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知識人とは何か (平凡社ライブラリー)
知識人とは何か (平凡社ライブラリー) (JUGEMレビュー »)
エドワード・W. サイード
いわゆる「知識人」なるものが絶滅して久しい。しかし、サイードの言う知識人の定義は時代がどんなに変わっても常に新しい。「知識人とは亡命者にして周辺的存在であり、またアマチュアであり、さらには権力に対して真実を語ろうとする言葉の使い手である」高校生や大学生にはぜひとも読んでほしい本です。
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磯崎新と藤森照信の茶席建築談議
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磯崎 新,藤森 照信
この本は茶室を巡る様々な建築的発想・知識の宝庫です。それにしても磯崎新氏の驚くべき記憶力と該博な知識には驚かさされます。建築史を語るには欠かせない二人の対談です。時がたつのを忘れさせるほどの面白さでした。
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チャヴ 弱者を敵視する社会
チャヴ 弱者を敵視する社会 (JUGEMレビュー »)
オーウェン・ジョーンズ,Owen Jones
【本書への賛辞】

「怒りが生んだ、最高の本」
──ガーディアン紙

最高の論争がみなそうであるように、知性に裏打ちされた怒りが本書を支えている。
──エコノミスト誌

暴動や世界中に広がったオキュパイ運動に照らして考えると、分断社会に関する著者の鋭い分析は、
不気味なほど未来を予知していたことがわかる。
──アートフォーラム誌

情熱と、思いやりと、すぐれた道徳性が結実した仕事だ。
──ニューヨーク・タイムズ紙

政治の定説を見直す大胆な試み。著者は戦後のイギリス史を縦横無尽に往き来し、
階級、文化、アイデンティティといった複雑な問題を軽々とまとめてみせ、
結果として「階級」問題に火をつけ、大きな効果をあげている。
──インディペンデント紙

いまの制度が貧しい人々を見捨てていることに対する苛烈な警告──それが本書だ。
──ブログサイト「デイリー・ビースト」

ジョーンズは、「地の塩」だった労働者階級が政治のせいで「地のクズ」と見なされるようになった経緯を見事に説明している。
──タイムズ紙

この本は、新しいタイプの階級嫌悪と、その裏にあるものを痛烈にあばいて見せてくれる。
──ジョン・ケアリー(The Intellectuals and the Masses著者)

これは「イギリスはおおむね階級のない社会である」という考え方への、論理的で情報満載の大反撃だ。
──オブザーバー紙

情熱的で示唆に富む……この声が届くことを心から願う。
──スコットランド・オン・サンデー紙
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フェイクニュースの見分け方 (新潮新書)
フェイクニュースの見分け方 (新潮新書) (JUGEMレビュー »)
烏賀陽 弘道
私は政治的な言葉と詩的言語の間を、その振幅が大きいがゆえに、往復することによって精神を活性化させています。政治的な文章を読むときに気をつけていることは、ファクトとオピニオンを区別することです。これはイロハのイだと思っていたのですが、今はお互い罵詈雑言の投げつけ合いで、言論空間がいびつになっています。これは今の政治を反映したものでしょう。菅官房長官が「問題ない」「その指摘は当たらない」などといったコミュニケーション遮断語を頻繁に使いだしてから、この傾向は加速しています。言論空間のゆがみを正し、正常な論争が復活することがあるのでしょうか。地に足がついた生き方をしたいなら、まず気分に流されず、事実を見極めることから始めなければなりません。事実を提示しないジャーナリストは、ジャーナリストではありません。そのことを確認するためにも本書は必読です。本物の読解力をつけたいと考えている中高生には特にお勧めです。
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 (JUGEMレビュー »)

紹介していない本が山のようにあります。数日前にこの本を本棚の奥から引っ張り出し再読しました。いや〜面白かった。。とにかくこの本のことを忘れていた自分が信じられない。読んでない人に熱烈に勧めます。ハイ。
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チェンジング・ブルー――気候変動の謎に迫る (岩波現代文庫)
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大河内 直彦
アインシュタインの名言のひとつに、「過去から学び、今日のために生き、未来に対して希望をもつ。大切なことは、何も疑問を持たない状態に陥らないことである。」があります。
本書は文系・理系を問わず、高校生や大学生必読の本です。単に気候の科学を紹介しただけではなく、科学者たちのさまざまな逸話を紹介しながら、科学における知識・研究の積み重ねの重要性を教えてくれます。この本にのめり込むかどうかが、あなたの知性のリトマス試験紙になります。受験勉強的発想の狭隘な世界観を粉砕してくれるかもしれません。
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見て見ぬふりをする社会
見て見ぬふりをする社会 (JUGEMレビュー »)
マーガレット ヘファーナン
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新・日米安保論 (集英社新書)
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柳澤 協二,伊勢崎 賢治,加藤 朗
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英語の実際的研究 (1969年)
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秋山 敏
高校生にとって、今でも一押しの不朽の名著。でもこの本をことを知っている英語教師は少ないと思います。是非復刊してほしいものです。
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安倍首相から「日本」を取り戻せ! !
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泥 憲和
まともな言説は、誰にでもわかる易しい言葉で書かれています。そして、それが本物であればあるだけ、真実を直視する勇気のない、臆病者からバッシングを受けます。安倍政権や維新の会のヤクザ議員からバッシングを受けない言説は何のインパクトもない、ニセモノだと言ってもいいくらいです。泥さんの発言は、間違いなく政権にとって都合の悪いものだったのです。表紙の写真はコワいですが、この本を読めば泥さんの優しい心根に触れることができます。
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スノーデン 日本への警告 (集英社新書)
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エドワード・スノーデン,青木 理,井桁大介,金昌浩,ベン・ワイズナー,宮下紘,マリコ・ヒロセ
2017年4月18日、朝日新聞がようやく「パノプティプコン」を取り上げました。遅すぎますね。
これから先の日本社会は、ますます荒廃が進み、国民の不満が頂点に達し、やがて爆発します。それを未然に防ぐために、国は国民の監視を強化します。
実際アメリカでは「愛国者法」により、電子メールや携帯の通話履歴が監視の対象になっています。誰が、いつ、どこで、何を読んで、誰と通信を交わしたか、すべて国に筒抜けです。
「パノプティプコン」とはフランスの哲学者フーコーが用いた概念ですが、国民が刑務所の囚人のように監視される体制を言います。監視者の姿は見えませんが、囚人は監視者不在でも、監視を意識することによって管理統制されるのです。これを「パノプティシズム」と言います。
このシステムから解放されるためには、権力がどう管理・統制しようとしているかを知らねばなりません。この本はそれを知るための第一歩です。あなたが無知のまま、奴隷の人生を送りたければ、読む必要はありません。
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日本力
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松岡正剛,エバレット・ブラウン
テレビを始めとするメディアを通じて、何かといえば日本はスゴイ!と叫んでいる、あるいは叫ばないと身が持たない人たちに読んでもらいたい本です。だってそれは日本人がまともな思考をしてこなかった、今もできていないことの裏返しでしかありませんからね。日本スゴイと叫んでいる人を見ると、自分が持っている劣等感をこんな形でしか表現できないのかと思って気の毒になります。日本スゴイ!だからどうしたの?あなたは何をやりたいわけ?
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まんが政治vs.政治まんが――七人のソーリの一〇年
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佐藤 正明
今の政治状況に対して、まともに反応すればするほど、こちらがアホに思えてきます。正面突破は犠牲者が出るだけでなく、精神的にも疲労困憊しますからね。こういう時代の表現方法は、もはや風刺とブラックジョークしか残っていない気がします。
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魂の殺人―親は子どもに何をしたか
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A.ミラー
アリスミラーのこの本は、塾を始めるきっかけになりました。ただ生活のためだけなら、他のことをしていたでしょう。『才能ある子のドラマ』とあわせて、当時の私には衝撃的な本でした。人生はどこでどう転ぶかわかりません。人間の奥深さを知ることで、何とか自分を維持していたのです。この本を読むと当時のことが、ありありと思い出されます。ある意味で、私の人生を方向づけた本かもしれません。
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朽ちていった命:被曝治療83日間の記録 (新潮文庫)
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NHK「東海村臨界事故」取材班

2月18日のブログでも書きましたが、仕事のために読むビジネス書の類は、最終的には効率を重視し、最小の資本と労力の投下で、いかにして最大の利益を上げるかということに尽きていると思います。そのための働き方改革であり、そのための賃上げです。そのための人心掌握術であり、顧客対応です。ビジネス書を読めば読むほど、人間は軽薄になり、視野が狭くなっていきます。もしあなたがそれを自覚するきっかけがほしいなら、是非この本を読むことを勧めます。読書はビジネスのためにするのではないということが分かると思います。この本は私たちの日常の風景を一変させるだけのインパクトを持っています。いわば、ことばの最高の意味における「闖入者」なのです。
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生前退位をめぐる安倍首相の策謀 (宝島社新書)
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五味 洋治
天皇陛下が去年8月のお言葉で一番国民に伝えたかったのは、一言で言うと安倍首相の改憲を許してはならない、ということだったのです。それはブログでも再三書いてきましたが、今上天皇の20年にわたる慰霊の旅や国民に寄り添う姿勢が何よりそのことを証明しています。普通の読解力があれば分かることです。しかし、安倍首相には肝心の読解力がありません。安倍首相は今上天皇の思いを、単なる生前退位の「制度上の問題」にしてしまったのです。これは明らかな策謀です。国民は今一度、天皇陛下のメッセージに真剣に耳を傾けるべきです。
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教育の論理―文部省廃止論 (講談社文庫)
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羽仁 五郎
1979年、今から38年前に出版されたこの本を読み返しました。そして愕然としました。羽仁五郎が指摘したことがますますリアリティーをもって、前景化しています。福沢諭吉も言うように文部科学省はいらないのです。教育関係者は、自らの原点に戻るため、この本を読むべきです。
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ミシェル ウエルベック
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排除と抵抗の郊外: フランス〈移民〉集住地域の形成と変容
排除と抵抗の郊外: フランス〈移民〉集住地域の形成と変容 (JUGEMレビュー »)
森 千香子
第16回大仏次郎論壇賞を受賞した本作は、従来時間軸で論じてきた社会学の手法に、パリ郊外というエスニック・マイノリティーが住む「空間」を突きつけ、彼らがなぜグローバルテロリズムに追い込まれるのかを明らかにしたものです。

一読し感銘を受けました。問いを生きるという学問の原点が、彼女のフィールドワークにつながり、「移民たちは、彼ら自身に問題があるのだという視線を注がれていました。でも実際には、多数派による差別が問題を生み出していた。問題は社会の側にあったのです」と結論付けます。

この著作は日本社会のみならず、世界のこれからを考えるのに、大いに役立ちます。これぞ学問と言えるものです。『シャルリとは誰か? 人種差別と没落する西欧 』とあわせて読むことを勧めます。
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黒い巨塔 最高裁判所
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瀬木 比呂志
この本はまだ発売されていません。自分で読んでいない本を推薦するのは邪道でしょう。しかし、これまでの『絶望の裁判所』『ニッポンの裁判』(ともに講談社現代新書)に続く裁判所、司法批判の第3弾が長編の権力小説だということで、過去2冊の本の面白さからして、推薦に値する本だと思いました。『原発ホワイトアウト』の最高裁判所ヴァージョンだと思います。読んでからコメントを追加したいと思います。
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被災の思想 難死の思想
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小田 実
若い人は彼の仕事も、名前すら知らない人もいるでしょう。来年で没後10年になります。彼が生きていたら、3・11をどうとらえ、どう表現していたか。それを見たかったし、彼の発言を聞きたかった、とつくづく思います。ジャーナリズムは劣化の一途をたどり、教育は非民主的な社会に適応できるように、こどもたちに真実を教えません。すべてのものには歴史があります。今ある世界が全てではなく、それを作り出した社会と人間の営みがあったのです。もし若い人が自由に生きようと思うのであれば、そして元気を出したければ、彼の著作を読んでみることです。『何でも見てやろう』でもいいですね。とにかく一冊手にとって見てください。そして彼の提示した問いに答えてみてください。
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アモン・シェイ
学校なる場所に通っていた時、毎年夏になると課題図書を読んで、読書感想文を書かねばならないのが苦痛でした。課題図書の選定には学校と書店の密約があるに違いないと思っていたくらいです。

偶然巡り合った面白い本の感想を書くのならまだ我慢できたかもしれません。つくづく学校というところは、余計なことをしてくれると思ったものです。

あまりにめんどうくさいので、「あとがき」を参考に、あらすじを書いて提出したら、トリプルAをもらいました。

学校というところは、もしかしたら、人生の退屈に耐える訓練をする場所だったのかもしれません。この本を読んで、改めてそのことを確認しました。別に先生を責めているわけではありません。それほど自覚的に生きるということは難しいのだとため息をついているだけです。
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選挙 [DVD]
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想田和弘監督の観察映画。音楽による演出は一切なく、徹頭徹尾監督の視点で撮られたドキュメンタリー映画。見終わった後、日本の選挙風土の貧困さが浮かび上がる。この国に民主主義はない、ということを改めて確認し、そこから出発するしかない。その勇気を持つ人には必見の映画です。合わせて『選挙2』もどうぞ。
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職業としての政治 (岩波文庫)
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マックス ヴェーバー
ウェーバーの死の1年前、1919年、学生達に向けた講演の記録です。
一部抜粋します。

「自分が世間に対して捧げようとするものに比べて、現実の世の中が―自分の立場からみて―どんなに愚かであり卑俗であっても、断じてく挫けない人間。どんな事態に直面しても「それにもかかわらず!」と言い切る自信のある人間。そういう人間だけが政治への「天職」を持つ。」(P105〜106)

「さて、ここにおいでの諸君、10年後にもう一度この点について話し合おうではないか。残念ながら私はあれやこれやいろんな理由から、どうも悪い予感がしてならないのだが、10年後には反動の時代がとっくに始まっていて、諸君の多くの人が―正直に言って私もだが―期待していたことのまずほとんどは、まさか全部でもあるまいが、少なくとも外見上たいていのものは、実現されていないだろう。」(P103〜104)

10年後には、ワイマール体制は機能不全に陥り、1933年にはヒトラーが首相に就任します。

平和憲法は、日本人にとって310万人の命と引き換えに手に入れた唯一と言っていい理念であり、アイデンティティーでした。その唯一の誇りを、日本人は損得勘定で葬り去ろうとしています。言い古された言葉ですが、歴史は繰り返すのです。
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熊楠の星の時間 (講談社選書メチエ)
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中沢 新一
小学校を卒業するころ、将来なりたい職業として思い描いていたのが、天文学者か生物学者でした。プロ野球選手は、自分のセンスでは無理だと悟りました。物ごころついたころから興味があったのは宇宙や昆虫や植物の世界でした。そんなわけで南方熊樟に出会うのは必然的な成り行きだったのです。人間は言葉によって世界を把握しますが、それ以外の把握の仕方があるはずだと、ずっと思ってきました。南方熊樟は、小林秀雄と同じく、直観による世界の把握の仕方を教えてくれました。この本は、言葉によって構成された世界秩序の外に出て、世界を改めて考えたい人に大いなるヒントをあたえてくれます。安倍政権によるゴキブリのフンのような、あまりにばかばかしい政治状況を見せつけられているので、精神の衛生学として一気に読みました。
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電通と原発報道――巨大広告主と大手広告代理店によるメディア支配のしくみ
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本間龍
こどもの教育から裏金を使ったオリンピック誘致、原発再稼働、戦争準備から武器の売却、安倍政権の裏の権力としてメディアに絶大な影響力を行使する電通。私たちは電通が作り上げた「箱」の中でいいようにマインドコントロールされている。自分の意見だと思っていたものが、実はそう思わされていただけだということに気づかなければならない。音楽をはじめとする芸能情報、その中で踊らされるミュージシャンやタレント、果てはデザイン業界までを席巻する。今や電通の介在しないメディアはないと言ってもいい。利権あるところに電通あり、です。
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施 光恒
英語教育に携わる人は、一度この本を読んでみるべきではないでしょうか。言葉は悪いですが「英語ばか」がこの国には余りにも多すぎる気がします。
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前作『日本はなぜ「基地」と「原発」止められないのか』に続く著者渾身の力作。自分の人生を生きたい人にすすめます。ただそれだけです。18歳で選挙権が与えらる高校生が政治を考える際の基本的なテキストになる日がくるといいですね。無理でしょうが。これ以上余計なコメントはしません。まず手に取ってみてください。
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菅野 完
メディアで取り上げられるよりはるか前から日本会議の存在について私は言及していました。電通と同じくタブー視するメディアには心底失望したものです。報道すればタブーはタブーでなくなるのです。何を恐れているのでしょうか。干されれば、何とか生活をする工面をすればよい。それだけのことです。
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経済学という自己正当化の道具、あるいは権力に寄生するための方便を分かりやすい言葉で暴露した本物の経済学の本。宇沢弘文氏の「社会的共通資本」と併せて読むことをすすめます。
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帯に「祝祭都市にスタジアムはいらない」とあります。そもそも2020年まで天災と原発事故をやり過ごし、経済危機を乗り越えて存在しているでしょうか。極めて怪しいですね。偶然書店で手に取って読みました。彼の文章を読むと、建築は現世の権力に奉仕するものではなく、想像力の王国を作るものだと思わされます。建築にそれほど興味のない人でも、読めます。いや、いつのまにか引き込まれているでしょう。
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りぼん・ぷろじぇくと
難関中高一貫校で学び、東大に合格しても、それはもはや知性のバロメーターではありません。この本に書かれていることが真実だと見破れることこそが本物の知性です。ニセの知性は既得権益を守るためにはどんな屁理屈でもひねり出します。おまえは何も知らないと言って他人を見下し、金と権力におもねるのです。ニセの知性は理想の灯を掲げることができません。「脳内お花畑」などという幼稚な言葉を使って揶揄するしかないのです。彼らの決まり文句は、他国が攻めてきたらどうするのかという、それこそ「脳内お花畑」的なものです。「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」とは、まさに至言です。
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桐野 夏生
権力も財力もない人間は、想像力を武器に戦うほかありません。以前ブログでも取り上げた『亡国記』とともに読むことをすすめます。
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文部科学省と財界は文系学部、特に社会思想を研究する学部を標的にして、その廃止を迫っている。これがどれだけ短慮で、バカげたことかヨーロッパの大学を見てみればよい。コンピテンス、要するに高速事務処理能力と記憶力を重視する理系学部さえあれば国は繁栄するという考え方です。文系学部は「結果を出せない」といいます。株式会社化をなりふりかまわず進めようとする国の中で、文系学部は穀つぶしだと映っているのでしょうね。この国の知性の劣化はとどまるところを知らないようです。
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私の元塾生の縁でお会いしたことのある烏賀陽弘道氏の渾身のレポート。事実を丹念に調べ上げ(これがジャーナリストの本来やることです)事実をして語らしめることのできる稀有なジャーナリスト。この本を読まずに福島第一原発の事故の本質に迫ることはできない。ダブル選挙の前に一人でも多くの国民が読むことを期待します。
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松岡正剛氏の本はどれも面白く、シリーズの千夜千冊を除けばほとんど読んでいます。『多読術』は、高校生にぜひ勧めたいと思います。高校時代に、この本を読んでおくと、さまざまな分野の知的見取り図を手に入れることができます。学校の授業だけではなく、この本を手掛かりにして知の荒野に歩みを進めてほしいと思います。
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安倍首相は「この道しかない」と言って消費税を上げ、集団的自衛権の行使を可能にする閣議決定をし、公約とは正反対のTPPを批准することで、日本の文化=アイデンティティーを破壊しようとしています。

もし私たちが生き延びたければ、そのヒントがこの本の中に書かれています。日本は超大国の「夢」を代弁するだけの国になってはなりません。
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山本氏の国会での質問を、本になって改めて読み直して感じることは、文字通り「みんなが聞きたい」質問をしてくれたということです。安倍首相が小学生に「なぜ政治家になったのですか」と質問された時、「父親も祖父も政治家をしていたからです」と答えていました。小学生相手に、何と言う悲しい答えでしょうか。語るべき理想を持たない政治家など、所詮は官僚に利用されるだけです。それに対して、山本氏には語るべき理想がある。「政治なんてそんなものさ」というリアリストが発散する腐臭を吹き飛ばすさわやかさがある。それは、彼の身体には収まりきれない理想が持つ力そのものです。彼は言います。「力を貸してほしい。少なくとも、あなたが必要だと思われる社会、私が必要だと思われる社会を作っていきたい。そう思うんです」と。日本の総理大臣にふさわしいのはどちらでしょうか。
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おそらく、日本人自身よりも海外の知識人のほうが、日本の問題を正確にとらえていると思わせる本です。読み終えて何気なくテレビを見たら、わが大分県選出の国会議員、岩屋毅氏と江藤晟一氏が、2016年ミスユニバース大分県代表を選ぶ催し物に出ていました。名誉顧問だそうです。いかがわしい宗教団体をバックに票を稼ぐだけでは飽き足らず、こんな大会に顔を出して名前を売ろうとする。大分市長の佐藤樹一郎氏も出席していました。このお三方は、こんなことをするために国会議員や市長になったのでしょうか。国民の税金を使ってやることといえば、テレビに出演してにやけた顔をさらすことでしょうか。もう物事の軽重が全く分かっていません。せめてこの本くらい読んではどうでしょうか。私はこの本に書かれていることの大部分に賛成です。
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出版されてすぐ読みました。国会で、読んでもいないのに、安倍首相が躍起になって否定した事実が書かれています。蓮池氏はあちこちから人格攻撃の対象とされてきましたが、自分にも落ち度があったと認めています。自分は総理大臣なのだから落ち度はないと居直る人間とは好対照です。この本を読んで、拉致問題について今一度国民が考えることを望みます。
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2年半ほど前に求めて、一気に読みました。マルクスの『資本論』の中に書かれていることを、著者が自分なりに消化し実践していく過程が書かれているので、一種のドキュメンタリー文学として読めます。きっと著者と同じ思いの若者は全国にたくさんいると思います。かけがえのない一回きりの人生を、充実して生きたいと思っている人に勇気を与える本です。
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本では土屋正雄氏の名訳が出ていますが、できれば英語で読んでもらいたい小説です。カズオ・イシグロの文章は読んでいてとても気持ちがいい。素晴らしい文体です。いつの間にか声に出して読んでいることがあります。ジョージ・オーエルと並んで私が最も好きな海外の作家です。彼が書くような英語を書きたいですし、彼のように考え、話したいものです。DVDを見た後は、是非小説も読んでください。
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今年度ノーベル文学賞受賞作品。チェルノブイリは言うまでもなく、フクシマでさえ人々は忘れたがっています。もう過去のことだと言い聞かせて。しかし、過去のことではなく、まぎれもない現在進行中の現実であり、私たちが生きている世界そのものです。この本を読んだ後、橋下徹が御堂筋をイルミネーションで照らし出し、F1カーに乗って写真を撮っているところを見ました。その時のセリフ。「大阪はここまでできる!」

もう何と言うか、別世界を生きている人間です。彼の発する言葉は文学とは無縁です。人間が言葉を持ったのは、言葉にしがたいものを言葉にしようとするためです。政治家が発する言葉の軽さと言ったらありません。それだけ現実も軽いものになったということでしょう。
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資本主義社会に生きるということは、会社といかにかかわるかを意味します。それほど私たちの働き場所として会社は大きな力を持っています。その会社がこれからどうなるのかを、数少ない本物の経済学者・岩井克人氏が洞察しています。凡百の経済評論家には決して書けない本です。今からでも遅くない。是非読んでみてください。
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著者は私と同じく学習塾を営む在野の哲学者。私が塾を始めた時、著者の『赤門塾通信』を読み、励まされました。

上下2巻で、結構なヴォリュームですが、やっと読み終わりました。今改めて日本の精神史をたどりなおしたいと考えている人には、ぜひ勧めたいと思います。感想は又いつか別の機会に。
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小林秀雄は、私を文学や哲学の世界にいざなってくれた恩人です。彼と岡潔との対談です。
この本を理解できる政治家はおそらくいません。いたら、絶滅危惧種でしょう。
小林秀雄、岡潔、鈴木大拙のような人間はもう出てこないでしょうね。こういう人間を生み出す土壌が日本にはなくなりました。
代わりに登場してきたのが、橋下徹やホリエモンこと堀江貴史といった、マスコミによって改革の旗手と持ち上げられたマネー資本主義の申し子たちです。
感情を劣化させた人間が幅を利かせる社会は、効率を追求し、競争を加速させるだけの生きづらい社会です。日本社会はどうしようもなく劣化が進んでいます。
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岡 潔
教育で最も大切であるにもかかわらず、多くの人が忘れているのが感情教育です。世界的数学者・岡潔のことばでは「情緒」ということになります。普通、情緒とは正反対にあると考えられている数学のような学問で、ブレイクスルーをもたらすものは「情緒」だと岡潔は言います。今回読み直してみて、その深い洞察力と、そこから出てくるみずみずしい感性と新しさに、改めて驚かされました。

こどもの将来を本当に考える親なら、あれこれ参考書を買い与えるより、是非この本を読むことをすすめます。私たちが失ったものの価値が分かり、呆然とするはずです。

この本を読んで何も感じなかったらどうするのか?
残念ですが、どうしようもありませんね。これまで通り、自分の信じる道をお進みください。
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以下は私がアマゾンのレビューに投稿したものです。再録します。
「もし人に幸福な生き方があるとしたら、中村好文さんのような生き方だろうと、ずっと思ってきました。
建築雑誌をパラパラとめくりながら、ふむ、と思って手が止まると、そこには必ずと言っていいほど中村さんの設計した住宅がありました。
文は人なりと言いますが、その人の書く文章のエッセンスがこれほど見事に建築にも表現されている例はめったにありません。
建築に限らず、食の分野でも、ことばと実物の乖離がはなはだしい時代に、中村さんの設計した住宅や美術館に出会うと、どこか安心するのですね。
そういうわけで、著者の本はすべて読ませてもらっています。
この本も偶然、年末に本屋さんで手に入れ、装丁やカバーの手触りを楽しみながら読んでいます。
読みながらいつの間にかほのぼのとしている自分を発見します。
一日に一編か二編を過去の記憶をたどるようにして読んでいます。
この本の平明さ、やさしさがどこから来るのか。そんなことを分析するのは野暮というものです。
とにかくこの素敵な小さな本は、旅のお供にどうぞ!とすすめたくなります。」
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滅び行く国の教育。
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    高校入試を控えた中3生の授業もあと1回を残すのみとなりました。国公立大学前期日程の入試も直前です。そこで、久しぶりに静かな土曜日、塾の宣伝を兼ねて(新高3生の授業は3月より開始です)英文法の解説をしようと思ったのですが、どうも気分が乗りません。政治のみならず教育の自壊現象を目の当りにして意気阻喪しているのです。

     

     

    そこでその原因と冷静にむきあうために言葉にしてみました。「思考ノート」の作り方を書いた責任がありますからね。

     

     

    その1:教育の自壊現象について。

     

     

    例の東京・銀座の中央区立アルマーニ小学校、じゃなかった泰明小学校の件です。報道によると、同小学校がイタリアの高級ブランド「アルマーニ」にデザインを依頼し、最大約8万円の標準服の導入を決めたことを巡り、同ブランドの日本法人「ジョルジオアルマーニジャパン」(東京)が、区教育委員会に対し、児童の安全確保などを要望する申し入れを行ったことが23日、同社や区への取材で分かった、とのことです。

     

     

     

    「標準服導入を巡っては、同小の児童らが登下校中に服をつままれるなどの嫌がらせが起きている。同社によると、申し入れは23日までに文書で行い、児童の安全確保のほか、標準服導入について保護者に改めて説明するよう求めたという。同社の担当者は「児童への影響が出ていることを懸念している。導入を巡る保護者の同意や理解を進めてほしい」と話している。標準服の販売店舗によると、23日現在、今春の入学予定者60人中54人がすでに採寸と入金を終えた。」ということです。

     

     

    ほらね。私が予想した通りのことが起こっています。

     

     

    それにしても、さすが「アルマーニ」です。児童に対するいやがらせが相次ぎ、傷害事件、誘拐事件に発展すれば、ブランドイメージに致命的な傷がつくことを懸念し、早々と手を打ったのです。イタリアの高級ブランドともなれば、危機管理の意識が高い。日本の公教育に指示が出せるのですね。「アルマーニ」がすごいのか、校長や区教育委員会がふがいないのか、どっちでしょう。

     

     

     

    本来なら、区教育委員会が校長を呼び、「あなたは公立小学校の校長であることを認識しているのか。公共心のある子供を育てることがあなたのやるべきことではないのか。子供たちがいやがらせをうけたり、事件に発展したりすれば、あなたは責任をとれるのか。すぐに撤回していただきたい。」と言うべきだったのです。

     

     

     

    でもそれは無理です。なぜなら、校長はアルマーニの制服の導入をめぐってすでに区教育委員会に相談をしていたのですから。区教育委員会のなかに見識のある人物がいればその時点で校長をたしなめていたでしょう。でもそれができなかった。理由はすでにブログで書きました。

     

     

     

    要するに、公教育は消費社会の象徴である「高級ブランド」に屈したのです。当然ですね。教育の最終目的はブランド学校、ブランド大学、ブランド職業に就き、人より少しでも多くかせぎ、人より少しでもいいモノを買うことになったのですから。

     

     

     

    消費に変わるオールターナティブな価値をつくりだせなければ、私たちの社会は静かに瓦解していくしかありません。私立はどうか、ですって?私立は、ブランドに屈するもなにも、ブランドそのものをつくりあげようと必死になっています。きっと「経営者」の頭の中は「ブランディング」でいっぱいになっていることでしょう。

     

     

    その2:政治の自壊現象について。

     

     

    報道によると、2月23日午前4時頃に東京都千代田区の在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)中央本部の門の前で男2人による銃撃テロが発生しました。警戒中の機動隊員が建造物損壊容疑で2人を現行犯逮捕。そのうち1人が右翼活動家の桂田智司容疑者で、もう1人も右翼団体関係者とみられています。

     

    桂田智司容疑者。

     

     

     

    私が批判したルーリーちゃんこと、国際政治学者・三浦瑠麗ちゃんが、大阪に北朝鮮の「スリーパーセル」というテロリスト分子が大勢潜んでいるというヘイトデマをテレビで流した直後に起こった今回の銃撃テロ。逮捕された容疑者は「スリーパー」どころか、拳銃で武装した極右テロリストでした。

     

     

     

    こんなイカれた差別主義者がいるのに、国を挙げて北朝鮮危機を煽り、テレビでデマを流して差別煽動すればどうなるか。まさしく関東大震災時の「朝鮮人が井戸に毒」のデマの後に朝鮮人虐殺が発生したことと同じ構図となったわけです。

     

     

    ルーリーちゃんは今回のテロを予想できなかったのでしょうね。彼女はネトウヨのマスコット人形にはなれるかもしれませんが、学者としては完全に失格です。

     

     

     

    これもすでにブログで書きましたが、ネトウヨ作家の百田尚樹というテロリストもいます。事実、彼自身がツイッタ―で公言しています。「もし北朝鮮のミサイルで私の家族が死に、私が生き残れば、私はテロ組織を作って、日本国内の敵を潰していく」と。しかも彼には少なからぬ賛同者がいるのです。

     

     

     

    ところで、第二次安倍政権が発足した直後の2013年、一人の女子中学生が大阪の鶴橋でヘイトデモに参加し、「いつまでも調子に乗っとったら南京大虐殺じゃなくて鶴橋大虐殺を実行しますよ」という虐殺予告のヘイトスピーチを行って、日本だけではなく世界中に衝撃を与えました。この女子中学生の父親こそが今回のテロ実行犯である桂田智司です。

     

     

     

    私は同じようなヘイトスピーチを撒き散らす大分市のY田ゼミ塾長を批判してきました。塾の教師であろうが学校の教師であろうが、教育を通じてヘイトスピーチをあおる人間を放置できなかったのです。この種の人間たちの過激な言説に眉をひそめる人も、自分たちの足元が徐々に切り崩されていることにはなかなか気づきせん。

     

     

     

    大事なのは経済だ。企業の国際競争力を高めることだ。裁量労働制は間違っていない。データが何だ。自分の考えが「正しい」ことはあたりまえだから論証などいらない。国会は単なるセレモニーに過ぎない。ついでに、国民主権、平和主義、基本的人権の尊重もじゃまだ。そんなものはインテリのへ理屈に過ぎない、というわけです。いやはや、教育とはおそろしいものです。

     

    | 教育 | 12:18 | comments(0) | - |
    「汝、衆をたのんで、悪を為すなかれ」
    0

      若かったころ、繰り返し読み、いつのまにか暗唱してしまった文章があります。一方で、中身のない文章は何度読んでも頭に入ってきませんでした。私は受験に役立つというだけでどんな文章でも次々に暗記できてしまうような優秀な頭脳をもっていなかったのです。

       

       

       

      以下に挙げたのは、バートランド・ラッセルの『自伝的回想』の中の一文です。最初に出てくる she は彼の祖母を指しています。今読み返してみて、この文章が私の人格におよぼした影響にあらためて気づき、驚いています。こういう祖母をもったラッセルは何と幸せだったのだろうと思います。

       

       

       

       

      But in retrospect, as I have grown older, I have realized more and more the importance she had in moulding my outlook on life. Her fearlessness, her public spirit, her contempt for convention, and her indifference to the opinion of the majority have always seemed good to me and have impressed themselves upon me as worthy of imitation. She gave me a Bible with her favourite texts written on the fly-leaf. Among these was “ Thou shalt not follow a multitude to do evil." Her emphasis upon this text led me in later life to be not afraid of belonging to small minorities.

       

       

      ― しかしふりかえってみると、成長するにつれ、私の人生観を形作る上で祖母がいかに重要な存在であったか、しだいにわかるようになった。祖母の恐れを知らない勇気、公共心、因襲に対する軽蔑、多数派の意見に対する無関心はいつも私には善いことだと思われたし、模倣する価値のあることだと強く印象づけられた。祖母は、見返しの遊び紙に祖母のお気に入りの文句が書かれている聖書を私にくれた。その中に次の文句があった。


       「汝、衆をたのんで、悪を為すなかれ」


      祖母がこの聖句を強調してくれたことで、後になって、私は少数派に属することを恐れなくなった。―

       

       

       

      いまこの国では、あらゆる分野が劣化しています。政治について言えば、事実の共通了解すら成立しません。つまり議論の前提が崩壊しているのです。

       

       

       

      1980年代から90年代にかけて、あらゆるものが消費社会の等価交換にさらされました。その結果、すぐれた言説も歴史を捏造する言説も、等価な「商品」として言論市場にほうりだされました。

       

       

       

       

      一部の権力者が捏造した歴史の記憶(これを歴史修正主義といいます)にさらされればさらされるほど、ある種の人間たち(ネトウヨ)は国家に対して従順になります。歴史から切り離され、人格が空洞化した彼らは、その空洞を埋めるために国家主義的な言説とそれを大声で主張する集団を支持します。

       

       

       

      いわく、どの国もやっていることだ。そもそも戦争だったんだぜ。南京大虐殺も従軍慰安婦もなかった、でっち上げだ。なのに、なぜ自分たちだけが批判されなければならないのか、というわけです。こういった「衆をたのむ」言説は次第にエスカレートしていきます。

       

       

       

      やれ北朝鮮のミサイルの脅威だ、テロの危険性だとあおります。警察が法外のことをしようが(レイプ犯山口敬之の逮捕を直前でやめさせるなど)、自衛隊を米軍に差し出そうが、国民の安全のためには仕方がないのだ。この緊急時に人権どころの話じゃないだろう。何が憲法違反だ、そもそもアメリカに押しつけられた憲法じゃないか、歴史を知らないのか、もっと勉強しろ、というわけです。

       

       

       

      彼らは、過去の日本の行い、つまり侵略戦争を正当化したいだけです。現に起こった歴史的事実を突きつけられると、自分たちが責められているように感じ、逆ギレします。加害者なのに被害者のようにふるまいます。日本軍はこんな良いこともしたんだ、知ってるのか、と言って、まるでコンビニの期間限定の「人気商品」をつまみ食いするように「歴史の真実」をとりあげます。とにもかくにも、オレたちの国が悪いことをするわけがない、と思いたいだけです。まるでだだをこねている子供です。

       

       

       

      バートランド・ラッセルの祖母のような人間がこの国にはいなくなりました。その正反対の「だだをこねるだけの子供」が最高権力者の地位に「恋々」としているのですから、無理もありませんね。

       

      | 文学・哲学・思想 | 13:21 | comments(0) | - |
      議論を「脱線させる」学者風テレビ芸人。
      0

        ルーリーちゃんが色々と反論しているようです。「このレベルの発言が難しいとなれば、この国でまともな安保論議をすることは不可能です。」「考えてみれば、これもまた、安全保障を法解釈でしか語れなかった結果として、この国に根付いてしまった悪癖かもしれません。」とおっしゃっています。

         

         

         

        「安全保障を法解釈でしか語れなかった」って、ルーリーちゃんのような学者風テレビ芸人や政治家、評論家、コメンテーター、マスメディアを指して言っているのでしょうか。語るには相手が必要です。相手はもちろん国民です。ということは国民のことなど誰も考えてこなかったということになりますね。

         

         

         

        「法解釈」ではなく、具体的事実をもとに、国民に向けて安全保障を語るのはもちろん政権与党の責任ですよね。でも安倍政権は「北朝鮮をめぐる緊迫した状況」と言うだけで、何一つ説明していません。そんな中、ルーリーちゃんは、安倍政権に忖度せずに大胆に語っているのだ、と言いたいのでしょう。それにしては中身があまりにもお粗末すぎます。

         

         

         

        ところで、具体的事実をもとに安全保障について語るのであれば、「スリーパーセル」が原発にテロを仕掛ける危険性や、北朝鮮のミサイルが原発に着弾した時の被害想定を語る必要があります。

         

         

         

        でもどういうわけか、ルーリーちゃんは北朝鮮のテロリストのことは語っても、原発が攻撃される危険性には触れません。これでは「まともな安保論議をすることは不可能です。」この点を安倍総理にじかに問いただしたのは山本太郎議員一人です。安倍総理はいつものように逃げて答えませんでしたが。

         

        山本太郎議員の追及、見事です。国民が一番知りたいことをこれほど簡潔かつ論理的に話せる議員はいません。ルーリーちゃんもせめてこのくらいのことを、テレビで言ってくれればいいのに。

         

         

         

         

        そもそも、戦争になり北朝鮮が日本を攻撃するとなったら、最大の弱点である原発を攻撃するはずです。最も確実かつ致命的なにダメージを与えられるのですから。こんなことは小学生でもわかることです。

         

         

         

        黙って嵐が過ぎ去るのを待っていればいいものを、ルーリーちゃんは反論されるとムキになるようです。だれよりも正確な(フェイク)情報を持っているアタマの良い私が批判されるなんてがまんできないと思ったのでしょうか。次のようなことも言っています。

         

         

         

        「過去の警察白書を通しての記述と大震災時の迫撃砲発見などの事後的な未遂案件で皆さんが納得するレベルでは十分な公開情報がとれます。スリーパーセルというのは単に工作員の形態に着目した呼び方の問題です。もちろんメディア各社できちんと取材されている記者はもっと情報をもらっているはずです。」

         

         

         

        頭が悪いせいか「事後的な未遂案件で皆さんが納得するレベルでは十分な公開情報がとれます。」という日本語が何度読んでも分かりません。「事後的な未遂案件」って何?こういう言葉をツルツルと何の抵抗もなく吐き出せることが、アタマの良い証拠だと勘違いしているのでしょうね。「大震災時の迫撃砲発見」などという与太話を簡単に信じてしまうのも、彼女のアタマの良さを表わしているのでしょう。

         

         

         

        今回一つだけ追加したいことがあります。それは同じくテレビ向けエセ学者である古市憲寿が「三浦瑠麗が嫌いな人達が騒いでる」とコメントしていることについてです。

         

         

         

        彼については2年前にすでに書いています。その時、古市憲寿に対する怒りがどうしてもおさまらなかったので記事にしました。頭の問題(彼はバカですが)ではなく、人間として最低限の礼儀すらわきまえていないことに無性に腹が立ったのです。

         

         

        劣化し続ける権力とそれに寄り添うバカな男たち』

        http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=189

         

         

        今回、古市憲寿はルーリーちゃんの発言のどこが問題なのか言及すらせず、彼女への批判を「好き嫌いの問題」にしてしまいました。さすがにフジテレビ以外ではあまり見かけないタレントだけのことはあります。彼のコメントは、毎回こういうスタンスです。

         

         

         

        つまり、問題そのものについて自分の意見を述べません。そのかわり、現政権や自分の友人を「批判する意見」を冷ややかに揶揄して論点をすり替えます。批判の矛先をそらすためです。いつも「どっちもどっち」と言って、さも公正中立であるかのようにふるまいます。

         

         

         

        問題そのものではなく、それにまつわる党派や集団の態度を批判することで、議論を「脱線させる」のです。これはネトウヨの常套手段です。こんな生き方が身についてしまっている人間のことなど論ずるに値しません。この点、ルーリーちゃんの方がまだ若干、少しだけ、微妙に「かわいい」ですね。

         

         

         

        高校入試と大学入試を直前に控え、こんなことを書いている暇はないのですが、行きががかり上書いてしまいました。まあ、昼食後1時間ほどのことですから、なんということもありません。

         

        | 政治 | 14:06 | comments(0) | - |
        やってくれましたルーリーちゃん。
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          ルーリーちゃんとは、国際政治学者で東京大学政策ビジョン研究センター講師をしている三浦瑠麗ちゃんのことです。今になってようやくメディアは彼女の思想的体質に気づいたようですが、私はすでに6カ月前に指摘しています。

           

           

          『国際政治学者という幇間(ほうかん)』

          http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=391

           

           

          上の記事を書いた動機は、前回のブログで書いたように、今の日本社会をおおっている差別と好戦的な空気がどうやって作りだされているか、それにテレビがどのようにかかわっているかをあきらかにするというものでした。ぜひお読みください。

           

           

           

          さて、今回の件ですが、番組を見ていない人のために、ルーリーちゃんが「ワイドナショー」(松本人志の司会)の中で「スリーパーセル」について語った部分の書き起こしを引用します。

           

           

           

           

          三浦:もし、アメリカが北朝鮮に核を使ったら、アメリカは大丈夫でもわれわれは反撃されそうじゃないですか。実際に戦争が始まったら、テロリストが仮に金正恩さんが殺されても、スリーパーセルと言われて、もう指導者が死んだっていうのがわかったら、もう一切外部との連絡を断って都市で動き始める、スリーパーセルっていうのが活動すると言われているんですよ。

           

          ※ここで『スリーパーセル 一般市民を装って潜伏している工作員やテロリスト』というテロップが画面上に表示される。

           

          東野:普段眠っている、暗殺部隊みたいな?

           

          三浦:テロリスト分子がいるわけですよ。それがソウルでも、東京でも、もちろん大阪でも。今ちょっと大阪やばいって言われていて。

           

          松本:潜んでるってことですか?

           

          三浦:潜んでます。というのは、いざと言うときに最後のバックアップなんですよ。

           そうしたら、首都攻撃するよりかは、他の大都市が狙われる可能性もあるので、東京じゃないからっていうふうに安心はできない、というのがあるので、正直われわれとしては核だろうがなんだろうが、戦争してほしくないんですよ。アメリカに。

           

           

           

          私はこれを聞いて、はあ〜、ついにネトウヨの親分・青山繁晴化しちゃったのね、と思いました。いや、櫻井よし子化、産経新聞化といったほうがわかりやすいでしょうか。でも驚きません。これは当然予想できたことでしたから。

           

           

          ことのてんまつは、以下の「リテラ」の記事をお読みください。正確でよくまとまっています。

          http://lite-ra.com/2018/02/post-3799.html

           

           

          その記事の最後。「なんの根拠もないのに知識や情報があるふりをしてフェイク情報をふりまき、歴史修正主義や安倍政権を正当化し、ヘイトを助長する。みんな騙されていたけど、三浦瑠麗という国際政治学者って実は、あの青山繁晴センセイと同じカテゴリーの人だったんじゃないだろうか。」と指摘しています。まったくそのとおり。異議なし!だから私は半年前にだまされてはならないと書いたのです。

           

           

           

          ルーリーちゃんは、もともと学者ではなくテレビ芸人なんですが、こんどの一件で彼女を学者だと考える人はネトウヨのみなさんを除けばいなくなるでしょう。もっとも、今のテレビ業界を見ると、またぞろ復活してきそうな気もしますが・・・。

           

           

           

          そもそもルーリーちゃんは、テレビに出たがり屋のピント外れのオネーさんにすぎません。学歴や肩書を重んじるマスメディアと視聴者が、若手の論客だと勘違いしているだけです。困ったことに、視聴者だけではなく本人も勘違いしています。

           

           

          それが度を越すと、本人が自覚していない分だけ、言ってることがかえって本当らしく聞こえてしまいます。自分の言うことは真実であると思い込んでしまうからです。ルーリーちゃんはウケをねらって一線を越えた陰謀論を展開したのですが、逆に自分が差別主義者であることをさらしてしまいました。あな、おそろしや、おそろしや。

           

           

           

          だまされていた人は、「国際政治学者」だとか「東京大学政策ビジョン研究センター講師」という肩書を見て、いくらなんでもここまで無根拠に物事を断定する人物だとは思っていなかったのでしょうね。しかもそれが差別的な心情にもとづくものだということも見えていなかったのです。

           

           

           

          さて、言いたいことはまだまだあるのですが、最後に一つだけ事実を指摘して終わりにします。それは、この「ワイドナショー」という番組が、生放送ではなくて、録画だったという点です。

           

           

           

          通常、出演者の不適切発言が炎上するのは、生放送の番組に限られます。つまり今回の炎上は、普通の炎上とは性質が違います。これこそが不可解な点です。収録番組は、スタッフなりプロデューサーなりが責任を持って内容を確認した上で放送されるはずです。ということは、最終的な責任はルーリーちゃんにではなくて、フジテレビにあるということです。フジテレビは学者っぽい電波芸人を使って、安倍政権を援護射撃しているというわけです。

           

           

           

          ルーリーちゃんの発言に対し、在日コリアンへの差別や偏見を助長するというまともな意見が多数寄せられました。ところがそれに対し、twitterを通じて、「私は番組中、在日コリアンがテロリストだなんて言っていません。逆にそういう見方を思いついてしまう人こそ差別主義者だと思います。」と、いかにもルーリーちゃんらしい反論をしています。

           

           

           

          案の定、差別を助長する「意図」はなかったとして彼女を弁護するどころか、在日コリアンをテロリスト呼ばわりし、暴言を吐く人たちがネット上に多数わいています。これこそが、あの放送を見た多くの人間が、在日コリアンとテロリストを結びつけて情報発信をしている何よりの証拠です。

           

           

           

          ルーリーちゃんは、関東大震災の際、朝鮮人が流言飛語によって大量虐殺された歴史を知らないのでしょうね。たとえ知っていたとしても、自分の発言とその流言飛語が本質的に同根のものだとはこれっぽっちも思わなかったのでしょう。つまり、知性のかけらもないということです。

           

           

           

          虐殺された側の心情ではなく、いつのまにか虐殺する側の論理にからめとられていることくらい学者なら気づきそうなものですが・・・。あっ、失礼しました。電波芸人には無理でしたね。

           

          | 政治 | 16:01 | comments(0) | - |
          ノリのわるい人間になる。
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            私はノリの悪い人間です。いや、わざと周囲のノリにあわせないように心がけています。居酒屋でも、ちょっとした集まりでも、数人が冗談を言い合って盛り上がっているのを見ると、いい大人がバカじゃなかろうかと思います。

             

             

            しかもそのトークのネタがテレビの二番煎じ、三番煎じと来ているのですから、テンションは下がりっぱなしです。今やテレビに出てくる芸能人のトークが、私たちの会話のテンポや間を決定しているのです。

             

             

             

            かくいう私も、3・11以前は、けっこうバカなギャグも飛ばし、周囲にあわせたりもしていました。しかし、そのことがこの国を破滅の淵に追いやった原因だと気づき、私はノリの悪い人間になる決心をしたのです。まあ、最後までお読みください。

             

             

             

            たとえば昔の同級生と居酒屋でもりあがっているとします。みんなが手をたたいて笑い転げているときに、いっしょに笑いながら「お前、パクるのうまいね。そのネタ、このまえテレビで芸人の○○がやってたけど、他人のネタで笑わせて面白いのかよ?」「久しぶりにこうやって集まったんだからさ、どんな時に死にたくなるか、何に絶望しているか、それを話してみようぜ」などと言いたくなるのです。楽しい飲み会が通夜のようになるかもしれません。

             

             

             

            私は空気を読む気もないし、周囲のノリにあわせることもしません。どうしてわざわざ集団の心理を逆なでするようなことをするのかと思っている人もいるでしょうね。理由はいろいろとあるのですが、ひとつには、もともとなんにでもツッコミを入れたがる性分だったことがあります。 

             

             

             

            本当をいえば、イタリアの片田舎の人々のように一日の終わりに、美味しい料理とワインを飲みながら、ダンスしたり歌ったりしながら、楽しく時を過ごしたいのです。いっそのこと、イタリアに移住しようかな?しかし、2018年、日本人をしている私にはそれができません。なぜか。

             

             

             

            3・11の時、津波が町を襲い、家々を破壊し、人々の命を奪うのを目の当りにしました。それに続いて原発が爆発した映像をテレビで見ながら、私は自分の中で何かが崩れていくのを感じていました。感情が揺さぶられ、自分の足元が崩落していくような感じと言えばいいのでしょうか。多くの国民も同じ思いだったに違いありません。

             

             

             

            しかし、それに続く数年、私が目にしたものは、あれほど感情を揺さぶられる経験をしたにもかかわらず、まるで何ごともなかったかのごとく原発を再稼働し、海外に輸出さえする一大勢力でした。つまり、安倍政権と財界トップ、それをささえる匿名のシステムとしての官僚機構です。

             

             

             

            しかも彼らはほとんどが高学歴エリートなのです。学歴があろうがなかろうが、富裕層であろうがなかろうが、アルマーニの制服を着ていようがいまいが、だれもがこの国で生きていく権利があることを、彼らは理解していません。今やこの国の教育は個人の利益を最大化するシステムとしてだけ機能するようになっています。

             

             

             

            それは、日本国民の間に感情の劣化と死滅をもたらしました。だから匿名のシステムに過剰に順応すると感情が死んでしまい、まともな判断が下せなくなるのだと指摘してきたのです。

             

             

             

            その結果日本社会で今何が起こっているのか。その例を一つだけあげて終わりにします。まずNHKのこの世論調査をご覧ください。

             

             

             

             

            なぜ平和を目指して南北融和を進めることが評価されないのでしょうか。そもそも、NHKは何のためにこの質問をしたのか。これはメディアや御用学者、外務省が安倍政権の意向を忖度して南北の対立を煽り続けた成果です。今や国民はマインドコントロールの実験動物=ブタになったのです。

             

             

             

            アメリカと北朝鮮が戦争するのを期待するように誘導された国民心理は余りにも恐ろしい。そうではありませんか。今の時代をうっすらおおっている、戦争を待望する気分に迎合などできるわけがありません。これが、私がノリのわるい人間になることを決意した理由なのです。

             

            | 文学・哲学・思想 | 15:52 | comments(0) | - |
            バレンタインデーのチョコレートなんか・・・
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              皆さんは「教育」という言葉から何を連想しますか?「ウザい」「よだきい」「しちくじい」・・・これらは全部同じような意味です。あとの二つは大分県以外の人には伝わりにくいでしょうけど。でも、連想する「もの」ですから、形容詞ではなく名詞で答えてほしいですね。

               

               

               

              例えば「自由」「権利」「平等」「可能性」「愛」「公平」「文化」「歴史」「伝統」「国民」「知性」「教養」「貢献」などなど。でもこういった言葉を連想する人は、今は少ないかもしれません。

               

               

               

              それに代わって「商品」「費用対効果」「消費」「差別化」「階層」「特権」「選択と集中」「効率」「格差」「中学受験」「塾」「合格率」「自由競争」「グローバリズム」「自己責任」「義務」「親の経済力」「母親の狂気」「人格喪失」「子供の虐待」「いじめ」「自殺」と言った言葉を連想する人が多くなっている気がします。

               

              「母親の狂気」などいうおどろおどろしいものもまぎれこんでいますが、なんだか経済学っぽい言葉とマイナスイメージの言葉ばかりが並びましたね。

               

               

               

              前者の中には「公共性」を指向する言葉が含まれていますが、後者の語群からは「公共性」がきれいに消えて、自由競争やグローバリズム(この言葉の本当の意味を理解している者がなんと少ないことか!)という大多数の国民を犠牲にする「豊かな暮らし」を指向する言葉が並んでいます。

               

               

               

              でも、「豊かな暮らし」って何なんでしょう。「豊かな暮らし」のキーワードは「消費」です。消費は、いろいろな選択肢の中から好きなものを選んで買うことでした。それが自分自身の個性、社会的価値を示すものへと変わりました。すなわち、どれだけ高価な商品を買うことができるのかが、人間の社会的ステイタスを決めると信じられているのです。これはアメリカ的な価値観です。

               

               

               

              これを否定したり、まったく気にかけない人間は変わり者として消費社会からはじき出されます。働いて金を稼ぎ、それですきなものを買うことが自己実現だとすれば、働くことはお金を稼ぐ手段になってしまいます。つまりお金を稼ぐことが最終的な目的になるのですから、労働に価値を見出せなくなるのも当然です。

               

               

               

              そこで前々回のブログで書いたコロンボ警部の生き方を思い出してみましょう。高級車に乗り、高級な葉巻きを吸い、豪邸に住み、高級なブランドの服を着ることよりも、彼は刑事として働くことそのものが自己実現だと考えているのです。つまり、「消費に結びつかない自己実現」を実践しているのです。実は、日本人が真似しなければならないのは、コロンボの生き方なのです。

               

               

               

              これと関連して、このところいわゆる富裕層の子育てがどうしようもなく画一的で貧しくなっていると思います。その代表がこども4人全員を東大医学部に合格させた、例の「佐藤ママ」です。彼、彼女らの子育てはとても巧妙です。「いいかげんに勉強せんか!いつまでテレビ見ちょんのじゃ、ボケ!」というような下品なことは言いません。

               

               

               

              それどころか、判で押したように「勉強しなさいなんて一度も言ったことはありませんのよ」というのが、彼らのセリフです。あくまで「自主性にまかせる」というわけです。しかし、彼らはこどもを自分の所有物だと考えています。「自主性にまかせる」と言いながら、親の思い通りに育てています。そうすることがこどもの将来のためになる、社会にとって有用な人材になると思い込んでいるのです。教育とは、まず親がしっかりレールを敷いてやることだというわけです。何という貧しいこども観でしょう。

               

               

               

              考えても見て下さい。こどもの成長のしかたというのはそんなものではないはずです。はたから見ていると、何でそんなものに夢中になるのか全く分からないようなことに夢中になる。時間を忘れてただひたすら同じことを繰り返す。まわりのことなんかまったく気にせずに、ただただ自分の力を伸ばそうとする。自分はあんなこともできる、こんなこともできる、と感じられるのが嬉しくてたまらない。これから何になるかなんてわからない。でもわからないからこそ、何ものにも縛られずに自由奔放に生きている。こどもはいつだって予測不可能なものに成長していくのです。

               

               

               

              大人がそれを巧妙にコントロールし「善き方向」へと導く。そこで排除されるものは自由と偶然性に満ちた宝の山なのです。「佐藤ママ」が4人のこどもたち全員に、大学に受かるまでだったか、社会人になるまでだったか忘れましたが、「恋愛禁止」を申し渡していると聞いた時、「なに言ってるんだ、このババア(よいこのみなさんは決してまねをしないでね)、人間をなめるのもいいかげんにしろよ!」と、はしたなくも叫びかけました。こどもを受験という人工的な環境の中に囲い込むことによって実は社会の活力や可能性をそいでいることには気づいていないのです。

               

               

               

               

              ところで今日はバレンタインデーだそうです。コマーシャリズムにのせられて、若い女性たちがデパ地下でチョコレートを買いあさっている光景をよくテレビで見かけます。ここにもマインドコントロールされたアホな女性がうじゃうじゃわいていると思うと、悲しくなります。僕はバレンタインデーのチョコレートなんか欲しくありません。お返しが大変だから。

               

               

               

              娘たちにも、「お父さんはそんなものいらん!」と言っています。彼女たちの返事は毎年決まっていて「ハイハイ、わかっていますよ。心配しないでね」というものです。そう素直に言われると少しさびしい。

               

               

               

              で今日の午後、妻に「コーヒーいれてよ。ティータイムしましょうよ」と言われたので、居間に行くとテーブルの上に何やらプレゼントらしきものが並んでいるではありませんか。

               

               

              「まさか、バレンタインデーのチョコレートじゃないだろうな」

              「さあ、何でしょう。開けてみたら?」

              というわけで、開けてみると、これでした。

               

              ピエール・ルドンのチョコレート。

               

               

               

              チョコレート会社のくちぐるまにのりおってと、ぶつぶつ言いながら口に入れました。なんということでしょう。うまい!マジで。コーヒーと合う!さすがピエール・ルドンだけのことはある、と思いました。

               

               

               

              「あら、美味しそうじゃないの。チョコレートは嫌いだったんじゃないの?」

              「ピエール・ルドンかノドンかしらないが、北朝鮮のミサイルのような名前のチョコレートなんか、美味しいわけないだろ」

              「あらうれしい。じゃあ残りは私が全部もらうわよ」

              「ちょっ、ちょっと。そんなことしたら、せっかくもってきてくれた娘が悲しむよ・・・」

               

              | 教育 | 14:49 | comments(0) | - |
              「沙羅ノート」は、世界に二つとないノートである。
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                沙羅ちゃん、銅メダルおめでとう!よかったね。

                 

                 

                僕の中ではオリンピックは終わっています。テレビを見る気にもならないし、なにより全く関心がなくなってしまいました。どうせ裏で電通が暗躍し、それテレビ放映権だ、コマーシャルだ、と奔走しているのですから。商業ジャーナリズムと利権が結託し、ある一定の視点(インスタ映えということばに現れています)から切り取られた映像にスポーツのだいご味など映っているはずもないのです。

                 

                 

                 

                加えて、おバカな政治権力が、不利な事実がつぎつぎに明るみに出ているので、国民の目をそらそうとたくらんでいます。日の丸を背負って戦うことは、もはやかっこよくもなんともないのだと気づくべきです。オリンピック憲章にもありますよね。「オリンピックは国威を発揚するものであってはならない」と。

                 

                 

                 

                ところで、昨夜、塾が終わって居間に行くと、妻がテレビを見ていました。「今から沙羅ちゃんが飛ぶわよ」というではありませんか。日本を応援する気にはなりませんが、沙羅ちゃんなら観てもいいかと思い、テレビの前に座り、どういうわけか手に汗にぎりました。

                 

                 

                 

                たぶん現地にいたら日の丸の旗をちぎれんばかりに振り、「沙羅ちゃんがんばれ〜。失敗してもいいから、思い切って飛べ!さあ、安心して僕の腕の中に飛び込んでおいで!」とかなんとか叫んでいたと思います。

                 

                 

                 

                ついでに前の方にいる「ニッポン!チャチャチャ!」「ニッポンすごい!」「ニッポン、キラキラ!」とか叫んでいるネトウヨのケツに思いっきり蹴りを入れて、人ごみにまぎれて逃げていたでしょう。

                 

                 

                 

                僕が今回沙羅ちゃんを応援する気になったのは、最近とくに綺麗になったこともありますが、それだけではありません。絶対的な優勝候補として臨んだソチはまさかの4位。その時の悔しさはいかばかりだったでしょう。僕もいっしょに涙したくらいですから。挫折を経験した沙羅ちゃんが、今回どう成長しているのか。さらなる挫折を経験するのか、不死鳥のごとくよみがえるのか(ちょっとおおげさですね)、その点に注目していました。

                 

                 

                 

                結果は見事な銅メダル。金、銀、銅の差なんてほとんど運です。たまたまジャンプした時追い風が吹いたとか、そういったことで左右されるのですから。それよりも今回僕が注目したのは、沙羅ちゃんの精神的な成長でした。前回は土壇場で自分を支えることができなかった。周りを気にし過ぎたのです。つまり弱かった。しかし今回は違いました。なぜそうなったのか。ある一つの事実を知って、納得しました。それは「沙羅ノート」とでも言うべきノートの存在です。

                 

                 

                 

                沙羅さん(ここからはちゃん付けで呼べません)は「自分と話し合う時間が、ソチの頃は足りなかった」といいます。練習時間ではありません。「自分と話し合う時間」が足らなかったと言っているのです。えらい!(大人になった沙羅さんが僕は好きです。マジで。)

                 

                 

                 

                それで昨春から、1センチほどの厚さのメモ帳を持ち歩くようになったそうです。良かった点、悪かった点、指導された内容を書き留め、行き詰まった時に見返す。メモは1月末で3冊。牧野講平トレーナー(38)は「書き出すことで整理して課題を見つけやすい。メンタル的にも落ち着くのでは」と言っています。

                 

                 

                 

                う〜ん、「メンタル的にも落ち着くのでは」はちがいます。沙羅さんは、匿名のシステムの内部に自分の時間と空間を作り上げたのです。つまり、周囲に左右されない人格を作り上げたということです。トレーナーならこのメモが彼女を決定的に変えたのだということに気づかなければなりません。僕が言ってきた「思考ノート」の威力です。さあ、バカな出版人の皆さん、『高梨沙羅のノートは必ず美しい』という本を書きましょう。

                 

                 

                 

                オリンピック選手は匿名のシステムから絶えずプレッシャーを受けています。自分のためではなく、組織のため、国のためにたたかうことを要請されているのです。東京オリンピックの銅メダリスト、マラソンの円谷幸吉選手は、このプレッシャーに押しつぶされて自殺しました。僕はオリンピック選手に言いたい。「国のためではなく、自分自身のために全力でたたかえ!そんな君を応援するぞ!」と。べつに僕が言わなくてもいいんですが。

                 

                 

                 

                『日の丸を背負って戦うことは、そんなにカッコいいか?』

                http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=222

                 

                 

                平昌入りした沙羅さんに、山田いずみコーチは「ソチの時より、今の顔が好きだよ」と言ったそうです。本番を前にした選手には最高の言葉ですね。僕も試験前の女子生徒に言おうかな。「一か月前より、今の顔が好きだよ」と。キモ〜イ。でも何だかはやりそうで怖いですね。

                 

                | 中高生の皆さんへ | 12:45 | comments(0) | - |
                刑事コロンボ VS 「アルマーニ」校長
                0

                  突然ですが『刑事コロンボ』が好きでした。プロという言葉から連想するのが、コロンボ警部でしたね。トレードマークのよれよれのレインコート、くしゃくしゃの髪、その辺で拾ってきたような車に何のとりえもない愛犬を乗せ、安物の葉巻をくわえて殺害現場にやってきます。スキだらけの、さえない刑事を絵にかいたようないでたちです。ところが、ドラマが進むにつれて、この印象が180度ひっくりかえります。犯罪者の心理を洞察する力においてコロンボの右に出るものはない、と思い知らされるのです。

                   

                   

                   

                   

                  このドラマは、それまでの刑事物・推理小説とは違って、視聴者や読者に最初に殺害シーンを見せ、犯人を教えます。知らないのはコロンボだけです。その結果、犯人が誰かではなく、コロンボが犯人を割り出すプロセスそのものがドラマの中心になります。そして犯人にぐうの音も出ないほどの証拠を突きつけて降参させる最終シーンにもっていく仕掛けになっているのです。

                   

                   

                  もう一つこのドラマを面白くしている特徴があります。犯人が例外なく大富豪や有名人、歌手やスポーツ選手、大学教授といったエスタブリッシュメントだということです。例えば、最終シーンで、高名な犯罪心理学者の犯人が「ところでコロンボ君、いつの時点で私が犯人だと気づいたのかね?」と訊くところがあります。

                   

                   

                  「はい。最初にあなたを見た時からです。あなたが犯人だと分かっていました。ただそれを証明するのに手間取りましてねえ。途中で万事休すかと思いましたよ。でも犯人が分かっているのにあきらめるわけにはいかない。それですべてが腑に落ちる小さな事実に気付いたというわけです。」とコロンボ警部。このシーンにしびれました。今のマスメディアや野党の政治家に聞かせてやりたい。

                   

                   

                  コロンボ警部は銃をもっていません。撃ち方も知りません。射撃の練習義務が課されていますが、いろいろ言い訳をして試射場にいきません。自分の仕事が何かよく分かっているのですね。人を殺すことではないと。これぞプロの中のプロです。

                   

                   

                  何だか前ふりが長くなってしまいました。いや、大したことを言いたいわけではありません。正直どうでもいいことを書くのに、嫌気がさしているのです。そう、例の「アルマーニ」問題です。

                   

                   

                  泰明小学校の和田利次校長(62)「アルマーニ」の標準服を独断で決めたことをめぐり、「銀座にある学校だからこそ進めてきたが、丁寧な説明をしながら進めるべきだった」と述べています。でも、新標準服の採用は「ご理解いただき、購入者側の判断で購入してほしい」「(採用する)手続きにおいて反省はあるが、非常識な判断とは思っていない。新一年生からこの服でやっていく。変える考えはない」と述べたそうです。

                   

                   

                  自分の独断で決めておいて、その責任をとるのかと思えば、「購入者側の判断で購入してほしい」って、責任の丸投げです。反省してないですね。しかも自分の判断は非常識ではないとおっしゃっています。結局「アルマーニの制服」が実質的には強制されるわけです。なんかこの手の釈明になっていない釈明、結局は自分の判断を押し通す手法はうんざりするほど見てきた気がします。

                   

                   

                  今度の件で私が最も違和感を覚えたのは、公立小学校がなんで「アルマーニ」なんだという「正論」に対してでした。

                   

                   

                  和田校長は高額のため購入が難しい家庭がありうることを考えなかったのか。」と問われて「本校の保護者なら出せるのではないかと思った。泰明小でなければこういう話は進めない。価格が高いという苦情があることを聞いており、個別に相談に応じていきたい。」と答えています。気分はほとんど「私立」の校長に、何で「公立」が、しかもアルマーニ」なの?と言ったところで、現状を知らない理想論だと言われるだけです。

                   

                   

                  泰明小学校は銀座にある特認校で越境入学者が多い。保護者も経済力のある人がほとんどだ。「アルマーニ」の提案は受け入れられるだろう、と和田校長は踏んだのです。つまりたてまえ上は「公立」でも、実質は「私立」である。たてまえより現実に即した決断をしたつもりだ、ということでしょう。結局この問題は「公立」か「私立」か、ではなく、保護者の経済力が決め手になるのです。保護者は校長の判断を受け入れるでしょうね。

                   

                   

                  それにしても和田校長の発想は軽すぎます。以下にその例を挙げてみます。これでも名門小学校の校長が務まるといういい例です。

                   

                   

                  例その1。

                   

                  「アルマーニ制服」の導入を「服育」と称して重要な教育の一貫と位置付けている点。

                   

                   

                  お兄ちゃんやお姉ちゃんのお下がりをつなぎ合わせ、大胆なデザインの服に仕立て上げることは「服育」にならないのか。ゴミ捨て場に捨てられている新品同様の衣類を再生することは資源の節約にもなるし、「服育」と言うなら、これこそが本当の「服育」ではないのか。成長ざかりの子供に「アルマーニ」を着せることのどこが「服育」か、と反論されることは考えなかったのでしょうね。

                   

                   

                  例その2。

                   

                  「銀座の街のブランドと泰明ブランドが合わさった時に銀座にある学校らしさも生まれてくる。視覚から受ける刺激による「ビジュアルアイデンティティーの育成はこれからの人材を育てることに不可欠」であり、それがスクールアイデンティティーの育成にもつながる」と説明していること。

                   

                   

                  私はこの説明を聞いてひっくり返りました。どこがって?よく見て下さい。「ビジュアルアイデンティティーの育成はこれからの人材を育てることに不可欠」だと言っているんですよ。ビジュアルアイデンティティーなどとわけのわからない横文字を使っていますが、簡単に言うと「あっ、アルマーニの制服を着ている!泰明小学校の生徒だわ。」と認知されることをいいます。これのどこが「これからの人材を育てることに不可欠」なのでしょう。

                   

                   

                  アルマーニの制服を着ているわが子と銀座でショッピングなんてことを夢見ているお母さんお父さん!「アルマーニの制服を着ている子供の家庭はリッチにちがいない。誘拐すればたんまり身代金がとれるかも」と考える人間もいるかもしれませんよ。 

                  それに「ふん、公立のくせに私立のまねして、無理してアルマーニなんて、いかにも貧乏人の考えそうなことだわ」とバカにしながら嫉妬する親御さんの存在も無視できませんよ。おお、こわっ!

                   

                   

                  なりより、親がそういうことを望めば、子供は「ブランドの服を着ることで人より偉くなった気がする。人よりいいものを着るために、これからも一生懸命勉強しなくっちゃ」と考えるかもしれませんね。それが目的ですって?人を外見で判断したり、見下したりする子供に育てることがですか?

                   

                   

                  最後に、この校長が気の毒だと思う点。

                   

                   

                  今や「教育=どの学校や大学に入れるかということ」は完全に「商品」だと見なされるようになりました。「商品」である以上、投入した対価に見合う「結果」が出なければなりません。投下資本はなるべく早く回収する必要があるのです。

                   

                   

                  泰明小学校の校長は老舗の小学校が消費社会の中で埋没することを恐れたのでしょう。中学受験が近づけば、教室の半分がガラ空きになります。受験対策のために生徒が欠席するからです。

                   

                   

                  これは「公立」小学校の教育が「私立」に従属していることを思い知らされる瞬間です。かといって、欠席を認めないというわけにもいきません。和田校長も心中穏やかではなかったはずです。そこで思い付いたのが「アルマーニ」の導入だったというわけです。あちゃ〜。

                   

                   

                  教育がお金で売買できる「商品」である以上、それを売るためには他の商品と差異化・差別化しなければなりません。なぜなら消費者はその差異に付加価値を認め対価を払うからです。

                   

                   

                  和田校長はこういった市場の無形の圧力に立ち向かうべく、保護者から認められたいという思いと、ここらで尖ってみようという思いを胸に「決起」したのかもしれません。しかし、そのための方法がいかにも稚拙だったのです。これは私の意見なので大っぴらには言えませんが、こういう人間は「公立」小学校の校長をするべきではありません。

                   

                   

                  いい歳の大人が、いや教育者が、外形的なものでしか自己アピールできないとは情けないことです。刑事コロンボの爪の垢でも煎じて飲んでみてはいかがでしょうか。

                   

                  | 教育 | 19:49 | comments(0) | - |
                  言葉の力を信じて・・・「思考ノート」の有限化と可能性。
                  0

                    「言葉の力を信じて・・・」という今回のタイトルを書きながら、どうしようもないむなしさを感じています。なぜなら、私たちの国の指導的立場にいる人たち、特に政治家が言葉の力など全く信じていないからです。

                     

                     

                    安倍政権は警察官僚を手足のごとく動かし、ゲシュタポ政治を作り上げました。前川喜平氏の例を挙げるまでもなく、自分たちにとって都合の悪いことを言った人間、言いそうな人間の一挙手一投足を見張り、隙あらば失脚させようと狙っています。彼らはもはや金と力しか信じていないのです。

                     

                     

                    さて、前回のブログの最後に「このノートを作るために必要なことが一つだけあります。学校の勉強と並行しつつも、教科書の枠組みからはみ出す勇気を持つことです。その具体例を次回お目にかけましょう。」と書きました。今回はそれを受けて「思考ノート」の具体的な中身と重要な注意点を述べます。

                     

                     

                     

                    まず注意点から。自分の頭に浮かんだことや疑問点を次々に書き出していったら、時間がいくらあっても足らなくなるのではないか。それでは学校の勉強に支障が出ると心配している人もいることでしょう。心配ならそこでやめればいいのです。どこまでも書き続けるなんて、土台無理なのです。

                     

                     

                     

                    僕たちが生きる空間も時間も有限です。以前も書きましたが、僕たちの思考も有限ですし、自分をどこまでも掘り下げることは不可能なのです。暫定的な足場を作っておいて、明日はそこから再出発するしかありません。

                     

                     

                     

                    今はここまででいいと区切りをつけることの中にもその人の主体性が宿ります。そうやって、仮の足場を補強したり、ある時はそれを壊したりして、また最初からスタートするしかありません。そうこうしているうちに僕たちの人生も終わりがやってきます。実は勉強に区切りをつける術も、思考ノートから学ぶことができるのです。

                     

                     

                     

                    次に、「教科書の枠組みにこだわらない勇気を持つ」ことについて。

                     

                    これは前にも書きましたが、言葉にこだわることで、自分の適性や将来の職業が見えてくるという話です。例えば、ノートを作っている最中に、まったくの思いつきで糖尿病は英語で何と言うのだろう、と思ったとします。そこで10分という時間制限を設けて自分の知っている病気を日本語でできるだけたくさん書き出します。

                     

                     

                     

                    脳梗塞、心筋梗塞、高血糖、すい臓がん、悪性腫瘍、認知症、腎不全、ポリープ、統合失調症、多動性障害に始まり、側頭葉、三半規管、大脳、大脳皮質、海馬、胆のう、十二指腸、大腸、鼓膜、角膜、瞳孔、網膜といった身体の一部から、めまい、吐き気、手のふるえ、難聴といった症状まで。

                     

                     

                     

                    次に辞書で調べて英語を書き込んでいきます。今は電子辞書で発音も聞けます。連続5回も聞けば、音が耳になじんできます。書き込みが終わったら、少し休憩します。病名は合成語でできているケースがほとんどです。例えばコンピュータ断層撮影(CT)はcomputed tomographyと言いますが、tomoは「切る」という意味です。graphyは「記録」のことです。統合失調症はschizophreniaですが、schizoは「分離した」という意味で、phreniaは「精神」を意味します。

                     

                     

                     

                    あなたがたまたま病院の待合室にいて、お年寄りが病気の話をしていたら、「糖尿病」だとか「高血糖」「高血圧」「脳梗塞」という言葉が耳に入ってくるかもしれません。その時、いままでとは違った感覚があなたの中に生まれていることに気づくはずです。病名を英語で言えるということは、あなたの世界を拡張することにつながるからです。

                     

                     

                     

                    あるいは、身近な人が難病にかかって不幸にも亡くなったとします。あなたはその難病の名前を忘れないでしょう。その名前を聞くと、苦しんでいた両親、祖父母の表情を思い出します。その時、難しかった医学の専門用語があなたの実体験と結びつきます。

                     

                     

                     

                    それがきっかけで、医学に興味を持ち、難病の名前や症状、治療法を調べてノートに書き出します。もちろん中学や高校で習う範囲をとっくに超えています。そして気がつくと、あなたの前には医師になる道が開けています。これは奇跡でもなんでもありません。ことばは、そういう神秘的としか言いようのない力を持っているのです。

                     

                     

                     

                    子供のころ私たちは好奇心を全開にして世界に向き合っていたはずです。昆虫や植物に興味をもったり、天体に魅了されたり、小さな秘密基地を作ってそこにこもったりした経験があるはずです。つまり、昆虫学者にも植物学者にも、天文学者にも建築家にもなれた、少なくともその可能性を持っていたのです。

                     

                     

                     

                    しかし、匿名化されたシステムの象徴とも言うべき学校を通過するうちに、好奇心はしぼみ、漂白され平準化された言葉を覚えることの方が「将来の生活」にとって重要だと思い込まされます。

                     

                     

                     

                    何度も言うように、それは集団が生き延びるために必要とされた言葉です。私たちの内面世界のほとんどが、その種の言葉で満たされれば、人は生きる気力を失います。既成事実を積み上げる権力に、「しかたない」といって屈服します。

                     

                     

                     

                    そういった奴隷の<生>を送りたくないと思う若い人は、自分だけの「思考ノート」を作らねばなりません。現実の内部にもう一つの世界を持たない人間の言葉は、空虚です。私たちは言葉の持つ力をもっと信じてもよいのです。

                     

                     

                    今回も読んでいただきありがとうございました。以下は参考記事です。暇があったら読んでみて下さい。

                     

                    『学ぶことは、自分を壊すことである。』

                    http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=359

                     

                    『君の魂くらい、君自身が救え!』

                    http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=361

                     

                     

                    | 中高生の皆さんへ | 15:26 | comments(0) | - |
                    「思考ノート」の威力は実際に作ってみなければわからない。
                    0

                      「思考ノート」の目的は既存のシステムの外に自分の時間と空間を作ることだと言いました。しかし、正確には「外に」ではなく「内部に」です。既存のシステムと敵対するのではなく、その「内部に」あなた自身の世界を作る、が正しい言い方です。マトリョーシカのように入れ子構造を作るのです。なぜそれが必要なのか。

                       

                       

                       

                       

                      3・11以降、「世間的には」申し分のない地位や職業についている人間たちの振る舞いや言説に、共通する特徴があることに私は気付きました。いくら目を凝らし、耳を澄ましても、彼らには人間としての「真っ当さ」が感じられないのです。ひとことで言えば人格が空洞化しているのです。そのことに気づいて以来、いわゆるエライさんたちが、私の目には腹話術師にしゃべらされている人形のように見えてきたのです。

                       

                       

                       

                      なぜそんなことになるのか。現実という匿名化されたシステムの中で生き延びようと思えば、だれが金と権力と人事権を握っているのか見分ける必要があるからです。そのためには嗅覚を研ぎ澄まさなければなりません。生まれながらに鋭い嗅覚を持っている「犬」のような人間が生き延びるのです。もとより、「犬」に高い倫理性を期待することなどできません。倫理性は人間と動物を区別する唯一にして最高の徳目だからです。

                       

                       

                       

                      政治家の発言や振る舞いを見ていると、ウソをでっち上げたり裏切ったりすることを何とも思わないどころか、それができることが有能さの証明だと考えているようです。日本社会は熾烈な出世競争を繰り広げる株式会社になったのです。

                       

                       

                       

                      政治の世界が株式会社と同じ原理で動くようになれば何がまずいのか。国民を飢えさせない、戦争はしない、という政治の究極の二大目標が忘れ去られます。その結果、何のために学ぶのかという根本的な問いを発する人間がいなくなります。問いを発することのできない社会はディストピアに他なりません。

                       

                       

                       

                      もうおわかりでしょう。私たちはいわゆる現実の中を生きなければなりません。それは圧倒的な力を持っています。しかし同時に、それは私たちの共同幻想や集合的な無意識が作りだしたある種の約束事にすぎません。その約束事に必要以上に縛られ、過剰適応していると、肝心な自分の<生>を見失ってしまいます。

                       

                       

                       

                      私は塾の教師をしているので、どうすれば日々の勉強を楽しく意味のあるものにできるのか、毎日を新鮮に感じ、将来を展望できるのか、と絶えず考えてきました。その一つの方法が「思考ノート」を作ることだったのです。

                       

                       

                       

                      今日初めてブログを読んだ人は、ずいぶん大げさなことを言ってるけどしょせんノートの作り方か、と思われたでしょう。しかし、私の言うノートは、テストの点数や成績を上げる即効性のあるものではありません(ここだけの話ですが、一カ月も続ければ勉強が楽しくなりますし、成績も上がることを保証します)。

                       

                       

                       

                      即効性のあるものを期待する人は、『東大合格生のノートはかならず美しい』という本でも読んで下さい。全く役に立たないことが分かると思います。知識は体系があって初めて意味を持ちます。体系の構築は、思考錯誤と関連性を絶えず意識するノートがあって初めて可能になるのです。

                       

                       

                       

                      このことはすでに書きました。よければお読みください。

                       

                      『この問題が解ければ上野丘高校に合格できます!』

                      http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=443

                       

                       

                      私はこの記事の中で次のように書きました。

                       

                      「知識は個性や思考と連動し、さまざまな局面で独自の動きをしているのです。一度インプットされた知識は解体され再構成されて、それを使う人間と一体化します。それを知識の質といいます。 

                      野球で言えば、ピッチャーの球質が体重移動や指の長さやリリースポイントや天候やその日の体調によって左右されるのと同じなのです。一流のピッチャーはこれらすべての条件を頭に入れ、ピッチングを組み立てています。速い球を投げるだけでは、簡単に打ち崩されてしまいます。」と。

                       

                       

                      とにかく、あなたが実際に始めないことには、私が何を言っても無駄です。面倒くさいと思う人は、これまでと同じ勉強を続けて下さい。ただし、このノートを作るために必要なことが一つだけあります。学校の勉強と並行しつつも、教科書の枠組みにこだわらない勇気を持つことです。その具体例を次回お目にかけましょう。今回も貴重な時間を割いて読んでいただき、ありがとうございました。

                       

                      | 中高生の皆さんへ | 14:29 | comments(0) | - |
                      あなただけのノートの作り方− その2
                      0

                        『世界に二つとないノートの作り方』を読んで、面白そうだ、「いっちょ、やってみるか」と思った人はいるでしょうか。一人でもいれば嬉しいですね。今の中高生は、集団の中で空気を読み、周りに合わせ(キャラをたてるのもその一つです)、ナナフシのように学校空間を生き延びているので、「世界に二つとない」とか「あなただけの」という言い方には抵抗を感じるかもしれません。 

                         

                         

                         

                        子供の頃、ナナフシを枝と間違えてつかんだ時のショックは忘れることができません。枝だと思っていたのが動いたのですから。それで私はナナフシのような生き方ができなくなったのかもしれません。いや、きっとそうです。

                         

                         

                         

                         

                        日本文化は多民族国家のアメリカと違って、自己をアピールしなくとも生きていける社会を作りました。それは私たちの作法として、身のこなしだけではなく、ものの考え方にも影響を与えています。私はそれを素晴らしいと思います。

                         

                         

                        しかし、擬態によって自分の存在を隠していると、いつのまにか自分を見失ってしまうのも人間です。日本には「和して同ぜず」という言葉があります。周囲と協調することを重んじながらも、自分の思想・信条まで売り渡すことはしない、という意味です。

                         

                         

                        今回はそういった生き方をしたいと思っている人に、前回言い忘れたことを補足します。知識や情報だけでなく、感性を駆使して時間と空間を作り上げるためのノートは、いわば、「母港」としてのノートです。このノートを起点として、様々な知識を採集したり、捕獲したりします。そして獲物を抱えて、このノートに帰ってきます。

                         

                         

                         

                        例えば次のような情景をイメージして下さい。朝まだ明けきらぬころから、漁船は、漁場を目指して港を出ていきます。そして漁を終えて夕方港に戻ってきます。もし帰るべき港がなければ、漁船は永遠に大海をさまよわなければなりません。その寄る辺なさを想像してみて下さい。つまり、帰ることができる母港があるからこそ、安心して漁に出ることができるのです。

                         

                         

                         

                        私の言う「思考ノート」は、この「母港」のことです。そこに何を書くかは説明しました。詳しくはブログをお読みください。重要なことは、時系列で書くことでした。今回の補足は、中心となるノートを時系列で書く以上、配布されるプリントや、返却されたテスト用紙、文化祭のパンフレット、コンサートのチケットなどもすべて時系列で整理しなければならないということです。もちろん一つのファイルに一日分を保存します。教科別で整理されたものは役に立ちません。

                         

                         

                         

                         

                        百均に行くとA4のクリアファイルが売られています。高校生なら1か月で30枚必要です。その中に今述べたプリントの類を時系列で挟んでいきます。もちろん表を見ただけで、それが何月何日のファイルかすぐに分かるように日付を書きます。それと「思考ノート」の日付を同期させるのです。ノートにコンサートのことが書かれていれば、同じ日付のファイルにコンサートのチケットが入っていることになります。

                         

                         

                         

                        「思考ノート」の日付は、クリアファイルの日付と一致しているのです。これでクロスレファレンス(参照箇所)が楽に探せます。探しながら、このページに書かれてあることは3日前に書いたことと関連があるのでは?と気づきます。こうなればしめたものです。赤の矢印でつなぎましょう。

                         

                         

                         

                        クロスレファレンスが多ければ多いほど、点が線になり、線が面になり、やがては空間になっていきます。あなたの思考によって生み出された空間はあなたのもう一つの現実になります。どんなに辛いことがあっても、そこへ帰ってくれば癒されます。そういう世界を持っていればこそ、匿名の現実に立ち向かう勇気も出てきます。

                         

                         

                        どうです、「いっちょ、やってみるか」という気になったでしょうか。だまされたと思ってやってみて下さい。長くなるので今日はここまでにしておきます。それではまたお会いしましょう。

                         

                        | 中高生の皆さんへ | 22:49 | comments(0) | - |
                        The time has not come yet.(機未だ熟さず)
                        0

                          今年の高校入試も順調なすべり出しです。国立高専を志望していた3人のうち、推薦入試を受験したN君、K君がみごとに合格しました。N君は3年間、K君は5年間私の塾に通ってくれました。N君とは入試前に小論文の書き方を勉強しましたが、少しは役に立ったでしょうか。後は一般入試でチャレンジするA君の合格を待つばかりです。上野丘、舞鶴を志望している人も、まず間違いなく合格するでしょう。

                           

                           

                          昨日は授業の終わりに、適性と「時機」について話しました。そもそも適性とは何でしょうか。その人の才能や性格や将来性のことを指すのでしょうか。ほら、わからないでしょ。ちょっと考えるだけでも意味不明の言葉が、進路を決める時に独り歩きしているのです。このことはすでに書きました。中高生の皆さんにも参考になるのでよかったらお読みください。

                           

                           

                          『贈る言葉 ・ 中学3年生の皆さんへ。』

                          http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=318

                           

                           

                          今回は「時機」について話します。正直に言うと、私は中学、高校、浪人時代を通じて、受験勉強に本気で向き合うことがついにできませんでした。だから「本気で」受験勉強に取り組んでいる人を見ると、ただただ感心するばかりでした。きっと将来の夢をはっきりと思い描いていたのでしょうね。

                           

                           

                          でも、私のような人間もいるのではないでしょうか。案外多数派かもしれませんね。そのせいか、私は塾教師として、生徒を「本気で」勉強に追い込むことができません。本気になるのはあくまでも生徒の皆さんですから。

                           

                           

                          いずれにせよ、大切なのは普段の学習環境です。東大に合格することが教育の最良・最高の結果などとは一ミリも思っていない大人がいて、それに変わる価値を示し、ともに知的トレーニングに励む場所が私の塾です。

                           

                           

                          ところで、人間には、その人の持っている能力が開花する「時機」があるような気がします。「桃栗三年、柿八年」という言葉があります。しばらく会っていない昔の生徒に会うと、それがよく分かります。ああ、やっぱり○○君は「柿」だったんだ。○○さんは「桃」で、○○君は「栗」だったのかもしれないという風に。それぞれに立派な実をならせているのを見るとうれしくなります。

                           

                           

                          「桃栗三年、柿八年」という言葉は、母が良く唱えていました。私のようなできの悪い息子を育てながら、この子は桃や栗のように三年で実がなりはしない、一人前になるには時間がかかるだろうと自分に言い聞かせていたのだと思います。

                           

                           

                          そのリズムのよさも手伝って、私もすぐに覚えました。広辞苑第6版によると「芽生えの時から、桃と栗とは三年、柿は八年たてば実を結ぶ意。どんなものにも相応の年数があるということ」とあります。「何かに取り組んだとき、すぐに結果を求めたがる人に対して、まずは地道な努力が大切と、言い聞かせる場合に使われることが多い。」とのことです。

                           

                           

                          はたしてそうでしょうか。これは「地道な努力が大切と、言い聞かせる」ための言葉でしょうか。もっと深い意味があるような気がします。人間には器というか「時機」がある。実がなるのに8年かかるのに、3年で実をならせようとすれば、果樹であれ、人間であれ、可能性をつぶしてしまう。それどころか、世の中を息苦しく住みにくい場所にしてしまうという昔の人の知恵というか洞察が込められているような気がします。

                           

                           

                          人生100年の時代だと言われています(私は70歳まで生きることができれば十分だと思っています)。そうであれば、なおのこと期限を区切っていつまでにこれができなければならないと考える必要はないはずです。

                           

                           

                          そもそも、6・3・3制の学校教育はアメリカから輸入された近代の産物にすぎません。そこでは子供たちの能力の開花時機も一律に決められます。その結果、全員が横並びのドッグレースを走らされることになります。「柿」なのに、「桃」や「栗」と競争させられるのです。もともと無理な競争をさせられているわけですから、当然脱落する子供も出てきます。「桃」や「栗」が「柿」を見下す教育は終わらせるべきです。

                           

                           

                          言うまでもなく、近代国家は軍隊と学校制度を持つことでスタートしました。その近代が終わりを迎えているときに、近代的な枠組みの中でしか考えられないとしたら、私たちの社会は早晩破綻するしかありません。安倍政権の道徳的・倫理的な退廃は、その予兆なのです。

                           

                           

                          ではどうすればいいのか。簡単です。まず腐った部分を切除します。放置すれば菌が全身に回り、健康な細胞も壊死します。次に、少子高齢化、人口減少社会の入り口に立っている今こそ、社会の時間軸をとらえ直す絶好のチャンスです。

                           

                           

                          「働き方改革」だとか「人づくり革命」といった軽薄この上ない言葉は、沈みかけている船の中で、カラ元気を出すための欺瞞言語に過ぎません。私たちは沈みかけた船を捨て、救命ボートに乗り換えて新しい大地を目指さなければなりません。では社会の時間軸をとらえ直すために何をすればいいのか。そのヒントはすでに述べました。

                           

                           

                          『100年後の生存戦略−教育』

                          http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=446

                           

                           

                          さて、話は塾の現場に戻ります。他に取り柄のない私のような人間でも、長い間塾教師を続けていると、否が応でも気づくことがあります。それは、大人が市場社会の絶対時間とコスパ万能主義のとりこになった結果、子供たちの使う言葉が、瞬間芸としての擬音語や擬態語のようなものに退化したということです。

                           

                           

                          世の中で最も大事なものは経済=お金だと考えれば、言葉をつむぐ必要などありません。新しい社会を構想する言葉も、常識的な物の見方を切り裂く言葉も必要とされなくなります。

                           

                           

                          私たちは日に何度か胃袋を満たさなければなりません。同様に、私たちの精神も言葉で満たさなければなりません。獲れたばかりの生きのいい魚のような言葉。太陽の光を思う存分浴び、栄養たっぷりの土壌で育ったみずみずしい野菜のような言葉。

                           

                           

                          人は新しい言葉に出会い、新しい生き方を発見することで「いっちょ、やってみるか」という気になるものです。私が心がけているのは、生徒に「いっちょ、やってみるか」という気を起こさせることです。一方で、理解が遅い生徒に向き合うときは、The time has not come yet.(機未だ熟さず)とつぶやくことにしています。

                           

                          | 中高生の皆さんへ | 09:45 | comments(0) | - |
                          世界に二つとないノートの作り方。
                          0

                            今回は世界に二つとないノートの作り方について書きます。誰にも真似ができないノートです。真似ができないのなら読む必要はない、と思っている人もいるでしょうね。でもそういう人にこそ読んでもらいたいと思います。

                             

                             

                            私の言う「思考ノート」、別名「生き延びるためのノート」がどういうものか分かれば、ノートを作ることも、勉強することもきっと面白くなると思います。それだけではありません。生きることも楽しくなります。以下二つに分けて説明します。

                             

                             

                            その1:「思考ノート」を作る意味。

                             

                             

                            前回のブログでも述べましたが、考えることは目の前の現実を疑うことを意味します。「思考ノート」は、現実という既存のシステムの外にあなた自身の世界を作る創作ノートです。受験勉強に役立つのか、ですって?それは以下を読んであなたが判断することです。

                             

                             

                            でも、匿名化した既存のシステムにいかに効率よく順応するか、いかに効率よく点数を伸ばしてブランド大学に合格するか、というようなことばかり考えている人には、「目の前の現実を疑う」という意味がわからないでしょうね。それどころか、悲しいことに、現実を疑う人を嫌悪するようになります。

                             

                             

                            この国のいわゆる「富裕層」は知識と情報を独占することで富を独り占めにしています。しかし、知識や情報はすべての人がアクセスできる開かれたものでなければなりません。権力によって情報がゆがめられ、隠蔽されることを許してはなりません。同様に知識の習得も経済力によって左右されることがあってはならないのです。

                             

                             

                            若い人たちは、「富裕層」の価値判断を無批判に受け入れたり、行動規準を真似たりして、「道徳的貧困層」に転落してはなりません。私の言っていることが理解できる若い人もいると思います。今回はそういう人に向けて書きます。

                             

                             

                            「思考ノート」は『東大合格生のノートはかならず美しい』といった類の「知識の整理ノート」ではありません。この手のノートは早晩AIに取って代わられます。「事務処理能力」や「知識の整理」では人間はAIにかなわないのですから。

                             

                             

                            ここで注意してもらいたいことがあります。「知識」はあなたの外部にあります。それによって文明社会が築かれてきました。学校教育は、不完全ながらも、この知識を伝える場です。決してどうでもいいものではありません。

                             

                             

                            しかし、次のことも忘れてはなりません。現実とは集団が作り出した、集団が生き延びるための匿名化したシステムだということです。その最たるものが「国家」です。「国家」は国民に「死ね」と命令することがあります。その時あなたは命を投げ出すことができますか。今から75年前、前途ある多くの若者が戦場に赴き命を落としました。以下の動画をご覧ください。彼らの命とあなたの命はつながっています。

                             

                             

                             

                             

                            「思考ノート」は、こういった現実に拮抗する、「もう一つの現実(Alternative Reality)」を作るためのノートです。「東大合格生の必ず美しいノート」は、誰でもいい誰かの人生を生きるためのノートです。若い知的なあなたなら、そもそも他人が作ったノートなど役に立たないと知るべきです。

                             

                             

                            皆さんは様々な知識を学びます。しかし、知識は断片です。「思考ノート」は、断片としての知識を回収し、関連づけ、集積して一つの空間を作り上げる設計図のようなものです。

                             

                             

                            その2:「思考ノート」の作り方。

                             

                             

                            それでは具体的な内容に入りましょう。まず大学ノートを用意して下さい。重要なポイントは「時系列」で書くということです。そして、知的活動の全てがこの一冊のノートを起点として展開され、そこに収束するようにします。つまり、「このノートが私です」と言えるものを作ります。

                             

                             

                            ノートを開いて最初にすることは、日付と曜日、現在時刻を書き込むことです。科目別、テーマ別ではなく、あなたがその日に学んだ知識とそれについて考えたこと、思いついたこと、後で調べようと思ったことなどのすべてを一冊のノートに時系列で書きます。今日の天気、気温、学校であった事、友達が言った気になる一言があればそれも書きます。要するに今あなたが考えていることをそのまま言語化します。

                             

                             

                            例えば「こんなことばかりしていては数学の課題ができなくなる」と思えば、それを書きます。そしてノートを開いたままで、数学のプリントに取り組みます。すらすら解ければ「今日の課題は簡単だった。楽勝!」とノートに戻って書き込みます。簡単な問題はクロスレファレンス(参照箇所)を書き込むだけでいいでしょう。もちろん解くのに要した時間と、終わった時刻を書き込むのを忘れないように。

                             

                             

                            解けなければ、「この問題が解けない原因はどこにあるのだろう。そもそも確率の基礎が分かってないのかもしれない。順列と組み合わせと確率はどう関連しているのだろう。確率の『同様に確からしい』という言葉はどういう意味なのか?」などと書き込みます。

                             

                             

                            もしあなたが高校生で、数学の問題に行き詰ったら、イラストを描きましょう。牧場の中に羊を描きます。4頭くらい描いて名前を付けます。つまり、羊と数学の「分からない問題」を関連づけるのです。

                             

                             

                            例えば羊の「ショーン」を見ると数列の問題を、「ルーシー」で三角関数の問題を思い出すという風に。これであなたは常に問題を考えることができるようになります。羊を飼うように頭の中に問題を飼っているのですから。

                             

                             

                            あるいは次のようなことを書いてもいいですね。その日の予定、部活のスケジュール、一週間後に迫ったテスト範囲の確認、夏までにやっておきたいこと、昨日見た夢のこと、その夢で出会った人物のイラスト、化学の解けなかった問題、学校の机の中に忘れてきた読みかけの小説、思いつき、ただの落書き、その日食べたものなど。以前考えたことと関連があると思ったらそのページを探して赤の矢印で結びつける。クロスレファレンスをあちこちに書き込む。

                             

                             

                            もちろん気に入った英語の参考書の表紙を勝手にレタリングしてもいいし、気分が滅入ったときには色鉛筆、ボールペン、クレヨン等を使ってカラフルに仕上げるのも面白いでしょう。プリクラを貼るのもいいでしょう。しかし、あくまで勉強を中心にしたノートでなければ長続きしないということを忘れないように。

                             

                             

                            こうやって作ったノートはあなただけのものです。誰にも真似のできない、あなたの思考の軌跡や感情が刻印された世界に二つとないノートとなります。そしてあなたは気づきます。自分の内面世界の豊かさに。これこそが自分の時間と空間だということに。あるいは、無関係だと思っていたことがつながっていることに気づき、驚嘆するのです。

                             

                             

                            これが匿名のシステムに拮抗する「もう一つの現実」=あなた自身の世界です。私の言う「思考ノート」はあなたの日記でもあり、詩集でもあり、スケッチブックでもあり、あなた自身に宛てた手紙でもあり、設計図でもあるのです。つまりこれこそが世界に二つとない「生き延びるためのノート」です。ノートを作るかどうかはあなたにかかっています。

                             

                             

                            参考までに以下の記事を挙げておきます。10年以上前に書いたものです。みなさんの健闘を祈ります。

                             

                            未来塾通信31『他人から理解されないつらさと、そこから生まれるものについて』

                            http://www.segmirai.jp/essay_library/essay031.html

                             

                            | 中高生の皆さんへ | 10:24 | comments(3) | - |
                            『東大合格生のノートはかならず美しい』わけがない。
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                              『東大合格生のノートはかならず美しい』というタイトルの本があります。10年前に出版された本ですが、かなり売れているようです。あなたは読みたいですか?この本を買って子供に与える親御さんの気持ちはわかります。自分の子供もいつか東大に、と思っているか、そこまでは考えていないけれど、勉強の参考になるかもしれないと考えてのことでしょう。

                               

                               

                               

                              気分を害されるかもしれませんが、この手の本を買う人は物事の表層だけを見て、自分の頭で考えることをしてこなかった人です。なぜなら、考えるということは、目の前の現実を疑うことだからです。

                               

                               

                               

                              それに『東大合格生のノートはかならず美しい』というバカ丸出しのタイトルが気になります。東大合格生の中でノートが汚い人が一人でもいたら、このタイトルはウソになるからです。つまるところ、本のタイトルに「東大」を付けると売り上げが伸びるというマーケティングの法則らしきものに依拠した「東大商法」なのです。『東大合格生のノートは、かならずしも美しいとは限らない』では、本が売れませんからね。

                               

                               

                               

                              もう一つ紹介しましょう。『東大生が選んだ勉強法』(PHP文庫)です。内容紹介は次のようなものです。

                               

                               

                               

                              「国内最高学府の頂点に君臨する、東京大学。その難関を突破した学生たちは、どんな勉強法を選んだのだろうか? 本書は、現役東大生約8400人が登録する「東大家庭教師友の会」の学生たちが編み出した、独自の勉強法を大公開。 「覚えた本は捨てて記憶する」「難しい本を読む前に、雑誌を探す」「眠りながら記憶する」など、目からウロコのメソッドが満載! あなたに合う勉強法がきっと見つかる一冊。」

                               

                               

                               

                              「国内最高学府の頂点に君臨する、東京大学」出身者は、「立法府の長」を名乗るバカの意向を忖度し、平気でウソをつき、行政文書を次々に廃棄・隠蔽しています。官僚の使命やプライドはどこに行ったのでしょうか。

                               

                               

                               

                              それにしても「覚えた本は捨てて記憶する」という日本語が分かりません。「覚えた本は捨てる」なら分かります。ここで言う「覚えた」というのは「記憶した」と同じ意味でしょう。つまり「記憶した本は捨てて記憶する」と言っていることになります。普通の頭では、これほど意味不明の日本語は書けません。さすが「東大家庭教師友の会」の学生だけのことはあります。

                               

                               

                               

                              「難しい本を読む前に、雑誌を探す」は「難しい本を読む前に、入門書を探す」ならわかりますが、「雑誌を探す」って、どんな雑誌でしょう。

                               

                               

                              「眠りながら記憶する」は睡眠学習のことを言っているのでしょうか。眠たい時にはさっと寝て、すっきりした頭で勉強に取り組んだ方がいいに決まっています。バカバカし過ぎて、皮肉を言うのも忘れてしまいました。要するに奇をてらった題名をつけて、何とか売ろうとする魂胆が丸見えです。目からウロコどころか、頭が禿げあがってしまいそうです。

                               

                               

                               

                              この種の「天才バカ本」の話はともかく、現実の東京大学では大規模な論文不正が次々に発覚しています。日本では「頂点に君臨する、東京大学」かもしれませんが、世界では相手にされていません。発表される論文の数も下降の一途をたどっています。大阪大学が出題のミスを一年近くも認めなかったこと。早稲田大学のAO入試の見識のなさ。慶応・中央大学の権謀術数の限りを尽くした反民主的な学長選挙。ブログで指摘しましたが、日本の大学は市場主義の軍門に下り、再生の可能性は99%ないと思います。

                               

                               

                               

                              私は塾生に受験するなら東大よりも京大を、と常々言ってきましたが、その京都大学のiPS細胞研究所でも昨日論文の不正が発覚しました。データを捏造した山水康平助教は「私がやりました。論文の見栄えをよくしたかった」と話したそうです。私はこれを聞いてひっくり返りました。「見栄えの問題かよ!」と思わず叫んでしまったのです。

                               

                               

                               

                              考えるということは、目の前の現実を疑うことだと言いました。しかし、肝心の大学がこの体たらくです。ここ2〜30年の間に、与えられた課題や実験結果に疑問を持つという感覚が麻痺していったのです。

                               

                               

                               

                              なぜこんなことになったのか。その原因は、難関大学の受験が特定の階層の専有物となり、親をも巻き込んだ見栄や嫉妬に駆動された情報戦となった結果、そもそも一体何のために勉強するのかという根本的な動機が問われなくなったことにあります。

                               

                               

                               

                              これは氷山の一角です。教育だけではなく、私たちの社会そのものが取り返しがつかないほど病んでいます。福島の原発事故が病巣を白日の下に晒したにもかかわらず、それをなかったことにするマスコミと政治家たち。それを支える国民。病巣は転移し、取り返しがつかなくなって初めて人々は気づくのです。

                               

                               

                               

                              見なければならないものを見る勇気。手遅れになる前に手を打てる行動力。それを可能にする想像力と洞察力。そういった人間の諸力を歴史の中に発見する曇りのない目。これらはすべて教育によって育まれるものです。その肝心な教育が崩壊しているのです。

                               

                               

                               

                              話を元に戻しましょう。『東大合格生のノートはかならず美しい』という本を買うあなたは「東大合格生」に何かプラスの価値を見出しているのでしょう。しかし考えても見て下さい。「東大合格生」という抽象的で匿名の記号に価値などあるわけがありません。

                               

                               

                               

                              いや、ブランドとしての価値がある、とお思いでしょうか。しかし人間の価値はブランドではなく、その人が社会で何をしているのか、何をしてきたのかで決まるのです。

                               

                               

                               

                              それに元々ブランドとは、他人の家畜と区別するために、自分の家畜に押した焼印のことです。識別し差別化するためのシンボルというわけです。ブランドにこだわることは、人間を家畜のように見るということです。人間を「商品」と見なし、将来的な価値を値踏みしているのです。

                               

                               

                               

                              もちろん、塾は人間をブランド化・差別化する匿名の工場のようなものです。保護者の方もそのような場所として塾を見ています。だからこそ、私は、自分の塾が匿名化することを避けるために、塾の方針を明確にしようと思いました。今から13年前、ホームページを立ち上げたのもそれが理由でした。当時は塾を始めて20年ほど経った頃で、消費社会の発想が社会の隅々にまで行きわたっていました。

                               

                               

                               

                              一言で言えば、教育が「商品」として切り売りされるようになった時期です。そこでは教える内容や、誰が教えているのかという最も肝心なことが捨象され、同じ商品なら安ければ安いほどいいと考える消費者が大挙して教育市場になだれ込んできた時期でした。

                               

                               

                               

                              「こちらは客なんだから最も安い価格で最大の効果を挙げろ」というわけです。学校でも病院でも皆がお客様気分で要求するのが当たり前になりました。しかし、想像して見て下さい。それがどんなに殺伐とした息苦しい社会かを。医者や教師が金儲けを第一に考えて働く社会がどんな社会かを。

                               

                               

                               

                              そういった社会の流れに抗するために、私はホームページを立ち上げ、「未来塾通信」を書くことにしました。その第一回目のタイトルは『学力低下は塾のせい』でした。「塾の教師のくせに、何それ?評論家のつもりか!」というお叱りの言葉も頂きました。しかし、私が実際に塾の現場で感じたことを無視するわけにはいかなかったのです。

                               

                               

                               

                              塾の宣伝文句として「目指せ東大!」だの「目指せ県立トップ校!」などと書くことは、消費者(月謝を払う親御さん)にとっては分かりやすいかもしれませんが、一方で自分の塾を匿名化することになります。コンビニ化、マクドナルド化するということです。それに私は思ってもいないことを書けない性分なのです。もちろん営業的にはマイナスです。それも覚悟の上でした。

                               

                               

                               

                              あれから13年が経過しました。数は少なくとも、私の考えに共鳴して下さる親御さんのお陰で、今日までやって来ることができました。私は子供たちに、自分のペースで、自分の考えで人生を生きてもらいたいと思っているだけです。匿名のシステムに適応することだけを考えて、自分の時間と自分の生きる場所を見失ってほしくないのです。

                               

                               

                               

                              塾の教師は勉強だけ教えていればいいのだ、という考え方もあるでしょう。しかし、好きな音楽を聴くことも、好きな服を着ることも、どんな職業に就くかということも、すべてはつながっています。はっきりした境界線などないのです。一見無関係に見える政治ともつながっています。要するに私たちの意識や行動の集積が社会を形作っているのです。そういう意味では、好きな音楽を聴くことも政治的だと言えます。その中に私のような塾教師がいてもいいのではないかと考えています。

                               

                               

                               

                              おやおや、また長くなってしまいました。今回は自分だけのノートの作り方を書くつもりでしたが次回にします。これまで誰も書いたことのないノートの作り方です。今回も最後までお読み頂いた方にお礼を申し上げます。貴重な時間をありがとうございました。

                               

                              | 塾・学力 | 00:25 | comments(0) | - |
                              自分の時間と空間を生きる。
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                                小学生の頃、自然発生的にできた地域の雑居集団にまじって、よくかくれんぼをしたものです。上野丘高校のテニスコートの上に神社があります。そこを起点に半径二百メートルくらいが隠れる場所でした。私はかくれんぼが得意でした。なぜか。忍者になることを夢見て修行に励んでいたからです。

                                 

                                 

                                 

                                今時そんなことを考えている小学生がいるでしょうか。将来はJリーガーかプロ野球選手、はたまたオリンピック選手、医者、弁護士などというのは、夢ではありません。職業です。

                                 

                                 

                                 

                                消費社会・大衆教育社会の登場が、夢を職業とリンクさせたのです。そしてそのことに疑問を抱かないどころか、親がこどもと同じ「夢」を見て、スポーツ選手にしたり、4人の子供全員を東大医学部に入れたりする母親も登場しました。

                                 

                                 

                                 

                                仮にいま私が小学生でも、親と同じ夢を見るのはご免こうむりたい。これといった理由があるわけではありませんが、私は他人と同じ夢を見ることが生理的に苦手なのです。ましてや、国家と同じ夢を見て他国を攻撃するくらいなら亡命することを選ぶでしょう。

                                 

                                 

                                 

                                この点では、私の両親は申し分のない親でした。周到な計画に沿って、子供に職業とリンクした夢を見させるのではなく、できの悪い息子を偶然性と自然のふところに委ねてくれたのです。昔はそんな親が多かった気がします。おかげで多少の回り道はしましたが、社会の支配的な価値観を鵜呑みにするだけで自分の世界を持たない退屈な大人にならずにすみました。

                                 

                                 

                                 

                                かくれんぼがなぜ得意だったのかという話に戻ります。当時の私は、ある時は地中に生息する昆虫や爬虫類と遊び、ある時は目もくらむような高い木に登りカラスやフクロウと友達になっていました。そのことで、アリの視点と鳥の視点を同時に手に入れたのです。

                                 

                                 

                                 

                                そうやって身につけた複眼的・鳥瞰的視点が、かくれんぼをするときに役立ちました。どこに隠れれば「鬼」の視界に入らないか本能的に分かるようになったのです。隠れ家を作ったり、魚を取ったり、自然の恵みである様々な食べ物を採集するのも得意でした。もっとも、わけのわからないものを食べて、しょっちゅう下痢をしていましたが。

                                 

                                 

                                 

                                何かのきっかけで少年時代の記憶が鮮やかによみがえってくることがあります。前にも書きましたが、記憶や時間は直線的なベクトルを持っているわけではなく、枯れ葉が積み重なるように身体の中に積み重なっています。それを私は記憶と時間のミルフィーユと名付けています。考古学的想像力などと大げさに言うつもりはありません。昔の人なら自然に持っていたものです。

                                 

                                 

                                 

                                ある場所にたたずんでいると、そこを流れていた時間を思い出すことがあります。時間を思い出すというのは変な表現ですが、大地の匂いや季節の足音や空気感が、無意識の底に沈殿している記憶の断片を撹拌し、意識の水面に浮上させます。

                                 

                                 

                                 

                                その時、その場所に生きていた人々の記憶と時間が、私のそれと混然一体となり、そこにもう一つの豊饒な現実があったことに気づきます。そういった記憶と時間に包まれた繭の内部のような場所こそ、人間の魂と感情が生成する場所なのではないかと思います。

                                 

                                 

                                 

                                今にして思えば、そういった感覚が私という人間の原型を形作ったのだと思います。自分固有の時間と空間を作ることなしに、自分の<生>を生きることはできないと確信させたのです。

                                 

                                 

                                 

                                なぜこんなことを書くかというと、大人になり世間の常識や決まり、つまり匿名のシステムに呑み込まれそうになりながらも、それに拮抗する世界を持つためには、自分の時間と空間(サンクチュアリ)が必須だと考えているからです

                                 

                                 

                                 

                                つまり、私にとっては内なるサンクチュアリこそが現実であり、多くの人が「現実」だと考えているものは、匿名のシステム=仮想空間でしかありません。利害や思惑が入り乱れ、人間の精神を堕落させ、ついには死にいたらせる力を持っている一方で、それなくしては社会が成り立たないからこそ「現実」として存在しているのです。私はそれをないがしろにするつもりはありません。なぜなら、まさにその「現実」が、私の<生>に意味を生じさせているからです。

                                 

                                 

                                 

                                さて、私が身を置く塾の現場を見てみましょう。塾は子供たちを匿名のシステムに過剰適応させることで利潤を上げるもう一つの匿名のシステムです。匿名のシステムも多層構造をしています。それゆえ、自作自演のなりすまし塾長やネトウヨ塾長を始めとして、経営コンサルタントを名乗る塾長も後を絶ちません。

                                 

                                 

                                 

                                私たちの社会は、子供から子供時代を奪っています。格差社会の現実を目の当たりにして、親御さんは不安になり、ブレーキを踏むどころかアクセル全開で子供を追い詰めます。塾も学校も親もこのことについて自覚的でなければなりません。なぜなら、子供の将来を思えばこその叱咤激励は、ともすると子供の魂や感情を抑圧する「狂気」に転化しがちだからです。

                                 

                                 

                                 

                                最後に一つだけ覚えておいてほしいことがあります。今ある「現実」は数年後には「現実」ではなくなっている可能性が高いということです。私は、なりすましや匿名を拒否し、目の前にいるひとりひとりの人間と純粋に関われる部分を少しでも広げていきたいと考えています。

                                 

                                 

                                 

                                抽象的で小難しい文章をここまで読んでいただき、ありがとうございました。何かのヒントになればうれしく思います。次回は匿名のシステムに取り込まれることなく、真の知性を身につけるためのノートの作り方について話します。「東大生の必ず美しいノート」などとは比較にならない、あなただけのノートの作り方です。ご期待下さい。

                                 

                                 

                                尚、今回のテーマと関連した過去の記事を挙げておきます。もし暇がありましたら、お読み下さい。

                                 

                                『こどもの魂はどこで育つのか』

                                http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=174

                                 

                                | 文学・哲学・思想 | 22:04 | comments(0) | - |
                                「現実」に殺されないために。
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                                  91歳の義母が脳梗塞で倒れ、入院して1年2カ月になります。今は佐伯の介護施設にいます。身体も動かず、しゃべることもできない母にとって、「現実」との通路はわずかに開いている左目だけです。私と妻が声をかけると、ほほ笑み、目に光がともります。その小さな「窓」を通して、かろうじて外界とつながっている状態です。

                                   

                                   

                                   

                                  95歳になり認知症の兆候があった義父も家で転び、右大腿骨を骨折。手術後2カ月かけてリハビリに励みました。やっと歩けるようになったと思う間もなく、再び介護施設で転び、今度は左大腿骨を骨折しました。2度の手術を経て、車いすの生活になりましたが、認知症の症状が進み、夜中に大声を出し、介護施設では手の施しようがないということで、今は大分市の下郡にある精神科の病院に入院しています。

                                   

                                   

                                   

                                  昨日は、佐伯へ墓参りに行き、義母を訪ねた後、義父を見舞いました。面会の人は首からそれと分かるカードを下げています。病棟へのドアには鍵がかけられ、入退出時には呼び出しのベルで看護師さんに連絡し、鍵を開けてもらいます。廊下で数人の患者さんとすれ違い、挨拶を交わします。見たところ普通の人と何ら変わりはありません。

                                   

                                   

                                   

                                  「お父さん、僕です、わかりますか?」と言うと、「ああ・・おおっ」と返事が返ってきます。妻が病室で義父の手をさすり、話しかけている間、私は部屋の外にあるラウンジのソファに座って本を読んでいました。数人のお年寄りがテレビで大相撲を見ていました。30分ほど経ったでしょうか。突然、20代と思われる若い女性の患者さんが私の横に来て座りました。

                                   

                                   

                                   

                                  「何を読んでるんですか?」

                                  と尋ねるので、本の題名とカバーを見せました。それをじっと眺めた後、

                                  「なんだか面白そうですね」と言いました。

                                  「よかったらどんな内容か話しましょうか」

                                  「ええ、ぜひ話して下さい。」

                                  「この本を書いた人は躁鬱病という遺伝的な体質を持った人です。鬱の時には死ぬことばかり考えるそうです。中身をひとことで言うと、なぜ僕たちは自分の考えや気持ちを他人に伝えようとするのか、ということが書かれています。」

                                   

                                   

                                  彼女は私にピタッとくっついてきました。私は続けました。

                                   

                                  「たとえば現実に順応できなければ生きられないと思い込んでいる人がいるとしますね。この本を書いた人は、それはウソだ、現実は一つだと思い込まされているだけだと言います。現実はびくともしないコンクリートの建物のようなものではなくて、人間が集団で生きていくために作り上げたシステムに過ぎないと言っています。僕もそう考えてきました。僕の話がわかりますか?」

                                   

                                   

                                  彼女はうなずきました。私の言葉を理解しているのが分かります。その受容の深さ、切実さは、私が経験したことのないものでした。これ以上続けるべきかどうか悩んでいたとき、妻が病室から出てきて私を呼びました。

                                   

                                   

                                  彼女は状況を瞬時に理解し、「また来て下さい」と言いました。

                                   

                                   

                                  病棟の長い廊下を歩きながら妻は言いました。

                                   

                                  「あの子、私たちが初めてこの病院に来た時、受付のところで待っていた子よね。」

                                  「よく気がついたね。ご主人か恋人かわからないけど、若い男性に付き添われていたのを覚えているよ。」

                                  「どんな事情があるにせよ、あの若さでここに入院しているなんて、可哀そうだわ。あなたと何か話してたの?」

                                  「僕が読んでいた本に興味があったみたいで、内容を知りたいというので、ちょっと説明していた。」

                                  「もっと話してあげればよかったのに。」

                                  「彼女は人と話すことに飢えているような気がする。でも部外者が患者さんとどこまで話していいものか・・・。それに僕の話が彼女の心を乱すこともあるかもしれない。無責任なことはできないよ。」

                                   

                                   

                                   

                                  私が彼女に伝えたかったのは、ひとことで言えば、「現実」とは匿名のシステムが作りだした仮想空間だということです。「現実が仮想空間だって?そんなバカな!」と考える人は、これ以上読んでも不愉快になるだけでしょうから、私に「変人」のレッテルを張ってどうぞお引き取り下さい。

                                   

                                   

                                   

                                  私たちが「現実」と呼んでいる世界の実体は匿名の仮想空間に過ぎないのに、いや、そうだからこそ、私たちの無意識にまで侵入し、世界を単一化・一元化する力を持つのです。このことを認識していないと、匿名の力によって社会から抹殺されるかもしれません。大げさではなく、そういった事例は枚挙にいとまがありません。

                                   

                                   

                                   

                                  具体的に話しましょう。ブログでも取り上げた電通の事件です。高橋まつりさんは東大を卒業後、2015年4月に電通に入社します。しかし、その年の12月25日、電通女子寮の4階から投身自殺します。24歳でした。東大から電通と言えば誰もがうらやむエリートコースです。

                                   

                                   

                                  私がこの事件に注目したのは、彼女こそ電通という会社が作り上げた匿名のシステムによって殺された犠牲者だと考えるからです。母子家庭に育ち、それをハンデにすることなく懸命に努力して東大に合格します。きっと親子で抱き合って喜んだことでしょう。

                                   

                                   

                                  東大時代には『週刊朝日』でアルバイトをしていました。インターネット番組のアシスタントやリポーターなどを務めていたそうです。週刊朝日の関係者によると、「相手が大物政治家だろうが、有名人だろうが、物おじしない。機転が利いて、根性もある。あの子を精神的に追い込むことのほうがよっぽど難しい」と彼女の印象を述べています。そのまつりさんを自殺にまで追い込んだのは何だったのでしょうか。

                                   

                                   

                                   

                                  まつりさんは、労基署より10月半ばからの1ヶ月間の残業時間が105時間と認定されていますが、自殺する直前の残業時間は、労働組合との取り決め上限である「70時間」のぎりぎりで記載されていました。

                                   

                                   

                                  しかし、遺族側弁護士が、自動的に記録される入退館ゲートのデータを基に集計した残業は、月に130時間を超えることがあったとのことです。しかも、連続53時間勤務を疑わせる入退館記録も残っています。弁護士は「残業が70時間を超えると、正確に申告がなされなくなっていた。指導があったとみられる」と指摘しています。

                                   

                                   

                                   

                                  母親の幸美さんによると、残業に加えて自宅で徹夜の作業をしていたとのことです。まつりさんが、2015年10月に本採用となった後は、土日出勤、朝5時帰宅という日もあったそうです。亡くなった12月には部署全員に対して、残業の上限を撤廃する36協定の特別条項が出され、深夜労働が続き、忘年会の準備のためにも土日や深夜に残業していたといいます。

                                   

                                   

                                   

                                  そして自殺する日の朝、母親にメールを送ります。そこには次のように書かれていました。「大好きで大切なお母さん。さようなら。ありがとう。人生も仕事もすべてがつらいです。お母さん、自分を責めないでね。最高のお母さんだから。」

                                   

                                   

                                   

                                  彼女を自殺に追いやった犯人は特定の人物ではありません。電通が作り上げた「現実」です。それこそが匿名のシステムなのです。電通の社長は裁判で謝罪し、50万円の罰金を支払っただけです。

                                   

                                   

                                   

                                  匿名のシステムは、私たちが集団で生き延びるために、長い時間をかけて作りだしたものです。しかし、その過程で、一人一人の固有の世界を形作ってきた記憶はそぎ落とされていきます。そして集団にとってだけ意味のある記憶(歴史)が作られていくのです。歴史は捏造されるということです。会社の場合それは社訓なり社是と呼ばれます。

                                   

                                   

                                   

                                  そして、本来なら自分のために使うことができる時間も、市場社会の絶対時間に取って代わられます。つまり、個人が生き延びるのに必要な時間や空間がどんどん狭められていき、集団にとって必要なものだけが残るということです。

                                   

                                   

                                   

                                  高橋まつりさんは、自分の時間も、生きる空間も奪われ、「現実という仮想空間」の中に閉じ込められて生きる場を失ったのです。私が精神科の病院で出会った女性も「現実」によって精神のバランスを崩していたのかもしれません。

                                   

                                   

                                   

                                  長くなりました。次回からはどうすれば匿名のシステムに呑み込まれずに生きていけるのかを、具体的に話していきたいと思います。今回も最後まで読んで下さった方にお礼申し上げます。いつもありがとうございます。

                                   

                                  | 文学・哲学・思想 | 22:46 | comments(0) | - |
                                  もうひとつの「現実」(Alternative Reality)を見る。
                                  0

                                    明日からいよいよセンター試験が始まります。先ほど塾の生徒に激励のメールを送りました。この時期は、寒さが一年で一番厳しくなります。雪が舞い、道路が凍結する中、受験生が試験会場へと向かうのを何度となく見送ってきた気がします。

                                     

                                     

                                    ところで、前回のブログで、「自分のやりたいことを見つけて、夢と希望に向かって生きよう」というフレーズを、軽薄で幼稚な「政治的」なキャッチフレーズだと書きました。

                                     

                                     

                                    匿名化したシステム(例えば、学校でいじめにあって生徒が自殺した時、だれも責任をとりません。原発事故でも責任をとった人はいませんし、刑務所に入った人もいません)に殺されずに生き延びるには、私の言う意味が分かっていることが必要です。それを説明しましょう。

                                     

                                     

                                    「自分のやりたいことを見つける」は、一時期流行した「自分探し」や「自己実現」という言葉の言い換えに過ぎません。まるで、幸せになるためには「自分のやりたいこと」を見つけなければならないと言っているようです。

                                     

                                     

                                     

                                    このたぐいの言葉は、スポーツ選手・タレント・マスコミ・出版社・教育関係者などから発せられます。さらにはビートたけしのような似非芸術家もこれに加わります。自分の「芸術」が世間に迎合した余興に過ぎないことに気づいていないのですから言葉が見つかりません。私は、芸術の本質は、既存の社会や組織や流派を変革するエネルギーを生みだすところにあると思っています。

                                     

                                     

                                     

                                    そもそも、本当に自分のやりたいことを見つけた人は、沈黙しているはずです。それを世間に向けてアピールしたいなどとは思わないはずです。

                                     

                                     

                                     

                                    しかし、その一方で、他者から承認されたいという欲求を抑えられない人がいます。少しばかり名前が売れただけで、あちこちに顔を出し、「スポンサー」に媚びます。うるさくて仕方ありません。彼らは沈黙とは無縁なのです。競争社会では沈黙していては金になりませんからね。

                                     

                                     

                                     

                                    かくして「自分のやりたいことを見つける競争」はアメリカ流の「自己アピール」とセットになって、私たちの社会を軽薄で幼稚で騒々しい社会に変えたのです。

                                     

                                     

                                     

                                    「政治的」なキャッチフレーズと言ったのは、自分の足元を見つめ、そこを掘り下げれば様々な矛盾や不都合な真実が出てくるので、夢や希望を追いかけさせて注意をそらす必要があるからです。

                                     

                                     

                                     

                                    「自分のやりたいこと」が被災地のボランティアならメディアに取り上げてもらえます。しかし、東京オリンピックに反対したり、電力会社を相手に裁判を起こしたり、電源三法や総括原価方式の廃止を訴えたりすることは「自分のやりたいこと」の中には含まれません。

                                     

                                     

                                     

                                    さらに、日本がいまだにアメリカの占領下にあるという事実を指摘したり、日米地位協定の見直しを政府に迫ったり、「日米合同委員会」の存在を世間に知らせたりする活動は、「自分のやりたいこと」どころか、「やってはならないこと」にされます。

                                     

                                     

                                     

                                    つまり「自分のやりたいこと」は、匿名のシステムを固定化し補強する限りで認められるのです。これを「政治的」と呼ばずになんと呼べばいいのでしょうか。匿名のシステムは、まさに私たちの無意識が作り出したものです。それが私たちを監視し、自由を奪っているのです。このあちこちに張り巡らされている抑圧のシステムを私たちは「現実」と呼んでいます。

                                     

                                     

                                     

                                    しかし、勘違いしてはなりません。無意識が作りだしたもの、すなわち多くの人が見ている夢を一人でひっくり返そうとしても無駄です。ではどうすればいいのか。他人の夢に付き合う必要などないと、一人で宣言すればいいのです。皆で同じ夢を見るためには現実は一つだと思い込まなければなりません。戦争は皆で同じ夢を見ることです。これほどバカげたことはない!

                                     

                                     

                                     

                                    振り返ってみれば、私はブログを通じて、現実を多層構造で見ることの大切さを繰り返し語ってきた気がします。時間と空間にこだわったのは、その感知の仕方こそが、その人固有の現実を発見し作り上げるのに役立つと確信しているからです。

                                     

                                     

                                    最後に一言。人生は「自分のやりたいことを見つける」ためにあるのではありません。「これは自分がやるしかない、やらなければならない、と覚悟したこと」をやるためにあるのです。つまり「使命」を自覚するということです。続きはまた次回にします。今回も読んでいただきありがとうございました。

                                     

                                     

                                    未来塾は2018年度、塾生の募集を始めました。詳細は LINKS [未来塾 Webぺージ]をご覧ください。

                                     

                                    | 中高生の皆さんへ | 23:30 | comments(0) | - |
                                    匿名化したシステムを生き延びるために。
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                                      2015年の6月から書き始めたブログですが、振り返ってみると、社会に対する生理的な違和感の表明だったと思います。私には社会変革の理論を構築できる頭脳がないので、生理的な違和感をもとに書くしかなかったのです。政治的な話題が多くなりましたが、それは「自分のやりたいことを見つけて、夢と希望に向かって生きよう」というような軽薄で幼稚な「政治的」キャッチフレーズが社会を覆っている以上、避けられないものでした。

                                       

                                       

                                       

                                      私はチェ・ゲバラのような人間を愛していますが、革命家ではありません。歴史をひもとくまでもなく、「すべての革命家は最後には弾圧者か異端者になり下がる。」というアルベール・カミュの言葉と洞察力を信じているのです。「恐怖を土台にした尊敬ほど卑劣なものはない。」というのもカミュの言葉です。

                                       

                                       

                                       

                                      本題に入りましょう。私たちの社会は、私たちの集合的な無意識が作りだしたものです。したがって、変革を求めるうねりが津波のように膨れ上がらない限り、個人の力で簡単にひっくり返したり、否定したりすることはできません。では何ができるのか?

                                       

                                       

                                       

                                      まず疑問を持ち、違和感を表明すること。この世界のどこをおかしいと感じているのか自分に問うこと。これまで生きて来て社会に対して根源的な疑問を感じたことのない人、親や学校教育によって疑問を奪い取られているのを「現実は厳しいのさ」の一言でごまかして来た人、そういう人は一部上場企業へと急ぎましょう。誰かに指示されて自分のものではない誰かの人生を生きていきましょう。そうすれば原発なんか気にしなくても生きていけます。しかし、それでは生き延びられない、生きていることにならない、というのが私の言いたいことです。

                                       

                                       

                                       

                                      具体例を見てみましょう。もしあなたが大学側のミスと保身のために1年を棒に振らざるを得なかったとしたら、どうしますか?実際そういう目に会うまでは、なにも考えられないというのであれば、次の犠牲者はあなたになるかもしれないのです。

                                       

                                       

                                       

                                      毎日新聞2018年1月7日の記事より。

                                       

                                       

                                       

                                      「大阪大は6日、昨年2月に実施した一般入試(前期日程)の物理で、出題と採点にミスがあったと発表した。合否判定をやり直した結果、不合格とした30人を追加合格とした。また、本来は第1志望の学科で合格していたのに、第2志望の学科に入学していた学生も9人いた。大阪大は追加合格者の入学を認め、金銭的な補償を行う方針。昨年6月以降、外部から複数の指摘を受けていたが、3回目で初めてミスを認めた。

                                       

                                       

                                      大阪大によると、昨年2月25日に行われ、特別入試も含めた3850人が受験した物理の試験で、音の伝わり方に関する問題を出題。ミスが見つかった最初の設問で、本来は三つの正答があるにもかかわらず、正解を一つに限定していた。さらに次の設問は、この解答を前提に作成されていたため、別の二つの解答では正解を求められなくなっていた。

                                       

                                       

                                      外部からの指摘を大学側が初めて認識したのは、昨年8月9日。予備校講師から「問題設定が不自然」とのメールが寄せられた。大学側は問題を作成した責任者と副責任者の理学部教授2人の検討を経て、この指摘に対し「ミスはない」と返信していた。昨年12月4日にも別の外部の人から、詳細な同様の指摘が寄せられたため、さらに4人の教員を加えて検討し、大学は初めてミスと認めた。

                                       

                                       

                                      この設問を巡り、高校教員らが参加して昨年6月10日に開催された入試問題検討会でも不備を指摘する意見が出たが、責任者の教授2人だけの判断で「正解は一つ」と説明していた。最初の指摘から半年経過したことについて、記者会見した大阪大の小林傳司(ただし)副学長は「正しい解答は一つだとの思い込みがあったようだ。組織的に対応できなかった」と陳謝した。 」

                                      https://mainichi.jp/articles/20180107/k00/00m/040/016000c

                                       

                                       

                                       

                                      「正しい解答は一つだとの思い込みがあったようだ。組織的に対応できなかった」という副学長の言葉に注目して下さい。

                                       

                                       

                                      この言葉は、大阪大学がもはや大学ではないということを宣言したものです。なぜなら「正しい解答は一つだとの思い込み」を打ち破ることこそが学問の本質だからです。何度も出題ミスを指摘されながら、それを無視した責任者と副責任者の理学部教授2人は大学で教える資格はありません。内心では自分たちのミスに気づいていたのかもしれません。

                                       

                                       

                                       

                                      しかし、入試からほぼ1年経って、3度目の指摘があって初めてミスを認めたことは「組織的に対応」すること、すなわち組織を挙げて何とかミスを認めずにやり過ごせないものか、と考えていたことを意味します。

                                       

                                       

                                       

                                       

                                      ここではっきりと気づかなければならないのは、私たちの社会は「思い込み」と「組織的に対応」することで成り立っている、いわば匿名化したシステムだということです。「大学側のミス」という言葉で、個人の責任は問われないことになっています。

                                       

                                       

                                       

                                      そこでは、教師が提供する授業も、学生が受ける授業も「商品」とみなされ、それに見合った貨幣と等価交換されると教えられます。したがって、それが提供できなかったときには、それに見合った金銭的な補償をすればいいという発想になるのは当然です。匿名化したシステムには、人間にとって最も大切なものが欠けているのです。

                                       

                                       

                                       

                                      「こんなバカなことがまかり通っていいはずがない。今すぐミスを認めて受験生に知らせるべきだ。若い人にとって人生の1年間がどれほど貴重なものか分かっているのか。」という意見は感情的だとして退けられます。当然、責任をとる人もいないまま問題は隠蔽されるのです。

                                       

                                       

                                       

                                      匿名化したシステムに欠けている最も大切なものとは、「感情」であり「責任の所在」であり「使命」です。大阪大学にはこのすべてが欠けています。このことを自覚していなければ、私たちは生活ばかりでなく命を危険にさらすことになります。今の安倍政権を見れば一目瞭然です。次回はこの匿名化したシステムを生き延びる方法について書くつもりです。

                                       

                                       

                                       

                                      よろしければ、以下の過去記事も御参照下さい。

                                       

                                      「民主主義は大学の門前で立ちすくむ」

                                      http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=427

                                       

                                      「早稲田大学のAO・推薦入試について」

                                      http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=136

                                       

                                      | 文学・哲学・思想 | 23:00 | comments(0) | - |
                                      見果てぬ夢 ・100年後の生存戦略−教育
                                      0

                                        明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願い致します。

                                         

                                         

                                         

                                        元日の朝、ポストを覗いてみると、埼玉県の塾教師O君から年賀状が届いていました。成長した息子さんの写真の上に「3月から新しい環境で始動です。」とありました。川口市からさいたま市、七里へ教室を移すとのことです。風が吹き抜けるとても環境のいいところで、大工さんと相談しながら、教室をデザインしているそうです。いよいよ計画を実行する段階になったのですね。ここにも自分の居場所を懸命に作ろうとしている青年がいます。

                                         

                                         

                                         

                                        市場社会に軸足を置きながら自分の居場所を作ることは、大人でも実はかなり大変なことです。まして子供は大人の用意した環境に適応する他ないので、自分の居場所を作るどころではありません。学校を始めとして与えられた環境の中で何とか生き延びるのに精一杯でしょう。

                                         

                                         

                                         

                                        日本の学校教育は制度疲労を起こしていて、社会の急激な変化についていくことができません。当たり前ですね。相手は人間(子供たち)なので、決められた納期内に一定水準の品質をもった製品を大量に生産する工場のようなわけにはいきません。

                                         

                                         

                                         

                                        子供が成長するには時間がかかるのです。脳に電極をつないで知識や情報をインプットすることができたとしても、魂の成長には、自由と何ものにも奉仕しない時間が必要です。秋になって柿の実が熟すように、ただ待つしかないのです。待つ時間を奪われた子供は、知的には優秀でもいつまでも子供のままです。人間を成長させるのは知識ではなく魂の働きなのですから。

                                         

                                         

                                         

                                        100年後、日本の子供たちが生き生きと学び、活発に議論し、どんな境遇の子供も見捨てられることのない教育の場を作ることは可能でしょうか。戦争経済(原発もその一つです)を回し、国家の富を独占し、私物化して恥じることのない権力者たちを国民の力で排除すれば可能です。そのためには国民が民主主義の力を信じなければなりません。

                                         

                                         

                                         

                                        そのことを確かめるために、私は去年の11月始め、塾を3日間だけ休み、車を飛ばしてある場所へ向かいました。目的地は滋賀県近江八幡市にある『ラコリーナ』です。ラコリーナとはイタリア語で「丘」を意味します。

                                         

                                         

                                         

                                        『ラコリーナ』は、周囲の水郷や緑を活かした美しい原風景の中での、人と自然がふれあう空間づくりをコンセプトにしています。和・洋菓子を総合した店舗および飲食施設や各専門ショップ、農園、本社施設、従業員対象の保育施設などを設けるたねやグループの新たな拠点です。今年の1月9日でメインショップオープンから3年が経ちます。

                                         


                                        カステラショップ・フードガレージと次々に新しい店舗をオープンし、去年は260万人を超える来店者数となりました。

                                         

                                        http://taneya.jp/la_collina/

                                         

                                        メインショップ。向こうに見えるのは八幡山。

                                         

                                         

                                        メインショップの中はカフェと店舗になっている。天井は漆喰に炭をはめ込んだもの。藤森建築の特徴です。とても柔らかい空間です。

                                         

                                         

                                        メインショップを抜けると眼前に広大な田んぼが広がる。右側(画像では正面に見える)が本社。

                                         

                                         

                                         

                                        カステラカフェ。妻とお茶をして疲れをいやしました。

                                         

                                         

                                         

                                        なぜこの場所に向かったかというと、ブログでも書きましたが、以前よりヴァナキュラー建築に興味があり、縄文建築団を率いて活躍する建築家・藤森照信氏に注目していたからです。イタリア人の建築家でデザイナーのミケーレ・デ・ルッキ 氏が全体を構想し、本社やメインショップの設計を手掛けたのが藤森照信氏だったのです。

                                         

                                         

                                         

                                        ヴァナキュラー建築について、ウィキペディアの解説を見てみましょう。

                                         

                                         

                                        引用開始

                                         

                                        「Vernacular」とは「土着の」あるいは「風土的」という意味である。1964年にバーナード・ルドフスキーが著した『建築家なしの建築』によってヴァナキュラー建築の概念は関心を集めた。ルドフスキーは職業的デザイナーである建築家によって建てられたハイスタイルな建築物を系図的にたどることで語られてきた建築史に対して、それまで無視されてきた無名の工匠たちによって造られた風土的建築物を紹介することで、建築芸術の新たな研究対象を提示した。

                                         

                                         

                                        ヴァナキュラー建築は、それぞれの地域で産出する建材を使用して、その土地の気候にあったデザインを考慮して作られる点で、建築部材の全てが工場で生産され、現場で組み立てるだけの近代的な商業建築との大きな違いがある。また、ヴァナキュラー建築の世界では、長年繰り返された選択の蓄積として生まれた建築に必要なルールや知恵の多くは口伝や暗黙知として継承される。その知恵の体系は地域技術として普及し、それぞれの地域に同じような形態の建物が建てられ、風土色のある集落を形成している。

                                         

                                         

                                        引用終わり

                                         

                                        以上でお分かりのように、『ラコリーナ』は、ヴァナキュラー建築をメインコンセプトにしているのです。

                                         

                                        田植えのシーズン。

                                         

                                         

                                        秋の稲刈り。

                                         

                                         

                                        田んぼの小動物観察クラブ。

                                         

                                         

                                        奥にあるフードコート。

                                         

                                         

                                        オレンジティーとシチリアのライスコロッケ「アランチーノ」をたべました。卵をトマト風味のライスで包んで揚げたもので、とても美味しかった。

                                         

                                         

                                         

                                         

                                        新自由主義によるマネー経済の肥大化・加速化は人々を幸福にしません。新自由主義は人間そのものを尊重するのではなく、人間を「手段」とみなす世界観です。私はこの世界観に対抗できるものこそが、ヴァナキュラー建築だと考えています。さらに言えば、「ヴァナキュラー教育」こそ、日本古来の伝統や文化を復興させるものだと確信しています。

                                         

                                         

                                         

                                        『ラコリーナ』のしたたかなところは、市場経済を否定するのではなく、それを乗りこえる可能性を提示しているところです。市場経済を否定すると、最終的には自給自足を目ざす閉ざされた宗教集団のようになってしまいます。「消費」を否定せず、それを逆手にとって、新たな価値を示して見せる。これこそが賞味期限が切れた資本主義社会の先を生きるための処方箋だと思います。

                                         

                                         

                                         

                                        『ラコリーナ』をほぼ半日かけて歩きながら、私はこれが学校だったらどうだろうと考えていました。先入観を捨てて、この場所を学校にすることが可能だろうかと考えてみたのです。結論は可能だということです。

                                         

                                         

                                         

                                        この広い場所に、小学生から高校生までが通い、その土地固有の文化や伝統を学びながら、先端技術の基礎理論やデザインや建築を始めとして様々な教科も学べるようにする。幼稚園児や地域のお年寄りもやって来て、一年に一度盛大なお祭りや収穫祭を開く。

                                         

                                         

                                         

                                        子供たちを部活や宿題で縛るのではなく、自発的創造性にまかせて、宮沢賢治が言うように、農業を舞踏へと高めるのです。もちろん制服など不要です。そこでは100メートルを10秒で走る能力など必要とされません。アクロバティックな鉄棒演技も人間性を無視した集団演技で得点を競うことも不要です。ましてや国家の威信をかけたスポーツ戦士に子供を育てるなど論外です。健康で柔軟性に富んだしなやかな身体を持つ子供に育てればいいのです。

                                         

                                         

                                         

                                        まず『ラコリーナ』のような場所を各都道府県に一つ作る。それだけで私たちが無条件に順応するしかなかった教育システムが、いかに不要・不毛なもので満ちていたかが分かります。

                                         

                                         

                                         

                                        これからの日本は人口減少社会へと突入していきます。お年寄りと若者が手を取り合って生きていかねばならないのです。その時大人が利己的な発想で自分たちの利益を確保するのに精一杯だったとしたら、いったい誰が子供たちの居場所を構想するのでしょうか。

                                         

                                         

                                         

                                        私がここで考えたことは実現できます。決して見果てぬ夢ではありません。現に民間の会社『ラコリーナ』がそれを実現しています。必要なのはヴィジョンです。教育こそが、宇沢弘文氏の言を待つまでもなく、100年先を構想できる社会的共通資本なのです。

                                         

                                         

                                        | 教育 | 21:57 | comments(0) | - |
                                        2017年の終わりに。
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                                          今年も残すところあとわずかとなりました。一年間、面白くもない、不愉快な内容が多かったブログですが、お付き合い頂いた方には心からお礼申し上げます。

                                           

                                           

                                           

                                          本音を言えば、私は政治などどうでもいいと思っています。この国がどうなろうと、アメリカが北朝鮮を攻撃して日本がその巻き添えを食おうが、それは仕方のないことだというか、自業自得だと思っています。日本人はそれを自ら招き寄せているのですから。

                                           

                                           

                                           

                                          ただそういった空気にどうしてもなじめない、生理的に順応できない自分を発見し、違和感を吐露せざるを得なかったのです。イデオロギーや宗教に胡散臭さを感じるのも、私の体質の問題でしょう。素朴に考えておかしいという感情から出てくるものこそが信頼に値するものです。そうは言っても、どこかで堪忍袋の緒が切れれば、その時点でブログはやめるつもりです。

                                           

                                           

                                           

                                          もともと、今の社会に自分の居場所などあるわけがないと思い、それなら自分の居場所を作るしかないと思って生きてきました。私が惹きつけられる人間の姿というか風情は、ことごとく自分の居場所というか精神のありかを自分で作って来た人たちでした。今は独裁主義に順応する生き方がもてはやされる時代です。いや、いつの時代も世の中とはそういうものかもしれません。

                                           

                                           

                                           

                                          思い返せば、そういった世の中や制度に対する生理的な違和感が私の中で頂点に達したのが、高校3年の時でした。卒業を間近に控えたある日、担任から「○○、お前は卒業アルバムを買わないのか。買わないのは学年でお前一人だぞ。」と言われました。

                                           

                                           

                                           

                                          「僕は上野丘高校に何の愛着もありません。空白の3年間でした。アルバムを買っても、懐かしくなってページを開くことはないと思います。」と私は答えたのです。その時の担任の表情は覚えていません。ただ「そうか」と言っただけでした。今となっては若気の至りというしかありません。

                                           

                                           

                                           

                                          その私が塾の教師になって、生徒を上野丘高校に送り出しているのですから、運命の皮肉というか、罰を受けているようなものです。ただ、罪滅ぼしとして、上野丘高校に最も欠けていたと思うもの(今もそれほど変わりはありません)を、英語を教える中で補おうと心がけています。

                                           

                                           

                                           

                                          ごく単純に言うと、それは今の社会をどうとらえ、どう生きるのかということと切り離して勉強などできないということです。「これほど基本的な事実について無知では、アメリカを始めとして世界の高校生と議論などできるわけがない。いや、議論というよりもコミュニケーションをとることすら不可能だ。英語以前の問題です。」と私はよく言います。英語教師であればなおさらこのことが気になるはずです。

                                           

                                           

                                           

                                          なぜそうなるのか。その背景には、「高校を卒業して大学に入り、大学を卒業して社会に出て初めて現実と向き合える。それまでは準備段階だから黙って受験勉強に励むべきだ」というイデオロギーがあります。それは、かけがえのない現実が今この瞬間にも進行中だということを忘れさせるのです。

                                           

                                           

                                           

                                          現実は今ここにあります。遠い未来にあるのではありません。社会のありようを政治や経済も含めて、あるいは税金の使い方や社会保障のあり方も含めて知ること。それを抜きにした勉強など、本来意味を持たないはずです。上野丘高校が劇的に進学実績を伸ばし、卒業生が懐かしく振り返る場所になるためには、世の中を知ることを含めて、今この瞬間を生きることができる世界で一番自由な場所にするしかありません。

                                           

                                           

                                           

                                          さてもうやめにします。私がこれまでの人生で習得したものは、新しい感情で満たされた日々を送るための技術です。一円のお金も生み出しませんし、自己満足と言われればそれまでかもしれません。しかし。それがなければ人生は無意味だと感じさせるものです。その技術を習得するためには、若い時から訓練を積まなければなりません。それは誰でもいい誰かの人生ではなく、自分自身の人生を生きるためのトレーニングなのです。

                                           

                                           

                                           

                                          今の安倍政権を見れば分かる通り、政治家は本質的に人間として下らない。まともに相手にする人種ではありません。それより、好きな人とデートする方がよっぽどましです。素敵なカフェに入ってコーヒーでも注文しましょう。しかし、そのコーヒー豆がどこから輸入されているのか、その値段を決めるのも政治です。たまには美味しいコーヒーを飲みながら、そういうことも話題にしてみましょう。

                                           

                                           

                                          来年が皆さんにとってよい年でありますように!

                                           

                                          | 教育 | 20:44 | comments(0) | - |
                                          長野の一塾教師さんへ。
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                                            心温まるコメントをいただきありがとうございます。とても嬉しいです。ご夫婦で塾をなさっているとかで、色々なご苦労をお二人で分け合うことができていいですね。返信しようと思ってコメントを書き始めたのですが、長くなりそうなので、コメント欄ではなくブログを借りて返信することにしました。

                                             

                                             

                                            長野は何度か訪れたことがあります。安曇野の風景はどこか懐かしい心のふるさとのようで、妻といつかこんなところで暮らしてみたいねと話したものです。いわさきちひろ美術館や碌山美術館では旅の疲れを癒しました。2年前、教え子が東京の大手出版社を辞めて、ご主人と上田市に居を構えました。いつか遊びに行くと約束したままになっています。14年間乗り続けている車を廃車にする前に、是非再訪したいと思っています。

                                             

                                             

                                             

                                            ところで、世の中は長野の一塾教師さんのような方ばかりではありません。「お前のブログは負け犬の遠吠えに過ぎない。九州のド田舎の塾教師がエラそうにほざいているだけだ。お前の言っていることは、上から目線の自己正当化なんだよ!読んでいてヘドが出る。」というコメントも頂戴しています。

                                             

                                             

                                             

                                            この種のコメントに対しては反論のしようがありません。やむを得ず削除しています。それにしてもこういったコメントを寄せる人は、人生の勝ち負けを決める客観的な基準があると信じているのでしょうね。今回はそれについて考えてみましょう。

                                             

                                             

                                            「勝ち組」になるための基準。

                                             

                                             

                                            1:金、金、金、金、金です。人生でどれくらい稼いだかが勝ち組になるための客観的な基準です。国民の資産を株式市場に投入し、官製相場を維持し、外国人投資家に買ってもらって釣り上げた株で儲けた金です。国民の税金をロンダリングするために規制緩和を叫び、岩盤に加計孝太郎氏だけが通れる小さな穴を開け、自治体から金を巻上げ、それを「合法的に」懐に入れた金です。

                                             

                                             

                                             

                                            2:高学歴であること。特に東大以外の大学の出身者は勝ち組にはなれません。東大を卒業し、財務省や経産省の官僚になり、政治家を慇懃無礼な手法で操り、自分たちの思い通りの法案を通して権力欲を満足させる地位につくこと。その象徴が国税庁長官に出世した佐川宣寿氏です。東大を中退して小金を稼いだり、「東大ネタ」でテレビに出てギャラを稼いだりしているタレントたちは、勝ち組には入れません。彼らは勝ち組の王道をはずれた芸人に過ぎないと評価されています。

                                             

                                             

                                             

                                            3:総理大臣と食事ができること。権力に取り入り、権力に利用されていることに気づくどころか庇護されていると思いこめる鈍感さを持っていること。要するにその程度のことで自尊心を満足させることのできるクズであること。最近はお笑い芸人のなかに多い。

                                             

                                             

                                             

                                            4:政権を批判しないこと。コメンテーター、学者、ジャーナリスト、出版人、放送人として、総理のお友だちになり、前川喜平氏や山尾しおり氏、山口敬之にレイプされた伊藤詩織氏の人格攻撃を飽くことなく続けること。しかしこれは勝ち組になる資格などではなく、人間として負け犬になることを意味します。権力が弱体化すれば、手のひらを返されるのは明らかです。安倍総理が失脚すればお払い箱になります。なぜなら権力とは「立場」と「都合」によって成り立っている砂上の楼閣に過ぎないのですから。

                                             

                                             

                                             

                                            5:財界のトップに立ち、武器の製造ばかりか輸出に手を染め、使用済み核燃料の処分場も決まらないまま原発を再稼働させる権力をもっていること。またはその集団に連なること。さらに、自然を破壊し、地下水を枯渇させ、膨大な電力を消費するリニア中央新幹線の工事発注に絡んで談合すること。国民の暮らしや地域住民の命を無視しても良心が痛まない人格であること。

                                             

                                             

                                             

                                            以上見てきたように、人間を単純に勝ち組・負け組に分ける発想そのものが貧困で無神経なのです。いったんこの種の基準を内面化した人間は、「幸福とは何か」について深く考えることができません。彼らは自分の納めた税金が社会的弱者に回されることに腹を立て、生活保護費の支給基準を切り下げることを要求しています。

                                             

                                             

                                             

                                            それにしても安倍政権が誕生して以来、独裁主義に順応する生き方を勝ち組の生き方だと錯覚する人間が増えてきました。これは間違いなく日本という国の末期症状です。

                                             

                                             

                                             

                                            おやおや、長野の一塾教師さんへの返信がとんでもないところへ脱線してしまいました。最後に、子供たちや保護者の皆さんに心がけてもらいたいことを述べます。

                                             

                                             

                                             

                                            それは、社会のなるべく正確な見取り図を持つことです。自己利益を最大化するための見取り図ではなく、社会全体をよくするための見取り図です。海図がなければ安心して航海に乗り出すこともできません。正確な海図があってはじめて困難に備えることもできるし、目的地も分かります。

                                             

                                             

                                             

                                            目の前の受験勉強に集中するあまり、結果として現実から遠ざけられていること、それでは能力を十分に発揮できないということに気づいてほしいのです。塾教師の仕事は、一歩間違えば、子供たちをゲームとしての受験勉強(『東大ナゾトレ』などで出版社も協力しています)の中にいつまでも囲い込むことになります。

                                             

                                             

                                             

                                            社会構造のラディカルな変化とともに、大学入試も大きく変わろうとしています。今や子供たちをいつまでも柵の中に押し込めている時代ではありません。たかが一介の塾教師ですが、私は子供たち自身の力で柵の存在に気づいてもらいたいと願って指導しています。自ら問いを発し、それをどこまでも追求していけば、必ず柵の存在に気づくはずです。聡明な保護者の皆さんもきっと同じ考えだと思います。

                                             

                                             

                                             

                                            そのためには、私自身が「遠投力」を鍛えねばなりません。たまには思いっきり遠くに投げたボールを子供たちに取りに行かせたいですね。数メートルの距離でキャッチボールばかりしていては、子供の能力を伸ばすことはできませんから。

                                             

                                             

                                             

                                            長野の一塾教師さんから頂いたコメントに勇気づけられて、ついつい偉そうに書いてしまいました。どうかお元気で頑張ってください。ありがとうございました。

                                             

                                             

                                            | 塾・学力 | 16:06 | comments(2) | - |
                                            この問題が解ければ上野丘高校に合格できます!
                                            0

                                              以下がその問題です。新潟県の公立高校の問題ですが、決して難問というわけではありません。

                                               

                                               

                                               

                                               

                                              今回のタイトルは、集客力がすべての(つまり資本力にモノを言わせる)塾のキャッチコピーのようで恥ずかしいのですが、せっかくの中身も読んでもらえなければ意味がないので、このタイトルにしました。

                                               

                                               

                                               

                                              過去、この問題が解けた生徒で上高に不合格になった生徒はいません。もちろん他教科との兼ね合いもありますし、内申点もありますから、この問題が解けたからといって、100%合格できるわけではありません。

                                               

                                               

                                               

                                              私は生徒の志望校合格可能性を判断する時、模試の点もさることながら、どの問題が解けたかという細かいデータを頭に入れています。Aの問題が解ければ○○高校合格、Bの問題が解ければ○○高校は大丈夫、しかしCの問題が解けなければ○○高校は危ないという風に。これは長く塾を続けてきたおかげで蓄積されたいわば「自家製のデータ」です。

                                               

                                               

                                               

                                              ところで冬期講習会の少し前から、私がこれまで良問だと思った問題を絞りに絞って『高校入試数学究極の30問』と題するプリントを作り、それを解いてもらっています。これに「じっくり」取り組めば、満点が狙えるはずです。たぶん。上の問題はその第1問です。

                                               

                                               

                                               

                                              『高校入試数学究極の30問』の中には図形の面積や線分の長さを求めるものが10問ほどあります。クイズのようで、解いている間に力がつく問題です。集中力と発想力が必要とされますが、解説を聞いても分からないようなアクロバティックな数学的センスは必要ありません。

                                               

                                               

                                               

                                              (1)の問題は絶対に解けなければなりません。

                                              (2)については、短いヒントを出します。以下は生徒とのやり取りです。

                                               

                                               

                                               

                                              「(2)の問題は線分の長さを求めるものですが、これまで習った線分の長さの求め方はどんなものがありますか」

                                               

                                              「相似比と平行線と線分の比、あと三平方の定理」

                                               

                                              「ではこの問題でそれが使えますか?相似の三角形もないし、直角三角形もありません。つまり、それ以外の方法を考えないとね。普通この問題を見た時、情報量が少ないのでどこから手をつけていいかわからないはずです。そんなときどうしますか?」

                                               

                                              「・・・・・・・」

                                               

                                              「とにかく、15分間はあれこれ考えてみて下さい。あれこれ考えると言いましたが、その中身がイメージできていますか?一本の補助線を引くことで問題を全く違う角度から考えることもできます。」

                                               

                                              「えっ、補助線を引くんですか?」

                                               

                                              「この問題で補助線を引かずに、次の段階に進めると思っているの?」

                                               

                                              「どこに補助線を引くんですか?」

                                               

                                              「どこにでも、君の好きなところに。なんならボールペンで君のおでこに引いてもいいよ。冗談だけど。」とまあ、こんなやりとりが続いた後、生徒は集中します。

                                               

                                               

                                               

                                              もちろん制限時間が経過した後、詳しい解説をします。解説しながら生徒の顔を見ると、思考が深まっているのが手にとるように分かります。一人一人の名前を呼び、理解できたか確認します。決して先を急ぎません。一日で何問やったかなどということは、瑣末なことです。

                                               

                                               

                                               

                                              ところで、前回のブログで私は次のように書きました。

                                               

                                               

                                               

                                              「知識は個性や思考と連動し、さまざまな局面で独自の動きをしているのです。一度インプットされた知識は解体され再構成されて、それを使う人間と一体化します。それを知識の質といいます。 

                                              野球で言えば、ピッチャーの球質が体重移動や指の長さやリリースポイントや天候やその日の体調によって左右されるのと同じなのです。一流のピッチャーはこれらすべての条件を頭に入れ、ピッチングを組み立てています。速い球を投げるだけでは、簡単に打ち崩されてしまいます。」と。

                                               

                                               

                                               

                                              私がここで書いたことは、数学だけではなく、およそ人間の知識や思考にまつわる問題ではジャンルを問わず当てはまると確信しています。なぜなら今朝の朝日新聞の文化文芸欄で作家の村上春樹氏が翻訳について全く同じことを言っていたからです。私は驚くというか、本質的な発想の類似性に絶句してしまいました。

                                               

                                               

                                               

                                              以下は村上氏がレイモンド・チャンドラーの長編7作を完訳したことを受けてインタビューに応じたものです。

                                              ちなみにチャンドラーは私の大好きな作家で、塾の生徒にも『ロング・グッドバイ』を紹介したことがあります。彼が生み出したハードボイルド小説の探偵フィリップ・マーロウの次のセリフは有名です。

                                               

                                               

                                               

                                              「タフじゃなくては生きていけない。やさしくなくては、生きている資格はない。」原文は「If I wasn't hard, I wouldn't be alive. If I couldn't ever be gentle, I wouldn't deserve to be alive.」です。元京都大学原子炉実験所の小出裕章氏が講演でこの言葉が好きだといった時、私は必死で涙をこらえたのを覚えています。

                                               

                                               

                                               

                                              村上氏の記事に戻ります。

                                               

                                              引用開始

                                               

                                              翻訳とは原典を「ばらばらにしてもう一度組み立て直す」作業だと村上さんは言う。

                                               

                                               「チャンドラーは、解体して再構築するには絶好のモデルなんです。チャンドラーのようなミステリーを書こうとしても、それはむずかしい。小説は、どう解体するかというところにかかってるんです。そこから何かを学ぶとしたらね」

                                               

                                               同じような「解体と再構築」をしている書き手として、村上さんは今年のノーベル文学賞を受けたカズオ・イシグロさんの名を挙げた。

                                               

                                               

                                               「SFをやったり昔のイギリスの執事ものをやったり、書くたびにある種の小説のスタイルを再構築している。彼もチャンドラーが大好きなんです。何度か会って話してるけど、チャンドラーの話になると生き生きしてくる」

                                               

                                               村上さんの小説は現実と非現実の世界を行き来するようなものが多いのに、翻訳ではリアリズムの作品を多く手がけるのは、なぜなのか。

                                               

                                               

                                              「非リアリズムのものを書こうと思っても、きちんとしたリアリズムの文章が書けないと、それはできないんです」

                                               

                                               「僕は自分の文体を強くしなくちゃいけないと思って『ノルウェイの森』をリアリズムで書いて、そこからずいぶん楽になった。だから翻訳でもリアリズムのものをやって文体を磨き上げたい、文体を引き締める訓練をしたいという気持ちがある」

                                               

                                               村上さんは小説でも翻訳でも、原稿に繰り返し手を入れるという。

                                               

                                               

                                              「たいそうな言い方になるかもしれないけど、生きた文章を書くには潜在意識で洗い直す作業が必要なんです。ある程度の時間をおいて無意識のなかを何度も通さないと、文章が立ち上がってこない、本当に

                                               

                                               「文章の力は、評価するのがすごく難しい」と村上さん。

                                               

                                               

                                              「家庭風呂と温泉のお湯との違いを表現するのが難しいのと同じです。温泉のお湯の持つ力を出すためには、時間をかけて、潜在意識を何度もくぐらせることがすごく大事になってくる。小説でも翻訳でも、それはまったく同じです」

                                               

                                               

                                              引用終わり

                                               

                                               

                                              アンダーラインの部分をよくお読み下さい。一部語句を入れ替えて書いてみます。

                                               

                                              「たいそうな言い方になるかもしれないけど、問題を解決する糸口を見つけるには潜在意識で洗い直す作業が必要なんです。ある程度の時間をおいて無意識のなかを何度も通さないと、アイデアが立ち上がってこない、本当に」

                                              「無意識のなかを動いている思考の力は、評価するのがすごく難しい」

                                               

                                              | 中高生の皆さんへ | 18:11 | comments(1) | - |
                                              「画竜点睛を欠く(がりょうてんせいをかく)」
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                                                冬期講習会が迫ってきました。昨日も附属中学に通っている子供をもつお母さんから冬期講習に参加したい旨のお問い合わせをいただきました。今月に入って4人目です。皆さんすでに塾に行っています。かけもちで私の塾にも来たいとのことでした。

                                                 

                                                 

                                                 

                                                中学3年生の入塾は夏休みの講習会が最後で、それ以降は空席があってもお断りしている旨を説明しました。せっかくお問い合わせいただいたのにお断りするのは心苦しいのですが、今通っている塾での学習の質を高めるようにアドバイスしました。

                                                 

                                                 

                                                 

                                                講習会の直前まで生徒を募集している塾もあるようですが、これまでの経験から、未来塾ではお断りすることにしています。理由は今来ている生徒さんを大事にするということはもちろんですが、直前になって塾を掛け持ちすれば不合格になる可能性が高くなるのです。

                                                 

                                                 

                                                 

                                                私の塾でも過去2名ほど直前になってかけ持ちをしたいという生徒がいました。不安なのでしょうね。もちろん選択は自由です。しかし、結果は2名とも舞鶴高校に不合格でした。「この調子でいけば確実に合格するよ」という私の言葉を信じることができなかったのです。

                                                 

                                                 

                                                 

                                                人より少しでも多くの時間とお金をかけ、塾をかけ持ちすれば受験に有利になると考えているのでしょうが、人間はそれほど単純な生き物ではありません。つねに有利か不利か、受験に役立つかどうかで物事を考えている人は、知識や情報を量で測ろうとします。お金をためるのと同じ感覚でとらえているのですね。必要最小限の投資で最大の利益を上げることを目指す、コスパ至上主義に毒されているのです。

                                                 

                                                 

                                                 

                                                最近の入試では、知識を単純に問うだけではなく(そうは言っても受験では8割が知識を問う問題です)知識相互の関連やそこから予想される結果を問う問題も増えています。つまり、知識は個性や思考と連動し、さまざまな局面で独自の動きをしているのです。一度インプットされた知識は解体され再構成されて、それを使う人間と一体化します。それを知識の質といいます。

                                                 

                                                 

                                                 

                                                野球で言えば、ピッチャーの球質が体重移動や指の長さやリリースポイントや天候やその日の体調によって左右されるのと同じなのです。一流のピッチャーはこれらすべての条件を頭に入れ、ピッチングを組み立てています。速い球を投げるだけでは、簡単に打ち崩されてしまいます。

                                                 

                                                 

                                                 

                                                この最も肝心なことが分からず、言っても聞く耳をもたない生徒には退塾を勧告することにしています。前述の2人にも退塾を勧告しました。知識の習得が単純なブロックの積み上げ作業のようなものだと信じていれば、学ぶことは楽しくないでしょうね。

                                                 

                                                 

                                                 

                                                ところで皆さんは「画竜点睛を欠く(がりょうてんせいをかく)」という言葉をご存知ですか。数年前までは、塾の生徒でこの言葉を知らない人はいませんでした。ところがいまの中学3年生は、知らない人の方が多いのではないでしょうか。言葉を知らなければ認識の幅も狭まります。つまり思考し行動する幅が狭くなるのです。

                                                 

                                                 

                                                 

                                                「画竜」は竜の絵を描くこと、「睛」は瞳のことで(「晴」ではありませんよ)「点睛」は瞳を点ずる、描き込むということです。中国の梁の時代、張僧ヨウという絵師が竜の絵を描き、最後に瞳を入れたところ竜が天に昇ったという故事から、「画竜点睛」は大事な仕上げをするという意味です。「画竜点睛を欠く」とは、その仕上げを欠いてしまうことです。

                                                 

                                                 

                                                 

                                                 

                                                やさしく言えば「物事をりっぱに完成させるための、最後の仕上げを忘れること。また、全体を引き立たせる最も肝心なところが抜けていること。」を意味します。

                                                 

                                                 

                                                 

                                                おそらくどこの塾でも、先生が良心的で生徒のことを考えていれば「画竜点睛を欠く」ことがないように、最後の仕上げに全力を傾けるはずです。もちろん私もそうするつもりです。冬期講習の期間はそのためにあります。

                                                 

                                                 

                                                 

                                                墨の濃淡に工夫を凝らし、躍動感や迫力が出るように試行錯誤してきて、肝心な竜の瞳を描き込むことをしなければ、竜が天に昇ることもないでしょうから。

                                                 

                                                | 中高生の皆さんへ | 15:20 | comments(0) | - |
                                                主権のない国で主権者を育てることはできるのか?
                                                0

                                                  そもそも主権のない国で「主権者」を育てることは可能でしょうか。「何を言ってるんだ、日本が主権国家なのは当たり前だ」と考えている人たちのことはこの際置いておきます。

                                                   

                                                   

                                                   

                                                  彼らは、猿回しのサルにも主体性があると主張しているのですから。テレビをはじめとするメディアに登場し、投げ銭をもらい、拍手喝采されれば自分の芸もまんざらではないと胸を張り、後ろにいる「ご主人様」の存在をしばし忘れるのです。

                                                   

                                                   

                                                   

                                                  今回は、戦後日本が実質的に主権を持ったことはなく、今でもその状態(occupied Japan)が続いていることを歴史的事実としてはっきり認識している人たちに語りかけたいと思います。つまり、最低限の認識を共有するために『知ってはいけない − 隠された日本支配の構造』 (講談社現代新書)くらいは読んでいる人たちだということです。

                                                   

                                                   

                                                   

                                                  いや、これは偉そうな言い方ですね。言い方を変えましょう。日本が独立国ならなぜ沖縄に米軍基地があるのか、福島で収束不可能な原発事故があり、日本列島そのものが巨大な活断層であるにもかかわらず、なぜ原発を廃炉にする決断ができないのかという素朴な疑問を持っている人たちです。

                                                   

                                                   

                                                   

                                                  ところで、18歳から選挙権が与えられるようになって、高校の教育現場では「主権者教育」がされていると聞いています。「政治的中立性」という欺瞞言語に騙されることなく、高校生たちに今この国で主権者であることが何を意味するのか、具体的に教えることなどできるのでしょうか。せいぜいのところ、選挙に行きましょうという説教じみた抽象的な訓示に終わるのではないでしょうか。

                                                   

                                                   

                                                   

                                                  「今この国で主権者であることが何を意味するのか」と言いましたが、その答えを知るには、主権者として行動している人の例を取り上げ、その主張を聞かなければなりません。

                                                   

                                                   

                                                   

                                                  なぜなら、主権者であるということは、自分の人生を生きるために欠くことのできない本質的な条件だからです。それは「寄らば大樹の陰」「お上の言うことに逆らってはならない」といった考え方・生き方から自由になることを意味します。

                                                   

                                                   

                                                   

                                                  もちろん自由には危険が伴います。それでも、12月11日のブログに書いたように「大樹」はもはやどこにも見当たりません。「お上」は歴史上かってないほど腐敗を極めています。したがって主権者として自分の人生を生きるためには、ある程度の危険は覚悟しなければならないのです。

                                                   

                                                   

                                                   

                                                  日本国内はもとより、世界には主権者であることがどういう行動に結びつくのか、それを実証する例であふれています。日本にも山本太郎という政治家がいます。彼は12月9日に閉会した特別国会に、日米合同委員会に関する質問主意書を提出し、日本に主権があるのかと問いただしました。この件についてはまた後日取り上げることにします。

                                                   

                                                   

                                                   

                                                  今回は二つの事例だけを取り上げます。

                                                   

                                                  その1:

                                                   

                                                  ドイツ最大の航空会社ルフトハンザのパイロットたちが難民申請を拒否された人たちを強制送還することを拒み、222ものフライトがキャンセルになった。送還対象者の多くはISやタリバンを逃れてきたアフガニスタン人。情勢不安定な地域に人間を追い返すことは、アムネスティ・インターナショナルによると国際法違反。多くが同国最大のフランクフルト空港で行われた。

                                                   

                                                   

                                                   

                                                  ルフトハンザの広報担当者は、「乗客を搭乗させないという最終的な判断は、パイロットにより個別になされた。」と話している。その判断の基準は「安全な飛行が確保されない可能性」があるかどうか。しかし実際は、多くの搭乗拒否が、パイロットによる強制送還を食い止めようとする試みだったとみられている。

                                                   

                                                   

                                                   

                                                  彼らは政府の方針に異を唱えて、自分の良心に従ったのです。つまり主権者教育がしっかりできている国では、たとえ政府の方針であろうと間違っていると判断した時には異を唱え、良心に従った行動が許されるのです。同じ状況に直面したとき、日本の大手航空会社 JALやANAのパイロットに同じことができるでしょうか。ルフトハンザのパイロットたちの行動は主権者教育の格好の事例になるはずです。

                                                   

                                                   

                                                   

                                                  その2:

                                                   

                                                  10日オスロで行われた核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)へのノーベル平和賞授賞式で被爆者サーロー節子さんが行った演説こそ、主権者であることを高らかに謳いあげたものです。中身は日本国憲法前文の精神そのものです。

                                                   

                                                   

                                                   

                                                  高校生たちが勉強させられている、「政治的中立性」というフィルターを通した中身のないスカスカの英文に比べれば、力強い、素晴らしい英語でのスピーチでした。

                                                   

                                                   

                                                   

                                                  一部を抜粋します。

                                                   

                                                   

                                                  「きょう、この会場で皆さまには、広島と長崎で死を遂げた全ての人々の存在を感じてほしいと思います。雲霞(うんか)のような二十数万の魂を身の回りに感じていただきたいのです。一人一人に名前があったのです。誰かから愛されていたのです。彼らの死は、無駄ではなかったと確認しましょう。」

                                                   

                                                   

                                                   

                                                  「広島と長崎(への原爆投下)を残虐行為、戦争犯罪と見なすことをなお拒絶する人たちもいたのです。「正義の戦争」を終わらせた「良い爆弾」だったとするプロパガンダを受け入れたわけです。こうした作り話が破滅的な核軍拡競争をもたらしました。今日に至るまで核軍拡競争は続いています。」

                                                   

                                                   

                                                   

                                                   「今も九つの国が都市を灰にし、地球上の生命を破壊し、私たちの美しい世界を未来の世代が住めないようにすると脅しています。核兵器の開発は、国家が偉大さの高みに上ることを意味しません。むしろ、この上なく暗い邪悪の深みに転落することを意味するのです。こうした兵器は必要悪ではありません。絶対悪なのです。」

                                                   

                                                   

                                                   

                                                  「責任ある指導者であれば、必ずやこの条約に署名するに違いありません。署名を拒否すれば歴史の厳しい審判を受けることになるでしょう。彼らのふるまいは大量虐殺につながるのだという現実を抽象的な理論が覆い隠すことはもはやありません。」

                                                   

                                                   

                                                   

                                                   「核武装した国々の当局者と、いわゆる「核の傘」の下にいる共犯者たちに言います。私たちの証言を聞きなさい。私たちの警告を心に刻みなさい。そして、自らの行為の重みを知りなさい。あなたたちはそれぞれ、人類を危険にさらす暴力の体系を構成する不可欠な要素となっているのです。私たちは悪の陳腐さを警戒しましょう。世界のあらゆる国の、全ての大統領と首相に懇願します。この条約に参加してください。核による滅亡の脅威を永久になくしてください。」

                                                   

                                                   

                                                  このスピーチをNHKは中継しませんでした。「公共放送」「皆様のNHK」が聞いてあきれます。その理由は日本政府が核兵器禁止条約に反対している事と無関係ではないはずです。

                                                   

                                                   

                                                   

                                                  安倍首相はノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロ氏にはすぐに祝意を伝えましたが、サーロー節子さんに対しては完全無視を決め込んでいます。安倍首相がカズオ・イシグロの文学を理解しているとは到底思えません。彼の作品を読んでいないばかりか名前すら知らなかったでしょう。

                                                   

                                                   

                                                   

                                                  なぜなら、文学は死者の声を、あるいは声を発することすらできずに死んでいった人間の魂の叫びを、メタファーの力によって多くの人々と共有する試みだからです。つまり、安倍首相のメンタリティーから最もかけ離れたものです。日本国憲法を「みっともない」と言っている安倍首相のことです、サーロー節子さんのスピーチを「みっともない」と感じていたに違いありません。

                                                   

                                                  | 政治 | 16:42 | comments(0) | - |
                                                  終わりの始まりならいいのだけれど・・・
                                                  0

                                                    広島高裁が伊方原発の運転を禁止する仮処分の決定を下しましたが、「いかった〜」などと下らないギャグを飛ばして喜ぶ気にはなりません。なぜなら「仮処分は証拠調べの手続きに制約がある」として、停止期間を来年9月末までに限定し、地震想定の甘さや、重大事故対策が不十分といった住民側の主張を認めず、火山対策以外は規制委の判断を「合理的」としたからです。

                                                     

                                                     

                                                     

                                                    火砕流の影響を云々するのであれば、中央構造線が引き起こす地震や南海トラフ地震による伊方原発崩壊の可能性の方をより重視してもらいたかったですね。阿蘇山が巨大噴火を起こして火砕流が伊方原発に届くのであれば、九州はほぼ全滅しているからです。その影響は数年で日本を破滅に導き、運が良ければ、日本人は北海道の一部だけで生き延びているという悲劇的な結末をもたらすかもしれません。

                                                     

                                                     

                                                     

                                                    それと、住民避難の問題を深刻に受け止めてもらいたかったですね。住民を安全に避難させることができなければ原発を動かすことはできないという5層の防御(defense in depth)の考え方を、司法判断の大前提にしなければなりません。まずこの点をクリアしている原発についてのみ安全性を審査すべきです。

                                                     

                                                     

                                                     

                                                    しかし、司法が住民避難の問題に踏み込めば、政府と電力会社が交付金と引き換えに周辺住民の命を買い上げているという事実が明るみに出るので、このまま棄民政策を続けるしかないのです。

                                                     

                                                     

                                                     

                                                    それに何より、過酷事故を恐れて、電力会社は原発を海岸沿いの絶海の孤島のような場所に建設しているので、住民を安全に避難させることなどできません。政府も避難計画は自治体に丸投げしています。原発の安全審査に住民避難を絡めたとき、稼働できる原発は日本には一基もありません。ようするに、政府には国民の命を守る気などさらさらないのです。

                                                     

                                                     

                                                     

                                                    それはともかく、今回の決定で少しホッとしています。以前、RECOMMEND 欄でも紹介しましたが、原発が止まっているこの機会にぜひ以下の2冊の本をお読みください。石黒耀の『死都日本』と元国会事故調委員長の黒川清氏が書いた『規制の虜』です。

                                                     

                                                     

                                                     

                                                     

                                                     

                                                    | 原発 | 10:06 | comments(0) | - |
                                                    少し涙が出ました。
                                                    0

                                                      私は伊方原発差し止め裁判の原告の一人です。今うれしいニュースが飛び込んできました。広島高裁(野々上友之裁判長)が13日午後、伊方原発の運転差し止めを命じる決定を出しました。高裁レベルでは初めてのことです。感激して少し涙が出てきました。

                                                       

                                                       

                                                       

                                                      伊方原発は瀬戸内海を挟んで広島市から約100キロの距離にあります。それでも3号機の差し止めの決定が出たのです。決定は直ちに効力が生じるため、四国電は来年1月に定期検査が終了しても、司法判断が覆らない限り運転を再開できません。大分地裁もこれに続いてくれるといいのですが。

                                                       

                                                       

                                                       

                                                      何よりも次なる巨大地震が迫っているときに、この勇気ある決定が出たことを、子供たちのために、その子供たちの子供たちのために喜びたいと思います。

                                                       

                                                       

                                                       

                                                      大分地裁の裁判長が、すでに提出した私の意見陳述書を読んでくれているといいのですが。

                                                       

                                                      『大分地裁裁判長への意見陳述書』

                                                      http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=426

                                                       

                                                      | 原発 | 14:45 | comments(0) | - |
                                                      冬期講習会直前の時期になりました。
                                                      0

                                                        以下の問題は、集中力を持続させるために中3生に解かせた数学の問題です。8人中4人しかできませんでした。全体像を理解し、この方法で解くしかないと決断し、手順を間違えないようにする力が、すなわち自分を信じる力がまだまだ不足しています。

                                                         

                                                         

                                                         

                                                         

                                                        ところで、毎年この時期になると、受験生は浮足立ってきます。勉強が上滑りになり、じっくり落ち着いて問題に取り組むことができなくなるのですね。受験がリアルな問題として前景化してくると、誰だれはどこの冬期講習会に行っている、などといった情報が飛び交い、ますます落ち着かなくなってきます。無理もありません。日頃から閉ざされた教室の中で他人のことばかり気にして生活しているのですから。

                                                         

                                                         

                                                         

                                                        自己宣伝ではありませんが、これまで高校受験での当塾の塾生の合格率は98〜99%です。140人近くが上野丘・舞鶴に合格していますが、毎年5〜6人が合格し続けた結果、集計すればそうなったというだけのことです。地元に密着して30年以上も塾をやっているためか、口コミで地域の優秀な生徒さんが集まってくれるようになったのです。

                                                         

                                                         

                                                         

                                                        「驚異的な合格率!」などと宣伝するつもりは全くありません。それを自分で言える神経が私にはわかりません。いや、わかりすぎるほどわかっているのです。しかし、金もうけがしたいだけの単なるバカになることがどうしてもできないのです。

                                                         

                                                         

                                                         

                                                        「そういった発想自体が時代遅れなんだよ!宣伝しないでどうして商品を売るんだ?」と批判されるかもしれませんが、「商品」を売っているという意識が私にはないのです。知性を身につけ、矛盾と欺瞞に満ちた社会を他人や組織に操られることなく、何とか生き延びて幸せになってもらいたいという思いで生徒に勉強を教えているのですが、それが「商品を売る」ことだとはどうしても思えないのです。生徒や親御さんを「お客さん」だとも思いません。「買い物以外に、この世の中で大事なことはない」と思い込まされている「お客さん」を相手に、いったいどうやって勉強を教えることができるでしょう。

                                                         

                                                         

                                                         

                                                        それどころか「集客」にはかえってマイナスになる内容のブログをこうして書いています。それで、生徒や親御さんとの教育方針のミスマッチを防ごうとしているのです。ある意味「驚異的な合格率!」なる宣伝文句につられて入塾してきそうな「お客さん」にはご遠慮いただいているとも言えます。

                                                         

                                                         

                                                         

                                                        どこかの塾長のように、第三者になりすまして自塾を宣伝し、一橋大学出身という学歴をニセの管理人に「足元にも及ばない」と言わせて「集客」することなど思いつきもしません。ネット社会とは表の顔と裏の顔の隔たりが大きい社会のことです。「なりすまし」は当たり前だと思っていた方がいいのです。

                                                         

                                                         

                                                         

                                                        ところで、最近は部活の疲労のためか、授業中に居眠りする生徒が増えてきました。そんな時、私は次のように言います。

                                                         

                                                         

                                                         

                                                        「部活をした後、あわてて夕食をとり、塾に来れば眠たくなるのは当然だね。眠るなとは言わない。それでなくとも君たちの年頃は眠たい盛りだからね。時々、瞬間的に意識が遠のいている人もいる。でもこれだけは覚えておいて下さい。君たちのお父さんやお母さんが一生懸命働いて月謝を納めているわけです。その上、車で送り迎えもしてもらっている。だから塾に来ている時間くらいは、なんとか我慢しなさい。それが君たちの義務です。僕が一番残念なのは、せっかく塾に来ているにもかかわらず、塾を生かし切れていない人がいることです。頻繁に居眠りをしている人から月謝をもらうわけにはいきません。僕のそういう気持ちが限界に達した時には、退塾を言い渡すので、恨まないように。」と。

                                                         

                                                         

                                                         

                                                        それにしても、冬「休み」になって学校から解放されたと思う間もなく、塾の冬期講習会で教室の中に何時間も閉じ込められれば、発想のみならず身体も委縮してしまいます。たかが高校入試なのに、それがとてつもなく大きな壁に見えて来て、神経質になればなるほど、解ける問題も解けなくなります。

                                                         

                                                         

                                                         

                                                        高校入試の時も大学受験の時も、私は子供には普通に家の手伝いをさせていました。「人並みに受験生扱いしてもらいたい」と子供が言った時には「何が受験生だ。甘えるんじゃない!」と叱ったものです。やたら子供のことを心配して情報集めに奔走する今のお母さんからは理解されないでしょうね。それどころか、離婚されるかもしれません。おお〜こわい。

                                                         

                                                        | 中高生の皆さんへ | 13:55 | comments(0) | - |
                                                        後は野となれ山となれ
                                                        0

                                                          今回は忘れないようにブログに書き留めておきたいことがあります。12月7日、私が大分駅前で伊方原発の差し止めを訴えるビラを配り、大分地裁で裁判を傍聴していたまさにそのとき、経団連の榊原定征会長は、四国電力の伊方原発(愛媛県伊方町)を視察していました。佐伯勇人社長から再稼働した3号機の運転状況や安全対策の説明を受けた後、記者団に次のように語りました。

                                                           

                                                           

                                                           

                                                           

                                                          「原発は重要な電源としてこれからも使用していく。将来は増設や新設も選択肢にしないといけない」「(四国電力は)福島の原発事故を教訓に万全の対応をとっているようだ。しっかり安全を確保してほしい」と。(朝日新聞デジタル)

                                                           

                                                           

                                                          世界の潮流を全く無視した、こうした経済界トップの時代錯誤の発言を見ていると、日本経済が中国に大きく後れをとるどころか、もはや挽回不可能だと改めて思わざるをえません。

                                                           

                                                           

                                                           

                                                          中国は福島の事故を分析し安全性確保に限界を感じ、更に原発のコストは海上、風力発電より高く経済的な面からも競争には勝てないとして原発を捨て、クリーンエネルギーに切り替えたのです。

                                                           

                                                           

                                                           

                                                          皆さんは2012年、福島第一原発の事故後わずか1年しかたっていない時点で、日本の財界が大飯原発を再稼働させるために使ったロジックを覚えているでしょうか。彼らはこう言いました。

                                                           

                                                           

                                                           

                                                          「原発を再稼働しなければ電力コストが上昇して、日本企業の国際競争力は低下する。だから、再稼働しないのであれば、われわれは日本を捨てて製造拠点を海外に移す。そうすれば国内の雇用は消失し、地域経済は壊滅し、法人税収は失われるがそれでもいいのか。」と。「それで日本経済がどれほどのダメージを受けても、それは原発再稼働を渋った政府と日本国民の責任であり、われわれは関知しない。」と。

                                                           

                                                           

                                                           

                                                          これは明白な恫喝であり究極の自己責任論です。この恫喝に屈して、ヘタレの野田政権は原発再稼働を容認したのです。

                                                           

                                                           

                                                           

                                                          日本の財界のトップが金儲けの口実に使う「国際競争力の低下」は、原発の再稼働や新設・増設をしないことによってではなく、中国の脱原発への転換によって現実になるでしょう。そのときになって、脱原発へと舵を切れなかった自分たちのふがいなさ、勇気のなさ、不見識を嘆いたところで手遅れです。

                                                           

                                                           

                                                           

                                                          さらに忘れてならないのは、財界が使ったロジックは日本人の価値観を変えるほどの影響力を持っていたことです。それは、経済活動に倫理や道徳は不要だということを公に宣言するものだったのです。

                                                           

                                                           

                                                           

                                                          このとき日本人は「1円でもコストの安いところで操業するのが企業の常識である。創業している地域での雇用創出や経済波及効果を保証する義務は企業にはない」という新自由主義の価値観を受け入れたのです。経済評論家や学者たちは、それに異を唱える者を経済音痴だとバカにし、思考を放棄しました。それがやがて格差社会に根を張ったアベノミクスというあだ花を咲かせることになります。

                                                           

                                                           

                                                           

                                                          一方で、それは常軌を逸した時間外労働を社員に課す原因ともなりました。電通の高橋まつりさんが自殺したのも、こういった企業文化の下地があったからです。しかし、この事件が電通ではなく、名もない中小企業で起こっていたら、どうなっていただろうかと思わずにはいられません。

                                                           

                                                           

                                                           

                                                          日本の大企業とそのトップは、道を見失っています。以下はその証拠です。

                                                           

                                                           

                                                           

                                                          国内製造業では神戸製鋼所、日産自動車、三菱マテリアル、東レ(経団連会長のひざ元)とデータ改竄が続出しています。さらに、原発事業に手を出したばかりに、東芝はその結果生じた巨額損失を埋め合わせるため、屋台骨であった半導体メモリーの売却契約を結ばざるを得なくなりました。

                                                           

                                                           

                                                           

                                                          加えて、リニア中央新幹線関連工事を巡り、東京地検特捜部が偽計業務妨害容疑で大手ゼネコン「大林組」の強制捜査に着手したとのニュースも飛び込んできました。国の財政投融資も活用された総工費9兆円を超える事業での不祥事です。JR東海は無関係だとコメントを出しています。

                                                           

                                                           

                                                           

                                                          さてもう終わりにしましょう。ここまで見てきたように、原発再稼働を進める財界と政府の根底にある退廃した考え方をひとことで言うなら「後は野となれ山となれ」です。今の私にはこれ以上適切な言葉を思いつくことができません。

                                                           

                                                          | 原発 | 23:25 | comments(0) | - |
                                                          なくてはならないもの
                                                          0

                                                            土曜日の午前、初冬の朝の白い光の中で本を読んでいると、背後で突然何かが家にぶつかる音がしました。鈍い音ですが、家を揺るがすような衝撃です。

                                                             

                                                             

                                                            妻がびっくりして駆け寄ってきました。私が背にして座っている大きなFIXのガラス窓の外を見て、悲鳴を上げました。ガラス窓は縦2、5メートル、幅80センチの大きさです。それが6枚連なりR状となって中庭に面しています。

                                                             

                                                             

                                                             

                                                            妻が悲鳴を上げた瞬間、私は何が起こったのか理解しました。体長20センチはあろうかと思われるヒヨドリがガラス窓に衝突し、テラスの上に落ちていました。窓には産毛がこびりついています。

                                                             

                                                             

                                                            また一つ命を奪ってしまったと思い、自責の念がこみ上げてきました。またというのは、一年に一度くらいの頻度で鳥がわが家の窓にぶつかるからです。たまに山鳩もいますが、ほとんどが猛スピードで飛んでくるヒヨドリです。窓に映った樹木や空の色のために、障害物があることに気づかないのです。

                                                             

                                                             

                                                            ぶつかった直後のヒヨドリ。くちばしを開け、息も絶え絶えの様子です。

                                                             

                                                             

                                                             

                                                            衝突したヒヨドリが腹を上にしてひっくり返っているときは、首の骨を折って即死状態です。ところが今回のヒヨドリは、かろうじて両足を踏ん張り、ふるえながら立っています。

                                                             

                                                             

                                                            「脳しんとうを起こしているだけで、助かるかもしれないよ。」と言って妻を安心させ、テラスに出てみました。ヒヨドリは人の気配や音を察知した瞬間に逃げる敏感な鳥です。そのヒヨドリが、くちばしを開け、じっとしています。

                                                             

                                                             

                                                             

                                                             

                                                            近づくと向きを変えました。さすがにすずめ科の鳥です。すずめに似ていますね。でも大きさが違います。すずめの3倍はあります。飛ぶスピードは断然速く、いつもつがいで行動しています。「ピー」と鋭い甲高い声で鳴きます。フルーツが大好物で、いつも家のジューンベリーやブルーベリーの実を食べにやってきます。

                                                             

                                                             

                                                             

                                                             

                                                            スマホで写真を撮ろうと近づきました。逃げません。くちばしをかすかに動かしています。それから小一時間ほどじっとしていました。部屋に戻り見守っていると、首を左右に動かし始めました。これは意識が戻ってきた証拠です。「これは助かるな」と言って妻を呼びました。その瞬間、多少ふらついているようでしたが、中庭の大きなケヤキの枝に飛び移り、裏山の方へ飛び去っていきました。

                                                             

                                                             

                                                             

                                                            その時読んでいた本は、時々ブログで紹介する『長田弘全詩集』です。その中に「なくてはならないもの」という一編があります。

                                                             

                                                             

                                                            「なくてはならないもの」

                                                             

                                                            なくてはならないものの話をしよう。

                                                            なくてはならないものなんてない。

                                                            いつもずっと、そう思ってきた。

                                                            所有できるものはいつか失われる。

                                                            なくてはならないものは、けっして

                                                            所有することのできないものだけなのだと。

                                                            日々の悦びをつくるのは、所有ではない。

                                                            草。水。土。雨。日の光。猫。

                                                            石。蛙。ユリ。空の青さ。道の遠く。

                                                            何一つ、わたしのものはない。

                                                            空気の澄みきった日の、午後の静けさ。

                                                            川面の輝き。葉の繁り。樹影。

                                                            夕方の雲。鳥の影。夕星の瞬き。

                                                            特別のものなんてない。大切にしたい

                                                            (ありふれた)ものがあるだけだ。

                                                            素晴らしいものは、誰のものでもないものだ。

                                                            真夜中を過ぎて、昨日の続きの本を読む。

                                                            「風と砂塵のほかは、何も残らない」

                                                            砂漠の歴史の書には、そう記されている。

                                                            「すべて人の子はただ死ぬためにのみ

                                                            この世に生まれる。

                                                            人はこちらの扉から入って、

                                                            あちらの扉から出てゆく。

                                                            人の呼吸の数は運命によって数えられている」

                                                            この世に在ることは、切ないのだ。

                                                            そうであればこそ、戦争を求めるものは、

                                                            なによりも日々の穏やかさを恐れる。

                                                            平和とは(平凡きわまりない)一日のことだ。

                                                            本を閉じて、目を瞑る。

                                                            おやすみなさい。すると、

                                                            暗闇が音のない音楽のようにやってくる。

                                                             

                                                            ※「  」内はフェルドウスィー『王書』より。

                                                             

                                                            | 文学・哲学・思想 | 16:52 | comments(0) | - |
                                                            腐ったトップが居座り続けていたら、この国は滅ぶぜよ!
                                                            0

                                                              昨日は昼過ぎから大分駅前で1時間ほど伊方原発の差し止めを訴えるビラを配りました。「こんにちは。伊方原発を止めましょう。よかったら読んで下さい。」と声をかけます。声をかけた人の半分には無視されます。受けとってくれた人には「ありがとうございます。」と頭を下げます。

                                                               

                                                               

                                                               

                                                              高校生の多くは、まったくの無関心でスマホを見ながら通り過ぎるだけでした。でも、私の目を正面から見つめて「読んでみます!」と言ってくれた女子高生がいました。無視されて当然と思っているので、そういう若者に出会うと、砂漠の中でオアシスに出会ったような気になります。だから私は女子高生が好きです、なんちゃ・・・おっといけない、つい口癖になってしまいました。

                                                               

                                                               

                                                               

                                                              その後はいつものように大分地方裁判所で裁判の傍聴をしました。裁判所に通うようになってもう一年が過ぎたのかと、時の流れの早さにしばし感慨にふけりました。

                                                               

                                                               

                                                               

                                                              それにしても四国電力は何を守りたいのでしょうか。会社は黒字ですし、電気も足りているどころか余っています。電源三法、総括原価方式に守られて、さらなる利益を積み上げたいのでしょうね。原発立地にお金をばら撒き、被害想定区域を極端に狭め、住民避難はアリバイ程度にしか考えていません。以下の画像をご覧ください。

                                                               

                                                               

                                                              四国電力のクリーンエアドーム

                                                               

                                                               

                                                               

                                                              「四国電力」は今年の10月24日、伊方発電所の西側3カ所に、万が一の原発事故に備えてクリーンエアドームの配備を決定したと発表しました。クリーンエアドームは短時間で簡単に設営ができ、空気浄化ユニットが装備されているそうです。

                                                               

                                                               

                                                              報道によれば、セシウムやヨウ素の除去フィルターで、外気から放射性物質の99%以上を除去したクリーンな空気をドームに送ることができるとのことです。3カ所でドーム8基、収容人数の合計は約600人。でも東西に細長い佐田岬半島には原発より西側に約4700人が暮らしています。残りの4000人以上はどうなるのでしょうか。あきらめてもらうほかないということです。

                                                               

                                                               

                                                              いかにも住民のことを考えているようで、これは四国電力の単なるアリバイ作りです。実際に南海トラフ地震が起これば、設営などしている暇はないでしょう。設営場所になっている体育館自体が崩壊する可能性もあります。

                                                               

                                                               

                                                              伊方原発が過酷事故を起こせば、ウランとプルトニウムの混合物であるMOX燃料が熔融し、高濃度の放射性物質が風に乗って愛媛県、大分県をはじめとして瀬戸内海全域を汚染し、関西にまで至るのです。被害は福島原発の比ではありません。大げさではなく、確実に日本は終わります。

                                                               

                                                               

                                                              そもそも、佐田岬半島の住民4700人を避難させることなど不可能です。船で大分県へ避難する訓練をしていましたが、当の避難民が「現実的だとはとても思えない」と言っています。地震や津波によって陸路が寸断された場合にどうやって港まで行けと言うのでしょう。避難訓練はエアドームと同じく全くの茶番でしかありません。

                                                               

                                                               

                                                              それにしても、高濃度の放射性プルームが次々に襲ってくる中、エアドームの中に取り残された人々を、あるいは半島で孤立無援に陥っている人々をいったい誰が救助に向かうのでしょうか。自衛隊や地元の消防団、警察がその役を担わされるのでしょうか。しかし、それは福島のような平たんな地形で放射能汚染の被害を受けなかった場所での救助をイメージしたものです。地形も放射性物質の危険性も、伊方の方が何倍も上です。

                                                               

                                                               

                                                              こういったリスク(保険では補填できないので電力会社は保険に加入できません)を抱えているにもかかわらず、四国電力は伊方原発を稼働させています。電力会社のトップは、株主である銀行の利益とおこぼれにあずかることしか考えていません。

                                                               

                                                               

                                                              政府に対する「忖度」もあるでしょうが、政府を動かしているのは自分たちなので、官僚のセコイ「忖度」とは次元が違います。「忖度」というよりも、圧力に近いのです。それが証拠に、鹿児島の川内原発の再稼働に関しては、安倍首相は九州の財界人に対して「(再稼働は)何とかしますから」と約束までしました。

                                                               

                                                               

                                                               

                                                              要するに、財界のトップも政権のトップも人命よりも金儲けを優先しているのです。何という道徳的な退廃でしょう。坂本竜馬ではありませんが、「腐ったトップが居座り続けていたら、この国は滅ぶぜよ!」と叫びたくなります。

                                                               

                                                               

                                                              国民の立場に立てば、この期に及んで原発を動かす理由は何一つありません。あるとすればすべて屁理屈か科学に名を借りた詭弁に過ぎません。再稼働の理由の最も強固なものが「経済」でした。今でもリスクマネジメントやリスクコミュニケーション、ゼロリスクなる言葉を使って、国民を煙に巻くバカな経済評論家は後を絶ちません。

                                                               

                                                               

                                                              私は頭がピーマンの彼らを批判してきましたが、豚に真珠、馬の耳に念仏でした。しかし、彼らの出番は終わったのです。用済みです。なぜなら中国までもが脱原発に舵を切ったからです。その理由は発電コストと危険性です。12月4日のNHK『クローズアップ現代』がこのことを取り上げていました。以下の記事、『中国“再エネ”が日本を飲み込む!?』を是非お読みください。

                                                              http://www.nhk.or.jp/gendai/articles/4072/index.html

                                                               

                                                               

                                                              ネトウヨたちが中国や韓国に対してヘイトスピーチを撒き散らしている間に、中国の首脳は日本のはるか先を見通していたのです。(こんなことを書くと、Y田ゼミ塾長に「お前は中国のスパイか」と言われそうですね)再生可能エネルギーの開発に人的物的資源を大量に投入し、自動車のみならず先端技術では日本のはるか先を行っています。

                                                               

                                                               

                                                              しかも背後には広大な大消費地が控えています。コスト競争では日本は中国に太刀打ちできません。財界と政府のトップに、多少なりとも先見の明と国民の立場に立った構想力があれば、こんな体たらくに陥らずにすんだのです。先端技術の開発を下支えする大学のレベルも今や崩壊寸前です。

                                                               

                                                               

                                                              以上要するに、日本は二つの面で崩壊の危機にあります。

                                                               

                                                              その1:地震と津波および放射能汚染によって国土が実質的に消滅する危機。

                                                              その2:再生可能エネルギーや電気自動車に見られるように、先端技術の開発の遅れにより中国はもとより世界から取り残され、経済が大きく停滞する危機。

                                                               

                                                               

                                                              この危機を回避する方法は一つです。しかし絶望的に難しいでしょう。なぜならそれは私たち一人一人の生き方の転換を必要としているからです。この点では、私は極めて悲観的です。もう一度原発事故が起こって、国土の半分以上が無人の荒野にでもならない限り人々は目覚めないでしょう。私はビラ配りをしてそれを痛感しました。

                                                               

                                                               

                                                              「自分が何もしなくても問題を解決してくれるエリート」などどこにも存在しません。ブログで散々書いたように、エリートは無責任な大衆が妄想と願望で作り出した架空の存在です。ただの人である私たち一人ひとりが行動を起こさない限り、この世界の問題は1ミリも先に進まないし、何も解決しないのです。

                                                               

                                                              | 原発 | 17:47 | comments(0) | - |
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