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磯崎新と藤森照信の茶席建築談議
磯崎新と藤森照信の茶席建築談議 (JUGEMレビュー »)
磯崎 新,藤森 照信
この本は茶室を巡る様々な建築的発想・知識の宝庫です。それにしても磯崎新氏の驚くべき記憶力と該博な知識には驚かさされます。建築史を語るには欠かせない二人の対談です。時がたつのを忘れさせるほどの面白さでした。
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チャヴ 弱者を敵視する社会
チャヴ 弱者を敵視する社会 (JUGEMレビュー »)
オーウェン・ジョーンズ,Owen Jones
【本書への賛辞】

「怒りが生んだ、最高の本」
──ガーディアン紙

最高の論争がみなそうであるように、知性に裏打ちされた怒りが本書を支えている。
──エコノミスト誌

暴動や世界中に広がったオキュパイ運動に照らして考えると、分断社会に関する著者の鋭い分析は、
不気味なほど未来を予知していたことがわかる。
──アートフォーラム誌

情熱と、思いやりと、すぐれた道徳性が結実した仕事だ。
──ニューヨーク・タイムズ紙

政治の定説を見直す大胆な試み。著者は戦後のイギリス史を縦横無尽に往き来し、
階級、文化、アイデンティティといった複雑な問題を軽々とまとめてみせ、
結果として「階級」問題に火をつけ、大きな効果をあげている。
──インディペンデント紙

いまの制度が貧しい人々を見捨てていることに対する苛烈な警告──それが本書だ。
──ブログサイト「デイリー・ビースト」

ジョーンズは、「地の塩」だった労働者階級が政治のせいで「地のクズ」と見なされるようになった経緯を見事に説明している。
──タイムズ紙

この本は、新しいタイプの階級嫌悪と、その裏にあるものを痛烈にあばいて見せてくれる。
──ジョン・ケアリー(The Intellectuals and the Masses著者)

これは「イギリスはおおむね階級のない社会である」という考え方への、論理的で情報満載の大反撃だ。
──オブザーバー紙

情熱的で示唆に富む……この声が届くことを心から願う。
──スコットランド・オン・サンデー紙
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フェイクニュースの見分け方 (新潮新書)
フェイクニュースの見分け方 (新潮新書) (JUGEMレビュー »)
烏賀陽 弘道
私は政治的な言葉と詩的言語の間を、その振幅が大きいがゆえに、往復することによって精神を活性化させています。政治的な文章を読むときに気をつけていることは、ファクトとオピニオンを区別することです。これはイロハのイだと思っていたのですが、今はお互い罵詈雑言の投げつけ合いで、言論空間がいびつになっています。これは今の政治を反映したものでしょう。菅官房長官が「問題ない」「その指摘は当たらない」などといったコミュニケーション遮断語を頻繁に使いだしてから、この傾向は加速しています。言論空間のゆがみを正し、正常な論争が復活することがあるのでしょうか。地に足がついた生き方をしたいなら、まず気分に流されず、事実を見極めることから始めなければなりません。事実を提示しないジャーナリストは、ジャーナリストではありません。そのことを確認するためにも本書は必読です。本物の読解力をつけたいと考えている中高生には特にお勧めです。
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 (JUGEMレビュー »)

紹介していない本が山のようにあります。数日前にこの本を本棚の奥から引っ張り出し再読しました。いや〜面白かった。。とにかくこの本のことを忘れていた自分が信じられない。読んでない人に熱烈に勧めます。ハイ。
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チェンジング・ブルー――気候変動の謎に迫る (岩波現代文庫)
チェンジング・ブルー――気候変動の謎に迫る (岩波現代文庫) (JUGEMレビュー »)
大河内 直彦
アインシュタインの名言のひとつに、「過去から学び、今日のために生き、未来に対して希望をもつ。大切なことは、何も疑問を持たない状態に陥らないことである。」があります。
本書は文系・理系を問わず、高校生や大学生必読の本です。単に気候の科学を紹介しただけではなく、科学者たちのさまざまな逸話を紹介しながら、科学における知識・研究の積み重ねの重要性を教えてくれます。この本にのめり込むかどうかが、あなたの知性のリトマス試験紙になります。受験勉強的発想の狭隘な世界観を粉砕してくれるかもしれません。
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見て見ぬふりをする社会
見て見ぬふりをする社会 (JUGEMレビュー »)
マーガレット ヘファーナン
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新・日米安保論 (集英社新書)
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柳澤 協二,伊勢崎 賢治,加藤 朗
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英語の実際的研究 (1969年)
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秋山 敏
高校生にとって、今でも一押しの不朽の名著。でもこの本をことを知っている英語教師は少ないと思います。是非復刊してほしいものです。
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安倍首相から「日本」を取り戻せ! !
安倍首相から「日本」を取り戻せ! ! (JUGEMレビュー »)
泥 憲和
まともな言説は、誰にでもわかる易しい言葉で書かれています。そして、それが本物であればあるだけ、真実を直視する勇気のない、臆病者からバッシングを受けます。安倍政権や維新の会のヤクザ議員からバッシングを受けない言説は何のインパクトもない、ニセモノだと言ってもいいくらいです。泥さんの発言は、間違いなく政権にとって都合の悪いものだったのです。表紙の写真はコワいですが、この本を読めば泥さんの優しい心根に触れることができます。
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スノーデン 日本への警告 (集英社新書)
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エドワード・スノーデン,青木 理,井桁大介,金昌浩,ベン・ワイズナー,宮下紘,マリコ・ヒロセ
2017年4月18日、朝日新聞がようやく「パノプティプコン」を取り上げました。遅すぎますね。
これから先の日本社会は、ますます荒廃が進み、国民の不満が頂点に達し、やがて爆発します。それを未然に防ぐために、国は国民の監視を強化します。
実際アメリカでは「愛国者法」により、電子メールや携帯の通話履歴が監視の対象になっています。誰が、いつ、どこで、何を読んで、誰と通信を交わしたか、すべて国に筒抜けです。
「パノプティプコン」とはフランスの哲学者フーコーが用いた概念ですが、国民が刑務所の囚人のように監視される体制を言います。監視者の姿は見えませんが、囚人は監視者不在でも、監視を意識することによって管理統制されるのです。これを「パノプティシズム」と言います。
このシステムから解放されるためには、権力がどう管理・統制しようとしているかを知らねばなりません。この本はそれを知るための第一歩です。あなたが無知のまま、奴隷の人生を送りたければ、読む必要はありません。
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日本力
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松岡正剛,エバレット・ブラウン
テレビを始めとするメディアを通じて、何かといえば日本はスゴイ!と叫んでいる、あるいは叫ばないと身が持たない人たちに読んでもらいたい本です。だってそれは日本人がまともな思考をしてこなかった、今もできていないことの裏返しでしかありませんからね。日本スゴイと叫んでいる人を見ると、自分が持っている劣等感をこんな形でしか表現できないのかと思って気の毒になります。日本スゴイ!だからどうしたの?あなたは何をやりたいわけ?
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まんが政治vs.政治まんが――七人のソーリの一〇年
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佐藤 正明
今の政治状況に対して、まともに反応すればするほど、こちらがアホに思えてきます。正面突破は犠牲者が出るだけでなく、精神的にも疲労困憊しますからね。こういう時代の表現方法は、もはや風刺とブラックジョークしか残っていない気がします。
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魂の殺人―親は子どもに何をしたか
魂の殺人―親は子どもに何をしたか (JUGEMレビュー »)
A.ミラー
アリスミラーのこの本は、塾を始めるきっかけになりました。ただ生活のためだけなら、他のことをしていたでしょう。『才能ある子のドラマ』とあわせて、当時の私には衝撃的な本でした。人生はどこでどう転ぶかわかりません。人間の奥深さを知ることで、何とか自分を維持していたのです。この本を読むと当時のことが、ありありと思い出されます。ある意味で、私の人生を方向づけた本かもしれません。
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朽ちていった命:被曝治療83日間の記録 (新潮文庫)
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NHK「東海村臨界事故」取材班

2月18日のブログでも書きましたが、仕事のために読むビジネス書の類は、最終的には効率を重視し、最小の資本と労力の投下で、いかにして最大の利益を上げるかということに尽きていると思います。そのための働き方改革であり、そのための賃上げです。そのための人心掌握術であり、顧客対応です。ビジネス書を読めば読むほど、人間は軽薄になり、視野が狭くなっていきます。もしあなたがそれを自覚するきっかけがほしいなら、是非この本を読むことを勧めます。読書はビジネスのためにするのではないということが分かると思います。この本は私たちの日常の風景を一変させるだけのインパクトを持っています。いわば、ことばの最高の意味における「闖入者」なのです。
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生前退位をめぐる安倍首相の策謀 (宝島社新書)
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五味 洋治
天皇陛下が去年8月のお言葉で一番国民に伝えたかったのは、一言で言うと安倍首相の改憲を許してはならない、ということだったのです。それはブログでも再三書いてきましたが、今上天皇の20年にわたる慰霊の旅や国民に寄り添う姿勢が何よりそのことを証明しています。普通の読解力があれば分かることです。しかし、安倍首相には肝心の読解力がありません。安倍首相は今上天皇の思いを、単なる生前退位の「制度上の問題」にしてしまったのです。これは明らかな策謀です。国民は今一度、天皇陛下のメッセージに真剣に耳を傾けるべきです。
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教育の論理―文部省廃止論 (講談社文庫)
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羽仁 五郎
1979年、今から38年前に出版されたこの本を読み返しました。そして愕然としました。羽仁五郎が指摘したことがますますリアリティーをもって、前景化しています。福沢諭吉も言うように文部科学省はいらないのです。教育関係者は、自らの原点に戻るため、この本を読むべきです。
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服従
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ミシェル ウエルベック
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排除と抵抗の郊外: フランス〈移民〉集住地域の形成と変容
排除と抵抗の郊外: フランス〈移民〉集住地域の形成と変容 (JUGEMレビュー »)
森 千香子
第16回大仏次郎論壇賞を受賞した本作は、従来時間軸で論じてきた社会学の手法に、パリ郊外というエスニック・マイノリティーが住む「空間」を突きつけ、彼らがなぜグローバルテロリズムに追い込まれるのかを明らかにしたものです。

一読し感銘を受けました。問いを生きるという学問の原点が、彼女のフィールドワークにつながり、「移民たちは、彼ら自身に問題があるのだという視線を注がれていました。でも実際には、多数派による差別が問題を生み出していた。問題は社会の側にあったのです」と結論付けます。

この著作は日本社会のみならず、世界のこれからを考えるのに、大いに役立ちます。これぞ学問と言えるものです。『シャルリとは誰か? 人種差別と没落する西欧 』とあわせて読むことを勧めます。
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黒い巨塔 最高裁判所
黒い巨塔 最高裁判所 (JUGEMレビュー »)
瀬木 比呂志
この本はまだ発売されていません。自分で読んでいない本を推薦するのは邪道でしょう。しかし、これまでの『絶望の裁判所』『ニッポンの裁判』(ともに講談社現代新書)に続く裁判所、司法批判の第3弾が長編の権力小説だということで、過去2冊の本の面白さからして、推薦に値する本だと思いました。『原発ホワイトアウト』の最高裁判所ヴァージョンだと思います。読んでからコメントを追加したいと思います。
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被災の思想 難死の思想
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小田 実
若い人は彼の仕事も、名前すら知らない人もいるでしょう。来年で没後10年になります。彼が生きていたら、3・11をどうとらえ、どう表現していたか。それを見たかったし、彼の発言を聞きたかった、とつくづく思います。ジャーナリズムは劣化の一途をたどり、教育は非民主的な社会に適応できるように、こどもたちに真実を教えません。すべてのものには歴史があります。今ある世界が全てではなく、それを作り出した社会と人間の営みがあったのです。もし若い人が自由に生きようと思うのであれば、そして元気を出したければ、彼の著作を読んでみることです。『何でも見てやろう』でもいいですね。とにかく一冊手にとって見てください。そして彼の提示した問いに答えてみてください。
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そして、僕はOEDを読んだ (JUGEMレビュー »)
アモン・シェイ
学校なる場所に通っていた時、毎年夏になると課題図書を読んで、読書感想文を書かねばならないのが苦痛でした。課題図書の選定には学校と書店の密約があるに違いないと思っていたくらいです。

偶然巡り合った面白い本の感想を書くのならまだ我慢できたかもしれません。つくづく学校というところは、余計なことをしてくれると思ったものです。

あまりにめんどうくさいので、「あとがき」を参考に、あらすじを書いて提出したら、トリプルAをもらいました。

学校というところは、もしかしたら、人生の退屈に耐える訓練をする場所だったのかもしれません。この本を読んで、改めてそのことを確認しました。別に先生を責めているわけではありません。それほど自覚的に生きるということは難しいのだとため息をついているだけです。
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選挙 [DVD]
選挙 [DVD] (JUGEMレビュー »)

想田和弘監督の観察映画。音楽による演出は一切なく、徹頭徹尾監督の視点で撮られたドキュメンタリー映画。見終わった後、日本の選挙風土の貧困さが浮かび上がる。この国に民主主義はない、ということを改めて確認し、そこから出発するしかない。その勇気を持つ人には必見の映画です。合わせて『選挙2』もどうぞ。
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マックス ヴェーバー
ウェーバーの死の1年前、1919年、学生達に向けた講演の記録です。
一部抜粋します。

「自分が世間に対して捧げようとするものに比べて、現実の世の中が―自分の立場からみて―どんなに愚かであり卑俗であっても、断じてく挫けない人間。どんな事態に直面しても「それにもかかわらず!」と言い切る自信のある人間。そういう人間だけが政治への「天職」を持つ。」(P105〜106)

「さて、ここにおいでの諸君、10年後にもう一度この点について話し合おうではないか。残念ながら私はあれやこれやいろんな理由から、どうも悪い予感がしてならないのだが、10年後には反動の時代がとっくに始まっていて、諸君の多くの人が―正直に言って私もだが―期待していたことのまずほとんどは、まさか全部でもあるまいが、少なくとも外見上たいていのものは、実現されていないだろう。」(P103〜104)

10年後には、ワイマール体制は機能不全に陥り、1933年にはヒトラーが首相に就任します。

平和憲法は、日本人にとって310万人の命と引き換えに手に入れた唯一と言っていい理念であり、アイデンティティーでした。その唯一の誇りを、日本人は損得勘定で葬り去ろうとしています。言い古された言葉ですが、歴史は繰り返すのです。
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熊楠の星の時間 (講談社選書メチエ)
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中沢 新一
小学校を卒業するころ、将来なりたい職業として思い描いていたのが、天文学者か生物学者でした。プロ野球選手は、自分のセンスでは無理だと悟りました。物ごころついたころから興味があったのは宇宙や昆虫や植物の世界でした。そんなわけで南方熊樟に出会うのは必然的な成り行きだったのです。人間は言葉によって世界を把握しますが、それ以外の把握の仕方があるはずだと、ずっと思ってきました。南方熊樟は、小林秀雄と同じく、直観による世界の把握の仕方を教えてくれました。この本は、言葉によって構成された世界秩序の外に出て、世界を改めて考えたい人に大いなるヒントをあたえてくれます。安倍政権によるゴキブリのフンのような、あまりにばかばかしい政治状況を見せつけられているので、精神の衛生学として一気に読みました。
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本間龍
こどもの教育から裏金を使ったオリンピック誘致、原発再稼働、戦争準備から武器の売却、安倍政権の裏の権力としてメディアに絶大な影響力を行使する電通。私たちは電通が作り上げた「箱」の中でいいようにマインドコントロールされている。自分の意見だと思っていたものが、実はそう思わされていただけだということに気づかなければならない。音楽をはじめとする芸能情報、その中で踊らされるミュージシャンやタレント、果てはデザイン業界までを席巻する。今や電通の介在しないメディアはないと言ってもいい。利権あるところに電通あり、です。
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施 光恒
英語教育に携わる人は、一度この本を読んでみるべきではないでしょうか。言葉は悪いですが「英語ばか」がこの国には余りにも多すぎる気がします。
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前作『日本はなぜ「基地」と「原発」止められないのか』に続く著者渾身の力作。自分の人生を生きたい人にすすめます。ただそれだけです。18歳で選挙権が与えらる高校生が政治を考える際の基本的なテキストになる日がくるといいですね。無理でしょうが。これ以上余計なコメントはしません。まず手に取ってみてください。
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メディアで取り上げられるよりはるか前から日本会議の存在について私は言及していました。電通と同じくタブー視するメディアには心底失望したものです。報道すればタブーはタブーでなくなるのです。何を恐れているのでしょうか。干されれば、何とか生活をする工面をすればよい。それだけのことです。
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経済学という自己正当化の道具、あるいは権力に寄生するための方便を分かりやすい言葉で暴露した本物の経済学の本。宇沢弘文氏の「社会的共通資本」と併せて読むことをすすめます。
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帯に「祝祭都市にスタジアムはいらない」とあります。そもそも2020年まで天災と原発事故をやり過ごし、経済危機を乗り越えて存在しているでしょうか。極めて怪しいですね。偶然書店で手に取って読みました。彼の文章を読むと、建築は現世の権力に奉仕するものではなく、想像力の王国を作るものだと思わされます。建築にそれほど興味のない人でも、読めます。いや、いつのまにか引き込まれているでしょう。
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新・戦争のつくりかた
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りぼん・ぷろじぇくと
難関中高一貫校で学び、東大に合格しても、それはもはや知性のバロメーターではありません。この本に書かれていることが真実だと見破れることこそが本物の知性です。ニセの知性は既得権益を守るためにはどんな屁理屈でもひねり出します。おまえは何も知らないと言って他人を見下し、金と権力におもねるのです。ニセの知性は理想の灯を掲げることができません。「脳内お花畑」などという幼稚な言葉を使って揶揄するしかないのです。彼らの決まり文句は、他国が攻めてきたらどうするのかという、それこそ「脳内お花畑」的なものです。「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」とは、まさに至言です。
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桐野 夏生
権力も財力もない人間は、想像力を武器に戦うほかありません。以前ブログでも取り上げた『亡国記』とともに読むことをすすめます。
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文部科学省と財界は文系学部、特に社会思想を研究する学部を標的にして、その廃止を迫っている。これがどれだけ短慮で、バカげたことかヨーロッパの大学を見てみればよい。コンピテンス、要するに高速事務処理能力と記憶力を重視する理系学部さえあれば国は繁栄するという考え方です。文系学部は「結果を出せない」といいます。株式会社化をなりふりかまわず進めようとする国の中で、文系学部は穀つぶしだと映っているのでしょうね。この国の知性の劣化はとどまるところを知らないようです。
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私の元塾生の縁でお会いしたことのある烏賀陽弘道氏の渾身のレポート。事実を丹念に調べ上げ(これがジャーナリストの本来やることです)事実をして語らしめることのできる稀有なジャーナリスト。この本を読まずに福島第一原発の事故の本質に迫ることはできない。ダブル選挙の前に一人でも多くの国民が読むことを期待します。
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松岡正剛氏の本はどれも面白く、シリーズの千夜千冊を除けばほとんど読んでいます。『多読術』は、高校生にぜひ勧めたいと思います。高校時代に、この本を読んでおくと、さまざまな分野の知的見取り図を手に入れることができます。学校の授業だけではなく、この本を手掛かりにして知の荒野に歩みを進めてほしいと思います。
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安倍首相は「この道しかない」と言って消費税を上げ、集団的自衛権の行使を可能にする閣議決定をし、公約とは正反対のTPPを批准することで、日本の文化=アイデンティティーを破壊しようとしています。

もし私たちが生き延びたければ、そのヒントがこの本の中に書かれています。日本は超大国の「夢」を代弁するだけの国になってはなりません。
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山本氏の国会での質問を、本になって改めて読み直して感じることは、文字通り「みんなが聞きたい」質問をしてくれたということです。安倍首相が小学生に「なぜ政治家になったのですか」と質問された時、「父親も祖父も政治家をしていたからです」と答えていました。小学生相手に、何と言う悲しい答えでしょうか。語るべき理想を持たない政治家など、所詮は官僚に利用されるだけです。それに対して、山本氏には語るべき理想がある。「政治なんてそんなものさ」というリアリストが発散する腐臭を吹き飛ばすさわやかさがある。それは、彼の身体には収まりきれない理想が持つ力そのものです。彼は言います。「力を貸してほしい。少なくとも、あなたが必要だと思われる社会、私が必要だと思われる社会を作っていきたい。そう思うんです」と。日本の総理大臣にふさわしいのはどちらでしょうか。
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転換期の日本へ―「パックス・アメリカーナ」か「パックス・アジア」か (NHK出版新書 423)
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ジョン・W・ダワー,ガバン・マコーマック
おそらく、日本人自身よりも海外の知識人のほうが、日本の問題を正確にとらえていると思わせる本です。読み終えて何気なくテレビを見たら、わが大分県選出の国会議員、岩屋毅氏と江藤晟一氏が、2016年ミスユニバース大分県代表を選ぶ催し物に出ていました。名誉顧問だそうです。いかがわしい宗教団体をバックに票を稼ぐだけでは飽き足らず、こんな大会に顔を出して名前を売ろうとする。大分市長の佐藤樹一郎氏も出席していました。このお三方は、こんなことをするために国会議員や市長になったのでしょうか。国民の税金を使ってやることといえば、テレビに出演してにやけた顔をさらすことでしょうか。もう物事の軽重が全く分かっていません。せめてこの本くらい読んではどうでしょうか。私はこの本に書かれていることの大部分に賛成です。
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蓮池 透
出版されてすぐ読みました。国会で、読んでもいないのに、安倍首相が躍起になって否定した事実が書かれています。蓮池氏はあちこちから人格攻撃の対象とされてきましたが、自分にも落ち度があったと認めています。自分は総理大臣なのだから落ち度はないと居直る人間とは好対照です。この本を読んで、拉致問題について今一度国民が考えることを望みます。
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2年半ほど前に求めて、一気に読みました。マルクスの『資本論』の中に書かれていることを、著者が自分なりに消化し実践していく過程が書かれているので、一種のドキュメンタリー文学として読めます。きっと著者と同じ思いの若者は全国にたくさんいると思います。かけがえのない一回きりの人生を、充実して生きたいと思っている人に勇気を与える本です。
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本では土屋正雄氏の名訳が出ていますが、できれば英語で読んでもらいたい小説です。カズオ・イシグロの文章は読んでいてとても気持ちがいい。素晴らしい文体です。いつの間にか声に出して読んでいることがあります。ジョージ・オーエルと並んで私が最も好きな海外の作家です。彼が書くような英語を書きたいですし、彼のように考え、話したいものです。DVDを見た後は、是非小説も読んでください。
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今年度ノーベル文学賞受賞作品。チェルノブイリは言うまでもなく、フクシマでさえ人々は忘れたがっています。もう過去のことだと言い聞かせて。しかし、過去のことではなく、まぎれもない現在進行中の現実であり、私たちが生きている世界そのものです。この本を読んだ後、橋下徹が御堂筋をイルミネーションで照らし出し、F1カーに乗って写真を撮っているところを見ました。その時のセリフ。「大阪はここまでできる!」

もう何と言うか、別世界を生きている人間です。彼の発する言葉は文学とは無縁です。人間が言葉を持ったのは、言葉にしがたいものを言葉にしようとするためです。政治家が発する言葉の軽さと言ったらありません。それだけ現実も軽いものになったということでしょう。
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今年の大佛次郎論壇賞、受賞作品。今年の2月に読み、いろいろと考えるヒントをもらった本。ブログでも紹介したいと思います。
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資本主義社会に生きるということは、会社といかにかかわるかを意味します。それほど私たちの働き場所として会社は大きな力を持っています。その会社がこれからどうなるのかを、数少ない本物の経済学者・岩井克人氏が洞察しています。凡百の経済評論家には決して書けない本です。今からでも遅くない。是非読んでみてください。
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著者は私と同じく学習塾を営む在野の哲学者。私が塾を始めた時、著者の『赤門塾通信』を読み、励まされました。

上下2巻で、結構なヴォリュームですが、やっと読み終わりました。今改めて日本の精神史をたどりなおしたいと考えている人には、ぜひ勧めたいと思います。感想は又いつか別の機会に。
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小林秀雄は、私を文学や哲学の世界にいざなってくれた恩人です。彼と岡潔との対談です。
この本を理解できる政治家はおそらくいません。いたら、絶滅危惧種でしょう。
小林秀雄、岡潔、鈴木大拙のような人間はもう出てこないでしょうね。こういう人間を生み出す土壌が日本にはなくなりました。
代わりに登場してきたのが、橋下徹やホリエモンこと堀江貴史といった、マスコミによって改革の旗手と持ち上げられたマネー資本主義の申し子たちです。
感情を劣化させた人間が幅を利かせる社会は、効率を追求し、競争を加速させるだけの生きづらい社会です。日本社会はどうしようもなく劣化が進んでいます。
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岡 潔
教育で最も大切であるにもかかわらず、多くの人が忘れているのが感情教育です。世界的数学者・岡潔のことばでは「情緒」ということになります。普通、情緒とは正反対にあると考えられている数学のような学問で、ブレイクスルーをもたらすものは「情緒」だと岡潔は言います。今回読み直してみて、その深い洞察力と、そこから出てくるみずみずしい感性と新しさに、改めて驚かされました。

こどもの将来を本当に考える親なら、あれこれ参考書を買い与えるより、是非この本を読むことをすすめます。私たちが失ったものの価値が分かり、呆然とするはずです。

この本を読んで何も感じなかったらどうするのか?
残念ですが、どうしようもありませんね。これまで通り、自分の信じる道をお進みください。
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日本的霊性 完全版 (角川ソフィア文庫)
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鈴木 大拙
鈴木大拙の言わんとすることが、ようやくわかりかけてきました。年齢を重ね、日本文化の基底にあるものをじっくり味わうことで開示される世界があるのです。日々の生活に追われていては、この本を読み、味わう暇などないでしょうが、それだからこそ手に取ってみてはいかがでしょう。
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人間は、条件次第で、喜々として殺人を犯す。そして、その条件を整備しつつあるのが、安倍政権とその背後でうごめく『日本会議』である。このことに気づいていても、「配慮する」ことを最優先して報道しないメディア(特にNHK・読売新聞・産経新聞)。そしてそこに寄生する学者やコメンテーター、芸能人。このドキュメンタリー映画は、彼らの自画像である。たまには、自らの顔をじっくり眺めてみるがよい。
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私が長年考えてきた問題を解明するヒントになりました。ブログで書いたように、まず感情を基にした結論があって、それを正当化するために人は「知性」を動員するという、ごく当たり前のことが書かれている。つまり、知の粉飾決算報告書である。
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中村さんの著作の中では、個人的に最も好きな本です。読んでいるだけで楽しくなります。限りなく優しい、でも、痛烈な文明批評です。これからの生き方のヒントが満載です。それを一人でも多くの人と分かち合いたいと思い、中村好文論・その3の中で引用させていただきました。
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彼らのことばを、かっこよすぎる、青すぎる、自分たちだけが正しいと思っているなどと冷笑する前に、まず読んでみることです。体制に異議を申し立てる立場になって、政権の経済政策はおかしい、防衛安全保障の議論は間違っていると言い続けることがどれほど大変なことか。生活とデモを両立させながら生きることがどれほどのストレスを抱え込むことになるのか。権力側につけば、反論する必要もなく、相手が言っていることを細かく検証する必要もない。大手マスコミの言うことをそのまま信じていればいいだけです。自らの感情が劣化していることにすら気づきません。老若男女を問わず、とにかく一読することをすすめます。
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中村 好文
以下は私がアマゾンのレビューに投稿したものです。再録します。
「もし人に幸福な生き方があるとしたら、中村好文さんのような生き方だろうと、ずっと思ってきました。
建築雑誌をパラパラとめくりながら、ふむ、と思って手が止まると、そこには必ずと言っていいほど中村さんの設計した住宅がありました。
文は人なりと言いますが、その人の書く文章のエッセンスがこれほど見事に建築にも表現されている例はめったにありません。
建築に限らず、食の分野でも、ことばと実物の乖離がはなはだしい時代に、中村さんの設計した住宅や美術館に出会うと、どこか安心するのですね。
そういうわけで、著者の本はすべて読ませてもらっています。
この本も偶然、年末に本屋さんで手に入れ、装丁やカバーの手触りを楽しみながら読んでいます。
読みながらいつの間にかほのぼのとしている自分を発見します。
一日に一編か二編を過去の記憶をたどるようにして読んでいます。
この本の平明さ、やさしさがどこから来るのか。そんなことを分析するのは野暮というものです。
とにかくこの素敵な小さな本は、旅のお供にどうぞ!とすすめたくなります。」
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自分の時間と空間を生きるために。
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    小学生の頃、自然発生的にできた地域の雑居集団にまじって、よくかくれんぼをしたものです。上野丘高校のテニスコートの上に神社があります。そこを起点に半径二百メートルくらいが隠れる場所でした。私はかくれんぼが得意でした。なぜか。忍者になることを夢見て修行に励んでいたからです。

     

     

     

    今時そんなことを考えている小学生がいるでしょうか。将来はJリーガーかプロ野球選手、はたまたオリンピック選手、医者、弁護士などというのは、夢ではありません。職業です。

     

     

     

    消費社会・大衆教育社会の登場が、夢を職業とリンクさせたのです。そしてそのことに疑問を抱かないどころか、親がこどもと同じ「夢」を見て、スポーツ選手にしたり、4人の子供全員を東大医学部に入れたりする母親も登場しました。

     

     

     

    仮にいま私が小学生でも、親と同じ夢を見るのはご免こうむりたい。これといった理由があるわけではありませんが、私は他人と同じ夢を見ることが生理的に苦手なのです。ましてや、国家と同じ夢を見て他国を攻撃するくらいなら亡命することを選ぶでしょう。

     

     

     

    この点では、私の両親は申し分のない親でした。周到な計画に沿って、子供に職業とリンクした夢を見させるのではなく、できの悪い息子を偶然性と自然のふところに委ねてくれたのです。昔はそんな親が多かった気がします。おかげで多少の回り道はしましたが、社会の支配的な価値観を鵜呑みにするだけで自分の世界を持たない退屈な大人にならずにすみました。

     

     

     

    かくれんぼがなぜ得意だったのかという話に戻ります。当時の私は、ある時は地中に生息する昆虫や爬虫類と遊び、ある時は目もくらむような高い木に登りカラスやフクロウと友達になっていました。そのことで、アリの視点と鳥の視点を同時に手に入れたのです。

     

     

     

    そうやって身につけた複眼的・鳥瞰的視点が、かくれんぼをするときに役立ちました。どこに隠れれば「鬼」の視界に入らないか本能的に分かるようになったのです。隠れ家を作ったり、魚を取ったり、自然の恵みである様々な食べ物を採集するのも得意でした。もっとも、わけのわからないものを食べて、しょっちゅう下痢をしていましたが。

     

     

     

    何かのきっかけで少年時代の記憶が鮮やかによみがえってくることがあります。前にも書きましたが、記憶や時間は直線的なベクトルを持っているわけではなく、枯れ葉が積み重なるように身体の中に積み重なっています。それを私は記憶と時間のミルフィーユと名付けています。考古学的想像力などと大げさに言うつもりはありません。昔の人なら自然に持っていたものです。

     

     

     

    ある場所にたたずんでいると、そこを流れていた時間を思い出すことがあります。時間を思い出すというのは変な表現ですが、大地の匂いや季節の足音や空気感が、無意識の底に沈殿している記憶の断片を撹拌し、意識の水面に浮上させます。

     

     

     

    その時、その場所に生きていた人々の記憶と時間が、私のそれと混然一体となり、そこにもう一つの豊饒な現実があったことに気づきます。そういった記憶と時間に包まれた繭の内部のような場所こそ、人間の魂と感情が生成する場所なのではないかと思います。

     

     

     

    今にして思えば、そういった感覚が私という人間の原型を形作ったのだと思います。自分固有の時間と空間を作ることなしに、自分の<生>を生きることはできないと確信させたのです。

     

     

     

    なぜこんなことを書くかというと、大人になり世間の常識や決まり、つまり匿名のシステムに呑み込まれそうになりながらも、それに拮抗する世界を持つためには、自分の時間と空間(サンクチュアリ)が必須だと考えているからです

     

     

     

    つまり、私にとっては内なるサンクチュアリこそが現実であり、多くの人が「現実」だと考えているものは、匿名のシステム=仮想空間でしかありません。利害や思惑が入り乱れ、人間の精神を堕落させ、ついには死にいたらせる力を持っている一方で、それなくしては社会が成り立たないからこそ「現実」として存在しているのです。私はそれをないがしろにするつもりはありません。なぜなら、まさにその「現実」が、私の<生>に意味を生じさせているからです。

     

     

     

    さて、私が身を置く塾の現場を見てみましょう。塾は子供たちを匿名のシステムに過剰適応させることで利潤を上げるもう一つの匿名のシステムです。匿名のシステムも多層構造をしています。それゆえ、自作自演のなりすまし塾長やネトウヨ塾長を始めとして、経営コンサルタントを名乗る塾長も後を絶ちません。

     

     

     

    私たちの社会は、子供から子供時代を奪っています。格差社会の現実を目の当たりにして、親御さんは不安になり、ブレーキを踏むどころかアクセル全開で子供を追い詰めます。塾も学校も親もこのことについて自覚的でなければなりません。なぜなら、子供の将来を思えばこその叱咤激励は、ともすると子供の魂や感情を抑圧する「狂気」に転化しがちだからです。

     

     

     

    最後に一つだけ覚えておいてほしいことがあります。今ある「現実」は数年後には「現実」ではなくなっている可能性が高いということです。私は、なりすましや匿名を拒否し、目の前にいるひとりひとりの人間と純粋に関われる部分を少しでも広げていきたいと考えています。

     

     

     

    抽象的で小難しい文章をここまで読んでいただき、ありがとうございました。何かのヒントになればうれしく思います。次回は匿名のシステムに取り込まれることなく、真の知性を身につけるためのノートの作り方について話します。「東大生の必ず美しいノート」などとは比較にならない、あなただけのノートの作り方です。ご期待下さい。

     

     

    尚、今回のテーマと関連した過去の記事を挙げておきます。もし暇がありましたら、お読み下さい。

     

    『こどもの魂はどこで育つのか』

    http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=174

     

    | 文学・哲学・思想 | 22:04 | comments(0) | - |
    「現実」に殺されないために。
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      91歳の義母が脳梗塞で倒れ、入院して1年2カ月になります。今は佐伯の介護施設にいます。身体も動かず、しゃべることもできない母にとって、「現実」との通路はわずかに開いている左目だけです。私と妻が声をかけると、ほほ笑み、目に光がともります。その小さな「窓」を通して、かろうじて外界とつながっている状態です。

       

       

       

      95歳になり認知症の兆候があった義父も家で転び、右大腿骨を骨折。手術後2カ月かけてリハビリに励みました。やっと歩けるようになったと思う間もなく、再び介護施設で転び、今度は左大腿骨を骨折しました。2度の手術を経て、車いすの生活になりましたが、認知症の症状が進み、夜中に大声を出し、介護施設では手の施しようがないということで、今は大分市の下郡にある精神科の病院に入院しています。

       

       

       

      昨日は、佐伯へ墓参りに行き、義母を訪ねた後、下郡の精神科へ義父を見舞いました。面会の人は首からそれと分かるカードを下げています。病棟へのドアには鍵がかけられ、入退出時には呼び出しのベルで看護師さんに連絡し、鍵を開けてもらいます。廊下で数人の患者さんとすれ違い、挨拶を交わします。見たところ普通の人と何ら変わりはありません。

       

       

       

      「お父さん、僕です、わかりますか?」と言うと、「ああ・・おおっ」と返事が返ってきます。妻が病室で義父の手をさすり、話しかけている間、私は部屋の外にあるラウンジのソファに座って本を読んでいました。数人のお年寄りがテレビで大相撲を見ていました。30分ほど経ったでしょうか。突然、20代と思われる若い女性の患者さんが私の横に来て座りました。

       

       

       

      「何を読んでるんですか?」

      と尋ねるので、本の題名とカバーを見せました。それをじっと眺めた後、

      「なんだか面白そうですね」と言いました。

      「よかったらどんな内容か話しましょうか」

      「ええ、ぜひ話して下さい。」

      「この本を書いた人は躁鬱病という遺伝的な体質を持った人です。鬱の時には死ぬことばかり考えるそうです。中身をひとことで言うと、なぜ僕たちは自分の考えや気持ちを他人に伝えようとするのか、ということが書かれています。」

       

       

      彼女は私にピタッとくっついてきました。私は続けました。

       

      「たとえば現実に順応できなければ生きられないと思い込んでいる人がいるとしますね。この本を書いた人は、それはウソだ、現実は一つだと思い込まされているだけだと言います。現実はびくともしないコンクリートの建物のようなものではなくて、人間が集団で生きていくために作り上げたシステムに過ぎないと言っています。僕もそう考えてきました。僕の話がわかりますか?」

       

       

      彼女はうなずきました。私の言葉を理解しているのが分かります。その受容の深さ、切実さは、私が経験したことのないものでした。これ以上続けるべきかどうか悩んでいたとき、妻が病室から出てきて私を呼びました。

       

       

      彼女は状況を瞬時に理解し、「また来て下さい」と言いました。

       

       

      病棟の長い廊下を歩きながら妻は言いました。

       

      「あの子、私たちが初めてこの病院に来た時、受付のところで待っていた子よね。」

      「よく気がついたね。ご主人か恋人かわからないけど、若い男性に付き添われていたのを覚えているよ。」

      「どんな事情があるにせよ、あの若さでここに入院しているなんて、可哀そうだわ。あなたと何か話してたの?」

      「僕が読んでいた本に興味があったみたいで、内容を知りたいというので、ちょっと説明していた。」

      「もっと話してあげればよかったのに。」

      「彼女は人と話すことに飢えているような気がする。でも部外者が患者さんとどこまで話していいものか・・・。それに僕の話が彼女の心を乱すこともあるかもしれない。無責任なことはできないよ。」

       

       

       

      私が彼女に伝えたかったのは、ひとことで言えば、「現実」とは匿名のシステムが作りだした仮想空間だということです。「現実が仮想空間だって?そんなバカな!」と考える人は、これ以上読んでも不愉快になるだけでしょうから、私に「変人」のレッテルを張ってどうぞお引き取り下さい。

       

       

       

      私たちが「現実」と呼んでいる世界の実体は匿名の仮想空間に過ぎないのに、いや、そうだからこそ、私たちの無意識にまで侵入し、世界を単一化・一元化する力を持つのです。このことを認識していないと、匿名の力によって社会から抹殺されるかもしれません。大げさではなく、そういった事例は枚挙にいとまがありません。

       

       

       

      具体的に話しましょう。ブログでも取り上げた電通の事件です。高橋まつりさんは東大を卒業後、2015年4月に電通に入社します。しかし、その年の12月25日、電通女子寮の4階から投身自殺します。24歳でした。東大から電通と言えば誰もがうらやむエリートコースです。

       

       

      私がこの事件に注目したのは、彼女こそ電通という会社が作り上げた匿名のシステムによって殺された犠牲者だと考えるからです。母子家庭に育ち、それをハンデにすることなく懸命に努力して東大に合格します。きっと親子で抱き合って喜んだことでしょう。

       

       

      東大時代には『週刊朝日』でアルバイトをしていました。インターネット番組のアシスタントやリポーターなどを務めていたそうです。週刊朝日の関係者によると、「相手が大物政治家だろうが、有名人だろうが、物おじしない。機転が利いて、根性もある。あの子を精神的に追い込むことのほうがよっぽど難しい」と彼女の印象を述べています。そのまつりさんを自殺にまで追い込んだのは何だったのでしょうか。

       

       

       

      まつりさんは、労基署より10月半ばからの1ヶ月間の残業時間が105時間と認定されていますが、自殺する直前の残業時間は、労働組合との取り決め上限である「70時間」のぎりぎりで記載されていました。

       

       

      しかし、遺族側弁護士が、自動的に記録される入退館ゲートのデータを基に集計した残業は、月に130時間を超えることがあったとのことです。しかも、連続53時間勤務を疑わせる入退館記録も残っています。弁護士は「残業が70時間を超えると、正確に申告がなされなくなっていた。指導があったとみられる」と指摘しています。

       

       

       

      母親の幸美さんによると、残業に加えて自宅で徹夜の作業をしていたとのことです。まつりさんが、2015年10月に本採用となった後は、土日出勤、朝5時帰宅という日もあったそうです。亡くなった12月には部署全員に対して、残業の上限を撤廃する36協定の特別条項が出され、深夜労働が続き、忘年会の準備のためにも土日や深夜に残業していたといいます。

       

       

       

      そして自殺する日の朝、母親にメールを送ります。そこには次のように書かれていました。「大好きで大切なお母さん。さようなら。ありがとう。人生も仕事もすべてがつらいです。お母さん、自分を責めないでね。最高のお母さんだから。」

       

       

       

      彼女を自殺に追いやった犯人は特定の人物ではありません。電通が作り上げた「現実」です。それこそが匿名のシステムなのです。電通の社長は裁判で謝罪し、50万円の罰金を支払っただけです。

       

       

       

      匿名のシステムは、私たちが集団で生き延びるために、長い時間をかけて作りだしたものです。しかし、その過程で、一人一人の固有の世界を形作ってきた記憶はそぎ落とされていきます。そして集団にとってだけ意味のある記憶(歴史)が作られていくのです。歴史は捏造されるということです。会社の場合それは社訓なり社是と呼ばれます。

       

       

       

      そして、本来なら自分のために使うことができる時間も、市場社会の絶対時間に取って代わられます。つまり、個人が生き延びるのに必要な時間や空間がどんどん狭められていき、集団にとって必要なものだけが残るということです。

       

       

       

      高橋まつりさんは、自分の時間も、生きる空間も奪われ、「現実という仮想空間」の中に閉じ込められて生きる場を失ったのです。私が精神科の病院で出会った女性も「現実」によって精神のバランスを崩していたのかもしれません。

       

       

       

      長くなりました。次回からはどうすれば匿名のシステムに呑み込まれずに生きていけるのかを、具体的に話していきたいと思います。今回も最後まで読んで下さった方にお礼申し上げます。いつもありがとうございます。

       

      | 文学・哲学・思想 | 22:46 | comments(0) | - |
      もうひとつの「現実」(Alternative Reality)を見る。
      0

        明日からいよいよセンター試験が始まります。先ほど塾の生徒に激励のメールを送りました。この時期は、寒さが一年で一番厳しくなります。雪が舞い、道路が凍結する中、受験生が試験会場へと向かうのを何度となく見送ってきた気がします。

         

         

        ところで、前回のブログで、「自分のやりたいことを見つけて、夢と希望に向かって生きよう」というフレーズを、軽薄で幼稚な「政治的」なキャッチフレーズだと書きました。

         

         

        匿名化したシステム(例えば、学校でいじめにあって生徒が自殺した時、だれも責任をとりません。原発事故でも責任をとった人はいませんし、刑務所に入った人もいません)に殺されずに生き延びるには、私の言う意味が分かっていることが必要です。それを説明しましょう。

         

         

        「自分のやりたいことを見つける」は、一時期流行した「自分探し」や「自己実現」という言葉の言い換えに過ぎません。まるで、幸せになるためには「自分のやりたいこと」を見つけなければならないと言っているようです。

         

         

         

        このたぐいの言葉は、スポーツ選手・タレント・マスコミ・出版社・教育関係者などから発せられます。さらにはビートたけしのような似非芸術家もこれに加わります。自分の「芸術」が世間に迎合した余興に過ぎないことに気づいていないのですから言葉が見つかりません。私は、芸術の本質は、既存の社会や組織や流派を変革するエネルギーを生みだすところにあると思っています。

         

         

         

        そもそも、本当に自分のやりたいことを見つけた人は、沈黙しているはずです。それを世間に向けてアピールしたいなどとは思わないはずです。

         

         

         

        しかし、その一方で、他者から承認されたいという欲求を抑えられない人がいます。少しばかり名前が売れただけで、あちこちに顔を出し、「スポンサー」に媚びます。うるさくて仕方ありません。彼らは沈黙とは無縁なのです。競争社会では沈黙していては金になりませんからね。

         

         

         

        かくして「自分のやりたいことを見つける競争」はアメリカ流の「自己アピール」とセットになって、私たちの社会を軽薄で幼稚で騒々しい社会に変えたのです。

         

         

         

        「政治的」なキャッチフレーズと言ったのは、自分の足元を見つめ、そこを掘り下げれば様々な矛盾や不都合な真実が出てくるので、夢や希望を追いかけさせて注意をそらす必要があるからです。

         

         

         

        「自分のやりたいこと」が被災地のボランティアならメディアに取り上げてもらえます。しかし、東京オリンピックに反対したり、電力会社を相手に裁判を起こしたり、電源三法や総括原価方式の廃止を訴えたりすることは「自分のやりたいこと」の中には含まれません。

         

         

         

        さらに、日本がいまだにアメリカの占領下にあるという事実を指摘したり、日米地位協定の見直しを政府に迫ったり、「日米合同委員会」の存在を世間に知らせたりする活動は、「自分のやりたいこと」どころか、「やってはならないこと」にされます。

         

         

         

        つまり「自分のやりたいこと」は、匿名のシステムを固定化し補強する限りで認められるのです。これを「政治的」と呼ばずになんと呼べばいいのでしょうか。匿名のシステムは、まさに私たちの無意識が作り出したものです。それが私たちを監視し、自由を奪っているのです。このあちこちに張り巡らされている抑圧のシステムを私たちは「現実」と呼んでいます。

         

         

         

        しかし、勘違いしてはなりません。無意識が作りだしたもの、すなわち多くの人が見ている夢を一人でひっくり返そうとしても無駄です。ではどうすればいいのか。他人の夢に付き合う必要などないと、一人で宣言すればいいのです。皆で同じ夢を見るためには現実は一つだと思い込まなければなりません。戦争は皆で同じ夢を見ることです。これほどバカげたことはない!

         

         

         

        振り返ってみれば、私はブログを通じて、現実を多層構造で見ることの大切さを繰り返し語ってきた気がします。時間と空間にこだわったのは、その感知の仕方こそが、その人固有の現実を発見し作り上げるのに役立つと確信しているからです。

         

         

        最後に一言。人生は「自分のやりたいことを見つける」ためにあるのではありません。「これは自分がやるしかない、やらなければならない、と覚悟したこと」をやるためにあるのです。つまり「使命」を自覚するということです。続きはまた次回にします。今回も読んでいただきありがとうございました。

         

         

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        | 中高生の皆さんへ | 23:30 | comments(0) | - |
        匿名化したシステムを生き延びるために。
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          2015年の6月から書き始めたブログですが、振り返ってみると、社会に対する生理的な違和感の表明だったと思います。私には社会変革の理論を構築できる頭脳がないので、生理的な違和感をもとに書くしかなかったのです。政治的な話題が多くなりましたが、それは「自分のやりたいことを見つけて、夢と希望に向かって生きよう」というような軽薄で幼稚な「政治的」キャッチフレーズが社会を覆っている以上、避けられないものでした。

           

           

           

          私はチェ・ゲバラのような人間を愛していますが、革命家ではありません。歴史をひもとくまでもなく、「すべての革命家は最後には弾圧者か異端者になり下がる。」というアルベール・カミュの言葉と洞察力を信じているのです。「恐怖を土台にした尊敬ほど卑劣なものはない。」というのもカミュの言葉です。

           

           

           

          本題に入りましょう。私たちの社会は、私たちの集合的な無意識が作りだしたものです。したがって、変革を求めるうねりが津波のように膨れ上がらない限り、個人の力で簡単にひっくり返したり、否定したりすることはできません。では何ができるのか?

           

           

           

          まず疑問を持ち、違和感を表明すること。この世界のどこをおかしいと感じているのか自分に問うこと。これまで生きて来て社会に対して根源的な疑問を感じたことのない人、親や学校教育によって疑問を奪い取られているのを「現実は厳しいのさ」の一言でごまかして来た人、そういう人は一部上場企業へと急ぎましょう。誰かに指示されて自分のものではない誰かの人生を生きていきましょう。そうすれば原発なんか気にしなくても生きていけます。しかし、それでは生き延びられない、生きていることにならない、というのが私の言いたいことです。

           

           

           

          具体例を見てみましょう。もしあなたが大学側のミスと保身のために1年を棒に振らざるを得なかったとしたら、どうしますか?実際そういう目に会うまでは、なにも考えられないというのであれば、次の犠牲者はあなたになるかもしれないのです。

           

           

           

          毎日新聞2018年1月7日の記事より。

           

           

           

          「大阪大は6日、昨年2月に実施した一般入試(前期日程)の物理で、出題と採点にミスがあったと発表した。合否判定をやり直した結果、不合格とした30人を追加合格とした。また、本来は第1志望の学科で合格していたのに、第2志望の学科に入学していた学生も9人いた。大阪大は追加合格者の入学を認め、金銭的な補償を行う方針。昨年6月以降、外部から複数の指摘を受けていたが、3回目で初めてミスを認めた。

           

           

          大阪大によると、昨年2月25日に行われ、特別入試も含めた3850人が受験した物理の試験で、音の伝わり方に関する問題を出題。ミスが見つかった最初の設問で、本来は三つの正答があるにもかかわらず、正解を一つに限定していた。さらに次の設問は、この解答を前提に作成されていたため、別の二つの解答では正解を求められなくなっていた。

           

           

          外部からの指摘を大学側が初めて認識したのは、昨年8月9日。予備校講師から「問題設定が不自然」とのメールが寄せられた。大学側は問題を作成した責任者と副責任者の理学部教授2人の検討を経て、この指摘に対し「ミスはない」と返信していた。昨年12月4日にも別の外部の人から、詳細な同様の指摘が寄せられたため、さらに4人の教員を加えて検討し、大学は初めてミスと認めた。

           

           

          この設問を巡り、高校教員らが参加して昨年6月10日に開催された入試問題検討会でも不備を指摘する意見が出たが、責任者の教授2人だけの判断で「正解は一つ」と説明していた。最初の指摘から半年経過したことについて、記者会見した大阪大の小林傳司(ただし)副学長は「正しい解答は一つだとの思い込みがあったようだ。組織的に対応できなかった」と陳謝した。 」

          https://mainichi.jp/articles/20180107/k00/00m/040/016000c

           

           

           

          「正しい解答は一つだとの思い込みがあったようだ。組織的に対応できなかった」という副学長の言葉に注目して下さい。

           

           

          この言葉は、大阪大学がもはや大学ではないということを宣言したものです。なぜなら「正しい解答は一つだとの思い込み」を打ち破ることこそが学問の本質だからです。何度も出題ミスを指摘されながら、それを無視した責任者と副責任者の理学部教授2人は大学で教える資格はありません。内心では自分たちのミスに気づいていたのかもしれません。

           

           

           

          しかし、入試からほぼ1年経って、3度目の指摘があって初めてミスを認めたことは「組織的に対応」すること、すなわち組織を挙げて何とかミスを認めずにやり過ごせないものか、と考えていたことを意味します。

           

           

           

           

          ここではっきりと気づかなければならないのは、私たちの社会は「思い込み」と「組織的に対応」することで成り立っている、いわば匿名化したシステムだということです。「大学側のミス」という言葉で、個人の責任は問われないことになっています。

           

           

           

          そこでは、教師が提供する授業も、学生が受ける授業も「商品」とみなされ、それに見合った貨幣と等価交換されると教えられます。したがって、それが提供できなかったときには、それに見合った金銭的な補償をすればいいという発想になるのは当然です。匿名化したシステムには、人間にとって最も大切なものが欠けているのです。

           

           

           

          「こんなバカなことがまかり通っていいはずがない。今すぐミスを認めて受験生に知らせるべきだ。若い人にとって人生の1年間がどれほど貴重なものか分かっているのか。」という意見は感情的だとして退けられます。当然、責任をとる人もいないまま問題は隠蔽されるのです。

           

           

           

          匿名化したシステムに欠けている最も大切なものとは、「感情」であり「責任の所在」であり「使命」です。大阪大学にはこのすべてが欠けています。このことを自覚していなければ、私たちは生活ばかりでなく命を危険にさらすことになります。今の安倍政権を見れば一目瞭然です。次回はこの匿名化したシステムを生き延びる方法について書くつもりです。

           

           

           

          よろしければ、以下の過去記事も御参照下さい。

           

          「民主主義は大学の門前で立ちすくむ」

          http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=427

           

          「早稲田大学のAO・推薦入試について」

          http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=136

           

          | 文学・哲学・思想 | 23:00 | comments(0) | - |
          見果てぬ夢 ・100年後の生存戦略−教育
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            明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願い致します。

             

             

             

            元日の朝、ポストを覗いてみると、埼玉県の塾教師O君から年賀状が届いていました。成長した息子さんの写真の上に「3月から新しい環境で始動です。」とありました。川口市からさいたま市、七里へ教室を移すとのことです。風が吹き抜けるとても環境のいいところで、大工さんと相談しながら、教室をデザインしているそうです。いよいよ計画を実行する段階になったのですね。ここにも自分の居場所を懸命に作ろうとしている青年がいます。

             

             

             

            市場社会に軸足を置きながら自分の居場所を作ることは、大人でも実はかなり大変なことです。まして子供は大人の用意した環境に適応する他ないので、自分の居場所を作るどころではありません。学校を始めとして与えられた環境の中で何とか生き延びるのに精一杯でしょう。

             

             

             

            日本の学校教育は制度疲労を起こしていて、社会の急激な変化についていくことができません。当たり前ですね。相手は人間(子供たち)なので、決められた納期内に一定水準の品質をもった製品を大量に生産する工場のようなわけにはいきません。

             

             

             

            子供が成長するには時間がかかるのです。脳に電極をつないで知識や情報をインプットすることができたとしても、魂の成長には、自由と何ものにも奉仕しない時間が必要です。秋になって柿の実が熟すように、ただ待つしかないのです。待つ時間を奪われた子供は、知的には優秀でもいつまでも子供のままです。人間を成長させるのは知識ではなく魂の働きなのですから。

             

             

             

            100年後、日本の子供たちが生き生きと学び、活発に議論し、どんな境遇の子供も見捨てられることのない教育の場を作ることは可能でしょうか。戦争経済(原発もその一つです)を回し、国家の富を独占し、私物化して恥じることのない権力者たちを国民の力で排除すれば可能です。そのためには国民が民主主義の力を信じなければなりません。

             

             

             

            そのことを確かめるために、私は去年の11月始め、塾を3日間だけ休み、車を飛ばしてある場所へ向かいました。目的地は滋賀県近江八幡市にある『ラコリーナ』です。ラコリーナとはイタリア語で「丘」を意味します。

             

             

             

            『ラコリーナ』は、周囲の水郷や緑を活かした美しい原風景の中での、人と自然がふれあう空間づくりをコンセプトにしています。和・洋菓子を総合した店舗および飲食施設や各専門ショップ、農園、本社施設、従業員対象の保育施設などを設けるたねやグループの新たな拠点です。今年の1月9日でメインショップオープンから3年が経ちます。

             


            カステラショップ・フードガレージと次々に新しい店舗をオープンし、去年は260万人を超える来店者数となりました。

             

            http://taneya.jp/la_collina/

             

            メインショップ。向こうに見えるのは八幡山。

             

             

            メインショップの中はカフェと店舗になっている。天井は漆喰に炭をはめ込んだもの。藤森建築の特徴です。とても柔らかい空間です。

             

             

            メインショップを抜けると眼前に広大な田んぼが広がる。右側(画像では正面に見える)が本社。

             

             

             

            カステラカフェ。妻とお茶をして疲れをいやしました。

             

             

             

            なぜこの場所に向かったかというと、ブログでも書きましたが、以前よりヴァナキュラー建築に興味があり、縄文建築団を率いて活躍する建築家・藤森照信氏に注目していたからです。イタリア人の建築家でデザイナーのミケーレ・デ・ルッキ 氏が全体を構想し、本社やメインショップの設計を手掛けたのが藤森照信氏だったのです。

             

             

             

            ヴァナキュラー建築について、ウィキペディアの解説を見てみましょう。

             

             

            引用開始

             

            「Vernacular」とは「土着の」あるいは「風土的」という意味である。1964年にバーナード・ルドフスキーが著した『建築家なしの建築』によってヴァナキュラー建築の概念は関心を集めた。ルドフスキーは職業的デザイナーである建築家によって建てられたハイスタイルな建築物を系図的にたどることで語られてきた建築史に対して、それまで無視されてきた無名の工匠たちによって造られた風土的建築物を紹介することで、建築芸術の新たな研究対象を提示した。

             

             

            ヴァナキュラー建築は、それぞれの地域で産出する建材を使用して、その土地の気候にあったデザインを考慮して作られる点で、建築部材の全てが工場で生産され、現場で組み立てるだけの近代的な商業建築との大きな違いがある。また、ヴァナキュラー建築の世界では、長年繰り返された選択の蓄積として生まれた建築に必要なルールや知恵の多くは口伝や暗黙知として継承される。その知恵の体系は地域技術として普及し、それぞれの地域に同じような形態の建物が建てられ、風土色のある集落を形成している。

             

             

            引用終わり

             

            以上でお分かりのように、『ラコリーナ』は、ヴァナキュラー建築をメインコンセプトにしているのです。

             

            田植えのシーズン。

             

             

            秋の稲刈り。

             

             

            田んぼの小動物観察クラブ。

             

             

            奥にあるフードコート。

             

             

            オレンジティーとシチリアのライスコロッケ「アランチーノ」をたべました。卵をトマト風味のライスで包んで揚げたもので、とても美味しかった。

             

             

             

             

            新自由主義によるマネー経済の肥大化・加速化は人々を幸福にしません。新自由主義は人間そのものを尊重するのではなく、人間を「手段」とみなす世界観です。私はこの世界観に対抗できるものこそが、ヴァナキュラー建築だと考えています。さらに言えば、「ヴァナキュラー教育」こそ、日本古来の伝統や文化を復興させるものだと確信しています。

             

             

             

            『ラコリーナ』のしたたかなところは、市場経済を否定するのではなく、それを乗りこえる可能性を提示しているところです。市場経済を否定すると、最終的には自給自足を目ざす閉ざされた宗教集団のようになってしまいます。「消費」を否定せず、それを逆手にとって、新たな価値を示して見せる。これこそが賞味期限が切れた資本主義社会の先を生きるための処方箋だと思います。

             

             

             

            『ラコリーナ』をほぼ半日かけて歩きながら、私はこれが学校だったらどうだろうと考えていました。先入観を捨てて、この場所を学校にすることが可能だろうかと考えてみたのです。結論は可能だということです。

             

             

             

            この広い場所に、小学生から高校生までが通い、その土地固有の文化や伝統を学びながら、先端技術の基礎理論やデザインや建築を始めとして様々な教科も学べるようにする。幼稚園児や地域のお年寄りもやって来て、一年に一度盛大なお祭りや収穫祭を開く。

             

             

             

            子供たちを部活や宿題で縛るのではなく、自発的創造性にまかせて、宮沢賢治が言うように、農業を舞踏へと高めるのです。もちろん制服など不要です。そこでは100メートルを10秒で走る能力など必要とされません。アクロバティックな鉄棒演技も人間性を無視した集団演技で得点を競うことも不要です。ましてや国家の威信をかけたスポーツ戦士に子供を育てるなど論外です。健康で柔軟性に富んだしなやかな身体を持つ子供に育てればいいのです。

             

             

             

            まず『ラコリーナ』のような場所を各都道府県に一つ作る。それだけで私たちが無条件に順応するしかなかった教育システムが、いかに不要・不毛なもので満ちていたかが分かります。

             

             

             

            これからの日本は人口減少社会へと突入していきます。お年寄りと若者が手を取り合って生きていかねばならないのです。その時大人が利己的な発想で自分たちの利益を確保するのに精一杯だったとしたら、いったい誰が子供たちの居場所を構想するのでしょうか。

             

             

             

            私がここで考えたことは実現できます。決して見果てぬ夢ではありません。現に民間の会社『ラコリーナ』がそれを実現しています。必要なのはヴィジョンです。教育こそが、宇沢弘文氏の言を待つまでもなく、100年先を構想できる社会的共通資本なのです。

             

             

            | 教育 | 21:57 | comments(0) | - |
            私が卒業アルバムを買わなかったわけー2017年の終わりに。
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              今年も残すところあとわずかとなりました。一年間、面白くもない、不愉快な内容が多かったブログですが、お付き合い頂いた方には心からお礼申し上げます。

               

               

               

              本音を言えば、私は政治などどうでもいいと思っています。この国がどうなろうと、アメリカが北朝鮮を攻撃して日本がその巻き添えを食おうが、それは仕方のないことだというか、自業自得だと思っています。日本人はそれを自ら招き寄せているのですから。

               

               

               

              ただそういった空気にどうしてもなじめない、生理的に順応できない自分を発見し、違和感を吐露せざるを得なかったのです。イデオロギーや宗教に胡散臭さを感じるのも、私の体質の問題でしょう。素朴に考えておかしいという感情から出てくるものこそが信頼に値するものです。そうは言っても、どこかで堪忍袋の緒が切れれば、その時点でブログはやめるつもりです。

               

               

               

              もともと、今の社会に自分の居場所などあるわけがないと思い、それなら自分の居場所を作るしかないと思って生きてきました。私が惹きつけられる人間の姿というか風情は、ことごとく自分の居場所というか精神のありかを自分で作って来た人たちでした。今は独裁主義に順応する生き方がもてはやされる時代です。いや、いつの時代も世の中とはそういうものかもしれません。

               

               

               

              思い返せば、そういった世の中や制度に対する生理的な違和感が私の中で頂点に達したのが、高校3年の時でした。卒業を間近に控えたある日、担任から「○○、お前は卒業アルバムを買わないのか。買わないのは学年でお前一人だぞ。」と言われました。

               

               

               

              「僕は上野丘高校に何の愛着もありません。空白の3年間でした。アルバムを買っても、懐かしくなってページを開くことはないと思います。」と私は答えたのです。その時の担任の表情は覚えていません。ただ「そうか」と言っただけでした。今となっては若気の至りというしかありません。

               

               

               

              その私が塾の教師になって、生徒を上野丘高校に送り出しているのですから、運命の皮肉というか、罰を受けているようなものです。ただ、罪滅ぼしとして、上野丘高校に最も欠けていたと思うもの(今もそれほど変わりはありません)を、英語を教える中で補おうと心がけています。

               

               

               

              ごく単純に言うと、それは今の社会をどうとらえ、どう生きるのかということと切り離して勉強などできないということです。「これほど基本的な事実について無知では、アメリカを始めとして世界の高校生と議論などできるわけがない。いや、議論というよりもコミュニケーションをとることすら不可能だ。英語以前の問題です。」と私はよく言います。英語教師であればなおさらこのことが気になるはずです。

               

               

               

              なぜそうなるのか。その背景には、「高校を卒業して大学に入り、大学を卒業して社会に出て初めて現実と向き合える。それまでは準備段階だから黙って受験勉強に励むべきだ」というイデオロギーがあります。それは、かけがえのない現実が今この瞬間にも進行中だということを忘れさせるのです。

               

               

               

              現実は今ここにあります。遠い未来にあるのではありません。社会のありようを政治や経済も含めて、あるいは税金の使い方や社会保障のあり方も含めて知ること。それを抜きにした勉強など、本来意味を持たないはずです。上野丘高校が劇的に進学実績を伸ばし、卒業生が懐かしく振り返る場所になるためには、世の中を知ることを含めて、今この瞬間を生きることができる世界で一番自由な場所にするしかありません。

               

               

               

              さてもうやめにします。私がこれまでの人生で習得したものは、新しい感情で満たされた日々を送るための技術です。一円のお金も生み出しませんし、自己満足と言われればそれまでかもしれません。しかし。それがなければ人生は無意味だと感じさせるものです。その技術を習得するためには、若い時から訓練を積まなければなりません。それは誰でもいい誰かの人生ではなく、自分自身の人生を生きるためのトレーニングなのです。

               

               

               

              今の安倍政権を見れば分かる通り、政治家は本質的に人間として下らない。まともに相手にする人種ではありません。それより、好きな人とデートする方がよっぽどましです。素敵なカフェに入ってコーヒーでも注文しましょう。しかし、そのコーヒー豆がどこから輸入されているのか、その値段を決めるのも政治です。たまには美味しいコーヒーを飲みながら、そういうことも話題にしてみましょう。

               

               

              来年が皆さんにとってよい年でありますように!

               

              | 教育 | 20:44 | comments(0) | - |
              長野の一塾教師さんへ。
              0

                心温まるコメントをいただきありがとうございます。とても嬉しいです。ご夫婦で塾をなさっているとかで、色々なご苦労をお二人で分け合うことができていいですね。返信しようと思ってコメントを書き始めたのですが、長くなりそうなので、コメント欄ではなくブログを借りて返信することにしました。

                 

                 

                長野は何度か訪れたことがあります。安曇野の風景はどこか懐かしい心のふるさとのようで、妻といつかこんなところで暮らしてみたいねと話したものです。いわさきちひろ美術館や碌山美術館では旅の疲れを癒しました。2年前、教え子が東京の大手出版社を辞めて、ご主人と上田市に居を構えました。いつか遊びに行くと約束したままになっています。14年間乗り続けている車を廃車にする前に、是非再訪したいと思っています。

                 

                 

                 

                ところで、世の中は長野の一塾教師さんのような方ばかりではありません。「お前のブログは負け犬の遠吠えに過ぎない。九州のド田舎の塾教師がエラそうにほざいているだけだ。お前の言っていることは、上から目線の自己正当化なんだよ!読んでいてヘドが出る。」というコメントも頂戴しています。

                 

                 

                 

                この種のコメントに対しては反論のしようがありません。やむを得ず削除しています。それにしてもこういったコメントを寄せる人は、人生の勝ち負けを決める客観的な基準があると信じているのでしょうね。今回はそれについて考えてみましょう。

                 

                 

                「勝ち組」になるための基準。

                 

                 

                1:金、金、金、金、金です。人生でどれくらい稼いだかが勝ち組になるための客観的な基準です。国民の資産を株式市場に投入し、官製相場を維持し、外国人投資家に買ってもらって釣り上げた株で儲けた金です。国民の税金をロンダリングするために規制緩和を叫び、岩盤に加計孝太郎氏だけが通れる小さな穴を開け、自治体から金を巻上げ、それを「合法的に」懐に入れた金です。

                 

                 

                 

                2:高学歴であること。特に東大以外の大学の出身者は勝ち組にはなれません。東大を卒業し、財務省や経産省の官僚になり、政治家を慇懃無礼な手法で操り、自分たちの思い通りの法案を通して権力欲を満足させる地位につくこと。その象徴が国税庁長官に出世した佐川宣寿氏です。東大を中退して小金を稼いだり、「東大ネタ」でテレビに出てギャラを稼いだりしているタレントたちは、勝ち組には入れません。彼らは勝ち組の王道をはずれた芸人に過ぎないと評価されています。

                 

                 

                 

                3:総理大臣と食事ができること。権力に取り入り、権力に利用されていることに気づくどころか庇護されていると思いこめる鈍感さを持っていること。要するにその程度のことで自尊心を満足させることのできるクズであること。最近はお笑い芸人のなかに多い。

                 

                 

                 

                4:政権を批判しないこと。コメンテーター、学者、ジャーナリスト、出版人、放送人として、総理のお友だちになり、前川喜平氏や山尾しおり氏、山口敬之にレイプされた伊藤詩織氏の人格攻撃を飽くことなく続けること。しかしこれは勝ち組になる資格などではなく、人間として負け犬になることを意味します。権力が弱体化すれば、手のひらを返されるのは明らかです。安倍総理が失脚すればお払い箱になります。なぜなら権力とは「立場」と「都合」によって成り立っている砂上の楼閣に過ぎないのですから。

                 

                 

                 

                5:財界のトップに立ち、武器の製造ばかりか輸出に手を染め、使用済み核燃料の処分場も決まらないまま原発を再稼働させる権力をもっていること。またはその集団に連なること。さらに、自然を破壊し、地下水を枯渇させ、膨大な電力を消費するリニア中央新幹線の工事発注に絡んで談合すること。国民の暮らしや地域住民の命を無視しても良心が痛まない人格であること。

                 

                 

                 

                以上見てきたように、人間を単純に勝ち組・負け組に分ける発想そのものが貧困で無神経なのです。いったんこの種の基準を内面化した人間は、「幸福とは何か」について深く考えることができません。彼らは自分の納めた税金が社会的弱者に回されることに腹を立て、生活保護費の支給基準を切り下げることを要求しています。

                 

                 

                 

                それにしても安倍政権が誕生して以来、独裁主義に順応する生き方を勝ち組の生き方だと錯覚する人間が増えてきました。これは間違いなく日本という国の末期症状です。

                 

                 

                 

                おやおや、長野の一塾教師さんへの返信がとんでもないところへ脱線してしまいました。最後に、子供たちや保護者の皆さんに心がけてもらいたいことを述べます。

                 

                 

                 

                それは、社会のなるべく正確な見取り図を持つことです。自己利益を最大化するための見取り図ではなく、社会全体をよくするための見取り図です。海図がなければ安心して航海に乗り出すこともできません。正確な海図があってはじめて困難に備えることもできるし、目的地も分かります。

                 

                 

                 

                目の前の受験勉強に集中するあまり、結果として現実から遠ざけられていること、それでは能力を十分に発揮できないということに気づいてほしいのです。塾教師の仕事は、一歩間違えば、子供たちをゲームとしての受験勉強(『東大ナゾトレ』などで出版社も協力しています)の中にいつまでも囲い込むことになります。

                 

                 

                 

                社会構造のラディカルな変化とともに、大学入試も大きく変わろうとしています。今や子供たちをいつまでも柵の中に押し込めている時代ではありません。たかが一介の塾教師ですが、私は子供たち自身の力で柵の存在に気づいてもらいたいと願って指導しています。自ら問いを発し、それをどこまでも追求していけば、必ず柵の存在に気づくはずです。聡明な保護者の皆さんもきっと同じ考えだと思います。

                 

                 

                 

                そのためには、私自身が「遠投力」を鍛えねばなりません。たまには思いっきり遠くに投げたボールを子供たちに取りに行かせたいですね。数メートルの距離でキャッチボールばかりしていては、子供の能力を伸ばすことはできませんから。

                 

                 

                 

                長野の一塾教師さんから頂いたコメントに勇気づけられて、ついつい偉そうに書いてしまいました。どうかお元気で頑張ってください。ありがとうございました。

                 

                 

                | 塾・学力 | 16:06 | comments(2) | - |
                この問題が解ければ上野丘高校に合格できます!
                0

                  以下がその問題です。新潟県の公立高校の問題ですが、決して難問というわけではありません。

                   

                   

                   

                   

                  今回のタイトルは、集客力がすべての(つまり資本力にモノを言わせる)塾のキャッチコピーのようで恥ずかしいのですが、せっかくの中身も読んでもらえなければ意味がないので、このタイトルにしました。

                   

                   

                   

                  過去、この問題が解けた生徒で上高に不合格になった生徒はいません。もちろん他教科との兼ね合いもありますし、内申点もありますから、この問題が解けたからといって、100%合格できるわけではありません。

                   

                   

                   

                  私は生徒の志望校合格可能性を判断する時、模試の点もさることながら、どの問題が解けたかという細かいデータを頭に入れています。Aの問題が解ければ○○高校合格、Bの問題が解ければ○○高校は大丈夫、しかしCの問題が解けなければ○○高校は危ないという風に。これは長く塾を続けてきたおかげで蓄積されたいわば「自家製のデータ」です。

                   

                   

                   

                  ところで冬期講習会の少し前から、私がこれまで良問だと思った問題を絞りに絞って『高校入試数学究極の30問』と題するプリントを作り、それを解いてもらっています。これに「じっくり」取り組めば、満点が狙えるはずです。たぶん。上の問題はその第1問です。

                   

                   

                   

                  『高校入試数学究極の30問』の中には図形の面積や線分の長さを求めるものが10問ほどあります。クイズのようで、解いている間に力がつく問題です。集中力と発想力が必要とされますが、解説を聞いても分からないようなアクロバティックな数学的センスは必要ありません。

                   

                   

                   

                  (1)の問題は絶対に解けなければなりません。

                  (2)については、短いヒントを出します。以下は生徒とのやり取りです。

                   

                   

                   

                  「(2)の問題は線分の長さを求めるものですが、これまで習った線分の長さの求め方はどんなものがありますか」

                   

                  「相似比と平行線と線分の比、あと三平方の定理」

                   

                  「ではこの問題でそれが使えますか?相似の三角形もないし、直角三角形もありません。つまり、それ以外の方法を考えないとね。普通この問題を見た時、情報量が少ないのでどこから手をつけていいかわからないはずです。そんなときどうしますか?」

                   

                  「・・・・・・・」

                   

                  「とにかく、15分間はあれこれ考えてみて下さい。あれこれ考えると言いましたが、その中身がイメージできていますか?一本の補助線を引くことで問題を全く違う角度から考えることもできます。」

                   

                  「えっ、補助線を引くんですか?」

                   

                  「この問題で補助線を引かずに、次の段階に進めると思っているの?」

                   

                  「どこに補助線を引くんですか?」

                   

                  「どこにでも、君の好きなところに。なんならボールペンで君のおでこに引いてもいいよ。冗談だけど。」とまあ、こんなやりとりが続いた後、生徒は集中します。

                   

                   

                   

                  もちろん制限時間が経過した後、詳しい解説をします。解説しながら生徒の顔を見ると、思考が深まっているのが手にとるように分かります。一人一人の名前を呼び、理解できたか確認します。決して先を急ぎません。一日で何問やったかなどということは、瑣末なことです。

                   

                   

                   

                  ところで、前回のブログで私は次のように書きました。

                   

                   

                   

                  「知識は個性や思考と連動し、さまざまな局面で独自の動きをしているのです。一度インプットされた知識は解体され再構成されて、それを使う人間と一体化します。それを知識の質といいます。 

                  野球で言えば、ピッチャーの球質が体重移動や指の長さやリリースポイントや天候やその日の体調によって左右されるのと同じなのです。一流のピッチャーはこれらすべての条件を頭に入れ、ピッチングを組み立てています。速い球を投げるだけでは、簡単に打ち崩されてしまいます。」と。

                   

                   

                   

                  私がここで書いたことは、数学だけではなく、およそ人間の知識や思考にまつわる問題ではジャンルを問わず当てはまると確信しています。なぜなら今朝の朝日新聞の文化文芸欄で作家の村上春樹氏が翻訳について全く同じことを言っていたからです。私は驚くというか、本質的な発想の類似性に絶句してしまいました。

                   

                   

                   

                  以下は村上氏がレイモンド・チャンドラーの長編7作を完訳したことを受けてインタビューに応じたものです。

                  ちなみにチャンドラーは私の大好きな作家で、塾の生徒にも『ロング・グッドバイ』を紹介したことがあります。彼が生み出したハードボイルド小説の探偵フィリップ・マーロウの次のセリフは有名です。

                   

                   

                   

                  「タフじゃなくては生きていけない。やさしくなくては、生きている資格はない。」原文は「If I wasn't hard, I wouldn't be alive. If I couldn't ever be gentle, I wouldn't deserve to be alive.」です。元京都大学原子炉実験所の小出裕章氏が講演でこの言葉が好きだといった時、私は必死で涙をこらえたのを覚えています。

                   

                   

                   

                  村上氏の記事に戻ります。

                   

                  引用開始

                   

                  翻訳とは原典を「ばらばらにしてもう一度組み立て直す」作業だと村上さんは言う。

                   

                   「チャンドラーは、解体して再構築するには絶好のモデルなんです。チャンドラーのようなミステリーを書こうとしても、それはむずかしい。小説は、どう解体するかというところにかかってるんです。そこから何かを学ぶとしたらね」

                   

                   同じような「解体と再構築」をしている書き手として、村上さんは今年のノーベル文学賞を受けたカズオ・イシグロさんの名を挙げた。

                   

                   

                   「SFをやったり昔のイギリスの執事ものをやったり、書くたびにある種の小説のスタイルを再構築している。彼もチャンドラーが大好きなんです。何度か会って話してるけど、チャンドラーの話になると生き生きしてくる」

                   

                   村上さんの小説は現実と非現実の世界を行き来するようなものが多いのに、翻訳ではリアリズムの作品を多く手がけるのは、なぜなのか。

                   

                   

                  「非リアリズムのものを書こうと思っても、きちんとしたリアリズムの文章が書けないと、それはできないんです」

                   

                   「僕は自分の文体を強くしなくちゃいけないと思って『ノルウェイの森』をリアリズムで書いて、そこからずいぶん楽になった。だから翻訳でもリアリズムのものをやって文体を磨き上げたい、文体を引き締める訓練をしたいという気持ちがある」

                   

                   村上さんは小説でも翻訳でも、原稿に繰り返し手を入れるという。

                   

                   

                  「たいそうな言い方になるかもしれないけど、生きた文章を書くには潜在意識で洗い直す作業が必要なんです。ある程度の時間をおいて無意識のなかを何度も通さないと、文章が立ち上がってこない、本当に

                   

                   「文章の力は、評価するのがすごく難しい」と村上さん。

                   

                   

                  「家庭風呂と温泉のお湯との違いを表現するのが難しいのと同じです。温泉のお湯の持つ力を出すためには、時間をかけて、潜在意識を何度もくぐらせることがすごく大事になってくる。小説でも翻訳でも、それはまったく同じです」

                   

                   

                  引用終わり

                   

                   

                  アンダーラインの部分をよくお読み下さい。一部語句を入れ替えて書いてみます。

                   

                  「たいそうな言い方になるかもしれないけど、問題を解決する糸口を見つけるには潜在意識で洗い直す作業が必要なんです。ある程度の時間をおいて無意識のなかを何度も通さないと、アイデアが立ち上がってこない、本当に」

                  「無意識のなかを動いている思考の力は、評価するのがすごく難しい」

                   

                  | 中高生の皆さんへ | 18:11 | comments(1) | - |
                  「画竜点睛を欠く(がりょうてんせいをかく)」
                  0

                    冬期講習会が迫ってきました。昨日も附属中学に通っている子供をもつお母さんから冬期講習に参加したい旨のお問い合わせをいただきました。今月に入って4人目です。皆さんすでに塾に行っています。かけもちで私の塾にも来たいとのことでした。

                     

                     

                     

                    中学3年生の入塾は夏休みの講習会が最後で、それ以降は空席があってもお断りしている旨を説明しました。せっかくお問い合わせいただいたのにお断りするのは心苦しいのですが、今通っている塾での学習の質を高めるようにアドバイスしました。

                     

                     

                     

                    講習会の直前まで生徒を募集している塾もあるようですが、これまでの経験から、未来塾ではお断りすることにしています。理由は今来ている生徒さんを大事にするということはもちろんですが、直前になって塾を掛け持ちすれば不合格になる可能性が高くなるのです。

                     

                     

                     

                    私の塾でも過去2名ほど直前になってかけ持ちをしたいという生徒がいました。不安なのでしょうね。もちろん選択は自由です。しかし、結果は2名とも舞鶴高校に不合格でした。「この調子でいけば確実に合格するよ」という私の言葉を信じることができなかったのです。

                     

                     

                     

                    人より少しでも多くの時間とお金をかけ、塾をかけ持ちすれば受験に有利になると考えているのでしょうが、人間はそれほど単純な生き物ではありません。つねに有利か不利か、受験に役立つかどうかで物事を考えている人は、知識や情報を量で測ろうとします。お金をためるのと同じ感覚でとらえているのですね。必要最小限の投資で最大の利益を上げることを目指す、コスパ至上主義に毒されているのです。

                     

                     

                     

                    最近の入試では、知識を単純に問うだけではなく(そうは言っても受験では8割が知識を問う問題です)知識相互の関連やそこから予想される結果を問う問題も増えています。つまり、知識は個性や思考と連動し、さまざまな局面で独自の動きをしているのです。一度インプットされた知識は解体され再構成されて、それを使う人間と一体化します。それを知識の質といいます。

                     

                     

                     

                    野球で言えば、ピッチャーの球質が体重移動や指の長さやリリースポイントや天候やその日の体調によって左右されるのと同じなのです。一流のピッチャーはこれらすべての条件を頭に入れ、ピッチングを組み立てています。速い球を投げるだけでは、簡単に打ち崩されてしまいます。

                     

                     

                     

                    この最も肝心なことが分からず、言っても聞く耳をもたない生徒には退塾を勧告することにしています。前述の2人にも退塾を勧告しました。知識の習得が単純なブロックの積み上げ作業のようなものだと信じていれば、学ぶことは楽しくないでしょうね。

                     

                     

                     

                    ところで皆さんは「画竜点睛を欠く(がりょうてんせいをかく)」という言葉をご存知ですか。数年前までは、塾の生徒でこの言葉を知らない人はいませんでした。ところがいまの中学3年生は、知らない人の方が多いのではないでしょうか。言葉を知らなければ認識の幅も狭まります。つまり思考し行動する幅が狭くなるのです。

                     

                     

                     

                    「画竜」は竜の絵を描くこと、「睛」は瞳のことで(「晴」ではありませんよ)「点睛」は瞳を点ずる、描き込むということです。中国の梁の時代、張僧ヨウという絵師が竜の絵を描き、最後に瞳を入れたところ竜が天に昇ったという故事から、「画竜点睛」は大事な仕上げをするという意味です。「画竜点睛を欠く」とは、その仕上げを欠いてしまうことです。

                     

                     

                     

                     

                    やさしく言えば「物事をりっぱに完成させるための、最後の仕上げを忘れること。また、全体を引き立たせる最も肝心なところが抜けていること。」を意味します。

                     

                     

                     

                    おそらくどこの塾でも、先生が良心的で生徒のことを考えていれば「画竜点睛を欠く」ことがないように、最後の仕上げに全力を傾けるはずです。もちろん私もそうするつもりです。冬期講習の期間はそのためにあります。

                     

                     

                     

                    墨の濃淡に工夫を凝らし、躍動感や迫力が出るように試行錯誤してきて、肝心な竜の瞳を描き込むことをしなければ、竜が天に昇ることもないでしょうから。

                     

                    | 中高生の皆さんへ | 15:20 | comments(0) | - |
                    主権のない国で主権者を育てることはできるのか?
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                      そもそも主権のない国で「主権者」を育てることは可能でしょうか。「何を言ってるんだ、日本が主権国家なのは当たり前だ」と考えている人たちのことはこの際置いておきます。

                       

                       

                       

                      彼らは、猿回しのサルにも主体性があると主張しているのですから。テレビをはじめとするメディアに登場し、投げ銭をもらい、拍手喝采されれば自分の芸もまんざらではないと胸を張り、後ろにいる「ご主人様」の存在をしばし忘れるのです。

                       

                       

                       

                      今回は、戦後日本が実質的に主権を持ったことはなく、今でもその状態(occupied Japan)が続いていることを歴史的事実としてはっきり認識している人たちに語りかけたいと思います。つまり、最低限の認識を共有するために『知ってはいけない − 隠された日本支配の構造』 (講談社現代新書)くらいは読んでいる人たちだということです。

                       

                       

                       

                      いや、これは偉そうな言い方ですね。言い方を変えましょう。日本が独立国ならなぜ沖縄に米軍基地があるのか、福島で収束不可能な原発事故があり、日本列島そのものが巨大な活断層であるにもかかわらず、なぜ原発を廃炉にする決断ができないのかという素朴な疑問を持っている人たちです。

                       

                       

                       

                      ところで、18歳から選挙権が与えられるようになって、高校の教育現場では「主権者教育」がされていると聞いています。「政治的中立性」という欺瞞言語に騙されることなく、高校生たちに今この国で主権者であることが何を意味するのか、具体的に教えることなどできるのでしょうか。せいぜいのところ、選挙に行きましょうという説教じみた抽象的な訓示に終わるのではないでしょうか。

                       

                       

                       

                      「今この国で主権者であることが何を意味するのか」と言いましたが、その答えを知るには、主権者として行動している人の例を取り上げ、その主張を聞かなければなりません。

                       

                       

                       

                      なぜなら、主権者であるということは、自分の人生を生きるために欠くことのできない本質的な条件だからです。それは「寄らば大樹の陰」「お上の言うことに逆らってはならない」といった考え方・生き方から自由になることを意味します。

                       

                       

                       

                      もちろん自由には危険が伴います。それでも、12月11日のブログに書いたように「大樹」はもはやどこにも見当たりません。「お上」は歴史上かってないほど腐敗を極めています。したがって主権者として自分の人生を生きるためには、ある程度の危険は覚悟しなければならないのです。

                       

                       

                       

                      日本国内はもとより、世界には主権者であることがどういう行動に結びつくのか、それを実証する例であふれています。日本にも山本太郎という政治家がいます。彼は12月9日に閉会した特別国会に、日米合同委員会に関する質問主意書を提出し、日本に主権があるのかと問いただしました。この件についてはまた後日取り上げることにします。

                       

                       

                       

                      今回は二つの事例だけを取り上げます。

                       

                      その1:

                       

                      ドイツ最大の航空会社ルフトハンザのパイロットたちが難民申請を拒否された人たちを強制送還することを拒み、222ものフライトがキャンセルになった。送還対象者の多くはISやタリバンを逃れてきたアフガニスタン人。情勢不安定な地域に人間を追い返すことは、アムネスティ・インターナショナルによると国際法違反。多くが同国最大のフランクフルト空港で行われた。

                       

                       

                       

                      ルフトハンザの広報担当者は、「乗客を搭乗させないという最終的な判断は、パイロットにより個別になされた。」と話している。その判断の基準は「安全な飛行が確保されない可能性」があるかどうか。しかし実際は、多くの搭乗拒否が、パイロットによる強制送還を食い止めようとする試みだったとみられている。

                       

                       

                       

                      彼らは政府の方針に異を唱えて、自分の良心に従ったのです。つまり主権者教育がしっかりできている国では、たとえ政府の方針であろうと間違っていると判断した時には異を唱え、良心に従った行動が許されるのです。同じ状況に直面したとき、日本の大手航空会社 JALやANAのパイロットに同じことができるでしょうか。ルフトハンザのパイロットたちの行動は主権者教育の格好の事例になるはずです。

                       

                       

                       

                      その2:

                       

                      10日オスロで行われた核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)へのノーベル平和賞授賞式で被爆者サーロー節子さんが行った演説こそ、主権者であることを高らかに謳いあげたものです。中身は日本国憲法前文の精神そのものです。

                       

                       

                       

                      高校生たちが勉強させられている、「政治的中立性」というフィルターを通した中身のないスカスカの英文に比べれば、力強い、素晴らしい英語でのスピーチでした。

                       

                       

                       

                      一部を抜粋します。

                       

                       

                      「きょう、この会場で皆さまには、広島と長崎で死を遂げた全ての人々の存在を感じてほしいと思います。雲霞(うんか)のような二十数万の魂を身の回りに感じていただきたいのです。一人一人に名前があったのです。誰かから愛されていたのです。彼らの死は、無駄ではなかったと確認しましょう。」

                       

                       

                       

                      「広島と長崎(への原爆投下)を残虐行為、戦争犯罪と見なすことをなお拒絶する人たちもいたのです。「正義の戦争」を終わらせた「良い爆弾」だったとするプロパガンダを受け入れたわけです。こうした作り話が破滅的な核軍拡競争をもたらしました。今日に至るまで核軍拡競争は続いています。」

                       

                       

                       

                       「今も九つの国が都市を灰にし、地球上の生命を破壊し、私たちの美しい世界を未来の世代が住めないようにすると脅しています。核兵器の開発は、国家が偉大さの高みに上ることを意味しません。むしろ、この上なく暗い邪悪の深みに転落することを意味するのです。こうした兵器は必要悪ではありません。絶対悪なのです。」

                       

                       

                       

                      「責任ある指導者であれば、必ずやこの条約に署名するに違いありません。署名を拒否すれば歴史の厳しい審判を受けることになるでしょう。彼らのふるまいは大量虐殺につながるのだという現実を抽象的な理論が覆い隠すことはもはやありません。」

                       

                       

                       

                       「核武装した国々の当局者と、いわゆる「核の傘」の下にいる共犯者たちに言います。私たちの証言を聞きなさい。私たちの警告を心に刻みなさい。そして、自らの行為の重みを知りなさい。あなたたちはそれぞれ、人類を危険にさらす暴力の体系を構成する不可欠な要素となっているのです。私たちは悪の陳腐さを警戒しましょう。世界のあらゆる国の、全ての大統領と首相に懇願します。この条約に参加してください。核による滅亡の脅威を永久になくしてください。」

                       

                       

                      このスピーチをNHKは中継しませんでした。「公共放送」「皆様のNHK」が聞いてあきれます。その理由は日本政府が核兵器禁止条約に反対している事と無関係ではないはずです。

                       

                       

                       

                      安倍首相はノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロ氏にはすぐに祝意を伝えましたが、サーロー節子さんに対しては完全無視を決め込んでいます。安倍首相がカズオ・イシグロの文学を理解しているとは到底思えません。彼の作品を読んでいないばかりか名前すら知らなかったでしょう。

                       

                       

                       

                      なぜなら、文学は死者の声を、あるいは声を発することすらできずに死んでいった人間の魂の叫びを、メタファーの力によって多くの人々と共有する試みだからです。つまり、安倍首相のメンタリティーから最もかけ離れたものです。日本国憲法を「みっともない」と言っている安倍首相のことです、サーロー節子さんのスピーチを「みっともない」と感じていたに違いありません。

                       

                      | 政治 | 16:42 | comments(0) | - |
                      終わりの始まりならいいのだけれど・・・
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                        広島高裁が伊方原発の運転を禁止する仮処分の決定を下しましたが、「いかった〜」などと下らないギャグを飛ばして喜ぶ気にはなりません。なぜなら「仮処分は証拠調べの手続きに制約がある」として、停止期間を来年9月末までに限定し、地震想定の甘さや、重大事故対策が不十分といった住民側の主張を認めず、火山対策以外は規制委の判断を「合理的」としたからです。

                         

                         

                         

                        火砕流の影響を云々するのであれば、中央構造線が引き起こす地震や南海トラフ地震による伊方原発崩壊の可能性の方をより重視してもらいたかったですね。阿蘇山が巨大噴火を起こして火砕流が伊方原発に届くのであれば、九州はほぼ全滅しているからです。その影響は数年で日本を破滅に導き、運が良ければ、日本人は北海道の一部だけで生き延びているという悲劇的な結末をもたらすかもしれません。

                         

                         

                         

                        それと、住民避難の問題を深刻に受け止めてもらいたかったですね。住民を安全に避難させることができなければ原発を動かすことはできないという5層の防御(defense in depth)の考え方を、司法判断の大前提にしなければなりません。まずこの点をクリアしている原発についてのみ安全性を審査すべきです。

                         

                         

                         

                        しかし、司法が住民避難の問題に踏み込めば、政府と電力会社が交付金と引き換えに周辺住民の命を買い上げているという事実が明るみに出るので、このまま棄民政策を続けるしかないのです。

                         

                         

                         

                        それに何より、過酷事故を恐れて、電力会社は原発を海岸沿いの絶海の孤島のような場所に建設しているので、住民を安全に避難させることなどできません。政府も避難計画は自治体に丸投げしています。原発の安全審査に住民避難を絡めたとき、稼働できる原発は日本には一基もありません。ようするに、政府には国民の命を守る気などさらさらないのです。

                         

                         

                         

                        それはともかく、今回の決定で少しホッとしています。以前、RECOMMEND 欄でも紹介しましたが、原発が止まっているこの機会にぜひ以下の2冊の本をお読みください。石黒耀の『死都日本』と元国会事故調委員長の黒川清氏が書いた『規制の虜』です。

                         

                         

                         

                         

                         

                        | 原発 | 10:06 | comments(0) | - |
                        少し涙が出ました。
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                          私は伊方原発差し止め裁判の原告の一人です。今うれしいニュースが飛び込んできました。広島高裁(野々上友之裁判長)が13日午後、伊方原発の運転差し止めを命じる決定を出しました。高裁レベルでは初めてのことです。感激して少し涙が出てきました。

                           

                           

                           

                          伊方原発は瀬戸内海を挟んで広島市から約100キロの距離にあります。それでも3号機の差し止めの決定が出たのです。決定は直ちに効力が生じるため、四国電は来年1月に定期検査が終了しても、司法判断が覆らない限り運転を再開できません。大分地裁もこれに続いてくれるといいのですが。

                           

                           

                           

                          何よりも次なる巨大地震が迫っているときに、この勇気ある決定が出たことを、子供たちのために、その子供たちの子供たちのために喜びたいと思います。

                           

                           

                           

                          大分地裁の裁判長が、すでに提出した私の意見陳述書を読んでくれているといいのですが。

                           

                          『大分地裁裁判長への意見陳述書』

                          http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=426

                           

                          | 原発 | 14:45 | comments(0) | - |
                          冬期講習会直前の時期になりました。
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                            以下の問題は、集中力を持続させるために中3生に解かせた数学の問題です。8人中4人しかできませんでした。全体像を理解し、この方法で解くしかないと決断し、手順を間違えないようにする力が、すなわち自分を信じる力がまだまだ不足しています。

                             

                             

                             

                             

                            ところで、毎年この時期になると、受験生は浮足立ってきます。勉強が上滑りになり、じっくり落ち着いて問題に取り組むことができなくなるのですね。受験がリアルな問題として前景化してくると、誰だれはどこの冬期講習会に行っている、などといった情報が飛び交い、ますます落ち着かなくなってきます。無理もありません。日頃から閉ざされた教室の中で他人のことばかり気にして生活しているのですから。

                             

                             

                             

                            自己宣伝ではありませんが、これまで高校受験での当塾の塾生の合格率は98〜99%です。140人近くが上野丘・舞鶴に合格していますが、毎年5〜6人が合格し続けた結果、集計すればそうなったというだけのことです。地元に密着して30年以上も塾をやっているためか、口コミで地域の優秀な生徒さんが集まってくれるようになったのです。

                             

                             

                             

                            「驚異的な合格率!」などと宣伝するつもりは全くありません。それを自分で言える神経が私にはわかりません。いや、わかりすぎるほどわかっているのです。しかし、金もうけがしたいだけの単なるバカになることがどうしてもできないのです。

                             

                             

                             

                            「そういった発想自体が時代遅れなんだよ!宣伝しないでどうして商品を売るんだ?」と批判されるかもしれませんが、「商品」を売っているという意識が私にはないのです。知性を身につけ、矛盾と欺瞞に満ちた社会を他人や組織に操られることなく、何とか生き延びて幸せになってもらいたいという思いで生徒に勉強を教えているのですが、それが「商品を売る」ことだとはどうしても思えないのです。生徒や親御さんを「お客さん」だとも思いません。「買い物以外に、この世の中で大事なことはない」と思い込まされている「お客さん」を相手に、いったいどうやって勉強を教えることができるでしょう。

                             

                             

                             

                            それどころか「集客」にはかえってマイナスになる内容のブログをこうして書いています。それで、生徒や親御さんとの教育方針のミスマッチを防ごうとしているのです。ある意味「驚異的な合格率!」なる宣伝文句につられて入塾してきそうな「お客さん」にはご遠慮いただいているとも言えます。

                             

                             

                             

                            どこかの塾長のように、第三者になりすまして自塾を宣伝し、一橋大学出身という学歴をニセの管理人に「足元にも及ばない」と言わせて「集客」することなど思いつきもしません。ネット社会とは表の顔と裏の顔の隔たりが大きい社会のことです。「なりすまし」は当たり前だと思っていた方がいいのです。

                             

                             

                             

                            ところで、最近は部活の疲労のためか、授業中に居眠りする生徒が増えてきました。そんな時、私は次のように言います。

                             

                             

                             

                            「部活をした後、あわてて夕食をとり、塾に来れば眠たくなるのは当然だね。眠るなとは言わない。それでなくとも君たちの年頃は眠たい盛りだからね。時々、瞬間的に意識が遠のいている人もいる。でもこれだけは覚えておいて下さい。君たちのお父さんやお母さんが一生懸命働いて月謝を納めているわけです。その上、車で送り迎えもしてもらっている。だから塾に来ている時間くらいは、なんとか我慢しなさい。それが君たちの義務です。僕が一番残念なのは、せっかく塾に来ているにもかかわらず、塾を生かし切れていない人がいることです。頻繁に居眠りをしている人から月謝をもらうわけにはいきません。僕のそういう気持ちが限界に達した時には、退塾を言い渡すので、恨まないように。」と。

                             

                             

                             

                            それにしても、冬「休み」になって学校から解放されたと思う間もなく、塾の冬期講習会で教室の中に何時間も閉じ込められれば、発想のみならず身体も委縮してしまいます。たかが高校入試なのに、それがとてつもなく大きな壁に見えて来て、神経質になればなるほど、解ける問題も解けなくなります。

                             

                             

                             

                            高校入試の時も大学受験の時も、私は子供には普通に家の手伝いをさせていました。「人並みに受験生扱いしてもらいたい」と子供が言った時には「何が受験生だ。甘えるんじゃない!」と叱ったものです。やたら子供のことを心配して情報集めに奔走する今のお母さんからは理解されないでしょうね。それどころか、離婚されるかもしれません。おお〜こわい。

                             

                            | 中高生の皆さんへ | 13:55 | comments(0) | - |
                            後は野となれ山となれ
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                              今回は忘れないようにブログに書き留めておきたいことがあります。12月7日、私が大分駅前で伊方原発の差し止めを訴えるビラを配り、大分地裁で裁判を傍聴していたまさにそのとき、経団連の榊原定征会長は、四国電力の伊方原発(愛媛県伊方町)を視察していました。佐伯勇人社長から再稼働した3号機の運転状況や安全対策の説明を受けた後、記者団に次のように語りました。

                               

                               

                               

                               

                              「原発は重要な電源としてこれからも使用していく。将来は増設や新設も選択肢にしないといけない」「(四国電力は)福島の原発事故を教訓に万全の対応をとっているようだ。しっかり安全を確保してほしい」と。(朝日新聞デジタル)

                               

                               

                              世界の潮流を全く無視した、こうした経済界トップの時代錯誤の発言を見ていると、日本経済が中国に大きく後れをとるどころか、もはや挽回不可能だと改めて思わざるをえません。

                               

                               

                               

                              中国は福島の事故を分析し安全性確保に限界を感じ、更に原発のコストは海上、風力発電より高く経済的な面からも競争には勝てないとして原発を捨て、クリーンエネルギーに切り替えたのです。

                               

                               

                               

                              皆さんは2012年、福島第一原発の事故後わずか1年しかたっていない時点で、日本の財界が大飯原発を再稼働させるために使ったロジックを覚えているでしょうか。彼らはこう言いました。

                               

                               

                               

                              「原発を再稼働しなければ電力コストが上昇して、日本企業の国際競争力は低下する。だから、再稼働しないのであれば、われわれは日本を捨てて製造拠点を海外に移す。そうすれば国内の雇用は消失し、地域経済は壊滅し、法人税収は失われるがそれでもいいのか。」と。「それで日本経済がどれほどのダメージを受けても、それは原発再稼働を渋った政府と日本国民の責任であり、われわれは関知しない。」と。

                               

                               

                               

                              これは明白な恫喝であり究極の自己責任論です。この恫喝に屈して、ヘタレの野田政権は原発再稼働を容認したのです。

                               

                               

                               

                              日本の財界のトップが金儲けの口実に使う「国際競争力の低下」は、原発の再稼働や新設・増設をしないことによってではなく、中国の脱原発への転換によって現実になるでしょう。そのときになって、脱原発へと舵を切れなかった自分たちのふがいなさ、勇気のなさ、不見識を嘆いたところで手遅れです。

                               

                               

                               

                              さらに忘れてならないのは、財界が使ったロジックは日本人の価値観を変えるほどの影響力を持っていたことです。それは、経済活動に倫理や道徳は不要だということを公に宣言するものだったのです。

                               

                               

                               

                              このとき日本人は「1円でもコストの安いところで操業するのが企業の常識である。創業している地域での雇用創出や経済波及効果を保証する義務は企業にはない」という新自由主義の価値観を受け入れたのです。経済評論家や学者たちは、それに異を唱える者を経済音痴だとバカにし、思考を放棄しました。それがやがて格差社会に根を張ったアベノミクスというあだ花を咲かせることになります。

                               

                               

                               

                              一方で、それは常軌を逸した時間外労働を社員に課す原因ともなりました。電通の高橋まつりさんが自殺したのも、こういった企業文化の下地があったからです。しかし、この事件が電通ではなく、名もない中小企業で起こっていたら、どうなっていただろうかと思わずにはいられません。

                               

                               

                               

                              日本の大企業とそのトップは、道を見失っています。以下はその証拠です。

                               

                               

                               

                              国内製造業では神戸製鋼所、日産自動車、三菱マテリアル、東レ(経団連会長のひざ元)とデータ改竄が続出しています。さらに、原発事業に手を出したばかりに、東芝はその結果生じた巨額損失を埋め合わせるため、屋台骨であった半導体メモリーの売却契約を結ばざるを得なくなりました。

                               

                               

                               

                              加えて、リニア中央新幹線関連工事を巡り、東京地検特捜部が偽計業務妨害容疑で大手ゼネコン「大林組」の強制捜査に着手したとのニュースも飛び込んできました。国の財政投融資も活用された総工費9兆円を超える事業での不祥事です。JR東海は無関係だとコメントを出しています。

                               

                               

                               

                              さてもう終わりにしましょう。ここまで見てきたように、原発再稼働を進める財界と政府の根底にある退廃した考え方をひとことで言うなら「後は野となれ山となれ」です。今の私にはこれ以上適切な言葉を思いつくことができません。

                               

                              | 原発 | 23:25 | comments(0) | - |
                              なくてはならないもの
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                                土曜日の午前、初冬の朝の白い光の中で本を読んでいると、背後で突然何かが家にぶつかる音がしました。鈍い音ですが、家を揺るがすような衝撃です。

                                 

                                 

                                妻がびっくりして駆け寄ってきました。私が背にして座っている大きなFIXのガラス窓の外を見て、悲鳴を上げました。ガラス窓は縦2、5メートル、幅80センチの大きさです。それが6枚連なりR状となって中庭に面しています。

                                 

                                 

                                 

                                妻が悲鳴を上げた瞬間、私は何が起こったのか理解しました。体長20センチはあろうかと思われるヒヨドリがガラス窓に衝突し、テラスの上に落ちていました。窓には産毛がこびりついています。

                                 

                                 

                                また一つ命を奪ってしまったと思い、自責の念がこみ上げてきました。またというのは、一年に一度くらいの頻度で鳥がわが家の窓にぶつかるからです。たまに山鳩もいますが、ほとんどが猛スピードで飛んでくるヒヨドリです。窓に映った樹木や空の色のために、障害物があることに気づかないのです。

                                 

                                 

                                ぶつかった直後のヒヨドリ。くちばしを開け、息も絶え絶えの様子です。

                                 

                                 

                                 

                                衝突したヒヨドリが腹を上にしてひっくり返っているときは、首の骨を折って即死状態です。ところが今回のヒヨドリは、かろうじて両足を踏ん張り、ふるえながら立っています。

                                 

                                 

                                「脳しんとうを起こしているだけで、助かるかもしれないよ。」と言って妻を安心させ、テラスに出てみました。ヒヨドリは人の気配や音を察知した瞬間に逃げる敏感な鳥です。そのヒヨドリが、くちばしを開け、じっとしています。

                                 

                                 

                                 

                                 

                                近づくと向きを変えました。さすがにすずめ科の鳥です。すずめに似ていますね。でも大きさが違います。すずめの3倍はあります。飛ぶスピードは断然速く、いつもつがいで行動しています。「ピー」と鋭い甲高い声で鳴きます。フルーツが大好物で、いつも家のジューンベリーやブルーベリーの実を食べにやってきます。

                                 

                                 

                                 

                                 

                                スマホで写真を撮ろうと近づきました。逃げません。くちばしをかすかに動かしています。それから小一時間ほどじっとしていました。部屋に戻り見守っていると、首を左右に動かし始めました。これは意識が戻ってきた証拠です。「これは助かるな」と言って妻を呼びました。その瞬間、多少ふらついているようでしたが、中庭の大きなケヤキの枝に飛び移り、裏山の方へ飛び去っていきました。

                                 

                                 

                                 

                                その時読んでいた本は、時々ブログで紹介する『長田弘全詩集』です。その中に「なくてはならないもの」という一編があります。

                                 

                                 

                                「なくてはならないもの」

                                 

                                なくてはならないものの話をしよう。

                                なくてはならないものなんてない。

                                いつもずっと、そう思ってきた。

                                所有できるものはいつか失われる。

                                なくてはならないものは、けっして

                                所有することのできないものだけなのだと。

                                日々の悦びをつくるのは、所有ではない。

                                草。水。土。雨。日の光。猫。

                                石。蛙。ユリ。空の青さ。道の遠く。

                                何一つ、わたしのものはない。

                                空気の澄みきった日の、午後の静けさ。

                                川面の輝き。葉の繁り。樹影。

                                夕方の雲。鳥の影。夕星の瞬き。

                                特別のものなんてない。大切にしたい

                                (ありふれた)ものがあるだけだ。

                                素晴らしいものは、誰のものでもないものだ。

                                真夜中を過ぎて、昨日の続きの本を読む。

                                「風と砂塵のほかは、何も残らない」

                                砂漠の歴史の書には、そう記されている。

                                「すべて人の子はただ死ぬためにのみ

                                この世に生まれる。

                                人はこちらの扉から入って、

                                あちらの扉から出てゆく。

                                人の呼吸の数は運命によって数えられている」

                                この世に在ることは、切ないのだ。

                                そうであればこそ、戦争を求めるものは、

                                なによりも日々の穏やかさを恐れる。

                                平和とは(平凡きわまりない)一日のことだ。

                                本を閉じて、目を瞑る。

                                おやすみなさい。すると、

                                暗闇が音のない音楽のようにやってくる。

                                 

                                ※「  」内はフェルドウスィー『王書』より。

                                 

                                | 文学・哲学・思想 | 16:52 | comments(0) | - |
                                腐ったトップが居座り続けていたら、この国は滅ぶぜよ!
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                                  昨日は昼過ぎから大分駅前で1時間ほど伊方原発の差し止めを訴えるビラを配りました。「こんにちは。伊方原発を止めましょう。よかったら読んで下さい。」と声をかけます。声をかけた人の半分には無視されます。受けとってくれた人には「ありがとうございます。」と頭を下げます。

                                   

                                   

                                   

                                  高校生の多くは、まったくの無関心でスマホを見ながら通り過ぎるだけでした。でも、私の目を正面から見つめて「読んでみます!」と言ってくれた女子高生がいました。無視されて当然と思っているので、そういう若者に出会うと、砂漠の中でオアシスに出会ったような気になります。だから私は女子高生が好きです、なんちゃ・・・おっといけない、つい口癖になってしまいました。

                                   

                                   

                                   

                                  その後はいつものように大分地方裁判所で裁判の傍聴をしました。裁判所に通うようになってもう一年が過ぎたのかと、時の流れの早さにしばし感慨にふけりました。

                                   

                                   

                                   

                                  それにしても四国電力は何を守りたいのでしょうか。会社は黒字ですし、電気も足りているどころか余っています。電源三法、総括原価方式に守られて、さらなる利益を積み上げたいのでしょうね。原発立地にお金をばら撒き、被害想定区域を極端に狭め、住民避難はアリバイ程度にしか考えていません。以下の画像をご覧ください。

                                   

                                   

                                  四国電力のクリーンエアドーム

                                   

                                   

                                   

                                  「四国電力」は今年の10月24日、伊方発電所の西側3カ所に、万が一の原発事故に備えてクリーンエアドームの配備を決定したと発表しました。クリーンエアドームは短時間で簡単に設営ができ、空気浄化ユニットが装備されているそうです。

                                   

                                   

                                  報道によれば、セシウムやヨウ素の除去フィルターで、外気から放射性物質の99%以上を除去したクリーンな空気をドームに送ることができるとのことです。3カ所でドーム8基、収容人数の合計は約600人。でも東西に細長い佐田岬半島には原発より西側に約4700人が暮らしています。残りの4000人以上はどうなるのでしょうか。あきらめてもらうほかないということです。

                                   

                                   

                                  いかにも住民のことを考えているようで、これは四国電力の単なるアリバイ作りです。実際に南海トラフ地震が起これば、設営などしている暇はないでしょう。設営場所になっている体育館自体が崩壊する可能性もあります。

                                   

                                   

                                  伊方原発が過酷事故を起こせば、ウランとプルトニウムの混合物であるMOX燃料が熔融し、高濃度の放射性物質が風に乗って愛媛県、大分県をはじめとして瀬戸内海全域を汚染し、関西にまで至るのです。被害は福島原発の比ではありません。大げさではなく、確実に日本は終わります。

                                   

                                   

                                  そもそも、佐田岬半島の住民4700人を避難させることなど不可能です。船で大分県へ避難する訓練をしていましたが、当の避難民が「現実的だとはとても思えない」と言っています。地震や津波によって陸路が寸断された場合にどうやって港まで行けと言うのでしょう。避難訓練はエアドームと同じく全くの茶番でしかありません。

                                   

                                   

                                  それにしても、高濃度の放射性プルームが次々に襲ってくる中、エアドームの中に取り残された人々を、あるいは半島で孤立無援に陥っている人々をいったい誰が救助に向かうのでしょうか。自衛隊や地元の消防団、警察がその役を担わされるのでしょうか。しかし、それは福島のような平たんな地形で放射能汚染の被害を受けなかった場所での救助をイメージしたものです。地形も放射性物質の危険性も、伊方の方が何倍も上です。

                                   

                                   

                                  こういったリスク(保険では補填できないので電力会社は保険に加入できません)を抱えているにもかかわらず、四国電力は伊方原発を稼働させています。電力会社のトップは、株主である銀行の利益とおこぼれにあずかることしか考えていません。

                                   

                                   

                                  政府に対する「忖度」もあるでしょうが、政府を動かしているのは自分たちなので、官僚のセコイ「忖度」とは次元が違います。「忖度」というよりも、圧力に近いのです。それが証拠に、鹿児島の川内原発の再稼働に関しては、安倍首相は九州の財界人に対して「(再稼働は)何とかしますから」と約束までしました。

                                   

                                   

                                   

                                  要するに、財界のトップも政権のトップも人命よりも金儲けを優先しているのです。何という道徳的な退廃でしょう。坂本竜馬ではありませんが、「腐ったトップが居座り続けていたら、この国は滅ぶぜよ!」と叫びたくなります。

                                   

                                   

                                  国民の立場に立てば、この期に及んで原発を動かす理由は何一つありません。あるとすればすべて屁理屈か科学に名を借りた詭弁に過ぎません。再稼働の理由の最も強固なものが「経済」でした。今でもリスクマネジメントやリスクコミュニケーション、ゼロリスクなる言葉を使って、国民を煙に巻くバカな経済評論家は後を絶ちません。

                                   

                                   

                                  私は頭がピーマンの彼らを批判してきましたが、豚に真珠、馬の耳に念仏でした。しかし、彼らの出番は終わったのです。用済みです。なぜなら中国までもが脱原発に舵を切ったからです。その理由は発電コストと危険性です。12月4日のNHK『クローズアップ現代』がこのことを取り上げていました。以下の記事、『中国“再エネ”が日本を飲み込む!?』を是非お読みください。

                                  http://www.nhk.or.jp/gendai/articles/4072/index.html

                                   

                                   

                                  ネトウヨたちが中国や韓国に対してヘイトスピーチを撒き散らしている間に、中国の首脳は日本のはるか先を見通していたのです。(こんなことを書くと、Y田ゼミ塾長に「お前は中国のスパイか」と言われそうですね)再生可能エネルギーの開発に人的物的資源を大量に投入し、自動車のみならず先端技術では日本のはるか先を行っています。

                                   

                                   

                                  しかも背後には広大な大消費地が控えています。コスト競争では日本は中国に太刀打ちできません。財界と政府のトップに、多少なりとも先見の明と国民の立場に立った構想力があれば、こんな体たらくに陥らずにすんだのです。先端技術の開発を下支えする大学のレベルも今や崩壊寸前です。

                                   

                                   

                                  以上要するに、日本は二つの面で崩壊の危機にあります。

                                   

                                  その1:地震と津波および放射能汚染によって国土が実質的に消滅する危機。

                                  その2:再生可能エネルギーや電気自動車に見られるように、先端技術の開発の遅れにより中国はもとより世界から取り残され、経済が大きく停滞する危機。

                                   

                                   

                                  この危機を回避する方法は一つです。しかし絶望的に難しいでしょう。なぜならそれは私たち一人一人の生き方の転換を必要としているからです。この点では、私は極めて悲観的です。もう一度原発事故が起こって、国土の半分以上が無人の荒野にでもならない限り人々は目覚めないでしょう。私はビラ配りをしてそれを痛感しました。

                                   

                                   

                                  「自分が何もしなくても問題を解決してくれるエリート」などどこにも存在しません。ブログで散々書いたように、エリートは無責任な大衆が妄想と願望で作り出した架空の存在です。ただの人である私たち一人ひとりが行動を起こさない限り、この世界の問題は1ミリも先に進まないし、何も解決しないのです。

                                   

                                  | 原発 | 17:47 | comments(0) | - |
                                  バカでも慶応大学大学院教授になれます。
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                                    私は他人をバカ呼ばわりしたことはあまりありません。こういう言葉を使うのは思考の怠慢なのです。本来なら、どこがどうバカなのかを説明しなければなりません。かつては養老孟司氏の『バカの壁』を売らんかなのタイトルだとして批判したこともあります。ですから、私がバカという言葉を使うのは、よほどのことだと御理解下さい、なんちゃって。いやいや、のっけからこれではいけません。

                                     

                                     

                                     

                                    言い訳がましいことを言うようですが、バカという言葉を使うのは、批判する対象が本当にバカである場合と、私の語彙力不足が原因です。要するに、他に言葉が思いつかないのです。

                                     

                                     

                                     

                                    自分のブログを読み直すとバカという言葉は三度使われていますが、これ以上ないタイミングで適切に使われていると思います。しかもそれは安倍政権がお友だちを優遇するために国家を私物化していることが明らかになって以降のことです。

                                     

                                     

                                     

                                    では始めましょう。そうは言っても、なるべく手短に済ませます。時間がもったいないし、疲れるだけですから。今回の批判のお相手は岸博幸氏。テレビでよく見かける官僚上がりの電波芸人、いや、小泉純一郎内閣のときに竹中平蔵元経済財政担当相に秘書官として仕え、今は慶應義塾大学大学院メディアデザイン研究科教授です。

                                     

                                    岸博幸氏。

                                     

                                     

                                     

                                    それにしても、「メディアデザイン研究科」は何を研究しているのでしょうか。テレビに出演し、どうでもいいそれらしいことをしゃべって安倍政権を持ち上げ、ちゃっかりギャラを稼ぐ研究をしているのでしょうね。慶應義塾大学も墜ちるところまで墜ちました。

                                     

                                     

                                     

                                    岸博幸氏のような自分のことをバカだとは思っていないバカを批判しようと思ったのは、彼が前文部事務次官の前川喜平氏を「官僚のクズ」と呼んだのがきっかけです。今回は二点だけに絞って書きます。本格的に批判すれば夜が明けてしまいますからね。

                                     

                                     

                                     

                                    私は『本物の国語力は生き方とリンクしている』と書きました。中高生の皆さんには退屈で難しいかもしれませんが、そのことを確かめる絶好の教材です。純然たる論理の問題で、堂々とすり替えをやっていながらそのことに気づかない。気づいているとしたら、道徳的に退廃した信用できない人間だということになります。

                                     

                                     

                                    先ず以下の記事をお読みください。逐一批判したいのですが、中高生の皆さんにとって重要だと思われるところだけを青字で批判してみます。

                                     

                                     

                                     

                                    ― 岸博幸・慶大院教授インタビュー 「加計学園問題は改革つぶし」「前川は官僚のクズ」―

                                    http://www.sankei.com/politics/news/170612/plt1706120032-n1.html

                                     

                                     

                                     

                                    岸博幸氏いわく、「前川喜平前事務次官が「総理のご意向」で「行政がゆがめられた」と証言した。だが、特区を活用した加計学園の獣医学部新設に問題があるのであれば、国家戦略特区諮問会議やワーキンググループで異議を唱えればいい話だった。(ハイハイ、後からなら何とでも言えます。それにしても岸博幸氏は元官僚だったはずです。権力のありかにここまで鈍感でよく仕事ができましたね。後に述べる前川氏の「面従腹背」が理解できないのも無理はありません。)

                                     

                                     

                                     

                                    でも現実には止められなかったのは、文科省には説得材料がなかったからだ。(因果関係をわざとすりかえています。文科省には説得材料がなかったから、というのは原因ですよね。でも本当の原因は官邸や総理の意向という無言の圧力があったことです。自分の保身のために本当の原因を隠しています。このようにわざと因果関係を切断して、ウソの事実を忍びこませるのが官僚上がりの電波芸人の常套手段です。気を付けましょう。因果関係をたどる力は重要な国語力です。)

                                     

                                     

                                     

                                    それは理解できているのだろうか。(オマエが言うな!Y田ゼミ塾長氏の言い方を真似しました。)

                                     

                                     

                                     

                                     

                                    こんなことで行政がゆがめられたというならば、政治主導は全て行政をゆがめることになる。岸博幸氏は anyとallの違い がわかっていません。段ボール箱の中にリンゴがたくさん入っているとします。その中の一つが腐っていたら、すべてのリンゴが腐っていることになるのでしょうか。岸博幸氏はもう一度ゼロから勉強をし直すべきです。どれでもいいから取りだした任意の一つのリンゴが腐っていれば、すべてが腐っていることになります。これが any です。この違いが分かっていれば「政治主導は全て行政をゆがめることになる」などという結論はバカでなければ出せません。事実は、行政をゆがめる政治主導もあれば、そうでないものもある、です。前川氏は行政をゆがめる政治主導があったと言っているのです。)

                                     

                                     

                                     

                                    安倍首相の「ご意向」は岩盤規制の突破だった。(はあ〜?安倍首相の「ご意向」は、岩盤に、お友だちの加計孝太郎氏だけが通れる穴をあけることだったのは明らかです。そのために京都産業大学は弾き飛ばされました。)

                                     

                                     

                                     

                                     

                                    仮に「総理のご意向」が働いたとしても、間違った行政は修正するのが当然だ。(ここまで来ると、なんだか脱力してきます。「間違った行政は修正するのが当然だ」との発言は、巧妙なすり替えです。これは国家戦略特区ワーキンググループ座長である八田達夫氏の「(総理の意向で)不公平な行政が正されたと考えている。獣医学部の新設制限は日本全体の成長を阻害している」との発言と同じです。前川氏が問題にしたのは、獣医学部新設の是非ではなく、それを決めるプロセスの公平さです。それを「間違った行政」と呼び、「修正するのが当然だ」という結論に持っていこうとしています。巧妙というか、アホらしくて問題にもなりません。)

                                     

                                     

                                     

                                     

                                    首相が規制改革の意向を表明しても実現できていない改革なんて、腐るほどある。だから、「総理のご意向」があるから逆らえなかったというのは間違っている。

                                    安倍内閣が人事権を握っているから逆らえないともいわれるが、本当に日本のために必要だと思うなら、クビを恐れずにやればいい。自慢する気はないが、竹中氏の秘書官として不良債権処理をやっていたときは、竹中氏が失敗したら私も辞めるつもりでいた。人事権を握られたぐらいで何もできないなんて、その程度の志しかない人間が偉そうにモノを言うなと思う。(やれやれ。岸博幸氏よ!あなたたちが「不良債権処理」とやらをやっていたとき、それを妨害する総理や官邸からの圧力があったのか?小泉総理はあなたたちを全面的にバックアップしていたではないか。)

                                     

                                     

                                     

                                     

                                     前川氏の座右の銘は「面従腹背」だそうだが、論外だ。(岸氏よ、論外はあなたの方だ!そもそも岸氏には「面従腹背」が理解できないのです。本物の国語力は生き方とリンクしているから。前川氏は最終的に国民のことを考えていたからこそ、「面従腹背」を座右の銘とし、精神の平衡を保っていたのです。岸氏のように保身のために「面従」するしか能のない人間に理解できないのも無理はありません。それでいて前川氏を「官僚のクズ」呼ばわりするのですから、どこまで幼稚で「バカ」なのでしょうか。理解できないものを生理的に嫌悪するというネトウヨの生き方を内面化しています。デカルトの「仮装されたポリティーク」でも読んではどうか。どうせ理解できないでしょうが。)

                                     

                                     

                                     

                                    疲れたのでやめにします。長い文章をここまで読んでくれた中高生がいるでしょうか。もしいたとしたら、心からありがとうと言いたいです。私が『本物の国語力は生き方とリンクしている』を書いたのも、皆さんに本物の知性を身につけてもらいたいという一心からでした。またお会いしましょう。

                                     

                                    | 中高生の皆さんへ | 13:05 | comments(0) | - |
                                    小学生の英語の授業風景−その1。
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                                      今回は未来塾の小学校6年生の英語の授業を紹介します。使用しているテキストは英検や高校入試を意識したものではありません。中学校の教科書でもありません。テキストは以前紹介したBeatrix Potterさんの『 Peter Rabbit 』です。

                                       

                                       

                                       

                                       

                                       

                                       

                                      ちなみに、この画像にある3ページ分の英語を書き出してみます。

                                       

                                       

                                      Peter gave himself up for lost, and shed big tears ; but his sobs were overheard by some friendly sparrows, who flew to him in great excitement, and implored him to exert himself. Mr. McGregor came up with a sieve, which he intended to pop upon the top of Peter ; but Peter wriggled out just in time, leaving his jacket behind him, and rushed into the tool-shed, and jumped into a can. It would have been a beautiful thing to hide in, if it had not had so much water in it.

                                       

                                       

                                      この英文を小学校6年生がスラスラと音読します。しかも全部読むのにかかる時間はストップウオッチではかると30秒弱です。その後全文暗唱し、最後は暗唱した英文をテキストを見ずに書ける(暗写)ようになっています。

                                       

                                       

                                       

                                      御存じの方も多いと思いますが、この文は『 Peter Rabbit 』の中の難しい部分ではありません。この本は半分が可愛らしいイラストですが、それを除くと、このレベルの英文が合計35ページあります。

                                       

                                       

                                       

                                      私は文法の説明をほとんどしません。ただ、文の意味は情報提示の流れを意識させながら何度も説明します。次に、英語を見ずに、まず日本語でストーリーを再現してもらいます。この部分が重要です。なぜなら、丸暗記するだけでは、いったん英語を忘れると続きが出てこなくなるからです。「続きはどうだったかな。忘れたら、日本語で言ってみて」と促します。

                                       

                                       

                                       

                                      以下は生徒とのやり取りです。

                                       

                                      「グースベリーのネットにつかまったピーターはどうした? gave himself up for lost したんだね。それで大粒の涙を流している。じゃあ、gave himself up for lost はどんな意味?」

                                       

                                      「お父さんと同じようにパイにされると思った。あきらめた。」

                                       

                                      「その通りだね。君たちがそういう状況になったときのことを想像して、この言い方を覚えて。(この時点で、消える音、つながる音を教えているので、子供たちは見事に発音します。読めなければ覚えられないのです。しかも日本語のように一語一語区切って読んだのでは、リスニングができなくなります)」

                                       

                                      「それから、ピーターの泣き声を聞いたスズメたちは、どうしたの。そう、飛んできたんだね。そのときスズメたちのようすはどうだった?」

                                       

                                      「みんなパニックだった。」

                                       

                                      「そうだね。それを表わすのが in great excitement という表現だね。この in という小さな単語に注意して。それからどうしたの。」

                                       

                                      「ピーターに逃げてくれと言う」

                                       

                                      「それが imploreという単語。implore は難しい単語だけど、もうダメだとあきらめたピーターを励ますように、頼むように発音しないとね。そこにマクレガ―さんがやってくる。seive はどんな意味だろう。イラストを見るとわかるよ。」

                                       

                                      「ざる!」

                                       

                                      「う〜ん、イラストをよく見て。ざるかな?」

                                       

                                      「ふるい!」

                                       

                                      「正解!よく知ってるね。(それからひとしきりふるいについて説明する)」

                                       

                                       

                                       

                                      こういったやり取りが発音の矯正とともに続きます。まかり間違っても、下線部の「, who」や「, which」は関係代名詞の非制限用法、「, leaving」は分詞構文。最後の would have been は仮定法過去完了などと口にしてはなりません。もちろん中学生に対しても同様です。

                                       

                                       

                                       

                                      メタ言語(言葉そのものではなく、その言葉の文法構造を説明する用語)を教えることは、高校生なら多少意味がありますが、小学生に教えてはなりません。それは発話の意欲をそぐだけです。ひいては生き生きとした想像力を枯渇させます。

                                       

                                       

                                       

                                      would have been (ウダヴベン)の説明より、まず「あのとき〜していたら、・・・だったんだけど」という言い方を「日本語で」できるだけ多く発表させます。日本語に対応する英語の言い方があるんだと安心させるためです。もちろん対応する言い方がない場合もあります。それはそれで、また深い勉強になります。

                                       

                                       

                                       

                                      いずれにせよ、私は中学受験のための対策や先取り学習はしません。必要性も有益性も感じられないからです。ましてや、中学受験に特化した都市部の塾(四谷大塚やY-SAPIXなど)のテキストを使っていることを宣伝したり、授業の代わりに業者の作成したDVDを見せて上前をはねるようなことはできません。それより、小学生の時期は、身体を鍛え、想像力を膨らませ、自然の不思議に目覚めさせる時期です。自然は混沌としていて、偶然性と例外に満ちています。すぐに「わかった」「できた」というのは、何かをじっくり探求する精神から最も遠いのです。

                                       

                                       

                                       

                                      それでなくても、ネット社会の出現で、物事を調べるあらゆるプロセスが殺菌され漂白されています。効率よく知識に到達できるので、学びのリアルさが失われてしまったのです。それは生きるということそのものからリアルさが失われることを意味します。世界のあらゆる発明や発見は偶然の僥倖による副産物なのです。当初の予想が外れたことで何かに偶然出会う。そんな経験を蓄積し、受容する場が減っている気がします。

                                       

                                      | 教育 | 21:39 | comments(0) | - |
                                      それでも世界はうつくしいと。
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                                        11月19日のブログを書いた時、頭にあったのは、イサム・ノグチのような突出した芸術家は、社会的な階層からも、教育制度がもたらす様々な制約、弊害からも自由であるということでした。

                                         

                                         

                                         

                                        つまり、彼の作品は、言葉や数式によって精緻に組み立てられた意識的な世界ではなく、身体感覚を全開にして自然の発するメッセージを受けとめている宇宙的でエロス的(生命の根源にあるもの)な作品なのです。

                                         

                                         

                                         

                                        そのとき、ワインの話をしました。ワインの味はつまるところ文化的・社会的階層で決まるもので、単なる味覚の問題ではないということを指摘しました。なぜそんなことを話したかというと、ワインの味を最終的に決めるのは生産地の歴史や文化であり、文化である以上、個性的で大量生産にはなじまないもののはずだと言いたかったのです。

                                         

                                         

                                         

                                        ワインを「純粋に味覚の問題」だと考えるのは、偏差値に代表される線型の序列性の上に子供たちを位置づける教育のようなものです。偏差値は「テイスティングシート」によって子供たちを「識別」する役割を果たすだけです。一方で、様々な障害を持つ子供たちは「不良品」として別の「市場」に供給されます。

                                         

                                         

                                         

                                        大分県立美術館(OPAM)でイサム・ノグチ展を見る。」

                                        http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=428

                                         

                                         

                                         

                                        「そのときテイスティングシートに書かれる言葉は、隣接する数十種類のワインを「識別」するための言葉ではあっても、ワインの味そのものを表現する言葉ではないということです。仮に自由に表現できたとしても、それはある種の「芸風」の域を出ません。差異を識別するだけの言葉は、おそらく何かを探求する言葉としては使えないのです。これはとても大事なことです。」

                                         

                                         

                                         

                                        「よく考えてみると、私たちが「味覚」という身体性にもとづく独自性の根拠としているようなものも、実は自分がある特定の社会的な諸関係・階層に集団として属していることを語っているに過ぎません。それは自分がどの位置にいるかということを教えてくれはしますが、自分の存在の根拠になるものではないのです。」

                                         

                                         

                                         

                                        現在、日本の教育は、子供たちに将来少しでもいい値がつくように、つまり自己利益の最大化に奉仕することを目標に運営されています。子供たちは受験という「公平で平等で客観的な」関門をくぐるようになっているのですが、裏で合否を大きく左右している文化的・社会的階層をロンダリングする機能を果たしているのです。

                                         

                                         

                                         

                                        日本の高学歴「エリート」たちは、表向きは受験勉強の勝利者として自分がある特定の社会的な関係・階層に集団として属していることを意識しています。(意識していなければ単なるバカです。)それに見合った様々な特権を当然だと思っていることでしょう。しかし、繰り返しになりますが、それは自分がどの位置にいるかということを教えてくれるだけで、自分の存在の根拠になるものではないのです。

                                         

                                         

                                         

                                        人間とは不思議な存在です。社会的な成功を遂げても、どこかで自分の存在の根拠になるものを探さざるを得ない生き物だからです。それを放棄すれば内部から腐っていくほかありません。それについてはすでに書きました。

                                         

                                         

                                         

                                        「自壊する日本の高学歴「エリート」たち」

                                        http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=279

                                         

                                         

                                         

                                        日本の教育がめざすべき方向は、人口減少社会の到来を繰り込んだ上で構想されなければなりません。それについては近いうちに書く予定です。

                                         

                                         

                                        さて、高学歴「エリート」たちだけでなく、中高生の皆さんの中で悩み、ひとり震えている人に言いたいことがあります。それでも「世界は美しい」と。

                                         

                                         

                                        以下は「長田弘・全詩集」の518ページから抜粋したものです。

                                         

                                         

                                         

                                        世界は美しいと

                                        長田弘

                                         

                                        うつくしいものの話をしよう。

                                        いつからだろう。ふと気がつくと、

                                        うつくしいということばを、ためらわず

                                        口にすることを、誰もしなくなった。

                                        そうしてわたしたちの会話は貧しくなった。

                                        うつくしいものをうつくしいと言おう。

                                        風の匂いはうつくしいと。渓谷の

                                        石を伝わってゆく流れはうつくしいと。

                                        午後の草に落ちている雲の影はうつくしいと。

                                        遠くの低い山並みの静けさはうつくしいと。

                                        きらめく川辺の光はうつくしいと。

                                        おおきな樹のある街の通りはうつくしいと。

                                        行き交いの、なにげない挨拶はうつくしいと。

                                        花々があって、奥行きのある路地はうつくしいと。

                                        雨の日の、家々の屋根の色はうつくしいと。

                                        太い枝を空いっぱいにひろげる

                                        晩秋の古寺の、大銀杏(おおいちょう)はうつくしいと。

                                        冬がくるまえの、曇り日の、

                                        南天の、小さな朱い実はうつくしいと。

                                        コムラサキの、実のむらさきはうつくしいと。

                                        過ぎてゆく季節はうつくしいと。

                                        さらりと老いていく人の姿はうつくしいと。

                                        一体、ニュースとよばれる日々の破片が、

                                        わたしたちの歴史と言うようなものだろうか。

                                        あざやかな毎日こそ、わたしたちの価値だ。

                                        うつくしいものをうつくしいと言おう。

                                        幼い猫とあそぶ一刻はうつくしいと。

                                        シュロの枝を燃やして、灰にして、撒く。

                                        何ひとつ永遠なんてなく、いつか

                                        すべて塵にかえるのだから、世界はうつくしいと。

                                         

                                        | 中高生の皆さんへ | 16:00 | comments(0) | - |
                                        英語教育を云々する前に、人間としてやるべきことがある。
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                                          たまには教室風景でも書いてみましょうか。以下の数学の問題は、二日前の中学3年生のクラスで解いたものです。問題のレベルは特別なテクニックや数学的センスを要するものではなく、じっくり集中して考えれば解けるものです。意欲のある中学生のみなさんは挑戦してみて下さい。塾では8人中6人の生徒が正解しました。

                                           

                                           

                                           

                                           

                                           

                                           

                                          毎年この時期になるとこれまで学んだ知識を総動員しなければ解けない問題にチャレンジしています。一見すると問題は難しくなります。しかし逆に言えば楽しくなるのです。数学は試行錯誤の楽しさそのものだと言ってもいいくらいです。

                                           

                                           

                                           

                                          たとえて言えば、名前と使い方を覚えた大工道具を使って実際に椅子やテーブルやチェストなどを作る工程に入るわけです。この工程を抜きにしては大工道具の使い方を本当に身につけたとは言えません。

                                           

                                           

                                           

                                          つい先日も大工のナベさんに室内のリフォームをお願いしました。温めていたアイデアを伝えると即座に理解して材料を準備してくれます。下準備の時間を含めてわずか2時間、材料費込みで2万円の仕事でしたが、その手順といい、正確さといい、いつもながらのスピードには感嘆するほかありませんでした。相方のOさんのユーモアたっぷりの話しぶりも何とも云えず心がなごみます。大げさではなく、二人の身のこなしはアートそのものです。おそらく数学の問題を解く楽しさの本質はアートなのです。

                                           

                                           

                                           

                                          話を元に戻しますが、私は生徒に問題を渡すとき次のように言います。「この問題を解くのに必要な知識は相似と三平方の定理をはじめとして全部で5つあります。残りの3つは何か考えて下さい。後は、知識の組み合わせ方と集中力、自分のやり方が正しいと思えばそれを押し通す勇気が必要です。解き方の分からない問題を前にして考えているときほど充実した時間はないね。解けなければ宿題にします。帰宅してからも考える楽しみがあるのですから最高のプレゼントでしょ。」と。

                                           

                                           

                                           

                                          最初の頃は「マジかよ〜」という表情をしていた生徒も、最近ではまんざらでもないようです。試行錯誤の果てに、いくつかの定理や基本的な知識を組み合わせることで正解に近づいていることを実感すること、言い換えれば、それまで思ってもみなかった地平に立っている自分を発見できることが数学の醍醐味ですね。

                                           

                                           

                                           

                                          そういうわけで、塾の授業から数学をはずせません。週2回、英語だけに特化した塾にすれば、中学卒業時点で塾生全員とは言わないまでも、8割の生徒を英検2級に合格させる自信があります。現に、いつの間にか2級に合格し、準1級にチャレンジしている生徒もいます。

                                           

                                           

                                           

                                          しかし、私たちの国で生きて行くのに英語がそれほど必要でしょうか。英検2級に合格しても、高校入試や大学入試で考慮されることはありません。準1級や1級に合格していれば大学入試で多少は有利になるかもしれませんが、社会に出て仕事に役立つかと言えば、まずそれはないでしょう。中国語ができる人の方が需要はあるでしょう。英検は英語の勉強を続ける意欲につながると思う人が個人的に受験すればいいだけのことです。

                                           

                                           

                                           

                                          身も蓋もないことを言えば、日本人が英語を話せないのは技術的なこともありますが、話したいことがそもそもないのです。私はブログを書く前に、内容をすべて英語で発表することをシュミレーションしています。たとえつたない英語でも、聞くに値する中身があれば、耳を傾けてくれる人はいるのです。

                                           

                                           

                                           

                                          日本の学校教育では、たとえ少数意見であれ、自分の意見を堂々と発表できるだけの意欲を育てていません。空気を読むだけで、他者に向けて自分の意見を発表する意欲のない若者を育てておきながら、いったいどうやって外国語を勉強しろと言うのでしょうか。

                                           

                                           

                                           

                                          それにしても、ろくに英語もできない財界人がグローバリスト養成に躍起になるのはどうしてでしょうか。その方が日本の富をたやすくアメリカに売り渡せるからです。肌の色は黄色ですが、中身は「名誉白人」になろうとしている人間のなんと多いことか。英語教育を云々する前に、人間としてやるべきことがある筈です。

                                           

                                           

                                           

                                          森友学園の籠池氏は、下手をすれば偽証罪に問われるリスクを背負って国会で証言しました。しかし、安倍政権は何一つ情報も出さず、証拠となるべき公文書は廃棄されたことになっています。籠池氏は、そんな安倍政権に嘘つき呼ばわりされた挙句、裁判も受けられないまま4ヶ月も勾留されています。

                                           

                                           

                                           

                                          一方、学園に深く関与し、国有地取引に「神風」を吹かせた昭恵夫人は安倍首相と自民党に守られて自由を謳歌し、加計学園の加計考太郎氏は雲隠れしたままです。私はこの状況をなんとかすることの方が、英語ができるバカを育てるよりはるかに重要だと思います。これが人間としてやるべきことです。そうではありませんか?

                                           

                                          | 教育 | 14:01 | comments(0) | - |
                                          ネトウヨ塾長とそれを礼賛する塾教師−教育の失敗と敗北について。
                                          0

                                            安倍政権が登場してからの5年余り、今だけ、金だけ、自分だけといった空気を作り上げ、民主的な社会を破壊してきたのはネトウヨの皆さんの働きによるところが大きいと思います。

                                             

                                             

                                             

                                            この間の社会の変化を見てきた前文部事務次官の前川喜平氏は、ネトウヨの皆さんを「教育の失敗」だと総括しました。まったくその通りです。それに対してネットでは「お前こそ教育の失敗だ」とか「週4回出会い系バー通いのおっさんに言われたくね〜よ」などという批判が寄せられています。やれやれ、あいかわらずネトウヨの親分の言うことをそのまま鵜呑みにしているのですね。

                                             

                                             

                                             

                                            しかし、ネトウヨはまさに「教育の失敗」なのです。彼らの発想や行動には、理解できないものを憎むという生理が深く根付いています。歴史的な事実(例えばナチスによるホロコーストなど)を挙げて説得しても、それを捏造だと主張し、自分が理解できることだけが現実であるという歪んだ考えから抜け出ることができません。

                                             

                                             

                                             

                                            彼らはお金をもらって「愛国」を叫ぶことしかできないのです。「日本スゴイ」だの「中国人、韓国人は悪い連中だ」「トランプさんに北朝鮮を叩き潰してもらおう」「安倍さんを応援しよう」「軍事費をもっと増やそう」などとSNSを通じてわめきちらします。しかし、彼らは企業や団体や特殊な宗教団体からお金をもらって、ウソを流すことに精を出しているだけです。

                                             

                                             

                                             

                                            具体例を挙げましょう。言わずと知れた大分市中春日町にあるY田ゼミ塾長氏です。この際はっきりさせたいのですが、こんな人間が教えている塾に通ってはなりません。言論の自由すら全くもって理解していないのですから。彼が私と同じ個人塾の教師ではなく、学校の教師やコンプライアンスのしっかりした塾に勤めていたら以下の発言は許されるでしょうか。彼のツイッタ―から少し拾ってみましょう。

                                             

                                             

                                            ・山尾しおりは不正だろ

                                            ・大分高専はエロの集まりやな(^O^)欲求不満だらけなんだろう。

                                            ・谷口とかいう左翼のデブババアを朝からテレビに出すなよ(怒)吐き気がする。デブのくせしてアゴを上げて笑うな、デブ!

                                            ・早く北朝鮮を攻撃してもらいたい

                                            ・早くこのデブジョンウンを殺して欲しい

                                            ・これで安倍内閣の支持率がさらに上がる。

                                            ・憲法9条と叫ぶバカが多いが、憲法9条があっても日本を守ってはくれない。

                                            ・日本から先制攻撃していいんじゃないのか?

                                            ・民進党の代表は北朝鮮のスパイ

                                            ・早く民進党を叩きつぶせ

                                            ・トランプさん、 早く北朝鮮をtotally destroyしてください。

                                            ・青木理というジャーナリストは信用するな。こいつは北朝鮮や韓国の応援団だから。

                                             

                                             

                                             

                                            こういった発言をする人物が「教育の失敗」でなくてなんでしょうか。思想信条とは関係なく、点数を上げてくれるなら教師としての資質を問う必要はないのでしょうね。月謝を払いその対価として成績が上がるなら、その他のことには目をつぶるのでしょうか。

                                             

                                             

                                             

                                            これこそが消費社会が生んだコスパ万能主義の宿痾です。こういった考え方は学校現場のみならず保護者の間にも広く深く浸透しているはずです。

                                             

                                             

                                             

                                            さらに、別人になりすますために独身であることを強調して塾紹介サイトを立ち上げ、その中で自塾を宣伝するといった手の込んだ「集客作戦」に打って出る、大分市田尻の学習空間 K 塾長のような教師もいます。

                                             

                                             

                                            あろうことか、このなりすましの塾長 K氏は、Y田ゼミを「子供がいたら是非とも通わせたい5つの塾」というタイトルをつけて推薦しています。5つの塾の中に未来塾も含まれていたので私は抗議しました。削除するつもりは全くない、自分のやったことは許容範囲だと強弁していたにもかかわらず、サイトは削除されました。なりすまし塾長K氏には、私の塾とY田ゼミの違いが理解できなかったのでしょう。私が親なら子供をこんな塾には絶対に通わせません。

                                             

                                             

                                             

                                            なぜなら、こんな教師に教えられる子供は、現実そのものに関心を失い、ネットに依存し、命よりも消費と娯楽だけに関心がある大人になる可能性が高いからです。それが証拠に K 氏は自分をゲーマーだといっています。そういう人間を大量に生み出していることに無自覚な人々が多くなっていることが「教育の敗北」なのです。

                                             

                                            | 教育 | 00:43 | comments(0) | - |
                                            本物の国語力は生き方とリンクしている。
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                                              以前ブログでも書きましたが、私は塾や予備校さらには学校で言うところの「国語力」なるものを信じていません。なぜか?教えている側の「国語力」の中身があまりにお粗末だからです。特に塾や予備校のそれは、「論理的思考力を鍛える」と銘打っただけの抽象的記号操作に過ぎません。入試対応という枠の中に安住して、過去の入試問題にある種の法則(陳腐極まりない形式的なものです)を当てはめ、その法則に習熟すれば「短期間に」「結果を出す」ことができると宣伝します。

                                               

                                               

                                               

                                              具体例を挙げてみましょう。あまりにばかばかしいと思う方は、読み飛ばして下さって結構です。

                                               

                                               

                                               

                                              小説を例にとりましょう。主人公の女の子が、クラスでいやがらせを受け、耐えられなくなって突然泣き出すシーンがあります。設問は、「なぜ主人公は突然泣き出したのか、30字以内で答えなさい」というものです。

                                               

                                               

                                               

                                              「仲良くしていた友達にいやがらせを受け、耐えられなくなったから」は間違いです。なぜか。この答案には主人公の感情や気持ちを表す言葉(感情語)が入っていないからです。正解は「それまで仲良くしていた友達に裏切られ、仲間はずれにされたことで孤立感(疎外感)を感じたから」です。

                                               

                                               

                                               

                                              中学受験や高校入試の答案の書き方対策として塾の教師は次のような解説をするでしょう。「事実だけを書くんじゃなくて、主人公の心情を表わす言葉を書かなければ得点になりません。孤立感といったキーワードを書くことで合格に近づきます。」

                                               

                                               

                                               

                                              ここまで読んで、なるほど、これが合格答案を書くためのトレーニングなのかと感心された方はいるでしょうか。これなら塾に月謝を払う意味があると思われたでしょうか。大学受験対策の国語の授業ですら、本質は変わりません。

                                               

                                               

                                               

                                              しかし、この種の解説は、本来多様な読み方が許されているはずの読解を最大公約数的な地点(10人中8人がそう書くだろうと予想される点)に誘導するものです。人間が泣くのは孤立感や疎外感を感じた時だけでしょうか。「いやがらせを受けている最中に、突然、死んだ母親の優しさを思い出したから」はバツなのでしょうか。あるいは「友達のやっていることがあまりに幼稚でバカバカしいことに気づき、泣かずにはいられなくなったから」はどうでしょうか。

                                               

                                               

                                               

                                              もちろん入学試験である以上、与えられた文章から「合理的に」導き出される答案が正解になるのは仕方ありません。最大公約数的な答案からの偏差が得点に影響するのも分かります。しかし、これはカッコつきの特殊な受験対応の「国語力」の話であって、決して言葉の力や考えることの素晴らしさを教えるものではありません。

                                               

                                               

                                               

                                              以前センター試験の国語の評論が分からないという生徒に、私は半ば冗談で、実は本気で次のように言ったことがあります。

                                               

                                               

                                               

                                              「こんなわけのわからない文章は分からなくて当たり前だよ。おそらく書いている本人も自分が何を言っているか分かっていないだろう。筆者が自分の考えを本気で伝えたいと思っているなら、文章は単純明快、誤解の余地のないように書くものだよ。でも、誤解の余地がない文章は入試問題にならないからね。あちこちに意味不明な言い回しや、持って回った表現、難解な語句がある悪文だからこそ入試問題になっているのさ。だから本文の意味や、筆者の考え方を理解しようと思ってはいけない。出題者の意図を読み解くこと、すなわち正解の選択肢を隠すパターンを類型化しておくことだね。つまりゲーム感覚で、消去法でいくしかないのさ。まかり間違っても、この種の問題ができる人間は頭がいいのだと絶対に思ってはならない。むしろ逆だね。パターン化されたことを短時間で効率よくこなす事務処理能力の問題なのだ。」

                                               

                                               

                                               

                                              では次に「国語力」ではなく、本物の言葉の力を身につけ、考えることの喜びを実感できる方法について話しましょう。

                                               

                                               

                                              それは、本当に言いたいことのある人間が、自らの不利益を覚悟の上で書いた文章を読むことです。それは単純明快で、普遍性に富んだ力強い文章のはずです。そういった文章を発表するには勇気がいるはずです。何度も発表を止めようと考えたはずです。でも言わずにはおれない。それをやめれば自分がこの世界に生きている意味がなくなるという切迫感が伝わってくる文章です。それが以下に挙げる元日本代表ラガーマン平尾 剛氏が書いた「反東京五輪宣言」です。是非全文をお読みください。

                                               

                                               

                                              私はこういった文章が「国語の授業で」取り上げられることを心から願っています。そして、難解な文章を読み解くのではなく、いかにしたら単純明快で分かりやすい文章を書けるかに的を絞った授業が当たり前になる日が来ることを。

                                               

                                               

                                               

                                              反東京五輪宣言

                                              http://www.sumufumulab.jp/sumufumulab/column/writer/w/6

                                              平尾 剛(神戸親和女子大学講師)

                                               

                                               

                                              3年後に東京でオリンピック&パラリンピックが開かれる。どうやらそういうことらしい。
                                               そういうことらしい? 今さらなにを言っているのだ?
                                               高みから見下ろすような白々しいこの物言いに難癖をつけたくなる読者はおそらく山ほどいるはずだ。しらばくれるつもりはもちろんないが、その気持ちはよくわかる。がしかし、つい嘯(うそぶ)いてしまいたくなるほどにリアリティが感じられないのが今の僕の偽らざる実感だ。

                                               



                                               大会組織委員会が運営する公式サイトによれば、開幕まで2020日となる2015年1月12日を皮切りにカウントダウンイベントが行われており、あと1000日となる10月28日にも各地で催されたばかりらしい。街ですれ違うスーツ姿の人の胸にエンブレムを象ったバッジを見ることもあるし、テレビをつければ関連ニュースがたまに目にとびこんでくる。もしかすると僕の知らないところで着々と機運が醸成されつつあるのかもしれないが、今のところその盛り上がりを肌感覚としては感じられない。僕が東京からはほど遠い神戸に住んでいることも、あるのかもしれない。

                                               



                                               回りくどい言い方はこのくらいにして、率直に言おう。
                                               僕は東京オリンピック&パラリンピック(以下、東京五輪)は返上すべきだと思っている。
                                              「リアリティを感じない」のは、開催が現実化して欲しくないという願望を強く抱きながらも、元アスリートとして正面から反対の声を上げることをためらっていたからである。

                                               



                                               過去も現在もスポーツの恩恵に与る立場の人間がスポーツの祭典を批判してもよいものだろうか。アスリートのための4年に一度の晴れ舞台を元アスリートが否定することは、つまりのところ自己否定につながるのではないか。そう自問自答してきた。

                                               

                                               


                                               主張したいことが明確にあるにもかかわらず、それを口にすることは憚られる。アクセルとブレーキを同時に踏み込んでいるような状態に耐えかねて、東京五輪関連のニュースを知らず知らず遠ざけているうちに、だんだんリアリティがなくなっていった。ここではないどこかで粛々と進行していることとして決めつけて、思考を手放すことによって楽になろうとしていたのだった。

                                               

                                               


                                               でももうやめにする。元アスリートでスポーツを愛する一人の人間として、これ以上は黙っていられない。競技者の理想を脇に置きつつ、権力者は「レガシー」作りのため、資本家にとっては商機をつかむための巨大なイベントにオリンピックが成り下がっている現状に、一言物申したい。

                                               

                                               



                                               思い起こせば東京招致が決まったときからキナ臭さに溢れていた。2013年9月7日にブエノスアイレスで行われたIOC総会で安倍首相は、「フクシマについて、お案じの向きには、私から保証をいたします。状況は、統御されています。東京には、いかなる悪影響にしろ、これまで及ぼしたことはなく、今後とも、及ぼすことはありません」と述べた(首相官邸のサイトより)。だが現実はというと、放射性汚染水は今も増え続け、制御どころか今後の見通しすら立っていない。我が国の首相は世界に向けて力強く「アンダーコントロール」と口にしたが、その内実は虚偽であった。

                                               



                                               さらに招致に関していえば、あの裏金問題も未解決のままだ。

                                               招致委員会からシンガポールのブラック・タイディングス社の代表イアン・タン氏にコンサルタント料が支払われていたことが国会で問題になった。金額にして2億円超の大金が、築50年近く経った古い公営住宅の一室を所在地とする同社に振り込まれていたのである。このイアン氏は、国際陸連前会長で国際オリンピック委員会(IOC)の選考委員でもあるラミン・ディアク氏の息子パパ・マッサタ・ディアク氏と深い関係にあることから、票集めのための裏金ではないかとの疑惑がもたれている。

                                               



                                               昨夏に行われたリオデジャネイロ五輪でも同様に、ブラジル側から同社にたいして多額の金額が支払われていることが明らかになった。開催国の招致委員会から同一人物が経営する会社に多額の金が支払われているという偶然の一致が意味するところは推して知るべしである。

                                               



                                               2017年9月13日付のイギリス「ザ・ガーディアン」は、この両五輪の裏金問題について新展開があったと報じている。ブラジル連邦検察局はこの支払いについて「IOC内部に強い影響力を持つラミン・ディアクの支援と票の買収の意図を持って」2016年リオ、2020年東京の招致成功のためになされたという結論を出した。それを受けて調査に乗り出したブラジル司法当局は同年10月5日、開催都市決定で投票権を持つIOC委員の買収に関わった疑いでブラジル・オリンピック委員会のヌズマン会長を逮捕した(本人は容疑を否認している)。

                                               



                                               これら送金の事実は、国際陸連の汚職と資金洗浄を調査していたフランスの検察局が明らかにしたわけだが、その調査を受けたブラジル当局は贈賄を認め、それに関わる人物を逮捕した。これに対して日本ではまだ詳細が明らかにされていない。だが、これら一連の報道から推測すれば、日本も限りなく「クロ」であると判断するのは妥当だろう。もしも潔白であるとするならば、可及的速やかに説明していただきたい。

                                               



                                               フクシマを蔑ろにした虚偽発言、未解決なままの裏金問題、この二つだけでも十分に返上に値する理由になる。さらにその他の東京五輪にまつわる報道を見渡せば、どこをどう考えても開催を見送るべきという結論にしか至らない。新国立競技場建設にまつわる諸問題(今年の7月には建設現場監督の過労自殺事件も報道された)、エンブレムの盗用疑惑から競技会場をめぐる問題まで、挙げていけばきりがない。これらを合わせ読むと、いかに「開催ありき」で事が進んでいることは明らかである。理念がまるで感じられないこんなハリボテの大会は、もうやめにしたほうがいい。

                                               

                                               



                                               内田樹氏は、未来のスポーツ紙に「金で票を買って招致した五輪は、この東京五輪が最後になった。経済浮揚効果を狙っての招致だったが、所期の効果は得られず、経済はさらに失速し、社会制度全般の劣化をもたらし、『亡国のイベント』と呼ばれた」と書かれることが確実だとSNSで発信している。僕もそうなる気がしてならない。

                                               

                                               



                                               東京五輪の開催をめぐり、逡巡のうちに日々を過ごしていた僕が、友人の勧めで手にしたのが『反東京オリンピック宣言』(小笠原博毅・山本敦久編、航思社)だった。 
                                               この本にはスポーツを、オリンピックを、その本質から捉え直そうとする重厚かつ深遠な論考が収められている。どれも読み応えがあり、恥ずかしながら僕はこの本を読んで初めて知った事実がたくさんある。中でも特筆すべきは、オリンピックを真っ向から批判している現役のアスリートがいたことである。ノルウェー出身のプロスノーボーダー、テリエ・ハーコンセン選手だ。

                                               

                                               



                                               IOCが国やスポンサー、選手に求める欲求が非常識で受け入れ難いとして、彼は1998年長野オリンピックの出場をボイコットした。スノーボードの歴史や文化に対する敬意が一切存在しないIOCを自分たちは必要としないという意思を表明したのだ。

                                               



                                              「オリンピックでは、自分の荷造りすらさせてもらえない。あらゆるメディアを統制したいという理由から、ソーシャル・メディアでさえ自由に使わせてもらえない国もあるようだ。スポンサーにも統制される。急にコカ・コーラやマクドナルドを宣伝しなければいけないことになる。なんでこんなことに付き合わなければいけないのか、僕には理解できない。」

                                               



                                               ここだけを読めば自由への希求が彼をそうさせていると思われるが、本質は別のところにある。次を読めば彼が抱いている危機感の射程の遠さに思いが及ぶだろう。

                                               



                                              「(……)オリンピックのせいでハーフパイプは過去十年ほぼ何の変化もしていない。同じ形式で、同じパイプで、選手がどんなことをするのかさえ簡単に予想できてしまう。
                                               ひどく停滞しているんだ。三位、あるいは三位とは言わずとも、どうしたら入賞できるかを選手達は把握している。アクションスポーツが築きあげてきた自発的創造性がそこには存在しない。」

                                               



                                               スノーボードの一種目であるハーフパイプ全体の競技レベルの停滞を彼は憂いている。その要因として、入賞を目標に、高得点を目指してミスなく滑ることを最優先にするときに失われる「自発的創造性」を挙げ、過度な競争的環境がパフォーマンスの向上を阻害することを危惧しているのだ。

                                               

                                               


                                               共同体内での競争相手にいかにして勝つのかに腐心するのではなく、勝ったり負けたりしながら互いに切磋琢磨することで、その共同体が全体としてより高みに至ることを彼は望んでいる。スポーツが単なる精神修養や身体訓練、名声や金を得るための手段ではなく、その本質にあるアートな部分を彼は全力で守ろうとしている。彼が抱く問題意識はとても高い。

                                               



                                               ラグビーにおいても各チームの戦い方が画一化しつつあるように僕は感じている。競争に勝つことだけが主題になれば効率的な戦法が選択されるようになる。リスクを伴うチャレンジングな姿勢はその陰に隠れ、その状態が続けばいつのまにかラグビー界全体がシュリンクしてゆくのは自明だ。戦術の進化と画一化を見極めることは容易ではないが、少なくとも勝利至上に傾きすぎないようアンテナを張っておくことは不可欠だ。テリエ・ハーコンセン氏の言う「自発的創造性」が発揮できる環境を守ること、そのためには関係者一同が目の届く範囲で点検し続けなければならない。

                                               

                                               


                                               自発的創造性こそがスポーツ選手にとって醍醐味だ。この意味でスポーツはアートの要素を含んでいる。勝敗を競い合うのはあくまでも副次的なものに過ぎない。

                                               



                                               話をオリンピックに戻す。
                                               オリンピックが金まみれなのは今さらいうまでもないことで、これをとぼけてみせるほど僕はナイーブではない。ただそれを知った上でもまだオリンピックを支持する人たちはいる。

                                               



                                              「それなのに人びとはオリンピックを支持する。なぜか。マネーを手に入れるため、そして手っ取り早く名声を得るためにオリンピックが必要だと考えているからだ。それがたとえ四年に一度、一人か二人の選手にしか起こらないことだと知っていてもそうなのだ。そして、オリンピックがスノーボードを僕たちの手から奪い取ったということを忘れないでほしい。」

                                               



                                               自身が行うスポーツをオリンピックから守るために彼は声を上げた。彼にとってはもはやオリンピックはスポーツの祭典などではない。スポーツの本質であるアート性を稀釈し、スポーツそのものを骨抜きにするイベントとして憎んでさえいる。スポーツとオリンピックは別離してしまったというハーコンセン氏の主張に僕も同意する。

                                               



                                               オリンピックは巨大公共事業の口実となり、国民の税金を堂々と私物化するための体のよい名目だ。国民統制、監視強化、ナショナリズムの動員など、資本家や権力者によって蹂躙されている。「アスリートファースト」という耳当たりのよいフレーズは、これらを隠すために用いられているに過ぎず、競技者なきところでオリンピックは開幕から運営までが決められていくのだ。

                                               



                                               同書の中で池内了氏は「スポーツはもはやオリンピックを必要としない」と述べている。テリエ・ハーコンセン氏の主張と照らし合わせると、これまで抱いていた様々な靄が晴れて腑に落ちる。

                                               

                                               


                                               そういえば僕の周りにいる生徒や学生たちは、それほどオリンピックに興味を示していない。個人的な憧れは抱きつつも、ここではないどこかよその世界での出来事かのように現実と切り離して、クラブ活動や各スポーツ活動に励んでいるようにみえる。おそらく彼女たちはスポーツに含まれるアート性に魅力を感じ、「自発的創造性」の発揮を楽しんでいるのだと思われる。

                                               



                                               これからはオリンピックのしがらみがないところで、ラグビー指導やスポーツに関する研究を粛々と行っていくことにする。オリンピックを必要としないスポーツのあり方を模索し、それを発信していきたい。

                                               

                                              | 中高生の皆さんへ | 16:29 | comments(0) | - |
                                              大分県立美術館(OPAM)でイサム・ノグチ展を見る。
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                                                11月17日、上高の同級生(3人とも伊方原発差し止め裁判の原告です)と大分県立美術館で開催されているイサム・ノグチ展に行ってきました。彼の作品は折に触れて様々な美術館で見てきましたが、北京ドローイングなど初めて見るものもあり、充実した時を過ごすことができました。

                                                 

                                                 

                                                 

                                                 

                                                ついでに昔の記事も挙げておきます。よろしかったらお読みください。

                                                 

                                                石に訊け イサム・ノグチと宮崎駿

                                                http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=340

                                                 

                                                劣化する日本の中で

                                                http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=177

                                                 

                                                 

                                                展覧会を見た後、3人で昼食を食べながら、私は以下のような話をしました。それはいかなる文化的な階層にも属さないイサム・ノグチの独創性、超越性についてです。

                                                 

                                                 

                                                えっ、そんな話をしながらランチなんて、せっかくの食事がまずくなるのでは?と思う方もいるでしょうね。心配ご無用です。そんなことはありません。たぶん・・。でも私以外の二人はビールやハイボールを飲んでいましたから、私の話はしらふでは聞けなかったのかもしれません。

                                                 

                                                 

                                                 

                                                話の中身は、簡単に言うとこういうことです。例えばヨーロッパにはワインにまつわる歴史があります。それは生活に根づいた長い時間が生み出した文化そのものです。日本人がワインの歴史を勉強し、試飲会場のテイスティングで味を識別し、生産地と収穫年を当てるべくどれだけがんばったところで限界があります。なぜならワインのうまさを識別することは純粋に味覚だけの問題ではないからです。

                                                 

                                                 

                                                 

                                                今仮に味覚だけの問題だとしましょう。ワインの試飲会場で「テイスティング」する際にはソムリエたちは「テイスティングシート」と呼ばれる基準に沿ってワインを評価するそうです。ソムリエたちは試飲用のグラスとテイスティングシートと鉛筆を持って、ワイナリーの担当者のアドバイスを受けながら、ブースを順に移動しながら試飲していきます。

                                                 

                                                 

                                                 

                                                そのときテイスティングシートに書かれる言葉は、隣接する数十種類のワインを「識別」するための言葉ではあっても、ワインの味そのものを表現する言葉ではないということです。仮に自由に表現できたとしても、それはある種の「芸風」の域を出ません。差異を識別するだけの言葉は、おそらく何かを探求する言葉としては使えないのです。これはとても大事なことです。

                                                 

                                                 

                                                 

                                                では、そもそも「美味しい」とか「味覚が繊細である」ということは、何を意味しているのでしょうか。

                                                 

                                                 

                                                 

                                                私は妻の作る味噌汁を美味しいと感じます。特に自家製の麦味噌で作る味噌汁は絶品です。そうなると即席の味噌汁や外食産業で出される味噌汁は飲めません。以前、奥湯河原にある旅館に泊まったとき、朝食に出された味噌汁を飲んでその美味しさに感動しました。なぜでしょう。私の味覚が繊細だったからでしょうか。何のことはない、妻の作る味噌汁とそっくり同じ味だったからです。

                                                 

                                                 

                                                 

                                                何が言いたいのかというと、味覚のような私たちが独自性の根拠にしているようなもの(だからこそ人は美味しいものを求めるのです)の本質は、つまるところそれを生みだしている地域性、社会的階層(どのような社会的集団に所属しているのかということ)が反映されたものに過ぎないのだということです。つまりワインを飲む機会や習慣のない人にワインの味の識別はできないという、ただそれだけのことです。

                                                 

                                                 

                                                 

                                                言い換えると、生まれた時からごく自然に食卓にワインが並んでいる環境で育った人たちにとっては、おそらくワインは美味いかまずいかだけが問題なのです。生産地や収穫年代を懸命に学習し記憶してワインの通になっている人たちとは「文化的資本」の蓄積や厚みが違うということです。

                                                 

                                                 

                                                 

                                                よく考えてみると、私たちが「味覚」という身体性にもとづく独自性の根拠としているようなものも、実は自分がある特定の社会的な関係・階層に集団として属していることを語っているに過ぎません。それは自分がどの位置にいるかということを教えてくれはしますが、自分の存在の根拠になるものではないのです。

                                                 

                                                 

                                                 

                                                イサム・ノグチはこの社会的な諸関係・階層性のくびきから解放された独自の個性の持ち主です。そういう人間が創り出した作品の一部が、今OPAMで展示されています。

                                                 

                                                 

                                                 

                                                それにしても、こんな小難しい話がランチの席にふさわしかったかどうか疑問ですね。でもまあ、空気を読まないことが信条なので、その場で考えたことをしゃべってしまいました。だまって私の話を聞いてくれる同級生の存在はありがたいものです。

                                                 

                                                | 文学・哲学・思想 | 13:23 | comments(0) | - |
                                                民主主義は大学の門前で立ちすくむ。
                                                0

                                                  とうとうと言うか、やはりというか、14日「加計(かけ)学園」(岡山市)の獣医学部新設が認可されました。林芳正文部科学相や大学設置・学校法人審議会(設置審)の面々は、いったい何を議論したのでしょうか。

                                                   

                                                   

                                                  いい歳をして、それなりに地位も収入もあるでしょうに、おバカ連中のケツを舐め(よい子の皆さんはこんな表現を真似してはいけません)出来レースの片棒を担がされただけです。彼らには羞恥心がないのでしょう。自分が何をしているのか自覚できず、倫理観もプライドもないことを天下に公表したのですから。何より国家の崩壊に手を貸したのです。何を大げさな、と言う方もいるでしょうね。私の言っていることが大げさかどうか、いずれわかります。

                                                   

                                                   

                                                  とまれ、国家戦略特区を「活用」して岩盤に穴をあけると言えば聞こえはいいのですが、本質は形式的な合法を盾にとった税金のロンダリング、つまり私腹を肥やすための抜け穴づくりです。これはわが国の大学教育が、単なる利潤追求の道具として「一族のため」の株式会社に改変され、形骸化していることの一例に過ぎません。

                                                   

                                                   

                                                  私はこのことについて既にブログで指摘しています。

                                                   

                                                   

                                                  「大学受験生の皆さん、穴場の大学教えます!」

                                                  http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=385

                                                   

                                                  さらに学長が安倍首相のお友だちである早稲田大学についても書いています。以下の記事を是非ご覧ください。

                                                   

                                                  「早稲田大学のAO・推薦入試について」

                                                  http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=136

                                                   

                                                   

                                                   

                                                  次は慶応大学です。慶應義塾の塾長選はこれまで教職員による投票で得票1位を塾長にするという慣例がありました。最低限の民主主義的手続きが機能していたのです。ところが塾長を決める評議員会は得票2位の元文学部長・長谷山彰教授を選びました。得票1位を塾長にするという慣例を破り、なぜ2位を塾長にしたのか。不透明な選考過程への違和感が学内に広がっているそうです。

                                                   

                                                   

                                                   

                                                  私はこの記事を今年の4月に朝日新聞で読み、日本の大学の私物化がいよいよ本格化するのだと思いました。関連する記事を探していたところ、山田厚史の「世界かわら版」に詳細な経緯が書かれていました。一部を抜粋しますが、是非全文をお読みください。山田厚史氏は信頼できるジャーナリストです。「ドクター勝廚茲衞滅鬚い任垢茵

                                                   

                                                  http://diamond.jp/articles/-/127480

                                                   

                                                   

                                                  引用開始

                                                   

                                                  塾長は、3つの選考過程を経て、約1ヵ月かけて選ばれる。最初の関門は10学部、小中高、職員の12職場がそれぞれ2人の候補者を選ぶ(今年は4月4日まで)。延べ24人が選ばれ、重複して推薦を受けた分を除く19人が今回、候補者になった。それぞれが所信表明し、投票に臨む。職場代表の推薦委員450人が日曜日の三田キャンパスに集まり、最初の投票で5人を選び、その中から3人に絞って評議員会に推薦した。4月16日に行われた投票(3名まで複数連記が可能)は、細田教授230票、長谷山教授217票、医学部長の岡野栄之教授170票。

                                                   

                                                   

                                                   

                                                   20日の臨時評議員会は紛糾した。議長である岩沙弘道・三井不動産会長は「塾長銓衡(せんこう)委員会は長谷山氏を選んだ」と報告、議論もないまま「長谷山候補を塾長とすることにご異議は…」と、いきなり拍手による承認を求めた。拍手の中で「異議あり」の声があちこちから上がった。真っ先に発言したのは附属中学の宮内完二教諭だった。(続きは本文でどうぞ)

                                                   

                                                   

                                                  話はこれだけにとどまりません。今年の10月30日、中央大学でも全く同じ事態が起こったのです。

                                                   

                                                   

                                                  10月31日の朝日新聞によると、中央大学の新しい学長に選ばれた福原紀彦・法務研究科教授(63)について、同大の評議員会と理事会が就任を認めない決定をしたのです。取材によると、新学長案の否決は異例で、同大は今後、理事会を再度開き、対応を検討するとのことです。学長選は10月1日に行われました。酒井正三郎・現学長の任期満了に伴う選挙で、教職員らの投票の結果、再選を目指す酒井氏らを破って福原氏が当選していました。28日に福原氏を学長とする案について評議会と理事会が開かれましたが、福原氏の学長案はともに賛成少数で否決されました。

                                                   

                                                   

                                                   

                                                  民主主義は、国会ばかりでなく、大学の門前でも立ちすくんでいるのです。繰り返しますが、「加計(かけ)学園」(岡山市)の獣医学部が認可されたのは、わが国の大学教育が、単なる利潤追求の道具として「一族のため」の株式会社に改変されていることの象徴なのです。

                                                   

                                                   

                                                   

                                                  こういったことが起きる背景には何があるのでしょうか。それはまた近いうちに論じるつもりです。評論家的な興味からではなく、現実の入学試験制度に適応するしかなく、合格を夢見て日々一生懸命勉強している生徒がどの大学を目指し、大学教育がどのように変貌を遂げようとしているのか、塾の教師として気になるからです。青春の数年を過ごす大学が民主的に運営され、可能性を広げる場所になってほしいと願うばかりです。

                                                   

                                                  | 中高生の皆さんへ | 13:47 | comments(0) | - |
                                                  大分地裁裁判長への意見陳述書
                                                  0

                                                    伊方原発差し止め裁判における過去5回の期日では、原告の思いを法廷で裁判長に直接訴えることが許されていました。しかし、全国的に期日中の意見陳述は制限される方向にあります。そこで原告の想いを「陳述書」という文書にして裁判官に届ける活動が開始されました。

                                                     

                                                     

                                                    「陳述書」の締め切り期日は10月31日でした。約800字という字数制限があったため、私はあきらめていました。原稿用紙2枚で一体何が訴えられるのでしょうか。しかし、締め切り直前になって、こういう機会はめったにないと思い直し、字数制限を無視して「陳述書」を書いて提出しました。以下の文章がそれです。

                                                     

                                                     

                                                     

                                                    ― 私は伊方原発差し止め裁判の原告の一人として、裁判長に「たった一つの問い」を投げかけたいと思います。

                                                     

                                                     

                                                    それは、判決を書く時、裁判官は誰の顔を思い浮かべているのかという問いです。もとより裁判官は自動販売機ではないはずです。所与の条件を既存の法体系に投入すれば、自動的に結論が出るのが裁判であれば、およそ心ある人間は裁判官になりたいなどとは思わないはずです。

                                                     

                                                     

                                                    判決には裁判官個人の人間性が投影される可能性があるからこそ、裁判官を志望する人間がいるのではないでしょうか。すなわち、「より善き世界への青写真」を強制力を伴う形で社会に示せるのが裁判官という職業です。

                                                     

                                                     

                                                     

                                                    その影響力の大きさを考えれば、裁判官が恣意的な判決を書くことなど許されるわけがありません。そこには自ずと法的な縛りがある筈です。それが、日本国憲法第76条3項に謳われている、「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される。」というときの「良心」です。では「良心」とは何か。法律ではなく、憲法に規定されていることを踏まえて、以下に私の考えを述べます。

                                                     

                                                     

                                                     

                                                    法廷における当事者間の論争は、いわば「言葉の喧嘩」です。そのとき、人はどちらの言い分が正しいか、それぞれの判断の根拠を求めるはずです。つまり、両者には具体的に論証する責任が生じます。ここで二つの問題が発生します。第一に、誰のために具体的な論証をするのか、第二に、誰が論争の勝ち負けを判断するのか、という問題です。

                                                     

                                                     

                                                     結論から言うと、「理想的な審判者」のために「具体的な論証」を尽くすのであり、「理想的な審判者」が勝ち負けを判断するのです。この世界のどこかに正確な判断を下すことのできる公平で客観的な審判者が存在することを信じなければ、そもそも論争が生じる余地はありません。

                                                     

                                                     

                                                    およそ法廷における論争は単なる私的なやり取りとは違って、第三者がそれを見たり、聞いたりしたときに双方の言い分が理解できるという「言語の公開性」を前提としています。

                                                     

                                                     

                                                    一方の当事者は「具体的論証」ができたのに他方はできなかったとします。そのとき、「具体的論証」が欠けている側の主張は根拠薄弱として却下されるはずです。さらに言えば、「具体的な論証」ができたかできなかったかは「理想的な審判者」の審判にかかっているのであって、論証に失敗した側が相手方の主張を受け入れたかどうかとは無関係です。

                                                     

                                                     

                                                    論争の当事者が自分の非を認めるのは稀有なことだから「具体的な論証」を要求しても無駄であるというなら、およそ言論を闘わせることに意味などありません。

                                                     

                                                     

                                                     論争が生じる根拠は、言語存在としてのわれわれが共通に思い描いている「理想としての審判者」を、とりあえず第三者に仮託して、あることの成否をめぐる判断をそこにゆだねるほかはないという共通の要請のうちにあります。

                                                     

                                                     

                                                    論争が生じるのは、「理想的な審判者」が「存在しない」からではありません。全く逆に、成否をめぐる「言葉の喧嘩」は、その運動過程の中に必然的に理想の審判者を要請しているのです。 つまり、「具体的論証」を尽くす努力をすればするほど、彼方に、理想としての審判者のイメージが堅固なものとして立ち現れるのです。

                                                     

                                                     

                                                     

                                                    裁判官に求められる「良心」とは、この「理想的な審判者」をどこまでも信じることのできる独立不羈の精神を指しているのだと考えます。すなわち、憲法意思が裁判官に対して自らの「良心」に照らして判決を書くように激励し、命令しているのです。

                                                     

                                                     

                                                     

                                                    思うに、日本の司法は「統治行為論」を採用して以来、「国家統治の基本に関する高度な政治性」を理由に、私たちの命と暮らしに直結する争訟を司法審査の対象から除外してきました。

                                                     

                                                     

                                                     

                                                    しかし、「高度な政治性」とは何でしょうか。そもそも政治とは、国民に対して、誰もが不可能だと思っていることを可能であると実証して見せる営みを指すのではないでしょうか。すなわち、現実を絶対化し、その改変を試みる勇気を持たない人間に対して、「現実」は一部の人間の利益に奉仕しているだけであり、したがって取るに足らない思いこみであり、一時的な夢だと喝破して見せることこそが政治の使命だと考えます。そう考えれば、統治行為論を採用することは、司法の自殺行為だと言わざるを得ません。

                                                     

                                                     

                                                     

                                                    さて、判決を書く裁判官は誰の顔を思い浮かべているのかという最初の問いに戻ります。

                                                     

                                                     

                                                    憲法意思は、裁判官に対し「良心」に基づいて判決を書くように要請しています。「良心」を発動するためには、歴史の真実を見極める知性が必要です。それは昭和の15年戦争から第二次世界大戦の敗戦に至るまでの数百万にのぼる死者の声を聞く力です。

                                                     

                                                     

                                                     

                                                    同時にそれは、伊方原発が過酷事故を起こした際、原発より西に位置する佐多岬半島に住むおよそ4700人の住民が逃げ場を失い、助けを求めて絶望している姿を想像することにつながる筈です。

                                                     

                                                     

                                                     

                                                    実質的な棄民を司法審査の対象から除外することは、「良心」を持った裁判官にはできるはずもありません。聡明な裁判長なら、福島の例を見るまでもなく、原発事故における住民避難訓練は故郷を捨てる訓練なのだと喝破されていることと思います。

                                                     

                                                     

                                                    いずれにせよ、私は裁判長が「良心」に則り、歴史の検証に耐えうる判決を書いて下さることを心より願っています。

                                                     

                                                    | 原発 | 20:21 | comments(0) | - |
                                                    Sさん夫妻と過ごした至福の時間
                                                    0

                                                      10月後半の日曜日、台風21号、22号がたてつづけに襲来しました。刈り入れを待っている稲穂が、強風で狂ったように波打っているのが二階の窓から見えました。昔の人は、秋から冬にかけての暴風のことを「野分け」と言いました。吹き分ける強風にはまさにこの言葉がぴったりです。

                                                       

                                                       

                                                       

                                                      台風21号が去った後の気持ちよく晴れた日の午後、私は外に出て、葉が散った庭を掃除しなければと思いめぐらしていました。すると一台の車がゆっくりと前庭に留まりました。S さん夫妻との出会いです。

                                                       

                                                       

                                                       

                                                      S さん夫妻は、突然の訪問を丁寧に詫びた後、家を見せてもらえないだろうかと言いました。後でわかったことですが、ご主人は30代前半、奥さんはもうすぐ30歳だということでした。

                                                       

                                                       

                                                       

                                                      私は二つ返事で快諾しました。なぜなら、これほど見事に敬語を使う若い夫婦を見たことがなかったからです。それはあまりに自然なので、敬語を使っているとわからないほどでした。感じの良い二人の丁寧な暮らしぶりがうかがえて、こんな人たちに注目されるのなら、築22年になる杉板打ち放しのわが陋屋も存在価値があるかもしれないと思いました。

                                                       

                                                       

                                                       

                                                      それから30分ほど、二人はあちこちを見て回り、庭に植えている樹木の名前を尋ねました。樹木を指さしながら名前を言うと、奥さんはメモを取り始めました。クヌギ、ケヤキ、花ミズキ、カツラ、山法師、百日紅、ブナ、クリ、日向ミズキ、オオバモミジ、サツキモミジ、イチョウ、ハナカエデ、ジューンベリー、ツリバナ、シラキ、ブルーベリー、エゴの木だと教えてあげました。「落葉樹ばかりですね」と言って、奥さんはほほえみました。常緑樹のヤマモモの巨木と金木犀は紹介するのを忘れていました。

                                                       

                                                       

                                                       

                                                      二人の話をさりげなく聞いていると、家を建てようと計画しているようでした。そういう時、私は自分の方から計画について尋ねるようなことはしません。家を建てるのはあくまで二人の問題であり、私は建築家でもないので、深入りはしないようにしています。建売住宅を買うのではなく、自分たちのライフスタイルに合った住居にしたいと考えている人にとっては、家を建てることは生き方そのものですから。

                                                       

                                                       

                                                       

                                                      S さん夫婦はある人にすすめられて私のブログを読み、住居に対する考え方に共感して、一度実物を見てみたいと思っていたそうです。「やっぱり来てよかったです。写真では肝心なことはわかりませんね。空気感とか。土地との一体感とか。住居は生き物ですね。この家は先生そのものだということがよくわかりました。」と奥さん。

                                                       

                                                       

                                                       

                                                      私はうれしくなり、思わず奥さんに抱きつこうかと思ったほどです。いや、冗談です。突然の訪問と時間を取らせたことを詫びて二人は車の方へ歩きかけました。でも、なんだか名残り惜しそうでした。わずか30分の滞在ですから、私の思い過ごしに違いないと思いました。でも口から出た言葉は「今日は妻も外出していて、散らかっていますがよかったら中も見て行きませんか」でした。

                                                       

                                                       

                                                       

                                                      二人の顔がぱっと明るくなり、とても嬉しそうでした。それからの2時間余りは、何と言えばいいのか、私にとってはこの上なく楽しいひとときでした。ブランデーの香りのするモンブランとコーヒーを飲みながら過ごした時間は、それだけで苦労して家を建てた甲斐があったと思わせるものでした。話題は建築にとどまらず、多岐にわたりました。

                                                       

                                                       

                                                       

                                                      そして、二人の具体的な計画まで聞かせてもらいました。土地は100坪ほどで、道路より少し上がったところにあり、台形をしていること。資金があまりないこと。何よりどんな生活をしたいと考えているかが、率直に伝わってきました。今はやりの、建築家の実験住宅やデザイナーズ建築だけは「いやです」とはっきり言うではありませんか。こうなれば、持っている知識を総動員して、二人の夢を応援したくなります。

                                                       

                                                       

                                                       

                                                      そこで、大きな紙を広げて鉛筆で基本設計のプランを描いていきました。土地の形状を考えて、腰の高さくらいの塀で囲むこと。3か所くらいにシンプルなアルミの門扉をつくる。道に面した一番長い台形の底辺の真ん中あたりが入り口。正面の一番奥に底辺と平行に建物を建てる。そこは3つの個室。入口から見て右側にパブリックスペースとしての台所、リビングを作る。とにかく、普通の家のように玄関を作らない。門扉を入って一番広いところは芝生にして、個室の前には大きな落葉樹を一本植える。道路から上がってきた人が最初に目にするのは、広々とした芝生の庭。S さん夫妻は目を輝かせて図面に見入り、私の話を聞いてくれました。

                                                       

                                                       

                                                       

                                                      こうなると別れがつらくなります。出会ってわずか数時間で意気投合する人もいれば、何年付き合っても世間的な付き合いにとどまる人もいます。そして、経験から言うと、一目会って直観で感じがいいなと思う人とはうまくいくのです。人間とは不思議なものですね。

                                                       

                                                       

                                                       

                                                      さて別れの時がやってきました。私は思いを告白せずに大好きな人と別れるような心境になっていました。私の考えていることはほとんど話しました。何かのヒントになれば嬉しいと思っただけで、後は二人でよく相談して決めてほしいこと。まず生活があり、お金がたまってから住宅を「買う」ことを考えるのではなく、住宅があるからこそ、そこでの生活がある、つまり、建築が先にあって生活があるというくらいに考えた方がよいということ。その後の報告の義務はないこと等を話しました。

                                                       

                                                       

                                                       

                                                      今回の出会いは一期一会です。私は偶然の善き出会いだけを思い出に、人生を豊かにしていく術を身につけているので、今後 S さん夫妻に会うことはなくても、寂しくはありません。以下は S さんに送ってもらった画像です。S さん、お元気で!

                                                       

                                                      前庭

                                                       

                                                       

                                                       

                                                      中庭1.台風の後で、葉が散っています。

                                                       

                                                       

                                                      中庭2.向こうに見えるのはお隣さんの納屋の屋根。

                                                       

                                                       

                                                      室内1

                                                       

                                                       

                                                      室内2

                                                       

                                                       

                                                      | 自己救済術としての家作り | 22:15 | comments(2) | - |
                                                      「君たちはどう生きるか」
                                                      0

                                                        昨日、10月28日、早稲田大学で開催されたイベント「漱石と日本、そして子どもたちへ」に宮崎駿監督が登壇し、制作中の新作の題名が「君たちはどう生きるか」になると明かしました。1937年に出版された吉野源三郎の本の題名からとったもので、「その本が主人公にとって大きな意味を持つという話です」と述べました。

                                                         

                                                         

                                                         

                                                        余談ですが、そのイベントで宮崎監督は夏目漱石の「草枕」を「何度読んだかわからないくらい好き」と言っています。この言葉の中に監督の創作の秘密が隠されています。いや、監督に限らず、真に創造的な思考なり表現を生み出す源泉には、こういった人間的な心の傾きがあるのです。

                                                         

                                                         

                                                        すべてを効率と費用対効果といった数値化できるモノサシで測り、結果を求めるような社会では、人間の可能性は閉ざされるほかありません。今は学校教育でさえそうなっています。それを極端な形で推し進めているのが塾産業というわけです。

                                                         

                                                         

                                                        ではどうすればいいのかですって?簡単です。学校と塾を辞めればいいのです。これからの学校はあらゆることをマニュアル化していくでしょう。生活のみならず学習における評価基準も画一化・平準化していきます。だから私の言っていることはまんざら極論でもありません。

                                                         

                                                         

                                                         

                                                        でも塾をやめることはできても、学校はそうはいきません。そこで手っ取り早い方法を教えましょう。まずA4の紙を用意して下さい。大学ノートではダメです。すぐに閉じますからね。そのA4の紙に太字のサインペンか筆で、「何度読んだかわからないくらい好き」という宮崎監督の言葉を書きます。それを机の前かどこかに貼って、いつまでも眺めるのです。

                                                         

                                                         

                                                         

                                                        すると不思議なことが起こります。書かれている言葉の意味が分からなくなります。言葉の表面的な意味が剥がれ落ちて行き、やがて声が聞こえるようになります。そう、宮崎監督の声や息づかいが聞こえるのです。言葉の本当の意味が分かるのはその時です。そして同じような息づかいで「何度読んだかわからないくらい好き」と発話する人の存在に気付くようになります。何だかオカルトっぽい話ですね。でも人間は高速情報処理機械ではありません。本質的には霊的な存在なのです。この話はここまでにします。

                                                         

                                                         

                                                         

                                                        宮崎監督は2013年の『風立ちぬ』を最後に長編アニメの監督を引退しましたが、今年になって撤回しました。76歳になる監督の創作意欲に再び火をつけたのは何だったのでしょう。

                                                         

                                                         

                                                         

                                                        『風立ちぬ』の意図を誤解されたままで終わりたくないという思いも少しあったかもしれません。しかし、より本質的な理由は、これまで作って来たアニメの集大成として、「君たちはどう生きるか」と問いかける作品を作りたかったのだと思います。

                                                         

                                                         

                                                        もちろん監督は教師のようにただ言葉だけで「君たちはどう生きるか」と問うようなことはしません。そういうことが最も嫌いな人間だと思います。だからこそ、手間と時間とお金のかかる長編アニメーションを作る必要があったのです。

                                                         

                                                         

                                                        長くなりそうなのでもうやめにします。ただこれだけは覚えておいて下さい。人は様々な職業に就きます。それがうまくいくこともあれば、失敗することもあります。でも人間は「君(たち)はどう生きるか」という問いから逃れられない存在です。それが言葉を持った人間の宿命です。そして、この問いに答えようとする限り、あなたにとって本質的な失敗などないのです。

                                                         

                                                         

                                                         

                                                        以下は蛇足です。「君たちはどう生きるか」と問われているのは日本人全体だと思います。そしてこの問いに答えることのできる人間は、残念ですが今の日本にはいません。政治家はもちろんのこと財界人も同様です。ただ一つだけ例外的な人々がいます。それは日本人のアイデンティティーを持っている沖縄の人々です。安倍政権と戦っている沖縄の人々です。

                                                         

                                                         

                                                         

                                                        宮崎駿監督の新作がどのようなものになるか分かりません。しかし、「君たちはどう生きるか」と問われた沖縄の人々が、日本から独立する物語であってほしいと思います。そして、その力が本土の人たちに伝わって、日本が平和国家としてアメリカから独立する物語であってほしいものです。もちろん主人公は白髪の交じった初老の風の谷のナウシカです。

                                                         

                                                        | 中高生の皆さんへ | 22:35 | comments(0) | - |
                                                        安倍政権を支えているのは「投票率の低さと自殺率の高さ」である。
                                                        0

                                                          英紙「フィナンシャル・タイムズ」の名物記者ジョン・プレンダーは、日本人がポピュリズムの波に抵抗できている理由は「投票率の低さと自殺率の高さ」だと分析しています。私はそれに「教育の成功(もちろん反語です)」をつけ加えたいのですが、それはまた別の機会に。以下に一部引用します。興味のある方は下記サイトをどうぞ。

                                                           

                                                          https://courrier.jp/news/archives/80347/

                                                           

                                                           

                                                           

                                                          「昨今の先進諸国の政治の動きを見ていると、グローバリゼーションやテクノロジーの進歩に取り残された人々たちによって政治が大きく変わろうとしているかのように思える。蔓延しているのは、政界のエリートへの怒りである。

                                                          ところがポピュリズムの運動が起きていない先進国もある。その代表格といえるのが日本だ。



                                                          日本では経済が20年も低迷しており、同国の自殺率は世界の平均より大幅に高い。それにもかかわらず、この国では反エスタブリッシュメントのポピュリズム運動がまったく盛り上がっていないのである。



                                                          日本人が怒りの声を上げていないのは意外に思えるだろう。なにしろ、この国は90年代後半からデフレで経済が苦しんできた国だ。生産性が上昇しても、それに賃金の上昇が伴わない状況が長年続いてきた。



                                                          90年代の有名なバブル崩壊で日本が失った国富は莫大だ。野村総合研究所のチーフエコノミストのリチャード・クーによると、日本が1990〜2015年の間に株式や不動産で出した損失を合算すると1500兆円に及ぶとのこと。これは GDP 比で見ると、大恐慌時代の米国の3倍の損失なのだという。



                                                          2011年、日本が地震と津波に見舞われ、福島の原子力発電所のメルトダウンが起きると、日本政府と財界の指導者の無能ぶりが、残酷なまでにさらされた。また、日本の地方には、米国のラストベルトや英国の地方の労働者のように、政界のエリートから無視されていると感じている人は多い。」引用以上。

                                                           

                                                           

                                                           

                                                          安倍政権が誕生してからというもの、私はネットで海外の新聞や雑誌を読むことが多くなりました。もっぱら英語で読むだけですが、それでも読むに値する記事は多いのです。特にガーディアンをはじめとするイギリスのメディアはファクトチェックがしっかりなされています。

                                                           

                                                           

                                                          前回紹介した『チャヴ』もイギリスの青年が書いたものです。RECOMMEND欄をご覧ください。海外のメディアはこの本を正確に批評しています。

                                                           

                                                           

                                                          それに比べて、日本のメディアが発信するものは、自主規制と政権への忖度で、読めた代物ではありません。特に、ゴミ情報と捏造記事だらけの読売・産経新聞は完全に体制翼賛新聞と化しています。

                                                           

                                                           

                                                           

                                                          23日の首相動静によると「18時49分、東京・大手町の読売新聞東京本社。渡辺恒雄読売新聞グループ本社主筆、橋本五郎読売新聞東京本社特別編集委員、福山正喜共同通信社社長らと会食」となっています。祝杯をあげていたのでしょうね。そこへ、幻冬舎社長・見城徹のような出版人が揉み手をしながら割って入るという構図です。

                                                           

                                                           

                                                           

                                                          読売・産経新聞は置くとしても、財界人は以下の情景をどのように見ているのでしょうか。株価が上昇を続け、内部留保が増え続ければ、多少のことには目をつぶるつもりでしょうか。

                                                           

                                                           

                                                          選挙最終日、秋葉原での安倍首相の演説を日の丸の旗で取り囲んだ自民党ネットサポーターズクラブと自民党員の面々。

                                                           

                                                           

                                                           

                                                           

                                                           

                                                          しかし、これが財界人が支持している人間なのです。経済活動は健全な資本主義(もうとっくに終わっていますが)と民主主義が機能していることを前提にしています。それとも再び戦争経済を回して濡れ手に粟を目論んでいるのでしょうか?

                                                           

                                                          以下の画像は立憲民主党・枝野幸男氏の演説風景。

                                                           

                                                           

                                                           

                                                           

                                                          | 政治 | 13:19 | comments(0) | - |
                                                          「株式会社日本」はどこへ行く?
                                                          0

                                                            私はいかなる政党、結社、宗教団体にも属していないので、選挙の時は投票しない政党を決めるだけです。戦略的・消去法的投票行動と言えばいいのでしょうか。二十歳を過ぎてから、そのようにして選挙権を行使してきました。

                                                             

                                                             

                                                            もともと政治的人間ではないので、選挙結果に一喜一憂することはありません。ただ、この人にだけは当選してもらいたい、あるいは当選してほしくないという個人的な思いはあります。そういうわけでここ1週間ほど、選挙の喧騒から離れて昔読んだ本を読み返していました。

                                                             

                                                             

                                                             

                                                            塾を始めた30歳の頃、日本の学校は「校内暴力」や「いじめ」が蔓延し、荒れていました。教師や学校文化に反抗するいわゆる「不良たち」が、やみくもにうっぷんを晴らしていたのです。

                                                             

                                                             

                                                             

                                                            メディアや教育評論家、学者たちは批判の矛先を学校に向けるだけで、当の子供たちの内面で進行していた変化には無頓着でした。子供たちは、消費社会・大衆教育社会がもたらした文化の中で、単なる消費主体としてわがまま勝手に振舞いながら、個人としての輪郭を失い、「透明な存在」と化していたのです。

                                                             

                                                             

                                                             

                                                            そんな時に読んだのが『ハマータウンの野郎ども』 (ポール・E. ウィリス著)でした。訳者の熊沢誠氏の『民主主義は工場の門前で立ちすくむ』を読んだのがきっかけでした。前にも紹介しましたが、アリス・ミラーの『魂の殺人』を読んだのもこのころです。

                                                             

                                                             

                                                             

                                                            『ハマータウンの野郎ども』は、イギリスの労働者階級の「不良たち」が、学校が押しつけてくる文化に同化せず、努力すれば誰でも成功するといったメッセージ(メリトクラシー)の無効性を暴き出す様子を描きます。

                                                             

                                                             

                                                             

                                                            著者は、労働者階級の子供たちの文化や彼らの才能に共感しつつも、個人としての社会的上昇が困難であるがゆえに集団として連帯することができたのだとして、その限界にも着目します。

                                                             

                                                             

                                                             

                                                            つまり、彼らに言わせれば、メリトクラシーは、結局は精神的生産に価値を置くものだということになります。学校文化に反抗する彼らは、肉体労働をむしろ高く評価します。努力すれば誰もが価値の高い精神労働ができると言っても、実際は誰かがきつい肉体労働を引き受けなければならないというのです。かくして彼らは工場での肉体労働を「自発的に」「誇りを持って」選ぶようになります。

                                                             

                                                             

                                                             

                                                            そこで著者は問いかけます。

                                                             

                                                             

                                                            「単純労働は、普通ならばだれでも嫌がる。仕事はキツイのに給料や社会的地位は低い。でも、それをこなせるやつだからこそ、『真の男』と認められるのだと思っていないか?」と。

                                                             

                                                             

                                                             

                                                            肉体労働よりも精神労働に価値を置く社会を批判した「不良たち」が、結果として、肉体労働を選ぶのは皮肉とはいえ納得できます。かくして、彼らははみ出し者として社会から排除されることなく、逆に現代人が避ける肉体労働に『真の男』として積極的に参画していきます。わざわざきつい仕事を「自発的に」「誇りを持って」選んだ「不良たち」は、資本主義社会で重宝され、まさに社会の価値序列を支えることになります。

                                                             

                                                             

                                                             

                                                            著者はこのように、社会秩序を転覆させるような要素をもつ文化が、社会秩序の構造の中に吸収されていく様を描きます。つまり労働者階級の文化が、労働者階級を再生産していると言うのです。確かに文化は社会構造によって規定されます。しかし、忘れてならないのは、その社会構造を生み出すのも文化だということです。

                                                             

                                                             

                                                             

                                                            この本には忘れられない一節があります。「不良たち」が肉体労働を「自主的に選択」したその後について、著者は次のように書きます。

                                                             

                                                             

                                                             

                                                            「かつてはおしなべて…深く考えることなく工場の門をくぐった。そうして今日、明日と働き、いつしか三十年が経ってしまうのである。真の機会をのがしたり、もともと機会を機会と理解できなかったこと、逆に好機到来とばかりに選んだ道がまやかしにすぎなかったこと、こうした苦い思いが、労働者仲間のあいだで工場に入る前の人生についての神話を生みだす。」と。

                                                             

                                                             

                                                             

                                                            イギリスがEUから離脱することを決めた背景には、以上述べたようなイギリスの労働者階級の文化があるのかもしれません。政治的決断の背景には長い歴史があるのですね。

                                                             

                                                             

                                                             

                                                            ところで、『ハマータウンの野郎ども』を再読しようと思い立ったのはRECOMMEND欄でも紹介した以下の本を読んだからです。『チャヴ』とは下流社会の手のつけられない暴徒、「野郎ども」を指す言葉ですが、イギリスの一般大衆社会が新自由主義によって壊滅的打撃を受けた様子を克明に分析しています。二十代の若者が書いたというのですから、驚きです。

                                                             

                                                             

                                                             

                                                             

                                                            ひるがえって、「改革」や「人づくり革命」を唱えながら、新自由主義路線をひた走る「株式会社日本」は、労働者文化に何をもたらし、社会をどのように変えていくのでしょうか。

                                                             

                                                             

                                                             

                                                            一つはっきりしていることがあります。さらなる経済成長を唱えるバカな社長が舵取りをしている「株式会社日本」は、社員が次々に辞めて行く人口減少国家だということです。

                                                             

                                                            | 文学・哲学・思想 | 17:45 | comments(0) | - |
                                                            「選挙なんて、そもそも意味ないじゃん」って、単なるバカじゃん!
                                                            0

                                                              これまで私は時間と記憶について何度も書いてきました。建築の魅力は、この二つのかけがえのなさを私たちに教えてくれるところにあります。素晴らしい建築は、決まって何かを思い出させてくれるのです。それは幼少年期の記憶の断片であったり、季節の匂いや自然が奏でる音などです。それほど私たちの人格は過去の記憶によって規定され、積み重なった時間によって形作られています。

                                                               

                                                               

                                                               

                                                              ある人の<生>は、その人の記憶そのものであり、過ごしてきた時間そのものです。そして、その人固有の記憶や時間は、その人が生きている国の文化や歴史の中に深く根を張っています。それを言葉にするということは、個人の歴史を語ることのみならず、その背後にある共同体(国)の歴史を語るということです。言葉の性質上そうならざるを得ません。

                                                               

                                                               

                                                               

                                                              この根から切り離された言葉は軽くなり、ネット空間の中をアメーバのように浮遊しています。その結果、一方に重心がかかれば、それに引きずられてとめどなく流れ、踏みとどまる術を知りません。

                                                               

                                                               

                                                               

                                                              今度の選挙でどこに投票していいかわからないとか、「選挙なんて、そもそも意味ないじゃん」などと考えている人は、自分が記憶喪失に陥っていることを自覚すべきです。いや、テレビをはじめとするメディアという洗脳装置によって記憶を奪われていることに気づくべきです。

                                                               

                                                               

                                                               

                                                              リスクマネジメント、コストパフォーマンス、ビジネスマインド、コンプライアンス、労働市場における雇用流動性、付加価値、選択と集中、自己責任、果てはアウフヘーベンなどという言葉によって、私たちの意識は常に未来へと駆り立てられています。つまり、自分が今立っている位置を確認することもできず、常に走り続けている状態なのです。過去を思い出している暇などありません。

                                                               

                                                               

                                                               

                                                              しかし、最初に書いたように、あなたとはあなたの記憶のことであるし、あなたが過ごした時間のことです。かけがえのない価値を持っているのは、同じことの繰り返しにしか見えない日々の生活です。しかし、その価値に気づくには、昨日という二度とやって来ない日の記憶を思い出すしかありません。そしてその前日、さらにその前日というふうに記憶をたどらなければなりません。つまり、詩人の想像力を必要とするのです。

                                                               

                                                               

                                                               

                                                              詩人の想像力を持って過去を振り返る時、意識していなくても、私たちの日々の暮らしに大きな影響を与え、暗い影を投げかけていたものこそが政治だということに気づきます。

                                                               

                                                               

                                                               

                                                              わずか数年でこの国のかたちは根本的に変わりました。記憶をたどるようにしてほんの一部だけですが列挙してみます。

                                                               

                                                               

                                                               

                                                              ・元TBSの記者・山口敬之が詩織さんをレイプし、逮捕状まで出ていたのに、それを安倍政権は握りつぶし、闇に葬りました。山口敬之は前回の選挙の直前に『総理』なるヨイショ本を出版して安倍首相にかわいがられていた鬼畜ジャーナリストです。出版社の名前こそ変えていますが、この本の出版を実質的に仕切ったのは幻冬舎のヤクザ社長・見城徹です。

                                                               

                                                               

                                                              現在、詩織さんは民事訴訟を提起しています。権力によって人間の尊厳を踏みにじられたのは詩織さんだけではなく、私たち国民です。私たちは侮辱されているのです。この事件一つをとっても安倍政権を許すことができません。あなたは自民党に投票して、この事件を追認するのでしょうか。

                                                               

                                                               

                                                               

                                                              ・憲法尊重擁護義務に違反し、集団的自衛権を強行採決し、共謀罪を成立させ、森友学園問題で夫人を私人と閣議決定し、長年の友人である加計学園理事長の獣医学部新設の想いを今年の1月20日まで知らなかったという人間をあなたは追認するつもりでしょうか。

                                                               

                                                               

                                                               

                                                              ・大ウソと裏金を使ってまで東京オリンピックを誘致し、原発被災者の困窮を無視し、想いを踏みにじり、着々と原発再稼働に前のめりになっている安倍政権をあなたは追認するのですか。一部ですが以下の動画をご覧ください。10月20日に行われた、IWJの岩上安身氏による広瀬隆氏インタビューです。

                                                               

                                                               

                                                               

                                                              ・暗愚の番頭に「全く問題ない」を連発させ、国有財産をポケットマネーのように使い、国会で問題にされても、官邸も官僚も「記憶にない」「記録がない」を連発するばかり。それでも国民のある層と利害関係者、宗教団体、財界は支持してくれると思い込んでいる政党、政治家をあなたは追認しますか。

                                                               

                                                               

                                                               

                                                              Jアラートを鳴らしまくり、子供たちに恐怖感を植え付け、北朝鮮に対する敵愾心をあおり、宇宙空間をミサイルが飛んだだけで「わが国上空を通過」と騒ぎ、あげくのはてに膨大な税金を投入して解散総選挙に打って出て1カ月以上の政治空白を作る。こういう政権を支持する人間を「ネトウヨおぼっちゃまくん」といいます。

                                                               

                                                               

                                                               

                                                              こんな破廉恥で整合性のない行動がとれるのは、首相がもはや国民を納得させる必要を感じていないからです。「丁寧に説明」は言葉の遊びであり、自分の考えを押し通すことに慣れてしまっています。論理も倫理も無視し、ただ感情の赴くままに「こんな人たち」に罵詈雑言を投げつけ、言葉を無効化した結果、安倍首相の脳内に残った言葉が「国難」というわけです。「おまえが国難!」とはよく言ったものです。座布団10枚!

                                                               

                                                               

                                                               

                                                              もう止めにします。安倍政権が選挙後突き進むのは、憲法9条の改定ではなく、緊急事態条項の創設です。どうかこのことを心に留めておいて下さい。私は選挙区も比例区も共産党に投票しました。妻は選挙区は共産党、比例区は立憲民主党です。安倍政権が続いた場合のことを考えての判断です。ちなみに、自民党はもとより、公明党、維新、希望の党には100万円もらっても投票しません。消費税分8万円が上乗せされていないからです、なんちゃって。

                                                               

                                                               

                                                               

                                                              最後に替え歌を一つ。

                                                               

                                                               

                                                              どんぐりころころどんぐりこ〜、小池にはまってさあたいへん、前原出てきてこんにちは、ぼっちゃんいっしょにあそびまちょ〜。

                                                               

                                                               

                                                              お後がよろしいようで。

                                                               

                                                               

                                                              追伸: 替え歌の「ぼっちゃん」とは誰のことか、お分かりですよね。

                                                               

                                                              | 政治 | 14:28 | comments(0) | - |
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