CALENDAR
S M T W T F S
     12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930
<< November 2019 >>
ARCHIVES
CATEGORIES
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
日本を解き放つ
日本を解き放つ (JUGEMレビュー »)
小林 康夫,中島 隆博
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
資本主義の終わりか、人間の終焉か? 未来への大分岐 (集英社新書)
資本主義の終わりか、人間の終焉か? 未来への大分岐 (集英社新書) (JUGEMレビュー »)
マルクス・ガブリエル,マイケル・ハート,ポール・メイソン
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
洪水の年(上)
洪水の年(上) (JUGEMレビュー »)
マーガレット・アトウッド
RECOMMEND
洪水の年(下)
洪水の年(下) (JUGEMレビュー »)
マーガレット・アトウッド
RECOMMEND
RECOMMEND
 (JUGEMレビュー »)

まず私たちの生命と暮らしを脅かす事実を知ること。それにたいしてどのような認識を持つのか。この国のみならず、世界を壊滅させる災厄とどう向き合うのか。次世代に対してどう責任を取るのか、そもそも責任を取れるのか。自分に何ができるのか。この現実にどう向き合うのか。それを教えるのが教育のはずだが、この国には教育も哲学も存在しない。
RECOMMEND
「最悪」の核施設 六ヶ所再処理工場 (集英社新書)
「最悪」の核施設 六ヶ所再処理工場 (集英社新書) (JUGEMレビュー »)
小出 裕章,渡辺 満久,明石 昇二郎
原発よりもはるかに危険な六ヶ所村再処理工場。私たちの日々の生活が薄氷の上で営まれていることを痛感させられる。同時に、この国には「国民の生命・財産・自由を守り抜く!」と威勢のいいことを言う総理大臣と無能の政治家しかいないことに絶望する。核燃料サイクルと言い、下北半島の再処理工場と言い、3兆円以上の国民の税金がつぎ込まれ、いまだ後始末も将来の見通しもたっていない現実をどう考えているのか。彼らは核兵器を持ちたいという願望と税金をロンダリングして私腹を肥やすことしか眼中にない。北海道の地震だけに目を奪われてはならない。六ヶ所村は今回の震源地の目と鼻の先にあるのだ。
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
幻影(イメジ)の時代―マスコミが製造する事実 (現代社会科学叢書)
幻影(イメジ)の時代―マスコミが製造する事実 (現代社会科学叢書) (JUGEMレビュー »)
D.J.ブーアスティン
私にとっては古典の中の古典。三度読みました。そしてその慧眼にいまだに驚いています。
RECOMMEND
殺人犯はそこにいる (新潮文庫)
殺人犯はそこにいる (新潮文庫) (JUGEMレビュー »)
清水 潔
ジャーナリストと称する職業がある。自称ジャーナリストもいれば、テレビのコメンテーターとしてリベラルに媚びる政権批判をし、名を売り、講演で稼ぐ職業をジャーナリストと呼ぶ者もいる。とんだ茶番である。ジャーナリストとはどこまでも「事実」を追いかける。テレビに出て能天気な解釈や感想を垂れ流している暇などないはずだ。ジャーナリストを志す若い人には清水氏の著作は避けて通れない。その名に値する本物のジャーナリストがここにいる。
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
デジタル・ポピュリズム 操作される世論と民主主義 (集英社新書)
デジタル・ポピュリズム 操作される世論と民主主義 (集英社新書) (JUGEMレビュー »)
福田 直子
おそらく自民党・安倍政権はSNSを駆使し、分析するデータサイエンス(日本版なのでレベルはまだ低いですが)の重要性に着目し、選挙にどうすれば勝てるか、自分たちに有利な世論を形成し、国民を誘導・分断するにはどうすればいいのかが分かっているのです。そのためのノウハウも蓄積しつつあります。安倍首相の貧困な語彙力からは想像できないカタカナ言葉を聞いていると、それがSNSを分析している集団から教えられたものであることがよくわかります。ただ彼らの致命的な弱点は将来の社会を導く理想がないことです。おそらく、思いもかけない結果が待っていることでしょう。なぜなら、所詮、彼らはアメリカとビッグデータの奴隷でしかないのですから。これからの政治は、好むと好まざるとにかかわらず、この本に書かれていること抜きには語れなくなっているのです。
RECOMMEND
 (JUGEMレビュー »)

安倍政権に対するメディアの忖度が云々されていますが、元々同じ穴のムジナなのです。忘れてならないのは、日中戦争から太平洋戦争にかけて、日本の世論と新聞のほぼ全部は好戦的・拡張主義的だったのです。しかも、当時はまだ言論統制体制が発足していなかったのです。この本は、そうした「一貫して好戦的な世論とそれに便乗する新聞」が先導し、近衛文麿はじめ文民政治家がそれに便乗、軍部がさらに便乗、という構図を一次資料で克明に論証しています。安倍政権を支持するネトウヨの皆さんの日本語力では、まともな読解は無理ですので勧めません。一方、正確な歴史を知るためには「世論」の不気味さを知ることだと気づいている若い人には是非一読を勧めます。
RECOMMEND
茫漠の曠野 ノモンハン
茫漠の曠野 ノモンハン (JUGEMレビュー »)
松本草平
著者は大分市にある『天心堂へつぎ病院』の院長、松本文六氏の御尊父、松本草平(本名松本弘)氏です。詳しくは、ブログで紹介したいと思いますが、第一次資料として極めて価値の高いものです。40年ぶりに復刻版を出された松本文六氏と出版社に感謝する他ありません。
戦略も何もない、無謀・無慈悲な戦争を語り継ぐことは、最も崇高で重要な人間の営為だと私は考えています。作家の司馬遼太郎氏は、電話で草平氏に次のように伝えてきたそうです。「先生の臨場感のあるノモンハン戦記に出会えて本当にありがとうございました。私は大東亜戦争の折、戦車隊の一員として従軍しましたが、先生の従軍記以上のものを創ることはできません。」と。
一人でも多くの方がこの本を読まれることを望みます。ちなみに松本文六氏は伊方原発差止め訴訟の原告でもあります。その縁で、この本に出会うことができました。
RECOMMEND
「南京事件」を調査せよ (文春文庫)
「南京事件」を調査せよ (文春文庫) (JUGEMレビュー »)
清水 潔
全国のネトウヨの皆さんへの推薦図書です。清水氏のこの本を読んでから、「南京事件はなかった!」「南京事件は捏造だ!」と叫びましょうネ。
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
日本列島の全原発が危ない! 広瀬隆 白熱授業  DAYS JAPAN(デイズジャパン)2018年1月号増刊号
日本列島の全原発が危ない! 広瀬隆 白熱授業 DAYS JAPAN(デイズジャパン)2018年1月号増刊号 (JUGEMレビュー »)
広瀬隆
広瀬氏をアジテーターだの、オオカミ少年だの、悲観主義に過ぎると言って批判する人がいる。しかし、ブログで何度も述べてきたように、真の悲観主義こそがマインドコントールによって奴隷根性のしみ込んだ私たちの精神を浄化してくれるのだ。そもそも無知では悲観が生まれようもないではないか。国などいくら破れても結構。せめて山河だけでも次世代に残そうと考える人ならぜひとも読むべき本である。いや、これから幾多の春秋に富む若い人にこそすすめたい。
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
チャヴ 弱者を敵視する社会
チャヴ 弱者を敵視する社会 (JUGEMレビュー »)
オーウェン・ジョーンズ,Owen Jones
【本書への賛辞】

「怒りが生んだ、最高の本」
──ガーディアン紙

最高の論争がみなそうであるように、知性に裏打ちされた怒りが本書を支えている。
──エコノミスト誌

暴動や世界中に広がったオキュパイ運動に照らして考えると、分断社会に関する著者の鋭い分析は、
不気味なほど未来を予知していたことがわかる。
──アートフォーラム誌

情熱と、思いやりと、すぐれた道徳性が結実した仕事だ。
──ニューヨーク・タイムズ紙

政治の定説を見直す大胆な試み。著者は戦後のイギリス史を縦横無尽に往き来し、
階級、文化、アイデンティティといった複雑な問題を軽々とまとめてみせ、
結果として「階級」問題に火をつけ、大きな効果をあげている。
──インディペンデント紙

いまの制度が貧しい人々を見捨てていることに対する苛烈な警告──それが本書だ。
──ブログサイト「デイリー・ビースト」

ジョーンズは、「地の塩」だった労働者階級が政治のせいで「地のクズ」と見なされるようになった経緯を見事に説明している。
──タイムズ紙

この本は、新しいタイプの階級嫌悪と、その裏にあるものを痛烈にあばいて見せてくれる。
──ジョン・ケアリー(The Intellectuals and the Masses著者)

これは「イギリスはおおむね階級のない社会である」という考え方への、論理的で情報満載の大反撃だ。
──オブザーバー紙

情熱的で示唆に富む……この声が届くことを心から願う。
──スコットランド・オン・サンデー紙
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
 (JUGEMレビュー »)

紹介していない本が山のようにあります。数日前にこの本を本棚の奥から引っ張り出し再読しました。いや〜面白かった。。とにかくこの本のことを忘れていた自分が信じられない。読んでない人に熱烈に勧めます。ハイ。
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
新・日米安保論 (集英社新書)
新・日米安保論 (集英社新書) (JUGEMレビュー »)
柳澤 協二,伊勢崎 賢治,加藤 朗
RECOMMEND
英語の実際的研究 (1969年)
英語の実際的研究 (1969年) (JUGEMレビュー »)
秋山 敏
高校生にとって、今でも一押しの不朽の名著。でもこの本をことを知っている英語教師は少ないと思います。是非復刊してほしいものです。
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
スノーデン 日本への警告 (集英社新書)
スノーデン 日本への警告 (集英社新書) (JUGEMレビュー »)
エドワード・スノーデン,青木 理,井桁大介,金昌浩,ベン・ワイズナー,宮下紘,マリコ・ヒロセ
2017年4月18日、朝日新聞がようやく「パノプティプコン」を取り上げました。遅すぎますね。
これから先の日本社会は、ますます荒廃が進み、国民の不満が頂点に達し、やがて爆発します。それを未然に防ぐために、国は国民の監視を強化します。
実際アメリカでは「愛国者法」により、電子メールや携帯の通話履歴が監視の対象になっています。誰が、いつ、どこで、何を読んで、誰と通信を交わしたか、すべて国に筒抜けです。
「パノプティプコン」とはフランスの哲学者フーコーが用いた概念ですが、国民が刑務所の囚人のように監視される体制を言います。監視者の姿は見えませんが、囚人は監視者不在でも、監視を意識することによって管理統制されるのです。これを「パノプティシズム」と言います。
このシステムから解放されるためには、権力がどう管理・統制しようとしているかを知らねばなりません。この本はそれを知るための第一歩です。あなたが無知のまま、奴隷の人生を送りたければ、読む必要はありません。
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
魂の殺人―親は子どもに何をしたか
魂の殺人―親は子どもに何をしたか (JUGEMレビュー »)
A.ミラー
アリスミラーのこの本は、塾を始めるきっかけになりました。ただ生活のためだけなら、他のことをしていたでしょう。『才能ある子のドラマ』とあわせて、当時の私には衝撃的な本でした。人生はどこでどう転ぶかわかりません。人間の奥深さを知ることで、何とか自分を維持していたのです。この本を読むと当時のことが、ありありと思い出されます。ある意味で、私の人生を方向づけた本かもしれません。
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
朽ちていった命:被曝治療83日間の記録 (新潮文庫)
朽ちていった命:被曝治療83日間の記録 (新潮文庫) (JUGEMレビュー »)
NHK「東海村臨界事故」取材班

2月18日のブログでも書きましたが、仕事のために読むビジネス書の類は、最終的には効率を重視し、最小の資本と労力の投下で、いかにして最大の利益を上げるかということに尽きていると思います。そのための働き方改革であり、そのための賃上げです。そのための人心掌握術であり、顧客対応です。ビジネス書を読めば読むほど、人間は軽薄になり、視野が狭くなっていきます。もしあなたがそれを自覚するきっかけがほしいなら、是非この本を読むことを勧めます。読書はビジネスのためにするのではないということが分かると思います。この本は私たちの日常の風景を一変させるだけのインパクトを持っています。いわば、ことばの最高の意味における「闖入者」なのです。
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
服従
服従 (JUGEMレビュー »)
ミシェル ウエルベック
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
黒い巨塔 最高裁判所
黒い巨塔 最高裁判所 (JUGEMレビュー »)
瀬木 比呂志
この本はまだ発売されていません。自分で読んでいない本を推薦するのは邪道でしょう。しかし、これまでの『絶望の裁判所』『ニッポンの裁判』(ともに講談社現代新書)に続く裁判所、司法批判の第3弾が長編の権力小説だということで、過去2冊の本の面白さからして、推薦に値する本だと思いました。『原発ホワイトアウト』の最高裁判所ヴァージョンだと思います。読んでからコメントを追加したいと思います。
RECOMMEND
そして、僕はOEDを読んだ
そして、僕はOEDを読んだ (JUGEMレビュー »)
アモン・シェイ
学校なる場所に通っていた時、毎年夏になると課題図書を読んで、読書感想文を書かねばならないのが苦痛でした。課題図書の選定には学校と書店の密約があるに違いないと思っていたくらいです。

偶然巡り合った面白い本の感想を書くのならまだ我慢できたかもしれません。つくづく学校というところは、余計なことをしてくれると思ったものです。

あまりにめんどうくさいので、「あとがき」を参考に、あらすじを書いて提出したら、トリプルAをもらいました。

学校というところは、もしかしたら、人生の退屈に耐える訓練をする場所だったのかもしれません。この本を読んで、改めてそのことを確認しました。別に先生を責めているわけではありません。それほど自覚的に生きるということは難しいのだとため息をついているだけです。
RECOMMEND
選挙 [DVD]
選挙 [DVD] (JUGEMレビュー »)

想田和弘監督の観察映画。音楽による演出は一切なく、徹頭徹尾監督の視点で撮られたドキュメンタリー映画。見終わった後、日本の選挙風土の貧困さが浮かび上がる。この国に民主主義はない、ということを改めて確認し、そこから出発するしかない。その勇気を持つ人には必見の映画です。合わせて『選挙2』もどうぞ。
RECOMMEND
職業としての政治 (岩波文庫)
職業としての政治 (岩波文庫) (JUGEMレビュー »)
マックス ヴェーバー
ウェーバーの死の1年前、1919年、学生達に向けた講演の記録です。
一部抜粋します。

「自分が世間に対して捧げようとするものに比べて、現実の世の中が―自分の立場からみて―どんなに愚かであり卑俗であっても、断じてく挫けない人間。どんな事態に直面しても「それにもかかわらず!」と言い切る自信のある人間。そういう人間だけが政治への「天職」を持つ。」(P105〜106)

「さて、ここにおいでの諸君、10年後にもう一度この点について話し合おうではないか。残念ながら私はあれやこれやいろんな理由から、どうも悪い予感がしてならないのだが、10年後には反動の時代がとっくに始まっていて、諸君の多くの人が―正直に言って私もだが―期待していたことのまずほとんどは、まさか全部でもあるまいが、少なくとも外見上たいていのものは、実現されていないだろう。」(P103〜104)

10年後には、ワイマール体制は機能不全に陥り、1933年にはヒトラーが首相に就任します。

平和憲法は、日本人にとって310万人の命と引き換えに手に入れた唯一と言っていい理念であり、アイデンティティーでした。その唯一の誇りを、日本人は損得勘定で葬り去ろうとしています。言い古された言葉ですが、歴史は繰り返すのです。
RECOMMEND
熊楠の星の時間 (講談社選書メチエ)
熊楠の星の時間 (講談社選書メチエ) (JUGEMレビュー »)
中沢 新一
小学校を卒業するころ、将来なりたい職業として思い描いていたのが、天文学者か生物学者でした。プロ野球選手は、自分のセンスでは無理だと悟りました。物ごころついたころから興味があったのは宇宙や昆虫や植物の世界でした。そんなわけで南方熊樟に出会うのは必然的な成り行きだったのです。人間は言葉によって世界を把握しますが、それ以外の把握の仕方があるはずだと、ずっと思ってきました。南方熊樟は、小林秀雄と同じく、直観による世界の把握の仕方を教えてくれました。この本は、言葉によって構成された世界秩序の外に出て、世界を改めて考えたい人に大いなるヒントをあたえてくれます。安倍政権によるゴキブリのフンのような、あまりにばかばかしい政治状況を見せつけられているので、精神の衛生学として一気に読みました。
RECOMMEND
電通と原発報道――巨大広告主と大手広告代理店によるメディア支配のしくみ
電通と原発報道――巨大広告主と大手広告代理店によるメディア支配のしくみ (JUGEMレビュー »)
本間龍
こどもの教育から裏金を使ったオリンピック誘致、原発再稼働、戦争準備から武器の売却、安倍政権の裏の権力としてメディアに絶大な影響力を行使する電通。私たちは電通が作り上げた「箱」の中でいいようにマインドコントロールされている。自分の意見だと思っていたものが、実はそう思わされていただけだということに気づかなければならない。音楽をはじめとする芸能情報、その中で踊らされるミュージシャンやタレント、果てはデザイン業界までを席巻する。今や電通の介在しないメディアはないと言ってもいい。利権あるところに電通あり、です。
RECOMMEND
英語化は愚民化 日本の国力が地に落ちる (集英社新書)
英語化は愚民化 日本の国力が地に落ちる (集英社新書) (JUGEMレビュー »)
施 光恒
英語教育に携わる人は、一度この本を読んでみるべきではないでしょうか。言葉は悪いですが「英語ばか」がこの国には余りにも多すぎる気がします。
RECOMMEND
日本はなぜ、「戦争ができる国」になったのか
日本はなぜ、「戦争ができる国」になったのか (JUGEMレビュー »)
矢部 宏治
前作『日本はなぜ「基地」と「原発」止められないのか』に続く著者渾身の力作。自分の人生を生きたい人にすすめます。ただそれだけです。18歳で選挙権が与えらる高校生が政治を考える際の基本的なテキストになる日がくるといいですね。無理でしょうが。これ以上余計なコメントはしません。まず手に取ってみてください。
RECOMMEND
日本会議の研究 (扶桑社新書)
日本会議の研究 (扶桑社新書) (JUGEMレビュー »)
菅野 完
メディアで取り上げられるよりはるか前から日本会議の存在について私は言及していました。電通と同じくタブー視するメディアには心底失望したものです。報道すればタブーはタブーでなくなるのです。何を恐れているのでしょうか。干されれば、何とか生活をする工面をすればよい。それだけのことです。
RECOMMEND
偶有性操縦法 -何が新国立競技場問題を迷走させたのか-
偶有性操縦法 -何が新国立競技場問題を迷走させたのか- (JUGEMレビュー »)
磯崎新
帯に「祝祭都市にスタジアムはいらない」とあります。そもそも2020年まで天災と原発事故をやり過ごし、経済危機を乗り越えて存在しているでしょうか。極めて怪しいですね。偶然書店で手に取って読みました。彼の文章を読むと、建築は現世の権力に奉仕するものではなく、想像力の王国を作るものだと思わされます。建築にそれほど興味のない人でも、読めます。いや、いつのまにか引き込まれているでしょう。
RECOMMEND
新・戦争のつくりかた
新・戦争のつくりかた (JUGEMレビュー »)
りぼん・ぷろじぇくと
難関中高一貫校で学び、東大に合格しても、それはもはや知性のバロメーターではありません。この本に書かれていることが真実だと見破れることこそが本物の知性です。ニセの知性は既得権益を守るためにはどんな屁理屈でもひねり出します。おまえは何も知らないと言って他人を見下し、金と権力におもねるのです。ニセの知性は理想の灯を掲げることができません。「脳内お花畑」などという幼稚な言葉を使って揶揄するしかないのです。彼らの決まり文句は、他国が攻めてきたらどうするのかという、それこそ「脳内お花畑」的なものです。「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」とは、まさに至言です。
RECOMMEND
福島第一原発 メルトダウンまでの50年――事故調査委員会も報道も素通りした未解明問題
福島第一原発 メルトダウンまでの50年――事故調査委員会も報道も素通りした未解明問題 (JUGEMレビュー »)
烏賀陽弘道
私の元塾生の縁でお会いしたことのある烏賀陽弘道氏の渾身のレポート。事実を丹念に調べ上げ(これがジャーナリストの本来やることです)事実をして語らしめることのできる稀有なジャーナリスト。この本を読まずに福島第一原発の事故の本質に迫ることはできない。ダブル選挙の前に一人でも多くの国民が読むことを期待します。
RECOMMEND
多読術 (ちくまプリマー新書)
多読術 (ちくまプリマー新書) (JUGEMレビュー »)
松岡 正剛
松岡正剛氏の本はどれも面白く、シリーズの千夜千冊を除けばほとんど読んでいます。『多読術』は、高校生にぜひ勧めたいと思います。高校時代に、この本を読んでおくと、さまざまな分野の知的見取り図を手に入れることができます。学校の授業だけではなく、この本を手掛かりにして知の荒野に歩みを進めてほしいと思います。
RECOMMEND
RECOMMEND
永遠平和のために (岩波文庫)
永遠平和のために (岩波文庫) (JUGEMレビュー »)
カント
安倍首相は「この道しかない」と言って消費税を上げ、集団的自衛権の行使を可能にする閣議決定をし、公約とは正反対のTPPを批准することで、日本の文化=アイデンティティーを破壊しようとしています。

もし私たちが生き延びたければ、そのヒントがこの本の中に書かれています。日本は超大国の「夢」を代弁するだけの国になってはなりません。
RECOMMEND
みんなが聞きたい 安倍総理への質問
みんなが聞きたい 安倍総理への質問 (JUGEMレビュー »)
山本 太郎
山本氏の国会での質問を、本になって改めて読み直して感じることは、文字通り「みんなが聞きたい」質問をしてくれたということです。安倍首相が小学生に「なぜ政治家になったのですか」と質問された時、「父親も祖父も政治家をしていたからです」と答えていました。小学生相手に、何と言う悲しい答えでしょうか。語るべき理想を持たない政治家など、所詮は官僚に利用されるだけです。それに対して、山本氏には語るべき理想がある。「政治なんてそんなものさ」というリアリストが発散する腐臭を吹き飛ばすさわやかさがある。それは、彼の身体には収まりきれない理想が持つ力そのものです。彼は言います。「力を貸してほしい。少なくとも、あなたが必要だと思われる社会、私が必要だと思われる社会を作っていきたい。そう思うんです」と。日本の総理大臣にふさわしいのはどちらでしょうか。
RECOMMEND
転換期の日本へ―「パックス・アメリカーナ」か「パックス・アジア」か (NHK出版新書 423)
転換期の日本へ―「パックス・アメリカーナ」か「パックス・アジア」か (NHK出版新書 423) (JUGEMレビュー »)
ジョン・W・ダワー,ガバン・マコーマック
おそらく、日本人自身よりも海外の知識人のほうが、日本の問題を正確にとらえていると思わせる本です。読み終えて何気なくテレビを見たら、わが大分県選出の国会議員、岩屋毅氏と江藤晟一氏が、2016年ミスユニバース大分県代表を選ぶ催し物に出ていました。名誉顧問だそうです。いかがわしい宗教団体をバックに票を稼ぐだけでは飽き足らず、こんな大会に顔を出して名前を売ろうとする。大分市長の佐藤樹一郎氏も出席していました。このお三方は、こんなことをするために国会議員や市長になったのでしょうか。国民の税金を使ってやることといえば、テレビに出演してにやけた顔をさらすことでしょうか。もう物事の軽重が全く分かっていません。せめてこの本くらい読んではどうでしょうか。私はこの本に書かれていることの大部分に賛成です。
RECOMMEND
拉致被害者たちを見殺しにした安倍晋三と冷血な面々
拉致被害者たちを見殺しにした安倍晋三と冷血な面々 (JUGEMレビュー »)
蓮池 透
出版されてすぐ読みました。国会で、読んでもいないのに、安倍首相が躍起になって否定した事実が書かれています。蓮池氏はあちこちから人格攻撃の対象とされてきましたが、自分にも落ち度があったと認めています。自分は総理大臣なのだから落ち度はないと居直る人間とは好対照です。この本を読んで、拉致問題について今一度国民が考えることを望みます。
RECOMMEND
田舎のパン屋が見つけた「腐る経済」
田舎のパン屋が見つけた「腐る経済」 (JUGEMレビュー »)
渡邉 格
2年半ほど前に求めて、一気に読みました。マルクスの『資本論』の中に書かれていることを、著者が自分なりに消化し実践していく過程が書かれているので、一種のドキュメンタリー文学として読めます。きっと著者と同じ思いの若者は全国にたくさんいると思います。かけがえのない一回きりの人生を、充実して生きたいと思っている人に勇気を与える本です。
RECOMMEND
チェルノブイリの祈り――未来の物語 (岩波現代文庫)
チェルノブイリの祈り――未来の物語 (岩波現代文庫) (JUGEMレビュー »)
スベトラーナ・アレクシエービッチ
今年度ノーベル文学賞受賞作品。チェルノブイリは言うまでもなく、フクシマでさえ人々は忘れたがっています。もう過去のことだと言い聞かせて。しかし、過去のことではなく、まぎれもない現在進行中の現実であり、私たちが生きている世界そのものです。この本を読んだ後、橋下徹が御堂筋をイルミネーションで照らし出し、F1カーに乗って写真を撮っているところを見ました。その時のセリフ。「大阪はここまでできる!」

もう何と言うか、別世界を生きている人間です。彼の発する言葉は文学とは無縁です。人間が言葉を持ったのは、言葉にしがたいものを言葉にしようとするためです。政治家が発する言葉の軽さと言ったらありません。それだけ現実も軽いものになったということでしょう。
RECOMMEND
日本的霊性 完全版 (角川ソフィア文庫)
日本的霊性 完全版 (角川ソフィア文庫) (JUGEMレビュー »)
鈴木 大拙
鈴木大拙の言わんとすることが、ようやくわかりかけてきました。年齢を重ね、日本文化の基底にあるものをじっくり味わうことで開示される世界があるのです。日々の生活に追われていては、この本を読み、味わう暇などないでしょうが、それだからこそ手に取ってみてはいかがでしょう。
RECOMMEND
アクト・オブ・キリング オリジナル全長版 2枚組(本編1枚+特典ディスク) 日本語字幕付き [DVD]
アクト・オブ・キリング オリジナル全長版 2枚組(本編1枚+特典ディスク) 日本語字幕付き [DVD] (JUGEMレビュー »)

人間は、条件次第で、喜々として殺人を犯す。そして、その条件を整備しつつあるのが、安倍政権とその背後でうごめく『日本会議』である。このことに気づいていても、「配慮する」ことを最優先して報道しないメディア(特にNHK・読売新聞・産経新聞)。そしてそこに寄生する学者やコメンテーター、芸能人。このドキュメンタリー映画は、彼らの自画像である。たまには、自らの顔をじっくり眺めてみるがよい。
RECOMMEND
社会はなぜ左と右にわかれるのか――対立を超えるための道徳心理学
社会はなぜ左と右にわかれるのか――対立を超えるための道徳心理学 (JUGEMレビュー »)
ジョナサン・ハイト
私が長年考えてきた問題を解明するヒントになりました。ブログで書いたように、まず感情を基にした結論があって、それを正当化するために人は「知性」を動員するという、ごく当たり前のことが書かれている。つまり、知の粉飾決算報告書である。
RECOMMEND
食う寝る遊ぶ 小屋暮らし
食う寝る遊ぶ 小屋暮らし (JUGEMレビュー »)
中村 好文
中村さんの著作の中では、個人的に最も好きな本です。読んでいるだけで楽しくなります。限りなく優しい、でも、痛烈な文明批評です。これからの生き方のヒントが満載です。それを一人でも多くの人と分かち合いたいと思い、中村好文論・その3の中で引用させていただきました。
RECOMMEND
暮らしを旅する
暮らしを旅する (JUGEMレビュー »)
中村 好文
以下は私がアマゾンのレビューに投稿したものです。再録します。
「もし人に幸福な生き方があるとしたら、中村好文さんのような生き方だろうと、ずっと思ってきました。
建築雑誌をパラパラとめくりながら、ふむ、と思って手が止まると、そこには必ずと言っていいほど中村さんの設計した住宅がありました。
文は人なりと言いますが、その人の書く文章のエッセンスがこれほど見事に建築にも表現されている例はめったにありません。
建築に限らず、食の分野でも、ことばと実物の乖離がはなはだしい時代に、中村さんの設計した住宅や美術館に出会うと、どこか安心するのですね。
そういうわけで、著者の本はすべて読ませてもらっています。
この本も偶然、年末に本屋さんで手に入れ、装丁やカバーの手触りを楽しみながら読んでいます。
読みながらいつの間にかほのぼのとしている自分を発見します。
一日に一編か二編を過去の記憶をたどるようにして読んでいます。
この本の平明さ、やさしさがどこから来るのか。そんなことを分析するのは野暮というものです。
とにかくこの素敵な小さな本は、旅のお供にどうぞ!とすすめたくなります。」
RECOMMEND
パン屋の手紙―往復書簡でたどる設計依頼から建物完成まで
パン屋の手紙―往復書簡でたどる設計依頼から建物完成まで (JUGEMレビュー »)
中村 好文,神 幸紀
中村さんの書かれた本はすべて読みました。どの本もおすすめです。これから家を建てようと考えている人は、どの本でもいいですから、一冊中村さんの本を読んでみてはいかがでしょうか。エッセイとしても十分楽しめます。この本は北海道にあるパン屋さんの建物を作りながら、人は「パンのみにて生きるにあらず」を実践したものです。ダジャレ好きの中村さんらしい(笑)。
RECOMMEND
中村好文 普通の住宅、普通の別荘
中村好文 普通の住宅、普通の別荘 (JUGEMレビュー »)
中村 好文
中村さんの本を全部は読めないという人向けに、一冊だけ選ぶとすればこれでしょうか。普通、設計したらそれで終わりという建築家が多い中、かってのクライアントを訪問して話を聞き、それを本にしたものです。クライアントといい関係が築けてないと難しいですね。加えて自信がないとなかなかできることではありません。
RECOMMEND
森の生活〈上〉ウォールデン (岩波文庫)
森の生活〈上〉ウォールデン (岩波文庫) (JUGEMレビュー »)
H.D. ソロー
この本は実は哲学的で難しいですね。最初から熟読するのではなく、折に触れてページをめくるような読み方がいいようです。ところどころに、ブログで紹介したような言葉があり、はっとさせられます。彼のアフォリズム集として読むのがおすすめです。
RECOMMEND
堀部安嗣の建築
堀部安嗣の建築 (JUGEMレビュー »)
堀部 安嗣
堀部氏のスケッチと自身で撮った写真集。これ見よがしの作家性を前面に押し出したところがない。簡素で謙虚だが、気品に満ちた佇まいは何度見ても見飽きることがない。ブログを書くために、もう一度最初から読み直してみたが、やはり素晴らしい。
RECOMMEND
民主主義ってなんだ?
民主主義ってなんだ? (JUGEMレビュー »)
高橋 源一郎,SEALDs
「民主主義が終わってるなら、始めるぞ!」そのとおりです。彼らは「○○大学、○○○○(氏名)、私は戦争法案に反対します」と堂々と個人の責任で発言している。ネット上で匿名で反対意見を罵倒する勢力に比べると何とすがすがしいことか。デモや民主主義について一から考えたい人、あるいは、それくらいのことはわかってるつもりだという学者の皆さんに読んでもらいたい。もちろん大学生や18歳で選挙権を持つ若い人たちにも。ただし、民主主義は感情統治だの多数決だのと言っている橋下徹やホリエモンこと堀江貴史は読まなくてよい。あなたたちはSEALDsの新しさを理解する能力を欠いているから。
RECOMMEND
亡国記
亡国記 (JUGEMレビュー »)
北野慶
私たちの身の回りに起こったことは、日々の忙しさにかまけてすぐに忘れてしまいます。しかし、本当の想像力を持っていれば、それは現実を見る目を変えてくれますし、日々の生き方をも変えてくれます。一人でも多くの人に、この本を読んでもらいたいと思います。
RECOMMEND
ヤコブセンの建築とデザイン
ヤコブセンの建築とデザイン (JUGEMレビュー »)

北欧デザインの巨匠。実は「夏の家」もさることながら、彼の自邸も素晴らしい。この本をめくりながら、私は何度もため息をつきました。家具だけでなく、彼の建築家としての仕事も是非ご覧ください。
RECOMMEND
Louis I.Kahn Houses―ルイス・カーンの全住宅:1940‐1974
Louis I.Kahn Houses―ルイス・カーンの全住宅:1940‐1974 (JUGEMレビュー »)
斎藤 裕
フィッシャー邸、エシェリック邸の外観、内部を詳しく見ることができる。折に触れてこの本を開き、インスピレーションをもらった。カーンとの出会いがなければ、私の住宅のイメージは決して像を結ばなかったと思う。現実のフィッシャー邸は、かなり傷んでいるとのこと。写真でしか見られなくなる日も近いかもしれない。
RECOMMEND
かくれ里 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)
かくれ里 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ) (JUGEMレビュー »)
白洲 正子
言わずと知れた白州さんの名紀行文。観光ブームとは一線を画し、日本の文化・歴史を、そして自分を見つめる旅をしたい人にはおすすめです。蛇足ですが、この紀行文は、1970年、世間が大阪万博で浮かれていた時代に書かれました。
RECOMMEND
丘の上の修道院 ル・コルビュジエ 最後の風景
丘の上の修道院 ル・コルビュジエ 最後の風景 (JUGEMレビュー »)
范 毅舜
無神論者だった ル・コルビュジエ が、自分が死んだあと亡骸を一晩ラ・トゥーレットの修道院に留め置いてほしいと書き遺したのはなぜか。芸術はついに宗教を超えることはできなかったのか。美しい写真とともにその謎に迫る。気がつけばいつの間にかページをめくって、その答えを探そうとしている自分を発見する。
RECOMMEND
RECOMMEND
福島原発 現場監督の遺言
福島原発 現場監督の遺言 (JUGEMレビュー »)
恩田 勝亘
メディアで働く人間の中にも、恩田氏のような人はいる。しかし、圧倒的少数派である。私は、たとえ少数派でも真実を報道する記者を断固支持する。
RECOMMEND
原発危機と「東大話法」―傍観者の論理・欺瞞の言語―
原発危機と「東大話法」―傍観者の論理・欺瞞の言語― (JUGEMレビュー »)
安冨 歩
安倍政権とそれを支える「日本会議」の面々、そこに群がる政治家、財界人、原子力規制委員会の田中委員長、マスコミの言葉使いの欺瞞性を見事にあぶりだしてくれた本。今読み返してみて、あらためてその先見性と普遍性に驚く。
RECOMMEND
死都日本 (講談社文庫)
死都日本 (講談社文庫) (JUGEMレビュー »)
石黒 耀
12年前に読み、衝撃を受けた本。純粋に小説として読んでも面白いこと請け合い。しかも、将来の備えにもなるという、一石二鳥。私はこの本を読んで車を4WDに乗り換えたほどです。
RECOMMEND
電気がなくても、人は死なない。
電気がなくても、人は死なない。 (JUGEMレビュー »)
木村 俊雄
木村さんの人柄に感銘して、応援する意味も込めてこの本を購入しました。未来のこどもたちのために、私たちが無理なく、今すぐできることが書かれています。私たちが電気ポットの使用をやめるだけで、原発3基分の電力が節約できます。原発再稼働には何一つ合理的な理由がありません。日々私たちにできることから始めましょう。この本を買って木村さんを応援しましょう。
RECOMMEND
小さな森の家―軽井沢山荘物語
小さな森の家―軽井沢山荘物語 (JUGEMレビュー »)
吉村 順三,さとう つねお
ヤドカリは身の丈に合った「家」を探します。原寸大の生活そのものを楽しむためには、家にお金をかけすぎない、ということも大切です。たかが家です。そのために無理をしたり家族がバラバラになるなんて、悲しすぎますね。自分にとっての居心地の良さとは何かを考えるヒントになる本です。
RECOMMEND
戦争をしない国 明仁天皇メッセージ
戦争をしない国 明仁天皇メッセージ (JUGEMレビュー »)
矢部 宏治,須田 慎太郎
安倍首相および安倍政権の中枢にいる人に読んでもらいたい。彼らがまともな読解力を持っていることを願うのみである。そして、いうまでもないことですが、若い人々に読んでもらいたい本です。
RECOMMEND
歴史の暮方 (中公文庫)
歴史の暮方 (中公文庫) (JUGEMレビュー »)
林 達夫
林達夫著作集全6巻(平凡社)は絶版になっていると思われます。林達夫ほどの大知識人でも、これほどストレートに、赤裸々に自分の感情を表現するのだと思い、ずいぶん励まされました。若い人たちは、自分の悩みをどこまでも掘り下げることによって、自分のやりたいことを見つけることができるのです。
RECOMMEND
エリック・ホッファー自伝―構想された真実
エリック・ホッファー自伝―構想された真実 (JUGEMレビュー »)
エリック ホッファー
人間が生きるとはどういうことか、幸福とは何かを考える人に安っぽい希望や夢ではなく、勇気を与えてくれる。私の座右の書。
RECOMMEND
日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか
日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか (JUGEMレビュー »)
矢部 宏治
18歳から選挙権を持つことになった若い人たちに是非読んでもらいたい本。この本に書かれてあることをすべての議論の出発点にすべきである。無知は悪である。
MOBILE
qrcode
感想または身辺雑記
0

    朝起きてニワトリを小屋から出し(枠から解き放たれたサラブレッド?のようにいっせいに駆け出します)、水を換え、餌をやり、昼前には菜切り包丁で白菜を細かく切って糠と混ぜます。地面に撒くと、一目散に駆け寄ってきます。今ではルーティンがわかったのでしょう、私の足音を聞いただけで六羽のニワトリが一か所にかたまり、餌を欲しがるようになりました。白菜は毎朝卵を届けている90歳のおいちゃんのお返しの品です。

     

     

     

    囲いの中には、近くの農家からもらってきた稲藁を大量に敷いています。放し飼いにしているので、一日中稲藁を脚で蹴散らして小さな餌を探しています。夕方になって暗くなると一羽がトットッと小屋に入ります。すると、残りのニワトリも後を追うようにして入ります。この光景が何ともほほえましいのです。

     

     

     

    ニワトリがどこで眠るのか御存じでしょうか。六羽が止まり木にとまったまま一列になって、身体を寄せ合って眠るのです。うちの奥さんは一羽ずつ巣箱に入って眠ると思っていたらしく、「止まり木に止まったまま眠るの?可愛いわね、見てみたい」と言い残して、懐中電灯を手にニワトリ小屋へ。日本は平和です。

     

     

     

    ニワトリが餌を欲しがるのはわかります。食べなければ死んでしまいますからね。でも、「桜を見る会」に集まる芸能人や作家、ジャーナリスト、メディアや出版社の社長、各界で功績のあったエライさんたちは何が欲しいのでしょうか。税金で飲み食いしたいのでしょうか。安倍晋三主催の「桜を見る会」に集まった人間たちのバカ顔を私は決して忘れません。

     

     

     

    はっきり言いますが、彼らの中のだれ一人として信頼に値する人間はいません。日本の置かれている現実を見つめ、そこから言葉を紡ぎ、誇りを持って生きることがどのような人格を作り上げるか、彼らには想像だにできないのです。

     

     

     

    税金で飲み食いし、有名人や総理大臣と写真を撮ることで、彼らの空洞化した人格を埋めているだけです。後日、ブログやフェイスブックに写真をアップして、自分がセレブと知り合いであることを誇りたいのです。中身がない人間ほど学歴や有名人と知り合いであることを誇示したがるものです。ゆえに、彼らは安倍政権の存続を望んでいます。政権交代するようなことがあれば今の地位を追われかねないと本能的に分かっているのですね。

     

     

     

    それにしても、「桜を見る会」に集まった面々は、今の日本を象徴しています。彼らは、内政・外交で何一つ成果を上げることができず、拉致被害者を見殺しにし、ただ権力の座にいることが目的のウソで固めた人生を生きる総理大臣と写真を撮ることが末代までの恥さらしだと分からないのです。

     

     

     

    おそらく、安倍首相は秘書官兼補佐官である今井尚哉氏に吹き込まれているのです。これまでブログに書いてきたことをまとめれば、以下のような会話が交わされたのではないでしょうか。

     

     

     

    今井「総理は日本の最高権力者なのですよ。その意味がお分かりですか。絶対に辞めないと決心すれば、総理を権力の座から引き摺り下ろすことのできる人間はいないのです。権力者の最大の弱点は弱気になることです。

     

    三権分立など絵にかいた餅に過ぎません。人事権を掌握すれば、総理に逆らえる人間はいません。森友・加計問題でもお分かりでしょう。検察も裁判所も総理の意向を気にして、政権に弓を引くような捜査も出来ませんし判決も書けません。官僚は自分の地位を守るためなら公文書でさえも偽造するのです。

     

    メディア対策は任せて下さい。彼らの弱点はすべて調べ尽くしています。彼らほど権力のいいなりになる連中はいません。『桜を見る会』も来年中止にすれば、国民は忘れます。スピン報道として中村格に沢尻エリカの情報を公にさせれば、マスコミは一斉にそれに飛びつくでしょう。それに、経団連の名誉会長をしている叔父の今井敬がホテル・ニューオータニの取締役ですから、この件はどうにでもなります。叔父と会う段取りはつけています。」

     

    安倍「今ちゃん、スゴ〜イ。あったまいい〜。」

     

     

     

     

    ちなみに首相動静によると、一週間前の今月11日に安部首相は実際に今井敬氏と会食しています。 

     

    | 身辺雑記 | 23:02 | comments(0) | - |
    開成中学・高等学校長 − 柳沢幸雄氏を批判する。
    0

      開成中学・高等学校と言えば、毎年200名に迫る東大合格者を出している文字通り日本のトップエリート校です。そこで校長を務める柳沢幸雄氏が11月3日の朝日新聞「英語民間試験の利用延期、どうすれば」に答えている記事を読みました。はっきり言って、功成り名遂げて耄碌(もうろく)した老人の世迷い言です。

       

       

       

      こんなレベルの言説を全国誌に載せて恥ずかしくないのでしょうか。日本には隠棲の文化があります。いつまでも同じ地位にとどまって恥をさらすよりも、世間から距離を置き隠棲してはどうでしょうか。西行や良寛のようなよいお手本があるではありませんか。私が氏なら、身の程を悟ってさっさと引退します。

       

       

       

      さて本題に入りましょう。氏の意見を逐一批判していたら夜が明けるので、肝心なところ、すなわち氏の本質があらわれている箇所を批判してみます。まず出だしの一文から。

       

       

       

      「日本の大学入試も、もうそろそろ厳格なものから脱する時代なのではないか。今回の大学入試改革の一連の動きは、日本の悪いところが出た典型例だと思う。何か新しい改革をしようという時に、技術論でひっかかってしまう。現実的にこれはできないのではないか、などと細かいところで反対意見が出て、すべてを最初から厳格に完璧にしようとするがあまり、教育に必要なものは何かという、本質を見失って変容してしまう。これまでの教育改革もその繰り返しだった」

       

       

       

      この部分を読んだだけで、結論が抽象的・現状肯定型になるのはわかりきっています。英語民間試験の利用延期について訊いているのに、「もうそろそろ厳格なものから脱する時代」などと抽象的な大風呂敷を広げて論点をそらしています。

       

       

       

      訊かれたことに具体的かつ的確に答えてこそ、読者にとってプラスになるのではありませんか。おや、これは釈迦に説法でしたね。他者意識のない弛緩した思考は批判を装った現状肯定に行きつくのです。

       

       

       

      いったん大風呂敷を広げれば、それをたたんで具体的に論じることは不可能とは言わないまでも、大変難しくなります。それが証拠に、氏の答えは最後まで焦点がぼやけた抽象論で終わっています。

       

       

       

      人は抽象から学習し始めるのではありません。抽象論は事実を詳細かつ具体的に検討した後、それを材料として論理的に組み立てるものです。論理的思考とは具体例を豊富に、かつ整合的に使う思考です。なぜなら、人が生きるのは、机上の理論よりもはるかに複雑な事実の世界だからです。

       

       

       

      抽象論は現実の経験とのかかわりが不明なのです。つまりいくらでもごまかしがきくということです。柳沢氏はこのことがわかっていません。具体的な事実を知らなければ、空虚で意味不明な言葉をもてあそぶほかありません。「耄碌(もうろく)した老人の世迷い言」はここから生じるのです。

       

       

       

      もう少し話を進めましょう。氏の考えでは「何か新しい改革をしようという時に、技術論でひっかかってしまう。」のが「日本の悪いところ」だそうです。しかし、そもそも、今回の件のどこを見て「技術論でひっかかっ」たなどと言えるのでしょうか。私はこの箇所に最もひっかかりました。

       

       

       

      今回の問題の本質は、入試改革という名の下に英語の試験を民間に丸投げすることで政治家が私腹を肥やそうと企んだことにあります。すなわち、ゴールの決まっている出来レースを、受験生と現場を無視して突っ走っただけです。

       

       

       

      塾経営者から政治家になった下村博文と民間業者・ベネッセが組み、それに文部官僚が天下り先を確保するために相乗りしたというわけです。利益相反などおかまいなしに公共部門を民営化してボロ儲けをたくらむ竹中平蔵的・加計学園的手法と同じです。

       

       

       

      柳沢幸雄氏の言説は、この本質から目を背け、「技術論」に矮小化するものです。それを糊塗するために「何か新しい改革をしようという時に」だの「技術論でひっかかってしまう。」だの、ついには「日本の悪いところが出た典型例だと思う。」などと結論付けたのです。

       

       

       

      英語民間試験の利用は本来教育の問題です。教育の問題であれば、大人が(今の政治家や民間業者は金と地位を欲しがるだけのガキになってしまいました)将来の学生のために、教育の観点のみで考えるべきものです。

       

       

       

      合否が採点者の主観や、経済的な格差や、親のコネによって決まるとすれば、誰が地道な努力を続けるでしょうか。それだけではありません。合格者の努力も無に帰すのです。

       

       

       

      大学入試の公平性は、社会の安定と深く関係しています。それが損なわれれば、イソップ童話の「すっぱいブドウ」ではありませんが、現実を都合よく解釈する人間が大量に生み出され、社会に充満したルサンチマンが暴発して犯罪を誘発するようになります。したがって、合否はだれもが納得できる判断基準でなければならないのです。

       

       

       

      しかし、柳沢幸雄氏はそれに続く箇所で「入試ももっとそれぞれの大学のポリシーにあった、緩やかで多様なものにしていいのではないか。」と述べ、「米国ハーバード大学院で教えていた時」の経験で、「入り口で厳格に、何点刻みという選抜をしなくても、卒業する際に、きちんとした結果の測定をすれば済む」と言います。いかにもエリート校の校長の発想です。

       

       

       

      では、日本の大学で「卒業する際に、きちんとした結果の測定を」している大学があったら教えてほしいものです。ついでにどんな方法で「結果の測定を」しているのかも。

       

       

       

      柳沢氏は何を勘違いしているのでしょうか。今問題になっているのは、大学進学を希望する全国の高校生が受けるテストのことを論じているのです。「何でも一律にという点に問題がある」などと一般論を述べても無意味です。有名私立大学の学長や一部エリート校の校長が、富裕層のための高校や大学にするべく入試の判断基準を複雑かつ曖昧で多様なものにする話をしているのではないのです。

       

       

       

      ちなみに、早稲田大学は卒業時の学力を入学試験の方法と関連付けて、肝心な大学教育の中身が空洞化していることを隠そうとしています。3年半前に書いた記事をご覧ください。

       

       

       

      早稲田大学のAO・推薦入試について

      http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=136

       

      慶応大学の学長選挙について−民主主義は大学の門前で立ちすくむ。

      http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=427

       

       

       

      かくのごとく他者意識のない言説を批判し出したらきりがありません。これ以上「グローバルエリート」特有の言いっぱなしに付き合うのも疲れます。私たちは欧米の一流大学の真似をすることに活路を見出すべきではないのです。自分の頭で、この国の若者のために、一から考え直すべきです。そのための具体的なイメージについてはすでに書きました。

       

       

       

      100年後の生存戦略 ・教育−見果てぬ夢

      http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=446

       

      100年後の生存戦略・ 教育− 国宝・閑谷(しずたに)学校

      http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=488

       

       

      締めくくりとして、柳沢氏は次のように述べています。「東大で教えて来た経験から言えば、英語力のない学生は学ぶ力が弱い。外国語の学びを通じて持続性、論理性が養われる。・・・・これまでの日本のように、英語は読めて書ければいいという時代に逆戻りしてはいけない。」と。

       

       

       

      冗談を言ってはいけません。英語に限らず、一つの外国語をきちんと読めて書ける日本人は全人口の1%(120万人)にも満たないと思います。私は塾で教えながら、英語の読み書きの能力が崩落している場に立ち会っているのです。前にも書きましたが、正確に読めて書くことができれば、話す・聞くは環境と慣れの問題に過ぎないのです。

       

       

       

      肝心な質問には答えずに、短い文章の中で「米国ハーバード大学院で教えていた時」だの「東大で教えて来た経験から言えば」だの、単なる経験や印象を語りながら自分の権威づけを行う人間が日本一のエリート進学校の校長なのです。だから言ったのです。最初の一文を読めば結論がわかると。

       

       

       

      柳沢氏が「外国語の学びを通じて持続性、論理性が養われる。」という時の論理性とはかくのごとくたわいもない言葉の遊びにすぎないのです。なぜなら、優れた論理性は必然的に優れた批判精神に行きつくはずだからです。

       

       

       

      最後におまけです。開成高校で培われる論理性の帰結が端的に表わされたグラフを載せて、今回のブログを終わりにします。これは「グローバルエリート」である柳沢幸雄氏が校長を務めている結果なのでしょうか。

       

      東大新入生の自民党支持率

       

       

       

      | 教育 | 10:58 | comments(0) | - |
      教育民営化のツケはだれが払うのか?
      0

        英語民間試験の延期が決まりました。あきれてコメントする気にもなりません。「延期」ではなく「中止」すべきです。しかし、朝日新聞を始めとする大手メディアは、今回の件を正面から一度も批判していません。今になって両論併記の記事を載せてアリバイ作りに精を出しています。この件については過去に書いているので、今回は必要最小限のコメントに留めます。

         

         

         

        一年半以上前に書いた

        『教育にまつわるここだけの話』

        http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=473

         

         

        『英語民間試験の導入は金儲けのために地方の高校生を切り捨てる』

        http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=593

         

         

         

        公平と公正を第一に、大学が自らの責任において実施すべき試験を外注したのは、民営化すれば金の流れを始めとして利権の追及が困難になるからです。水道の民営化、特別会計の闇と相似形なのです。

         

         

         

        事実を振り返ってみると、英語民間試験への外注は、2013年10月、第2次安倍内閣の下、教育再生実行会議が第四次提言を公表したのを受けて2014年末に中教審が答申します。この時の文科大臣は下村博文氏。以来、「民間ありき」の出来レースを突っ走って、2016年8月末に英語民間試験利用が最終決定します。

         

         

         

        心ある学者が反対しても、完全無視で「2020年度ありき」で杜撰極まりない新入試制度が構築されたのです。この間に,何度か2020年導入が危うくなる局面があったのですが,そのたびに下村氏が出てきて強行の道筋をつけた、というのが事実です。

         

         

         

        例えば、東大が2018年3月から、民間試験を「使わない」「使う」で混乱していたとき、下村氏が東大の五神総長を自民党本部に呼びつけて圧力をかけたのは記者の間では周知の事実です。この件はぜひ国会の証人喚問で明らかにしてほしいものです。

         

         

         

        今回の混乱の責任をとるべき人間は、下村博文・元文科大臣です。彼の責任を追及しなければ,公教育の市場化・民営化は止まりません。これに比べれば、萩生田文科大臣の「身の丈」発言など、ワイドショーレベルの戯言に過ぎません。

         

         

         

        さらに忘れてならないのは、センター試験の「外国語」では、英語以外に、独仏中韓を選択できたのです。 ところが、今回の「民間試験」は英語だけを使うよう無理強いしたもので、他の外国語での受験者を切り捨てています。いかにも英語コンプレックスに凝り固まった植民地人の考えそうなことです。

         

         

         

        それともう一つ。私がショックを受けたのは、不公平極まりない試験制度に対して抗議すべき立場にある都立高校の1つ、かの日比谷高校の校長が「きちんと準備してきた高校としては大いに迷惑、ふざけるなと言いたい」と発言したことです。

         

         

         

        この校長は「グローバルエリートの育成」に熱心なあまり、公教育の一翼を担っているという自覚を失くしてしまったのです。気分は都内の有名私立の中高一貫校の校長なのでしょう。たまには胸に手を当てて、誰の税金で生活しているのか考えよ!被害者面して責任転嫁している場合ではない!

         

         

         

        長くなるので今回はこれでやめにしますが、要は「2020東京オリンピック」のどさくさに紛れて、国の将来を左右する教育が食い物にされているということです。ちなみに、この校長の発想はとうの昔に批判しています。よかったらお読みください。

         

         

        『刑事コロンボ VS 「アルマーニ」校長』

        http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=458

         

        | 教育 | 23:38 | comments(0) | - |
        朝採れ卵と私が原発に反対するわけ。
        0

          昨日は大分地裁へ伊方原発差し止め訴訟の傍聴に行ってきました。奇しくも、同じ日、朝日新聞の朝刊に伊方原発の避難訓練の様子が載っていました。ピクニック気分で外出したくなるような天気の良い日に、相も変わらず形だけの避難訓練を繰り返して何になるのでしょうか。避難訓練は故郷を捨てる訓練なのです。

           

           

           

          『原発事故避難訓練は、故郷を捨てる訓練である』

          http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=109

           

           

           

          地裁に行く前、わが家で飼っているニワトリの産みたて卵を疾風自由日記のSさんにプレゼントしようと思い立ちました。地裁へ行くのはあくまで自由意思なので、Sさんが来ない可能性もあります。でも、Sさんも私もほぼ皆勤賞です。

           

           

           

          そんなことを考えていると、ウチの奥さんが素敵な箱(ピエール・ルドンのチョコレートが入っていました)を用意してくれました。

           

           

           

           

          Sさん、産みたての卵は、卵かけごはんに限ります。アツアツの白米でも美味しいですが、16穀米との相性も抜群です。左の瓶は「茅乃舎」の卵かけご飯専用醤油ですが、右の「阿蘇マルキチ醤油」の「百年蔵のたまごごはん醤油」のほうが美味しいです。よかったらいつでも遊びに来てください。卵用意して待ってます。

           

           

           

           

           

          「この箱で、中身が卵というのもギャップがあっていいかもね。今日はハロウィンだから、卵を金色にペイントしようかな。S君、きっとびっくりするよ。」

           

          「生卵にペイントしてどうするのよ。あなたの顔がハロウィンなんだから、それで十分でしょ」

           

          「あわわわ・・・」

           

           

           

          裁判では素晴らしい意見陳述と、徳田靖之弁護士による基準地震動に関する総論が述べられました。元福井地裁裁判長・樋口英明氏の認識と一致する分かりやすくて、鋭いものでした。

           

           

           

          ところで、私が原発に反対する根本的な理由は、原発の存在そのものが財界やメディアの退廃、政治家や官僚の幼児化、検察や裁判所をはじめとするこの国の法システムの瓦解、簡単に言えば社会階層の上へ行けば行くほど、そこにたむろする人間たちが腐敗を極めるようになるからです。そして国民が犠牲になるからです。

           

           

           

          具体例をお目にかけましょう。忘れもしない今年の10月15日、福島地裁第一民事部で遠藤東路裁判長は以下の判決を下しました。

           

           

           

          「原発から飛散した放射性物質はすでに土と同化しているため、東京電力の管理下にはなく、むしろ、農家が所有しているといえる。故に、東京電力に放射性物質を取り除くよう請求することはできない」

           

           

           

          農家の人たち8人は、金銭的な補償は一切求めず、農地から事故で飛散した放射性物質を取り除いて欲しいという、その一点だけを求めてきました。この裁判官の頭の中には、正義のかけらも人間としての情もありません。論理も説得力もない前代未聞の判決を書くに至った理由は、彼が受けて来た「教育」にあるのです。人格を空洞化させる教育です。私には手に取るように分かります。

           

           

          バカじゃねえのか!この国は

          http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=132

           

           

           

          福島第一原発の事故はこの国ではなかったことにされようとしています。そして誰も責任を取らない。それどころか被害者が責任を負うのです。この事故はチェルノブイリ級の重大事故であることを、すなわち現在進行形だということを忘れてはなりません。こんな不合理極まりない判決がまかり通るということは、 日本中の誰もが犠牲者になり得るということです。台風や大雨で被災した人々が政府にどのように対応されたのか思い出すべきです。あすはわが身なのです。何がオリンピックだ、ふざけるんじゃない!

           

           

           

           

          原告の一人、鈴木博之さん(69歳)は江戸時代から続く農家の6代目で、原発事故後も、およそ20ヘクタールの農地でコメ作りを続けてきました。

           

           

          鈴木博之さん

           

           


          「私の住んでる農地は、日本でも美味しいお米がとれる土壌だったんです。それが壊されたからね、土壌汚染によって。だから、東電に原状回復してもらう。」

           

          「いいときを思い出すのはつらい。マイナスの仕事はいやですわ。なんぼ頑張っても、プラマイゼロやもん。やっぱり夢と希望っていうのはプラスの話だからね。」

           

          「俺、ちゃんとした土、先祖からもらって、俺の代では汚したけども、これ元に戻して次代の人に渡す。それが最大の我々の世代の仕事と思ってる。」

           

          「我々土を利用して生きているし、生かしてもらってるんだから、もう一回ファイトっていうしかないかなって今、思ってます。」

           

          https://www.nhk.or.jp/ohayou/digest/2019/10/1017.html

           

           

          この国のエライさんたちは、これでも原発を続けるつもりでしょうか。人間と共存できないものと添い寝してどうする!安倍晋三よ、いいかげん現実に目覚めよ!と言っても無理でしょうね。頭がポエムでいっぱいですから。

           

           

          | 原発 | 23:06 | comments(0) | - |
          自壊する野党 vs 山本太郎
          0

            10月28日、夕方6時から大分駅前で開かれた山本太郎の街頭記者会見に行ってきました。YouTubeで何度も観ていましたが、印象は全く変わりませんでした。

             

             

             

            大分会場で「お前は偽善者だ」と叫ぶ聴衆(ネトウヨの典型です)の一人に、何とか議論に持ち込もうと誠実に対応する山本太郎氏です。

             

             

            大分の1日前、久留米の会場で。中身のある議論を期待する方はこちらをどうぞ。

             

             

             

             

            ところで、政治家やジャーナリストが信頼できるかどうかを判断する時に私が最も重視しているのは、政策よりもむしろ表情や視線や身振り手振りであり、頭ではなく身体の深いところから発せられる声です。

             

             

             

            今年、参院選の応援で安倍首相が大分に来た時、その直前に蓮舫議員がトキハ前で演説しているのを聞きました。同じことをあちこちで寸分たがわず(元アナウンサーですからね)しゃべっているのでしょうが、空語、空語の連続でした。紋切型の安倍批判で能天気な野党の面目躍如といったところでした。私は彼女を政治家として全く信用していないと、以前ブログで書いたことがあります。その印象は間違っていませんでした。

             

             

             

            ところで、今回のタイトルは以前書いた記事のタイトルと似ています。ぜひお読みください。

             

             

            「自壊する日本の高学歴『エリート』たち」

            http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=279

             

            「マスコミは圧力をかけられているのか」

            http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=117

             

             

            この二つの記事で、この国の富裕層と呼ばれている人間たちの本質を書いています。

             

             

             

            今の野党の出自を見れば、彼らが高学歴エリートで富裕層に属しているのは明白です。彼らの本質は、自分の子供をどこの学校に入れ、どのように育てているかを見れば分かります。もちろんこれはテレビや新聞社を始めとするマスコミで働く人間たちにも当てはまります。親の価値観は子育ての中に明白に表れています。一度、彼らの子供が通う学校を一覧表にして公開してみてはどうでしょう。

             

             

             

            以前、民主党のある議員が、今の教育の問題点はどこにあると思うかとの質問に、受験地獄と偏差値教育だと答えていました。大部分の子供たちは、早々と学ぶことに見切りをつけ、緊張感のない学校空間をいかに生き抜くかに神経を使っている時に、この程度の認識なのかと、びっくりしたのを覚えています。彼らは現実よりも言葉に飛びつくのです。「受験地獄と偏差値教育」は誰も傷つけない、よって発言者も批判されない言葉ですから。

             

             

             

            さて、今日の本題に戻ります。野党、特に立憲民主党や国民民主党がどのようにして自壊していくのか、それを示す典型例が10月29日の『日刊デジタル』で配信されています。

             

             

             

            そもそもこんなコスプレで選挙に挑む玉木雄一郎など、信じるに値しません。野党のコスプレをまとった自民党に過ぎません。

             

             

             

             

             

             

            以下『日刊デジタル』より。

            https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/263910

             

             

            引用開始

             

            「あれが怪文書でなければ……。普通は『参加するな』というのは怪文書ではあり得ないと思うのですが」――。れいわ新選組の山本太郎代表も、あきれ顔で語った。



             無所属の馬淵澄夫・元国交相と山本氏が、消費税減税を模索する「消費税減税研究会」を設立。馬淵氏も5%への減税が持論だ。2人は消費税減税の野党間の共通政策化を目指し、30日夕方に国会内で初会合を開く。問題意識を共有する議員の参加を広く呼びかけたが、立憲民主執行部は「待った」をかけた。



             先週25日に逢坂誠二・政務調査会長と蓮舫・参院幹事長の連名で「研究会・勉強会等の参加に関するご要請」なる文書を若手・中堅議員らに配布。こう記されていた。〈他党の政治家や会派を共にしない方々との勉強会や研究会等につきましては、政策の一貫性を維持するためにも党所属議員へのご案内等がございましたら、まずは政務調査会長、または参院幹事長まで確認をお願いしたいと存じます〉何やら含みを持たせた文書の配布は、減税研究会立ち上げの報道直後。馬淵氏が野党統一会派に属している以上、山本氏を狙い撃ちにしたとみるのが妥当だろう。



            「27日の久留米市内での会合後、山本氏は『(立憲執行部から)“行くな圧力”がかかっていると聞いています。何人かの議員が連絡をくれて、〈なかなか参加しづらいのですよ〉と。何か企んでいると思われているのでしょうね』と打ち明けていました」(ジャーナリスト・横田一氏)



             また野党間のくだらない主導権争いか。まず逢坂事務所に文書配布の意図を聞くと、「蓮舫さんに声をかけられた。別に特定の会を考えて配布したわけではない。『行くな』とは言っていないし、案内が来たら一声かけて欲しいだけ。あとは受け止め方の問題」と答えた。一方、蓮舫事務所からは締め切りまでに回答を得られなかった。

             

            引用終わり。

             

             

            | 政治 | 12:10 | comments(0) | - |
            未来塾教室風景
            0

              以下の画像は一週間前に実施された中学3年生の模試の一コマです。午前9時から午後2時まで集中して問題に取り組んだ生徒の皆さん、お疲れ様でした。

               

               

               

              子供たちが問題用紙に向かい、懸命に考えている姿はいいものです。そうやって身につけた知識や思考力を、自分の人生やこの世界をより良くしていくことに使ってもらいたいものです。

               

              ランチタイムの後、ニワトリと遊ぶ生徒たち。

               

               

              模試が終わった後も、ニワトリに遊んでもらっている生徒たちです。

               

               

              手前は野菜作りのための畑です。まだ土作りの段階です。はよかえらんと、あめがふりだすよ!

               

               

               

              塾を始めて36年になりますが、きれいごとではなく、私の人格そのものになってしまった思いがあります。それを伝えたくて、今も塾の教師を続けています。その思いがいつ、どこで生じたかについては、近いうちに書くつもりです。たかが塾とはいえ、初発の動機は重要です。それが塾の可能性はもとより普段の授業や経営方針を大きく左右するからです。

               

               

               

              端的に言いましょう。私が塾の教師をしている最終的な目的は、学校に行かなくても、会社に就職しなくても、学ぶ意欲さえあれば人間として立派に生きていけるのだと証明することです。

               

               

               

              学歴とか留学歴とか、住んでいる場所や出身地、年収や職業といった人が生きていく上でまとう外形的なものは、人間の価値とは関係ない、これは人間をよく観察し、深く思考すれば誰にでもわかることだ、と若い人に本気で伝えるためです。それは突拍子もない極端な話でしょうか。私には当たり前のことのように思えます。

               

               

               

              学校は今や、小学校から大学まで受験予備校・就職予備校と化しています。そういった匿名のシステムの中でポジション取りに明け暮れていれば、その外に広がる豊かな世界が目に入らなくなります。

               

               

               

              結果、大企業のサラリーマンや官僚や医師や弁護士、あるいはIT関連のカタカナ職業に就いて大都会で生活するのが成功の証しだと思い込むようになります。現にこの種の職業に就いている親は、子供に同じ道を歩ませようとします。

               

               

               

              たとえるなら、こういった思考は、沈みかかっている船の中で自分だけは助かろうとする姑息で時代遅れの考え方に過ぎません。分かりやすく言えば、竹中平蔵的な考え方です。船を捨て、救命ボートに乗り、新しい土地を目指したり、社会的・文化的なインフラのみならず美しい自然を後世の人々に残そうと戦っている人々の対極にある考えです。

               

               

               

              もしあなたがそんな生き方はしたくないと思うのなら、自分自身と対話しなければなりません。その対話にごまかしがあってはなりません。どんなに孤独でも正直でなければなりません。

               

               

               

              もし私が生きていく過程で考えることをやめ、時間と空間を超えて多くの人間から学ぶことをやめていたら、すなわちこのニッポンの中でのポジション取りに明け暮れていたら、決してこのような認識には至らなかっただろうと思います。

               

               

               

              しかし、多くの人は外形的なものこそが人生の目標になると考えています。そのために人生の大部分の時間とお金を投資するのは当たり前で、私のような影響力のない、逸脱者の言うことなど負け犬の遠吠えだと一笑に付すことでしょう。

               

               

               

              しかし、人生を振り返って確信していることがあります。ことによると、人生の途上で行き暮れている若い人のヒントになるかもしれません。それは以下のような考えです。

               

               

               

              その前にもう一度言いますが、私のような人間でも何とか生き延びることができたのは自分に正直に、ひたすら自問自答を繰り返したからです。ひとりの人間が自らの生き方の指針を決める時に大切な事は、世間体にこだわってはならないということです。あなたの幸せは他人が決めることではないのですから。

               

               

               

              そして、忘れてならないのは「こういう職業に就きたい」「これを達成したい」という目標からではなく、「これはやらない」「これはやるべきではない」という否定からも人生は選択できるということです。

               

               

               

              ここで大切なことは、私の経験から言って、それを外に向けて宣言するのではなく、あなた自身の初発の思いに戻り、そこから出発して社会で生きていこうと覚悟を決めることです。

               

               

               

              その過程でおそらく、あなたは逸脱者の烙印を押されるかもしれません。しかし、人間は成長と変化をやめません。もし、あなたが今の状況に対して何かが違う・・・と感じるなら、その状況から抜け出して一気に環境を変えることだってできるのです。あなたは本来自由なのです。

               

               

               

              自らの生に忠実であろうとすることで、詰将棋のように避けようもなく世間から外れていく魂の痛み。それは、あなたがあなたであるということを証明しています。周囲の誰からも、親からでさえも分かってもらえないと覚悟しなければなりません。

               

               

               

              学べば学ぶほど、真実に近づけば近づくほど、あなたは孤独になっていきます。しかし、その同じ魂が逸脱を貫くことで遂に報われる奇跡がやってきます。なぜなら、世界はそのようにできているからです。

               

               

               

              なんだか偉そうなことを書きましたが、これは36年間たった一人で塾教師をしてきた私のウソ偽りのない本心です。

               

               

               

              教師の本音や人間性は、生徒に向ける視線やため息、何を笑うか、何に怒るか、そしてちょっとした時にもらす下世話な話の中に現れます。「君のお兄さんは上高から東大なんだ、すごいね」といったセリフは、私のどこを押しても出てこなくなりました。今回も読んで下さった方にお礼を言います。貴重な時間をありがとうございました。

               

               

              | 身辺雑記 | 14:08 | comments(0) | - |
              ラグビー・ワールドカップの観戦。
              0

                今日10月20日は、大分スポーツ公園総合競技場へラグビー・ワールドカップ、ウェールズ対フランスの試合を観に行ってきました。1点差の白熱したすばらしい試合でした。観衆は約3万4千人とのことでしたが、私たちの隣の席は、なんと疾風自由日記のSさん夫妻でした。縁は異なものと言いますが、こんな偶然があるものでしょうか。

                 

                 

                 

                うちの奥さんはラグビーに興味はないだろうと思っていたので、チケットの予約はしていませんでした。ところが、「一生に一度と言ってるじゃない。観に行きたいわ」とのたまうではありませんか。

                 

                 

                「もうチケットはないよ。それに僕がいつもスポーツは生で観るべきだよと言っていたのに、テレビで観る方が選手の顔がよく見えていいと言ってたじゃない。」

                 

                「でも、ラグビーは生で観るスポーツだと思うの。世界の一流選手のプレーを生で観てみたいわ」

                 

                「ラグビーは生で観るスポーツだなんて、いったいどこから仕入れたの?」

                 

                「失礼ね。サッカーはテレビでいいけど、ラグビーは男のスポーツって感じがするのよ。満身創痍になって男たちが戦っている姿がいいのよね。それにサッカーのワールドカップの優勝賞金は41億円なのに、ラグビーの優勝賞金は0円でしょ。W杯に出場することが最大の名誉という考えも素敵じゃない?」

                 

                「ス、ス、素敵すぎるけど、どこでそんな知識を仕入れたの」

                 

                「あら、ネットに載ってたわよ」

                 

                「・・・・」

                 

                ということで、奥さんにはいつも頭が上がらない私です。

                 

                 

                それにチケットも高いのでわが家の経済力では買えないものと諦めていました。ところが、次女の旦那さんがチケットをプレゼントしてくれたのです。ニュージーランドのオールブラックスが別府にやってきた時も家族ぐるみで付き合う間柄です。大会関係者ということで車も競技場に駐車することができました。ありがたいことです。

                 

                 

                入口付近で。奥さんの(きまぐれの)おかげで、一生で一度の大分でのワールドカップを観ることができました。

                 

                 

                試合前の雰囲気。やはりラグビーは生で観るものです、なんちゃって。

                 

                 

                試合開始の時間になると、この熱気です。

                 

                 

                 

                 

                 

                1枚4万円もするチケット。ありがとう。記念に取っておきます。

                 

                 

                 

                奥さんは試合が始まるとキャーキャー叫んで、心から楽しんでいました。いや〜、よかった、よかった。一生の思い出ができました。

                 

                 

                | 身辺雑記 | 00:00 | comments(0) | - |
                ウソとポエムが当たり前になった国・ニッポン!
                0

                  甚大な被害を出した台風19号が関東・東北地方を直撃していたとき、首相動静によると安倍氏は早々と私邸に戻りテレビでラグビーを観戦していたそうです。

                   

                   

                   

                  頭の中がポエムと改憲一本になっている人に、何を聞いても無駄です。意味のわかる日本語は返って来ません。

                   

                   

                   

                   

                  被災地や被災者のことなどわれ関せずの総理大臣。実の父親からも「晋三は情がない。政治家にしてはいかん」と言われていただけのことはあります。

                   

                   

                   

                  にもかかわらず、自民で外務省出身の松川るい参院議員は16日の参院予算委の質問で日米貿易協定をめぐり、「安倍総理、茂木大臣の卓越した外交能力、交渉能力により、非常に良いタイミングで短期間にまとめてくださったことを、日本国民を代表して感謝したい」と発言したのです。(201910161751 朝日新聞デジタル)

                   

                   

                   

                   

                  「卓越した外交能力、交渉能力」ねえ。3000億円と北方四島をロシアに貢ぎ、「わが国固有の領土」という文言を削除し、トランプ大統領の小間使いとして世界を駆けまわって国民の税金をばら撒き、あまつさえ、消費税を10%に引き上げた御仁ですよ。勝手に日本国民を代表するな!

                   

                   

                   

                  そして16日の持ち回り閣議で、台風19号による被災地の復旧・復興に向け、今年度予算の予備費から7億695万円を支出することを決めたそうです。「まずまずの被害に収まった」と言う二階幹事長の判断でしょうね。国会で野党に批判されれば増額するのでしょうか。

                   

                   

                   

                  その二階幹事長、記者から批判されると「言葉尻をとらえていても復興が進むわけじゃない」とのこと。根底から日本語能力を欠いていると言うしかありません。

                   

                   

                  当の安倍首相は同日夕、首相官邸で開いた非常災害対策本部の会議で「今後も被災自治体の皆さまが財政上、安心して全力で応急対応や復旧対策に当たることができるよう、必要な手当てを行う」と述べました。

                   

                   


                  「財政上、安心して全力で応急対応や復旧対策に当たることができるよう」にするというなら、加計学園に気前よく176億、吉本興業にポンと100億、オリンピックに3兆円をやめて被災者支援に回すべきです。せめて、ロシアへの3000億円くらいは取り消し、被災自治体に回すべきでしょう。「卓越した外交能力、交渉能力」とは、それができる政治家を形容する時に使うものです。

                   

                   

                  台風19号の報道には、着々と進行している重大事態がすっぽり抜け落ちています。海外メディアのほうがよほど事態を正確にとらえています。

                   

                   

                   

                   

                  ところで、閣議と言えば、「桜を見る会は『有意義』」「セクシーの意味は『魅力的』」との閣議決定がなされました。「昭恵夫人を私人」と閣議決定した政権ですから今さら驚きません。台風19号の報道とラグビー人気の陰で、国民はすべて忘れると踏んでいるのです。「とりあえず自民党」を支持している人は、能天気と言うか無知と言うか、明日は自分が被災者になる、ということに想像力が及ばないのでしょう。

                   

                   

                   

                  そして、もう一つ。どさくさにまぎれて、政府は有志連合の一員としてではなく「調査・研究」という「独自の判断」でホルムズ海峡に自衛隊を派遣することを決めました。あわわわ・・・どころではありません。要は、イランがそれをどう判断するかですよ!

                   

                   

                   

                  国内の災害対策すらままならない政府に、こんな重大事項をまかせればニッポンがどうなるか分かろうというものです。分かるわけない?そうでしたね。今や国民の過半数とメディアには「とりあえず自民党」という思考回路しか残っていないのですから。ウソとポエムに生き方の基準を見いだしているニッポン人に、チャチャチャ!

                   

                   

                  | 政治 | 12:48 | comments(0) | - |
                  里山の暮らし−その翌日
                  0

                    昨夜、お泊まり会をした孫たち。「こわ〜い話」を聞いたり、いっしょに風呂に入ったりして、さすがに疲れただろうと思っていると、朝6時前から起き出して、うるさいことこの上ないのです。私に感情をかき乱されて、みんな興奮さめやらずといった様子です。

                     

                     

                     

                    「ニワトリ見に行こう。だっこしたい!」という孫たちをなんとかなだめて、朝食を摂らせます。そしてニワトリ小屋へ。大きな卵が6個、産卵箱の中に並んでいます。一人ずつ中に入って、卵を採らせます。「今日はおやつに卵を使っておじいちゃん特製のドーナツを作るぞ」と言うといっせいに歓声が上がります。

                     

                     

                     

                    そして、以下の画像となりました。

                     

                    潮干狩りならぬ、ミミズ狩りです。私が地面を掘るとミミズが出てきます。それを目指してニワトリたちが一斉にやってきてついばみます。子供たちも「やってみたい!」となります。

                     

                     

                     

                     

                    ニワトリにお尻をつつかれた小3の真美ちゃんいわく。「大丈夫かなあ?病気になったりせん?」私いわく「大丈夫だよ。ただ、夜になると肩からニワトリの羽が生えてくるかも。朝起きて鏡を見てごらん。真美ちゃんの顔が、ニワトリになっているから」「・・・・」

                     

                     

                     

                    幼稚園の年中さんのキー君いわく。「ニワトリのフンを踏んだ。うわっ、きたね〜」私いわく。「心配せんでいい。ニワトリのフンを踏んだら、羽が生えて飛べるようになるけん。じいちゃんも、小さい時、馬のクソを踏んで走るのが速くなったんぞ」。で、この画像はニワトリになって飛ぼうとしているキー君です。

                     

                     

                     

                     

                    昨日のブログで、卵配達人になったことを紹介しましたが、もらった人は例外なく「昔は、うちもニワトリを飼っちょったんで」と言います。私がニワトリを飼おうと思ったのも、幼少の頃の農家の暮らしが頭にあったからです。このあたりの農家はどこもニワトリを飼っていたのです。牛やヤギを飼っているところも珍しくありませんでした。

                     

                     

                     

                    そういう農家の風景や思い出によって、私の感受性が養われていることを痛感するのです。幼少年期の体験や記憶ほど本人の自覚しないところで私たちに影響を与えているものはないような気がします。

                     

                     

                    こどもの魂はどこで育つのか

                    http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=174

                     

                     

                     

                    昔、イタリア人だったかドイツ人だったかがおもしろいことを言っていました。 「なぜ一日は24時間あるか知っているか?8時間は働くため。 8時間は眠ったり食事したり、自分自身のため。残りの8時間はコミュニティのためにある」と。

                     

                     

                     

                    日本人はコミュニティのために時間を使うのが苦手のようです。定年退職をしてからではなく、幼少のころから残りの8時間をコミュニティのために使うのが当たり前だと考える教育は、いつになったら実現するのでしょうか。

                     

                     

                    | 身辺雑記 | 13:41 | comments(0) | - |
                    里山の暮らし。
                    0

                      里山にはいつもと変わらない時間が流れています。そこでの暮らしは単調です。ときどき○○さんが亡くなったという知らせが届いて、ああ、時間は容赦なく流れていたのだ、と気づきます。

                       

                       

                       

                      私の住んでいる市街化調整区域内にある村は、農道が舗装されたくらいで、この50年間、ほとんど姿を変えていません。散歩しながらおそらく100年前も同じ風景が広がっていたのだと想像できるのです。

                       

                       

                       

                      四季折々の田園風景や新鮮な空気の中にいると、どこか「聖なるもの」を感じる瞬間があります。地域の歴史が積み重なっているからでしょう。目を凝らせば100年前も同じように農業に従事していた人間の姿や叫び、絶望や希望が見えてくるような気がするのです。

                       

                       

                       

                      何もかもをコスパで考える社会(私の中にもそういった傾向はあります。)では、地方の小さな村の歴史や伝統など、何の価値もないように思えます。現にそれは風前の灯なのです。

                       

                       

                       

                      しかし、100年前と同じ風景が今も存在していて、これからも存在し続けるだろうと信じられることは、実は人間にとって精神の安定装置になっているような気がします。

                       

                       

                       

                      私が建築に惹かれる最大の理由は、仮想空間の中ではなく、現実に存在していて、その場の精神性というか空気を呼吸しているからです。美学的な優劣を云々することにはあまり興味がありません。

                       

                       

                       

                      私が感動するのは、欲望や打算、虚栄心や嫉妬によって動かされて出来ていない、いわば無名性の建築なのです。建築が生きる長い時間を考えると、建築が動かないこと、歩み寄らないことは、とても寛容で自由なあり方なのです。なぜなら、建築が動かなければ動かないほど、こちらの心が動き、多くのイマジネーションと豊かな時間を与えられていることに気づくからです。

                       

                       

                       

                      何だか小難しい話になってしまいました。私の考えに興味をお持ちの方は、ちょうど4年前に書いた記事をご覧ください。 

                       

                       

                      私の散歩道

                      http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=74

                       

                      私たちはどこから来てどこへ行こうとしているのか。

                      http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=93

                       

                       

                       

                      ここからは近況報告です。

                      私は現代社会から打ち捨てられたような場所で生活していますが、考え方と工夫次第で豊かな場所にできることを報告したいのです。そしてそれは、誰にでも可能であるということを。

                       

                       

                       

                      ニワトリが卵を産みはじめて、一カ月になります。最近では卵を地域のお年寄りに配っています。朝、ニワトリ小屋に行き、餌と水を換えて、肩から掛けたポシェットに産みたての卵を採って入れます。その格好を見て、うちの奥さんは笑います。

                       

                       

                       

                      村には90歳で一人暮らしの人や90代の夫婦など珍しくありません。一人暮らしの場合は、安否確認を兼ねて毎朝牛乳箱の中に一個入れます。

                       

                       

                      「あんた、そげえ毎朝入れんでんいいんじゃが。きのどきいなあ。」

                      「おいちゃん、遠慮せんで。うちも毎日6個は食べれんけん。」

                      「昨日のは、ふたごじゃったわ。新鮮じゃけん、殻がかてえわな。卵かけごはんでたべよんけど、あたらしいけんおいしいわな」

                      「おいちゃん、栄養つけて、長生きせな」

                      「きのどきいなあ。おおきに」

                       

                      といったような会話が交わされています。

                       

                       

                       

                      今日は、メアリーポピンズではありませんが、台風19号の強風に乗って孫たちがニワトリと遊ぶためにやってきました。もう一人、中1で私の塾に入っている孫がいるのですが、サッカーの練習があって来れませんでした。

                       

                       

                       

                       

                       

                       

                       

                      そうそう、教え子のSさんからお便りをいただきました。私のブログを読んでニワトリを飼い、最近ではチャボも飼い始めたそうです。卵も産み始めたそうで、これからが楽しみですね。Sさん、色々と工夫して田舎暮らしを楽しみましょう。

                       

                      | 身辺雑記 | 23:01 | comments(0) | - |
                      それでも『JOKER』は暗示する。
                      0

                         

                        すぐれた映画や文学は人間の命を支えます。ここでは、動物としての命ではなく言葉を持った人間の命すなわち精神のことを言っています。

                         

                         

                         

                        映画『JOKERは、ご存知のように、バットマンの敵役・ホアキン・フェニックスが演じるジョーカーの人生にフォーカスした完全オリジナル・ストーリーです。狂気で人々を恐怖に陥れる 「ジョーカー」 そのものではなく、孤独な男がジョーカーになるまでの内面のリアルなドラマを描いています。日本では R15+ に指定されており、15歳未満の入場・鑑賞が禁止されています。

                         

                         

                         

                        この映画はそれだけのインパクトを持っています。そのインパクトはどこから来るのでしょうか。もちろん音楽や映像の持つ力は大きいのです。しかし、すぐれた映画や文学には、揺らぎがあります。全てを語ることなどできないのですから当然です。

                         

                         

                         

                        この映画は隠喩によって、鑑賞者が自覚していないものを引き出し、語りつくせないものを投入できる余白を準備しています。隠喩は、文字通り隠すことですべてを語ろうとする試みであり、余白を生みだす手法です。

                         

                         

                         

                        ミロのヴィーナスが美しいのは、両腕がないからです。喪われた部分に自分の想像できる限りの最高の美を注入することができます。つまり、自分の経験を積み重ねることによって、どんどん美しいものが見えてくるのです。これこそが、芸術の存在理由です。

                         

                         

                         

                        想像によって両腕が復元されたヴィーナス像。

                         

                         

                         

                        この間の事情を、主演のホアキン・フェニック自身に語ってもらいましょう。

                         

                         

                        「創造には流動性がなければならない。ただ数をこなすためだけのものじゃないんだ。創作するということは、呼吸をしているということだから」

                         

                        「映画って往々にして、答えを簡単に出しすぎる時がある。『こんな体験をしたからこのキャラクターはこんな人間になった』みたいなね。でも生きるってことはそんなに浅くて簡単な事じゃないし、人間の心理ってもっともっと複雑だ。何でそんなことをするのか? 人の言動の裏側は理解できないことの方が多いし、無意識に行動に駆られる事だってある。この映画は、表面的な答えは出していない。簡単な答えが出るものなんて、この世の中にないんだからね」

                         

                         

                         

                        それに対して、直喩は余白をなくすことで想像力を制限します。分わかりやすいのですが、心の奥深くにまで届きません。感動は画一的でうわべだけのものになり、簡単に特定の方向へと誘導されてしまいます。例えば、百田尚樹原作の映画『永遠の0(ゼロ)』はその典型です。

                         

                         

                         

                        言うまでもなく、すぐれた映画には強烈な力があります。それは詩のもつ力です。人生を一変させるような力です。これから高校の国語で主流になる「論理国語」にはそういった力はありません。ビジネス文書を正確に読み取る力は、会社の役に立っても魂を養うことはできません。

                         

                         

                         

                        ブログで何度も言及してきましたが、「論理的思考力」や「速読」は人間の魂の問題を数値化し、商品化しているだけです。商品化にはデータやエビデンスは欠かせませんからね。

                         

                         

                         

                        プロパガンダにころりと騙されるのも、この種の「教育」によって、あまりに人間が薄っぺらになったがためです。精神の奥行きがなくなり、ゆで卵のようにツルんとした陰翳のない表情はこうして生まれたのです。

                         

                         

                         

                        JOKERのような優れた映画が道徳的に危険視され、隠喩の持つ力よりも権力者を信じる人間たちが多い世の中で、映画や文学は人間の命=精神を支えていると言ったところで、「豚に真珠」でしょうね。

                         

                         

                        | 文学・哲学・思想 | 16:15 | comments(0) | - |
                        絶望は疾走する − 映画『ジョーカー』を観る。
                        0

                          封切られたばかりの映画『ジョーカー』を観てきました。何かと話題の多い映画ですが、とにかく傑作です。優れた文学と同様の予見性を持っています。いや、音楽や映像の持つ力のせいで文学を上回っています。

                           

                           

                           

                           

                          この映画のどこが予見性に富んでいるのか、それは見る人によって様々でしょう。小難しい批評は置くとして、主演のホアキン・フェニックスがとにかく素晴らしい。映画の中で彼はとにかくよく走ります。孤独や絶望に追いつかれるのを恐れるかのように。

                           

                           

                           

                          予告編がかもし出す悲劇的なトーンが尋常ではなかったので、今日10月4日、封切りの日を首を長くして待っていました。結論を言えば、これまで見た映画の中で最高の作品です。とにかくこれで今年は映画を見る必要がなくなりました。

                           

                           

                           

                          一つ一つのシーンが何を意味しているのか、何を象徴しているのか、それを語るのは止めにします。すぐれた作品には、沈黙をもって向き合うほかないからです。

                           

                          | 読書・映画 | 21:50 | comments(0) | - |
                          ドラマ 『チェルノブイリ』を観る。
                          0

                            このドラマは、かつて事故調査にあたった科学者ヴァレリー・レガソフが、事故の真実をカセットテープに録音し終え、自殺するところから始まります。

                             

                             

                             

                            吹き込まれた録音の最後の部分(以下)は、原発が、社会体制を超えて権力機構と癒着する必然性、情報の隠蔽、捏造、ウソの蔓延によって維持されていることを明らかにしています。

                             

                             

                             

                            「ウソの代償とは真実を見誤ることではない。本当に危険なのはウソを聞き過ぎて真実を完全に見失うこと。その時どうするか、真実を知ることを諦め、物語で妥協するしかない。人々の関心は誰が英雄かではなく、誰が悪いのかだけ。」

                             

                             

                             

                             

                             

                            そして私たちは今、安倍政権や御用学者、マスコミ、すなわち原子力村が捏造した「物語」の中を生きているのです。3・11を経験してもいまだ目が覚めず、関西電力と原発立地自治体によるマネーロンダリングによる「Win-Winの関係」を見ても、原子力村を解体させるために具体的な行動を取らない国民。

                             

                             

                             

                            つまり、有権者の半数が投票に行かない国で、企業のトップや政治家が「膿を出し切る」などと言ったところで、責任を取る必要などないことは重々承知しているのです。何か不祥事が持ち上がるたびに「第三者委員会」に調査を委ねるのなら、彼らはいったい何のために存在しているのか。税金泥棒、給料泥棒以外の何者でもないではないか。

                             

                             

                             

                            断言しますが、彼らは人生の途上で一度たりとも自分がこの世に存在する意味を考えたことがないのです。関西電力のトップの顔がテレビに映し出されるたびに、私はそれを確信するのです。

                             

                             

                             

                            こういう連中に、「公共性」の名の下に私たちの命や暮らしが委ねられているのです。私たちはたまたま「運」によって生かされているだけです。政治家は単なるお飾りに過ぎません。疑う人は以下の過去記事をお読みください。

                             

                             

                             

                            ロシアンルーレットに賭ける政治家と国民

                            http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=123

                             

                             

                             

                            私は自分の運命を自分で決めようと考える人が、この国で一人でも増えることを願っています。それが民主主義の根本にある考え方です。

                             

                             

                             

                            以下はこのドラマの解説です。

                             

                            史上最悪といわれる大事故を米HBO局がドラマ化し、本国で圧倒的な評価を得た「チェルノブイリ」。その冒頭にあたる10分間の映像が公開された。全ての始まりとなる、旧ソ連のチェルノブイリ原子力発電所で起きた爆発事故の瞬間と、それを遠方から目撃する一般市民、そして現場にいながら何が起きたのか把握できない職員たちの姿が映し出された冒頭映像は、本作を独占放送するスターチャンネルの公式サイトで公開されている。

                             

                             

                             

                            ドラマは、かつて事故調査にあたった科学者ヴァレリー・レガソフが、あの時の真実をカセットテープに録音し終え、衝撃的な運命を選択する場面から幕を開ける。

                             

                             

                             

                            そこから時代は、1986426日の事故発生時へと遡り、原子力発電所に近いプリピャチ市の住民が、マンションの窓からまばゆい光を放つ原発を目撃。遅れてきた衝撃にマンションが揺れ不安にかられる彼らだが、何が起きているのかわからない。そしてそれは、原発の中央制御室にいる職員たちも同じだった……。

                             

                             

                             

                            そこからシリーズは、当時の最高権力者ゴルバチョフ書記長に現場対応を任されたソ連閣僚会議の副議長ボリス、事故の真相解明に奔走する核物理学者ウラナ、そしてハリスを中心に、あの時、現場で何が行われていたのかを追っていく。

                             

                             

                             

                            事態を過小評価する責任者たち、次々に放射性物質で汚染された現場へと投入されていく人員、避難を余儀なくされた市民たち、さまざまな立場から事故に向き合った人々の人間ドラマも見どころだ。

                             

                             

                             

                            廃炉となったリトアニアの原子力発電所でロケを敢行するなど、当時の状況の再現にこだわり、緊迫の一部始終を全5話のミニシリーズとして描き出した本作は、アメリカの大手レビューサイト、Rotten Tomato において、一般ユーザーから98%の支持を獲得。テレビ界のアカデミー賞ともいえる、今年度のエミー賞でも19ノミネートを果たしており、ミニシリーズの最高峰として最多受賞も期待されている。(編集部・入倉功一)

                             

                            https://www.cinematoday.jp/news/N0110521

                             

                             

                             

                            海外ドラマ「チェルノブイリ」(全5話)はBS10スターチャンネルで放送
                            STAR2 字幕版】925日(水)より 毎週水曜よる11:00ほか
                            STAR3 吹替版】930日(月)より 毎週月曜よる10:00ほか
                            Amazon Prime Video 「スターチャンネルEX」で 926日(木)よりオンデマンド配信

                             

                            | 原発 | 13:17 | comments(0) | - |
                            顕在化する悪霊たち。
                            0

                              私は身の程をわきまえているつもりです。したがって、先見の明を誇る気持ちなど全くありません。しかし、予想していたことが次々に現実になっていく様を見ると、歴史の証言者として書き留めておこうという気になるのです。

                               

                               

                               

                              一昨日のブログでN国の立花孝志党首の発言を批判しました。今日になって朝日新聞が批判していますが、軽減税率の適用と引きかえに安倍政権を批判できなかった自分たちのふがいなさを自己批判すべきです。もっとも、朝日新聞にそれを期待しても無理でしょうが。

                               

                               

                               

                               

                               

                              重要なことは、無知と空洞化した人格から発せられるレイシズムと優生思想が社会の中に広く行きわたっていることを認識することです。

                               

                               

                               

                              新自由主義のイデオロギーであるコーポラティズムと社会ダーヴィニズムは、必然的に優生思想に行きつくのだと、前々から指摘してきました。いや、人間の中に潜む幻想力としての残虐性が優生思想となって人権意識の希薄となった社会の網の目をかいくぐって顕在化すると言った方が正確かもしれません。

                               

                               

                               

                              それはともかく、一昨日のブログに書いたN国の立花孝志党首の発言をどうかもう一度お読みください。

                               

                               

                               

                              その中で次のように書きました。「歴史を振り返るまでもなく、安倍政権は民族差別と優生思想を胚胎しているのです。私が鬼胎の政権と呼ぶ所以です。こういう政権には必ずや同調者が現れます。それが日本維新の会でありN国です。」と。

                               

                               

                               

                              そして、そのN国党からホリエモンが立候補するとのニュースが飛び込んできました。私は全く驚きませんでした。来るべきものが来たのだ、と妙に冷めた気持ちでした。そのうち、長谷川豊の名前も挙がるかもしれません。

                               

                               

                               

                              もはや大声で彼らを批判しても、家畜というか奴隷根性のしみ込んだ人間には届かないのです。彼らは「何一つ結果も出さずに文句ばかり言うやつはいつの世にもいるもんだ。」というような、言葉による意思の疎通を断念させるほどの動物的反応しか示せないのですから。

                               

                               

                               

                              私は正気を維持するために、小声で、誰も読まないブログに自分の考えを書き留めておこうと思います。2年以上前に書いた記事ですが、今日の状況を予想しています。よかったらお読みください。

                               

                               

                               

                              IT成金の皆さんの貧困な想像力

                              http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=382

                               

                               

                               

                              | 文学・哲学・思想 | 12:21 | comments(0) | - |
                              映画『特捜部 Q カルテ番号 64』を観る。
                              0

                                 

                                 

                                 

                                今回この映画を取り上げようと思ったのは、この国の暗部でうごめいている大日本帝国の精神文化(エートス)が堂々と表舞台に登場し、復権を果たそうとしているからです。安倍政権がグロテスクなまでに肥え太り、腐臭を撒き散らし、カルト化したのは、まさに大日本帝国の精神文化から養分を吸収しているからです。

                                 

                                 

                                 

                                つまり、歴史を振り返るまでもなく、安倍政権は民族差別と優生思想を胚胎しているのです。私が鬼胎の政権と呼ぶ所以です。こういう政権には必ずや同調者が現れます。それが日本維新の会でありN国です。

                                 

                                 

                                 

                                その総仕上げが、東京オリンピックを利用した国威発揚であり、「大日本帝国憲法」の制定というわけです。野党の皮をかぶった自民党系子ヒツジたちには、この流れを阻止する力も戦略もないでしょう。

                                 

                                 

                                 

                                それを確信したのが、9月29日の『リテラ』の記事でした。

                                 

                                タイトルは「N国・立花孝志のジェノサイド扇動発言を放置するな! 麻生太郎、杉田水脈らも同根 差別をエスカレートさせてきた安倍政権」です。その冒頭だけ引用しますが、是非全文をお読み下さい。

                                 

                                https://lite-ra.com/2019/09/post-5001.html

                                 

                                 

                                引用開始

                                 

                                立花氏は今月19日にアップされた動画で、自民党から衆院選に立候補したこともある元吹田市議・神谷宗幣氏と対談。増加する世界人口について「食べ物は決まっている量しか出ないわけだから、当然、いずれ戦争が起こるのは自然の摂理でしかたがない」などと持論を述べたうえで、このように主張した。動画から書き起こす。

                                 

                                 

                                「いや、教育はだって回らないもん。だってバカな国ほど子ども産むから。バカな民族っていうかね。だから、そういう人たちって甘やかすとどんどん子ども産むから。僕、自然の摂理は、人間は食物連鎖のピラミッドで、人間の天敵っていないから、結局、人間が人間を殺さざるをえないっていうのが戦争だと思ってるんですよ。とにかく子どもを産まないように、殺し合いをしなくていいようなコントロールをとにかくかけるしかないのかな。そんな、ある意味、もうすごい大雑把に言うと、そういうアホみたいに子どもを産む民族はとりあえず虐殺しよう、みたいな」

                                 

                                引用終わり。

                                 

                                 

                                 

                                民族差別と優生思想を精神的な支柱とする国家は必ず破滅します。戦争やテロによるのか、必ず起こる第2の原発事故によるのか、あるいは放射能汚染による緩慢な大量死によってなのか、それはわかりません。

                                 

                                 

                                 

                                さて、映画の話に戻りましょう。

                                 

                                この映画は民族差別と優生思想が政治と結びつく必然性を見事に描いています。DVDやネットでも見ることができます。とにかく一級の娯楽作品として面白い。真のサスペンスやお笑いは政治と結びついているのです。政治こそが、いい意味でも悪い意味でも文化の最高形態なのですから。そういう意味で、この映画は日本では絶対に作れません。それを可能にする有能な監督や配給会社がないからです。

                                 

                                 

                                 

                                本作の脚本は、小説『ミレニアム ドラゴン・タトゥーの女』の映画化脚本を手掛けたニコライ・アーセル。

                                かつて優生学の名の下に、知的障害者や難病患者が隔離、不妊処置などの人権侵害が行われた時代がありました。社会問題に関心がない人でも、ホラー映画やドラマの舞台として、こういった背景を持つ病院や施設を知った人もいるでしょう。

                                 

                                 

                                 

                                誤った優生思想に基づく人権侵害といえば、多くの人がナチスをイメージします。しかし現実では、欧米各国でもある時代までは主流の思想でした。そして日本でも1948年から1996年までの間、「旧優生保護法」の下で知的障害者の女性に対する、本人の同意なき不妊手術が行われたのです。

                                 

                                 

                                 

                                『リテラ』の記事と『特捜部Q カルテ番号64』は、私のこれまでの問題意識と密接に関連しています。疑う人は以下の関連記事をお読みください。これこそが意図せざる結果を引き起こす安倍政権の恐ろしさなのです。

                                 

                                悪(霊)が降臨する前に。

                                http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=561

                                 

                                 

                                | 読書・映画 | 22:27 | comments(0) | - |
                                「未来がないなら、学ぶ必要もない」− STAND WITH HONG KONG
                                0

                                  孤独とは自分で自分に話しかけることです。言葉がそれを可能にしました。孤独は人間の特性です。動物が孤独などということはあり得ません。

                                   

                                   

                                   

                                  言い換えると、誰もが「私」であるということです。そして誰もが「私」であるからこそ、人と人は分かりあえないという一点において分かりあうしかありません。何もレトリックをもてあそんでいるわけではありません。私はこの一点を巡ってブログを書いてきました。しかし、もうそろそろ終わりにしなければなりません。言葉が前提としている能力の自壊現象がとどまるところを知らないからです。

                                   

                                   

                                   

                                  言葉は相手の身になる能力、相手と入れ替わる能力を前提にしています。この前提を理解する能力を育むのが教育であり、政治なのです。

                                   

                                   

                                   

                                  政治?そんなバカな、と思われるでしょうか。政治とは自分の会社や組織に利益をもたらしてくれる集団や教団とつながり、ある時は平伏し、ある時はその力を利用する営みだと考えれば、そうかもしれません。

                                   

                                   

                                   

                                  リアリストを自称し、「世の中、そんなものさ」と居直って見せる人間たちは、言葉の本質が相手の身になる能力、相手と入れ替わる能力であることを理解していません。しかし、政治は言葉の問題なのです。

                                   

                                   

                                   

                                  すべての政治は言葉による対話から始まります。戦争で殺し合っている敵同士ですら、停戦のためには話し合います。いかなる異論であっても対話をすることこそ政治家の仕事なのです。しかるに、政治家が対話をバカにし、言葉を信じなくなった時点でその国は滅亡へのカウントダウンを始めることになります。

                                   

                                   

                                   

                                  私は教育の末端の、そのまた末端にいるおかげで、どこに希望をつなげばいいのかを考えることができました。

                                   

                                   

                                   

                                  8月31日のブログで、ある国の文化的・政治的成熟度を見るとき2つの指標があると述べました。

                                   

                                   

                                   1:若者が政治的意見(反政府的意見のことです)を表明する自由すなわち民主主義国に不可欠な表現の自由を行使しているか。

                                   

                                  2:時代状況を抉り自国の負の歴史をテーマにする映画を製作する自由があるか。

                                   

                                   

                                   

                                  そして結論です。希望をつなぐべき若者はいなくなった、ということです。若者は既成の価値観に異議を唱えてこそ若者です。しかし、今はただひたすら親の言う通りに受験勉強に励み、多様なアプリが作り出すVR空間の中で自足しています。

                                   

                                   

                                   

                                  ブログで取り上げた佐藤ママは、若者の知性を破壊する大人の代表です。幼少のころから子供を受験専用の培養器の中に閉じ込め、下劣な出版社や同種の親たちから承認されることを頼りに、参考書や塾情報を発信し、子供たちの時間を管理することこそが親の仕事だと胸を張っています。

                                   

                                   

                                   

                                  つまり、日本の若者は親から心配されるだけの存在になったのです。親はただひたすら子供の将来を思い、その利益の最大化につとめています。

                                   

                                   

                                   

                                  私の言っていることは時代錯誤の妄言でしょうか。違います。世界の中で日本だけはこれまでと同じような社会が続くと信じて、コップの中、いやスプーンの中で暮らしているのが比較的裕福な家庭の実態です。その結果、勉強とゲームと音楽が若者の生活を駆動させるものとなりました。スマホ一つで幸せになれるというわけです。

                                   

                                   

                                   

                                  しかし、目と鼻の先の香港の若者は違います。それが以下の写真です。

                                   

                                   

                                   

                                   

                                  ついに自由を求める香港デモ隊のテーマソングが誕生しました。
                                  香港の抗議活動を続ける人々の気持ちを代弁した歌詞と荘厳なメロディーが支持され、香港各地のデモで歌われるようになりました。
                                  作者の男性は「自由や平等などの権利が奪われている。香港に輝かしい未来が来てほしいという願いを込めた。」と話しています。

                                   

                                   

                                   

                                   

                                   

                                  新学期が始まった2日、逃亡犯条例案を政府に撤回させるために、香港の中高生およそ4000人が授業をボイコットしてデモを行いました。参加した高校1年生(16)の男子生徒は「僕らと同じ若者が、警官に殴られてケガをしている。ひどい」と怒りをあらわにしました。

                                   

                                   

                                   

                                  政府は新学期が始まればデモは収束に向かうと期待していましたが、生徒たちは授業をボイコットして、その期待を打ち砕きました。

                                   

                                   

                                   

                                  この日の集会のテーマは「未来がないなら、学ぶ必要もない」でした。高校3年生の女子生徒(18)は、香港返還から50年は守られるはずの「一国二制度」が次第に骨抜きにされ、香港が中国に呑み込まれようとしていると感じて次のように言います。「大人になった時、香港がどうなっているか怖い。自分の将来のためにも抗議はやめない」と。

                                   

                                   

                                   

                                  そして9月4日、香港政府トップの行政長官が逃亡犯条例案の撤回を表明しました。日本の中高生の皆さんは逃亡犯条例案の中身を知っているでしょうか。調べる気のない人は、私のブログを読むのを止めて受験勉強に専念することです。

                                   

                                   

                                   

                                  以下は

                                  周庭 Agnes Chow Ting さんのツイッタ―からです。

                                   

                                   

                                  条例の撤回は喜べません。遅すぎました。 この3ヶ月間、

                                  8人が自殺。

                                  3人が警察の暴力によって失明。

                                  2人がナイフを持つ親北京派に攻撃され、重傷。

                                  1,000人以上逮捕。

                                  100人以上起訴。

                                  怪我した人は数えきれないです。

                                   

                                  私たちは、5つの要求を求めています。これからも戦い続けます。

                                   

                                   

                                   

                                   

                                  9月10日の彼女のツイッタ―によれば、「昨日の朝、200校以上の中学、高校の生徒が学校の前で手をつないで「人間の鎖」を作り、抗議活動への支持を示しました。」とのことです。

                                   

                                   

                                   

                                  お前は日本の中高生にデモをけしかけているのか、と考える人もいるかもしれません。そうではありません。日本の中高生がデモをする時は、国民的な規模でデモが起こっているはずです。そしてその時は、もはやすべてが手遅れになっている時です。それくらいの認識は持ってほしいと言っているのです。

                                   

                                   

                                   

                                  安倍政権は、国民を税金を絞り取るだけの存在だと考えています。ここ1年を振り返っただけでも明白な事実です。そして今回の内閣改造。文部科学大臣に誰を据えているか見ただけでその本質がわかります。もちろん、台風被害で苦しんでいる人のことなど眼中にありません。彼らの発する言葉は、相手の身になる能力、相手と入れ替わる能力を根底から欠いているのです。

                                   

                                  | 中高生の皆さんへ | 12:07 | comments(0) | - |
                                  鶏を飼う。
                                  0

                                    この国の政治家たちのあまりの低レベルの発言や行動、見識のなさが引き起こす悲喜劇に付き合っていると、精神衛生上良くないので、今年の3月に鶏小屋と葡萄棚を作り、200坪以上の荒れた土地(お隣さんに無償で提供していただいています)を開墾して一部を野菜畑にしました。

                                     

                                     

                                    今年の3月に完成した鶏小屋とぶどう棚。画像は今日、9月11日のもの。

                                     

                                     

                                     

                                    今年の6月初めの雛達。国東半島の養鶏場まで車を飛ばして買いに行きました。一羽¥780円。ボリスブラウン6羽です。鳩の大きさくらいで可愛いですね。まだトサカも出ていません。

                                     

                                     

                                    3カ月後。もう成鶏です。最初の頃は餌をやりに行くと6羽がかたまって隅に逃げていたのですが、ご主人様が分かるようになった今ではそばに近寄ってきます。

                                     

                                     

                                     

                                    止まり木は、庭のブナの木の枝を切って作りました。鶏たちに好評です、なんちゃって。

                                     

                                     

                                     

                                     

                                    餌をやると、ご覧の通り。

                                     

                                     

                                     

                                    今日の朝採れ新鮮卵。本当に美味しい。これからは、卵料理のヴァリエーションを増やさなければ・・・。孫娘がミミズをつかんで鶏にやっていたのを思い出し、卵かけご飯を食べながら「う〜む、ミミズの味がする」と言うと、奥さん曰く「私は遠慮しとくわ」とのこと。1日に1羽が1個産むので、卵を買う必要がなくなりました。餌代とそれなりの手間がかかりますが、田舎暮らしの人にはおすすめです。明日からは、ネットを張って放し飼いにします。

                                     

                                     

                                     

                                     

                                     

                                    毎年秋になると庭が大量の落葉で覆われるので、その有効利用を考えていました。ケヤキやクヌギの落葉は腐葉土にもってこいです。そういうわけで、循環型の生活を実現すべく、腐葉土作りを決心しました。1年ほどかけて腐葉土を作り、鶏糞や藁と混ぜて土に敷き込みます。準備は着々と進んでいます。

                                     

                                     

                                     

                                    何より、朝早く起きて土を耕したり大工仕事をしたりすることは、心身の健康にとてもいいのです。鶏に餌をやったり、水を替えたりしながら生活にリズムを作っていきます。新鮮な空気を吸って、移りゆく季節の足音を聞いていると、私の中に眠っていた農民のDNAが覚醒するのを感じます。

                                     

                                     

                                     

                                    昨夜も塾の授業中、日本の大都市で生活するよりも、例えばいっそのこと南仏のワイン農家の娘または息子と結婚して、そこで生きることだってできるのだ、という話をしました。

                                     

                                     

                                     

                                    フランス語なんてそこで働きだせば何とかなる、それより日本の学校で強制される、生活に不必要な、官僚になるための勉強などしなくて済む。自ら学ぶ意欲を枯渇させないことの方が大事だ。もちろん、日本にはまだまだ豊かな里山文化があるので海外にこだわる必要はない。

                                     

                                     

                                     

                                    しかも今は、自分の人生を構想するために必要な情報を、世界中からインターネットを使って手に入れることができる時代だ。これまで大人が無反省に君たちに与えて来た人生のコースは、あっという間に無用の長物になる。古びてしまう。

                                     

                                     

                                     

                                    もちろん僕の言っていることは無責任な極論に聞こえるかもしれない。でも未来は君たちの手の中にあるのだから、たまにはその可能性について考えてみるのも必要だと思う。それが、君たちの精神を奴隷の桎梏から解放し、君たちの可能性をどれほど開拓するか、それを想像してほしい、と。

                                     

                                     

                                     

                                    もうやめにします。最後に今月5日、ロシア極東ウラジオストクで開催された国際会議「東方経済フォーラム」に出席した安倍首相がプーチン氏に向けてした演説を載せておきます。

                                     

                                     

                                     

                                    「ウラジーミル。君と僕は、同じ未来を見ている。行きましょう。ロシアの若人のために。そして、日本の未来を担う人々のために。ゴールまで、ウラジーミル、2人の力で、駆けて、駆け、駆け抜けようではありませんか。歴史に対する責任を、互いに果たしてまいりましょう。平和条約を結び、両国国民が持つ無限の可能性を、一気に解き放ちましょう。そのほとんど次の刹那、日本とロシアの連結は、地域を変える。世界を、大きく変え始めるでしょう」

                                     

                                     

                                     

                                    プーチン氏はこの演説を聞いて、必死に笑いをこらえていました。私は仰天し、この男はとうとう頭がおかしくなったのではないかと思ったほどです。そして、この国の経済人やジャーナリズムで働くほとんどの大人がこの男を支持しているという事実に思い至り、絶句しました。この国は、幼稚園児がお遊戯に興じる「お花畑」になってしまったのです。

                                     

                                     

                                     

                                    加えてこの男は、歴代政権が積み上げてきた「4島の帰属問題を解決」という従来の日本政府の方針を勝手に転換して「2島返還」に舵を切り、その上3000億円もの経済協力まで約束しました。そのあげく、日ロ交渉は1ミリも進展しなかったどころか、「プーチン大統領と27回目の首脳会談」などとはしゃいで見せ、プーチン氏が色丹島に完成したロシアの水産加工場の従業員をTV電話で激励する姿を見てもポカ〜ンとしていたのです。

                                     

                                     

                                     

                                     

                                    いやはや、どうやら私にできることは鶏の世話くらいしかなさそうです。新防衛相に任命された河野太郎が「無礼者!」などとほざいて、韓国にミサイルをぶっ放したりしないことを祈るばかりです。

                                     

                                     

                                    | 身辺雑記 | 13:45 | comments(0) | - |
                                    映画 『フリーソロ(Free Solo)』を観る。
                                    0

                                      孤独は時代を超え、年齢を超え、テクノロジーを超えます。時代背景を手がかりに人間の孤独を分析しようとしても、無駄です。孤独は時代背景の問題ではないからです。他人が自分のことを分かってくれないという寂しさの問題でもありません。人間が言語を手に入れた瞬間から宿命的に身にまとっているものです。

                                       

                                       

                                       

                                      孤独とは自分で自分に話しかけることであり、人は言語を発明したことで孤独になることができたのです。孤独とは言語の別名です。つまり、人は自分で自分に話しかけることで私になったのです。私という現象は、私が孤独であると気づくことです。

                                       

                                       

                                       

                                      言語を所有するということは、自己を俯瞰する眼を手に入れることを意味します。それができなければ、問うことそのものが成り立ちません。

                                       

                                       

                                       

                                      なぜこんなことを言うかというと、本日9月6日に封切られた映画『フリーソロ(Free Solo)』を観ている間中、主人公の孤独について考えていたからです。これほど見事に孤独を体現している人物はいないのではないか、つまり、真実もフェイクも等価になってしまった今の世の中と隔絶した場所で、彼は有史以来の孤独に一人向き合っている、そう感じたのです。

                                       

                                       

                                       

                                       

                                       

                                       

                                       

                                      岩を登っている間、彼はひたすら自分と自分の肉体に話しかけていたはずです。傍からは無心に見えるほどに。強靭な身体は、彼の精神=言語そのものです。もし彼の言語の中に、政治や愛の言葉が混入していたら、おそらく滑落死していたのではないかと思います。

                                       

                                       

                                       

                                      観終わった後、私はひどく疲れました。彼と呼吸を合わせ、ひたすら無心になろうとしていたからです。私の感想は的外れかもしれません。興味のある人はぜひ映画館に足を運んで下さい。

                                       

                                       

                                       

                                      以下に映画の紹介を載せておきます。

                                       

                                      「米アカデミー賞を長編ドキュメンタリ部門で受賞したのをはじめ、世界各地の映画賞を総なめにした作品。エル・キャピタンというヨセミテの巨大な岸壁を、ザイル(ロープ)をいっさい使わずに手と足だけで完登したクライマー、アレックス・オノルド。その登攀の様子を頭上のドローンや撮影クルーの手持ちカメラ、下からの超望遠レンズで追い続ける。この最後の20分間のシーンだけでも、映画の歴史に残る映像だ。

                                      それをCGや合成などいっさい使わずに、人間の肉体を駆使して撮影し、身体性の極地である迫力のある映像を、21世紀のテクノロジーの時代に見せる。まさに究極のドキュメンタリである。」

                                       

                                       

                                      | 読書・映画 | 17:37 | comments(0) | - |
                                      この国がまともだったころ。
                                      0

                                        今日で8月も終わりです。朝から冷たい雨が降っています。Time flies.(光陰矢のごとし)とはよく言ったもので、今年も残すところ4か月になりました。わが家の中庭では、ケヤキやジューンベリー、エゴの木、ツリバナが雨に打たれて葉を落とす準備を始めています。私は、もう少し季節が深まった頃の中庭の風情が気に入っています。

                                         

                                         

                                        8月の終わり。雨の中庭。

                                         

                                         

                                         

                                         

                                         

                                         

                                        朝食の後、そういえば昨日の新聞を読んでいなかったと思い、妻に訊くと「ほら、テーブルの隅にあるじゃない」という返事です。妻は毎日克明に新聞を読み、面白そうな記事があると教えてくれるのです。

                                         

                                         

                                         

                                        そういうわけで、昨日8月30日の朝日新聞を開こうとすると「折々の言葉」が目に飛び込んできました。普段はあまり読まないコラムです。日本の学者や哲学者と称する人たちは、現実を解釈するだけで、行動しないので、私はいつも眉に唾して読んでいます。しかし、今回読む気になったのは「小田実」という名前を目にしたからです。以下に引用します。

                                         

                                         

                                         

                                        A happy landing on the earth although the earth is full of problems. 小田実

                                         

                                         

                                        作家は娘が誕生した日、日記にこう記した。「ようこそ地球へ ― ここは問題だらけではあるけれどね」。妻の玄順恵(ヒョンスンヒェ)は回想録『トラブゾンの猫』の終わりにこの言葉を引いた後、作家の創作ノートの最後の文「世界は世直しを必要としている」を添えた。作家が身を投じた市民運動には、つねに地べたを這いつつ宇宙を見上げる「虫瞰図」の眼があったという。

                                         

                                        引用終わり。

                                         

                                         

                                         

                                        今、この国の政府、マスコミ挙げての反韓・嫌韓を、小田実ならどう感じるでしょうか。余りに狭量・無知(特に歴史に関して)な政府と国民。それでも彼は決して絶望することなく、地べたを這いつつ言葉を発していたことでしょう。

                                         

                                         

                                         

                                        ちなみに私は、ある国の文化的・政治的成熟度を見るとき2つのことに注目しています。

                                         

                                         

                                        1:若者が政治的意見(反政府的意見のことです)を表明する自由すなわち民主主義国に不可欠な表現の自由を行使しているか。

                                         

                                        2:時代状況を抉り自国の負の歴史をテーマにする映画を製作する自由があるか。

                                         

                                        この2つの点に注目するだけで、その国の未来が見えてきます。日本は韓国に完全に後れをとっていると断言します。

                                         

                                         

                                         

                                         しかし、日本にもこの2つの条件を満たしていた時期があるのです。自民党にすら良心がありました。それは小田実が活躍していた時期と重なっています。

                                         

                                         

                                         

                                        今からちょうど3年前に書いた記事です。よかったらお読みください。

                                         

                                        Our days are numbered.  小田実「遺す言葉」

                                        http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=238

                                         

                                        「一人でもやる、一人でもやめる」という自由

                                        http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=234

                                         

                                        | 身辺雑記 | 14:32 | comments(0) | - |
                                        自己救済術としての家作り−その後。
                                        0

                                           

                                          建築家でもないのに、これまで何軒か家作りを手伝ってきました。私にできることは ― ということは素人にもできるという意味ですが ― 敷地を読み、住宅のスケールと素材を決め、風の通り道を確保し、光を抑制するために窓の位置と大きさを決めることくらいです。もちろん、資金計画には関知しません。

                                           

                                           

                                           

                                          一番難しいのは、やはり価値観を共有できる人と出会うことです。私は素人なのでその点は気楽なものです。ここに小さくてもいいから風が抜ける窓を作りたいと思っても、それは私の感じ方であり、しかも従来の建築の文法から見ると異端なので、受け入れてもらえないことが多いのです。そのときは黙って引き下がるだけです。

                                           

                                           

                                           

                                          しかし、後になって完成した家を見せてもらった時、あるべきところに窓がないと生理的に落ち着かないものです。これは、ブログで何度も述べて来たように、すべての人が納得する基準がないので仕方ありませんね。知性と同じく、感じるしかないのです。知性とは、つまるところライフスタイルのことですから。

                                           

                                           

                                           

                                          そもそも、窓の位置は物理的に決まるものではありません。風の通り道を確保するだけのものでもありません。いわば自分の内面を外部に開いて行く手がかりになるものです。窓に使用する建具にこだわる人は、そういった皮膚感覚を大事にしているのですね。その人が着ている服のようなものです。高級ブランドのスーツではなく、綿の洗いざらしのTシャツを好む、というような。

                                           

                                           

                                           

                                          今は機械で強制的に換気する住宅が多くなったせいか、窓の位置など大して重要ではない、住宅メーカーや設計士に任せておけばいいと考える人が多くなりました。

                                           

                                           

                                           

                                          しかし私の経験から言うと、住み心地というか居心地のいい住宅は決まって窓の位置が素晴らしいのです。ああ、この窓のおかげでこの部屋は生きている、いや、住宅全体が落ち着きと質の高さを保っているのだと感じるのです。

                                           

                                           

                                           

                                          つまり、家を建てるということは、その人固有の感受性が意識、無意識を問わず表出することを意味します。高級な材料を使い、どんな豪邸に住もうとも、空間の構成の仕方で住宅の価値は決まってしまいます。○○風の家は、テレビコマーシャルやおしゃれな雑誌に洗脳された一時的な流行に過ぎません。

                                           

                                           

                                           

                                          今回紹介する中村好文氏設計の住宅、「上総の家供廚榔笋拆果明傳沓亜ぃ苅沖屐∨拮安嗣氏設計の、ある造園家の住宅は84,11屬鵬瓩ません。住宅は豪華さや大きさを競うものではなく、住む人の生き方や社会とのかかわり方、さらには、日々の生活と時間に洗われて輝きを増すものです。言ってみれば、住宅が人格を獲得しているのです。

                                           

                                           

                                          たかが住宅ですが、価値ある住宅は必ずや生活や人生について考えさせてくれます。深い思索を巡らせたい人に是非勧めたい二冊です。

                                           

                                           

                                           

                                           

                                          以下は中村好文氏が1992年に設計した「上総の家供廖わずか21坪。右の「上総の家機廚箸稜枌屬素晴らしい。氏自身が、設計した住宅の中でベストスリーに入ると述べています。納得しますね。詳しくはどうぞ上記の本をお読みください。

                                           

                                           

                                           

                                           

                                          以下は堀部安嗣氏設計のある造園家の家。これは、故・清家清氏の自邸を彷彿とさせます。この本には堀部氏以外の設計者になる魅力的な平屋の例が載っています。チープなだけでどこが魅力的なんだ、と思う人もいるでしょうね。知性と美意識が表裏一体のものだとわかっていないのです。

                                           

                                           

                                           

                                           

                                           

                                          私は、このことに気づいている若い世代が多くなっている気がします。都心に近い高級住宅街やタワーマンションに住むことに意味を見出せなくなっているのでしょう。自分で住宅を設計し、日々手を入れながら住み心地のいい家にすることは、子育てに似ています。私が最も嫌う家は、権威主義的な人の家です。心が安らぐ空間がないからです。

                                           

                                           

                                           

                                          人生はどこまでも深く耕せます。同じく、生活を入れる容器としての住宅もその人の価値観によって無限の変貌を遂げ、価値を生み出すのです。言うまでもなく、金銭に換算できる交換価値(相場で決まるので上限はたかが知れています)ではなく、固有の記憶と歴史を刻んだ使用価値のことを言っています。今回も読んでいただきありがとうございます。参考になれば幸いです。

                                           

                                           

                                          | 自己救済術としての家作り | 16:52 | comments(0) | - |
                                          未来のエリック・ホッファーのために。
                                          0

                                            明日から新学期が始まります。中高生の皆さんは、もやもやした気持ちを抱えたまま、夏の終わりの陽射しが照りつける通学路をいつものように学校へ向かわなければなりません。夏休み明けのテストが待っているところもあるでしょう。

                                             

                                             

                                             

                                            正直に言うと、大人になってよかったと心の底から思うのは、もう学校に行かなくていいんだ、夏休み明けの早朝の乾いた通学路を意味もなく歩かなくていいんだという事実を確認する時です。それはまるで悪い夢から覚めた時のような感覚に似ています。

                                             

                                             

                                             

                                            皆さんの中にも、中高生時代の僕と同じ気持ちを持っている人がきっといると思います。60歳を過ぎても僕は人生とは何か、生きるとは、人間とは何かという問いの前でよろめいています。要するに、中身は中高生と変らないのです。

                                             

                                             

                                             

                                            今回はそんな中高生に一人の人物を紹介します。問いの前で茫然としていた時に出会った人物です。彼のおかげで確たる信念が持てたわけではありません。人間はよろめくものだ、だから学び、考える。僕は彼からよろめくことの強さを学んだのです。彼の名前はエリック・ホッファー。何度か取り上げたので、ご存知の方も多いでしょう。

                                             

                                             

                                             

                                            「1902−83。ニューヨークのブロンクスにドイツ系移民の子として生まれる。7歳のとき失明し、15歳のとき突然視力が回復。正規の学校教育をいっさい受けていない。18歳で天涯孤独になった後、ロサンゼルスに渡り様々な職を転々とする。28歳のとき自殺未遂を機に季節労働者となり、10年間カリフォルニア州各地を渡り歩く。41年から67年までサンフランシスコで港湾労働者として働きながら、51年に処女作「The True Believer」を発表し、著作活動に入る。この間、64年から72年までカリフォルニア大学バークレー校で政治学を講じる。常に社会の最底辺に身を置き、働きながら読書と思索を続け、独自の思想を築き上げた沖仲仕の哲学者として知られている。」

                                             

                                             

                                             

                                            エリック・フォッファー。彼は本をほとんど所有せず、行く先々の図書館で、労働の合間を縫って読書し、思索しました。僕も彼のような老人になりたいと思います。

                                             

                                             

                                             

                                             

                                            彼の『自伝』から引用します。

                                             

                                            「1931年から第二次世界大戦が起こるまでの10年間、私は放浪者として過ごした。自殺に失敗し、小さな袋を肩にかけてロサンゼルスを離れたとき、気持ちは軽やかだったし、広々した田舎に出たときは、故郷に戻ったような気がした。恐れるものもなければ、新たな生活を始めるための準備期間も必要なかった。ヒッチハイクもせず貨物列車にも乗らず、南に向かって歩き始めた。乗せて行ってくれるというなら断らなかっただろうが、自分から頼むつもりはなかった」

                                             

                                             

                                             

                                            この箇所を読むたびに、僕は少し泣けてきます。記述は平明ですが、僕にとっては天啓のようなものでした。そうだ、人間は何ものにも縛られず生きることができるんだ、自由に生きてこそ自分の人生だ、と改めて確信したのです。

                                             

                                             

                                             

                                            夏休み明けの早朝の乾いた通学路を意味もなく歩くことと、ホッファーが小さな袋を肩にかけて広々とした田舎を歩くことは、同じ歩くという行為でも、まったく違う世界の出来事です。

                                             

                                             

                                             

                                            彼は次のようにも言っています。

                                             

                                             

                                            「自己欺瞞なくして希望はないが、勇気は理性的で、あるがままにものを見る。希望は損なわれやすいが、勇気の寿命は長い。希望に胸を膨らませて困難なことにとりかかるのはたやすいが、それをやりとげるには勇気がいる。絶望的な状況を勇気によって克服するとき、人間は最高の存在になるのである」と。

                                             

                                             

                                             

                                            詳しくは「未来塾通信13」をご覧ください。

                                             

                                             

                                            夢や希望ではなく勇気 ― エリック・ホッファー自伝 ―

                                            http://www.segmirai.jp/essay_library/essay013.html

                                             

                                             

                                             

                                            ホッファーと同じことを言っている人もいます。アメリカの詩人・思想家のラルフ・ウォルドー・エマソン(1803-82)です。
                                             

                                            「何をやろうとしても、あなたは間違っていると批判する者がいる。その批判が正しいと思わせる多くの困難がたちはだかる。計画を描き、最後まで実行するには、勇気がいる。」と。

                                             

                                            Whatever course you decide upon, there is always someone to tell you that you are wrong. There are always difficulties arising which tempt you to believe that your critics are right. To map out a course of action and follow it to an end requires courage.

                                             

                                             

                                             

                                            そのエマソンが成功とは何かについて語っています。それを引用して今回は終わりにします。

                                             

                                             

                                            「成功とは何か。よく笑うこと。知的な人からの尊厳を得て、子供たちに好かれること。よい評論家に認められ、見せかけの友人の裏切りに耐えられること。美しいものが分かり、他人のよいところを見つけられること。この世を少しでもよいものにして去ること。それが元気な子供を育てることや庭を作ることでも、社会問題を解決することでもよい。そしてたった一人でもいいから、私の存在によって、心が安らいだ人がいるということを知ること。それができたら、人生は成功だったと言える。」

                                             

                                             

                                             

                                            | 中高生の皆さんへ | 22:32 | comments(0) | - |
                                            とどまるところを知らない人間の劣化。
                                            0

                                              人間の劣化、特に政治家を始めとして、社会で上に立つ者の劣化がとどまるところを知りません。この傾向は第二次安倍政権が発足して以降特に顕著です。慎み深さも、最低限のモラルも、職業倫理も、教養も、そして責任感も失われようとしています。

                                               

                                               

                                               

                                              その原因を最も根源的なところまでさかのぼって究明したのが、『資本主義の終わりか、人間の終焉か?未来への大分岐』です。少々早いかもしれませんが、「今年の一冊」の有力候補です。

                                               

                                               

                                               

                                               

                                               

                                               

                                              そういうわけで、昨夜、高校生の授業でも紹介しました。近いうちに、ブログでまとめるつもりです。

                                               

                                               

                                               

                                              それにしても、「資本主義の終わりか、人間の終焉か?」などと、何を大げさなことを言っているのか、自分を高みにおいて悲観的な言説をばらまいて何になるのか、これこそ左翼の典型だ、と感じている人も多いと思います。

                                               

                                               

                                               

                                              しかし、そういう人に限って「英霊」だの「自虐史観」などといったヤワでアブナイ概念を頼りにして考えたつもりになっているのです。「国のために戦う」だの「今日の繁栄は戦争で命を落とした英霊のおかげである」などというセリフを聴いただけで涙ぐんだりします。ああ、何という無知!何という空洞化した人格!その結果、彼らは靖国神社を精神的な支柱として「尊崇」するのです。

                                               

                                               

                                               

                                              その典型が小泉進次郎です。無知と空洞化した人格の見本です。

                                              参院選が終わって間もないころ、彼は次のように言いました。「悲観的な考えしか持てない人口12千万人の国より、将来を楽観し自信に満ちた人口6千万人の国の方が、成功事例を生み出せるのではないか」と。

                                               

                                               

                                               

                                              自分では人口減少社会へのラディカルなビジョンを披歴したつもりかも知れませんが、いつものように風の向くまま気の向くままの観測気球にすぎません。何の根拠もない言いっぱなしこそが、彼の発言の特徴です。

                                               

                                               

                                               

                                              それよりも、この発言の中に現れている彼の偏見と浅薄さに驚きました。それをあっけらかんと言い放つ無神経さにもあきれます。

                                               

                                               

                                               

                                              何より、人間を「悲観的な考えしか持てない」人口と「将来を楽観し自信に満ちた」人口に二分するといった、血液型占いよりも粗雑な分類しかできない人間が将来の宰相候補などと言われるこの国の政治のレベルに絶望するのです。

                                               

                                               

                                               

                                              「ほら、そうやってすぐ絶望する人が成功事例を生み出す人を邪魔しているのですよ」と言われるかもしれませんね。やれやれ、暖簾に腕押しでしょうが、3年以上前に書いた記事を載せておきます。小泉進次郎様、よかったらクリちゃんといちゃつきながらでも結構ですのでお読みください。

                                               

                                               

                                               

                                              悲観する能力。

                                              http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=131

                                               

                                              感情にもレベルがある。

                                              http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=126

                                               

                                               

                                              | 文学・哲学・思想 | 16:47 | comments(0) | - |
                                              英語民間試験の導入は金儲けのために地方の高校生を切り捨てる。
                                              0

                                                これまでブログで何度も指摘しましたが、共通テストへの英語民間試験の導入は,欠陥・不公正だらけです。およそ入試で最も必要とされる条件は公平性ですが、国と文科省自身がそれを破壊しています。公平で客観的な基準をうやむやにする姿勢は、公文書の改ざんのみならず、歴史までも書き変えようとする現政権の本質そのものです。そして財界の意向を受けての今回の件です。最も被害をこうむるのは、この国の若い人たちです。

                                                 

                                                 

                                                 

                                                そもそも、大学入試は各大学が学生の能力を測るために個別に実施すればよいだけの話です。特に今は18歳人口が減少しているのですから、以前の全教科記述式の入試に戻す絶好のチャンスです。

                                                 

                                                 

                                                 

                                                マークシート方式は、選択肢の中に正解がすでにあるのですから、それを選ぶだけです。最後は消去法と確率の問題になります。正解へ至るまでの緻密で分析的な思考は必要ありません。これは受験生の学力を大幅に低下させました。

                                                 

                                                 

                                                 

                                                共通一次試験とそれに続くセンター試験がもたらしたものは、大学の序列化と予備校や塾の隆盛だけです。以後、大学入試のための勉強は予備校や塾の専売特許になって行くのです。公立高校が予備校に倣ったり、人気講師を講演に呼んだりするようになったのもこの頃からです。

                                                 

                                                 

                                                 

                                                要するに、教育産業は公共部門を民営化する新自由主義(国民の資産である教育を始めとする社会的共通資本を個人の資産に付け替える口実)の先兵となっていくのです。吉本興業が国から100億円以上の補助金をもらい教育部門に進出するのもこの流れです。

                                                 

                                                 

                                                 

                                                それの極めつけが、共通テストへの英語民間試験の導入というわけです。教育を受験教育に収斂させ、効率と費用対効果を全面に押し出した予備校や塾が、この金儲けのチャンスを逃すはずがありません。本来のコミュニケーションを大学入試という一試験形態の中に限局しようとする動きがあちこちで見られます。

                                                 

                                                 

                                                 

                                                この流れに異議を申し立てる人がいれば、柴山昌彦文部科学大臣の「サイレントマジョリティは賛成です。」という一言で押し切られるのです。少数意見をなかったことにするこのセリフこそが安倍政権の本質です。まことに唾棄すべき反民主主義的な言い草です。

                                                 

                                                 

                                                 

                                                柴山昌彦文部科学大臣のこの発言に対して、ある高校生がツイートしています。

                                                 

                                                 

                                                「高校生として私は反対です。学校、塾の友達も反対。そもそも私たちに国がアンケートを実施した記憶はなく、反対を主張する機会が無い状況でサイレントマジョリティというのはおかしくないですか? 自分に都合のよい声だけを取り上げ、誇張して言及する質の悪いやり取りは、ディベートにもなってない。」

                                                 

                                                 

                                                 

                                                まさにその通りです。文部科学大臣よりも高校生の方がはるかにまともです。

                                                 

                                                いつのまにか文部科学省委員になっていた、この「有名予備校講師」も、柴山昌彦文部科学大臣のように「サイレントマジョリティは賛成です。」と考えているのでしょう。「東進」の映像授業は根本的な欠陥があると前に述べましたが、「リスニングで人生が変わる」という何の根拠もない「宗教」を広めるのが使命だと考える人の人生なら、変わるかもしれませんね。たかが英語です。きちっと基礎を固めた後は、各人が必要な時に必要なだけ勉強すればいいのです。それを人生と結び付けるなど、根本的な知性を欠いている人間の考えそうなことです。

                                                 

                                                 

                                                 

                                                 

                                                 

                                                以下のサイトの記事を読めば、今回の件が単なる大学入試の問題ではなく、国家レベルで知の崩壊が進んでいることが分かります。メディアの劣化はこれに拍車をかけています。全部読んでもらいたいのですが、時間がない人のために今回は代表的な二人の論者の意見を取り上げます。

                                                 

                                                https://nominkaninkyotsu.com/collaborator/

                                                 

                                                 

                                                 

                                                 

                                                阿部 公彦(東京大学大学院人文社会系研究科・文学部教授/英米文学)


                                                英語入試の改悪に反対します。今回の「4技能均等」なる看板は,政治的な理由で捏造されただけのニセものです。テスト運用の観点からも問題は山積。入試出題者が入試対策も請け負うという制度は問題漏洩の温床です。高大接続と大学入試システムの一日も早い「正常化」を願います。

                                                 

                                                 

                                                 

                                                寺島 隆吉(国際教育総合文化研究所・所長、元岐阜大学教育学部教授/英語教育学)


                                                大学英語入試への民間試験導入は重大な欠陥があり,中止すべきです。その理由は以下のとおりです。
                                                1:目的・内容が異なる試験をCEFRで標準化することは不可能。
                                                2:田舎に住むものと都会に住むものとでは受験する機会がまるで違う。
                                                3:文科省の指導要領に従わない民間試験を高校生が受験しなければならないのは全くの不合理。
                                                4:本来は文科省が無料で実施すべき全国大学入試を受験生が高い金を払って受験しなければならないのも全く不合理。
                                                5:民間試験を受験したとしても,それを採点するのは誰がするのか,その公平性を誰が保証するのか,全く不明。
                                                6:英語の大学入試を民間委託するのは,高校教育の現場を民間企業のための予備校に変質させる危険性が極めて高い
                                                7:結局,英語の大学入試を民間委託するのは,英語教育産業を儲けさせる方策となり,英語教育の改善には役立たない

                                                 

                                                以上。

                                                 

                                                | 英語教育 | 15:11 | comments(0) | - |
                                                福島原発事故、森友・加計問題そして日航123便墜落事故。
                                                0

                                                  今から34年前の8月12日、日航123便が墜落し520人の尊い命が失われました。毎年8月12日になると、テレビがこの事故を報じます。事故の教訓が年々風化していくことを憂えるといった調子です。

                                                   

                                                   

                                                   

                                                  しかし、私はこの事故の真相は34年経った今も明らかになっていない、それどころか政府によって隠蔽されていると考えています。政府の中のある人間たちは、意図して真実と法の支配に攻撃を仕掛けているのです。もちろん、それが引き起こす途方もない悪影響には想像が及びません。

                                                   

                                                   

                                                   

                                                  憲法21条によって保障されている表現の自由など、経済的自由に比べれば何でもないと思っているのでしょう。いや、そんなものを保障していたら、自分たちの悪だくみが暴露されるおそれがあるので、敵視すらしています。いま私たちの国では、国益を理由に、民主主義の根幹をなす表現の自由が葬られようとしているのです。

                                                   

                                                   

                                                   

                                                  真実は民主主義の基盤であり、私たちを独裁主義から切り離す重要な砦です。以前、国会で山尾志桜里(やまお しおり)議員が安倍首相に、憲法ではなぜ表現の自由が経済的自由よりも優越的な地位を与えられているのか、と質問したことがあります。しかし、安倍首相は全く答えられませんでした。この問いに答えられない人間が日本の首相であることに、絶望を通り越して恥ずかしささえ覚えます。

                                                   

                                                   

                                                   

                                                  cf 表現の自由(憲法21条)の優越的地位について。

                                                  http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=118

                                                   

                                                   

                                                   

                                                   

                                                  今回は「真実」や「事実」について、高校生の皆さんに練習問題を出したいと思います。

                                                   

                                                   

                                                  日航123便の墜落事故は、言われているような圧力隔壁の破損によるものだったのでしょうか。もし、事故の真相を闇に葬ろうとする人間たちがいるとしたらそれは誰か。なぜ、どのような方法でそれを行っているのか。ジャーナリズムはそれにどう対峙したのか。福島原発事故、森友・加計問題の真相を隠蔽する勢力と関係しているのか。マスメディアの存在意義は何なのか。

                                                   

                                                   

                                                   

                                                  事件の場合、時系列を意識し、一人でも多くの証言をかき集めることで真実は見えてきます。それを完璧にやってのけたのが、以下の本の著者、元日本航空の客室乗務員だった青山透子さんです。彼女は事故機のクルーと同じグループで乗務していました。真相を究明しようと、東京大学大学院博士課程を修了して、博士号まで取得しました。

                                                   

                                                   

                                                  事実の調べ方、並べ方、相互の関連性を追求する手並みは見事というしかありません。中高生のみなさんは是非読んでみましょう。『日航123便 墜落の新事実』も是非。あまりにも衝撃的で面白いので一日で読めます。

                                                   

                                                   

                                                   

                                                   

                                                  素朴な疑問を提示する森永卓郎氏。これも是非見習いましょう。

                                                   

                                                   

                                                   

                                                   

                                                   

                                                   

                                                  事実はジグソーパズルの小さなピースのようなものです。前後左右に矛盾なく並べることで全体像が見えてきます。完成した絵を見て『モナリザ』だと分かるわけです。このモナリザが真実です。いや、ゴッホの『ひまわり』だと騒ぎたてる人もいるでしょうが、彼らは無知のために盲目になっているだけです。声が大きいだけが取り柄の人物など無視すればいいのです。

                                                   

                                                   

                                                   

                                                  社会に対して素朴な疑問を抱くことなく、自己利益の最大化に資するべく受験勉強に励んでいる皆さんは、配給された「現実」の中で社会への通路だけでなく自分の可能性もふさがれていることに気づくべきなのです。

                                                   

                                                   

                                                  | 中高生の皆さんへ | 22:39 | comments(0) | - |
                                                  あるべき<生>のさ中へ。
                                                  0

                                                    自分の人生を振り返ったとき、幸せな人生だったと思えるための条件は何でしょうか。立派な教育を受け、自分の望む職業に就き、よき伴侶や子供に恵まれて生涯を終えることでしょうか。私はそうは思いません。

                                                     

                                                     

                                                     

                                                    なぜなら、ここに書いたような、人々が無意識のうちに志向する人生は、実はどこにも存在しないからです。類型化されたイメージとしての人生は、現にその中を生きている人間にとっては何の支えにもならないのです。

                                                     

                                                     

                                                     

                                                    実際の人生は、偶然の出来事や悪意によって翻弄される一方で、思いがけない出来事や出会いによって救われたりもします。多くの場合、現実の中であがいているうちに人生は終わってしまうのかも知れません。

                                                     

                                                     

                                                     

                                                    しかし、そもそも「現実」とは何でしょうか。それは、ぶつかり、傷つき、あがくに値するものでしょうか。今や「現実」とはテレビやSNSを通じて流されるエンタテインメントと化した「電子情報」になっています。

                                                     

                                                     

                                                     

                                                    大企業と政府が国家を私物化(コーポラティズムと言います)し、社会的共通資本を破壊し、彼らの代理人に過ぎないテレビとマスメディアによって現実は隠蔽されているのです。

                                                     

                                                     

                                                     

                                                    現実は見ようとすれば誰の目にも見えるものです。もちろん、現実のどの部分を切り取るか、どこに着目するかは人によって様々でしょう。しかし、客観的な事実は確かに存在するのです。偏向したレトリックやでっち上げによって事実を隠蔽しようとする「メガホン男」たちが安倍政権の周りで跳梁跋扈しようとも、早晩、私たちは現実を身をもって知ることになります。

                                                     

                                                     

                                                     

                                                    誰の目にも見える現実が8日の朝日新聞の一面に載っていました。『汚染水タンク、あと3年で満杯』福島第一原発の敷地飽和、という見出しがついています。記事によれば「東京電力は8日、福島第一原発で事故を起こした建屋などから発生する汚染水をためるタンクが、2022年夏ごろに満杯になる見通しを明らかにした。」とのことです。どこが、「完全にアンダーコントロールされている」のでしょうか。

                                                     

                                                     

                                                     

                                                    そのうち海に流すしかなくなります。それを正当化するもっともらしい「科学的な知見」が流布されることでしょう。その時、この事態を引き起こした責任者である安倍晋三は政界を引退してゴルフ三昧の日々を送っているのでしょうね。

                                                     

                                                     

                                                     

                                                     

                                                     

                                                    除染によって出た膨大な量の汚染土はフレコンバッグに詰められて山積みにされたままです。しかも各原発から出た使用済み核燃料が原発敷地内のプールにぎっしり詰まっています。どれか一つでも冷却できなくなれば、この国は終焉を迎えるのです。

                                                     

                                                    フレコンバッグの山。ほんの一部です。

                                                     

                                                     

                                                    現実と言えば、これも現実です。NHKが報道番組の中で臨時ニュースを流すくらいですから。

                                                     

                                                     

                                                     

                                                     

                                                    前にも書きましたが、私たちはもともとウソだった現実をうかつにも現実だと勘違いしていたのです。3・11によってウソがばれた後も、現実が回復したというさらなるウソを重ねられているのが、日本社会です。

                                                     

                                                     

                                                     

                                                    私たちは、アンドロイドが電気羊の夢を見るように、教育を通じて催眠性の薬を飲まされ続けています。地震によって原発が暴発し、そこに津波が襲いかかり、列島を縦断する台風によって高濃度の放射能が国中に撒きちらされる事態など想像すらしていません。

                                                     

                                                     

                                                     

                                                    教育とは、想像力や歴史認識を鍛えることによって、目に見えないものを見る力を育むものです。放射能は目に見えません。しかるに、この国の教育は子供たちに劣等感と嫌悪感を味わわせ、早い段階から「負け犬根性」と「あきらめ」を叩き込んでいます。

                                                     

                                                     

                                                     

                                                    それは一面的な見方に過ぎない、と反論したくなる人もいるでしょう。しかし、一面的な見方ではなく本質的な見方です。私は教育の末端にいて、この国の教育の犠牲者をいやというほど見て来たのです。

                                                     

                                                     

                                                     

                                                    18歳の大学受験の時が知的水準のピークで、学校を出たら何ら自分で知る努力をしない大人たちこそが、日本の教育(塾も例外ではありません。むしろ主導しています。)が描いた理想の愚民なのです。彼らはツイッターの中でわめきちらし、人々の感情に訴え、憎悪と差別を煽ります。哀れな人生というほかありません。

                                                     

                                                     

                                                     

                                                    自分なりの意見を主張する資格は誰にもありますが、自分なりの事実などありません。私には夢の中でさらなる夢を見るような生き方はできません。窓のない地下室で日に日に偏狭になっていくような生き方もできません。

                                                     

                                                     

                                                     

                                                    あるべき<生>とは、この国の過去の死者のために、そして未来の幼き命のために覚醒して現政権と闘うことです。幸福とは、自分一個の幸せを超えて、このあるべき<生>に向かっている時に感じることのできる共通感覚のようなものではないでしょうか。

                                                     

                                                     

                                                     

                                                    | 文学・哲学・思想 | 14:39 | comments(0) | - |
                                                    朝一番の新鮮な空気を呼吸するために。
                                                    0

                                                      今日は8月2日です。部活生の都合で前倒しした中学3年生の模試の日です。最初に、問題に向き合うときの注意事項を述べ、そして終わりに一言。「カンニングはしないように。塾でカンニングをしても何のメリットもありません。カンニングしたい人は学校でするように。あわわわ・・・・」

                                                       

                                                       

                                                       

                                                      冗談はさておき、今回は私たちの日々の生活を息苦しくしているものの正体について書きます。何だ、また政治についてエラソ〜に書くのか、いい加減にしろ、と思っている人もいるでしょうね。

                                                       

                                                       

                                                       

                                                      しかし、私は政治学者でもなければジャーナリストでもありません。日々をどう生きていったらいいのか、それだけを考えるので精一杯です。私が政治について語るのは、庶民の立場から見て、どうにも我慢ならない出来事があった場合(結構あるのです)に限ります。そうでなければ、大切な時間と労力を割いたりしません。

                                                       

                                                       

                                                       

                                                      大文字の政治状況を語る時、常に聞こえてくる声があります。「どうせ人間は死ぬんだ、何をそんなに深刻ぶっているのか。お前の考えていることなど、時間がたてばすべて無に帰すのさ」という声です。つまり、太宰治の小説『トカトントン』の中でこだます虚無の槌音です。それは主人公が労働運動や恋愛に夢中になりかけると決まって聞こえてくる音なのです。

                                                       

                                                       

                                                       

                                                      太宰治『トカトントン』

                                                      https://www.aozora.gr.jp/

                                                      cards/000035/files/2285_15077.html

                                                       

                                                       

                                                       

                                                      さて、日々の生活を息苦しくしているものの正体にもどります。もちろん私が個人的に考えているものです。それが分かったからと言って、明日からの生活が変わるわけではありません。

                                                       

                                                       

                                                       

                                                      しかし、何事であれ原因が分かると対策を立てることができます。私たちの思考や意識が更新され、自由になり、方向性を見出すことができます。そして日々の生活の中で澱んでいた感情が刷新されます。

                                                       

                                                       

                                                       

                                                      私は感情が刷新されることを何より大事にしています。なぜなら、ブログで何度も書いてきたように感情こそが論理を方向づけるからです。感情が劣化していれば、その上に築かれた論理もしょせんは砂上の楼閣に過ぎません。

                                                       

                                                       

                                                       

                                                      ところで、皆さんはオルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』ジョージ・オーウェルの『1984年』をご存知でしょうか。トランプ大統領が誕生した月に『1984年』とハンナ・アーレントの『全体主義の起源』がベストセラー入りしたと聞いて、私はアメリカ社会の知的な層の分厚さに嫉妬しました。

                                                       

                                                       

                                                      今回は『すばらしい新世界』ではなく、ハクスリーの『集中講義』と驚くべき教育への洞察を含んだ『島』を紹介します。

                                                       

                                                       

                                                       

                                                       

                                                      中高生にとっては、オーウェルの『1984年』は、読むのに苦労するかもしれません。名前は知られていても、実際に読んだ人は最も少ないと言われている小説です。しかしその洞察力には脱帽するはずです。おそらく未来の才能ある小説家には避けて通れない作品です。『動物農場』とあわせて読んでみてください。

                                                       

                                                       

                                                       

                                                       

                                                       

                                                      ニール・ポストマンは1985年の著書『愉しみながら死んでいく』の中で「電気プラグが可能にしたテクノロジーによる気晴らし」が私たちの文化的会話を永久に塗り替えていると論じました。

                                                       

                                                       

                                                       

                                                      それは、より些細な、取るに足らぬものになり、伝達される情報も「単純に割り切った、実質のない、非歴史上の、文脈のないものに、つまりエンタテインメントとして梱包された情報」と化していると。

                                                       

                                                       

                                                       

                                                      そして「我々の聖職者や大統領、外科医や弁護士、教育者やニュースキャスターたちは、自らの専門分野の要求よりも演出術を気にかけるようになっている」と書きました。

                                                       

                                                       

                                                       

                                                      1985年の著書ですから、「電気プラグ」とはテレビのことです。しかし、ポストマンの考察はインターネットとスマホが普及した現代にこそ最もぴったり当てはまります。

                                                       

                                                       

                                                       

                                                      つまり、データ過多により、最も明るく光るもの、すなわち最も大きな声または最も常軌を逸脱した意見が私たちの注意を引き、最も多くのクリックと熱狂を獲得するようになった、というわけです。

                                                       

                                                       

                                                       

                                                      そのポストマンがオルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』とジョージ・オーウェルの『1984年』を比較しています。この二つの作品はディストピアを描いていますが、その世界の空気こそが、私たちの社会の生き苦しさの正体なのです。

                                                       

                                                       

                                                       

                                                      『すばらしい新世界』(光文社古典新訳文庫)は、「西暦2540年。人間の工場生産と条件付け教育、フリーセックスの奨励、快楽薬の配給によって、人類は不満と無縁の安定社会を築いていた。だが、時代の異端児たちと未開社会から来たジョンは、世界に疑問を抱き始め・・・驚くべき洞察力で描かれた、ディストピア小説の決定版! 」と紹介されています(「BOOK」データベースによる)。簡単に言うと、薬物と軽薄なエンタテインメントで麻痺した人々が催眠性の人生を送る様子を描いているのです。

                                                       

                                                       

                                                       

                                                      「オーウェルはわれわれから情報を奪う者を恐れた。ハクスリーは、われわれが受動性とエゴイズムに陥るまで多くを与える者を恐れた。ハクスリーは無意味なものだらけの海に真実が溺れることを危ぶんだ」とポストマンは書いています。1985年の時点で、全体主義国家に対するオーウェルの懸念がソ連に当てはまる一方で、西側民主主義国家が出会っている脅威を言い当てていたのです。

                                                       

                                                       

                                                       

                                                      ハクスリーの悪夢によって象徴されているのは、「あからさまにつまらない事柄」によって麻痺するあまりに、責任ある市民として関与できない人々です。

                                                       

                                                       

                                                       

                                                      そして今、日本ではハクスリーの悪夢とオーウェルの描いた全体主義国家が新たな現実味を帯びています。それは、ビッグブラザーがあらゆる物語を支配し、現在と過去を書き換える国家に重なります。

                                                       

                                                       

                                                       

                                                      私たちの社会を覆う息苦しさの正体は、この二冊の小説ですでに描かれていたのです。金と権力で汚れた空気ではなく、朝一番の新鮮な空気を吸いたい人にはおすすめです。

                                                       

                                                       

                                                       

                                                      | 中高生の皆さんへ | 17:05 | comments(0) | - |
                                                      あるネトウヨ誕生秘話。
                                                      0

                                                        先日、ジュンク堂書店で必要な本を買い、レジに並んでいました。ちなみに私は田舎に住んでいるので、書籍の9割は古本を含めアマゾンで購入しています。それでも、一月に数回は書店に行きます。書店で偶然見つけた本の中に、その後の人生に多大な影響を及ぼしたものがあったからです。思えば、本との偶然の出会いは様々な恩恵をもたらしてくれました。

                                                         

                                                         

                                                         

                                                        スティーブ・ジョブズではありませんが、若いころ読んだ本がその時は点(dot)でも、それが繋がって線となり、面となり、50歳を過ぎて一つの像(picture)を結ぶようになってくると毎日が楽しくなってきます。世界を読解する醍醐味とでも言えばいいのでしょうか。病気にでもならない限り、この楽しみは死ぬまで続きそうです。少なくとも私には歳をとったり退屈している暇などないのです。知りたいことが山のようにあるのですから。

                                                         

                                                         

                                                         

                                                        時々「いや〜、そんなことは学校で習わなかったからね〜」という大人がいますが、わからないことがあれば自分で納得するまで調べ、知識を積み上げていくしかありません。それを怠っておいて自分の無知を学校のせいにするなど、たとえ冗談でも情けなくなります。日本の学校教育はこういう大人を大量に育てているのです。

                                                         

                                                         

                                                         

                                                        話が脱線しました。ジュンク堂のレジの場面に戻ります。私の隣に、70歳過ぎとおぼしき白髪の老人がレジに並んでいました。同じ雑誌を2冊ずつ、合計4冊を手に持っています。ネトウヨ雑誌の『 WiLL 』と『 Hanada 』でした。

                                                         

                                                         

                                                         

                                                         

                                                         

                                                         

                                                         

                                                        70歳過ぎて読む雑誌がこれかと、少し気の毒になったのですが、それは私の傲慢というものです。人がどんな雑誌を読もうが、他人に干渉されるいわれはありません。私は代金を払い書店を後にしました。その老人のことを気の毒に思ったことを反省したものの、そのシーンがいつまでも心に引っ掛かっていました。

                                                         

                                                         

                                                         

                                                        数週間が経ち、その老人のことを忘れかけたころ、偶然以下の記事を見つけました。ブログでネトウヨを批判してきましたが、その内実はここに書かれている通りなのではないかと思います。もちろんこれは例外的なケースかもしれません。人は歳をとると寂しくなり、何かにすがりたくなるものです。以下の小論を読み、老人のことを気の毒に思った理由がわかったような気がしたのです。

                                                         

                                                         

                                                         

                                                        亡き父は晩年なぜ「ネット右翼」になってしまったのか。

                                                        https://www.dailyshincho.jp/article/2019/07251101/

                                                         

                                                         

                                                        あわせて、今年の7月22日に Film photography さんから頂いたコメントも掲載しておきます。

                                                         

                                                        ― コメントをいただきありがとうございます。

                                                         

                                                        低投票率に落胆しつつも、参院選挙結果には一縷の希望を見出すことができました。落ちたりといえども比例でわれわれ国民の代表二人を国政に送り込んだ山本太郎氏の笑顔の清々しさに心を洗われた気分です。次の衆院選に希望を繋ぐことができました。

                                                         



                                                        さて、3・11を界にこの国は全く変わってしまいました。いや、本当はそれ以前から変わりつつあったのかもしれません。日米安保条約新ガイドライン(1997)に始まり、小泉政権下の自衛隊イラク派遣(2003)に戦争への階段を昇りつつあることを、わたくしの父を含む戦争世代は敏感に感じ取っていたようです。亡き父が遺した手記には、岸信介がいかなる人間であったか、そして満州の地でその者どもによって棄てられた者の一人として、かの時代が再び到来することへの恐れと危惧が書き連ねられています。

                                                         



                                                        3・11は我々の国の第二の敗戦日と思います。8・15に続く彼の地での棄民と同じく、自己責任とばかりに棄民が公然と行われるその始まりでした。オリンピック招致が決まった瞬間の強烈な違和感、不都合なる事実を棄てるための壮大な虚飾・粉飾・嘘や偽りが当たり前の世の中にもはや声も上げることもできず、寝たきりとなっていた父がどんなに無念と歯噛みしたことか、その思いをわたくしは引き継いでいこうと思います。

                                                         



                                                        それこそ、戦争世代を親に持つ大人の将来世代への責任だと考えます。―

                                                         

                                                         

                                                        | 文学・哲学・思想 | 21:53 | comments(0) | - |
                                                        犬と横たわるものはノミだらけで起き上がる。
                                                        0

                                                           

                                                          これは自分を批判する者に対して投げられたトランプ大統領の言葉です。気の効いたアフォリズムのつもりなのでしょう。「ある人が、自分が何者か語るとき、それを信じよ」などとも言っています。

                                                           

                                                           

                                                           

                                                          フィリップ・ロスはトランプを「米国に降りかかる21世紀の大惨事、最も価値を下げる災難」と断じ、「自慢げな愚か者という不吉で滑稽なコンメディア・デッラルテ的人物」だと語っています。

                                                           

                                                           

                                                           

                                                          コンメディア・デッラルテとは、16世紀中頃にイタリア北部で生まれた風刺のきいた即興劇を言います。即興劇のため、決まったストーリーや登場人物はありません。俳優たちが半ばアドリブで演じるのです。観客を喜ばせ、笑わせるのが目的なので流行も取り入れたそうです。

                                                           

                                                           

                                                           

                                                          わが国に目を転じると、コンメディア・デッラルテ的人物どころか日本語すら怪しい男が「立法府の長」として、参院選後の作戦を練っているようです。でも無理でしょうね。立憲民主党と民主党の区別すらついていない政治家に何ができるというのでしょうか。参院選の翌日、時をおかずして大手メディアの幹部たちと食事をするのですから、かなり焦っているのがわかります。

                                                           

                                                           

                                                           

                                                          この男のばかばかしさ、何もかもを自分の話にするナルシシスト的な能力、その嘘の非常識さ、そして無知の深さは、何百万人もの生活を破壊し、憲法を蹂躙し、中学生でもわかる外交政策の失敗を覆い隠しています。それによってもたらされた被害を修復するには、彼が「立法府の長」を退いてから何年もかかるでしょう。

                                                           

                                                           

                                                           

                                                          それにしても、自民党や公明党の議員たちが熱心に彼を支援し、憲法の基本原理を葬り去り、それを国民の過半数が受動的に容認したことを考えれば、被害を修復することが果たして可能なのかどうかさえわかりません。

                                                           

                                                           

                                                           

                                                          山本太郎という一筋の光が見えはするものの、ジョージ・ソンダーズの言う「メガホン男」たちが現政権を取り巻いています。耳障りな知ったかぶりの何も分かっていない人物にハンドマイクを持たせるとどうなるか。そのハンドマイクは知能レベルが「バカ」、音量が「すべての批判をかき消す」に設定されているのですから。

                                                           

                                                           

                                                           

                                                          「メガホン男」からハンドマイクを取り上げるのがメディアの仕事のはずですが、あろうことか、いっしょになって真実を覆い隠し、不安をかきたて、攻撃的で、感傷的で、対立を煽る言説を垂れ流しています。

                                                           

                                                           

                                                           

                                                          さて、「犬」とは誰のことを指し、「犬と横たわるもの」とは誰のことを指しているのでしょうか。もうお分かりでしょう。

                                                           

                                                           

                                                           

                                                          「犬」とはトランプ自身を指し、「犬と横たわるもの」とはその取り巻きを指すのです。「権力と横たわるものはカネ(利権)まみれで起き上がる」いう言葉を彼らに投げ返さなければなりません。

                                                           

                                                           

                                                           

                                                          わが国では、「犬」とはトランプのポチ犬である安倍晋三を指し、彼と添い寝して「ノミだらけで起き上がる」のは、公明党と日本維新の会、コスプレがよく似合う国民民主党の代表・タマキン雄一郎です。おっと、忘れてはいけません。教育事業に打って出るために国民の税金100億円をかすめ取る吉本興業と権力に首根っこを押さえられているNHKを始めとする大手メディアです。

                                                           

                                                           

                                                           

                                                          心ある国民が彼らに反撃するにはどうすればいいのでしょうか。続きは次回に譲ります。

                                                           

                                                           

                                                          | 政治 | 23:10 | comments(0) | - |
                                                          詩と書、そして建築。
                                                          0

                                                            2年ほど前のことになりますが、ブログで次のように書いたことがあります。

                                                             

                                                             

                                                            ― 私が惹かれる建築には、欠くことのできない要素として<詩>があることは確かです。以前ブログで西脇順三郎のことばを引用しました。それは「人間の存在の現実それ自身はつまらない。詩とはこのつまらない現実を一種独特の興味(不思議な快感)を持って意識させる一つの方法である。」というものでした。―

                                                             

                                                             

                                                             

                                                            <詩>を孕む建築

                                                            http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=355

                                                             

                                                             

                                                             

                                                            そして今、在日韓国人の建築家・伊丹潤の作品集をめくりながら、西脇順三郎のことばを思い出しています。作品集P74「建築家の心眼」の中で、伊丹は次のように書いています。

                                                             

                                                             

                                                             

                                                             

                                                            ― もし建築に完璧さだけを追い求めたとしたら、まぎれもなく、機能に研ぎ澄まされ、冷たく味気ない空間になるであろう。そして、無駄という掴みどころのない言葉の範疇には、人間の生になにか非凡なもの、あるいは空間の本質みたいな何かがあるようだと、常々感じてきている。

                                                             

                                                            空間の深い意味において、機能からではなく、人間の本能のような、人がそこに存在するだけで生気が張りつめる空気みたいなものが流れる。そんな空間は、機能優先の空間には見ることができないであろう。しかるに、建築家の心眼というものに頼るしか手はない。

                                                             

                                                            また、人間の思索を深める空間と造形のピュアルティーは、その土地の伝統の文脈の自然なる抽出と、作者の強靭な祈りをこめた造形感覚と自由な思想が基底になくてはならないと思う。―

                                                             

                                                             

                                                             

                                                            以前、良寛さんの書を見た時に感じたのは、まさに「作者の強靭な祈りをこめた造形感覚と自由な思想」だったのです。いや、こういう言葉さえ超えたところにある、何といえばいいのか、明るい自由闊達さのようなものでした。

                                                             

                                                             

                                                            今では詩と書と建築が、私の中でひとつに溶けあっています。伊丹潤の言葉は、書について、建築について、はたまた詩の本質について語っているのか判然としないほどです。

                                                             

                                                             

                                                             

                                                            そういうわけで、私の中では、伊丹潤と白井晟一は別格の建築家として、畏怖すべき人間となったのです。以下に二人の書をそれぞれの著作の中から引用します。

                                                             

                                                            伊丹潤「土」

                                                             

                                                             

                                                             

                                                            白井晟一

                                                             

                                                             

                                                            白井晟一「無伴」

                                                             

                                                             

                                                             

                                                            良寛さんの話に戻りますが、先日、書家のS氏から作品を頂きました。書き損じたものでもいいから、それを壁に貼って好きな時に気兼ねなく見たい、それが私のような素人にふさわしい書の愉しみ方だと伝えていました。にもかかわらず、頂いたものは画像の通り立派に装丁されていました。そして、そこに書かれていたのは、何と良寛さんの漢詩だったのです。最初はリビングにかけていたのですが、まわりが余りにチープなのでバランスが悪く、S氏が帰った後、仏間にかけ直しました。

                                                             

                                                             

                                                             

                                                             

                                                            回首七十有餘年

                                                            人間是非飽看破 

                                                            往来跡幽深夜雪 

                                                            一炷線香古匆下 

                                                             

                                                            首(こうべ)を回(めぐ)らせば七十有余年
                                                            人間(じんかん)の是非看破に飽きたり
                                                            往来の跡(あと)幽(かすか)なり深夜の雪
                                                            一炷(ちゅう)の線香古窓(こそう)の下

                                                             

                                                             

                                                             

                                                             

                                                             

                                                            書は歳をとればとるほど余計なものが剥がれ落ちて、味が出てきます。Sさん、ありがとう。次回作は私が一番好きな良寛さんの詩(以下)をお願いします、なんちゃって。

                                                             

                                                             

                                                            生涯懶立身    生涯身を立つるに懶(ものう)く 
                                                            騰騰任天真    騰騰(とうとう)天真に任す 
                                                            嚢中三升米    嚢中(のうちゅう)三升の米 
                                                            炉辺一束薪    炉辺一束の薪 
                                                            誰問迷悟跡    誰か問う迷悟(めいご)の跡
                                                            何知名利塵    何ぞ知る名利の塵(ちり)
                                                            夜雨草庵裡    夜雨草庵の裡(うち)
                                                            双脚等間伸    双脚等間に伸ばす

                                                             

                                                             

                                                            | 身辺雑記 | 12:51 | comments(0) | - |
                                                            TV の終わり?
                                                            0

                                                              今回の選挙で投票率が5割を切ったことに衝撃を受けている人が多いようですが、私はそのことに衝撃を受けています。

                                                               

                                                               

                                                               

                                                              選挙は地震や津波のような自然現象ではなく、あくまで人為的なものです。つまり民主主義体制であれ独裁体制であれ、結果的に、人間が意図して作り上げたものです。

                                                               

                                                               

                                                               

                                                              それをまるで予想できなかったことのように驚いて見せるのは、普段この国の基底部で何が進行しているのか、そこに人々の意識がどうかかわっているのかという点を完全に見落としていることを告白しているに等しいのです。

                                                               

                                                               

                                                               

                                                              「テレビは重要なことを人々に知らせるメディアではなく、人々に知らせないための、あるいは覆い隠すためのメディアになった」と分析し、「TVの終わり」などと大仰に嘆いて見せるのです。TV報道は始まるまでもなく、とうの昔に終わっています。それを前景化して見せたのが3・11だったのです。

                                                               

                                                               

                                                               

                                                              消費社会ではあらゆる情報は操作されています。それを仕切っているのが電通です。商品の購入だけではなく企業の利益、ひいてはそこから献金を受けている政治家の利益になるようにコントロールされています。原発事故であれほど痛めつけられた福島で与党が勝つ理由を考えてみるべきです。見落としていることがあるはずです。

                                                               

                                                               

                                                               

                                                              山本太郎はこのことを骨身にしみて分かっています。演説でも何度となく触れていました。学者や評論家のように今度の選挙結果を嘆いていません。すべてを想定していたと思います。そうでなければ、私は彼を支持しません。

                                                               

                                                               

                                                               

                                                              日本経済新聞は、「参院選、与党が改選過半数獲得へ 野党共闘振るわず」と報じています。自民党は改選議席の67に対して56しか議席を獲得していないにもかかわらずです。見ようによっては「自民惨敗」との見出しも打てたはずです。

                                                               

                                                               

                                                               

                                                              もうやめにします。今回の選挙、山本太郎の作戦勝ちです。それは閉塞した社会の中を吹き抜けていった一陣のさわやかな風のようなものです。その空気を呼吸した人々は、腐臭を放つ窒息しそうな空気の中で生きていることに気づいたはずです。

                                                               

                                                               

                                                               

                                                               

                                                              私は少年の頃のように、真夏の早朝の新鮮な空気が吸いたい。秋の高原を吹き抜けるさわやかな風を胸いっぱい吸いたい。そしてせせらぎを流れる小川の清冽な水でのどを潤したい。私の夢はかくのごとくささやかなものです。

                                                               

                                                               

                                                               

                                                               

                                                              | 政治 | 14:33 | comments(0) | - |
                                                              | 1/21PAGES | >>