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洪水の年(上)
洪水の年(上) (JUGEMレビュー »)
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マーガレット・アトウッド
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 (JUGEMレビュー »)

まず私たちの生命と暮らしを脅かす事実を知ること。それにたいしてどのような認識を持つのか。この国のみならず、世界を壊滅させる災厄とどう向き合うのか。次世代に対してどう責任を取るのか、そもそも責任を取れるのか。自分に何ができるのか。この現実にどう向き合うのか。それを教えるのが教育のはずだが、この国には教育も哲学も存在しない。
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「最悪」の核施設 六ヶ所再処理工場 (集英社新書)
「最悪」の核施設 六ヶ所再処理工場 (集英社新書) (JUGEMレビュー »)
小出 裕章,渡辺 満久,明石 昇二郎
原発よりもはるかに危険な六ヶ所村再処理工場。私たちの日々の生活が薄氷の上で営まれていることを痛感させられる。同時に、この国には「国民の生命・財産・自由を守り抜く!」と威勢のいいことを言う総理大臣と無能の政治家しかいないことに絶望する。核燃料サイクルと言い、下北半島の再処理工場と言い、3兆円以上の国民の税金がつぎ込まれ、いまだ後始末も将来の見通しもたっていない現実をどう考えているのか。彼らは核兵器を持ちたいという願望と税金をロンダリングして私腹を肥やすことしか眼中にない。北海道の地震だけに目を奪われてはならない。六ヶ所村は今回の震源地の目と鼻の先にあるのだ。
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幻影(イメジ)の時代―マスコミが製造する事実 (現代社会科学叢書)
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D.J.ブーアスティン
私にとっては古典の中の古典。三度読みました。そしてその慧眼にいまだに驚いています。
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殺人犯はそこにいる (新潮文庫)
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清水 潔
ジャーナリストと称する職業がある。自称ジャーナリストもいれば、テレビのコメンテーターとしてリベラルに媚びる政権批判をし、名を売り、講演で稼ぐ職業をジャーナリストと呼ぶ者もいる。とんだ茶番である。ジャーナリストとはどこまでも「事実」を追いかける。テレビに出て能天気な解釈や感想を垂れ流している暇などないはずだ。ジャーナリストを志す若い人には清水氏の著作は避けて通れない。その名に値する本物のジャーナリストがここにいる。
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デジタル・ポピュリズム 操作される世論と民主主義 (集英社新書)
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福田 直子
おそらく自民党・安倍政権はSNSを駆使し、分析するデータサイエンス(日本版なのでレベルはまだ低いですが)の重要性に着目し、選挙にどうすれば勝てるか、自分たちに有利な世論を形成し、国民を誘導・分断するにはどうすればいいのかが分かっているのです。そのためのノウハウも蓄積しつつあります。安倍首相の貧困な語彙力からは想像できないカタカナ言葉を聞いていると、それがSNSを分析している集団から教えられたものであることがよくわかります。ただ彼らの致命的な弱点は将来の社会を導く理想がないことです。おそらく、思いもかけない結果が待っていることでしょう。なぜなら、所詮、彼らはアメリカとビッグデータの奴隷でしかないのですから。これからの政治は、好むと好まざるとにかかわらず、この本に書かれていること抜きには語れなくなっているのです。
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 (JUGEMレビュー »)

安倍政権に対するメディアの忖度が云々されていますが、元々同じ穴のムジナなのです。忘れてならないのは、日中戦争から太平洋戦争にかけて、日本の世論と新聞のほぼ全部は好戦的・拡張主義的だったのです。しかも、当時はまだ言論統制体制が発足していなかったのです。この本は、そうした「一貫して好戦的な世論とそれに便乗する新聞」が先導し、近衛文麿はじめ文民政治家がそれに便乗、軍部がさらに便乗、という構図を一次資料で克明に論証しています。安倍政権を支持するネトウヨの皆さんの日本語力では、まともな読解は無理ですので勧めません。一方、正確な歴史を知るためには「世論」の不気味さを知ることだと気づいている若い人には是非一読を勧めます。
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茫漠の曠野 ノモンハン
茫漠の曠野 ノモンハン (JUGEMレビュー »)
松本草平
著者は大分市にある『天心堂へつぎ病院』の院長、松本文六氏の御尊父、松本草平(本名松本弘)氏です。詳しくは、ブログで紹介したいと思いますが、第一次資料として極めて価値の高いものです。40年ぶりに復刻版を出された松本文六氏と出版社に感謝する他ありません。
戦略も何もない、無謀・無慈悲な戦争を語り継ぐことは、最も崇高で重要な人間の営為だと私は考えています。作家の司馬遼太郎氏は、電話で草平氏に次のように伝えてきたそうです。「先生の臨場感のあるノモンハン戦記に出会えて本当にありがとうございました。私は大東亜戦争の折、戦車隊の一員として従軍しましたが、先生の従軍記以上のものを創ることはできません。」と。
一人でも多くの方がこの本を読まれることを望みます。ちなみに松本文六氏は伊方原発差止め訴訟の原告でもあります。その縁で、この本に出会うことができました。
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「南京事件」を調査せよ (文春文庫)
「南京事件」を調査せよ (文春文庫) (JUGEMレビュー »)
清水 潔
全国のネトウヨの皆さんへの推薦図書です。清水氏のこの本を読んでから、「南京事件はなかった!」「南京事件は捏造だ!」と叫びましょうネ。
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日本列島の全原発が危ない! 広瀬隆 白熱授業  DAYS JAPAN(デイズジャパン)2018年1月号増刊号
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広瀬隆
広瀬氏をアジテーターだの、オオカミ少年だの、悲観主義に過ぎると言って批判する人がいる。しかし、ブログで何度も述べてきたように、真の悲観主義こそがマインドコントールによって奴隷根性のしみ込んだ私たちの精神を浄化してくれるのだ。そもそも無知では悲観が生まれようもないではないか。国などいくら破れても結構。せめて山河だけでも次世代に残そうと考える人ならぜひとも読むべき本である。いや、これから幾多の春秋に富む若い人にこそすすめたい。
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チャヴ 弱者を敵視する社会
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オーウェン・ジョーンズ,Owen Jones
【本書への賛辞】

「怒りが生んだ、最高の本」
──ガーディアン紙

最高の論争がみなそうであるように、知性に裏打ちされた怒りが本書を支えている。
──エコノミスト誌

暴動や世界中に広がったオキュパイ運動に照らして考えると、分断社会に関する著者の鋭い分析は、
不気味なほど未来を予知していたことがわかる。
──アートフォーラム誌

情熱と、思いやりと、すぐれた道徳性が結実した仕事だ。
──ニューヨーク・タイムズ紙

政治の定説を見直す大胆な試み。著者は戦後のイギリス史を縦横無尽に往き来し、
階級、文化、アイデンティティといった複雑な問題を軽々とまとめてみせ、
結果として「階級」問題に火をつけ、大きな効果をあげている。
──インディペンデント紙

いまの制度が貧しい人々を見捨てていることに対する苛烈な警告──それが本書だ。
──ブログサイト「デイリー・ビースト」

ジョーンズは、「地の塩」だった労働者階級が政治のせいで「地のクズ」と見なされるようになった経緯を見事に説明している。
──タイムズ紙

この本は、新しいタイプの階級嫌悪と、その裏にあるものを痛烈にあばいて見せてくれる。
──ジョン・ケアリー(The Intellectuals and the Masses著者)

これは「イギリスはおおむね階級のない社会である」という考え方への、論理的で情報満載の大反撃だ。
──オブザーバー紙

情熱的で示唆に富む……この声が届くことを心から願う。
──スコットランド・オン・サンデー紙
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紹介していない本が山のようにあります。数日前にこの本を本棚の奥から引っ張り出し再読しました。いや〜面白かった。。とにかくこの本のことを忘れていた自分が信じられない。読んでない人に熱烈に勧めます。ハイ。
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新・日米安保論 (集英社新書)
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柳澤 協二,伊勢崎 賢治,加藤 朗
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英語の実際的研究 (1969年)
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秋山 敏
高校生にとって、今でも一押しの不朽の名著。でもこの本をことを知っている英語教師は少ないと思います。是非復刊してほしいものです。
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スノーデン 日本への警告 (集英社新書)
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エドワード・スノーデン,青木 理,井桁大介,金昌浩,ベン・ワイズナー,宮下紘,マリコ・ヒロセ
2017年4月18日、朝日新聞がようやく「パノプティプコン」を取り上げました。遅すぎますね。
これから先の日本社会は、ますます荒廃が進み、国民の不満が頂点に達し、やがて爆発します。それを未然に防ぐために、国は国民の監視を強化します。
実際アメリカでは「愛国者法」により、電子メールや携帯の通話履歴が監視の対象になっています。誰が、いつ、どこで、何を読んで、誰と通信を交わしたか、すべて国に筒抜けです。
「パノプティプコン」とはフランスの哲学者フーコーが用いた概念ですが、国民が刑務所の囚人のように監視される体制を言います。監視者の姿は見えませんが、囚人は監視者不在でも、監視を意識することによって管理統制されるのです。これを「パノプティシズム」と言います。
このシステムから解放されるためには、権力がどう管理・統制しようとしているかを知らねばなりません。この本はそれを知るための第一歩です。あなたが無知のまま、奴隷の人生を送りたければ、読む必要はありません。
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A.ミラー
アリスミラーのこの本は、塾を始めるきっかけになりました。ただ生活のためだけなら、他のことをしていたでしょう。『才能ある子のドラマ』とあわせて、当時の私には衝撃的な本でした。人生はどこでどう転ぶかわかりません。人間の奥深さを知ることで、何とか自分を維持していたのです。この本を読むと当時のことが、ありありと思い出されます。ある意味で、私の人生を方向づけた本かもしれません。
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朽ちていった命:被曝治療83日間の記録 (新潮文庫)
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NHK「東海村臨界事故」取材班

2月18日のブログでも書きましたが、仕事のために読むビジネス書の類は、最終的には効率を重視し、最小の資本と労力の投下で、いかにして最大の利益を上げるかということに尽きていると思います。そのための働き方改革であり、そのための賃上げです。そのための人心掌握術であり、顧客対応です。ビジネス書を読めば読むほど、人間は軽薄になり、視野が狭くなっていきます。もしあなたがそれを自覚するきっかけがほしいなら、是非この本を読むことを勧めます。読書はビジネスのためにするのではないということが分かると思います。この本は私たちの日常の風景を一変させるだけのインパクトを持っています。いわば、ことばの最高の意味における「闖入者」なのです。
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服従
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黒い巨塔 最高裁判所
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瀬木 比呂志
この本はまだ発売されていません。自分で読んでいない本を推薦するのは邪道でしょう。しかし、これまでの『絶望の裁判所』『ニッポンの裁判』(ともに講談社現代新書)に続く裁判所、司法批判の第3弾が長編の権力小説だということで、過去2冊の本の面白さからして、推薦に値する本だと思いました。『原発ホワイトアウト』の最高裁判所ヴァージョンだと思います。読んでからコメントを追加したいと思います。
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そして、僕はOEDを読んだ
そして、僕はOEDを読んだ (JUGEMレビュー »)
アモン・シェイ
学校なる場所に通っていた時、毎年夏になると課題図書を読んで、読書感想文を書かねばならないのが苦痛でした。課題図書の選定には学校と書店の密約があるに違いないと思っていたくらいです。

偶然巡り合った面白い本の感想を書くのならまだ我慢できたかもしれません。つくづく学校というところは、余計なことをしてくれると思ったものです。

あまりにめんどうくさいので、「あとがき」を参考に、あらすじを書いて提出したら、トリプルAをもらいました。

学校というところは、もしかしたら、人生の退屈に耐える訓練をする場所だったのかもしれません。この本を読んで、改めてそのことを確認しました。別に先生を責めているわけではありません。それほど自覚的に生きるということは難しいのだとため息をついているだけです。
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選挙 [DVD]
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想田和弘監督の観察映画。音楽による演出は一切なく、徹頭徹尾監督の視点で撮られたドキュメンタリー映画。見終わった後、日本の選挙風土の貧困さが浮かび上がる。この国に民主主義はない、ということを改めて確認し、そこから出発するしかない。その勇気を持つ人には必見の映画です。合わせて『選挙2』もどうぞ。
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マックス ヴェーバー
ウェーバーの死の1年前、1919年、学生達に向けた講演の記録です。
一部抜粋します。

「自分が世間に対して捧げようとするものに比べて、現実の世の中が―自分の立場からみて―どんなに愚かであり卑俗であっても、断じてく挫けない人間。どんな事態に直面しても「それにもかかわらず!」と言い切る自信のある人間。そういう人間だけが政治への「天職」を持つ。」(P105〜106)

「さて、ここにおいでの諸君、10年後にもう一度この点について話し合おうではないか。残念ながら私はあれやこれやいろんな理由から、どうも悪い予感がしてならないのだが、10年後には反動の時代がとっくに始まっていて、諸君の多くの人が―正直に言って私もだが―期待していたことのまずほとんどは、まさか全部でもあるまいが、少なくとも外見上たいていのものは、実現されていないだろう。」(P103〜104)

10年後には、ワイマール体制は機能不全に陥り、1933年にはヒトラーが首相に就任します。

平和憲法は、日本人にとって310万人の命と引き換えに手に入れた唯一と言っていい理念であり、アイデンティティーでした。その唯一の誇りを、日本人は損得勘定で葬り去ろうとしています。言い古された言葉ですが、歴史は繰り返すのです。
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熊楠の星の時間 (講談社選書メチエ)
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中沢 新一
小学校を卒業するころ、将来なりたい職業として思い描いていたのが、天文学者か生物学者でした。プロ野球選手は、自分のセンスでは無理だと悟りました。物ごころついたころから興味があったのは宇宙や昆虫や植物の世界でした。そんなわけで南方熊樟に出会うのは必然的な成り行きだったのです。人間は言葉によって世界を把握しますが、それ以外の把握の仕方があるはずだと、ずっと思ってきました。南方熊樟は、小林秀雄と同じく、直観による世界の把握の仕方を教えてくれました。この本は、言葉によって構成された世界秩序の外に出て、世界を改めて考えたい人に大いなるヒントをあたえてくれます。安倍政権によるゴキブリのフンのような、あまりにばかばかしい政治状況を見せつけられているので、精神の衛生学として一気に読みました。
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こどもの教育から裏金を使ったオリンピック誘致、原発再稼働、戦争準備から武器の売却、安倍政権の裏の権力としてメディアに絶大な影響力を行使する電通。私たちは電通が作り上げた「箱」の中でいいようにマインドコントロールされている。自分の意見だと思っていたものが、実はそう思わされていただけだということに気づかなければならない。音楽をはじめとする芸能情報、その中で踊らされるミュージシャンやタレント、果てはデザイン業界までを席巻する。今や電通の介在しないメディアはないと言ってもいい。利権あるところに電通あり、です。
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英語教育に携わる人は、一度この本を読んでみるべきではないでしょうか。言葉は悪いですが「英語ばか」がこの国には余りにも多すぎる気がします。
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前作『日本はなぜ「基地」と「原発」止められないのか』に続く著者渾身の力作。自分の人生を生きたい人にすすめます。ただそれだけです。18歳で選挙権が与えらる高校生が政治を考える際の基本的なテキストになる日がくるといいですね。無理でしょうが。これ以上余計なコメントはしません。まず手に取ってみてください。
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メディアで取り上げられるよりはるか前から日本会議の存在について私は言及していました。電通と同じくタブー視するメディアには心底失望したものです。報道すればタブーはタブーでなくなるのです。何を恐れているのでしょうか。干されれば、何とか生活をする工面をすればよい。それだけのことです。
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磯崎新
帯に「祝祭都市にスタジアムはいらない」とあります。そもそも2020年まで天災と原発事故をやり過ごし、経済危機を乗り越えて存在しているでしょうか。極めて怪しいですね。偶然書店で手に取って読みました。彼の文章を読むと、建築は現世の権力に奉仕するものではなく、想像力の王国を作るものだと思わされます。建築にそれほど興味のない人でも、読めます。いや、いつのまにか引き込まれているでしょう。
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りぼん・ぷろじぇくと
難関中高一貫校で学び、東大に合格しても、それはもはや知性のバロメーターではありません。この本に書かれていることが真実だと見破れることこそが本物の知性です。ニセの知性は既得権益を守るためにはどんな屁理屈でもひねり出します。おまえは何も知らないと言って他人を見下し、金と権力におもねるのです。ニセの知性は理想の灯を掲げることができません。「脳内お花畑」などという幼稚な言葉を使って揶揄するしかないのです。彼らの決まり文句は、他国が攻めてきたらどうするのかという、それこそ「脳内お花畑」的なものです。「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」とは、まさに至言です。
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松岡正剛氏の本はどれも面白く、シリーズの千夜千冊を除けばほとんど読んでいます。『多読術』は、高校生にぜひ勧めたいと思います。高校時代に、この本を読んでおくと、さまざまな分野の知的見取り図を手に入れることができます。学校の授業だけではなく、この本を手掛かりにして知の荒野に歩みを進めてほしいと思います。
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カント
安倍首相は「この道しかない」と言って消費税を上げ、集団的自衛権の行使を可能にする閣議決定をし、公約とは正反対のTPPを批准することで、日本の文化=アイデンティティーを破壊しようとしています。

もし私たちが生き延びたければ、そのヒントがこの本の中に書かれています。日本は超大国の「夢」を代弁するだけの国になってはなりません。
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山本氏の国会での質問を、本になって改めて読み直して感じることは、文字通り「みんなが聞きたい」質問をしてくれたということです。安倍首相が小学生に「なぜ政治家になったのですか」と質問された時、「父親も祖父も政治家をしていたからです」と答えていました。小学生相手に、何と言う悲しい答えでしょうか。語るべき理想を持たない政治家など、所詮は官僚に利用されるだけです。それに対して、山本氏には語るべき理想がある。「政治なんてそんなものさ」というリアリストが発散する腐臭を吹き飛ばすさわやかさがある。それは、彼の身体には収まりきれない理想が持つ力そのものです。彼は言います。「力を貸してほしい。少なくとも、あなたが必要だと思われる社会、私が必要だと思われる社会を作っていきたい。そう思うんです」と。日本の総理大臣にふさわしいのはどちらでしょうか。
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ジョン・W・ダワー,ガバン・マコーマック
おそらく、日本人自身よりも海外の知識人のほうが、日本の問題を正確にとらえていると思わせる本です。読み終えて何気なくテレビを見たら、わが大分県選出の国会議員、岩屋毅氏と江藤晟一氏が、2016年ミスユニバース大分県代表を選ぶ催し物に出ていました。名誉顧問だそうです。いかがわしい宗教団体をバックに票を稼ぐだけでは飽き足らず、こんな大会に顔を出して名前を売ろうとする。大分市長の佐藤樹一郎氏も出席していました。このお三方は、こんなことをするために国会議員や市長になったのでしょうか。国民の税金を使ってやることといえば、テレビに出演してにやけた顔をさらすことでしょうか。もう物事の軽重が全く分かっていません。せめてこの本くらい読んではどうでしょうか。私はこの本に書かれていることの大部分に賛成です。
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蓮池 透
出版されてすぐ読みました。国会で、読んでもいないのに、安倍首相が躍起になって否定した事実が書かれています。蓮池氏はあちこちから人格攻撃の対象とされてきましたが、自分にも落ち度があったと認めています。自分は総理大臣なのだから落ち度はないと居直る人間とは好対照です。この本を読んで、拉致問題について今一度国民が考えることを望みます。
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渡邉 格
2年半ほど前に求めて、一気に読みました。マルクスの『資本論』の中に書かれていることを、著者が自分なりに消化し実践していく過程が書かれているので、一種のドキュメンタリー文学として読めます。きっと著者と同じ思いの若者は全国にたくさんいると思います。かけがえのない一回きりの人生を、充実して生きたいと思っている人に勇気を与える本です。
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スベトラーナ・アレクシエービッチ
今年度ノーベル文学賞受賞作品。チェルノブイリは言うまでもなく、フクシマでさえ人々は忘れたがっています。もう過去のことだと言い聞かせて。しかし、過去のことではなく、まぎれもない現在進行中の現実であり、私たちが生きている世界そのものです。この本を読んだ後、橋下徹が御堂筋をイルミネーションで照らし出し、F1カーに乗って写真を撮っているところを見ました。その時のセリフ。「大阪はここまでできる!」

もう何と言うか、別世界を生きている人間です。彼の発する言葉は文学とは無縁です。人間が言葉を持ったのは、言葉にしがたいものを言葉にしようとするためです。政治家が発する言葉の軽さと言ったらありません。それだけ現実も軽いものになったということでしょう。
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鈴木 大拙
鈴木大拙の言わんとすることが、ようやくわかりかけてきました。年齢を重ね、日本文化の基底にあるものをじっくり味わうことで開示される世界があるのです。日々の生活に追われていては、この本を読み、味わう暇などないでしょうが、それだからこそ手に取ってみてはいかがでしょう。
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人間は、条件次第で、喜々として殺人を犯す。そして、その条件を整備しつつあるのが、安倍政権とその背後でうごめく『日本会議』である。このことに気づいていても、「配慮する」ことを最優先して報道しないメディア(特にNHK・読売新聞・産経新聞)。そしてそこに寄生する学者やコメンテーター、芸能人。このドキュメンタリー映画は、彼らの自画像である。たまには、自らの顔をじっくり眺めてみるがよい。
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ジョナサン・ハイト
私が長年考えてきた問題を解明するヒントになりました。ブログで書いたように、まず感情を基にした結論があって、それを正当化するために人は「知性」を動員するという、ごく当たり前のことが書かれている。つまり、知の粉飾決算報告書である。
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中村 好文
中村さんの著作の中では、個人的に最も好きな本です。読んでいるだけで楽しくなります。限りなく優しい、でも、痛烈な文明批評です。これからの生き方のヒントが満載です。それを一人でも多くの人と分かち合いたいと思い、中村好文論・その3の中で引用させていただきました。
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暮らしを旅する
暮らしを旅する (JUGEMレビュー »)
中村 好文
以下は私がアマゾンのレビューに投稿したものです。再録します。
「もし人に幸福な生き方があるとしたら、中村好文さんのような生き方だろうと、ずっと思ってきました。
建築雑誌をパラパラとめくりながら、ふむ、と思って手が止まると、そこには必ずと言っていいほど中村さんの設計した住宅がありました。
文は人なりと言いますが、その人の書く文章のエッセンスがこれほど見事に建築にも表現されている例はめったにありません。
建築に限らず、食の分野でも、ことばと実物の乖離がはなはだしい時代に、中村さんの設計した住宅や美術館に出会うと、どこか安心するのですね。
そういうわけで、著者の本はすべて読ませてもらっています。
この本も偶然、年末に本屋さんで手に入れ、装丁やカバーの手触りを楽しみながら読んでいます。
読みながらいつの間にかほのぼのとしている自分を発見します。
一日に一編か二編を過去の記憶をたどるようにして読んでいます。
この本の平明さ、やさしさがどこから来るのか。そんなことを分析するのは野暮というものです。
とにかくこの素敵な小さな本は、旅のお供にどうぞ!とすすめたくなります。」
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中村さんの書かれた本はすべて読みました。どの本もおすすめです。これから家を建てようと考えている人は、どの本でもいいですから、一冊中村さんの本を読んでみてはいかがでしょうか。エッセイとしても十分楽しめます。この本は北海道にあるパン屋さんの建物を作りながら、人は「パンのみにて生きるにあらず」を実践したものです。ダジャレ好きの中村さんらしい(笑)。
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中村さんの本を全部は読めないという人向けに、一冊だけ選ぶとすればこれでしょうか。普通、設計したらそれで終わりという建築家が多い中、かってのクライアントを訪問して話を聞き、それを本にしたものです。クライアントといい関係が築けてないと難しいですね。加えて自信がないとなかなかできることではありません。
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堀部氏のスケッチと自身で撮った写真集。これ見よがしの作家性を前面に押し出したところがない。簡素で謙虚だが、気品に満ちた佇まいは何度見ても見飽きることがない。ブログを書くために、もう一度最初から読み直してみたが、やはり素晴らしい。
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「民主主義が終わってるなら、始めるぞ!」そのとおりです。彼らは「○○大学、○○○○(氏名)、私は戦争法案に反対します」と堂々と個人の責任で発言している。ネット上で匿名で反対意見を罵倒する勢力に比べると何とすがすがしいことか。デモや民主主義について一から考えたい人、あるいは、それくらいのことはわかってるつもりだという学者の皆さんに読んでもらいたい。もちろん大学生や18歳で選挙権を持つ若い人たちにも。ただし、民主主義は感情統治だの多数決だのと言っている橋下徹やホリエモンこと堀江貴史は読まなくてよい。あなたたちはSEALDsの新しさを理解する能力を欠いているから。
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この人を見よ!− 空前絶後の国会質問をする山本太郎議員。
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    私の塾は大分市東部の、周りは空き家だらけの限界集落に近い場所にあります。その豊かな自然環境を最大限に生かそうと考え、ここ5日間、建物の土台を作るのに必要な水盛遣り方に集中していました。

     

     

    高価な機械は買えないので、バケツと透明チューブを使ってレベルを出し、杭を打って水糸を引くという昔ながらの方法です。そして、やっと葡萄棚とニワトリ小屋を完成させました。今日は雨なので、葡萄の苗を植えるのは明日にします。

     

     

    そんなことに精を出している塾教師が、何かを発信したところで、世の中の大勢に影響はありません。ただ、消費社会の影(欲望に駆動された実験動物)のような人格として生きることはまっぴらごめんですし、デマゴーグに洗脳されて政治的活動をしたり、政治的な発言の片棒を担ぐことだけはしないと決めています。

     

     

     

    振り返ると、ブログを書き始めてあと数カ月で4年になります。書いた記事は今回で561本目になりますが、政治的発言はすべて個人の責任でしています。そもそも所属する組織がないのですから、潜在的失業者として自由に思考し発言して来ただけです。

     

     

     

    ところで、若いころからどうにも解せないことがありました。特定の組織なり会社なりに入ると、空気を読んで、自主的にあるいは半強制的に特定の政党に投票するという政治的風土がそれでした。自民党を支持する会社の中で野党に投票したり、公明党に投票するフリをして共産党に入れたりすることがなぜできないのか不思議だったのです。

     

     

     

    面従腹背と言ってみたところで、その意味するところがわからないのでしょう。投票用紙に誰の名前を書くか見られているわけでもないのです。裏切り者として白い目で見られる心配もありません。

     

     

     

    やれやれ、この国で大人の政治学が定着するのはいつのことでしょうか。それができないので、公明党は集票マシーンとして機能しているのですね。

     

     

     

    政治的な自由という、人格にダイレクトに関わる権利をいとも簡単に売り渡し、影としての人生を喜んで生きる彼らに仮装されたポリティークなどといったところで、むなしいだけです。

     

     

     

    そういった人間たちにとって、投票はその組織の経済的な利益につながるか、日本会議のようなトンデモ復古主義のイデオロギーを広め、ひいてはケチな自己肯定感を得て安心するための儀式なのです。個人の自由意思に基づくものでもなければ、子供や孫の世代のことを考えてのものでもありません。

     

     

     

    いやそんなことはない、俺たちは先々の世代まで考えているのだ、という団体もあるようです。例えば以前ブログで取り上げたJC(日本青年会議所)もその一つです。彼らの日本国憲法改正草案を見て、私は心底恥ずかしくなり、顔が赤くなったことを覚えています。憲法のイロハのイすら理解していない、まさにネトウヨレベルそのものだったのです。要するに、騙されやすい、人のいい、無知で権力になびきやすい人たちの集まりなのですね。

     

     

     

    以下の記事は以前書いたものです。暇のある時にお読みください。

     

     

    「日本青年会議所(JC)って、どんなところ?」

    http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=478

     

     

     

    前置きが長くなりました。ここからが本題です。

     

     

    安倍政権が誕生して以来、いや、戦後74年の中で、国会でなされた最も本質的で「言ってはならないことになっている」質問が白日の下にさらされました。

     

     

     

    それをしたのが、山本太郎議員です。勇気のない国会議員は肝の据わった彼を見習うべきです。ブログの読者は、私が山本太郎氏を応援してきたことをご存知でしょう。彼の質問は具体的な事実に基づき、歴史的・地政学的・経済学的洞察を含んだ出色のものです。

     

     

     

    突然ですが、若い人たちはジョン・レノンの「HOW」という歌の最初の一行をご存知でしょうか。


    “ How can I go forward when I don't know which way I'm facing? ”

     

    「自分がどの道を歩いているのかもわからないで、どうして前に進むことができるだろう?」という意味ですね。山本太郎議員は、まさにこのことを問いかけているのです。

     

     

     

    彼を高校中退の元芸人だとして人格を貶め、陰謀論者のごとく見なしている無知な人間は、自らの貧困な知性と歪んだ感情を刮目して見よ!それができないなら、これまで通り予定調和の階段を駆け上がり、レディメイドの人生を生きればよい。もちろんどんな「災厄の犬」も断固としてこの世に生きなければなりません。ただ私は「犬」の生き方だけは御免こうむりたいのです。

     

     

     

    山本太郎 議員 予算委員会 集中審議 質疑(2019/03/18)

     

     

     

     

    発言の一部抜粋

     

    「総理は、基地以外でも沖縄に寄り添わないんだな…総理、ご自身の『お友達』には、必要以上にベッタリ寄り添っていらっしゃるじゃないですか。けれども結局、沖縄にはどんな形でも寄り添わないんだなって…腹心の友こと加計孝太郎さん、ミスター政商納言・竹中平蔵さん、経団連中心の財界、森友問題でやらかした奥様・安倍昭恵さん、その尻拭いをした財務省…彼らにはベッタリ寄り添うのに…総理の沖縄に対する『寄り添う』という言葉のチョイス、完全に間違ってます!」

     

     

    「次回からは沖縄に寄り添うではなく、『沖縄に押し付ける、沖縄を痛めつける、沖縄のことは俺が決める』と正しい日本語を使って頂きたい」

     

     

    総理自身が、この植民地状態から脱するっていう決意しないと、何も終わらないんですよ。お爺さんの作った売国条約をアナタの手で変えて下さいよ、それがアナタがやるべき仕事じゃないんですか、沖縄に基地は作らせない!」

     

     

    | この人を見よ! | 12:32 | comments(0) | - |
    今日は高校入試の日です。
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      この記事を書いている時間、生徒の皆さんは懸命に問題を解いていることでしょう。全員が持てる力を十分に発揮してくれることを願うばかりです。

       

       

       

      中学3年生の授業は3日前の2月9日が最後でした。朝から車を飛ばして臼杵の「さかいや」さんへ桜餅を買いに行きました。塾では毎年、授業の最後に妻がお抹茶を点て、桜餅といっしょに出すことにしています。手作りの苺ケーキと紅茶を出した年もありましたが、最近はお抹茶と和菓子が定着しています。今ではお抹茶を点てる家庭がほとんどないためか、珍しいようで、気分を引き締める効果があるのです。

       

       

       

      そして同じ9日の正午ごろ、生徒と保護者の皆さんへお礼の手紙をしたためていると、高校3年生のTさんから名古屋大学の経済学部に合格したとの知らせが届きました。津久見から上野丘高校へ電車通学、帰宅後再び車で私の塾まで通ってくれました。一足先に九州大学に合格していたYさんと一緒に合格祝いのランチ会をする予定になっています。多くの春秋に富む若者を送り出す春は、塾の教師にとってはささやかな喜びの季節なのです。

       

       

       

      そんな中、結果を出すことにこだわるだの、合格実績がすべてだのと、塾業界は相変わらず手前勝手な宣伝合戦を繰り広げています。それにつられて保護者の皆さんの中には、焦りと不安をかかえて右往左往している方もいるようです。

       

       

       

      大手の塾は資金力にものを言わせて(実際は自転車操業でしょうが)分教室をあちこちに立ちあげています。これを私はタコ足作戦と呼んでいます。少子化の中、少しでも生徒を獲得できそうな地域があれば足を延ばし、採算が取れないと見るや、手を、いや足を引くのです。食べるものがなくなったタコが自分の足を食べるのに似ていますね。

       

       

       

      分教室を作る時、一番困るのは講師を確保できないことです。それでも何とかアルバイトで人数を確保し、見切り発車すれば当然質が低下し、指導のレベルを一定の水準に保てなくなります。それを補完するのがAIです。つまり、ビッグデータに依存し、統計と確率を駆使して作ったプリントをやらせる塾への移行というわけです。

       

       

       

      仰天するような授業をしている塾(それをYouTubeで公開しているのですから、どこまで他者意識が希薄なのかと思います)もあれば、講師に生徒獲得のための営業をさせる塾(ほとんどの塾がそうです)もあります。資本主義社会の中では「会社」は売り上げを伸ばすことを最優先しなければならないのです。

       

       

       

      私はそういった類の「ビジネスモデル」からは何一つ学ぶことはないと思っています。現在の塾業界は元銀行マンや経営コンサルタントが、初期投資が少なくて済む市場(これをニッチ市場またはスキマ産業と言います)として一儲けをたくらんでいる業界だと思って間違いありません。

       

       

       

      エラソーに言っているが、お前は何をしているのだと言われそうですね。簡単に答えておきます。塾業界を駆動している既存の価値すなわち結果主義・実績主義のイデオロギーを乗り越えようとしています。そのためには、もちろんこの業界の毒を飲むことも必要です。一度は飲んで、毒が身体に回る前に吐き出さねばなりません。

       

       

       

      しかし、塾経営者のほとんどは手遅れ状態です。「覚せい剤」もどきの毒は、服用すれば一時はハイになり、全能感に浸れるし、メディアに取り上げられて承認欲求を満たすこともできるでしょう。しかし、常用すれば廃人になるのです。

       

       

       

      今の塾業界は、たとえて言えば、少しでも役立ちそうなアプリ(アプリケーション)を手に入れる競争を煽っているようなものです。宣伝される勉強方法はパソコンやスマホのアプリです。アプリを買って理解すれば、それが動いていろいろなことを教えてくれるというわけです。一見、便利で効率的に見えます。

       

       

       

      しかし、アプリは私たちが直面している本質的な問題はおろか、その所在すら教えてくません。それに気付くには、思考のOS(オペレーション・システム)自体を入れ替えなければならないのです。本質的な学びを深めるためには、「考え(アプリ)」を変えるのではなく、「考え方(OS)」を変える必要があるのです。

       

       

       

      私はすべての生徒に「自分の能力を発揮し得たかもしれない、もう一つの場所」があるはずだと思ってきました。塾業界の「毒」を飲みながらも、里山を拠点にして、あえて主流にならないことを選択したのは、思考のOSを入れ替えるためだったのです。

       

       

       

      幸運にもそれで35年間続けることができました。今は、ヴァナキュラー(その土地固有の風土や文化に根ざした)な生き方を基本に、オールターナティブ(いまあるものとは違うもう一つの)教育の可能性を探りつつ、人生第四期に移行するための準備をしているところです。

       

      一年以上前に書いた記事です。暇な時にお読みください。

       

       

      『見果てぬ夢 ・100年後の生存戦略−教育』

      http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=446

       

       

       

      | 塾・学力 | 13:36 | comments(0) | - |
      声の届く場所で生きる。
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        8年目の3・11です。あれから私たちの国はどうなったか。これ以上ないほど劣化が進み、真実の言葉はマスメディアから消え去り、「いわば」と「まさに」をくり返すだけのバカが、質問している野党議員にヤジを飛ばしています。

         

         

        いやいや、日本にはまだまだいいところがたくさんある。捨てたものではないよ。あなたは見たいものしか見ていないのだよ。

         

         

        ほ〜、そうですか。私はこの国を愛することにおいて人後に落ちないつもりです。少しでもいいところを探し、そこに希望をつなごうとしてきました。人生の時間の大部分をそのことに費やしてきたと言ってもいいくらいです。この国の文化や歴史を知ることで、なんとか精神の平衡を維持してきたのです。

         

         

         

        もちろん希望を捨てたわけではありません。しかし、この国を愛すれば愛するほど、反作用も大きいのです。軽佻浮薄な言説ばかりがマスメディアを通じて垂れ流され、深刻そうな顔をしてしゃべっている人間も、結局は長いものに巻かれ、口をつぐむ。あまりに見え透いているのです。

         

         

         

        そもそも、「かけがえのない日々の生活」を犠牲にしない思想などというものはない。あらかじめ着地点が決まっている噴飯もののドラマを見せられて感動などできるはずもないのです。

         

         

         

        3・11以降、声が大きいだけで知性のかけらもない為政者たちが、社会的弱者や政治の貧困のつけを払わされている人々を権力で踏みつけにしています。それが今の社会です。その象徴が、何度も書いてきましたが、ヤクザ政治家の安倍晋三であり、大阪維新の会から生まれたヤクザ以下の魑魅魍魎たちです。クロスダブル選挙ですって?バカもいい加減にせよ!

         

         

         

        私はひそかに心を決めています。SNSで自我を肥大化させ、全能感に酔いしれている愚か者たちとは絶縁しようと。電脳空間の中で生きるのではなく、手を伸ばせば土と水と草花がすぐそばにある場所で生きようと。声の届く場所で生きようと。

         

         

        | 文学・哲学・思想 | 23:08 | comments(0) | - |
        今日は雛祭りでした。ー NHKはいらない。
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          わが家では毎年2月に入るとすぐ、妻がひな壇の組み立を要請してきます。ところが、今年はその様子がないので、忘れているのかも!ラッキー(組立てが結構面倒なのです)と思っていると、中旬になって正式な要請がありました。

           

           

           

           

          「あなたから見たら面倒なことでしょうけど、こういう事って、けっこう大事だと思うのよね。娘たちが無事に成長したことに感謝しながら、ひな人形を並べる時間が私は好きなのよ。」

          ははっ〜、おっしゃる通りでございます。

           

           

           

          雛人形を一つ一つ箱から取り出して並べるのは、結構な時間がかかります。妻はそれを苦とも思わず、オルゴールに合わせてひな祭りの歌を歌いながら、毎年欠かさず並べています。こういうところは感心だなと思います。おかげで、あわただしく流れていくだけの日常に、彩りがそえられ、そこだけ花が咲いたようなひとときとなるのです。

           

           

           

          とまあ、ここまでにしとけばいいものを、卑屈さというか奴隷根性というか、権力に隷属することを誇りにしているような人間たちを見て、どうにも怒りがおさまらないので、書き留めておくことにします。もしかしたら、ひな祭りを素直な気持ちで祝えるのも今年で最後になるかもしれないからです。

           

           

           

          以下は戦史・紛争史研究家の山崎雅弘氏のツイッタ―からです。

           

           

          「2019年3月1日のNHK午後7時ニュース。「新元号を書くパフォーマンスのため、(アシカが)毎日特訓に励んでいます」「どんな元号がきても書けるように練習」とあるが、当日まで発表されない言葉をどうやって「アシカに練習させる」のか。NHKは「安久」という二字だけを、20秒も画面に映していた。」

           

           

           

           

          まさか「安久」という元号は、「安」倍晋三総理の功績を(何一つないにもかかわらず)永「久」に顕彰することを目的とするものではないでしょうね。たとえこれが現実にならなくても、ここまで時の権力者に媚びへつらう放送局が公共放送を名乗るとは、大日本帝国下で猖獗をきわめたイデオロギーに魂を売り渡したのだと断言します。

           

           

           

          それにしてもなぜ彼らは隷属を誇りとし、隷属を求めて闘うことができるのでしょうか。「安久」が新元号になれば私は西暦だけを使い、金輪際元号は使わないつもりです。

           

           

           

          こんなひとりよがりで、かたくなな決断は、前途ある若者をブロイラーのニワトリのごとく教育した上野丘高校(これは僕の主観です)の卒業式を、布団にくるまってボイコットした変わり者のなれの果てかもしれませんね。若い人はNHKに入って、自信と誇りを持って安倍政権を支持して下さい、なんちゃって。 

           

           

          | 身辺雑記 | 20:10 | comments(0) | - |
          卒業する高校生の皆さんへ。
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            昨日は県内の高校の卒業式でした。テレビで上野丘高校の卒業式の様子が流れていました。卒業した高校生の皆さん、おめでとう。

             

             

             

            卒業式の朝のことは鮮明に覚えています。忘れようにも忘れられないのです。僕は布団にくるまり、時間が来ても起きませんでした。居間からは、母が着物に着替えている衣擦れの音が聞こえていました。しばらくして玄関を開ける音がし、母は僕のいない卒業式に出かけて行きました。帰宅した母は、僕を非難する言葉をひとりごとのように呟いていました。教師をしていた父は、その日のことを一言も口にしませんでした。

             

             

             

            名状しがたい怒りのようなものを抱えていた当時の僕にとって、卒業式に出席して高校生活に区切りをつけ、「希望にあふれる未来に向けて羽ばたく」ことなど考えられなかったのです。自分の中で納得のいく時間を過ごしたという感覚がまったくなかったからでしょう。前にも書いたように、僕にとっては人生の中の空白の3年間だったのです。それは、すべて自分の至らなさが招いた結果だと思います。

             

             

             

            しかし、もし今の僕が高校3年生だったらどうしたでしょうか。結局、同じ行動をとったのではないかと思います。そういう意味で、高校の卒業式は、僕自身の僕自身による人生のスタートを切った忘れられない出来事となったのです。卒業して以降、僕は上野丘高校のクラス会には一度も出席していません。

             

             

             

            ただ、息子のいない卒業式に出席した母の落胆と無念さを想い、そのことを一言も口にしなかった父のことを想うと、どうしようもなく涙があふれてきます。母はこの日を楽しみにして僕を育てていたのかも知れないのです。

             

             

             

            しかし、それが僕という人間であり、後年それを宿命として受け入れる生き方を選ぶ他なかったのです。人生は偶然の集積です。個人の意思などというものは、存在するのかどうかさえ分かりません。ただ、高校時代の僕と今の僕はつながっているのだという痛烈な思いがしきりにしているだけです。

             

             

             

            最後に、卒業する高校生に一篇の詩を送りたいと思います。

             

             

             

            ぱさぱさに乾いてゆく心を

            ひとのせいにはするな

            みずから水やりを怠っておいて

             

            気難しくなってきたのを

            友人のせいにはするな

            しなやかさを失ったのはどちらなのか

             

            苛立つのを

            近親のせいにはするな

            なにもかも下手だったのはわたくし

             

            初心消えかかるのを

            暮らしのせいにはするな

            そもそもが ひよわな志にすぎなかった

             

            駄目なことの一切を

            時代のせいにはするな

            わずかに光る尊厳の放棄

             

            自分の感受性くらい

            自分で守れ

            ばかものよ

             

            ― 茨木のり子詩集「自分の感受性くらい」より

             

            | 人生 | 09:53 | comments(0) | - |
            受験で緊張する中学3年生の皆さんへ。
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              いよいよ高校入試まであと20日を切るところまで来ました。以下気をつけることを簡単に述べておきます。

               

               

               

              1:普段と変わったことをする必要はありません。つまり、保護者の皆さんは、特別な気遣いをする必要などないということです。「落ちる」とか「すべる」といった言葉も普通に使いましょう。

               

               

              例えば夕食のとき、

               

              「ほら、○○ちゃん、ほうれん草の白和えが落ちているわよ。拾ってよ。誰かが踏んですべるといけないから。」

               

              「お兄ちゃん、そんなところに本を積み上げていたら落ちてくるよ。」

               

              「大丈夫だよ。すべらないようにちゃんと気をつけて積んでいるんだから」

               

              「そんなことないよ。それじゃあ、絶対すべって落ちてくるってば!」

               

              「キャ〜、おばあちゃんがお風呂ですべってころんで、おおイタ県!」などというように。

               

               

               

              こんな言葉に過敏に反応するようでは先が思いやられます。今はお父さんまでが神経質になっています。

               

              試験当日の朝。お父さんは次のように子どもさんに声をかけてはどうでしょうか。

               

               

              「○○、よく頑張ったな。オレなんかお前の半分も勉強しなかったぞ。でもな、こうやってちゃんと飯が食えてる。試験なんてものは運だよ。受かるも落ちるも運次第だ。オレが今の会社に就職したのも運だ。そして母ちゃんに出会ったのが運の尽きだ。ナハハ、なんちゃって。結果はお天道さまだけが知っている。気にせず全力でぶつかってこい!」

               

               

               

              2:この時期になってあれやこれやの参考書や問題集に手を出してはなりません。理科や社会は一問一答式で知識を整理するといいでしょう。持っていない人は、「新研究」で十分です。

               

               

              アンダーラインの箇所をなつかしく眺めましょう。ああ、このころはまだ彼女とうまく行っていたのに・・・などと思い出しながら。もちろん今時の中学生で、こんな感慨にふける人はいないことくらい分かっていますよ。

               

               

              でも、本当にあなたがあなただけのノートを作っていれば、全くあわてる必要などありません。よければ、以下の記事を参考にして下さい。僕の言っていることが、痛烈に分かるでしょうから。

               

               

              『世界に二つとないノートの作り方。』 

              http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=453

               

              『あなただけのノートの作り方。』

              http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=455

               

               

               

              3:数学は、これまでやった問題を解き直すこと。その際注意すべきことは、初めて解くような気持ちで向き合うことです。解き方を思い出そうとして知識の道具箱の中を探さないこと。記憶に頼ると迷路に迷い込み、時間だけが過ぎていきます。塾の生徒の皆さんは、このことを実感しているはずです。

               

               

               

              数学は与えられた情報を「数式化する」ことがすべてです。計算問題をさっさと済ませた後、問題をじっくり眺め、数学の言語に翻訳すること、すなわち、単純に言えば、問題をグラフ化したり図形化したりするのです。これが数式化の中身です。そこへ意識を集中すること。

               

               

               

              思い出して下さい。数学を学ぶのは、よろこびを味わうためなのです。それはまだ誰も見たことのない宇宙の真実と最初に向き合うことができたという歓喜と恍惚感をいち早く手に入れるためなのです。これを味わうために生きているのが数学者です。僕が授業でフェルマーの最終定理について話すのも、これこそが数学の本質・コンテンツだということを分かってほしいからです。

               

               

               

              4:国語は、作者や筆者の言いたいことではなく、問題作成者の視点で、設問を読むこと。その際、たった一つのことに意識を集中して下さい。

               

               

              文章を読みながら、不足情報を追いかける。そして、抽象表現を具体表現に、具体表現を抽象表現に言い換えている箇所にマーキングすること。これを「論理国語」などと称して、売りにしているのが「塾・予備校の国語」です。しかし、これは試験形式と試験時間が生み出した方便に過ぎません。

               

               

               

              本物の国語力とは、「論理国語」や「文学国語」(聞いたことのない、滑稽な命名です)などといったジャンルを飛び越え、どこまでも広がる、すなわち物事をクリティカル(批判的)に見ていく自由な思考と言語表現力なのです。

               

               

              そもそも、安倍政権の統計偽装と同じく、センター試験であれ、共通テストであれ、子供たちのことを考えたものではなく、利権に群がる愚かな大人の考え出したものです。そんなものは本来不要なのです。少子化の今こそ、各大学が独自に試験を行えばいいだけのことです。英語にまつわる教育改革は、めまいがするほどの愚行です。このことの本質はまた改めて述べます。

               

               

               

              さて、最後に受験生に見てもらいたい動画があります。それが僕からのプレゼントです。これから試験までの日々、時々見ては、自らの精神に喝を入れて下さい。それではまたお会いしましょう。

               

               

               

              2012年、世界空手選手権で優勝した宇佐美 里香選手の演武。世界を感嘆させました。同じく下は優勝した女子団体の演武です。受験生は試験会場で決して真似しないように。

               

               

               

               

               

               

              | 中高生の皆さんへ | 14:48 | comments(0) | - |
              大分市内の塾教師さんへ − 独立のすすめ。
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                昨日、大分市内の塾教師さんからコメントを頂きました。頂いたコメントは、原則としてそのまま公開することにしています。そのことで誤解されたり、コメント主さんと同じ考えだと見なされたりすることもあります。そこはブログを読む方の自由です。たかが塾教師のつたないブログでも、いったん書いた以上、読む人の誤読する権利に口を挟むことはできません。

                 

                 

                 

                しかし、文章を書くということはそれなりの責任が生じます。私にできることはその責任を自覚することと、批判をいただいたときには、それに極力返事をすることくらいです。

                 

                 

                 

                ただ今回の大分市内の塾教師さんからのコメントには、固有名詞が含まれていましたので、やむを得ず削除させてもらいました。その部分を訂正し、原則通り公開します。以下が頂いたコメントです。

                 

                 

                 

                ― はじめまして。大分市内で塾を経営している者です。最近貴塾のブログ『木洩れ日の庭から』を読みました。こんな塾教師もいるのかと思い、血の気が引く思いで読ませていただきました。

                 

                 


                以前勤めていた大手の学習塾では、他塾の批判はしてはならないと厳しく言われていました。それは回り回って自塾の経営にマイナスになるからという理由でした。

                 

                 


                しかし、今はこの記事を読み、経営にマイナスになろうがなるまいが、批判すべきは堂々と批判すべきだと考えています。揚げ足取り的な批判は避けなければならないのは当然です。

                 

                 


                塾の経営者は所詮「自塾の経営」のことしか考えていません。学習空間Lの塾長は、言葉とは裏腹に、子どものことなんか考えていないと思います。L塾長は仕事を変えるべきです。

                 

                 


                もう一点。L塾長が言う「是非とも通わせたい大分市の5つ塾」の中に貴塾とY田ゼミとT睛塾が入っていたとのこと。Y田ゼミについてはいろいろとうわさは聞いています。T睛塾は倒産しました。貴塾の指摘していたことが本当だと証明されたわけです。何の断りもなくこれらの塾と一緒にされれば、お怒りになるのも当然です。

                 

                 


                長くなりましたが、おかげで塾のあり方を根本から見直すきっかけになりました。ありがとうございました。これからも時々貴塾のブログを覗かせていただきます。―

                 

                 

                 

                 

                学習空間Lの塾長氏については、ブログで述べたことに尽きます。付け加えることはありません。私とは住む世界が違うのだというしかありません。ただ、「L塾長は仕事を変えるべきです。」というのは、言い過ぎだと思います。私もあなたも含めて、どんな人間も断固として生きる権利があるのですから。

                 


                 

                Y田ゼミ塾長氏は、韓国や中国が死ぬほど嫌いで(尖閣諸島にやってくる中国人を射殺せよ!と言うくらいですから)、私立大学をバカにし、大分の国立高専はエロの集団だと叫び、韓国のタレントの整形前の写真と後の写真をアップするのが趣味で、原発を再稼働すべきだと吠え、安倍首相とトランプ大統領が大好きで、自民党「命」の「経済通」です(アベノミクスはすごいんです、安倍さんが株価を上げたのです、経済は株価を見ればわかるんです、といつもツイートしていましたから)。「野党がだらしない!安倍さん以外に誰がいる!」とわめいて、自民党を利しています。安倍ちゃんの代わりなど、どこにでもいます。

                 

                 

                 

                要するに、安倍政権が垂れ流すニセの情報や週刊誌のネタをそのまま信じて拡散し、自分をひとかどの人物だと勘違いしているだけの塾教師です。ネトウヨの典型ですので、「志」を同じくする中・高生は、Y田ゼミの門をたたいて教えを乞いましょう。

                 

                 

                 

                T睛塾は以前チラシを見たことがあります。そのあまりに品のない露骨な宣伝文句と生徒集客作戦にあきれました。塾長は元銀行マンだったそうで、その時培ったノウハウを生かして一儲けをたくらんだのでしょう。

                 

                 

                元経営コンサルタントや銀行マンが始めた塾は、生徒のことをATM(現金自動引出し機)くらいにしか思っていません。利益につながる限りで「子供のために」というわけです。

                 

                 

                その作戦が功を奏して結構な数の生徒を集めていたようですが、倒産(純然たる企業ですからね)するのは時間の問題だろうと思っていました。こんな塾経営者のもとで働く社員=講師は、さまざまなノルマを課されて、さぞ大変だろうと同情していたのです。案の定、T睛塾は講師が一度に辞めて、経営が立ち行かなくなったと聞いています。

                 

                 

                 

                最後に大分市内の塾教師さんから頂いたコメントを読んで思ったことを書きます。子供たちが競って塾に通う時代は終わったのです。言い換えれば、塾文化は終焉をむかえているのです。にもかかわらず、教えることが好きで、塾教師を続けたいなら、多店舗展開している企業塾を辞め、独立するしかありません。

                 

                 

                 

                すべての責任を一人で負う覚悟のない人は、これまで通り、使い捨て要員として過酷なルーティーンを引き受けるしかありません。そして競争相手は同業他社ではなくAIになります。あなたは余剰人員としてリストラされる運命にあるのです。

                 

                 

                 

                このことはすでに書きました。

                 

                『塾は何をしてきたのか、これからどうなるのか?』

                http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=492

                 

                 

                 

                これからは、身の丈に合った小商いの時代です。スケールメリットを生かして稼ぐのはもはや時代遅れなのです。家畜として塾産業に飼いならされるか、危険を承知で独立するか、それはあなた次第です。子どもたちを教える人間は、自由でなければならないと私は考えています。そうではありませんか。

                 

                 

                | 塾・学力 | 13:03 | comments(0) | - |
                いのち短し、学べよ乙女 − Yさんへ。
                0

                  昨夜、中学2年生の塾の授業が終わると、帰りの生徒たちと入れ替わるようにして、舞鶴高校のYさんが合格の吉報を届けてくれました。中2クラスにいる妹さんとお母さんと教室で喜びを分かち合いました。Yさんが合格したのは、九州大学芸術工学部環境設計学科です。

                   

                   

                   

                  とにかく、Yさんは活きのいい生徒さんでした。建築に興味を持っていて、いろいろな話をするのが楽しみでした。学ぶ意欲と、自分の人生を切り開いていくバイタリティーにあふれていました。妹島和世のような世界的な建築家になってどんどん活躍して欲しいですね。Yさんなら、きっとやれるでしょう。

                   

                   

                   

                  そして、今日、Yさんから届いたメールには「先生のお話を聞くのが毎週末の楽しみでした!大学時代、私のしたいことのために全力で行きます!応援よろしくお願いします」とありました。ね、活きがいいでしょ。

                   

                   

                   

                  大学は自分の夢をより具体的な形として思い描くことのできる場所です。でも、そこへ行くことが人生の目的ではありません。

                   

                   

                   

                  僕はいつも言っています。

                   

                   

                   

                  「高校や大学は思いっきり楽しんで、スキップしながら軽やかに駆け抜ける場所です。でも、そこで過ごす一日一日は紛れもない人生そのものです。人生の残り時間はどんどん短くなっているのです。だから、他人を手段として利用しない生き方を目指そう。そのために懸命に学ぼう」と。

                   

                   

                   

                  ところで、今回のタイトルは、黒澤明監督の映画『生きる』の中で歌われた「ゴンドラの唄」の歌詞の一部を変えたものです。以下に歌詞を挙げておきます。

                   

                   

                  いのち短し 恋せよ乙女
                  朱き唇 褪せぬ間に
                  熱き血潮の 冷えぬ間に
                  明日の月日の ないものを

                   

                   

                  いのち短し 恋せよ乙女
                  いざ手をとりて 彼の舟に
                  いざ燃ゆる頬を 君が頬に
                  ここには誰れも 来ぬものを

                   

                   

                  いのち短し 恋せよ乙女
                  波に漂う 舟の様に
                  君が柔手を 我が肩に
                  ここには人目も 無いものを

                   

                   

                  いのち短し 恋せよ乙女
                  黒髪の色 褪せぬ間に
                  心のほのお 消えぬ間に
                  今日はふたたび 来ぬものを

                   

                   

                   

                  生涯で最も影響を受けた映画は何かと問われれば、間違いなく『生きる』を挙げたいと思います。この映画は「生きながら死んでいた」男が本当に生き始めるきっかけを描くと同時に、おろかな人間性を痛烈に批判しています。

                   

                   

                   

                  志村喬演じる主人公が、雪の降る公園のブランコに乗ってしみじみ歌うシーンが忘れられません。それにしても、志村喬を始めとして、本物の役者が少なくなりましたね。

                   

                   

                   

                  父が主人公と同じく癌で死んだ直後、大分市の芸術会館で観ました。1952年公開の古い映画ですが、観終わった後、涙が止まらず、しばらく席を立てませんでした。僕が29歳の時です。

                   

                   

                   

                   

                   

                   

                  制作の意図を、黒澤監督は、こう語っています。

                   


                  「この映画の主人公は死に直面して、はじめて過去の自分の無意味な生き方に気がつく。いや、これまで自分がまるで生きていなかったことに気がつくのである。そして残された僅かな期間を、あわてて立派に生きようとする。
                  僕は、この人間の軽薄から生まれた悲劇をしみじみと描いてみたかったのである」

                   

                   

                   

                  人は何のために生きるのか?これは青臭い問いでしょうか。答えなどあるわけがない、そんなものにこだわっていると時間を無駄にするだけだ、と考える人もいるでしょう。しかし、断言しますが、これこそが人間にとって最も重要な問いです。答えがないからこそ、僕たちはこの問いとともに生きることができるのです。

                   

                   

                   

                  Yさん、あなたが自分の人生を生きることを心より願っています。そのためには、この問いを決して手放さないことです。60年以上生きて来た僕が断言しているのです。この問いは僕たちを世間的な成功に導かないかもしれません。しかし、必ずや幸せをもたらしてくれます。僕たちは幸せになるために生きているのだからね。

                   

                   

                  | 身辺雑記 | 23:39 | comments(0) | - |
                  ぼけますから、よろしくお願いします。
                  0

                    先週の土曜日(2月2日)、シネマ5で『 ぼけますから、よろしくお願いします。』を観ました。観客は30人ほどだったでしょうか。ほとんどが高齢の女性で、30代の男性は私一人でした。ありゃりゃ、どうやら私もボケはじめているのかもしれませんね。自分を30代などと思っているのですから。

                     

                     

                     

                     

                    私は永遠の20代だと思っているので、塾でもよくボケをかまします。

                     

                     

                    「僕は70歳まで生きられたら十分だと思っている。それでも、後41年も生きなければならない。すぐ計算しない!100歳まで生きたいなんて思ったこともないよ。」と。

                     

                     

                     

                    吹き出す生徒もいれば、下を向いてクスクス笑っている生徒もいます。口をあんぐり開けて、またかよ、とあきれている生徒もいます。

                     

                     

                    生徒の一人が間髪を入れず言います。

                     

                     

                    「じゃあ先生、うちの父ちゃんが高校生のとき、先生は何歳やったん?」

                     

                    「うむ、いい質問である。しかも鋭い。君の父ちゃんを教えていたときは、確か6歳だったな。」

                     

                    イスから転がり落ちる生徒数名。

                     

                    「じゃあ、6歳で高校生を教えていたんですか?」

                     

                    「うむ、まあそういうことになるな。君の父ちゃんは出来が悪くてねえ。数学の脱線話で、マイナスとマイナスをかけたらなぜプラスになるのか説明したんだけど、分かってもらえなくてね。ベクトル空間で考えれば簡単じゃないか、天才先生に教えてもらってもこれだから君は永遠の文系だな、とか6歳の分際で結構傷つけることも言っていたような気がする。父ちゃんに謝っておいてね。」

                     

                    とまあ、こんな感じで授業は滞りなく進むのです。

                     

                     

                     

                    冗談はさておき、映画の話に戻ります。この映画はぜひ若い人に見てもらいたいと思います。なぜか。

                     

                     

                     

                    私たちはいつの日か確実に死にます。例外はありません。この一点において人間は平等です。この映画は、すべての人がたどり着く人生の結末を見せてくれます。よりよく生きるためには、人生の全体像が、特に結末がはっきりと見えていなければなりません。つまり、人生とは何かという普遍的な問いを、「老い」を通してあらためて提出しているのです。

                     

                     

                     

                    95歳になってはじめて家事をする父親と87歳のぼけ始めた母親をカメラはリアリズムで追い続けます。言葉をかけながら、泣きながら撮った1200日の記録です。そして、最後はすべての人間が平等である地点、すなわち死へとたどり着くことを予感させて終わります。

                     

                     

                     

                    人生とは何かという普遍的な問いと言いましたが、この映画は、「人間がこの世に残せるものはいったい何だろうか」と問いかけているような気がするのです。

                     

                     

                     

                    生きているときに、いくら稼ごうが、有名になろうが、豪邸に住もうが、死ぬときは何も持って行けません。赤ちゃんとして生まれ、赤ちゃんのようになって死んでいくのです。自分の力だけで生きることができる人は少数です。

                     

                     

                     

                    私たち人間は、誰かに支えてもらいながら、かろうじて死ぬことができる社会的な生き物なのですね。そう考えると、宇宙の塵のようにはかない存在である人間が、この世に残せるものとは、財産ではなく生きている時に周りの人にどう接したか、つまり行為だと思います。

                     

                     

                     

                    どういうことか説明しましょう。資本主義社会ではあらゆるモノが金銭に換算されます。同じ土地でも、田舎と大都市では評価額が天と地ほど違います。田舎の土地は野菜やその他の作物を生み出してくれます。それでも交換価値はほとんどゼロです。東京の湾岸沿いに建てられた地上180メートルのタワーマンションは、70屬任癸臆円近くします。

                     

                     

                     

                    そんな社会では、必然的に人の行為も金銭に換算されます。為替ディーラーの行為も、資本主義社会には不可欠なものとして認知されています。

                     

                     

                     

                    ここでは、彼らのやっている仕事を、金銭的なものといったん切り離して、純粋に行為そのものとして見てみましょう。そんなことを考えること自体がナンセンスだ、という声が聞こえてきそうです。それほど私たちの行為は、お金に換算されて初めて価値を持つものになっているのです。

                     

                     

                     

                    しかし、為替ディーラーの行為と、病人や年老いて痴呆になった人間の面倒を看る行為が価値において同じものでしょうか。もちろんそこに優劣をつけてはならないのが資本主義社会の約束事です。ただ、1日中コンピュータの画面を見つめて、利ざやを稼ぐ行為は、金銭的な報酬と切り離した場合、人間がこの世に残せる価値ある行為だとはどうしても思えないのです。

                     

                     

                     

                    もちろん、これは私の個人的な価値判断ですが、これから社会に出て働く若い人たちには、行為自体の価値をよく考えてもらいたいと思います。繰り返しますが、人間がこの世に残せるものは、財産ではなく行為なのですから。

                     

                     

                     

                    今回の内容は、政治家や弁護士よりも介護や通院支援の方が価値ある行為だといった考えに傾きがちな危うさをはらんでいますが、それでも、この映画を見た後では言っておきたいと思ったのです。他者にどのような接し方をしてあなたは死ぬつもりか、と。

                     

                     

                     

                    私の母は78歳で亡くなりましたが、「どうか、呆けませんように」と書いた短冊を部屋の柱に貼っていました。そして日記の最後のページに、これ以上子どもたちに迷惑はかけられない、と震える文字で書いていました。母は記憶が日々剥がれ落ちていく恐怖と懸命に闘っていたのです。

                     

                     

                     

                    以下の映画を観たのは4年前です。ブログを書き始めてすぐの頃でした。自分の至らなさに日々悔し涙を流していたころです。

                     

                     

                    映画『アリスのままで』−私とは、私の記憶である。

                    http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=25

                     

                     

                     

                    もう終わりにします。資本主義社会は様々な欲望を生みだします。しかし、その欲望が偽造されたものだと気づいた人々が、社会のあちこちで壁にぶつかり、それを乗りこえるための新たな欲望=倫理を発見し、それを梃子に社会を変えていく時が近づいていると私は思っています。

                     

                    | 読書・映画 | 20:21 | comments(0) | - |
                    英語学習において最も大事なこと − その2。
                    0

                      閉ざされ、歪み、穴だらけになった出版業界から定期的に流れてくる「○○式英語勉強法」というタイトルの本をいつの間にか買ってしまう症状のある方は、以下を読む必要はありません。

                       

                       

                       

                      ここで言う症状とは、やれハーバード式、佐藤ママ式、イモヅル式じゃなかったヒロツル式英語メソッドだの、あるいは『英語で一流を育てる』『学年ビリのギャルが一年で偏差値を40上げて慶応大学に現役合格した話』といった例の詐欺本に興味をもったり、実際に買って読んだりする症状を言います。こういった本のタイトルに惹かれるということは、あなたはすでに出版社が狙う特殊な読者層に入っているわけです。

                       

                       

                       

                      人は成長過程のどこかで、あれっ、これは自分が本当に望み、考えたあげくの判断なのだろうか、と自らに問いかける瞬間があるのではないでしょうか。

                       

                       

                       

                      つまり、他人からの影響(無意識の制度的強制)なくして自分の考えなど持てるわけがない、私たちが自分の考えだと思っているものはすべて誰かの受け売りなのではないか、本当は全く別の世界があるのにそれを想像すらできないようにされているのではないか、という疑問を持ったことのない人が安手の「英語学習法」なるものに引っ掛かるのです。

                       

                       

                       

                      なぜなら、外国語を学ぶということは、今自分がいる世界とは根本的に違う別の世界があることに気付くことなのですから。しかし、今この国で猖獗を極めているのは「グローバル社会への適応」を合言葉にした、格差助長政策であり、入試対策に特化したいびつな外国語教育なのです。

                       

                       

                       

                      またまた前置きが長くなりました。本題に入ります。英語学習において最も大事なこと−その2です。

                       

                       

                       

                      2:語彙の運用能力こそが知性の幅であり、語彙数こそが教養の深さを示すインデックスである、ということです。

                       

                       

                      英米人の場合、あくまで平均ですが、2歳で300語、5歳になるまでに2,000語程度、10歳で7,000語、12歳で12,000語、18歳で18,000語程度を修得しています。今回の英語教育改革では、中学3年生までに習得すべき単語数が1,500語になる!と塾が脅していますが、日本の中学校で習う語彙数では勝負になりません。

                       

                       

                       

                      ところで、英語の新聞を読むには、どれくらいの語彙が必要でしょうか。語彙には話したり書いたりするときに使う Active vocabulary と人の話を聞いたり読んだりするときに使う Passive vocabulary の違いはありますが、多くの研究者が指摘しているのは、およそ20,000語、どんなに少なく見積もっても6,000語だと言われています。

                       

                       

                       

                      英米の教養人がもっている語彙数は約25,000語程度だと言われています。中学英語をマスターすれば英会話は大丈夫、などという人もいますが、1,500語程度の語彙数で、いったいどうやって大人の会話が成立するのでしょうか。

                       

                       

                       

                      日本語の読み書きすら怪しい安倍ちゃんが世界のインテリたちと渡り合えるわけがないのです。もしそれが可能だというのであれば、英米の社会は相当に薄っぺらで、知の蓄積のない社会ということになります。

                       

                       

                       

                      現在、英米の政治家と対等に話し合えるだけの英語力を持っている日本の政治家がいるでしょうか。過去、自民党の中には一人いました。今の自民党の面々を見て下さい。気分が萎えてきますね。もちろん官僚の中にもいません。これは元駐日大使が言っていることです。

                       

                       

                       

                      英語教育改革は、まずなによりも政治家や官僚など国のトップに対して行う必要があります。それ以外は、財界人も含めてせいぜい国民の1%が英語を使えるようにすれば充分です。1%は120万人です。これでも気が遠くなるような数字ですね。

                       

                       

                       

                      もうお分かりでしょう。英語教育改革の中に、一般の国民を巻き込む必要などないのです。日本の英語教育は、教育に名を借りた格差助長政策であり、せいぜいのところ「シンガポールのユニクロの店長」を目指す「改革」なのです。

                       

                       

                                     

                      ここからは私の経験を語りたいと思います。若いころ、まあまあ英語はできる方だとうぬぼれていたときがありました。井の中の蛙ですね。それを思い知ったのは以下の小説に出会った時です。

                       

                       

                       

                      ジェイムズ・ジョイスの『若き芸術家の肖像』『ユリシーズ』そして最後の小説『フィネガンズ・ウェイク』です。

                       

                       

                      その冒頭は以下のように始まります。しかも小文字です。最初は印刷ミスかと思いました。

                       

                       

                      riverrun, past Eve and Adam's, from swerve of shore to bend of bay, brings us by a commodius vicus of recirculation back to Howth Castle and Environs.

                       

                       

                       

                      私ごとき人間の語彙力では、全く歯が立ちませんでした。そこで方向転換して読んだのが1973年にアメリカで刊行されるや600万部の大ベストセラーになり、ヘンリー・ミラーやアップダイクが絶賛した新しい女性の文学『飛ぶのが怖い』でした。

                       

                       

                       

                      この本でも語彙力のなさを痛感しました。そして、翻訳家・柳瀬尚紀氏を知ることとなったのです。ブログでも何回か言及しています。彼が翻訳不可能と言われた『フィネガンズ・ウェイク』を訳していると聞いて私はひっくり返りました。以来私は、日本語・英語ともに語彙力不足というトラウマを引きずっています。

                       

                       

                       

                      以下が『飛ぶのが怖い』のペーパーバック版。下は柳瀬尚紀氏の翻訳本(新潮文庫)。一度は手に取ってみることを勧めます。ただし、かなり興奮する性的描写があちこちにあるので R18+ですね。奥手の私が読んだのは30歳の時です。

                       

                       

                      1985年にパルコブックセンターで買ったと裏表紙に書いています。

                       

                       

                       

                       

                      新潮文庫版のカバーに書かれている紹介によると「これは一人の女の精神と性の放浪物語である ― 精神分析医を二度目の夫に持つ詩人イザドラは、結婚生活で窒息させられた欲望のうずきを感じていた。不毛の倦怠と激しい自己嫌悪を覚えながらも、狂気じみた情熱に駆られ夫と愛人の奇妙な三角関係に陥った彼女は、心と肉体の完全な充足を求めてさまよう・・・。大胆奔放な言葉を用いて全米を騒然とさせた女流作家の自伝的長編」とのことです。

                       

                       

                       

                      イザドラは、単に「二人の男のどちらをとるか」ということだけでなく、たとえば「芸術家になるか、それとも子沢山な主婦になるか」とか、「従順な女になるか、冒険的で支配的な女になるか」、あるいは「ユダヤ人としてのバックグラウンドを意識するか、コスモポリタンになるか」という感じで、常に二つの価値観の間で揺れ、しかもどちらの道をとっても孤独感を味わうという閉塞的な状況に陥っているのです。

                       

                       

                       

                      閉塞的な状況を抱えつつ放浪を続けるということについて言えば、J・D・サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』に似ています。『ライ麦』が10代の男の子の放浪だとすれば、『飛ぶのが怖い』は30歳の既婚女性の放浪というわけです。『ライ麦』のホールデンも、『飛ぶのが怖い』のイザドラも、よくしゃべります。おしゃべりの面白さを味わう小説と言えば、まず思いつくのがこの2冊でしょうか。

                       

                       


                      以来、語彙力不足というトラウマを引きずっている私がしていることは、常に英英辞典の一種である Vocabulary Buildingのテキストを持ち歩くことです。それが以下のテキストです。

                       

                       

                       

                      接頭辞、接尾辞、語源の解説と、章ごとにドリルがついています。英検1級にチャレンジする人には必須です。でもこれを高校生がやるのは無理ですね。

                       

                       

                       

                      画像の demagogue(デマゴーグ)の定義を見て下さい。A political leader のことですね。そして彼は appeal します。人々の emotions(感情)や prejudices (偏見)に。目的は discontent(不平不満)を  arouse(引き起こ)し、自らの political purposes(政治的目的)を達成することです。安倍ちゃんは言うまでもなく、橋下徹のような政治家のことです。この定義によって、彼らがデマゴーグであることが深く納得できます。

                       

                       

                       

                      ある単語の意味を理解するには、その単語を構成する key word を知る必要があります。上記の例でいえば、a political leader、appeal、emotions、prejudices は demagogue(デマゴーグ)という単語と同時に連想しなければならないのです。言葉は連想によって意味範囲が決まるからです。

                       

                       

                       

                      最後にもう一つ大事なことをつけ加えます。受験用の単語集をやみくもに暗記するより、信頼できる和英辞典を引き、「自分が」「今」知りたい単語や言い回しを調べることが、語彙力増強のための最強・最短の方法です。これについてはまたいつか話しましょう。

                       

                       

                       

                      語彙は料理で言えば材料です。材料なしではどんなに腕のいい料理人でも料理を作ることはできません。豊富な語彙力があってこそ、会話にも「いい味」が出るというものです。

                       

                       

                       

                      | 英語教育 | 23:29 | comments(0) | - |
                      英語学習において最も大事なこと− その1。
                      0

                        英語の話題が続いたので、ついでに英語学習において最も大事なこと、およびそれにまつわる勉強方法について話します。もちろん、私の個人的な意見であり経験です。したがって何の権威もありません。

                         

                         

                         

                        そもそも勉強方法に権威を求めることがおかしい。思考錯誤によって自分のものにした方法だけが、いざというときにモノを言うのです。自分のモノサシを作ることを怠っておいて、外部のモノサシに頼ること自体が間違っています。勉強方法から始まって、価値判断そのものまで外部に頼るようになれば、人格が空洞化するのは当たり前です。

                         

                         

                         

                        特に、英語の勉強方法(受験本もそうですが)なるものは、手を替え品を替え新しいものが登場します。出版社はあなたのことなど何も考えてはいません。売れるかどうか、それだけを考えています。つまり必然的に質は低下するのです。

                         

                         

                         

                        『ついに登場!究極の英語勉強法』『あなたを絶対合格に導く革命的な勉強法』『東大生の80%が実践している勉強法』『あなたを震撼させる東大首席卒業の超絶・悶絶・壮絶・効率的・合目的的・新自由主義的・竹中平蔵的勉強法』のようなタイトルをつけた本が出ても、眉に唾して、ふ〜ん、相変わらずだなあ、くらいに思っていればいいのです。

                         

                         

                         

                        世の中には英語の勉強の仕方について書かれた本に時間と大金をつぎ込み、一向に英語そのものに取り組もうとしない人が多いようです。せめてアメリカやイギリスの古典を数十冊英語で読んでみてはどうでしょうか。

                         

                         

                         

                        言わずもがなのことですが、すべての人に有効な勉強方法など存在しません。能力も、関心も、目的も、置かれている環境も一人一人違うのですから。この単純な事実をよく肝に銘じておくことが大事です。そうすれば、出版社の販売戦略にひっかからなくて済みます。

                         

                         

                         

                        前置きが長くなりました。さっそく本題に入ります。英語学習において最も大事なことは単純明快です。2つあります。

                         

                         

                        1:語学学習における記憶力というものは、覚えたいものにしか反応しないということです。ここでポンと膝を打って納得してくれる人ばかりではないと思うので、少し説明します。

                         

                         

                         

                        世間では、いわゆる頭のいい人=記憶力がいいと信じている人が多いようです。計算が速いのも同じように頭のいい人の特徴だと考えられています。

                         

                         

                         

                        しかし、本当でしょうか。人間は高性能のICレコーダーではありません。目にするもの、聞くものすべてを記憶していたら日常生活が立ち行かなくなります。だから、覚えるべきものとそうでないものを取捨選択するようにできているのです。では何を基準に私たちは取捨選択するのでしょうか。

                         

                         

                         

                         

                        それが「覚えたいもの」という欲求すなわち自分のモノサシなのです。これは人によって違います。自分の欲求に忠実な人は、学校教育の中ではわがままに見えます。「そうすることになっている」ことを文句を言わずにやる場所が学校だからです。

                         

                         

                         

                        特に普通科の進学校では、難関大学に合格するために学習すべきもの、記憶しなければならないものは決まっています。あとは限られた時間内にどれだけ効率的に知識をインプットするかが問題になるだけです。

                         

                         

                         

                        そこでいい成績を収め、東大に合格しようと思う人は、佐藤ママが言うように恋愛もダメ、テレビもダメ、下らない宿題をするのも志望理由書を書くのも時間がもったいないので母親が代わりにやる、ということになるのです。

                         

                         

                         

                        経済的にゆとりのある家庭は「プロの塾・予備校教師」や「プロ家庭教師」に勉強を外注します。面白おかしく、ギャグを交えて、時には「人生が変わる1分間の深イイ話」を聞かせて合格へと導いてくれます。今は小学生の段階から、この精緻なシステムが出来上がっています。それを可視化して見せたのが佐藤ママだというわけです。

                         

                         

                         

                        このシステムが罪深いのは、内心の欲求を抑圧し、それに気づかなくしてしまうところです。代わりに、難関大学に合格したいという偽造された欲求が与えられます。

                         

                         

                         

                        小学生の頃から人格空洞化トンネルの中に入れば、トンネルを抜ける頃には、倫理意識を欠落させた人間が出来上がります。なりすまし塾長や事実と妄想の区別すらつかないネトウヨ塾長、はたまた全自動忖度機が出来上がるのは当然です。このことに気付いた人間が「私の人生を返せ!」と叫んだとしても「負け犬」の烙印を押されるだけです。

                         

                         

                         

                        話を元に戻します。本来、記憶力とは、分野によって強弱があります。記憶力が起動する分野もあれば、起動しない分野もあるのです。「語学学習における」記憶力と限定したのは、そういうわけです。

                         

                         

                         

                        イチロー選手は、ピッチャーの投げる球をことごとく記憶していたと言います。球種やコース、スピードに合わせて身体の始動を早めたり遅らせたりし、バットの角度やスイングスピードを微調整するためです。ここが凡庸な選手と違うところです。この種の記憶力を身体的記憶力と呼びましょう。

                         

                         

                         

                        しかし私たちの記憶力はもともと身体的なものだったのではないでしょうか。農業も林業も漁業も、あるいは土木工事も大工仕事も左官業も、世の中の基幹をなす仕事は身体的記憶力なしには成り立ちません。

                         

                         

                         

                        孫が新体操をしているのですが、衣装はすべて妻の手作りです。これまで10着以上の衣装を作りましたが、作るたびに進化しているのが分かります。ロシアの新体操の選手の衣装をテレビやネットで研究した後、ミシンを出してきて、数日以内にその衣装を作り上げます。その手早さといい、デザイン力といい、とてもまねできません。熱中しはじめたら取り合ってもくれません。ちなみに妻は学校の勉強は得意ではなかったと言っています。

                         

                         

                         

                        そうなのです。私たちの記憶力は覚えたいものにしか反応しないのです。それに対して、近代の学校教育は、身体と切り離した抽象的な概念を記憶することを重んじてきました。その最たるものが、大学入試や資格試験に合格することを目標にした語学学習です。でも絶えざる競争を推進力にした学習は、本当の欲求に気付いた人には、まったく魅力のないものに映ります。

                         

                         

                         

                        そもそも、あなたの記憶力=欲求が語学学習という分野に向いていない場合もあります。料理のレシピならいくらでも覚えられるのに、好きな歌手の歌なら英語で歌えるのに、英語の単語や構文となると覚えられない人がいます。当たり前ですよね。

                         

                         

                         

                        もしあなたが教室で身体を小さくして屈辱と退屈に耐えているとしたら、語学学習など思い切ってやめてしまうことです。そもそもやりたくもないことに貴重な時間を捧げるなんて、自分の人生に対して失礼です。「英語なんかやりたくない」という意思をしっかり表明して、別の山を目指しましょう。

                         

                         

                         

                        猫も杓子も英語!英語!英語!の世の中で、自分の意思を表明するのは勇気のいることかもしれませんが、心配いりません。世の中の方が狂っているのですから。私たちの生活を豊かにしてくれるはずの身体的記憶力が起動しない場で生きる必要はないのです。

                         

                         

                         

                        私は今年から塾棟の隣にある300坪の畑を借りて、野菜を作ったり、果樹を栽培したり、鶏を飼うことを計画しています。教育の原点に戻り、子どもたちに勉強を教えながら、オールターナティブな教育を目指そうと思っています。別にたいそうなことではありません。私が少年だった頃の普通の農村の風景を再現するだけですから。

                         

                         

                         

                        長くなるので英語学習において最も大事なことの2番目は次回に譲ります。ここまで読んで下さった皆さんにお礼を言います。ありがとうございました。

                         

                         

                         

                        | 英語教育 | 13:02 | comments(0) | - |
                        会話は最も人間的な営みである。
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                          私は人と話すことが好きです。直接会って話すことも嫌いではありません。最近はマルクス・ガブリエル氏とよく話をしています。もちろん著作を通じてですが。読書も一種の会話なのです。

                           

                           

                           

                           

                          「その問題が最も重要だと考えていました。おっしゃるようにテクノロジーは、独自に進化するロジックを持っています。そのロジックが僕たちの倫理意識を滅ぼしているのですね。あなたはそれに関して最も根源的な思考を展開しているように見えます。よかったらコーヒーでも飲みながら、数時間で結構ですから話して行きませんか」

                           

                           

                          「もちろんいいですよ。是非話しましょう。私はどこにも行きませんから。すべての問題に答えることはできませんが、テクノロジーの進化と教育システムとの関係を議論したいですね」

                           

                           

                           

                          これは私が勝手に想像したものですが、会話に必要なのは、誰と話すか、何を話すかというこの2点です。もちろん世間話もいいものです。時候の挨拶やお互いの無事を確認し合うことも大切です。しかし、私にとって『なぜ世界は存在しないのか』を起点に、問題意識を共有する人との会話ほど楽しいものはありません。

                           

                           

                           

                          誰と話すか、何を話すかという2点に戻りましょう。前回のブログで、外国人に道を尋ねられた時、困らないように「英会話」を勉強することの不毛さについて書きました。こういう発想は英会話産業の儲け主義にまんまと騙されているわけですが、致命的にむなしいのは、「会話の相手」と「中身」が全く想定されていないことです。

                           

                           

                           

                          確率的にほとんどゼロに等しい(いまはスマホの時代です)外国人に道を聞かれた時のことを想定して英会話学習にはげんでも、お金と時間を無駄にするだけだと書いたのは、まさに「会話の相手」と「中身」が全く想定されていないからです。

                           

                           

                           

                          「じゃあ、オレたちが日本語を習得するとき、会話の相手を想定していたとでも言うのかよ。いつの間にか身についていたんだろ。だから英会話を勉強するときだって同じじゃね〜か。なにをグダグダ言ってるんだ!」という意見もあるかもしれません。ネトウヨの影響で、こんな言葉使いになってしまうのをどうかお許しください、なんちゃって。

                           

                           

                           

                          それはともかく、幼児が母語を習得していくメカニズムはいまだに解明されていません。おそらく、DNAの仕業ではなくて、神様からのプレゼントでしょう。私は大学時代ロシア語を勉強しましたが、こんな複雑な言語を習得するロシア人の子供たちはみんな天才だ、と思ったものです。もちろん日本の子供たちも同じです。それほど母語を修得するときは神の恩寵と呼ぶしかない力が働いているのです。

                           

                           

                           

                          「英会話」と母語の習得を同列に論じることなどできません。「ゼロ歳からの英会話」がどれほど荒唐無稽で残酷なものか、人間の神秘的な力に弓を引くものか、分かろうとしない親御さんがいるのは悲しいことですね。第二言語として英語を勉強する時に頼りになるのは、必要性と目的意識、そして自由になる時間です。「神の恩寵」は当てにできません。

                           

                           

                           

                          私は英語がそれほどできるわけではありません。それゆえ、誰と話すか、何を話すかという2点にこだわって、勉強を続けています。話したいと思わない相手と、中身のない会話を交わすことほど疲れることはありませんからね。

                           

                           

                           

                          これまで、この人となら話したいと思う人が何人もいました。今回は英語だけに限って具体的人物を紹介しましょう。もちろん私の個人的な感想であり、好みが反映されていることは言うまでもありません。しかし、こういう人と話してみたい、そのためなら英語の勉強を続けようと思っています。

                           

                           

                           

                          まず一人目は、言語学者のノーム・チョムスキー氏。高齢ですが、世界で最も論文引用数の多い学者・活動家です。演題は「Education For Whom and For What」(誰のための、何のための教育か?)です。

                           

                           

                           

                          二人目は、ノーベル文学賞を受賞する前から、ブログで何度も取り上げていたカズオ・イシグロ氏です。彼の話す「英語が好き」なのではありません。言葉は、話す人物の内面を表出させます。私は彼の実験精神と自由さが好きなのです。長いですが、是非最後までご覧ください。

                           

                           

                          | 英語教育 | 13:29 | comments(0) | - |
                          「英会話」って何?
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                            数日前、用があってパーク・プレイスに行きました。「くまざわ書店」に向かっていると、場内アナウンスで英会話教室の宣伝が流れてきました。な・な・なんと「ゼロ歳からの英会話」と叫んでいるではありませんか。

                             

                             

                             

                            えっ、びっくりするのはお前だけだよ、とおっしゃるのでしょうか。そうかもしれませんね。なるほど、そのアナウンスに衝撃を受け、精神が錯乱して脳波が乱れ、よだれが垂れて二つの眼球が飛び出したりするのは私くらいかもしれません。

                             

                             

                             

                            まわりを見ると、皆さんほとんど聞いていないか、軽〜く聞き流してショッピングを楽しんでいるようでした。でもちょっと考えてみて下さい。「ゼロ歳からの英会話」なんですよ!ゼロ歳と言えば、まだ1歳になっていないんですよ!当たり前ですが・・・。自分の親の顔がやっとわかりかけるころから、「英会話」なんですよ!

                             

                             

                             

                            ゼロ歳から自分の子供に「英会話を習わせよっかな〜」と考えている親御さんにぜひ会ってみたい。いや、マジで。なぜ日本語ではなくて「英会話」なのか、訊いてみたいものです!自分の子供をアメリカ人にでも育てるつもりなのでしょうか?

                             

                             

                             

                            「子供4人全員を東大医学部に合格させた佐藤ママも、4人全員を1歳から苦悶式に通わせたというじゃないの。1歳からじゃもう遅いのよ。ゼロ歳からじゃなくっちゃ、もう無理!」などという返事が帰ってきたらどうしましょう。

                             

                             

                             

                            そんな親の相手をするのは、まともな神経をしている私には、もう無理!です。いっそのこと、ライダーキックでもくらわして逃げようか。いや、四の痔固め(字が違うことくらい分かっていますよ。安倍ちゃんじゃないんだから)のあと、連続技で逆エビ固めを食らわして泡を吹かせ、ギブアップさせてやろうかと想像したくらいです。

                             

                             

                             

                            やれ、東大医学部だ、ハーバードだ(ここはヨットハーバーど!なんちゃって)、ジュリアード音楽院だ、受験は母親が9割なのだ!英語で一流を育てるのだ!バカボンのママなのだ!グローバル社会で落ちこぼれたら悲惨なものよ。一気に貧困層へ転落よ!剛力 彩芽と宇宙にも行けないのよ!どうしてくれるのよ!

                             

                             

                             

                            どうもしませんけど・・・。世の母親たちを焦らせ、競争に駆り立てる「一流」の母親たちと出版社。出版不況の中で一定数の読者を獲得しようと思えば、周囲は皆ライバルだと考え、自分の子供だけは「1%」の「一流」に育てようと妄想する付和雷同型の親をターゲットにするしかないのですね。

                             

                             

                             

                            この種の親たちは、自分の発言や行動が、世の中に差別的な空気を作り出していることに気付いていません。いや、なんとなく気付いているのかも知れませんね。それで「グローバル社会」という中身の全くない言葉を呪文のように唱和して、世の母親たちだけでなく、自分をごまかしているのです。

                             

                             

                             

                            ダグラス・ダミス氏は『イデオロギーとしての英会話』の中で「英会話の世界は人種差別である。雇用方式において人種差別であり、その広告が人種差別であり、テキストブックやクラスに蔓延するイデオロギーにおいて人種差別的」だと言っています。極端な言説でしょうか。

                             

                             

                             

                            作家で詩人の富岡多恵子氏が『英会話私情』(集英社文庫)の中で、「英会話は敗戦によって生まれた日本独特の大衆文化である。従って英会話という言葉があるうちは、まだ戦後である」と喝破していたのを思い出しました。寸鉄人を刺す見事な例です。

                             

                             

                             

                            いえ、何もこれから英会話を学ぼうとしている人を冷やかそうと思っているわけではありません。すぐ「なんだこいつ、上から目線でエラソ〜に言いやがって」などと思っている、そこのあなた。私は誰もが納得する経営学の基本を語ろうとしているだけです。

                             

                             

                             

                            「日本もどんどんグローバル化して、オリパラ(なんのこっちゃ)やラグビーのワールカッ(末尾のdとpは発音しません)もありますよね。それで外国人の方が大勢やって来ていますでしょ。で、いつ道を尋ねられてもいいように、英会話を勉強しようかと思っているのです」とおっしゃる女性に相談を持ちかけられたことがあります。いや〜、なんというお人好しのボランティア精神でしょうか。

                             

                             

                             

                            でもちょっと待って下さい。いったい世界のどこに、道を尋ねられたときのために外国語を学ぶ人がいるというのでしょう。私の狭い経験でも、日本人以外でそんな動機を持っている人に出会ったことがありません。

                             

                             

                             

                            その時のために少なからぬお金を払い、何年も英語を勉強してきたにもかかわらず、道を尋ねられなかったらどうするのでしょう。それに相手の言うことをカンペキに聞き取れても、たまたま尋ねられた場所を知らなかった場合は、いったいどうするのでしょうか。

                             

                             

                             

                            私はこういう人には必ず次のように訊きます。

                             

                             

                            ・あなたはどんな苦労をしてでも英語が使えるようになりたいですか?

                             

                            ・あなたが身につけたい、身につけなければならない英語は、どのようなものですか?

                             

                            ・その英語を手段として、あなたは何をやるつもりですか?

                             

                            ・その英語を身につけるために、毎日どれくらいの時間を使えますか?

                             

                            ・それをいつまでに実現されるつもりですか?

                             

                             

                            以上の質問にできるだけ具体的かつ明確に答えてみて下さい。それによってあなたが必要とする英語学習の量と方法が決まるからです、と言います。

                             

                             

                             

                            「教養を高めるため」とか「英会話を趣味にしたい」とか「ボケ防止のために」などという人には次のように念を押します。「教養を高めたり、趣味にしたり、ボケ防止のためにするのが英語でなくてはダメなのですか?」と。

                             

                             

                             

                            ダイエットを目的とするエクササイズや健康食品の定期購入、アンチエイジングのための化粧品のお試し買いなどと同じノリで英語学習を考えているなら、やめた方がいいとアドバイスします。

                             

                             

                             

                             

                            そして、「なかなか上達しない英語に時間とお金をかけてイライラするくらいなら、映画を観たり、読書をしたり、好きな歌手やグループの追っかけをやったり、スポーツでいい汗を流し、美味しい料理に舌鼓を打つ方が、はるかに有意義な人生を送ることになると思いませんか」と言います。ほとんどの人は「それはそうよね」と珍しく私の考えに賛同してくれます。

                             

                             

                             

                            そもそも英語を習得することによって得られるメリットと、その修得にかかるコストを考えた場合、つまりインヴェスティッド・キャピタル(投下資本)とそこから得られるベネフィット(利益)を計算してコスト・パフォーマンスを考えた場合、コストがメリットを上回ると予想されたら、それには手を出さないのが、資本主義社会における経営学のイロハではないでしょうか。柄にもなくカタカナだらけの説明をしましたが、実は小学生でもやっていることです。

                             

                             

                             

                            私は子供たちに、できることなら生き生きと自分固有の人生を生きてほしいと思っています。英語学習がそのために必要であれば、勉強方法を教えますし、自分の経験を語りたいと思います。

                             

                             

                             

                            しかし、よく考えてみると、べつに英語ができなくても困らない国に私たちは生きているのです。(日本語という)母語だけで人生のほとんどを過ごせる国はそうそうありません。私たちは日本という国の文化的資源の豊かさにもっと感謝すべきなのです。

                             

                             

                             

                            それでもどうしても英語のプロになりたいと考えている人には二つだけアドバイスをしたいと思います。

                             

                             

                             

                            1:涙ぐましいというか、時には痛ましいような努力が、生涯を通じてなされるという、いわば「終わりのない旅」を覚悟しなければならないということ。

                             

                             

                            2:日本人が英語を話せない本当の原因は、すでに述べたように切実な必要性がないからです。言い換えると、目標が明確であればあるほど、目標を達成する可能性は高くなります。学習過程で味わう不安や焦燥感は、目的意識が強ければ強いほど、払拭されるということです。

                             

                             

                             

                             

                            あなたは目標をきちっと設定して、それに情熱を傾け、好奇心を絶えずかきたてて日々英語の学習にまい進する、前向きのマゾヒストになれますか?

                             

                             

                             

                            私は年端も行かない子供たちに、「楽しいね!」「やればできるじゃん!」などという言葉をかけて英語学習を強制することに何のメリットも感じません。彼らの人生の貴重な時間を奪っているだけです。長じて、せいぜい上品な差別主義者になるのが関の山です。そんなことなら、鼻くそをほじくりながら寝ていた方がはるかにましだと断言できます。

                             

                             

                             

                            もちろん、自分で目標をはっきり設定できる高校生くらいになれば、話は別です。一時期、死ぬほど勉強するのも悪くないと思います。でもどうして「英語」なのかなあ。答えは富岡多恵子氏の言葉にあります。

                             

                             

                             

                            この話題は次回に続きますが、以下はアクセス数がとても多い記事です。参考にしていただけると幸いです。

                             

                             

                            『早期英語教育は、子供たちから考える力を奪う。』

                            http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=419

                             

                             

                            | 英語教育 | 16:30 | comments(0) | - |
                            Kさんからの便り。
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                              塾を始めた30代の初め、ある生徒が授業の後、独り言のようにつぶやきました。

                              「誰も分かってくれる人がいない」と。

                               

                               

                              まだ若かった私は答えました。

                               

                               

                              「僕はどうでもいい100人からわかってもらうよりも、心ある一人の人からわかってもらうことのほうが大事だと思う。100人、いや1万人から支持されても、その中に尊敬できる人が一人もいなかったら、これほど虚しいことはないだろう。人間にとって最も大事なことは、多数決で決めることはできないんだからね。僕は僕なりの仕方でしか君のことを理解できないし、それも間違っているかもしれない。でも僕は人生で出会った人が誰であれ、その人にとって心ある一人の理解者でありたいと思う。そうなるように心がけていくつもりだよ。」と。

                               

                               

                               

                              今から思えば赤面するような青臭いセリフですが、しかし、その思いは今も変わっていません。おおぜいから支持される生き方は、どこか胡散臭いのです。逆に、ある人を本当に理解しようとすれば、必ず世間的な常識とぶつかります。つまり孤立を余儀なくされるのです。

                               

                               

                               

                              私たちは偶然この世に産み落とされます。人間の生は極めて不条理なものです。私たちが主体的に選択できるものは限られています。どんなに強い意志や理想があっても、理不尽なことに翻弄される運命を免れないのです。

                               

                               

                               

                              しかし、群れから離れた一人の時間だけが、本当になるべき自分に気づかせ、心から望む生を実現する構想力を生み出します。私は生徒に自分の人生を生きて欲しいと思っています。難関大学に合格するなどということは、瑣末なことです。単なる通過地点や手段を人生の目的と勘違いしてはなりません。

                               

                               

                               

                              今から2ヶ月半ほど前、長野県に住む元教え子のKさんを訪ねました。以下はそのKさんからもらったメールです。懐かしく、うれしい便りです。人生はまだまだ続きます。どうかお元気で。機会があれば、今度はゆっくり信州を旅したいと思っています。

                               

                               

                               

                              ― 先生、昨年は、青木村の拙宅までお越しいただきまして、ありがとうございました。

                              その後、お元気でお過ごしでしょうか。

                               

                               

                              とても嬉しい再会で、お礼のお便りをと思いながら気づけば年を越してしまいました。

                              今頃になってご連絡差し上げる失礼をお許しください。

                               

                               

                              地縁も血縁もない信州で、自分の子ども時代と思春期にお世話になった恩師と再会するというのは、実に不思議な感覚でした。月日の流れなどなかったように、先生も奥様も当時のままで、一気に時間を飛び越えた心持ちになりました。

                               

                               

                              未来塾のホームページとブログを見つけて、ランダムに投稿を読ませていただきました。

                               

                              先生も歌手の浜田真理子さんがお好きで、キース・ジャレットもお好きで、ネトウヨが大嫌いで、大分を離れてもうずいぶん経つのに、相変わらず私は“未来塾チルドレン”なのだと笑いがこみあげてきました。

                              (浜田真理子さんのライブ、ぜひ一度行かれてください! 最高でした)

                               

                               

                              会社を辞め、仕事を一旦手放し(夫婦揃って高給も手放し!)、見知らぬ土地へ軽々しく移住して、その後はずっと手つかずだった真っ暗な天井裏を掃除し続けるような約3年でした。

                               

                               

                              いまだに、「あれ? 私会社がこんなに嫌だったんだ。いや、けっこう楽しい思いもしたんだけどな……そうだったのか」と気づくなど、ずいぶん遅い何かを経験しています。

                               

                               

                              わりと後悔の多い人生で、特に長生きしたいとも思わず生きてきましたが、最近読んだ本の影響で「長生きしたい」と思うようになりました。

                               

                               

                              年を重ねるごとに、世界から感得できるものは増え、センサーの精度も上がっている気がします。

                              まあ、そのうち使い物にならなくなるかもしれませんが。

                              とりあえずは、この世を味わい尽くしたいと今は思っています。

                               

                               

                              その前に、子どもがまだまだ小さいので、そちらを何とかしないといけません。

                              といっても、勝手に育っていくのですが。

                               

                               

                              お会いした時には、長男・泰生の態度をきちんと叱れず、失礼しました。

                              日々の雑事に追われるばかりで、親業も10年近く経つのに肝心のところがちゃんとできないままです。

                               

                               

                              泰生は学校に通わない道を今は選んでいて、結局なんだかんだで学校に行き通した私と夫の知らない景色を見せてくれています。すっかり学校嫌いになってしまった私たちは、下のふたりもできれば学校には通わせたくないのが本音ですが、これまたどうなるのでしょうか。

                               

                               

                              悲しいかな編集者は「人生ネタになってナンボ」の精神が染みついているので、何があっても楽しもうと思っています。

                               

                               

                              次はいつ大分に帰れるかわかりませんが、今度は未来塾に伺えると嬉しいです。

                              「母ちゃんは、ここで人生の礎を築いたのだよ」と子どもに言ってみたいです。

                               

                               

                              次にお目にかかれる時まで、先生のブログをコツコツ読んで、流れた月日の間を埋めていきたいと思います。

                               

                               

                              日は少しずつ長くなってきましたが、まだまだ寒い日が続きます。

                              どうぞくれぐれもご自愛ください。

                               

                              奥様にもどうぞ、くれぐれもよろしくお伝えください。

                               

                              それでは、また。

                               

                              | 身辺雑記 | 12:37 | comments(0) | - |
                              真理とは方向感覚である。
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                                一つの国が滅びるというのはこういうことなのだと、最近つくづく思います。地震や津波、火山の破局噴火、台風などの天変地異によって国が滅ぶこともあるでしょうが、これは私たちの意思の及ばない出来事なのでどうしようもありません。

                                 

                                 

                                 

                                しかし、滅亡を回避しようと思えばできるにもかかわらず、私たちは不作為によってこの国の衰退と滅亡を自ら招き寄せています。南海トラフ地震がスタンバイしているときに、原発を再稼働させ、使用済み核燃料の処分を放置しているのですから。もちろんこれは一例に過ぎません。

                                 

                                 

                                 

                                危機に直面していても、根拠のない安心感をいだくのは、「みんな仲良く」というスローガンを教室の壁に張っただけで、「みんな仲良く」なれると錯覚するような教育のせいかもしれません。

                                 

                                 

                                 

                                その結果、高校生や大学生になっても、いや社会人ですら、「政治的な発言はダサいよね」「世の中を批判するのって、コンビニの店員にクレーム付けてるような感じじゃん」「皆が幸せになれるなんて幻想だよ」「やっぱ、自己責任でしょ」というような、誰に対して発言しているのかわからない、他者意識のない言葉を発するようになったのです。

                                 

                                 

                                 

                                ネトウヨの発言はまさにこれです。しかし、こういった言葉の集積こそが国の土台を切り崩し、存立を危うくしていることに気付かねばなりません。

                                 

                                 

                                 

                                地震や津波の後、国土がかろうじて残ったとしても、原発が暴発し、放射能によって国土が半永久的に汚染されれば(福島で現実に起こっていることです)、この国は終わるのです。豊かな水と大地、季節の巡りとともにあった五穀豊穣を祝う村々の祭りと祈り。それも遠い昔の記憶として風化の運命をたどります。

                                 

                                 

                                 

                                このままでは、日本は、世界の核のゴミ捨て場になるしかありません。それは大げさだ、そんなことはありえないというのであれば、その根拠を示してほしいと思います。私は愚かな政権によって、ロシアンルーレットの実験台にされたくないのです。

                                 

                                 

                                 

                                3年半前に亡くなった鶴見俊輔氏はインタビューの中で次のように語っています。

                                 

                                 

                                「 私にとっては戦後50年よりも戦中の方が重いんですよ。 その戦中のほうが重いという感覚が重大だと思う。 真理は間違いから逆算される。間違いは間違いとして認識する。こういう間違いを自分がした。その記憶は自分の中にはっきりある。

                                 

                                だけどこの間違いの道がこうあって、ゆっくり考えていけば、それがある方向をさしている。それが真理の方向だ。だから真理は方向感覚と考える。その場合、間違いの記憶をぎゅっと持っていることが必要だ。これは消極的能力だ。負けたことは忘れない。戦中の様々な記憶を保ち続ける、それが未来だと思う 」と。

                                 

                                 

                                 

                                今この国で、誰よりも「間違いの記憶をぎゅっと持っている」のが天皇皇后両陛下です。両陛下は私たち国民に代わって、戦争で犠牲になった310万人の魂を慰霊する旅を続けてこられました。両陛下は靖国神社に一度も参拝していません。死者の魂を国家の都合で差別することは、真理の方向が逆だと認識しているからです。

                                 

                                 

                                 

                                1975年、皇太子ご夫妻として初めて沖縄を訪問された時、反対派から火炎瓶を投げられたにもかかわらず、鎮魂の思いは変わらず、周囲に「何度でも沖縄に行きたい」と語り、6月23日の「沖縄慰霊の日」には欠かさず黙禱(もくとう)をささげてきました。退位前に沖縄に足を運びたいというお二人の強い希望により、昨年11回目の訪問が実現しました。両陛下こそが、間違いから逆算して真理に到達しているのです。

                                 

                                 

                                 

                                今この国の支配層は、完全に方向感覚を失っています。歪んだ歴史認識と復古的ナショナリズムに侵されたカルト集団が新自由主義的イデオロギーの洗礼を受けているからです。

                                 

                                 

                                 

                                沖縄に寄り添うと言いながら、辺野古に土砂を投入し、政権の御用放送局・NHKのインタビューでサンゴはあらかじめ移しているなどと平気でウソを言う男は、戦争犠牲者のみならず、被災者や社会的弱者に常に心を寄せてきた天皇皇后両陛下の対極に位置しています。

                                 

                                 

                                 

                                こんな男がこの国のトップにふんぞり返り、国民から一定の支持を得ていることそのものがこの国の劣化です。アベノミクスのおこぼれに預かってはしゃいでいるうちにこの国は確実に滅亡へと近づいています。私はネトウヨのような無知・無思考ではないので具体的な論拠を一つだけ挙げます。

                                 

                                 

                                 

                                経団連の中西宏明会長(日立製作所会長)は、年初のインタビューで、3.11以降、東日本の原発が1基も再稼働していないことを例にあげて「国民が反対するものはつくれない。反対するものをエネルギー業者や日立といったベンダーが無理につくることは民主国家ではない」と語っていました。

                                 

                                 

                                経団連の中西宏明会長

                                 

                                 

                                 

                                 

                                ところが15日、原発の再稼働が進まない状況について、「私はどんどん進めるべきだと思っている。原子力というエネルギーを人類のために使うべきだ」との見解を示し、そのうえで「原子力に関する議論が不足している」と述べ、政界や学界などを巻き込んだ討論会の開催を訴えたのです。そして同日の定例会見では「安全性の議論を尽くした原発も多いが、自治体が同意しないので動かせない。次のステップにどうやって進めるのか。電力会社だけの責任では済まされない」と語ったのです。

                                 

                                 

                                 

                                財界関係者によると「安倍官邸から怒られたのではないか。原発推進は安倍政権の基本政策なのに、『国民が反対するものはつくれない』と異を唱えた。安倍官邸から激怒されておかしくありません。世論調査では反対が多数ですからね。それで慌てて官邸に聞こえるように“原発推進”を叫んだのではないか、とみられています」とのことです。

                                 

                                 

                                 

                                いずれにせよ、政権の中枢にいる人間たちが「方向感覚」を喪失しているのです。福島の原発事故の後、国内で原発を作ることは難しくなったので、国民の税金を担保に海外で売ろうとしました。何という反倫理的な所業でしょうか。それもことごとく頓挫しました。

                                 

                                 

                                 

                                かくなる上は、もう一度国内でと考えているのです。バカにつける薬はないとはこのことです。こういった一連の流れを画策しているのは、坊ちゃん総理ではありません。そんな発想も能力も彼にはありません。

                                 

                                 

                                 

                                では一体誰が暗躍して、この国を滅亡へと導いているのでしょうか。私たちが忘れてはならない中心人物を3人だけ挙げておきます。

                                 

                                 

                                国土交通省出身の和泉洋人首相補佐官。経産省出身の今井尚哉(たかや)首相秘書官。そして元首相秘書官の柳瀬唯夫氏です。この3人は「森友問題」「加計学園」問題に関与している「官邸官僚」です。彼らが「官邸ポリス」と組んで、方向感覚ゼロの坊ちゃん総理の劣情に媚び、国家を私物化し、小さな権力欲を満足させている哀れな人間たちです。

                                 

                                 

                                和泉洋人首相補佐官

                                 

                                 

                                今井尚哉(たかや)首相秘書官

                                 

                                 

                                 

                                元首相秘書官の柳瀬唯夫氏

                                 

                                 

                                 

                                 

                                さて、私たち国民はどうすればいいのでしょうか。簡単です。生き延びたければ、そしてこの国の自然環境を少しでもましな状態で次の世代に手渡したければ、自公政権と維新の会に投票しなければいいのです。でもそれが難しいのですね。そうしないように教育されているので・・・。

                                 

                                 

                                | 文学・哲学・思想 | 12:48 | comments(0) | - |
                                最もアクセス数の多い二つの記事について。
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                                  ブログを書き始めてから4年が経過します。この間、543本の記事を書いてきましたが、アクセス数が突出して多いのが以下の二つの記事です。

                                   

                                   

                                  .「反日」で「左翼」の妻は「極左雑誌」を愛読しています。

                                  http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=281

                                   

                                  .「ビリギャル本」の詐欺性について。

                                  http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=292

                                   

                                   

                                   

                                  特に1は、『通販生活』の記事について書いたものですが、毎日100を超えるアクセスがあります。おそらく、「反日」「左翼」「極左雑誌」をキーワードに検索しているネトウヨに「人気」なのでしょう。その割には全く反論がありませんが・・・。ネトウヨの実態については、次回改めて取り上げる予定です。

                                   

                                   

                                   

                                  その『通販生活』が、また時機を得た本質的で分かりやすい動画を作りました。ぜひご覧下さい。

                                   

                                   

                                   

                                   

                                   

                                  いわゆる戦争法案によって、自衛隊は米軍とともに世界のあらゆる地域で「活動」できるようになったのに、なぜ安倍政権は改憲にこだわる必要があるのかと不思議に思う人もいるでしょう。安倍首相の歪んだ認識と心理はひとまず置いておきます。

                                   

                                   

                                   

                                  その答えは、以前から当ブログで指摘してきたように、緊急事態条項を憲法に書き込むためです。これによって、文字通り安倍政権によるファシズム体制が完成するのです。それを「背後」で(安倍氏のように「せご」などと読む人はいないでしょうね)推し進めているのが、法務省や警察官僚です。

                                   

                                   

                                   

                                  にもかかわらず、大手マスメディアは、現実を正確な言葉で表現し、進行している事態を批判するという最も基本的な責務を放棄しています。「安倍一強体制」ではなく「安倍独裁体制」という言葉を使うべきです。彼らは、歴史的事実を指摘して国民の警戒心を高めるよりも、現体制に与することを選んでいるのです。

                                   

                                   

                                   

                                  例えば、『報道ステーション』は、映画『ボヘミアン・ラプソディー』を「世界中で大ヒットとなっている映画です!」と紹介したにもかかわらず、ブライアン・メイ氏が呼びかけた辺野古埋め立て中止請願署名のことは完全スルーしました。報道番組がバラエティ番組に堕したことの証左です。安倍官邸の意向を損ねるかどうかというフィルターで番組作りをしているのですから、番組のレベルも小学生並みになるわけです。

                                   

                                   

                                   

                                  なぜこんなことを言うかというと、わずか2年前、その『報道ステーション』が素晴らしい特集番組を作っていたからです。タイトルは『独・ワイマール憲法の"教訓" − なぜ独裁がうまれたのか?』です。

                                   

                                   

                                   

                                  これは『報道ステーション』のスタッフが叡智を結集して送り出した過去最高の特集です。放映された当時、私はすぐブログで動画を取り上げたので鮮明に覚えています。しかし、その後まもなく、「著作権者により削除されました」とのことで、観ることができなくなっていました。同じテレビ局でもこれほどまでに変わるものかと驚きます。

                                   

                                   

                                   

                                  今回その動画が復元できたので、再びアップします。削除されないうちにご覧下さい。およそ社会科や歴史の教師でこの特集の意味が理解できない人は、AIによってほどなく職を奪われる運命にあることを自覚しておいた方がよいでしょう。

                                   

                                   

                                   

                                   

                                   

                                  | 文学・哲学・思想 | 15:24 | comments(0) | - |
                                  映画『A GHOST STORY』 − 魂を浄化するために。
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                                    大晦日は、見たい番組がないので、ブログを書いた後、いつものようにお気に入りのCDを聴いて過ごしました。元旦は午前中に家の用事を済ませ、午後からシネマ5に向かいました。A GHOST STORYを観るためです。登場人物は二人だけ。セリフもほとんどありません。製作費は何と1千万円。しかし、印象的な音楽とともに、私には忘れられない映画となりました。

                                     

                                     

                                     

                                     

                                     

                                    帰宅してからも、余韻が尾を引いていました。一つ一つの場面を思い返しながらこの映画のテーマについて考えました。映画のパンフレットには「これは、記憶の旅の物語−」「自分がいなくなった世界で 残された妻を見守る一人の男の切なくも美しい物語」とあります。

                                     

                                     

                                     

                                    しかし、この映画がパンフレット通りであれば、不思議で言葉にならない奇妙な余韻がいつまでも尾を引くことはなかったでしょう。そして、余韻について考えているうちに、この映画はテーマについて考えさせるのではなく、観た人の内面にある変化を引き起こすことが目的だったのだと気づきました。恋愛ものでもなく、エンタテインメントでもない、見方によっては退屈極まりないストーリーかもしれません。

                                     

                                     

                                     

                                    私はブログで時間と記憶こそがその人の人生そのものである、と書きました。コーポラティズムと新自由主義のイデオロギーが、本来独自性を持っているはずの時間を市場世界の絶対時間に服従させ、記憶をすら画一化しているのだと述べてきました。

                                     

                                     

                                     

                                    こういった考えは、様々な建築を見て回るうちに、ある場所に積もっている記憶と時間の本質について、稲妻に打たれるように理解したことが元になっています。

                                     

                                     

                                     

                                    時間とは直線的なベクトルを持ったものではなく、ある場所にミルフィーユのように積み重なっているのだ、それを発見するには考古学的な想像力を必要とする、と書きました。あるいは、時間は時計で測るものではなく、本来、私たちを取り巻いているものの変化として感得するしかないのだ、とも書きました。

                                     

                                     

                                     

                                    この映画の中で、妻を見守るゴーストは、場所に執着します。二人のかけがえのない思い出が宿る場所を、数百年、いや宇宙的ともいえる時間が流れます。そこにゴーストは立ち続けます。そして、宇宙の輪廻=巡り来る時間と記憶に遭遇するのです。

                                     

                                     

                                     

                                    人間の魂は身体の中に閉じ込められていて、他者の魂と一つになることができません。愛という、断崖絶壁に架けられた狭い橋を渡ることによってのみそれが可能になるのだと思います。

                                     

                                     

                                     

                                    人間の魂は個人に帰属しているのではなく、小さな魂が寄り集まって、大きな綿菓子のようなものを創っているのではないか、魂とは本来そういうものだというのが私の考えです。

                                     

                                     

                                     

                                    この映画は、ある場所に執着する魂(愛)を、時間と記憶の長い旅を通過させることで、浄化させ再生させることを試みた稀有な作品だと言えます。愛なんて詩人の夢に過ぎないと考えている幼稚な大人には勧めません。途中で居眠りするだけでしょうから。でも、もしあなたが・・・

                                     

                                     

                                    | 読書・映画 | 15:54 | comments(0) | - |
                                    今年の1冊 − よりよき〈生〉を生きるために。
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                                      人生には自分の意思でどうにかできることと、どうにもできないことがあります。おそらく、どうにもできないことの方が多いような気がします。私の人生は、人や書物との出会いを始めとして、幸運と呼ぶしかない偶然の集積で成り立っていると、今はそう思います。

                                       

                                       

                                       

                                      それでも、私は自分の意思でどうにかできる領域を拡げてきました。それは既存の価値序列との摩擦を引き起こすこともあります。それを避けて、その他大勢の人と同じコースをたどることもできたのかもしれませんが、結局それができなかったのですね。

                                       

                                       

                                       

                                      思うに、人生を人任せにするのではなく、なんとか自分なりに狭き門を通り抜けようとする意思というか、生まれてきた意味や真実がどこかにある筈だという思いが、宗教や政治的カルト集団の思想的基盤を見破り、ニヒリズムに陥ることを防いでくれたのだと思います。

                                       

                                       

                                       

                                      幸運な偶然を引き寄せたのは、既存の価値序列すなわち匿名のシステムの中に自分の足場を作ろうとしなかったからではないかと、今になって思います。

                                       

                                       

                                       

                                      前置きが長くなりました。今年の1冊を紹介します。家系や人脈を利用して既存の価値序列の階段を駆け上がり、国民を見下し(「国民」は理想的な審判者として存在しています。疑う人は天皇陛下を見よ!)、公文書を偽造し、国家を私物化して、あげくの果てにアメリカが日本に対して好意を持っているはずだという幻想にしがみつく。これほど幼稚で愚かな人間はかつていませんでした。

                                       

                                       

                                       

                                      そんな人間が、なぜ、どのようにして登場してきたのか、彼らに反撃するにはどうすればいいのか。それをを知りたい人には、以下の本がヒントになると思います。

                                       

                                       

                                       

                                       

                                      ナオミ・クレインの『NO IS NOT ENOUGH』です。右の本は、以前紹介した世界的ベストセラー『チャヴ』の著者であるオーウェン・ジョーンズの新著『エスタブリッシュメント』です。彼はナオミ・クレインの本を「An essential blueprint for a worldwide counterattack」と評しています。私の尊敬するノーム・チョムスキーは、この本を「Urgent, timely and necessary」と言っています。高校生はペンギンブック版で読んでみましょう。

                                       

                                       

                                      それでは、良いお年をお迎え下さい。来年が皆さんにとってよい年でありますように!

                                       

                                       

                                      | 中高生の皆さんへ | 13:26 | comments(0) | - |
                                      うれしい便りをいただきました。
                                      0

                                        12月22日の記事「助け人」を読んだ方から、思いがけずうれしいお便りをいただきました。

                                         

                                         

                                         

                                        「はじめまして、私、大阪在住の53才、小学6年生の女児の父親です。私の能力では読み砕けない記事も多々ありますが考えさせられることしばしばです。

                                        以前、奈良・大和小泉の慈光院がお好きであるとの記事を見て、その時にもコメントを送りたかったのですが、勇気が出ず…()
                                        でも、どうしてもお薦めのCDを聴いていただきたくて。

                                        The melody at night with You
                                        キース・ジャレット

                                        です。
                                        できましたら一度聴いてみて下さい。
                                        もし御存知でしたら申し訳ありません()

                                        突然のコメントお許しください。」

                                         

                                         

                                         

                                        ありがとうございます。偶然ですが、私もキース・ジャレットの音楽は大好きです。15年ほど前になりますが、妻と八ヶ岳の山麓をドライブしていて、休憩のために小さなカフェに立ち寄りました。老夫婦が二人だけでやっているカフェでした。お二人の趣味と洗練された美意識が感じられて、本当に居心地のいい空間でした。生活に対する考え方の確かさというか、ゆったりとした時間とともにある日々の生活の中から徐々に立ち現われてきたものが空間に落ち着きと安らぎを与えていたのです。時々思い出しては、あの夫婦はどうしているだろうかと、妻と話しています。

                                         

                                         

                                         

                                        そこで流れていたのが、キース・ジャレットの曲でした。ご主人に尋ねたところ、それが「The melody at night with You」でした。帰宅して早速注文し、以来暇さえあれば聴いていたので、妻に呆れられたほどです。その後出会った『ケルン・コンサート』は生涯の伴侶となりました。わが家を訪問した人から、誰の曲?と尋ねられることも一度や二度ではありません。これからも、素敵な曲があればぜひご紹介下さい。

                                         

                                         

                                        キース・ジャレットThe Melody At Night With You」と「THE KOLN CONCERT(ケルン・コンサート)」。もう一枚 「PARIS / LONDON Testament」も玄人好みのいい曲ですね。

                                         

                                         

                                         

                                         

                                         

                                        ところで、奈良・大和小泉の慈光院は二度訪れています。建築的な小難しいことは抜きにして、何度訪れてもいい場所ですね。そのヒューマンスケールというか、プロポーションが素晴らしい。私の中では、京都の詩仙堂、大徳寺高桐院と並んで忘れがたい建築です。京都・奈良は学生時代に住んでいたのですが、見落としている場所がまだまだあると思います。いい場所がありましたら、ぜひご紹介下さい。

                                         

                                         

                                        慈光院へと続くアプローチ。慈光院庭園。

                                         

                                         

                                         

                                         

                                        今年も残すところ少なくなりました。どうかお元気で新年を迎えられますように!それではまた。

                                         

                                         

                                        | 音楽 | 18:48 | comments(0) | - |
                                        冬期講習が始まりました。
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                                          たまには塾のことも書いてみましょう。中学3年生は入試まで80日を切りました。でも全くあわてる必要はありません。焦って試験に出そうなところをあれもこれもと無秩序に頭に詰め込むと、逆に思考力を弱めてしまいます。記憶すべき知識は、一日の勉強の始めと終わりに時間を決めて集中的に取り組めばいいのです。

                                           

                                           

                                           

                                          冬期講習会の授業では最初に数学の問題をやります。黒板に一問だけ問題を書いておきます。複雑な計算を要する問題ではなく、答えを出すまでの思考のプロセスを発見させる問題です。

                                           

                                           

                                           

                                          まず問題をじっくり読む。これがおろそかになっている生徒が多いのです。つまり、与えられている数値情報がどこで必要になるのか考える前に計算を始めるのです。私はよく次のように言います。

                                           

                                           

                                           

                                          「問題を見ると、鉛筆を持ってすぐに計算を始める人がいますが、それはやめて下さい。覚えている解き方をあてはめて、適当に計算して答えを出す。間違っていれば、またゼロからやり直し。記憶に頼って、ああでもない、こうでもないと計算しているうちに正解したとしても、それは偶然答えが合っただけだと分かっているはずです。つまりそういったアプローチは自信につながらないのです。鉛筆を持って計算する前に解答への道筋を発見することの方が大事です。黒板の問題を解くのに複雑な計算はいりません。暗算でできるのです。でも思考のプロセスを発見できない人は、1時間かけてもできないでしょう。制限時間は15分です。答えが分かった人は手を挙げて下さい。」

                                           

                                           

                                           

                                          こういう指示を出すと、生徒は筆記用具を使わずにじっと問題を見つめます。しばらくすると、パッと顔が明るくなる生徒がいます。思考の転換点というかポイントに気がついたのですね。逆説的に聞こえますが、限られた時間内で問題を解くためには、普段からじっくりと問題に取り組んでいなければならないのです。

                                           

                                           

                                           

                                          「この考えでは解けない、行き詰る。他の方法を探さなければならない。しかし、問題を解くための情報量があまりにも少ない。補助線を引けばいいのかな、でもどこに?線分の長さを求める問題なのに三平方の定理も相似比も使えない。そうか!補助線を引いて面積比を使えばできそうだ!というのが実力=自信をつけるための思考錯誤です。鉛筆を持つのはその発想が有効かどうかを確かめるためです。くれぐれも、この逆をやらないように。」

                                           

                                           

                                           

                                          「ストップウオッチやキッチンタイマーを使って、ハイ始め!ハイ終わり!などと大声で叫ぶのは、思考の楽しさとは無縁なのです。塾の教師は君たちをドッグレースに駆り立てるためにいるのではありません。これまでの経験から、思考の楽しさを最後まで手放さなかった人は高校であれ大学であれ、確実に合格しています。考えていれば時間が経つのを忘れます。思わず集中してしまうからです。そうなれば、変なミスもしません。根拠のない情報に一喜一憂することもありません。この時期になって他人が使っている問題集や塾の情報に振り回される人は、自分で不合格を招き寄せているようなものです。」

                                           

                                           

                                           

                                          導入に数学の問題を1問やった後、英語の勉強に入ります。以下の問題がスラスラ解ければ、どこの高校でも合格します。出題傾向と「長文読解」に慣れるために過去問をひたすらつぶしている塾もあるようですが、実に馬鹿げています。高校入試に「長文」などありません。塾の教師が「長文読解」などと言うので、生徒もそう思い込んでしまうのです。

                                           

                                           

                                           

                                          「君たちはこれを長文だと思っているの?数十ページあるならともかく、因果関係が怪しい短文の寄せ集めじゃないか。もし君たちに英語の基礎力がついていれば、この英作文の問題などスラスラ解けるはずです。」と言ってプリントを配ります。

                                           

                                           

                                           

                                          冬期講習の一日目にやった問題は以下の通りです。皆さんもぜひチャレンジしてみて下さい。

                                           

                                           

                                          問:以下の日本語を英語にしなさい。

                                           

                                           

                                          1:カッコいいジーンズだね。いつどこで買ったのか教えてよ。僕もそれがほしいから。

                                           

                                          2:高校生の時、修学旅行でオーストラリアに行ったことがあるよ。

                                           

                                          3:外国人なのに、いつから日本の歴史に興味を持つようになったのですか?

                                           

                                          4:私は子どもの頃、3年間ほどシアトルに住んでいたことがあるわ。

                                           

                                          5:オレがさあ、今いくらお金を持っていると思う?

                                           

                                          6:あのガイドさんが、そのお寺がいつ誰によって建てられたのか僕たちに説明してくれたんだよ。

                                           

                                          7:先週からずっと体調がよくないので、君とゲームする時間がないよ。

                                           

                                          8:その問題を見た時、どうやって解いたらいいか全く分からなかったね。

                                           

                                          9:君ができると思えばどんなことだってできるさ。

                                           

                                          10:このお店は何時まで開いているんですか?

                                           

                                          11:映画が始まるまであとどのくらいありますか?

                                           

                                          12:この自転車を買ったら、消費税(consumption tax)はいくら払わなければならないんですか?

                                           

                                          13:高校生だった頃、よくこのあたりで彼女とデートしていたものさ。

                                           

                                          14:まずあなたがしなければならないことは、高校入試に合格するために最善を尽くすことです。

                                           

                                          15:お前さあ、誰に口きいてると思ってるんだよ?

                                           

                                          16:お前さあ、自分を何様だと思ってるの?

                                           

                                          17:げっ、おれたちの教室の窓が割れてるぜ。

                                           

                                          18:母さん、弟のやつまたおねしょしてるよ。

                                           

                                          19:彼女が本当に言いたかったことはなんだろう?

                                           

                                          20:バスは何分おきに来るかご存知ですか?

                                           

                                           

                                           

                                          中学時代にまともに勉強していれば、英会話学校などいらないということがお分かりでしょう。2や4の問題で現在完了を使う人は、まだまだ実力不足です。とてもいい問題ですから、プリントアウトして塾や学校の先生といっしょにやってみてはどうでしょうか。

                                           

                                          | 中高生の皆さんへ | 22:22 | comments(0) | - |
                                          「助け人」
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                                            今年は私にとって忘れられない年になりそうです。4月には義父が95年の生涯を閉じました。そして、2年前に脳梗塞で倒れた義母の命が今まさに、燃え尽きる寸前の蠟燭のように、消えようとしています。

                                             

                                             

                                             

                                            この2年余り、毎週1〜2回は佐伯の病院に義理の父母を見舞ってきました。義父が亡くなってからは、日曜日ごとに義母を見舞っています。今日は土曜日ですが、義母の容態がよくないということで、午前中の授業を済ませ、午後から妻と佐伯の介護施設に向かいました。

                                             

                                             

                                             

                                            義母はただ眠っているだけで、呼びかけても反応しなくなりました。日によっては目で合図するときもありましたが、日々反応がなくなっていくのが分かります。過酷な労働から解放されてきれいになった手はやせ細り、骨だけになっています。

                                             

                                             

                                             

                                            「今日は、もう少し付き添うから・・・。あなたは仕事があるから先に帰って」と言い、妻は病室へ戻って行きました。義父の死を看取ったのも妻でした。帰途、車の中で義母の存在が私にとっていかに大きなものであったか、しみじみと思い出し、いい歳をして涙滂沱となってしまいました。

                                             

                                             

                                             

                                            「助け人」という言葉がありますが、義母はまさに「助け人」そのものでした。家族や親戚はもとより、地域の人だけでなく、見も知らぬ貧しい人にも手を差し伸べました。戦後の貧しい時代を生き抜き、家の仕事(真珠の養殖・加工・販売、漁業・林業など、要するに一次産業の生産労働に従事し、牛馬のごとく働く人生でした。これは筆舌に尽くしがたいほど大変だったのです。)をしながら、5人の子供を育てました。自分の時間などあるはずもなく、文字通り朝から晩まで働き、夜なべをして子どもたちの服を縫っていたのです。

                                             

                                             

                                             

                                            貧しさに負けまいと、人々が一つ屋根の下に肩を寄せ合って生きていた時代です。それでも、子どもたちは明るく奔放で、親の目の届かないところで遊びに興じていました。

                                             

                                             

                                             

                                            夕刻になると、三々五々、家々から大人や子どもが出て来て、道端で世間話をしたり、水を撒いたり、遊んだりしていました。その何とも言えない、やわらかで優しいひとときが好きでした。

                                             

                                             

                                             

                                            今思えば、大人が子どもたちを何よりも大事にし、優しいまなざしを向けていた時代でした。私の母はよく、「銀(しろがね)も金(くがね)も玉も何せむにまされる宝子にしかめやも(子ども以上に大事な宝物はない)」という「万葉集」にある山上憶良の歌を口ずさんでいました。

                                             

                                             

                                             

                                            そんなことを思い出しながら家に帰り着くと、アマゾンから荷物が届いていました。注文していたCDでした。何というタイミングでしょう。それから1時間ほど音楽に耳を傾け、義母の人生を思い返していたのです。それが以下のCDです。

                                             

                                             

                                            ヨーヨー・マのバッハ『無伴奏チェロ組曲(全曲)』。20代で一度、40代にさしかかった頃に一度、そして60代の今回、三度目の録音です。素晴らしい。それにしても音楽とは不思議なものです。今回の演奏が一番自由で深みがあります。ワインの熟成に年月が必要なように、ヨーヨー・マの演奏にも積み重なった時間を感じます。おすすめです。

                                             

                                             

                                             

                                            私にとって、音楽と建築と文学は生きる上での「助け人」です。久しぶりに今年の大晦日はこのCDを聴いて過ごしたいと思います。

                                             

                                            | 人生 | 22:41 | comments(0) | - |
                                            大晦日におすすめのCD
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                                              早いもので今年も残すところ2週間となりました。最近は西郷どんではありませんが「もうここらでよか」という内心の声がどこからともなく聞こえてきます。何が「もうここらでよか」なのか、はっきり分かっているわけではありません。それをあえて追求しないようにしています。

                                               

                                               

                                              余談ですが、西郷隆盛の最期は、史実によると介錯されるのですが、NHKはそこを変えています。そればかりか来年の大河ドラマ「いだてん」は東京オリンピックがテーマだそうです。二度目の東京オリンピックを成功させようという政治的なキャンペーンですね。さすがに「皆さまのNHK」です。受信料返せ!と言いたいところですが、そもそも払ってないので言えません。

                                               

                                               

                                               

                                              ところで、毎年大晦日に決まって聴く曲があります。それが以下のCDです。

                                               

                                              フランク・ペーター・ツィンマーマンとエンリコ・パーチェの『バッハ:ヴァイオリン・ソナタ全曲(SONY)』です。

                                               

                                               

                                               

                                               

                                              もう11年聴き続けています。たまには他の曲をと思うのですが、知識不足のためにふさわしい曲が思い浮かびません。

                                               

                                               

                                              今から15年前になりますが、八ヶ岳の南麓に広がる清里高原を車で回り、清泉寮に立ち寄って(ちょうど秋の収穫祭の時期でした)地ビールを買い込み、予約していたロッジ風のホテルに泊まりました。

                                               

                                               

                                               

                                               

                                              夕食後、ピアノの生演奏があるということで、レストランを出て別棟の演奏会場へと向かいました。そこは小さなホールになっていて、ピアノが一台置かれていました。聴衆は20人ほどでした。きれいな白いドレスで正装した若い女性のピアニストが出て来て、椅子に座りました。大きく深呼吸して譜面を見つめ、弾き始めました。曲が終わる度に立ち上がり、こちらを向いてお辞儀します。曲と同じくその所作が初々しく、妻と顔を見合わせて微笑みました。

                                               

                                               

                                              その時彼女が弾いていたのが、バッハのパルティータ第6番ホ短調とシューベルトのピアノ・ソナタ第17番ニ長調でした。そういうわけで、この曲を聞くたびに、初秋の清里高原の空気と駆け出しの女性ピアニストの初々しい表情が目に浮かぶのです。

                                               

                                               

                                              音楽と記憶は分かちがたく結びついているので、何かの拍子にある曲を聴くと、それを聴いた場所や季節や時間、一緒にいた人の声や表情を鮮やかに思い出します。

                                               

                                               

                                              これからの私の楽しみは、昔読んで影響された本をゆっくり再読することです。一度訪ねた場所を再訪するのも新しい発見があっていいものです。

                                               

                                               

                                              話は戻りますが、ツィンマーマンは、ピアノのルービンシュタイン、リヒテルの演奏に対する姿勢に魅せられたと言います。

                                               

                                               

                                              「ルービンシュタインは45歳から練習方法を変えて90歳で引退するまで精力的な活動を続けましたし、リヒテルは65歳でハンマークラヴィーアをようやく演奏できるようになったと語っています。私もゆっくり成長し、息の長い活動をしたい。ここ10年でイントネーションがだいぶ変わり、譜面の読み方も深くなったと感じていますから」

                                               

                                               

                                              「もうここらでよか」などと気取っている私は、まだ鼻たれ小僧なのかもしれませんね。

                                               

                                              | 音楽 | 14:00 | comments(0) | - |
                                              順天堂大学よ、「ごまかすな。それはただの性差別だ!」
                                              0

                                                「コミュ力高い」に抗議の沈黙デモ。医学生らが順大前で。

                                                 

                                                 

                                                 

                                                 

                                                あなたは医師を志し、懸命に勉強しています。そして、親や友人に励まされ、挫けそうになる心と闘いながら入試の日を迎えます。結果は不合格。理由はあなたが「コミュ力高い女子だから」と言われたらどうでしょう。

                                                 

                                                 

                                                 

                                                10日、順天堂大で開かれた記者会見で、新井一学長と代田浩之医学部長は女子受験生を不利に扱った理由を語りました。

                                                 

                                                 

                                                いわく「女子の方がコミュニケーション能力が高く、男子を救う必要がある」「18歳の時は女性が高くても、20歳で一緒なら、数年後に高くなる男子学生を救うため」「客観的データに基づいており、差異を補正するものと考えていた」。(朝日新聞デジタル)

                                                 

                                                 

                                                 

                                                要は、男子の受験者は「コミュ力」が低いので不利になる、だから女子の合格ラインを高く設定して、男子に下駄を履かせたというのです。

                                                 

                                                 

                                                 

                                                はあ〜?(最近こればっかりです。)もうめちゃくちゃです。そもそも、判断する人間の主観でどうとでも受け取れる「コミュ力」なるものが、客観的で公正であるべき合否の判断基準になると考える時点で、新井一学長と代田浩之医学部長の頭がピーマンだと分かります。

                                                 

                                                 

                                                 

                                                もっとも、この合否の判断基準を曖昧化することこそが彼らの目的なのですが。曖昧化こそが「大学経営に資する」(自分たちのふところが潤う)というわけです。

                                                 

                                                 

                                                 

                                                しかも取ってつけたように「客観的データに基づいており、差異を補正するものと考えていた」などと、屁理屈を並べます。「差異を補正する」って、要は男子に下駄をはかせるってことですよね。バカであればある程、真実を隠蔽するために小難しい言い回しを使うのです。

                                                 

                                                 

                                                 

                                                この国の大学の劣化はとどまるところを知らない、回復は絶望的に不可能だ、と何度もブログに書いてきました。大学入試の合否が受験者本人の能力ではなく「コミュ力」や性別によって決まっていたのですから、私の言うこともあながち大げさではなかったということです。これこそが「日本版」AO入試の内実です。そして、安倍首相のお友達が総長を務める早稲田大学が先頭に立ってこれを推し進めようとしているのです。

                                                 

                                                 

                                                 

                                                行政の私物化、司法の私物化、税金の私物化つまり国家の私物化を合法化するには、民営化するに限る、というわけです。今に始まったことではありませんが、今回の私立大学の医学部入試の不正操作こそが、民営化の本当の目的を可視化してみせたのです。

                                                 

                                                 

                                                 

                                                私は塾の教師をしているので、受験生の悔しさがわかります。将来を託すべき若者に、こんな理不尽な思いをさせている責任は大人にあるのです。上と横ばかり見て、安倍政権と同一化することで私腹を肥やそうとする大人に。

                                                 

                                                 

                                                 

                                                若者は異議を唱えなければなりません。画像の女子大生のように。「ごまかすな。それはただの性差別だ!」「下駄を脱がせろ!」と叫ぶのです。政治的な意思表明は、あなたが人間として生きるために必要なことです。

                                                 

                                                 

                                                 

                                                | 中高生の皆さんへ | 13:07 | comments(0) | - |
                                                私立大学の医学部は錬金術師たちの巣窟である。
                                                0

                                                  そもそも経済的にゆとりのある家庭でなければ、私立大学の医学部を志望することはできません。ましてや受験など論外です。多くの人が知っているので話題にもなりませんが、私立大学の歯学部も同じです。

                                                   

                                                   

                                                   

                                                  ブログで何度も言及してきましたが、日本の私立大学はもはや大学ではありません。学生とその保護者を ATM と勘違いした錬金術師たちの巣窟と化しています。そこに政財界の「大物」が絡んで、本来なら民主主義的手続きによって決めるべき学長選挙を牛耳っているのです。

                                                   

                                                   

                                                   

                                                  むろん国立大学も、文科省を通じて政財界の軍門に下っています。国の言うことを聞かなければ、蛇口を締めてカネの流れを止めるぞ、と脅迫されて素直に従っているのですから。「役に立たない」文系学部を廃止する方針を打ち出したりするのもその流れです。

                                                   

                                                   

                                                   

                                                  要するに、彼らは学問を「生産性」と「錬金術」の観点からしか見ていないのです。「生産性」とは財界の意向に沿うということであり、「錬金術」とは天下り先を確保することです。それを隠蔽するために屁理屈にすらなっていない屁理屈をこねます。

                                                   

                                                   

                                                   

                                                  13日付けの朝日新聞朝刊によると、日本大学の医学部は、一般入試で繰り上げ合格者を決める際、医学部卒業生の子供計18人を優先して合格させていたとのことです。文科省から「不適切だ」と指摘されたことに、高山忠利医学部長は「入学意識が高く、大学の維持発展に資する可能性が高いためだった」と説明しています。しかもそれは「私立大学の裁量の範囲内だ」と言うのです。

                                                   

                                                   

                                                   

                                                  「はあ〜、マジかよ?」という言葉がぴったりですね。「裁量の範囲内だ」という言葉は便利です。要は「入学者の選別は自分達が自由に決めていいのだ」と言っているのです。思えば、フェイクサイトを立ち上げて「許容範囲だ」と自分で勝手に判断していた大分市田尻にある学習空間LのK塾長は時代の先端を走っていたのですね。

                                                   

                                                   

                                                   

                                                  ところで、「入学意識が高い」とは、どういう意味でしょうか。「学習意欲が高い」という言葉なら聞いたことがあるのですが・・・。具体的に言い換えてみましょう。

                                                   

                                                   

                                                   

                                                  「パパがいつも言ってるように、ガツガツ勉強するのは貧乏人のやることでしょ。そんな勉強はまっぴらだよ。勉強は合格してからするから、なんとか医学部に合格させてよ〜。友達はみんな親の力とか金で合格してるよ。安倍首相も真っ赤なスポーツカーに乗って成蹊大学に通っていたというじゃない。とにかく合格したいんだよ!」というようなバカ息子を、日本大学の医学部は、「入学意識が高」いと言うのでしょうね。全国津々浦々でネトウヨ医師が跳梁跋扈しているのもうなずけます。

                                                   

                                                   

                                                   

                                                  さらに「大学の維持発展に資する可能性が高い」とは、寄付金のみならず、国家試験にかこつけた特別講座や進級に際してたっぷり金を払ってくれそうだからという意味でしょう。要するに、いいカネづるになるということです。

                                                   

                                                   

                                                  また同じ日、「文部科学省から、入試で性別や年齢によって差をつけていることが疑われる」と指摘された聖マリアンナ医科大は「属性による一律評価は行わず、受験生を個々に総合評価している」と反論し、問題はないとしています。

                                                   

                                                   

                                                   

                                                  「属性による一律評価は行わず」とは「医師になる最低限の能力が備わっているかどうかを、公平な入学試験で判断しない」という意味でしょう。「公平なテスト」を「一律」という言葉を使って欠陥があるように見せかけ「個々に総合評価している」と言うのです。

                                                   

                                                   

                                                   

                                                  「個々に総合評価している」とは、密室での談合を意味します。「一人一人の人脈・金脈を考慮して、自分たちに利益をもたらしてくれそうな受験生(の保護者)をピックアップして合否を決める」と言っているのです。ものは言いようですね。

                                                   

                                                   

                                                   

                                                  私はこういう事実を聞いても驚きません。ブログで何度も指摘してきました。例えば2年以上前に書いた以下の記事をご覧下さい。

                                                   

                                                   

                                                  「早稲田大学のAO・推薦入試について」

                                                  http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=136

                                                   

                                                  「民主主義は大学の門前で立ちすくむ。−慶応大学の学長選挙について。」

                                                  http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=427

                                                   

                                                   

                                                   

                                                  当の早稲田大学は、「属性による一律評価は行わず」、ひたすら推薦入試枠の拡大へと舵を切っています。その一方で、入試では「論理的思考力を試す」と言っているのですから、これほどの茶番もありません。

                                                   

                                                   

                                                   

                                                  前にも書いたように、国民国家が空洞化し、アメリカ資本と一部の大企業が支配するコーポラティズムが国家の中心に居座っているのですから、当然の帰結です。この国は、大学も高校も義務教育すら株式会社化・民営化に向けてまっしぐらに突き進んでいます。その象徴が、山本太郎が言うように、利益相反行為を屁とも思わない竹中平蔵であり安倍晋三なのです。

                                                   

                                                   

                                                   

                                                  ブログで書いてきたことがことごとく現実化しています。もはや手遅れでしょうが、この国を愛する者として、無抵抗で座視するわけにはいきません。来るべき経済恐慌と大地震、それに続く原発事故に備えようと思います。

                                                   

                                                   

                                                  | 文学・哲学・思想 | 09:11 | comments(0) | - |
                                                  浜田真理子という「歌い手」
                                                  0

                                                    音楽には不案内なので、そもそも歌手になるためには、どういう活動をするのか知りません。

                                                     

                                                     

                                                    ・オーディションを受ける
                                                    ・ライブに出演する
                                                    ・ネット上に歌を公開する
                                                    ・音楽事務所にデモテープを送る

                                                     

                                                     

                                                    というくらいのことしか思いつきません。もちろん、甘っちょろい考えではプロの歌手になれないのは誰でもわかっています。だから、歌手は特殊な職業として認知されています。プロの歌手を目指して猛特訓に耐え、不遇の時代を乗りこえてメジャーデビューを果たすといったような。

                                                     

                                                     

                                                     

                                                    でも、職業としての歌手を目指すのではなく、その人の生き方・感受性が否応なく歌うことを必要としていて、気付けば運命に導かれるようにして歌を歌っていたということもあるのではないでしょうか。だからそういう人を、僕は「歌い手」と呼んでいます。そんなことどっちだっていいだろう、同じじゃないかと思う人も多いでしょう。でも僕にとってはかなりというか、決定的に違うのです。

                                                     

                                                     

                                                     

                                                    優劣を比較しているのではありません。僕の好みを話しているのです。これまでの経験から、どういうわけか、「歌い手」の歌に共感するからです。「歌い手」は聴衆に迎合しません。商業主義に毒された流行を追いかけません。万葉の歌人たちが歌を詠んだように、感情や思想が歌という表現形式をとってあふれ出るまで待っているのです。僕たちは、時を置いて、深化し更新された歌に再会するだけです。

                                                     

                                                     

                                                     

                                                    2002年、そういう歌い手の一人、浜田真理子に出会いました。当時、彼女のライブを収録したCD、『月の記憶』をよく聴きました。昨年は久しぶりのアルバム『タウン・ガール・ブルー』で眠れない夜をやり過ごしていたのです。

                                                     

                                                     

                                                     

                                                    僕が持っている浜田真理子のCDはこれですべてです。一番右が一番新しい『タウン・ガール・ブルー』です。昭和の懐かしい風情が漂っています。スタジオ収録よりもライブが圧倒的にいいですね。彼女は松江を中心に活動しているので、いつか生の演奏を聴きに行きたいものです。

                                                     

                                                     

                                                     

                                                     

                                                     

                                                    彼女が弾くピアノの音は、一つ一つが砕かれた氷のように透明で明晰です。そのピアノにあわせて歌う声は、正直で自然かつ素朴です。僕は音楽には、いい音といい声があると単純に信じているだけです。だからそれに出会った時は救われた気持ちになります。これ以上余計なコメントはいりませんね。もしよかったら、深夜、一人で聴いてみて下さい。

                                                     

                                                     

                                                     

                                                     

                                                     

                                                    | 音楽 | 11:51 | comments(0) | - |
                                                    今年の1枚(CD)
                                                    0

                                                      融通無碍というか、懐が深いというか、ジャズはいろいろな楽器のコラボを可能にしますね。というわけで、今年の1枚は以下のCDです。リラックスして全身をゆだねることができる稀有な作品です。

                                                       

                                                      ガンガバ=パリ

                                                       

                                                       

                                                       

                                                      演奏しているのはこの二人です。左がジャン・フィリップ・リキエル、右がランシネ・クヤテです。輸入版CDなので届くのにアマゾンで約1ヵ月かかりました。

                                                       

                                                       

                                                       

                                                      ジャン・フィリップ・リキエルはデザイナーのソニア・リキエルの息子さんです。1961年フランス生まれ。先天的に視力がなく、視覚記憶のない作曲家、編曲家、音楽家、キーボード奏者です。幼少より神童として音楽の才能を開花させますが、障害児であることをいたずらに取りざたされることを避けるため、デビューは1970年代後半まで保留とされたそうです。

                                                       

                                                       

                                                      ランシネ・クヤテは1968年、西アフリカのマリでグリオーの家系に生まれ、著名な女流吟遊詩人シラモリ・ジャバテを母に持ちます。バラフォン(西アフリカの木琴)演奏を父ナンコマン・クヤテから学びます。ちなみにグリオーとは、西アフリカの世襲制の伝統伝達者のことで、それぞれの家系により取り扱う楽器が限定されており、それぞれの演奏技法を肉親より受け継ぐ形をとっています。グリオーの存在は神聖化されており、一般の人は楽器に触れることが許されていないそうです。

                                                       

                                                       

                                                      内容紹介は以下の通りです。

                                                       

                                                      盲目のキーボーディスト/ピアニスト、ジャン = ピエール・リキエルとバラフォン演奏の継承者ランシネ・クヤテ。その長年に渡る音楽共同制作と友情の日々の中で生まれたのが本作品である。電子楽器を多用せず、余分なものを極限までそぎ落とし、リラックスした中でハーモニーを重ねていった結果、この美しいデュオが誕生した。民俗音楽とジャズが持つ異なる二つの特性、そしてピアノとバラフォンという構造も音色も異なる二つの打楽器が、時に奇跡のような同一性を持ちながら、煌びやかなハーモニーを奏でる。快活で刺激的な相互作用と、たおやかで温かい調和を一度に味わえる奇跡の一枚。

                                                       

                                                       

                                                      | 今年の1枚 | 11:46 | comments(0) | - |
                                                      高校生に読んでほしい1冊の本 − 受験英語の向こう側へ。
                                                      0

                                                         

                                                        高校生の皆さんこんにちは。私たちが英語を学ぶ目的は何でしょうか。旅行や買い物のため?それとも契約書や製品の仕様書を読むためでしょうか?あるいは外国人に道を尋ねられた時、自信を持って答えるためでしょうか?

                                                         

                                                         

                                                         

                                                        僕は外国人に道を尋ねられたことはありません。かりに尋ねられたとして、道順や目的地を知っている確率はどのくらいでしょうか。今はスマホで調べれば簡単にわかる時代です。グーグルの翻訳機能を使えば、数十ヵ国の言語に翻訳できます。実用的な英語はAIに取って代わられるのです。実用英語のフォーマットはビッグデータに無数と言っていいくらい蓄積されているのですから。

                                                         

                                                         

                                                         

                                                        英語を学ぶ目的は、母語的な枠組みを抜け出して、未知のもの、新しいものに出会うことです。当然とされているものの見方に揺さぶりをかけるためです。それは英米の文化を深く学ぶことによってのみ可能となります。

                                                         

                                                         

                                                         

                                                        今回は高校生の時に読んでほしい本(小説)を紹介します。高校生の時でなければダメなのか、小説なんていつ読んでもいいではないかと思う人もいるでしょうね。

                                                         

                                                         

                                                         

                                                        そもそも今の高校生は、小説はおろか本も読まないと言われています。でも、中には、小説や詩を読むことで、自分の感受性が世界の感受性とつながっていることを発見する人もいるでしょう。自分の感受性の変化が世界の変化につながる、そこに希望がある、と考えるのです。

                                                         

                                                         

                                                         

                                                        自分の経験を振り返ってみると、小説から深く影響されるには、それを読む年代やタイミングがあるように思います。深く影響されるとは、現実と拮抗する世界を自分の内部に築くということです。つまり、その世界を基準にして逆に現実を見るということです。

                                                         

                                                         

                                                         

                                                         

                                                        現実を絶対視し、それに屈服し、その中でよろしくやることだけを考えるようになってからでは遅いのです。僕は比較的早い時期に大人世界のイカサマ性というか鈍感さ、権力的な体質を嗅ぎ取ることができました。

                                                         

                                                         

                                                         

                                                        以来、大人のやっていることに、いちいちムカついていました。頭ではバカげていると分かっていたのですが、受け入れようとすると身体が拒否反応を示すのです。そして自分もあんな大人になっていくのかもしれない。それは何となく予感できる。でもあんな大人にだけはなりたくない、なるまいと考える。

                                                         

                                                         

                                                         

                                                        つまり「世の中はみんな金や地位といった外形的なことしか考えないバカばっかりで、自分だけが正しい」と思いつめるのです。これは若い時の特権ですね。今回紹介する小説は、そんな高校生のギリギリのところを描いた作品です。

                                                         

                                                         

                                                         

                                                        その小説は次のように始まります。

                                                         

                                                         

                                                        If you really want to hear about it, the first thing you’ll probably want to know is where I was born, and what my lousy childhood was like, and how my parents were occupied and all before they had me, and all that David Copperfield kind of crap, but I don’t feel like going into it.

                                                         

                                                         

                                                         

                                                         この小説は高校を中退せざるを得なかった少年が語り手なのですが、冒頭部分を読んで皆さんはどんな感じがしましたか。理路整然とした冷静な語り口でしょうか。違いますね。どこかせわしない、落ち着きのない感じです。青年期特有の不安も見え隠れしています。もちろんこれはかなり読み進んでわかることです。

                                                         

                                                         

                                                         

                                                        僕がこの小説を始めて読んだのは、大学受験に失敗して浪人しているときでした。まあ、ギリギリ高校生と言える時期ですね。「you」って誰、オレのことかな。「it」って何のことだよ。まして、and all がこの語り手の口癖で、「〜とか」という意味だとは知る由もありませんでした。lousy だとか crap という単語も見たことがなかったのです。学校の教科書には出てきませんからね。

                                                         

                                                         

                                                         

                                                        それでも読み進めました。我慢して数十ページほど読み進めると、語り手の高校生の声が聞こえて来て、気持ちが分かるようになりました。英語の小説を読むときは「今は分からなくても、そのうち分かるようになる」という経験を積み重ねることが大事ですね。

                                                         

                                                         

                                                         

                                                        そんなわけで僕が英語を勉強していてよかったと思うのは、英米の現代小説を読んで、作者の個性つまりそれを生みだしている社会の根底にある「文化」に触れた時なのです。英語を通じて獲得するものが「文化」でないとしたら、一体外国語を学ぶ意味などあるのでしょうか。

                                                         

                                                         

                                                         

                                                        文部科学省の推進する英語の4技能向上とは、つまるところアメリカの植民地で行われる宗主国の言語教育を意味します。それは宗主国アメリカに仕え、日本の富を売り渡すことになんら痛痒を感じない官僚や財界人が、自分たちの地位を保全するために考え出した仕掛けに過ぎません。それを国民の税金を使ってやるのです。

                                                         

                                                         

                                                         

                                                        彼らの言語観は「言葉は道具(ツール)である」というものです。その根底には、意味さえ伝わればいいと考える貧困な言語観があります。

                                                         

                                                         

                                                         

                                                        文科省の『「英語ができる日本人」の育成のための行動計画の策定について』には、「金」と「競争」と「格付け」の話しか出てきません。平田オリザさんに言わせると、日本の英語教育は「ユニクロのシンガポール支店長を育てる教育」だそうです。言い得て妙ですね。

                                                         

                                                         

                                                         

                                                        話がそれました。小説の話でしたね。上に挙げた小説の冒頭を日本語に訳してみましょう。

                                                         

                                                         

                                                         

                                                        「もしあなたがそれについて本当に聞きたいなら、あなたがおそらく最初に知りたいのは、私がどこで生まれて、私のお粗末な少年時代がいかなるものであったか、そして私を生む前に私の両親がどのようなことに従事していたか等々のデイヴィッド・コパフィールド風の下らぬ話であろうが、私はそれに立ち入る気はない。」

                                                         

                                                         

                                                         

                                                        この訳は構文を正確にとらえた、大学入試なら満点の訳です。「言葉は道具(ツール)である」とする言語観からすれば見事な出来栄えと言うほかありません。

                                                         

                                                         

                                                         

                                                        しかし本当でしょうか。言葉には意味だけではなく、姿があります。文体と言ってもいいですね。人にたたずまいがあるように、文にもそれがあります。そして僕たちの精神に影響を与えるのは、語り口、トーン、すなわち作者の個性なのです。意味を抽出したら言葉は用済みだとすれば、人間が書く文とAIが書く文の区別はつかなくなってしまいます。

                                                         

                                                         

                                                         

                                                        同じ箇所の別の訳文を挙げます。

                                                         

                                                         

                                                        「もし君がほんとに僕の話を聞きたいんだったら、まず知りたがるのはたぶん、僕がどこで生まれたかとか、子どもの頃のしょうもない話とか、僕が生まれる前に両親は何をやっていたかとかなんとか、そういうデイヴィッド・コパフィールドっぽい寝言だろうと思うんだけど、そういうことって、話す気になれないんだよね。」

                                                         

                                                         

                                                         

                                                        この訳はどうでしょう。とてもいいですね。これなら語り手の高校生の個性が伝わってきます。先を読みたくなりますね。でも「デイヴィッド・コパフィールドっぽい寝言」とはどういう意味でしょうか。

                                                         

                                                         

                                                         

                                                        デイヴィッド・コパフィールドはイギリスの文豪チャールズ・ディケンズの小説です。実は「僕はデイヴィッド・コパフィールドみたいなどうでもいい話はしたくない」というのは「僕はイギリス人みたいな話はしたくない」ということなのです。

                                                         

                                                         

                                                         

                                                        ここはよくわかります。僕が初めて読んだ長編小説はペンギンブック版で600ページ以上ある『 Of Human Bondage 』(人間の絆)でした。イギリスの作家、サマセット・モームが書いた小説です。デイヴィッド・コパフィールドも700ページ以上ある長編小説です。この両者とも、主人公が生まれたところから始まって、世間の無理解や逆境を乗り越え、波乱万丈の人生を生きて、最後に「いい人生だったなあ」と回想する話です。これはイギリスの小説の典型です。

                                                         

                                                        初めて読んだ長編小説。『 Of Human Bondage 』表紙にフィルムを貼って補修しています。ちなみに左のページクリップは高3のY・Nさんからのプレゼントです。

                                                         

                                                         

                                                         

                                                         

                                                         

                                                         

                                                        そこには、自分という人間を語るのに、どこで生まれ、親はどこの誰それで、どういう親戚がいて、どういう暮らしをしてきたのか、それを順序立てて話すことが、自分を語ることになるという前提があるのです。

                                                         

                                                         

                                                         

                                                        しかし、アメリカ人の語り手である少年にはこれがウザい。そんなことで自分を語った気にはなれない。どこで生まれたかとか、親がどんなだったとか、自分が子どものころどうだったかさえ、そんなことをしゃべっても、自分を分かってもらえる気がしない。過去や世界とのつながりなんてしゃべったところで自分を語った気になれない。今ここにいる自分がすべてなんだ、というわけです。これは極めてアメリカ的な考え方です。

                                                         

                                                         

                                                         

                                                        アメリカの後を追いかける日本もいわゆる格差社会・階級社会になりつつあります。本来なら、そういった格差や不平等に対して嫌悪を感じるはずの若い人たちでさえ、学歴や勤めている会社、親の職業、住んでいる場所など、外形的なもので人を値踏みする傾向があります。いわゆる「知的な職業」や「専門職」についている人ほど、この傾向を受け入れています。

                                                         

                                                         

                                                         

                                                        作者J・D・サリンジャーは、そういった大人社会を軽蔑し、憎みながらも不安にかられ、出口の見えない世界でもがき続ける少年の内面を描いたのです。つまり、社会に適応できない少年の撞着を文学に昇華したのですね。よかったら、村上春樹氏の翻訳で読んでみて下さい。原題は『ライ麦畑でつかまえて』( The Catcher in the Rye)です。共感するか反発するか、それはあなた次第です。長くなりました。ここまで読んでくれてありがとう。それではまた次回お会いしましょう。

                                                         

                                                         

                                                         

                                                        | 英語教育 | 13:06 | comments(1) | - |
                                                        飼いならされるな、高校生!
                                                        0

                                                          高校生の皆さんこんにちは。今回のタイトルを見て、一体いつの時代のアジテーションだと思う人もいるでしょうね。もちろん普段は授業をしています。こんなことを叫び続けてきたわけではありません。でもなんだかんだ言っても、これが私の最も言いたいことです。

                                                           

                                                           

                                                          知性主義の前提が崩れ去った今、言い換えれば知が大学の専有物ではなくなった社会で、大学の先生や有名な権威ある思想家の言葉をコピーすれば知性が身に付くと勘違いすることほど危険なことはありません。

                                                           

                                                           

                                                          具体例を挙げてみます。『超訳・ニーチェの言葉』という詐欺本、トンデモ本がベストセラーになったのは、2015年のことです。「愛がいかに人を盲目にし、愚かな判断を下すか」を批判していたニーチェの文章が、この本の中では愛の美しさをたたえるような正反対の意味になっています。

                                                           

                                                           

                                                          当の『善悪の彼岸』の中には、「今日のヨーロッパの道徳は、家畜の群れの道徳なのだ」という痛烈な1節があるのです。ニーチェは今ある社会の秩序や価値基準に適応し、その内側でのみ成功しようとする俗人を徹底的に軽蔑した人です。ドイツ語を正確に訳せないので「超訳」、ニーチェの「思想」ではなく「言葉」。いくらでも言い逃れができるようになっています。

                                                           

                                                           

                                                          同じ年、ブログでも取り上げた『学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶応大学に現役合格した話』という詐欺本もベストセラーになっています。以上の2冊は、それぞれ100万部以上を売り上げ、日本でポスト・トゥルースのさきがけとなった本です。

                                                           

                                                           

                                                          『ビリギャル本』の中には、私立の中学受験を突破した生徒が「聖徳太子」を読めずに、「しょうとくタコ」と読むエピソードが出てきます。この本の読者はこの種の話に違和感を覚えずに読み進められる人たちなのでしょう。あるいは、「話を盛る」のは、普通のことだとして気にも留めないのでしょうね。

                                                           

                                                           

                                                          そう言えば、ポスト・トゥルースの風潮の中、フェイクニュースならぬフェイクサイトを立ち上げて、塾の宣伝をしていた大分市田尻のK塾長のような人物もいました。フェイクサイトを立ち上げるくらいは「許容範囲だと思った」そうです。「許容範囲」かどうかを自分で決めるところがすごい。一橋大学法学部で一体何を勉強していたのでしょうか。

                                                           

                                                           

                                                          話を元に戻します。『ビリギャル本』の主人公は、学校では爆睡。それを注意されると、お母さんが「学校しか、寝る場所がないんです・・・慶応に行く子なんです。寝かせて下さい」と押し切ったそうです。慶応に行かない子は、役にも立たない授業を真面目に受けろというのでしょうか。

                                                           

                                                           

                                                          自分の子供を「慶応に行く子」と形容し、だから特別扱いしろと学校にねじ込むとは、どこまで自分勝手でわがままな親なのでしょうか。「あなたの授業は受験に関係ないから、寝かせろ」と言われた教師は悔しくなかったのでしょうか。

                                                           

                                                           

                                                          要は、『ビリギャル本』の著者が冒頭のモノローグで言うように、この本の功績は「人間にとって一番大切なのは、このゼッタイ無理を、克服した体験だ」という価値観を広めたことだそうです。

                                                           

                                                           

                                                          逆に言うと「ゼッタイ無理」だと思えることを成し遂げるなら、目標は慶応はおろか大学受験である必要はないのです。水の中に10分間潜っているとか、フルマラソンを1時間で走るとか。でもこれは本物の「ゼッタイ無理」です。この著者は言葉を「盛る」のが得意ですね。

                                                           

                                                           

                                                          そういうわけで、この種の話は「受験モノ」になることが多い。格差社会に挑んでいるように見えて、格差社会の価値観を強化しているところが読者の潜在的な願望を刺激するのでしょうね。

                                                           

                                                           

                                                          それになんと言っても、結果が偏差値や合否に表われるので分かりやすい。何より、まともな思考力のない、ミーハーの読者をねらって出版社や映画会社が儲けることができます。最近では、ビリギャル本人がこの価値観を広めるべく全国の高校で講演して回っているそうです。「佐藤ママ」が本を出版し、講演しているのと同じ「現象」です。

                                                           

                                                           

                                                          さらに言えば、「べつに、大学くらい出とけっていわれるから来ただけだよ。就職するときヤバいかもって。本当にやりたいことなんかあるわけないじゃん。大学なんて就職までの時間を楽しく過ごす場所だと思ってるし・・・」という、ごく普通の若者の感性が社会現象になったということです。

                                                           

                                                           

                                                          つまり、大学は「形式」だけで、内実を伴わなくてもよい。むしろ内実があれば勉強しなくてはならないから、邪魔でウザい。大学の価値がそういうものになり果てたということです。

                                                           

                                                           

                                                          最初に書こうとしていたことから話が大きくそれてしまいました。高校生の時にどうしても読んでほしい(と私が思う)本を挙げるつもりでした。それは、飼いならされる人生なんてごめんだ、と感じている少数の高校生に向けてのものです。長くなるので今回はここまでにします。続きは次回に譲ります。

                                                           

                                                          | 中高生の皆さんへ | 16:25 | comments(0) | - |
                                                          あとは野となれ山となれ。
                                                          0

                                                            「あとは野となれ山となれ」とは、目先のことさえ解決できれば、後はどうなってもかまわないというたとえをいいます。またの名を、「あとの祭り化政策」といいます。それを推進しているのが財界と官僚(日米合同委員会)です。

                                                             

                                                             

                                                             

                                                            彼らは記憶喪失に陥った痴呆のごとく日本の国富を次々に売り飛ばし、政治家を顎で使っています。これが安倍自公政権とそれにヒルのごとく吸いついておこぼれにありつく日本維新の会のトライアングルシンジケートです。

                                                             

                                                             

                                                             

                                                             

                                                            彼らの精神構造は、公共と名のつくもの、たとえば社会保障や水道事業は言うまでもなく、果ては公教育を民営化して食い物にすることを使命とするものです。その先兵となるのが、前回指摘した英語教育改革です。

                                                             

                                                             

                                                             

                                                             

                                                            さらには、種子法を廃止し種苗法を改悪して農業を大資本の傘下に収め、私たちの食べるものさえ投機の対象にする算段をしているのです。彼らはそれを批判したり邪魔したりする人間たちを罵倒し生理的に毛嫌いするように教育されています。自分の意見や政策を語っているつもりでしょうが、何のことはない、単なる操り人形です。しゃべっているのは後ろにいる腹話術師なのです。

                                                             

                                                             

                                                             

                                                             

                                                            私は何も大げさなことを言っているのではありません。6年前から同じ事を言い続けているので、事ここに至っては、「あとは野となれ山となれ」と言いたくなっています。簡単に言えば、「知ったことか。勝手にしろ!」という心境です。

                                                             

                                                             

                                                             

                                                             

                                                            それにしても3・11の東日本大震災と福島の原発事故を経験した後の日本社会が、まさかこんな体たらくになろうとは予想だにしていませんでした。私たちが正気を取り戻したのは、ほんの一瞬だったのですね。もう少しまともな人間もいるのではないかと期待した自分が愚かでした。

                                                             

                                                             

                                                             

                                                             

                                                            その極めつけが東京オリンピックと大阪万博です。大阪万博は時代遅れのカジノを大阪に誘致するための口実、お祭りに過ぎません。

                                                             

                                                             

                                                             

                                                            朝日新聞デジタルは次のように伝えています。

                                                             

                                                             

                                                            「24日未明、大阪・中之島のホテルの一室は、歓喜に包まれていた。パリで開かれていた2025年万博の開催地を決める博覧会国際事務局(BIE)総会の映像を見守るため、国会議員や財界幹部ら約300人が集合。大阪開催が決まり、大いに沸いた。

                                                             

                                                             

                                                             その直後、突然スクリーンに安倍晋三首相のビデオメッセージが映し出された。「大阪万博を最高の万博にしていきましょう」。首相が笑顔で語ると、拍手が起きた。ほぼ同時に発表された首相コメントには「地域経済が活性化する『起爆剤』になると確信する」と書かれていた。

                                                             

                                                             

                                                             25年大阪万博は、政府が20年東京五輪後の景気対策として誘致をめざしてきた。地元自治体や財界と連携した総力戦で、4年間で約35億円を誘致費につぎ込み、万博が実現した場合は途上国など約100カ国に約240億円を支援する計画も公表。パビリオンの建設費などを支援する「経済カード」で支持拡大を図った。

                                                             

                                                             

                                                            会場予定地の整備費や鉄道インフラの延伸などで少なくとも約2千億円以上かかるとされ、具体的な開催内容も固まっていない。歓喜の先には、課題が山積している。」

                                                             

                                                             

                                                             

                                                             

                                                            私はこの記事を読みながら、これは何かの間違い、白昼夢なのではないかと思いました。同時に、ジョージ・オーウエルの『1984』を思い出し、何ともいえない気持ちになりました。私を支えていた心棒がポキンと折れる音を聞いたのです。

                                                             

                                                             

                                                             

                                                            猿回しの猿よろしく、いい大人が飛び跳ねる図。世耕ケイサン大臣、榊原経団連名誉会長、そしてヤクザの松井大阪府知事。

                                                             

                                                             

                                                            例によって例のごとく登場する二人。全く中身のない空疎な言葉をもてあそぶ「合理的な愚か者」。

                                                             

                                                             

                                                             

                                                             

                                                            私は1年以上前に『イベント人間は信用できない』という記事を書きました。そこで書いたことを再確認する思いでした。http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=412

                                                             

                                                             

                                                             

                                                             

                                                            世の中が、やれ東京オリンピックだ、大阪万博だと盛り上がっているときに、冷や水を浴びせるような人間は必要とされないのでしょう。これからは世間の片隅で土を耕し野菜でも作ることにしましょう。私の役目は完全に終わったのだと思う晩秋の昼下がりです。

                                                             

                                                            | 文学・哲学・思想 | 14:58 | comments(0) | - |
                                                            晩秋の朝、英語教育について考える。
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                                                              午前7時。新聞を取りに玄関へ近づくと窓の外が明るいのです。ドアを開けて外に出ると、晩秋の紅葉と一面の落葉に朝日が反射していました。野鳥の鳴き声が空気を切り裂き、冬の到来を告げています。

                                                               

                                                               

                                                              玄関から見た晩秋の前庭。どことなくさびしい風情が一年の終わりが近づいていることを告げています。

                                                               

                                                               

                                                               

                                                              夏の間、鬱蒼とした木陰を作っていたカツラの木も、今はほとんどの葉を落として冬支度です。

                                                               

                                                               

                                                               

                                                              今年も残り少なくなりました。センター試験も近づいています。この時期は塾教師にとって、何となくあわただしい日々なのです。高校3年生と勉強する機会もあとわずかです。夜遅い時間に、津久見や臼杵から通って来てくれた生徒さんたちには感謝するしかありません。そしてもうすぐお別れです。慌ただしさの中には、寂しさも多少含まれているのかもしれませんね。

                                                               

                                                               

                                                               

                                                              それはともかく、私は塾教師でよかったとつくづく思います。なぜなら、文部科学省から一律かつ一方的に下される「命令」に従わなくて済むからです。その命令を実質的に下しているのは財界であり、ブログで何度も言及してきた新自由主義・コーポラティズムのイデオロギーなのです。

                                                               

                                                               

                                                               

                                                              この種のイデオロギーの先兵・走狗になっているのが日本の英語教育です。「読み」「書き」「聞く」「話す」4技能を身につけさせると宣言するだけで(文科省の仕事は口先で幻想をふりまくことなのでしょうか)、人材育成も予算配分も現場に丸投げしています。

                                                               

                                                               

                                                               

                                                              考えても見て下さい。例えば、中学や高校の美術の教師がいきなりテニス部の顧問をしなければならなくなったときのことを。あるいは剣道一筋でやって来た教師が野球部の顧問を命じられた時のことを。

                                                               

                                                               

                                                               

                                                              即席でルールブックを読み、指導方法を研究するのがせいぜいでしょう。そもそも4技能のうち1つの技能すら身についていない英語教師が、いったいどうして4技能を身につけさせることができるのでしょうか。

                                                               

                                                               

                                                               

                                                              それでも見切り発車で英語教育を推進するのであれば、ほとんどの生徒は振り落とされ、学習環境が整備され優秀な人材が確保できる都市部の学校が有利になるに決まっています。

                                                               

                                                               

                                                               

                                                              しかも民間試験の受験料はTOEFULでは約2万6千円、TOEICは5千725円です。TOEICの年間受験者は270万人を超えています。いったい多額の受験料はどこへ消えているのでしょう。TOEFULでは受験者数すら公表されていません。

                                                               

                                                               

                                                               

                                                               

                                                              まともな神経をしていれば、英語教育を取り巻くバカ騒ぎは正視に堪えないはずです。にもかかわらず、今が儲け時だと走り出す塾・予備校、英会話業界。その説明会に出て洗脳される塾教師たち。これほど心暗くなる光景がかってあったでしょうか。

                                                               

                                                               

                                                               

                                                              安倍政権の強権的なヤクザ政治にホトホト嫌気がさしているときに、予算の裏付けも根拠となるデータもない幻想によって振り回されているのですから、これで心暗くならない人は幸せなるかな、です。私は落ちているエサをわれ先に拾うサルになることはどうしてもできません。ちっぽけなプライドが許さないのではなく、サルに教えられる子供たちがあまりに気の毒だからです。

                                                               

                                                               

                                                               

                                                              なんだかんだ言っても、世間とはこんなものだとも思います。しかし、幻想は所詮幻想でしかないことを痛切に思い知った後で、これ以上騙されることは私には精神的な拷問を受けているに等しいのです。

                                                               

                                                               

                                                               

                                                              例えば、今の英語教育業界を支配している幻想を挙げてみましょう。

                                                               

                                                               

                                                              1.英語はネイティブスピーカーから学ぶのが一番だ。

                                                               

                                                              2.英語学習は幼少期から、できるだけ早く始めたほうがよい。

                                                               

                                                              3.英語力は社会的・経済的成功をもたらす。

                                                               

                                                              4.英語ができれば世界中誰とでも意思疎通ができる。

                                                               

                                                              5.英語は英語で学んだほうがよい。

                                                               

                                                              6.英語を学ぶことは欧米の社会や文化を知ることにつながる。

                                                               

                                                               

                                                               

                                                              以上はすべて根拠のない誤った俗説です。もうお分かりでしょうが、日本の英語教育はこの種の幻想によって駆動されています。その結果、子どもたちはテストを通じて序列化されるモルモットのような扱いを受けているのです。少しでも子供が上位に位置することを望む親御さんは、投資だと割り切って気前よくお金を払います。

                                                               

                                                               

                                                               

                                                              実は、すべての人に平等に機会を保障するという建前のもと、社会的・経済的格差がロンダリングされているのです。すでに書きましたが、日本の英語教育は世界へ通じる通路を開いたりしません。今回の改革も、成績上位層にとって有利に働くだけです。日本社会の中で選別のモノサシとして機能するだけの外国語教育など、100年遅れているのです。

                                                               

                                                               

                                                               

                                                              はっきり言いましょう。日本における「外国語」教育は、アメリカやイギリスの白人社会で使われる標準英語をお手本とした「英語」教育でしかないのです。英語を母語とする国々の人口は世界人口の6%に過ぎません。しかもそれらの国はすべて多民族国家です。私たちがお手本とする標準英語を話す人の割合は、おそらく全人口の1%を切っていると思います。

                                                               

                                                               

                                                               

                                                              文科省は「国際共通語としての英語力向上」だの「グローバル化に対応した英語教育」などと言いますが、「国際共通語」の中身も「グローバル化」もまったく分かっていません。それどころか、塾・英会話業界のキャッチコピーかと見紛うほどの偏見と誤謬に満ちています。この程度の認識では、国内の格差を拡大させるだけでなく、新たなレイシズムの温床になる可能性もあります。いや、すでにそうなっています。

                                                               

                                                               

                                                               

                                                              お前はいつも文句ばっかり言っているけど実際どんな授業をしているんだ、と言われることも承知しています。その答えは次回以降に譲ります。あまり気が進まないのですが、何のために英語を勉強し、どんなときに英語を勉強していてよかったと思えるのか、今現にどんな勉強をしているのかを少しずつ明らかにしていこうと思います。今回はここまでにしておきます。暇があればまたお付き合い下さい。

                                                               

                                                               

                                                              | 英語教育 | 22:45 | comments(0) | - |
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