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 (JUGEMレビュー »)

まず私たちの生命と暮らしを脅かす事実を知ること。それにたいしてどのような認識を持つのか。この国のみならず、世界を壊滅させる災厄とどう向き合うのか。次世代に対してどう責任を取るのか、そもそも責任を取れるのか。自分に何ができるのか。この現実にどう向き合うのか。それを教えるのが教育のはずだが、この国には教育も哲学も存在しない。
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「最悪」の核施設 六ヶ所再処理工場 (集英社新書)
「最悪」の核施設 六ヶ所再処理工場 (集英社新書) (JUGEMレビュー »)
小出 裕章,渡辺 満久,明石 昇二郎
原発よりもはるかに危険な六ヶ所村再処理工場。私たちの日々の生活が薄氷の上で営まれていることを痛感させられる。同時に、この国には「国民の生命・財産・自由を守り抜く!」と威勢のいいことを言う総理大臣と無能の政治家しかいないことに絶望する。核燃料サイクルと言い、下北半島の再処理工場と言い、3兆円以上の国民の税金がつぎ込まれ、いまだ後始末も将来の見通しもたっていない現実をどう考えているのか。彼らは核兵器を持ちたいという願望と税金をロンダリングして私腹を肥やすことしか眼中にない。北海道の地震だけに目を奪われてはならない。六ヶ所村は今回の震源地の目と鼻の先にあるのだ。
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幻影(イメジ)の時代―マスコミが製造する事実 (現代社会科学叢書)
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D.J.ブーアスティン
私にとっては古典の中の古典。三度読みました。そしてその慧眼にいまだに驚いています。
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殺人犯はそこにいる (新潮文庫)
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清水 潔
ジャーナリストと称する職業がある。自称ジャーナリストもいれば、テレビのコメンテーターとしてリベラルに媚びる政権批判をし、名を売り、講演で稼ぐ職業をジャーナリストと呼ぶ者もいる。とんだ茶番である。ジャーナリストとはどこまでも「事実」を追いかける。テレビに出て能天気な解釈や感想を垂れ流している暇などないはずだ。ジャーナリストを志す若い人には清水氏の著作は避けて通れない。その名に値する本物のジャーナリストがここにいる。
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デジタル・ポピュリズム 操作される世論と民主主義 (集英社新書)
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福田 直子
おそらく自民党・安倍政権はSNSを駆使し、分析するデータサイエンス(日本版なのでレベルはまだ低いですが)の重要性に着目し、選挙にどうすれば勝てるか、自分たちに有利な世論を形成し、国民を誘導・分断するにはどうすればいいのかが分かっているのです。そのためのノウハウも蓄積しつつあります。安倍首相の貧困な語彙力からは想像できないカタカナ言葉を聞いていると、それがSNSを分析している集団から教えられたものであることがよくわかります。ただ彼らの致命的な弱点は将来の社会を導く理想がないことです。おそらく、思いもかけない結果が待っていることでしょう。なぜなら、所詮、彼らはアメリカとビッグデータの奴隷でしかないのですから。これからの政治は、好むと好まざるとにかかわらず、この本に書かれていること抜きには語れなくなっているのです。
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 (JUGEMレビュー »)

安倍政権に対するメディアの忖度が云々されていますが、元々同じ穴のムジナなのです。忘れてならないのは、日中戦争から太平洋戦争にかけて、日本の世論と新聞のほぼ全部は好戦的・拡張主義的だったのです。しかも、当時はまだ言論統制体制が発足していなかったのです。この本は、そうした「一貫して好戦的な世論とそれに便乗する新聞」が先導し、近衛文麿はじめ文民政治家がそれに便乗、軍部がさらに便乗、という構図を一次資料で克明に論証しています。安倍政権を支持するネトウヨの皆さんの日本語力では、まともな読解は無理ですので勧めません。一方、正確な歴史を知るためには「世論」の不気味さを知ることだと気づいている若い人には是非一読を勧めます。
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茫漠の曠野 ノモンハン
茫漠の曠野 ノモンハン (JUGEMレビュー »)
松本草平
著者は大分市にある『天心堂へつぎ病院』の院長、松本文六氏の御尊父、松本草平(本名松本弘)氏です。詳しくは、ブログで紹介したいと思いますが、第一次資料として極めて価値の高いものです。40年ぶりに復刻版を出された松本文六氏と出版社に感謝する他ありません。
戦略も何もない、無謀・無慈悲な戦争を語り継ぐことは、最も崇高で重要な人間の営為だと私は考えています。作家の司馬遼太郎氏は、電話で草平氏に次のように伝えてきたそうです。「先生の臨場感のあるノモンハン戦記に出会えて本当にありがとうございました。私は大東亜戦争の折、戦車隊の一員として従軍しましたが、先生の従軍記以上のものを創ることはできません。」と。
一人でも多くの方がこの本を読まれることを望みます。ちなみに松本文六氏は伊方原発差止め訴訟の原告でもあります。その縁で、この本に出会うことができました。
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「南京事件」を調査せよ (文春文庫)
「南京事件」を調査せよ (文春文庫) (JUGEMレビュー »)
清水 潔
全国のネトウヨの皆さんへの推薦図書です。清水氏のこの本を読んでから、「南京事件はなかった!」「南京事件は捏造だ!」と叫びましょうネ。
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日本列島の全原発が危ない! 広瀬隆 白熱授業  DAYS JAPAN(デイズジャパン)2018年1月号増刊号
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広瀬隆
広瀬氏をアジテーターだの、オオカミ少年だの、悲観主義に過ぎると言って批判する人がいる。しかし、ブログで何度も述べてきたように、真の悲観主義こそがマインドコントールによって奴隷根性のしみ込んだ私たちの精神を浄化してくれるのだ。そもそも無知では悲観が生まれようもないではないか。国などいくら破れても結構。せめて山河だけでも次世代に残そうと考える人ならぜひとも読むべき本である。いや、これから幾多の春秋に富む若い人にこそすすめたい。
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チャヴ 弱者を敵視する社会
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オーウェン・ジョーンズ,Owen Jones
【本書への賛辞】

「怒りが生んだ、最高の本」
──ガーディアン紙

最高の論争がみなそうであるように、知性に裏打ちされた怒りが本書を支えている。
──エコノミスト誌

暴動や世界中に広がったオキュパイ運動に照らして考えると、分断社会に関する著者の鋭い分析は、
不気味なほど未来を予知していたことがわかる。
──アートフォーラム誌

情熱と、思いやりと、すぐれた道徳性が結実した仕事だ。
──ニューヨーク・タイムズ紙

政治の定説を見直す大胆な試み。著者は戦後のイギリス史を縦横無尽に往き来し、
階級、文化、アイデンティティといった複雑な問題を軽々とまとめてみせ、
結果として「階級」問題に火をつけ、大きな効果をあげている。
──インディペンデント紙

いまの制度が貧しい人々を見捨てていることに対する苛烈な警告──それが本書だ。
──ブログサイト「デイリー・ビースト」

ジョーンズは、「地の塩」だった労働者階級が政治のせいで「地のクズ」と見なされるようになった経緯を見事に説明している。
──タイムズ紙

この本は、新しいタイプの階級嫌悪と、その裏にあるものを痛烈にあばいて見せてくれる。
──ジョン・ケアリー(The Intellectuals and the Masses著者)

これは「イギリスはおおむね階級のない社会である」という考え方への、論理的で情報満載の大反撃だ。
──オブザーバー紙

情熱的で示唆に富む……この声が届くことを心から願う。
──スコットランド・オン・サンデー紙
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 (JUGEMレビュー »)

紹介していない本が山のようにあります。数日前にこの本を本棚の奥から引っ張り出し再読しました。いや〜面白かった。。とにかくこの本のことを忘れていた自分が信じられない。読んでない人に熱烈に勧めます。ハイ。
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新・日米安保論 (集英社新書)
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柳澤 協二,伊勢崎 賢治,加藤 朗
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英語の実際的研究 (1969年)
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秋山 敏
高校生にとって、今でも一押しの不朽の名著。でもこの本をことを知っている英語教師は少ないと思います。是非復刊してほしいものです。
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スノーデン 日本への警告 (集英社新書)
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エドワード・スノーデン,青木 理,井桁大介,金昌浩,ベン・ワイズナー,宮下紘,マリコ・ヒロセ
2017年4月18日、朝日新聞がようやく「パノプティプコン」を取り上げました。遅すぎますね。
これから先の日本社会は、ますます荒廃が進み、国民の不満が頂点に達し、やがて爆発します。それを未然に防ぐために、国は国民の監視を強化します。
実際アメリカでは「愛国者法」により、電子メールや携帯の通話履歴が監視の対象になっています。誰が、いつ、どこで、何を読んで、誰と通信を交わしたか、すべて国に筒抜けです。
「パノプティプコン」とはフランスの哲学者フーコーが用いた概念ですが、国民が刑務所の囚人のように監視される体制を言います。監視者の姿は見えませんが、囚人は監視者不在でも、監視を意識することによって管理統制されるのです。これを「パノプティシズム」と言います。
このシステムから解放されるためには、権力がどう管理・統制しようとしているかを知らねばなりません。この本はそれを知るための第一歩です。あなたが無知のまま、奴隷の人生を送りたければ、読む必要はありません。
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A.ミラー
アリスミラーのこの本は、塾を始めるきっかけになりました。ただ生活のためだけなら、他のことをしていたでしょう。『才能ある子のドラマ』とあわせて、当時の私には衝撃的な本でした。人生はどこでどう転ぶかわかりません。人間の奥深さを知ることで、何とか自分を維持していたのです。この本を読むと当時のことが、ありありと思い出されます。ある意味で、私の人生を方向づけた本かもしれません。
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朽ちていった命:被曝治療83日間の記録 (新潮文庫)
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NHK「東海村臨界事故」取材班

2月18日のブログでも書きましたが、仕事のために読むビジネス書の類は、最終的には効率を重視し、最小の資本と労力の投下で、いかにして最大の利益を上げるかということに尽きていると思います。そのための働き方改革であり、そのための賃上げです。そのための人心掌握術であり、顧客対応です。ビジネス書を読めば読むほど、人間は軽薄になり、視野が狭くなっていきます。もしあなたがそれを自覚するきっかけがほしいなら、是非この本を読むことを勧めます。読書はビジネスのためにするのではないということが分かると思います。この本は私たちの日常の風景を一変させるだけのインパクトを持っています。いわば、ことばの最高の意味における「闖入者」なのです。
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服従
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黒い巨塔 最高裁判所
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瀬木 比呂志
この本はまだ発売されていません。自分で読んでいない本を推薦するのは邪道でしょう。しかし、これまでの『絶望の裁判所』『ニッポンの裁判』(ともに講談社現代新書)に続く裁判所、司法批判の第3弾が長編の権力小説だということで、過去2冊の本の面白さからして、推薦に値する本だと思いました。『原発ホワイトアウト』の最高裁判所ヴァージョンだと思います。読んでからコメントを追加したいと思います。
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そして、僕はOEDを読んだ
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アモン・シェイ
学校なる場所に通っていた時、毎年夏になると課題図書を読んで、読書感想文を書かねばならないのが苦痛でした。課題図書の選定には学校と書店の密約があるに違いないと思っていたくらいです。

偶然巡り合った面白い本の感想を書くのならまだ我慢できたかもしれません。つくづく学校というところは、余計なことをしてくれると思ったものです。

あまりにめんどうくさいので、「あとがき」を参考に、あらすじを書いて提出したら、トリプルAをもらいました。

学校というところは、もしかしたら、人生の退屈に耐える訓練をする場所だったのかもしれません。この本を読んで、改めてそのことを確認しました。別に先生を責めているわけではありません。それほど自覚的に生きるということは難しいのだとため息をついているだけです。
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想田和弘監督の観察映画。音楽による演出は一切なく、徹頭徹尾監督の視点で撮られたドキュメンタリー映画。見終わった後、日本の選挙風土の貧困さが浮かび上がる。この国に民主主義はない、ということを改めて確認し、そこから出発するしかない。その勇気を持つ人には必見の映画です。合わせて『選挙2』もどうぞ。
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ウェーバーの死の1年前、1919年、学生達に向けた講演の記録です。
一部抜粋します。

「自分が世間に対して捧げようとするものに比べて、現実の世の中が―自分の立場からみて―どんなに愚かであり卑俗であっても、断じてく挫けない人間。どんな事態に直面しても「それにもかかわらず!」と言い切る自信のある人間。そういう人間だけが政治への「天職」を持つ。」(P105〜106)

「さて、ここにおいでの諸君、10年後にもう一度この点について話し合おうではないか。残念ながら私はあれやこれやいろんな理由から、どうも悪い予感がしてならないのだが、10年後には反動の時代がとっくに始まっていて、諸君の多くの人が―正直に言って私もだが―期待していたことのまずほとんどは、まさか全部でもあるまいが、少なくとも外見上たいていのものは、実現されていないだろう。」(P103〜104)

10年後には、ワイマール体制は機能不全に陥り、1933年にはヒトラーが首相に就任します。

平和憲法は、日本人にとって310万人の命と引き換えに手に入れた唯一と言っていい理念であり、アイデンティティーでした。その唯一の誇りを、日本人は損得勘定で葬り去ろうとしています。言い古された言葉ですが、歴史は繰り返すのです。
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熊楠の星の時間 (講談社選書メチエ)
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中沢 新一
小学校を卒業するころ、将来なりたい職業として思い描いていたのが、天文学者か生物学者でした。プロ野球選手は、自分のセンスでは無理だと悟りました。物ごころついたころから興味があったのは宇宙や昆虫や植物の世界でした。そんなわけで南方熊樟に出会うのは必然的な成り行きだったのです。人間は言葉によって世界を把握しますが、それ以外の把握の仕方があるはずだと、ずっと思ってきました。南方熊樟は、小林秀雄と同じく、直観による世界の把握の仕方を教えてくれました。この本は、言葉によって構成された世界秩序の外に出て、世界を改めて考えたい人に大いなるヒントをあたえてくれます。安倍政権によるゴキブリのフンのような、あまりにばかばかしい政治状況を見せつけられているので、精神の衛生学として一気に読みました。
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こどもの教育から裏金を使ったオリンピック誘致、原発再稼働、戦争準備から武器の売却、安倍政権の裏の権力としてメディアに絶大な影響力を行使する電通。私たちは電通が作り上げた「箱」の中でいいようにマインドコントロールされている。自分の意見だと思っていたものが、実はそう思わされていただけだということに気づかなければならない。音楽をはじめとする芸能情報、その中で踊らされるミュージシャンやタレント、果てはデザイン業界までを席巻する。今や電通の介在しないメディアはないと言ってもいい。利権あるところに電通あり、です。
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英語教育に携わる人は、一度この本を読んでみるべきではないでしょうか。言葉は悪いですが「英語ばか」がこの国には余りにも多すぎる気がします。
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前作『日本はなぜ「基地」と「原発」止められないのか』に続く著者渾身の力作。自分の人生を生きたい人にすすめます。ただそれだけです。18歳で選挙権が与えらる高校生が政治を考える際の基本的なテキストになる日がくるといいですね。無理でしょうが。これ以上余計なコメントはしません。まず手に取ってみてください。
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メディアで取り上げられるよりはるか前から日本会議の存在について私は言及していました。電通と同じくタブー視するメディアには心底失望したものです。報道すればタブーはタブーでなくなるのです。何を恐れているのでしょうか。干されれば、何とか生活をする工面をすればよい。それだけのことです。
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帯に「祝祭都市にスタジアムはいらない」とあります。そもそも2020年まで天災と原発事故をやり過ごし、経済危機を乗り越えて存在しているでしょうか。極めて怪しいですね。偶然書店で手に取って読みました。彼の文章を読むと、建築は現世の権力に奉仕するものではなく、想像力の王国を作るものだと思わされます。建築にそれほど興味のない人でも、読めます。いや、いつのまにか引き込まれているでしょう。
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難関中高一貫校で学び、東大に合格しても、それはもはや知性のバロメーターではありません。この本に書かれていることが真実だと見破れることこそが本物の知性です。ニセの知性は既得権益を守るためにはどんな屁理屈でもひねり出します。おまえは何も知らないと言って他人を見下し、金と権力におもねるのです。ニセの知性は理想の灯を掲げることができません。「脳内お花畑」などという幼稚な言葉を使って揶揄するしかないのです。彼らの決まり文句は、他国が攻めてきたらどうするのかという、それこそ「脳内お花畑」的なものです。「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」とは、まさに至言です。
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私の元塾生の縁でお会いしたことのある烏賀陽弘道氏の渾身のレポート。事実を丹念に調べ上げ(これがジャーナリストの本来やることです)事実をして語らしめることのできる稀有なジャーナリスト。この本を読まずに福島第一原発の事故の本質に迫ることはできない。ダブル選挙の前に一人でも多くの国民が読むことを期待します。
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松岡正剛氏の本はどれも面白く、シリーズの千夜千冊を除けばほとんど読んでいます。『多読術』は、高校生にぜひ勧めたいと思います。高校時代に、この本を読んでおくと、さまざまな分野の知的見取り図を手に入れることができます。学校の授業だけではなく、この本を手掛かりにして知の荒野に歩みを進めてほしいと思います。
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カント
安倍首相は「この道しかない」と言って消費税を上げ、集団的自衛権の行使を可能にする閣議決定をし、公約とは正反対のTPPを批准することで、日本の文化=アイデンティティーを破壊しようとしています。

もし私たちが生き延びたければ、そのヒントがこの本の中に書かれています。日本は超大国の「夢」を代弁するだけの国になってはなりません。
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山本 太郎
山本氏の国会での質問を、本になって改めて読み直して感じることは、文字通り「みんなが聞きたい」質問をしてくれたということです。安倍首相が小学生に「なぜ政治家になったのですか」と質問された時、「父親も祖父も政治家をしていたからです」と答えていました。小学生相手に、何と言う悲しい答えでしょうか。語るべき理想を持たない政治家など、所詮は官僚に利用されるだけです。それに対して、山本氏には語るべき理想がある。「政治なんてそんなものさ」というリアリストが発散する腐臭を吹き飛ばすさわやかさがある。それは、彼の身体には収まりきれない理想が持つ力そのものです。彼は言います。「力を貸してほしい。少なくとも、あなたが必要だと思われる社会、私が必要だと思われる社会を作っていきたい。そう思うんです」と。日本の総理大臣にふさわしいのはどちらでしょうか。
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ジョン・W・ダワー,ガバン・マコーマック
おそらく、日本人自身よりも海外の知識人のほうが、日本の問題を正確にとらえていると思わせる本です。読み終えて何気なくテレビを見たら、わが大分県選出の国会議員、岩屋毅氏と江藤晟一氏が、2016年ミスユニバース大分県代表を選ぶ催し物に出ていました。名誉顧問だそうです。いかがわしい宗教団体をバックに票を稼ぐだけでは飽き足らず、こんな大会に顔を出して名前を売ろうとする。大分市長の佐藤樹一郎氏も出席していました。このお三方は、こんなことをするために国会議員や市長になったのでしょうか。国民の税金を使ってやることといえば、テレビに出演してにやけた顔をさらすことでしょうか。もう物事の軽重が全く分かっていません。せめてこの本くらい読んではどうでしょうか。私はこの本に書かれていることの大部分に賛成です。
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蓮池 透
出版されてすぐ読みました。国会で、読んでもいないのに、安倍首相が躍起になって否定した事実が書かれています。蓮池氏はあちこちから人格攻撃の対象とされてきましたが、自分にも落ち度があったと認めています。自分は総理大臣なのだから落ち度はないと居直る人間とは好対照です。この本を読んで、拉致問題について今一度国民が考えることを望みます。
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渡邉 格
2年半ほど前に求めて、一気に読みました。マルクスの『資本論』の中に書かれていることを、著者が自分なりに消化し実践していく過程が書かれているので、一種のドキュメンタリー文学として読めます。きっと著者と同じ思いの若者は全国にたくさんいると思います。かけがえのない一回きりの人生を、充実して生きたいと思っている人に勇気を与える本です。
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今年度ノーベル文学賞受賞作品。チェルノブイリは言うまでもなく、フクシマでさえ人々は忘れたがっています。もう過去のことだと言い聞かせて。しかし、過去のことではなく、まぎれもない現在進行中の現実であり、私たちが生きている世界そのものです。この本を読んだ後、橋下徹が御堂筋をイルミネーションで照らし出し、F1カーに乗って写真を撮っているところを見ました。その時のセリフ。「大阪はここまでできる!」

もう何と言うか、別世界を生きている人間です。彼の発する言葉は文学とは無縁です。人間が言葉を持ったのは、言葉にしがたいものを言葉にしようとするためです。政治家が発する言葉の軽さと言ったらありません。それだけ現実も軽いものになったということでしょう。
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鈴木 大拙
鈴木大拙の言わんとすることが、ようやくわかりかけてきました。年齢を重ね、日本文化の基底にあるものをじっくり味わうことで開示される世界があるのです。日々の生活に追われていては、この本を読み、味わう暇などないでしょうが、それだからこそ手に取ってみてはいかがでしょう。
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人間は、条件次第で、喜々として殺人を犯す。そして、その条件を整備しつつあるのが、安倍政権とその背後でうごめく『日本会議』である。このことに気づいていても、「配慮する」ことを最優先して報道しないメディア(特にNHK・読売新聞・産経新聞)。そしてそこに寄生する学者やコメンテーター、芸能人。このドキュメンタリー映画は、彼らの自画像である。たまには、自らの顔をじっくり眺めてみるがよい。
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私が長年考えてきた問題を解明するヒントになりました。ブログで書いたように、まず感情を基にした結論があって、それを正当化するために人は「知性」を動員するという、ごく当たり前のことが書かれている。つまり、知の粉飾決算報告書である。
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中村 好文
中村さんの著作の中では、個人的に最も好きな本です。読んでいるだけで楽しくなります。限りなく優しい、でも、痛烈な文明批評です。これからの生き方のヒントが満載です。それを一人でも多くの人と分かち合いたいと思い、中村好文論・その3の中で引用させていただきました。
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以下は私がアマゾンのレビューに投稿したものです。再録します。
「もし人に幸福な生き方があるとしたら、中村好文さんのような生き方だろうと、ずっと思ってきました。
建築雑誌をパラパラとめくりながら、ふむ、と思って手が止まると、そこには必ずと言っていいほど中村さんの設計した住宅がありました。
文は人なりと言いますが、その人の書く文章のエッセンスがこれほど見事に建築にも表現されている例はめったにありません。
建築に限らず、食の分野でも、ことばと実物の乖離がはなはだしい時代に、中村さんの設計した住宅や美術館に出会うと、どこか安心するのですね。
そういうわけで、著者の本はすべて読ませてもらっています。
この本も偶然、年末に本屋さんで手に入れ、装丁やカバーの手触りを楽しみながら読んでいます。
読みながらいつの間にかほのぼのとしている自分を発見します。
一日に一編か二編を過去の記憶をたどるようにして読んでいます。
この本の平明さ、やさしさがどこから来るのか。そんなことを分析するのは野暮というものです。
とにかくこの素敵な小さな本は、旅のお供にどうぞ!とすすめたくなります。」
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堀部氏のスケッチと自身で撮った写真集。これ見よがしの作家性を前面に押し出したところがない。簡素で謙虚だが、気品に満ちた佇まいは何度見ても見飽きることがない。ブログを書くために、もう一度最初から読み直してみたが、やはり素晴らしい。
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高橋 源一郎,SEALDs
「民主主義が終わってるなら、始めるぞ!」そのとおりです。彼らは「○○大学、○○○○(氏名)、私は戦争法案に反対します」と堂々と個人の責任で発言している。ネット上で匿名で反対意見を罵倒する勢力に比べると何とすがすがしいことか。デモや民主主義について一から考えたい人、あるいは、それくらいのことはわかってるつもりだという学者の皆さんに読んでもらいたい。もちろん大学生や18歳で選挙権を持つ若い人たちにも。ただし、民主主義は感情統治だの多数決だのと言っている橋下徹やホリエモンこと堀江貴史は読まなくてよい。あなたたちはSEALDsの新しさを理解する能力を欠いているから。
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亡国記 (JUGEMレビュー »)
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Make hay while the sun shines. (亡き父の誕生日に)
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    直訳すれば「日のあるうちに干し草を作れ」です。天候の変わりやすいイギリスの風土から生まれた16世紀頃からの有名な諺ですね。ご存知の方も多いと思います。日本語で言えば、「好機逸すべからず」です。すべての物事にはそれをするにふさわしい「時」があり、その「時」を逃すと、どんなに努力をしても成果は得られないという教えです。

     

     

     

    ところで、7月11日の木曜日、人生初の経験をしました。参議院議員の礒崎陽輔氏(舞鶴高校出身)の応援演説のために安倍総理大臣が大分入りしました。ガレリア竹町で、街宣車の上で演説するのを聴いたのです。いつものように嘘のオンパレードでした。どこがどのように嘘なのか知りたい方はぜひコメント欄で質問して下さいね。

     

     

     

    思えば、ブログを始めたのも礒崎陽輔氏の詭弁がきっかけでした。そのときの過去記事を挙げておきます。特に「国語力」がないと自覚している高校生だけでなく、「国語力」に自信を持っている人にも読んでもらいたいですね。そうそう、礒崎陽輔氏の支持者にもぜひ。

     

     

     

    東大は出たけれど − その1

    http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=2

     

    東大は出たけれど − その2

    http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=3

     

     

     

    ついでに、中学生でもわかるフェイクニュースの見分け方を書いておきます。それは5W1Hを押さえているかどうかです。質問した時に、これに答えられなければフェイクなのです。

     

     

     

    例えば、福島第一原発の事故について5W1Hを念頭に置いて質問するのです。そうすれば、「いまだに反原発などと言っているやつらは、キワモノのパヨクだ。原発は完全にアンダーコントロール状態だ」という言説がフェイクのかたまりだとすぐにわかるのです。

     

     

     

    ネトウヨの皆さんは、ただ安倍総理をマンセーすることで自分の存在を確認したい人たちなので、学問的な体裁をとっていても、ジャーナリスティックな論陣を張っていても、テレビに出る有名人でも、5W1Hを質問すればすぐにしっぽを出します。ただそれを質問する人がいないだけです。

     

     

     

    人生初の経験にもどりましょう。

     

    安倍総理大臣の前は鉄柵で囲まれています。「異分子」を排除するためです。私は入口で安倍総理大臣の顔が印刷されたパンフレットをもらい、自民党員のふりをして人ごみを掻き分け、前へ進みました。チャンスがあればヤジを飛ばそうと考えていたのですが、周りは自民党のシンパやネトウヨでいっぱいでした。そもそも目つきがおかしい若者が多いのです。「オレ様が安倍総理大臣を守るんだ」という「気概」にあふれています。

     

     

     

    ここでヤジったらどんな「危害」を加えられるかわかりません。若かりし頃ならブルース・リーばりの立ち回りを演じて、ヌンチャクを振り回し、たちどころに敵をやっつけていたでしょうが、今回はヌンチャクを忘れたので止めにしました。

     

     

     

    暑くて息苦しくなったので、そのマンセー集団から離れて、両脇の歩道の方へ移動しました。そこで安倍総理大臣の演説を聴いたのです。ヤジを飛ばせる雰囲気ではありません。私服警官が各所に配置され、イヤホンと小型マイクを装備して目を光らせています。イヤ、ホントです、なんちゃって。

     

     

     

    しょーもない演説が終わったので引き上げようとすると、安倍総理大臣が今からハイタッチをします、というではありませんか。そこで私もニコニコしながらその列に並びました。私の前50センチくらいに来たとき、Make hay while the sun shines. というフレーズが浮かびました。

     

     

     

    私は腹の底から声を絞り出し「安倍晋三!嘘つくな!」と大声で叫んでいました。総理大臣は明らかにビビっていました。「ごめんなさい。ゆるちてください」といったかどうか知りませんが、すぐに目をそらしました。

     

     

     

    その瞬間、周りにいた私服のお兄さんたちが私を取り囲み抱きついてきました。そんな趣味はないので「言論の自由は憲法で保障されているのだ。あなたたちに発言を封じる権利はない!消費税が何に使われたのか知っているのか!」と叫びました。やれやれ、歳をとるとこんな遊びもできるんですね。

     

     

     

    妨害されなければまだまだ叫びたいことがあったのです。

     

    「こんな人たちに負けるわけにはいかないんですと、もういっぺん言ってみろ!」

    「TPPはどうなった!」

    「北方領土は返ってくるのか!」

    「森友はどこ行った!」

    「加計はどうなった!」

    「アキエとタニサエコはどこにいる!」

    「拉致被害者はどうなる!」

    「財務省の役人を殺して平気なのか!」

    「公文書の書き換えを指示したのは誰だ!」

    「消費税を上げて、国民を殺すつもりか?」等々。

     

    全部挙げれば日が暮れます。

     


     

    その後、通りで信号待ちをしていると、警備の責任者だと名乗るお兄さんが近づいて来て「おけがはありませんでしたか?」と聞くのです。「4〜5人の男に抱きつかれたぐらいで、けがなんかするわけないだろうが!」とは言わずに「あなたたちも仕事とはいえ大変だね」と答えました。

     

     

     

    そのお兄さんに自民党のパンフレットを渡し、付いてきたりしないでねと言い残し、歩いて妻と待ち合わせの場所へ向かいました。のどが渇いたのでトキハのスタバでアイスコーヒーを注文していると、背後から「あの〜、○○新聞の記者ですが、お話をお聞きしてもよろしいでしょうか」と声をかけられました。

     

     

    あれだけの人がいる中で、たった一人で言葉を発したことに感動した、とのことでした。それから1時間余り、その三十代前半の若い記者と色々な話しをしました。そして、こんな素晴らしい記者が今時いるのかと、認識を新たにしたのです。

     

     

     

    話の中で、山本太郎の発する言葉とエリック・ホッファーの言葉について触れました。本当に思考するための言葉は、今では、学校教育によって刈り取られてしまって、現実を改変する力を持てなくなっている。言葉が意味を失い、単なるつじつま合わせの記号になってしまった。高学歴であればあるほど、この傾向は著しい。

     

     

     

    山本太郎は高校中退の元芸人だからこそ、真実の言葉を話す人間を見分けられるのだ。逆に、学歴差別の上に構築された社会システムを疑わない人間は、権力と金を持つ人間を忖度することでしか人生に意味を見いだせなくなっている、等々。話題は尽きませんでした。再会を約束しましたが、このブログをN記者が読んでくれているといいのですが・・・。

     

     

     

    ところで、私が蛮勇をふるって安倍総理大臣に言葉を発したのも、山本太郎の存在があったからです。6年前から、この男は本物だと直感して彼を支持してきました。過去記事をお読みになれば、その一端を理解してもらえると思います。

     

     

     

    国は誰のために存在するのか − 山本太郎議員を応援する。

    http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=26

     

    山本太郎 vs 安倍晋三 − 暴かれたイラク戦争の本質。

    http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=28

     

     

    | 政治 | 21:48 | comments(2) | - |
    昭和は遠くなりにけり。
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      今朝、庭を見ているとオハグロトンボが数匹飛んでいました。他のトンボと違って、羽をひらひらさせて蝶のように飛ぶので、視界に入りやすいのです。しかし、人が近づくとすぐに逃げてなかなか捕まえることができません。やっとのことでカメラに収めました。

       

       

      よ〜く目をこらさないと見えません。画面中央にいます。バックが黒なので余計分かりにくいですね。

       

       

       

       

       

      オハグロトンボは水と空気がきれいなところにいる、と言われています。してみると、私の家の庭はそういう場所なのかなと思い、少しうれしくなります。木々が鬱蒼と茂る森の中の小屋の風情が漂っていますが、日差しが強烈で外気温が高い日でも、家の中は涼しいのです。

       

       

       

      私が少年だった頃、水を売って商売が成り立つなどとは思いもしませんでした。

       

       

       

      帰宅して、ランドセルを放り投げ、裏山に行けば清水がこんこんと湧き出ている場所がありました。夏休みともなると、昆虫や小動物に同一化し、我を忘れて遊んだものです。そして、疲れた手足を冷やすために、冷たい水で顔を洗い、頭から清水をかぶりました。

       

       

       

      むっとする草の匂い。その間を小さな舌をちょろちょろ出しながら音もなく進むヘビ。蝉の鳴き声。生い茂る木々の葉の間から見える青い空と流れる白い雲。仲間が自分を呼ぶ声。半パンとランニングシャツ一枚で、日が暮れるまで遊びました。間違いなく、人生の黄金時代だったのです。

       

       

       

      そして高度経済成長の時代。いぜんとして水は水でした。のどが渇いた時に飲むもの。水鉄砲を作って友達の顔めがけて飛ばすもの。かき氷の材料。夕方、庭先の焼けた石にかけるもの。要するに、私たちの周りに水はたっぷりあり、水自体に価値がありました。

       

       

       

      そして高度経済成長が終わるころには、水の質や安全性が求められるようになります。無尽蔵にあると思っていた清水や湧水が、新たな付加価値を与えられ、商品として売買されるようになったのです。

       

       

       

      水自体は変わらないのに、季節と時間と場所を考え、消費者が喜ぶ提供の仕方が重要になります。暑い夏の日は、冷やした井戸の水にレモンをひとしずくたらして美しいガラスのコップに入れて出し、冬は身体の芯から温かくなるお茶を和菓子を添えて淹れる、といった風に。

       

       

       

      結果、水源は投機対象にまでなっています。そしてこの流れは不可逆です。歴史がそうであるように。私は、日々絶滅していく昆虫の種を数えながら呆然とする昆虫学者の心境です。

       

       

       

      しかし、見方を変えると、これからはモノ自体や量ではなく、それをいかに提供するかという質、言い換えれば芸術的センスが問われる時代になるということです。

       

       

       

      ただやみくもに情報を仕入れ、有利か不利かというモノサシで進路を設定し、少しでも高い労働力として子供を売りだそうとする発想=受験勉強的発想は、高度経済成長時代の名残に過ぎません。「佐藤ママ」がその時代遅れの発想を可視化してくれました。

       

       

       

      芸術が常にその時代の支配的な価値観に異を唱えて来たように、これからは効率や量ではなく、勉強そのものの質が、すなわち芸術性が問われる時代になるのです。それは私たちがどのような社会でどのように生きるのかという問いと深く結びついています。それにしても、昭和は遠くなりにけり、です。

       

       

      その来たるべき時代の血路を必死で開こうとしている人間もいます。

       

       

       

       

       

      | 文学・哲学・思想 | 00:10 | comments(0) | - |
      空虚な人格から発せられる空語!空語!空語!
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        空虚な人格は、幼少の頃からつねに言われた通りのことをやり、そのことで評価され、賞賛され、おだてられる経験を積み上げて来たため、ついに自分の言葉を獲得する機会がなく、自分が見ている世界が唯一絶対的なものだと思い込むことで出来上がります。

         

         

         

        つまり、恐ろしく狭い世界に住み、人格が空洞になっているため、自分にとって都合のいい情報や言葉だけがそこで反響し増幅されるのです。したがって支離滅裂で矛盾することも平気でしゃべります。自分で考えてしゃべっていないので、過去の発言との整合性など頭にありません。

         

         

         

         

         

         

        現職の総理大臣と持ちつ持たれつ。総理のご意向で、私たちの税金が吉本興業に注ぎ込まれています。さすが闇営業の吉本だけのことはあります。なんたってヤクザとズブズブの関係ですから。闇営業という言葉で騙されてはなりません。島田伸介を例に挙げるまでもなく、ヤクザ企業なのです。それよりも、日本のお笑いのレベルが知れるというものです。権力者に媚を売るお笑いなど、腐っているとしか言えません。この国は終わっているのです。

         

         

         

         

         

         

        実は劣等感の裏返しがそのままキャラになっているのです。いうまでもなく、夏目漱石の時代から今日まで、アメリカやヨーロッパでは、日本人をはじめ東洋人はいまだに「差別される側」です。この事実は鈍感でなければわかります。この劣等感こそが、韓国人や中国人を差別し蔑視する温床となっているのです。

         

         

         

        これほど醜悪なことはありません。ツイッタ―で嫌韓や反中を叫びながら、一方でトランプや安倍首相を礼賛している人間たちは、世界の現実を知らない国際的田舎者に過ぎません。

         

         

         

        私が『れいわ新選組』を支持するのは、10人の候補者全員が自分の言葉でしゃべっているからです。自分が経験したことの中で思想を鍛え、常に国民の立場に立って発言しているからです。それを感知できない人間たちは「変わりものだらけの集団だろう」とか「子供とか弱者とか、キレイごとばかり並べている」と考えるのです。

         

         

         

        私は現政権を支持しません。それは安倍首相の発言やふるまいが「ウソだらけだから」「恥ずかしいから」「痛々しいから」「幼稚だから」「バカにされているのがわからないから」です。あるいは「悪」を感知するだけの知性がないから、というのが理由です。政治の世界では「悪」の本質を洞察できない者は、その「悪」に利用されて国家を破滅に導くのです。

         

         

         

        安倍首相は、参院選の遊説のスタート地点を福島市の果樹園にしました。東京の秋葉原をスタート地点にしないのは、ヤジが怖いのです。いや、ヤジに応えて思わず自分の本音をしゃべってしまうのが怖いのです。山本太郎のように、聴衆の目の前で自分の信念や政策を語ったり、質問や反論に答えたりすることは絶対にできません。ヘタレですから。

         

         

        201974日の毎日新聞から、その第一声を引用します。

         

         

         

        ― 福島の復興なくして東北の復興なし。東北の復興なくして日本の再生なし。外交力をいかして福島産の農産物の(輸出時の)規制緩和に全力を尽くした。その結果、福島産の輸出が過去最高になった。トランプ米大統領は意外と人の話を聞く。私の話の筋が通っていると「シンゾー、分かった。その通りにする」と言ってくれる。平和安全法制(安保関連法)を成立させ、助け合える日米同盟になり、絆はかつてないほど強固だ。憲法に自衛隊を明記すると公約に掲げた。最後に決めるのは国民投票だ。そのための審議をせねばならない。それが議員の責任だ。しっかり議論する候補、政党を選ぶのか、責任を果たさず審議しない政党、候補を選ぶのか。(福島市の果樹園で)―

         

         

         

        開いた口がふさがらないとはこのことです。福島県民は完全にバカにされています。何を言っても、東北人は我慢してじっと耐えるとたかをくくっているのです。ちなみに安倍首相が責任感のある人間なら、沖縄の辺野古を第一声の場所に選ぶでしょう。山本太郎なら、必ずそうするはずです。

         

         

         

        安倍首相の第一声は欺瞞に満ちています。福島第1原発事故の避難者への家賃補助を打ち切り、仮設住宅を廃止して避難者を追い出し、統計上「避難者はいない」ことにしているのを見ただけでも、安倍政権の意思は明確に示されています。

         

         

         

        それにもかかわらず、共同通信や朝日新聞をはじめとする大手メディアは序盤の情勢として「自公、改選過半数の勢い」と一面トップで報じています。無党派層が半分近くいるにもかかわらずです。そして「大いに関心」四分の一、18・19歳「必ず行く」前回より低下、と報じているのです。ここにも大手新聞の意思(第三者づらをして、民主主義など信じていないこと)が明確に示されています。それが分かって、私やあなたはどうするのか?

         

         

         

        過去記事

         

        マスコミは圧力をかけられているのか?

        http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=117

         

        | 政治 | 22:14 | comments(0) | - |
        TOEIC、共通テストへの参加を取り下げる。
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          この知らせを受けて、受験生を抱える高校や予備校など、教育関係者の間で「激震」が走っているそうです。言葉は悪いですが、バカかと思います。

           

           

           

          英語民間試験の実施団体がまともなら、今回の決定は当然なのです。「TOEIC」を運営する国際ビジネスコミュニケーション協会は2日「責任を持って対応を進めることが困難と判断した」とのことです。当たり前すぎて、あごが外れそうです。

           

           

           

          身も蓋もないことを先に言ってしまえば、日本がアメリカの属国である間は、英語「教育」と言っても、せいぜいのところ、宗主国の意向により、植民地の中で「富裕層」の仲間入りをしようと走り回るコマネズミのような人間を育てるだけです。

           

           

           

          私は、大学入試における民間試験の導入は、財界の要望と官僚の天下り先の確保、およびテスト業者の利益がミックスされた新たな教育シンジケートができるだけだと言ってきました。それは英語という宗主国の言語を梃子にして、日本を回復不能なほどの格差社会にするのです。

           

           

           

          問題は、格差社会の中で苦しんでいる人たちが、自己責任という言葉で格差を受け入れていることです。政府や大手メディアが垂れ流す情報をそのまま、なんとなく信じ、「世の中こんなものさ」とあきらめていることです。「スキル」と「カネ」がすべての世の中で、それを身につけてこなかった自分が悪いと考え、「オレの考え、リアルじゃね?」と言いたいのです。

           

           

           

          それは、たとえるなら、中学校や高校で不合理な校則を変えようと行動する生徒への感情的な反発のようなものです。「なにめんどくせえこと言ってんだよ!自分たちだけいいかっこしやがって。こんな集会なんて意味ねえんだよ。」というような。

           

           

           

          実は、この感情的な反発も、政治的に利用されているのです。これこそが大阪維新の会、日本維新の会の「イデオロギー」なのです。

           

           

           

          英語の民間試験の話にもどります。私は、民間試験の導入は失敗すると言ってきました。高校生は、時間が制約されているのだから、英文法を徹底的に勉強するべきです。

           

           

           

          ただし、私の言う英文法とは英語と日本語の間に立ちはだかる壁の本質を理解し、それを取り払うためのもので、英語を日本語の発想で学習するものではありません。おそらくこれまで経験したことのない中身のはずです。興味のある高校生は、いつでも無料体験ができます。

           

           

           

          以下は、2019年6月19日の、「しわ寄せは受験生に…“欠陥”英語民間試験に学者が国会請願」と題した、日刊ゲンダイの記事です。ぜひお読みください。

           

           

           

           

           

           

          ― センター試験に代わって2020年度から始まる大学入学共通テストの英語民間試験。東大の阿部公彦教授ら学者有志が18日、利用中止を求める国会請願を行った。制度上の欠陥が多く、最低限の公正性・公平性が確保されていない。高校生や保護者、学校関係者に不安が広がっているという。



           英語民間試験は、TOEIC、TOEFL、英検など8つの民間実施団体が行う。各試験での点数を対照表に従い、統一のスコア(6段階)に置き換えるのだが、あり得ない評価法だという。京都工芸繊維大の羽藤由美教授は「全く科学的裏付けがない。50メートル走と握力を測ってどちらが体力があるか見るようなものだ」と声を荒らげた。



           加えて、営利を追求する民間業者の入試は公平性を損なう危険が満載だ。受験者数を増やすための“スコアダンピング”はすでに始まっているという。また、実施団体自身が問題集などを発売する対策ビジネスもきな臭い。手の内を熟知する出題者の対策は、鬼に金棒。高得点に直結する“参考書”は、受験生のバイブルになって売れまくるだろう。他にも、5000〜2万5000円超の高額の受験料や、受験機会をめぐる都市部と地方の格差も指摘されている。

           

           

          元凶は、8つもの民間実施団体に試験を委ねたからだ。下村博文文科相の下、2014年に始まった有識者会議は、英語ビジネスを展開したい楽天・三木谷浩史会長が主導し民営化が決められたとされる。この有識者会議の傘下の協議会がビックリ仰天だ。阿部教授が指摘する。



          「外部試験を導入すべきかを検討する協議会に、多くの試験実業者が名を連ねました。推進するのは当たり前だし、自ら実施主体になった。その結果8つもの民間試験が生まれたのです」



           協議会は、TOEIC、TOEFL、英検、ケンブリッジ英語検定、GTEC(ベネッセ)などの実施団体がメンバーになっている。天下りを受け入れるなど文科省との癒着関係は深い。

           


          「政治家も民間に開放し、その先に献金を受けるなどうまみがあるのでしょう。しわ寄せはすべてムダな負担を強いられる受験生に来るのです」(阿部公彦教授)



          欠陥試験で人生の大勝負がメチャメチャだ。―

           

           

           

          過去記事

           

          「英会話」って何?

          http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=547

           

          英語学習において最も大事なこと− その1。

          http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=549

           

          英語学習において最も大事なこと − その2。

          http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=550

           

          | 英語教育 | 15:26 | comments(0) | - |
          山本太郎は虎の尾を踏んでいる。
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            『れいわ新選組』の候補者を見て、私は心底驚いています。蓮池透氏、安冨歩氏、木村えいこ氏、そして今日、公明党の支持母体・創価学会員の野原善正氏、環境保護NGO職員の辻村千尋氏、元セブンオーナーの三井義文氏、元外資系銀行員の大西つねき氏が加わりました。木村えいこ氏のことは今回初めて知りました。

             

             

             

            蓮池透氏、安冨歩氏、大西つねき氏のことは著作を通じて応援していたのです。この3人が『れいわ新選組』から立候補しないかと考えていたのですが、まさかそれが現実になるとは・・・。もう1人、前川喜平氏を期待しているのですが、どうでしょう。古賀茂明氏、植草一秀氏もいいですね。

             

             

            ここに挙げた本は目の前の書棚にあったものですが、どれも素晴らしいです。深く考えさせられ、インスピレーションをもらいました。特に大西つねき氏の『私が総理大臣ならこうする』は具体的でとても刺激的な本です。見にくいかもしれませんが、一番左は大西氏の『希望 ― 日本から世界を変えよう』です。

             

            ちなみに、安冨歩氏の著書『原発危機と東大話法』は、原発事故から一年も経たない2012年1月15日に出版されています。アマゾンからさっそく取り寄せ、一日で読み、思考がまとまらない中、一人でも多くの人に読んでもらおうと1月18日にレビューを投稿しました。そのときレビューは一つだけでした。それでも瞬く間に600人以上の人が賛同してくれ、日々賛同者の数は増えていました。ところがある日突然削除されたのです。その件に関しては過去記事をご覧ください。

             

            経済合理性という狂気または合理的な愚か者について

            http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=36

             

             

             

             

             

             

            今回の人選で、6年前から彼を応援してきた理由が納得できました。今の日本社会を立て直すのに不可欠な人が選ばれているのです。要するに、山本太郎は自民党・安倍政権が財界とアメリカの兵器産業のために破壊し尽くした日本社会を一から寄せ集め、繕いはじめたのです。選挙ではこれまで「よりましな」政党を選ぶしかありませんでした。積極的に応援したいと思ったのは、『れいわ新選組』が人生ではじめてのことです。

             

             

             

            3・11でこの国は多くの人命と国土の一部を失いましたが、同時に山本太郎という政治家を生みだしました。私は、歴史の転換点では、真に力ある思想は決して既存の利権集団やイデオロギー集団の中からは生まれない、それは、まったく思いもかけないところから生まれるのだ、と言いました。

             

             

             

            かくなる上は、心ある国民は山本太郎を守らなければなりません。かつて、特別会計の闇を追及しようとして暗殺された民主党の石井紘基氏の二の舞にさせてはなりません。山本太郎は命を張っています。虎の尾を踏んでいるのです。

             


             

            | 政治 | 00:40 | comments(0) | - |
            ハチドリのひとしずく。
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              これは ちいさな力の大切さを教えてくれる
              南米アンデスの 古くて新しいお話――

               

               

              森が燃えていました

              森の生き物たちはわれさきにと逃げていきました

               

              でもクリキンディという名のハチドリだけは行ったり来たり

              口ばしで水のしずくを一滴ずつ運んでは火の上に落としていきます

               

              動物たちはそれを見て「そんなことをしていったい何になるんだ」と笑います

              クリキンディはこう答えました

               

              「私は、私にできることをしているだけ」

               

               

               

               

               

              この話は元塾生のSさんに教えてもらいました。6月23日にホルトホール大分で開かれた元福井地裁裁判長・樋口英明さんの講演会で再会する予定でした。人が多かったせいもありますが、見つけることができませんでした。妻が急用で行けなくなったので、Sさんも僕を探しづらかったのでしょう。ちょうどそのとき疾風自由日記のS君に会い、二人で外へ出ました。

               

               

               

              Sさんは30年以上も前の生徒さんです。一緒に勉強したのは、高校3年の時でした。その点では埼玉県で数学の塾をしているO君と同じですね。

               

               

               

              一緒に勉強したのはわずかな期間でしたが、二人の若者に影響を与えたことを想うと、人間が偶然出会うことの不思議さに驚く他ありません。塾では勉強するだけで、何ら影響を受けなかった生徒さんもいます。当然ですね。

               

               

               

              でも影響とは何でしょうか。人はみな生まれながらに心の中に小さな共鳴箱を持っていて、突然それが鳴り出すのです。その音を聞き分けるために、子供には自由な環境と時間が必要なのです。子供の心を抑圧するようなジャンク情報ばかり与えれば、共鳴箱は一生鳴らないままでしょう。代わりに自分のポジションを守るためのセンサーが鳴るだけです。

               

               

               

              樋口さんの講演会では会えませんでしたが、後日、Sさんから丁寧なメールをいただきました。Sさんは樋口英明、前川喜平、小出裕章、そして山本太郎という当代きっての良心に会うことができたのです。それはきっとSさんの人生を善きものにすることでしょう。以下に、固有名詞を伏せて掲載させていただきます。Sさん、ありがとう。

               

               

               

              ―― メールの返信をいただき、ありがとうございます。

              先生にたくさんお話ししたい事があり、お礼のメールが遅くなって申し訳ありません。

               

               

              Yも私も、変わらず元気に過ごしています。

               

               

              樋口さんの講演会では、私の事も気にかけていただきありがとうございました。

              午前中に別の用事があり、会場に着いたのが5分前で、講演会が終わった後は、後ろの席にいらしたA先生にご挨拶していました。今はY中学校で教鞭に立たれていて、今年で定年を迎えるそうです。

              T中学校時代、A先生が「原発いらない」のステッカーを車に貼って下さっていた事、今でも嬉しく思い出しています。

               

               

              その後、会場を見渡しましたが、先生と奥様の姿を見つける事は出来ませんでした。

               

              疾風自由日記のSさんは、先生のブログに何度も登場している方なので、もちろん存じ上げています。

               

              先生と奥様にお会いできるかもしれない・・と淡い期待を抱いていたので、今回は残念でしたが、きっとまた別の機会にお二人にお会いすることが出来るのではないかと思っています。

               

               

              私の大好きな、憧れの奥様にもくれぐれも宜しくお伝えください。

              先生が以前、ブログで旅行の際の奥様の写真をUPして下さった時には、嬉しくて何度も何度も、写真の中の奥様を眺めていました。

               

               

              山本太郎さんの演説会には、急遽予定を変更して慌てて駆けつけました。

              約2時間にわたる山本さんの演説を目の前で聴く事ができて、本当に良かったです。

               

              今、我が家のポストの上に山本さんのポスターを張っているのですが、今回新しいポスターをいただいたので、近々貼り直す予定です。

              実家と、母の勤めている会社にも同じものを貼っています。

              少しでも力になれればと、ボランティア登録をし、ポスティングちらしも先日申し込みました。

               

              演説会の後、写真撮影と握手会があり、余計な事とは思いましたが、未来塾のブログのPRをしてきました。

              あのブログを読んでもらえたら、きっと山本さんは喜んでくれると思ったからです。

               

               

              先生のブログでは、泣いたり笑ったり、怒ったり感動したり、日々、色々な事を学ばせてもらっています。

              塾を何十年も前に卒業しても、いくつになっても、一生私は先生の生徒なんだなと思っています。

              今でも、ブログを通して大切な事を教えていただき、深く感謝しています。

              塾の卒業生のみなさんも、きっと私と同じ気持で、先生のブログを楽しみにしていることでしょう。

               

               

              「ハチドリのひとしずく」のクリキンディのように、今、私にできることをやっていこうと思っています。

               

               

              ところで、私も5月からニワトリを飼い始めました。

              ずっと前から飼いたいと思っていたのですが、小屋作りなどがネックでなかなか踏み出せずにいました。

              先生のブログを読んで力をいただき、私も先生と同じ水盛遣り方から始め、四苦八苦しながら何とか小屋を建て、宇佐に初生ビナを引き取りに行き、ポリスブラウンを4羽飼っています。

               

               

              小さい頃のYのように大変可愛らしいので、ニワトリなのに名前まで付けました。

              こうやって長年の夢が叶ったのも先生のおかげです。

              卵を産んでくれる秋が待ち遠しく、可愛い上に人間模様ならぬニワトリ模様も垣間見えて、毎日笑って楽しく過ごしています。

               

               

              話は変わりますが、去年の12月16日に前川喜平さんの講演会へ行きました。

              不登校を考える親の会、星の会主催で、テーマは「憲法26条と教育機会確保法」でした。

              今回の樋口さんと同じように分かりやすくお話しいただき、先生のおっしゃる通りとても素敵な方でした。

              また、一昨年の9月には、北アルプスの岳沢小屋の朝食の席で、偶然小出裕章先生とお会いしました。

              嬉しくて、先生に報告しようとずっと思っていました。

               

               

              メールが長くなり、また拙い文章で恐縮です。

              先生の貴重なお時間をいただき、ありがとうございました。

               

               

              子ども達のためにも、末永く未来塾を続けていただける事を、先生と奥様の益々のご活躍を祈念しております。――

               

               

              | 身辺雑記 | 14:01 | comments(0) | - |
              私はまだ自分に飽きていない。
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                この後、「だからまた、違う自分に会える。」と続きます。今年の3月に亡くなった俳優・萩原健一の『ショーケン最終章』の最後のページの最後の言葉です。

                 

                 

                左は同じく役者の山城新伍の『おこりんぼさびしんぼ』です。これほどの痛快エッセイは今や誰も書けないでしょう。「若山富三郎。勝新太郎。ぼくは、この二人の影響以外、誰の影響も受けていない」と言い切っています。これだけで読みたくなりますね。萩原健一の自伝とあわせてどうぞ。

                 

                ちなみに、ショーケンの写真について、妻の理加さんは、「あとがきにかえて」の中で次のように書いています。

                「今年に入って病院で何気なく撮った一枚の写真が、この本の表紙に選ばれました。検査結果を待つ時間も、私たちにとってはおだやかな大切な時間であり、夫はいつもと変わらぬやさしいまなざしを向けてくれています。」

                 

                 

                 

                 

                 

                 

                小学校の3・4年の頃だったでしょうか、人間をよく観察していると、世間の評判と実際に自分が感じることの間に大きな食い違いがあることに気づきました。

                 

                 

                 

                私が住んでいた上野ヶ丘の家の畑を挟んだ真向かいには、背中に入れ墨をしたヤクザのおいちゃん一家が住んでいました。私はそこの子供たち(さよちゃんとみっちゃん)とよく遊んだものです。周囲の大人も眉をひそめたりせずに、その一家と自然に付き合っていたように思います。

                 

                 

                 

                当時は日本の労働人口の60%近くが一次産業、特に農業に従事していた時代です。ほとんどの大人は肉体労働で生活費を稼いでいたのです。それはパソコンの前に座って、キーボードをカチャカチャ叩く仕事からは想像できないものでした。

                 

                 

                 

                皆それぞれの事情を抱え、同じ地域に住む人間として、貧しいがゆえの助け合い、思いやりの感情を共有していたのです。相対的貧困ではありません。見ればそれとわかったのです。主婦たちは醤油や塩を貸し借りし、男親同士は夜になると将棋や囲碁仲間になっていました。

                 

                 

                 

                そのヤクザ夫婦は時々ひどい喧嘩をして、「さよちゃんのおばちゃん」が「助けて〜、殺される!」と叫んでわが家へ駆け込んでくることがありました。私の父は教師で柔道五段でしたので、「ヤクザのおいちゃん」は追いかけてきませんでした。わが家は「さよちゃんのおばちゃん」にとっては、緊急時の避難所だったのです。

                 

                 

                 

                そうそう、萩原健一の話でした。昨日6月29日の土曜の午後、新聞を読んでいた妻が「あなたの好きな『鴨川食堂』の再放送があるわよ」と教えてくれたのです。にやにやしながら「忽那汐里(くつなしおり)ちゃんに会えるわよ」と余計な一言というか、私の本心をズバリ言い当てたのです。

                 

                 

                 

                そして午後4時からテレビの前に釘づけになりました。やっぱりいいのです。忽那汐里ではなく萩原健一が。いや、汐里ちゃんももちろん良かったのですが・・・。

                 

                 

                 

                萩原健一については様々な毀誉褒貶がありますが、そんなことは全く気になりません。世間(大衆)は人間の真実を決して理解しないからです。社会の支配的な価値観に迎合するだけの人間がいくら寄り集まっても、真実に到達できるわけがないのです。

                 

                 

                 

                いい歳をした大人が他人の評価や意見を気にするだけで、自分で調べたり勉強したりしないのは、この国の学校教育がもたらした「成果」です。私は人から後ろ指を差されたり、胡散臭く思われたりしている人物の中にこそ、共感できる生き方や真実があることを学びました。萩原健一はやはり一流の役者でした。『鴨川食堂』を観て、そのことを再確認しました。

                 

                 

                 

                今年の5月9日、東京国際フォーラムで行われた沢田研二(70)のツアー初日。2曲歌ったところで、彼は突然語り出します。

                 

                「時間は過ぎていく。年齢も重ねていく。死んでいく人もいる。長生きすることが必ずしもいいことだとは思っていませんが……」

                 

                 そして、言葉を続けます。

                 

                「さすがにショーケンが死んだときは、こたえた」

                 

                「あいつなんか、死んだら俺となんか比べられるんだよ。昔の事とはいえ、『ショーケンといえばジュリー』と言われちゃうんだよ。俺は腹が立った。ショーケンはそんな奴じゃないぞ。もっと凄い奴だぞ。俺なんて生き方が上手じゃない。ショーケンはもっと上手じゃなかった。それで、萩原健一だ。萩原敬三(本名)だ。俺はあいつが大好きだ」と。

                 

                 

                やはりわかっている人はわかっているのですね。

                 

                 

                 

                『鴨川食堂』の再放送は残り3回です。前にも書きましたが特に(7)「父の海苔(のり)弁」が『鴨川食堂』の白眉です。放送予定は以下の通りです。

                 


                 

                (6)「初恋のビーフシチュー」
                2019年7月6日(土) BSプレミアム 午後4時〜4時49分

                 

                (7)「父の海苔(のり)弁」
                2019年7月13日(土) BSプレミアム 午後4時〜4時49分

                 

                (8)「金曜日のチャーハン」
                2019年7月20日(土) BSプレミアム 午後4時〜4時49分

                 

                 

                過去記事

                 

                小さな世界で生きる幸福 ― ドラマ 『鴨川食堂』

                http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=107

                 

                『鴨川食堂』という魂の救済場所

                http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=124

                 

                | 身辺雑記 | 23:23 | comments(0) | - |
                やっと梅雨入りです。
                0

                  昨日は余りにシュールな大人のことを書いたので、気分を変えて今日はホームセンターに赤球土を買いに行って、ガクアジサイの挿し木をしました。アジサイはあまり好きな花ではないのですが、ガクアジサイは別です。花言葉は「謙虚」だそうです。まさにそんな風情が漂っています。母が庭のあちこちに植えていたせいでしょうか、茶花が好きなのです。

                   

                  今庭に咲き誇っている「ガクアジサイ」です。淡いブルー、濃いブルー、ピンクとグラデーションが見事です。

                   

                   

                  リビングのガクアジサイ

                   

                   

                  わが家の庭に咲く茶花を紹介しましょう。

                   

                   

                  まず「タイワンホトトギス」です。

                   

                   

                   

                  次は「ビヨウヤナギ」

                   

                   

                  「シモツケ

                   

                   

                   

                   

                  そして私が最も好きな花、「シュウメイギク」です。

                   

                   

                   

                   

                   

                  シュウメイギクは「秋明菊」と書きます。 秋に咲く明るい花という意味で付けられたとされています。 しかし、もとは「秋冥菊」だったという説もあります。 菊に似ていますがそのたよりない儚げな姿が印象的で、土ものの一輪挿しなどに見事なほど合います。この世の花ではない(「冥土」の花 )かと思うほどの美しさであったことからつけられたとも言われています。その後、「冥」では印象が良くないために「明」にしたとされています。シュウメイギクの花言葉は、 「うすれゆく愛情」「淡い思い」「あせていく愛」 だそうです。

                   

                   

                  | 身辺雑記 | 15:36 | comments(0) | - |
                  佐藤ママの超絶「脳育」論。
                  0

                    今回も、脳が虚血性発作を起こしそうなタイトルで申し訳ありません。「脳育」などという言葉は私の語彙の中にはありません。しかし、お受験界隈ではいかにも出てきそうな言葉ですね。ある層の人には訴求力のある言葉なのでしょう。

                     

                     

                     

                    最初に断っておきますが、「脳育」などという言葉で子育てを語るメディアや親御さんとは、そもそも人間観や社会観が根本的に違うので、コミュニケーションは不可能です。実は社会の分断の根本的な原因は、こういう身近なところにあるのです。

                     

                     

                     

                    佐藤ママの本を読み、「これだ!」と思ったお母様方がランチしながら熱心に情報交換しているところを想像して下さい。彼女たちの幸福感がいびつであること、人間の全体性を無視して子供を幼少のころから受験サイボーグに仕立て上げようとする発想の貧困さには言葉がありません。「脳育」などという言葉は、この種のお母様方をターゲットにするためにおバカな出版社が生みだしたのです。

                     

                     

                     

                    彼女たちは差別化の道具として、学歴や年収や勤めている会社や住んでいる場所、はたまたどこの幼稚園出身かというようなモノサシを使います。最近はどこの塾に通っているかもプラスされているようです。やれやれ。

                     

                     

                     

                    人格が空洞化しているので自分に自信が持てず、絶えず他者と比較することで自分を維持しています。当然、比較のモノサシは計量可能な数量的・外形的なものにならざるを得ません。

                     

                     

                     

                    直接人と会って話したり、本を読んだりした後、自分の内部に生起した感情や知識と向き合うことで、人は自分というものがわかるのですが、その習慣が未形成なのです。おそらく、似た価値観の親に育てられたためでしょう。

                     

                     

                     

                    一方、地方に住み、ごくふつうに暮らしている母親たちは(都会の母親から見ればリテラシーの低い田舎者に映るのでしょうが)、学歴にこだわったりせずに、子供が自立する手助けをしようと、疲れている中、夕飯の支度をしたり、洗濯物を干したり、時には子供に八つ当たりしながら愛情込めて育てています。

                     

                     

                     

                    もちろん地方にも、何が何でも「県立トップ校」に合格させようと考えている母親もいます。都会に生息する「佐藤ママ」たちの価値観を内面化しているのです。

                     

                     

                     

                    下品なリバタリアン(オバタリアンではありません)である「佐藤ママ」たちは、学歴や年収が幸福のメルクマールであると考える新自由主義的な価値観に洗脳されています。ちょっと言い過ぎですね。洗脳という言葉が悪ければ、自ら様々な情報を入手し、それを取捨選択する中で子供の幸福にとってベストと考える進路を選択している、と言い換えましょう。

                     

                     

                     

                    でもエスカレートすると、中学受験にからんで子供の髪の毛をむしり取ったり、ナイフで刺し殺したりする親も出てきます。いや、これは極端な例でした。極端な例の背後には、その事件を生みだす下地が準備されている筈だと考えるのが、私の悪い癖です。私は世間の耳目を驚かせる事件よりも、海面下に沈んでいる氷山の方が気になるものですから・・・。

                     

                     

                     

                    本来、子供の養育は、日々驚きと喜びに満ちている最も生きがいを感じる行為のはずです。「養育」が「教育」になり、「教育」が「受験教育」になり、さらには「受験教育」が「脳育」になっていくのを加速させているのが「佐藤ママ」に象徴される価値観なのです。

                     

                     

                     

                    もちろんそれが素晴らしいことのように宣伝する塾や出版業界の罪は大きい。彼らは珍奇な受験ネタで消費者の関心を引き、生き残りをかけています。例えばプレジデント社、東洋経済新報社、ベネッセ、ダイヤモンド社、それに最近では朝日新聞社の『アエラ』も加わり多士済々です。

                     

                     

                     

                    今では事あるごとにそれをオンラインで配信しています。中身は相も変らぬ金太郎飴で、脳科学の知見や医学的根拠あるいは経済学的発想?を無理やり持ち込んで「エビデンス」と称して、さも根拠があるかのように喧伝しています。その具体例をお目にかけましょう。

                     

                     

                     

                    受験本の執筆で名を馳せた東大理三出身の精神科医・和田秀樹氏と「佐藤ママ」の対談です。タイトルは、「子供4人を東大医学部へ入れた主婦の脳育」です。出ました「脳育」!

                     

                     

                    『プレジデントベイビー 0歳からの知育大百科 2019完全保存版』の掲載記事から一部抜粋しました。「佐藤ママ」のエスカレートぶりをとくとご覧下さい。

                     

                     

                     

                    【佐藤】私も家の中の知的な雰囲気は大切にしていました。身近なところに新聞や本を置いたり、読み聞かせをしたり。3歳までに1人につき、のべ1万冊の読み聞かせをし、のべ1万回童謡を歌って聞かせました。すごいでしょ?

                     

                    【和田】それはすごい!

                     

                    【佐藤】一緒にたし算の勉強なんかをしていると、「あれ、この子、7+8 が他の計算より 0,005 秒遅いわ」とか気が付くんですよ。その小さな違いが、のちのち大きな躓(つまず)きの原因になると思って、7+8 を何度も練習させました。,005 秒の違いに気付いてやれるのは親だけですから、一緒に乗り越えていけるようなやり方を探せばいいんです。やはり、子どもが勉強できないというのは、私は親のせいだと思いますね。親の努力不足。できないのはやり方が間違っているから。その子に合ったやり方を見つけてやれるのも親だけだと思います。

                     

                     

                     

                     

                    あわわわ・・・。佐藤ママは子供が1歳になるかならないうちから公文に通わせ、3歳の頃にはバイオリンとスイミングも習わせていたそうです。子供が帰宅すれば「のべ1万冊の読み聞かせ」と「のべ1万回の童謡」が待っています。これでよく発狂しなかったものだと思います。私は立派な「児童虐待」だと思いますけど・・・。

                     

                     

                     

                    3歳までに「のべ1万冊の読み聞かせ」って、1日何冊になるんでしょうか。1年で3,333 冊。1日で約9冊ですね。しかも0歳児の時からですよ。日曜日も、クリスマスも、正月も関係なく毎日9冊!1日サボれば2日で18冊。一体どんな本を読み聞かせしていたのでしょうか。ぜひ知りたいですね。和田秀樹氏はこんな素朴な疑問すら抱かなかったのでしょうか。

                     

                     

                     

                    それにしても、1万冊の本をどこに収納していたのでしょうか。私はそのボリュームを想像できるのですが、3歳までの読み聞かせに適切な本を1万冊どうやって選んだのでしょうか。「佐藤ママ」の家は、かなり本格的な児童図書館なのでしょうね。

                     

                     

                     

                    「あれ、この子、7+8 が他の計算より0,005秒遅いわ」に至っては、何というか、シュール過ぎて言葉がありません。0,005秒って、どんなストップウォッチで計ったのでしょう。この0,005秒の差がのちのち大きな躓(つまず)きの原因になるような人生って、誰のどんな人生でしょう?もう頭がくらくらしてきました。余りのバカさ加減に。

                     

                     

                     

                    バカなのは「佐藤ママ」だけではありません。「佐藤ママ」の「すごいでしょ?」に「それはすごい!」と応じる受験本のカリスマ・和田秀樹氏も同類です。「佐藤ママ」は東大理三出身の精神科医に賛同してもらって舞い上がっています。和田氏も東大理三にわが子を4人合格させて注目された「佐藤ママ」に一目置いています。

                     

                     

                     

                    よくもこんな他者意識(誰に読ませるのか、その結果どのような影響をもたらすのか意識すること)のない対談ができるものです。身内意識でもたれ合っているだけです。この二人は東大理三を現世の教育界における最高神だと崇めることで正常な感覚を失くしたバカな大人に過ぎません。もはや平気でウソをついても誰からも批判されないだろうと、たかをくくっているのです。誰かにそっくりです。令和元年の日本のエリートたちの精神構造はここまでシュールになっているのです。

                     

                     

                     

                    もうやめにします。最後に和田秀樹氏に一言。あなたは以下のようなタイトルの本を出していますが「佐藤ママ」が「自分を平気で盛る人」だとは気付かなかったのですか?精神科医なのに・・・。あなたを信用できないのは、いい歳をしてこういう肝心なことに気づかない「お利口さん」だからです。

                     

                     

                     

                    この二人のバカな大人に対する本格的な批判は次回に回しますが、それは私自身の経験と真に知的な子どもを育てる方法を語ることになります。よければ、もうしばらくお付き合い下さい。

                     

                     

                     

                     

                     

                     

                     

                    アマゾンのレビューではこの二人の本を評価する人が多いのですが、そもそもまともな親はこんなタイトルの本に手を出しません。佐藤ママによれば、子育ては3歳までに「ざっくり」「ゆるく」「とりあえず」1万冊の本を読み聞かせ、1万回童謡を聞かせ、公文とバイオリンとスイミングを習わせるのですね。まともに相手をするのがアホらしくなります。

                     

                     

                    | 教育 | 22:26 | comments(0) | - |
                    原発の問題は禁忌の問題そのものです。
                    0

                      昨日はホルトホール大分へ元福井地裁裁判長・樋口英明さんの講演を聞きに行きました。その前日は、大分のOPA前で山本太郎参議院議員の街宣があることを元教え子のSさんに教えてもらったのですが、都合で行けず、山本議員を励ます機会を失いました。本当に残念です。

                       

                       

                       

                      樋口さんのことは過去何度もブログで取り上げているので、顔見知りのような気がして楽しい講演会でした。それにしても裁判官が退官後とはいえ、自分が下した判決について言及するだけでなく、講演までするというのは前代未聞のことです。その理由は国家の存亡にかかわるからだというのです。

                       

                       

                      謦咳に接することの大切さを身にしみて知っているので、30分前には会場に入り、一番前の席に座りました。徐々に席は埋まり、会場は一杯になりました。それでも若い人の姿はほとんどありません。

                       

                       

                      講演は次のように始まりました。


                      3・11以後、地震を理由に原発をとめた裁判長は2人。止めなかった裁判長は15人以上だそうです。その差は、政治的な圧力などではなくて、危険性が分かっているかどうかだと言います。拍子抜けするほど単純な理由です。

                       

                       

                      大分講演では、裁判長は皆確信を持って判決を書いている、圧力に屈して判決を書いたのならわかるが、確信を持って書いているので怖いと発言されていました。裁判官という職業の核心に触れる発言だったので、私は思わず笑ってしまいました。要するに裁判官は確信犯的な専門職なのです。

                       

                       

                       

                       

                      以下の動画は大分での講演ではなく、5月11日に愛知で行われたものです。大分での講演がアップされたら切り替えます。

                       

                       

                       

                      彼の講演は中学生にでもわかる平明さと、巧まぬユーモアにあふれていて分かり易いものでした。小難しい法理論をこねくり回すようなものではなく、本当に国民の側に立った判決を下せる人の人柄がにじみ出ていました。

                       

                       

                       

                      5月24日のブログで私は次のように書きました。

                      http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=566

                       

                       

                      「私の出身校である大分上野丘高校の先生方や生徒さんたちは、彼の話にきっと共感してくれるだろうと思います。特に大学の法学部を目指し、将来、裁判官や弁護士、検察官を希望している人にはめったにない機会です。当日は高校生の皆さんで一杯になるといいですね。」と。もちろんアイロニーです。

                       

                       

                       

                      「県立トップ校」の教師たちがこの講演会のことを生徒に知らせるわけがありません。そもそも知らない教師がほとんどでしょう。そんな講演会で時間をつぶすより英単語の1つでも覚えた方がましだと考えるのが彼らの発想です。

                       

                       

                       

                      今の学校教育では、生徒も教師も、自分だけではなく将来の子供たちやそのまた子供たちの命に関わることよりも、「自分の夢の実現」に注力することの方が大事だと思っているのです。

                       

                       

                       

                      マックス・ウェーバーを引き合いに出すまでもなく、政治こそ文化の最高形態です。上野丘高校の生徒さんが、香港の学生のような政治意識を持つ日は果たしてやってくるのでしょうか。それともホリエモンのように無知で頭の悪い人間の影響を受けて、デモをする若者たちを罵倒するようになるのでしょうか。

                       

                       

                       

                      受験勉強という世間から隔絶した透明な檻の中で、キャラを立て、お笑いに名を借りた芸が受けるかどうかを気にするような日常を送っていては、真の学力など身に付きようがありません。

                       

                       

                       

                      話がそれました。

                       

                      樋口さんの講演は、学ぶということの意味だけではなく、知的な人間になるためのヒントが詰まっていました。彼の考えはすべて「そもそも」と言う素朴な疑問から発せられていることが分かります。

                       

                       

                       

                      開口一番、「そもそも危険って何ですか?」に始まり、「科学的思考とは何ですか?」「事実って何ですか?」「仮説に過ぎないものを学問的定説と見なすことができますか?」と続きます。常に原点に立ち返って説明するので、わかりやすいし説得力があります。

                       

                       

                       

                      もちろん、法律の専門家ですから、事実や科学的な知見を法律的に構成して世間に問わなければなりません。彼に最高裁の判例を踏襲しただけのつじつま合わせの判決ではなく、国民の胸に響く判決を書かせたのは、「理想の審判者としての国民」を信じる知性であり、専門家の発想を超える勇気あるアマチュア精神のなせるわざだったのです。これこそが憲法に謳われている裁判官の「独立性」であり「良心」なのです。

                       

                       

                       

                      彼は言います。

                       

                      「政治家の仕事は、消費税を上げる上げない、移民を認める認めない、というような選択の仕事だけど、私はそんなに政治家に対して厳しいことは言わない。選択で60%合っていればいい、40%間違っていても少しずつ世の中良くなる。だけど、そうじゃない、原発の場合は。

                       

                       

                      医師の国家試験で85点の人が合格して95点の人が不合格になる。なぜそうなるかと言うと、医者の国家試験の選択問題で、患者が死亡する薬を選んでしまったら落ちる。取り返しのつかないことをする人は医者としての資格がないと考えるから。これを禁忌の問題と言う。原発の問題は禁忌の問題そのものです。

                       

                       

                      だからそれぞれ責任を、総理大臣としての責任を果たしてほしい、裁判所は裁判官の責任を果たしてほしい、私は裁判官としての責任を果たしたという自負はあるが、それで自分の責任は終わっているとは思わない。原発の本当の危険性を知ってしまった以上、それを皆さんに伝えるのが私の責任だと思っています。それを聞いてしまった皆さんの責任は?それを伝えることじゃないですか。特に若い人に伝えて下さい。若い人は原発に対して責任がないけど負担だけまともに負っちゃう。非常に申し訳ない。そういう若い人に特に伝えて下さい。それがあなた方の責任です。」と。

                       

                       

                      | 中高生の皆さんへ | 13:08 | comments(0) | - |
                      私たちはいつまで騙され続けるのか。
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                        ゲームに夢中になっている小学生なら、いや、ゲームをしていない小学生でも以下の問いには簡単に答えられるでしょう。

                         

                         

                         

                        すぐ近くでじっとしている標的と動いている標的とでは、どちらが狙いやすいですか?仮に相手から攻撃された場合、どちらが反撃しやすいですか?

                         

                         

                         

                        もちろんある場所に固定されている標的の方が攻撃も反撃もしやすいですよね。攻撃とか反撃とか物騒な言葉を使うのはどうかと思いますが、ゲームの中では当たり前の発想です。

                         

                         

                         

                        つまり、ゲームという一見価値中立的なヴァーチャル空間の中で、子供も大人も戦争のシュミレーションをしているのです。そこでは、ほとんど条件反射的に敵を攻撃するように仕組まれています。

                         

                         

                         

                        ところで、上の問いに対して、信じられない答をした人がいます。その人は国を守るということ、すなわち安全保障に関して詳しい(あくまで戦車に乗ってピースサインをしてみせるような人物の脳内ゲームレベルですが)と言われている人物です。そうです、わが国の総理大臣・安倍晋三氏です。

                         

                         

                         

                        今年の2月12日、衆院予算委で「イージス・アショア」導入について、その必要性に疑問を投げかけられて答えました。

                         

                         

                        イージス・アショアというカタカナでごまかしていますが、要するに、海上を動き回る艦艇にではなく、陸上に6000億円以上をかけてイージスの基地を作るというのです。

                         

                         

                         

                        「まさに陸上においての勤務となる。これは(洋上勤務となるイージス艦とは)大きな差なんですよ、全然ご存じないかも知れませんがね。(隊員が)自分の自宅から通えるわけですから。勤務状況としては違うんですよ。そういうことも考えていかなければいけない。実際に皆さんは勤務されたことがないから、そんなことをおっしゃっているんでしょうけど」

                         

                         

                         

                        あわわわわ・・・。陸上にミサイル防衛システムを配備することの危険性、すなわち国民の命を危険にさらすことになるという指摘に、「(隊員が)自分の自宅から通えるわけです」と答える総理大臣など前代未聞です。「自分の自宅から通える」範囲で戦争できるんですよ、隊員の負担が軽くなるでしょ、と言っているのです。

                         

                         

                         

                        なぜこのようなハチャメチャな答弁になるのでしょうか。一つには晋三氏の能力に問題があるのは当然ですが、実はすべてをアメリカ(アメリカ国民ではなくアメリカの兵器産業とその株主であるトランプ政権の閣僚たちや日米合同委員会)に依存して何も考えなくても済む、考えても無駄という状況になっているからです。

                         

                         

                         

                        そもそも、イージスとは特殊なレーダーと高度な情報処理・射撃指揮システムにより、200を超える目標を追尾し、その中の10個以上の目標を同時攻撃する能力を持つと言われています。う〜む、なんだか凄いですね。頼りになりそうです。

                         

                         

                         

                        しかし、それは日本を守るためのものではありません。以下の図を見て下さい。秋田市も山口県の萩も、北朝鮮のミサイル基地とハワイおよびグアムの米軍基地を結んだ直線上に位置しているのです。だからイージスは日本を守るためではなくアメリカを守るためのものだという人が多いのです。その通りなのですが、「アメリカを守る」のではなくアメリカの兵器産業を守るためです。

                         

                         

                         

                         

                         

                        わが国はすでにイージス艦を7隻持っていますし、2020年には8隻態勢になります。もちろんアメリカは陸上にイージスの基地を作ったりしません。国民の命を危険にさらすことになりますし、市民が反対して作らせないでしょうから。すべて艦艇に搭載しています。

                         

                         

                         

                        欠陥戦闘機のF35や事故が多くてアメリカでは使用できないオスプレイは、日本に買ってもらうしかないのです。もちろん陸上にイージスを配備することなど常識では考えられません。いったいそんなものに莫大な税金を投ずる国が日本以外にあるでしょうか。

                         

                         

                         

                        ところで、皆さんは北朝鮮に対してどのようなイメージを持っていますか。狂人的な独裁者が支配しているイカれた国で、いつミサイルをぶっ放すかわからない怖い国、といったところでしょうか。しかし、これはすべて新聞やマスコミによって捏造されたイメージです。

                         

                         

                         

                        外交一つとってみても、日本よりもはるかにしたたかで緻密な計算をしています。安倍政権の外交が何一つ成果を上げられず「やってる感」だけを演出しているのと対照的です。

                         

                         

                         

                        北朝鮮はすでに160カ国と通商関係を結んでいます。ロシア、中国、韓国、イタリア、スイス、シンガポール、インド、台湾、香港、タイなどから投資を受け、350社を超える合弁企業を設立しています。このように各国は軍事的な対立を演出しながら、裏では経済の協調体制を敷いているのです。

                         

                         

                         

                        皆さんは2017年の8月、北朝鮮からミサイルが飛んでくるとしてJアラートが発せられていたときのことを覚えているでしょう。都内では電車が運休し、各地で避難訓練が行われていたとき、総理大臣はゴルフに興じ、閣僚たちは外遊に出かけていました。国際線は通常運航でした。不動産株も銀行株も国債にも変動はありませんでした。つまりこれは、日米の防衛予算を増やすためのヤラセに過ぎなかったのです。

                         

                         

                         

                        ここで一つ面白いエピソードを紹介しましょう。わが大分県の中高一貫高である県立H高校は、ヤラセに引っ掛かってグアムへの修学旅行を取りやめました。これだけでもびっくりですが、なんと旅行先を福島に変更したのです。まあ県立高校のトップの政治意識はこんなものでしょうが、楽しみにしていた生徒たちがかわいそうです。

                         

                         

                         

                        さてもう終わりにします。国際社会は北朝鮮を脅威とみなしていません。それどころかアメリカの鉱山協会は北朝鮮で資源開発調査を行い、フランス系の資本が携帯電話網を整備し、ドイツのDHL社が物流インフラを整備し、日本の出資を受けているラファージュ社が軍事物資であるセメントを生産しています。これを受けイギリスは北朝鮮専門の開発ファンドを設立しているのです。

                         

                         

                         

                        本を読み、ネットを活用すれば(そのためには、本物の英語力をつける必要があります)これくらいの情報は手に入るのです。これでもあなたは、捏造された北朝鮮のイメージを信じ続け、騙され続けるのでしょうか。しかし一体いつまで?

                         

                         

                         

                        最後に一言。北朝鮮が本気で日本やアメリカを滅ぼそうと考えるなら、日本海側にずらりと並んだ原発をミサイルで攻撃するはずです。これで世界の資本主義経済は終わります。もちろん北朝鮮も同じ運命をたどります。それから先の世界がどうなるかは、想像力のある作家や映画監督に任せるほかありません。

                         

                         

                         

                        過去記事

                         

                        「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」

                        http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=402

                         

                        公立中高一貫校の「前倒し学習」って何?

                        http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=256

                         

                        北朝鮮の問題で安倍首相が主体的に決断できる可能性は1%もない。

                        http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=406

                         

                        現代の戦争に偶発はない、すべて営利行為である。

                        http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=339

                         

                        気分はほとんど開戦前夜

                        http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=401

                         

                        | 政治 | 14:22 | comments(0) | - |
                        Idiot Box (バカの箱)を遠ざける。
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                          何十年振りでしょうか。ヘミングウェイの短編小説『心が二つある大きな川』を読んでいます。原題は Big Two-Hearted River。どういうわけか題名を含めて、いや題名ゆえに心に残る小説です。

                           

                           

                           

                          彼の小説は自伝的要素を含んだものが多く、しかもすべての文章が暗喩になっています。主人公が人里離れた渓流へ鱒釣りに行き、テントを張り、鱒を釣り、食事を作り、毛布を敷いて眠る、ただそれだけのストーリーです。

                           

                           

                           

                          表現は簡潔で、引き締まった文体は、感情移入する余地がほとんどありません。戦争で深く傷ついた心を持てあましている主人公が、自己回復のために一人で自然と向き合い、日常に復帰しようとする物語です。

                           

                           

                           

                          この小説は、子供を交通事故で亡くした母親が、家にこもっていると気が変になりそうなので、外に出てひたすら手作業に没頭することで精神の安定を取り戻す話を思い出させます。

                           

                           

                           

                          ヘミングウェイの小説は、日本の作家では小川国夫を彷彿とさせます。私は二十歳の頃、彼の小説を好んで読んでいました。当時の私は精神の重りになるような文章を必要としていたのです。たまたま、大阪の旭屋書店に行くと、彼のサイン会が開かれていました。偶然とはおそろしいものです。

                           

                           

                           

                          実物の彼は物静かで、ギリシャ彫刻を想わせる彫りの深い顔をしていました。作家然としたところがなく、淡々とサインに応じていました。マイナーな作家でも熱心なファンがいて、次々に色紙を差し出していました。

                           

                           

                           

                          私は色紙など準備していません。そこで彼の全集本の一冊を買って、それを恐る恐る差し出しました。彼は私の目をまっすぐ見つめ、裏表紙にサインしてくれました。それが以下の画像です。後日、私は乏しい小遣いをはたいて彼の全集を買いました。軽佻浮薄な言葉が雑音のように頭の中に侵入してくると、彼の本を読んだものです。

                           

                           

                           

                           

                           

                           

                          欧米の知識人はテレビを Idiot Box (バカの箱)と呼んでいます。しかし、多くの日本人はテレビなしでは時間を持て余すだけでしょう。一週間だけでもいいから、テレビなしの生活を送ってみてはどうでしょう。

                           

                           

                           

                          そもそも、Idiot Box が垂れ流すニュースは、総理大臣とマスコミが酒を飲みながら内容を決定しているのです。政権とメディアの談合です。特に安倍総理のお気に入りであるNHKの岩田明子氏の垂れ流すニュースはフェイクニュースならぬ大本営発表と化しています。

                           

                           

                           

                          当然、TPP の危険性も原発事故の実態も報道されません。日本新聞協会も自民党に献金しているので、新聞にも期待できません。野党の立憲民主党も東京電力の労組から支持されているので、真に国民の側に立った政策など望むべくもありません。

                           

                           

                           

                          私は、政治的な内容のブログを書くことに飽き飽きしています。もっと書きたいことがあるのです。しかし、「政治的」という言葉がいつの間にか「政権を批判する言葉」という意味にすり替えられ、「芸人は政治的発言をするべきではない」というように使われています。それが証拠に、安倍政権をヨイショする松本人志とその影響下にある芸人の発言は「政治的」とは見なされません。

                           

                           

                           

                          テレビに気を取られているすきに、グローバル資本によってこの国は乗っ取られてしまいました。それに気がついて、押し戻そうとしている政治家は山本太郎一人だけとは、余りに気が滅入る風景ではないでしょうか。

                           

                           

                           

                          私は、残りの人生を自分の好きなことをして暮らしたいのです。しかし、政治がこの体たらくではそれもできません。この国の行く末がどうしても気にかかるのです。若い人に期待するしかないのですが、それが極端なアメリカ排斥主義にならないように、小さな声を上げ続けるつもりです。モットーは「一人でもやる。一人でもやめる」です。今回も読んで頂きありがとうございました。

                           

                           

                          | 文学・哲学・思想 | 14:23 | comments(0) | - |
                          頭がよくなる魔法の言葉。
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                            今回のタイトルは、売り上げ至上主義の低劣な出版社が出す本の題名のようで気が引けます。『受験は母親が9割』だの『英語で一流を育てる』だの『学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶應大学に現役合格した話』などというタイトルが、いったいどのような読者をターゲットにしているか、ブログをお読みいただいている方にはもうお分かりでしょう。

                             

                             

                             

                            この種の本は自分の頭で考えることのできないバカな読者をターゲットにしているのです。上昇志向・ブランド志向を刺激するバカ本ですが、中身は詐欺そのものです。

                             

                             

                             

                            過去記事

                             

                            「ビリギャル本」の詐欺性について

                            http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=292

                             

                             

                             

                             

                            前置きはこのくらいにしてさっそく魔法の言葉をお教えしましょう。ただし、正確には「考える力がつく魔法の言葉です」。

                             

                             

                             

                            それは「そもそも」という言葉です。物事の本質を考えたり、問題がどこから生じているかその原因を考えたりするときに、私たちが思わずつぶやく言葉です。逆に、「そもそも」とつぶやけば、私たちを原理的・本質的な思考にいざなってくれます。言葉は恐ろしいですね。

                             

                             

                             

                            少し例を挙げてみましょう。学校でこれから新しい単元を学習するときに、あるいは学習が終わった時につぶやくのです。そもそも化学反応とは何か、そもそも虚数とは何か、そもそも酸とアルカリとは何か、等々。

                             

                             

                             

                            そして先生に質問するのです。ただし、1分で説明してくれるように頼みましょう。「そもそも、指数関数と対数関数はどのように関連しているのですか。」などと。実力のある先生は必ずや1分で説明してくれます。

                             

                             

                             

                            1分で説明するためには、日頃から余分なところを切り落とし、関連個所とのつながりやその単元を学習する意味を考えていなければなりません。それを可能にするのが「そもそも」という小さな言葉なのです。

                             

                             

                             

                            授業中に「そもそも」という言葉を使う先生はいい先生です。もっとも、「そもそも」と言いながら、わが国の首相のようにちっとも「そもそも」になっていない説明をダラダラと続ける人もいます。そういった説明を聞いていると確実に頭が悪くなるばかりでなく、考えることもできなくなります。

                             

                             

                             

                            ところで、皆さんは「ミラーニューロン」をご存知でしょうか。聞いたことのある人も多いと思います。1996年にイタリアのジャコモ・リゾラッティがサルの実験で発見しました。

                             

                             

                             

                            例えばサルがもの持ち上げる動作をすると、それに伴って脳の一部が活動します。ところが驚くべきことに、その脳の同じ部位が、他のサルがものを持ち上げる動作を見ているだけでも活動するのです。自分が運動しているときだけでなく、他者の運動を見ているときにも、あたかも自分がその運動をしているように脳が活動するのです。これを「ミラーニューロン」と言います。

                             

                             

                             

                            何が言いたいのかというと、私たちは生まれつき他者と共感する強い能力を持っているということです。言い換えれば、私たちは他者の思考から強い影響を受けるようにできているのです。学ぶことは影響を受けることです。それは生き延びるために私たちのDNAにインプットされた神秘的な力です。

                             

                             

                             

                            つまり、「そもそも」という言葉を使って原理的・本質的な思考をする教師の授業を受けていると、生徒もおなじように思考できるようになるのです。そして、そういった思考は必ずや他分野へと波及します。結果、言われたことを鵜呑みにするのではなく、疑問を持ち、物事を批判的に見るようになります。

                             

                             

                             

                            こうやって知性が誕生するのです。以前、知性は独自性ゆえに個人の内部にとどまり、いわば命を宿し呼吸しているので感じるほかないものだと言いました。知性はその人の生き方から分泌されるもので、時間や量で切り売りできる知識とは違うのです。ましてやいわゆる学歴とはまったく関係ありません。

                             

                             

                             

                            過去記事

                             

                            『知性とは生死の「機微」をつかむことから生まれる美意識である。』

                            http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=384

                             

                             

                             

                            しかし、「そもそも」などと考えていたら、時間がいくらあっても足りないだろうと考える人もいるでしょう。そうなのです。学ぶことは時間との勝負だと考えている人にとって「そもそも」思考は障害以外の何ものでもありません。ここに受験勉強の大きな落とし穴があります。

                             

                             

                             

                            例の「佐藤ママ」はこの落とし穴に落ちた典型的な「善意」の人です。「善意」ですから歯止めが利きません。自分は社会に求められていると勘違いして、出版社や塾と協力して他人も巻き込みます。

                             

                             

                             

                            社会的には何ら責任を果たしていないにもかかわらず、4人の子供が東大医学部に合格したというだけでまるで偉業を達成したかのごとく持ち上げる出版ジャーナリズムはいよいよ末期です。

                             

                             

                             

                            実際には、大学合格のための精緻なマニュアルを手に入れ、ある種の情熱と家庭環境にものを言わせて、それを忠実に実行したに過ぎません。「佐藤ママ」は自己承認欲求のかたまりであり、それがエスカレートして最近では常識外れのレベルにまで達しています。この件に関しては次回触れるつもりです。

                             

                             

                             

                            最後に「そもそも」が波及していく例をお目にかけましょう。全部を挙げることなど到底できません。「そもそも思考」は、たえず発展・生成し続けるものであり、すべてが関連しているからです。それに気づけば、人は自ら永久に学び続けるのです。

                             

                             

                             

                            あなたは以下の問いに1分で答えられますか?

                             

                            ・そもそも言語とは何か。

                            ・そもそも私たちが見ている世界は同じなのか。

                            ・そもそも幸せとはなにか。

                            ・そもそも社会とは何か。

                            ・そもそも何のために学ぶのか。

                            ・そもそもなぜ学校に行かなければならないのか。

                            ・そもそも資本主義とは何か。

                            ・そもそも貨幣とは何か。

                             

                             

                             

                            | 中高生の皆さんへ | 20:59 | comments(0) | - |
                            僕たちは希望という名の列車に乗った。
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                              今回のタイトルは昨日(6月11日)観た映画のタイトルです。大分のシネマ5bisで現在上映中です。

                               

                               

                               

                               

                              時代は1956年、冷戦下の東ドイツ。東西ドイツを分断するベルリンの壁が建設される5年前の実話を映画化したものです。

                               

                              パンフレットから簡単にストーリーを紹介しておきます。

                               

                               

                              「1956年、東ドイツの高校に通うテオとクルトは、列車に乗って訪れた西ベルリンの映画館でハンガリーの民衆蜂起を伝えるニュース映像を目の当りにする。クラスの中心的な存在である二人は、級友たちに呼びかけて授業中に2分間の黙祷を実行した。それは自由を求めるハンガリー市民に共感した彼らの純粋な哀悼だったが、ソ連の影響下に置かれた東ドイツでは“社会主義国家への反逆”と見なされる行為だった。やがて調査に乗り出した当局から、一週間以内に首謀者を告げるように宣告された生徒たちは、人生そのものに関わる重大な選択を迫られる。大切な仲間を密告してエリートへの階段を上がるのか、それとも信念を貫いて大学進学を諦め、労働者として生きる道を選ぶのか・・・・・。

                               

                               

                              無意識のうちに政治的タブーを犯してしまった若者たちが、仲間との友情や恋を育みながら、ある時はまっすぐに主張をぶつけ合い、人間として正しきこととは何かをひたむきに模索していく姿は見る者の心を強く揺さぶる。過酷な現実にさらされた彼らの、人生のすべてをかけた決断とは?希望を追い求めた若者たちの“小さな革命”を未来へと続く“列車”とともに描き上げた感動の実録青春映画」

                               

                               

                               

                              この映画は、社会主義的・共産主義的イデオロギーがいかに人間の自由を奪うものか、理想に名を借りた政治権力がどれほどおぞましいものかを見事に描いています。

                               

                               

                               

                              映画を観ながら、私は大学受験に失敗して浪人しているときに読んだ、林達夫の『共産主義的人間』をしきりに思い出していました。この本を読むことで、未熟ではあれ、自分なりの政治的スタンスを確立したのです。

                               

                               

                               

                              この事件から63年がたった現在、世界は、そして日本はどうなっているでしょうか。日本は自由で平和な国と言えるでしょうか。国家は弱者に寄り添い、思想信条の自由・表現の自由に最大限の配慮をしているでしょうか。若者は未来に大いなる希望を抱き、同世代の人間たちと連帯して毎日を生き生きと過ごしているでしょうか。

                               

                               

                               

                              第二次安倍政権が誕生してからというもの、この6年ほどの間に「政治的」という言葉は、もっぱら「政府を批判する言説」「反安倍的」という意味でのみ使われるようになりました。それが証拠に、現政権に対して親和的な言説やイベントは、警戒もされず、忌避されることもありません。つまりそういった言説は「政治的ではない」のです。

                               

                               

                               

                              言葉の解釈や使用法を歪めることは、独裁権力が常にやって来たことです。言葉を歪めることで世界を歪め、自分たちに都合のよい事実を捏造するのです。

                               

                               

                               

                              ところで、この映画を観て感想を述べ合い、議論している高校生がいるでしょうか。私の出身校である大分上野丘高校は、いわゆる県立トップ校ですから、主権者教育の一環として当然、先生方と生徒の皆さんで議論する計画を立てていることでしょう。政治と歴史を学ぶのに格好の素材です。受験科目にないということで世界史の授業をカットした恥ずべき前科があるのですから、それを反省して、今はまともな教育がおこなわれていると信じたいですね。

                               

                               

                               

                              もう終わりにします。私が政治について語る理由はただ一つです。政治ほど善意を悪用して人々の人生を破滅させるものはないからです。

                               

                               

                               

                              例えば、辺野古の民意を無視した強権的な埋め立て、イージス・アショアの杜撰さ。両者とも日本を守るためではありません。政治の本質は羊の皮を被ったオオカミです。政治によって人生を狂わされたくなければ、政治を知る必要があるのです。

                               

                               

                               

                              この映画は、若者の素朴な正義感や倫理観こそが世界をよりよき場所に変える可能性があることを暗示しています。ラストシーンが素晴らしい。日本では、そういった若者は、学校教育によって片隅に追いやられ、変人扱いされ、後ろ指を指されているかもしれませんが、それこそが異常なのです。韓国や香港や台湾の若者は、日本のはるか先を行っています。この映画は、日本の若者を含めて、世界の若者にエールを送っているのです。

                               

                               

                              | 政治 | 13:01 | comments(0) | - |
                              政治を変えるのは若者の「倫理的な力」である。
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                                朝起きて鶏小屋へ行き、水を換え、餌をやり、ジャガイモやピーマンを収穫した後、葡萄の苗の成長を心待ちにする日々です。写真のような葡萄棚になるには数年かかります。ひと汗かいた後、朝食をとり、読みかけの本を開きます。夕方からは塾の準備をして授業に臨みます。さしたることのない平々凡々な日々です。

                                 

                                 

                                 

                                 

                                しかし、外の世界に目を転じると、フェイクニュースやプロパガンダが拡散され、デマゴーグが跳梁跋扈し、全体主義的な情報操作が現代によみがえって重要な政治決定を蝕んでいます。以下の本は NYT 紙の文芸評論で活躍し、ピューリッツア賞に輝いたミチコ・カクタニ氏の『THE DEATH OF TRUTH 』(真実の終わり)です。トランプ政権に象徴される民主主義の危機の深層に迫る労作です。

                                 

                                 

                                 

                                 

                                ハンナ・アーレントは1951年の『全体主義の起源』の中で次のように書きました。

                                 

                                「全体主義的統治の理想的な臣民は、筋金入りのナチでも共産主義者でもなく、事実と虚構の区別、真と偽の区別をも、もはや見失ってしまった人々なのだ」と。

                                 

                                 

                                 

                                それから20年後、1971年のエッセイ『政治におけるウソ』の中で次のように記しています。

                                 

                                「われわれが送っている日常生活という事実の織物全体がいかにもろいものであるかは、歴史家のよく知るところである。それは常に一つのウソによって穴を開けられたり、集団、国民、階級の組織されたウソによって引き裂かれ、否定され、ゆがめられ、またしばしば山のように積み重ねられた虚偽によって周到に覆い隠されたり、ただ忘却の淵に沈むにまかされたりする危険にさらされている。事実が人間の領域に安住の地を見いだすためには、記憶されるための証言や確証されるための信用のおける証人が必要である」と。

                                 

                                 

                                 

                                世界でこの状況に抗して闘っている人間がいます。山本太郎、バーニー・サンダース、ジェレミー・コービンです。全員が反緊縮派です。彼らは胡散臭い人間だとして後ろ指を指され、嘲笑の的にされています。しかし、後ろ指を指し、嘲笑しているのは誰か。

                                 

                                 

                                 

                                日本では、安倍政権による略奪が続いているのに、これまで何とかなったのだからこれからも何とかなると安易に考えている国民自身です。山本太郎は消費税の廃止を主張しています。素朴に考えればまことに当たり前な主張です。

                                 

                                 

                                 

                                これまで徴収された消費税は総額でおよそ397兆円に達します。社会保障に当てるという名目で導入されましたが、ほぼ全額が大企業の還付金や減税に当てられました。支配層(財界、官僚およびそれに操られた政治家たち)が消費税にこだわるのは、経済がどれほど悪化しても生存にかかわる基礎消費は変わらないので、安定的に搾り取ることができるからです。大企業の内部留保は500兆円を超えていますが、これは派遣法改正で非正規社員となった人々の所得を収奪することによって蓄積されたものです。

                                 

                                 

                                 

                                以上より、消費税の廃止を訴えない政治家は政治献金と地位だけが目的の木偶の坊なのです。政権が代わっても何も変わらないでしょう。

                                 

                                 

                                 

                                格差社会も分断も政治とメディアによって意識的に作られたものであり、民衆の不満や怒りが支配層に向かないように、スケープゴートとして「移民」「生活保護受給者」「公務員」がバッシングされていることに私たちは気づかねばなりません。

                                 

                                 

                                 

                                特に日本は国民の民度を超えた未曾有のカタストロフィーが進行中です。言わずと知れた原子力災害です。それを直視すれば、日本経済が崩壊するので、考えてはならないこと、なかったことにされているのです。

                                 

                                 

                                 

                                まともな神経をしていればこういった超ド級の原子力災害のさなかに3兆円をかけてオリンピックを開くことが正気の沙汰でないことは明白です。その陰で避難者は補償を打ち切られ、汚染地域への帰郷を余儀なくさせられているのですから。

                                 

                                 

                                 

                                そんな中、山本太郎は政治家としてただ一人オリンピックに反対しています。政策に原発即廃炉を掲げています。現実感覚を喪失してさえいなければ、これまた当然のことを言っているに過ぎません。

                                 

                                 

                                 

                                いつの時代でも、危機に際して登場し、危機を救う真に力ある思想は、思いもかけない場所に潜んでいます。職業的思想家の中にでもなければ、二代目三代目の政治家の中にでも断じてありません。個人的な温かみや寛容さ、そして誠実さ、原則を守る姿勢、倫理的な力を持った天才的アマチュアの風貌をまとって登場するのです。

                                 

                                 

                                 

                                山本太郎、バーニー・サンダース、ジェレミー・コービンはこれに当てはまります。彼らはその時代の職業的思想家や政治家、経済学者、マスメディアから白眼視され、蔑視され、後ろ指を指されながらも執拗な戦いを続け、次第に共鳴者を獲得して世界を変革していくのです。

                                 

                                 

                                 

                                英国労働党党首、ジェレミー・コービンは言います。「個人の野心などまったくどうでもいい。これは、私たちの社会を、冷酷で分断されたものではなく、よいものに変えられる私たちみなの社会運動だ。前に進む道をみな知っている」と。

                                 

                                 

                                 

                                私は以前紹介した『エスタブリッシュメント』の中で、ジェレミー・コービンに興味を持ち以下の本を最近読み終わりました。この本によると、彼を支持したのは不安定な雇用状況にある若者でした。反貧困を掲げ、反緊縮を訴えたコ―ビンが彼らの共感を呼んだのです。

                                 

                                 

                                 

                                 

                                私はブログでも繰り返し言ってきたように、政治を大きく動かすのは若者の「倫理的な力」なのです。その倫理的な力を奪い、現実から目をそらさせ、自分に利益をもたらす進路だけに目を向けさせているのが学校教育であり、実質的に公教育を民営化する役回りを引き受けることで利益を上げている塾産業なのです。これについてはまた論じます。いつも小難しい話にお付き合いいただきありがとうございます。

                                 

                                 

                                暇があったら、以下の記事もお読みください。

                                 

                                『山本太郎は日本のバーニー・サンダースである。』

                                http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=524

                                 

                                『今年の1冊 よりよき〈生〉を生きるために。』

                                http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=542

                                 

                                 

                                | 政治 | 23:27 | comments(0) | - |
                                胡散臭い(うさんくさい)人間であり続けること − 加藤典洋氏を悼む。
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                                  今回のタイトルを見て、こいつはついにおかしくなったか、と思う人もいるでしょうね。ではタイトルを変えましょう。「人から後ろ指を指される人間になれ」はどうでしょう。

                                   

                                   

                                   

                                  私は反語もアイロニーも逆説も通じなくなった社会に絶望しているのですが、それにしても、いつからこの国はこれほど狭隘な精神に領されてしまったのでしょうか。息苦しさは増すばかりです。そこで今回は「呼吸法」について書きます。

                                   

                                   

                                   

                                  結論から言うと、私の「呼吸法」は、胡散臭い(うさんくさい)人間であり続けることです。今日のような逆説的な時代においては、真の誠実さは誠実さの風貌をまとっていません。むしろ反道徳的な風貌をまとっているはずです。私にとって自由な場所で思い切り深呼吸するためには、この種の「呼吸法=処世術」を身につける必要があったのです。

                                   

                                   

                                   

                                  エリートやエスタブリッシュメントを目指す生き方は、他人の呼吸に合わせなければなりませんから、自由に深呼吸できません。いつも酸素不足で疲れていて、自分の立場に有利かどうかというモノサシで人を判断するので、ろくな人間に出会えません。

                                   

                                   

                                   

                                  私は中学高校時代陸上部に所属していました。大会が近づくと練習するようなずぼらな学生でした。短距離の選手でしたが、今思うと全力で走った記憶がありません。はた目から見ると全力疾走しているのでしょうが、いつもゴールした瞬間、いったい俺は何をがんばっているのだろうかという思いがこみ上げて来て脱力したものです。

                                   

                                   

                                   

                                  そんな折、偶然、アラン・シリトーの『長距離走者の孤独』を読み、大いに共感しました。自分なりに呼吸することの気持ちよさに気づいたのです。それで少し救われた気になり、陸上部を自然退部しました。要するにどうでもよくなったのですね。今思うと、中学時代の経験がどこかで影響していたのかもしれません。

                                   

                                   

                                  詳しくは「ある教師から学んだ「公平さ」について」に書いています。

                                  http://www.segmirai.jp/essay_library/essay007.html

                                   

                                   

                                  何が言いたいのかというと、思春期は自分なりの「呼吸法」を身につけるべき時期なのに、学校教育がその機会を奪っていると言いたいのです。もちろん「呼吸法」は比喩です。学ぶタイミングとリズムのことであり、その人間の個性というか独自性を育てるのに欠かすことのできないものです。

                                   

                                   

                                   

                                  山に登るのも、泳ぐのも、全力疾走するのも、そして学ぶのも、「呼吸法」をものにしているとずいぶん楽です。周囲の人間たちの呼吸のリズムに合わせることは、肉体だけでなく精神をとても疲れさせます。そして、へたをすると自分だけでなく他人の生命を危険にさらすことになるのです。

                                   

                                   

                                   

                                  私は四六時中頑張れる人間ではありません。全力で取り組むのは一生に一度あればいいと思っています。ただし、自分の「呼吸法」を身につけた後です。

                                   

                                   

                                   

                                  学校のいじめは、自分なりの呼吸法を見つけることができない子どもたちの断末魔の叫びのような気がします。いじめる側もいじめられる側も、匿名のシステムである学校空間の中で息ができずに苦しんでいるのです。

                                   

                                   

                                   

                                  にもかかわらず、週刊誌(特に『週刊朝日』や『サンデー毎日』)は、毎年相も変わらず全国高校別大学合格者数を特集して、ランク付けに精を出しています。朝日新聞や毎日新聞が格差社会や安倍政権を批判したところで、同じ穴のムジナ同士の役割分担に過ぎないことがわかります。野党といえども、東京電力の労働組合のヒモつきなのですから、今の体制を変革しようなどといったところで、下手な洒落にもなっていません。

                                   

                                   

                                   

                                  話がそれました。「呼吸法」の話でした。学ぶということは人格の変容をともなうはずだと言いました。それは価値判断と無縁ではありません。Aという価値とBという価値の相克に悩んで、より上位のCという価値を創造するとき、それは倫理的な色彩を帯びてくるはずです。

                                   

                                   

                                   

                                  学ぶということは全身運動なのです。受験アプリをダウンロードしてチョコチョコやるようなものではありません。全身を使って呼吸法を覚えるのに似ています。そのためには何をすればよいのか。

                                   

                                   

                                   

                                  私に言えることはたった一つです。競争的な環境からいったん降りて、世間から胡散臭い(うさんくさい)目で見られるような場所に自分を置いてみることです。一人でいないと、あなたが必要とする人間に出会えません。立派な集団や組織の中にいて空気を読み、「上」を目指している限り、新しい世界の風景は見えないようになっています。

                                   

                                   

                                   

                                  これは、私が塾教師という経済的にきわめて不安定で世間から胡散臭い目で見られる場所に自分を置くことでわかったことです。胡散臭い場所で胡散臭い書物を読んでいると、必ず運命的な出会いがあるのです。どういうわけか、世界はそういうふうにできているのですね。

                                   

                                   

                                   

                                  自分の「呼吸法」を身につけることで出会った一人に加藤典洋氏がいます。5月16日に71歳で亡くなりました。私は書物を通じて彼に出会いました。彼の言葉は私の最も深いところに届くのです。書棚の一角には数十冊の彼の本が並んでいます。ひそかにカトちゃんコーナーと呼んでいます。

                                   

                                  ここでは高校生のために2冊だけ紹介しておきます。

                                  まず『言語表現法講義』そして『僕が批評家になったわけ』です。

                                   

                                   

                                   

                                   

                                   

                                   

                                   

                                  彼の本を読むことで、塾で教えられている国語の授業や論理的思考なるものがいかに薄っぺらで的外れで、貴重な時間を無駄にしているかがわかるでしょう。数カ月で偏差値が40上がるなどというのは金儲けのための自己宣伝にすぎません。眉唾ものです。そんなテクニックを高いカネを出して買うこと自体が、人間をとんでもなく堕落させるのです。

                                   

                                   

                                   

                                  論理的思考は頭の中だけで考えることとは違います。全身で生きることそのものを指すのです。これについては「なぜ東大生の人格は空洞化するのか」の続編で述べるつもりです。

                                   

                                   

                                   

                                  以下、『僕が批評家になったわけ』(p13〜14)から引用してみます。

                                   

                                   

                                  「批評というものが、学問とはとことん違い、本を百冊読んでいる人間と本を一冊も読んでいない人間とが、ある問題を前にして、自分の思考の力というものだけを頼りに五分五分の勝負ができる、そういうものなら、これはなかなか面白い」

                                   

                                  「批評とは、本を一冊も読んでなくても、百冊読んだ相手とサシの勝負ができる、そういうゲームだ」

                                   

                                  「あるできごとが価値あることか、価値ないことか。何が善で何が悪か。その判断にも、究極的には、本を百冊読んでいるかいないかは、関係してこないのではないか。そうでなければ、考える、ということの意味が、なくなるのではないか」

                                   

                                   

                                   

                                  私は高校を卒業してしばらくの間、小林秀雄の影響下にありました。時代に左右されない強靭な思考と、思ってもいないことを決して書かない倫理的な姿勢に惹かれたのです。加藤典洋氏もまたそういう人間の一人でした。

                                   

                                   

                                  小林秀雄については6年以上前に書いた記事をお読みください。

                                   

                                  「あまりにも浅薄な朝日新聞『天声人語』」

                                  http://www.segmirai.jp/essay_library/essay041.html

                                   

                                   

                                  何だか小難しい話になって来たので、この辺でやめにします。最後に少し柔らかい話題を。

                                   

                                  加藤典洋氏の山荘の話です。加藤氏が設計を依頼した相手は、なんと、かの中村好文さんでした。不特定多数を相手にせず、大勢から距離を置き、一人でいることを生き方の原理に据えている人は、不思議なもので、必ずその時々で必要な人に出会うのですね。縁は異なものというしかありません。

                                   

                                   

                                   

                                  加藤氏は要望書に一言「みすぼらしい家」にしてほしいと書いていたそうです。加藤夫人は山荘を持つことで「物持ち的な不自由感」を味わいたくないといい、理想は「雨風寒さがしのげることが身近に感じられる家」というものだったそうです。そうやってできたのが浅間山のふもとにある「Asama Hut」です。

                                   

                                   

                                  「Asama Hut」は建築面積39,66屐延床面積48,47屬任以下の写真は中村さんの『普通の住宅、普通の別荘』から借りたものです。詳しくはそちらをどうぞ。

                                   

                                   

                                   

                                   

                                   

                                  中村さん曰く「私は根が貧乏性なのだと思う。小さな建物、つつましやかな建物に心惹かれる。特に別荘となるとその傾向が強い。別荘はすべからくひっそりとした「大草原の小さな家」のようであってほしいと願うのである。場違いな規模と場違いな仕上げの別荘、これみよがしのデザインの別荘の前はできれば避けて通りたい。私が「Hut=小屋」という言葉を多用するのはこうした私の好みによる。」

                                   

                                   

                                  | 文学・哲学・思想 | 14:19 | comments(0) | - |
                                  無差別テロの時代。
                                  0

                                    川崎の無差別殺傷事件について気になることがあったので書いておきます。この事件の本質は無差別テロです。テロとは本来政治権力に向けられるものですが、ついに国民同士が殺し合う社会になったということです。しかも決まって子供たちや社会的弱者が犠牲になるのです。防ぎようがありません。

                                     

                                     

                                     

                                    文科省は「まさかこんな事件が起こるとは」と絶句しているとのことですが、その鈍感さには言葉が見つかりません。私は今から15年前にすでに予測しています。先見の明を誇るつもりなどありません。ただ、見ようとすれば誰の目にも見える世界の景色を言葉にしただけです。そして社会が、他人事ではなく、本当に子供たちのことを考えるなら、どういう処方箋を描くべきかについても述べています。

                                     

                                     

                                     

                                    未来塾通信29

                                    「驚くべき教育格差 − 中学受験の意味するもの −」

                                    http://www.segmirai.jp/essay_library/essay029.html

                                     

                                    末尾を一部抜粋しています。

                                     

                                     

                                    「高度に発達した文化・情報資本主義社会の中で、家庭の資産や文化力まで含めてあらゆるものがシャッフルされ、人生の早い段階で勝敗が決するのを、競争社会の必然的な結果だとして多くの人は受け入れることができるだろうか。突然、自分の努力ではどうしようもないところで勝敗が決まる教育という市場で、個人として競争に駆り立てられたら、そこに精神の変調や荒れが出現しても当然ではないか。しかも、教育競争から早めに降りざるを得なかった子どもたちほど、学習機会から遠ざけられ、本来持っていた学習能力を枯渇させてしまう境遇に置かれる可能性が極めて高いのである。



                                     教育格差は所得格差を生み出し、所得格差は地域間格差を生み出す。かくして、日本社会は階層分化が進み、政治は混乱し、人々の心は荒廃し、治安は悪化の一途をたどる。競争に勝利して幸せな生活を営んでいた一家が、社会の底辺に吹き寄せられた人間の凶刃に倒れるといった性質の事件が頻々として起こらないと誰が断言できようか。人間は他者や地域共同体の支えなくして生存できない生き物である。自分だけが、自分の家族だけが幸せでいられることなどあり得ないのである。」

                                     

                                     

                                    処方箋については以下の二つの記事があります。

                                     

                                    1:「見果てぬ夢 ・100年後の生存戦略−教育」 

                                    http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=446

                                     

                                    2:「100年後の生存戦略 教育 : 国宝・閑谷(しずたに)学校」

                                    http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=488

                                     

                                     

                                    | 文学・哲学・思想 | 10:37 | comments(0) | - |
                                    この人を見よ!− 元福井地裁裁判長・樋口英明さん。
                                    0

                                      情報格差・経済格差を背景にしたある種のゲームと化した受験勉強を続ければ人格が空洞化せざるを得ない、という話でした。今や受験は完全に形骸化し、視野狭窄のブランド志向をくすぶらせているだけです。

                                       

                                       

                                       

                                      お前は他人の人格が空洞化しているなどと根拠のない思い込みや偏見を押し付けているが、人格についてあれこれ言うのはマナー違反ではないのか、という反論が返ってきそうですね。

                                       

                                       

                                       

                                      しかし、人格を問題にするなという反論は、天皇を政治利用して恥じないうつけ者の総理大臣とそれを利用して内部留保をため込む道徳なき財界にとって都合のいいマナーなのです。

                                       

                                       

                                       

                                      これは、様々な分野で破局が進行しているにもかかわらず、東京オリンピックを成功させようというスローガンでウソのように軽い空気を作り出し、自分たちに倫理的な批判の矢が飛んで来ないように仕向けた金と権力の亡者たちの屁理屈に過ぎません。

                                       

                                       

                                       

                                      人類の歴史をひもとくまでもなく、国家を破滅に導くのは、一部特権階級の国家主義的イデオロギーと版図の拡大欲求、負けた戦争の復讐、そして何よりトップに立つ人間の現人神になりたいという潜在的な欲求であり、それを目指しているという恍惚感なのです。

                                       

                                       

                                       

                                      話がそれましたが、塾教師としての経験から、受験勉強がなぜ人格の空洞化につながるのかという問いとそれに対する答えは、今の社会の特殊性を念頭に数回に分けて書くつもりです。特に、自分はそれなりに生徒を教え、上の学校に合格させているのだから、人格の空洞化とは何のことかわからないと考えている塾・予備校教師や学校教師の皆さんにはぜひ読んでもらいたいと思います。

                                       

                                       

                                       

                                      今回はそれについて書く前に、人格を空洞化させないために、絶えず立ち返るべき原点を今一度挙げておきます。

                                       

                                      ガンジーの言う「七つの社会的罪」(Seven Social Sins)です。

                                       

                                       

                                      1. 理念なき政治 (Politics without Principle)


                                      2. 労働なき富 (Wealth without Work)


                                      3. 良心なき快楽 (Pleasure without Conscience)


                                      4. 人格なき学識 (Knowledge without Character)


                                      5. 道徳なき商業 (Commerce without Morality)


                                      6. 人間性なき科学 (Science without Humanity)


                                      7. 献身なき信仰 (Worship without Sacrifice)

                                       

                                       

                                       

                                      道徳心理学者のジョナサン・ハイトが言うように、論理を方向付けるのは感情です。感情が劣化した人間が論理をもてあそべばどうなるか。ガンジーは「七つの社会的罪」でマナーについて論じているのではありません。倫理すなわち人格について論じているのです。

                                       

                                       

                                       

                                      ここからが本題です。まず人格が空洞化していないと私が考える大人に登場してもらいましょう。私は彼の紡ぐ言葉に魅了されました。今でも読むと目がしらが熱くなります。なぜなら、60歳を過ぎてここまで私心のない文章を書ける裁判官はめったにいないからです。素晴らしい判決文は、法的な枠組みを超えて高い倫理性を帯びてくるものです。

                                       

                                       

                                      その裁判官、樋口英明さんが大分にやって来ます。6月23日(日曜日)ホルトホール大分・大会議室(3F)の講演会に是非行きましょう。

                                       

                                       

                                       

                                       

                                      私の出身校である大分上野丘高校の先生方や生徒さんたちは、彼の話にきっと共感してくれるだろうと思います。特に大学の法学部を目指し、将来、裁判官や弁護士、検察官を希望している人にはめったにない機会です。当日は高校生の皆さんで一杯になるといいですね。

                                       

                                       

                                       

                                      以下は2014年の判決文より一部抜粋したものです。主権者教育をしっかりやっている高校の先生方やゲームとしての受験勉強に飽きている高校生に読んでもらいたいと思います。

                                       

                                       

                                       

                                      「個人の生命、身体、精神および生活に関する利益は、各人の人格に本質的なものであって、その総体が人格権であるということができる。人格権は憲法上の権利であり(13条、25条)、また人の生命を基礎とするものであるがゆえに、わが国の法制下においてはこれを超える価値を他に見出すことはできない。」

                                       

                                       

                                      「被告は本件原発の稼働が電力供給の安定性、コストの低減につながると主張するが、当裁判所は、極めて多数の人の生存そのものにかかわる権利と電気代の高い低いの問題等を並べて論じるような議論に加わったり、その議論の当否を判断すること自体、法的には許されないことであると考えている。」

                                       

                                       

                                      「たとえ本件原発の運転停止によって多額の貿易赤字が出るとしても、これを国富の流失や喪失というべきではなく、豊かな国土とそこに国民が根をおろして生活していることが国富であり、これを取り戻すことができなくなることが国富の喪失であると当裁判所は考えている。」

                                       

                                       

                                      「原子力発電技術の危険性の本質およびそのもたらす被害の大きさは、福島原発事故を通じて十分に明らかになったといえる。本件訴訟においては、本件原発において、かような事態を招く具体的な危険性が万が一にでもあるのかが判断の対象とされるべきであり、福島原発事故の後において、この判断を避けることは裁判所に課された最も重要な責務を放棄するに等しいものと考えられる。」

                                       

                                       

                                       

                                      樋口裁判長と真逆の判決を書いたのが大分地裁の佐藤重徳裁判長です。暇があったらお読み下さい。

                                       

                                       

                                      「大分地裁佐藤重憲裁判長、伊方原発差し止め却下。」

                                      http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=520

                                       

                                      「大分地裁裁判長への意見陳述書」

                                      http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=426

                                       

                                       

                                      | この人を見よ! | 12:35 | comments(0) | - |
                                      なぜ東大生の人格は空洞化するのか?
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                                        「東大生」と言ってもひとくくりに論じることはできません。それを十把一からげに論じるのは、ビジネス雑誌やお受験雑誌を刊行する「プレジデント社」や「東洋経済新報社」を始めとするその他の出版社、東大ネタで視聴率を稼ぐテレビ局に任せておきましょう。

                                         

                                         

                                         

                                        出版社やテレビ局の粗雑な発想は、東大と聞いただけで好奇心を刺激されたり、一目置いたりする層をターゲットにするところから出てきます。要するに、売り上げを伸ばすための経営判断なのです。例の「選択と集中」です。

                                         

                                         

                                         

                                        付和雷同する大衆を「選択」し、そこに資源を「集中」するというわけです。自社の出版物や番組作りが受けていると思うのは勝手ですが、それとて社会・産業構造の影響を受けているだけのことです。この点についてはまた論じるつもりです。

                                         

                                         

                                         

                                        「なぜ東大生の人格は空洞化するのか」というタイトルでひとくくりに論じようとしているはお前の方だろう、と思われる方もいるかもしれません。しかし、「戦争しないとどうしようもなくないですか?」の丸山穂高議員や近畿財務局の職員を自殺に追い込んだ佐川宣寿前国税庁長官の言動を見ていると、人格が空洞化していると判断するしかないのです。両人とも「東大卒」です。

                                         

                                         

                                         

                                        「戦争しないとどうしようもなくないですか?」って、日本がアメリカの許可なくロシアに戦争を仕掛けられるとでも思っているのでしょうか。対米従属ケツ舐め路線をひた走る安倍政権の下でそれは不可能だとわかっているので、口先だけで威勢のいいことを言ってみたかったのですね。さすがにウソだらけの二枚舌政党、日本維新の会の議員だけのことはあります。

                                         

                                         

                                         

                                        一方、佐川宣寿氏に代表される「高級」官僚の実態は、安倍政権の忠実な犬であり、ケツを舐めろと言われれば舐める、誇りなき下僕に過ぎないということが明らかになりました。親分がトランプのケツを舐めれば、子分はその親分のケツを舐めるという、このケツ舐め連鎖を見せつけられて、心暗くならない人がいるとすれば、その人もまた人格が空洞化しているのだと断言せざるを得ません。

                                         

                                         

                                         

                                        事ここに至って、特に3・11以降、この国の文化を破壊しアメリカに国富を売り渡して恥じない人間たちの共通点は「東大卒」だという事実に気づかないわけにはいきません。

                                         

                                         

                                         

                                        東大は日本の近代化において一定の役割を果たしましたが、そのほとんどは戦争に明け暮れた時期だったのです。そして、戦争を始めた責任も敗戦の責任も日本人はいまだに自分で落とし前をつけていません。

                                         

                                         

                                         

                                        その結果、重大なことが見落とされています。実は、この国の歴史の転換点は、何度も述べてきたように、福島の原発事故だという点です。それは日本が再び一等国になるために画策されたもう1つの戦争がもたらした第二の敗戦だったのです。

                                         

                                         

                                         

                                        それを隠蔽するために政財界はオリンピックを誘致し、やれリニア新幹線だ、やれカジノだ、大阪万博だという花火を打ち上げ、国民をイベント人間に改造しています。その中心を担っているのも「東大卒」の「エリート」たちです。

                                         

                                         

                                         

                                        ここに於いてです。「なぜ東大生の人格は空洞化するのか」という問いが立ち上がるのは。そして、私の従事する塾産業も「東大合格者を何人出したか」という時代遅れの物差しに縛られたままで、人格が空洞化した人間を陸続として送り出しています。それを望んでいるのは親たちであり、教師たちです。つまり、少し長い目で見れば、自分で自分の首を絞めているというわけです。

                                         

                                         

                                         

                                        何だか難しい話になりそうなので、結論を先に言っておきます。

                                         

                                         

                                        35年以上にわたって塾教師を続けてきた結果、私がたどり着いた結論は、今の社会で東大を目指して勉強すれば、絶えざる競争に身をさらし、自分の足元が見えなくなって、不幸になる確率がきわめて高いということです。

                                         

                                         

                                         

                                        今の社会とは、大企業が国家と国民を食い物にするコーポラティズムと、格差は当然とする自己責任論に基づいた新自由主義のイデオロギーが跳梁跋扈する社会のことです。それは沈むとわかっている船の中で、他人を蹴落とし、自己利益の最大化を目指すような生き方です。

                                         

                                         

                                         

                                        ここで次のような疑問が湧くかもしれません。塾教師の仕事は、少しでも上の学校や大学に生徒を合格させる事ではないのか、何を偉そうに大風呂敷を広げているんだ、と。

                                         

                                         

                                         

                                        しかし、私は塾教師としての経験から、それは間違っている、むしろ子供たちを不幸にするイデオロギーだと断言したいと思います。自明に見えるイデオロギーも一皮むけば、しょせんは人口動態に左右される社会構造の産物に過ぎないからです。

                                         

                                         

                                        重要なのは、少しでも「上」の学校や大学や企業を目指すことではなく、少しでも多くの「横」の人間と繋がり、外形的な肩書やレッテルに惑わされず、現実にやっていることを見て人格を評価できる人間になることです。人格が空洞化している「エリート」たちは、現実から目をそむけ、「今までの自分の人生は間違いじゃない」と必死で自分に言い聞かせています。「東大出てても、バカはバカ」と堂々と言えるようになりましょう。

                                         

                                         

                                         

                                        長くなるので今回はここまでにしておきます。にわかには信じられないかもしれませんが、東大を目指した勉強は人格を空洞化させるという私の仮説に興味をお持ちの方は、次回以降もお付き合い頂ければと思います。私は東大を目指している人を含めて、若い人たちの新しい生き方を後押しするために、このブログを書いています。それ以外の意図はありません。

                                         

                                        | 文学・哲学・思想 | 14:09 | comments(0) | - |
                                        「山本太郎」の本質を断固支持する。
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                                          今回は、塾教師人生の総括として、東大や慶応に合格しただけであたかもそれが素晴らしいことのように持ち上げる出版界と塾・予備校業界、それにまんまと騙される「佐藤ママ」や「ビリギャル」に代表される人格なき「大衆」を批判する予定でした。

                                           

                                           

                                          そもそも、大学受験の合否はあくまで個人的な出来事のはずで、それを世間に向けて公表することは、ブランド品を見せびらかすような下品な行為以外の何ものでもありません。

                                           

                                           

                                          それにしても、たかが大学に合格しただけでそれに価値があると思い込ませる出版界は、他方で政治的な批判を控える(実際はその発想すらないのですが)ことによって、出版ジャーナリズムの劣化をいっそう加速させています。

                                           

                                           

                                          その結果、私たちの国は世界に冠たる後進国に転落してしまったのです。いや、もともと後進国だったのです。客観性や中立性という言葉で思考停止に追い込まれた結果、政治の話は学校でもダメ、職場でもダメ、テレビでもダメ、芸能人が発言してもダメ、ミュージシャンが発言してもダメ、という体たらくです。

                                           

                                           

                                          要するに、周囲の空気を読んで和を乱さないことに異常な神経を使うだけのアメーバ集団、反知性主義の国家になり下がったということです。これで先進国と言えるでしょうか?

                                           

                                           

                                          本題に入ります。今回のタイトルで「山本太郎」とカギ括弧付きで書くのは、山本太郎という一政治家が希望のシンボルになることを願っているからです。

                                           

                                           

                                           

                                          これまで何度もブログで述べてきたように、彼は心ある国民の言いたいことを最もよく代弁してくれました。私は彼の国会での質問や国会外での活動に救われました。正直に言うと、彼がいるおかげで私は政治に対する関心をつなぎとめているのです。

                                           

                                           

                                          彼は足を引っ張られるのを承知で、からかわれるのをものともせず、常に国民の立場に立って発言してくれました。感情も知性も劣化したネトウヨとは違って、彼は「理想の審判者としての国民」を信じているのです。

                                           

                                           

                                           

                                          以下は、『僕にもできた! 国会議員』(山本太郎=著)の書評です。作家の島田雅彦氏が書いたものです。

                                           

                                           

                                           

                                           

                                          ― 理想主義者の代名詞に「ドン・キホーテ」というのがあるが、山本太郎ほどこの称号にふさわしい男はいない。通例、揶揄のニュアンスが付いて回るが、徒手空拳で巨悪に突撃してゆく蛮勇こそ現在の政治家に最も必要とされる素質である。その理想は憲法に忠実で、あるべき政治道徳に則り、国民に安全で健康な生活を確保しようとする高潔なものだ。国会には七百人以上の議員がいるが、山本太郎と何人かの例外を除けば、ほとんどの議員が多数派の頭数合わせと己が既得権益を守ることしか頭にない。山本太郎が理想主義者として浮いてしまうこと自体が政治の退廃、劣化の証左になっている。

                                           

                                           


                                           山本太郎の六年間の議員活動はちょうど安倍政権の悪政と重なるが、この間に悪政があまりに自明のことになってしまい、有権者のあいだに諦めムードが広がり出した。もちろん、野党議員たちは国会や委員会で政府の対応を批判し、数々の疑惑に対する真相究明を続けているが、首相はじめ政権担当者たちは呼吸するように嘘をつき、公文書の改竄と偽造は当たり前、幽体離脱したかのように当事者意識を欠き、一様に記憶喪失に陥っている。

                                           

                                           

                                           

                                          もう少し道理を知っているはずの男たちも、破綻の予感を抱きながら、傍観している。政府は実質、自分で何かを決めたことも、率先して対策を練ったこともない人々の吹き溜まりである。

                                           

                                           


                                           結果、財政破綻は秒読み、廃炉への道は遠く、放射能はアウト・オブ・コントロール、外交、安全保障政策も全て裏目に出た。無為無策の首相や子どもの使いの外相を置き去りにして、国際政治の謀略は容赦なく進行する。相手の厳しい次の一手には対応できそうもない。貧困問題もいよいよ深刻になり、生活苦を強いられた庶民のあいだから、怨嗟の声が上がる。純粋な理想主義者がムチを入れなければ、政府はピクリとも動かない。

                                           

                                           


                                           首相とその不愉快な仲間たちは官房機密費を使って、マスメディアを籠絡し、世論操作することも、内閣人事局を通じて、官僚を丸め込むことも、首相権限を振りかざして警察や司法に圧力をかけることもできるが、その絶大な権力を使って、やることといったら、自分たちの不正、失策を隠すこと、アメリカ大統領のパシリとして貢ぎ、日米安全保障条約および日米地位協定を憲法の上に置き、この国の占領状態を維持し、その利権で私腹を肥やすことだけだ。

                                           

                                           

                                           

                                          山本太郎は活動資金も限られ、官僚やマスメディアを操ることはできないが、彼には有能なブレーンがついていて、ボランティア的に彼をサポートし、戦略を授けてくれるので、国家権力を私的に濫用する極右政権相手のゲリラ戦はかなり奏功しているといっていい。そのゲリラ戦の主戦場は国会中継で、政府側が誤魔化しと嘘でしどろもどろになる中、舌鋒鋭く切り込んでゆく様子はまさに「山本太郎劇場」だ。山本太郎は質問を通じて、被災者支援等で政府に善処を促すことに成功している。

                                           

                                           


                                           有権者が無知で無関心でいる限り、悪政は続く。礼儀正しく、おとなしく、他人を攻撃せず、空気を読む。そんな人々の沈黙の同意によって、不正が見逃される。右でも左でもない中立の立場でいる限り、極右の専横は容認される。そうした「無関心な人々の共謀」をいかに打破するか、それが問題だ。もし、それに成功すれば、政権にとっては致命傷になる。待望されるのは政治の不毛を笑い飛ばしつつ、常識を覆すリベラルのトリックスターである。

                                           

                                           


                                           六年前に俳優から政治家に転身した時、彼自身が一般の無関心層と変わらない素人だった。だが、謙虚に勉強を続けるうちに堂々と無能な為政者たちに正論を突きつける市民視線の政治家になった。

                                           

                                           

                                           

                                          ここ六年間の山本太郎の軌跡は、「王様は裸だ」といえる正直者の素人にしかこの国は変えられないということを如実に示している。「山本太郎が首相になる」と聞いて、「まさか」という人は政治の本質をまだわかっていない。実際、極右マフィア政権が六年も続くという「まさか」を見てきたのだから、その反動から山本太郎首相の誕生は十分あり得ると考えなければ、やってられない。― 以上。

                                           

                                           

                                           

                                          | 政治 | 10:49 | comments(0) | - |
                                          子供の人生は最初に出会う大人や環境によって大きく左右される。
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                                            前回のブログの続きです。短くない私の塾教師人生の中で再発見した単純な真実についてでした。再発見というのは、何となくわかっているつもりだったことに、35年以上かけて、あらためて気づいたからです。

                                             

                                             

                                             

                                            たとえていうならば、チェーホフが生涯をかけて人生は虚しいということに気づいたように、と言えるかもしれません。しかし、今時小学生でも人生は虚しいと言います。ロシアの世界的な文豪の認識と小学生のそれが同じはずはありません。わかるということには無限の段階があるのです。

                                             

                                             

                                             

                                            正直に言いますが、私は塾教師をしながら、「わかる」ということが何を意味するのか、その「からくり」がいまだにわかっていないのです。学校や塾で、教師は「わかりましたか」と言い、生徒は「はい、わかりました」と答えるのですが、何がどのレベルでわかったのかを検証するのはタブーです。いや、そもそもできないのです。生徒がテストで高得点を取りさえすれば、分かっていることにして先に進むだけです。教室とはわからせたつもりの教師とわかったつもりの生徒のことばが、たてまえ上行きかっている空間に過ぎません。

                                             

                                             

                                             

                                            あることが「わかる」には歴史的な時間と空間、そして人格の変容が必要です。そして、人格は倫理と深く関係しています。いや、人格の変容をともなわない「わかる」は、コンピュータ的人間を大量生産するだけです。「東大出ててもバカはバカ」というわけです。そのことについてはまた改めて書きます。

                                             

                                             

                                             

                                            話を元に戻しましょう。私が気づいた真実とは、一言で言うと、今回のタイトル「こどもの人生は最初に出会う大人や環境によって大きく左右される」というものです。それにあらためて気づいたのは、宮崎駿監督のインタビューがきっかけでした。それは同時に監督の創造の源泉を垣間見た瞬間でした。

                                             

                                             

                                             

                                            そのインタビューは次のようなものでした。

                                             

                                            「五歳の子供が両親と一緒にスタジオジブリに遊びに来たことがあった。」監督はしばらく遊んだ後、三人を車で駅まで送っていきます。当時の監督の車は屋根が開くオープンカーでした。「この子は屋根を開けたらきっと喜ぶだろう」と考えます。ところが、屋根を開けようとしたちょうどその瞬間、小雨が降り始めます。「次の機会にしよう」と彼は判断して、屋根を閉じたまま駅まで車を運転して行ったのです。

                                             

                                             

                                            しかし、少し経って後悔の念がわき始めたと言います。「子供にとってその一日はその一日。子供は今、ここを生きている。二度と同じ日は戻って来ないのだ」と彼は気づきます。「子供は急速に成長して、これまでの自分を脱皮していってしまう。たとえその子が一年後にまた来て、今度は屋根を開けて運転してあげたとしても、同じことにはならない。つまり、その貴重な瞬間は、不覚にも永遠に失われてしまったのです。」と語ります。

                                             

                                             

                                             

                                            宮崎監督は、子供たちが今ここを生きていることの価値を深く理解しています。子供は、過去や未来といった明確な観念を持っていない。子供の幸せは「今、現在」の中にあることを知っているのです。それは彼がアニメを描くことに没頭しているときの幸福感を知っているからです。

                                             

                                             

                                             

                                            彼は子供の心を理解し尽くしています。それは凡百の教師や心理学者の及ぶところではありません。彼の<内なる子供>が傑作を生み出したのです。もしあなたの子供が、人生の初期に宮崎監督と同じような大人に出会っていれば、かなりの確率で創造的な人生を送るようになるだろうと思います。

                                             

                                             

                                            それに対して、子供が一歳になるかならない頃から、「公文」に通わせ、バイオリンとスイミングを習わせ、効率的な時間の使い方を教え、まるでビジネス手帳にぎっしり書き込まれているスケジュールをこなすような生き方を強制する「佐藤ママ」のような大人に出会えば、子供がどんな人生を送るようになるのか、私はリアルに想像できます。そんな<他人の人生を生きる子供>が大量生産されれば、社会がどのように変わっていくか、それを克明に記述することが今回のテーマなのです。

                                             

                                             

                                             

                                            その前にいくつか問いを立てておきます。私の考えは以下の問いをめぐって展開するつもりです。箇条書きにすれば以下の通りですが、すべての問いは関連しています。

                                             

                                             

                                             

                                            1:宮崎監督と「佐藤ママ」の子供観はどちらが普遍的か?

                                             

                                            2:どちらの子供観が人口減少社会の中で人々を幸せにするか?

                                             

                                            3:子供の実存に沿った教育とはどのようなものか?

                                             

                                            4:子供を自殺に追いやる匿名のシステムとしての学校に未来はあるか?

                                             

                                            5:フィリップ・アリエスの指摘を待つまでもなく、<子供>なる概念は社会(産業構造)の産物である以上、人口動態や産業構造の変化によって<子供>はいなくなるのではないか?

                                             

                                             

                                             

                                            続きはまた次回。今回も読んで下さってありがとうございます。

                                             

                                             

                                            | 文学・哲学・思想 | 00:10 | comments(0) | - |
                                            一つの時代の終わりに。
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                                              最近ブログの更新がないので心配しています、というメールや電話をいただきます。ありがたいことです。別に体調が悪いわけでも、忙しいわけでもありません。

                                               

                                               

                                               

                                              ここ一カ月の間、ニワトリ小屋や葡萄棚を作り、午前中は畑を耕しながらこれから先の人生を構想していました。夕方からはいつものように塾で生徒と勉強しています。連休だからと言って、消費社会の実験動物よろしく喧騒の中を出かける気にはなりません。

                                               

                                               

                                               

                                              例年なら、まとまった休みがあれば静かに本を読んで過ごすのですが、最近は読むに耐える本が少なくなり、もっぱら古典の森を逍遥しています。同世代の私の友人はマルクスの『資本論』に取り組み、改めてその素晴らしさに感動しているとのことです。ヨーロッパの知識人の間で人類に最も影響を与えた人物は誰かというアンケートをとったところ、マルクスが断トツで1位だったそうです。

                                               

                                               

                                               

                                              それに対して日本はどうでしょう。目を覆いたくなるほどの社会の劣化、特に政・財界とジャーナリズムのそれを前にして私は言葉を失っています。しかし、それとて、ウソのように薄っぺらな社会がウソのように薄っぺらな言葉を必要としているだけのことで、カルト化した安倍政権をカルト化した「大衆」が支持しているのと同根です。

                                               

                                               

                                               

                                              東大生の6割が自民党を支持しているのも、彼らがカルト化した受験教育の勝利者であり、恵まれた情報環境、文化・経済環境の申し子であることを考えれば当然の帰結です。自分が置かれている立場なり環境なりの土台を切り崩すような批評性を身につけることこそが知性の証なのですが、コスパが悪すぎるということなのでしょうね。

                                               

                                               

                                               

                                              かくして、体制を翼賛することが当然とされ、それに異を唱える者に対しては先回りして「お前は見たいものしか見ていない」というお決まりのフレーズを投げつけ、自らの精神の栄養失調を自覚できないようにされているのです。

                                               

                                               

                                              そういうわけですから、たかが塾教師にできることなどほとんどありません。しかし、エリート医師でも弁護士様でもなく、忖度の達人である「高級官僚」でもない、たかが塾教師だからこそたどり着いた真実があります。今回はそのことについて書きます。

                                               

                                               

                                               

                                              万が一私の考えに共感(自分を相手の立場に置いたとき、自分の内部で生起するもの:アダム・スミス『道徳感情論』の中の言葉)してくれる人がいれば、以て瞑すべし(いつ死んでもいいの意)です。

                                               

                                               

                                               

                                              共感するには、捏造された希望ではなく勇気が必要です。勇気はある日突然降ってくるものではありません。それは、身の回りの小さなことに対する違和感を表明し、それに対するリアクションを受け止め、崩落した思考の足場を固める中で出来上がる人格のことです。群れから離れることを恐れない精神そのものです。知性と同様に勇気もまた人間性が刻印されているのです。

                                               

                                               

                                               

                                              本題に入りましょう。

                                               

                                              今から15年ほど前、塾を始めて20年ほど経った頃、ホームページを作りました。その中で「受験に巻き込まれやすい優等生ほど、深く物事を考えることができないという逆説を痛感している。」と書きました。続けて「この傾向がここ数年加速する一方、高偏差値を取ってみたところで、それは単なる囲い込まれた世界での抽象的なゲームでしかなく、現実社会では通用しないということを、かなり多くの親が理解するようになってきたと思う。」とも書きました。『学力低下は塾のせい。PART−1』を書いたのもこの頃です。

                                               

                                               

                                               

                                              当時は変わり者のたわごとだとして無視されました。「優等生ほど、深く物事を考えることができない」だの「学力低下は塾のせい」だのと、一体この塾教師は何を考えているのだ、というわけです。

                                               

                                               

                                               

                                              「優等生ほど、深く物事を考えることができない」ということは、「東大生は深く物事を考えることができないということになるのか」というメールを頂きました。私は、例外もありますが「その通りです」と答えました。反論があれば、具体的に論証しようと思っていたのですが、その機会はありませんでした。

                                               

                                               

                                               

                                              それから7年後、東日本大震災と福島第一原子力発電所の事故が起こりました。特に原発事故は「優等生ほど、深く物事を考えることができない」ことの例証になるだろうと思いました。私は、原子力工学や土木、建築をはじめとするいわゆる理系の学問は、イデオロギーとは無縁の客観的・中立的な学問だと信じていた人々も、さすがに反省するだろうと思いました。

                                               

                                               

                                               

                                              しかしその後、政治の世界のみならず、学会やジャーナリズム、経済界で起こった事は、この国の文化の底の浅さというか、歴史を抹殺することも意に介さない鈍感で無知で傍若無人な権力の存在を可視化することとなったのです。

                                               

                                               

                                               

                                              原発事故後、その権力の手先となってあちこちのメディアに登場し、トンデモ発言をしていた者たちこそ、東大に生息して東京電力から研究費という名目の賄賂をもらい、税金を食い物にしていたエセ学者たちだったのです。

                                               

                                              ハイロウズ 「東大出ててもバカはバカ」御用学者編

                                               

                                               

                                               

                                              私はもう何年も前に安倍政権は鬼胎の政権だと書きました。従来の自民党とは明らかに質が違うからです。では、何が質の違いをもたらしたのか?表面的にはネトウヨに乗っ取られたおバカ政権だとも言えますが、そのおバカ政権になぜ優秀なはずの官僚たちがひざまずき、忖度し、国民の利益をかえりみることがなくなったのか?それに対して国民はなぜ怒らないのか?

                                               

                                               

                                               

                                              この問いは、東大や慶応の医学部を始めとする難関大学を卒業した優秀なはずのエリートたちがなぜ麻原彰晃というイカサマ宗教家に帰依し、最後には大量殺人を犯すにいたったのか?という問いと重なります。これは、塾教師として生計を立てながら、常に私の頭にあった問いです。これから先は長くなるので次回に譲ります。興味のある方はぜひ続きをお読みください

                                               

                                               

                                              | 文学・哲学・思想 | 21:45 | comments(0) | - |
                                              悪(霊)が降臨する前に。
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                                                今回のタイトルを見て何を大げさな、今どき悪霊などいるわけがないと考えている人がほとんどでしょう。しかし、輪廻というか歴史の裂け目というか、ある条件がそろえばレイシスト(民族差別主義者)や極右思想に骨がらみ囚われた個人あるいはカルト教団に所属する人間の中に悪霊は降臨するのです。

                                                 

                                                 

                                                嘘だと思う人は、映画『ウトヤ島、7月22日』を観て下さい。大分のシネマ5bisで現在上映中です。私は初日、4月6日に観ました。

                                                 

                                                 

                                                 


                                                 

                                                 

                                                 

                                                 

                                                 

                                                この映画はノルウェーのウトヤ島で実際に起きた銃乱射事件を映画化したものです。2011年7月22日、午後3時17分オスロの政府庁舎が爆破され8人が死亡します。同じ日の午後5時過ぎ、オスロから40キロ離れたウトヤ島でノルウェー労働党青年部のサマーキャンプに参加していた十代の若者69人が警官になりすました極右青年により射殺されます。両事件とも当時32歳のアンネシュ・ベーリング・ブレイビクが単独で実行した無差別テロ事件でした。

                                                 

                                                 

                                                 

                                                彼は犯行直前にインターネット上で声明を出しており、そのなかで日本を“多文化主義を完全に排する”理想的な国の一例として賞賛。さらには「会ってみたい人」のひとりとして、現政権の副総理である麻生太郎の名前をあげていたのです。

                                                 

                                                 

                                                 

                                                この事件から2年後の2013年7月。その麻生太郎は「憲法は、ある日気づいたら、ワイマール憲法が変わって、ナチス憲法に変わっていたんですよ。だれも気づかないで変わった。あの手口学んだらどうかね」と発言しています。

                                                 

                                                 

                                                 

                                                麻生太郎が「ヒトラーの方法を学んではどうかね」と発言したのは、愚かにも政治的な方法の問題だと考えていたからです。しかし、それは根本的に間違っています。『わが闘争』を読めば、ナチズムの本質はヒトラーという邪悪なる天才の中に降臨した、人格が崩壊するほどの憎悪と残虐性に対する燃え上がる欲望だということがわかります。麻生太郎のような坊っちゃんに模倣できるわけもありません。

                                                 

                                                 

                                                 

                                                ヒトラーは、歴史上の客観的事実を「先入観」に過ぎないと考え、それによって自分の思想を検討することを「破滅の方法」と呼んでいます。それは自己の教義と客観的に矛盾するもの(歴史上の事実など)すべてを主観的に考える能力(独善的に思い込む能力)を指すのですが、それを皆が殺していると言います。

                                                 

                                                 

                                                 

                                                わかりやすく説明しましょう。

                                                 

                                                 

                                                例の極右美容整形外科医、高須クリニックの高須克弥院長が、2015年10月19日のツイートで、「南京もアウシュビッツも捏造だと思う」と述べました。

                                                 

                                                 

                                                 

                                                これに対してアウシュビッツ記念館が2019年3月15日、コメント欄で「アウシュビッツは史実」と忠告し、高須院長の認識を正しました。

                                                 

                                                 

                                                 

                                                いわく「アウシュビッツは世界中の人々の心に絶えず忠告する史実です。 ナチス・ドイツによって造られたその強制・絶滅収容所の史跡は、 人類史上最大の悲劇を象徴しています」と。

                                                 

                                                 

                                                 

                                                たかが日本の一極右美容整形外科医の発言に対してわざわざ反論するのも、日本の政治思想の変質を憂慮しているからでしょう。

                                                 

                                                 

                                                 

                                                アウシュビッツ記念館の忠告に対して、高須院長は3月16日「全ての歴史は検証されるべきだと思います。これが正しい科学者の姿勢だと思います」と反論し「オレは自分の信じたいことだけを信じる」と述べています。

                                                 

                                                 

                                                 

                                                ヒトラーに言わせれば高須克弥院長は、「自己の教義に客観的に矛盾するものすべてを主観的に考える能力」をもっている、例外的な称賛されるべき人物だということになります。

                                                 

                                                 

                                                 

                                                私はこの「正しい科学者の姿勢」という言葉を見た時、ネトウヨの思想的レベルが象徴的に表れていると思いました。彼らの日本語力で『わが闘争』を読解できるわけがないのです。だから自己流に解釈して自分を正当化するためにヒトラーの名前を持ち出します。彼らにはヒトラーの本当の恐ろしさが分からないのです。

                                                 

                                                 

                                                 

                                                ウトヤ島の事件から5年後、麻生太郎の発言から3年後、日本でも凄惨極まりない事件が起こります。

                                                 

                                                 

                                                2016年7月26日の午前1時40分、入所者が寝静まる中、神奈川県相模原市緑区の知的障碍者施設「津久井やまゆり園」の近くに一台の車が停車し、金髪の男が降り立ちます。元施設職員、植松聖。当時、26歳でした。五本の刃物、二本のハンマーの入ったバッグを車から取り出し、施設に向かいます。そして入所者19人を殺害し、26人に重軽傷を負わせるという戦後最悪の大量殺人事件となるのです。

                                                 

                                                 

                                                犯行後、植松はツイッターに「世界が美しくなりますように。Beautiful Japan!!!!!!」と書き込み、津久井署に出頭し逮捕されました。

                                                 

                                                 

                                                 

                                                彼は知的障害者を「心失者」と呼び、「日本は社会保障を充実させていって100兆円もの借金を抱えることになりました。あなた自身はそれをどう思いますか?」 「僕の言うことを非難する人は、現実を見てないなと思います。勉強すればするほど問題だと思いました。僕の考え、どこか間違っていますか?」「社会保障に多額のお金をかけてる現実をあなたはどう思うんですか?」と言います。

                                                 

                                                 

                                                 

                                                このセリフは日本維新の会から立候補して落選した元アナウンサーの長谷川豊のものと瓜二つです。彼らは社会保障のイロハすらわかっていません。もちろん「社会保障を充実させていって100兆円もの借金」というのもウソです。

                                                 

                                                 

                                                 

                                                それよりも私が心配するのは、最初に、ある条件がそろえば人間の中に悪霊は降臨すると書いたその条件のことです。

                                                 

                                                 

                                                 

                                                例えば、在特会の桜井誠の「ゴキブリ朝鮮人、叩き殺せ」などというヘイトを放置する安倍政権と大手マスメディア。路上のヘイトデモを護衛する警察。その空気に便乗して「尖閣にやってくる中国人を射殺せよ」と叫ぶ大分市のY田ゼミ塾長のような空洞化した人格。そして少子高齢化が叫ばれる中、命を選別しなければ国民の生活が立ち行かなくなると不安を煽る評論家や経済学者や政治家たち。

                                                 

                                                 

                                                 

                                                この種の人間が増えることで徐々に悪霊が降臨する条件が満たされていくのです。最初は人間の持つ幻想力としての残虐性が個人を通じて噴出します。そしてある臨界点を超えれば、もはや誰にもその流れを止めることなどできません。雪崩を打って破滅へ向かうしかないのです。

                                                 

                                                 

                                                 

                                                長くなるので今回はここまでにします。これに関連する記事は数年前に書いています。ぜひご覧ください。

                                                 

                                                 

                                                「ヒトラーの思想が降りてきた」という犯人を後押ししたもの。

                                                http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=211

                                                 

                                                「思想的確信犯」はいかにして生まれるのか?

                                                http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=389

                                                 

                                                 

                                                | 文学・哲学・思想 | 23:45 | comments(0) | - |
                                                花とみづからをささへつつ歩みを運べ
                                                0

                                                  昨夜は比較的早く床に就きました。塾の授業が終わった後、昼の畑仕事のせいか、突然睡魔が襲ってきたのです。そのせいで明け方早く目が覚めました。布団にくるまったまま目を閉じていると、色々な考えが浮かんでは消えていきます。

                                                   

                                                   

                                                   

                                                  30年ほど前、雑草が生い茂るだけで何もなかった荒れ地を造成し、塾棟と家を建てました。建てたい家のイメージを思い描くために、書物を通じて世界中の名だたる住宅を調べました。実際に足を運んだものもあります。

                                                   

                                                   

                                                   

                                                  しかし、私が心惹かれるのは、決まって簡素でどちらかというとみすぼらしい風情が漂っている家でした。日常の中で培われた使い勝手のよさそうな家。時間に洗われ、住んでいる人の生き方や心配りが伝わってくるような家でした。

                                                   

                                                   

                                                   

                                                  そういうわけで、住宅メーカーが建てた家に漫然と住むのではなく、安普請でも自ら構想した愛着のある家に断固として住もうと思っていたのです。おかげで、安全・安心・便利を謳った充実した設備はありませんが、心地よい空間と古びて味わいのある佇まいを手に入れることができました。

                                                   

                                                   

                                                   

                                                  春になって日一日と緑が濃くなっていく様を見るのは、何よりの楽しみです。それは本当に繊細な変化なので、細心の注意を払い、耳を澄ませなければかき消されてしまう「気配」のようなものです。

                                                   

                                                   

                                                   

                                                  それはこの土地に植えた様々な樹木が季節とともに奏でるかすかな音や動きなのです。昨夜は巨木となった樹木たちが一斉に水を吸い上げはじめたために、その力で家が宙に浮いているような錯覚すら覚えました。それにつられて、半覚醒の中で色々なことを考えます。

                                                   

                                                   

                                                   

                                                  塾の教師として長い間子どもたちを見てきましたが、2019年の春(これがどんな時代なのかということは置いておきます)に、たとえば12歳や15歳であること、あるいは20歳であることがどれほどの重みを持っているか、それをあらためて考えてしまうのです。

                                                   

                                                   

                                                   

                                                  子ども時代を生きるとは、どんな景色を生きることなのか。どんな世界のただなかを通過することなのか。幼児期から児童期を、そして思春期を私たちはうかうかと通り過ぎてしまいます。それができればそれに越したことはありません。

                                                   

                                                   

                                                   

                                                  しかし、アリス・ミラーの言う「才能ある子ども」は、うかうかとはいかず、鋭敏な感受性と知力がわざわいして、ひそかに耐え、人知れずたたかっているに違いないのです。現実に対処する能力を身につけていないために、身のおぼつかなさを強く意識しています。

                                                   

                                                   

                                                   

                                                  この時期を、危険な分水嶺をわたるようにして歩んでいる子どもは少なくありません。失調に転落するか、辛くもわたりきるかは紙一重です。私は自分の思春期をできるだけリアルに思い出すことによって、彼らと同期しようとするのですが、年々難しくなっています。私の想像力が衰えたからではありません。子どもは元より親も教師も教育の本来の価値を見失ってしまったからです。

                                                   

                                                   

                                                   

                                                  急峻な尾根を前にして足がすくんでいるこどもには命綱が必要です。命綱で結ばれた相手がいれば、不安や絶望や死の恐怖をいくぶんなりともやわらげることができるはずです。そういう相手に出会うのも運不運に左右されるのですが、本人の能力にも依存しているのがつらいところです。

                                                   

                                                   

                                                   

                                                  成長の過程でぶつかる苦しみや痛みは、鋭利に現れるかどうかという程度の差はあれ普遍的なものです。平凡な人生をまっとうするにも、おぼつかなさと孤独を抱えながら懸命に努力する必要があるのですね。

                                                   

                                                   

                                                   

                                                  そのとき支えになるのが、イメージ世界の奥行きや歴史認識の深さ、言葉のトーンや韻律への繊細な感覚です。その源泉は文学の中にこそあります。高校の国語から文学作品を追放し、「論理国語」なるものをでっち上げようとする人間たちは、このことがまったく分かっていません。

                                                   

                                                   

                                                   

                                                  実存としての子どもたちは、命綱も、それで結ばれた相手もいない状態で急峻な尾根を渡らなければなりません。その彼らが通過する世界は、「入試に失敗して希望の高校や大学に行けなかったら大変だ」「成績が下がったら大変だ」「進学実績が下がったら、学校や塾にとって大変なだけでなく自分の収入や将来にもかかわってくる」といった大人のエゴが作りだした世界なのです。

                                                   

                                                   

                                                   

                                                  マイナスの動機付けによって駆動される社会は、なるべく高い保険をかけることに注力します。発達期の子どもにとって、勉強は将来の安全を確保するためにやむを得ずするものとなります。本質的には恐怖や不安に対する意識的な対抗措置なのです。

                                                   

                                                   

                                                   

                                                  そこには強い喜びの感情をともなった満足感はありません。自発的に湧き上がる生命活動の発露でもありません。それは次第に人の心を枯らしていきます。教育の目的は自己利益の最大化に収斂し、教育全体が単色化してきます。

                                                   

                                                   

                                                   

                                                  そんなことを考えていると、突然、若かったころに読んだ伊東静雄の詩の一節が浮かびました。コーポラティズムと新自由主義が跳梁する社会で生き抜くために必要なのは、優れた詩や文学作品を源泉とする、汲めども尽きぬ言葉の泉なのです。

                                                   

                                                   

                                                  そんなに凝視めるな  伊東静雄

                                                   

                                                   

                                                  そんなに凝視〔みつ〕めるな わかい友

                                                  自然が与へる暗示は

                                                  いかにそれが光耀にみちてゐようとも

                                                  凝視めるふかい瞳にはつひに悲しみだ

                                                  鳥の飛翔の跡を天空〔そら〕にさがすな

                                                  夕陽と朝陽のなかに立ちどまるな

                                                  手にふるる野花はそれを摘み

                                                  花とみづからをささへつつ歩みを運べ

                                                  問ひはそのままに答へであり

                                                  堪へる痛みもすでにひとつの睡眠〔ねむり〕だ

                                                  風がつたへる白い稜石〔かどいし〕の反射を わかい友

                                                  そんなに永く凝視めるな

                                                  われ等は自然の多様と変化のうちにこそ育ち

                                                  あゝ 歓びと意志も亦そこにあると知れ

                                                   

                                                   

                                                  | 文学・哲学・思想 | 08:46 | comments(0) | - |
                                                  この人を見よ!− 空前絶後の国会質問をする山本太郎議員。
                                                  0

                                                    私の塾は大分市東部の、周りは空き家だらけの限界集落に近い場所にあります。その豊かな自然環境を最大限に生かそうと考え、ここ5日間、建物の土台を作るのに必要な水盛遣り方に集中していました。

                                                     

                                                     

                                                    高価な機械は買えないので、バケツと透明チューブを使ってレベルを出し、杭を打って水糸を引くという昔ながらの方法です。そして、やっと葡萄棚とニワトリ小屋を完成させました。今日は雨なので、葡萄の苗を植えるのは明日にします。

                                                     

                                                     

                                                    そんなことに精を出している塾教師が、何かを発信したところで、世の中の大勢に影響はありません。ただ、消費社会の影(欲望に駆動された実験動物)のような人格として生きることはまっぴらごめんですし、デマゴーグに洗脳されて政治的活動をしたり、政治的な発言の片棒を担ぐことだけはしないと決めています。

                                                     

                                                     

                                                     

                                                    振り返ると、ブログを書き始めてあと数カ月で4年になります。書いた記事は今回で561本目になりますが、政治的発言はすべて個人の責任でしています。そもそも所属する組織がないのですから、潜在的失業者として自由に思考し発言して来ただけです。

                                                     

                                                     

                                                     

                                                    ところで、若いころからどうにも解せないことがありました。特定の組織なり会社なりに入ると、空気を読んで、自主的にあるいは半強制的に特定の政党に投票するという政治的風土がそれでした。自民党を支持する会社の中で野党に投票したり、公明党に投票するフリをして共産党に入れたりすることがなぜできないのか不思議だったのです。

                                                     

                                                     

                                                     

                                                    面従腹背と言ってみたところで、その意味するところがわからないのでしょう。投票用紙に誰の名前を書くか見られているわけでもないのです。裏切り者として白い目で見られる心配もありません。

                                                     

                                                     

                                                     

                                                    やれやれ、この国で大人の政治学が定着するのはいつのことでしょうか。それができないので、公明党は集票マシーンとして機能しているのですね。

                                                     

                                                     

                                                     

                                                    政治的な自由という、人格にダイレクトに関わる権利をいとも簡単に売り渡し、影としての人生を喜んで生きる彼らに仮装されたポリティークなどといったところで、むなしいだけです。

                                                     

                                                     

                                                     

                                                    そういった人間たちにとって、投票はその組織の経済的な利益につながるか、日本会議のようなトンデモ復古主義のイデオロギーを広め、ひいてはケチな自己肯定感を得て安心するための儀式なのです。個人の自由意思に基づくものでもなければ、子供や孫の世代のことを考えてのものでもありません。

                                                     

                                                     

                                                     

                                                    いやそんなことはない、俺たちは先々の世代まで考えているのだ、という団体もあるようです。例えば以前ブログで取り上げたJC(日本青年会議所)もその一つです。彼らの日本国憲法改正草案を見て、私は心底恥ずかしくなり、顔が赤くなったことを覚えています。憲法のイロハのイすら理解していない、まさにネトウヨレベルそのものだったのです。要するに、騙されやすい、人のいい、無知で権力になびきやすい人たちの集まりなのですね。

                                                     

                                                     

                                                     

                                                    以下の記事は以前書いたものです。暇のある時にお読みください。

                                                     

                                                     

                                                    「日本青年会議所(JC)って、どんなところ?」

                                                    http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=478

                                                     

                                                     

                                                     

                                                    前置きが長くなりました。ここからが本題です。

                                                     

                                                     

                                                    安倍政権が誕生して以来、いや、戦後74年の中で、国会でなされた最も本質的で「言ってはならないことになっている」質問が白日の下にさらされました。

                                                     

                                                     

                                                     

                                                    それをしたのが、山本太郎議員です。勇気のない国会議員は肝の据わった彼を見習うべきです。ブログの読者は、私が山本太郎氏を応援してきたことをご存知でしょう。彼の質問は具体的な事実に基づき、歴史的・地政学的・経済学的洞察を含んだ出色のものです。

                                                     

                                                     

                                                     

                                                    突然ですが、若い人たちはジョン・レノンの「HOW」という歌の最初の一行をご存知でしょうか。


                                                    “ How can I go forward when I don't know which way I'm facing? ”

                                                     

                                                    「自分がどの道を歩いているのかもわからないで、どうして前に進むことができるだろう?」という意味ですね。山本太郎議員は、まさにこのことを問いかけているのです。

                                                     

                                                     

                                                     

                                                    彼を高校中退の元芸人だとして人格を貶め、陰謀論者のごとく見なしている無知な人間は、自らの貧困なる知性と歪んだ感情を刮目して見よ!それができないなら、これまで通り予定調和の階段を駆け上がり、レディメイドの人生を生きればよい。もちろんどんな「災厄の犬」も断固としてこの世に生きなければなりません。ただ私は「犬」の生き方だけは御免こうむりたいのです。

                                                     

                                                     

                                                     

                                                    山本太郎 議員 予算委員会 集中審議 質疑(2019/03/18)

                                                     

                                                     

                                                     

                                                     

                                                    発言の一部抜粋

                                                     

                                                    「総理は、基地以外でも沖縄に寄り添わないんだな…総理、ご自身の『お友達』には、必要以上にベッタリ寄り添っていらっしゃるじゃないですか。けれども結局、沖縄にはどんな形でも寄り添わないんだなって…腹心の友こと加計孝太郎さん、ミスター政商納言・竹中平蔵さん、経団連中心の財界、森友問題でやらかした奥様・安倍昭恵さん、その尻拭いをした財務省…彼らにはベッタリ寄り添うのに…総理の沖縄に対する『寄り添う』という言葉のチョイス、完全に間違ってます!」

                                                     

                                                     

                                                    「次回からは沖縄に寄り添うではなく、『沖縄に押し付ける、沖縄を痛めつける、沖縄のことは俺が決める』と正しい日本語を使って頂きたい」

                                                     

                                                     

                                                    総理自身が、この植民地状態から脱するっていう決意しないと、何も終わらないんですよ。お爺さんの作った売国条約をアナタの手で変えて下さいよ、それがアナタがやるべき仕事じゃないんですか、沖縄に基地は作らせない!」

                                                     

                                                     

                                                    | この人を見よ! | 12:32 | comments(0) | - |
                                                    今日は高校入試の日です。
                                                    0

                                                      この記事を書いている時間、生徒の皆さんは懸命に問題を解いていることでしょう。全員が持てる力を十分に発揮してくれることを願うばかりです。

                                                       

                                                       

                                                       

                                                      中学3年生の授業は3日前の2月9日が最後でした。朝から車を飛ばして臼杵の「さかいや」さんへ桜餅を買いに行きました。塾では毎年、授業の最後に妻がお抹茶を点て、桜餅といっしょに出すことにしています。手作りの苺ケーキと紅茶を出した年もありましたが、最近はお抹茶と和菓子が定着しています。今ではお抹茶を点てる家庭がほとんどないためか、珍しいようで、気分を引き締める効果があるのです。

                                                       

                                                       

                                                       

                                                      そして同じ9日の正午ごろ、生徒と保護者の皆さんへお礼の手紙をしたためていると、高校3年生のTさんから名古屋大学の経済学部に合格したとの知らせが届きました。津久見から上野丘高校へ電車通学、帰宅後再び車で私の塾まで通ってくれました。一足先に九州大学に合格していたYさんと一緒に合格祝いのランチ会をする予定になっています。多くの春秋に富む若者を送り出す春は、塾の教師にとってはささやかな喜びの季節なのです。

                                                       

                                                       

                                                       

                                                      そんな中、結果を出すことにこだわるだの、合格実績がすべてだのと、塾業界は相変わらず手前勝手な宣伝合戦を繰り広げています。それにつられて保護者の皆さんの中には、焦りと不安をかかえて右往左往している方もいるようです。

                                                       

                                                       

                                                       

                                                      大手の塾は資金力にものを言わせて(実際は自転車操業でしょうが)分教室をあちこちに立ちあげています。これを私はタコ足作戦と呼んでいます。少子化の中、少しでも生徒を獲得できそうな地域があれば足を延ばし、採算が取れないと見るや、手を、いや足を引くのです。食べるものがなくなったタコが自分の足を食べるのに似ていますね。

                                                       

                                                       

                                                       

                                                      分教室を作る時、一番困るのは講師を確保できないことです。それでも何とかアルバイトで人数を確保し、見切り発車すれば当然質が低下し、指導のレベルを一定の水準に保てなくなります。それを補完するのがAIです。つまり、ビッグデータに依存し、統計と確率を駆使して作ったプリントをやらせる塾への移行というわけです。

                                                       

                                                       

                                                       

                                                      仰天するような授業をしている塾(それをYouTubeで公開しているのですから、どこまで他者意識が希薄なのかと思います)もあれば、講師に生徒獲得のための営業をさせる塾(ほとんどの塾がそうです)もあります。資本主義社会の中では「会社」は売り上げを伸ばすことを最優先しなければならないのです。

                                                       

                                                       

                                                       

                                                      私はそういった類の「ビジネスモデル」からは何一つ学ぶことはないと思っています。現在の塾業界は元銀行マンや経営コンサルタントが、初期投資が少なくて済む市場(これをニッチ市場またはスキマ産業と言います)として一儲けをたくらんでいる業界だと思って間違いありません。

                                                       

                                                       

                                                       

                                                      エラソーに言っているが、お前は何をしているのだと言われそうですね。簡単に答えておきます。塾業界を駆動している既存の価値すなわち結果主義・実績主義のイデオロギーを乗り越えようとしています。そのためには、もちろんこの業界の毒を飲むことも必要です。一度は飲んで、毒が身体に回る前に吐き出さねばなりません。

                                                       

                                                       

                                                       

                                                      しかし、塾経営者のほとんどは手遅れ状態です。「覚せい剤」もどきの毒は、服用すれば一時はハイになり、全能感に浸れるし、メディアに取り上げられて承認欲求を満たすこともできるでしょう。しかし、常用すれば廃人になるのです。

                                                       

                                                       

                                                       

                                                      今の塾業界は、たとえて言えば、少しでも役立ちそうなアプリ(アプリケーション)を手に入れる競争を煽っているようなものです。宣伝される勉強方法はパソコンやスマホのアプリです。アプリを買って理解すれば、それが動いていろいろなことを教えてくれるというわけです。一見、便利で効率的に見えます。

                                                       

                                                       

                                                       

                                                      しかし、アプリは私たちが直面している本質的な問題はおろか、その所在すら教えてくません。それに気付くには、思考のOS(オペレーション・システム)自体を入れ替えなければならないのです。本質的な学びを深めるためには、「考え(アプリ)」を変えるのではなく、「考え方(OS)」を変える必要があるのです。

                                                       

                                                       

                                                       

                                                      私はすべての生徒に「自分の能力を発揮し得たかもしれない、もう一つの場所」があるはずだと思ってきました。塾業界の「毒」を飲みながらも、里山を拠点にして、あえて主流にならないことを選択したのは、思考のOSを入れ替えるためだったのです。

                                                       

                                                       

                                                       

                                                      幸運にもそれで35年間続けることができました。今は、ヴァナキュラー(その土地固有の風土や文化に根ざした)な生き方を基本に、オールターナティブ(いまあるものとは違うもう一つの)教育の可能性を探りつつ、人生第四期に移行するための準備をしているところです。

                                                       

                                                      一年以上前に書いた記事です。暇な時にお読みください。

                                                       

                                                       

                                                      『見果てぬ夢 ・100年後の生存戦略−教育』

                                                      http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=446

                                                       

                                                       

                                                       

                                                      | 塾・学力 | 13:36 | comments(0) | - |
                                                      声の届く場所で生きる。
                                                      0

                                                        8年目の3・11です。あれから私たちの国はどうなったか。これ以上ないほど劣化が進み、真実の言葉はマスメディアから消え去り、「いわば」と「まさに」をくり返すだけのバカが、質問している野党議員にヤジを飛ばしています。

                                                         

                                                         

                                                        いやいや、日本にはまだまだいいところがたくさんある。捨てたものではないよ。あなたは見たいものしか見ていないのだよ。

                                                         

                                                         

                                                        ほ〜、そうですか。私はこの国を愛することにおいて人後に落ちないつもりです。少しでもいいところを探し、そこに希望をつなごうとしてきました。人生の時間の大部分をそのことに費やしてきたと言ってもいいくらいです。この国の文化や歴史を知ることで、なんとか精神の平衡を維持してきたのです。

                                                         

                                                         

                                                         

                                                        もちろん希望を捨てたわけではありません。しかし、この国を愛すれば愛するほど、反作用も大きいのです。軽佻浮薄な言説ばかりがマスメディアを通じて垂れ流され、深刻そうな顔をしてしゃべっている人間も、結局は長いものに巻かれ、口をつぐむ。あまりに見え透いているのです。

                                                         

                                                         

                                                         

                                                        そもそも、「かけがえのない日々の生活」を犠牲にしない思想などというものはない。あらかじめ着地点が決まっている噴飯もののドラマを見せられて感動などできるはずもないのです。

                                                         

                                                         

                                                         

                                                        3・11以降、声が大きいだけで知性のかけらもない為政者たちが、社会的弱者や政治の貧困のつけを払わされている人々を権力で踏みつけにしています。それが今の社会です。その象徴が、何度も書いてきましたが、ヤクザ政治家の安倍晋三であり、大阪維新の会から生まれたヤクザ以下の魑魅魍魎たちです。クロスダブル選挙ですって?バカもいい加減にせよ!

                                                         

                                                         

                                                         

                                                        私はひそかに心を決めています。SNSで自我を肥大化させ、全能感に酔いしれている愚か者たちとは絶縁しようと。電脳空間の中で生きるのではなく、手を伸ばせば土と水と草花がすぐそばにある場所で生きようと。声の届く場所で生きようと。

                                                         

                                                         

                                                        | 文学・哲学・思想 | 23:08 | comments(0) | - |
                                                        今日は雛祭りでした。ー NHKはいらない。
                                                        0

                                                          わが家では毎年2月に入るとすぐ、妻がひな壇の組み立を要請してきます。ところが、今年はその様子がないので、忘れているのかも!ラッキー(組立てが結構面倒なのです)と思っていると、中旬になって正式な要請がありました。

                                                           

                                                           

                                                           

                                                           

                                                          「あなたから見たら面倒なことでしょうけど、こういう事って、けっこう大事だと思うのよね。娘たちが無事に成長したことに感謝しながら、ひな人形を並べる時間が私は好きなのよ。」

                                                          ははっ〜、おっしゃる通りでございます。

                                                           

                                                           

                                                           

                                                          雛人形を一つ一つ箱から取り出して並べるのは、結構な時間がかかります。妻はそれを苦とも思わず、オルゴールに合わせてひな祭りの歌を歌いながら、毎年欠かさず並べています。こういうところは感心だなと思います。おかげで、あわただしく流れていくだけの日常に、彩りがそえられ、そこだけ花が咲いたようなひとときとなるのです。

                                                           

                                                           

                                                           

                                                          とまあ、ここまでにしとけばいいものを、卑屈さというか奴隷根性というか、権力に隷属することを誇りにしているような人間たちを見て、どうにも怒りがおさまらないので、書き留めておくことにします。もしかしたら、ひな祭りを素直な気持ちで祝えるのも今年で最後になるかもしれないからです。

                                                           

                                                           

                                                           

                                                          以下は戦史・紛争史研究家の山崎雅弘氏のツイッタ―からです。

                                                           

                                                           

                                                          「2019年3月1日のNHK午後7時ニュース。「新元号を書くパフォーマンスのため、(アシカが)毎日特訓に励んでいます」「どんな元号がきても書けるように練習」とあるが、当日まで発表されない言葉をどうやって「アシカに練習させる」のか。NHKは「安久」という二字だけを、20秒も画面に映していた。」

                                                           

                                                           

                                                           

                                                           

                                                          まさか「安久」という元号は、「安」倍晋三総理の功績を(何一つないにもかかわらず)永「久」に顕彰することを目的とするものではないでしょうね。たとえこれが現実にならなくても、ここまで時の権力者に媚びへつらう放送局が公共放送を名乗るとは、大日本帝国下で猖獗をきわめたイデオロギーに魂を売り渡したのだと断言します。

                                                           

                                                           

                                                           

                                                          それにしてもなぜ彼らは隷属を誇りとし、隷属を求めて闘うことができるのでしょうか。「安久」が新元号になれば私は西暦だけを使い、金輪際元号は使わないつもりです。

                                                           

                                                           

                                                           

                                                          こんなひとりよがりで、かたくなな決断は、前途ある若者をブロイラーのニワトリのごとく教育した上野丘高校(これは僕の主観です)の卒業式を、布団にくるまってボイコットした変わり者のなれの果てかもしれませんね。若い人はNHKに入って、自信と誇りを持って安倍政権を支持して下さい、なんちゃって。 

                                                           

                                                           

                                                          | 身辺雑記 | 20:10 | comments(0) | - |
                                                          卒業する高校生の皆さんへ。
                                                          0

                                                            昨日は県内の高校の卒業式でした。テレビで上野丘高校の卒業式の様子が流れていました。卒業した高校生の皆さん、おめでとう。

                                                             

                                                             

                                                             

                                                            卒業式の朝のことは鮮明に覚えています。忘れようにも忘れられないのです。僕は布団にくるまり、時間が来ても起きませんでした。居間からは、母が着物に着替えている衣擦れの音が聞こえていました。しばらくして玄関を開ける音がし、母は僕のいない卒業式に出かけて行きました。帰宅した母は、僕を非難する言葉をひとりごとのように呟いていました。教師をしていた父は、その日のことを一言も口にしませんでした。

                                                             

                                                             

                                                             

                                                            名状しがたい怒りのようなものを抱えていた当時の僕にとって、卒業式に出席して高校生活に区切りをつけ、「希望にあふれる未来に向けて羽ばたく」ことなど考えられなかったのです。自分の中で納得のいく時間を過ごしたという感覚がまったくなかったからでしょう。前にも書いたように、僕にとっては人生の中の空白の3年間だったのです。それは、すべて自分の至らなさが招いた結果だと思います。

                                                             

                                                             

                                                             

                                                            しかし、もし今の僕が高校3年生だったらどうしたでしょうか。結局、同じ行動をとったのではないかと思います。そういう意味で、高校の卒業式は、僕自身の僕自身による人生のスタートを切った忘れられない出来事となったのです。卒業して以降、僕は上野丘高校のクラス会には一度も出席していません。

                                                             

                                                             

                                                             

                                                            ただ、息子のいない卒業式に出席した母の落胆と無念さを想い、そのことを一言も口にしなかった父のことを想うと、どうしようもなく涙があふれてきます。母はこの日を楽しみにして僕を育てていたのかも知れないのです。

                                                             

                                                             

                                                             

                                                            しかし、それが僕という人間であり、後年それを宿命として受け入れる生き方を選ぶ他なかったのです。人生は偶然の集積です。個人の意思などというものは、存在するのかどうかさえ分かりません。ただ、高校時代の僕と今の僕はつながっているのだという痛烈な思いがしきりにしているだけです。

                                                             

                                                             

                                                             

                                                            最後に、卒業する高校生に一篇の詩を送りたいと思います。

                                                             

                                                             

                                                             

                                                            ぱさぱさに乾いてゆく心を

                                                            ひとのせいにはするな

                                                            みずから水やりを怠っておいて

                                                             

                                                            気難しくなってきたのを

                                                            友人のせいにはするな

                                                            しなやかさを失ったのはどちらなのか

                                                             

                                                            苛立つのを

                                                            近親のせいにはするな

                                                            なにもかも下手だったのはわたくし

                                                             

                                                            初心消えかかるのを

                                                            暮らしのせいにはするな

                                                            そもそもが ひよわな志にすぎなかった

                                                             

                                                            駄目なことの一切を

                                                            時代のせいにはするな

                                                            わずかに光る尊厳の放棄

                                                             

                                                            自分の感受性くらい

                                                            自分で守れ

                                                            ばかものよ

                                                             

                                                            ― 茨木のり子詩集「自分の感受性くらい」より

                                                             

                                                            | 人生 | 09:53 | comments(0) | - |
                                                            受験で緊張する中学3年生の皆さんへ。
                                                            0

                                                              いよいよ高校入試まであと20日を切るところまで来ました。以下気をつけることを簡単に述べておきます。

                                                               

                                                               

                                                               

                                                              1:普段と変わったことをする必要はありません。つまり、保護者の皆さんは、特別な気遣いをする必要などないということです。「落ちる」とか「すべる」といった言葉も普通に使いましょう。

                                                               

                                                               

                                                              例えば夕食のとき、

                                                               

                                                              「ほら、○○ちゃん、ほうれん草の白和えが落ちているわよ。拾ってよ。誰かが踏んですべるといけないから。」

                                                               

                                                              「お兄ちゃん、そんなところに本を積み上げていたら落ちてくるよ。」

                                                               

                                                              「大丈夫だよ。すべらないようにちゃんと気をつけて積んでいるんだから」

                                                               

                                                              「そんなことないよ。それじゃあ、絶対すべって落ちてくるってば!」

                                                               

                                                              「キャ〜、おばあちゃんがお風呂ですべってころんで、おおイタ県!」などというように。

                                                               

                                                               

                                                               

                                                              こんな言葉に過敏に反応するようでは先が思いやられます。今はお父さんまでが神経質になっています。

                                                               

                                                              試験当日の朝。お父さんは次のように子どもさんに声をかけてはどうでしょうか。

                                                               

                                                               

                                                              「○○、よく頑張ったな。オレなんかお前の半分も勉強しなかったぞ。でもな、こうやってちゃんと飯が食えてる。試験なんてものは運だよ。受かるも落ちるも運次第だ。オレが今の会社に就職したのも運だ。そして母ちゃんに出会ったのが運の尽きだ。ナハハ、なんちゃって。結果はお天道さまだけが知っている。気にせず全力でぶつかってこい!」

                                                               

                                                               

                                                               

                                                              2:この時期になってあれやこれやの参考書や問題集に手を出してはなりません。理科や社会は一問一答式で知識を整理するといいでしょう。持っていない人は、「新研究」で十分です。

                                                               

                                                               

                                                              アンダーラインの箇所をなつかしく眺めましょう。ああ、このころはまだ彼女とうまく行っていたのに・・・などと思い出しながら。もちろん今時の中学生で、こんな感慨にふける人はいないことくらい分かっていますよ。

                                                               

                                                               

                                                              でも、本当にあなたがあなただけのノートを作っていれば、全くあわてる必要などありません。よければ、以下の記事を参考にして下さい。僕の言っていることが、痛烈に分かるでしょうから。

                                                               

                                                               

                                                              『世界に二つとないノートの作り方。』 

                                                              http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=453

                                                               

                                                              『あなただけのノートの作り方。』

                                                              http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=455

                                                               

                                                               

                                                               

                                                              3:数学は、これまでやった問題を解き直すこと。その際注意すべきことは、初めて解くような気持ちで向き合うことです。解き方を思い出そうとして知識の道具箱の中を探さないこと。記憶に頼ると迷路に迷い込み、時間だけが過ぎていきます。塾の生徒の皆さんは、このことを実感しているはずです。

                                                               

                                                               

                                                               

                                                              数学は与えられた情報を「数式化する」ことがすべてです。計算問題をさっさと済ませた後、問題をじっくり眺め、数学の言語に翻訳すること、すなわち、単純に言えば、問題をグラフ化したり図形化したりするのです。これが数式化の中身です。そこへ意識を集中すること。

                                                               

                                                               

                                                               

                                                              思い出して下さい。数学を学ぶのは、よろこびを味わうためなのです。それはまだ誰も見たことのない宇宙の真実と最初に向き合うことができたという歓喜と恍惚感をいち早く手に入れるためなのです。これを味わうために生きているのが数学者です。僕が授業でフェルマーの最終定理について話すのも、これこそが数学の本質・コンテンツだということを分かってほしいからです。

                                                               

                                                               

                                                               

                                                              4:国語は、作者や筆者の言いたいことではなく、問題作成者の視点で、設問を読むこと。その際、たった一つのことに意識を集中して下さい。

                                                               

                                                               

                                                              文章を読みながら、不足情報を追いかける。そして、抽象表現を具体表現に、具体表現を抽象表現に言い換えている箇所にマーキングすること。これを「論理国語」などと称して、売りにしているのが「塾・予備校の国語」です。しかし、これは試験形式と試験時間が生み出した方便に過ぎません。

                                                               

                                                               

                                                               

                                                              本物の国語力とは、「論理国語」や「文学国語」(聞いたことのない、滑稽な命名です)などといったジャンルを飛び越え、どこまでも広がる、すなわち物事をクリティカル(批判的)に見ていく自由な思考と言語表現力なのです。

                                                               

                                                               

                                                              そもそも、安倍政権の統計偽装と同じく、センター試験であれ、共通テストであれ、子供たちのことを考えたものではなく、利権に群がる愚かな大人の考え出したものです。そんなものは本来不要なのです。少子化の今こそ、各大学が独自に試験を行えばいいだけのことです。英語にまつわる教育改革は、めまいがするほどの愚行です。このことの本質はまた改めて述べます。

                                                               

                                                               

                                                               

                                                              さて、最後に受験生に見てもらいたい動画があります。それが僕からのプレゼントです。これから試験までの日々、時々見ては、自らの精神に喝を入れて下さい。それではまたお会いしましょう。

                                                               

                                                               

                                                               

                                                              2012年、世界空手選手権で優勝した宇佐美 里香選手の演武。世界を感嘆させました。同じく下は優勝した女子団体の演武です。受験生は試験会場で決して真似しないように。

                                                               

                                                               

                                                               

                                                               

                                                               

                                                               

                                                              | 中高生の皆さんへ | 14:48 | comments(0) | - |
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