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まず私たちの生命と暮らしを脅かす事実を知ること。それにたいしてどのような認識を持つのか。この国のみならず、世界を壊滅させる災厄とどう向き合うのか。次世代に対してどう責任を取るのか、そもそも責任を取れるのか。自分に何ができるのか。この現実にどう向き合うのか。それを教えるのが教育のはずだが、この国には教育も哲学も存在しない。
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「最悪」の核施設 六ヶ所再処理工場 (集英社新書)
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小出 裕章,渡辺 満久,明石 昇二郎
原発よりもはるかに危険な六ヶ所村再処理工場。私たちの日々の生活が薄氷の上で営まれていることを痛感させられる。同時に、この国には「国民の生命・財産・自由を守り抜く!」と威勢のいいことを言う総理大臣と無能の政治家しかいないことに絶望する。核燃料サイクルと言い、下北半島の再処理工場と言い、3兆円以上の国民の税金がつぎ込まれ、いまだ後始末も将来の見通しもたっていない現実をどう考えているのか。彼らは核兵器を持ちたいという願望と税金をロンダリングして私腹を肥やすことしか眼中にない。北海道の地震だけに目を奪われてはならない。六ヶ所村は今回の震源地の目と鼻の先にあるのだ。
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幻影(イメジ)の時代―マスコミが製造する事実 (現代社会科学叢書)
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D.J.ブーアスティン
私にとっては古典の中の古典。三度読みました。そしてその慧眼にいまだに驚いています。
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殺人犯はそこにいる (新潮文庫)
殺人犯はそこにいる (新潮文庫) (JUGEMレビュー »)
清水 潔
ジャーナリストと称する職業がある。自称ジャーナリストもいれば、テレビのコメンテーターとしてリベラルに媚びる政権批判をし、名を売り、講演で稼ぐ職業をジャーナリストと呼ぶ者もいる。とんだ茶番である。ジャーナリストとはどこまでも「事実」を追いかける。テレビに出て能天気な解釈や感想を垂れ流している暇などないはずだ。ジャーナリストを志す若い人には清水氏の著作は避けて通れない。その名に値する本物のジャーナリストがここにいる。
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デジタル・ポピュリズム 操作される世論と民主主義 (集英社新書)
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福田 直子
おそらく自民党・安倍政権はSNSを駆使し、分析するデータサイエンス(日本版なのでレベルはまだ低いですが)の重要性に着目し、選挙にどうすれば勝てるか、自分たちに有利な世論を形成し、国民を誘導・分断するにはどうすればいいのかが分かっているのです。そのためのノウハウも蓄積しつつあります。安倍首相の貧困な語彙力からは想像できないカタカナ言葉を聞いていると、それがSNSを分析している集団から教えられたものであることがよくわかります。ただ彼らの致命的な弱点は将来の社会を導く理想がないことです。おそらく、思いもかけない結果が待っていることでしょう。なぜなら、所詮、彼らはアメリカとビッグデータの奴隷でしかないのですから。これからの政治は、好むと好まざるとにかかわらず、この本に書かれていること抜きには語れなくなっているのです。
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 (JUGEMレビュー »)

安倍政権に対するメディアの忖度が云々されていますが、元々同じ穴のムジナなのです。忘れてならないのは、日中戦争から太平洋戦争にかけて、日本の世論と新聞のほぼ全部は好戦的・拡張主義的だったのです。しかも、当時はまだ言論統制体制が発足していなかったのです。この本は、そうした「一貫して好戦的な世論とそれに便乗する新聞」が先導し、近衛文麿はじめ文民政治家がそれに便乗、軍部がさらに便乗、という構図を一次資料で克明に論証しています。安倍政権を支持するネトウヨの皆さんの日本語力では、まともな読解は無理ですので勧めません。一方、正確な歴史を知るためには「世論」の不気味さを知ることだと気づいている若い人には是非一読を勧めます。
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茫漠の曠野 ノモンハン
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松本草平
著者は大分市にある『天心堂へつぎ病院』の院長、松本文六氏の御尊父、松本草平(本名松本弘)氏です。詳しくは、ブログで紹介したいと思いますが、第一次資料として極めて価値の高いものです。40年ぶりに復刻版を出された松本文六氏と出版社に感謝する他ありません。
戦略も何もない、無謀・無慈悲な戦争を語り継ぐことは、最も崇高で重要な人間の営為だと私は考えています。作家の司馬遼太郎氏は、電話で草平氏に次のように伝えてきたそうです。「先生の臨場感のあるノモンハン戦記に出会えて本当にありがとうございました。私は大東亜戦争の折、戦車隊の一員として従軍しましたが、先生の従軍記以上のものを創ることはできません。」と。
一人でも多くの方がこの本を読まれることを望みます。ちなみに松本文六氏は伊方原発差止め訴訟の原告でもあります。その縁で、この本に出会うことができました。
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「南京事件」を調査せよ (文春文庫)
「南京事件」を調査せよ (文春文庫) (JUGEMレビュー »)
清水 潔
全国のネトウヨの皆さんへの推薦図書です。清水氏のこの本を読んでから、「南京事件はなかった!」「南京事件は捏造だ!」と叫びましょうネ。
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日本列島の全原発が危ない! 広瀬隆 白熱授業  DAYS JAPAN(デイズジャパン)2018年1月号増刊号
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広瀬隆
広瀬氏をアジテーターだの、オオカミ少年だの、悲観主義に過ぎると言って批判する人がいる。しかし、ブログで何度も述べてきたように、真の悲観主義こそがマインドコントールによって奴隷根性のしみ込んだ私たちの精神を浄化してくれるのだ。そもそも無知では悲観が生まれようもないではないか。国などいくら破れても結構。せめて山河だけでも次世代に残そうと考える人ならぜひとも読むべき本である。いや、これから幾多の春秋に富む若い人にこそすすめたい。
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チャヴ 弱者を敵視する社会
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オーウェン・ジョーンズ,Owen Jones
【本書への賛辞】

「怒りが生んだ、最高の本」
──ガーディアン紙

最高の論争がみなそうであるように、知性に裏打ちされた怒りが本書を支えている。
──エコノミスト誌

暴動や世界中に広がったオキュパイ運動に照らして考えると、分断社会に関する著者の鋭い分析は、
不気味なほど未来を予知していたことがわかる。
──アートフォーラム誌

情熱と、思いやりと、すぐれた道徳性が結実した仕事だ。
──ニューヨーク・タイムズ紙

政治の定説を見直す大胆な試み。著者は戦後のイギリス史を縦横無尽に往き来し、
階級、文化、アイデンティティといった複雑な問題を軽々とまとめてみせ、
結果として「階級」問題に火をつけ、大きな効果をあげている。
──インディペンデント紙

いまの制度が貧しい人々を見捨てていることに対する苛烈な警告──それが本書だ。
──ブログサイト「デイリー・ビースト」

ジョーンズは、「地の塩」だった労働者階級が政治のせいで「地のクズ」と見なされるようになった経緯を見事に説明している。
──タイムズ紙

この本は、新しいタイプの階級嫌悪と、その裏にあるものを痛烈にあばいて見せてくれる。
──ジョン・ケアリー(The Intellectuals and the Masses著者)

これは「イギリスはおおむね階級のない社会である」という考え方への、論理的で情報満載の大反撃だ。
──オブザーバー紙

情熱的で示唆に富む……この声が届くことを心から願う。
──スコットランド・オン・サンデー紙
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紹介していない本が山のようにあります。数日前にこの本を本棚の奥から引っ張り出し再読しました。いや〜面白かった。。とにかくこの本のことを忘れていた自分が信じられない。読んでない人に熱烈に勧めます。ハイ。
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秋山 敏
高校生にとって、今でも一押しの不朽の名著。でもこの本をことを知っている英語教師は少ないと思います。是非復刊してほしいものです。
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スノーデン 日本への警告 (集英社新書)
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エドワード・スノーデン,青木 理,井桁大介,金昌浩,ベン・ワイズナー,宮下紘,マリコ・ヒロセ
2017年4月18日、朝日新聞がようやく「パノプティプコン」を取り上げました。遅すぎますね。
これから先の日本社会は、ますます荒廃が進み、国民の不満が頂点に達し、やがて爆発します。それを未然に防ぐために、国は国民の監視を強化します。
実際アメリカでは「愛国者法」により、電子メールや携帯の通話履歴が監視の対象になっています。誰が、いつ、どこで、何を読んで、誰と通信を交わしたか、すべて国に筒抜けです。
「パノプティプコン」とはフランスの哲学者フーコーが用いた概念ですが、国民が刑務所の囚人のように監視される体制を言います。監視者の姿は見えませんが、囚人は監視者不在でも、監視を意識することによって管理統制されるのです。これを「パノプティシズム」と言います。
このシステムから解放されるためには、権力がどう管理・統制しようとしているかを知らねばなりません。この本はそれを知るための第一歩です。あなたが無知のまま、奴隷の人生を送りたければ、読む必要はありません。
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A.ミラー
アリスミラーのこの本は、塾を始めるきっかけになりました。ただ生活のためだけなら、他のことをしていたでしょう。『才能ある子のドラマ』とあわせて、当時の私には衝撃的な本でした。人生はどこでどう転ぶかわかりません。人間の奥深さを知ることで、何とか自分を維持していたのです。この本を読むと当時のことが、ありありと思い出されます。ある意味で、私の人生を方向づけた本かもしれません。
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NHK「東海村臨界事故」取材班

2月18日のブログでも書きましたが、仕事のために読むビジネス書の類は、最終的には効率を重視し、最小の資本と労力の投下で、いかにして最大の利益を上げるかということに尽きていると思います。そのための働き方改革であり、そのための賃上げです。そのための人心掌握術であり、顧客対応です。ビジネス書を読めば読むほど、人間は軽薄になり、視野が狭くなっていきます。もしあなたがそれを自覚するきっかけがほしいなら、是非この本を読むことを勧めます。読書はビジネスのためにするのではないということが分かると思います。この本は私たちの日常の風景を一変させるだけのインパクトを持っています。いわば、ことばの最高の意味における「闖入者」なのです。
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服従
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瀬木 比呂志
この本はまだ発売されていません。自分で読んでいない本を推薦するのは邪道でしょう。しかし、これまでの『絶望の裁判所』『ニッポンの裁判』(ともに講談社現代新書)に続く裁判所、司法批判の第3弾が長編の権力小説だということで、過去2冊の本の面白さからして、推薦に値する本だと思いました。『原発ホワイトアウト』の最高裁判所ヴァージョンだと思います。読んでからコメントを追加したいと思います。
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アモン・シェイ
学校なる場所に通っていた時、毎年夏になると課題図書を読んで、読書感想文を書かねばならないのが苦痛でした。課題図書の選定には学校と書店の密約があるに違いないと思っていたくらいです。

偶然巡り合った面白い本の感想を書くのならまだ我慢できたかもしれません。つくづく学校というところは、余計なことをしてくれると思ったものです。

あまりにめんどうくさいので、「あとがき」を参考に、あらすじを書いて提出したら、トリプルAをもらいました。

学校というところは、もしかしたら、人生の退屈に耐える訓練をする場所だったのかもしれません。この本を読んで、改めてそのことを確認しました。別に先生を責めているわけではありません。それほど自覚的に生きるということは難しいのだとため息をついているだけです。
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選挙 [DVD]
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想田和弘監督の観察映画。音楽による演出は一切なく、徹頭徹尾監督の視点で撮られたドキュメンタリー映画。見終わった後、日本の選挙風土の貧困さが浮かび上がる。この国に民主主義はない、ということを改めて確認し、そこから出発するしかない。その勇気を持つ人には必見の映画です。合わせて『選挙2』もどうぞ。
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マックス ヴェーバー
ウェーバーの死の1年前、1919年、学生達に向けた講演の記録です。
一部抜粋します。

「自分が世間に対して捧げようとするものに比べて、現実の世の中が―自分の立場からみて―どんなに愚かであり卑俗であっても、断じてく挫けない人間。どんな事態に直面しても「それにもかかわらず!」と言い切る自信のある人間。そういう人間だけが政治への「天職」を持つ。」(P105〜106)

「さて、ここにおいでの諸君、10年後にもう一度この点について話し合おうではないか。残念ながら私はあれやこれやいろんな理由から、どうも悪い予感がしてならないのだが、10年後には反動の時代がとっくに始まっていて、諸君の多くの人が―正直に言って私もだが―期待していたことのまずほとんどは、まさか全部でもあるまいが、少なくとも外見上たいていのものは、実現されていないだろう。」(P103〜104)

10年後には、ワイマール体制は機能不全に陥り、1933年にはヒトラーが首相に就任します。

平和憲法は、日本人にとって310万人の命と引き換えに手に入れた唯一と言っていい理念であり、アイデンティティーでした。その唯一の誇りを、日本人は損得勘定で葬り去ろうとしています。言い古された言葉ですが、歴史は繰り返すのです。
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中沢 新一
小学校を卒業するころ、将来なりたい職業として思い描いていたのが、天文学者か生物学者でした。プロ野球選手は、自分のセンスでは無理だと悟りました。物ごころついたころから興味があったのは宇宙や昆虫や植物の世界でした。そんなわけで南方熊樟に出会うのは必然的な成り行きだったのです。人間は言葉によって世界を把握しますが、それ以外の把握の仕方があるはずだと、ずっと思ってきました。南方熊樟は、小林秀雄と同じく、直観による世界の把握の仕方を教えてくれました。この本は、言葉によって構成された世界秩序の外に出て、世界を改めて考えたい人に大いなるヒントをあたえてくれます。安倍政権によるゴキブリのフンのような、あまりにばかばかしい政治状況を見せつけられているので、精神の衛生学として一気に読みました。
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こどもの教育から裏金を使ったオリンピック誘致、原発再稼働、戦争準備から武器の売却、安倍政権の裏の権力としてメディアに絶大な影響力を行使する電通。私たちは電通が作り上げた「箱」の中でいいようにマインドコントロールされている。自分の意見だと思っていたものが、実はそう思わされていただけだということに気づかなければならない。音楽をはじめとする芸能情報、その中で踊らされるミュージシャンやタレント、果てはデザイン業界までを席巻する。今や電通の介在しないメディアはないと言ってもいい。利権あるところに電通あり、です。
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前作『日本はなぜ「基地」と「原発」止められないのか』に続く著者渾身の力作。自分の人生を生きたい人にすすめます。ただそれだけです。18歳で選挙権が与えらる高校生が政治を考える際の基本的なテキストになる日がくるといいですね。無理でしょうが。これ以上余計なコメントはしません。まず手に取ってみてください。
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メディアで取り上げられるよりはるか前から日本会議の存在について私は言及していました。電通と同じくタブー視するメディアには心底失望したものです。報道すればタブーはタブーでなくなるのです。何を恐れているのでしょうか。干されれば、何とか生活をする工面をすればよい。それだけのことです。
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磯崎新
帯に「祝祭都市にスタジアムはいらない」とあります。そもそも2020年まで天災と原発事故をやり過ごし、経済危機を乗り越えて存在しているでしょうか。極めて怪しいですね。偶然書店で手に取って読みました。彼の文章を読むと、建築は現世の権力に奉仕するものではなく、想像力の王国を作るものだと思わされます。建築にそれほど興味のない人でも、読めます。いや、いつのまにか引き込まれているでしょう。
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難関中高一貫校で学び、東大に合格しても、それはもはや知性のバロメーターではありません。この本に書かれていることが真実だと見破れることこそが本物の知性です。ニセの知性は既得権益を守るためにはどんな屁理屈でもひねり出します。おまえは何も知らないと言って他人を見下し、金と権力におもねるのです。ニセの知性は理想の灯を掲げることができません。「脳内お花畑」などという幼稚な言葉を使って揶揄するしかないのです。彼らの決まり文句は、他国が攻めてきたらどうするのかという、それこそ「脳内お花畑」的なものです。「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」とは、まさに至言です。
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安倍首相は「この道しかない」と言って消費税を上げ、集団的自衛権の行使を可能にする閣議決定をし、公約とは正反対のTPPを批准することで、日本の文化=アイデンティティーを破壊しようとしています。

もし私たちが生き延びたければ、そのヒントがこの本の中に書かれています。日本は超大国の「夢」を代弁するだけの国になってはなりません。
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山本氏の国会での質問を、本になって改めて読み直して感じることは、文字通り「みんなが聞きたい」質問をしてくれたということです。安倍首相が小学生に「なぜ政治家になったのですか」と質問された時、「父親も祖父も政治家をしていたからです」と答えていました。小学生相手に、何と言う悲しい答えでしょうか。語るべき理想を持たない政治家など、所詮は官僚に利用されるだけです。それに対して、山本氏には語るべき理想がある。「政治なんてそんなものさ」というリアリストが発散する腐臭を吹き飛ばすさわやかさがある。それは、彼の身体には収まりきれない理想が持つ力そのものです。彼は言います。「力を貸してほしい。少なくとも、あなたが必要だと思われる社会、私が必要だと思われる社会を作っていきたい。そう思うんです」と。日本の総理大臣にふさわしいのはどちらでしょうか。
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おそらく、日本人自身よりも海外の知識人のほうが、日本の問題を正確にとらえていると思わせる本です。読み終えて何気なくテレビを見たら、わが大分県選出の国会議員、岩屋毅氏と江藤晟一氏が、2016年ミスユニバース大分県代表を選ぶ催し物に出ていました。名誉顧問だそうです。いかがわしい宗教団体をバックに票を稼ぐだけでは飽き足らず、こんな大会に顔を出して名前を売ろうとする。大分市長の佐藤樹一郎氏も出席していました。このお三方は、こんなことをするために国会議員や市長になったのでしょうか。国民の税金を使ってやることといえば、テレビに出演してにやけた顔をさらすことでしょうか。もう物事の軽重が全く分かっていません。せめてこの本くらい読んではどうでしょうか。私はこの本に書かれていることの大部分に賛成です。
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出版されてすぐ読みました。国会で、読んでもいないのに、安倍首相が躍起になって否定した事実が書かれています。蓮池氏はあちこちから人格攻撃の対象とされてきましたが、自分にも落ち度があったと認めています。自分は総理大臣なのだから落ち度はないと居直る人間とは好対照です。この本を読んで、拉致問題について今一度国民が考えることを望みます。
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渡邉 格
2年半ほど前に求めて、一気に読みました。マルクスの『資本論』の中に書かれていることを、著者が自分なりに消化し実践していく過程が書かれているので、一種のドキュメンタリー文学として読めます。きっと著者と同じ思いの若者は全国にたくさんいると思います。かけがえのない一回きりの人生を、充実して生きたいと思っている人に勇気を与える本です。
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今年度ノーベル文学賞受賞作品。チェルノブイリは言うまでもなく、フクシマでさえ人々は忘れたがっています。もう過去のことだと言い聞かせて。しかし、過去のことではなく、まぎれもない現在進行中の現実であり、私たちが生きている世界そのものです。この本を読んだ後、橋下徹が御堂筋をイルミネーションで照らし出し、F1カーに乗って写真を撮っているところを見ました。その時のセリフ。「大阪はここまでできる!」

もう何と言うか、別世界を生きている人間です。彼の発する言葉は文学とは無縁です。人間が言葉を持ったのは、言葉にしがたいものを言葉にしようとするためです。政治家が発する言葉の軽さと言ったらありません。それだけ現実も軽いものになったということでしょう。
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人間は、条件次第で、喜々として殺人を犯す。そして、その条件を整備しつつあるのが、安倍政権とその背後でうごめく『日本会議』である。このことに気づいていても、「配慮する」ことを最優先して報道しないメディア(特にNHK・読売新聞・産経新聞)。そしてそこに寄生する学者やコメンテーター、芸能人。このドキュメンタリー映画は、彼らの自画像である。たまには、自らの顔をじっくり眺めてみるがよい。
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私が長年考えてきた問題を解明するヒントになりました。ブログで書いたように、まず感情を基にした結論があって、それを正当化するために人は「知性」を動員するという、ごく当たり前のことが書かれている。つまり、知の粉飾決算報告書である。
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中村 好文
中村さんの著作の中では、個人的に最も好きな本です。読んでいるだけで楽しくなります。限りなく優しい、でも、痛烈な文明批評です。これからの生き方のヒントが満載です。それを一人でも多くの人と分かち合いたいと思い、中村好文論・その3の中で引用させていただきました。
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暮らしを旅する
暮らしを旅する (JUGEMレビュー »)
中村 好文
以下は私がアマゾンのレビューに投稿したものです。再録します。
「もし人に幸福な生き方があるとしたら、中村好文さんのような生き方だろうと、ずっと思ってきました。
建築雑誌をパラパラとめくりながら、ふむ、と思って手が止まると、そこには必ずと言っていいほど中村さんの設計した住宅がありました。
文は人なりと言いますが、その人の書く文章のエッセンスがこれほど見事に建築にも表現されている例はめったにありません。
建築に限らず、食の分野でも、ことばと実物の乖離がはなはだしい時代に、中村さんの設計した住宅や美術館に出会うと、どこか安心するのですね。
そういうわけで、著者の本はすべて読ませてもらっています。
この本も偶然、年末に本屋さんで手に入れ、装丁やカバーの手触りを楽しみながら読んでいます。
読みながらいつの間にかほのぼのとしている自分を発見します。
一日に一編か二編を過去の記憶をたどるようにして読んでいます。
この本の平明さ、やさしさがどこから来るのか。そんなことを分析するのは野暮というものです。
とにかくこの素敵な小さな本は、旅のお供にどうぞ!とすすめたくなります。」
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中村 好文,神 幸紀
中村さんの書かれた本はすべて読みました。どの本もおすすめです。これから家を建てようと考えている人は、どの本でもいいですから、一冊中村さんの本を読んでみてはいかがでしょうか。エッセイとしても十分楽しめます。この本は北海道にあるパン屋さんの建物を作りながら、人は「パンのみにて生きるにあらず」を実践したものです。ダジャレ好きの中村さんらしい(笑)。
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中村さんの本を全部は読めないという人向けに、一冊だけ選ぶとすればこれでしょうか。普通、設計したらそれで終わりという建築家が多い中、かってのクライアントを訪問して話を聞き、それを本にしたものです。クライアントといい関係が築けてないと難しいですね。加えて自信がないとなかなかできることではありません。
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「野尻湖畔の小さな家」
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    今回紹介するのは、長野県信濃町にある「野尻湖畔の小さな家」です。

     

    建築面積25,05

    延床面積36,73

     

    1辺が5メートルの方形の家です。

     

     

    2年ほど前、信州を旅行したついでに立ち寄りました。晩秋の野尻湖は風が強く、湖面は波立っていました。観光客はいませんでしたが、数人の女性が車から降り、写真を撮るとすぐに去っていきました。

     

     

     

    ところで、この小さな家というよりも小屋は、人生の終盤に一人で住むにはもってこいの住処だと思います。八島建築設計事務所の設計ですが、この家の設計を手掛けること自体が、並々ならぬ建築への愛情を表していますね。

     

     

     

    人生の終盤にはもってこいの住処だと言いましたが、私の愛読書である『森の生活』の作家、H.D.ソローは27歳の時に森の生活を始めました。「思慮深く生き、人生の本質的な事実にのみ直面し、人生が教えてくれるものを自分が学び取れるかどうか確かめ」るために森に入り、そこで2年2か月を過ごしました。その時の思索をまとめたのが『森の生活』です。

     

     

     

    19世紀に書かれた本ですが、その中でソローは、人々が置かれている状況を分析し、その虚飾をあばいていきます。彼が発する問いは今を生きる私たちにも突きつけられます。部屋がいくつもある家は必要なのか、華美な服装は何のためか、それらを求めることと引き換えに厳しい労働に従事しているのではないか。あなたの欲しているものは本当に必要なのか、それを得るために払っている犠牲を理解しているのか、と。

     

     

     

    私はこの小さな家が現代版『森の生活』をすすめているように思えるのです。春は山菜を取りに山へ入り、渓流で魚を釣る。夏は狩猟生活を送って自分を取り巻く自然界の豊饒さに感嘆する。秋は木の実を探して保存食を作る。冬は暖炉の火を眺めて、万物が変化するさまに時の移ろいを感じる。充実した生活は季節の巡りとともにあり、素朴で単純なものです。

     

     

    「野尻湖畔の小さな家」

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    | 自己救済術としての家作り | 11:40 | comments(0) | - |
    悪霊は「理性」の仮面をかぶって降臨する。
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      世はあげて「Go toトラベル」キャンペーン真っ只中です。「Go toトラベル」は英語でいえば Travel だけで済みます。わざわざカタカナにしているのは和製英語ですよ、文法的に間違っていることはわかっていますよ、と言うためでしょうか。と思っていたら、Go to eat とか言い出したので、あわわわ・・・です。なぜ素直にトラベルキャンペーンと言わないのでしょうか。どうしても Go to と英語の文字を入れたかったのかもしれません。いや、何とかして旅行させようという思いが、命令文となって結晶したのでしょう。おそらくこれも電通の仕業でしょう、なんちゃって。

       

       

       

      そんなバカ丸出しの日本ですが、今から4年前の今日、世間を震撼させる事件が起こりました。ほとんどの人は覚えていると思いますが、忘れている人もいるかもしれないので、過去記事を再録しておきます。

       

       

      ・「思想的確信犯」はいかにして生まれるのか?

      http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=389

       

      ・悪(霊)が降臨する前に。

      http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=561

       

       

      | 文学・哲学・思想 | 23:10 | comments(0) | - |
      本物のバカは自分のバカさ加減を自覚していない。
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        まず、ここでいう本物のバカの具体例を挙げましょう。なぜなら、自公政権はいうまでもなく、維新の会をはじめとしてバカのすそ野があまりに広いので、それをいちいち批判していたら闇夜でカラスを撃つたぐいになってしまうからです。その前に共通する特徴をまとめておきます。

         

         

         

        特徴その1:テレビの司会者になって「持論」を述べる。その持論があまりにハチャメチャなので、「大手のマスコミは絶対言いませんが」というセリフを吐く。少数派を演出して体制側を擁護するためです。

         

         

         

        特徴その2:権力(安倍政権)に対して致命傷となるような批判は決してしない。それどころか、安倍ちゃんは本当は優しいのだ、一生懸命やっているのだ、代わりに誰がいるのだ、というような情緒的な擁護に終始して、決して安倍ちゃんはバカなのだ、無能なのだ、Go to トラブルなのだ、とは言わない。

         

         

         

        特徴その3:ネトウヨ・バカウヨ文化人の特徴は何と言っても日本語読解力がないことです。にもかかわらず、百田尚樹のように、劣悪な出版社の社長(幻冬舎の見城徹)と映画会社の協力を得て、ベストセラー作家になることもできます。かのレイプ魔、元TBSのジャーナリスト山口敬之の『総理』を出版したのも見城徹です。見城徹といい、橋下徹といい、だいたい徹と名のつく人物は胡散臭いのが多い。あわわわ・・・

         

         

         

        特徴その4:何でもかんでも自己責任だと叫び、社会保障どころかそもそも公共という概念を理解できない。生活保護受給者をバッシングするのが趣味で、税金の無駄使いだとヒステリックにわめきちらす。その典型は維新の会から参議院選挙に立候補して落選した元アナウンサーの長谷川豊である。「透析患者は死ね」といった男です。証拠の動画も残っているのに「言ってない!」と抗弁するバカです。

         

         

         

        今回はバカの代表として辛坊治郎と長谷川豊を取り上げます。辛坊治郎は元読売テレビアナウンサーで、報道部チーフプロデューサー、報道局情報番組部長、報道局局長待遇解説委員長などを歴任し独立。 日本のニュースキャスター、シンク(辛苦)タンク経営者。株式会社大阪綜合研究所代表。という「華々しい」経歴の持ち主です。要するに、二人ともテレビで顔を売る電波芸者です。

         

         

         

        ならば、原発と読売新聞社の生みの親、正力松太郎が内務官僚時代に何をしたのか、児玉誉士夫(こだま よしお)や笹川良一(ささかわ りょういち)とはどのような関係だったのか、すべてご存じでしょう。辛坊治郎の「思想」は正力松太郎の廉価版のコピーのコピーです。

         

         

         

        その彼が、今回のコロナ禍の最中に、新宿の「ホストたちが10万円もらうためにコロナを感染しあっている」という幼稚なデマをテレビで拡散しました。いつものことです。

         

        https://lite-ra.com/2020/07/post-5517.html

         

         

         

        もう一人は、同じく元アナウンサーの長谷川豊です。彼はネトウヨの典型で、そもそも社会保障制度が全く分かっていません。「透析患者は死ね」という発言をきっかけにレギュラー番組の仕事を失ったそうですが、それでも彼はまだ自分は正しいと信じています。維新の会から参議院選挙に立候補したのもそれを物語っています。

         

         

         

        彼の社会保障制度に関する主張は以下のようなものです。中学生の皆さんはこんな乱暴な主張をしないように気をつけましょうね。

         

         

        ・世の中には「良い」高齢者と「悪い」高齢者、「良い」透析患者と「悪い」透析患者がいる。

         

        ・前者が受けるべき社会保障が、後者がいるために十分受けられない。

         

        ・高齢者および透析患者のうち誰が「悪い」のかは、民間に任せれば自動的に振り分けられる。

         

        ・だから社会保障の運用を民営化することで、「悪い」高齢者および透析患者の社会保障を自動的に削減し、国の借金を減らすことができる。

         

         

         

        かくのごとく思考回路が単純なネトウヨの議論は、誰でも真似することができます。「高齢者」や「透析患者」を「生活保護受給者」や「社会的弱者」に置き換えさえすれば出来上がりです。それゆえ彼らの主張は「ウソも100回言えば本当になる」を地で行っているのです。

         

         

         

        しかし、そもそも、高齢者や透析患者や生活保護受給者の「良い」「悪い」を、いったい誰がどうやって決めればいいのでしょうか。

         

         

         

        ネトウヨの答えは次のようなものです。

         

         

        1:そんなことは常識的に考えればわかる。

         

        2:市場原理に任せれば自然に最適化される。

         

        3:1と2を合わせて判断すればよい。

         

         

         

        1の「常識」とは誰の「常識」なのでしょう。それは「オレ様の常識」に決まってるだろう、というのでしょうね、ネトウヨ界隈にはウヨウヨいそうです。これでは社会的な合意が得られません。

         

         

         

        2の民営化して市場原理に任せれば、社会保障は自然に最適化されるという考えは、竹中平蔵センセイが利益相反などものともせずに広めました。これを「神の汚れた見えざる手」といいます。

         

         

         

        ここで素朴な疑問です。そもそも市場原理に任せれば本当に必要な人に給付され、不要な人には給付されないのでしょうか。イエスというのは竹中センセイレベルの経済学者でしょう。答えはもちろんノーです。こんなことは中学生でもわかることです。

         

         

         

        なぜなら、そもそも社会保障の考え方の基本は、市場原理にすべてを任せると本当に保障を必要とする人に給付が行き届かなくなり、経済格差が固定化され、世代が下るにつれて格差が拡大してしまうという判断を根拠にしているからです。国が市場原理を部分的に制限し、誰に受給資格があり、誰に受給資格がないかを法律で定めて、税金を再配分するのが社会保障なのです。

         

         

         

        したがって、格差の拡大はやむを得ないと考える人(都知事選で小池百合子氏に投票した人です。すくなくとも400万人近くいます。彼らはコロナより株価と子供の教育を心配する人たちです)は、社会保障の考え方を否定する傾向にあります。これこそが、自己責任論が猖獗を極めるようになった原因です。

         

         

         

        しかし、社会保障を批判する人たちは肝心なことがわかっていません。国が法律で決める給付基準は、どのように決めても、かならず欠陥があります。かならず誰かがその基準の裏をかいて「不正受給」するのです。絶対に誰も「不正受給」できない制度など、原理上、設計不可能なのです。

         

         

         

        なぜなら、国民一人ひとりの生活は、一つとして同じものがないからです。それを審査しようとすればするほど、生活実態が細かく異なっているために膨大な時間と費用がかかります。その審査だけで社会保障を給付する以上の費用がかかってしまいます。国民一人一人にマスクを配ることすらままならず、いまだに10万円の給付を受けていない人もかなりの数に上るという現実を知るべきです。

         

         

         

        したがって、受給者の生活実態をいくつかのパターンに分類して法律を作り、そのパターンに当てはまれば自動的に給付します、という制度にするしかないのです。その結果、受給資格を得るために自分の生活実態を偽る「不正受給」者が出てきます。

         

         

         

        しかし、この種の「不正受給」は、どんなに精緻な社会保障制度を作っても、原理上逃れられないコストです。スーパーでもデパートでも、万引きによる損失を最初から計算に入れているのと同じです。社会保障制度もこのことを最初から見越しています。

         

         

         

        「不正受給」を見越した上で、あえて割り切った制度運用をする。それによって「不正受給」という費用と、制度運用にかかる費用の間の最適解を見つけて運用するしかないのです。

         

         

         

        制度に必然的に付きまとう「欠陥」を針小棒大に騒ぎたてているのが、ネトウヨの皆さんです。小金をためた医者の中にもこの種の人が散見されるのは残念なことです。

         

         

         

        もうおわかりでしょうが、「不正受給」を完全に無くそうとすれば、そもそも社会保障制度を完全に無くすか、給付前の審査に無限の費用をかけるか、そのどちらかしかありません。

         

         

         

        したがって、「良い」「悪い」の判別を完全に市場原理に任せるべきだという理論を押し通せば、社会保障制度を完全に撤廃するしかなくなります。これくらいのことは、ネトウヨの皆さんでもわかりますよね。

         

         

         

        社会保障制度の運用にあたっては、神のような全知全能の制度設計の天才の出現を期待することなどできません。すべての先進国が、市場に任せる部分と、国がコントロールする部分のバランスをとるために、さまざまな社会制度を設計しつつ試行錯誤してきました。

         

         

         

        社会保障制度は、約200年に及ぶ試行錯誤を経て、欠点だらけであるものの、民主主義の意思決定プロセスにしたがって今の姿にたどりついたというわけです。

         

         

         

        橋下徹や辛坊治郎をはじめとする維新の会のメンバーは、霞が関の官僚を平然とバカよばわりしていますが、バカなのはどちらでしょう。彼らの政策的なブレーンであるタケノコ先生、じゃなかった竹中センセイも単なる口達者な自然淘汰論者に過ぎません。こういう人間に限って、セーフティーネットの必要性を声高に主張するのです。

         

         

         

        今回も長くなりました。もう終わりにします。最後まで読んで下さった奇特な方にお礼を申し上げます。ありがとうございました。

         

         

         

        | 中高生の皆さんへ | 17:16 | comments(0) | - |
        「笑い」と人生
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          20代の頃に読んだベルクソンの『笑い』(岩波文庫版)は、どれだけ正確に読めていたのか怪しいものですが、芸術論の白眉だと思いました。今は増田靖彦氏の新訳でより分かりやすくなっています。

           

           

           

          ベルクソンは、「笑い」とは「しなやか」であるはずの生の表面を覆う「自動的」なものや「機械的」なものへのリアクションであるといいます。習慣、惰性、形式、類型、常識、等はいずれも自由な精神の働きを妨げ、それがもたらす「ちぐはぐ」な感じが「笑い」を生むと考えました。それは生のこわばりを解きほぐし反省する契機になるものだというのです。

           

           

           

          日本の「お笑い」は吉本の芸人に占拠されています。暴力団がらみで芸能界を引退した島田紳助の後を受け、今は松本人志が「お笑い」の世界を牛耳っています。お笑いの世界で生きていくには彼に「上納金」を収め、認めてもらわなければなりません。もちろん批判や反抗は許されません。

           

           

           

          つまり、もっぱらテレビを中心とした、恐ろしく狭い歪んだ世界なのです。その彼が安倍晋三というおバカな権力者をバックに、「お笑い」の世界の権力者として君臨しているというわけです。昨年、吉本興業とNTTが共同で行う映像配信などの教育事業に政府が100億円を投資することを決めたことと無関係ではありません。

           

           

          かくして、日本の「お笑い」は、ベルクソンの言う、習慣、惰性、形式、類型、反復、ひとりよがりの世界に堕しました。一言でいうなら、この国の政治も文化も報道ジャーナリズムも「お笑い」も、これ以上ないところまで腐敗堕落を極めているということです。

           

           

           

          気分が悪くなったので、一つだけ動画をアップしておきます。松本人志の芸では笑ったことのない私が、清水ミチコの芸には笑ってしまいました。小池百合子という政治家の硬直、惰性、形式、類型、反復、を見事に表現しています。これぞ「お笑い」です。

           

           

           

           

          | 文学・哲学・思想 | 21:01 | comments(0) | - |
          知性と怒りによって。
          0

             

            国家が危機に瀕しているときに最も必要なものは知性と怒りです。ここでいう怒りとは公憤(indignation)のことです。コウビルド英英辞典によるとindignationは次のように定義されています。: is the feeling of shock and anger which you have when you think that other people have done something unjust or unfair, and that you have the right to be angry.

             

             

             

            この二つは、わが国の政権の中枢からだけではなく、本来なら最も必要とされる報道ジャーナリズムの世界からもウソのように消えてなくなりました。後者は経済的に統治機構の一部であり、統治機構の価値観と行動規準を内面化しています。

             

             

             

            総理や官房長官の記者会見では、あらかじめ政権側に質問が提出され、「検閲」を通った質問だけが許されます。それに対して用意された答えを官房長官が読み、総理はプロンプターに写し出された文字を読み上げるだけという茶番劇が白昼堂々と行われています。

             

             

             

            記者たちは批判もせず、ただパソコンのキーボードをカチャカチャたたいているだけです。「皆様の」NHKは国民から強制的に徴収・収奪した受信料で運営されているにもかかわらず、大本営発表を垂れ流すだけです。これほどの悲喜劇があるでしょうか。記者は高給と引き換えに出来レースを走る番犬になっていることを自覚していません。

             

             

             

            知性の萌芽は、私立・公立を問わず、日本の学校教育を通過する間に摘み取られ、いや、最初から目標にすらされず、優しくて品行方正な子供たちを大量生産する間に、怒りは去勢されてしまったのです。

             

             

             

            以下の動画をご覧ください。あなたの中に怒りの感情(indignation)があるかどうかを確認できます。心の中で静かな怒りの炎を燃やし続けることで私たちは独自の存在、すなわち人格を獲得できるのです。そうであってほしいものです。

             

             

             

            | 政治 | 12:47 | comments(0) | - |
            命の選別と「トロッコ問題」について。
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              大西つねき氏はれいわ新選組を除名されました。このことに異議はありません。処分に時間がかかったことも納得できます。

               

               

               

              私は前回のブログで彼のことを良きリバタリアン(オバタリアンではありません)だと言いました。彼の謝罪の言葉を信じたからです。しかし彼はそれを取り消し、自分の考えは間違っていないと主張したそうです。

               

               

               

              彼は確信犯的な悪しきリバタリアンだったのです。日本維新の会と同じです。現実主義を標榜し、「決められる政治」「結果を重視する政治」を叫ぶ政治集団と本質的に同じだったというわけです。それにエリート主義が加わります。

               

               

               

              「命の選別をするのが政治だ」という考えは、歴史的に見ると、戦争の下準備をし、遂行するときに使われるプロパガンダそのものです。国家権力が命の選別をした無残な結果の象徴がインパール作戦だったのです。大西氏はこの程度の認識もなかったのでしょうか。

               

               

               

              そもそも「命の選別をするのが政治だ」という考えはどこからでてくるのでしょうか。それを考えるときに引き合いに出されるのがいわゆる「トロッコ問題」です。

               

               

               

              「ハーバード白熱教室」のマイケル・サンデル教授が日本で紹介したので、一時有名になりました。2010年にNHKが東大での授業を番組にしたのですが、テレビで彼の「哲学」の授業を見て、なぜこの人物がハーバード大学で最も人気のある教授なのか理解できませんでした。彼の授業は「哲学」どころか、思考停止を強制する単なるパフォーマンスのレベルを出ないものだったからです。以下、具体的に論じます。

               

               

               

              サンデル教授は次のように言います。(『ハーバード白熱教室講義録+東大特別授業(上)ハヤカワ文庫』(P17〜18)より。

               

               

              ― この講義は「正義」について考える。まずこの話から始めよう。君は路面電車の運転手で、時速100キロの猛スピードで走っている。君は、行く手に5人の労働者がいることに気づいて電車を止めようとするが、ブレーキが利かない。君は絶望する。そのまま進んで5人の労働者に突っ込めば、5人とも死んでしまうからだ。ここでは、それは確実なことだと仮定しよう。君は「何もできない」と諦めかける。が、そのとき、脇に逸れる線路=待避線があることに気づく。しかしそこにも働いている人が1人いる。ブレーキは利かないがハンドルは利くので、ハンドルを切って脇の線路に入れば、1人は殺してしまうけれども、5人は助けることができる。

              ここで最初の質問だ。正しい行いはどちらか。君ならどうする?多数決を取ってみよう。ハンドルを切って避けるという人は?手を挙げて。では、曲がらずに直進するという人? ― 以上。

               

               

               

              これがいわゆる「トロッコ問題」と呼ばれるものです。要は「5人を救うために1人を犠牲にすることは許されるのか?」という問題です。

               

               

              大西氏はこの問いに対して、「5人を救うために1人を犠牲にする」選択をするのが政治の役目だと考えています。5人の若者を救うために1人の老人・障碍者を犠牲にすることはやむを得ないというのです。(7月17日の動画では障碍者などと一言も言ってないと発言していますが、彼の発想では5人の健常者と1人の障碍者を選択するときも同じ結論になるはずです。)

               

               

               

              これこそがエリート主義です。思考の幅がせますぎます。こういった問題に政治が口出ししてはなりません。災害時や感染症のパンデミックが広がっているときに、トリアージ(病状の重さによって患者を選別すること)の責任を負うのは現場の医師や医療関係者のはずです。政治家が顔を出す場面ではありません。ましてや国家権力(政治)が命の選別をあらかじめ法で決めておくべきだと考えるのはファシズムそのものです。

               

               

               

              「トロッコ問題」に戻ります。サンデル教授がこの問題を出したとき、東大生の皆さんは次のような疑問を持たなかったのでしょうか。

               

               

              ・路面電車がなぜ時速100キロの猛スピードで走るのか。乗客の命を危険にさらすのは「正義」に反するのではないか。

               

              ・運転手は時速100キロになるまでなぜ電車を止めようとはしなかったのか。病気だったのか。

               

              ・なぜ警笛を鳴らして労働者たちを避難させないのか。

               

              ・ハンドルを大きく切って電車を脱線させることはできないのか。

               

              ・乗客の存在は考えなくてもいいのか。

               

              ・以上の疑問や可能性について考えることをすべて封じて、果たして「哲学」の授業といえるのか。

               

               

               

              サンデル教授は「正しい行いはどちらか。」という二者択一を強制し、即座に挙手させているのです。ほかのさまざまな可能性を想像する自由を学生に与えません。与えたら授業にならないではないか、サンデル教授は思考実験を通して概念を教えているだけだ、空気読めよというのでしょうか。

               

               

               

              そのとき私が感じたのは、ハーバード大学で最も人気のある教授だということが、実は東大生の疑問を封じる大きな働きをしているのではないかということでした。彼らは権威に弱いのです。

               

               

               

              それはともかく、自分が設定した二者択一の中でのみ学生に考えさせる授業が「哲学」の名に値するでしょうか。サンデル教授は職業人として既成の概念を教えているだけで自らは哲学していないのです。

               

               

               

              そういった授業を受けた学生は、概念をひねくり回すのが得意な単なる物知りになるだけで、自分の頭で考えることを学びません。自分の頭で考えるためには、サンデル教授が設けた条件の枠組みを疑う必要があります。学生に事例を分析・批判する自由と時間を保障しなければならないのです。

               

               

               

              私は以前、論理的思考とはできるだけ多くの具体的事実の上に築かれるものだと述べました。

               

               

              開成中学・高等学校長 − 柳沢幸雄氏を批判する。

              http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=614

               

               

              考えるためには、事実をこと細かく知ろうと努めなければなりません。それをせずに、抽象的で大雑把な概念を使って本質を考えているつもりになっていることを、本質主義といいます。

               

               

               

              「トロッコ問題」で「正しい行いはどちらか。」といくら判断を迫られても、状況が不明では判断するのは不可能です。サンデル教授の授業について行くのに必要なのは、氏が何を意図し、何を学生に期待しているかを察知することです。簡単に言えば忖度するということです。受験勉強を通じて出題者の意図を読むことに長けている東大生には、素晴らしい授業だと映るのでしょうね。問題の枠組みそのものを疑ったり、具体的事実を掘り起こし検証することではありません。

               

               

               

               

              話を元に戻します。大西氏もこの思考の落とし穴にはまっているのです。エリート主義と批判したのは、「命の選別」を抽象的に語るだけで、具体的な事実を知ろうとしていないからです。していれば、「命の選別をするのが政治だ」という言葉は出てこないはずです。

               

               

               

              長くなりました。次回は今回述べたことを前提に、日本社会にはびこる優性思想とその担い手である日本維新の会やネトウヨの皆さんの無知と無思考を批判することにします。

               

               

               

              ちなみに山本太郎氏は「自分の中にも優性思想がある」と述べています。政治家でこのことを自覚しているのは素晴らしい。今の社会で現実に苦しんでいる人を多く見てきたからこそ、この言葉が出るのだと思います。

               

               

              | 文学・哲学・思想 | 15:25 | comments(2) | - |
              権力者に命の選別をさせてはならない。
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                2013年のフランス映画『母の身終い(みじまい)』を観たのは、母が死んでから5年後のことでした。自分の人生の終わりを、自分の意志で選択することをテーマにした映画で、7年がたった今でも余韻が尾を引いています。Amazon Prime Videoで観ることができます。

                 

                 

                 

                 

                私の人生は後悔の連続でしたが、とりわけ母の死には後悔ばかりが残っています。母が私に注いでくれた愛情の十分の一も母に返していないと思います。愛情の量を言っているのではありません。日々の具体的で細やかな接し方の総量を言っているのです。

                 

                 

                 

                あの時なぜもっと優しい言葉をかけてやれなかったのか、伴侶をなくして22年間どんなに寂しい思いで夜をやり過ごし、むなしい朝を迎えたことか、その気持ちに寄り添った行動をとれなかった自分の無神経さを悔やむばかりです。

                 

                 

                本題に入ります。れいわ新選組から昨夏の参院選(比例)に立候補した、大西恒樹氏(56)の発言が物議をかもしています。7月3日の動画投稿サイト上で「どこまで高齢者を長生きさせるのか。命、選別しないと駄目だと思う」「高齢者を長生きさせなくてはいけないという政策をとっていると若者たちの時間の使い方の問題になる」と主張。少子高齢化問題に触れるなかで、「命、選別しないと駄目だと思う。その選択が政治。選択するんであればもちろん高齢の方から逝ってもらうしかない」などと述べたのです。

                 

                 

                 

                大西氏は7月7日、自らの発言について謝罪と撤回をしました。以下はその全文です。

                 

                 

                — 私は7月3日の自身の動画チャンネルにおいて、「命の選別が政治家の仕事」という政治家としてはあるまじき発言をしました。この考えそのものが、従来の障がい者や社会で苦しんでいる人々へのケアを不十分なものにする元凶であり、「命の選別をやめよう」というれいわ新選組の結党の精神とは真逆の主張であったと、自分の発言の愚かさを深く痛感しております。今回の発言で命の選別に正面から取り組まれている舩後議員、木村議員ならびに多くの当事者の方々はもとより、全ての人々に深く謝罪すると共に発言を撤回いたします。

                代表からは、「命の選別」の問題に真正面から取り組んでおられる当事者の方々の声をしっかりと聞くべきとの指摘を受けました。自分の考えの浅はかさをより自覚し、新しい自分に生まれ変われるように努力したいと思います。

                ※なお、当該動画については、発言撤回と共に公開停止にいたしました。― 以上

                 

                 

                 

                この件について山本太郎代表がどのような対応をとるか、現在の時点(7月12日)では明らかになっていません。しかし、この間の対応の遅さこそが、私が山本太郎氏を信頼する大きな理由の一つです。

                 

                 

                 

                れいわ新選組の対応の遅さや組織としての未熟さを論難するジャーナリストや、今がチャンスとばかりに山本太郎たたきに血道をあげる人々がいますが、大西氏はいまだ国会議員でもなく、れいわ新選組に所属する一民間人に過ぎません。今回の不用意な発言によって除籍処分にされるかもしれませんが、彼を見捨ててはならないと思います。

                 

                 

                 

                なぜか。金融経済についての彼の知見はこれからの日本に必要だということもありますが、それよりも彼の謝罪の言葉に彼の人間性が見て取れるからです。

                 

                 

                 

                56歳になった人間が「政治家としてはあるまじき発言をし」たと認め、自分の発言が「障がい者や社会で苦しんでいる人々へのケアを不十分なものにする元凶であ」ると自己批判し、「れいわ新選組の結党の精神とは真逆の主張であったと、自分の発言の愚かさを深く痛感しております。」と述べているのです。そして最後の「自分の考えの浅はかさをより自覚し、新しい自分に生まれ変われるように努力したいと思います。」という真率な決意表明は、社会的な地位や周囲の評価を気にして人格が空洞化した人間には決して吐けない言葉です。

                 

                 

                 

                自民党の国会議員が失言という名の本音を吐露した時に決まって言うセリフ「誤解を与えたとしたら、言葉足らずだったと思う」に比べれば、大西氏の謝罪は心のこもったものではないでしょうか。

                 

                 

                 

                今回の失言は、大西氏ほどの賢明な人でも、心にスキができると、自分はタブーを気にせず真実を話す勇気と大胆さを持っているとアピールしたくなる心情に発するものです。心のスキとは、金融経済に関する自分の認識が、少数派でも少しずつ理解を得られていることに対するプライドというか充実感を指します。

                 

                 

                 

                大西氏の動画には、「自由」と「若者」という言葉が頻繁に登場します。若者に、自立した自由な個人として自己決定ができるようになってほしいと願っていることがわかります。

                 

                 

                 

                大西氏は良きリバタリアンなのです。リバタリアンは経済的自由も含めて、何よりも自由に価値を置きます。しかし、他者に依存することなく自由に生きていける強い人間というイメージには、エリート主義が潜んでいることが多いのです。今回の発言は、他者意識(動画を観た視聴者がどう思うかということ)が希薄になったスキを狙ってエリート主義が頭をもたげたということです。

                 

                 

                 

                大西氏は政治家にしては珍しく自分の言葉を持っている人です。だから山本太郎氏に共感できるのです。前回のブログでも書きましたが、政治の言葉の本質は、つまるところ「わたしは正しい、やつは間違っている。やつは敵だ。殺せ!」に極まります。「戦争」は「政治」がとる最後の形態です。つまり「戦争」は言葉の中にその根拠を持っているのです。

                 

                 

                 

                私が山本代表の立場なら、国家権力が命を選別できないシステムを作ります。命はギリギリのところで個人の尊厳において個人が選択できるものであることを法に明記します。そして、戦争に通じる政治の言葉を人間的想像力の世界つまり文学と哲学の言葉に変えていくためのきっかけとして今回の件を位置づけます。

                 

                 

                 

                教条主義的な左翼がやってきたような、問答無用の処分をする必要はありません。甘いという批判には、山本代表が言葉を尽くして反論すればよいのです。パワーゲームとしての政治はもはや終焉させなければなりません。

                 

                 

                | 文学・哲学・思想 | 22:39 | comments(2) | - |
                unknownさんへ。
                0

                  コメントありがとうございます。私を「能天気」だと見抜いたあなたの眼力はなかなかのものです。能天気は生まれつきで、今も時々その本性が現れます。

                   

                   

                   

                  能天気な人間の小中学生時代を紹介しましょう。小学生の頃は呆けたように遊びまわり、いろいろと悪さをしていました。中学生のころは加山雄三にあこがれ、映画の若大将シリーズを観るために友達とせっせと映画館に通ったものです。コンサートにも行きました。そういうわけで彼のレコードは全部持っていました。

                   

                   

                   

                  好きな女の子の関心を引くためにLPレコードを貸したこともありました。お返しにモンキーズのシングルレコードを貸してもらったときはうれしかったですね。要するに影響を受けやすい世間知らずの坊ちゃんだったということです。

                   

                   

                   

                  最近は、寝る前に加山雄三の動画を観て当時を思い出し、小声で歌っています。その健康すぎる歌詞とメロディーに照れながら、ああ、なんて素朴で純情な時代だったのだろうと思います。CDもDVDもなく、ダウンロードという言葉さえなかった時代です。生活必需品としてスマホを手にする時代が来るなどと、いったい誰が想像できたでしょうか。

                   

                   

                   

                  素朴で純情と言えば、韓国映画『愛の不時着』もこちらが恥ずかしくなるくらいクサいセリフが多いのですが、それでも引き込まれ、気がつくと涙が頬を伝っています。現代版ロミオとジュリエット(『愛の不時着』と同じくコメディーです)だと言ってもいいかもしれません。恋愛映画としてはお決まりのストーリーですが、南北朝鮮が統一されることを願う「能天気」な夢がこの映画の中心テーマなのかもしれません。

                   

                   

                   

                  ところで、あなたの言う「革命」が何を意味するのか分かりませんが、私は、すべての人がこの国に生きていてよかったと思えるような国にすることが「革命」だと考えています。単純すぎますか?

                   

                   

                   

                  そして革命は一度で終わらせてはなりません。なぜなら革命によって誕生した権力が国民を抑圧するようになれば、さらなる革命が必要になるからです。暴力によらず、教育と投票箱によって永久に革命を続けること、そしてそれを当たり前だと考える国民が多数派になることが理想です。

                   

                   

                   

                  振り返ると、プラトンの『国家』にはじまり、マルクスの著作を経て、レーニンの『哲学ノート』を読み、ヒットラーの『我が闘争』をはさんでフランクルの『夜と霧』の前で立ち止まり、ドストエフスキーの『悪霊』に至る道のりは決して平たんとは言えませんでしたが、常に「革命」について考えていたことは確かです。

                   

                   

                   

                  私は「革命」を政治の枠組みでとらえることにあまり興味がありません。むしろ文学としてとらえています。政治的な党派に所属すれば、自分の信じていない言葉で誰かを政治に誘い込むことになります。その責任はだれがとるのでしょうか。

                   

                   

                   

                  もちろん政治も文学も、自然科学とは異なり、言葉で成り立つものである以上、何かを正確に表現することはできません。しかし、私は自分のふるまいや言葉が自分の感受性を根拠にしているのなら、個人として責任を取ることができるのではないかと思っています。これが政治ではなく文学によって世界を解釈することを選んだ理由です。ではその感受性を制約しているものは何か。それこそが日本語という言葉なのです。

                   

                   

                   

                  なんだか難しい話になってきました。話を変えます。世の中が動乱と言われる事態に立ち至った時には、必ず魅力的な人物が登場します。『ペスト』のカミュもその一人です。そしてチェ・ゲバラです。すでにブログでも取り上げていますが、あなたにもう一度彼の言葉を紹介しておきます。

                   

                   

                   

                  「もし私たちが空想家のようだといわれるならば、救いがたい理想主義者だといわれるならば、できもしないことを考えているといわれるならば、何千回でも答えよう、『その通りだ』と」

                   

                   

                   「世界のどこかで、誰かが蒙っている不正を、心の底から深く悲しむことのできる人間になりなさい。それこそが革命家としての、一番美しい資質なのだから」

                   

                  これはボリビアに立つ前、自分の死を予感して5人の子供達に遺した手紙の一部です。

                   

                   

                  「最も重要なことは権力を握ることではなく、握った後に何をするかを明らかにすることだ」

                   

                   

                  「バカらしいと思うかもしれないが、真の革命家は偉大なる愛によって導かれる。人間への愛、正義への愛、真実への愛。愛の無い真の革命家を想像することは不可能だ」

                   

                   

                   

                  コメント欄では書ききれなかったので、ブログで返事をしました。なお、大西つねき氏の件については、重要な論点が含まれているので、後日にしたいと思います。

                   

                   

                  | 文学・哲学・思想 | 15:01 | comments(0) | - |
                  Power to the people
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                    今回の都知事選をネットで観ていてつくづく感じたことがあります。真実の声はいつも極端に聞こえるということです。素朴な疑問や思いをぶつけるだけでも、もはや、その声が通らなくなりつつあります。

                     

                     

                     

                    それでも、今回山本太郎の応援に駆け付けた湯川れい子さんの言葉を私は忘れません。彼女は84歳です。まぎれもなく自分の言葉で語ることのできる人です。そして、思い出したことがあります。2016年の参院選挙の時の三宅洋平氏のスピーチです。彼のことを選挙パフォーマーだとして貶めていた人もいますが、彼のスピーチはこれまでの政治家が決して吐けなかった言葉で満ちています。その生き方、風貌も含めて一種の知的エンターテイメントになっています。

                     

                     

                     

                    論より証拠です。ジョン・レノンの Power to the people の後にアップしておきます。高校生の皆さんに観てもらいたいですね。その結果、自分の中に何も生まれない人は、60歳を過ぎた私よりも精神が老化していると思います。

                     

                     

                     

                     

                     

                    Power to the people
                    Power to the people
                    Power to the people
                    Power to the people, right on


                    権力を人々の手に返せ。

                    権力を人々の手に返せ。
                    権力を人々の手に返せ。

                    異議なし。

                    Say we want a revolution
                    We better get on right away
                    Well you get on your feet
                    And into the street


                    声に出して言おう。
                    我々は革命を求めている。
                    すぐに取りかかろう。
                    自分の足で立って
                    街に出よう。

                    Singing power to the people
                    Power to the people
                    Power to the people
                    Power to the people, right on

                     

                    歌いながら言おう。

                    権力を人々の手に返せ。

                    権力を人々の手に返せ。
                    権力を人々の手に返せ、と。

                    異議なし。

                    A million workers working for nothing
                    You better give 'em what they really own
                    We got to put you down
                    When we come into town

                    働いてもむなしさしか手に入らない100万人もの人々。
                    さっさと出してもらおうか。
                    おまえたちが手にしているのは
                    本当ならその人たちのものだ。

                    我々が街に入ったら
                    ただじゃ置かない。

                    Singing power to the people
                    Power to the people
                    Power to the people
                    Power to the people, right on


                    歌いながら叫ぼう。

                    権力者に奪われた力を
                    人々に返せと
                    権力を人々に返せと。

                    権力を人々に返せと。
                    異議なし。

                    I gotta ask you comrades and brothers
                    How do you treat you own woman back home
                    She got to be herself
                    So she can free herself


                    仲間のみんなに聞かなきゃならないことがある。

                    自分の連れ合いの女性を
                    家ではどんな風にあつかっている?
                    彼女は彼女自身であるべきだ。
                    彼女も自分を自由にしていいはずだ。

                    Singing power to the people
                    Power to the people
                    Power to the people
                    Power to the people, right on
                    Now, now, now, now


                    歌いながら叫ぼう。

                    権力者に奪われた力を
                    人々に返せと
                    権力を人々に返せと。

                    権力を人々に返せと。
                    異議なし。

                     

                     

                     


                     

                    | 高校生の皆さんへ | 15:21 | comments(1) | - |
                    小池百合子の語り口または英語という言葉の本質について。
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                      トマトは料理の素材として欠かすことができません。我が家の定番料理はトマトを丸ごと茹でるかグリルしたものを使うことが多いのです。しかし、生であれ火を加えたものであれ、トマトの薄皮だけは苦手です。食事の時、薄皮をはいでいると、「なによ、その神経質そうな手つきは。子供じゃあるまいし」と妻にからかわれます。

                       

                       

                      なぜこんな話をするかというと、トマトの薄皮から日本人の話す英語を連想するからです。日本人が英語を話すのを聞いていると、トマトの薄皮部分だけが英語らしきもので、中身は日本語の発想で埋め尽くされています。思考の経路と発表のしかたすべてが日本語以外の何ものでもないのです。

                       

                       

                       

                      発音はネイティブスピーカー並みでも、いやそうであればあるほど、中身が英語の発想と程遠いと恥ずかしくなります。1年やそこら海外留学しただけで、まるで自分をネイティブだと錯覚しているような発音を堂々と聞かされるといたたまれなくなります。

                       

                       

                       

                      日本では、いわゆる「ネイティブスピーカー並みの発音」は英語学習者に優劣をつけ、差別するためのモノサシとして使われています。LとRの発音の区別にはじまり、日本のカフェで日本人相手にアールグレイ(Earl Grey)ティーをネイティブをまねて発音している人を見ると赤面してしまいます。ここでは英語はコミュニケーションの手段以上のものになっているのですね。

                       

                       

                       

                      しかし、ネイティブスピーカーとはだれのことを言うのでしょうか。ちなみに世界の人口約73億人中、英語を話している人は約15億人ほどです。英語のネイティブスピーカーはその25%、4億人に満たないのです。残りの75%は第二言語として英語を習得している人たちです。

                       

                       

                       

                      ところで、日本人の英語を聞いていていたたまれなくなる最大のものは、センテンスのなかばあたりで主語を忘れてしまっているという事実です。自分が何を主題としてしゃべっているのかいつの間にか自覚を失っているのです。

                       

                       

                       

                      これは「ネイティブスピーカー並みの発音」にこだわるどころの話ではありません。主語を忘れているからには動詞も忘れています。英語ではないものを英語だと思って話している様子は、見ても聞いても決まり悪いものです。

                       

                       

                       

                      センテンスが終わるまで主語を拘束し続けるのが動詞のはずですが、それも意識していないようです。なぜか。英語という言葉がどのような言葉であるかを全く理解していないからではないでしょうか。正用法としての英語とは、徹底して論理的であることを目指した言葉です。

                       

                       

                       

                      英語は問題をしがらみから切り離し、それを抽象物のように扱っていく性質を持っています。そしてその性質には因果関係をはっきりさせずにはおかない働きが内蔵されています。

                       

                       

                       

                      英語という言葉の働きがこのようなものである以上、その上に築かれた社会制度も同じ働きを持つはずです。つまり、この世のすべてを個人の好き勝手に任せておいたら、あらゆる不条理が積み重なって収拾のつかない混沌とした場所になる。だからなんとか条理と秩序を与えようとしてできたのが英語という言葉です。

                       

                       

                       

                      条理と秩序とは客観的な普遍性のことです。これなしでは成立しない社会を何とか成立させようとして機能するのが言葉です。だから言葉は社会制度そのものだと言えます。

                       

                       

                       

                      小池百合子氏の話す英語は、発音はそれらしく聞こえるものの、その特徴は以上のことにまったく気づいていない、したがって認識も関心も興味もないという状態にあります。そんな状態で何について語ろうとも、責任をとるどころか、その問題に関して自分は一切何もしたくないと言っているのと同じなのです。

                       

                       

                       

                      とにかく自分を権力のある場所に置き、あとはそれらしく「やってる感」をテレビで演出するだけです。そのために都民の税金を9億円以上も使っています。そこに電通が絡んでいるというお決まりの構図です。

                       

                       

                       

                      ブログで指摘したように、彼女の言葉は圧倒的多数者(自分の言葉を持たず、常に周囲の空気を読んで付和雷同する層)に向けて発せられます。個人に届く言葉を持っていません。個人に話しかけているように見えても、実際は無知で操作しやすい大衆や自分を支持してくれそうな政党幹部に話しかけているのです。あるいは同じ利害で結びついているメディアのトップに向けて話しているのがわかります。

                       

                       

                       

                      つまるところ、金と権力と自己顕示が目的の哀れな人間なのです。質問者や批判者に正対することができないのです。彼女の目が焦点が定まっておらず空虚なのはそのせいです。以下の動画にそれがすべて表れています。

                       

                       

                      山本太郎 VS 小池百合子

                       

                      小池百合子は山本太郎の質問と批判に一切答えることなく、スルーすることで自分の大物ぶりをアピールしています。姑息で卑怯な人間です。小池氏の再出馬に賛成した都庁職員は21.5%、反対は42.6%という数字も納得できます。

                       

                       

                       

                       

                      山本太郎、都知事選最後の街宣。さわやかな一陣の風の吹かんことを!

                       

                       

                       

                       

                      私は一人称で語ることのできない人の言葉は信用しないことにしています。それに対して、政治家の言葉は、自分に投票してくれそうな多数者を意識したものです。組織票とは自分の判断を放棄した、影のような人間が投じる票のことです。しかし、そういった多数者ほど頼りにならない移ろいやすいものはありません。

                       

                       

                       

                      ここまで読んでくださった方はすでにお気づきのことと思います。小池百合子の語り口は安倍晋三とそっくりだということに。

                       

                       

                       

                      彼らの語り口の特徴は「ただ今のご質問にお答えする意味からも、まずその前の段階からご説明申し上げますが・・・」と言って、質問をはぐらかして時間稼ぎをすることです。状況を俯瞰する客観的な見取り図を提示するフリをして、ただあやふやな事象やデータを羅列するだけです。官僚の作文の特徴である要素還元主義がいかんなく発揮されています。

                       

                       

                       

                      全体はごく浅い主観の上に成り立っているので、「ご説明」の後に残るのは、ただ言うだけは言ったという、これまた主観的な満足感だけです。いつまでも総理大臣でいたい、いつかは総理大臣になりたいという願望に染め上げられているだけで、全体は常にのっぺりとしたとっかかりのないものに終始するほかないのです。

                       

                       

                       

                      本来彼らが提示しなければならないのは、責任や信念を明確にしたうえでの論理の筋道であるべきです。しかしそれこそが、彼らが一生かかっても提示できないものです。

                       

                       

                       

                      チェコスロバキア生まれのフランスの作家、ミラン・クンデラは次のように言っています。「人間の限界とは言葉の限界であり、それは文学の限界そのものだ」と。

                       

                       

                       

                      人は偶然この世界に産み落とされます。そして生まれてきた以上、自分という存在を引き受けるしかありません。言葉を知り、それを組み合わせることで自分の人生を生きようと試みる個人。その個人が投げ込まれる戦いの場としての社会。その社会が言葉とともに持っている、万人に開かれた戦いの場としての公共性。その公共性の中で尽くされる論議。論議の中で鍛えられ洗練されていく言葉。そこから生まれる条理と秩序。そして真正な感情。

                       

                       

                       

                      そんな社会ははるか遠くの雲のかなたにかすんで見えるかもしれませんが、風が吹けば思わぬ近さに存在していてびっくりするかもしれません。生きているうちにびっくりしたいものですね。

                       

                       

                      | 高校生の皆さんへ | 15:27 | comments(0) | - |
                      自分の言葉を信じて生きる。
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                        お前のブログは同じことの繰り返しで、実際に役に立つわけでもなく、上から目線で説教を垂れるような書き方にはうんざりだ、と感じている人もいることでしょう。それは百も承知しています。文章を書くことは最低限の他者意識を必要とするからです。そもそも他者意識のない主観だけで書き散らした文章を読んでうんざりしているのは私自身なのです。

                         

                         

                         

                        それは置くとして、あなたは何を信じて生きているのでしょうか。少なくとも私は特定の宗教やイデオロギーを信じて生きることはできません。では、お金でしょうか。きれいごとを言っても資本主義社会では最低限のお金がなければ生きていけませんからね。しかし、お金(貨幣)の本質を考えれば、単なる手段に過ぎないものを信じることはできません。

                         

                         

                         

                        私たち夫婦は今、月20万円に満たない収入で生活しています。ニワトリを飼い、無償で借りた土地を耕して畑にし、そこで野菜を作っているので十分生きていけます。

                         

                         

                         

                        お金のない老後はみじめだという人もいますが、みじめかどうかを決めるのは私たちです。それは自らの生き方が必然的に招いたことですから覚悟の上です。それどころかもっと早く今の生活に切り変えるべきだった、せめて50代から始めておけばと思うくらいです。

                         

                         

                         

                        何事もやりだすと凝る性格なので、今は遅れて来たアマチュア農家として色々なことを構想しています。先日も畑で採れた野菜(ピーマン、シシトウ、パプリカ、トウモロコシ、ズッキーニ、ナスなど)と豚肉の肩ロースブロックをグリルし、安物のワインで夕食を済ませましたが、ゆったりとした夕刻は至福の時間でした。月20万円でどれくらい豊かな生活ができるか、それに挑戦するつもりです。

                         

                         

                         

                        いきなり話が脱線しました。何を信じて生きるのかという問いに答えなければなりません。結論から言えば、これまでの人生で紆余曲折を経て手に入れた自分の言葉を信じるというほかありません。これまた抽象的でわかったようでわからないような答えですね。

                         

                         

                         

                        少し説明させてください。6月10日のブログ『言葉の意味は誰が決めるのか』の中で次のように書きました。言葉の意味は、地球は丸いといった客観的事実によって決まるのではなく、多数決で決まると。

                         

                         

                         

                        しかしこれは正確ではありません。100人中51人がAという意味で使い、49人がBという意味で使えば、多数決ならAという意味になるはずです。しかしそれはおかしい。したがって言葉の意味は90%以上の圧倒的多数で決まると言い換えなければなりません。つまり圧倒的多数に支持されれば、たとえ間違った意味でもそれが正しい意味になるというわけです。

                         

                         

                         

                        6月10日のブログでは、この点をわざと曖昧にしていました。なぜか。言葉の意味の流動性と多数決という単純明快な基準が矛盾することに気づいてほしかったからです。「民主主義は多数決だ」と叫ぶ政治家は、少数意見を数の力で葬り去ろうとしてきました。今もそうしています。そのために多数派を演出する必要があったのです。しかしこれはまた別の話です。

                         

                         

                         

                        自分の言葉とは何かという説明でした。言葉の意味は90%以上の圧倒的多数で決まるのですから、自分の言葉を持ちたいと考える人、つまり自分の人生を生きたいと考える人は、圧倒的多数の人が使っている言葉に懐疑の目を向ける必要があります。

                         

                         

                         

                        自分の言葉を持つことがなぜ大事なのか、自分の言葉といってもつまるところ日本語じゃないか、と考える人もいるでしょう。その通りです。私の経験では自分の言葉を持つことにこだわっている人はごく少数です。

                         

                         

                         

                        しかし、私がどうしようもなく引き付けられ、影響を受けたのはその少数の人たちだったのです。簡単に言ってしまえば、圧倒的多数の人と同じように物を見、考え、感じる人を信用できなかったということです。圧倒的多数の中に紛れ込み、輪郭をなくした人をどうすれば信じることができるでしょうか。ましてや愛することなどできません。

                         

                         

                         

                        それはお前の単なる趣味じゃないかと言われればその通りです。でも人生の途上で遭遇するにっちもさっちもいかない問題はすべて一人一人が抱え込んでいる境遇というか業のようなものから生まれているのではないでしょうか。それを解決するのに、圧倒的多数の人が使っている言葉は役に立ちません。一人として同じ人間はいないし、一つとして同じ問題はないのですから。

                         

                         

                         

                        話がそれました。自分の言葉といってもつまるところ日本語じゃないか、という疑問に答えます。日本人である以上同じ言葉を使うしかありません。しかし言葉を知らなければ考えることすらできません。自分の中にある漠然とした感情の流れのようなものを見つめるしかないのです。この点をまず確認しておきます。

                         

                         

                         

                        次に自分の言葉とは単語ではありません。その人独自の言葉の組み合わせ(文体)です。言葉の組み合わせは言葉使いと言い換えてもいいですね。例えば警察官の言葉使いと自衛官の言葉使いは似ています。大学教授と評論家の言葉使いもしかりです。営業で取引先を回っているサラリーマンの言葉使いもほとんど同じです。職業がその人の言葉使いを決めているのです。

                         

                         

                         

                        それに対して、現実的で具体的な対人関係の場で使う言葉ではなく、一人の人間として使う言葉があります。社会的な立場や役割から降りて使う言葉です。それは大きな岩の小さな割れ目に水がしみこむように自然で自由で物事の本質を照らし出す言葉です。

                         

                         

                         

                        私はそういった言葉に本の中で出会いました。深い洞察力に裏打ちされた、読んだ瞬間に、ああ、こういった言葉に出会いたかった、こういうことが知りたかったのだと、直観的にその他大勢の言葉とは違うということの本質的な意味を悟らせてくれる本です。そうやって出会った言葉の集積が自分の言葉です。

                         

                         

                         

                        それは少数派であることを少しも恐れる必要はないと教えてくれました。それどころかそれをむしろ誇りにし、自分の人生を生きるということは、少数派の人々が作ってくれた道を自信を持って歩くことだと教えてくれたのです。

                         

                         

                         

                        また話が長くなりました。次回こそ短くまとめようと思います。今回も読んで下さった方にお礼を言います。ありがとうございました。

                         

                         

                         

                        | 高校生の皆さんへ | 23:58 | comments(0) | - |
                        私たちは何を根拠に生きるのか。
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                          最初に高校生の皆さんに質問です。あなたにとって「現実」とは何でしょうか。なぜそんな抽象的で役にも立たない小難しい質問をするのかと思っている人もいるでしょうね。でもとても大事な質問です。なぜ大事か。それについては後ほど述べます。

                           

                           

                           

                          高校生の皆さんにとって「現実」とは、学校という空間で過ごす日常のことでしょう。友人との出会いの場所であり、授業やテストや部活によって大部分の時間が占められている生活空間のことです。

                           

                           

                           

                          しかし、ここで少し考えてもらいたいのです。なぜそれを「現実」だと受け止めるのでしょうか。それは永久不変のものでしょうか。あなたが現実だと思っている学校は、何によって根拠づけられているのでしょうか。

                           

                           

                           

                          そもそも、学校は明治新政府が義務教育と徴兵制をセットで(ここが大事です)作ったものです。そして、現在の小学校6年、中学校3年の義務教育制度は、1947年の「教育基本法」「学校教育法」が制定されてから始まるのです。まだ73年の歴史しかありません。

                           

                           

                           

                          法的な根拠はひとまず置きます。それよりも素朴な質問をしてみましょう。そもそも皆さんは、なぜ学校に行かなければならないのですか。なぜ何年も何年も、朝から夕方までぶっ続けで何時間も固い椅子に座って授業なるものを受けなくてはならないのでしょうか。

                           

                           

                           

                          社会人として基本的な教養を身につけるため?職業選択の幅を広げるため?少しでも高給の職業に就くため?難関大学に合格して自分の遺伝子的優位性をそれとなく誇示するため?はたまた、「論理的思考の訓練」のため?

                           

                           

                           

                          しかし、学びの場は学校以外にもあります。オンライン授業が普及すれば、学校に行かなくても、自分のペースで学ぶこともできます。友人との出会いも、スポーツクラブや音楽好きが集まって仲間を作ることで可能になります。その方が自由で、一生の付き合いになる可能性が高いでしょう。

                           

                           

                           

                          学校に行っている間は、好きな本を好きなときに心ゆくまで読むこともできません。漫画を描くこともできません。映画館に入り浸って好きな映画を見ることもできません。堂々とデートすることもできません。

                           

                           

                           

                          なぜ学校に行かなければならないのか、という問いの答えはただ一つです。「みんなが学校に行っているから」「みんなが授業を受けているから」です。

                           

                           

                           

                          皆さんが学校で見たり聞いたりすることを「現実」だと考える根拠は「圧倒的多数の人がそうしているから」です。それに異議を唱えたり、批判したりすれば、変わり者の烙印を押されます。しかも当の教師や親たちが無意識のうちにそれをしているのです。そのことで精神を病むのも教師や親自身です。そうなっても不登校の子供たちの苦しみを想像することができません。なぜか?

                           

                           

                           

                          彼らは「圧倒的多数を根拠に生きている」からです。つまり、学校というところは、自分の感受性を根拠にするのではなく「圧倒的多数を根拠に生きる」人間を粗製乱造する場所だからです。

                           

                           

                           

                          しかし、圧倒的多数を根拠に生きることほど虚しいことはありません。不登校の子供が圧倒的多数になれば、彼らは生きる根拠を失うのです。そんなことは現実には起こらないというのでしょうか。しかし、自分の生きる根拠が単に頭数の多寡にあると気づいた時点で、彼らの人生は意味を喪失するのです。一言でいえば、「誰でもいい誰かの人生」を生きていたことに気づくのです。

                           

                           

                           

                          次回は「現実」から自由になるためのヒントについて書くつもりです。なるべく少しずつ書きます。今回の内容は、言葉の意味は圧倒的多数によって決まる、と関連しています。聡明な高校生ならすでに次回の内容を予測していることでしょう。

                           

                           

                           

                          余談ですが、民主主義は感情統治と多数決だ、教育は2万パーセント強制だ、政治の理想は独裁だと叫ぶ橋下徹とその腰巾着の言葉が、単なる権威主義的空語に過ぎないのは、彼らが自分の言葉を持つということを理解していないからです。

                           

                           

                          | 高校生の皆さんへ | 15:57 | comments(0) | - |
                          真実の声を受け止めることができるか。
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                            前回のブログで、「言葉がいかにして人々の思考を歪め、人生をあきらめさせ、生きづらい社会を作ってきたのかについて書くのは次回のブログに譲ります。」と書きました。数日中にアップしますが、その前に高校生の皆さんに一冊の本と動画を紹介したいと思います。

                             

                             

                            一冊の本は、白井聡氏の『武器としての資本論』です。動画は、れいわ新撰組の大西つねき氏のものです。この二つを理解すれば、今の世界というか現実だと思わされているものの本質がわかります。

                             

                             

                            実現したい社会があるから政治家になるのではなく、権力を使って税金をロンダリングし、ペーパー会社を作って中抜きし、安全保障政策と称して不必要な兵器を買い、選挙区で政党助成金という名の税金をばらまいて票を買う。政界の中でのし上がって総理大臣を目指すために他人を利用し、平気で嘘をつく。いや、虚言癖のある人間が政治家とマスコミを籠絡して出世を目指す。要するに国民は、同じ穴の狢たちの茶番劇に付き合わされているのです。

                             

                             

                            そういった前世紀の発想から抜け出ることのできない無能な政治家ばかりの中で、ひとり山本太郎は異色の経済政策を掲げています。既存の金融システムに革命をもたらそうとしているのです。問題は都民や国民がその空前絶後の新しさを理解できるかどうかです。既存の野党は第二自民党に過ぎません。

                             

                             

                            一冊の本

                             

                            [白井 聡]の武器としての「資本論」

                             

                             

                            一本の動画

                             

                             

                            | 高校生の皆さんへ | 12:25 | comments(0) | - |
                            私はなぜ山本太郎を応援するのか。
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                              「言葉の意味は誰が決めるのか」の続きを書く予定でした。ところが、先ほど山本太郎氏が東京都知事選に立候補することを表明した動画を観て、割り込み記事を書こうと思い立ちました。言葉がいかにして人々の思考を歪め、人生をあきらめさせ、生きづらい社会を作ってきたのかについて書くのは次回のブログに譲ります。

                               

                               

                               

                              ところで、前回のブログで「自己責任」という言葉がどのようにして社会に蔓延してきたのかを書きました。歩調を合わせるように、山本太郎氏も立候補表明の最初に「自己責任」という言葉に触れています。彼は「自己責任社会はおかしい。そもそも社会は誰のためにあるのか」という根源的な問題を提起しているのです。

                               

                               

                               

                              しかもそれを語るにふさわしい自分の言葉を持っています。官僚の書いたふり仮名だらけのペーパーを読んで責任を果たしていると勘違いしている人間の口からは決して出てこない言葉です。彼の言葉には万感の思いがこもっています。

                               

                               

                               

                               

                               

                              次回の衆院選挙ではなく都知事選に立候補するということは、何のために政治家になるのかという原点を彼が見失っていない証拠です。彼にとって政治家という職業は困窮する人々を救う手段に過ぎないのです。

                               

                               

                               

                              これからは税金の中抜きとロンダリングで肥え太った政治家や大企業による強烈なネガティブキャンペーンにさらされるでしょう。彼を守るのは心ある東京都民だけではなく、国民の責任でもあるのです。

                               

                               

                              ことによると、2019年の大みそかに書いた私の予想が現実になるかもしれません。たとえ負けても、後世に種をまく戦いは無駄に終わりません。そのことを心に刻んでいるがゆえに、私は山本太郎を応援するのです。

                               

                              『2020年、山本太郎はチェ・ゲバラになる。』

                              http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=626

                               

                               

                              | 政治 | 17:47 | comments(0) | - |
                              言葉の意味はだれが決めるのか ?
                              0

                                高校生の皆さんこんにちは。コロナのせいで勉強が遅れるのではないかとか、差が開くのではないかと心配している人もいるでしょう。でもそんな心配は無用です。今のカリキュラムを前提にしたり入試を基準にするから「遅れる」とか「差が開く」などと考えるわけです。

                                 

                                 

                                でも、ここらでちょっと立ち止まって考えてみませんか。今のカリキュラムはだれが作っているのでしょうか。そう、文部科学省ですね。しかし、日本の教育行政は失敗の連続でした。英語の民間試験の利用や共通テストの記述式の導入の失敗を見ればお判りでしょう。要するに税金を大量に投入して、中抜きをするのが現政権の常套手段になっているのです。教育は政治的に中立ではあり得ないのです。

                                 

                                 

                                 

                                教育の国家による統制は不毛で悲惨な結果しか生みませんでした。これは歴史的な事実です。何よりも今の若い人たちの想像力を既存の枠組みの中に閉じ込め、「素直な奴隷」を生み出すことに貢献しているだけです。

                                 

                                 

                                 

                                それはともかく、今回はあらゆる学問の出発点というか土台となる考え方を話してみます。勉強を効率と費用対効果でしか考えられない視野の狭い高校生には向いていません。無視して下さって結構です。

                                 

                                 

                                 

                                では始めます。私たちは言葉によって思考します。しかし、ことはそれほど単純ではありません。言葉によって思考するという意味自体がわからない人もいるでしょう。そんなこと当たり前じゃないかという人もいるかもしれません。果たしてそうでしょうか。

                                 

                                 

                                 

                                わかりやすく説明しましょう。

                                 

                                例えば、「気が置けない」という言葉があります。「気が置けない人」とは「気を許せない、信用できない相手」という意味ではなく「気をつかわずに、遠慮なく付き合える相手」という意味ですね。あれっ、自分は「気を許せない、信用できない相手」という意味だと思っていた、という人もいるかもしれません。

                                 

                                 

                                 

                                ここで根本的な疑問が生じます。「気を許せない、信用できない相手」という意味で使う人が圧倒的多数になれば、それが正しい意味になるのではないか、という疑問です。つまり、言葉の意味は多数決で決まるのかという疑問です。こういう素朴な疑問を持つことから真の思考はスタートします。結論から言うと、多数決で決まります。な〜んだ、そんなこと当たり前じゃないか、と思った人はここで思考停止です。

                                 

                                 

                                 

                                世の中には客観的事実というものがあります。地球が丸いのは客観的事実です。100年前は立方体だったなどということはありません。客観的事実は証明可能なのです。もちろん多数決とは無縁です。

                                 

                                 

                                 

                                それに対して、言葉の意味には客観的事実がありません。言葉を使っている人間が勝手に決めているだけです。だからみんながそうだと思って使っている意味が正しい意味になります。

                                 

                                 

                                 

                                では「気をつかわずに、遠慮なく付き合える相手」という本来の意味は間違いになるのでしょうか。そうではありません。言葉の意味は多数決で決まると言っても、本当の意味が分かっている言葉の専門家や学者はやはり必要なのです。

                                 

                                 

                                 

                                なぜなら、彼らは言葉の由来や根拠を知っています。由来を知っているということは、過去の人たちとつながっているということです。つまり、歴史的な観点から見れば、彼らは決して少数派ではないのですね。

                                 

                                 

                                 

                                むしろ、そういう由来も根拠も知らないで、自分たちに都合のいい意味で使っている人たちは、今はたまたま多数派であっても、間違っていることになるのです。

                                 

                                 

                                 

                                なぜこんなことを言うかというと、政治的な意図をもって言葉のあいまいさに付け込む人間がいるからです。もちろん本人たちはそのことに気づいていません。

                                 

                                 

                                 

                                もう少し続けましょう。

                                 

                                ある言葉を間違った意味で使う人が圧倒的多数派になると、それが正しい本当の意味になるのではないか、という疑問についてでした。

                                 

                                 

                                 

                                「情けは人のためならず」という言葉の意味は知っていますね。「情けをかけることはその人のためにならない」という意味だと思っている人もいるかもしれません。しかし、正しくは「人に情けをかけて助けてやることは、めぐりめぐって結局は自分のためになるから、情けをかけてやるべきだ」という意味です。結局は自分の利益になるという理由で、人に同情することをすすめているわけです。

                                 

                                 

                                 

                                言葉の意味が多数決で決まることを前提にすれば、「情けは人の為ならず」が「情けをかけることはその人のためにならない」という意味になるには圧倒的多数派が支持しなければならないはずです。

                                 

                                 

                                 

                                しかし、そもそも多数派とは何でしょうか。ある日突然多数派になったのでしょうか。違います。新自由主義のイデオロギーが猖獗を極める社会で、人を助けたくない口実を必要とする人たちが徐々に多くなったのです。彼らは自分の考えや行動を正当化するために言葉の意味を変える必要があったのです。半ば無意識にです。

                                 

                                 

                                 

                                つまり順序として、まず、人を助けたくない人間たちが言葉の意味を変え、次に、社会(新自由主義とコーポラティズムの社会)の中で間違った意味が流通・定着し、圧倒的な多数派に支持されるようになって「正しい意味」に変わったのです。圧倒的な多数派に支持されたから言葉の意味が変わったわけではありません。それは結果論です。ここを勘違いしてはなりません。

                                 

                                 

                                 

                                なんだかややこしいですね。でもこれはとても大事な思考です。「自己責任」という言葉は圧倒的な多数派に支持されたから意味=力を持ち始めたのではありません。「自己責任」という口実や方便を必要とする人々がまず存在したのです。

                                 

                                 

                                 

                                彼らは「情けは人の為ならず」を「自己責任」のことだと解釈し、それを正しい価値観であるかのように社会全体に広げたに過ぎないのです。そのためにマスコミ(元締めはブラック企業の電通です)、特にテレビを利用して顔を売り、SNSでわめきちらし、多数派を演出したのです。

                                 

                                 

                                少し難しかったかもしれませんが、読んでくれてありがとう。次回が本編です。ご期待ください。

                                 

                                | 高校生の皆さんへ | 21:42 | comments(0) | - |
                                言葉の荒野。
                                0

                                  畑仕事と作庭、草刈や外壁の塗装に精を出しているうちに気がつけば6月。水無月です。野菜を作り、我が家の定番料理のレシピをメモするようになってかれこれ1年になります。日曜日は野菜のグリルを中心としたイタリアンを作ることを妻に約束しています。

                                   

                                   

                                   

                                  それでも、庭に積もったケヤキやクヌギの枯葉で腐葉土を作り、荒れた土に敷き込んでふかふかの土にするにはあと1年はかかります。それまではいろいろと実験を重ねる日々です。葡萄のツタも順調に伸びて棚を覆い始めています。今年の夏には葡萄棚らしくなることでしょう。

                                   

                                   

                                   

                                  いつのころからか判然としませんが、人が発する言葉にその人固有の人格を感じなくなってずいぶん時が流れたような気がします。見渡せば言葉の荒野が広がっています。言葉が歪めば世界の像も歪みます。この国は成熟する機会を奪われた幼児であふれかえっているのです。

                                   

                                   

                                   

                                  私は元々あまのじゃくで、大道を闊歩することができず、大勢の人が右といえば左に行きたくなる性格です。いや、そうなるように自分を教育してきました。

                                   

                                   

                                   

                                  それというのも世の中で出世している人の多くが権威主義的で「立場」の奴隷になっていることに気づいたからです。彼らは意見を異にする相手に対して、お前にそんなことを言う資格があるのかと恫喝し、内容以前に相手の立場を問題にします。単なる言論封じに過ぎないのですが、空洞化した人格を晒していることに気づきません。他者意識のない言説は幼児そのものです。

                                   

                                   

                                   

                                  そういった社会的なヒエラルキーに滑稽なほどこだわる人間たちが生息する世界には、真実の言葉が生まれる余地はありません。ここらで一線を画そうと考えた所以です。

                                   

                                   

                                   

                                  畑仕事の手を休めて木陰の椅子に座っていると、昔読んだ本の一章句が不意に思い浮かびます。記憶をたどり、作者を思い出そうとします。家に帰って書棚を探します。それは自分を確認するひと時です。してみると、何らの経済的利益を生み出さなかった読書という行為こそが私を作り上げているのかもしれません。

                                   

                                   

                                   

                                  ある詩人が書いています。

                                   

                                   

                                  言葉が多すぎる
                                  というより
                                  言葉らしきものが多すぎる
                                  というより
                                  言葉と言えるほどのものが無い

                                  この不毛 この荒野
                                  賑々しきなかの亡国のきざし
                                  ・・・・

                                  「茨木のり子詩集」より

                                   

                                  ひとびとは
                                  怒りの火薬をしめらせてはならない
                                  まことの自己の名において立つ日のために 

                                   

                                  同詩集「内部からくさる桃」より

                                   

                                   

                                   

                                  そういえば水無月で思い出しました。伊東静雄の「水中花」です。桑原武夫編集の全一冊の詩集の中にあります。まだ日本語に韻律があり、厳しさがあり、明晰さと力がありました。そこには唯一無二の伊東静雄という人格があったのです。以下全文引用します。

                                   

                                   

                                   

                                  ― 水中花と言つて夏の夜店に子供達のために売る品がある。木のうすいうすい削片を細く圧搾してつくつたものだ。そのまゝでは何の変哲もないのだが、一度水中に投ずればそれは赤青紫、色うつくしいさまざまの花の姿にひらいて、哀れに華やいでコツプの水のなかなどに凝としづまつてゐる。都会そだちの人のなかには瓦斯燈に照しだされたあの人工の花の印象をわすれずにゐるひともあるだらう。



                                  ことし水無月のなどかくは美しき。
                                  軒端を見れば息吹のごとく
                                  萌えいでにける釣(つり)しのぶ。
                                  忍(しのぶ)べき昔はなくて
                                  何をか吾の嘆きてあらむ。
                                  六月の夜と昼のあはひに
                                  万象のこれは自(みづから)光る明るさの時刻(とき)。
                                  遂(つひ)逢はざりし人の面影
                                  一茎(いつけい)の葵(あふひ)の花の前に立て。
                                  堪へがたければわれ空に投げうつ水中花。
                                  金魚の影もそこに閃(ひらめ)きつ。
                                  すべてのものは吾にむかひて
                                  死ねといふ、
                                  わが水無月のなどかくはうつくしき。

                                   

                                   

                                   

                                  | 文学・哲学・思想 | 13:20 | comments(0) | - |
                                  あの子はああいう子なんです。
                                  0

                                     

                                    父の死後、二人の娘を連れて父の本籍地に帰ってきたのは、上の娘が小学校1年生の時で、下の娘は幼稚園でした。二人して片道2キロの道を歩いて通学していました。私は塾を始めたばかりで、収入はほとんどなく、失業者同然の状態でした。

                                     

                                     

                                    そんなある日、二人を迎えに行こうと村の外れで待っていると、ランドセルと幼稚園バッグを肩に掛けた二人が、蓮華の花が満開の田んぼの中をよろよろ歩いてこちらに向かってきます。その光景を見て、私は熱いものがこみあげてくるのをどうすることもできませんでした。親が勝手に決めた新しい環境の中で生きているけなげさというか、よるべなさが伝わってきたからでしょう。

                                     

                                    「ほら、パパ、蓮華の首飾り」

                                    「かわいいね。うまく作ってるじゃない」

                                     

                                     

                                    当時の私は、どういう塾にしようかとあれこれ考えている最中でした。学校の成績を上げるだけの塾なら、迷うこともありません。教科書を先取り学習し、予想問題を解かせればいいわけです。「成績上げなきゃ塾じゃない!」のですから。

                                     

                                     

                                    でもそれができませんでした。その当時の生徒たちとは、明日から期末試験という日に近くの神社に行ってかくれんぼをしたり、缶蹴りをしていたくらいです。

                                     

                                     

                                    そんな時に出会ったのが、前回のブログで紹介したA・Sニイルでした。以下の画像は私の書棚の一角にあるA・Sニイル著作集です。『問題のこども』『問題の親』だけカバーがありません。何度も読んでいたからです。もし子育てで迷ったり、自信を無くしている親御さんがいればぜひ読むことを勧めます。子育ては、親自身がもう一度自分の人生を生き直す試みなのです。

                                     

                                     

                                     

                                     

                                    私はサマーヒルを訪問し、それを日本で実現することはできないと思いました。なぜなら、サマーヒルはA・Sニイルあってのものだからです。教育はシステムの中でではなく、一人の個性ある人間との一回きりの出会いで実現できる僥倖だと考えているからです。

                                     

                                     

                                    A・Sニイルについてあれこれ述べることはやめにします。どうぞ各自でお調べください。彼は子供の個性を洞察し、それを丸ごと受け入れることのできる知性とユーモアを兼ね備えた余人をもって代えがたい人間だったのです。

                                     

                                     

                                    ニイルは世界各国から集まった様々な個性を持った子供たちを自由にし、「あの子はああいう子なんだ」と丸ごと受け入れたのです。これは簡単そうでなかなかできないことです。自分が丸ごと受け入れられているかどうかを最も敏感に分かっているのは子供自身なのですね。そんなことを考えていて、ある日本人作家が書いた短い文章を思い出しました。以下に全文引用します。

                                     

                                     

                                     

                                    「忘れられない言葉――あの子はああいう子なんです」


                                    ― 小学生の頃は憑かれたように毎日本ばかり読んでいた。どんなにボリュームのある本でも二十四時間以内には読んでいたので、家庭にある本ではとうてい足りない。幸い、通っていた小学校にはとても素晴らしい図書館があったので、その点では恵まれていた。昼休みに前日借りていた本を返しに行き、また新しく本を借りる。すぐに読み始める。帰るとすぐ読む。寝床でも読む。ここでたいてい読み終わるのだが、ときどき翌日に持ち越し、そういう場合は午前中の短い休み時間と、授業中先生の目を盗んで読み、昼休みまでには読み終える。テストのある日は嬉しかった。さっさとすませてあとは思う存分読んでいられるから。

                                     

                                    その日のテストもいつものように「さっさとすませて」本の続きに没頭していた。すると教室の後ろのドアが開き、数人のいかにも視察に来たといった風情の恰幅のよろしい方々が担任に案内されてきた。そのうちの一人が何か耳打ちしたらしい。担任の晴れやかな声が聞こえた。

                                    「ああ、あの子はああいう子なんです」

                                     

                                    私は異様に敏感な子だったので、この一言で、テスト中に本を読むという行為が人に不審を抱かせるらしいということ、そして担任が私のことを信頼し、かつその異端ぶりを誇りにすらしてくれているらしいこと等を瞬時に悟った。丸ごと受け入れられている感覚。あれはいいものだったと今でも思う ―

                                     

                                    (梨木香歩著『やがて満ちてくる光の』P190〜191より)

                                     

                                     

                                     

                                    | 教育 | 14:50 | comments(0) | - |
                                    捏造された希望の向こうへ。
                                    0

                                       

                                      諸君はこの時代に強ひられ率ゐられて

                                      奴隷のように忍従することを欲するか

                                      むしろ諸君よ さらにあらたな正しい時代をつくれ

                                       

                                               ―宮沢賢治「生徒諸君に寄せる」

                                       

                                       

                                       

                                      私の塾教師人生もいよいよ終盤に差し掛かってきました。5年後には間違いなくこの業界から引退しているでしょう。この間、塾教師として分をわきまえない言動もありました。特に3・11の原発事故後は、たかが塾教師の分際で自分の考えを発信してきました。伊方原発差し止め訴訟の原告になり、大分地裁の裁判長に意見陳述書も書きました。安倍首相には至近距離でヤジも飛ばしました。

                                       

                                       

                                       

                                      「たかが塾教師の分際で」と書きましたが、「たかがタクシー運転手」であろうと、「たかがお笑い芸人」「たかが自衛隊員」「たかが警察官」「たかが弁護士」「たかが医師」「たかが総理大臣」「たかが裁判官」「たかがノーベル賞作家」であろうと、私は職業に関係なく言説はその言説の価値のみで平等に扱われるべきだと考えています。

                                       

                                       

                                       

                                      もちろん中身を検討すれば価値の優劣はあります。すべての言説が等価であると考えるのはおふざけに過ぎません。しかし、民主主義社会は「肩書」や「立場」の奴隷になることなく、人々が自らの意見を表明することでかろうじて存在できるのです。

                                       

                                       

                                       

                                      こういう考え方は子供っぽいと言われればその通りです。しかしこの認識の裏には、「現実」を子供っぽく信じることができないがゆえの絶望が張り付いています。

                                       

                                       

                                       

                                      権力や地位や名誉を求めることに生来関心がなかったこともありますが、それを追い求めている人間たちがつまるところ自己中心主義者に過ぎず、他者の抱いている価値や痛みに何の関心もないことが経験によって分かったのです。

                                       

                                       

                                       

                                      その証拠に、彼らは他者の惨状を見て慟哭すべき時に酒を酌み交わし談笑しているのです。彼らが葛藤から無縁でいられるのは、彼らの唱える主義主張が他者への冷酷な無関心と張り合わせになっているからです。

                                       

                                       

                                       

                                      では「他者への冷酷な無関心」はどのようにして生まれるのでしょうか。子供を育てる親の問題や生得的な要因もあるでしょうが、匿名のシステムとしての学校教育の影響が特に大きいのです。それを人生で初めて自覚した時のエピソードを話しましょう。

                                       

                                       

                                       

                                      あれは上野丘高校の3年の時です。私は鬱屈した心情を抱えて無気力な高校生活を送っていました。そんなある日、何がきっかけか忘れましたが、同じクラスのK君が教壇に立って話し始めました。ベトナム戦争について滔々と語るK君の表情は真剣でした。あれからおよそ半世紀が経過しますが、その時の記憶はいまだに鮮明です。

                                       

                                       

                                       

                                      K君は私と同じ陸上部に所属する長距離ランナーでしたが、勉強面では落ちこぼれと言ってもいい状態でした。そのK君が、信じられないほど明晰かつ論理的に政治について自分の考えを述べたのです。これほど中身のある話をするには、かなりの本を読み、日ごろから政治について関心を持っていなければできないはずだと感じました。

                                       

                                       

                                       

                                      ところが、K君が話している間、ほとんどの生徒は関心を示しているようには見えませんでした。それどころか、K君が話し終わった後、バカにするような冗談を言う人もいました。「勉強せんか」「頭わるいくせに」という言葉に私は傷つきました。私が学年でただひとり卒業アルバムを買わなかったのも、今思うとその時のことがあったからかもしれません。

                                       

                                       

                                       

                                      そしてふと思います。K君が今上野丘高校の教壇に立ち、同じ話をしたら共感する生徒がいるだろうかと。東大や九大に多くの合格者を出す高校に所属していることでケチなプライドを満足させている人間は、なによりもまず相手の成績と序列を意識するのです。それはもはや若者ではなく小才の利いた小役人、官僚予備軍に過ぎません。

                                       

                                       

                                       

                                      皮肉ではなく、私はこういった経験を積めただけでも上野丘高校に通ってよかったと思います。匿名のシステムを動かしている無意識的な思考を友人や教師の中に垣間見ることができたからです。しかしそれを経験するためにだけ学校に行く価値があると考えるのはマゾヒストです。

                                       

                                       

                                       

                                      おそらく今の上野丘高校の生徒さんたちは、礼儀正しく、優しく、ユーモアもあり序列主義を痛切に意識させられながらも楽しい学校生活を送っていることと思います。

                                       

                                       

                                      しかし、政治についてどのような態度をとるかが知性のバロメーターだ、というような考えは聞いたことがないか、受け入れられないでしょう。彼らにとって勉強とは受験勉強のことなのですから。K君の話は「勉強」とは関係ないというわけです。

                                       

                                       

                                       

                                      しかし、私はその人の政治意識こそが知性を証明するものだと思っています。「政治の話はあまりしたくないので」という前口上を言う人で、知的な人に会ったことがありません。マックス・ウェーバーも言っているように、政治こそ文化の最高形態なのです。もちろんTPOを考慮する必要はありますが。

                                       

                                       

                                       

                                      私は政治とは何かについてブログに書いています。再掲しますのでお読みください。

                                       

                                       

                                       

                                      「そもそも政治とは、国民に対して、誰もが不可能だと思っていることを可能であると実証して見せる営みを指す。すなわち、現実を絶対化し、その改変を試みる勇気を持たない人間に対して、「現実」は一部の人間の利益に奉仕しているだけであり、したがって取るに足らない思いこみであり、一時的な夢だと喝破して見せることこそが政治の使命だ。」

                                       

                                       

                                       

                                      大分地裁裁判長への意見陳述書http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=426

                                       

                                       

                                      大分地裁佐藤重憲裁判長、伊方原発差し止め却下。http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=520

                                       

                                       

                                       

                                      さて今回のタイトルに話を戻します。

                                      「捏造された希望」とは、学校という制度の中を通過する間に、いつの間にか自分のものだと思い込まされた「希望」のことです。優秀な子供であればあるほど、人生の早い段階から周囲の大人や教師から期待され、それに応えている間に本当に自分のやりたいことを見失ってしまうのではないか、と問いかけたいのです。もちろん顰蹙を買うのを覚悟で言っています。

                                       

                                       

                                       

                                      匿名のシステムである学校は社会の必要から生み出されました。だからこそ、それは生徒一人一人の個性に寄り添うようには設計されていないのです。「捏造された希望」が必要になる所以です。

                                       

                                       

                                       

                                      私は塾を始めるとき、生徒に「捏造された希望」を押し付けないということをモットーにしていました。それゆえ東京にあこがれ、「名前が売れている」という理由だけで早稲田大学や慶応大学に行きたいと言う生徒に考え直すようにと言いました。理系で成績がいいから医者になりたいと言う生徒に「君は医者には向いていないよ」とも言いました。親御さんからは独善的な塾教師だと思われていたかもしれません。

                                       

                                       

                                       

                                      そういうわけですから「目指せトップ校!」だの「祝○○高校合格!」「○○大学〇名合格!新記録!」などとやたら!マークの付いたのぼりを掲げたり、教室に大書したりすることは、生活が懸かっているとはいえ、恥ずかしくてできなかったのです。

                                       

                                       

                                       

                                      何事であれ、初発の動機は重要です。塾を商売だと割り切れば成績を上げることを売りにするのが最も簡単で分かりやすいでしょう。しかし、それでは長続きしないと考えました。それは自分がやらなくても大勢の塾経営者がやるでしょう。

                                       

                                       

                                       

                                      かくして、既存の塾を乗り越える思想を懸命に探すこととなったのです。ブランディングだのマーケティングだのと言った横文字で考えることはどこか胡散臭い感じがしました。つまりその時々のはやりの経営戦略や消費者の嗜好に迎合するのではなく、子供と遊んだり学んだりすることで人間に対する認識が深まっていくような、より普遍的な教育を目指したのです。

                                       

                                       

                                       

                                      その時に出会ったのがイギリス人の教育家A・Sニイルでした。ニイルが創設した「世界で一番自由な学校」と言われた『サマーヒル』を2度訪ね、訪問記を朝日新聞の大分版に数回にわたって連載しました。28年前のことです。インターネットもスマホもない時代でした。

                                       

                                       

                                       

                                      私にとってはA・Sニイルこそが、子供たちの個性を洞察する、「捏造された希望」を決して押し付けない教師だったのです。かの作家、ヘンリー・ミラーはA・Sニイルのことを次のように言っています。

                                       

                                       

                                      ‟I know of no educator in the western world who can compare to A.S.Neill. Summerhill is a tiny ray of light in the world of darkness”

                                       

                                      「西欧社会でA・Sニイルに比肩する教育家を知らない。サマーヒルは暗黒の世界に灯るかすかな光である」

                                       

                                      長くなるので、続きは次回にします。

                                       

                                       

                                       

                                      | 高校生の皆さんへ | 22:51 | comments(0) | - |
                                      育ちゆくものを育てる。
                                      0

                                        以下の記事はブログを始めて間もないころのものです。子供たちとこんな交流ができたらいいなあと思いながら書きました。本当に知的な大人とは、この記事の中に出てくる自然観察指導員の田原さんのような人だと思います。以下に再掲します。

                                         

                                         

                                        閑話休題

                                         

                                        政治ネタばかりで、私が書きたい記事が書けません。でも、ネットで何だかほのぼのとして、しかも感動する記事を見つけました。私がこどもたちに身につけてもらいたいと思っている発想や行動力が、小学校6年生の村田結菜ちゃんによって、生き生きと、しかも、いかんなく発揮されています。

                                         

                                         

                                        この記事を読むと、自然観察指導員の田原さんの存在が大きいですね。子供の好奇心に寄り添い、決して出しゃばらず、同じ目線で考える。それにしても、結菜ちゃんの観察力には脱帽です。

                                         

                                         

                                        子育ての極意は、子供をじっくり観察することです。観察し、待つ。子供を鋳型にはめるのではなく、育ちゆくものを育てる、という姿勢こそが親子ともども幸福になる秘訣ではないでしょうか。都会のタワーマンションで暮らす子供たちは気の毒です。やっぱり子供は自然の中で生活して賢くなるのです。以下の記事をどうぞご覧になってください。

                                         

                                        http://dot.asahi.com/dot/2015050800037.html

                                         

                                         

                                        元記事は以下です。

                                        http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=106

                                         

                                        | 教育 | 11:23 | comments(0) | - |
                                        希望を処方する。
                                        0

                                          電子金融空間でしか利益を出せなくなったグローバル資本主義は、今後はビッグデータによる世論誘導でこれまで以上に反倫理的な世界を作り出すでしょう。FTAやTPPは自由貿易協定という名の帝国主義に他なりません。

                                           

                                           

                                           

                                          かつて山本太郎氏が国会で指摘したように、FTAやTPPには日本語の正文がありません。正文とは誤訳や齟齬が生じないように約款を日本語にしたものです。他の加盟国には、各国の言語で正文が用意されています。しかし、日本語の正文はありません。議会で官僚が意訳した条文を形式的に審議しただけです。これだけでこの協定が国民にとっていかに危険なものか分かります。これを指摘した政治家は山本太郎氏ただ一人でした。

                                           

                                           

                                           

                                          コロナは時間はかかってもいずれ終息に向かうでしょう。しかし、終息後にコロナ以前の世界が戻ってくると考えるのはあまりに能天気です。それは投資家や経済評論家に任せておきましょう。

                                           

                                           

                                           

                                          お気づきの方もいると思いますが、私は原発事故後、世界のどこに希望を見出すかという問いをめぐってブログを書いてきました。今回は、それにコロナが加わったのですが、安倍政権の卑劣さと無能ぶりが一層際立っただけで、問題の本質は変わっていません。

                                           

                                           

                                           

                                          私が身を置いているのは、地方のそのまた周縁の空き家に囲まれた小さな個人塾です。生まれつき怠け者で、それゆえ教職と公職には向かず、ただ自由でいたいと考える身勝手な人間です。そういうわけで、たどり着いたのが辺境塾教師という潜在的失業者にして余計者と見なされる職業だったのです。

                                           

                                           

                                           

                                          人が社会とかかわるためには、近代資本主義の原理に基づく組織を介して具体的な仕事をするほかないと一時は思い込まされていました。しかし幼少年時代の経験から、職業的に制度化されていないものの中にこそ自分のやりたいことがあるのではないかと感じていたのです。要するに、偶然と運に導かれて塾教師の道を選んだに過ぎません。

                                           

                                           

                                           

                                          そんな私がこの業界で感じたのは、小学校から大学まで学び続けても、多くの人は考えたことがほとんどないのではないかという疑念でした。考えるとは学校で与えられた課題の解法を考えることであり、勉強は受験勉強を意味するのです。

                                           

                                           

                                           

                                          ブログで何度も指摘しましたが、受験勉強における論理的思考力とは、つまるところ「いかに出題者の意図を汲み取り、その期待に沿った答えを書くか」という「忖度競争」であり、知性とは無縁の作業なのです。それをあたかも価値のある「特殊な方法論」として売り物にしている塾もあります。

                                           

                                           

                                           

                                          かくして「忖度競争」の最終的な勝利者が「高級官僚」の世界でも、マスコミ・テレビ業界でも幅を利かせています。テレビは政権の意向を忖度し、政権は財界の意向を忖度し、財界は宗主国のアメリカ(軍産複合体と多国籍企業)のいいなりです。

                                           

                                           

                                           

                                          この自明の構造(無意識のうちに世論操作の対象になっていること)に気づきもせず、テレビを見て時間をつぶし、アスリートに自己投影してスポーツにうつつを抜かしているのが多くの国民の姿です。

                                           

                                           

                                           

                                          それもそのはず、日本の学校教育は、母国語できちんとした文章を書くことを独立した科目として教えていないのですから。これは世界標準からすればあり得ないような低リテラシー状態と言えます。批判精神は生まれる前から刈り取られているのです。勉強とは受験勉強のことだと信じて疑わない人に日本語のコミュニケーション能力などあるはずがありません。日本のメディアに取材力と批評性の両方が欠如しているのは当然です。

                                           

                                           

                                           

                                          さて、ここからは日本社会のどこに希望があるのかについて私の考えを述べます。日本の近代が行き着いた先がこの惨状であれば、それ以前に歴史をさかのぼるしかありません。そうして発見した希望の処方箋を以下に箇条書きにしてみます。

                                           

                                          希望の処方箋1国家の政策に左右されない電力と食料の自給圏を作る。

                                           

                                           

                                          希望の処方箋2自給圏を次世代に残すために、その土地の風土や文化に根差した徹底した分権的な教育を実施します。中央集権的教育の象徴である「全国小学生共通学力テスト」の欺瞞と不毛を思え。

                                           

                                           

                                          希望の処方箋3文部科学省を廃止する。これは福沢諭吉も言っていたことです。透明で公平な予算配分機能だけを残し、教育の内容には一切干渉させないこととする。教科書も教育の中身も教師・親・生徒が議論して作る。このこと自体が教育になります。

                                           

                                           

                                          希望の処方箋4:教育費を完全無償化する。全国すべての公立学校の建物を再考し、芸術性のあるものに建て替える。戦争経済を国のエンジンに据えるのではなく、教育国家として生きることを世界に向けて宣言する。

                                           

                                           

                                          希望の処方箋5コロナ禍が明らかにしたことは、世界政府の必要性です。これから襲い掛かる可能性のある感染症のパンデミックや自然災害に備えるために一日も早く世界政府を構想すべきです。そういった状況の中で憲法9条は新たな価値を帯びてくるでしょう。

                                           

                                           

                                           

                                          希望の処方箋は空想物語ではありません。財界とカルト教団の使い走りに過ぎない戦争屋の安倍政権を打倒し、山本太郎を総理大臣にすれば可能です。1〜5の処方箋のすべてを実現できる構想力と実行力を持っているのは彼一人です。MMT理論で財政的な手当てもできます。18歳で選挙権を手にしたすべての心ある高校生は団結して彼を支持しよう。

                                           

                                           

                                           

                                          詳細は以下の過去記事をお読み下さい。できればすべての人に、とくに有権者となる高校生の皆さんに読んでもらいたいと思います。

                                           

                                           

                                          『私たちはどこから来てどこへ行くのか』

                                          http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=93

                                           

                                          『100年後の生存戦略−その2 教育・国宝 閑谷(しずたに)学校』

                                          http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=488

                                           

                                          『100年後の生存戦略−その3 教育・「ラコリーナ」』

                                          http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=446

                                           

                                          感染症や自然災害から国民の命を守るのも国防です。いや、国防そのものです。

                                           

                                          『100年後の生存戦略−その1・国防』

                                          http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=199

                                           

                                          | 高校生の皆さんへ | 23:52 | comments(0) | - |
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