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まず私たちの生命と暮らしを脅かす事実を知ること。それにたいしてどのような認識を持つのか。この国のみならず、世界を壊滅させる災厄とどう向き合うのか。次世代に対してどう責任を取るのか、そもそも責任を取れるのか。自分に何ができるのか。この現実にどう向き合うのか。それを教えるのが教育のはずだが、この国には教育も哲学も存在しない。
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「最悪」の核施設 六ヶ所再処理工場 (集英社新書)
「最悪」の核施設 六ヶ所再処理工場 (集英社新書) (JUGEMレビュー »)
小出 裕章,渡辺 満久,明石 昇二郎
原発よりもはるかに危険な六ヶ所村再処理工場。私たちの日々の生活が薄氷の上で営まれていることを痛感させられる。同時に、この国には「国民の生命・財産・自由を守り抜く!」と威勢のいいことを言う総理大臣と無能の政治家しかいないことに絶望する。核燃料サイクルと言い、下北半島の再処理工場と言い、3兆円以上の国民の税金がつぎ込まれ、いまだ後始末も将来の見通しもたっていない現実をどう考えているのか。彼らは核兵器を持ちたいという願望と税金をロンダリングして私腹を肥やすことしか眼中にない。北海道の地震だけに目を奪われてはならない。六ヶ所村は今回の震源地の目と鼻の先にあるのだ。
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幻影(イメジ)の時代―マスコミが製造する事実 (現代社会科学叢書)
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D.J.ブーアスティン
私にとっては古典の中の古典。三度読みました。そしてその慧眼にいまだに驚いています。
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殺人犯はそこにいる (新潮文庫)
殺人犯はそこにいる (新潮文庫) (JUGEMレビュー »)
清水 潔
ジャーナリストと称する職業がある。自称ジャーナリストもいれば、テレビのコメンテーターとしてリベラルに媚びる政権批判をし、名を売り、講演で稼ぐ職業をジャーナリストと呼ぶ者もいる。とんだ茶番である。ジャーナリストとはどこまでも「事実」を追いかける。テレビに出て能天気な解釈や感想を垂れ流している暇などないはずだ。ジャーナリストを志す若い人には清水氏の著作は避けて通れない。その名に値する本物のジャーナリストがここにいる。
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デジタル・ポピュリズム 操作される世論と民主主義 (集英社新書)
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福田 直子
おそらく自民党・安倍政権はSNSを駆使し、分析するデータサイエンス(日本版なのでレベルはまだ低いですが)の重要性に着目し、選挙にどうすれば勝てるか、自分たちに有利な世論を形成し、国民を誘導・分断するにはどうすればいいのかが分かっているのです。そのためのノウハウも蓄積しつつあります。安倍首相の貧困な語彙力からは想像できないカタカナ言葉を聞いていると、それがSNSを分析している集団から教えられたものであることがよくわかります。ただ彼らの致命的な弱点は将来の社会を導く理想がないことです。おそらく、思いもかけない結果が待っていることでしょう。なぜなら、所詮、彼らはアメリカとビッグデータの奴隷でしかないのですから。これからの政治は、好むと好まざるとにかかわらず、この本に書かれていること抜きには語れなくなっているのです。
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 (JUGEMレビュー »)

安倍政権に対するメディアの忖度が云々されていますが、元々同じ穴のムジナなのです。忘れてならないのは、日中戦争から太平洋戦争にかけて、日本の世論と新聞のほぼ全部は好戦的・拡張主義的だったのです。しかも、当時はまだ言論統制体制が発足していなかったのです。この本は、そうした「一貫して好戦的な世論とそれに便乗する新聞」が先導し、近衛文麿はじめ文民政治家がそれに便乗、軍部がさらに便乗、という構図を一次資料で克明に論証しています。安倍政権を支持するネトウヨの皆さんの日本語力では、まともな読解は無理ですので勧めません。一方、正確な歴史を知るためには「世論」の不気味さを知ることだと気づいている若い人には是非一読を勧めます。
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茫漠の曠野 ノモンハン
茫漠の曠野 ノモンハン (JUGEMレビュー »)
松本草平
著者は大分市にある『天心堂へつぎ病院』の院長、松本文六氏の御尊父、松本草平(本名松本弘)氏です。詳しくは、ブログで紹介したいと思いますが、第一次資料として極めて価値の高いものです。40年ぶりに復刻版を出された松本文六氏と出版社に感謝する他ありません。
戦略も何もない、無謀・無慈悲な戦争を語り継ぐことは、最も崇高で重要な人間の営為だと私は考えています。作家の司馬遼太郎氏は、電話で草平氏に次のように伝えてきたそうです。「先生の臨場感のあるノモンハン戦記に出会えて本当にありがとうございました。私は大東亜戦争の折、戦車隊の一員として従軍しましたが、先生の従軍記以上のものを創ることはできません。」と。
一人でも多くの方がこの本を読まれることを望みます。ちなみに松本文六氏は伊方原発差止め訴訟の原告でもあります。その縁で、この本に出会うことができました。
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「南京事件」を調査せよ (文春文庫)
「南京事件」を調査せよ (文春文庫) (JUGEMレビュー »)
清水 潔
全国のネトウヨの皆さんへの推薦図書です。清水氏のこの本を読んでから、「南京事件はなかった!」「南京事件は捏造だ!」と叫びましょうネ。
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日本列島の全原発が危ない! 広瀬隆 白熱授業  DAYS JAPAN(デイズジャパン)2018年1月号増刊号
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広瀬隆
広瀬氏をアジテーターだの、オオカミ少年だの、悲観主義に過ぎると言って批判する人がいる。しかし、ブログで何度も述べてきたように、真の悲観主義こそがマインドコントールによって奴隷根性のしみ込んだ私たちの精神を浄化してくれるのだ。そもそも無知では悲観が生まれようもないではないか。国などいくら破れても結構。せめて山河だけでも次世代に残そうと考える人ならぜひとも読むべき本である。いや、これから幾多の春秋に富む若い人にこそすすめたい。
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チャヴ 弱者を敵視する社会
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オーウェン・ジョーンズ,Owen Jones
【本書への賛辞】

「怒りが生んだ、最高の本」
──ガーディアン紙

最高の論争がみなそうであるように、知性に裏打ちされた怒りが本書を支えている。
──エコノミスト誌

暴動や世界中に広がったオキュパイ運動に照らして考えると、分断社会に関する著者の鋭い分析は、
不気味なほど未来を予知していたことがわかる。
──アートフォーラム誌

情熱と、思いやりと、すぐれた道徳性が結実した仕事だ。
──ニューヨーク・タイムズ紙

政治の定説を見直す大胆な試み。著者は戦後のイギリス史を縦横無尽に往き来し、
階級、文化、アイデンティティといった複雑な問題を軽々とまとめてみせ、
結果として「階級」問題に火をつけ、大きな効果をあげている。
──インディペンデント紙

いまの制度が貧しい人々を見捨てていることに対する苛烈な警告──それが本書だ。
──ブログサイト「デイリー・ビースト」

ジョーンズは、「地の塩」だった労働者階級が政治のせいで「地のクズ」と見なされるようになった経緯を見事に説明している。
──タイムズ紙

この本は、新しいタイプの階級嫌悪と、その裏にあるものを痛烈にあばいて見せてくれる。
──ジョン・ケアリー(The Intellectuals and the Masses著者)

これは「イギリスはおおむね階級のない社会である」という考え方への、論理的で情報満載の大反撃だ。
──オブザーバー紙

情熱的で示唆に富む……この声が届くことを心から願う。
──スコットランド・オン・サンデー紙
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紹介していない本が山のようにあります。数日前にこの本を本棚の奥から引っ張り出し再読しました。いや〜面白かった。。とにかくこの本のことを忘れていた自分が信じられない。読んでない人に熱烈に勧めます。ハイ。
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秋山 敏
高校生にとって、今でも一押しの不朽の名著。でもこの本をことを知っている英語教師は少ないと思います。是非復刊してほしいものです。
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スノーデン 日本への警告 (集英社新書)
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エドワード・スノーデン,青木 理,井桁大介,金昌浩,ベン・ワイズナー,宮下紘,マリコ・ヒロセ
2017年4月18日、朝日新聞がようやく「パノプティプコン」を取り上げました。遅すぎますね。
これから先の日本社会は、ますます荒廃が進み、国民の不満が頂点に達し、やがて爆発します。それを未然に防ぐために、国は国民の監視を強化します。
実際アメリカでは「愛国者法」により、電子メールや携帯の通話履歴が監視の対象になっています。誰が、いつ、どこで、何を読んで、誰と通信を交わしたか、すべて国に筒抜けです。
「パノプティプコン」とはフランスの哲学者フーコーが用いた概念ですが、国民が刑務所の囚人のように監視される体制を言います。監視者の姿は見えませんが、囚人は監視者不在でも、監視を意識することによって管理統制されるのです。これを「パノプティシズム」と言います。
このシステムから解放されるためには、権力がどう管理・統制しようとしているかを知らねばなりません。この本はそれを知るための第一歩です。あなたが無知のまま、奴隷の人生を送りたければ、読む必要はありません。
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A.ミラー
アリスミラーのこの本は、塾を始めるきっかけになりました。ただ生活のためだけなら、他のことをしていたでしょう。『才能ある子のドラマ』とあわせて、当時の私には衝撃的な本でした。人生はどこでどう転ぶかわかりません。人間の奥深さを知ることで、何とか自分を維持していたのです。この本を読むと当時のことが、ありありと思い出されます。ある意味で、私の人生を方向づけた本かもしれません。
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NHK「東海村臨界事故」取材班

2月18日のブログでも書きましたが、仕事のために読むビジネス書の類は、最終的には効率を重視し、最小の資本と労力の投下で、いかにして最大の利益を上げるかということに尽きていると思います。そのための働き方改革であり、そのための賃上げです。そのための人心掌握術であり、顧客対応です。ビジネス書を読めば読むほど、人間は軽薄になり、視野が狭くなっていきます。もしあなたがそれを自覚するきっかけがほしいなら、是非この本を読むことを勧めます。読書はビジネスのためにするのではないということが分かると思います。この本は私たちの日常の風景を一変させるだけのインパクトを持っています。いわば、ことばの最高の意味における「闖入者」なのです。
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服従
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瀬木 比呂志
この本はまだ発売されていません。自分で読んでいない本を推薦するのは邪道でしょう。しかし、これまでの『絶望の裁判所』『ニッポンの裁判』(ともに講談社現代新書)に続く裁判所、司法批判の第3弾が長編の権力小説だということで、過去2冊の本の面白さからして、推薦に値する本だと思いました。『原発ホワイトアウト』の最高裁判所ヴァージョンだと思います。読んでからコメントを追加したいと思います。
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アモン・シェイ
学校なる場所に通っていた時、毎年夏になると課題図書を読んで、読書感想文を書かねばならないのが苦痛でした。課題図書の選定には学校と書店の密約があるに違いないと思っていたくらいです。

偶然巡り合った面白い本の感想を書くのならまだ我慢できたかもしれません。つくづく学校というところは、余計なことをしてくれると思ったものです。

あまりにめんどうくさいので、「あとがき」を参考に、あらすじを書いて提出したら、トリプルAをもらいました。

学校というところは、もしかしたら、人生の退屈に耐える訓練をする場所だったのかもしれません。この本を読んで、改めてそのことを確認しました。別に先生を責めているわけではありません。それほど自覚的に生きるということは難しいのだとため息をついているだけです。
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選挙 [DVD]
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想田和弘監督の観察映画。音楽による演出は一切なく、徹頭徹尾監督の視点で撮られたドキュメンタリー映画。見終わった後、日本の選挙風土の貧困さが浮かび上がる。この国に民主主義はない、ということを改めて確認し、そこから出発するしかない。その勇気を持つ人には必見の映画です。合わせて『選挙2』もどうぞ。
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マックス ヴェーバー
ウェーバーの死の1年前、1919年、学生達に向けた講演の記録です。
一部抜粋します。

「自分が世間に対して捧げようとするものに比べて、現実の世の中が―自分の立場からみて―どんなに愚かであり卑俗であっても、断じてく挫けない人間。どんな事態に直面しても「それにもかかわらず!」と言い切る自信のある人間。そういう人間だけが政治への「天職」を持つ。」(P105〜106)

「さて、ここにおいでの諸君、10年後にもう一度この点について話し合おうではないか。残念ながら私はあれやこれやいろんな理由から、どうも悪い予感がしてならないのだが、10年後には反動の時代がとっくに始まっていて、諸君の多くの人が―正直に言って私もだが―期待していたことのまずほとんどは、まさか全部でもあるまいが、少なくとも外見上たいていのものは、実現されていないだろう。」(P103〜104)

10年後には、ワイマール体制は機能不全に陥り、1933年にはヒトラーが首相に就任します。

平和憲法は、日本人にとって310万人の命と引き換えに手に入れた唯一と言っていい理念であり、アイデンティティーでした。その唯一の誇りを、日本人は損得勘定で葬り去ろうとしています。言い古された言葉ですが、歴史は繰り返すのです。
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中沢 新一
小学校を卒業するころ、将来なりたい職業として思い描いていたのが、天文学者か生物学者でした。プロ野球選手は、自分のセンスでは無理だと悟りました。物ごころついたころから興味があったのは宇宙や昆虫や植物の世界でした。そんなわけで南方熊樟に出会うのは必然的な成り行きだったのです。人間は言葉によって世界を把握しますが、それ以外の把握の仕方があるはずだと、ずっと思ってきました。南方熊樟は、小林秀雄と同じく、直観による世界の把握の仕方を教えてくれました。この本は、言葉によって構成された世界秩序の外に出て、世界を改めて考えたい人に大いなるヒントをあたえてくれます。安倍政権によるゴキブリのフンのような、あまりにばかばかしい政治状況を見せつけられているので、精神の衛生学として一気に読みました。
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こどもの教育から裏金を使ったオリンピック誘致、原発再稼働、戦争準備から武器の売却、安倍政権の裏の権力としてメディアに絶大な影響力を行使する電通。私たちは電通が作り上げた「箱」の中でいいようにマインドコントロールされている。自分の意見だと思っていたものが、実はそう思わされていただけだということに気づかなければならない。音楽をはじめとする芸能情報、その中で踊らされるミュージシャンやタレント、果てはデザイン業界までを席巻する。今や電通の介在しないメディアはないと言ってもいい。利権あるところに電通あり、です。
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前作『日本はなぜ「基地」と「原発」止められないのか』に続く著者渾身の力作。自分の人生を生きたい人にすすめます。ただそれだけです。18歳で選挙権が与えらる高校生が政治を考える際の基本的なテキストになる日がくるといいですね。無理でしょうが。これ以上余計なコメントはしません。まず手に取ってみてください。
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メディアで取り上げられるよりはるか前から日本会議の存在について私は言及していました。電通と同じくタブー視するメディアには心底失望したものです。報道すればタブーはタブーでなくなるのです。何を恐れているのでしょうか。干されれば、何とか生活をする工面をすればよい。それだけのことです。
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磯崎新
帯に「祝祭都市にスタジアムはいらない」とあります。そもそも2020年まで天災と原発事故をやり過ごし、経済危機を乗り越えて存在しているでしょうか。極めて怪しいですね。偶然書店で手に取って読みました。彼の文章を読むと、建築は現世の権力に奉仕するものではなく、想像力の王国を作るものだと思わされます。建築にそれほど興味のない人でも、読めます。いや、いつのまにか引き込まれているでしょう。
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難関中高一貫校で学び、東大に合格しても、それはもはや知性のバロメーターではありません。この本に書かれていることが真実だと見破れることこそが本物の知性です。ニセの知性は既得権益を守るためにはどんな屁理屈でもひねり出します。おまえは何も知らないと言って他人を見下し、金と権力におもねるのです。ニセの知性は理想の灯を掲げることができません。「脳内お花畑」などという幼稚な言葉を使って揶揄するしかないのです。彼らの決まり文句は、他国が攻めてきたらどうするのかという、それこそ「脳内お花畑」的なものです。「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」とは、まさに至言です。
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私の元塾生の縁でお会いしたことのある烏賀陽弘道氏の渾身のレポート。事実を丹念に調べ上げ(これがジャーナリストの本来やることです)事実をして語らしめることのできる稀有なジャーナリスト。この本を読まずに福島第一原発の事故の本質に迫ることはできない。ダブル選挙の前に一人でも多くの国民が読むことを期待します。
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松岡正剛氏の本はどれも面白く、シリーズの千夜千冊を除けばほとんど読んでいます。『多読術』は、高校生にぜひ勧めたいと思います。高校時代に、この本を読んでおくと、さまざまな分野の知的見取り図を手に入れることができます。学校の授業だけではなく、この本を手掛かりにして知の荒野に歩みを進めてほしいと思います。
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安倍首相は「この道しかない」と言って消費税を上げ、集団的自衛権の行使を可能にする閣議決定をし、公約とは正反対のTPPを批准することで、日本の文化=アイデンティティーを破壊しようとしています。

もし私たちが生き延びたければ、そのヒントがこの本の中に書かれています。日本は超大国の「夢」を代弁するだけの国になってはなりません。
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山本氏の国会での質問を、本になって改めて読み直して感じることは、文字通り「みんなが聞きたい」質問をしてくれたということです。安倍首相が小学生に「なぜ政治家になったのですか」と質問された時、「父親も祖父も政治家をしていたからです」と答えていました。小学生相手に、何と言う悲しい答えでしょうか。語るべき理想を持たない政治家など、所詮は官僚に利用されるだけです。それに対して、山本氏には語るべき理想がある。「政治なんてそんなものさ」というリアリストが発散する腐臭を吹き飛ばすさわやかさがある。それは、彼の身体には収まりきれない理想が持つ力そのものです。彼は言います。「力を貸してほしい。少なくとも、あなたが必要だと思われる社会、私が必要だと思われる社会を作っていきたい。そう思うんです」と。日本の総理大臣にふさわしいのはどちらでしょうか。
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ジョン・W・ダワー,ガバン・マコーマック
おそらく、日本人自身よりも海外の知識人のほうが、日本の問題を正確にとらえていると思わせる本です。読み終えて何気なくテレビを見たら、わが大分県選出の国会議員、岩屋毅氏と江藤晟一氏が、2016年ミスユニバース大分県代表を選ぶ催し物に出ていました。名誉顧問だそうです。いかがわしい宗教団体をバックに票を稼ぐだけでは飽き足らず、こんな大会に顔を出して名前を売ろうとする。大分市長の佐藤樹一郎氏も出席していました。このお三方は、こんなことをするために国会議員や市長になったのでしょうか。国民の税金を使ってやることといえば、テレビに出演してにやけた顔をさらすことでしょうか。もう物事の軽重が全く分かっていません。せめてこの本くらい読んではどうでしょうか。私はこの本に書かれていることの大部分に賛成です。
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出版されてすぐ読みました。国会で、読んでもいないのに、安倍首相が躍起になって否定した事実が書かれています。蓮池氏はあちこちから人格攻撃の対象とされてきましたが、自分にも落ち度があったと認めています。自分は総理大臣なのだから落ち度はないと居直る人間とは好対照です。この本を読んで、拉致問題について今一度国民が考えることを望みます。
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渡邉 格
2年半ほど前に求めて、一気に読みました。マルクスの『資本論』の中に書かれていることを、著者が自分なりに消化し実践していく過程が書かれているので、一種のドキュメンタリー文学として読めます。きっと著者と同じ思いの若者は全国にたくさんいると思います。かけがえのない一回きりの人生を、充実して生きたいと思っている人に勇気を与える本です。
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今年度ノーベル文学賞受賞作品。チェルノブイリは言うまでもなく、フクシマでさえ人々は忘れたがっています。もう過去のことだと言い聞かせて。しかし、過去のことではなく、まぎれもない現在進行中の現実であり、私たちが生きている世界そのものです。この本を読んだ後、橋下徹が御堂筋をイルミネーションで照らし出し、F1カーに乗って写真を撮っているところを見ました。その時のセリフ。「大阪はここまでできる!」

もう何と言うか、別世界を生きている人間です。彼の発する言葉は文学とは無縁です。人間が言葉を持ったのは、言葉にしがたいものを言葉にしようとするためです。政治家が発する言葉の軽さと言ったらありません。それだけ現実も軽いものになったということでしょう。
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鈴木大拙の言わんとすることが、ようやくわかりかけてきました。年齢を重ね、日本文化の基底にあるものをじっくり味わうことで開示される世界があるのです。日々の生活に追われていては、この本を読み、味わう暇などないでしょうが、それだからこそ手に取ってみてはいかがでしょう。
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人間は、条件次第で、喜々として殺人を犯す。そして、その条件を整備しつつあるのが、安倍政権とその背後でうごめく『日本会議』である。このことに気づいていても、「配慮する」ことを最優先して報道しないメディア(特にNHK・読売新聞・産経新聞)。そしてそこに寄生する学者やコメンテーター、芸能人。このドキュメンタリー映画は、彼らの自画像である。たまには、自らの顔をじっくり眺めてみるがよい。
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私が長年考えてきた問題を解明するヒントになりました。ブログで書いたように、まず感情を基にした結論があって、それを正当化するために人は「知性」を動員するという、ごく当たり前のことが書かれている。つまり、知の粉飾決算報告書である。
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中村 好文
中村さんの著作の中では、個人的に最も好きな本です。読んでいるだけで楽しくなります。限りなく優しい、でも、痛烈な文明批評です。これからの生き方のヒントが満載です。それを一人でも多くの人と分かち合いたいと思い、中村好文論・その3の中で引用させていただきました。
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暮らしを旅する
暮らしを旅する (JUGEMレビュー »)
中村 好文
以下は私がアマゾンのレビューに投稿したものです。再録します。
「もし人に幸福な生き方があるとしたら、中村好文さんのような生き方だろうと、ずっと思ってきました。
建築雑誌をパラパラとめくりながら、ふむ、と思って手が止まると、そこには必ずと言っていいほど中村さんの設計した住宅がありました。
文は人なりと言いますが、その人の書く文章のエッセンスがこれほど見事に建築にも表現されている例はめったにありません。
建築に限らず、食の分野でも、ことばと実物の乖離がはなはだしい時代に、中村さんの設計した住宅や美術館に出会うと、どこか安心するのですね。
そういうわけで、著者の本はすべて読ませてもらっています。
この本も偶然、年末に本屋さんで手に入れ、装丁やカバーの手触りを楽しみながら読んでいます。
読みながらいつの間にかほのぼのとしている自分を発見します。
一日に一編か二編を過去の記憶をたどるようにして読んでいます。
この本の平明さ、やさしさがどこから来るのか。そんなことを分析するのは野暮というものです。
とにかくこの素敵な小さな本は、旅のお供にどうぞ!とすすめたくなります。」
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中村 好文,神 幸紀
中村さんの書かれた本はすべて読みました。どの本もおすすめです。これから家を建てようと考えている人は、どの本でもいいですから、一冊中村さんの本を読んでみてはいかがでしょうか。エッセイとしても十分楽しめます。この本は北海道にあるパン屋さんの建物を作りながら、人は「パンのみにて生きるにあらず」を実践したものです。ダジャレ好きの中村さんらしい(笑)。
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中村さんの本を全部は読めないという人向けに、一冊だけ選ぶとすればこれでしょうか。普通、設計したらそれで終わりという建築家が多い中、かってのクライアントを訪問して話を聞き、それを本にしたものです。クライアントといい関係が築けてないと難しいですね。加えて自信がないとなかなかできることではありません。
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菅義偉は Bullshit politician (クソ政治家)である。
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    自民党は腐敗を極めています。加速主義ではありませんが、それを顕在化させたのが安倍晋三と大日本帝国のエートスを呼吸している魑魅魍魎の極右集団です。思い出してください。民主党が政権を取った時、国民は自民党政治にうんざりしていたはずです。民主党に投票したという自民党員もいたほどです。

     

     

     

    あの時よりもさらに自民党は劣化しています。これから自民党がよくなることは100%ない、と断言します。なぜなら、スカ、じゃなかった、スガが総裁選の出来レースを突っ走っているのですから。いかに人材がいないかを露呈しているではありませんか。能力のある政治家は数人いますが、安倍の独裁ぶりを見ているうちに、自分もいっぱしの独裁者になった気分でメディアを従えて得意になっています。

     

     

     

    偏狭でかたくなな私の心持はますます昂じて、今では自民党を支持する人と話すことすらできません。軽蔑する人間と同席するのは相手に失礼です。若い時ならともかく、人生の終盤に差し掛かっていることを考えると、時間を無駄にしたくないのです。

     

     

     

    社交は重要だとわかっていても「われわれの接触する人間の大多数は道徳的には悪人、知的には愚鈍か頭が狂っているから、社交は危険な、むしろ有害な傾向の一つである」と言ったショーペンハウアーの気持ちがわかる気がします。

     

     

     

    今回は言いたいことが二つあります。

    一つはなぜ菅義偉を Bullshit politician (クソ政治家)と呼ぶか、その理由についてです。Bullshit の周りには Bullshit が集まります。人格が空洞化した人間は勝ち馬に乗ることしかできないのです。その茶番劇というか幼稚園児並みの振る舞いを見て、多くの国民までが Bullshit になっていく様は何に譬えていいかわかりません。菅義偉は憲法についてはほとんど無知です。ただ、森友・加計・桜を見る会・黒川問題、そしてなにより伊藤詩織さんのレイプ事件もみ消しを闇に葬るために担がれたのです。まともな神経の持ち主であれば、それこそ Bullshit!と叫びたくなります。

     

     

     

    具体的には、以下の記事をお読みください。気分を悪くするかもしれませんが、事実の前では気分など甘ちょろいものです。

     

     

    『言語に絶するものは、囁き声で広まっていく。』

    http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=625

     

    『2017年、人非人を国のトップに据えている日本』

    http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=380

     

     

     

    それともう一つ。菅義偉が総理大臣になった時にサプライズ人事として橋下徹を起用するのではないかという心配です。その時の思い付きで、ワンフレーズをいかにも正しそうに声高にしゃべるだけのSNSとテレビ向けの人間が権力の中枢にいると考えただけで、ああ、私は貝になりたい!なんちゃって。

     

     

     

    以下の記事は今からちょうど5年前に書いたものです。その中で、「東京オリンピックの時の総理大臣は橋下徹という、誰一人予想すらしないグロテスクな結末を、私の妄想だとして笑い飛ばしてほしいものです。」と書きました。よかったら暇つぶしにでもお読みください。

     

     

    『橋下徹は、さっさと政界から引退せよ』

    http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=46

     

    | 政治 | 22:26 | comments(0) | - |
    二度あることは三度ある。
    0

      昨日はわが陋屋の窓ガラスに養生テープを張って台風に備えました。養生が終わって、汗びっしょりになって階下に降りると、奥方様は涼しそうな顔をして『愛の不時着』の二回目を見ていました。これを嵐の前の静けさというのでしょう。つい数時間前までは平凡な日常がそこにあったのに、24時間後には信じられない光景の前で茫然自失するなどということがないように祈るだけです。

       

       

       

      ところで、「二度あることは三度ある」「降れば土砂降り」という諺は、英語で It never rains but it pours. と言います。中学3年生の時に覚えたことわざです。教えてくれたのは私が通っていた英語塾のN先生でした。

       

       

       

      相性と言えばいいのでしょうか、どういうわけかN先生の教えてくれたことはすべて頭に残っています。その身体から発せられる声、抑揚、笑い声、ジョーク、ため息、激励、経験談など全てが先生の人格を作り上げていて、それに感化されたのだと思います。

       

       

       

      本題に入ります。これまでブログでも指摘してきましたが、世の中のシステムを作っているのは(その特徴は匿名性にあります)、日本国民が近代以降、岩につく苔のように蓄積してきた集合的な無意識ではないでしょうか。

       

       

       

      総理大臣が変わろうと、政権が変わろうと、集合的な無意識をかたち作っている個人としての人間が変わらなければ同じことが繰り返されるのだ、というのが歴史の教訓かもしれません。

       

       

       

      そして、人間性を抑圧し、自由を奪い、鋳型にはめようとするのがわが国の教育システムです。一言でいえば、相互にばらばらな知識をインプットすることで生き生きとした五感の集合体である直観を弱体化するプロセスが日本の教育システムだということです。『情報のアンテナを折る』『反・情報としての文学だけが世界を変革する』を書いた理由です。

       

       

       

      そういうわけで、これから起こることを、いや、起こらないでほしいことを書いておきます。これまでブログで何度も書いてきましたが、複合災害についてです。

       

       

       

      端的に言うと、地震と火山の噴火に続き原発事故が複数個所で起こっているところに今回のような猛烈な台風が列島を縦断するというシナリオです。さらに避難所ではコロナウィルスに感染する危険性もあります。政治の大空位時代には、国民は避難民になるか国外脱出のディアスポラになる運命なのです。

       

       

       

      ウソつきで、血も涙もない、ばかな総理大臣が仮病を使って政権を放り出したにもかかわらず、「お疲れ様」といった情緒的な反応をする国民が多いということは、複合災害を想定して理性的で合理的な手を次々に打てる政治家など望むべくもないということです。

       

       

       

      にもかかわらず、マスメディアは次期総裁の予想を連日垂れ流しています。出来レースに予想もへったくれもありません。私にはどうでもいい、どこか遠くの世界の出来事です。そして、こういう時です。二度あることが三度あるのは。

       

       

       

      福島第一原発の事故は実は二度目だったのです。一度目は福島第二原発3号機の再循環ポンプの事故および関電美浜原発2号機の蒸気発生細管のギロチン破断事故です。どちらも「チェルノブイリ一歩手前」の事故でした。すべてが結果オーライのこの国では、なかったことにされたのです。疑う人は以下の本をお読みください。

       

       

       

       

      この本は、第二次安倍政権が誕生した2012年に出版されています。私は読んですぐ、アマゾンにレビューを投稿しました。あれから8年が経過しました。しかし、マスコミは台風10号が「過去に経験したことのない猛烈な台風」だと不安をあおりながら、風速80メートルの風が原発の送電線の鉄塔を倒壊させる危険性を一切報道しません。それを指摘する畏友・疾風自由日記のSさんのブログをお読みください。

       

      https://ameblo.jp/hayatefree/

       

      | 原発 | 17:28 | comments(0) | - |
      政治家とオムツは・・・・
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        アメリカ文学の父、マーク・トウェインの言葉です。Diapersとは赤ちゃんのオムツのことです。「政治家と赤ちゃんのオムツは度々取り換えるべきだ、同じ理由で」とはよく言ったものです。放っておくと、ウンコまみれ、クソまみれになって、衛生的でないばかりか腐臭が漂い出すからです。感染症の原因になるかもしれませんし、その周りにいる人もクソまみれになることをマーク・トウェインは知っていたのですね。う〜む。

         

         

         

        今更日本のジャーナリズムに期待することは1ミリもありませんが、何と言ってもこの7年8ヶ月余りの間、安倍政権と一蓮托生でこの国の倫理を破壊し続けた罪は消えるものではありません。

         

         

         

        安倍首相の在任中、彼らは具体的な事実を一つ一つ挙げて、腐りきった最高権力者を追及するということをしませんでした。それどころか、夜な夜な料亭やステーキハウスや高級寿司店に通い、談笑していたのです。自分たちは統治機構の一部で、この国の支配層だという意識がジャーナリズムの最低限の責務を忘却させたのです。

         

         

         

        しかも、首相が辞任した途端に、手のひらを返したように批判を始めます。私は毎日新聞の社説を読んで怒り心頭に発しています。執念深い安倍晋三からの仕返しがなくなってからこんな記事を書くとは、毎日新聞よ、恥を知れ!自らを危険にさらさない報道に何の意味があるのか。

         

         

        「安倍政治」の弊害 民主主義ゆがめた深い罪

        https://mainichi.jp/

        20200830/ddm/005/070/010000c

         

         

         

        彼らは日本の教育システムを通過する中で、倫理観など出世の妨げにしかならないことを経験的に知っているのです。まったくふざけた連中です。そして、安倍政権の失政を見て見ぬふりをし、あたかもそれが成功しているかのような空気を作り出しました。すなわちウソの上にウソを重ねる政権を批判せず、「公正」や「正義」や「公共」といった社会の健全性を保つために不可欠な理念をズタズタにしたのです。

         

         

         

        私はこれまで、意に反して、政治について186件の記事を書いてきましたが、すべてこの政権の本質が人間性に対する侮辱であることを告発したものです。そして、少なくとも30%の国民が安倍政権を支持していることに対する不快感を何とか薄めようともがいた結果です。

         

         

         

        考えてもみてください。隣人に対して敬意を持って暮らすことができないということがいかに不幸であるかを。私のような精神的にひ弱な人間にとって、意気阻喪させるようなことが7年8ヶ月余りも続いたのです。

         

         

         

        この間の経緯を山崎雅弘氏が簡潔にまとめています。NHKをはじめとして、大手の新聞社がせめてこのくらいの認識を持っていればと思わずにはいられません。

         

         

         

        『安倍晋三は本来、税金私物化疑惑で「不正がないことを公的記録で証明できなかった時点」で総理大臣欠格の存在であり、その地位に居座り続けられたのは、官僚と大手メディア政治部が権力者に屈従して黒を白だと言い、情報隠しを批判せず、公文書を改竄してまで奉仕したから。総理大臣は、国民を裏切ることをすれば批判されるのが当然で、今回もまた自分のやったことの責任を全然取らないまま、体調不良で「職務投げ出し」の逃亡。「お疲れさま」とは自分のすべきことをきちんとした人に対して敬意と共に呈する言葉で、その正反対の卑怯な権力者に「言わされる台詞」ではない。』

         

         

         

        | 政治 | 18:49 | comments(0) | - |
        反・情報としての文学だけが世界を変革する。
        0

          今回のタイトルは、少し大げさかもしれません。世界を変革するなどと、この暑いときに何言ってるんだ、妄想はお前の頭の中だけにしてくれと言われるかもしれませんね。

           

           

           

          わかりました。ブログを書くのは一円の儲けにもならないどころか、企業のコマーシャルを載せないためにお金を払っているので、なるべく簡潔に書くつもりです。そうは言っても、断片をつぎはぎしたような文章では、せっかく貴重な時間を使って読んで下さる方に申し訳ないので、ある程度の長さは必要になります。

           

           

           

          今回のブログでは、そもそも本など読む価値があるのか、ましてや文学などいったい何の役に立つのか、という問いに答えます。さらに、本当の文学だけが世界を変革すると考える理由を語りたいと思います。

           

           

           

          今の出版業界は、自分が理解できないものには価値がないという風潮を背景に、読んでもわからない、頭に入らない、だからもっとわかりやすく書け、なんだこの翻訳は、そもそも前提となる知識すら書いてないじゃないか、とクレームをつけるような読者大衆を相手にしています。

           

           

           

          大手出版社はとにかく本を売らなければならないので、この現状を初級があって中級があって上級があるというような、知の序列の問題としてとらえ、読者層を絞ります。

           

           

           

          つまり、読者の不安や劣等感や怒りにつけこんで、入門書やビジネス書や自己啓発本を矢継ぎ早に出版するわけです。例えば、名前が売れているだけで何のオリジナリティーもない起業家の話をゴーストライターに書かせて、読者をつなぎとめます。これを搾取といいます。幻冬舎の見城徹のように権力者に取り入り、時代の空気を読んで読者を搾取できる人間ほど有能だと言われるのです。

           

           

           

          かくしてテレビや出版メディアは、人間を消費単位とみなして平準化し、動物化し、アトム化して交換可能な存在にしました。そして子供たちは、地域共同体や自然から学ぶよりも、もっぱらメディアから学んでいます。

           

           

           

          今では、情報とはメディアによって薄められ広められた通俗な話、よくある話、分かりやすい話のことです。自分だけの体験はメディアによって漂白されたのです。

           

           

           

          これは自分のかけがえのなさを失わせるだけでなく、他人のかけがえのなさも失わせます。自分の真の欲望はなくなってしまい、残っているのは誰かの、誰かから教わった、借り物の欲望だけになりました。これが疑似体験を提供するメディアが隆盛を極めている理由です。

           

           

           

          文学とは無縁の作家や評論家の中には、読んだ本の量を誇っているような人がいますが、同じような本を大量に読まされているだけです。知の伝道師を気取っていても、実は搾取されていることに気づいていません。読んだ本の数を誇っている時点で、出版業界から安全パイとして認知されているのです。

           

           

           

          そもそも彼らは「読む」という行為の恐ろしさがわかっていません。情報に還元されたものしか相手にしていないので、自分を根底から変革する書物に出会っても、それと正面から向き合うことができないのです。

           

           

           

          ところで、そもそも「文学」とは、かつては読み書く技法一般のことでした。哲学者ジョン・ロックやヒューム、物理学者のニュートンは「文学者」と呼ばれていました。彼らは文献を、あるいは自然法則を「読み」、本を書くことにおいて抜きんでた才能をもっていたからです。

           

           

           

          そしてブログでも取り上げた18世紀最大の経済学者アダム・スミスは、出世作の『道徳感情論』を書く前も書いてからもエディンバラ大学で文学を教えていたのです。マキャベリや『ガリバー旅行記』の作者であるスウィフトを例に挙げて、いかに書くべきかについてこまごまと実際的な注意をしていました。これだけでも私たちが現在「文学」と呼ぶものがいかに狭隘なものか分かろうというものです。

           

           

           

          そもそも、ものを読んだり書いたりすることは奇妙な熱狂と愉悦をはらみ、ある種の狂気をはらむものです。真の文学は情報に還元できないものを持っていて、それに触れた人は、しばらくは何もしないで茫然としているほかないのです。これが「読む」という行為の恐ろしさです。小林秀雄もヴィトゲンシュタインも、語り得ぬものについては沈黙しなければならない、と言っています。

           

           

           

          しかし、今の軽薄極まりない出版業界の中では、沈黙すれば才能がないとみなされます。それどころか、前々回のブログ『情報のアンテナを折る』で書いたように、無知で愚か者の烙印を押されます。テレビタレントや芸人と同じように、絶えず名前を売り、メディアに露出する必要があるのです。

           

           

           

          私が影響を受けた文学者は、「無数のアンテナを張りめぐらす」生き方を拒否し、無名と日蔭を選び、運命にみちびかれるようにして、突然、社会の表舞台に登場してきた人たちです。

           

           

           

          「読む」という行為の恐ろしさについて、もう少しだけ話をさせてください。読むという行為は書き手の無意識に接続することです。例えば、ニーチェを読んでわかるということは、ニーチェの無意識に接続し、彼の夢を自分の夢として見てしまうということです。ご存じのように、ニーチェは錯乱し、発狂して精神病院の中で死にました。

           

           

           

          彼の本の一章句を読んで理解するということは、その言葉に導かれて生きる他なくなることを意味します。その言葉が青白く発光するのを、かたずをのんで見つめる時間を過ごすということです。ですから、古井由吉氏は「文学にはうっかり理解したら大変だという作品が多い」と言っています。

           

           

           

          もちろん、「読む」という行為には、神でさえ嫉妬するような愉悦(ヴァージニア・ウルフ)の瞬間があります。情報に還元する読書には、損得勘定はあっても、世界を変革する力はありません。仮に、世界同時革命というものがあるとしても、それはまず個人の中で「文学」によって自らの世界を変革することから始まっているはずです。今回のタイトル『反・情報としての文学だけが世界を変革する』の意味がお分かりいただけたでしょうか。

           

           

           

          それでは具体的にどうすればいいのかという問いに答えます。

           

          古井由吉も小林秀雄も夏目漱石も、ニーチェもショウペンハウアーもスタンダールもロラン・バルトもヘンリー・ミラーも同じことを言っています。「本は少なく読め。多く読むものではない」と。「少ない本を繰り返し読め」と。

           

           

           

          幼い子供さんを持つお母さんは、子供にせがまれたときには同じ本を何度も何度も読んであげてほしいと思います。その本はきっとお子さんの無意識に触れているのです。それをよすがとして、さらなる言葉の海を泳ぐ楽しみを発見することでしょう。

           

           

           

          最後にある人物を紹介して終わりにします。ブログでも取りあげたロシア文学者、北御門二郎氏です。彼は「うっかり」トルストイを「読んだ」のです。トルストイの思想を懐胎したのです。東京外国語大学の原卓也教授と翻訳論争を巻き起こしましたが、職業的行為としてトルストイを翻訳する学者が、生活のすべてを傾注してトルストイの思想を生きた「文学者」にかなうはずがありません。ちなみに、小林秀雄は熊本の山奥で農業をしていた北御門氏を訪ねています。振舞われた一杯の湧水を本当においしそうに飲んだということです。

           

           

          北御門二郎氏については、以下の過去記事をご覧頂ければ幸いです。

           

          『良心的兵役拒否について』

          http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=113

           

           

          | 文学・哲学・思想 | 17:21 | comments(0) | - |
          祝・在職期間最長!
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            在職期間が最長であることを誇る以外に何もないことが我が国の裸の王様の凡庸さと無能を証明しています。ある人物を凡庸だとか無能だというのは価値判断です。当然、価値判断には具体的根拠が必要です。私はブログでそれを挙げてきたつもりです。根拠のない罵詈雑言をまき散らすネトウヨの皆さんと一緒にされては困ります。

             

             

             

            今回は『反・情報としての文学だけが世界を変革する』を書く予定でしたが、少し気晴らしをすることにしました。

             

             

             

            以下は、ある小学校の社会科の授業風景です。もちろん架空の話です。

             

             

            先生:「日本の総理大臣で一番在職期間が長かったのは誰でしょう?難問ですね。答えられる人いるかな?」

             

             

            生徒数人:「はい!はい!はい!安倍晋三です。」

             

             

            先生:「よくできましたね。今時、高校生でも答えられませんよ。花マル、ゲット!でも総理大臣を呼び捨てにするのはよくありませんね。せめて、シンちゃん、くらいにしましょう。」

             

             

            生徒A:「(周りを見回して)お前ら、こんな簡単な質問に答えられないのか。答えられなかった者、10時まで帰れまテン。やべっ、ここ塾じゃなかった。先生!ぼく答えられたので、中学受験大丈夫ですよね?フーゾク、じゃなかった、付属に行って上野から東大をねらうのが親の、いや僕の希望です、なんちゃって。」

             

             

            先生:「Aちゃんすごいね!東大狙ってるの?うちの旦那なんかトーダイに魚釣りに行くだけよ。じゃ、将来は官僚じゃなくて、IT関連の起業家を目指すわけね。年収数千万のイケメン社長になって、可愛いモデルか女子アナを狙って彼女にしたりして、テレビのコメンテーターになって、車はベンツ、住まいは時代遅れの高級タワーマンション、東京の夜景を見ながら高級ワインとオーガニックな食事に舌鼓を打ち、週末はオーガニックな服を着て美術館へ行き、わけのわからない作品を絶賛したり、その後はクラシックコンサートかオペラを見に行ってコロナに感染したり、儲けたお金でロケットを飛ばしたり、彼女に浮気されてやけくそになり、買った株が暴落し、投資にも失敗してアベノミクスのバカヤローと叫んでみたり、まるで絵にかいたような不幸な人生を目指しているわけね。」

             

             

            生徒A:「先生、ひどいよ。そんなリアルなこと言って純粋な子供の夢をぶち壊すなんて!親と教育員会に言いつけるぞ、なんちゃって、冗談ですよ、冗談。」

             

             

            先生:「授業に戻ります。じゃあ、在職期間が最長になったシンちゃんは、国民のために何をしてくれたのでしょうか。少なくとも5つは挙げてね。在職期間が最長なんだから。」

             

             

            生徒B:「はい!はあい!え〜と、まず集団的自衛権を閣議決定して、従来の憲法解釈を変更しました。そのために法制局長官の首をすげ替えました。これでめでたくわが国は戦争できる国になったのです。

             

            次に、私が総理の間にトレモロス、と言いながら拉致被害者を救助せず、政治的に利用しました。トランプ氏に何とかお口添えしていただけませんかぁ、と頼む努力だけはしました。

             

            北方領土問題では、プッチンプリン、じゃなかった、プーチンに3000億円以上の税金をプレゼントするのと引き換えに、北方領土をプレゼントしました。

             

            それから、え〜と、え〜と、森友学園の名誉校長になっていた昭恵ちゃんに頼んで、籠池さんに「安倍晋三からです」と言って100万円の現金を渡してもらい、国有地をただ同然の値段にディスカウントし、財務省の心ある職員を自殺に追いやり、自分は無関係だと言い張りました。お見事です!

             

            それから、え〜と、え〜と、そうだ、加計学園の問題がありました。京都産業大学を締め出し、愛媛県今治市に「世界に冠たる」獣医学部を作り、世界トップレベルの感染症研究を行っているとのことです。当然、ワクチンではなくコロナの治療薬を開発し、コロナを撲滅して来年の東京オリンピック・パラリンピックは大盛況のうちに終わり、世界中の称賛を浴びることになっています。

             

            ぼくは小学生なので詳しいことは知りませんが、覚えているのはこれくらいです。おっと、思い出しました。桜を見る会を忘れていました。税金で自分の支持者に飲み食いさせ、芸能人と写真を撮り、どや顔をしました。

             

            ぼくの見るところでは、政権にとって都合の悪いことはすべて抹消・抹殺して、公文書はのり弁状態です。先生、なんか疲れました。5つは挙げていると思います。以上が安倍政権が国民のためにしてくれたことです。」

             

             

            生徒A:「B君、質問をよく聞いたの?シンちゃんは、国民のために何をしてくれたのでしょうか?というのが先生の質問だぜ。答える前に、まず質問の意味をよく考えて、次に必要十分な答えをするというのが鉄則だろう?ぼくの通ってる脳壊の先生が口を酸っぱくして言ってることだよ。」

             

             

            生徒B:「A君、ぼくは先生の質問を理解して、ちゃんと答えてるよ。勘違いしないでよ。ただ国民の一人であるぼくの父さんとぼくはネトウヨだからね。自民党ネットサポーターズクラブにも入ってるよ。君たちとは考えが反対なのさ。ぼくが通ってる大分市南春日にある吉〇ゼミの先生も同じ考えだからね。父さんとぼくは吉〇先生を尊敬しているんだ。」

             

             

            生徒A:「あわわわ・・・・」

             

             

            | 政治 | 16:22 | comments(0) | - |
            情報のアンテナを折る。
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              以下は、小林秀雄の『当麻』の中の言葉です。

               

              美しい「花」がある、「花」の美しさという様なものはない。

               

              これは彼が人生にどのように向き合ってきたかを象徴的に表した言葉です。

               

               

               

              告白しますが、私は18歳の時に小林秀雄に出会い、その後ずっと彼の影響下にあります。中井久夫氏や古井由吉氏との共通点に気づいた時は、上流では別々に流れていた川が、下流で合流し、大河となって海に流れ込むさまを見ているような感動を覚えました。その時、こういった経験をすることが自分にとって人生の最大の喜びだと感じたのです。

               

               

               

              この言葉を現代風に解釈すれば、以下のようになるかもしれません。

               

              「花」の美しさについてあれこれ議論することは、抽象的な「情報」を収集しているだけである。どんなに多くの情報を収集しても、あるいは情報を収集すればするほど、実在する「花」から遠ざかる。

               

               

              それは、「批評家」や「専門家」を生み出すかもしれない。彼らは世界のすべてを一望のもとに置き、あらゆる問題について語りうるという幻想に憑かれている。あるいは特定の分野についてすべてを知っているという幻想にすがりついている。そんな全知全能を目指す自我が一体存在しうるのかと疑うことさえしない。これこそが彼らの幼児性のよって来るところだ、ということになるでしょうか。

               

               

               

              小林秀雄は、人生を深く生きるには目の前に「花」があれば足りる、後はその花を飽きず眺めることだ、だから「情報のアンテナを折れ」と言っているのです。日々の生活を大事にする人は、情報のアンテナなどなくても生き生きと愉しんでいるではないか、と言うのです。

               

               

               

              この言葉から、ジル・ドゥルーズの「堕落した情報があるのではない、情報それ自体が堕落なのだ」という言葉を思い出しました。なぜ、情報それ自体が堕落なのでしょうか。

               

               

               

              「情報」は「命令」だからです。例えば、中二病(中学二年生頃の思春期に見られる自己愛に満ちた空想や嗜好が特徴の病気)に侵された大阪府知事の吉村洋文氏が、「イソジンでうがいすればコロナの陽性率が下がる」と言えば、たちどころに品切れになるのは、人々が「情報」を「命令」だと受け取ったからです。府知事がこんな根も葉もない情報を流せば、それだけで知事の資質が問題になるはずです。

               

               

               

              「情報」の本質は「命令」ですから、情報不足の人は大事な命令を聞き逃しているのではないかという恐怖にさいなまれるようになります。その結果、ますます情報収集に拍車がかかります。しかし、情報を集めることは「命令」を集めることです。すすんで誰かの奴隷になることです。

               

               

               

              命令にはそれを下す側と下される側があります。命令を下す側には、さらに上から命令が下されます。他方、命令された側はさらに下に対して命令を下します。かくして情報収集の名のもとに指揮命令系統が私たちの意識の隅々にまで張り巡らされます。

               

               

               

              私たちが情報を収集するのは何のためでしょうか。企業が利潤をあげて生き延びるためでしょうか。受験を勝ち抜いて社会的なヒエラルキーの上位に位置するためでしょうか。それもありますが、情報がなければ自分が正しいかどうかがわからなくなるからではないでしょうか。愚かで無知に見えるからです。

               

               

               

              そうだとすると、小林秀雄の言葉を「情報のアンテナを折れ」という意味だと解釈することは、時代錯誤もはなはだしいということになります。彼は私たちに愚かで無知になれと言っているのでしょうか。実はそうなのです。

               

               

               

              現代では、情報を収集することは嬉々として誰かの命令に服することだと言いました。命令に従ってさえいれば、のけ者にされることもなく、自分は正しい、間違っていないと思い込めるのです。

               

               

               

              私は若い人たちに、それでも勇気をもって「情報のアンテナを折れ」と言いたいと思います。自分のいる場所がわからなくなるかもしれません。周りの話題についていけずに、愚かで無知だと思われるかもしれません。しかし、メディアの匿名性に責任を転嫁して、自分らしく生きていると思い込み、すすんで誰かの奴隷になるよりましではありませんか。

               

               

               

              情報のアンテナを折るということは、スマホやiPadを一度は捨てるということです。テレビは見ない、ネットにもアクセスしないということです。それでは生きていけないというのでしょうか。そんなことはありません。つい数年前まで、高校生も大学生も「スマホ」なしで生きていたのですから。

               

               

               

              私のこの記事を読んで、何を無責任なことを言っているのか、気でも狂ったのかと思われるかもしれません。しかし、そう思うのは、情報によって構築された現実がすべてだと思い込まされてきたからです。私は正気です。

               

               

               

              長くなるので続きは次回にしますが、いったん情報を遮断して自分は本当は何をしたいのか、何のために生きているのかと真剣に自問自答問しなければ、もはや私たちは自分の人生を生きることができない世界にいることを知るべきなのです。無知で愚か者だと思われることを恥じてはなりません。

               

               

              | 文学・哲学・思想 | 22:14 | comments(0) | - |
              A little sad story
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                今年のお盆は例年になく寂しい風情が漂っています。お墓に花を供えて水を換え、空を見上げると、蝉の声が頭上に降り注ぎます。蝉しぐれとはよく言ったものです。あたりの森に反響していたのが、突然静かになったかと思うとまたいっせいに鳴き始めます。夏の深山幽谷にこだます蝉の声はどこか前世とつながっているようで、幻聴を疑うほどです。

                 

                 

                 

                昨日の明け方、夢を見ました。滅多に夢は見ないのですが、手塚治虫の「火の鳥」を思わせる鳳凰が空高く舞い上がっている夢です。夢だと分かっていてもそれをじっと見つめている自分がいます。すると、次の瞬間、それを追いかける黒い影のかたまりが見えました。

                 

                 

                 

                午前5時頃のことで、外は明るくなり始めています。ベッドから起き出して、階下に降り、冷たい水を飲みました。毎日暑い日が続いているので、ニワトリもたまには早く外に出してやろうと思い、小屋へ向かいました。

                 

                 

                 

                ところが、6羽がすべて外に出てじっとうずくまっているではありませんか。普段は私が近づくといっせいに駆け寄ってくるのですが、うずくまったままです。よく見るとあちこちに羽毛が散らかっています。私はことの顛末を理解しました。

                 

                 

                 

                イタチに襲われたのです。昨夜、ニワトリ小屋のカギをかけ忘れたことに気づきました。しかし、後の祭りです。イタチを警戒して、小屋を高床式にし、外からは決して侵入できないようにしていたのですが。まさかカギをかけ忘れていたとは・・・

                 

                 

                 

                それから、あちこちに散らばる6羽の亡骸をかき集めました。首と胴体がバラバラになっているのもありました。イタチはニワトリの肉を食べたりしません。首を食いちぎったり、首の付け根に食いついたりして血を吸うのです。わずか数時間前のことですが、血を吸われたニワトリは白くなってモノのように打ち捨てられていました。それをかき集めて、埋葬しました。

                 

                 

                 

                可愛がっていたので、もちろんショックでしたが、どこか自然界の酷薄さというか摂理のようなものを感じて粛然となりました。

                 

                 

                 

                美味しい卵をありがとう。それに子供たちを楽しませてくれていい思い出になりました。これに懲りずに、またヒナから育てるつもりです。それにしても、明け方見た夢は何だったのでしょうか。

                 

                 

                | 身辺雑記 | 13:02 | comments(0) | - |
                そして、「国民」はいなくなった。
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                  前回のブログに対して、no name さん、かわせみさんがコメントを寄せてくださいました。しかし、前回のブログの趣旨は、私たちが現実だと思っているものは、そのほとんどが政府や財界、大手マスメディアが作り上げたものだということでした。

                   

                   

                   

                  多くの人が同じ現実を生きているということは、<生>の多様性を考えると、本来あり得ません。国家が国民に対して同じ現実を見るように強制するのは、戦争を遂行しようとする時です。もちろん経済戦争、思想戦争も含みます。これについては後で触れます。

                   

                   

                   

                  その前に、本筋からそれますが、no name さんの質問に答えておきます。

                   

                  おっしゃる通り、国民はこの国からいなくなりました。国民とは納税の義務を果たし、自らを主権者だと自覚する人々によって維持される国家体制(国民国家)の構成員を指します。

                   

                   

                   

                  国民に代わって登場したのがアトムと化した消費主体としての個人です。すなわち、新製品に関する情報をいち早く仕入れ、子供の進学先の情報を収集し、自己利益の最大化を常に心がけ、承認欲求を満たすためにSNSで情報発信することに熱心な人々です。選挙は時間と労力の無駄であり、あるいは現体制が維持されるに決まっていると考えて行きません。

                   

                   

                   

                  これは国民国家vsコーポラティズムの見えない戦争(ステルスウォー)の結果、コーポラティズムが勝利した結果です。コーポラティズムとは、もとは政府・企業・労働組合が同盟を組み、ナショナリズムの名で秩序を維持するために協調する警察国家体制のことを言います。

                   

                   

                   

                  現在では大企業と政府が一体になった国家運営体制のことを言います。この体制下では、必然的に政府と癒着した一部の大企業、中でもその株主と経営者に富が集中していきます。その結果、現在、最も裕福な1%の人たちが世界の富の少なくとも60%以上を所有するようになっています。かくして国民は、コーポラティズムが推し進める新自由義経済に圧倒されて今や風前の灯火です。

                   

                   

                   

                  新自由主義者の立場からは規制や市場原理を阻むものを壊す必要があります。しかしそれを壊すには国家権力を使うしかないのです。つまり、新自由主義者は必ず国家権力と結びつきます。「国家は経済に介入するな」と言いながら、自らは国家と結びついて有利なルールに変えていくのです。

                   

                   

                   

                  かの竹中平蔵氏は、ある時は人材派遣会社の会長、あるときは経済財政諮問会議の委員、またある時は大学教授の名をかたってこの路線をひた走っています。これは民主主義の否定につながります。民意は政治に反映されず、国家と結びついた一握りの大企業または個人の利益のために政治が行われるからです。

                   

                   

                   

                  では「国民」はこの国に不要なのでしょうか。コーポラティズムを推進する政治家や財界人は「国民」など信じていません。では、国民に主権を取り戻そうと考えている人は、どうすればいいのでしょうか。言い換えれば、少なくとも国民の8割以上が選挙に行くようになるにはどうすればいいのでしょうか。以下、2つの観点から述べてみます。

                   

                   

                   

                  1:国民国家vsコーポラティズムの見えない戦争(ステルスウォー)を見えるようにすること。

                   

                   

                  戦争と言えば私たちは軍隊同士の武力衝突をイメージしますが、実はそれ以前に政治戦や心理戦が行われています。なぜなら戦争とは結果的に対象国を「支配」することだからです。

                   

                   

                   

                  政治戦は対象国の政治家に報酬や賄賂または地位の約束を見返りに影響を及ぼしたり、逆にスキャンダルをネタに脅迫したり、本人や家族へ危害を加えるなどと恫喝してコントロールすることを目的に行われます。それでも言うことを聞かない場合には、殺害したり、冤罪の濡れ衣を着せて社会的に抹殺したりします。

                   

                   

                   

                  しかし、対象国の政府だけをコントロールしても国民が反発しては「支配」はうまくいきません。そこで政治戦と並行して行われるのが心理戦です。心理戦は情報戦、思想戦とも言われます。個人や組織などの意見や行動に影響を及ぼすことを目的として、情報を計画的に活用、操作することを言います。この心理戦を担当するのが「教育」であり、新聞やテレビなどの大手マスメディアです。

                   

                   

                   

                  日本人は第二次大戦後、戦争に巻き込まれることなく平和に暮らしてきたと思っている人が大多数でしょうが、実際には終戦直後から現在に至るまで、政治戦と心理戦を仕掛けられ続けています。

                   

                   

                   

                  2:私たち一人一人が「理想の審判者」を信じること。

                   

                   

                  私が政治に抜き差しならぬ関心を持ち始めたのは、ジョージ・オーウェルの著作を読んだのがきっかけです。『1984』は言うまでもなく、「理想の審判者」の着想は『カタロニア讃歌』から得ました。私たちが現実に出会う個人は欠点だらけで矛盾に満ちた存在かもしれません。しかし、私たちの見方次第で、あるいは状況によって、個人の中に「理想の審判者」が立ち現れてくる瞬間があるとオーウェルは述べています。

                   

                   

                   

                  そして5年前に書いたのが以下の記事です。暇なときにでも、一度目を通していただければ、こんなうれしいことはありません。

                   

                   

                  『私たちは理想の審判者を信じることができるのか。』

                  http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=48

                   

                   

                   

                  今回はメインテーマである「現実脱出論」から脇道にそれましたが、おかげで「国民」について再確認することができました。no name さん、かわせみさん、ありがとうございました。

                   

                   

                  | 政治 | 18:36 | comments(0) | - |
                  「裸の王様」はマスクして引きこもっています。
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                    安倍政権がよって立つ「現実」はことごとく捏造されたものです。この「現実」の中には歴史も含まれます。そのスポークスマンである菅官房長官は、今日も記者会見の場で付箋だらけの原稿を読み上げています。質問があらかじめ分かっているから付箋を貼ることができるのです。

                     

                     

                     

                    機械仕掛けの自動人形(菅官房長官の顔を見ているとこの言葉しか浮かびません)と魂を抜かれた記者との応答は、空語の見本市となっています。彼に国民を思う気持ちがあれば、すなわち政治家としてまともな神経を持っていれば、このような茶番劇にはとうてい耐えられないはずです。こんなバカげた記者会見はやめにしようという人間がいないところが、我が国のディストピア化に拍車をかけています。

                     

                     

                     

                    ところで、わが国の「王様」は何をしているのでしょうか。マスク一枚で裸になって引きこもっています。ブリーフくらいは着けているでしょうが、腑抜けの記者たちの中に裸であることを指摘する者がいないので、お互いにもたれあって無気力状態に陥っているのでしょう。

                     

                     

                     

                    これまでは、他人の書いたフリガナ付きの原稿を読むだけで総理大臣の職責を果たしたつもりになっていたのが、ここに来て原稿を読む気力すらも枯渇させてしまったのです。文字通り人格が空洞化すれば、自分の言葉を発することなどできません。

                     

                     

                     

                    言い換えれば、傀儡の役回りに耐えられなくなったということです。それはそうでしょう。統一的な人格があってこそ、問題の所在も、解決策も、前後の脈絡も理解できます。人の心に響かない言葉を量産してきたツケがまわったのです。自分の言葉で語ることさえできれば、どんな難局にも対応できます。

                     

                     

                     

                    ところで、アンデルセンの『裸の王様』は、よその国から来た巧妙な詐欺師に騙されて裸のまま街に出た王様の話ですが、このあまりに有名な童話は、多くの人の心に忘れられない印象を残しています。なぜか。実は、『裸の王様』は、権力者に迎合・忖度する中で「現実」がいかに捏造されていくかを描いているからです。あらすじをおさらいしてみましょう。

                     

                     

                     

                    「ある国に、新しい服が大好きな、おしゃれな皇帝がいました。ある日、城下町に二人組の仕立て屋がやってきます。彼らは「自分の地位にふさわしくない者や、手におえないばか者」の目には見えない不思議な布地を織ることができるというのです。噂を聞いた皇帝は二人に大金を払い、新しい衣装を注文します。

                     

                     

                    彼らはお城の一室で忙しく布地を織っているようです。皇帝が大臣を視察にやると、「ばか者には見えない布地」は大臣の目には見えません。大臣は困りますが、皇帝には布地が見えなかったと言えず、仕立て屋たちが説明する布地の色と柄をそのまま報告します。

                     

                     

                    その後、視察にいった家来はみな「布地は見事なものでございます」と言います。最後に皇帝が仕事場に行くと「自分の地位にふさわしくない者や、手におえないばか者には見えない布地」は、皇帝の目にもさっぱり見えません。皇帝はうろたえますが、家来たちに見えないとは言えず、布地の出来栄えを大声で賞賛し、周囲の家来も調子を合わせて衣装を褒めます。

                     

                     

                    そして、皇帝はパレードで新しい衣装をお披露目することにし、見えてもいない衣装を身にまとい、大通りを行進します。集まった国民も「手におえないばか者」だと思われるのが怖くて、歓呼して衣装を誉めそやします。

                     

                     

                    その時、沿道にいた一人の子供が、「王様は裸だよ!」と叫び、群衆はざわめきます。ざわめきは広がり、ついに皆が「王様は裸だ!」と叫びだすなか、皇帝のパレードは続くのでした。」以上。

                     

                     

                     

                    この物語の解釈は3通りあります。

                     

                     

                    1:王様が裸だということは、みんなに分かっているのに、それを言うとまずいと思って(自分が手におえないばか者であることがばれてしまうので)人々は黙っている。それが子供の一言で王様は裸だということがばれてしまう。

                     

                     

                    2:王様が裸だということは、一人ひとりには見えているが、実はそう見えているのは自分だけで、他の人には服が見えていると思っているので、人々は黙っている。

                     

                     

                    これは現実が見えているにもかかわらず、そう見えているのは自分だけだと思うと、現実に対する認識がゆらいでしまうということを意味します。つまり、現実を認識するためには、自分の目で見えていることだけでは不十分で、多くの人にもそう見えているはずだという了解を必要とするのです。ここにはとても重要な問題が含まれています。このことは『言葉の意味は誰が決めるのか』ですでに述べました。

                     

                     

                     

                    3:王様の目にも、街の大人たちの目にも、ちょっと見ると裸のように見えるけれど、圧倒的多数の人にはほとんど透明の素晴らしい服が見えていると思うと、「了解」が知覚に影響を与えて、実際に見えているような気がしてしまうということが起こります

                     

                     

                     

                    かくして、多数派がありもしない現実を捏造していくのです。これは見て見ぬふりをすることとは違います。錯覚がそのまま現実になっていくのです。嘘が深まれば、本当は嘘なのに、もはやそれが嘘であると認識できなくなります。これが今の日本の政治的・文化的状況ではないでしょうか。

                     

                     

                     

                    「王様は裸だ!」と声を上げる「子供」もいなくなりました。受験と就職という「官製の現実」に適応することが最大の関心事ですからね。さて、あなたならどうしますか?

                     

                     

                    | 文学・哲学・思想 | 13:50 | comments(2) | - |
                    「野尻湖畔の小さな家」
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                      今回紹介するのは、長野県信濃町にある「野尻湖畔の小さな家」です。

                       

                      建築面積25,05

                      延床面積36,73

                       

                      1辺が5メートルの方形の家です。

                       

                       

                      2年ほど前、信州を旅行したついでに立ち寄りました。晩秋の野尻湖は風が強く、湖面は波立っていました。観光客はいませんでしたが、数人の女性が車から降り、写真を撮るとすぐに去っていきました。

                       

                       

                       

                      ところで、この小さな家というよりも小屋は、人生の終盤に一人で住むにはもってこいの住処だと思います。八島建築設計事務所の設計ですが、この家の設計を手掛けること自体が、並々ならぬ建築への愛情を表していますね。

                       

                       

                       

                      人生の終盤にはもってこいの住処だと言いましたが、私の愛読書である『森の生活』の作家、H.D.ソローは27歳の時に森の生活を始めました。「思慮深く生き、人生の本質的な事実にのみ直面し、人生が教えてくれるものを自分が学び取れるかどうか確かめ」るために森に入り、そこで2年2か月を過ごしました。その時の思索をまとめたのが『森の生活』です。

                       

                       

                       

                      19世紀に書かれた本ですが、その中でソローは、人々が置かれている状況を分析し、その虚飾をあばいていきます。彼が発する問いは今を生きる私たちにも突きつけられます。部屋がいくつもある家は必要なのか、華美な服装は何のためか、それらを求めることと引き換えに厳しい労働に従事しているのではないか。あなたの欲しているものは本当に必要なのか、それを得るために払っている犠牲を理解しているのか、と。

                       

                       

                       

                      私はこの小さな家が現代版『森の生活』をすすめているように思えるのです。春は山菜を取りに山へ入り、渓流で魚を釣る。夏は狩猟生活を送って自分を取り巻く自然界の豊饒さに感嘆する。秋は木の実を探して保存食を作る。冬は暖炉の火を眺めて、万物が変化するさまに時の移ろいを感じる。充実した生活は季節の巡りとともにあり、素朴で単純なものです。

                       

                       

                      「野尻湖畔の小さな家」

                       

                       

                       

                       

                       

                       

                       

                       

                       

                       

                       

                       

                       

                       

                       

                      | 自己救済術としての家作り | 11:40 | comments(0) | - |
                      悪霊は「理性」の仮面をかぶって降臨する。
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                        世はあげて「Go toトラベル」キャンペーン真っ只中です。「Go toトラベル」は英語でいえば Travel だけで済みます。わざわざカタカナにしているのは和製英語ですよ、文法的に間違っていることはわかっていますよ、と言うためでしょうか。と思っていたら、Go to eat とか言い出したので、あわわわ・・・です。なぜ素直にトラベルキャンペーンと言わないのでしょうか。どうしても Go to と英語の文字を入れたかったのかもしれません。いや、何とかして旅行させようという思いが、命令文となって結晶したのでしょう。おそらくこれも電通の仕業でしょう、なんちゃって。

                         

                         

                         

                        そんなバカ丸出しの日本ですが、今から4年前の今日、世間を震撼させる事件が起こりました。ほとんどの人は覚えていると思いますが、忘れている人もいるかもしれないので、過去記事を再録しておきます。

                         

                         

                        ・「思想的確信犯」はいかにして生まれるのか?

                        http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=389

                         

                        ・悪(霊)が降臨する前に。

                        http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=561

                         

                         

                        | 文学・哲学・思想 | 23:10 | comments(0) | - |
                        本物のバカは自分のバカさ加減を自覚していない。
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                          まず、ここでいう本物のバカの具体例を挙げましょう。なぜなら、自公政権はいうまでもなく、維新の会をはじめとしてバカのすそ野があまりに広いので、それをいちいち批判していたら闇夜でカラスを撃つたぐいになってしまうからです。その前に共通する特徴をまとめておきます。

                           

                           

                           

                          特徴その1:テレビの司会者になって「持論」を述べる。その持論があまりにハチャメチャなので、「大手のマスコミは絶対言いませんが」というセリフを吐く。少数派を演出して体制側を擁護するためです。

                           

                           

                           

                          特徴その2:権力(安倍政権)に対して致命傷となるような批判は決してしない。それどころか、安倍ちゃんは本当は優しいのだ、一生懸命やっているのだ、代わりに誰がいるのだ、というような情緒的な擁護に終始して、決して安倍ちゃんはバカなのだ、無能なのだ、Go to トラブルなのだ、とは言わない。

                           

                           

                           

                          特徴その3:ネトウヨ・バカウヨ文化人の特徴は何と言っても日本語読解力がないことです。にもかかわらず、百田尚樹のように、劣悪な出版社の社長(幻冬舎の見城徹)と映画会社の協力を得て、ベストセラー作家になることもできます。かのレイプ魔、元TBSのジャーナリスト山口敬之の『総理』を出版したのも見城徹です。見城徹といい、橋下徹といい、だいたい徹と名のつく人物は胡散臭いのが多い。あわわわ・・・

                           

                           

                           

                          特徴その4:何でもかんでも自己責任だと叫び、社会保障どころかそもそも公共という概念を理解できない。生活保護受給者をバッシングするのが趣味で、税金の無駄使いだとヒステリックにわめきちらす。その典型は維新の会から参議院選挙に立候補して落選した元アナウンサーの長谷川豊である。「透析患者は死ね」といった男です。証拠の動画も残っているのに「言ってない!」と抗弁するバカです。

                           

                           

                           

                          今回はバカの代表として辛坊治郎と長谷川豊を取り上げます。辛坊治郎は元読売テレビアナウンサーで、報道部チーフプロデューサー、報道局情報番組部長、報道局局長待遇解説委員長などを歴任し独立。 日本のニュースキャスター、シンク(辛苦)タンク経営者。株式会社大阪綜合研究所代表。という「華々しい」経歴の持ち主です。要するに、二人ともテレビで顔を売る電波芸者です。

                           

                           

                           

                          ならば、原発と読売新聞社の生みの親、正力松太郎が内務官僚時代に何をしたのか、児玉誉士夫(こだま よしお)や笹川良一(ささかわ りょういち)とはどのような関係だったのか、すべてご存じでしょう。辛坊治郎の「思想」は正力松太郎の廉価版のコピーのコピーです。

                           

                           

                           

                          その彼が、今回のコロナ禍の最中に、新宿の「ホストたちが10万円もらうためにコロナを感染しあっている」という幼稚なデマをテレビで拡散しました。いつものことです。

                           

                          https://lite-ra.com/2020/07/post-5517.html

                           

                           

                           

                          もう一人は、同じく元アナウンサーの長谷川豊です。彼はネトウヨの典型で、そもそも社会保障制度が全く分かっていません。「透析患者は死ね」という発言をきっかけにレギュラー番組の仕事を失ったそうですが、それでも彼はまだ自分は正しいと信じています。維新の会から参議院選挙に立候補したのもそれを物語っています。

                           

                           

                           

                          彼の社会保障制度に関する主張は以下のようなものです。中学生の皆さんはこんな乱暴な主張をしないように気をつけましょうね。

                           

                           

                          ・世の中には「良い」高齢者と「悪い」高齢者、「良い」透析患者と「悪い」透析患者がいる。

                           

                          ・前者が受けるべき社会保障が、後者がいるために十分受けられない。

                           

                          ・高齢者および透析患者のうち誰が「悪い」のかは、民間に任せれば自動的に振り分けられる。

                           

                          ・だから社会保障の運用を民営化することで、「悪い」高齢者および透析患者の社会保障を自動的に削減し、国の借金を減らすことができる。

                           

                           

                           

                          かくのごとく思考回路が単純なネトウヨの議論は、誰でも真似することができます。「高齢者」や「透析患者」を「生活保護受給者」や「社会的弱者」に置き換えさえすれば出来上がりです。それゆえ彼らの主張は「ウソも100回言えば本当になる」を地で行っているのです。

                           

                           

                           

                          しかし、そもそも、高齢者や透析患者や生活保護受給者の「良い」「悪い」を、いったい誰がどうやって決めればいいのでしょうか。

                           

                           

                           

                          ネトウヨの答えは次のようなものです。

                           

                           

                          1:そんなことは常識的に考えればわかる。

                           

                          2:市場原理に任せれば自然に最適化される。

                           

                          3:1と2を合わせて判断すればよい。

                           

                           

                           

                          1の「常識」とは誰の「常識」なのでしょう。それは「オレ様の常識」に決まってるだろう、というのでしょうね、ネトウヨ界隈にはウヨウヨいそうです。これでは社会的な合意が得られません。

                           

                           

                           

                          2の民営化して市場原理に任せれば、社会保障は自然に最適化されるという考えは、竹中平蔵センセイが利益相反などものともせずに広めました。これを「神の汚れた見えざる手」といいます。

                           

                           

                           

                          ここで素朴な疑問です。そもそも市場原理に任せれば本当に必要な人に給付され、不要な人には給付されないのでしょうか。イエスというのは竹中センセイレベルの経済学者でしょう。答えはもちろんノーです。こんなことは中学生でもわかることです。

                           

                           

                           

                          なぜなら、そもそも社会保障の考え方の基本は、市場原理にすべてを任せると本当に保障を必要とする人に給付が行き届かなくなり、経済格差が固定化され、世代が下るにつれて格差が拡大してしまうという判断を根拠にしているからです。国が市場原理を部分的に制限し、誰に受給資格があり、誰に受給資格がないかを法律で定めて、税金を再配分するのが社会保障なのです。

                           

                           

                           

                          したがって、格差の拡大はやむを得ないと考える人(都知事選で小池百合子氏に投票した人です。すくなくとも400万人近くいます。彼らはコロナより株価と子供の教育を心配する人たちです)は、社会保障の考え方を否定する傾向にあります。これこそが、自己責任論が猖獗を極めるようになった原因です。

                           

                           

                           

                          しかし、社会保障を批判する人たちは肝心なことがわかっていません。国が法律で決める給付基準は、どのように決めても、かならず欠陥があります。かならず誰かがその基準の裏をかいて「不正受給」するのです。絶対に誰も「不正受給」できない制度など、原理上、設計不可能なのです。

                           

                           

                           

                          なぜなら、国民一人ひとりの生活は、一つとして同じものがないからです。それを審査しようとすればするほど、生活実態が細かく異なっているために膨大な時間と費用がかかります。その審査だけで社会保障を給付する以上の費用がかかってしまいます。国民一人一人にマスクを配ることすらままならず、いまだに10万円の給付を受けていない人もかなりの数に上るという現実を知るべきです。

                           

                           

                           

                          したがって、受給者の生活実態をいくつかのパターンに分類して法律を作り、そのパターンに当てはまれば自動的に給付します、という制度にするしかないのです。その結果、受給資格を得るために自分の生活実態を偽る「不正受給」者が出てきます。

                           

                           

                           

                          しかし、この種の「不正受給」は、どんなに精緻な社会保障制度を作っても、原理上逃れられないコストです。スーパーでもデパートでも、万引きによる損失を最初から計算に入れているのと同じです。社会保障制度もこのことを最初から見越しています。

                           

                           

                           

                          「不正受給」を見越した上で、あえて割り切った制度運用をする。それによって「不正受給」という費用と、制度運用にかかる費用の間の最適解を見つけて運用するしかないのです。

                           

                           

                           

                          制度に必然的に付きまとう「欠陥」を針小棒大に騒ぎたてているのが、ネトウヨの皆さんです。小金をためた医者の中にもこの種の人が散見されるのは残念なことです。

                           

                           

                           

                          もうおわかりでしょうが、「不正受給」を完全に無くそうとすれば、そもそも社会保障制度を完全に無くすか、給付前の審査に無限の費用をかけるか、そのどちらかしかありません。

                           

                           

                           

                          したがって、「良い」「悪い」の判別を完全に市場原理に任せるべきだという理論を押し通せば、社会保障制度を完全に撤廃するしかなくなります。これくらいのことは、ネトウヨの皆さんでもわかりますよね。

                           

                           

                           

                          社会保障制度の運用にあたっては、神のような全知全能の制度設計の天才の出現を期待することなどできません。すべての先進国が、市場に任せる部分と、国がコントロールする部分のバランスをとるために、さまざまな社会制度を設計しつつ試行錯誤してきました。

                           

                           

                           

                          社会保障制度は、約200年に及ぶ試行錯誤を経て、欠点だらけであるものの、民主主義の意思決定プロセスにしたがって今の姿にたどりついたというわけです。

                           

                           

                           

                          橋下徹や辛坊治郎をはじめとする維新の会のメンバーは、霞が関の官僚を平然とバカよばわりしていますが、バカなのはどちらでしょう。彼らの政策的なブレーンであるタケノコ先生、じゃなかった竹中センセイも単なる口達者な自然淘汰論者に過ぎません。こういう人間に限って、セーフティーネットの必要性を声高に主張するのです。

                           

                           

                           

                          今回も長くなりました。もう終わりにします。最後まで読んで下さった奇特な方にお礼を申し上げます。ありがとうございました。

                           

                           

                           

                          | 中高生の皆さんへ | 17:16 | comments(0) | - |
                          「笑い」と人生
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                            20代の頃に読んだベルクソンの『笑い』(岩波文庫版)は、どれだけ正確に読めていたのか怪しいものですが、芸術論の白眉だと思いました。今は増田靖彦氏の新訳でより分かりやすくなっています。

                             

                             

                             

                            ベルクソンは、「笑い」とは「しなやか」であるはずの生の表面を覆う「自動的」なものや「機械的」なものへのリアクションであるといいます。習慣、惰性、形式、類型、常識、等はいずれも自由な精神の働きを妨げ、それがもたらす「ちぐはぐ」な感じが「笑い」を生むと考えました。それは生のこわばりを解きほぐし反省する契機になるものだというのです。

                             

                             

                             

                            日本の「お笑い」は吉本の芸人に占拠されています。暴力団がらみで芸能界を引退した島田紳助の後を受け、今は松本人志が「お笑い」の世界を牛耳っています。お笑いの世界で生きていくには彼に「上納金」を収め、認めてもらわなければなりません。もちろん批判や反抗は許されません。

                             

                             

                             

                            つまり、もっぱらテレビを中心とした、恐ろしく狭い歪んだ世界なのです。その彼が安倍晋三というおバカな権力者をバックに、「お笑い」の世界の権力者として君臨しているというわけです。昨年、吉本興業とNTTが共同で行う映像配信などの教育事業に政府が100億円を投資することを決めたことと無関係ではありません。

                             

                             

                            かくして、日本の「お笑い」は、ベルクソンの言う、習慣、惰性、形式、類型、反復、ひとりよがりの世界に堕しました。一言でいうなら、この国の政治も文化も報道ジャーナリズムも「お笑い」も、これ以上ないところまで腐敗堕落を極めているということです。

                             

                             

                             

                            気分が悪くなったので、一つだけ動画をアップしておきます。松本人志の芸では笑ったことのない私が、清水ミチコの芸には笑ってしまいました。小池百合子という政治家の硬直、惰性、形式、類型、反復、を見事に表現しています。これぞ「お笑い」です。

                             

                             

                             

                             

                            | 文学・哲学・思想 | 21:01 | comments(0) | - |
                            知性と怒りによって。
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                              国家が危機に瀕しているときに最も必要なものは知性と怒りです。ここでいう怒りとは公憤(indignation)のことです。コウビルド英英辞典によるとindignationは次のように定義されています。: is the feeling of shock and anger which you have when you think that other people have done something unjust or unfair, and that you have the right to be angry.

                               

                               

                               

                              この二つは、わが国の政権の中枢からだけではなく、本来なら最も必要とされる報道ジャーナリズムの世界からもウソのように消えてなくなりました。後者は経済的に統治機構の一部であり、統治機構の価値観と行動規準を内面化しています。

                               

                               

                               

                              総理や官房長官の記者会見では、あらかじめ政権側に質問が提出され、「検閲」を通った質問だけが許されます。それに対して用意された答えを官房長官が読み、総理はプロンプターに写し出された文字を読み上げるだけという茶番劇が白昼堂々と行われています。

                               

                               

                               

                              記者たちは批判もせず、ただパソコンのキーボードをカチャカチャたたいているだけです。「皆様の」NHKは国民から強制的に徴収・収奪した受信料で運営されているにもかかわらず、大本営発表を垂れ流すだけです。これほどの悲喜劇があるでしょうか。記者は高給と引き換えに出来レースを走る番犬になっていることを自覚していません。

                               

                               

                               

                              知性の萌芽は、私立・公立を問わず、日本の学校教育を通過する間に摘み取られ、いや、最初から目標にすらされず、優しくて品行方正な子供たちを大量生産する間に、怒りは去勢されてしまったのです。

                               

                               

                               

                              以下の動画をご覧ください。あなたの中に怒りの感情(indignation)があるかどうかを確認できます。心の中で静かな怒りの炎を燃やし続けることで私たちは独自の存在、すなわち人格を獲得できるのです。そうであってほしいものです。

                               

                               

                               

                              | 政治 | 12:47 | comments(0) | - |
                              命の選別と「トロッコ問題」について。
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                                大西つねき氏はれいわ新選組を除名されました。このことに異議はありません。処分に時間がかかったことも納得できます。

                                 

                                 

                                 

                                私は前回のブログで彼のことを良きリバタリアン(オバタリアンではありません)だと言いました。彼の謝罪の言葉を信じたからです。しかし彼はそれを取り消し、自分の考えは間違っていないと主張したそうです。

                                 

                                 

                                 

                                彼は確信犯的な悪しきリバタリアンだったのです。日本維新の会と同じです。現実主義を標榜し、「決められる政治」「結果を重視する政治」を叫ぶ政治集団と本質的に同じだったというわけです。それにエリート主義が加わります。

                                 

                                 

                                 

                                「命の選別をするのが政治だ」という考えは、歴史的に見ると、戦争の下準備をし、遂行するときに使われるプロパガンダそのものです。国家権力が命の選別をした無残な結果の象徴がインパール作戦だったのです。大西氏はこの程度の認識もなかったのでしょうか。

                                 

                                 

                                 

                                そもそも「命の選別をするのが政治だ」という考えはどこからでてくるのでしょうか。それを考えるときに引き合いに出されるのがいわゆる「トロッコ問題」です。

                                 

                                 

                                 

                                「ハーバード白熱教室」のマイケル・サンデル教授が日本で紹介したので、一時有名になりました。2010年にNHKが東大での授業を番組にしたのですが、テレビで彼の「哲学」の授業を見て、なぜこの人物がハーバード大学で最も人気のある教授なのか理解できませんでした。彼の授業は「哲学」どころか、思考停止を強制する単なるパフォーマンスのレベルを出ないものだったからです。以下、具体的に論じます。

                                 

                                 

                                 

                                サンデル教授は次のように言います。(『ハーバード白熱教室講義録+東大特別授業(上)ハヤカワ文庫』(P17〜18)より。

                                 

                                 

                                ― この講義は「正義」について考える。まずこの話から始めよう。君は路面電車の運転手で、時速100キロの猛スピードで走っている。君は、行く手に5人の労働者がいることに気づいて電車を止めようとするが、ブレーキが利かない。君は絶望する。そのまま進んで5人の労働者に突っ込めば、5人とも死んでしまうからだ。ここでは、それは確実なことだと仮定しよう。君は「何もできない」と諦めかける。が、そのとき、脇に逸れる線路=待避線があることに気づく。しかしそこにも働いている人が1人いる。ブレーキは利かないがハンドルは利くので、ハンドルを切って脇の線路に入れば、1人は殺してしまうけれども、5人は助けることができる。

                                ここで最初の質問だ。正しい行いはどちらか。君ならどうする?多数決を取ってみよう。ハンドルを切って避けるという人は?手を挙げて。では、曲がらずに直進するという人? ― 以上。

                                 

                                 

                                 

                                これがいわゆる「トロッコ問題」と呼ばれるものです。要は「5人を救うために1人を犠牲にすることは許されるのか?」という問題です。

                                 

                                 

                                大西氏はこの問いに対して、「5人を救うために1人を犠牲にする」選択をするのが政治の役目だと考えています。5人の若者を救うために1人の老人・障碍者を犠牲にすることはやむを得ないというのです。(7月17日の動画では障碍者などと一言も言ってないと発言していますが、彼の発想では5人の健常者と1人の障碍者を選択するときも同じ結論になるはずです。)

                                 

                                 

                                 

                                これこそがエリート主義です。思考の幅がせますぎます。こういった問題に政治が口出ししてはなりません。災害時や感染症のパンデミックが広がっているときに、トリアージ(病状の重さによって患者を選別すること)の責任を負うのは現場の医師や医療関係者のはずです。政治家が顔を出す場面ではありません。ましてや国家権力(政治)が命の選別をあらかじめ法で決めておくべきだと考えるのはファシズムそのものです。

                                 

                                 

                                 

                                「トロッコ問題」に戻ります。サンデル教授がこの問題を出したとき、東大生の皆さんは次のような疑問を持たなかったのでしょうか。

                                 

                                 

                                ・路面電車がなぜ時速100キロの猛スピードで走るのか。乗客の命を危険にさらすのは「正義」に反するのではないか。

                                 

                                ・運転手は時速100キロになるまでなぜ電車を止めようとはしなかったのか。病気だったのか。

                                 

                                ・なぜ警笛を鳴らして労働者たちを避難させないのか。

                                 

                                ・ハンドルを大きく切って電車を脱線させることはできないのか。

                                 

                                ・乗客の存在は考えなくてもいいのか。

                                 

                                ・以上の疑問や可能性について考えることをすべて封じて、果たして「哲学」の授業といえるのか。

                                 

                                 

                                 

                                サンデル教授は「正しい行いはどちらか。」という二者択一を強制し、即座に挙手させているのです。ほかのさまざまな可能性を想像する自由を学生に与えません。与えたら授業にならないではないか、サンデル教授は思考実験を通して概念を教えているだけだ、空気読めよというのでしょうか。

                                 

                                 

                                 

                                そのとき私が感じたのは、ハーバード大学で最も人気のある教授だということが、実は東大生の疑問を封じる大きな働きをしているのではないかということでした。彼らは権威に弱いのです。

                                 

                                 

                                 

                                それはともかく、自分が設定した二者択一の中でのみ学生に考えさせる授業が「哲学」の名に値するでしょうか。サンデル教授は職業人として既成の概念を教えているだけで自らは哲学していないのです。

                                 

                                 

                                 

                                そういった授業を受けた学生は、概念をひねくり回すのが得意な単なる物知りになるだけで、自分の頭で考えることを学びません。自分の頭で考えるためには、サンデル教授が設けた条件の枠組みを疑う必要があります。学生に事例を分析・批判する自由と時間を保障しなければならないのです。

                                 

                                 

                                 

                                私は以前、論理的思考とはできるだけ多くの具体的事実の上に築かれるものだと述べました。

                                 

                                 

                                開成中学・高等学校長 − 柳沢幸雄氏を批判する。

                                http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=614

                                 

                                 

                                考えるためには、事実をこと細かく知ろうと努めなければなりません。それをせずに、抽象的で大雑把な概念を使って本質を考えているつもりになっていることを、本質主義といいます。

                                 

                                 

                                 

                                「トロッコ問題」で「正しい行いはどちらか。」といくら判断を迫られても、状況が不明では判断するのは不可能です。サンデル教授の授業について行くのに必要なのは、氏が何を意図し、何を学生に期待しているかを察知することです。簡単に言えば忖度するということです。受験勉強を通じて出題者の意図を読むことに長けている東大生には、素晴らしい授業だと映るのでしょうね。問題の枠組みそのものを疑ったり、具体的事実を掘り起こし検証することではありません。

                                 

                                 

                                 

                                 

                                話を元に戻します。大西氏もこの思考の落とし穴にはまっているのです。エリート主義と批判したのは、「命の選別」を抽象的に語るだけで、具体的な事実を知ろうとしていないからです。していれば、「命の選別をするのが政治だ」という言葉は出てこないはずです。

                                 

                                 

                                 

                                長くなりました。次回は今回述べたことを前提に、日本社会にはびこる優性思想とその担い手である日本維新の会やネトウヨの皆さんの無知と無思考を批判することにします。

                                 

                                 

                                 

                                ちなみに山本太郎氏は「自分の中にも優性思想がある」と述べています。政治家でこのことを自覚しているのは素晴らしい。今の社会で現実に苦しんでいる人を多く見てきたからこそ、この言葉が出るのだと思います。

                                 

                                 

                                | 文学・哲学・思想 | 15:25 | comments(2) | - |
                                権力者に命の選別をさせてはならない。
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                                  2013年のフランス映画『母の身終い(みじまい)』を観たのは、母が死んでから5年後のことでした。自分の人生の終わりを、自分の意志で選択することをテーマにした映画で、7年がたった今でも余韻が尾を引いています。Amazon Prime Videoで観ることができます。

                                   

                                   

                                   

                                   

                                  私の人生は後悔の連続でしたが、とりわけ母の死には後悔ばかりが残っています。母が私に注いでくれた愛情の十分の一も母に返していないと思います。愛情の量を言っているのではありません。日々の具体的で細やかな接し方の総量を言っているのです。

                                   

                                   

                                   

                                  あの時なぜもっと優しい言葉をかけてやれなかったのか、伴侶をなくして22年間どんなに寂しい思いで夜をやり過ごし、むなしい朝を迎えたことか、その気持ちに寄り添った行動をとれなかった自分の無神経さを悔やむばかりです。

                                   

                                   

                                  本題に入ります。れいわ新選組から昨夏の参院選(比例)に立候補した、大西恒樹氏(56)の発言が物議をかもしています。7月3日の動画投稿サイト上で「どこまで高齢者を長生きさせるのか。命、選別しないと駄目だと思う」「高齢者を長生きさせなくてはいけないという政策をとっていると若者たちの時間の使い方の問題になる」と主張。少子高齢化問題に触れるなかで、「命、選別しないと駄目だと思う。その選択が政治。選択するんであればもちろん高齢の方から逝ってもらうしかない」などと述べたのです。

                                   

                                   

                                   

                                  大西氏は7月7日、自らの発言について謝罪と撤回をしました。以下はその全文です。

                                   

                                   

                                  — 私は7月3日の自身の動画チャンネルにおいて、「命の選別が政治家の仕事」という政治家としてはあるまじき発言をしました。この考えそのものが、従来の障がい者や社会で苦しんでいる人々へのケアを不十分なものにする元凶であり、「命の選別をやめよう」というれいわ新選組の結党の精神とは真逆の主張であったと、自分の発言の愚かさを深く痛感しております。今回の発言で命の選別に正面から取り組まれている舩後議員、木村議員ならびに多くの当事者の方々はもとより、全ての人々に深く謝罪すると共に発言を撤回いたします。

                                  代表からは、「命の選別」の問題に真正面から取り組んでおられる当事者の方々の声をしっかりと聞くべきとの指摘を受けました。自分の考えの浅はかさをより自覚し、新しい自分に生まれ変われるように努力したいと思います。

                                  ※なお、当該動画については、発言撤回と共に公開停止にいたしました。― 以上

                                   

                                   

                                   

                                  この件について山本太郎代表がどのような対応をとるか、現在の時点(7月12日)では明らかになっていません。しかし、この間の対応の遅さこそが、私が山本太郎氏を信頼する大きな理由の一つです。

                                   

                                   

                                   

                                  れいわ新選組の対応の遅さや組織としての未熟さを論難するジャーナリストや、今がチャンスとばかりに山本太郎たたきに血道をあげる人々がいますが、大西氏はいまだ国会議員でもなく、れいわ新選組に所属する一民間人に過ぎません。今回の不用意な発言によって除籍処分にされるかもしれませんが、彼を見捨ててはならないと思います。

                                   

                                   

                                   

                                  なぜか。金融経済についての彼の知見はこれからの日本に必要だということもありますが、それよりも彼の謝罪の言葉に彼の人間性が見て取れるからです。

                                   

                                   

                                   

                                  56歳になった人間が「政治家としてはあるまじき発言をし」たと認め、自分の発言が「障がい者や社会で苦しんでいる人々へのケアを不十分なものにする元凶であ」ると自己批判し、「れいわ新選組の結党の精神とは真逆の主張であったと、自分の発言の愚かさを深く痛感しております。」と述べているのです。そして最後の「自分の考えの浅はかさをより自覚し、新しい自分に生まれ変われるように努力したいと思います。」という真率な決意表明は、社会的な地位や周囲の評価を気にして人格が空洞化した人間には決して吐けない言葉です。

                                   

                                   

                                   

                                  自民党の国会議員が失言という名の本音を吐露した時に決まって言うセリフ「誤解を与えたとしたら、言葉足らずだったと思う」に比べれば、大西氏の謝罪は心のこもったものではないでしょうか。

                                   

                                   

                                   

                                  今回の失言は、大西氏ほどの賢明な人でも、心にスキができると、自分はタブーを気にせず真実を話す勇気と大胆さを持っているとアピールしたくなる心情に発するものです。心のスキとは、金融経済に関する自分の認識が、少数派でも少しずつ理解を得られていることに対するプライドというか充実感を指します。

                                   

                                   

                                   

                                  大西氏の動画には、「自由」と「若者」という言葉が頻繁に登場します。若者に、自立した自由な個人として自己決定ができるようになってほしいと願っていることがわかります。

                                   

                                   

                                   

                                  大西氏は良きリバタリアンなのです。リバタリアンは経済的自由も含めて、何よりも自由に価値を置きます。しかし、他者に依存することなく自由に生きていける強い人間というイメージには、エリート主義が潜んでいることが多いのです。今回の発言は、他者意識(動画を観た視聴者がどう思うかということ)が希薄になったスキを狙ってエリート主義が頭をもたげたということです。

                                   

                                   

                                   

                                  大西氏は政治家にしては珍しく自分の言葉を持っている人です。だから山本太郎氏に共感できるのです。前回のブログでも書きましたが、政治の言葉の本質は、つまるところ「わたしは正しい、やつは間違っている。やつは敵だ。殺せ!」に極まります。「戦争」は「政治」がとる最後の形態です。つまり「戦争」は言葉の中にその根拠を持っているのです。

                                   

                                   

                                   

                                  私が山本代表の立場なら、国家権力が命を選別できないシステムを作ります。命はギリギリのところで個人の尊厳において個人が選択できるものであることを法に明記します。そして、戦争に通じる政治の言葉を人間的想像力の世界つまり文学と哲学の言葉に変えていくためのきっかけとして今回の件を位置づけます。

                                   

                                   

                                   

                                  教条主義的な左翼がやってきたような、問答無用の処分をする必要はありません。甘いという批判には、山本代表が言葉を尽くして反論すればよいのです。パワーゲームとしての政治はもはや終焉させなければなりません。

                                   

                                   

                                  | 文学・哲学・思想 | 22:39 | comments(2) | - |
                                  unknownさんへ。
                                  0

                                    コメントありがとうございます。私を「能天気」だと見抜いたあなたの眼力はなかなかのものです。能天気は生まれつきで、今も時々その本性が現れます。

                                     

                                     

                                     

                                    能天気な人間の小中学生時代を紹介しましょう。小学生の頃は呆けたように遊びまわり、いろいろと悪さをしていました。中学生のころは加山雄三にあこがれ、映画の若大将シリーズを観るために友達とせっせと映画館に通ったものです。コンサートにも行きました。そういうわけで彼のレコードは全部持っていました。

                                     

                                     

                                     

                                    好きな女の子の関心を引くためにLPレコードを貸したこともありました。お返しにモンキーズのシングルレコードを貸してもらったときはうれしかったですね。要するに影響を受けやすい世間知らずの坊ちゃんだったということです。

                                     

                                     

                                     

                                    最近は、寝る前に加山雄三の動画を観て当時を思い出し、小声で歌っています。その健康すぎる歌詞とメロディーに照れながら、ああ、なんて素朴で純情な時代だったのだろうと思います。CDもDVDもなく、ダウンロードという言葉さえなかった時代です。生活必需品としてスマホを手にする時代が来るなどと、いったい誰が想像できたでしょうか。

                                     

                                     

                                     

                                    素朴で純情と言えば、韓国映画『愛の不時着』もこちらが恥ずかしくなるくらいクサいセリフが多いのですが、それでも引き込まれ、気がつくと涙が頬を伝っています。現代版ロミオとジュリエット(『愛の不時着』と同じくコメディーです)だと言ってもいいかもしれません。恋愛映画としてはお決まりのストーリーですが、南北朝鮮が統一されることを願う「能天気」な夢がこの映画の中心テーマなのかもしれません。

                                     

                                     

                                     

                                    ところで、あなたの言う「革命」が何を意味するのか分かりませんが、私は、すべての人がこの国に生きていてよかったと思えるような国にすることが「革命」だと考えています。単純すぎますか?

                                     

                                     

                                     

                                    そして革命は一度で終わらせてはなりません。なぜなら革命によって誕生した権力が国民を抑圧するようになれば、さらなる革命が必要になるからです。暴力によらず、教育と投票箱によって永久に革命を続けること、そしてそれを当たり前だと考える国民が多数派になることが理想です。

                                     

                                     

                                     

                                    振り返ると、プラトンの『国家』にはじまり、マルクスの著作を経て、レーニンの『哲学ノート』を読み、ヒットラーの『我が闘争』をはさんでフランクルの『夜と霧』の前で立ち止まり、ドストエフスキーの『悪霊』に至る道のりは決して平たんとは言えませんでしたが、常に「革命」について考えていたことは確かです。

                                     

                                     

                                     

                                    私は「革命」を政治の枠組みでとらえることにあまり興味がありません。むしろ文学としてとらえています。政治的な党派に所属すれば、自分の信じていない言葉で誰かを政治に誘い込むことになります。その責任はだれがとるのでしょうか。

                                     

                                     

                                     

                                    もちろん政治も文学も、自然科学とは異なり、言葉で成り立つものである以上、何かを正確に表現することはできません。しかし、私は自分のふるまいや言葉が自分の感受性を根拠にしているのなら、個人として責任を取ることができるのではないかと思っています。これが政治ではなく文学によって世界を解釈することを選んだ理由です。ではその感受性を制約しているものは何か。それこそが日本語という言葉なのです。

                                     

                                     

                                     

                                    なんだか難しい話になってきました。話を変えます。世の中が動乱と言われる事態に立ち至った時には、必ず魅力的な人物が登場します。『ペスト』のカミュもその一人です。そしてチェ・ゲバラです。すでにブログでも取り上げていますが、あなたにもう一度彼の言葉を紹介しておきます。

                                     

                                     

                                     

                                    「もし私たちが空想家のようだといわれるならば、救いがたい理想主義者だといわれるならば、できもしないことを考えているといわれるならば、何千回でも答えよう、『その通りだ』と」

                                     

                                     

                                     「世界のどこかで、誰かが蒙っている不正を、心の底から深く悲しむことのできる人間になりなさい。それこそが革命家としての、一番美しい資質なのだから」

                                     

                                    これはボリビアに立つ前、自分の死を予感して5人の子供達に遺した手紙の一部です。

                                     

                                     

                                    「最も重要なことは権力を握ることではなく、握った後に何をするかを明らかにすることだ」

                                     

                                     

                                    「バカらしいと思うかもしれないが、真の革命家は偉大なる愛によって導かれる。人間への愛、正義への愛、真実への愛。愛の無い真の革命家を想像することは不可能だ」

                                     

                                     

                                     

                                    コメント欄では書ききれなかったので、ブログで返事をしました。なお、大西つねき氏の件については、重要な論点が含まれているので、後日にしたいと思います。

                                     

                                     

                                    | 文学・哲学・思想 | 15:01 | comments(0) | - |
                                    Power to the people
                                    0

                                      今回の都知事選をネットで観ていてつくづく感じたことがあります。真実の声はいつも極端に聞こえるということです。素朴な疑問や思いをぶつけるだけでも、もはや、その声が通らなくなりつつあります。

                                       

                                       

                                       

                                      それでも、今回山本太郎の応援に駆け付けた湯川れい子さんの言葉を私は忘れません。彼女は84歳です。まぎれもなく自分の言葉で語ることのできる人です。そして、思い出したことがあります。2016年の参院選挙の時の三宅洋平氏のスピーチです。彼のことを選挙パフォーマーだとして貶めていた人もいますが、彼のスピーチはこれまでの政治家が決して吐けなかった言葉で満ちています。その生き方、風貌も含めて一種の知的エンターテイメントになっています。

                                       

                                       

                                       

                                      論より証拠です。ジョン・レノンの Power to the people の後にアップしておきます。高校生の皆さんに観てもらいたいですね。その結果、自分の中に何も生まれない人は、60歳を過ぎた私よりも精神が老化していると思います。

                                       

                                       

                                       

                                       

                                       

                                      Power to the people
                                      Power to the people
                                      Power to the people
                                      Power to the people, right on


                                      権力を人々の手に返せ。

                                      権力を人々の手に返せ。
                                      権力を人々の手に返せ。

                                      異議なし。

                                      Say we want a revolution
                                      We better get on right away
                                      Well you get on your feet
                                      And into the street


                                      声に出して言おう。
                                      我々は革命を求めている。
                                      すぐに取りかかろう。
                                      自分の足で立って
                                      街に出よう。

                                      Singing power to the people
                                      Power to the people
                                      Power to the people
                                      Power to the people, right on

                                       

                                      歌いながら言おう。

                                      権力を人々の手に返せ。

                                      権力を人々の手に返せ。
                                      権力を人々の手に返せ、と。

                                      異議なし。

                                      A million workers working for nothing
                                      You better give 'em what they really own
                                      We got to put you down
                                      When we come into town

                                      働いてもむなしさしか手に入らない100万人もの人々。
                                      さっさと出してもらおうか。
                                      おまえたちが手にしているのは
                                      本当ならその人たちのものだ。

                                      我々が街に入ったら
                                      ただじゃ置かない。

                                      Singing power to the people
                                      Power to the people
                                      Power to the people
                                      Power to the people, right on


                                      歌いながら叫ぼう。

                                      権力者に奪われた力を
                                      人々に返せと
                                      権力を人々に返せと。

                                      権力を人々に返せと。
                                      異議なし。

                                      I gotta ask you comrades and brothers
                                      How do you treat you own woman back home
                                      She got to be herself
                                      So she can free herself


                                      仲間のみんなに聞かなきゃならないことがある。

                                      自分の連れ合いの女性を
                                      家ではどんな風にあつかっている?
                                      彼女は彼女自身であるべきだ。
                                      彼女も自分を自由にしていいはずだ。

                                      Singing power to the people
                                      Power to the people
                                      Power to the people
                                      Power to the people, right on
                                      Now, now, now, now


                                      歌いながら叫ぼう。

                                      権力者に奪われた力を
                                      人々に返せと
                                      権力を人々に返せと。

                                      権力を人々に返せと。
                                      異議なし。

                                       

                                       

                                       


                                       

                                      | 高校生の皆さんへ | 15:21 | comments(1) | - |
                                      小池百合子の語り口または英語という言葉の本質について。
                                      0

                                         

                                        トマトは料理の素材として欠かすことができません。我が家の定番料理はトマトを丸ごと茹でるかグリルしたものを使うことが多いのです。しかし、生であれ火を加えたものであれ、トマトの薄皮だけは苦手です。食事の時、薄皮をはいでいると、「なによ、その神経質そうな手つきは。子供じゃあるまいし」と妻にからかわれます。

                                         

                                         

                                        なぜこんな話をするかというと、トマトの薄皮から日本人の話す英語を連想するからです。日本人が英語を話すのを聞いていると、トマトの薄皮部分だけが英語らしきもので、中身は日本語の発想で埋め尽くされています。思考の経路と発表のしかたすべてが日本語以外の何ものでもないのです。

                                         

                                         

                                         

                                        発音はネイティブスピーカー並みでも、いやそうであればあるほど、中身が英語の発想と程遠いと恥ずかしくなります。1年やそこら海外留学しただけで、まるで自分をネイティブだと錯覚しているような発音を堂々と聞かされるといたたまれなくなります。

                                         

                                         

                                         

                                        日本では、いわゆる「ネイティブスピーカー並みの発音」は英語学習者に優劣をつけ、差別するためのモノサシとして使われています。LとRの発音の区別にはじまり、日本のカフェで日本人相手にアールグレイ(Earl Grey)ティーをネイティブをまねて発音している人を見ると赤面してしまいます。ここでは英語はコミュニケーションの手段以上のものになっているのですね。

                                         

                                         

                                         

                                        しかし、ネイティブスピーカーとはだれのことを言うのでしょうか。ちなみに世界の人口約73億人中、英語を話している人は約15億人ほどです。英語のネイティブスピーカーはその25%、4億人に満たないのです。残りの75%は第二言語として英語を習得している人たちです。

                                         

                                         

                                         

                                        ところで、日本人の英語を聞いていていたたまれなくなる最大のものは、センテンスのなかばあたりで主語を忘れてしまっているという事実です。自分が何を主題としてしゃべっているのかいつの間にか自覚を失っているのです。

                                         

                                         

                                         

                                        これは「ネイティブスピーカー並みの発音」にこだわるどころの話ではありません。主語を忘れているからには動詞も忘れています。英語ではないものを英語だと思って話している様子は、見ても聞いても決まり悪いものです。

                                         

                                         

                                         

                                        センテンスが終わるまで主語を拘束し続けるのが動詞のはずですが、それも意識していないようです。なぜか。英語という言葉がどのような言葉であるかを全く理解していないからではないでしょうか。正用法としての英語とは、徹底して論理的であることを目指した言葉です。

                                         

                                         

                                         

                                        英語は問題をしがらみから切り離し、それを抽象物のように扱っていく性質を持っています。そしてその性質には因果関係をはっきりさせずにはおかない働きが内蔵されています。

                                         

                                         

                                         

                                        英語という言葉の働きがこのようなものである以上、その上に築かれた社会制度も同じ働きを持つはずです。つまり、この世のすべてを個人の好き勝手に任せておいたら、あらゆる不条理が積み重なって収拾のつかない混沌とした場所になる。だからなんとか条理と秩序を与えようとしてできたのが英語という言葉です。

                                         

                                         

                                         

                                        条理と秩序とは客観的な普遍性のことです。これなしでは成立しない社会を何とか成立させようとして機能するのが言葉です。だから言葉は社会制度そのものだと言えます。

                                         

                                         

                                         

                                        小池百合子氏の話す英語は、発音はそれらしく聞こえるものの、その特徴は以上のことにまったく気づいていない、したがって認識も関心も興味もないという状態にあります。そんな状態で何について語ろうとも、責任をとるどころか、その問題に関して自分は一切何もしたくないと言っているのと同じなのです。

                                         

                                         

                                         

                                        とにかく自分を権力のある場所に置き、あとはそれらしく「やってる感」をテレビで演出するだけです。そのために都民の税金を9億円以上も使っています。そこに電通が絡んでいるというお決まりの構図です。

                                         

                                         

                                         

                                        ブログで指摘したように、彼女の言葉は圧倒的多数者(自分の言葉を持たず、常に周囲の空気を読んで付和雷同する層)に向けて発せられます。個人に届く言葉を持っていません。個人に話しかけているように見えても、実際は無知で操作しやすい大衆や自分を支持してくれそうな政党幹部に話しかけているのです。あるいは同じ利害で結びついているメディアのトップに向けて話しているのがわかります。

                                         

                                         

                                         

                                        つまるところ、金と権力と自己顕示が目的の哀れな人間なのです。質問者や批判者に正対することができないのです。彼女の目が焦点が定まっておらず空虚なのはそのせいです。以下の動画にそれがすべて表れています。

                                         

                                         

                                        山本太郎 VS 小池百合子

                                         

                                        小池百合子は山本太郎の質問と批判に一切答えることなく、スルーすることで自分の大物ぶりをアピールしています。姑息で卑怯な人間です。小池氏の再出馬に賛成した都庁職員は21.5%、反対は42.6%という数字も納得できます。

                                         

                                         

                                         

                                         

                                        山本太郎、都知事選最後の街宣。さわやかな一陣の風の吹かんことを!

                                         

                                         

                                         

                                         

                                        私は一人称で語ることのできない人の言葉は信用しないことにしています。それに対して、政治家の言葉は、自分に投票してくれそうな多数者を意識したものです。組織票とは自分の判断を放棄した、影のような人間が投じる票のことです。しかし、そういった多数者ほど頼りにならない移ろいやすいものはありません。

                                         

                                         

                                         

                                        ここまで読んでくださった方はすでにお気づきのことと思います。小池百合子の語り口は安倍晋三とそっくりだということに。

                                         

                                         

                                         

                                        彼らの語り口の特徴は「ただ今のご質問にお答えする意味からも、まずその前の段階からご説明申し上げますが・・・」と言って、質問をはぐらかして時間稼ぎをすることです。状況を俯瞰する客観的な見取り図を提示するフリをして、ただあやふやな事象やデータを羅列するだけです。官僚の作文の特徴である要素還元主義がいかんなく発揮されています。

                                         

                                         

                                         

                                        全体はごく浅い主観の上に成り立っているので、「ご説明」の後に残るのは、ただ言うだけは言ったという、これまた主観的な満足感だけです。いつまでも総理大臣でいたい、いつかは総理大臣になりたいという願望に染め上げられているだけで、全体は常にのっぺりとしたとっかかりのないものに終始するほかないのです。

                                         

                                         

                                         

                                        本来彼らが提示しなければならないのは、責任や信念を明確にしたうえでの論理の筋道であるべきです。しかしそれこそが、彼らが一生かかっても提示できないものです。

                                         

                                         

                                         

                                        チェコスロバキア生まれのフランスの作家、ミラン・クンデラは次のように言っています。「人間の限界とは言葉の限界であり、それは文学の限界そのものだ」と。

                                         

                                         

                                         

                                        人は偶然この世界に産み落とされます。そして生まれてきた以上、自分という存在を引き受けるしかありません。言葉を知り、それを組み合わせることで自分の人生を生きようと試みる個人。その個人が投げ込まれる戦いの場としての社会。その社会が言葉とともに持っている、万人に開かれた戦いの場としての公共性。その公共性の中で尽くされる論議。論議の中で鍛えられ洗練されていく言葉。そこから生まれる条理と秩序。そして真正な感情。

                                         

                                         

                                         

                                        そんな社会ははるか遠くの雲のかなたにかすんで見えるかもしれませんが、風が吹けば思わぬ近さに存在していてびっくりするかもしれません。生きているうちにびっくりしたいものですね。

                                         

                                         

                                        | 高校生の皆さんへ | 15:27 | comments(0) | - |
                                        自分の言葉を信じて生きる。
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                                          お前のブログは同じことの繰り返しで、実際に役に立つわけでもなく、上から目線で説教を垂れるような書き方にはうんざりだ、と感じている人もいることでしょう。それは百も承知しています。文章を書くことは最低限の他者意識を必要とするからです。そもそも他者意識のない主観だけで書き散らした文章を読んでうんざりしているのは私自身なのです。

                                           

                                           

                                           

                                          それは置くとして、あなたは何を信じて生きているのでしょうか。少なくとも私は特定の宗教やイデオロギーを信じて生きることはできません。では、お金でしょうか。きれいごとを言っても資本主義社会では最低限のお金がなければ生きていけませんからね。しかし、お金(貨幣)の本質を考えれば、単なる手段に過ぎないものを信じることはできません。

                                           

                                           

                                           

                                          私たち夫婦は今、月20万円に満たない収入で生活しています。ニワトリを飼い、無償で借りた土地を耕して畑にし、そこで野菜を作っているので十分生きていけます。

                                           

                                           

                                           

                                          お金のない老後はみじめだという人もいますが、みじめかどうかを決めるのは私たちです。それは自らの生き方が必然的に招いたことですから覚悟の上です。それどころかもっと早く今の生活に切り変えるべきだった、せめて50代から始めておけばと思うくらいです。

                                           

                                           

                                           

                                          何事もやりだすと凝る性格なので、今は遅れて来たアマチュア農家として色々なことを構想しています。先日も畑で採れた野菜(ピーマン、シシトウ、パプリカ、トウモロコシ、ズッキーニ、ナスなど)と豚肉の肩ロースブロックをグリルし、安物のワインで夕食を済ませましたが、ゆったりとした夕刻は至福の時間でした。月20万円でどれくらい豊かな生活ができるか、それに挑戦するつもりです。

                                           

                                           

                                           

                                          いきなり話が脱線しました。何を信じて生きるのかという問いに答えなければなりません。結論から言えば、これまでの人生で紆余曲折を経て手に入れた自分の言葉を信じるというほかありません。これまた抽象的でわかったようでわからないような答えですね。

                                           

                                           

                                           

                                          少し説明させてください。6月10日のブログ『言葉の意味は誰が決めるのか』の中で次のように書きました。言葉の意味は、地球は丸いといった客観的事実によって決まるのではなく、多数決で決まると。

                                           

                                           

                                           

                                          しかしこれは正確ではありません。100人中51人がAという意味で使い、49人がBという意味で使えば、多数決ならAという意味になるはずです。しかしそれはおかしい。したがって言葉の意味は90%以上の圧倒的多数で決まると言い換えなければなりません。つまり圧倒的多数に支持されれば、たとえ間違った意味でもそれが正しい意味になるというわけです。

                                           

                                           

                                           

                                          6月10日のブログでは、この点をわざと曖昧にしていました。なぜか。言葉の意味の流動性と多数決という単純明快な基準が矛盾することに気づいてほしかったからです。「民主主義は多数決だ」と叫ぶ政治家は、少数意見を数の力で葬り去ろうとしてきました。今もそうしています。そのために多数派を演出する必要があったのです。しかしこれはまた別の話です。

                                           

                                           

                                           

                                          自分の言葉とは何かという説明でした。言葉の意味は90%以上の圧倒的多数で決まるのですから、自分の言葉を持ちたいと考える人、つまり自分の人生を生きたいと考える人は、圧倒的多数の人が使っている言葉に懐疑の目を向ける必要があります。

                                           

                                           

                                           

                                          自分の言葉を持つことがなぜ大事なのか、自分の言葉といってもつまるところ日本語じゃないか、と考える人もいるでしょう。その通りです。私の経験では自分の言葉を持つことにこだわっている人はごく少数です。

                                           

                                           

                                           

                                          しかし、私がどうしようもなく引き付けられ、影響を受けたのはその少数の人たちだったのです。簡単に言ってしまえば、圧倒的多数の人と同じように物を見、考え、感じる人を信用できなかったということです。圧倒的多数の中に紛れ込み、輪郭をなくした人をどうすれば信じることができるでしょうか。ましてや愛することなどできません。

                                           

                                           

                                           

                                          それはお前の単なる趣味じゃないかと言われればその通りです。でも人生の途上で遭遇するにっちもさっちもいかない問題はすべて一人一人が抱え込んでいる境遇というか業のようなものから生まれているのではないでしょうか。それを解決するのに、圧倒的多数の人が使っている言葉は役に立ちません。一人として同じ人間はいないし、一つとして同じ問題はないのですから。

                                           

                                           

                                           

                                          話がそれました。自分の言葉といってもつまるところ日本語じゃないか、という疑問に答えます。日本人である以上同じ言葉を使うしかありません。しかし言葉を知らなければ考えることすらできません。自分の中にある漠然とした感情の流れのようなものを見つめるしかないのです。この点をまず確認しておきます。

                                           

                                           

                                           

                                          次に自分の言葉とは単語ではありません。その人独自の言葉の組み合わせ(文体)です。言葉の組み合わせは言葉使いと言い換えてもいいですね。例えば警察官の言葉使いと自衛官の言葉使いは似ています。大学教授と評論家の言葉使いもしかりです。営業で取引先を回っているサラリーマンの言葉使いもほとんど同じです。職業がその人の言葉使いを決めているのです。

                                           

                                           

                                           

                                          それに対して、現実的で具体的な対人関係の場で使う言葉ではなく、一人の人間として使う言葉があります。社会的な立場や役割から降りて使う言葉です。それは大きな岩の小さな割れ目に水がしみこむように自然で自由で物事の本質を照らし出す言葉です。

                                           

                                           

                                           

                                          私はそういった言葉に本の中で出会いました。深い洞察力に裏打ちされた、読んだ瞬間に、ああ、こういった言葉に出会いたかった、こういうことが知りたかったのだと、直観的にその他大勢の言葉とは違うということの本質的な意味を悟らせてくれる本です。そうやって出会った言葉の集積が自分の言葉です。

                                           

                                           

                                           

                                          それは少数派であることを少しも恐れる必要はないと教えてくれました。それどころかそれをむしろ誇りにし、自分の人生を生きるということは、少数派の人々が作ってくれた道を自信を持って歩くことだと教えてくれたのです。

                                           

                                           

                                           

                                          また話が長くなりました。次回こそ短くまとめようと思います。今回も読んで下さった方にお礼を言います。ありがとうございました。

                                           

                                           

                                           

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