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日本を解き放つ
日本を解き放つ (JUGEMレビュー »)
小林 康夫,中島 隆博
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資本主義の終わりか、人間の終焉か? 未来への大分岐 (集英社新書)
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 (JUGEMレビュー »)

まず私たちの生命と暮らしを脅かす事実を知ること。それにたいしてどのような認識を持つのか。この国のみならず、世界を壊滅させる災厄とどう向き合うのか。次世代に対してどう責任を取るのか、そもそも責任を取れるのか。自分に何ができるのか。この現実にどう向き合うのか。それを教えるのが教育のはずだが、この国には教育も哲学も存在しない。
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「最悪」の核施設 六ヶ所再処理工場 (集英社新書)
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小出 裕章,渡辺 満久,明石 昇二郎
原発よりもはるかに危険な六ヶ所村再処理工場。私たちの日々の生活が薄氷の上で営まれていることを痛感させられる。同時に、この国には「国民の生命・財産・自由を守り抜く!」と威勢のいいことを言う総理大臣と無能の政治家しかいないことに絶望する。核燃料サイクルと言い、下北半島の再処理工場と言い、3兆円以上の国民の税金がつぎ込まれ、いまだ後始末も将来の見通しもたっていない現実をどう考えているのか。彼らは核兵器を持ちたいという願望と税金をロンダリングして私腹を肥やすことしか眼中にない。北海道の地震だけに目を奪われてはならない。六ヶ所村は今回の震源地の目と鼻の先にあるのだ。
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幻影(イメジ)の時代―マスコミが製造する事実 (現代社会科学叢書)
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D.J.ブーアスティン
私にとっては古典の中の古典。三度読みました。そしてその慧眼にいまだに驚いています。
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殺人犯はそこにいる (新潮文庫)
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清水 潔
ジャーナリストと称する職業がある。自称ジャーナリストもいれば、テレビのコメンテーターとしてリベラルに媚びる政権批判をし、名を売り、講演で稼ぐ職業をジャーナリストと呼ぶ者もいる。とんだ茶番である。ジャーナリストとはどこまでも「事実」を追いかける。テレビに出て能天気な解釈や感想を垂れ流している暇などないはずだ。ジャーナリストを志す若い人には清水氏の著作は避けて通れない。その名に値する本物のジャーナリストがここにいる。
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デジタル・ポピュリズム 操作される世論と民主主義 (集英社新書)
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福田 直子
おそらく自民党・安倍政権はSNSを駆使し、分析するデータサイエンス(日本版なのでレベルはまだ低いですが)の重要性に着目し、選挙にどうすれば勝てるか、自分たちに有利な世論を形成し、国民を誘導・分断するにはどうすればいいのかが分かっているのです。そのためのノウハウも蓄積しつつあります。安倍首相の貧困な語彙力からは想像できないカタカナ言葉を聞いていると、それがSNSを分析している集団から教えられたものであることがよくわかります。ただ彼らの致命的な弱点は将来の社会を導く理想がないことです。おそらく、思いもかけない結果が待っていることでしょう。なぜなら、所詮、彼らはアメリカとビッグデータの奴隷でしかないのですから。これからの政治は、好むと好まざるとにかかわらず、この本に書かれていること抜きには語れなくなっているのです。
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 (JUGEMレビュー »)

安倍政権に対するメディアの忖度が云々されていますが、元々同じ穴のムジナなのです。忘れてならないのは、日中戦争から太平洋戦争にかけて、日本の世論と新聞のほぼ全部は好戦的・拡張主義的だったのです。しかも、当時はまだ言論統制体制が発足していなかったのです。この本は、そうした「一貫して好戦的な世論とそれに便乗する新聞」が先導し、近衛文麿はじめ文民政治家がそれに便乗、軍部がさらに便乗、という構図を一次資料で克明に論証しています。安倍政権を支持するネトウヨの皆さんの日本語力では、まともな読解は無理ですので勧めません。一方、正確な歴史を知るためには「世論」の不気味さを知ることだと気づいている若い人には是非一読を勧めます。
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茫漠の曠野 ノモンハン
茫漠の曠野 ノモンハン (JUGEMレビュー »)
松本草平
著者は大分市にある『天心堂へつぎ病院』の院長、松本文六氏の御尊父、松本草平(本名松本弘)氏です。詳しくは、ブログで紹介したいと思いますが、第一次資料として極めて価値の高いものです。40年ぶりに復刻版を出された松本文六氏と出版社に感謝する他ありません。
戦略も何もない、無謀・無慈悲な戦争を語り継ぐことは、最も崇高で重要な人間の営為だと私は考えています。作家の司馬遼太郎氏は、電話で草平氏に次のように伝えてきたそうです。「先生の臨場感のあるノモンハン戦記に出会えて本当にありがとうございました。私は大東亜戦争の折、戦車隊の一員として従軍しましたが、先生の従軍記以上のものを創ることはできません。」と。
一人でも多くの方がこの本を読まれることを望みます。ちなみに松本文六氏は伊方原発差止め訴訟の原告でもあります。その縁で、この本に出会うことができました。
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「南京事件」を調査せよ (文春文庫)
「南京事件」を調査せよ (文春文庫) (JUGEMレビュー »)
清水 潔
全国のネトウヨの皆さんへの推薦図書です。清水氏のこの本を読んでから、「南京事件はなかった!」「南京事件は捏造だ!」と叫びましょうネ。
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日本列島の全原発が危ない! 広瀬隆 白熱授業  DAYS JAPAN(デイズジャパン)2018年1月号増刊号
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広瀬隆
広瀬氏をアジテーターだの、オオカミ少年だの、悲観主義に過ぎると言って批判する人がいる。しかし、ブログで何度も述べてきたように、真の悲観主義こそがマインドコントールによって奴隷根性のしみ込んだ私たちの精神を浄化してくれるのだ。そもそも無知では悲観が生まれようもないではないか。国などいくら破れても結構。せめて山河だけでも次世代に残そうと考える人ならぜひとも読むべき本である。いや、これから幾多の春秋に富む若い人にこそすすめたい。
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チャヴ 弱者を敵視する社会
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オーウェン・ジョーンズ,Owen Jones
【本書への賛辞】

「怒りが生んだ、最高の本」
──ガーディアン紙

最高の論争がみなそうであるように、知性に裏打ちされた怒りが本書を支えている。
──エコノミスト誌

暴動や世界中に広がったオキュパイ運動に照らして考えると、分断社会に関する著者の鋭い分析は、
不気味なほど未来を予知していたことがわかる。
──アートフォーラム誌

情熱と、思いやりと、すぐれた道徳性が結実した仕事だ。
──ニューヨーク・タイムズ紙

政治の定説を見直す大胆な試み。著者は戦後のイギリス史を縦横無尽に往き来し、
階級、文化、アイデンティティといった複雑な問題を軽々とまとめてみせ、
結果として「階級」問題に火をつけ、大きな効果をあげている。
──インディペンデント紙

いまの制度が貧しい人々を見捨てていることに対する苛烈な警告──それが本書だ。
──ブログサイト「デイリー・ビースト」

ジョーンズは、「地の塩」だった労働者階級が政治のせいで「地のクズ」と見なされるようになった経緯を見事に説明している。
──タイムズ紙

この本は、新しいタイプの階級嫌悪と、その裏にあるものを痛烈にあばいて見せてくれる。
──ジョン・ケアリー(The Intellectuals and the Masses著者)

これは「イギリスはおおむね階級のない社会である」という考え方への、論理的で情報満載の大反撃だ。
──オブザーバー紙

情熱的で示唆に富む……この声が届くことを心から願う。
──スコットランド・オン・サンデー紙
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 (JUGEMレビュー »)

紹介していない本が山のようにあります。数日前にこの本を本棚の奥から引っ張り出し再読しました。いや〜面白かった。。とにかくこの本のことを忘れていた自分が信じられない。読んでない人に熱烈に勧めます。ハイ。
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新・日米安保論 (集英社新書)
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英語の実際的研究 (1969年)
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秋山 敏
高校生にとって、今でも一押しの不朽の名著。でもこの本をことを知っている英語教師は少ないと思います。是非復刊してほしいものです。
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スノーデン 日本への警告 (集英社新書)
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エドワード・スノーデン,青木 理,井桁大介,金昌浩,ベン・ワイズナー,宮下紘,マリコ・ヒロセ
2017年4月18日、朝日新聞がようやく「パノプティプコン」を取り上げました。遅すぎますね。
これから先の日本社会は、ますます荒廃が進み、国民の不満が頂点に達し、やがて爆発します。それを未然に防ぐために、国は国民の監視を強化します。
実際アメリカでは「愛国者法」により、電子メールや携帯の通話履歴が監視の対象になっています。誰が、いつ、どこで、何を読んで、誰と通信を交わしたか、すべて国に筒抜けです。
「パノプティプコン」とはフランスの哲学者フーコーが用いた概念ですが、国民が刑務所の囚人のように監視される体制を言います。監視者の姿は見えませんが、囚人は監視者不在でも、監視を意識することによって管理統制されるのです。これを「パノプティシズム」と言います。
このシステムから解放されるためには、権力がどう管理・統制しようとしているかを知らねばなりません。この本はそれを知るための第一歩です。あなたが無知のまま、奴隷の人生を送りたければ、読む必要はありません。
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A.ミラー
アリスミラーのこの本は、塾を始めるきっかけになりました。ただ生活のためだけなら、他のことをしていたでしょう。『才能ある子のドラマ』とあわせて、当時の私には衝撃的な本でした。人生はどこでどう転ぶかわかりません。人間の奥深さを知ることで、何とか自分を維持していたのです。この本を読むと当時のことが、ありありと思い出されます。ある意味で、私の人生を方向づけた本かもしれません。
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NHK「東海村臨界事故」取材班

2月18日のブログでも書きましたが、仕事のために読むビジネス書の類は、最終的には効率を重視し、最小の資本と労力の投下で、いかにして最大の利益を上げるかということに尽きていると思います。そのための働き方改革であり、そのための賃上げです。そのための人心掌握術であり、顧客対応です。ビジネス書を読めば読むほど、人間は軽薄になり、視野が狭くなっていきます。もしあなたがそれを自覚するきっかけがほしいなら、是非この本を読むことを勧めます。読書はビジネスのためにするのではないということが分かると思います。この本は私たちの日常の風景を一変させるだけのインパクトを持っています。いわば、ことばの最高の意味における「闖入者」なのです。
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瀬木 比呂志
この本はまだ発売されていません。自分で読んでいない本を推薦するのは邪道でしょう。しかし、これまでの『絶望の裁判所』『ニッポンの裁判』(ともに講談社現代新書)に続く裁判所、司法批判の第3弾が長編の権力小説だということで、過去2冊の本の面白さからして、推薦に値する本だと思いました。『原発ホワイトアウト』の最高裁判所ヴァージョンだと思います。読んでからコメントを追加したいと思います。
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そして、僕はOEDを読んだ
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アモン・シェイ
学校なる場所に通っていた時、毎年夏になると課題図書を読んで、読書感想文を書かねばならないのが苦痛でした。課題図書の選定には学校と書店の密約があるに違いないと思っていたくらいです。

偶然巡り合った面白い本の感想を書くのならまだ我慢できたかもしれません。つくづく学校というところは、余計なことをしてくれると思ったものです。

あまりにめんどうくさいので、「あとがき」を参考に、あらすじを書いて提出したら、トリプルAをもらいました。

学校というところは、もしかしたら、人生の退屈に耐える訓練をする場所だったのかもしれません。この本を読んで、改めてそのことを確認しました。別に先生を責めているわけではありません。それほど自覚的に生きるということは難しいのだとため息をついているだけです。
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想田和弘監督の観察映画。音楽による演出は一切なく、徹頭徹尾監督の視点で撮られたドキュメンタリー映画。見終わった後、日本の選挙風土の貧困さが浮かび上がる。この国に民主主義はない、ということを改めて確認し、そこから出発するしかない。その勇気を持つ人には必見の映画です。合わせて『選挙2』もどうぞ。
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ウェーバーの死の1年前、1919年、学生達に向けた講演の記録です。
一部抜粋します。

「自分が世間に対して捧げようとするものに比べて、現実の世の中が―自分の立場からみて―どんなに愚かであり卑俗であっても、断じてく挫けない人間。どんな事態に直面しても「それにもかかわらず!」と言い切る自信のある人間。そういう人間だけが政治への「天職」を持つ。」(P105〜106)

「さて、ここにおいでの諸君、10年後にもう一度この点について話し合おうではないか。残念ながら私はあれやこれやいろんな理由から、どうも悪い予感がしてならないのだが、10年後には反動の時代がとっくに始まっていて、諸君の多くの人が―正直に言って私もだが―期待していたことのまずほとんどは、まさか全部でもあるまいが、少なくとも外見上たいていのものは、実現されていないだろう。」(P103〜104)

10年後には、ワイマール体制は機能不全に陥り、1933年にはヒトラーが首相に就任します。

平和憲法は、日本人にとって310万人の命と引き換えに手に入れた唯一と言っていい理念であり、アイデンティティーでした。その唯一の誇りを、日本人は損得勘定で葬り去ろうとしています。言い古された言葉ですが、歴史は繰り返すのです。
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中沢 新一
小学校を卒業するころ、将来なりたい職業として思い描いていたのが、天文学者か生物学者でした。プロ野球選手は、自分のセンスでは無理だと悟りました。物ごころついたころから興味があったのは宇宙や昆虫や植物の世界でした。そんなわけで南方熊樟に出会うのは必然的な成り行きだったのです。人間は言葉によって世界を把握しますが、それ以外の把握の仕方があるはずだと、ずっと思ってきました。南方熊樟は、小林秀雄と同じく、直観による世界の把握の仕方を教えてくれました。この本は、言葉によって構成された世界秩序の外に出て、世界を改めて考えたい人に大いなるヒントをあたえてくれます。安倍政権によるゴキブリのフンのような、あまりにばかばかしい政治状況を見せつけられているので、精神の衛生学として一気に読みました。
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こどもの教育から裏金を使ったオリンピック誘致、原発再稼働、戦争準備から武器の売却、安倍政権の裏の権力としてメディアに絶大な影響力を行使する電通。私たちは電通が作り上げた「箱」の中でいいようにマインドコントロールされている。自分の意見だと思っていたものが、実はそう思わされていただけだということに気づかなければならない。音楽をはじめとする芸能情報、その中で踊らされるミュージシャンやタレント、果てはデザイン業界までを席巻する。今や電通の介在しないメディアはないと言ってもいい。利権あるところに電通あり、です。
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英語教育に携わる人は、一度この本を読んでみるべきではないでしょうか。言葉は悪いですが「英語ばか」がこの国には余りにも多すぎる気がします。
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前作『日本はなぜ「基地」と「原発」止められないのか』に続く著者渾身の力作。自分の人生を生きたい人にすすめます。ただそれだけです。18歳で選挙権が与えらる高校生が政治を考える際の基本的なテキストになる日がくるといいですね。無理でしょうが。これ以上余計なコメントはしません。まず手に取ってみてください。
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メディアで取り上げられるよりはるか前から日本会議の存在について私は言及していました。電通と同じくタブー視するメディアには心底失望したものです。報道すればタブーはタブーでなくなるのです。何を恐れているのでしょうか。干されれば、何とか生活をする工面をすればよい。それだけのことです。
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磯崎新
帯に「祝祭都市にスタジアムはいらない」とあります。そもそも2020年まで天災と原発事故をやり過ごし、経済危機を乗り越えて存在しているでしょうか。極めて怪しいですね。偶然書店で手に取って読みました。彼の文章を読むと、建築は現世の権力に奉仕するものではなく、想像力の王国を作るものだと思わされます。建築にそれほど興味のない人でも、読めます。いや、いつのまにか引き込まれているでしょう。
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難関中高一貫校で学び、東大に合格しても、それはもはや知性のバロメーターではありません。この本に書かれていることが真実だと見破れることこそが本物の知性です。ニセの知性は既得権益を守るためにはどんな屁理屈でもひねり出します。おまえは何も知らないと言って他人を見下し、金と権力におもねるのです。ニセの知性は理想の灯を掲げることができません。「脳内お花畑」などという幼稚な言葉を使って揶揄するしかないのです。彼らの決まり文句は、他国が攻めてきたらどうするのかという、それこそ「脳内お花畑」的なものです。「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」とは、まさに至言です。
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松岡正剛氏の本はどれも面白く、シリーズの千夜千冊を除けばほとんど読んでいます。『多読術』は、高校生にぜひ勧めたいと思います。高校時代に、この本を読んでおくと、さまざまな分野の知的見取り図を手に入れることができます。学校の授業だけではなく、この本を手掛かりにして知の荒野に歩みを進めてほしいと思います。
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カント
安倍首相は「この道しかない」と言って消費税を上げ、集団的自衛権の行使を可能にする閣議決定をし、公約とは正反対のTPPを批准することで、日本の文化=アイデンティティーを破壊しようとしています。

もし私たちが生き延びたければ、そのヒントがこの本の中に書かれています。日本は超大国の「夢」を代弁するだけの国になってはなりません。
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山本氏の国会での質問を、本になって改めて読み直して感じることは、文字通り「みんなが聞きたい」質問をしてくれたということです。安倍首相が小学生に「なぜ政治家になったのですか」と質問された時、「父親も祖父も政治家をしていたからです」と答えていました。小学生相手に、何と言う悲しい答えでしょうか。語るべき理想を持たない政治家など、所詮は官僚に利用されるだけです。それに対して、山本氏には語るべき理想がある。「政治なんてそんなものさ」というリアリストが発散する腐臭を吹き飛ばすさわやかさがある。それは、彼の身体には収まりきれない理想が持つ力そのものです。彼は言います。「力を貸してほしい。少なくとも、あなたが必要だと思われる社会、私が必要だと思われる社会を作っていきたい。そう思うんです」と。日本の総理大臣にふさわしいのはどちらでしょうか。
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おそらく、日本人自身よりも海外の知識人のほうが、日本の問題を正確にとらえていると思わせる本です。読み終えて何気なくテレビを見たら、わが大分県選出の国会議員、岩屋毅氏と江藤晟一氏が、2016年ミスユニバース大分県代表を選ぶ催し物に出ていました。名誉顧問だそうです。いかがわしい宗教団体をバックに票を稼ぐだけでは飽き足らず、こんな大会に顔を出して名前を売ろうとする。大分市長の佐藤樹一郎氏も出席していました。このお三方は、こんなことをするために国会議員や市長になったのでしょうか。国民の税金を使ってやることといえば、テレビに出演してにやけた顔をさらすことでしょうか。もう物事の軽重が全く分かっていません。せめてこの本くらい読んではどうでしょうか。私はこの本に書かれていることの大部分に賛成です。
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蓮池 透
出版されてすぐ読みました。国会で、読んでもいないのに、安倍首相が躍起になって否定した事実が書かれています。蓮池氏はあちこちから人格攻撃の対象とされてきましたが、自分にも落ち度があったと認めています。自分は総理大臣なのだから落ち度はないと居直る人間とは好対照です。この本を読んで、拉致問題について今一度国民が考えることを望みます。
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渡邉 格
2年半ほど前に求めて、一気に読みました。マルクスの『資本論』の中に書かれていることを、著者が自分なりに消化し実践していく過程が書かれているので、一種のドキュメンタリー文学として読めます。きっと著者と同じ思いの若者は全国にたくさんいると思います。かけがえのない一回きりの人生を、充実して生きたいと思っている人に勇気を与える本です。
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スベトラーナ・アレクシエービッチ
今年度ノーベル文学賞受賞作品。チェルノブイリは言うまでもなく、フクシマでさえ人々は忘れたがっています。もう過去のことだと言い聞かせて。しかし、過去のことではなく、まぎれもない現在進行中の現実であり、私たちが生きている世界そのものです。この本を読んだ後、橋下徹が御堂筋をイルミネーションで照らし出し、F1カーに乗って写真を撮っているところを見ました。その時のセリフ。「大阪はここまでできる!」

もう何と言うか、別世界を生きている人間です。彼の発する言葉は文学とは無縁です。人間が言葉を持ったのは、言葉にしがたいものを言葉にしようとするためです。政治家が発する言葉の軽さと言ったらありません。それだけ現実も軽いものになったということでしょう。
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鈴木大拙の言わんとすることが、ようやくわかりかけてきました。年齢を重ね、日本文化の基底にあるものをじっくり味わうことで開示される世界があるのです。日々の生活に追われていては、この本を読み、味わう暇などないでしょうが、それだからこそ手に取ってみてはいかがでしょう。
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人間は、条件次第で、喜々として殺人を犯す。そして、その条件を整備しつつあるのが、安倍政権とその背後でうごめく『日本会議』である。このことに気づいていても、「配慮する」ことを最優先して報道しないメディア(特にNHK・読売新聞・産経新聞)。そしてそこに寄生する学者やコメンテーター、芸能人。このドキュメンタリー映画は、彼らの自画像である。たまには、自らの顔をじっくり眺めてみるがよい。
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ジョナサン・ハイト
私が長年考えてきた問題を解明するヒントになりました。ブログで書いたように、まず感情を基にした結論があって、それを正当化するために人は「知性」を動員するという、ごく当たり前のことが書かれている。つまり、知の粉飾決算報告書である。
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中村 好文
中村さんの著作の中では、個人的に最も好きな本です。読んでいるだけで楽しくなります。限りなく優しい、でも、痛烈な文明批評です。これからの生き方のヒントが満載です。それを一人でも多くの人と分かち合いたいと思い、中村好文論・その3の中で引用させていただきました。
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中村 好文
以下は私がアマゾンのレビューに投稿したものです。再録します。
「もし人に幸福な生き方があるとしたら、中村好文さんのような生き方だろうと、ずっと思ってきました。
建築雑誌をパラパラとめくりながら、ふむ、と思って手が止まると、そこには必ずと言っていいほど中村さんの設計した住宅がありました。
文は人なりと言いますが、その人の書く文章のエッセンスがこれほど見事に建築にも表現されている例はめったにありません。
建築に限らず、食の分野でも、ことばと実物の乖離がはなはだしい時代に、中村さんの設計した住宅や美術館に出会うと、どこか安心するのですね。
そういうわけで、著者の本はすべて読ませてもらっています。
この本も偶然、年末に本屋さんで手に入れ、装丁やカバーの手触りを楽しみながら読んでいます。
読みながらいつの間にかほのぼのとしている自分を発見します。
一日に一編か二編を過去の記憶をたどるようにして読んでいます。
この本の平明さ、やさしさがどこから来るのか。そんなことを分析するのは野暮というものです。
とにかくこの素敵な小さな本は、旅のお供にどうぞ!とすすめたくなります。」
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中村 好文,神 幸紀
中村さんの書かれた本はすべて読みました。どの本もおすすめです。これから家を建てようと考えている人は、どの本でもいいですから、一冊中村さんの本を読んでみてはいかがでしょうか。エッセイとしても十分楽しめます。この本は北海道にあるパン屋さんの建物を作りながら、人は「パンのみにて生きるにあらず」を実践したものです。ダジャレ好きの中村さんらしい(笑)。
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堀部 安嗣
堀部氏のスケッチと自身で撮った写真集。これ見よがしの作家性を前面に押し出したところがない。簡素で謙虚だが、気品に満ちた佇まいは何度見ても見飽きることがない。ブログを書くために、もう一度最初から読み直してみたが、やはり素晴らしい。
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とどまるところを知らない人間の劣化。
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    人間の劣化、特に政治家を始めとして、社会で上に立つ者の劣化がとどまるところを知りません。この傾向は第二次安倍政権が発足して以降特に顕著です。慎み深さも、最低限のモラルも、職業倫理も、教養も、そして責任感も失われようとしています。

     

     

     

    その原因を最も根源的なところまでさかのぼって究明したのが、『資本主義の終わりか、人間の終焉か?未来への大分岐』です。少々早いかもしれませんが、「今年の一冊」の有力候補です。

     

     

     

     

     

     

    そういうわけで、昨夜、高校生の授業でも紹介しました。近いうちに、ブログでまとめるつもりです。

     

     

     

    それにしても、「資本主義の終わりか、人間の終焉か?」などと、何を大げさなことを言っているのか、自分を高みにおいて悲観的な言説をばらまいて何になるのか、これこそ左翼の典型だ、と感じている人も多いと思います。

     

     

     

    しかし、そういう人に限って「英霊」だの「自虐史観」などといったヤワでアブナイ概念を頼りにして考えたつもりになっているのです。「国のために戦う」だの「今日の繁栄は戦争で命を落とした英霊のおかげである」などというセリフを聴いただけで涙ぐんだりします。ああ、何という無知!何という空洞化した人格!その結果、彼らは靖国神社を精神的な支柱として「尊崇」するのです。

     

     

     

    その典型が小泉進次郎です。無知と空洞化した人格の見本です。

    参院選が終わって間もないころ、彼は次のように言いました。「悲観的な考えしか持てない人口12千万人の国より、将来を楽観し自信に満ちた人口6千万人の国の方が、成功事例を生み出せるのではないか」と。

     

     

     

    自分では人口減少社会へのラディカルなビジョンを披歴したつもりかも知れませんが、いつものように風の向くまま気の向くままの観測気球にすぎません。何の根拠もない言いっぱなしこそが、彼の発言の特徴です。

     

     

     

    それよりも、この発言の中に現れている彼の偏見と浅薄さに驚きました。それをあっけらかんと言い放つ無神経さにもあきれます。

     

     

     

    何より、人間を「悲観的な考えしか持てない」人口と「将来を楽観し自信に満ちた」人口に二分するといった、血液型占いよりも粗雑な分類しかできない人間が将来の宰相候補などと言われるこの国の政治のレベルに絶望するのです。

     

     

     

    「ほら、そうやってすぐ絶望する人が成功事例を生み出す人を邪魔しているのですよ」と言われるかもしれませんね。やれやれ、暖簾に腕押しでしょうが、3年以上前に書いた記事を載せておきます。小泉進次郎様、よかったらクリちゃんといちゃつきながらでも結構ですのでお読みください。

     

     

     

    悲観する能力。

    http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=131

     

    感情にもレベルがある。

    http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=126

     

     

    | 文学・哲学・思想 | 16:47 | comments(0) | - |
    英語民間試験の導入は金儲けのために地方の高校生を切り捨てる。
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      これまでブログで何度も指摘しましたが、共通テストへの英語民間試験の導入は,欠陥・不公正だらけです。およそ入試で最も必要とされる条件は公平性ですが、国と文科省自身がそれを破壊しています。公平で客観的な基準をうやむやにする姿勢は、公文書の改ざんのみならず、歴史までも書き変えようとする現政権の本質そのものです。そして財界の意向を受けての今回の件です。最も被害をこうむるのは、この国の若い人たちです。

       

       

       

      そもそも、大学入試は各大学が学生の能力を測るために個別に実施すればよいだけの話です。特に今は18歳人口が減少しているのですから、以前の全教科記述式の入試に戻す絶好のチャンスです。

       

       

       

      マークシート方式は、選択肢の中に正解がすでにあるのですから、それを選ぶだけです。最後は消去法と確率の問題になります。正解へ至るまでの緻密で分析的な思考は必要ありません。これは受験生の学力を大幅に低下させました。

       

       

       

      共通一次試験とそれに続くセンター試験がもたらしたものは、大学の序列化と予備校や塾の隆盛だけです。以後、大学入試のための勉強は予備校や塾の専売特許になって行くのです。公立高校が予備校に倣ったり、人気講師を講演に呼んだりするようになったのもこの頃からです。

       

       

       

      要するに、教育産業は公共部門を民営化する新自由主義(国民の資産である教育を始めとする社会的共通資本を個人の資産に付け替える口実)の先兵となっていくのです。吉本興業が国から100億円以上の補助金をもらい教育部門に進出するのもこの流れです。

       

       

       

      それの極めつけが、共通テストへの英語民間試験の導入というわけです。教育を受験教育に収斂させ、効率と費用対効果を全面に押し出した予備校や塾が、この金儲けのチャンスを逃すはずがありません。本来のコミュニケーションを大学入試という一試験形態の中に限局しようとする動きがあちこちで見られます。

       

       

       

      この流れに異議を申し立てる人がいれば、柴山昌彦文部科学大臣の「サイレントマジョリティは賛成です。」という一言で押し切られるのです。少数意見をなかったことにするこのセリフこそが安倍政権の本質です。まことに唾棄すべき反民主主義的な言い草です。

       

       

       

      柴山昌彦文部科学大臣のこの発言に対して、ある高校生がツイートしています。

       

       

      「高校生として私は反対です。学校、塾の友達も反対。そもそも私たちに国がアンケートを実施した記憶はなく、反対を主張する機会が無い状況でサイレントマジョリティというのはおかしくないですか? 自分に都合のよい声だけを取り上げ、誇張して言及する質の悪いやり取りは、ディベートにもなってない。」

       

       

       

      まさにその通りです。文部科学大臣よりも高校生の方がはるかにまともです。

       

      いつのまにか文部科学省委員になっていた、この「有名予備校講師」も、柴山昌彦文部科学大臣のように「サイレントマジョリティは賛成です。」と考えているのでしょう。「東進」の映像授業は根本的な欠陥があると前に述べましたが、「リスニングで人生が変わる」という何の根拠もない「宗教」を広めるのが使命だと考える人の人生なら、変わるかもしれませんね。たかが英語です。きちっと基礎を固めた後は、各人が必要な時に必要なだけ勉強すればいいのです。それを人生と結び付けるなど、根本的な知性を欠いている人間の考えそうなことです。

       

       

       

       

       

      以下のサイトの記事を読めば、今回の件が単なる大学入試の問題ではなく、国家レベルで知の崩壊が進んでいることが分かります。メディアの劣化はこれに拍車をかけています。全部読んでもらいたいのですが、時間がない人のために今回は代表的な二人の論者の意見を取り上げます。

       

      https://nominkaninkyotsu.com/collaborator/

       

       

       

       

      阿部 公彦(東京大学大学院人文社会系研究科・文学部教授/英米文学)


      英語入試の改悪に反対します。今回の「4技能均等」なる看板は,政治的な理由で捏造されただけのニセものです。テスト運用の観点からも問題は山積。入試出題者が入試対策も請け負うという制度は問題漏洩の温床です。高大接続と大学入試システムの一日も早い「正常化」を願います。

       

       

       

      寺島 隆吉(国際教育総合文化研究所・所長、元岐阜大学教育学部教授/英語教育学)


      大学英語入試への民間試験導入は重大な欠陥があり,中止すべきです。その理由は以下のとおりです。
      1:目的・内容が異なる試験をCEFRで標準化することは不可能。
      2:田舎に住むものと都会に住むものとでは受験する機会がまるで違う。
      3:文科省の指導要領に従わない民間試験を高校生が受験しなければならないのは全くの不合理。
      4:本来は文科省が無料で実施すべき全国大学入試を受験生が高い金を払って受験しなければならないのも全く不合理。
      5:民間試験を受験したとしても,それを採点するのは誰がするのか,その公平性を誰が保証するのか,全く不明。
      6:英語の大学入試を民間委託するのは,高校教育の現場を民間企業のための予備校に変質させる危険性が極めて高い
      7:結局,英語の大学入試を民間委託するのは,英語教育産業を儲けさせる方策となり,英語教育の改善には役立たない

       

      以上。

       

      | 英語教育 | 15:11 | comments(0) | - |
      福島原発事故、森友・加計問題そして日航123便墜落事故。
      0

        今から34年前の8月12日、日航123便が墜落し520人の尊い命が失われました。毎年8月12日になると、テレビがこの事故を報じます。事故の教訓が年々風化していくことを憂えるといった調子です。

         

         

         

        しかし、私はこの事故の真相は34年経った今も明らかになっていない、それどころか政府によって隠蔽されていると考えています。政府の中のある人間たちは、意図して真実と法の支配に攻撃を仕掛けているのです。もちろん、それが引き起こす途方もない悪影響には想像が及びません。

         

         

         

        憲法21条によって保障されている表現の自由など、経済的自由に比べれば何でもないと思っているのでしょう。いや、そんなものを保障していたら、自分たちの悪だくみが暴露されるおそれがあるので、敵視すらしています。いま私たちの国では、国益を理由に、民主主義の根幹をなす表現の自由が葬られようとしているのです。

         

         

         

        真実は民主主義の基盤であり、私たちを独裁主義から切り離す重要な砦です。以前、国会で山尾志桜里(やまお しおり)議員が安倍首相に、憲法ではなぜ表現の自由が経済的自由よりも優越的な地位を与えられているのか、と質問したことがあります。しかし、安倍首相は全く答えられませんでした。この問いに答えられない人間が日本の首相であることに、絶望を通り越して恥ずかしささえ覚えます。

         

         

         

        cf 表現の自由(憲法21条)の優越的地位について。

        http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=118

         

         

         

         

        今回は「真実」や「事実」について、高校生の皆さんに練習問題を出したいと思います。

         

         

        日航123便の墜落事故は、言われているような圧力隔壁の破損によるものだったのでしょうか。もし、事故の真相を闇に葬ろうとする人間たちがいるとしたらそれは誰か。なぜ、どのような方法でそれを行っているのか。ジャーナリズムはそれにどう対峙したのか。福島原発事故、森友・加計問題の真相を隠蔽する勢力と関係しているのか。マスメディアの存在意義は何なのか。

         

         

         

        事件の場合、時系列を意識し、一人でも多くの証言をかき集めることで真実は見えてきます。それを完璧にやってのけたのが、以下の本の著者、元日本航空の客室乗務員だった青山透子さんです。彼女は事故機のクルーと同じグループで乗務していました。真相を究明しようと、東京大学大学院博士課程を修了して、博士号まで取得しました。

         

         

        事実の調べ方、並べ方、相互の関連性を追求する手並みは見事というしかありません。中高生のみなさんは是非読んでみましょう。『日航123便 墜落の新事実』も是非。あまりにも衝撃的で面白いので一日で読めます。

         

         

         

         

        素朴な疑問を提示する森永卓郎氏。これも是非見習いましょう。

         

         

         

         

         

         

        事実はジグソーパズルの小さなピースのようなものです。前後左右に矛盾なく並べることで全体像が見えてきます。完成した絵を見て『モナリザ』だと分かるわけです。このモナリザが真実です。いや、ゴッホの『ひまわり』だと騒ぎたてる人もいるでしょうが、彼らは無知のために盲目になっているだけです。声が大きいだけが取り柄の人物など無視すればいいのです。

         

         

         

        社会に対して素朴な疑問を抱くことなく、自己利益の最大化に資するべく受験勉強に励んでいる皆さんは、配給された「現実」の中で社会への通路だけでなく自分の可能性もふさがれていることに気づくべきなのです。

         

         

        | 中高生の皆さんへ | 22:39 | comments(0) | - |
        あるべき<生>のさ中へ。
        0

          自分の人生を振り返ったとき、幸せな人生だったと思えるための条件は何でしょうか。立派な教育を受け、自分の望む職業に就き、よき伴侶や子供に恵まれて生涯を終えることでしょうか。私はそうは思いません。

           

           

           

          なぜなら、ここに書いたような、人々が無意識のうちに志向する人生は、実はどこにも存在しないからです。類型化されたイメージとしての人生は、現にその中を生きている人間にとっては何の支えにもならないのです。

           

           

           

          実際の人生は、偶然の出来事や悪意によって翻弄される一方で、思いがけない出来事や出会いによって救われたりもします。多くの場合、現実の中であがいているうちに人生は終わってしまうのかも知れません。

           

           

           

          しかし、そもそも「現実」とは何でしょうか。それは、ぶつかり、傷つき、あがくに値するものでしょうか。今や「現実」とはテレビやSNSを通じて流されるエンタテインメントと化した「電子情報」になっています。

           

           

           

          大企業と政府が国家を私物化(コーポラティズムと言います)し、社会的共通資本を破壊し、彼らの代理人に過ぎないテレビとマスメディアによって現実は隠蔽されているのです。

           

           

           

          現実は見ようとすれば誰の目にも見えるものです。もちろん、現実のどの部分を切り取るか、どこに着目するかは人によって様々でしょう。しかし、客観的な事実は確かに存在するのです。偏向したレトリックやでっち上げによって事実を隠蔽しようとする「メガホン男」たちが安倍政権の周りで跳梁跋扈しようとも、早晩、私たちは現実を身をもって知ることになります。

           

           

           

          誰の目にも見える現実が8日の朝日新聞の一面に載っていました。『汚染水タンク、あと3年で満杯』福島第一原発の敷地飽和、という見出しがついています。記事によれば「東京電力は8日、福島第一原発で事故を起こした建屋などから発生する汚染水をためるタンクが、2022年夏ごろに満杯になる見通しを明らかにした。」とのことです。どこが、「完全にアンダーコントロールされている」のでしょうか。

           

           

           

          そのうち海に流すしかなくなります。それを正当化するもっともらしい「科学的な知見」が流布されることでしょう。その時、この事態を引き起こした責任者である安倍晋三は政界を引退してゴルフ三昧の日々を送っているのでしょうね。

           

           

           

           

           

          除染によって出た膨大な量の汚染土はフレコンバッグに詰められて山積みにされたままです。しかも各原発から出た使用済み核燃料が原発敷地内のプールにぎっしり詰まっています。どれか一つでも冷却できなくなれば、この国は終焉を迎えるのです。

           

          フレコンバッグの山。ほんの一部です。

           

           

          現実と言えば、これも現実です。NHKが報道番組の中で臨時ニュースを流すくらいですから。

           

           

           

           

          前にも書きましたが、私たちはもともとウソだった現実をうかつにも現実だと勘違いしていたのです。3・11によってウソがばれた後も、現実が回復したというさらなるウソを重ねられているのが、日本社会です。

           

           

           

          私たちは、アンドロイドが電気羊の夢を見るように、教育を通じて催眠性の薬を飲まされ続けています。地震によって原発が暴発し、そこに津波が襲いかかり、列島を縦断する台風によって高濃度の放射能が国中に撒きちらされる事態など想像すらしていません。

           

           

           

          教育とは、想像力や歴史認識を鍛えることによって、目に見えないものを見る力を育むものです。放射能は目に見えません。しかるに、この国の教育は子供たちに劣等感と嫌悪感を味わわせ、早い段階から「負け犬根性」と「あきらめ」を叩き込んでいます。

           

           

           

          それは一面的な見方に過ぎない、と反論したくなる人もいるでしょう。しかし、一面的な見方ではなく本質的な見方です。私は教育の末端にいて、この国の教育の犠牲者をいやというほど見て来たのです。

           

           

           

          18歳の大学受験の時が知的水準のピークで、学校を出たら何ら自分で知る努力をしない大人たちこそが、日本の教育(塾も例外ではありません。むしろ主導しています。)が描いた理想の愚民なのです。彼らはツイッターの中でわめきちらし、人々の感情や不安に訴え、憎悪と差別を煽ります。哀れな人生というほかありません。

           

           

           

          自分なりの意見を主張する資格は誰にもありますが、自分なりの事実などありません。私には夢の中でさらなる夢を見るような生き方はできません。窓のない地下室で日に日に偏狭になっていくような生き方もできません。

           

           

           

          あるべき<生>とは、この国の過去の死者のために、そして未来の幼き命のために覚醒して現政権と闘うことです。幸福とは、自分一個の幸せを超えて、このあるべき<生>に向かっている時に感じることのできる共通感覚のようなものではないでしょうか。

           

           

           

          | 文学・哲学・思想 | 14:39 | comments(0) | - |
          朝一番の新鮮な空気を呼吸するために。
          0

            今日は8月2日です。部活生の都合で前倒しした中学3年生の模試の日です。最初に、問題に向き合うときの注意事項を述べ、そして終わりに一言。「カンニングはしないように。塾でカンニングをしても何のメリットもありません。カンニングしたい人は学校でするように。あわわわ・・・・」

             

             

             

            冗談はさておき、今回は私たちの日々の生活を息苦しくしているものの正体について書きます。何だ、また政治についてエラソ〜に書くのか、いい加減にしろ、と思っている人もいるでしょうね。

             

             

             

            しかし、私は政治学者でもなければジャーナリストでもありません。日々をどう生きていったらいいのか、それだけを考えるので精一杯です。私が政治について語るのは、庶民の立場から見て、どうにも我慢ならない出来事があった場合(結構あるのです)に限ります。そうでなければ、大切な時間と労力を割いたりしません。

             

             

             

            大文字の政治状況を語る時、常に聞こえてくる声があります。「どうせ人間は死ぬんだ、何をそんなに深刻ぶっているのか。お前の考えていることなど、時間がたてばすべて無に帰すのさ」という声です。つまり、太宰治の小説『トカトントン』の中でこだます虚無の槌音です。それは主人公が労働運動や恋愛に夢中になりかけると決まって聞こえてくる音なのです。

             

             

             

            太宰治『トカトントン』

            https://www.aozora.gr.jp/

            cards/000035/files/2285_15077.html

             

             

             

            さて、日々の生活を息苦しくしているものの正体にもどります。もちろん私が個人的に考えているものです。それが分かったからと言って、明日からの生活が変わるわけではありません。

             

             

             

            しかし、何事であれ原因が分かると対策を立てることができます。私たちの思考や意識が更新され、自由になり、方向性を見出すことができます。そして日々の生活の中で澱んでいた感情が刷新されます。

             

             

             

            私は感情が刷新されることを何より大事にしています。なぜなら、ブログで何度も書いてきたように感情こそが論理を方向づけるからです。感情が劣化していれば、その上に築かれた論理もしょせんは砂上の楼閣に過ぎません。

             

             

             

            ところで、皆さんはオルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』ジョージ・オーウェルの『1984年』をご存知でしょうか。トランプ大統領が誕生した月に『1984年』とハンナ・アーレントの『全体主義の起源』がベストセラー入りしたと聞いて、私はアメリカ社会の知的な層の分厚さに嫉妬しました。

             

             

            今回は『すばらしい新世界』ではなく、ハクスリーの『集中講義』と驚くべき教育への洞察を含んだ『島』を紹介します。

             

             

             

             

            中高生にとっては、オーウェルの『1984年』は、読むのに苦労するかもしれません。名前は知られていても、実際に読んだ人は最も少ないと言われている小説です。しかしその洞察力には脱帽するはずです。おそらく未来の才能ある小説家には避けて通れない作品です。『動物農場』とあわせて読んでみてください。

             

             

             

             

             

            ニール・ポストマンは1985年の著書『愉しみながら死んでいく』の中で「電気プラグが可能にしたテクノロジーによる気晴らし」が私たちの文化的会話を永久に塗り替えていると論じました。

             

             

             

            それは、より些細な、取るに足らぬものになり、伝達される情報も「単純に割り切った、実質のない、非歴史上の、文脈のないものに、つまりエンタテインメントとして梱包された情報」と化していると。

             

             

             

            そして「我々の聖職者や大統領、外科医や弁護士、教育者やニュースキャスターたちは、自らの専門分野の要求よりも演出術を気にかけるようになっている」と書きました。

             

             

             

            1985年の著書ですから、「電気プラグ」とはテレビのことです。しかし、ポストマンの考察はインターネットとスマホが普及した現代にこそ最もぴったり当てはまります。

             

             

             

            つまり、データ過多により、最も明るく光るもの、すなわち最も大きな声または最も常軌を逸脱した意見が私たちの注意を引き、最も多くのクリックと熱狂を獲得するようになった、というわけです。

             

             

             

            そのポストマンがオルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』とジョージ・オーウェルの『1984年』を比較しています。この二つの作品はディストピアを描いていますが、その世界の空気こそが、私たちの社会の生き苦しさの正体なのです。

             

             

             

            『すばらしい新世界』(光文社古典新訳文庫)は、「西暦2540年。人間の工場生産と条件付け教育、フリーセックスの奨励、快楽薬の配給によって、人類は不満と無縁の安定社会を築いていた。だが、時代の異端児たちと未開社会から来たジョンは、世界に疑問を抱き始め・・・驚くべき洞察力で描かれた、ディストピア小説の決定版! 」と紹介されています(「BOOK」データベースによる)。簡単に言うと、薬物と軽薄なエンタテインメントで麻痺した人々が催眠性の人生を送る様子を描いているのです。

             

             

             

            「オーウェルはわれわれから情報を奪う者を恐れた。ハクスリーは、われわれが受動性とエゴイズムに陥るまで多くを与える者を恐れた。ハクスリーは無意味なものだらけの海に真実が溺れることを危ぶんだ」とポストマンは書いています。1985年の時点で、全体主義国家に対するオーウェルの懸念がソ連に当てはまる一方で、西側民主主義国家が出会っている脅威を言い当てていたのです。

             

             

             

            ハクスリーの悪夢によって象徴されているのは、「あからさまにつまらない事柄」によって麻痺するあまりに、責任ある市民として関与できない人々です。

             

             

             

            そして今、日本ではハクスリーの悪夢とオーウェルの描いた全体主義国家が新たな現実味を帯びています。それは、ビッグブラザーがあらゆる物語を支配し、現在と過去を書き換える国家に重なります。

             

             

             

            私たちの社会を覆う息苦しさの正体は、この二冊の小説ですでに描かれていたのです。金と権力で汚れた空気ではなく、朝一番の新鮮な空気を吸いたい人にはおすすめです。

             

             

             

            | 中高生の皆さんへ | 17:05 | comments(0) | - |
            あるネトウヨ誕生秘話。
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              先日、ジュンク堂書店で必要な本を買い、レジに並んでいました。ちなみに私は田舎に住んでいるので、書籍の9割は古本を含めアマゾンで購入しています。それでも、一月に数回は書店に行きます。書店で偶然見つけた本の中に、その後の人生に多大な影響を及ぼしたものがあったからです。思えば、本との偶然の出会いは様々な恩恵をもたらしてくれました。

               

               

               

              スティーブ・ジョブズではありませんが、若いころ読んだ本がその時は点(dot)でも、それが繋がって線となり、面となり、50歳を過ぎて一つの像(picture)を結ぶようになってくると毎日が楽しくなってきます。世界を読解する醍醐味とでも言えばいいのでしょうか。病気にでもならない限り、この楽しみは死ぬまで続きそうです。少なくとも私には歳をとったり退屈している暇などないのです。知りたいことが山のようにあるのですから。

               

               

               

              時々「いや〜、そんなことは学校で習わなかったからね〜」という大人がいますが、わからないことがあれば自分で納得するまで調べ、知識を積み上げていくしかありません。それを怠っておいて自分の無知を学校のせいにするなど、たとえ冗談でも情けなくなります。日本の学校教育はこういう大人を大量に育てているのです。

               

               

               

              話が脱線しました。ジュンク堂のレジの場面に戻ります。私の隣に、70歳過ぎとおぼしき白髪の老人がレジに並んでいました。同じ雑誌を2冊ずつ、合計4冊を手に持っています。ネトウヨ雑誌の『 WiLL 』と『 Hanada 』でした。

               

               

               

               

               

               

               

              70歳過ぎて読む雑誌がこれかと、少し気の毒になったのですが、それは私の傲慢というものです。人がどんな雑誌を読もうが、他人に干渉されるいわれはありません。私は代金を払い書店を後にしました。その老人のことを気の毒に思ったことを反省したものの、そのシーンがいつまでも心に引っ掛かっていました。

               

               

               

              数週間が経ち、その老人のことを忘れかけたころ、偶然以下の記事を見つけました。ブログでネトウヨを批判してきましたが、その内実はここに書かれている通りなのではないかと思います。もちろんこれは例外的なケースかもしれません。人は歳をとると寂しくなり、何かにすがりたくなるものです。以下の小論を読み、老人のことを気の毒に思った理由がわかったような気がしたのです。

               

               

               

              亡き父は晩年なぜ「ネット右翼」になってしまったのか。

              https://www.dailyshincho.jp/article/2019/07251101/

               

               

              あわせて、今年の7月22日に Film photography さんから頂いたコメントも掲載しておきます。

               

              ― コメントをいただきありがとうございます。

               

              低投票率に落胆しつつも、参院選挙結果には一縷の希望を見出すことができました。落ちたりといえども比例でわれわれ国民の代表二人を国政に送り込んだ山本太郎氏の笑顔の清々しさに心を洗われた気分です。次の衆院選に希望を繋ぐことができました。

               



              さて、3・11を界にこの国は全く変わってしまいました。いや、本当はそれ以前から変わりつつあったのかもしれません。日米安保条約新ガイドライン(1997)に始まり、小泉政権下の自衛隊イラク派遣(2003)に戦争への階段を昇りつつあることを、わたくしの父を含む戦争世代は敏感に感じ取っていたようです。亡き父が遺した手記には、岸信介がいかなる人間であったか、そして満州の地でその者どもによって棄てられた者の一人として、かの時代が再び到来することへの恐れと危惧が書き連ねられています。

               



              3・11は我々の国の第二の敗戦日と思います。8・15に続く彼の地での棄民と同じく、自己責任とばかりに棄民が公然と行われるその始まりでした。オリンピック招致が決まった瞬間の強烈な違和感、不都合なる事実を棄てるための壮大な虚飾・粉飾・嘘や偽りが当たり前の世の中にもはや声も上げることもできず、寝たきりとなっていた父がどんなに無念と歯噛みしたことか、その思いをわたくしは引き継いでいこうと思います。

               



              それこそ、戦争世代を親に持つ大人の将来世代への責任だと考えます。―

               

               

              | 文学・哲学・思想 | 21:53 | comments(0) | - |
              犬と横たわるものはノミだらけで起き上がる。
              0

                 

                これは自分を批判する者に対して投げられたトランプ大統領の言葉です。気の効いたアフォリズムのつもりなのでしょう。「ある人が、自分が何者か語るとき、それを信じよ」などとも言っています。

                 

                 

                 

                フィリップ・ロスはトランプを「米国に降りかかる21世紀の大惨事、最も価値を下げる災難」と断じ、「自慢げな愚か者という不吉で滑稽なコンメディア・デッラルテ的人物」だと語っています。

                 

                 

                 

                コンメディア・デッラルテとは、16世紀中頃にイタリア北部で生まれた風刺のきいた即興劇を言います。即興劇のため、決まったストーリーや登場人物はありません。俳優たちが半ばアドリブで演じるのです。観客を喜ばせ、笑わせるのが目的なので流行も取り入れたそうです。

                 

                 

                 

                わが国に目を転じると、コンメディア・デッラルテ的人物どころか日本語すら怪しい男が「立法府の長」として、参院選後の作戦を練っているようです。でも無理でしょうね。立憲民主党と民主党の区別すらついていない政治家に何ができるというのでしょうか。参院選の翌日、時をおかずして大手メディアの幹部たちと食事をするのですから、かなり焦っているのがわかります。

                 

                 

                 

                この男のばかばかしさ、何もかもを自分の話にするナルシシスト的な能力、その嘘の非常識さ、そして無知の深さは、何百万人もの生活を破壊し、憲法を蹂躙し、中学生でもわかる外交政策の失敗を覆い隠しています。それによってもたらされた被害を修復するには、彼が「立法府の長」を退いてから何年もかかるでしょう。

                 

                 

                 

                それにしても、自民党や公明党の議員たちが熱心に彼を支援し、憲法の基本原理を葬り去り、それを国民の過半数が受動的に容認したことを考えれば、被害を修復することが果たして可能なのかどうかさえわかりません。

                 

                 

                 

                山本太郎という一筋の光が見えはするものの、ジョージ・ソンダーズの言う「メガホン男」たちが現政権を取り巻いています。耳障りな知ったかぶりの何も分かっていない人物にハンドマイクを持たせるとどうなるか。そのハンドマイクは知能レベルが「バカ」、音量が「すべての批判をかき消す」に設定されているのですから。

                 

                 

                 

                「メガホン男」からハンドマイクを取り上げるのがメディアの仕事のはずですが、あろうことか、いっしょになって真実を覆い隠し、不安をかきたて、攻撃的で、感傷的で、対立を煽る言説を垂れ流しています。

                 

                 

                 

                さて、「犬」とは誰のことを指し、「犬と横たわるもの」とは誰のことを指しているのでしょうか。もうお分かりでしょう。

                 

                 

                 

                「犬」とはトランプ自身を指し、「犬と横たわるもの」とはその取り巻きを指すのです。「権力と横たわるものはカネ(利権)まみれで起き上がる」いう言葉を彼らに投げ返さなければなりません。

                 

                 

                 

                わが国では、「犬」とはトランプのポチ犬である安倍晋三を指し、彼と添い寝して「ノミだらけで起き上がる」のは、公明党と日本維新の会、コスプレがよく似合う国民民主党の代表・タマキン雄一郎です。おっと、忘れてはいけません。教育事業に打って出るために国民の税金100億円をかすめ取る吉本興業と権力に首根っこを押さえられているNHKを始めとする大手メディアです。

                 

                 

                 

                心ある国民が彼らに反撃するにはどうすればいいのでしょうか。続きは次回に譲ります。

                 

                 

                | 政治 | 23:10 | comments(0) | - |
                詩と書、そして建築。
                0

                  2年ほど前のことになりますが、ブログで次のように書いたことがあります。

                   

                   

                  ― 私が惹かれる建築には、欠くことのできない要素として<詩>があることは確かです。以前ブログで西脇順三郎のことばを引用しました。それは「人間の存在の現実それ自身はつまらない。詩とはこのつまらない現実を一種独特の興味(不思議な快感)を持って意識させる一つの方法である。」というものでした。―

                   

                   

                   

                  <詩>を孕む建築

                  http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=355

                   

                   

                   

                  そして今、在日韓国人の建築家・伊丹潤の作品集をめくりながら、西脇順三郎のことばを思い出しています。作品集P74「建築家の心眼」の中で、伊丹は次のように書いています。

                   

                   

                   

                   

                  ― もし建築に完璧さだけを追い求めたとしたら、まぎれもなく、機能に研ぎ澄まされ、冷たく味気ない空間になるであろう。そして、無駄という掴みどころのない言葉の範疇には、人間の生になにか非凡なもの、あるいは空間の本質みたいな何かがあるようだと、常々感じてきている。

                   

                  空間の深い意味において、機能からではなく、人間の本能のような、人がそこに存在するだけで生気が張りつめる空気みたいなものが流れる。そんな空間は、機能優先の空間には見ることができないであろう。しかるに、建築家の心眼というものに頼るしか手はない。

                   

                  また、人間の思索を深める空間と造形のピュアルティーは、その土地の伝統の文脈の自然なる抽出と、作者の強靭な祈りをこめた造形感覚と自由な思想が基底になくてはならないと思う。―

                   

                   

                   

                  以前、良寛さんの書を見た時に感じたのは、まさに「作者の強靭な祈りをこめた造形感覚と自由な思想」だったのです。いや、こういう言葉さえ超えたところにある、何といえばいいのか、明るい自由闊達さのようなものでした。

                   

                   

                  今では詩と書と建築が、私の中でひとつに溶けあっています。伊丹潤の言葉は、書について、建築について、はたまた詩の本質について語っているのか判然としないほどです。

                   

                   

                   

                  そういうわけで、私の中では、伊丹潤と白井晟一は別格の建築家として、畏怖すべき人間となったのです。以下に二人の書をそれぞれの著作の中から引用します。

                   

                  伊丹潤「土」

                   

                   

                   

                  白井晟一

                   

                   

                  白井晟一「無伴」

                   

                   

                   

                  良寛さんの話に戻りますが、先日、書家のS氏から作品を頂きました。書き損じたものでもいいから、それを壁に貼って好きな時に気兼ねなく見たい、それが私のような素人にふさわしい書の愉しみ方だと伝えていました。にもかかわらず、頂いたものは画像の通り立派に装丁されていました。そして、そこに書かれていたのは、何と良寛さんの漢詩だったのです。最初はリビングにかけていたのですが、まわりが余りにチープなのでバランスが悪く、S氏が帰った後、仏間にかけ直しました。

                   

                   

                   

                   

                  回首七十有餘年

                  人間是非飽看破 

                  往来跡幽深夜雪 

                  一炷線香古匆下 

                   

                  首(こうべ)を回(めぐ)らせば七十有余年
                  人間(じんかん)の是非看破に飽きたり
                  往来の跡(あと)幽(かすか)なり深夜の雪
                  一炷(ちゅう)の線香古窓(こそう)の下

                   

                   

                   

                   

                   

                  書は歳をとればとるほど余計なものが剥がれ落ちて、味が出てきます。Sさん、ありがとう。次回作は私が一番好きな良寛さんの詩(以下)をお願いします、なんちゃって。

                   

                   

                  生涯懶立身    生涯身を立つるに懶(ものう)く 
                  騰騰任天真    騰騰(とうとう)天真に任す 
                  嚢中三升米    嚢中(のうちゅう)三升の米 
                  炉辺一束薪    炉辺一束の薪 
                  誰問迷悟跡    誰か問う迷悟(めいご)の跡
                  何知名利塵    何ぞ知る名利の塵(ちり)
                  夜雨草庵裡    夜雨草庵の裡(うち)
                  双脚等間伸    双脚等間に伸ばす

                   

                   

                  | 身辺雑記 | 12:51 | comments(0) | - |
                  TV の終わり?
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                    今回の選挙で投票率が5割を切ったことに衝撃を受けている人が多いようですが、私はそのことに衝撃を受けています。

                     

                     

                     

                    選挙は地震や津波のような自然現象ではなく、あくまで人為的なものです。つまり民主主義体制であれ独裁体制であれ、結果的に、人間が意図して作り上げたものです。

                     

                     

                     

                    それをまるで予想できなかったことのように驚いて見せるのは、普段この国の基底部で何が進行しているのか、そこに人々の意識がどうかかわっているのかという点を完全に見落としていることを告白しているに等しいのです。

                     

                     

                     

                    「テレビは重要なことを人々に知らせるメディアではなく、人々に知らせないための、あるいは覆い隠すためのメディアになった」と分析し、「TVの終わり」などと大仰に嘆いて見せるのです。TV報道は始まるまでもなく、とうの昔に終わっています。それを前景化して見せたのが3・11だったのです。

                     

                     

                     

                    消費社会ではあらゆる情報は操作されています。それを仕切っているのが電通です。商品の購入だけではなく企業の利益、ひいてはそこから献金を受けている政治家の利益になるようにコントロールされています。原発事故であれほど痛めつけられた福島で与党が勝つ理由を考えてみるべきです。見落としていることがあるはずです。

                     

                     

                     

                    山本太郎はこのことを骨身にしみて分かっています。演説でも何度となく触れていました。学者や評論家のように今度の選挙結果を嘆いていません。すべてを想定していたと思います。そうでなければ、私は彼を支持しません。

                     

                     

                     

                    日本経済新聞は、「参院選、与党が改選過半数獲得へ 野党共闘振るわず」と報じています。自民党は改選議席の67に対して56しか議席を獲得していないにもかかわらずです。見ようによっては「自民惨敗」との見出しも打てたはずです。

                     

                     

                     

                    もうやめにします。今回の選挙、山本太郎の作戦勝ちです。それは閉塞した社会の中を吹き抜けていった一陣のさわやかな風のようなものです。その空気を呼吸した人々は、腐臭を放つ窒息しそうな空気の中で生きていることに気づいたはずです。

                     

                     

                     

                     

                    私は少年の頃のように、真夏の早朝の新鮮な空気が吸いたい。秋の高原を吹き抜けるさわやかな風を胸いっぱい吸いたい。そしてせせらぎを流れる小川の清冽な水でのどを潤したい。私の夢はかくのごとくささやかなものです。

                     

                     

                     

                     

                    | 政治 | 14:33 | comments(0) | - |
                    過去と未来の死者を思い、言葉を紡げ。
                    0

                      Film photography さんから頂いたコメントに返信しましたが、ここに再度載せておきたいと思います。

                       

                       

                      拙いブログを読んでいただきありがとうございます。私はいわゆるジャーナリストやテレビのコメンテーター、自民党、公明党、維新の政治家らが発する言葉が、浮ついた自己顕示欲の発露以外の何物でもないと感じています。

                       

                       

                       

                      この国の歴史的な転換点が3・11にあるということを認識できないいかなる言説も私は信用しません。

                       

                       

                       

                      自民党政権の本質は、福島の原発事故に象徴的に現れています。だからこそ、それをなかったことにしようと目論んでいるのです。

                       

                       

                       

                      東京オリンピックの招致に際して流された「お・も・て・な・し」の映像ほどこの国の馬鹿さ加減を国際社会に知らしめたものはありません。経産大臣を始め、財界のトップが小躍りして喜ぶ様を見て、私はこの国の終末を見てとりました。何も大げさなことを言っているわけではありません。

                       

                       

                       

                      原発は人間が制御できない巨大なエネルギーを生み出す怪物です。飼いならすことが不可能な怪物なのです。隙を見せれば、すぐに眠りから覚め、私たちの文化も歴史も国土も根こそぎにし、この地球上から葬り去ってしまう力を持っています。

                       

                       

                       

                      にもかかわらず、この国の政治家や財界人は、大丈夫、大丈夫と自らに言い聞かせ、国民を欺いてきました。

                       

                       

                       

                      そもそも、ある技術を開発するときには、それが用済みとなった時のことを考えていなければなりません。しかるに、「もんじゅ」を始めとして、廃炉の技術すら確立せずに、しかもそれにかかる費用すら見通せずに見切り発車したのです。万死に値するとは、まさにこのことです。私たちは、着陸する場所のない飛行機の乗客になったのです。

                       

                       

                       

                      山本太郎はこのことが分かっているただ一人の政治家です。彼を行動に駆り立てているのは、おびただしい数の戦死者、経済的な理由で自死を選んだ人々、そしてこれから生み出されるであろう第二第三の原発事故による死者に対する想像力なのです。

                       

                       

                       

                      覚醒する機会はこれまで何度もありました。しかし、そのチャンスを私たちはことごとく潰してきたのです。その風景を幾度となく見せつけられれば、まともな神経をした人間は意気阻喪して現実感覚をなくします。私は若者を非難する気には全くなりません。何もかも、この国の大人に責任があるのです。

                       

                       

                       

                      今度の選挙は、ことによると最後のチャンスになるかもしれません。教育の末端にいる者としては、またぞろ同じことが繰り返されるだろうと予想していますが・・・。今は私の予想が覆されることを祈るばかりです。

                       

                       

                      | - | 18:39 | comments(0) | - |
                      委縮は伝播する。
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                        山本太郎率いる『れいわ新選組』は、今回の選挙活動を通じて、様々なものを可視化しました。中でも特筆すべきは、大手マスコミ、特にテレビ局のふがいなさです。

                         

                         

                         

                        山本太郎の訴えに耳を澄ます聴衆の多さや、その熱気や盛り上がりを目にし、取材しているにもかかわらず、選挙期間中ついにそれを報道しませんでした。政党要件を満たしていないなどという屁理屈ならいくらでも吐けます。

                         

                         

                         

                        しかし、今回の選挙で彼以上に聴衆を集めた政治家がいたでしょうか。一種の社会現象にまでなっているものを、そのまま報道しないのであれば、報道機関はいったい何のためにあるのでしょうか。報道しない報道機関など、悪い冗談以外の何物でもありません。

                         

                         

                         

                        吉本の芸人の謝罪会見や河野外相の韓国に対する選挙目当ての「無礼」発言(これほど恥ずかしいシーンはめったにお目にかかれません)、京アニメの放火事件などは、そのまま報道しているではありませんか。

                         

                         

                         

                        もちろんブログで何度も指摘したように、日本の報道機関が権力から独立しているなどとは思ってもいません。記者クラブにどっぷりつかって、すでに選別された情報をありがたく頂戴して生活の糧にしている人間たちが、安倍政権を批判などできるわけがないのです。

                         

                         

                         

                        それどころか、安倍政権と同じ穴のむじななのです。それすら意識できない人間は、国民のために報道の現場から立ち去るべきです。生活していく術は他にもあります。私のように、塾の教師でもすればよいのです。

                         

                         

                         

                        過去記事

                         

                         マスコミは圧力をかけられているのか?

                        http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=117

                         

                         

                         

                        日本の報道記者や官僚たちは、高偏差値大学を卒業した受験の勝者です。彼らの特技は、何よりも空気を読むことです。自分の地位を守るために裏の裏を読みます。これこそが頭がいいと言われる人間の内実なのです。

                         

                         

                         

                        結果、空気を読む=忖度することが自己目的化します。トップがアホになれば、アホを忖度しなければなりません。かくして委縮は伝播し、国民のことを考える者はいなくなり、国家は破滅への道を突き進むのです。

                         

                         

                         

                        そういった日本の政治文化自体に異を唱えているのが山本太郎です。彼は聴衆のすぐ前で、手の届くところで演説をします。街宣車の上から、一方的に自分の言いたいことだけを叫び、去って行ったりしません。大きなディスプレイにデータを映し出し、それを使って説明します。野党の政治家に彼と同じ手法で、国民と対話する勇気のある人間がいるでしょうか。

                         

                         

                         

                        山本太郎の言葉もさることながら、彼の選挙スタイルそのものが国民の側に立っているのです。今回の彼の街宣の中で、忘れられないシーンがあります。それは反対意見を述べる聴衆に向き合い、限られた時間の中で説得を試みているシーンです。ここに政治家に最も必要とされる資質が現れています。

                         

                         

                        福島駅東口での演説です。3・11以降、彼を政治家にした原点ともいうべき地での演説です。田舎の果樹園で隠れて演説する誰かさんとは大違いです。

                         

                         

                         

                         

                        ヤジを飛ばされれば、警察力でたちどころにそれを排除する安倍晋三(ノミのしんぞう)総理大臣とはあまりに違いすぎます。

                         

                         

                         

                        私たちの生活を大きく左右する力を持つ政治家としてどちらがふさわしいか一目瞭然ではありませんか。たとえ選挙結果が不細工なものになろうとも、山本太郎が荒野に向けて発した言葉は雲散霧消しません。現に私の中で反響しているのです。

                         

                         

                        | 政治 | 22:09 | comments(3) | - |
                        Make hay while the sun shines. (亡き父の誕生日に)
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                          直訳すれば「日のあるうちに干し草を作れ」です。天候の変わりやすいイギリスの風土から生まれた16世紀頃からの有名な諺ですね。ご存知の方も多いと思います。日本語で言えば、「好機逸すべからず」です。すべての物事にはそれをするにふさわしい「時」があり、その「時」を逃すと、どんなに努力をしても成果は得られないという教えです。

                           

                           

                           

                          ところで、7月11日の木曜日、人生初の経験をしました。参議院議員の礒崎陽輔氏(舞鶴高校出身)の応援演説のために安倍総理大臣が大分入りしました。ガレリア竹町で、街宣車の上で演説するのを聴いたのです。いつものように嘘のオンパレードでした。どこがどのように嘘なのか知りたい方はぜひコメント欄で質問して下さいね。

                           

                           

                           

                          思えば、ブログを始めたのも礒崎陽輔氏の詭弁がきっかけでした。そのときの過去記事を挙げておきます。特に「国語力」がないと自覚している高校生だけでなく、「国語力」に自信を持っている人にも読んでもらいたいですね。そうそう、礒崎陽輔氏の支持者にもぜひ。

                           

                           

                           

                          東大は出たけれど − その1

                          http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=2

                           

                          東大は出たけれど − その2

                          http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=3

                           

                           

                           

                          ついでに、中学生でもわかるフェイクニュースの見分け方を書いておきます。それは5W1Hを押さえているかどうかです。質問した時に、これに答えられなければフェイクなのです。

                           

                           

                           

                          例えば、福島第一原発の事故について5W1Hを念頭に置いて質問するのです。そうすれば、「いまだに反原発などと言っているやつらは、キワモノのパヨクだ。原発は完全にアンダーコントロール状態だ」という言説がフェイクのかたまりだとすぐにわかるのです。

                           

                           

                           

                          ネトウヨの皆さんは、ただ安倍総理をマンセーすることで自分の存在を確認したい人たちなので、学問的な体裁をとっていても、ジャーナリスティックな論陣を張っていても、テレビに出る有名人でも、5W1Hを質問すればすぐにしっぽを出します。ただそれを質問する人がいないだけです。

                           

                           

                           

                          人生初の経験にもどりましょう。

                           

                          安倍総理大臣の前は鉄柵で囲まれています。「異分子」を排除するためです。私は入口で安倍総理大臣の顔が印刷されたパンフレットをもらい、自民党員のふりをして人ごみを掻き分け、前へ進みました。チャンスがあればヤジを飛ばそうと考えていたのですが、周りは自民党のシンパやネトウヨでいっぱいでした。そもそも目つきがおかしい若者が多いのです。「オレ様が安倍総理大臣を守るんだ」という「気概」にあふれています。

                           

                           

                           

                          ここでヤジったらどんな「危害」を加えられるかわかりません。若かりし頃ならブルース・リーばりの立ち回りを演じて、ヌンチャクを振り回し、たちどころに敵をやっつけていたでしょうが、今回はヌンチャクを忘れたので止めにしました。

                           

                           

                           

                          暑くて息苦しくなったので、そのマンセー集団から離れて、両脇の歩道の方へ移動しました。そこで安倍総理大臣の演説を聴いたのです。ヤジを飛ばせる雰囲気ではありません。私服警官が各所に配置され、イヤホンと小型マイクを装備して目を光らせています。イヤ、ホントです、なんちゃって。

                           

                           

                           

                          しょーもない演説が終わったので引き上げようとすると、安倍総理大臣が今からハイタッチをします、というではありませんか。そこで私もニコニコしながらその列に並びました。私の前50センチくらいに来たとき、Make hay while the sun shines. というフレーズが浮かびました。

                           

                           

                           

                          私は腹の底から声を絞り出し「安倍晋三!嘘つくな!」と大声で叫んでいました。総理大臣は明らかにビビっていました。「ごめんなさい。ゆるちてください」といったかどうか知りませんが、すぐに目をそらしました。

                           

                           

                           

                          その瞬間、周りにいた私服のお兄さんたちが私を取り囲み抱きついてきました。そんな趣味はないので「言論の自由は憲法で保障されているのだ。あなたたちに発言を封じる権利はない!消費税が何に使われたのか知っているのか!」と叫びました。やれやれ、歳をとるとこんな遊びもできるんですね。

                           

                           

                           

                          妨害されなければまだまだ叫びたいことがあったのです。

                           

                          「こんな人たちに負けるわけにはいかないんですと、もういっぺん言ってみろ!」

                          「TPPはどうなった!」

                          「北方領土は返ってくるのか!」

                          「森友はどこ行った!」

                          「加計はどうなった!」

                          「アキエとタニサエコはどこにいる!」

                          「拉致被害者はどうなる!」

                          「財務省の役人を殺して平気なのか!」

                          「公文書の書き換えを指示したのは誰だ!」

                          「消費税を上げて、国民を殺すつもりか?」等々。

                           

                          全部挙げれば日が暮れます。

                           


                           

                          その後、通りで信号待ちをしていると、警備の責任者だと名乗るお兄さんが近づいて来て「おけがはありませんでしたか?」と聞くのです。「4〜5人の男に抱きつかれたぐらいで、けがなんかするわけないだろうが!」とは言わずに「あなたたちも仕事とはいえ大変だね」と答えました。

                           

                           

                           

                          そのお兄さんに自民党のパンフレットを渡し、付いてきたりしないでねと言い残し、歩いて妻と待ち合わせの場所へ向かいました。のどが渇いたのでトキハのスタバでアイスコーヒーを注文していると、背後から「あの〜、○○新聞の記者ですが、お話をお聞きしてもよろしいでしょうか」と声をかけられました。

                           

                           

                          あれだけの人がいる中で、たった一人で言葉を発したことに感動した、とのことでした。それから1時間余り、その三十代前半の若い記者と色々な話しをしました。そして、こんな素晴らしい記者が今時いるのかと、認識を新たにしたのです。

                           

                           

                           

                          話の中で、山本太郎の発する言葉とエリック・ホッファーの言葉について触れました。本当に思考するための言葉は、今では、学校教育によって刈り取られてしまって、現実を改変する力を持てなくなっている。言葉が意味を失い、単なるつじつま合わせの記号になってしまった。高学歴であればあるほど、この傾向は著しい。

                           

                           

                           

                          山本太郎は高校中退の元芸人だからこそ、真実の言葉を話す人間を見分けられるのだ。逆に、学歴差別の上に構築された社会システムを疑わない人間は、権力と金を持つ人間を忖度することでしか人生に意味を見いだせなくなっている、等々。話題は尽きませんでした。再会を約束しましたが、このブログをN記者が読んでくれているといいのですが・・・。

                           

                           

                           

                          ところで、私が蛮勇をふるって安倍総理大臣に言葉を発したのも、山本太郎の存在があったからです。6年前から、この男は本物だと直感して彼を支持してきました。過去記事をお読みになれば、その一端を理解してもらえると思います。

                           

                           

                           

                          国は誰のために存在するのか − 山本太郎議員を応援する。

                          http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=26

                           

                          山本太郎 vs 安倍晋三 − 暴かれたイラク戦争の本質。

                          http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=28

                           

                           

                          | 政治 | 21:48 | comments(2) | - |
                          昭和は遠くなりにけり。
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                            今朝、庭を見ているとオハグロトンボが数匹飛んでいました。他のトンボと違って、羽をひらひらさせて蝶のように飛ぶので、視界に入りやすいのです。しかし、人が近づくとすぐに逃げてなかなか捕まえることができません。やっとのことでカメラに収めました。

                             

                             

                            よ〜く目をこらさないと見えません。画面中央にいます。バックが黒なので余計分かりにくいですね。

                             

                             

                             

                             

                             

                            オハグロトンボは水と空気がきれいなところにいる、と言われています。してみると、私の家の庭はそういう場所なのかなと思い、少しうれしくなります。木々が鬱蒼と茂る森の中の小屋の風情が漂っていますが、日差しが強烈で外気温が高い日でも、家の中は涼しいのです。

                             

                             

                             

                            私が少年だった頃、水を売って商売が成り立つなどとは思いもしませんでした。

                             

                             

                             

                            帰宅して、ランドセルを放り投げ、裏山に行けば清水がこんこんと湧き出ている場所がありました。夏休みともなると、昆虫や小動物に同一化し、我を忘れて遊んだものです。そして、疲れた手足を冷やすために、冷たい水で顔を洗い、頭から清水をかぶりました。

                             

                             

                             

                            むっとする草の匂い。その間を小さな舌をちょろちょろ出しながら音もなく進むヘビ。蝉の鳴き声。生い茂る木々の葉の間から見える青い空と流れる白い雲。仲間が自分を呼ぶ声。半パンとランニングシャツ一枚で、日が暮れるまで遊びました。間違いなく、人生の黄金時代だったのです。

                             

                             

                             

                            そして高度経済成長の時代。いぜんとして水は水でした。のどが渇いた時に飲むもの。水鉄砲を作って友達の顔めがけて飛ばすもの。かき氷の材料。夕方、庭先の焼けた石にかけるもの。要するに、私たちの周りに水はたっぷりあり、水自体に価値がありました。

                             

                             

                             

                            そして高度経済成長が終わるころには、水の質や安全性が求められるようになります。無尽蔵にあると思っていた清水や湧水が、新たな付加価値を与えられ、商品として売買されるようになったのです。

                             

                             

                             

                            水自体は変わらないのに、季節と時間と場所を考え、消費者が喜ぶ提供の仕方が重要になります。暑い夏の日は、冷やした井戸の水にレモンをひとしずくたらして美しいガラスのコップに入れて出し、冬は身体の芯から温かくなるお茶を和菓子を添えて淹れる、といった風に。

                             

                             

                             

                            結果、水源は投機対象にまでなっています。そしてこの流れは不可逆です。歴史がそうであるように。私は、日々絶滅していく昆虫の種を数えながら呆然とする昆虫学者の心境です。

                             

                             

                             

                            しかし、見方を変えると、これからはモノ自体や量ではなく、それをいかに提供するかという質、言い換えれば芸術的センスが問われる時代になるということです。

                             

                             

                             

                            ただやみくもに情報を仕入れ、有利か不利かというモノサシで進路を設定し、少しでも高い労働力として子供を売りだそうとする発想=受験勉強的発想は、高度経済成長時代の名残に過ぎません。「佐藤ママ」がその時代遅れの発想を可視化してくれました。

                             

                             

                             

                            芸術が常にその時代の支配的な価値観に異を唱えて来たように、これからは効率や量ではなく、勉強そのものの質が、すなわち芸術性が問われる時代になるのです。それは私たちがどのような社会でどのように生きるのかという問いと深く結びついています。それにしても、昭和は遠くなりにけり、です。

                             

                             

                            その来たるべき時代の血路を必死で開こうとしている人間もいます。

                             

                             

                             

                             

                             

                            | 文学・哲学・思想 | 00:10 | comments(0) | - |
                            空虚な人格から発せられる空語!空語!空語!
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                              空虚な人格は、幼少の頃からつねに言われた通りのことをやり、そのことで評価され、賞賛され、おだてられる経験を積み上げて来たため、ついに自分の言葉を獲得する機会がなく、自分が見ている世界が唯一絶対的なものだと思い込むことで出来上がります。

                               

                               

                               

                              つまり、恐ろしく狭い世界に住み、人格が空洞になっているため、自分にとって都合のいい情報や言葉だけがそこで反響し増幅されるのです。したがって支離滅裂で矛盾することも平気でしゃべります。自分で考えてしゃべっていないので、過去の発言との整合性など頭にありません。

                               

                               

                               

                               

                               

                               

                              現職の総理大臣と持ちつ持たれつ。総理のご意向で、私たちの税金が吉本興業に注ぎ込まれています。さすが闇営業の吉本だけのことはあります。なんたってヤクザとズブズブの関係ですから。闇営業という言葉で騙されてはなりません。島田伸介を例に挙げるまでもなく、ヤクザ企業なのです。それよりも、日本のお笑いのレベルが知れるというものです。権力者に媚を売るお笑いなど、腐っているとしか言えません。この国は終わっているのです。

                               

                               

                               

                               

                               

                               

                              実は劣等感の裏返しがそのままキャラになっているのです。いうまでもなく、夏目漱石の時代から今日まで、アメリカやヨーロッパでは、日本人をはじめ東洋人はいまだに「差別される側」です。この事実は鈍感でなければわかります。この劣等感こそが、韓国人や中国人を差別し蔑視する温床となっているのです。

                               

                               

                               

                              これほど醜悪なことはありません。ツイッタ―で嫌韓や反中を叫びながら、一方でトランプや安倍首相を礼賛している人間たちは、世界の現実を知らない国際的田舎者に過ぎません。

                               

                               

                               

                              私が『れいわ新選組』を支持するのは、10人の候補者全員が自分の言葉でしゃべっているからです。自分が経験したことの中で思想を鍛え、常に国民の立場に立って発言しているからです。それを感知できない人間たちは「変わりものだらけの集団だろう」とか「子供とか弱者とか、キレイごとばかり並べている」と考えるのです。

                               

                               

                               

                              私は現政権を支持しません。それは安倍首相の発言やふるまいが「ウソだらけだから」「恥ずかしいから」「痛々しいから」「幼稚だから」「バカにされているのがわからないから」です。あるいは「悪」を感知するだけの知性がないから、というのが理由です。政治の世界では「悪」の本質を洞察できない者は、その「悪」に利用されて国家を破滅に導くのです。

                               

                               

                               

                              安倍首相は、参院選の遊説のスタート地点を福島市の果樹園にしました。東京の秋葉原をスタート地点にしないのは、ヤジが怖いのです。いや、ヤジに応えて思わず自分の本音をしゃべってしまうのが怖いのです。山本太郎のように、聴衆の目の前で自分の信念や政策を語ったり、質問や反論に答えたりすることは絶対にできません。ヘタレですから。

                               

                               

                              201974日の毎日新聞から、その第一声を引用します。

                               

                               

                               

                              ― 福島の復興なくして東北の復興なし。東北の復興なくして日本の再生なし。外交力をいかして福島産の農産物の(輸出時の)規制緩和に全力を尽くした。その結果、福島産の輸出が過去最高になった。トランプ米大統領は意外と人の話を聞く。私の話の筋が通っていると「シンゾー、分かった。その通りにする」と言ってくれる。平和安全法制(安保関連法)を成立させ、助け合える日米同盟になり、絆はかつてないほど強固だ。憲法に自衛隊を明記すると公約に掲げた。最後に決めるのは国民投票だ。そのための審議をせねばならない。それが議員の責任だ。しっかり議論する候補、政党を選ぶのか、責任を果たさず審議しない政党、候補を選ぶのか。(福島市の果樹園で)―

                               

                               

                               

                              開いた口がふさがらないとはこのことです。福島県民は完全にバカにされています。何を言っても、東北人は我慢してじっと耐えるとたかをくくっているのです。ちなみに安倍首相が責任感のある人間なら、沖縄の辺野古を第一声の場所に選ぶでしょう。山本太郎なら、必ずそうするはずです。

                               

                               

                               

                              安倍首相の第一声は欺瞞に満ちています。福島第1原発事故の避難者への家賃補助を打ち切り、仮設住宅を廃止して避難者を追い出し、統計上「避難者はいない」ことにしているのを見ただけでも、安倍政権の意思は明確に示されています。

                               

                               

                               

                              それにもかかわらず、共同通信や朝日新聞をはじめとする大手メディアは序盤の情勢として「自公、改選過半数の勢い」と一面トップで報じています。無党派層が半分近くいるにもかかわらずです。そして「大いに関心」四分の一、18・19歳「必ず行く」前回より低下、と報じているのです。ここにも大手新聞の意思(第三者づらをして、民主主義など信じていないこと)が明確に示されています。それが分かって、私やあなたはどうするのか?

                               

                               

                               

                              過去記事

                               

                              マスコミは圧力をかけられているのか?

                              http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=117

                               

                              | 政治 | 22:14 | comments(0) | - |
                              TOEIC、共通テストへの参加を取り下げる。
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                                この知らせを受けて、受験生を抱える高校や予備校など、教育関係者の間で「激震」が走っているそうです。言葉は悪いですが、バカかと思います。

                                 

                                 

                                 

                                英語民間試験の実施団体がまともなら、今回の決定は当然なのです。「TOEIC」を運営する国際ビジネスコミュニケーション協会は2日「責任を持って対応を進めることが困難と判断した」とのことです。当たり前すぎて、あごが外れそうです。

                                 

                                 

                                 

                                身も蓋もないことを先に言ってしまえば、日本がアメリカの属国である間は、英語「教育」と言っても、せいぜいのところ、宗主国の意向により、植民地の中で「富裕層」の仲間入りをしようと走り回るコマネズミのような人間を育てるだけです。

                                 

                                 

                                 

                                私は、大学入試における民間試験の導入は、財界の要望と官僚の天下り先の確保、およびテスト業者の利益がミックスされた新たな教育シンジケートができるだけだと言ってきました。それは英語という宗主国の言語を梃子にして、日本を回復不能なほどの格差社会にするのです。

                                 

                                 

                                 

                                問題は、格差社会の中で苦しんでいる人たちが、自己責任という言葉で格差を受け入れていることです。政府や大手メディアが垂れ流す情報をそのまま、なんとなく信じ、「世の中こんなものさ」とあきらめていることです。「スキル」と「カネ」がすべての世の中で、それを身につけてこなかった自分が悪いと考え、「オレの考え、リアルじゃね?」と言いたいのです。

                                 

                                 

                                 

                                それは、たとえるなら、中学校や高校で不合理な校則を変えようと行動する生徒への感情的な反発のようなものです。「なにめんどくせえこと言ってんだよ!自分たちだけいいかっこしやがって。こんな集会なんて意味ねえんだよ。」というような。

                                 

                                 

                                 

                                実は、この感情的な反発も、政治的に利用されているのです。これこそが大阪維新の会、日本維新の会の「イデオロギー」なのです。

                                 

                                 

                                 

                                英語の民間試験の話にもどります。私は、民間試験の導入は失敗すると言ってきました。高校生は、時間が制約されているのだから、英文法を徹底的に勉強するべきです。

                                 

                                 

                                 

                                ただし、私の言う英文法とは英語と日本語の間に立ちはだかる壁の本質を理解し、それを取り払うためのもので、英語を日本語の発想で学習するものではありません。おそらくこれまで経験したことのない中身のはずです。興味のある高校生は、いつでも無料体験ができます。

                                 

                                 

                                 

                                以下は、2019年6月19日の、「しわ寄せは受験生に…“欠陥”英語民間試験に学者が国会請願」と題した、日刊ゲンダイの記事です。ぜひお読みください。

                                 

                                 

                                 

                                 

                                 

                                 

                                ― センター試験に代わって2020年度から始まる大学入学共通テストの英語民間試験。東大の阿部公彦教授ら学者有志が18日、利用中止を求める国会請願を行った。制度上の欠陥が多く、最低限の公正性・公平性が確保されていない。高校生や保護者、学校関係者に不安が広がっているという。



                                 英語民間試験は、TOEIC、TOEFL、英検など8つの民間実施団体が行う。各試験での点数を対照表に従い、統一のスコア(6段階)に置き換えるのだが、あり得ない評価法だという。京都工芸繊維大の羽藤由美教授は「全く科学的裏付けがない。50メートル走と握力を測ってどちらが体力があるか見るようなものだ」と声を荒らげた。



                                 加えて、営利を追求する民間業者の入試は公平性を損なう危険が満載だ。受験者数を増やすための“スコアダンピング”はすでに始まっているという。また、実施団体自身が問題集などを発売する対策ビジネスもきな臭い。手の内を熟知する出題者の対策は、鬼に金棒。高得点に直結する“参考書”は、受験生のバイブルになって売れまくるだろう。他にも、5000〜2万5000円超の高額の受験料や、受験機会をめぐる都市部と地方の格差も指摘されている。

                                 

                                 

                                元凶は、8つもの民間実施団体に試験を委ねたからだ。下村博文文科相の下、2014年に始まった有識者会議は、英語ビジネスを展開したい楽天・三木谷浩史会長が主導し民営化が決められたとされる。この有識者会議の傘下の協議会がビックリ仰天だ。阿部教授が指摘する。



                                「外部試験を導入すべきかを検討する協議会に、多くの試験実業者が名を連ねました。推進するのは当たり前だし、自ら実施主体になった。その結果8つもの民間試験が生まれたのです」



                                 協議会は、TOEIC、TOEFL、英検、ケンブリッジ英語検定、GTEC(ベネッセ)などの実施団体がメンバーになっている。天下りを受け入れるなど文科省との癒着関係は深い。

                                 


                                「政治家も民間に開放し、その先に献金を受けるなどうまみがあるのでしょう。しわ寄せはすべてムダな負担を強いられる受験生に来るのです」(阿部公彦教授)



                                欠陥試験で人生の大勝負がメチャメチャだ。―

                                 

                                 

                                 

                                過去記事

                                 

                                「英会話」って何?

                                http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=547

                                 

                                英語学習において最も大事なこと− その1。

                                http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=549

                                 

                                英語学習において最も大事なこと − その2。

                                http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=550

                                 

                                | 英語教育 | 15:26 | comments(0) | - |
                                山本太郎は虎の尾を踏んでいる。
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                                  『れいわ新選組』の候補者を見て、私は心底驚いています。蓮池透氏、安冨歩氏、木村えいこ氏、そして今日、公明党の支持母体・創価学会員の野原善正氏、環境保護NGO職員の辻村千尋氏、元セブンオーナーの三井義文氏、元外資系銀行員の大西つねき氏が加わりました。木村えいこ氏のことは今回初めて知りました。

                                   

                                   

                                   

                                  蓮池透氏、安冨歩氏、大西つねき氏のことは著作を通じて応援していたのです。この3人が『れいわ新選組』から立候補しないかと考えていたのですが、まさかそれが現実になるとは・・・。もう1人、前川喜平氏を期待しているのですが、どうでしょう。古賀茂明氏、植草一秀氏もいいですね。

                                   

                                   

                                  ここに挙げた本は目の前の書棚にあったものですが、どれも素晴らしいです。深く考えさせられ、インスピレーションをもらいました。特に大西つねき氏の『私が総理大臣ならこうする』は具体的でとても刺激的な本です。見にくいかもしれませんが、一番左は大西氏の『希望 ― 日本から世界を変えよう』です。

                                   

                                  ちなみに、安冨歩氏の著書『原発危機と東大話法』は、原発事故から一年も経たない2012年1月15日に出版されています。アマゾンからさっそく取り寄せ、一日で読み、思考がまとまらない中、一人でも多くの人に読んでもらおうと1月18日にレビューを投稿しました。そのときレビューは一つだけでした。それでも瞬く間に600人以上の人が賛同してくれ、日々賛同者の数は増えていました。ところがある日突然削除されたのです。その件に関しては過去記事をご覧ください。

                                   

                                  経済合理性という狂気または合理的な愚か者について

                                  http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=36

                                   

                                   

                                   

                                   

                                   

                                   

                                  今回の人選で、6年前から彼を応援してきた理由が納得できました。今の日本社会を立て直すのに不可欠な人が選ばれているのです。要するに、山本太郎は自民党・安倍政権が財界とアメリカの兵器産業のために破壊し尽くした日本社会を一から寄せ集め、繕いはじめたのです。選挙ではこれまで「よりましな」政党を選ぶしかありませんでした。積極的に応援したいと思ったのは、『れいわ新選組』が人生ではじめてのことです。

                                   

                                   

                                   

                                  3・11でこの国は多くの人命と国土の一部を失いましたが、同時に山本太郎という政治家を生みだしました。私は、歴史の転換点では、真に力ある思想は決して既存の利権集団やイデオロギー集団の中からは生まれない、それは、まったく思いもかけないところから生まれるのだ、と言いました。

                                   

                                   

                                   

                                  かくなる上は、心ある国民は山本太郎を守らなければなりません。かつて、特別会計の闇を追及しようとして暗殺された民主党の石井紘基氏の二の舞にさせてはなりません。山本太郎は命を張っています。虎の尾を踏んでいるのです。

                                   


                                   

                                  | 政治 | 00:40 | comments(0) | - |
                                  ハチドリのひとしずく。
                                  0

                                    これは ちいさな力の大切さを教えてくれる
                                    南米アンデスの 古くて新しいお話――

                                     

                                     

                                    森が燃えていました

                                    森の生き物たちはわれさきにと逃げていきました

                                     

                                    でもクリキンディという名のハチドリだけは行ったり来たり

                                    口ばしで水のしずくを一滴ずつ運んでは火の上に落としていきます

                                     

                                    動物たちはそれを見て「そんなことをしていったい何になるんだ」と笑います

                                    クリキンディはこう答えました

                                     

                                    「私は、私にできることをしているだけ」

                                     

                                     

                                     

                                     

                                     

                                    この話は元塾生のSさんに教えてもらいました。6月23日にホルトホール大分で開かれた元福井地裁裁判長・樋口英明さんの講演会で再会する予定でした。人が多かったせいもありますが、見つけることができませんでした。妻が急用で行けなくなったので、Sさんも僕を探しづらかったのでしょう。ちょうどそのとき疾風自由日記のS君に会い、二人で外へ出ました。

                                     

                                     

                                     

                                    Sさんは30年以上も前の生徒さんです。一緒に勉強したのは、高校3年の時でした。その点では埼玉県で数学の塾をしているO君と同じですね。

                                     

                                     

                                     

                                    一緒に勉強したのはわずかな期間でしたが、二人の若者に影響を与えたことを想うと、人間が偶然出会うことの不思議さに驚く他ありません。塾では勉強するだけで、何ら影響を受けなかった生徒さんもいます。当然ですね。

                                     

                                     

                                     

                                    でも影響とは何でしょうか。人はみな生まれながらに心の中に小さな共鳴箱を持っていて、突然それが鳴り出すのです。その音を聞き分けるために、子供には自由な環境と時間が必要なのです。子供の心を抑圧するようなジャンク情報ばかり与えれば、共鳴箱は一生鳴らないままでしょう。代わりに自分のポジションを守るためのセンサーが鳴るだけです。

                                     

                                     

                                     

                                    樋口さんの講演会では会えませんでしたが、後日、Sさんから丁寧なメールをいただきました。Sさんは樋口英明、前川喜平、小出裕章、そして山本太郎という当代きっての良心に会うことができたのです。それはきっとSさんの人生を善きものにすることでしょう。以下に、固有名詞を伏せて掲載させていただきます。Sさん、ありがとう。

                                     

                                     

                                     

                                    ―― メールの返信をいただき、ありがとうございます。

                                    先生にたくさんお話ししたい事があり、お礼のメールが遅くなって申し訳ありません。

                                     

                                     

                                    Yも私も、変わらず元気に過ごしています。

                                     

                                     

                                    樋口さんの講演会では、私の事も気にかけていただきありがとうございました。

                                    午前中に別の用事があり、会場に着いたのが5分前で、講演会が終わった後は、後ろの席にいらしたA先生にご挨拶していました。今はY中学校で教鞭に立たれていて、今年で定年を迎えるそうです。

                                    T中学校時代、A先生が「原発いらない」のステッカーを車に貼って下さっていた事、今でも嬉しく思い出しています。

                                     

                                     

                                    その後、会場を見渡しましたが、先生と奥様の姿を見つける事は出来ませんでした。

                                     

                                    疾風自由日記のSさんは、先生のブログに何度も登場している方なので、もちろん存じ上げています。

                                     

                                    先生と奥様にお会いできるかもしれない・・と淡い期待を抱いていたので、今回は残念でしたが、きっとまた別の機会にお二人にお会いすることが出来るのではないかと思っています。

                                     

                                     

                                    私の大好きな、憧れの奥様にもくれぐれも宜しくお伝えください。

                                    先生が以前、ブログで旅行の際の奥様の写真をUPして下さった時には、嬉しくて何度も何度も、写真の中の奥様を眺めていました。

                                     

                                     

                                    山本太郎さんの演説会には、急遽予定を変更して慌てて駆けつけました。

                                    約2時間にわたる山本さんの演説を目の前で聴く事ができて、本当に良かったです。

                                     

                                    今、我が家のポストの上に山本さんのポスターを張っているのですが、今回新しいポスターをいただいたので、近々貼り直す予定です。

                                    実家と、母の勤めている会社にも同じものを貼っています。

                                    少しでも力になれればと、ボランティア登録をし、ポスティングちらしも先日申し込みました。

                                     

                                    演説会の後、写真撮影と握手会があり、余計な事とは思いましたが、未来塾のブログのPRをしてきました。

                                    あのブログを読んでもらえたら、きっと山本さんは喜んでくれると思ったからです。

                                     

                                     

                                    先生のブログでは、泣いたり笑ったり、怒ったり感動したり、日々、色々な事を学ばせてもらっています。

                                    塾を何十年も前に卒業しても、いくつになっても、一生私は先生の生徒なんだなと思っています。

                                    今でも、ブログを通して大切な事を教えていただき、深く感謝しています。

                                    塾の卒業生のみなさんも、きっと私と同じ気持で、先生のブログを楽しみにしていることでしょう。

                                     

                                     

                                    「ハチドリのひとしずく」のクリキンディのように、今、私にできることをやっていこうと思っています。

                                     

                                     

                                    ところで、私も5月からニワトリを飼い始めました。

                                    ずっと前から飼いたいと思っていたのですが、小屋作りなどがネックでなかなか踏み出せずにいました。

                                    先生のブログを読んで力をいただき、私も先生と同じ水盛遣り方から始め、四苦八苦しながら何とか小屋を建て、宇佐に初生ビナを引き取りに行き、ポリスブラウンを4羽飼っています。

                                     

                                     

                                    小さい頃のYのように大変可愛らしいので、ニワトリなのに名前まで付けました。

                                    こうやって長年の夢が叶ったのも先生のおかげです。

                                    卵を産んでくれる秋が待ち遠しく、可愛い上に人間模様ならぬニワトリ模様も垣間見えて、毎日笑って楽しく過ごしています。

                                     

                                     

                                    話は変わりますが、去年の12月16日に前川喜平さんの講演会へ行きました。

                                    不登校を考える親の会、星の会主催で、テーマは「憲法26条と教育機会確保法」でした。

                                    今回の樋口さんと同じように分かりやすくお話しいただき、先生のおっしゃる通りとても素敵な方でした。

                                    また、一昨年の9月には、北アルプスの岳沢小屋の朝食の席で、偶然小出裕章先生とお会いしました。

                                    嬉しくて、先生に報告しようとずっと思っていました。

                                     

                                     

                                    メールが長くなり、また拙い文章で恐縮です。

                                    先生の貴重なお時間をいただき、ありがとうございました。

                                     

                                     

                                    子ども達のためにも、末永く未来塾を続けていただける事を、先生と奥様の益々のご活躍を祈念しております。――

                                     

                                     

                                    | 身辺雑記 | 14:01 | comments(0) | - |
                                    私はまだ自分に飽きていない。
                                    0

                                      この後、「だからまた、違う自分に会える。」と続きます。今年の3月に亡くなった俳優・萩原健一の『ショーケン最終章』の最後のページの最後の言葉です。

                                       

                                       

                                      左は同じく役者の山城新伍の『おこりんぼさびしんぼ』です。これほどの痛快エッセイは今や誰も書けないでしょう。「若山富三郎。勝新太郎。ぼくは、この二人の影響以外、誰の影響も受けていない」と言い切っています。これだけで読みたくなりますね。萩原健一の自伝とあわせてどうぞ。

                                       

                                      ちなみに、ショーケンの写真について、妻の理加さんは、「あとがきにかえて」の中で次のように書いています。

                                      「今年に入って病院で何気なく撮った一枚の写真が、この本の表紙に選ばれました。検査結果を待つ時間も、私たちにとってはおだやかな大切な時間であり、夫はいつもと変わらぬやさしいまなざしを向けてくれています。」

                                       

                                       

                                       

                                       

                                       

                                       

                                      小学校の3・4年の頃だったでしょうか、人間をよく観察していると、世間の評判と実際に自分が感じることの間に大きな食い違いがあることに気づきました。

                                       

                                       

                                       

                                      私が住んでいた上野ヶ丘の家の畑を挟んだ真向かいには、背中に入れ墨をしたヤクザのおいちゃん一家が住んでいました。私はそこの子供たち(さよちゃんとみっちゃん)とよく遊んだものです。周囲の大人も眉をひそめたりせずに、その一家と自然に付き合っていたように思います。

                                       

                                       

                                       

                                      当時は日本の労働人口の60%近くが一次産業、特に農業に従事していた時代です。ほとんどの大人は肉体労働で生活費を稼いでいたのです。それはパソコンの前に座って、キーボードをカチャカチャ叩く仕事からは想像できないものでした。

                                       

                                       

                                       

                                      皆それぞれの事情を抱え、同じ地域に住む人間として、貧しいがゆえの助け合い、思いやりの感情を共有していたのです。相対的貧困ではありません。見ればそれとわかったのです。主婦たちは醤油や塩を貸し借りし、男親同士は夜になると将棋や囲碁仲間になっていました。

                                       

                                       

                                       

                                      そのヤクザ夫婦は時々ひどい喧嘩をして、「さよちゃんのおばちゃん」が「助けて〜、殺される!」と叫んでわが家へ駆け込んでくることがありました。私の父は教師で柔道五段でしたので、「ヤクザのおいちゃん」は追いかけてきませんでした。わが家は「さよちゃんのおばちゃん」にとっては、緊急時の避難所だったのです。

                                       

                                       

                                       

                                      そうそう、萩原健一の話でした。昨日6月29日の土曜の午後、新聞を読んでいた妻が「あなたの好きな『鴨川食堂』の再放送があるわよ」と教えてくれたのです。にやにやしながら「忽那汐里(くつなしおり)ちゃんに会えるわよ」と余計な一言というか、私の本心をズバリ言い当てたのです。

                                       

                                       

                                       

                                      そして午後4時からテレビの前に釘づけになりました。やっぱりいいのです。忽那汐里ではなく萩原健一が。いや、汐里ちゃんももちろん良かったのですが・・・。

                                       

                                       

                                       

                                      萩原健一については様々な毀誉褒貶がありますが、そんなことは全く気になりません。世間(大衆)は人間の真実を決して理解しないからです。社会の支配的な価値観に迎合するだけの人間がいくら寄り集まっても、真実に到達できるわけがないのです。

                                       

                                       

                                       

                                      いい歳をした大人が他人の評価や意見を気にするだけで、自分で調べたり勉強したりしないのは、この国の学校教育がもたらした「成果」です。私は人から後ろ指を差されたり、胡散臭く思われたりしている人物の中にこそ、共感できる生き方や真実があることを学びました。萩原健一はやはり一流の役者でした。『鴨川食堂』を観て、そのことを再確認しました。

                                       

                                       

                                       

                                      今年の5月9日、東京国際フォーラムで行われた沢田研二(70)のツアー初日。2曲歌ったところで、彼は突然語り出します。

                                       

                                      「時間は過ぎていく。年齢も重ねていく。死んでいく人もいる。長生きすることが必ずしもいいことだとは思っていませんが……」

                                       

                                       そして、言葉を続けます。

                                       

                                      「さすがにショーケンが死んだときは、こたえた」

                                       

                                      「あいつなんか、死んだら俺となんか比べられるんだよ。昔の事とはいえ、『ショーケンといえばジュリー』と言われちゃうんだよ。俺は腹が立った。ショーケンはそんな奴じゃないぞ。もっと凄い奴だぞ。俺なんて生き方が上手じゃない。ショーケンはもっと上手じゃなかった。それで、萩原健一だ。萩原敬三(本名)だ。俺はあいつが大好きだ」と。

                                       

                                       

                                      やはりわかっている人はわかっているのですね。

                                       

                                       

                                       

                                      『鴨川食堂』の再放送は残り3回です。前にも書きましたが特に(7)「父の海苔(のり)弁」が『鴨川食堂』の白眉です。放送予定は以下の通りです。

                                       


                                       

                                      (6)「初恋のビーフシチュー」
                                      2019年7月6日(土) BSプレミアム 午後4時〜4時49分

                                       

                                      (7)「父の海苔(のり)弁」
                                      2019年7月13日(土) BSプレミアム 午後4時〜4時49分

                                       

                                      (8)「金曜日のチャーハン」
                                      2019年7月20日(土) BSプレミアム 午後4時〜4時49分

                                       

                                       

                                      過去記事

                                       

                                      小さな世界で生きる幸福 ― ドラマ 『鴨川食堂』

                                      http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=107

                                       

                                      『鴨川食堂』という魂の救済場所

                                      http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=124

                                       

                                      | 身辺雑記 | 23:23 | comments(0) | - |
                                      やっと梅雨入りです。
                                      0

                                        昨日は余りにシュールな大人のことを書いたので、気分を変えて今日はホームセンターに赤球土を買いに行って、ガクアジサイの挿し木をしました。アジサイはあまり好きな花ではないのですが、ガクアジサイは別です。花言葉は「謙虚」だそうです。まさにそんな風情が漂っています。母が庭のあちこちに植えていたせいでしょうか、茶花が好きなのです。

                                         

                                        今庭に咲き誇っている「ガクアジサイ」です。淡いブルー、濃いブルー、ピンクとグラデーションが見事です。

                                         

                                         

                                        リビングのガクアジサイ

                                         

                                         

                                        わが家の庭に咲く茶花を紹介しましょう。

                                         

                                         

                                        まず「タイワンホトトギス」です。

                                         

                                         

                                         

                                        次は「ビヨウヤナギ」

                                         

                                         

                                        「シモツケ

                                         

                                         

                                         

                                         

                                        そして私が最も好きな花、「シュウメイギク」です。

                                         

                                         

                                         

                                         

                                         

                                        シュウメイギクは「秋明菊」と書きます。 秋に咲く明るい花という意味で付けられたとされています。 しかし、もとは「秋冥菊」だったという説もあります。 菊に似ていますがそのたよりない儚げな姿が印象的で、土ものの一輪挿しなどに見事なほど合います。この世の花ではない(「冥土」の花 )かと思うほどの美しさであったことからつけられたとも言われています。その後、「冥」では印象が良くないために「明」にしたとされています。シュウメイギクの花言葉は、 「うすれゆく愛情」「淡い思い」「あせていく愛」 だそうです。

                                         

                                         

                                        | 身辺雑記 | 15:36 | comments(0) | - |
                                        佐藤ママの超絶「脳育」論。
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                                          今回も、脳が虚血性発作を起こしそうなタイトルで申し訳ありません。「脳育」などという言葉は私の語彙の中にはありません。しかし、お受験界隈ではいかにも出てきそうな言葉ですね。ある層の人には訴求力のある言葉なのでしょう。

                                           

                                           

                                           

                                          最初に断っておきますが、「脳育」などという言葉で子育てを語るメディアや親御さんとは、そもそも人間観や社会観が根本的に違うので、コミュニケーションは不可能です。実は社会の分断の根本的な原因は、こういう身近なところにあるのです。

                                           

                                           

                                           

                                          佐藤ママの本を読み、「これだ!」と思ったお母様方がランチしながら熱心に情報交換しているところを想像して下さい。彼女たちの幸福感がいびつであること、人間の全体性を無視して子供を幼少のころから受験サイボーグに仕立て上げようとする発想の貧困さには言葉がありません。「脳育」などという言葉は、この種のお母様方をターゲットにするためにおバカな出版社が生みだしたのです。

                                           

                                           

                                           

                                          彼女たちは差別化の道具として、学歴や年収や勤めている会社や住んでいる場所、はたまたどこの幼稚園出身かというようなモノサシを使います。最近はどこの塾に通っているかもプラスされているようです。やれやれ。

                                           

                                           

                                           

                                          人格が空洞化しているので自分に自信が持てず、絶えず他者と比較することで自分を維持しています。当然、比較のモノサシは計量可能な数量的・外形的なものにならざるを得ません。

                                           

                                           

                                           

                                          直接人と会って話したり、本を読んだりした後、自分の内部に生起した感情や知識と向き合うことで、人は自分というものがわかるのですが、その習慣が未形成なのです。おそらく、似た価値観の親に育てられたためでしょう。

                                           

                                           

                                           

                                          一方、地方に住み、ごくふつうに暮らしている母親たちは(都会の母親から見ればリテラシーの低い田舎者に映るのでしょうが)、学歴にこだわったりせずに、子供が自立する手助けをしようと、疲れている中、夕飯の支度をしたり、洗濯物を干したり、時には子供に八つ当たりしながら愛情込めて育てています。

                                           

                                           

                                           

                                          もちろん地方にも、何が何でも「県立トップ校」に合格させようと考えている母親もいます。都会に生息する「佐藤ママ」たちの価値観を内面化しているのです。

                                           

                                           

                                           

                                          下品なリバタリアン(オバタリアンではありません)である「佐藤ママ」たちは、学歴や年収が幸福のメルクマールであると考える新自由主義的な価値観に洗脳されています。ちょっと言い過ぎですね。洗脳という言葉が悪ければ、自ら様々な情報を入手し、それを取捨選択する中で子供の幸福にとってベストと考える進路を選択している、と言い換えましょう。

                                           

                                           

                                           

                                          でもエスカレートすると、中学受験にからんで子供の髪の毛をむしり取ったり、ナイフで刺し殺したりする親も出てきます。いや、これは極端な例でした。極端な例の背後には、その事件を生みだす下地が準備されている筈だと考えるのが、私の悪い癖です。私は世間の耳目を驚かせる事件よりも、海面下に沈んでいる氷山の方が気になるものですから・・・。

                                           

                                           

                                           

                                          本来、子供の養育は、日々驚きと喜びに満ちている最も生きがいを感じる行為のはずです。「養育」が「教育」になり、「教育」が「受験教育」になり、さらには「受験教育」が「脳育」になっていくのを加速させているのが「佐藤ママ」に象徴される価値観なのです。

                                           

                                           

                                           

                                          もちろんそれが素晴らしいことのように宣伝する塾や出版業界の罪は大きい。彼らは珍奇な受験ネタで消費者の関心を引き、生き残りをかけています。例えばプレジデント社、東洋経済新報社、ベネッセ、ダイヤモンド社、それに最近では朝日新聞社の『アエラ』も加わり多士済々です。

                                           

                                           

                                           

                                          今では事あるごとにそれをオンラインで配信しています。中身は相も変らぬ金太郎飴で、脳科学の知見や医学的根拠あるいは経済学的発想?を無理やり持ち込んで「エビデンス」と称して、さも根拠があるかのように喧伝しています。その具体例をお目にかけましょう。

                                           

                                           

                                           

                                          受験本の執筆で名を馳せた東大理三出身の精神科医・和田秀樹氏と「佐藤ママ」の対談です。タイトルは、「子供4人を東大医学部へ入れた主婦の脳育」です。出ました「脳育」!

                                           

                                           

                                          『プレジデントベイビー 0歳からの知育大百科 2019完全保存版』の掲載記事から一部抜粋しました。「佐藤ママ」のエスカレートぶりをとくとご覧下さい。

                                           

                                           

                                           

                                          【佐藤】私も家の中の知的な雰囲気は大切にしていました。身近なところに新聞や本を置いたり、読み聞かせをしたり。3歳までに1人につき、のべ1万冊の読み聞かせをし、のべ1万回童謡を歌って聞かせました。すごいでしょ?

                                           

                                          【和田】それはすごい!

                                           

                                          【佐藤】一緒にたし算の勉強なんかをしていると、「あれ、この子、7+8 が他の計算より 0,005 秒遅いわ」とか気が付くんですよ。その小さな違いが、のちのち大きな躓(つまず)きの原因になると思って、7+8 を何度も練習させました。,005 秒の違いに気付いてやれるのは親だけですから、一緒に乗り越えていけるようなやり方を探せばいいんです。やはり、子どもが勉強できないというのは、私は親のせいだと思いますね。親の努力不足。できないのはやり方が間違っているから。その子に合ったやり方を見つけてやれるのも親だけだと思います。

                                           

                                           

                                           

                                           

                                          あわわわ・・・。佐藤ママは子供が1歳になるかならないうちから公文に通わせ、3歳の頃にはバイオリンとスイミングも習わせていたそうです。子供が帰宅すれば「のべ1万冊の読み聞かせ」と「のべ1万回の童謡」が待っています。これでよく発狂しなかったものだと思います。私は立派な「児童虐待」だと思いますけど・・・。

                                           

                                           

                                           

                                          3歳までに「のべ1万冊の読み聞かせ」って、1日何冊になるんでしょうか。1年で3,333 冊。1日で約9冊ですね。しかも0歳児の時からですよ。日曜日も、クリスマスも、正月も関係なく毎日9冊!1日サボれば2日で18冊。一体どんな本を読み聞かせしていたのでしょうか。ぜひ知りたいですね。和田秀樹氏はこんな素朴な疑問すら抱かなかったのでしょうか。

                                           

                                           

                                           

                                          それにしても、1万冊の本をどこに収納していたのでしょうか。私はそのボリュームを想像できるのですが、3歳までの読み聞かせに適切な本を1万冊どうやって選んだのでしょうか。「佐藤ママ」の家は、かなり本格的な児童図書館なのでしょうね。

                                           

                                           

                                           

                                          「あれ、この子、7+8 が他の計算より0,005秒遅いわ」に至っては、何というか、シュール過ぎて言葉がありません。0,005秒って、どんなストップウォッチで計ったのでしょう。この0,005秒の差がのちのち大きな躓(つまず)きの原因になるような人生って、誰のどんな人生でしょう?もう頭がくらくらしてきました。余りのバカさ加減に。

                                           

                                           

                                           

                                          バカなのは「佐藤ママ」だけではありません。「佐藤ママ」の「すごいでしょ?」に「それはすごい!」と応じる受験本のカリスマ・和田秀樹氏も同類です。「佐藤ママ」は東大理三出身の精神科医に賛同してもらって舞い上がっています。和田氏も東大理三にわが子を4人合格させて注目された「佐藤ママ」に一目置いています。

                                           

                                           

                                           

                                          よくもこんな他者意識(誰に読ませるのか、その結果どのような影響をもたらすのか意識すること)のない対談ができるものです。身内意識でもたれ合っているだけです。この二人は東大理三を現世の教育界における最高神だと崇めることで正常な感覚を失くしたバカな大人に過ぎません。もはや平気でウソをついても誰からも批判されないだろうと、たかをくくっているのです。誰かにそっくりです。令和元年の日本のエリートたちの精神構造はここまでシュールになっているのです。

                                           

                                           

                                           

                                          もうやめにします。最後に和田秀樹氏に一言。あなたは以下のようなタイトルの本を出していますが「佐藤ママ」が「自分を平気で盛る人」だとは気付かなかったのですか?精神科医なのに・・・。あなたを信用できないのは、いい歳をしてこういう肝心なことに気づかない「お利口さん」だからです。

                                           

                                           

                                           

                                          この二人のバカな大人に対する本格的な批判は次回に回しますが、それは私自身の経験と真に知的な子どもを育てる方法を語ることになります。よければ、もうしばらくお付き合い下さい。

                                           

                                           

                                           

                                           

                                           

                                           

                                           

                                          アマゾンのレビューではこの二人の本を評価する人が多いのですが、そもそもまともな親はこんなタイトルの本に手を出しません。佐藤ママによれば、子育ては3歳までに「ざっくり」「ゆるく」「とりあえず」1万冊の本を読み聞かせ、1万回童謡を聞かせ、公文とバイオリンとスイミングを習わせるのですね。まともに相手をするのがアホらしくなります。

                                           

                                           

                                          | 教育 | 22:26 | comments(0) | - |
                                          原発の問題は禁忌の問題そのものです。
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                                            昨日はホルトホール大分へ元福井地裁裁判長・樋口英明さんの講演を聞きに行きました。その前日は、大分のOPA前で山本太郎参議院議員の街宣があることを元教え子のSさんに教えてもらったのですが、都合で行けず、山本議員を励ます機会を失いました。本当に残念です。

                                             

                                             

                                             

                                            樋口さんのことは過去何度もブログで取り上げているので、顔見知りのような気がして楽しい講演会でした。それにしても裁判官が退官後とはいえ、自分が下した判決について言及するだけでなく、講演までするというのは前代未聞のことです。その理由は国家の存亡にかかわるからだというのです。

                                             

                                             

                                            謦咳に接することの大切さを身にしみて知っているので、30分前には会場に入り、一番前の席に座りました。徐々に席は埋まり、会場は一杯になりました。それでも若い人の姿はほとんどありません。

                                             

                                             

                                            講演は次のように始まりました。


                                            3・11以後、地震を理由に原発をとめた裁判長は2人。止めなかった裁判長は15人以上だそうです。その差は、政治的な圧力などではなくて、危険性が分かっているかどうかだと言います。拍子抜けするほど単純な理由です。

                                             

                                             

                                            大分講演では、裁判長は皆確信を持って判決を書いている、圧力に屈して判決を書いたのならわかるが、確信を持って書いているので怖いと発言されていました。裁判官という職業の核心に触れる発言だったので、私は思わず笑ってしまいました。要するに裁判官は確信犯的な専門職なのです。

                                             

                                             

                                             

                                             

                                            以下の動画は大分での講演ではなく、5月11日に愛知で行われたものです。大分での講演がアップされたら切り替えます。

                                             

                                             

                                             

                                            彼の講演は中学生にでもわかる平明さと、巧まぬユーモアにあふれていて分かり易いものでした。小難しい法理論をこねくり回すようなものではなく、本当に国民の側に立った判決を下せる人の人柄がにじみ出ていました。

                                             

                                             

                                             

                                            5月24日のブログで私は次のように書きました。

                                            http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=566

                                             

                                             

                                            「私の出身校である大分上野丘高校の先生方や生徒さんたちは、彼の話にきっと共感してくれるだろうと思います。特に大学の法学部を目指し、将来、裁判官や弁護士、検察官を希望している人にはめったにない機会です。当日は高校生の皆さんで一杯になるといいですね。」と。もちろんアイロニーです。

                                             

                                             

                                             

                                            「県立トップ校」の教師たちがこの講演会のことを生徒に知らせるわけがありません。そもそも知らない教師がほとんどでしょう。そんな講演会で時間をつぶすより英単語の1つでも覚えた方がましだと考えるのが彼らの発想です。

                                             

                                             

                                             

                                            今の学校教育では、生徒も教師も、自分だけではなく将来の子供たちやそのまた子供たちの命に関わることよりも、「自分の夢の実現」に注力することの方が大事だと思っているのです。

                                             

                                             

                                             

                                            マックス・ウェーバーを引き合いに出すまでもなく、政治こそ文化の最高形態です。上野丘高校の生徒さんが、香港の学生のような政治意識を持つ日は果たしてやってくるのでしょうか。それともホリエモンのように無知で頭の悪い人間の影響を受けて、デモをする若者たちを罵倒するようになるのでしょうか。

                                             

                                             

                                             

                                            受験勉強という世間から隔絶した透明な檻の中で、キャラを立て、お笑いに名を借りた芸が受けるかどうかを気にするような日常を送っていては、真の学力など身に付きようがありません。

                                             

                                             

                                             

                                            話がそれました。

                                             

                                            樋口さんの講演は、学ぶということの意味だけではなく、知的な人間になるためのヒントが詰まっていました。彼の考えはすべて「そもそも」と言う素朴な疑問から発せられていることが分かります。

                                             

                                             

                                             

                                            開口一番、「そもそも危険って何ですか?」に始まり、「科学的思考とは何ですか?」「事実って何ですか?」「仮説に過ぎないものを学問的定説と見なすことができますか?」と続きます。常に原点に立ち返って説明するので、わかりやすいし説得力があります。

                                             

                                             

                                             

                                            もちろん、法律の専門家ですから、事実や科学的な知見を法律的に構成して世間に問わなければなりません。彼に最高裁の判例を踏襲しただけのつじつま合わせの判決ではなく、国民の胸に響く判決を書かせたのは、「理想の審判者としての国民」を信じる知性であり、専門家の発想を超える勇気あるアマチュア精神のなせるわざだったのです。これこそが憲法に謳われている裁判官の「独立性」であり「良心」なのです。

                                             

                                             

                                             

                                            彼は言います。

                                             

                                            「政治家の仕事は、消費税を上げる上げない、移民を認める認めない、というような選択の仕事だけど、私はそんなに政治家に対して厳しいことは言わない。選択で60%合っていればいい、40%間違っていても少しずつ世の中良くなる。だけど、そうじゃない、原発の場合は。

                                             

                                             

                                            医師の国家試験で85点の人が合格して95点の人が不合格になる。なぜそうなるかと言うと、医者の国家試験の選択問題で、患者が死亡する薬を選んでしまったら落ちる。取り返しのつかないことをする人は医者としての資格がないと考えるから。これを禁忌の問題と言う。原発の問題は禁忌の問題そのものです。

                                             

                                             

                                            だからそれぞれ責任を、総理大臣としての責任を果たしてほしい、裁判所は裁判官の責任を果たしてほしい、私は裁判官としての責任を果たしたという自負はあるが、それで自分の責任は終わっているとは思わない。原発の本当の危険性を知ってしまった以上、それを皆さんに伝えるのが私の責任だと思っています。それを聞いてしまった皆さんの責任は?それを伝えることじゃないですか。特に若い人に伝えて下さい。若い人は原発に対して責任がないけど負担だけまともに負っちゃう。非常に申し訳ない。そういう若い人に特に伝えて下さい。それがあなた方の責任です。」と。

                                             

                                             

                                            | 中高生の皆さんへ | 13:08 | comments(0) | - |
                                            私たちはいつまで騙され続けるのか。
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                                              ゲームに夢中になっている小学生なら、いや、ゲームをしていない小学生でも以下の問いには簡単に答えられるでしょう。

                                               

                                               

                                               

                                              すぐ近くでじっとしている標的と動いている標的とでは、どちらが狙いやすいですか?仮に相手から攻撃された場合、どちらが反撃しやすいですか?

                                               

                                               

                                               

                                              もちろんある場所に固定されている標的の方が攻撃も反撃もしやすいですよね。攻撃とか反撃とか物騒な言葉を使うのはどうかと思いますが、ゲームの中では当たり前の発想です。

                                               

                                               

                                               

                                              つまり、ゲームという一見価値中立的なヴァーチャル空間の中で、子供も大人も戦争のシュミレーションをしているのです。そこでは、ほとんど条件反射的に敵を攻撃するように仕組まれています。

                                               

                                               

                                               

                                              ところで、上の問いに対して、信じられない答をした人がいます。その人は国を守るということ、すなわち安全保障に関して詳しい(あくまで戦車に乗ってピースサインをしてみせるような人物の脳内ゲームレベルですが)と言われている人物です。そうです、わが国の総理大臣・安倍晋三氏です。

                                               

                                               

                                               

                                              今年の2月12日、衆院予算委で「イージス・アショア」導入について、その必要性に疑問を投げかけられて答えました。

                                               

                                               

                                              イージス・アショアというカタカナでごまかしていますが、要するに、海上を動き回る艦艇にではなく、陸上に6000億円以上をかけてイージスの基地を作るというのです。

                                               

                                               

                                               

                                              「まさに陸上においての勤務となる。これは(洋上勤務となるイージス艦とは)大きな差なんですよ、全然ご存じないかも知れませんがね。(隊員が)自分の自宅から通えるわけですから。勤務状況としては違うんですよ。そういうことも考えていかなければいけない。実際に皆さんは勤務されたことがないから、そんなことをおっしゃっているんでしょうけど」

                                               

                                               

                                               

                                              あわわわわ・・・。陸上にミサイル防衛システムを配備することの危険性、すなわち国民の命を危険にさらすことになるという指摘に、「(隊員が)自分の自宅から通えるわけです」と答える総理大臣など前代未聞です。「自分の自宅から通える」範囲で戦争できるんですよ、隊員の負担が軽くなるでしょ、と言っているのです。

                                               

                                               

                                               

                                              なぜこのようなハチャメチャな答弁になるのでしょうか。一つには晋三氏の能力に問題があるのは当然ですが、実はすべてをアメリカ(アメリカ国民ではなくアメリカの兵器産業とその株主であるトランプ政権の閣僚たちや日米合同委員会)に依存して何も考えなくても済む、考えても無駄という状況になっているからです。

                                               

                                               

                                               

                                              そもそも、イージスとは特殊なレーダーと高度な情報処理・射撃指揮システムにより、200を超える目標を追尾し、その中の10個以上の目標を同時攻撃する能力を持つと言われています。う〜む、なんだか凄いですね。頼りになりそうです。

                                               

                                               

                                               

                                              しかし、それは日本を守るためのものではありません。以下の図を見て下さい。秋田市も山口県の萩も、北朝鮮のミサイル基地とハワイおよびグアムの米軍基地を結んだ直線上に位置しているのです。だからイージスは日本を守るためではなくアメリカを守るためのものだという人が多いのです。その通りなのですが、「アメリカを守る」のではなくアメリカの兵器産業を守るためです。

                                               

                                               

                                               

                                               

                                               

                                              わが国はすでにイージス艦を7隻持っていますし、2020年には8隻態勢になります。もちろんアメリカは陸上にイージスの基地を作ったりしません。国民の命を危険にさらすことになりますし、市民が反対して作らせないでしょうから。すべて艦艇に搭載しています。

                                               

                                               

                                               

                                              欠陥戦闘機のF35や事故が多くてアメリカでは使用できないオスプレイは、日本に買ってもらうしかないのです。もちろん陸上にイージスを配備することなど常識では考えられません。いったいそんなものに莫大な税金を投ずる国が日本以外にあるでしょうか。

                                               

                                               

                                               

                                              ところで、皆さんは北朝鮮に対してどのようなイメージを持っていますか。狂人的な独裁者が支配しているイカれた国で、いつミサイルをぶっ放すかわからない怖い国、といったところでしょうか。しかし、これはすべて新聞やマスコミによって捏造されたイメージです。

                                               

                                               

                                               

                                              外交一つとってみても、日本よりもはるかにしたたかで緻密な計算をしています。安倍政権の外交が何一つ成果を上げられず「やってる感」だけを演出しているのと対照的です。

                                               

                                               

                                               

                                              北朝鮮はすでに160カ国と通商関係を結んでいます。ロシア、中国、韓国、イタリア、スイス、シンガポール、インド、台湾、香港、タイなどから投資を受け、350社を超える合弁企業を設立しています。このように各国は軍事的な対立を演出しながら、裏では経済の協調体制を敷いているのです。

                                               

                                               

                                               

                                              皆さんは2017年の8月、北朝鮮からミサイルが飛んでくるとしてJアラートが発せられていたときのことを覚えているでしょう。都内では電車が運休し、各地で避難訓練が行われていたとき、総理大臣はゴルフに興じ、閣僚たちは外遊に出かけていました。国際線は通常運航でした。不動産株も銀行株も国債にも変動はありませんでした。つまりこれは、日米の防衛予算を増やすためのヤラセに過ぎなかったのです。

                                               

                                               

                                               

                                              ここで一つ面白いエピソードを紹介しましょう。わが大分県の中高一貫高である県立H高校は、ヤラセに引っ掛かってグアムへの修学旅行を取りやめました。これだけでもびっくりですが、なんと旅行先を福島に変更したのです。まあ県立高校のトップの政治意識はこんなものでしょうが、楽しみにしていた生徒たちがかわいそうです。

                                               

                                               

                                               

                                              さてもう終わりにします。国際社会は北朝鮮を脅威とみなしていません。それどころかアメリカの鉱山協会は北朝鮮で資源開発調査を行い、フランス系の資本が携帯電話網を整備し、ドイツのDHL社が物流インフラを整備し、日本の出資を受けているラファージュ社が軍事物資であるセメントを生産しています。これを受けイギリスは北朝鮮専門の開発ファンドを設立しているのです。

                                               

                                               

                                               

                                              本を読み、ネットを活用すれば(そのためには、本物の英語力をつける必要があります)これくらいの情報は手に入るのです。これでもあなたは、捏造された北朝鮮のイメージを信じ続け、騙され続けるのでしょうか。しかし一体いつまで?

                                               

                                               

                                               

                                              最後に一言。北朝鮮が本気で日本やアメリカを滅ぼそうと考えるなら、日本海側にずらりと並んだ原発をミサイルで攻撃するはずです。これで世界の資本主義経済は終わります。もちろん北朝鮮も同じ運命をたどります。それから先の世界がどうなるかは、想像力のある作家や映画監督に任せるほかありません。

                                               

                                               

                                               

                                              過去記事

                                               

                                              「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」

                                              http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=402

                                               

                                              公立中高一貫校の「前倒し学習」って何?

                                              http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=256

                                               

                                              北朝鮮の問題で安倍首相が主体的に決断できる可能性は1%もない。

                                              http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=406

                                               

                                              現代の戦争に偶発はない、すべて営利行為である。

                                              http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=339

                                               

                                              気分はほとんど開戦前夜

                                              http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=401

                                               

                                              | 政治 | 14:22 | comments(0) | - |
                                              Idiot Box (バカの箱)を遠ざける。
                                              0

                                                何十年振りでしょうか。ヘミングウェイの短編小説『心が二つある大きな川』を読んでいます。原題は Big Two-Hearted River。どういうわけか題名を含めて、いや題名ゆえに心に残る小説です。

                                                 

                                                 

                                                 

                                                彼の小説は自伝的要素を含んだものが多く、しかもすべての文章が暗喩になっています。主人公が人里離れた渓流へ鱒釣りに行き、テントを張り、鱒を釣り、食事を作り、毛布を敷いて眠る、ただそれだけのストーリーです。

                                                 

                                                 

                                                 

                                                表現は簡潔で、引き締まった文体は、感情移入する余地がほとんどありません。戦争で深く傷ついた心を持てあましている主人公が、自己回復のために一人で自然と向き合い、日常に復帰しようとする物語です。

                                                 

                                                 

                                                 

                                                この小説は、子供を交通事故で亡くした母親が、家にこもっていると気が変になりそうなので、外に出てひたすら手作業に没頭することで精神の安定を取り戻す話を思い出させます。

                                                 

                                                 

                                                 

                                                ヘミングウェイの小説は、日本の作家では小川国夫を彷彿とさせます。私は二十歳の頃、彼の小説を好んで読んでいました。当時の私は精神の重りになるような文章を必要としていたのです。たまたま、大阪の旭屋書店に行くと、彼のサイン会が開かれていました。偶然とはおそろしいものです。

                                                 

                                                 

                                                 

                                                実物の彼は物静かで、ギリシャ彫刻を想わせる彫りの深い顔をしていました。作家然としたところがなく、淡々とサインに応じていました。マイナーな作家でも熱心なファンがいて、次々に色紙を差し出していました。

                                                 

                                                 

                                                 

                                                私は色紙など準備していません。そこで彼の全集本の一冊を買って、それを恐る恐る差し出しました。彼は私の目をまっすぐ見つめ、裏表紙にサインしてくれました。それが以下の画像です。後日、私は乏しい小遣いをはたいて彼の全集を買いました。軽佻浮薄な言葉が雑音のように頭の中に侵入してくると、彼の本を読んだものです。

                                                 

                                                 

                                                 

                                                 

                                                 

                                                 

                                                欧米の知識人はテレビを Idiot Box (バカの箱)と呼んでいます。しかし、多くの日本人はテレビなしでは時間を持て余すだけでしょう。一週間だけでもいいから、テレビなしの生活を送ってみてはどうでしょう。

                                                 

                                                 

                                                 

                                                そもそも、Idiot Box が垂れ流すニュースは、総理大臣とマスコミが酒を飲みながら内容を決定しているのです。政権とメディアの談合です。特に安倍総理のお気に入りであるNHKの岩田明子氏の垂れ流すニュースはフェイクニュースならぬ大本営発表と化しています。

                                                 

                                                 

                                                 

                                                当然、TPP の危険性も原発事故の実態も報道されません。日本新聞協会も自民党に献金しているので、新聞にも期待できません。野党の立憲民主党も東京電力の労組から支持されているので、真に国民の側に立った政策など望むべくもありません。

                                                 

                                                 

                                                 

                                                私は、政治的な内容のブログを書くことに飽き飽きしています。もっと書きたいことがあるのです。しかし、「政治的」という言葉がいつの間にか「政権を批判する言葉」という意味にすり替えられ、「芸人は政治的発言をするべきではない」というように使われています。それが証拠に、安倍政権をヨイショする松本人志とその影響下にある芸人の発言は「政治的」とは見なされません。

                                                 

                                                 

                                                 

                                                テレビに気を取られているすきに、グローバル資本によってこの国は乗っ取られてしまいました。それに気がついて、押し戻そうとしている政治家は山本太郎一人だけとは、余りに気が滅入る風景ではないでしょうか。

                                                 

                                                 

                                                 

                                                私は、残りの人生を自分の好きなことをして暮らしたいのです。しかし、政治がこの体たらくではそれもできません。この国の行く末がどうしても気にかかるのです。若い人に期待するしかないのですが、それが極端なアメリカ排斥主義にならないように、小さな声を上げ続けるつもりです。モットーは「一人でもやる。一人でもやめる」です。今回も読んで頂きありがとうございました。

                                                 

                                                 

                                                | 文学・哲学・思想 | 14:23 | comments(0) | - |
                                                頭がよくなる魔法の言葉。
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                                                  今回のタイトルは、売り上げ至上主義の低劣な出版社が出す本の題名のようで気が引けます。『受験は母親が9割』だの『英語で一流を育てる』だの『学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶應大学に現役合格した話』などというタイトルが、いったいどのような読者をターゲットにしているか、ブログをお読みいただいている方にはもうお分かりでしょう。

                                                   

                                                   

                                                   

                                                  この種の本は自分の頭で考えることのできないバカな読者をターゲットにしているのです。上昇志向・ブランド志向を刺激するバカ本ですが、中身は詐欺そのものです。

                                                   

                                                   

                                                   

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                                                  「ビリギャル本」の詐欺性について

                                                  http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=292

                                                   

                                                   

                                                   

                                                   

                                                  前置きはこのくらいにしてさっそく魔法の言葉をお教えしましょう。ただし、正確には「考える力がつく魔法の言葉です」。

                                                   

                                                   

                                                   

                                                  それは「そもそも」という言葉です。物事の本質を考えたり、問題がどこから生じているかその原因を考えたりするときに、私たちが思わずつぶやく言葉です。逆に、「そもそも」とつぶやけば、私たちを原理的・本質的な思考にいざなってくれます。言葉は恐ろしいですね。

                                                   

                                                   

                                                   

                                                  少し例を挙げてみましょう。学校でこれから新しい単元を学習するときに、あるいは学習が終わった時につぶやくのです。そもそも化学反応とは何か、そもそも虚数とは何か、そもそも酸とアルカリとは何か、等々。

                                                   

                                                   

                                                   

                                                  そして先生に質問するのです。ただし、1分で説明してくれるように頼みましょう。「そもそも、指数関数と対数関数はどのように関連しているのですか。」などと。実力のある先生は必ずや1分で説明してくれます。

                                                   

                                                   

                                                   

                                                  1分で説明するためには、日頃から余分なところを切り落とし、関連個所とのつながりやその単元を学習する意味を考えていなければなりません。それを可能にするのが「そもそも」という小さな言葉なのです。

                                                   

                                                   

                                                   

                                                  授業中に「そもそも」という言葉を使う先生はいい先生です。もっとも、「そもそも」と言いながら、わが国の首相のようにちっとも「そもそも」になっていない説明をダラダラと続ける人もいます。そういった説明を聞いていると確実に頭が悪くなるばかりでなく、考えることもできなくなります。

                                                   

                                                   

                                                   

                                                  ところで、皆さんは「ミラーニューロン」をご存知でしょうか。聞いたことのある人も多いと思います。1996年にイタリアのジャコモ・リゾラッティがサルの実験で発見しました。

                                                   

                                                   

                                                   

                                                  例えばサルがもの持ち上げる動作をすると、それに伴って脳の一部が活動します。ところが驚くべきことに、その脳の同じ部位が、他のサルがものを持ち上げる動作を見ているだけでも活動するのです。自分が運動しているときだけでなく、他者の運動を見ているときにも、あたかも自分がその運動をしているように脳が活動するのです。これを「ミラーニューロン」と言います。

                                                   

                                                   

                                                   

                                                  何が言いたいのかというと、私たちは生まれつき他者と共感する強い能力を持っているということです。言い換えれば、私たちは他者の思考から強い影響を受けるようにできているのです。学ぶことは影響を受けることです。それは生き延びるために私たちのDNAにインプットされた神秘的な力です。

                                                   

                                                   

                                                   

                                                  つまり、「そもそも」という言葉を使って原理的・本質的な思考をする教師の授業を受けていると、生徒もおなじように思考できるようになるのです。そして、そういった思考は必ずや他分野へと波及します。結果、言われたことを鵜呑みにするのではなく、疑問を持ち、物事を批判的に見るようになります。

                                                   

                                                   

                                                   

                                                  こうやって知性が誕生するのです。以前、知性は独自性ゆえに個人の内部にとどまり、いわば命を宿し呼吸しているので感じるほかないものだと言いました。知性はその人の生き方から分泌されるもので、時間や量で切り売りできる知識とは違うのです。ましてやいわゆる学歴とはまったく関係ありません。

                                                   

                                                   

                                                   

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                                                  『知性とは生死の「機微」をつかむことから生まれる美意識である。』

                                                  http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=384

                                                   

                                                   

                                                   

                                                  しかし、「そもそも」などと考えていたら、時間がいくらあっても足りないだろうと考える人もいるでしょう。そうなのです。学ぶことは時間との勝負だと考えている人にとって「そもそも」思考は障害以外の何ものでもありません。ここに受験勉強の大きな落とし穴があります。

                                                   

                                                   

                                                   

                                                  例の「佐藤ママ」はこの落とし穴に落ちた典型的な「善意」の人です。「善意」ですから歯止めが利きません。自分は社会に求められていると勘違いして、出版社や塾と協力して他人も巻き込みます。

                                                   

                                                   

                                                   

                                                  社会的には何ら責任を果たしていないにもかかわらず、4人の子供が東大医学部に合格したというだけでまるで偉業を達成したかのごとく持ち上げる出版ジャーナリズムはいよいよ末期です。

                                                   

                                                   

                                                   

                                                  実際には、大学合格のための精緻なマニュアルを手に入れ、ある種の情熱と家庭環境にものを言わせて、それを忠実に実行したに過ぎません。「佐藤ママ」は自己承認欲求のかたまりであり、それがエスカレートして最近では常識外れのレベルにまで達しています。この件に関しては次回触れるつもりです。

                                                   

                                                   

                                                   

                                                  最後に「そもそも」が波及していく例をお目にかけましょう。全部を挙げることなど到底できません。「そもそも思考」は、たえず発展・生成し続けるものであり、すべてが関連しているからです。それに気づけば、人は自ら永久に学び続けるのです。

                                                   

                                                   

                                                   

                                                  あなたは以下の問いに1分で答えられますか?

                                                   

                                                  ・そもそも言語とは何か。

                                                  ・そもそも私たちが見ている世界は同じなのか。

                                                  ・そもそも幸せとはなにか。

                                                  ・そもそも社会とは何か。

                                                  ・そもそも何のために学ぶのか。

                                                  ・そもそもなぜ学校に行かなければならないのか。

                                                  ・そもそも資本主義とは何か。

                                                  ・そもそも貨幣とは何か。

                                                   

                                                   

                                                   

                                                  | 中高生の皆さんへ | 20:59 | comments(0) | - |
                                                  僕たちは希望という名の列車に乗った。
                                                  0

                                                    今回のタイトルは昨日(6月11日)観た映画のタイトルです。大分のシネマ5bisで現在上映中です。

                                                     

                                                     

                                                     

                                                     

                                                    時代は1956年、冷戦下の東ドイツ。東西ドイツを分断するベルリンの壁が建設される5年前の実話を映画化したものです。

                                                     

                                                    パンフレットから簡単にストーリーを紹介しておきます。

                                                     

                                                     

                                                    「1956年、東ドイツの高校に通うテオとクルトは、列車に乗って訪れた西ベルリンの映画館でハンガリーの民衆蜂起を伝えるニュース映像を目の当りにする。クラスの中心的な存在である二人は、級友たちに呼びかけて授業中に2分間の黙祷を実行した。それは自由を求めるハンガリー市民に共感した彼らの純粋な哀悼だったが、ソ連の影響下に置かれた東ドイツでは“社会主義国家への反逆”と見なされる行為だった。やがて調査に乗り出した当局から、一週間以内に首謀者を告げるように宣告された生徒たちは、人生そのものに関わる重大な選択を迫られる。大切な仲間を密告してエリートへの階段を上がるのか、それとも信念を貫いて大学進学を諦め、労働者として生きる道を選ぶのか・・・・・。

                                                     

                                                     

                                                    無意識のうちに政治的タブーを犯してしまった若者たちが、仲間との友情や恋を育みながら、ある時はまっすぐに主張をぶつけ合い、人間として正しきこととは何かをひたむきに模索していく姿は見る者の心を強く揺さぶる。過酷な現実にさらされた彼らの、人生のすべてをかけた決断とは?希望を追い求めた若者たちの“小さな革命”を未来へと続く“列車”とともに描き上げた感動の実録青春映画」

                                                     

                                                     

                                                     

                                                    この映画は、社会主義的・共産主義的イデオロギーがいかに人間の自由を奪うものか、理想に名を借りた政治権力がどれほどおぞましいものかを見事に描いています。

                                                     

                                                     

                                                     

                                                    映画を観ながら、私は大学受験に失敗して浪人しているときに読んだ、林達夫の『共産主義的人間』をしきりに思い出していました。この本を読むことで、未熟ではあれ、自分なりの政治的スタンスを確立したのです。

                                                     

                                                     

                                                     

                                                    この事件から63年がたった現在、世界は、そして日本はどうなっているでしょうか。日本は自由で平和な国と言えるでしょうか。国家は弱者に寄り添い、思想信条の自由・表現の自由に最大限の配慮をしているでしょうか。若者は未来に大いなる希望を抱き、同世代の人間たちと連帯して毎日を生き生きと過ごしているでしょうか。

                                                     

                                                     

                                                     

                                                    第二次安倍政権が誕生してからというもの、この6年ほどの間に「政治的」という言葉は、もっぱら「政府を批判する言説」「反安倍的」という意味でのみ使われるようになりました。それが証拠に、現政権に対して親和的な言説やイベントは、警戒もされず、忌避されることもありません。つまりそういった言説は「政治的ではない」のです。

                                                     

                                                     

                                                     

                                                    言葉の解釈や使用法を歪めることは、独裁権力が常にやって来たことです。言葉を歪めることで世界を歪め、自分たちに都合のよい事実を捏造するのです。

                                                     

                                                     

                                                     

                                                    ところで、この映画を観て感想を述べ合い、議論している高校生がいるでしょうか。私の出身校である大分上野丘高校は、いわゆる県立トップ校ですから、主権者教育の一環として当然、先生方と生徒の皆さんで議論する計画を立てていることでしょう。政治と歴史を学ぶのに格好の素材です。受験科目にないということで世界史の授業をカットした恥ずべき前科があるのですから、それを反省して、今はまともな教育がおこなわれていると信じたいですね。

                                                     

                                                     

                                                     

                                                    もう終わりにします。私が政治について語る理由はただ一つです。政治ほど善意を悪用して人々の人生を破滅させるものはないからです。

                                                     

                                                     

                                                     

                                                    例えば、辺野古の民意を無視した強権的な埋め立て、イージス・アショアの杜撰さ。両者とも日本を守るためではありません。政治の本質は羊の皮を被ったオオカミです。政治によって人生を狂わされたくなければ、政治を知る必要があるのです。

                                                     

                                                     

                                                     

                                                    この映画は、若者の素朴な正義感や倫理観こそが世界をよりよき場所に変える可能性があることを暗示しています。ラストシーンが素晴らしい。日本では、そういった若者は、学校教育によって片隅に追いやられ、変人扱いされ、後ろ指を指されているかもしれませんが、それこそが異常なのです。韓国や香港や台湾の若者は、日本のはるか先を行っています。この映画は、日本の若者を含めて、世界の若者にエールを送っているのです。

                                                     

                                                     

                                                    | 政治 | 13:01 | comments(0) | - |
                                                    誰が政治を変えるのか?
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                                                      朝起きて鶏小屋へ行き、水を換え、餌をやり、ジャガイモやピーマンを収穫した後、葡萄の苗の成長を心待ちにする日々です。写真のような葡萄棚になるには数年かかります。ひと汗かいた後、朝食をとり、読みかけの本を開きます。夕方からは塾の準備をして授業に臨みます。さしたることのない平々凡々な日々です。

                                                       

                                                       

                                                       

                                                       

                                                      しかし、外の世界に目を転じると、フェイクニュースやプロパガンダが拡散され、デマゴーグが跳梁跋扈し、全体主義的な情報操作が現代によみがえって重要な政治決定を蝕んでいます。以下の本は NYT 紙の文芸評論で活躍し、ピューリッツア賞に輝いたミチコ・カクタニ氏の『THE DEATH OF TRUTH 』(真実の終わり)です。トランプ政権に象徴される民主主義の危機の深層に迫る労作です。

                                                       

                                                       

                                                       

                                                       

                                                      ハンナ・アーレントは1951年の『全体主義の起源』の中で次のように書きました。

                                                       

                                                      「全体主義的統治の理想的な臣民は、筋金入りのナチでも共産主義者でもなく、事実と虚構の区別、真と偽の区別をも、もはや見失ってしまった人々なのだ」と。

                                                       

                                                       

                                                       

                                                      それから20年後、1971年のエッセイ『政治におけるウソ』の中で次のように記しています。

                                                       

                                                      「われわれが送っている日常生活という事実の織物全体がいかにもろいものであるかは、歴史家のよく知るところである。それは常に一つのウソによって穴を開けられたり、集団、国民、階級の組織されたウソによって引き裂かれ、否定され、ゆがめられ、またしばしば山のように積み重ねられた虚偽によって周到に覆い隠されたり、ただ忘却の淵に沈むにまかされたりする危険にさらされている。事実が人間の領域に安住の地を見いだすためには、記憶されるための証言や確証されるための信用のおける証人が必要である」と。

                                                       

                                                       

                                                       

                                                      世界でこの状況に抗して闘っている人間がいます。山本太郎、バーニー・サンダース、ジェレミー・コービンです。全員が反緊縮派です。彼らは胡散臭い人間だとして後ろ指を指され、嘲笑の的にされています。しかし、後ろ指を指し、嘲笑しているのは誰か。

                                                       

                                                       

                                                       

                                                      日本では、安倍政権による略奪が続いているのに、これまで何とかなったのだからこれからも何とかなると安易に考えている国民自身です。山本太郎は消費税の廃止を主張しています。素朴に考えればまことに当たり前な主張です。

                                                       

                                                       

                                                       

                                                      これまで徴収された消費税は総額でおよそ397兆円に達します。社会保障に当てるという名目で導入されましたが、ほぼ全額が大企業の還付金や減税に当てられました。支配層(財界、官僚およびそれに操られた政治家たち)が消費税にこだわるのは、経済がどれほど悪化しても生存にかかわる基礎消費は変わらないので、安定的に搾り取ることができるからです。大企業の内部留保は500兆円を超えていますが、これは派遣法改正で非正規社員となった人々の所得を収奪することによって蓄積されたものです。

                                                       

                                                       

                                                       

                                                      以上より、消費税の廃止を訴えない政治家は政治献金と地位だけが目的の木偶の坊なのです。政権が代わっても何も変わらないでしょう。

                                                       

                                                       

                                                       

                                                      格差社会も分断も政治とメディアによって意識的に作られたものであり、民衆の不満や怒りが支配層に向かないように、スケープゴートとして「移民」「生活保護受給者」「公務員」がバッシングされていることに私たちは気づかねばなりません。

                                                       

                                                       

                                                       

                                                      特に日本は国民の民度を超えた未曾有のカタストロフィーが進行中です。言わずと知れた原子力災害です。それを直視すれば、日本経済が崩壊するので、考えてはならないこと、なかったことにされているのです。

                                                       

                                                       

                                                       

                                                      まともな神経をしていればこういった超ド級の原子力災害のさなかに3兆円をかけてオリンピックを開くことが正気の沙汰でないことは明白です。その陰で避難者は補償を打ち切られ、汚染地域への帰郷を余儀なくさせられているのですから。

                                                       

                                                       

                                                       

                                                      そんな中、山本太郎は政治家としてただ一人オリンピックに反対しています。政策に原発即廃炉を掲げています。現実感覚を喪失してさえいなければ、これまた当然のことを言っているに過ぎません。

                                                       

                                                       

                                                       

                                                      いつの時代でも、危機に際して登場し、危機を救う真に力ある思想は、思いもかけない場所に潜んでいます。職業的思想家の中にでもなければ、二代目三代目の政治家の中にでも断じてありません。個人的な温かみや寛容さ、そして誠実さ、原則を守る姿勢、倫理的な力を持った天才的アマチュアの風貌をまとって登場するのです。

                                                       

                                                       

                                                       

                                                      山本太郎、バーニー・サンダース、ジェレミー・コービンはこれに当てはまります。彼らはその時代の職業的思想家や政治家、経済学者、マスメディアから白眼視され、蔑視され、後ろ指を指されながらも執拗な戦いを続け、次第に共鳴者を獲得して世界を変革していくのです。

                                                       

                                                       

                                                       

                                                      英国労働党党首、ジェレミー・コービンは言います。「個人の野心などまったくどうでもいい。これは、私たちの社会を、冷酷で分断されたものではなく、よいものに変えられる私たちみなの社会運動だ。前に進む道をみな知っている」と。

                                                       

                                                       

                                                       

                                                      私は以前紹介した『エスタブリッシュメント』の中で、ジェレミー・コービンに興味を持ち以下の本を最近読み終わりました。この本によると、彼を支持したのは不安定な雇用状況にある若者でした。反貧困を掲げ、反緊縮を訴えたコ―ビンが彼らの共感を呼んだのです。

                                                       

                                                       

                                                       

                                                       

                                                      私はブログでも繰り返し言ってきたように、政治を大きく動かすのは若者の「倫理的な力」なのです。その倫理的な力を奪い、現実から目をそらさせ、自分に利益をもたらす進路だけに目を向けさせているのが学校教育であり、実質的に公教育を民営化する役回りを引き受けることで利益を上げている塾産業なのです。これについてはまた論じます。いつも小難しい話にお付き合いいただきありがとうございます。

                                                       

                                                       

                                                      暇があったら、以下の記事もお読みください。

                                                       

                                                      『山本太郎は日本のバーニー・サンダースである。』

                                                      http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=524

                                                       

                                                      『今年の1冊 よりよき〈生〉を生きるために。』

                                                      http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=542

                                                       

                                                       

                                                      | 政治 | 23:27 | comments(0) | - |
                                                      胡散臭い(うさんくさい)人間であり続けること − 加藤典洋氏を悼む。
                                                      0

                                                        今回のタイトルを見て、こいつはついにおかしくなったか、と思う人もいるでしょうね。ではタイトルを変えましょう。「人から後ろ指を指される人間になれ」はどうでしょう。

                                                         

                                                         

                                                         

                                                        私は反語もアイロニーも逆説も通じなくなった社会に絶望しているのですが、それにしても、いつからこの国はこれほど狭隘な精神に領されてしまったのでしょうか。息苦しさは増すばかりです。そこで今回は「呼吸法」について書きます。

                                                         

                                                         

                                                         

                                                        結論から言うと、私の「呼吸法」は、胡散臭い(うさんくさい)人間であり続けることです。今日のような逆説的な時代においては、真の誠実さは誠実さの風貌をまとっていません。むしろ反道徳的な風貌をまとっているはずです。私にとって自由な場所で思い切り深呼吸するためには、この種の「呼吸法=処世術」を身につける必要があったのです。

                                                         

                                                         

                                                         

                                                        エリートやエスタブリッシュメントを目指す生き方は、他人の呼吸に合わせなければなりませんから、自由に深呼吸できません。いつも酸素不足で疲れていて、自分の立場に有利かどうかというモノサシで人を判断するので、ろくな人間に出会えません。

                                                         

                                                         

                                                         

                                                        私は中学高校時代陸上部に所属していました。大会が近づくと練習するようなずぼらな学生でした。短距離の選手でしたが、今思うと全力で走った記憶がありません。はた目から見ると全力疾走しているのでしょうが、いつもゴールした瞬間、いったい俺は何をがんばっているのだろうかという思いがこみ上げて来て脱力したものです。

                                                         

                                                         

                                                         

                                                        そんな折、偶然、アラン・シリトーの『長距離走者の孤独』を読み、大いに共感しました。自分なりに呼吸することの気持ちよさに気づいたのです。それで少し救われた気になり、陸上部を自然退部しました。要するにどうでもよくなったのですね。今思うと、中学時代の経験がどこかで影響していたのかもしれません。

                                                         

                                                         

                                                        詳しくは「ある教師から学んだ「公平さ」について」に書いています。

                                                        http://www.segmirai.jp/essay_library/essay007.html

                                                         

                                                         

                                                        何が言いたいのかというと、思春期は自分なりの「呼吸法」を身につけるべき時期なのに、学校教育がその機会を奪っていると言いたいのです。もちろん「呼吸法」は比喩です。学ぶタイミングとリズムのことであり、その人間の個性というか独自性を育てるのに欠かすことのできないものです。

                                                         

                                                         

                                                         

                                                        山に登るのも、泳ぐのも、全力疾走するのも、そして学ぶのも、「呼吸法」をものにしているとずいぶん楽です。周囲の人間たちの呼吸のリズムに合わせることは、肉体だけでなく精神をとても疲れさせます。そして、へたをすると自分だけでなく他人の生命を危険にさらすことになるのです。

                                                         

                                                         

                                                         

                                                        私は四六時中頑張れる人間ではありません。全力で取り組むのは一生に一度あればいいと思っています。ただし、自分の「呼吸法」を身につけた後です。

                                                         

                                                         

                                                         

                                                        学校のいじめは、自分なりの呼吸法を見つけることができない子どもたちの断末魔の叫びのような気がします。いじめる側もいじめられる側も、匿名のシステムである学校空間の中で息ができずに苦しんでいるのです。

                                                         

                                                         

                                                         

                                                        にもかかわらず、週刊誌(特に『週刊朝日』や『サンデー毎日』)は、毎年相も変わらず全国高校別大学合格者数を特集して、ランク付けに精を出しています。朝日新聞や毎日新聞が格差社会や安倍政権を批判したところで、同じ穴のムジナ同士の役割分担に過ぎないことがわかります。野党といえども、東京電力の労働組合のヒモつきなのですから、今の体制を変革しようなどといったところで、下手な洒落にもなっていません。

                                                         

                                                         

                                                         

                                                        話がそれました。「呼吸法」の話でした。学ぶということは人格の変容をともなうはずだと言いました。それは価値判断と無縁ではありません。Aという価値とBという価値の相克に悩んで、より上位のCという価値を創造するとき、それは倫理的な色彩を帯びてくるはずです。

                                                         

                                                         

                                                         

                                                        学ぶということは全身運動なのです。受験アプリをダウンロードしてチョコチョコやるようなものではありません。全身を使って呼吸法を覚えるのに似ています。そのためには何をすればよいのか。

                                                         

                                                         

                                                         

                                                        私に言えることはたった一つです。競争的な環境からいったん降りて、世間から胡散臭い(うさんくさい)目で見られるような場所に自分を置いてみることです。一人でいないと、あなたが必要とする人間に出会えません。立派な集団や組織の中にいて空気を読み、「上」を目指している限り、新しい世界の風景は見えないようになっています。

                                                         

                                                         

                                                         

                                                        これは、私が塾教師という経済的にきわめて不安定で世間から胡散臭い目で見られる場所に自分を置くことでわかったことです。胡散臭い場所で胡散臭い書物を読んでいると、必ず運命的な出会いがあるのです。どういうわけか、世界はそういうふうにできているのですね。

                                                         

                                                         

                                                         

                                                        自分の「呼吸法」を身につけることで出会った一人に加藤典洋氏がいます。5月16日に71歳で亡くなりました。私は書物を通じて彼に出会いました。彼の言葉は私の最も深いところに届くのです。書棚の一角には数十冊の彼の本が並んでいます。ひそかにカトちゃんコーナーと呼んでいます。

                                                         

                                                        ここでは高校生のために2冊だけ紹介しておきます。

                                                        まず『言語表現法講義』そして『僕が批評家になったわけ』です。

                                                         

                                                         

                                                         

                                                         

                                                         

                                                         

                                                         

                                                        彼の本を読むことで、塾で教えられている国語の授業や論理的思考なるものがいかに薄っぺらで的外れで、貴重な時間を無駄にしているかがわかるでしょう。数カ月で偏差値が40上がるなどというのは金儲けのための自己宣伝にすぎません。眉唾ものです。そんなテクニックを高いカネを出して買うこと自体が、人間をとんでもなく堕落させるのです。

                                                         

                                                         

                                                         

                                                        論理的思考は頭の中だけで考えることとは違います。全身で生きることそのものを指すのです。これについては「なぜ東大生の人格は空洞化するのか」の続編で述べるつもりです。

                                                         

                                                         

                                                         

                                                        以下、『僕が批評家になったわけ』(p13〜14)から引用してみます。

                                                         

                                                         

                                                        「批評というものが、学問とはとことん違い、本を百冊読んでいる人間と本を一冊も読んでいない人間とが、ある問題を前にして、自分の思考の力というものだけを頼りに五分五分の勝負ができる、そういうものなら、これはなかなか面白い」

                                                         

                                                        「批評とは、本を一冊も読んでなくても、百冊読んだ相手とサシの勝負ができる、そういうゲームだ」

                                                         

                                                        「あるできごとが価値あることか、価値ないことか。何が善で何が悪か。その判断にも、究極的には、本を百冊読んでいるかいないかは、関係してこないのではないか。そうでなければ、考える、ということの意味が、なくなるのではないか」

                                                         

                                                         

                                                         

                                                        私は高校を卒業してしばらくの間、小林秀雄の影響下にありました。時代に左右されない強靭な思考と、思ってもいないことを決して書かない倫理的な姿勢に惹かれたのです。加藤典洋氏もまたそういう人間の一人でした。

                                                         

                                                         

                                                        小林秀雄については6年以上前に書いた記事をお読みください。

                                                         

                                                        「あまりにも浅薄な朝日新聞『天声人語』」

                                                        http://www.segmirai.jp/essay_library/essay041.html

                                                         

                                                         

                                                        何だか小難しい話になって来たので、この辺でやめにします。最後に少し柔らかい話題を。

                                                         

                                                        加藤典洋氏の山荘の話です。加藤氏が設計を依頼した相手は、なんと、かの中村好文さんでした。不特定多数を相手にせず、大勢から距離を置き、一人でいることを生き方の原理に据えている人は、不思議なもので、必ずその時々で必要な人に出会うのですね。縁は異なものというしかありません。

                                                         

                                                         

                                                         

                                                        加藤氏は要望書に一言「みすぼらしい家」にしてほしいと書いていたそうです。加藤夫人は山荘を持つことで「物持ち的な不自由感」を味わいたくないといい、理想は「雨風寒さがしのげることが身近に感じられる家」というものだったそうです。そうやってできたのが浅間山のふもとにある「Asama Hut」です。

                                                         

                                                         

                                                        「Asama Hut」は建築面積39,66屐延床面積48,47屬任以下の写真は中村さんの『普通の住宅、普通の別荘』から借りたものです。詳しくはそちらをどうぞ。

                                                         

                                                         

                                                         

                                                         

                                                         

                                                        中村さん曰く「私は根が貧乏性なのだと思う。小さな建物、つつましやかな建物に心惹かれる。特に別荘となるとその傾向が強い。別荘はすべからくひっそりとした「大草原の小さな家」のようであってほしいと願うのである。場違いな規模と場違いな仕上げの別荘、これみよがしのデザインの別荘の前はできれば避けて通りたい。私が「Hut=小屋」という言葉を多用するのはこうした私の好みによる。」

                                                         

                                                         

                                                        | 文学・哲学・思想 | 14:19 | comments(0) | - |
                                                        無差別テロの時代。
                                                        0

                                                          川崎の無差別殺傷事件について気になることがあったので書いておきます。この事件の本質は無差別テロです。テロとは本来政治権力に向けられるものですが、ついに国民同士が殺し合う社会になったということです。しかも決まって子供たちや社会的弱者が犠牲になるのです。防ぎようがありません。

                                                           

                                                           

                                                           

                                                          文科省は「まさかこんな事件が起こるとは」と絶句しているとのことですが、その鈍感さには言葉が見つかりません。私は今から15年前にすでに予測しています。先見の明を誇るつもりなどありません。ただ、見ようとすれば誰の目にも見える世界の景色を言葉にしただけです。そして社会が、他人事ではなく、本当に子供たちのことを考えるなら、どういう処方箋を描くべきかについても述べています。

                                                           

                                                           

                                                           

                                                          未来塾通信29

                                                          「驚くべき教育格差 − 中学受験の意味するもの −」

                                                          http://www.segmirai.jp/essay_library/essay029.html

                                                           

                                                          末尾を一部抜粋しています。

                                                           

                                                           

                                                          「高度に発達した文化・情報資本主義社会の中で、家庭の資産や文化力まで含めてあらゆるものがシャッフルされ、人生の早い段階で勝敗が決するのを、競争社会の必然的な結果だとして多くの人は受け入れることができるだろうか。突然、自分の努力ではどうしようもないところで勝敗が決まる教育という市場で、個人として競争に駆り立てられたら、そこに精神の変調や荒れが出現しても当然ではないか。しかも、教育競争から早めに降りざるを得なかった子どもたちほど、学習機会から遠ざけられ、本来持っていた学習能力を枯渇させてしまう境遇に置かれる可能性が極めて高いのである。



                                                           教育格差は所得格差を生み出し、所得格差は地域間格差を生み出す。かくして、日本社会は階層分化が進み、政治は混乱し、人々の心は荒廃し、治安は悪化の一途をたどる。競争に勝利して幸せな生活を営んでいた一家が、社会の底辺に吹き寄せられた人間の凶刃に倒れるといった性質の事件が頻々として起こらないと誰が断言できようか。人間は他者や地域共同体の支えなくして生存できない生き物である。自分だけが、自分の家族だけが幸せでいられることなどあり得ないのである。」

                                                           

                                                           

                                                          処方箋については以下の二つの記事があります。

                                                           

                                                          1:「見果てぬ夢 ・100年後の生存戦略−教育」 

                                                          http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=446

                                                           

                                                          2:「100年後の生存戦略 教育 : 国宝・閑谷(しずたに)学校」

                                                          http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=488

                                                           

                                                           

                                                          | 文学・哲学・思想 | 10:37 | comments(0) | - |
                                                          この人を見よ!− 元福井地裁裁判長・樋口英明さん。
                                                          0

                                                            情報格差・経済格差を背景にしたある種のゲームと化した受験勉強を続ければ人格が空洞化せざるを得ない、という話でした。今や受験は完全に形骸化し、視野狭窄のブランド志向をくすぶらせているだけです。

                                                             

                                                             

                                                             

                                                            お前は他人の人格が空洞化しているなどと根拠のない思い込みや偏見を押し付けているが、人格についてあれこれ言うのはマナー違反ではないのか、という反論が返ってきそうですね。

                                                             

                                                             

                                                             

                                                            しかし、人格を問題にするなという反論は、天皇を政治利用して恥じないうつけ者の総理大臣とそれを利用して内部留保をため込む道徳なき財界にとって都合のいいマナーなのです。

                                                             

                                                             

                                                             

                                                            これは、様々な分野で破局が進行しているにもかかわらず、東京オリンピックを成功させようというスローガンでウソのように軽い空気を作り出し、自分たちに倫理的な批判の矢が飛んで来ないように仕向けた金と権力の亡者たちの屁理屈に過ぎません。

                                                             

                                                             

                                                             

                                                            人類の歴史をひもとくまでもなく、国家を破滅に導くのは、一部特権階級の国家主義的イデオロギーと版図の拡大欲求、負けた戦争の復讐、そして何よりトップに立つ人間の現人神になりたいという潜在的な欲求であり、それを目指しているという恍惚感なのです。

                                                             

                                                             

                                                             

                                                            話がそれましたが、塾教師としての経験から、受験勉強がなぜ人格の空洞化につながるのかという問いとそれに対する答えは、今の社会の特殊性を念頭に数回に分けて書くつもりです。特に、自分はそれなりに生徒を教え、上の学校に合格させているのだから、人格の空洞化とは何のことかわからないと考えている塾・予備校教師や学校教師の皆さんにはぜひ読んでもらいたいと思います。

                                                             

                                                             

                                                             

                                                            今回はそれについて書く前に、人格を空洞化させないために、絶えず立ち返るべき原点を今一度挙げておきます。

                                                             

                                                            ガンジーの言う「七つの社会的罪」(Seven Social Sins)です。

                                                             

                                                             

                                                            1. 理念なき政治 (Politics without Principle)


                                                            2. 労働なき富 (Wealth without Work)


                                                            3. 良心なき快楽 (Pleasure without Conscience)


                                                            4. 人格なき学識 (Knowledge without Character)


                                                            5. 道徳なき商業 (Commerce without Morality)


                                                            6. 人間性なき科学 (Science without Humanity)


                                                            7. 献身なき信仰 (Worship without Sacrifice)

                                                             

                                                             

                                                             

                                                            道徳心理学者のジョナサン・ハイトが言うように、論理を方向付けるのは感情です。感情が劣化した人間が論理をもてあそべばどうなるか。ガンジーは「七つの社会的罪」でマナーについて論じているのではありません。倫理すなわち人格について論じているのです。

                                                             

                                                             

                                                             

                                                            ここからが本題です。まず人格が空洞化していないと私が考える大人に登場してもらいましょう。私は彼の紡ぐ言葉に魅了されました。今でも読むと目がしらが熱くなります。なぜなら、60歳を過ぎてここまで私心のない文章を書ける裁判官はめったにいないからです。素晴らしい判決文は、法的な枠組みを超えて高い倫理性を帯びてくるものです。

                                                             

                                                             

                                                            その裁判官、樋口英明さんが大分にやって来ます。6月23日(日曜日)ホルトホール大分・大会議室(3F)の講演会に是非行きましょう。

                                                             

                                                             

                                                             

                                                             

                                                            私の出身校である大分上野丘高校の先生方や生徒さんたちは、彼の話にきっと共感してくれるだろうと思います。特に大学の法学部を目指し、将来、裁判官や弁護士、検察官を希望している人にはめったにない機会です。当日は高校生の皆さんで一杯になるといいですね。

                                                             

                                                             

                                                             

                                                            以下は2014年の判決文より一部抜粋したものです。主権者教育をしっかりやっている高校の先生方やゲームとしての受験勉強に飽きている高校生に読んでもらいたいと思います。

                                                             

                                                             

                                                             

                                                            「個人の生命、身体、精神および生活に関する利益は、各人の人格に本質的なものであって、その総体が人格権であるということができる。人格権は憲法上の権利であり(13条、25条)、また人の生命を基礎とするものであるがゆえに、わが国の法制下においてはこれを超える価値を他に見出すことはできない。」

                                                             

                                                             

                                                            「被告は本件原発の稼働が電力供給の安定性、コストの低減につながると主張するが、当裁判所は、極めて多数の人の生存そのものにかかわる権利と電気代の高い低いの問題等を並べて論じるような議論に加わったり、その議論の当否を判断すること自体、法的には許されないことであると考えている。」

                                                             

                                                             

                                                            「たとえ本件原発の運転停止によって多額の貿易赤字が出るとしても、これを国富の流失や喪失というべきではなく、豊かな国土とそこに国民が根をおろして生活していることが国富であり、これを取り戻すことができなくなることが国富の喪失であると当裁判所は考えている。」

                                                             

                                                             

                                                            「原子力発電技術の危険性の本質およびそのもたらす被害の大きさは、福島原発事故を通じて十分に明らかになったといえる。本件訴訟においては、本件原発において、かような事態を招く具体的な危険性が万が一にでもあるのかが判断の対象とされるべきであり、福島原発事故の後において、この判断を避けることは裁判所に課された最も重要な責務を放棄するに等しいものと考えられる。」

                                                             

                                                             

                                                             

                                                            樋口裁判長と真逆の判決を書いたのが大分地裁の佐藤重徳裁判長です。暇があったらお読み下さい。

                                                             

                                                             

                                                            「大分地裁佐藤重憲裁判長、伊方原発差し止め却下。」

                                                            http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=520

                                                             

                                                            「大分地裁裁判長への意見陳述書」

                                                            http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=426

                                                             

                                                             

                                                            | この人を見よ! | 12:35 | comments(0) | - |
                                                            なぜ東大生の人格は空洞化するのか?
                                                            0

                                                              「東大生」と言ってもひとくくりに論じることはできません。それを十把一からげに論じるのは、ビジネス雑誌やお受験雑誌を刊行する「プレジデント社」や「東洋経済新報社」を始めとするその他の出版社、東大ネタで視聴率を稼ぐテレビ局に任せておきましょう。

                                                               

                                                               

                                                               

                                                              出版社やテレビ局の粗雑な発想は、東大と聞いただけで好奇心を刺激されたり、一目置いたりする層をターゲットにするところから出てきます。要するに、売り上げを伸ばすための経営判断なのです。例の「選択と集中」です。

                                                               

                                                               

                                                               

                                                              付和雷同する大衆を「選択」し、そこに資源を「集中」するというわけです。自社の出版物や番組作りが受けていると思うのは勝手ですが、それとて社会・産業構造の影響を受けているだけのことです。この点についてはまた論じるつもりです。

                                                               

                                                               

                                                               

                                                              「なぜ東大生の人格は空洞化するのか」というタイトルでひとくくりに論じようとしているはお前の方だろう、と思われる方もいるかもしれません。しかし、「戦争しないとどうしようもなくないですか?」の丸山穂高議員や近畿財務局の職員を自殺に追い込んだ佐川宣寿前国税庁長官の言動を見ていると、人格が空洞化していると判断するしかないのです。両人とも「東大卒」です。

                                                               

                                                               

                                                               

                                                              「戦争しないとどうしようもなくないですか?」って、日本がアメリカの許可なくロシアに戦争を仕掛けられるとでも思っているのでしょうか。対米従属ケツ舐め路線をひた走る安倍政権の下でそれは不可能だとわかっているので、口先だけで威勢のいいことを言ってみたかったのですね。さすがにウソだらけの二枚舌政党、日本維新の会の議員だけのことはあります。

                                                               

                                                               

                                                               

                                                              一方、佐川宣寿氏に代表される「高級」官僚の実態は、安倍政権の忠実な犬であり、ケツを舐めろと言われれば舐める、誇りなき下僕に過ぎないということが明らかになりました。親分がトランプのケツを舐めれば、子分はその親分のケツを舐めるという、このケツ舐め連鎖を見せつけられて、心暗くならない人がいるとすれば、その人もまた人格が空洞化しているのだと断言せざるを得ません。

                                                               

                                                               

                                                               

                                                              事ここに至って、特に3・11以降、この国の文化を破壊しアメリカに国富を売り渡して恥じない人間たちの共通点は「東大卒」だという事実に気づかないわけにはいきません。

                                                               

                                                               

                                                               

                                                              東大は日本の近代化において一定の役割を果たしましたが、そのほとんどは戦争に明け暮れた時期だったのです。そして、戦争を始めた責任も敗戦の責任も日本人はいまだに自分で落とし前をつけていません。

                                                               

                                                               

                                                               

                                                              その結果、重大なことが見落とされています。実は、この国の歴史の転換点は、何度も述べてきたように、福島の原発事故だという点です。それは日本が再び一等国になるために画策されたもう1つの戦争がもたらした第二の敗戦だったのです。

                                                               

                                                               

                                                               

                                                              それを隠蔽するために政財界はオリンピックを誘致し、やれリニア新幹線だ、やれカジノだ、大阪万博だという花火を打ち上げ、国民をイベント人間に改造しています。その中心を担っているのも「東大卒」の「エリート」たちです。

                                                               

                                                               

                                                               

                                                              ここに於いてです。「なぜ東大生の人格は空洞化するのか」という問いが立ち上がるのは。そして、私の従事する塾産業も「東大合格者を何人出したか」という時代遅れの物差しに縛られたままで、人格が空洞化した人間を陸続として送り出しています。それを望んでいるのは親たちであり、教師たちです。つまり、少し長い目で見れば、自分で自分の首を絞めているというわけです。

                                                               

                                                               

                                                               

                                                              何だか難しい話になりそうなので、結論を先に言っておきます。

                                                               

                                                               

                                                              35年以上にわたって塾教師を続けてきた結果、私がたどり着いた結論は、今の社会で東大を目指して勉強すれば、絶えざる競争に身をさらし、自分の足元が見えなくなって、不幸になる確率がきわめて高いということです。

                                                               

                                                               

                                                               

                                                              今の社会とは、大企業が国家と国民を食い物にするコーポラティズムと、格差は当然とする自己責任論に基づいた新自由主義のイデオロギーが跳梁跋扈する社会のことです。それは沈むとわかっている船の中で、他人を蹴落とし、自己利益の最大化を目指すような生き方です。

                                                               

                                                               

                                                               

                                                              ここで次のような疑問が湧くかもしれません。塾教師の仕事は、少しでも上の学校や大学に生徒を合格させる事ではないのか、何を偉そうに大風呂敷を広げているんだ、と。

                                                               

                                                               

                                                               

                                                              しかし、私は塾教師としての経験から、それは間違っている、むしろ子供たちを不幸にするイデオロギーだと断言したいと思います。自明に見えるイデオロギーも一皮むけば、しょせんは人口動態に左右される社会構造の産物に過ぎないからです。

                                                               

                                                               

                                                              重要なのは、少しでも「上」の学校や大学や企業を目指すことではなく、少しでも多くの「横」の人間と繋がり、外形的な肩書やレッテルに惑わされず、現実にやっていることを見て人格を評価できる人間になることです。人格が空洞化している「エリート」たちは、現実から目をそむけ、「今までの自分の人生は間違いじゃない」と必死で自分に言い聞かせています。「東大出てても、バカはバカ」と堂々と言えるようになりましょう。

                                                               

                                                               

                                                               

                                                              長くなるので今回はここまでにしておきます。にわかには信じられないかもしれませんが、東大を目指した勉強は人格を空洞化させるという私の仮説に興味をお持ちの方は、次回以降もお付き合い頂ければと思います。私は東大を目指している人を含めて、若い人たちの新しい生き方を後押しするために、このブログを書いています。それ以外の意図はありません。

                                                               

                                                              | 文学・哲学・思想 | 14:09 | comments(0) | - |
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