は「Buy my Abenomics」という言葉が虚しく響くことでしょう。

                                             

                                             

                                             

                                            さらに「革命戦士」さんは、現実を認識するだけの知力を欠いています。一つだけ例を挙げてみましょう。

                                            「トランプ的安倍晋三的ネトウヨ的言説が増えたのももうグローバリズムとか左派政党が嫌になったんですよ。」とありますが、この論理で行くと、「グローバリズムとか左派政党が嫌になった」から「安倍晋三的ネトウヨ的言説が増えた」ことになりますね。つまり、安倍首相は反グローバリストであり、それをネトウヨが応援しているという構図になります。

                                             

                                             

                                             

                                            でも、2年前の大統領選のとき、安倍首相はヒラリー・クリントンが当選すると思って、彼女のケツを舐めに行きました(英語でlick one’s bootsは日本語ではケツを舐めるという表現になります)。ところが顔を上げると、ヒラリーのケツではなく、トランプのケツを舐める羽目に陥っていたのです。さぞ慌てたことでしょう。

                                             

                                             

                                             

                                             

                                            要するに、安倍首相はグローバリズムの正体を理解しないまま、グローバリズムの走狗として日本の富をアメリカに売り渡しているだけです。それは数年を経ずして、誰の目にも明らかになることでしょう。

                                             

                                             

                                             

                                             

                                            それはともかく、ネトウヨの致命的な欠点は事実を知らないということです。ネトウヨ漫画家のはすみとしこ女史にいたっては、北海道地震の際、「泊」原発を再稼働せよと叫ぶつもりで、「柏」原発を再稼働せよと叫んでいました。ネトウヨがリツイートしてあっという間に拡散しましたが、せめて再稼働させたい原発の名前と所在地くらい知ってから叫んでほしいものです。

                                             

                                             

                                             

                                             

                                            ところが一事が万事、事実を指摘しても、ネトウヨはそれすら認めないのですから、議論の成立する余地などありません。それどころか「お前たちパヨクは、見たいものしか見ていない」などと、誰かさんから教えてもらった紋切型のフレーズを実体のない論敵に投げつけて溜飲を下げているだけです。

                                             

                                             

                                             

                                             

                                            私はブログで事実よりも認識の方が大事だと言ってきました。それは事実に関しては、細部はともかく大枠で認識が一致すると思っていたからです。しかし、ネトウヨはその事実すら自分たちの都合のいいように捏造し、それを指摘すると、逆に「お前たちは事実を捏造している!」と叫びます。自分たちが言われそうなことを相手に投げつけるという言葉の戦略を身につけているのです。

                                             

                                             

                                             

                                             

                                            ネトウヨは、イデオロギーというよりもある種の劣情を共有しています。劣情から発せられる言葉は下品になり、差別的になり、レイシズムを生みます。道徳心理学者のジョナサン・ハイトを引用するまでもなく、感情こそが論理を方向付けるのです。したがって、劣情が生み出す論理も劣った論理にならざるを得ません。野党の質問に対して下品なヤジを飛ばす総理大臣の振る舞いはその典型です。

                                             

                                             

                                             

                                             

                                            いったいどうすればいいのでしょうか。まず事実認定をしっかり行う必要があります。法治国家であれば、最終的には法廷で決着をつけることになります。ネトウヨや出版社を告訴し、そこで被告人を尋問して事実を捏造したことを白状させるのです。それを実行しているのが元朝日新聞の記者・植村隆氏です。

                                             

                                             

                                             

                                             

                                             

                                            「慰安婦問題は朝日新聞が捏造した」として標的にされたのが植村隆氏です。しかし、植村氏は今係争中の裁判の中で、自分への攻撃の多くが根拠のないものであることをひとつひとつ実証し、極右言論人たちの嘘とでっち上げを、次々と白日のもとに晒しています。事実認定の問題ですから、もうすぐ判決が出るでしょう。

                                             

                                             

                                             

                                             

                                            今回も長い記事を読んで下さった皆さんに御礼申し上げます。次回は安倍政権の周りに蝟集(いしゅう)する極右言論人たちの名前を挙げ、その発想がいかにデタラメか、なぜそういう人格が作られるのかを検証します。

                                             

                                             

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                                            山本太郎は日本のバーニー・サンダースである。
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                                              私のつたないブログを読んで下さっている皆さんは、私が山本太郎を応援していることをご存じだと思います。彼は何者にも媚びない、忖度しない。ただ国民のことだけを考えて行動しています。つまり、3・11の福島原発事故が生み出した正真正銘の政治家です。

                                               

                                               

                                               

                                              何度も書きましたが、政治とは、誰もが不可能だと思っていることを可能であると実証し、国民が勇気ある一歩を踏み出せるように説得する営みのことを言います。

                                               

                                               

                                               

                                              すなわち、現実を絶対化し、その改変を試みる勇気を持たない人間に対して、「現実」は一部の人間の利益に奉仕しているだけであり、したがって取るに足らない思いこみであり、一時的な夢だと喝破して見せることこそが政治の使命なのです。

                                               

                                               

                                               

                                              日本語もろくに読めず、息を吐くようにウソを言い、カルト教団を頼りにする最高権力者に取り入り、金銭欲と小権力欲を満足させ、自分のことをひとかどの人物だと勘違いしている政治家たち(いわゆるカジノ法案を成立させてこの国を賭博国家に仕立て上げ、防衛大臣の椅子に座ったわが大分県選出の岩屋毅議員のような政治家のことです)の対極にいるのが山本太郎です。彼は常に虎の尾を踏んでいます。その政治活動はいつも命懸けです。

                                               

                                               

                                               

                                              しかし、マスメディアは彼を助けようとはしません。それどころか若い人たちのなかには、「政権を批判する」行為は「コンビニで店員に怒鳴り散らす」のと同じような「利己的で、はた迷惑で、非常識な行為」だと感じている人もいるようです。これこそが教育の敗北です。

                                               

                                               

                                               

                                              大げさだと思う人は以下の動画をご覧ください。

                                              この動画のなかで山本太郎は言っています。「私が総理大臣だったら消費税ゼロです!消費税がこの国の経済成長を阻んでる。阻害要因のNo1です!」と。野党でこのセリフを吐けるのは彼だけです。

                                               

                                               

                                              20181011日。JR藤沢駅前での山本太郎の街宣。動画を見やすいものに変えました。長いですが、まず事実を知ることから始めましょう。彼が挙げている事実、および論理のどこがおかしいのか具体的に指摘するつもりで見てください。国会議員のなかで、国民と直接対話し、質問に答える機会を提供している人がいるでしょうか。それだけでも、私は彼を応援します。

                                               

                                               

                                               

                                              この動画は、トランプ氏が大統領になる前、2016年の米大統領予備選で旋風を起こしたバーニー・サンダース上院議員を彷彿とさせます。彼についてはブログで何度も取り上げました。最後に過去記事を載せているのでぜひお読みください。

                                               

                                               

                                               

                                              コーポラティズム(巨大企業と政府が癒着して国民の富を私物化し、軍隊を私兵化すること)のイデオロギーである新自由主義は日米で同時に鬼胎の政権を生みました。今の日本は、客観的な検証に耐えられないどころか言葉を無効化させるトランプ的・安倍晋三的・ネトウヨ的な言説が幅を利かせています。

                                               

                                               

                                               

                                               

                                              しかし、それに対抗するように、山本太郎とバーニー・サンダースという真の政治家も生まれました。この二人の主張がいかに似ているか、それを思うと感動すらします。若い人たちは、ぜひ以下の過去記事を読んで下さい。この国の将来を選択するのはあなたたちなのですから。

                                               

                                               

                                               『高校生の英語力向上のために』

                                              http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=168

                                               

                                              『自分の国のこどもたちに、背中を向けているというのに!』

                                              http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=165

                                               

                                              『「箱」の外で考える』

                                              http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=169

                                               

                                               

                                              | 中高生の皆さんへ | 23:36 | comments(1) | - |
                                              家作りに必要なこと。
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                                                秋です。庭の木々も色づき始めました。この前まで、暑い暑いと言っていたのがうそのようです。

                                                 

                                                 

                                                背景は8メートル以上になったカツラの木。手前はオオバモミジ。

                                                 

                                                 

                                                 

                                                 

                                                中庭のこの木はツリバナ。九州では生育が難しく、もともと八ヶ岳あたりの高地が向いているとのことです。でももう20年になります。赤い実がなり、はじけて中から小さな鈴のような花がぶら下がります。

                                                 

                                                 

                                                 

                                                 

                                                ツリバナの隣はジューンベリー。黄葉が見事で透明感が好きなのですが、今年は強風にあおられて葉が散ってしまいました。もはや日本は亜熱帯気候になったかのようです。これからは、息をのむような美しい紅葉は見られないかもしれません。

                                                 

                                                 

                                                 

                                                 

                                                使わなくなったコップに、散歩の途中で摘んできた野の花を飾るだけでテーブルが華やぎます。田舎暮らしの楽しみですね。

                                                 

                                                 

                                                 

                                                 

                                                 

                                                築23年になる杉板打ち放しのわが家も、古びが出て来て味わいを増しています。わが家は高級志向・本物志向の家ではありません。今は亡き義父から提供してもらった材木で作った「小屋」だと言った方がいいでしょう。

                                                 

                                                木も人もやがては土に還ります。土に還らない素材は、どこか居心地が悪いものです。

                                                 

                                                 

                                                 

                                                前庭にある株立ちのケヤキ。画像ではその存在感がわかりませんね。時計の時間ではなく、自然の変化や季節の巡りで流れた時間のかけがえのなさを教えてくれます。

                                                 

                                                 

                                                 

                                                 

                                                私は家を小動物の棲みかのように考えていたので、設計に際して自分の深いところに潜んでいる身体感覚を目覚めさせる必要がありました。ある空間に自分の身を晒し、自分の目で見、自分の身体で触れた時の経験を思い出していたのです。建築は直に接してはじめて何かが身体に染み渡り、ある反応を引き起こすものだからです。

                                                 

                                                 

                                                 

                                                ところで、皆さんは湿式構法と式構法という言葉をご存知でしょうか。

                                                日本の住宅建築は湿式(ウェット)構法から乾式(ドライ)構法に変わりました。これは同時に家の「味わい」や「たたずまい」を劇的に変える要因となったのです。

                                                 

                                                 

                                                 

                                                湿式構法では、木材についていえば、天然原木を一次乾燥して、柱・梁あるいは板材に加工し、その後もう一度乾燥させて建材として使用します。木製建具などは建具屋さんのもとでさらに乾燥させてから使います。取り付け後に狂いが生じないようにするためです。左官材でも水でこねて下塗りした後、乾くのを待って中塗、上塗と重ねていきます。このように水分を抜きながら作って行くので、手間と時間がかかります。

                                                 

                                                 

                                                 

                                                 

                                                子供の頃、実家の壁を補修するというので、父と一緒に見学に行ったことがあります。ちょうど泥をこねるところでした。そばで見ていると、左官さんが「坊主、手伝うか?」というので、さっそく裸足になり足で泥をこねました。子供は泥遊びがすきですよね。藁が混じった泥は粘度が高く重いので、すぐにバテました。こうやってこねた泥を、竹を組んだ壁に塗って行きます。それを鏝(こて)で仕上げるのは、泥が完全に乾くのを待ってからですから、数日かかります。

                                                 

                                                 

                                                昔は壁と言えば、泥壁のことでした。今はサイディングがほとんどですね。

                                                 

                                                 

                                                今でも泥壁の味わいを愛する人がいて、子供と一緒に泥をこねています。

                                                 

                                                 

                                                 

                                                これに対して、乾式構法は文字通り乾いた建材で家を造ることを言います。よく使われる建材は、集成材や新建材などです。外部はサイディング、内部はハリモノ、プリントものの化粧合板、ビニールクロスなどです。

                                                 

                                                 

                                                 

                                                 

                                                最近は建具も工場で作られたものが梱包されて届きますから、大工さんは段ボール箱から取り出して取り付けるだけです。無垢の木材や左官材のように加工手間も、乾かす時間もいりません。左官材によって床が汚れないように養生をする必要もないので、住宅がスピーディーに出来上がっていきます。

                                                 

                                                 

                                                 

                                                ところが、日本だけでなく諸外国でも、家造りはもともと自然素材を中心とした「湿式構法」が主流だったのです。工場で新建材が量産され、乾いた建材で家が建てられるようになってから、国や地域、地方の特色が、つまり文化が住宅から消えていきました。量産型の工業化建材は販売ルートに乗って全国くまなくスピーディーに行き渡りますから、住宅が風土的な特徴を失って画一化に向かうのは当然です。

                                                 

                                                 

                                                 

                                                 

                                                私が塾の教師として生きてきた時期は、新建材が普及する時期とほぼ重なります。世界の風景は大きく変わりました。教育は時間を切り売りし、費用対効果というイデオロギーによって駆動されるサバイバルゲームになりました。「基礎研究」にじっくり時間をかけるというような悠長なことはできなくなっています。少し長い目で見れば、これは国家のみならず個人の可能性をつぶすことになるのは自明なのですが・・・

                                                 

                                                 

                                                 

                                                私は一年に一度、古寺巡礼の旅に出かけますが、それは職人の苦労や息づかいを感じて癒されたいという願望のなせる業かもしれません。土壁のひんやりした空気感や、陰翳のあるたたずまいは、そこに流れた時間と建築の奥深さをしみじみと感じさせます。

                                                 

                                                 

                                                 

                                                パソコンやスマホに囲まれ、新自由主義のもとで時間に追われて生活している世代は、わずか3〜40年前でも、日本という国のかつての姿を知りません。自分が馴染んできた世界以外のものを思い描くためには、目の前にあるものとは違う何かを知っている必要があります。私にとっての古寺巡礼は、それを知るための手掛かりを探す旅なのです。

                                                 

                                                 

                                                | 自己救済術としての家作り | 16:15 | comments(0) | - |
                                                「自分は何を知りたいのか」と常に問い続ける。
                                                0

                                                  中高校生の皆さん、お久しぶりです。私は塾の教師ですから本来なら英文法や英文読解、英作文、あるいは数学の基本的で応用の効く定理や発想について語りたいのです。さらには800字〜1600字程度の論理的な日本語を書く方法についても解説したいですね。

                                                   

                                                   

                                                   

                                                  しかし、ブログに書くより塾の授業でやれば済むことではないかと思い、あまり気乗りがしませんでした。そんな折、本庶佑氏のノーベル賞受賞の知らせを聞いて、思うところがあるので、この記事を書くことにしました。

                                                   

                                                   

                                                   

                                                  本庶氏は人生の大部分を基礎研究に費やしてきた人です。氏の短いコメントには、学問にたずさわる人間だけではなく、ジャーナリズムを志す人間にとっても、極めて重要なことが含まれています。

                                                   

                                                   

                                                   

                                                  氏は言います。「できることをやるのはつまらない。自分は何を知りたいのかという、その一点を常に考えて研究をしてきた」「教科書を信じてはいけない。あらゆることを疑うことが大事だ」と。

                                                   

                                                   

                                                   

                                                  私は塾の授業で基礎の大切さを話します。中高校生の皆さんは、先生に「基礎」とは何かを尋ねたことがありますか?数学の基礎とは?外国語を学ぶときの基礎とは?そもそも言語とは何か?と。そして「基礎」はなぜ大事なのか?と。

                                                   

                                                   

                                                   

                                                  「基礎」とは知識のことでしょうか。普通はもちろんそう考えますね。しかし、その数は膨大ですし、試験のために覚えた知識などすぐに忘れてしまいます。ですからその一々を答えるわけにはいきません。実は「基礎」には、ある分野の知識以上の深い意味があるのです。

                                                   

                                                   

                                                   

                                                  本庶氏はそれを経験的に知っています。「基礎」とは、「自分は何を知りたいのか」という初発の動機を手放さず、それを原動力に研究を続ける過程で身につく力だと言っているのです。つまり、様々な知識を体系付け、方向付け、関連付けるために必要とされるメンタリティーを保持し続けることを指しているのですね。そのためには「あらゆることを疑うことが大事だ」と。この態度を身につけていない人の学力は決して伸びません(これは街場のキラキラ塾のAI先生から学ぶことなどできないのです)。

                                                   

                                                   

                                                   

                                                  愚かな裁判官や官僚のように匿名のシステムに埋没するのではなく、皆さんは常に、誰のために、何を知りたくて生きているのか、という青臭い問いを手放してはなりません。なぜなら、青臭い問いこそが人格を形成するからです。

                                                   

                                                   

                                                   

                                                  こうして形成された人格を保持していれば、「あの男」の意図を忖度して公文書を廃棄・隠蔽したり、原発の再稼働にゴーサインを出したり、情報提供を餌に女性記者に迫ったり、セクハラ発言をしたりせずに済むのです。

                                                   

                                                   

                                                   

                                                  「自分は何を知りたいのか」と問い続けることは、自分の時間を主体的に生きることにつながるのです。私が時間にこだわるのは、まさにこのためです。

                                                   

                                                   

                                                   

                                                  昔、塾の生徒だった皆さんは私の脱線話を覚えているでしょうか。多田富雄氏の『免疫の意味論』について話し、これからの医学研究の主流は免疫をめぐるものになると言いました。そこで問われるのは、人間にとっての「死」の意味であると。生き方(職業)ではなく、なぜ生きるのか、つまり、HowではなくWhyが問題になると。

                                                   

                                                   

                                                   

                                                   

                                                   

                                                  そして、フェルマーの定理(3 以上の自然数 n について、 X+ Yn = Z となる自然数の組 (x, y, z) は存在しない、という定理)を証明したワイルズの話もしました。一つの定理を証明するために全人生を捧げた人間の生き方についても触れました。

                                                   

                                                   

                                                   

                                                   

                                                   

                                                  若い皆さんには、世間的な価値や序列にまどわされずに、自分の人生を生きてもらいたいと思います。誰でもいい誰かの人生を生きるには、人生は長すぎます。私のように平凡な塾教師でもいいのです。

                                                   

                                                   

                                                   

                                                  若い頃に読んだ福永武彦の小説『草の花』の最初にたしかペテロ伝前書の一節がありました。「人はみな草のごとく、その栄光は草の花のごとし」と。私はこの一節を心に刻んで生きています。

                                                   

                                                   

                                                   

                                                  | 中高生の皆さんへ | 14:09 | comments(0) | - |
                                                  循環する時間、再生する命。
                                                  0

                                                    9月26日のブログでも書きましたが、今の日本社会は国民国家VSコーポラティズムの戦いの最中で、後者がほとんど勝利しかけています。しかし、沖縄で玉城デニー氏が知事になったことで、国民主権も民主主義も命脈をかろうじて保っています。それを指摘したのがニューヨークタイムズだというのが何とも皮肉ですが。

                                                     

                                                     

                                                     

                                                    コーポラティズムが生み出した新自由主義(意味がわからない人は、ここ数回のブログを読んで理解して下さい)のイデオロギーは、私たちの時間を市場社会の絶対時間に服従させました。

                                                     

                                                     

                                                     

                                                    市場社会の絶対時間とはビジネス手帳に細かく書き込まれている予定のことであり、時間を制する者が受験を制するといったイデオロギーであり、私たちの意識に植え付けられた直線的な時間のことです。

                                                     

                                                     

                                                     

                                                    しかし、すでに書いたように、もともと日本の文化には「循環する時間」をテーマにしているものが多いのです。能や歌舞伎の曲目に見られるように、ほとんどが「転生」の物語です。

                                                     

                                                     

                                                     

                                                    9月26日にブログを書いたとき、実は『苦界浄土』の作家・石牟礼道子氏のことを思い出していました。それから数日して、セレンディピティーというのでしょうか、10月2日の朝日新聞26面で石牟礼道子氏の新作能「沖宮」に関する記事が目に留まりました。

                                                     

                                                     

                                                     

                                                    これも偶然ですが、ブログでも紹介した教え子M君(おじいさんが天草に住んでいて、熊本県庁に就職が決まりました)と湯布院でランチをした時、石牟礼道子の話をしました。その時、彼女の畢生の大作『春の城』を勧めたのを思い出しました。

                                                     

                                                     

                                                     

                                                     

                                                     

                                                    『春の城』は、農作物を作り、信仰を大切にし、質素に、つつましやかに生きていたごく普通の人々が、なぜ一揆に参加し、幕府に壮絶な戦いを挑むようになったのか、登場人物一人ひとりに寄り添って、丁寧に描かれた物語です。

                                                     

                                                     

                                                     

                                                    話を元に戻しますが、「沖宮」は、島原の乱(1637〜38年)の後の天草が舞台です。天草四郎の乳きょうだいで孤児となった少女あやは、干ばつに苦しむ村のため、竜神のいけにえに選ばれます。緋色の衣をまとい、海の底へ沈んでいくあや。その魂を迎えに、四郎の霊が現れるという筋立てです。

                                                     

                                                     

                                                     

                                                    評論家の渡辺京二氏は、「沖宮」で描かれた、共同体のために弱い立場の者が犠牲に差し出される、という構造に注目します。水俣病の補償交渉を支えようと、チッソ本社前の座り込みなどに参加するうち、石牟礼さんに「自分たちは見捨てられ人身御供になるのだという強迫観念が宿ったのでは」と、創作の背景を指摘しています。

                                                     

                                                     

                                                     

                                                    石牟礼さんは生前、「あやは死ぬのではなく、海底にある生命の源に還ってゆくのです」と語っていたそうです。そのあやがまとう緋色の衣は、親交のあった人間国宝の染織家、志村ふくみさんが監修します。

                                                    新作能「沖宮」は6日に熊本市の水前寺成趣園能楽殿、20日に京都市の金剛能楽堂、11月18日に東京の国立能楽堂で上演予定です。

                                                     

                                                     

                                                     

                                                    言うまでもなく、循環する時間は、生命の源に還ってゆく命を運ぶ舟のようなものです。悠久の時の流れのなかで、生命の源に身をゆだねていれば、この瞬間がまた巡り来ることを信じさせます。日本文化の根底にはこういった時間感覚、信仰があったのです。だから私たちは何が起こってもそれを受け入れてきました。人間は生まれ変わる、再生するという世界観は人間の魂を根底から癒す力を持っているのです。

                                                     

                                                     

                                                     

                                                    しかし、福島の原発事故によって私たちの世界観は大きく毀損されました。国家の連続性も絶たれました。その認識を持てるかどうかが、これから先、生き延びられるかどうかのカギを握っています。天変地異に限らず、何が起こってもそれを受け入れ、じっと耐え忍び、再生の時を待つという日本人のエートスが、逆にこの国を滅びに向かわせているのですから。

                                                     

                                                     

                                                     

                                                    もはや手遅れだと思いますが、私たちにできることはただ一つです。日本にある全原発を一日も早く廃炉にすることです。物事には優先順位があります。まず、国民の意識をこの一点に向かわせるのがジャーナリズムの仕事です。

                                                     

                                                     

                                                     

                                                    次に、コーポラティズムが撒き散らす新自由主義のウィルスと戦っている沖縄を支援し、基地のない沖縄を再生させることです。東京オリンピックに浮かれ、テレビのバラエティー番組を見て痴呆になるのは自由ですが、これは後にしてもらいたいものです。

                                                     

                                                     

                                                    | 文学・哲学・思想 | 23:53 | comments(0) | - |
                                                    大分地裁佐藤重憲裁判長、伊方原発差し止め却下。
                                                    0

                                                      今回差し止めを却下したのは、大分地裁の佐藤重憲裁判長です。「具体的な危険はない」というのが根拠です。

                                                       

                                                       

                                                       

                                                      佐藤重憲裁判長が考える「具体的な危険」とは、実際に火山が破局噴火を起こした時であり、伊方原発のすぐそばを通る中央構造線が跳ね上がった時であり、南海トラフ地震が巨大津波を起こして伊方原発が全電源喪失した時であり、佐多岬半島の住民約5千人が逃げ場を失って絶望している時であり、大分市の住民が放射能汚染にまみれ、豊後水道や瀬戸内海の海産物が致命的な打撃をこうむったときのことを指すのでしょう。

                                                       

                                                       

                                                       

                                                      大分地裁前は、原告団と報道陣で混み合っています。

                                                       

                                                       

                                                       

                                                       

                                                      「疾風自由日記」のSさんも最後尾でのぼりを掲げています。

                                                       

                                                       

                                                       

                                                       

                                                      それが起こるまでは「具体的な危険はない」なんて、いったい誰の顔を思い浮かべて決定を下したのでしょうか。小学生以下の判断力の持ち主です。こんな事だろうと思って、1年前に書いたのが以下の記事です。

                                                       

                                                       

                                                      「大分地裁裁判長への意見陳述書」

                                                      http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=426

                                                       

                                                       

                                                      折も折、伊方原発の差し止めが却下されたその日(9月28日)に、インドネシアのスラウェシ島ではマグニチュード7,5の巨大地震が起こり、津波と地震で29日現在384人の命が失われています。被害はさらに広がるでしょう。もちろん佐藤裁判長にとっては遠い国の「抽象的な危険」に過ぎません。

                                                       

                                                       

                                                       

                                                      佐藤重憲裁判長の今回の判断は、北海道地震の時に泊原発が稼働していたら停電はなかったというネトウヨ経済評論家やIT成金の皆さんと同レベルです。無知というか、視野狭窄というか、絶句するしかないものです。

                                                       

                                                       

                                                       

                                                      ましてや、南海トラフ地震が起こり、複数の原発が爆発しているときに台風が日本列島を縦断して放射能を撒き散らすなどという破局的なシナリオは想像すらできないのでしょう。

                                                       

                                                       

                                                      ドキドキしながら待っていた決定の瞬間。覚悟はしていたものの、正直言って無性に腹が立ちました。

                                                       

                                                       

                                                      決定要旨を説明する河合弘之弁護士。闘いは終わらない、これからも頑張ろうと挨拶。ところで、私は「原発問題が好き」でも「趣味」でも「生きがい」でもない。そうやって揶揄するあなたやあなたの子供、孫のためにも闘っている。原発のない普通に安心して暮らせる社会を願っているだけである。一日も早く原告を辞めたいのだ!

                                                       

                                                       

                                                       

                                                       

                                                      今回、佐藤重憲裁判長が、四国電力といわゆる原子力ムラの言い分をそのまま追認しただけの決定しか下せなかったのは、匿名のシステム(この場合裁判所という組織を指します)に逃げ込んで裁判官個人としての「良心」や見識を世に問うことが怖かったからです。既成事実を追認するだけの勇気のない裁判官などいりません。追認するならせめて後世の批判に耐えられるだけの論理と根拠を明確に示してもらいたいものです。

                                                       

                                                       

                                                       

                                                      そんなわけですから、決定を聞いたとき、私は苦笑いするしかありませんでした。こういう裁判長に当たったのは、運が悪かったということです。安倍政権の下では、福井地裁の樋口英明裁判長(彼は匿名のシステムに呑み込まれることを潔しとせず、良心に基づいて見事な判決を下しました)のような人に当たるのは、宝くじに当たるようなものです。

                                                       

                                                       

                                                       

                                                      原発は、使用済み核燃料という致命的な負の遺産を後世に先送りしながら、やっていることといえば水を沸騰させ、蒸気の力でタービンを回して発電することだけです。たかがお湯を沸かすのになぜ核エネルギーを使う必要があるのでしょうか。

                                                       

                                                       

                                                       

                                                      総括原価方式によって電力会社が膨大な利潤を生み出せる構造になっているからです。要するに、金です。金。世界での発言力を高めるためには、核兵器による潜在的抑止力が必要だというような妄想に取りつかれている集団はこの際無視します。

                                                       

                                                       

                                                       

                                                      それにしても佐藤重憲裁判長のような人間がなぜ司法の世界のみならず政界・経済界に跋扈するようになったのでしょうか。

                                                       

                                                       

                                                       

                                                      一番の原因は「国家」が消滅したことです。代わりに、前回のブログでも書いたように、政治権力と大企業が癒着し一体となったコーポラティズムによる統治形態が登場しました。今はこの統治形態に奉仕すべく、教育や医療をはじめとする公的領域の最後の名残が資本によって呑み込まれようとしている時代です。

                                                       

                                                       

                                                       

                                                      政府は、「パンとサーカス」を与えて国民を愚民化し、奴隷の自由を真の自由だと勘違いする人々を大量に生みだしました。テレビのグルメ番組を見て食べ歩き、一方でダイエットや健康食品を物色する。あげくの果てに、外資系の保険会社になけなしの金を払い込み、「賢い」投資家になったつもりで損をする。そればかりか、新手の詐欺に引っ掛かる。幻想を追いかけるのは勝手ですが、いまだアメリカの占領下にある国に真の自由などあり得ません。

                                                       

                                                       

                                                       

                                                      話がそれました。佐藤重憲裁判長に象徴される人格がどのようにして出来上がるのか。その答えは、彼らが受けた教育にあります。しかし、長くなるのでその話はまたにします。

                                                       

                                                       

                                                       

                                                      他人のことを批判するお前は何様だと言われるのは覚悟の上です。私は一介の塾教師に過ぎません。しかし、何のために勉強するのかという問いにはいついかなるときにも答える準備はしています。勉強の手助けをするのも教育でしょうが、それだけならAIにもできます。

                                                       

                                                       

                                                       

                                                      私が生徒に向き合っているときに、心の底から願望していることはたった一つです。それは、毎日目にしている世界の風景が、違う世界の風景のように見える力を付けてもらいたいということです。真の知性とは、今とは違う世界を描き出す勇気を持つことを意味します。

                                                       

                                                       

                                                       

                                                       

                                                      オスカーワイルドは1891年に書いています。

                                                       

                                                       “ a map of the world that does not include Utopia is not worth even glancing at, for it leaves out the one country at which Humanity is always landing. And when Humanity lands there , it looks out, and seeing a better country , sets sail ”

                                                       

                                                      「ユートピアを含まない世界地図など一瞥にも値しない。その地図には、人間が繰り返し上陸している国が抜け落ちているからだ。人間はそこに上陸すると、あたりを見渡し、もっとよい国を発見して、船を出すのである」

                                                       

                                                       

                                                       

                                                      自分がなじんできた世界以外のものを思い描くこと。目の前のものとは違う「何か」を探すこと。根底から変革された、よりよい未来を思い描くことも、そのために闘うことも教育によって可能になるのだと私は信じています。

                                                       

                                                       

                                                       

                                                      | 原発 | 22:49 | comments(0) | - |
                                                      「佐藤ママにエールを!」のコメント主さんへ。
                                                      0

                                                        あなたのコメントに反論するのは気が重いですね。私の反論を読んでもあなたはまったく影響を受けないでしょうから。その点では「佐藤ママ」と同じです。影響を受けるためには多少の知性を必要とするのです。

                                                         

                                                         

                                                         

                                                        そもそも、あなたや「佐藤ママ」がどのような子育てをしようと、私にはどうでもいいことです。私は塾の教師をしていますが、「佐藤ママ」が4人の子供を東大医学部に合格させたと聞いても驚きません。受験というコップの中の世界では、情報とお金と子供に多少の素質(記憶力の良さ、計算力、高速事務処理能力など)さえあれば可能だからです。カルト化している塾・予備校を、カルト化した母親がうまく利用した結果に過ぎません。

                                                         

                                                         

                                                         

                                                        しかし、自分の子供がどこの大学に合格したかなどということは本来プライベートなことではないでしょうか。本を出版したり(『受験は母親が9割』など)、講演をして回ったりするのは、教養のある大人のできることではありません。下品な行いです。当然、講演を聞きに行く母親たちも下品です。

                                                         

                                                         

                                                        彼女たちは、社会の空気を読んで、子供の市場価値と自分の存在価値を高めるために行動しているだけです。もちろん背後には、世間に承認されたいという欲求があります。

                                                         

                                                         

                                                         

                                                        「母親というものは、たとえ世の中がどんなに腐りきっていても、そこに適応するように子供を育てるものだ」とはゲーテの言葉です。昔なら恥ずかしくて言えなかったようなことも、今は露骨に勝ち組・負け組といった二分法を使って「本音」を歯切れよく、堂々と開陳しています。

                                                         

                                                         

                                                         

                                                        つまり、公共性という概念が欠落しているのです。公共性とは、簡単に言うと「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」(宮沢賢治)と考えることです。彼女たちが公教育をバカにするのももっともです。コメント主さんもその一人です。

                                                         

                                                         

                                                         

                                                        私はネットで「佐藤ママ」が出演していたテレビの録画を観ました。彼女の話し方、目つき、笑い方、反論の仕方を見て思うところがありますが、それに言及するのはやめにします。その番組の中で「佐藤ママ」がしきりに言っていたセリフがあります。「そんなことしている暇はないのよ」「効率が悪すぎるのよ」「無駄でしょ、そんな時間は」「18年間なんて、あっという間に過ぎるのよ」等々です。

                                                         

                                                         

                                                         

                                                        そのために18歳までは恋愛禁止、テレビも禁止、意味のない学校の宿題は親が代わりにやる、志望理由書も親が書いたものを写させる、とのことです。要するに子育てが東大医学部に合格するためという一点に絞られているのです。そのために最も必要なことは、効率的な時間の使い方だというわけです。

                                                         

                                                         

                                                         

                                                        私は時間について思索を巡らせてきました。そして時間と記憶こそがその人そのものだと書いてきました。コメント主さんや「佐藤ママ」の時間感覚は、直線的な時間、消費される時間に集中しています。スケジュールでびっしり埋まっているビジネス手帳に象徴されるような時間です。

                                                         

                                                         

                                                         

                                                        しかし、あらかじめ流れる方向が直線的に決まっている時間などというものは存在しません。あるところでは滞留し、逆流し、循環しています。時間はわたしたちの感情や価値観によって、短くもなれば長くもなるのです。直線的な時間は、人間を既存の秩序や序列に深く組み込みます。

                                                         

                                                         

                                                         

                                                        では誰が考え方や感じ方を支配するイデオロギーとしての時間の概念をわたしたちに植え付けたのでしょうか。この点を解き明かさなければ、親や教育産業が子供たちをドッグレースに駆り立てる社会はなくなりません。

                                                         

                                                         

                                                         

                                                        まず大きな枠組みから考えてみましょう。日本はもはや国民国家ではありません。国民国家とは国民を主権者とする国家体制のことです。主権とは国民の生命、財産、暮らしを守るための独立国家の権利です。それに対して、大企業と政府が一体になった国家運営体制をコーポラティズムといいます。コーポラティズムは、必然的に、国家の枠を超えた富の収奪システムとなります。

                                                         

                                                         

                                                         

                                                        原発や武器を海外に売りさばく人間たちは この収奪システムの先兵なのです。この体制下では政府と癒着した一部の大企業、なかでもその株主と経営者に富が集中して行きます。2018年の国際NGO「オックスファム」の調査によると、最も富裕な1%の人たちが世界の富の82%を所有していると言われています。

                                                         

                                                         

                                                         

                                                        この事態を積極的に支持したり、やむを得ないと考えたりするイデオロギーを新自由主義と言います。新自由主義こそが時間の概念を変えたのです。

                                                         

                                                         

                                                         

                                                        しかし、国民が反発すればこの体制はうまく機能しません。そこでうまく支配するために教育やマスメディアを使って個人や組織などに心理戦を仕掛けるのです。情報を計画的に活用・操作します。

                                                         

                                                         

                                                         

                                                        「佐藤ママ」やコメント主さんは、この心理戦にまんまと引っ掛かっているだけです。いや、今や国民の大部分が心理戦に敗北して、「こうしてはいられない」と自らを叱咤激励しながらドッグレースに参加しています。精神を病む人が多くなり、子供を虐待する親が後を絶たないのも当然です。いったいどうすればいいのでしょうか。

                                                         

                                                         

                                                         

                                                        新自由主義によって植え付けられた直線的な時間概念から部分的であれ解放される必要があります。もともと日本の文化には、「循環する時間」をテーマにしているものが多いのです。能や歌舞伎の曲目に見られるように、ほとんどが「転生」の物語です。「井筒」も「道明寺」も「松風」もしかりです。

                                                         

                                                         

                                                         

                                                        四季の巡りとともにある循環する時間は、悠久の時の流れに身をゆだねていれば、この瞬間がまた巡り来ることを信じさせます。だから私たちは何が起こってもそれを受け入れてきたのです。人間は生まれ変わる、再生するという世界観は人間の魂を根底から癒す力を持っていました。

                                                         

                                                         

                                                         

                                                        しかし、福島の原発事故がすべてを変えてしまいました。天変地異に限らず、何が起こってもそれを受け入れ、じっと耐え忍び、なかったことにする日本人の美点が、逆にこの国を滅びに向かわせることとなったのです。

                                                         

                                                         

                                                         

                                                        多くの国民は現実を直視せず、学校やマスメディアがたれ流す情報をうのみにし、私たちの社会があたかも「生きたいように生きる」ことができる自由な社会であるかのように錯覚します。

                                                         

                                                         

                                                         

                                                        救いは錯覚からは絶対にやってきません。目を開いてよく見れば、私たちの住んでいるところは「ぞぞ〜っとするほどの街(TOWN)」なのに、そこに住む新自由主義の落とし子である住人達は、宇宙に行くことを夢見ているのです。新自由主義がもたらした電脳空間の中で、私たちの脳=意識が地球規模に拡大した結果です。

                                                         

                                                         

                                                         

                                                        さて以下では、これまで述べたことを頭において、コメント主さんの批判に答えてみましょう。

                                                         

                                                         

                                                        >村上春樹氏や宮崎駿氏と「佐藤ママ」を比べる唐突さが理解できません。「佐藤ママ」を批判するためのこじつけではないでしょうか。

                                                         

                                                         

                                                        こじつけではありません。村上春樹氏や宮崎駿氏の作品のテーマは、傷つけられた無意識であり、転生であり再生なのです。それを日本文化の基底部を流れる循環する時間をヒントにして表現したものです。直線的な時間から離脱する人間が増えれば増えるほど、新自由主義的な世界に多くの穴が空き、その世界を維持することが困難になるとわかっている最も洞察力に富んだ同時代の作家なのです。

                                                         

                                                         

                                                        村上氏自身の言葉で語ってもらいましょう。

                                                         

                                                        「僕が今、一番恐ろしいと思うのは特定の主義主張による『精神的な囲い込み』のようなものです。多くの人は枠組みが必要で、それがなくなってしまうと耐えられない。オウム真理教は極端な例だけど、いろんな檻というか囲い込みがあって、そこに入ってしまうと下手すると抜けられなくなる」

                                                         

                                                        「物語というのは、そういう『精神的な囲い込み』に対抗するものでなくてはいけない。目に見えることじゃないから難しいけど、いい物語は人の心を深く広くする。深く広い心というのは狭いところには入りたがらないものなんです」

                                                         

                                                        (毎日新聞インタビュー、2008年5月12日より)

                                                         

                                                         

                                                         

                                                        >あなた様が教える塾の隣に「佐藤ママ」の塾ができたとします。どちらが繁盛するか火を見るよりも明らかではないでしょうか。

                                                         

                                                         

                                                        これは、あなたのおっしゃる通りです。「佐藤ママ」の塾が繁盛するに決まっています。塾商売とはそういうものです。ただこの点についても村上氏に語ってもらいましょう。

                                                         

                                                         

                                                        以下は『1Q84』執筆の動機として地下鉄サリン事件について語ったものです。

                                                         

                                                         

                                                        「ごく普通の、犯罪者性人格でもない人間がいろんな流れのままに重い罪を犯し、気がついたときにはいつ命が奪われるかわからない死刑囚になっていた —— そんな月の裏側に一人残されていたような恐怖」の意味を自分のことのように想像しながら何年も考え続けたことが出発点となった。そして「原理主義やある種の神話性に対抗する物語」を立ち上げていくことが作家の役割で「大事なのは売れる数じゃない。届き方だと思う」と述べています。

                                                         

                                                         

                                                         

                                                        「大事なのは売れる数じゃない。届き方だと思う」を、「大事なのは結果じゃない。プロセスだと思う」と、私は読み換えています。今の社会は、他人が作ったモノサシにばかり頼って「自分の中にあるものをちゃんと眺めてみる」ことを否定しています。

                                                         

                                                         

                                                         

                                                        さてもう終わりにします。「あなた様」のコメントを「読まさせていただき」「失礼かとも思いましたが、私なりの感想を書かさせていただきま」した。最近はやりの、こんな奇妙な日本語を読むのは一度で十分です。疲れるので、これっきりにして下さい。

                                                         

                                                         

                                                         

                                                        | 文学・哲学・思想 | 14:55 | comments(0) | - |
                                                        ちょっと割り込み記事を書きます。
                                                        0

                                                          「佐藤ママにエールを!」のコメント主さんへ反論を書いている途中ですが、ちょっと割り込み記事を書きます。

                                                           

                                                           

                                                          今回からカテゴリーに「小学生の皆さんへ」を追加することにしました。なぜなら、「中高生の皆さんへ」は難しすぎるとクレームが来るからです。そう思って読み返すと、確かにそうかなと思う点もあります。

                                                           

                                                           

                                                           

                                                          とはいえ、私は中高生に批判的知性の持ち主になってもらいたいと思っているので、難しくても読んでほしいですね。受験勉強に特化した環境の中でドッグレースを走らされるだけでは、窮屈で退屈でそのうち頭がおかしくなるのではないかと心配しているのです。

                                                           

                                                           

                                                           

                                                          そもそも、自分で調べ、比較し、関連性を発見するという思考の基礎は、小学校高学年くらいから身につけるべきです。さもなければ、これからの社会を生き抜くことはできません。

                                                           

                                                           

                                                           

                                                          そういうわけで、今回は小学生の皆さんへ質問です。まず、誰かに言われたことをそのまま繰り返すのではなく、自分の頭で考える力をつけるためには何をすればいいのでしょうか。読書は欠くことができません。その方法については書きました。「速読」などにまどわされてはいけません。

                                                           

                                                           

                                                           

                                                          本を正確に読むためには、言葉の意味を知らなければなりません。まずそこからスタートです。そのために皆さんは勉強しているのですね。人と話しているときは、相手の話をよく聞かなければなりません。わからない言葉や言い回しがあれば、恥ずかしがらずにそのつど聞くべきですね。大人になったら恥ずかしくて聞けないことも、小学生の皆さんなら、誰もバカにする人はいません。むしろ好印象を持ってもらえます。

                                                           

                                                           

                                                           

                                                          こうして言葉の意味がわかった後、次は何をすればいいのでしょうか。「自分で使ってみる」。そのとおりです。でもそれだけでは足りません。相手の言っていることを正確に理解するために、全体の流れの中で「抽象化(ちゅうしょうか)」する必要があります。「抽象化」は難しいことばですね。

                                                           

                                                           

                                                           

                                                          簡単に説明しましょう。僕たちの脳は、相手の言うことをそのまま記憶することができません。そのかわりに、それを短くまとめて記憶したり理解したりできるようになっているのです。不思議ですね。

                                                           

                                                           

                                                           

                                                          たとえば、誰かに「そんなにあせって勉強しても、頭が混乱するだけだよ。落ち着いてじっくり取り組んだ方が早くできるよ。ほら、できたじゃない!」と言われたとします。このとき、あなたの頭の中に、「急がば回れ」という言葉が浮かんだとします。それを抽象化(ちゅうしょうか)といいます。これは「国語力」にとどまらない、とても大事な能力です。言語能力と言ってもいいですね。だから、ことわざもたくさん知っておかなければならないのです。

                                                           

                                                           

                                                           

                                                          僕はことわざをまとめて勉強したことはありません。でもこどもだった頃、お年寄りが生活の中でよくことわざを使っていました。それで、腑(ふ)に落ちる(心の底から納得すること)ことがあったのです。

                                                           

                                                           

                                                           

                                                          あれは親に連れられて地区の集まりに出ていたときのことです。何かの当番を誰がするかもめていたのです。そのとき、いっそのこと皆ですればいいと誰かが言いました。それに対して、あるお年寄りが「そげんこつしたら(そんなことしたら)、船頭多くして船山に上る、になってしまうじゃろうが。そげなしちくじいこと(めんどうなこと)せんで、責任者を決めんと!」といったのです。

                                                           

                                                           

                                                           

                                                          「せんどうおおくしてふねやまにのぼる」という言葉のひびきで、僕はその意味を推測しました。家に帰って辞書で調べ、「船頭多くして船山に上る」ということわざを見つけました。「船頭」はリーダーのことで、「船山に上る」は目的が達成されないことを大げさに言っているのだろうと思いました。なるほど、サッカー部の監督がたくさんいて、指導方針がバラバラだと、チームがまとまらないのは当然ですね。

                                                           

                                                           

                                                           

                                                          話は変わりますが、自民党総裁選を前に、安倍首相と石破元幹事長が9月17日に民放テレビ局に出演して“直接対決”しました。安倍首相が加計学園の加計孝太郎理事長とゴルフや会食を重ねていたことについて、司会者が「加計さんは、いずれ利害関係者になる可能性があった。まずかったという気持ちはあるか」と質問しました。

                                                           

                                                           

                                                           

                                                          安倍首相は次のように答えました。

                                                          「星さん(司会者の名前)、ゴルフに偏見を持っておられると思う。いまオリンピックの種目になっている。ゴルフが駄目で、テニスはいいのか、将棋はいいのか」と。

                                                           

                                                           

                                                           

                                                          僕はテレビを見ていて、ひっくり返りました。何かにつかまろうと思ったのですが、つかんだのはお茶の入った湯呑みでした。おかげで、イケメンが茶坊主になってしまいました。

                                                           

                                                           

                                                           

                                                          それはともかく、皆さんは安倍首相の反論を聞いてどう思いましたか。断言しますが、安倍首相はわざと質問をはぐらかしたのではありません。質問の意味がわからなかったのです。一事が万事、彼の国会答弁もすべてこれです。

                                                           

                                                           

                                                           

                                                          そこで司会者は「学生時代の友だちでも、金融庁幹部とメガバンクの頭取はゴルフをしてはいけない」と重ねて指摘しました。石破氏も「自分が権限を持ってる時はしない、少なくとも。あらぬ誤解を招いてはいけない。私もいますよ、そういう友人は。ですが、職務権限を持ってる間は接触しない」と答えました。

                                                           

                                                           

                                                           

                                                          司会者は、首相という絶大な職務権限を持つ身であるならば、知人であっても利害関係者とのゴルフや会食は控える必要があったのではないか、という倫理観や認識をただしたのです。それに対する安倍首相の答えが「ゴルフに偏見を持っておられると思う。いまオリンピックの種目になっている。ゴルフが駄目で、テニスはいいのか」です。

                                                           

                                                           

                                                           

                                                          僕は、「もうかんべんしてよ〜」と叫びました。小学生の皆さんは、国語の授業で先生に言われていると思います。「設問に答える前に、まず設問の意味をしっかり理解しましょうね」と。

                                                           

                                                           

                                                           

                                                          皆さんは「李下に冠を正さず(りかにかんむりをたださず)」ということわざを知っていますか。スモモ(李)の木の下で冠をかぶり直すと、スモモの実を盗んでいるのではないかと疑われるおそれがあるので、誤解を招くような行動はすべきではないという意味です。

                                                           

                                                           

                                                           

                                                          ここまで僕の記事を読んでくれた皆さんは、相手の質問を理解することの大切さを理解したはずです。ことわざも覚えましたね。後は実際に使ってみましょう。

                                                           

                                                           

                                                           

                                                          安倍首相に「司会者は、李下に冠を正さず(りかにかんむりをたださず)ということを言っているのでは?」と質問してください。でも、安倍首相のことです、きっと次のように反論するでしょう。

                                                          「あなたは李(スモモ)に偏見を持っておられると思う。スモモはだめで、梨やリンゴならいいのか」と。

                                                           

                                                           

                                                           

                                                          言い忘れましたが、まともな政治家もいます。小沢一郎氏は次のように言っています。

                                                           

                                                          「総理が討論をやりたがらないのはよくわかる。まず質問を理解できない。理解できなくて悔しくて逆切れする。『大切なことなんで言わせてください』と時間稼ぎをするが、最後は自分でも何を言っているのかわからなくなる。国会答弁も同じ。政治は国民との対話。それができない政治は止めないといけない。」と。見事です。こういう文章を「正鵠を射る(せいこくをいる)」と言います。知らない人は調べて下さいね。

                                                           

                                                           

                                                          | 小学生の皆さんへ | 11:59 | comments(0) | - |
                                                          「素朴な問い」を発する。
                                                          0

                                                            今回は、「佐藤ママにエールを!」さんに反論するつもりでした。しかし、詳しくは次回に譲ります。私は信条として批判やコメントを無視することはしません。なぜなら、他者からの批判を受けとめ、崩落した思考の足場を幾度となく固め直すことによって今の自分があると感じているからです。

                                                             

                                                             

                                                             

                                                            コメント主は、内容と佐藤ママの講演会に行っていることから判断すると、多分女性の方でしょう。彼女のコメントが私のブログを読んだ後で寄せられたものであることを考えると、そもそも彼女に私の言葉が届くはずもなく、徒労に終わるのは目に見えています。それでも、一度は反論するつもりです。それ以降は関わりたくありません。人生は短いし、時間が惜しいからです。この話題は次回また。

                                                             

                                                             

                                                             

                                                            今回は小学生でもわかる「素朴な問い」を発してみます。なぜ「素朴な問い」か?

                                                             

                                                             

                                                            「専門的な問い」に対しては、学者や専門家や官僚による技術的・手続き的・専門的な答えが用意されているからです。専門的な問いに答えるためには、専門的な知識が必要です。その修得のためには人生のかなりの時間を投入しなければなりません。あらゆる仕事はどこかで専門性を帯びているといってもいいくらいです。

                                                             

                                                             

                                                             

                                                            しかし、素朴な問いは批判精神の母胎となるもので、心が正しい位置にありさえすれば誰でも発することができます。いいかげんな専門家のウソを見破ることができます。

                                                             

                                                             

                                                             

                                                            では素朴な問いを発してみます。

                                                             

                                                             

                                                            1:国民に対して常習的にウソをつく人間が総理大臣になってもいいのか?

                                                             

                                                             

                                                             

                                                            9月14日、日本記者クラブでの石破茂氏との討論で「あの男」は次のように発言しました。

                                                             

                                                            「拉致問題を解決できるのは安倍政権だけだと私が言ったことはない。ご家族の方がそういう発言をされたのは承知している」

                                                             

                                                            これは真っ赤なウソです。国会で自分自身がはっきり言明しています。さらに2012年12月28日「救う会」との面会で次のように言っています。

                                                             

                                                            「5年前に突然辞したとき、被害者家族の皆さんに大変残念な思いをさせた。私にとってもつらいことだった。私がもう一度総理になれたのは、なんとか拉致問題を解決したいという使命感によるものだ。5人帰還の時、帰ってこられなかった被害者の家族の皆さんは涙を流していた。それを見て全員取り戻すことが私の使命と決意した。しかし、10年経ってもそれは達成されておらず申し訳ない。再び総理を拝命し、必ず安倍内閣で完全解決の決意で進んでいきたい。この内閣で必ず解決する決意で拉致問題に取り組む。オールジャパンで結果を出していく。」

                                                            http://www.sukuukai.jp/mailnews/item_3295.html

                                                             

                                                             

                                                            それにしても首相になるまで自分の政治キャリア形成の踏み台にした家族会に責任転嫁するとは!3年前に紹介した本ですが、是非お読みください。

                                                             

                                                             

                                                             

                                                             

                                                            TPP「TPP絶対反対などと言った覚えはない。」「TPP断固反対!」と大書された自民党の選挙ポスターを貼っていました。「断固」反対とは言ったが、「絶対」反対とは言っていないとでも言うのでしょうか。

                                                             

                                                             

                                                             

                                                            異次元緩和→「ずっとやっていいとは言っていない。出口戦略は黒田総裁の判断。」

                                                             

                                                            アベノミクス→「トリクルダウンなんて言ったことはない。」選挙カーの上から何度も叫んでいましたよ。

                                                             

                                                            現総理大臣のウソは枚挙にいとまありません。書いていたら朝になります。まさに息を吐くようにウソを言うのです。自民党の皆さん、頭は大丈夫ですか?今でも素朴な正義感をお持ちでしょうか?

                                                             

                                                             

                                                             

                                                            2:国民の生活や命をかえりみない人間が総理大臣になってもいいのか?

                                                             

                                                             

                                                             

                                                            ■原発に溜まり続ける高レベル放射性廃棄物の処理はどこでどうするのか。

                                                             

                                                            ■福島第一原発の汚染水はどうするのか。どさくさにまぎれて海へ流すのか。

                                                             

                                                            ■過酷事故が起こった時の住民避難計画がまともにできている自治体は一か所もないが、住民の命は電力会社の利益のために犠牲にされるのか。

                                                             

                                                            ■北海道地震の震源地の目と鼻の先に、2兆円かけても完成しない六ヶ所村再処理工場がある。大きな活断層が二本走っているとされているが、地震で爆発したら日本どころか北半球に壊滅的な被害をもたらす。この事実を知っているのか。

                                                             

                                                            ■「もんじゅ」の廃炉は方法すらわからない。50年経っても廃炉は不可能。

                                                             

                                                            ■南海トラフ地震が迫っていると広報しながら、それでも現総理大臣は原発を粛々と再稼働させている。地震学者が「南海トラフ地震が起これば、日本は世界の最貧国になる」と警告している。しかも、原発の被害は考慮されていない。正気の沙汰ではない。「あの男」に後三年総理大臣をさせていいのか?

                                                             

                                                             

                                                             

                                                            3:自国の領土を他国にプレゼントする人間が総理大臣になってもいいのか?しかも国民の税金数千億円のおまけつきで。

                                                             

                                                             

                                                            北方四島は返ってきません。平和条約の意味が分かっているのでしょうかね。アメリカとロシアの両方の機嫌を取っているうちに、ロシアに領土を取られてしまって、さぞアメリカ様は怒っていることでしょうね。「お前、アホか!」と。ひょっとすると、オバマとヒラリーとトランプの区別がついていないのではないか?みんなアメリカの大統領ですって?たぶん「あの男」の認識はそんなものです。

                                                             

                                                             

                                                            以上ごく一部ですが「素朴な問い」を発してみました。皆さんの意見をお聞きしたいものです。

                                                             

                                                             

                                                             

                                                            | 中高生の皆さんへ | 23:19 | comments(0) | - |
                                                            「下品」な人間と悪の凡庸さについて。
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                                                              トランプ大統領の下僕で頭がピーマンの「あの男」は、外遊(まさに遊び以外の何ものでもない)することで「外交のオレ様」を国民に印象付けたいのでしょう。しかし、やっていることは税金をばら撒くだけで、中身はスカスカです。

                                                               

                                                               

                                                               

                                                              この6年間、彼が挙げた外交の成果があれば、どなたかぜひ教えてもらいたいものです。今回もプーチン大統領にいいようにあしらわれ、ますます国際的な信用を落としています。国のトップとしての威厳などかけらも持ち合わせていません。石破茂氏との討論から逃げる口実を作っているだけだという指摘もうなずけます。

                                                               

                                                               

                                                               

                                                              北方四島は返ってきません。そりゃそうでしょう。四島を返還すれば、アメリカの軍事基地ができる可能性があるのですから。小学生でもわかる道理です。アメリカの言いなりになっている男と外交交渉などできるわけがありません。バカバカしいのでこの話題はここまで。

                                                               

                                                               

                                                               

                                                              今回のテーマは、「下品」な人間とはどのような人間を指すのかについてです。結論から言うと、自己の利益を最大化するために「合法的」に制度(の抜け穴を)を利用し、他人をそのための手段だと見なして恥じない人間のことを言います。

                                                               

                                                               

                                                               

                                                              典型的には「あの男」とその取り巻きの政治家たちを指しますが、彼らの発する言葉や権力的な「体臭」に引き寄せられて、危機意識も歴史的な方向感覚も喪失した人間たちです。いや元々なかったという方が正確です。彼らに残っているのは、目先の利益を求めて現状を肯定し、投資先を探す嗅覚だけです。

                                                               

                                                               

                                                               

                                                              こう書くといかにも悪智恵が働く人間のように思えますが、実は私たちのまわりにもいくらでもいるのです。ハンナ・アーレントの言う「悪の凡庸さ」ではありませんが、やるべきことを立場上普通にやっているだけだと本人たちは思っています。それどころか自分を善き母親だと信じ込んでいたり、国を憂える評論家だと見なしていたりするので始末が悪いのです。

                                                               

                                                               

                                                               

                                                              彼らの共通点は、単に無知だということです。自分の無知を自覚するだけの知性があれば、次々に金太郎飴のような本を出版したり、人前で講演したりできないはずなのですが、彼らは羞恥心も欠いています。

                                                               

                                                               

                                                               

                                                              その中の一人にホリエモンがいます。一部ですが彼の本のタイトルを見てみましょう。括弧内は私のコメントです。

                                                               

                                                               

                                                              「わが闘争」

                                                              (ヒットラーをプリントしたTシャツを着ているくらいですからね。普通の神経をしていたらこんなタイトルの本は書けません。あなたの好きな作家がこのタイトルの本を書いていたらどうしますか。センセーショナルで無神経なタイトルに惹かれて読むでしょうか)

                                                               

                                                               

                                                              「君はどこへでも行ける」

                                                              (人間は発想力次第だと言いたいのでしょうね。さすがに、宇宙に行きたがっているホリちゃんだけのことはあります。でも過去に行ったり未来に行ったり、あの世に行ったりできるのかな。できるのでしょうね。地獄の沙汰もカネ次第といいますから)

                                                               

                                                               

                                                              「お金はいつも正しい」

                                                              (「お金」と「正しい」を「いつも」という言葉でつなぐ神経というか、言語感覚が理解できません。「オレはいつも正しい」と言う代わりにこのタイトルをつけたのでしょう)

                                                               

                                                               

                                                              「英語の多動力」

                                                              (彼が英語をしゃべっているのをテレビで見ましたが、恥ずかしくなるほどヘタクソでした。今時の中学生の方がはるかにうまいですね。そんな彼が英語本を書けるはずもありません。案の定、英語の勉強方法をかき集めたただけの本です。出版社は彼の名前を利用して儲けようとしているのです。魚心あれば水心、というわけです)

                                                               

                                                               

                                                              「好きなことだけで生きていく」(どうぞお勝手に)

                                                               

                                                               

                                                              「稼ぐが勝ち」

                                                              (彼の思考の必然的な到達点です。コメントしようがありません。お金持ちはこの本を読んでせっせと投資しましょう)

                                                               

                                                               

                                                              さて、彼の思考の必然的な到達点をもう一つ紹介して終わりにします。

                                                               

                                                               

                                                              北海道が地震で停電になったとき、彼はさっそくツイッタ―で叫んでいます。

                                                               

                                                               

                                                              「これはひどい。そして停電がやばい。泊原発再稼働させんと。」

                                                              「原発再稼働してなかったのは痛い」と。

                                                               

                                                               

                                                               

                                                              例によってケイザイヒョーロンカの池田信夫も唱和しています。やれやれ。何かといえば原発を再稼働させようとする人間たちの無知には驚くほかありません。彼らの意見に賛同する人たちもいます。

                                                               

                                                               

                                                              「原発アレルギーのママじゃ直近の命は守れない。ニトログリセリンはダイナマイトの原料だけど、それで助かる病気の人もいる。人間はそうやってリスクをマネージメントしながら進化してきたはずなのに」

                                                               

                                                              「安全地帯にあった泊原発が動いていれば全停電なんて起きなかった」


                                                              「泊原発が動いていれば、北海道全域が停電することはなかったのに。原発再稼働反対を叫んでいたお花畑左翼達のせいで、北海道は孤島になってしまった」


                                                              「北海道の停電は原発再稼働反対派による人災と言ってもいいのでは?」

                                                               

                                                               

                                                               

                                                              どれもこれもダイナマイト級の無知・無思考ですが、コメントはまたにします。そして極めつけは、ウヨウヨ湧いてきたネトウヨの皆さんの「柏原発再稼働せよ!」の大合唱でした。「柏」原発なんてどこにあるのでしょう???柏崎刈羽なら新潟にある世界最大の原子力発電所ですが・・・。北海道の話をしているのですよね。実は彼らは原発の名前も場所も知らない痴呆集団なのです。もっとも、鹿児島の「川内原発」を「かわうち」原発と呼んだ経産大臣もいましたが。

                                                               

                                                               

                                                               

                                                              最後に、ホリエモンやその同調者が決して読まない、読めない本を推薦しておきます。拉致被害者の蓮池薫氏の兄で、元東京電力の技術者であった蓮池透氏が書いた本です。冷静な分析、思考のできる若い人に勧めたいですね。

                                                               

                                                               

                                                               

                                                               

                                                              今思い出しましたが、ホリエモンの本を「正しいこと言っているとしか思えない」とコメントしていた大分市田尻にある学習空間K塾長氏や中春日町にあるY田ゼミ塾長氏には勧めません。Y田ゼミ塾長氏は、安倍さん大好き、モモクロ大好き、原発大好きのレイシストであるばかりか、トランプ大統領に「早くデブジョンウンを殺して下さい」とツイッターで懇願していたくらいですから。 

                                                               

                                                              | 中高生の皆さんへ | 23:49 | comments(0) | - |
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