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デジタル・ポピュリズム 操作される世論と民主主義 (集英社新書)
デジタル・ポピュリズム 操作される世論と民主主義 (集英社新書) (JUGEMレビュー »)
福田 直子
おそらく自民党・安倍政権はSNSを駆使し、分析するデータサイエンス(日本版なのでレベルはまだ低いですが)の重要性に着目し、選挙にどうすれば勝てるか、自分たちに有利な世論を形成し、国民を誘導・分断するにはどうすればいいのかが分かっているのです。そのためのノウハウも蓄積しつつあります。安倍首相の貧困な語彙力からは想像できないカタカナ言葉を聞いていると、それがSNSを分析している集団から教えられたものであることがよくわかります。ただ彼らの致命的な弱点は将来の社会を導く理想がないことです。おそらく、思いもかけない結果が待っていることでしょう。なぜなら、所詮、彼らはアメリカとビッグデータの奴隷でしかないのですから。これからの政治は、好むと好まざるとにかかわらず、この本に書かれていること抜きには語れなくなっているのです。
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 (JUGEMレビュー »)

安倍政権に対するメディアの忖度が云々されていますが、元々同じ穴のムジナなのです。忘れてならないのは、日中戦争から太平洋戦争にかけて、日本の世論と新聞のほぼ全部は好戦的・拡張主義的だったのです。しかも、当時はまだ言論統制体制が発足していなかったのです。この本は、そうした「一貫して好戦的な世論とそれに便乗する新聞」が先導し、近衛文麿はじめ文民政治家がそれに便乗、軍部がさらに便乗、という構図を一次資料で克明に論証しています。安倍政権を支持するネトウヨの皆さんの日本語力では、まともな読解は無理ですので勧めません。一方、正確な歴史を知るためには「世論」の不気味さを知ることだと気づいている若い人には是非一読を勧めます。
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茫漠の曠野 ノモンハン
茫漠の曠野 ノモンハン (JUGEMレビュー »)
松本草平
著者は大分市にある『天心堂へつぎ病院』の院長、松本文六氏の御尊父、松本草平(本名松本弘)氏です。詳しくは、ブログで紹介したいと思いますが、第一次資料として極めて価値の高いものです。40年ぶりに復刻版を出された松本文六氏と出版社に感謝する他ありません。
戦略も何もない、無謀・無慈悲な戦争を語り継ぐことは、最も崇高で重要な人間の営為だと私は考えています。作家の司馬遼太郎氏は、電話で草平氏に次のように伝えてきたそうです。「先生の臨場感のあるノモンハン戦記に出会えて本当にありがとうございました。私は大東亜戦争の折、戦車隊の一員として従軍しましたが、先生の従軍記以上のものを創ることはできません。」と。
一人でも多くの方がこの本を読まれることを望みます。ちなみに松本文六氏は伊方原発差止め訴訟の原告でもあります。その縁で、この本に出会うことができました。
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「南京事件」を調査せよ (文春文庫)
「南京事件」を調査せよ (文春文庫) (JUGEMレビュー »)
清水 潔
全国のネトウヨの皆さんへの推薦図書です。清水氏のこの本を読んでから、「南京事件はなかった!」「南京事件は捏造だ!」と叫びましょうネ。
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卑怯者の島: 戦後70年特別企画
卑怯者の島: 戦後70年特別企画 (JUGEMレビュー »)
小林 よしのり
2015年に読み、感動した本(漫画)です。個人的には、これは小林よしのりの最高傑作だと思っています。『堕落論』とあわせて読んでほしいと思います。左右に関係なく、あなたが絶えず仮の足場を求めて思考を継続する意思を持つなら、避けて通れない著作です。
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日本列島の全原発が危ない! 広瀬隆 白熱授業  DAYS JAPAN(デイズジャパン)2018年1月号増刊号
日本列島の全原発が危ない! 広瀬隆 白熱授業 DAYS JAPAN(デイズジャパン)2018年1月号増刊号 (JUGEMレビュー »)
広瀬隆
広瀬氏をアジテーターだの、オオカミ少年だの、悲観主義に過ぎると言って批判する人がいる。しかし、ブログで何度も述べてきたように、真の悲観主義こそがマインドコントールによって奴隷根性のしみ込んだ私たちの精神を浄化してくれるのだ。そもそも無知では悲観が生まれようもないではないか。国などいくら破れても結構。せめて山河だけでも次世代に残そうと考える人ならぜひとも読むべき本である。いや、これから幾多の春秋に富む若い人にこそすすめたい。
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知識人とは何か (平凡社ライブラリー)
知識人とは何か (平凡社ライブラリー) (JUGEMレビュー »)
エドワード・W. サイード
いわゆる「知識人」なるものが絶滅して久しい。しかし、サイードの言う知識人の定義は時代がどんなに変わっても常に新しい。「知識人とは亡命者にして周辺的存在であり、またアマチュアであり、さらには権力に対して真実を語ろうとする言葉の使い手である」高校生や大学生にはぜひとも読んでほしい本です。
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磯崎新と藤森照信の茶席建築談議
磯崎新と藤森照信の茶席建築談議 (JUGEMレビュー »)
磯崎 新,藤森 照信
この本は茶室を巡る様々な建築的発想・知識の宝庫です。それにしても磯崎新氏の驚くべき記憶力と該博な知識には驚かさされます。建築史を語るには欠かせない二人の対談です。時がたつのを忘れさせるほどの面白さでした。
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チャヴ 弱者を敵視する社会
チャヴ 弱者を敵視する社会 (JUGEMレビュー »)
オーウェン・ジョーンズ,Owen Jones
【本書への賛辞】

「怒りが生んだ、最高の本」
──ガーディアン紙

最高の論争がみなそうであるように、知性に裏打ちされた怒りが本書を支えている。
──エコノミスト誌

暴動や世界中に広がったオキュパイ運動に照らして考えると、分断社会に関する著者の鋭い分析は、
不気味なほど未来を予知していたことがわかる。
──アートフォーラム誌

情熱と、思いやりと、すぐれた道徳性が結実した仕事だ。
──ニューヨーク・タイムズ紙

政治の定説を見直す大胆な試み。著者は戦後のイギリス史を縦横無尽に往き来し、
階級、文化、アイデンティティといった複雑な問題を軽々とまとめてみせ、
結果として「階級」問題に火をつけ、大きな効果をあげている。
──インディペンデント紙

いまの制度が貧しい人々を見捨てていることに対する苛烈な警告──それが本書だ。
──ブログサイト「デイリー・ビースト」

ジョーンズは、「地の塩」だった労働者階級が政治のせいで「地のクズ」と見なされるようになった経緯を見事に説明している。
──タイムズ紙

この本は、新しいタイプの階級嫌悪と、その裏にあるものを痛烈にあばいて見せてくれる。
──ジョン・ケアリー(The Intellectuals and the Masses著者)

これは「イギリスはおおむね階級のない社会である」という考え方への、論理的で情報満載の大反撃だ。
──オブザーバー紙

情熱的で示唆に富む……この声が届くことを心から願う。
──スコットランド・オン・サンデー紙
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フェイクニュースの見分け方 (新潮新書)
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烏賀陽 弘道
私は政治的な言葉と詩的言語の間を、その振幅が大きいがゆえに、往復することによって精神を活性化させています。政治的な文章を読むときに気をつけていることは、ファクトとオピニオンを区別することです。これはイロハのイだと思っていたのですが、今はお互い罵詈雑言の投げつけ合いで、言論空間がいびつになっています。これは今の政治を反映したものでしょう。菅官房長官が「問題ない」「その指摘は当たらない」などといったコミュニケーション遮断語を頻繁に使いだしてから、この傾向は加速しています。言論空間のゆがみを正し、正常な論争が復活することがあるのでしょうか。地に足がついた生き方をしたいなら、まず気分に流されず、事実を見極めることから始めなければなりません。事実を提示しないジャーナリストは、ジャーナリストではありません。そのことを確認するためにも本書は必読です。本物の読解力をつけたいと考えている中高生には特にお勧めです。
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 (JUGEMレビュー »)

紹介していない本が山のようにあります。数日前にこの本を本棚の奥から引っ張り出し再読しました。いや〜面白かった。。とにかくこの本のことを忘れていた自分が信じられない。読んでない人に熱烈に勧めます。ハイ。
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チェンジング・ブルー――気候変動の謎に迫る (岩波現代文庫)
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大河内 直彦
アインシュタインの名言のひとつに、「過去から学び、今日のために生き、未来に対して希望をもつ。大切なことは、何も疑問を持たない状態に陥らないことである。」があります。
本書は文系・理系を問わず、高校生や大学生必読の本です。単に気候の科学を紹介しただけではなく、科学者たちのさまざまな逸話を紹介しながら、科学における知識・研究の積み重ねの重要性を教えてくれます。この本にのめり込むかどうかが、あなたの知性のリトマス試験紙になります。受験勉強的発想の狭隘な世界観を粉砕してくれるかもしれません。
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見て見ぬふりをする社会
見て見ぬふりをする社会 (JUGEMレビュー »)
マーガレット ヘファーナン
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新・日米安保論 (集英社新書)
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柳澤 協二,伊勢崎 賢治,加藤 朗
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英語の実際的研究 (1969年)
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秋山 敏
高校生にとって、今でも一押しの不朽の名著。でもこの本をことを知っている英語教師は少ないと思います。是非復刊してほしいものです。
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安倍首相から「日本」を取り戻せ! !
安倍首相から「日本」を取り戻せ! ! (JUGEMレビュー »)
泥 憲和
まともな言説は、誰にでもわかる易しい言葉で書かれています。そして、それが本物であればあるだけ、真実を直視する勇気のない、臆病者からバッシングを受けます。安倍政権や維新の会のヤクザ議員からバッシングを受けない言説は何のインパクトもない、ニセモノだと言ってもいいくらいです。泥さんの発言は、間違いなく政権にとって都合の悪いものだったのです。表紙の写真はコワいですが、この本を読めば泥さんの優しい心根に触れることができます。
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スノーデン 日本への警告 (集英社新書)
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エドワード・スノーデン,青木 理,井桁大介,金昌浩,ベン・ワイズナー,宮下紘,マリコ・ヒロセ
2017年4月18日、朝日新聞がようやく「パノプティプコン」を取り上げました。遅すぎますね。
これから先の日本社会は、ますます荒廃が進み、国民の不満が頂点に達し、やがて爆発します。それを未然に防ぐために、国は国民の監視を強化します。
実際アメリカでは「愛国者法」により、電子メールや携帯の通話履歴が監視の対象になっています。誰が、いつ、どこで、何を読んで、誰と通信を交わしたか、すべて国に筒抜けです。
「パノプティプコン」とはフランスの哲学者フーコーが用いた概念ですが、国民が刑務所の囚人のように監視される体制を言います。監視者の姿は見えませんが、囚人は監視者不在でも、監視を意識することによって管理統制されるのです。これを「パノプティシズム」と言います。
このシステムから解放されるためには、権力がどう管理・統制しようとしているかを知らねばなりません。この本はそれを知るための第一歩です。あなたが無知のまま、奴隷の人生を送りたければ、読む必要はありません。
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日本力
日本力 (JUGEMレビュー »)
松岡正剛,エバレット・ブラウン
テレビを始めとするメディアを通じて、何かといえば日本はスゴイ!と叫んでいる、あるいは叫ばないと身が持たない人たちに読んでもらいたい本です。だってそれは日本人がまともな思考をしてこなかった、今もできていないことの裏返しでしかありませんからね。日本スゴイと叫んでいる人を見ると、自分が持っている劣等感をこんな形でしか表現できないのかと思って気の毒になります。日本スゴイ!だからどうしたの?あなたは何をやりたいわけ?
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まんが政治vs.政治まんが――七人のソーリの一〇年
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佐藤 正明
今の政治状況に対して、まともに反応すればするほど、こちらがアホに思えてきます。正面突破は犠牲者が出るだけでなく、精神的にも疲労困憊しますからね。こういう時代の表現方法は、もはや風刺とブラックジョークしか残っていない気がします。
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魂の殺人―親は子どもに何をしたか
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A.ミラー
アリスミラーのこの本は、塾を始めるきっかけになりました。ただ生活のためだけなら、他のことをしていたでしょう。『才能ある子のドラマ』とあわせて、当時の私には衝撃的な本でした。人生はどこでどう転ぶかわかりません。人間の奥深さを知ることで、何とか自分を維持していたのです。この本を読むと当時のことが、ありありと思い出されます。ある意味で、私の人生を方向づけた本かもしれません。
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朽ちていった命:被曝治療83日間の記録 (新潮文庫)
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NHK「東海村臨界事故」取材班

2月18日のブログでも書きましたが、仕事のために読むビジネス書の類は、最終的には効率を重視し、最小の資本と労力の投下で、いかにして最大の利益を上げるかということに尽きていると思います。そのための働き方改革であり、そのための賃上げです。そのための人心掌握術であり、顧客対応です。ビジネス書を読めば読むほど、人間は軽薄になり、視野が狭くなっていきます。もしあなたがそれを自覚するきっかけがほしいなら、是非この本を読むことを勧めます。読書はビジネスのためにするのではないということが分かると思います。この本は私たちの日常の風景を一変させるだけのインパクトを持っています。いわば、ことばの最高の意味における「闖入者」なのです。
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生前退位をめぐる安倍首相の策謀 (宝島社新書)
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五味 洋治
天皇陛下が去年8月のお言葉で一番国民に伝えたかったのは、一言で言うと安倍首相の改憲を許してはならない、ということだったのです。それはブログでも再三書いてきましたが、今上天皇の20年にわたる慰霊の旅や国民に寄り添う姿勢が何よりそのことを証明しています。普通の読解力があれば分かることです。しかし、安倍首相には肝心の読解力がありません。安倍首相は今上天皇の思いを、単なる生前退位の「制度上の問題」にしてしまったのです。これは明らかな策謀です。国民は今一度、天皇陛下のメッセージに真剣に耳を傾けるべきです。
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教育の論理―文部省廃止論 (講談社文庫)
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羽仁 五郎
1979年、今から38年前に出版されたこの本を読み返しました。そして愕然としました。羽仁五郎が指摘したことがますますリアリティーをもって、前景化しています。福沢諭吉も言うように文部科学省はいらないのです。教育関係者は、自らの原点に戻るため、この本を読むべきです。
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服従
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ミシェル ウエルベック
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排除と抵抗の郊外: フランス〈移民〉集住地域の形成と変容
排除と抵抗の郊外: フランス〈移民〉集住地域の形成と変容 (JUGEMレビュー »)
森 千香子
第16回大仏次郎論壇賞を受賞した本作は、従来時間軸で論じてきた社会学の手法に、パリ郊外というエスニック・マイノリティーが住む「空間」を突きつけ、彼らがなぜグローバルテロリズムに追い込まれるのかを明らかにしたものです。

一読し感銘を受けました。問いを生きるという学問の原点が、彼女のフィールドワークにつながり、「移民たちは、彼ら自身に問題があるのだという視線を注がれていました。でも実際には、多数派による差別が問題を生み出していた。問題は社会の側にあったのです」と結論付けます。

この著作は日本社会のみならず、世界のこれからを考えるのに、大いに役立ちます。これぞ学問と言えるものです。『シャルリとは誰か? 人種差別と没落する西欧 』とあわせて読むことを勧めます。
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黒い巨塔 最高裁判所
黒い巨塔 最高裁判所 (JUGEMレビュー »)
瀬木 比呂志
この本はまだ発売されていません。自分で読んでいない本を推薦するのは邪道でしょう。しかし、これまでの『絶望の裁判所』『ニッポンの裁判』(ともに講談社現代新書)に続く裁判所、司法批判の第3弾が長編の権力小説だということで、過去2冊の本の面白さからして、推薦に値する本だと思いました。『原発ホワイトアウト』の最高裁判所ヴァージョンだと思います。読んでからコメントを追加したいと思います。
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被災の思想 難死の思想
被災の思想 難死の思想 (JUGEMレビュー »)
小田 実
若い人は彼の仕事も、名前すら知らない人もいるでしょう。来年で没後10年になります。彼が生きていたら、3・11をどうとらえ、どう表現していたか。それを見たかったし、彼の発言を聞きたかった、とつくづく思います。ジャーナリズムは劣化の一途をたどり、教育は非民主的な社会に適応できるように、こどもたちに真実を教えません。すべてのものには歴史があります。今ある世界が全てではなく、それを作り出した社会と人間の営みがあったのです。もし若い人が自由に生きようと思うのであれば、そして元気を出したければ、彼の著作を読んでみることです。『何でも見てやろう』でもいいですね。とにかく一冊手にとって見てください。そして彼の提示した問いに答えてみてください。
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そして、僕はOEDを読んだ
そして、僕はOEDを読んだ (JUGEMレビュー »)
アモン・シェイ
学校なる場所に通っていた時、毎年夏になると課題図書を読んで、読書感想文を書かねばならないのが苦痛でした。課題図書の選定には学校と書店の密約があるに違いないと思っていたくらいです。

偶然巡り合った面白い本の感想を書くのならまだ我慢できたかもしれません。つくづく学校というところは、余計なことをしてくれると思ったものです。

あまりにめんどうくさいので、「あとがき」を参考に、あらすじを書いて提出したら、トリプルAをもらいました。

学校というところは、もしかしたら、人生の退屈に耐える訓練をする場所だったのかもしれません。この本を読んで、改めてそのことを確認しました。別に先生を責めているわけではありません。それほど自覚的に生きるということは難しいのだとため息をついているだけです。
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選挙 [DVD]
選挙 [DVD] (JUGEMレビュー »)

想田和弘監督の観察映画。音楽による演出は一切なく、徹頭徹尾監督の視点で撮られたドキュメンタリー映画。見終わった後、日本の選挙風土の貧困さが浮かび上がる。この国に民主主義はない、ということを改めて確認し、そこから出発するしかない。その勇気を持つ人には必見の映画です。合わせて『選挙2』もどうぞ。
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職業としての政治 (岩波文庫)
職業としての政治 (岩波文庫) (JUGEMレビュー »)
マックス ヴェーバー
ウェーバーの死の1年前、1919年、学生達に向けた講演の記録です。
一部抜粋します。

「自分が世間に対して捧げようとするものに比べて、現実の世の中が―自分の立場からみて―どんなに愚かであり卑俗であっても、断じてく挫けない人間。どんな事態に直面しても「それにもかかわらず!」と言い切る自信のある人間。そういう人間だけが政治への「天職」を持つ。」(P105〜106)

「さて、ここにおいでの諸君、10年後にもう一度この点について話し合おうではないか。残念ながら私はあれやこれやいろんな理由から、どうも悪い予感がしてならないのだが、10年後には反動の時代がとっくに始まっていて、諸君の多くの人が―正直に言って私もだが―期待していたことのまずほとんどは、まさか全部でもあるまいが、少なくとも外見上たいていのものは、実現されていないだろう。」(P103〜104)

10年後には、ワイマール体制は機能不全に陥り、1933年にはヒトラーが首相に就任します。

平和憲法は、日本人にとって310万人の命と引き換えに手に入れた唯一と言っていい理念であり、アイデンティティーでした。その唯一の誇りを、日本人は損得勘定で葬り去ろうとしています。言い古された言葉ですが、歴史は繰り返すのです。
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熊楠の星の時間 (講談社選書メチエ)
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中沢 新一
小学校を卒業するころ、将来なりたい職業として思い描いていたのが、天文学者か生物学者でした。プロ野球選手は、自分のセンスでは無理だと悟りました。物ごころついたころから興味があったのは宇宙や昆虫や植物の世界でした。そんなわけで南方熊樟に出会うのは必然的な成り行きだったのです。人間は言葉によって世界を把握しますが、それ以外の把握の仕方があるはずだと、ずっと思ってきました。南方熊樟は、小林秀雄と同じく、直観による世界の把握の仕方を教えてくれました。この本は、言葉によって構成された世界秩序の外に出て、世界を改めて考えたい人に大いなるヒントをあたえてくれます。安倍政権によるゴキブリのフンのような、あまりにばかばかしい政治状況を見せつけられているので、精神の衛生学として一気に読みました。
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電通と原発報道――巨大広告主と大手広告代理店によるメディア支配のしくみ
電通と原発報道――巨大広告主と大手広告代理店によるメディア支配のしくみ (JUGEMレビュー »)
本間龍
こどもの教育から裏金を使ったオリンピック誘致、原発再稼働、戦争準備から武器の売却、安倍政権の裏の権力としてメディアに絶大な影響力を行使する電通。私たちは電通が作り上げた「箱」の中でいいようにマインドコントロールされている。自分の意見だと思っていたものが、実はそう思わされていただけだということに気づかなければならない。音楽をはじめとする芸能情報、その中で踊らされるミュージシャンやタレント、果てはデザイン業界までを席巻する。今や電通の介在しないメディアはないと言ってもいい。利権あるところに電通あり、です。
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英語化は愚民化 日本の国力が地に落ちる (集英社新書)
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施 光恒
英語教育に携わる人は、一度この本を読んでみるべきではないでしょうか。言葉は悪いですが「英語ばか」がこの国には余りにも多すぎる気がします。
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日本はなぜ、「戦争ができる国」になったのか
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矢部 宏治
前作『日本はなぜ「基地」と「原発」止められないのか』に続く著者渾身の力作。自分の人生を生きたい人にすすめます。ただそれだけです。18歳で選挙権が与えらる高校生が政治を考える際の基本的なテキストになる日がくるといいですね。無理でしょうが。これ以上余計なコメントはしません。まず手に取ってみてください。
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菅野 完
メディアで取り上げられるよりはるか前から日本会議の存在について私は言及していました。電通と同じくタブー視するメディアには心底失望したものです。報道すればタブーはタブーでなくなるのです。何を恐れているのでしょうか。干されれば、何とか生活をする工面をすればよい。それだけのことです。
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安冨 歩
経済学という自己正当化の道具、あるいは権力に寄生するための方便を分かりやすい言葉で暴露した本物の経済学の本。宇沢弘文氏の「社会的共通資本」と併せて読むことをすすめます。
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磯崎新
帯に「祝祭都市にスタジアムはいらない」とあります。そもそも2020年まで天災と原発事故をやり過ごし、経済危機を乗り越えて存在しているでしょうか。極めて怪しいですね。偶然書店で手に取って読みました。彼の文章を読むと、建築は現世の権力に奉仕するものではなく、想像力の王国を作るものだと思わされます。建築にそれほど興味のない人でも、読めます。いや、いつのまにか引き込まれているでしょう。
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りぼん・ぷろじぇくと
難関中高一貫校で学び、東大に合格しても、それはもはや知性のバロメーターではありません。この本に書かれていることが真実だと見破れることこそが本物の知性です。ニセの知性は既得権益を守るためにはどんな屁理屈でもひねり出します。おまえは何も知らないと言って他人を見下し、金と権力におもねるのです。ニセの知性は理想の灯を掲げることができません。「脳内お花畑」などという幼稚な言葉を使って揶揄するしかないのです。彼らの決まり文句は、他国が攻めてきたらどうするのかという、それこそ「脳内お花畑」的なものです。「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」とは、まさに至言です。
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桐野 夏生
権力も財力もない人間は、想像力を武器に戦うほかありません。以前ブログでも取り上げた『亡国記』とともに読むことをすすめます。
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吉見 俊哉
文部科学省と財界は文系学部、特に社会思想を研究する学部を標的にして、その廃止を迫っている。これがどれだけ短慮で、バカげたことかヨーロッパの大学を見てみればよい。コンピテンス、要するに高速事務処理能力と記憶力を重視する理系学部さえあれば国は繁栄するという考え方です。文系学部は「結果を出せない」といいます。株式会社化をなりふりかまわず進めようとする国の中で、文系学部は穀つぶしだと映っているのでしょうね。この国の知性の劣化はとどまるところを知らないようです。
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福島第一原発 メルトダウンまでの50年――事故調査委員会も報道も素通りした未解明問題
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私の元塾生の縁でお会いしたことのある烏賀陽弘道氏の渾身のレポート。事実を丹念に調べ上げ(これがジャーナリストの本来やることです)事実をして語らしめることのできる稀有なジャーナリスト。この本を読まずに福島第一原発の事故の本質に迫ることはできない。ダブル選挙の前に一人でも多くの国民が読むことを期待します。
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松岡正剛氏の本はどれも面白く、シリーズの千夜千冊を除けばほとんど読んでいます。『多読術』は、高校生にぜひ勧めたいと思います。高校時代に、この本を読んでおくと、さまざまな分野の知的見取り図を手に入れることができます。学校の授業だけではなく、この本を手掛かりにして知の荒野に歩みを進めてほしいと思います。
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安倍首相は「この道しかない」と言って消費税を上げ、集団的自衛権の行使を可能にする閣議決定をし、公約とは正反対のTPPを批准することで、日本の文化=アイデンティティーを破壊しようとしています。

もし私たちが生き延びたければ、そのヒントがこの本の中に書かれています。日本は超大国の「夢」を代弁するだけの国になってはなりません。
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山本氏の国会での質問を、本になって改めて読み直して感じることは、文字通り「みんなが聞きたい」質問をしてくれたということです。安倍首相が小学生に「なぜ政治家になったのですか」と質問された時、「父親も祖父も政治家をしていたからです」と答えていました。小学生相手に、何と言う悲しい答えでしょうか。語るべき理想を持たない政治家など、所詮は官僚に利用されるだけです。それに対して、山本氏には語るべき理想がある。「政治なんてそんなものさ」というリアリストが発散する腐臭を吹き飛ばすさわやかさがある。それは、彼の身体には収まりきれない理想が持つ力そのものです。彼は言います。「力を貸してほしい。少なくとも、あなたが必要だと思われる社会、私が必要だと思われる社会を作っていきたい。そう思うんです」と。日本の総理大臣にふさわしいのはどちらでしょうか。
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おそらく、日本人自身よりも海外の知識人のほうが、日本の問題を正確にとらえていると思わせる本です。読み終えて何気なくテレビを見たら、わが大分県選出の国会議員、岩屋毅氏と江藤晟一氏が、2016年ミスユニバース大分県代表を選ぶ催し物に出ていました。名誉顧問だそうです。いかがわしい宗教団体をバックに票を稼ぐだけでは飽き足らず、こんな大会に顔を出して名前を売ろうとする。大分市長の佐藤樹一郎氏も出席していました。このお三方は、こんなことをするために国会議員や市長になったのでしょうか。国民の税金を使ってやることといえば、テレビに出演してにやけた顔をさらすことでしょうか。もう物事の軽重が全く分かっていません。せめてこの本くらい読んではどうでしょうか。私はこの本に書かれていることの大部分に賛成です。
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蓮池 透
出版されてすぐ読みました。国会で、読んでもいないのに、安倍首相が躍起になって否定した事実が書かれています。蓮池氏はあちこちから人格攻撃の対象とされてきましたが、自分にも落ち度があったと認めています。自分は総理大臣なのだから落ち度はないと居直る人間とは好対照です。この本を読んで、拉致問題について今一度国民が考えることを望みます。
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2年半ほど前に求めて、一気に読みました。マルクスの『資本論』の中に書かれていることを、著者が自分なりに消化し実践していく過程が書かれているので、一種のドキュメンタリー文学として読めます。きっと著者と同じ思いの若者は全国にたくさんいると思います。かけがえのない一回きりの人生を、充実して生きたいと思っている人に勇気を与える本です。
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本では土屋正雄氏の名訳が出ていますが、できれば英語で読んでもらいたい小説です。カズオ・イシグロの文章は読んでいてとても気持ちがいい。素晴らしい文体です。いつの間にか声に出して読んでいることがあります。ジョージ・オーエルと並んで私が最も好きな海外の作家です。彼が書くような英語を書きたいですし、彼のように考え、話したいものです。DVDを見た後は、是非小説も読んでください。
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今年度ノーベル文学賞受賞作品。チェルノブイリは言うまでもなく、フクシマでさえ人々は忘れたがっています。もう過去のことだと言い聞かせて。しかし、過去のことではなく、まぎれもない現在進行中の現実であり、私たちが生きている世界そのものです。この本を読んだ後、橋下徹が御堂筋をイルミネーションで照らし出し、F1カーに乗って写真を撮っているところを見ました。その時のセリフ。「大阪はここまでできる!」

もう何と言うか、別世界を生きている人間です。彼の発する言葉は文学とは無縁です。人間が言葉を持ったのは、言葉にしがたいものを言葉にしようとするためです。政治家が発する言葉の軽さと言ったらありません。それだけ現実も軽いものになったということでしょう。
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井手 英策
今年の大佛次郎論壇賞、受賞作品。今年の2月に読み、いろいろと考えるヒントをもらった本。ブログでも紹介したいと思います。
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岩井 克人
資本主義社会に生きるということは、会社といかにかかわるかを意味します。それほど私たちの働き場所として会社は大きな力を持っています。その会社がこれからどうなるのかを、数少ない本物の経済学者・岩井克人氏が洞察しています。凡百の経済評論家には決して書けない本です。今からでも遅くない。是非読んでみてください。
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長谷川 宏
著者は私と同じく学習塾を営む在野の哲学者。私が塾を始めた時、著者の『赤門塾通信』を読み、励まされました。

上下2巻で、結構なヴォリュームですが、やっと読み終わりました。今改めて日本の精神史をたどりなおしたいと考えている人には、ぜひ勧めたいと思います。感想は又いつか別の機会に。
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小林秀雄は、私を文学や哲学の世界にいざなってくれた恩人です。彼と岡潔との対談です。
この本を理解できる政治家はおそらくいません。いたら、絶滅危惧種でしょう。
小林秀雄、岡潔、鈴木大拙のような人間はもう出てこないでしょうね。こういう人間を生み出す土壌が日本にはなくなりました。
代わりに登場してきたのが、橋下徹やホリエモンこと堀江貴史といった、マスコミによって改革の旗手と持ち上げられたマネー資本主義の申し子たちです。
感情を劣化させた人間が幅を利かせる社会は、効率を追求し、競争を加速させるだけの生きづらい社会です。日本社会はどうしようもなく劣化が進んでいます。
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岡 潔
教育で最も大切であるにもかかわらず、多くの人が忘れているのが感情教育です。世界的数学者・岡潔のことばでは「情緒」ということになります。普通、情緒とは正反対にあると考えられている数学のような学問で、ブレイクスルーをもたらすものは「情緒」だと岡潔は言います。今回読み直してみて、その深い洞察力と、そこから出てくるみずみずしい感性と新しさに、改めて驚かされました。

こどもの将来を本当に考える親なら、あれこれ参考書を買い与えるより、是非この本を読むことをすすめます。私たちが失ったものの価値が分かり、呆然とするはずです。

この本を読んで何も感じなかったらどうするのか?
残念ですが、どうしようもありませんね。これまで通り、自分の信じる道をお進みください。
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鈴木 大拙
鈴木大拙の言わんとすることが、ようやくわかりかけてきました。年齢を重ね、日本文化の基底にあるものをじっくり味わうことで開示される世界があるのです。日々の生活に追われていては、この本を読み、味わう暇などないでしょうが、それだからこそ手に取ってみてはいかがでしょう。
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人間は、条件次第で、喜々として殺人を犯す。そして、その条件を整備しつつあるのが、安倍政権とその背後でうごめく『日本会議』である。このことに気づいていても、「配慮する」ことを最優先して報道しないメディア(特にNHK・読売新聞・産経新聞)。そしてそこに寄生する学者やコメンテーター、芸能人。このドキュメンタリー映画は、彼らの自画像である。たまには、自らの顔をじっくり眺めてみるがよい。
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中村 好文
以下は私がアマゾンのレビューに投稿したものです。再録します。
「もし人に幸福な生き方があるとしたら、中村好文さんのような生き方だろうと、ずっと思ってきました。
建築雑誌をパラパラとめくりながら、ふむ、と思って手が止まると、そこには必ずと言っていいほど中村さんの設計した住宅がありました。
文は人なりと言いますが、その人の書く文章のエッセンスがこれほど見事に建築にも表現されている例はめったにありません。
建築に限らず、食の分野でも、ことばと実物の乖離がはなはだしい時代に、中村さんの設計した住宅や美術館に出会うと、どこか安心するのですね。
そういうわけで、著者の本はすべて読ませてもらっています。
この本も偶然、年末に本屋さんで手に入れ、装丁やカバーの手触りを楽しみながら読んでいます。
読みながらいつの間にかほのぼのとしている自分を発見します。
一日に一編か二編を過去の記憶をたどるようにして読んでいます。
この本の平明さ、やさしさがどこから来るのか。そんなことを分析するのは野暮というものです。
とにかくこの素敵な小さな本は、旅のお供にどうぞ!とすすめたくなります。」
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Sさん夫妻と過ごした至福の時間
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    10月後半の日曜日、台風21号、22号がたてつづけに襲来しました。刈り入れを待っている稲穂が、強風で狂ったように波打っているのが二階の窓から見えました。昔の人は、秋から冬にかけての暴風のことを「野分け」と言いました。吹き分ける強風にはまさにこの言葉がぴったりです。

     

     

     

    台風21号が去った後の気持ちよく晴れた日の午後、私は外に出て、葉が散った庭を掃除しなければと思いめぐらしていました。すると一台の車がゆっくりと前庭に留まりました。S さん夫妻との出会いです。

     

     

     

    S さん夫妻は、突然の訪問を丁寧に詫びた後、家を見せてもらえないだろうかと言いました。後でわかったことですが、ご主人は30代前半、奥さんはもうすぐ30歳だということでした。

     

     

     

    私は二つ返事で快諾しました。なぜなら、これほど見事に敬語を使う若い夫婦を見たことがなかったからです。それはあまりに自然なので、敬語を使っているとわからないほどでした。感じの良い二人の丁寧な暮らしぶりがうかがえて、こんな人たちに注目されるのなら、築22年になる杉板打ち放しのわが陋屋も存在価値があるかもしれないと思いました。

     

     

     

    それから30分ほど、二人はあちこちを見て回り、庭に植えている樹木の名前を尋ねました。樹木を指さしながら名前を言うと、奥さんはメモを取り始めました。クヌギ、ケヤキ、花ミズキ、カツラ、山法師、百日紅、ブナ、クリ、日向ミズキ、オオバモミジ、サツキモミジ、イチョウ、ハナカエデ、ジューンベリー、ツリバナ、シラキ、ブルーベリー、エゴの木だと教えてあげました。「落葉樹ばかりですね」と言って、奥さんはほほえみました。常緑樹のヤマモモの巨木と金木犀は紹介するのを忘れていました。

     

     

     

    二人の話をさりげなく聞いていると、家を建てようと計画しているようでした。そういう時、私は自分の方から計画について尋ねるようなことはしません。家を建てるのはあくまで二人の問題であり、私は建築家でもないので、深入りはしないようにしています。建売住宅を買うのではなく、自分たちのライフスタイルに合った住居にしたいと考えている人にとっては、家を建てることは生き方そのものですから。

     

     

     

    S さん夫婦はある人にすすめられて私のブログを読み、住居に対する考え方に共感して、一度実物を見てみたいと思っていたそうです。「やっぱり来てよかったです。写真では肝心なことはわかりませんね。空気感とか。土地との一体感とか。住居は生き物ですね。この家は先生そのものだということがよくわかりました。」と奥さん。

     

     

     

    私はうれしくなり、思わず奥さんに抱きつこうかと思ったほどです。いや、冗談です。突然の訪問と時間を取らせたことを詫びて二人は車の方へ歩きかけました。でも、なんだか名残り惜しそうでした。わずか30分の滞在ですから、私の思い過ごしに違いないと思いました。でも口から出た言葉は「今日は妻も外出していて、散らかっていますがよかったら中も見て行きませんか」でした。

     

     

     

    二人の顔がぱっと明るくなり、とても嬉しそうでした。それからの2時間余りは、何と言えばいいのか、私にとってはこの上なく楽しいひとときでした。ブランデーの香りのするモンブランとコーヒーを飲みながら過ごした時間は、それだけで苦労して家を建てた甲斐があったと思わせるものでした。話題は建築にとどまらず、多岐にわたりました。

     

     

     

    そして、二人の具体的な計画まで聞かせてもらいました。土地は100坪ほどで、道路より少し上がったところにあり、台形をしていること。資金があまりないこと。何よりどんな生活をしたいと考えているかが、率直に伝わってきました。今はやりの、建築家の実験住宅やデザイナーズ建築だけは「いやです」とはっきり言うではありませんか。こうなれば、持っている知識を総動員して、二人の夢を応援したくなります。

     

     

     

    そこで、大きな紙を広げて鉛筆で基本設計のプランを描いていきました。土地の形状を考えて、腰の高さくらいの塀で囲むこと。3か所くらいにシンプルなアルミの門扉をつくる。道に面した一番長い台形の底辺の真ん中あたりが入り口。正面の一番奥に底辺と平行に建物を建てる。そこは3つの個室。入口から見て右側にパブリックスペースとしての台所、リビングを作る。とにかく、普通の家のように玄関を作らない。門扉を入って一番広いところは芝生にして、個室の前には大きな落葉樹を一本植える。道路から上がってきた人が最初に目にするのは、広々とした芝生の庭。S さん夫妻は目を輝かせて図面に見入り、私の話を聞いてくれました。

     

     

     

    こうなると別れがつらくなります。出会ってわずか数時間で意気投合する人もいれば、何年付き合っても世間的な付き合いにとどまる人もいます。そして、経験から言うと、一目会って直観で感じがいいなと思う人とはうまくいくのです。人間とは不思議なものですね。

     

     

     

    さて別れの時がやってきました。私は思いを告白せずに大好きな人と別れるような心境になっていました。私の考えていることはほとんど話しました。何かのヒントになれば嬉しいと思っただけで、後は二人でよく相談して決めてほしいこと。まず生活があり、お金がたまってから住宅を「買う」ことを考えるのではなく、住宅があるからこそ、そこでの生活がある、つまり、建築が先にあって生活があるというくらいに考えた方がよいということ。その後の報告の義務はないこと等を話しました。

     

     

     

    今回の出会いは一期一会です。私は偶然の善き出会いだけを思い出に、人生を豊かにしていく術を身につけているので、今後 S さん夫妻に会うことはなくても、寂しくはありません。以下は S さんに送ってもらった画像です。S さん、お元気で!

     

    前庭

     

     

     

    中庭1.台風の後で、葉が散っています。

     

     

    中庭2.向こうに見えるのはお隣さんの納屋の屋根。

     

     

    室内1

     

     

    室内2

     

     

    | 自己救済術としての家作り | 22:15 | comments(2) | - |
    夫婦二人のための理想的な住まい。
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      建築家の堀部安嗣氏のことは以前ブログで取り上げました。

       

      『私が設計依頼したい建築家−堀部安嗣氏』 

      http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=76

       

       

      つくづく思うのですが、分をわきまえた人というのは、自分の才能の外延というか守備範囲がよく分かっている人のことです。それはスケールが小さいということとはまったく違います。自分の能力が最も発揮される場所がよくわかっているので、自己顕示がなく、誠実で、任された仕事に対して手を抜かずに取り組みます。結果、建築家の「作品」ではなく、住み手にとってこの上なく居心地のいい住宅が出来上がるのです。

       

       

       

      堀部安嗣氏の設計する小住宅には、凝縮された美意識と経験と誠実さが表れています。それは他のどんな建築家とも違う質を備えています。おそらくそこに住み始めた人は、日々新しい発見をして驚くことでしょう。

       

       

       

      私は朝目覚める時に、新鮮な感情で心が満たされているような生き方をしたいとつねづね思ってきました。それが影響したのかどうかわかりませんが、堀部氏の建築を見た時、その気品と落ち着きのあるたたずまいに打たれました。何だかほめ過ぎのようですが、彼の設計した住宅を見ると、どうしてもそういう思いがこみ上げて来るのです。

       

       

      先日、書店に立ち寄った際、ある雑誌の表紙が目にとまりました。もしやと思いページをめくると、やはりそうでした。表紙の住宅は堀部氏が設計したものだったのです。

       

       

       

      この住宅は延べ床面積が116,94屬任后1階が77,99屐■桶が38,95屬任后コンパクトな二階建て住宅です。夫婦二人のための理想的な住まいだと思いました。マンション暮らしの人には申し訳ありませんが、戸建てでなければ決してできない空間構成とスケール感です。特に明と暗のコントラストが素晴らしい。空気感までが伝わってくる建築です。

       

       

       

      これから夫婦二人のための住宅を考えている方や、一人暮らしの老後の生活を充実させたいと考えている方にお勧めです。書店で是非手にとってご覧ください。

       

       

       

      百聞は一見に如かず。以下、画像で紹介します。

       

      これがその本です。出版社は X-knowledge です。この表紙を見て、もしやと思いました。¥1,600円です。

       

       

      窓の高さと位置、壁の面積が絶妙のバランスで配置されています。全く狭さを感じませんね。

       

       

      玄関を入ると、ホールから居間の奥まで視線が抜けるように設計されています。これも狭さを感じさせない工夫の一つです。「M 邸で一番長いところ。これを一気に見せてあげると、広い家に感じられるのです」とは堀部氏の言。実物で納得させられますね。

       

       

      実は私が最も驚いたのは、このキッチンです。高い窓から朝日がさしてくるように設計されています。朝このキッチンに立った時、得も言われぬ新鮮な感情で心が満たされることでしょう。シンクの向こうの小さな窓もアクセントになっていますし、建具がなく奥のリビングにつながる動線は秀逸です。このキッチンには入口が二つあります。玄関から直接入れますし、リビングからも入れます。延べ床面積116 です。少し広いマンションと同じくらいです。ため息が出ますね。

       

       

       

      | 自己救済術としての家作り | 16:33 | comments(0) | - |
      Less is more. −ふたりからひとり−
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        Less is more は建築家のミース・ファン・デル・ローエの言葉とされていますが、生き方にも、芸術表現にもあてはまる金言です。「より少ないものこそがより多くを表現する」という意味にも「豊かな暮らしには過剰なモノもおカネもいらない」という意味にも受け取れます。良寛さんをはじめとして、この言葉を文字通り生きた人間の精神が、日本文化の基底部を伏流水のように流れています。

         

         

        戦前、戦中の暗い時代に、Less is more を生活と思想の根幹に据えて生きた林達夫に、若いころ大きな影響を受けました。彼との出会いがなければ、充実した人生のスタイルとはどのようなものかイメージがわかなかったと思います。私にとっての読書は、まさに生きることそのものだったのです。

         

         

        そして、少しばかり年をとって周囲を見回すと、何の気負いもなく Less is more を当然のこととして生きている市井の人がいたるところにいることに気づきました。

         

         

        今からちょうど5カ月前、ブログで紹介した津端夫妻もそうだったのです。

         

        老建築家夫婦のドキュメンタリー!映画『人生フルーツ』

        http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=300

         

         

        建築に興味を持っていなければ、ご主人の修一さんが多大な影響を受けたアントニン・レーモンドの名前も知らなかったでしょうし、『人生フルーツ』に出会うこともなかったでしょう。

         

         

        先日、忙しくて私のブログなど読んでいそうもない上の娘がやって来て、「お母さん、この本読んどいた方がいいよ」と置いて行ったのが、津端英子さんの『ふたりからひとり』でした。御主人の修一さんが九十歳で亡くなった後、二人で生きた六十五年に及ぶ生活を淡々とつづった本です。

         

         

         

         

        一気に読んだ妻は、なんだか心の底から共感し語り合える友人を持ったような表情をしていました。言葉は不思議な働きをします。人生の意味を一気に照らし出しもすれば、それまで抱いていた幻想を白日の下に引っ張り出したりもします。

         

         

        妻に言わせれば「なんでこんな一筋縄ではいかない、変わり者と結婚したんだろうと思っていたけれど、この本を読んで、それもありかなと思えるようになったのよね。意外と幸せだったんじゃないかって。修一さんの生き方があなたとそっくりだもの。世間付き合いもほとんどしない、他人を頼らない、いつも自分で何か考えて一人で実行するところなんか、よくもこんなそっくりな人間がいるものだと思ったわ。言うこともそっくりで・・・」とのことです。

         

         

        実はこの本を読んで私も同じ感想を持っていたので、自己正当化をつとめて避けながら、それとなく感想を述べ合っています。

         

         

        この本のプロローグ「人生が完成する日−しゅういち」から引用します。

         

        ― サマセット・モームは、僕の好きな英国の作家でね。彼は六十四歳のときの回想記に、こんなことを書いているんですよ。

         

        「私はいつも未来に向かって生きてきたので、未来が短くなったいまも、その習慣から抜け出せないでいます」

        と、言いながら九十一歳まで生きて、自分の死をこうも言っています。

         

        「自分の目論んだ人生模様が、完成する日」と。

         

        幸福な人生だったんでしょうね。

        九十歳のお誕生日には、こうも言っています。

         

        「ときどき人生をくり返したいかと質問されます。全体として見ると、けっこうよい一生でした。・・・もしかすると、大部分の人よりよい一生だったかも」と言いつつ、

         

        「でも、もう一度繰り返しても無意味です。前に読んだ推理小説を再読するように、退屈です」と。

         

        九十一歳で亡くなったモーム。ゆとりがあって立派ですね。僕も同じような思いです。

        僕も「私の目論んだ人生模様が完成する日」を迎えることでしょう。

        でも、もう少しモームよりも長生きさせていただいて、茨木のりこさんの言うように、

         

        「・・・だから決めた。できれば長生きすることに

        年をとってから凄く美しい絵をかいた

        フランスのルオー爺さんのように

        ね」と、いきたいものだと思っているんですよ。(2014年10月)

         

        | 自己救済術としての家作り | 23:57 | comments(0) | - |
        <時間>を胚胎する建築
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          建築における重要な要素は、空間の構成であり、素材であり、思想性だということに異論はありません。しかし、何か重要なものが欠けています。そのためか、東京のありふれた街を歩いたときに感じた違和感はいつまでも私の精神に引っ掻き傷のように残りました。ファッショナブルでアバンギャルドな雰囲気とは逆に、無意識の堕落を誘うようなものが街の風景の中に漂っていて、ここでは暮らせないという思いがこみ上げてきました。

           

           

          同じ大都会でもロンドンやパリ、バルセロナ、ニューヨーク、ボストンといった街では感じない空虚感というか、何かが捏造されているような感じが東京にはあります。まるでアリバイ工作に精を出しているような弛緩した風景の中には、生存のよりどころになるものがないと感じるのです。

           

           

          その大きな理由は、東京がうっすらと放射能に汚染されている(場所によってはかなり高濃度に)こと以外に、もともと生産の場であり生活の場であった場所が、バブル経済を境に投機目的の<土地>という記号に読み換えられていったことにあるような気がします。

           

           

          ヒルズやコートといった空々しい名前の超高層マンションやオフィスが作り出した空間は、私にとっては、人々が記憶を重ね合わせることのできる場所、日常の営みや自らの生存と深くかかわった場所にはなり得ないと直観させたのです。

           

           

          もちろんそこにも人々の生活があることはわかっています。それを否定するつもりなどありません。ただ、場所が<土地>という記号に読み換えられていった結果、その<土地>にはそれにふさわしい種類の人間たちが住むようになったのではないか、というのが私の仮説です。

           

           

          彼らの発想の中心にあるのは「自分に必要のないもの、あるいは自分に理解できないものは、世の中に要らないものだ」という、恐ろしく単純なモノサシのような気がします。それが証拠に、彼らは決して今の政治状況に対して異議申し立てをしません。デモをする学生に「頭の中にウジがわいてるんじゃないの」とか「デモする暇があったらバイトでもしろよ」と言って罵倒しています。

           

           

          エリートだの富裕層だのとおだてられ、自分の考えを疑うこともせず、本まで出版しています。中身はスカスカで、同じ業種の人間ばかりでなく、出版社のトップが宣伝を買って出ています。彼らは、前にも書きましたが、新しい文化の先導者ではありません。自作自演となりすましが生き方そのものになっている「成金」に過ぎません。

           

           

          話がそれました。建築にとって欠かすことのできないもう一つの、いや、最も重要な要素は何か、という問題でした。それは<時間>です。<時間>をめぐっては、このブログで何度も述べてきました。ある<場所>にビデオカメラを据え付けて30年間撮り続けるとします。その後、カメラを取り外して早回しすれば、そこに時間が映っています。物事の<変化>という形で。昔『八月の鯨』という映画を見た時、このことを痛切に感じました。

           

           

          建築行脚を始めてもうずいぶんになりますが、今になって思えば、私が惹きつけられた建築は、生み出されてから今日までの時間の経過を想像させ、なおかつ現在も美しいと思える建築だったのです。素材も空間の構成も、それを際立たせる光の制御も、時間の試練に耐え、時間に洗われて益々美しくなる建築でした。

           

           

          例えば、金沢21世紀美術館が、妹島和世と西沢立衛という二人の建築的才能が生み出したものであることに異論はありません。

           

          金沢21世紀美術館

           

           

          しかし、その後に訪れた白川郷・五箇山の合掌作りは、空から宇宙船が舞い降りたような斬新な建築よりもずっと私の琴線に触れるものがありました。そこに積もった時間と土着的な文化の固有性が私を感動させたのです。それは、風土的なその土地固有の建築でした。無名で、自然発生的で、土着的な佇まいを持つ建物の素朴さこそが日本文化の基底部を形作っているのだと確信しました。

           

           

           

          振り返ると、二十代の中頃から、そういった建築に興味を持つようになりました。宗教には無頓着であるにもかかわらず、数世紀を経た教会や修道院の静謐な佇まいに憧れを抱いていました。その中の一つにフランス中部にあるシトー派修道院建築の一つ、ノアラック修道院があります。後年、ル・コルビュジェのラ・トゥーレット修道院やロンシャンの教会に出会う以前の原体験となった建築です。

           

          ノアラック修道院

           

           

          ノアラック修道院の手入れの生き届いた庭

           

           

          最後に是非紹介したいのが、篠原一男の「土間のある家」です。以下の画像は篠原一男の「白の家」ですが、私はむしろ「土間のある家」のほうが好きです。

           

           

          その篠原一男が設計した軽井沢にある「土間のある家」。この古びた佇まいが時間の経過を表しています。森の中の小動物の巣といった風情で、生活に必要なものだけに囲まれて、季節の移ろいを感じながら暮らしたいですね。

           

           

          「土間のある家」の土間部分。何とも言えず懐かしい空間です。

           

           

          右のテーブルに畑で取ってきた野菜を置き、長靴を脱ぎ、簡単な食事もする。疲れたら、一段上がった左の畳敷きの部屋でごろりと横になって昼寝をする。ああ、少年のころ、こんな間取りの家がありましたね。これこそが終の棲家です。私は都会の超高層マンションには生理的に住めません。

           

           

          | 自己救済術としての家作り | 18:05 | comments(0) | - |
          <詩>を孕む建築
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            一瞬で目を奪われる建築があります。もちろん私個人の感じ方です。それは、人を驚かせたり、権威づけたり、誇張したりするものではなく、ひとことで言えば<詩>をはらんだ建築です。さらに言えば<死>をはらんだ建築であり<時間>を胚胎した建築です。今回は建築と<詩>について述べてみます。

             

             

            色々な建築を見て歩く旅をしていると、日々の生活によって濁り、滞留した感情を浄化してくれる忘れがたい建築に出会うことがあります。そういった建築を美しいと感じるのはなぜだろうか、といつも自分に問いかけます。ここで<美>の定義をしようというのではありません。

             

             

            ただ私が惹かれる建築には、欠くことのできない要素として<詩>があることは確かです。以前ブログで西脇順三郎のことばを引用しました。それは「人間の存在の現実それ自身はつまらない。詩とはこのつまらない現実を一種独特の興味(不思議な快感)を持って意識させる一つの方法である。」というものでした。

             

             

            つまり<詩>とは、色あせ、汚れ、擦り切れてしまった現実に別の角度から光を当て、それまで見えなかったものを見えるようにするものです。見えなかったものが見えるようになると何が起こるか。それは私たちにとって最も重要な感情の深化・更新を引き起こします。たとえて言うと、朝目覚めるたびに、今日という一日を新鮮な感情を持って迎えることができるようになります。

             

             

            これほど人生にとって必要なものはありません。<詩>とは、見えなかったものを見えるようにするわけですから、批評精神が純化したものだとも言えます。<詩>をはらんだ建築は、一人一人の人生のさ中に、何かしらある秩序をもたらすものなのでないか、そうだとすればそれもまた「一種独特の興味」によってもたらされる「不思議な快感」なのではないか、と思い至ったのです。人間の魂が安らぐことができるのはこの快感の中だと、私は幼少年期の出来事で確信しました。

             

            こどもの魂はどこで育つのか

            http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=174

             

             

            皆さんは、アルベルト・カンポ・バエザという建築家をご存知でしょうか。

             

            略歴

             

            1946年スペイン、ヴァリャドリードに生まれ、その後カディスに移る。祖父は建築家。父は外科医。1971年マドリード建築工科大学(ETSAM)卒業。大学ではアレハンドロ・デ・ラ・ソータ、フリオ・カノラッソに師事。1982年にハビエル・カルバハルとともに博士号を取得する。1986年よりマドリード建築工科大学教授。現在、終身教授として長年教壇に立つ。これまで、スイス連邦工科大学チューリッヒ校(ETHZ)、ローザンヌ工科大学、ペンシルヴァニア大学、ダブリン大学、バウハウスなどで教鞭を執り、2001年にはコロンビア大学の研究員としてニューヨークで過ごす。主著『構築された概念』は、幾つかの言語に翻訳出版されている。マドリード在住。

             

             

            そしてこんなことも書かれています。

             

            「車も、時計も、携帯電話も持たない。そして蔵書には建築書よりもむしろ詩集を多く持つ。スタジオでは5人ほどの素晴らしいスタッフとともに設計活動を行っており、この環境こそが「幸福」であると感じている。」と。

             

             

            2009年に出版された以下の写真集からインタヴューの一部を紹介します。

             

             

            P241より

            ― つまり、建築家というのは光を扱う作曲家である、ということですね。

             

            そうです。私は「コンポーザー(構成)」という言葉を音楽の作曲家のように使っています。作曲家が音符を並べるように構成するだけでなく、詩人が言葉を構成するように構成するのです。言葉を順序よく並べても、何も意味がなかったり、取るに足りなかったり、表現が乏しかったりするわけです。

             

            しかし、別の並べ方をすると人に感動を与えたり心を動かしたりすることができる。使っているのが同じ言葉であるにも関わらずです。

             

            ここで音楽から詩へ、さらにキッチンへと話は飛びますが、台所では同じ材料を使って素晴らしい一皿を料理することもできれば、平凡な一品にも仕上がります。建築において私たちは、料理人のように調味料を扱い、詩人のように言葉を操り、音楽家のように音符を扱います。私たちが最も素晴らしいと考える構成とは人々の役に立つ物だけではなく、人々を幸福にして感情に訴えるようなものなのです。(以下続く)

             

            ブログではとても紹介しきれません。興味のある方は是非本書をお読みください。

             

            ・彼の作品、オリニック・スパヌ邸 (2008 ニューヨーク、アメリカ)

             

             

             

             

             

            | 自己救済術としての家作り | 17:12 | comments(0) | - |
            小さな家で、おおらかに暮らす。
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              夫婦2人だけなら20坪のワンルーム。ワンルームだから、猫はダメですが犬なら飼えます、なんちゃって。ダジャレは置くとして、これは若い夫婦でも、年配の夫婦でも同じです。家族4人から5人で住むのなら、最大30坪の家で十分です。

               

               

              例えば50坪の土地があるとします。この計算でいくと夫婦2人の場合30坪が庭になります。家族4〜5人の場合でも残り20坪を庭にできます。枕木で簡単なアプローチを作れば、居心地のいい空間になります。できれば、庭には大きな落葉樹を一本植えましょう。

               

              土地が広かったのをいいことに、落葉樹を植え過ぎました。秋から冬にかけて、落ち葉の始末が大変です。樹木は10〜20年後の姿をイメージして植えましょう。

               

               

               

               

               

               

              これからは、もはや大きな家に住まないことが良識として語られる時代です。大きな家を用途に合わせて小さく間仕切ると、風も通らない、光も入りにくくなる、視線が対角線に抜けないのでかえって狭く感じる、住む人や生活の変化に対応する空間の柔軟性に欠ける、といった欠点があります。

               

               

              今日の中庭。対角線を意識して設計しましたが、左手のカツラの木が思ったより大きくなりすぎて、剪定が追いつきません。友人から「剪定していて、ハシゴから落ちて死ぬのがお前の運命だ」などと、脅される始末です。

               

               

               

               

              何より住宅はステイタスシンボルではありません。徒然草にも、「おほかたは、家居にこそことざまはおしはからるれ。」(だいたいは、住宅のありようによって、その家の主人の人柄は推し量られるものです。)とあります。もちろんこれは、マンションや借家暮らしで結構だ(その考えにも私は大いに賛成するのですが)と考えている人には当てはまりません。兼好法師の言っていることは、私のようにたまたま先祖から受け継いだ土地があり、材木を提供してもらうという幸運に恵まれた人間のたわごとかも知れませんね。

               

               

              さらに、「造作(ぞうさく:古くは家を建てること=普請)は、用なき所を造りたる、見るもおもしろく、よろづの用にも立ちてよしとぞ、・・・・ 」とあります。「間取り計画」における「フリースペース」、将来を見こしての「可変空間」「アキの空間」の考え方が述べられています。納得します。時代は変わっても、すみかに対する考え方には普遍性があるようです。

               

               

              しょせん、いっときの間生活する空間に過ぎないとしても、それでも、家を建てたい、あるいはリフォームしようと考えている人に、なにか参考になればと思いブログを書いています。これからは、中身のないこれ見よがしの張りぼて文化ではなく、コンパクトで、それでいて日々の生活を充実させるおおらかな空間を持った住宅が見直される時代になります。要するに、長い下り坂をゆっくり下りて行く時代なのです。

               

               

              私がブログで紹介した住宅建築の名手は、小さな家の設計をおろそかにしない人たちばかりです。吉村順三、中村好文、永田昌民、益子義弘、堀部安嗣、篠原一男、増沢洵、そして今回紹介する伊礼智氏です。伊礼氏の設計する住宅は、これから住宅を建てようと考えている人の参考になる質とおおらかさを備えています。小さな住宅でも少しも貧しくない、むしろ豊かで充実した暮らしができる空間ですね。もちろん、リフォームにも応用できます。

               

               

              伊礼智の『小さな家70のレシピ』。以下の画像はすべてこの本の中にある写真です。9坪から30坪までの住宅。

               

               

              ガラリ戸を通して入ってくる光線は柔らかいですね。外からは見えないけれど、中からは外が見えるという日本の格子戸文化が息づいています。

               

               

               

              畳の部屋もこういう作りなら、いろいろな使い方ができて、人それぞれの居場所ができそうです。

               

               

              吉村順三の軽井沢山荘を彷彿とさせます。右端の床においてある照明は吉村氏がデザインしたものです。「大事なのは明かりであって、照明器具ではないからね。」という声が聞こえてきそうです。

               

               

              ちなみに、下の画像は篠原一男の『白の家』。美しい空間です。しかも全く古さを感じさせない。う〜ん、脱帽。これはおそらく設計した本人の意図を超えていたに違いありません。そんな空間こそが、時空を超えるのです。

               

               

              下の画像は、増沢洵の「9坪ハウス」を祖型として建てられた家。夫婦二人ならこれで十分ですね。以前紹介したアルネ・ヤコブセンの『夏の家』が私には理想の大きさです。80歳を過ぎたホルインドさんが一人で住んでいました。

               

               

              | 自己救済術としての家作り | 19:22 | comments(0) | - |
              フィンランドが生んだ偉大な建築家 − アルヴァ・アアルト
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                フィンランドと言えば皆さんは何を連想しますか。白夜?いいですね。白夜と言えば、ドストエフスキーの処女作、あるいは東山魁夷のいくつかの絵。いや、やめておきましょう。連想は過去がいっぱい詰まった記憶の宝庫をひっくり返すようなものです。記憶はその人そのもの、連想は人生を時系列にたどるようなところがあります。そして何より、その人の教養や知性を表わします。お里が知れるので怖いですね。

                 

                 

                私はフィンランドと言えば、なんといっても、アルヴァ・アアルトという建築家を連想します。彼のどこがいいのか、ですって?う〜ん、ちょっと言葉では表現できませんね。空間のやさしさ、光の取り入れ方、部屋のプロポーション、どれをとっても、アアルトという人格を通すことによって、自由で屈託のない精神、おおらかな余裕、人間に対する優しい眼差しを感じることができます。日本人で言えば吉村順三氏に最も近いでしょうか。ともあれ、以下の写真をご覧ください。右側のTOTO出版の写真集からピックアップしました。

                 

                 

                アアルトの代表作、マイレア邸。

                 

                 

                マイレア邸内部。

                 

                 

                 

                アアルトやアルネ・ヤコブセンが設計するリビングの優しい空気感を、住宅建築家を志す若い人たちに学んでほしいですね。

                 

                 

                このトップライトから入ってくる光の優しさ。写真集を、しばらく見とれていました。

                 

                 

                何気ない空間ですが、だれも真似できない美しさと落ち着きがあります。

                 

                 

                以下の写真はアルヴァ・アアルトの「夏の家」、コエタロです。「コエ」は実験「タロ」は「家」のことです。さしずめ「実験住宅」というところですね。

                 

                 

                この言葉から肥溜め(コエダメ)を連想してしまうのは、私より前の世代でしょう。今の若い人は「肥溜め」といっても、リアルに想像できないでしょうね。農家の畑の隅っこにあって、表面がかさかさに乾いていて地面と区別がつかないものもあります。思いっきり石を投げると、ズボッと音がして、いい臭いが漂います。友達とふざけていて、ハマったこともあります。ほら、お里が知れるでしょ。

                 

                この「夏の家」については、例の中村好文氏が簡にして要を得た文章を書いています。引用します。

                 

                この室内に踏み込んだとき、何ともいえない懐かしさと安堵感が心の底から湧き上がって来たことも、忘れずに書いておきたいと思います。不思議なことに、初めて訪問する建物なのに、「また、来ました!」と声をかけたい気持ちになっていたのです。それが何故なのか、もちろんすぐには分かりませんでした。しかし、室内を歩き回ったり、居間の暖炉の前や食卓のソファに座ってみたりした後で、二階のアトリエに上がり、手摺にもたれて暖炉のある居間を見下ろしているときに、突然、その正体がわかりました。

                 

                そこから見下ろす室内の風景は、つい昨年まで、夏が来るたびに、私がいそいそと訪ねて行ったあの軽井沢の森の中にある「吉村山荘」と驚くほどよく似ていたのです。いや、室内の様子だけではありません、そこに漂う空気が、その空間に宿っている建築の精神が、あの美しい「山荘」に充満していたかぐわしい建築の匂いとそっくりでした。

                 

                 

                既成の価値観にとらわれない先駆者の精神、建築や家具のアイデアに潜んでいる穏やかなユーモア、市井の生活を見つめるまなざし、居心地に対する動物的なカンの良さと、それをさらりと作り出して見せる名人芸、火や水、そして植物に寄せる愛情の深さ、理屈よりも実践を重んじる職人魂、そしてまた、見事なスケッチの線を生みだす武骨な手と、風雪に耐えた樫の老木の幹を思わせる深い皺を刻んだ風貌・・・、アルヴァ・アアルトと吉村順三という二人の建築家には共通点がたくさんあったように思います。(『住宅巡礼』より。)

                 

                以下の二つは、アアルト自邸。

                 

                 

                 

                私の人生最後の旅は、スカンジナビアを巡る旅にしようと決めています。白夜の針葉樹の林の中を、ゆっくり歩きたいですね。

                 

                 

                | 自己救済術としての家作り | 14:17 | comments(0) | - |
                より近くに、より寛容に、よりゆっくりと生きる。
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                  「私にとって、自分の皮膚の外側は、すべて異郷だ。」と言ったのは、言語学者にして文化人類学者の西江雅之氏です。このブログを書き始めてすぐ、氏は他界しました。もとより学問や教育という狭い領域での自己限定にこだわる気質ではなく、その活動範囲は文字通り常軌を逸したものでした。

                   

                   

                  エリック・ホッファーや南方熊楠、イサム・ノグチに影響されて青春時代を過ごした私が、西江雅之氏に惹かれたのは、当然の成り行きでした。以下は氏の言葉を自分なりに解釈した結果、お前はどうするのかという問いに答えたものです。

                   

                   

                  自分の皮膚の外側は、すべて意味のないデタラメが支配する世界だ。目まいがするほどバカバカしいことの連続だ。だから、精神の平衡を保つためには、どこかに自分の居場所を作らなければならない。環境は想像以上の力を持っている。なぜなら、ここにいる自分と、別のところにいる自分は別の自分だと感じさせるからだ。どんな環境にいても自分は自分だというのは、人間の弱さと向き合ったことのない人の考え方だろう。

                   

                   

                  近代社会は経済を筆頭に合理的であることを突き詰めた。その過程で合理的でないもの、効率を阻害するもの、銀行の不動産評価においてマイナスになるもの等を、ノイズとして排除していった。自分にとって必要だと感じていたものが、ことごとくノイズとして処理されていく社会。そんな社会から退却(リトリート)するための避難場所(サンクチュアリ)を作らなければならない。つまり、身体感覚の延長として、ごくあたりまえにコミュニケーションのとれる範囲に生き方を限定すること。つまり、私たちにとって、どこにいるかが決定的に重要なのだ。

                   

                   

                  これは西江氏のような図抜けた生き方、いわば遠心力を最大化するようにして世界を駆け巡った生き方を見て、その一方で、求心力を最大化する生き方もあっていいはずだと考えて、私が導き出した結論です。もとより、遠心力を最大化する生き方は、能力的にも体力的にも無理だと悟った上での自己防衛に他なりません。

                   

                   

                  簡素な住居を作ろうと考え始めた時、私を衝き動かしていたのは、こういった考え方だったのです。『自己救済術としての家作り』とは、まだ誰も使ったことのない言葉ですが、その時の私の気分にピタッと当てはまるものでした。

                   

                  何だかまた小難しい話になってしまいました。今生活している場所に、私は満足しています。買い物に行くのに車が欠かせない不便な場所ですが、それを補って余りあるものがあります。もちろん車で15分ほど行けば、絶品の桜餅も手に入ります。市場主義的な考え方を完全にシャットアウトするのではなく、最小化していく工夫を重ねることで、里山の生活は、私にはこの上ない恵みをもたらしてくれます。

                   

                  「さかいや」謹製・絶品の桜餅。亡き母が茶事で使っていたハマグリをかたどった器に盛りつけました。

                   

                   

                  城下町・臼杵の老舗菓子舗「さかいや」さん。草餅も酒まんじゅうも素朴な味わいで美味しいです。昭和の食文化を思い出す懐かしい味ですね。

                   

                  | 自己救済術としての家作り | 17:50 | comments(0) | - |
                  老建築家夫婦のドキュメンタリー!映画『人生フルーツ』
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                    今回紹介するのは、東海テレビが制作したドキュメンタリーを劇場公開する企画の第10弾。敗戦から高度経済成長期を経て、信念を持って丁寧に生きる、90歳と87歳の建築家夫婦の暮らしぶりを描いたものです。

                     

                     

                     

                    私はめったにテレビを見ません。わが家では面白そうな番組を見つけるのは、もっぱら妻の役割になっています。映画『人生フルーツ』を見つけたのも妻でした。90歳と87歳になる老建築家夫妻が主人公とあって、興味を持って見はじめました。映像の美しさと、樹木希林の穏やかな語り口に引き込まれて、あっという間の1時間半でした。

                     

                     

                     

                     

                    セレンディピティーではありませんが、ここでも偶然の出会いがありました。日本住宅公団のエースと呼ばれた建築家の津端修一氏は、日本のモダニズム建築の巨匠アントニン・レーモンドに師事していたというのです。そのアントニン・レーモンドに師事していたのが、ブログでも取り上げた吉村順三氏です。吉村氏に師事していたのが、中村好文、益子義弘、永田昌民の各氏で、私が設計依頼したかったとブログで書いた堀部安嗣氏は益子義弘氏に師事しています。

                     

                     

                    ちなみに、アントニン・レーモンドはフランク・ロイド・ライトの下で建築の仕事をしています。こうやって、何もかもが繋がりました。このドキュメンタリーは旧知の友人に会ったような感慨を私に抱かせたのです。

                     

                     

                    しかし、本当に素晴らしいのは、この夫婦の生き方そのものでした。自宅は敷地を雑木林で囲い、津端さんが敬愛するレーモンドの自宅に倣った30畳一間のモダンな平屋建てで、母屋に離れや作業室、書庫などが併設されています。

                     

                     

                    津端さんの声掛けで高森山にどんぐりの苗木を植樹する運動が広がり、ニュータウンのなかにも木々の緑が増え町の様子が変わっていきます。定年後は大学で教えながら二人で育ててきたキッチンガーデンでは、いつの間にか70種類の野菜と50種類の果実が採れるようになりました。

                     

                     

                    採れたものは食卓に並び、作っていない食材などは英子さんがバスや電車を乗り継ぎ名古屋市栄の行きつけのお店まで買いに行きます。津端さんは、どんな料理にして美味しくいただけたかを絵葉書にして買ったお店に送っています。

                     

                     

                    妻の英子さんは「自分ひとりでやれることを見つけて、それをコツコツやれば、時間はかかるけれども何かが見えてくるから、とにかく自分でやること」を津端さんから教わったといいます。

                     

                     

                    二人の生き方に気負いはありません。季節の巡りの中で自然の恵みに感謝し、雑木林を吹き抜けるそよ風を感じ、陽だまりで丸まっている猫のように満ち足りた時を過ごす。 300坪の土地を耕し、道具を作り、種をまき、水をやる。映画の最後の方のシーンで、夫の修一氏さんは庭仕事で疲れ仮眠をとります。妻の英子さんが起こそうとしたとき、修一さんはすでに息を引き取っていました。その美しい顔をなでる英子さんの姿に思わず涙してしまいました。

                     

                     

                    日本の各地で、今若者たちが脱資本主義的、半市場主義的生活を始めていることを、私は頼もしく思っています。彼らは足元をしっかり見据え、自分の時間を将来のためではなく、今この瞬間を生き生きと生きるために使っています。小さな商いを始める者もいれば、里山の豊かさに気づき、そこで等身大の生活を始める者もいます。

                     

                     

                    映画『人生フルーツ』はそんな若者の生き方を、50年以上にわたって自ら実践してみせることで励ましています。いい映画です。

                     

                    | 自己救済術としての家作り | 23:34 | comments(0) | - |
                    建築家−故・林雅子自邸
                    0

                      世の中にはいろいろな建築家がいます。あまりに先鋭的・抽象的・前衛芸術的な建築は私の体質に合いません。生活感のないミニマリストが設計した空間もだめです。家の中が乱雑に散らかっていても、それを許容・包容できるだけの空間が望ましいですね。私の興味の対象が美術館や公共建築物ではなく、あくまで住宅に向かうのはそういうところに理由があるのです。

                       

                       

                      ですから、写真雑誌の撮影のためにきれいに片づけられた空間を見ると、肝心の生活はどこに行ったのだろうと思うのです。生活者のための住宅ではなく、建築家の才能(95%はモノマネですが)を開陳する場になっては元も子もありません。そんな建築家の「作品」の中に住むのはご免こうむりたいですね。

                       

                       

                      あるいは、見るからに潤沢な資金力にものを言わせて建てた住宅には、どこか品がありません。これはひがみではありません。私の勝手な印象かもしれませんが、資金不足を何とか創意工夫と建築家の情熱で乗り切った建築には、その格闘の跡が残されていて、全体のたたずまいを上品にしています。人間と同じではないでしょうか。

                       

                       

                      お前の話は抽象的過ぎる、もっと具体的に語るべきだという声が聞こえてきそうです。その通りですね。私の好きな建築家の幾人かについては、これまでブログで述べてきましたが、ピーター・ズントー、アルベルト・カンポ・バエザ、カルロ・スカルパをはじめとして、まだまだ紹介しきれていません。槇文彦や谷口吉生の建築の気品についても同様です。

                       

                       

                      潤沢な資金力にものを言わせて建てた住宅はどこか品がないと言いましたが、もちろんそれは建築家の力量不足が資金力によってカバーされているからです。逆に資金力があってもそれに左右されず、独自の質をともなった住宅を設計できる建築家もいます。その一人が今回紹介する故・林雅子氏です。

                       

                      故・林雅子氏・自邸

                       

                       

                       

                      私は建築雑誌を通じて、氏の設計した住宅を見てきました。数件だけですが実物を見る機会もありました。その中で気に入ったのが、国立にある「ギャラリーをもつ家」であり、なんといっても氏の自邸です。「ギャラリーをもつ家」はバブルがはじけて売りに出されました。それを中古住宅で買ってリフォームしたのが建築史家の村松伸氏です。そのうち「中古住宅に住む」と題してブログに書く予定です。

                       

                       

                       

                      今回は、空間の構成の仕方や開口部の取り方、庭のようすをはじめとして、私がさまざまなインスピレーションをもらった林雅子氏の自邸を見てもらうことにします。コメントはしません。百聞は一見にしかず、です。この空間の質はどうやったらできるのか、それについて考えをめぐらせ、感じ取っていただければ幸いです。

                       

                       

                      玄関から入って左手を見ると、この居間と庭が広がる。思わず息をのむ美しさです。

                       

                       

                      居間から食堂を望む。

                       

                       

                       

                      | 自己救済術としての家作り | 12:22 | comments(0) | - |
                      『蘇我馬子の墓』から二上山のふもとへ
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                        前回のブログで小林秀雄の『蘇我馬子の墓』について触れました。その末尾に出てくる大和三山とは、畝傍山(うねびやま)・耳成山(みみなしやま)・天香久山(あめのかぐやま)を指します。万葉集や和歌にも詠われていますね。どれも標高150mから200mに満たない、山というよりも丘陵地と言った方がいいような風情です。

                         

                         

                        大和三山に囲まれた平野部分には、古代の都・藤原京の中心であった藤原宮(ふじわらきゅう)が造営されていました。その際には、大和三山の位置が重要な立地条件になったと考えられています。


                        香具山(標高152.4m・藤原宮跡から

                         

                         

                        畝傍山(標高199.2m・藤原宮跡から

                         

                         

                        耳成山(139.7m・藤原宮跡から

                         

                         


                        京都もいいですが、奈良のどこか開けた明るい雰囲気が好きですね。私は昔、奈良県の生駒市で、小学生と中学生の姉妹の家庭教師をしていたことがあります。先月、たまたま私の誕生日に、妹のトコちゃんからメールをいただきました。三十数年ぶりです。四十歳を越えた妙齢の女性に、トコちゃんと呼びかけるのは恥ずかしいのですが、私の記憶の中のトコちゃんは小学生の時のままです。

                         

                         

                        ブログを書き始めたおかげで、うれしいというか、なつかしいというか、こんな再会もあるのだと感慨しきりです。それ以来、十回以上にわたって、トコちゃんとメールのやりとりをしています。芯の強い、それでいてユーモアのあるトコちゃんからのメールが、今では、楽しみになりました。まだ二十代半ばだった私の話を細部まで本当によく覚えていて、こちらが恥ずかしくなります。

                         

                         

                        彼女は今、奈良県葛城市と大阪府南河内郡太子町にまたがる二上山のふもとに住んでいるそうです。タヌキやイノシシもよく出没するそうです。ネットで検索してみると、素敵な場所です。できたら老後はこんな場所で過ごしたいと思いました。もちろん、斜面に吉村順三の軽井沢山荘のような小屋を建てて。

                         

                        タヌキの、いや、トコちゃんの住んでいる二上山のふもとこれが日本の原風景ですね。私が住んでいる所もこんな感じです。運命に導かれるようにしてそこへ帰ってきました。

                         

                         

                        軽井沢山荘。私が家作りをする際に、最も参考にした建物です。ルイス・カーンのエシェリック邸と同様に、見事なプロポーションです。いっしょに見に行った妻は、「資材置き場?」と一言。私は取り合わず、写真を撮り続けました。

                         

                         

                        山荘の内部から見た風景。正面に見えるのはもみの木。吉村はこの木を中心にして山荘を設計したそうです。

                         

                         

                         

                        そこへトコちゃんが時々差し入れを持ってきてくれます。ワインとピザでランチをして、少しウトウトします。昼寝から覚めて、美味しいコーヒーを淹れます。彼女を見送りながら後ろ姿を追いかけていると、なんとタヌキに変わっているではありませんか。ころころ転げるように坂道を下って行きました。今頃は気持ちのいい穴蔵ですやすや眠っていることでしょう。私は可愛らしいタヌキとランチをしていたのです。

                        | 自己救済術としての家作り | 14:55 | comments(0) | - |
                        思想とは「好み」のことである
                        0

                          私にとって思想とは体系だった理論でもなければ、イデオロギーでもありません。それは年月とともに変化しますが、日々の生活の中で思わず選んでしまう色合いや手触り、独自の質を持つ黙想的な空間、人々の記憶から忘れ去られている人気もまばらな場所、あるいは食材、ようするに私の身体的な記憶と切り離すことのできないものです。

                           

                           

                          今日のわが家の中庭。枯葉が散って、荒涼とした空気感が漂っています。いい季節です。ここで飲む朝のコーヒーは格別です。

                           

                           

                          前庭のはなみずきも色づき始めました。

                           

                           

                          玄関を出て、すぐ右に見えるカツラの巨木。高さ8mはあります。植えた時は私の背丈ほどでしたが、大きくなりました。秋が深まると黄色に染まります。手前はハナカエデ。通称「花の木」と呼ばれています。希少種なので枯れるかなと思ったのですが、もう10年ほどになります。真っ赤に紅葉します。

                           

                           

                          以前ブログでも書きましたが、琵琶湖の北、竹生島が見える辺りの晩秋の荒涼とした風景が好きです。なぜかと言われても、明確に答えることができません。それが「好み」だと答えるしかありません。

                           

                           

                          「好み」はもともと解釈を拒絶しています。説明もできません。たとえば茶道に関して茶人が言ったこと、やったこと、選んだことは、一人の人間から発しているので、人格によって統御されていると思われがちですが、実は支離滅裂なものです。しかし、それを集合化された無意識だと考え、体系化したのが「道」という東洋人が発明した便利なことばだったのかもしれません。

                           

                           

                          普通、「好み」は個人的な趣味の領域だと思われています。しかし、それなら、なぜ秀吉は利休に切腹を命じたのでしょうか。秀吉は一見すると反政治的に見える利休の趣味が、じつは最も政治的な意志にもとづいたものであることを感知していたからです。切腹や斬首に追い込まれた茶人たちにとって「好み」とは、そのままラディカルな意志であり、命をかけるほどの「思想」だったのです。

                           

                           

                          そもそも日本文化が生み出した「思想」とはどのようなものだったのでしょうか。そのことについて私は以前ブログで触れています。

                           

                          『私たちはどこへ行こうとしているのか。』

                          http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=93

                           

                           

                          そんなことを考えていると、突然、小林秀雄の「蘇我馬子の墓」というエッセイを思い出しました。中身は忘れたのですが、そのタイトルから強いインスピレーションを受けていたのでしょう。さっそく全集をひっくり返し、目次をたどると第八巻にありました。そして数十年ぶりに読み返したのです。その末尾を読んで衝撃を受けました。小林はとっくの昔に書いていたのです。しかも私はそこに傍線まで引いています。長い旅をして、ようやく出発点にもどって来たような気がしました。

                           

                           

                          小林秀雄全集第八巻『蘇我馬子の墓』

                           

                           

                          「私は、バスを求めて、田舎道を歩いて行く。大和三山が美しい。それは、どのような歴史の設計図をもってしても、要約のできぬ美しさの様に見える。万葉の歌人等は、あの山の線や色合いや質量に従って、自分たちの感覚や思想を調整したであろう。」

                           

                           

                           

                          | 自己救済術としての家作り | 11:58 | comments(0) | - |
                          『自己救済術としての家作り』をお読みいただいている皆さんへ
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                            今日のわが家の2階から見た風景です。見渡す限りの水田が見えなくなるほど大きくなった丹波栗の木です。5年ほど前に苗木を植えました。植えたときは私の腰の高さほどでした。今はご覧のとおりです。今年は台風が上陸していないので、栗がたわわに実っています。秋の収穫が楽しみです。

                             

                            向こうの山の稜線の先端までが水田の風景でしたが、それが見えなくなりました。でも秋から冬にかけては刈り入れの終わった田んぼが見えます。私にとっては季節感が感じられる家であることが何よりも重要です。

                             

                             

                            家はなるべく小さくし(そのためには小さな家を大きく住みこなす工夫が必要です)、その分を庭に回して、大きな落葉樹を1本植える、というのが私の持論です。庭の手入れには想像を超える時間と手間がかかるので、それを見越してマンションを選んだという方には興味のない話でしょうが。

                             

                            私は安全・安心・便利や、資産価値といった発想で家作りを考えていません。いまの社会では、すべてのモノの価値は交換価値で測られます。すなわち、金銭に換算すればいくらになるかという発想です。しかし、モノには使用価値があります。それはそのモノがある場所、周囲の風景、歴史的な由来、そして何よりそこに住む人の<生き方>によって大きく左右されます。

                             

                            庭に1本の落葉樹を植えても資産価値は高くなりません。しかし、四季折々で姿を変える自然とともに生きることができます。春先の若芽が開く瞬間のみずみずしさ、エネルギーに満ちた盛夏の樹木の濃い緑色、高くなった青い空を背景にした秋の紅葉、自然の織りなすレースのような冬枯れの枝とその間を滑るように飛ぶ野鳥の鳴き声。私にとってはなくてはならないものです。これをいったいどんな数式を使って金銭的な価値に換算するというのでしょうか。

                             

                            大都市のタワーマンションに住んで、高給を稼ぎ、食べるモノに気を使い、こどもは小さいときからお受験を意識して育てる。小洒落たレストランで食事をし、美術館で絵画を鑑賞し、コンサートに行く。そして休みになると海外旅行に出かける。

                             

                            他人の生活についてとやかく言うつもりはありませんが(言ってますね)、何という紋切型で絵にかいたような貧しい生き方だろうと思うのです。そこには独自の生活や時間との向き合い方がありません。じゃあ、お前が考える豊かな生活とはどんなものか言ってみろ、と言われそうですね。もちろん言うつもりです。『100年後の生存戦略−その2・教育』の中で述べるつもりです。

                             

                            しかし今回はそれがメインではありません。これから家を建てようと思っている人に向けて、私の経験を話し、参考にしてもらおうというプロジェクトの告知です。手始めに、私の住居を公開したいと思います。あらかじめお電話いただければ、見学の時間をとります。ただ見るだけでもかまいません。どんな建物であれ、その中に身を置くということが最も大事ですから。画像ではスケール感も、木の香りもわかりません。

                             

                            現在の中庭。クマゼミの鳴き声が激しい雨のように降り注いでいます。

                             

                            プランが具体的に進行している方は、図面を持ってこられても結構です。もちろん相談は無料で行います。ただし『自己救済術としての家作り』を読んで面白い、興味があるという方に限定させていただきます。価値観をある程度共有していなければ、無駄骨に終わりますからね。建築資金が潤沢にある方、社会的ステイタスとしての住宅を考えている方には参考にならないと思います。我が家はチープな作りです。参考になるとすれば、空間の構成の仕方と、植栽くらいです。お気軽にお電話下さい。電話番号:090−6771−6765

                            | 自己救済術としての家作り | 13:02 | comments(0) | - |
                            劣化する日本の中で
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                              わが家の前庭と中庭にはジューンベリーの木が3本あります。秋になるとイロハモミジやオオバモミジが鮮やかに紅葉します。その一方で、イチョウやエゴの木、ツリバナやジューンベリー、カツラの木、ケヤキの黄葉もきれいなので、バランスを考えて植えました。
                               

                              ジューンベリーを植えたときは、私の身長ほど(180センチ)でしたが、10年を経過した今は、ゆうに4〜5mほどになっています。そして、毎年赤いきれいな実がなります。年々実は大きくなり、甘さも増しています。上の方は脚立に登って私が収穫します。それを妻がジャムにしてくれます。手の届く下の方は、先日孫たちがやってきて、キャーキャーいいながら食べていました。

                              前庭の玄関アプローチ脇に植えているジューンベリーです。




                               

                              この時期、わが家の朝食の食卓には全粒粉の薄切りの食パンとジューンベリーのジャムが並びます。その甘酸っぱい味と紅茶の香りは抜群に相性がいいのです。
                               

                              ジューンベリーの食べごろは、ヒヨドリが教えてくれます。つがいでやってきては、甲高い声で鳴くのです。その日から、ヒヨドリとの収穫合戦が始まります。今年は3本ともたわわに実っているので、いくぶん余裕があります。外出先から帰ってくると、かなり食べられているのですが、それでも食べきれないほど残っています。今年は「生りもの」がいいのでしょうか。秋が楽しみです。
                               

                              私の腰の高さで植えた丹波栗の苗木も6mほどになり、今では食べきれないほどの栗が採れます。柿やビワや梅やカボス、ベリー種の実、無花果、栗など、食べられるものが庭で収穫できるのは、なんだか心豊かになりますね。
                               

                              そんなことを考えていると、突然ある記憶がよみがえってきました。旅の途中で軽井沢のセゾン美術館に寄ったときのことです。ゆるやかに傾斜した広大な庭で息をのむ風景に出会いました。紅葉した葉が、落葉樹の枝から解き放たれて、やさしい雨のように間断なく落ち続けていたのです。あたりは晩秋の静寂さに満ちていて、時折野鳥の鳴き声がこだまするだけでした。広大な庭には私と妻の二人だけでした。庭に点在するイサム・ノグチのオブジェも印象に残っています。イサム・ノグチについては、またいつかブログでも取り上げたいと思います。




                               

                              日本社会はあらゆる面で劣化が進んでいます。無理を通せば、道理が引っ込むのです。数日前に言ったことを、言っていないという記憶障害の総理大臣が号令を下しているのですから、当然と言えば当然です。私は、小さな手作りの家と庭に引っ込んで、苗木を植え、秋の収穫の時期を待つことにします。

                              | 自己救済術としての家作り | 13:49 | comments(0) | - |
                              こどもの魂はどこで育つのか
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                                小学2年生の時の担任は神経質な女性の先生で、私は彼女の醸し出している雰囲気が苦手でした。人はだれでも独特の空気感を漂わせていて、幸か不幸か本人には決して感知されません。しかし、こどもはそれに本能的に反応して生きています。犬が相手によって吠え方を変えたり、しっぽを振ったり、まったく吠えなかったりするように。


                                 

                                PTAの授業参観の後、母親から授業に集中せず外をぼんやり見ていることが多いと担任に注意されたと聞かされました。その頃の私はと言えば、ことばを覚えはじめていたとはいえ、自然と一体化し、まるで小動物のような毎日を送っていました。担任にそう見られていると聞いて心外でした。やっぱり自分が感じていたとおりの先生だなと思ったものです。


                                 

                                ○○先生は、野良猫を飼ったこともなければ、河原の水たまりでカメを飼ったりしたことがないのだ。古い神社の床下に住んでいて獲物が落ちてくるのを待っている蟻地獄のグロテスクな姿を見たこともなければ、鮮やかなターコイズブルーに黒の斑点があるカラスの卵を触ったこともないのだ。もしそんな世界を知っていたら、授業に集中することなんかできるわけがない、と思いました。そもそも私にはその頃の学校の記憶があまりないのです。


                                 

                                こどものころ放心していたといっても、それは単にぼんやりしていたとか、何も考えていなかったとか、そういうことではなかったのです。自然の不思議さや美しさで飽和したこころを抱えて生きていたのだ、と言った方が真実に近いでしょう。


                                 

                                ゆっくりとした時間の歩みの中で、たとえば夏の太陽の光にやさしく愛撫されるようにして豊醇に成熟していくブドウの実のように、こどもたちの魂は、外から計算したり、推しはかったりできない全一の成長が約束されていなければなりません。


                                 

                                父の実家は古い大きな農家で、夏休みや冬休みになると帰省して数日間を過ごしていました。敷地は広く玄関へ通じる道を右へ曲がると牛小屋があり、柵の向こうに黒い大きな牛が立っていました。人の気配を感じると奥からのっそりと柵の近くに来て、かいば桶に頭を突っ込んで餌をほしがるのです。



                                私は大きな長い押し切りで草やワラを切り、ぬかと混ぜて牛に食べさせました。上下の歯をすり合わせて餌を食べる時のくぐもった音や大きな眼、角の固い感触など今でもはっきり覚えています。牛小屋の隣には鶏小屋があり、毎朝ワラのなかに産み落とされた新鮮な卵を取りに行き、焚きたての御飯にかけて食べたものでした。


                                 

                                牛小屋の前は畑になっていて、大きな槙の木があり、その隣に土蔵がありました。入口の右側には分厚い板でおおわれた大きな穴がありました。中はもみ殻で一杯でした。掘り返すとサツマイモが出てきました。保存食にしていたのでしょう。それを焼きイモにして食べた時の美味しさは、文字通り筆舌に尽くしがたいものでした。


                                 

                                あれはいつのころだったでしょうか。季節は秋の終りだったような気がします。ひんやりとした土蔵の中に入ると、かすかなカビの臭いと古い書籍や材木の朽ちた臭いがしました。私はその土蔵の空気感が好きでした。積もっているのはチリだけではなく、人間の歴史と時間なのだと分かっていたからでしょう。


                                 

                                入口の左の奥に、私の身長よりも高い大きな甕(かめ)があり、そばに階段がありました。中に何が入っているのだろうと思い、薄暗いのでローソクをつけて階段を上りました。甕の中はなみなみと水が張ってあって、それはまるで深い沼のようでした。水の底は暗く、鏡になった水面に自分の顔が映っていました。その鏡になった水面の下には何か別の世界があるようでした。


                                 

                                自分の顔を水面に近づけたとき、ローソクが一滴かすかな音を立てて、水の中に沈み、白い花びら模様に広がって浮かび上がってきました。私は思わず息をのみました。そして一滴また一滴と蠟を垂らしました。


                                 

                                それは暗い池に浮かぶ蓮の花のようでもあり、夜の運河に散り漂う桜の花びらのようでもありました。私は妖しい花の白さに、いつまでもいつまでも見とれていました。そのうち遠近感が失われていき、いつのまにか、遠い暗い夜空から舞い降りてくる雪片が、自分の顔の上に降り積もってくるような気持ちになったのです。雪片の冷たさを感じた瞬間、私は我に返りました。


                                 

                                今から思うと、少年の私が見ていたのは単なる一滴の蠟だったのか、自分の魂そのものだったのか判然としません。ただ、こうした些細なものにあれほど引き付けられ、幸福感と酩酊感を感じたことは、生涯二度とありませんでした。いや、二十歳のころ、黒澤明監督の映画『デルスウザーラ』の中で、氷河の亀裂の底がこの世ならぬ透明な青さをたたえているのを見たとき、同じような感動を覚えたことがありました。


                                 

                                人は成長するにつれ、社会的にまとっているステイタスなり立場なりに目がいくようになり、その人が漂わせている空気感を感じ取る「嗅覚」は麻痺してくるようです。ことによると、私が建築に興味を持ったのは、一つ一つの建築に表れている空気感の違いがどこから来るのか、それを突き止めたかったからかもしれません。


                                 

                                今思うと、昔は子供の魂を育てるのに格好の場所があちこちにありました。母の実家の木佐上には祖父の設計したモダンな家がありました。二階に上がると立派な書斎があり、書棚には『トルストイ全集』や大槻文彦の『大言海』がありました。夕暮れともなると、二階のベランダから汽車が汽笛を鳴らして通り過ぎるのが見えました。灯りがともった客車は、明るい虫籠が数珠つなぎになったかのようで、人形劇でも観ているようでした。私がその時に感じた、表現しようのない寂寥感と幸福感は今でも生き生きと心中によみがえるのです。

                                 

                                | 自己救済術としての家作り | 21:54 | comments(0) | - |
                                心が長持ちする家
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                                  「自己救済術としての家作り」からスタートしたこのブログも、もうすぐ1年になります。昔のこと(特に幼少年時代)を思い出したり、来るべき世界を構想したりして、書くことは尽きません。
                                   

                                  当初は、政治の話題よりも、日々の暮らしを彩り豊かなものにするための身辺雑記を書こうと思っていました。しかし、私たちの国の歴史や文化を生み出してきた「母胎」が、無責任で知性のない強権的で幼稚な集団によって、なしくずし的に葬り去られようとしているのを見て、黙っていることができなかったのです。そのため、政治的な話題が多くなってしまいました。
                                   

                                  しかし、「自己救済術としての家作り」はまだまだ続きます。自己救済術ということばは、料理研究家の辰巳芳子さんが使っていたものですが、このことばからいろいろなインスピレーションをもらいました。ことばというか概念はとても大事ですね。人間はそれをヒントにして、絶望から立ち直ったり、新しい地平を切り開いたりする存在ですから。
                                   

                                  そもそも救済すべき自己を持っていない人にとっては、自己救済術ということばは抽象的で小難しく聞こえることでしょう。しかし、私は人が懸命になって何かに取り組んでいる姿を見ると、「ああ、ここにも自己を救済しようとしている人間がいる!」と思うのです。
                                   

                                  私の大好きな画家・ルオーにキリストの受難を描いたものがあります。気の遠くなるような時間をかけてカンバスに向かい、絵具を塗り重ねて描いたものです。彼にとって絵具を塗り重ねることは、自分の宿命を自覚することであり同時に救済することだったのだと思います。つまるところ、優れた芸術作品の持つ力は、この自己を救済しようとする願望と祈りの持つ力なのだと思います。それが見るものを打つのです。

                                  小林秀雄はこの絵を一目見て衝撃を受けたと書いています。普通の生活の中にいるキリストです。ルオーと言えば、彫刻家の高田博厚の個展で見たルオーの頭部のブロンズが忘れられません。高田はルオーと親交があったのです。彼の著作『薔薇窓から』は箱入りの赤い表紙で、当時の私の愛読書でした。

                                  ところで、この自己救済という宗教的・哲学的・芸術的な香りのする少し重いことばを、家作りによりふさわしい別のことばで表わすことを思いつきました。それは住む人の「心が長持ちする家」です。
                                   

                                  私は家を作るにあたって重要だと考えていたことをノートに書きとめました。今から考えると、それらはすべて住む人の「心が長持ちする家」をめざしていたことが分かります。斬新なデザインや社会的なステイタスを象徴するといったことにはまったく関心がありませんでした。もちろんステイタスもお金もありませんでしたが。
                                   

                                  それは最初から100点満点のきれいな完成された家ではなく、時間の経過とともに徐々に完成に近づいていく家でなければなりませんでした。家族の暮らしに馴染み、風景に溶け込み、季節の巡りとともにある、つまり時間によって洗われて美しくなっていく、そういった家を構想していたのです。さらに言えば、廃墟となって朽ちていく姿をも想像していました。
                                   

                                  そのために私がとった方法は、空間の構成の仕方であり、家の周りに落葉樹を植えることでした。大壁にしたので構造材は見えませんが、今でも4寸の柱や義父が提供してくれた梁や桁を、壁や天井の裏に見ています。


                                  外観は樹木に覆われて見えなくなってもかまわないと思っていました。20年が経過して、樹木は大きくなり、家と敷地全体を覆うほどになっています。四季折々の変化の中で新たな発見があります。雨が降っているときは軒先から落ちるしずくのリズミカルな音に耳を澄まし、あるときは雪が積もった早朝の景色に息をのみます。台風に対しても備えなければなりません。暴風でケヤキの大木が途中から無残に折れた時もありますが、それを剪定して環境にふさわしい形に整えていくのも楽しみの一つです。


                                  ここ1週間ほどで、見る見る間に緑が勢いを増してきました。緑陰小舎は目前です。

                                  外壁の傷んだところを取り替え、塗装し、テラスの板を張り変える。秋には途方に暮れるほどの落ち葉を前にして、処理の仕方を考えなければなりません。焚き火をしたり、焼き芋をしたり、腐葉土にしたり。つまり、家を巡って生じる様々な問題を、義務ではなく楽しみだと考えることで、住む人の心が長持ちするのです。
                                   

                                  壁紙を張り替えたり、ちょっとした小物を置いたり、あるいは照明器具を変えることで部屋の雰囲気は変わります。私の経験では、お気に入りの椅子と照明器具は空間に大きな効果をもたらします。とくに照明器具は、シーリングライトではなく、サイドライトに変えます。天井につけられた蛍光灯で部屋全体を隈なく明るくする必要はありません。デスクスタンドや、フロアスタンドで必要なところだけを照らすのは、陰翳と奥行きが出ていいものです。日本には行燈の文化があったのですから。そのほか色々な工夫によって、住まいの表情は変わります。そうやって住む人の「心が長持ちする家」は作られていくのです。

                                  今日の午後のリビング。左端の吉村順三デザインの「たためる椅子」は実際たたんであちこちに持っていけるので便利です。デザインも飽きが来ません。



                                  左端のスタンドは、『通販生活』で買ったもの。角度も長さも自在に調節できるので、読書する方にはおすすめです。右端に見えるのはアルネヤコブセンのフロアスタンド。気がつけばわが家の照明器具はアルネヤコブセンのものが多いですね。食卓の椅子もセブンチェアです。

                                  | 自己救済術としての家作り | 17:36 | comments(0) | - |
                                  今日は3月3日、雛祭りです。
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                                    わが家では毎年2月になると仏間にお雛様を飾ります。台座を組み立てたり、ひな人形を取り出して並べたりするのにけっこう時間と手間がかかります。だから、妻に「さあ、今年もお雛様を出さなければ。手伝ってよ」と言われると、まだ2月なのにとか、予定があるのにとか思って少々おっくうになるのです。でも、ひな人形を取り出しながら、娘が幼かった時のことを話したり、亡き父がひな人形の前で娘を抱っこしていた時のことを話したりしてそれなりに楽しい時間を過ごせるのです。そうやって完成した雛段がこれです。
                                     


                                     

                                    この仏間はもと塾の教室でした。母が8年前に亡くなり、本家に仏壇を放置しておくわけにもいかず、考えた挙句に塾の教室を大改造することにしました。四方をコンクリートの壁に囲まれた小屋組みの空間の中に仏間を作るという私のアイデアに、義父は反対しました。塾だったところを仏間にするなど、先祖をないがしろにすることになる、というわけです。

                                    しかし、私はル・コルビュジェのラ・トゥーレット修道院の空間からインスピレーションを得ていました。それと日本の茶室を融合すればいい空間ができるはずだと確信していたのです。


                                    計画の当初、義父に仏間を作りたいと言ったところ、倉庫にある柱と桁と床板を提供してくれるというではありませんか。家を作るときにも材料を出してもらったので、本当にありがたいと思いました。そういうわけですから、スポンサーの意向を無視することはできません。ここは安倍政権の意向を忖度するメディアのように、いったんは「自主規制」するしかないと考えました。

                                    しかし、他にいい案が浮かびません。どう考えても1辺が8メートル、天井の高さが6mある、あの空間の中に立方体を置くしかないと思ったのです。さっそくスケッチと図面を描いて、義父に見せました。しかし、頑固な義父はとりあってもくれません。

                                     

                                    どうしたものかと色々作戦を練り、いいことを思いつきました。義父が気に入っている大工のナベさんに説得してもらおうと思ったのです。私の家を建てる際に義父と知り合いになり、二人は意気投合していたのです。

                                    ナベさんの説得は功を奏し、義父はしぶしぶ承知してくれました。後で聞くと、ナベさんもどんな空間になるかイメージが湧かなかったそうです。義父がイメージできないのも無理はありませんね。

                                    工事が始まり、ナベさんの知り合いの業者さんが来て、「何また変わったことしよんのかえ?家ん中に家を作るつもりな?」と大分弁丸出しで、興味深そうに尋ねました。こうして約二カ月余りをかけて「家ん中に家を作る」工事は完成しました。以下が完成した仏間兼和室兼茶室の画像です。


                                    1辺が5400mmの正方形のこの空間には凝った意匠は何一つありません。床柱も大工さんが無償で提供してくれました。母が使っていた茶道具と、季節柄、わが家に先祖代々伝わるお雛様の掛け軸がかけられているだけです。



                                    床の間と仏壇は両サイドの引き戸によってすべて隠すことができます。閉めるとこうなります。



                                    お雛様の反対側。障子は「吉村順三障子」をアレンジしました。桟が細いと上品で柔らかな空間になります。



                                    この空間には、机といすが並べられていました。義父が反対したのもわかります。画像では空間の雰囲気は伝わりませんが、桧の木の香りがする簡素で落ち着ける空間です。



                                    完成した後、義父が出来上がった仏間を見て一言。「ほお〜。こげな仏間ができるんなら、もっといい材料をやったんじゃがのう〜」

                                    私は心の中でつぶやきました。「いいえ、お父さん、十分いい材料をいただきました。おかげで、こどもたちも、孫たちも先祖に手を合わせることができます。心の底から誰かを頼りたくなったり、救いを求めたくなったりした時に、この空間はきっと心の支えになると思います。ありがとうございました」と。

                                    | 自己救済術としての家作り | 13:28 | comments(0) | - |
                                    今日は日曜日なので・・・
                                    0

                                      今日は2月21日、日曜日です。朝起きて2階の窓から遠くの山の稜線を見ると、快晴だというのに春霞のせいか、はたまた花粉とpm2,5のせいか、煙っています。風は強く、いぜんとして冷たいですね。
                                       

                                      こんな日は、部屋にこもって音楽を聞いたり、読みかけの本を読んだりして過ごします。以前ブログでも書きましたが、http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=107  今日は『鴨川食堂』のある日です。夜の10時に、忽那汐里の笑顔に会えるのを楽しみに今日1日を過ごそうと思います。

                                      そういうわけで(どういうわけじゃ?)、中断していた「自己救済術としての家作り」を再開したいと思います。今回は居心地のいい家を作るルールその1、「対角線を意識する」です。
                                       

                                      以前書いたように、居心地のいい家は、平面図がワンルームになっています。ワンルームといっても、もちろん犬小屋ではありません。これはさまざまな住宅の平面図を見ているうちに気づいたことですが、かの中村好文さんも言っています。私の好きな吉村順三の「軽井沢山荘」も、ルイス・カーンの「エシェリック邸」と「フィッシャー邸」、堀部安嗣氏の一連の住宅、内藤廣氏の「筑波・黒の家」も元をたどればワンルームから発想されています。たぶん。
                                       

                                      なぜワンルームか?空間を小さく区切れば、視線が壁によってさえぎられ、狭く感じるからです。ワンルームだと、視線がさえぎられることなく、実際よりも広く感じられます。中村さんの師匠である吉村順三氏も「家の中で対角線が意識されれば、部屋に奥行きが出て、同じ広さでも家の感じはずっと広くなるね」と言っています。
                                       

                                      私は平面図(空間の善し悪しは平面図で90%決まります)を描く時、1辺が9メートルの正方形からスタートしました。水まわりはその外に配置します。こうすることで、余分な廊下や収納に空間を取られずに済みます。次に1辺が9メートルの正方形をさらに4つの正方形に区切り、その分割された正方形をさらに対角線を意識してずらしたのです。窓の配置も視線ができるだけ遠くまで届くようにと考えて決めました。もちろん外の景色や植栽の位置も意識していました。こうやってできたのが以下の空間です。

                                      私の書斎兼渡り廊下。この廊下が塾棟につながっています。




                                      これは、書斎を反対方向から見たもの。右側の障子をあけると和室です。ちなみにこの障子の寸法は縦が2400mmあります。書斎の床は幅広の杉板を張っています。



                                      書斎からテラスを見たところ。対角線を意識するということの、私なりの解釈です。アールの部分は米松で、キシラのマホガニーを塗布した後、シルバーグレイを塗り、拭き取りで仕上げています。ピカピカがいやだったので古びた風情にするためです。でも築20年になるので、その必要もなくなりました。



                                      画像は和室からリビングを見たところです。シナベニヤにラッカー塗装しただけの、簡素この上ない空間です。目地を取らず、突き付けにしてもらったので大工さんに苦労をかけました。



                                      和室から見た中庭の風景。右側が渡り廊下で、途中に書斎があります。書斎の寸法は3500mm×5500mmです。



                                      リビング。どこにでもある平凡な空間。壁は和室同様すべてシナベニヤにクリアラッカーを塗って仕上げています。さすがにこの空間を突き付けでやってもらうのは気がひけたので、目地を取ってもらい、白のコーキングで埋めました。もちろん塗装はすべて自分でやりました。珪藻土や漆喰の塗り壁は、コストの関係で断念しました。要は空間と空間の位置関係であり、光を制御するための壁をどれだけ作るかで空間の質は決まると考えていたので、素材にはそれほど頓着しませんでした。



                                      夜になるとこんな感じです。チープでも落ち着きます。照明は思っている以上に空間の質を高めてくれますが、それはまた今度。



                                      リビングのソファに座って外を眺めたところ。四季の移り変わりが素晴らしい。植栽はすべて落葉樹なので今が一番殺風景ですね。植栽も一年に一本ずつ、増やしていきました。金銭的に余裕がなければ、完成時期を延ばせばよいのです。躯体が完成してから10年くらいかけて徐々に内部を完成させることには思わぬメリットがあります。家を完成させながら、春夏秋冬の風情を味わい、光が差してくる方向を確認し、どこに何を置くか考えることができます。家作りは自分との対話であり、自己救済術なのです。



                                       

                                      もっとも、理屈では分かっていても、居心地のいい空間を作る決め手になるのはその人の想像力であり、感性であることは言うまでもありません。実際にその空間に身を置くことによって、その空間の質やエッセンスを吸収するのが一番ですね。
                                       

                                      住宅展示場を見学した際、妻が「豪華だけど、なんだか落ち着かないし、居心地があまり良くないわ。この空間で生活することが想像できないのよね。私たちはやっぱり貧乏性なのかもね」とつぶやくのを聞いて、私は「しめた」と思ったのです。

                                      | 自己救済術としての家作り | 14:29 | comments(0) | - |
                                      ささやかな贅沢
                                      0

                                        毎年この季節になると、決まって注文する和菓子があります。少々高いのですが、季節限定のものだということもあって、思い切って注文します。製品が届いてから賞味期限が3日しかないため、一度に多く注文できません。毎回、10個入りのものを3回ほどに分けて送ってもらいます。それが岐阜県中津川市にある満天星(どうだん)一休の『杣(そま)の木洩日』です。

                                        栗は宮崎県の高千穂郷・日之影から空輸されたものを使い、干し柿は信州・市田。天竜川の朝霧・夕霧に包まれ、秋の木洩れ陽を一杯に受けた「俺らほうの干し柿」だそうです。


                                         

                                        私は食通ではありません。松江・金沢・京都には和菓子の名品がありますが、母が茶道をしていたこともあって、旅行に行ったときに買ってくる程度です。そもそも食べることには余り興味がありません。ただ、どうせ食べるなら美味しいものを食べたいと思っているだけです。新米の季節に、ふっくらと炊き上がった御飯と漬物、美味しいみそ汁、アジの丸干し、出し巻き卵、切干大根のおひたしをおかずに食べる朝食ほど美味しいものはありません。食後のお茶と梅干を加えれば、我が家の和食のフルコースです。これ以上のものはいりません。一流レストランのフレンチのフルコースも、老舗の割烹の和食も、我が家の朝食にはかないません(笑)。
                                         

                                        午後3時ごろ、枯れ葉が舞い散る荒涼とした風情の中庭を見ながら、妻が立ててくれたお抹茶とともに杣(そま)の木洩日』をいただきます。干し柿の甘みと栗の香りが絶妙の組み合わせとなって口の中に広がります。そもそも、こういった自然の恵みそのものの素朴な味が、私の体質に合っているのです。

                                        現在の中庭。この晩秋の荒涼とした風情が気に入っています。



                                        家を建てたとき、暖炉がほしかったのですが、大分の気候と資金を考え断念しました。そこで庭に写真のような自然の「暖炉」を作り、ここで炎を見てくつろぐことにしました。お金が無ければ無いで、工夫すればなんとかなるものです。枯葉や枝が燃えるときのはじける音や匂いは、人間の中に潜んでいる原始的な本能をよみがえらせてくれます。最後にサツマイモを放り込んで終わりです。


                                         

                                        私が少年だったころ、農家の庭には決まって柿や栗、いちじくやビワ、ゆず、夏ミカンの木が植えられていたものです。それを祖父母の目を盗んでは「収穫」し、口いっぱいに頬張ったものです。

                                        幸福は、四季の循環と自然の命の中に身を置いて、時が満ちるたびに、道理に従って一つずつ義務を果たした結果与えられるものです。私は興味の赴くままにあちこちで建築を見てきましたが、贅を尽くしたシンメトリーの西欧式の大庭園よりも、情感にあふれ、清潔で簡素で、住んでいる人の心配りが生き届いた、使い勝手のよさそうな農家の庭が好きです。それは、そこで営まれる生活そのものです。生活の楽しみと、食卓の必要を満たす無心の造形が、何よりも私の心を打つのです。


                                        昔はこういった佇まいの農家がいたるところにありました。私の実家を思い出します。魂の揺籃期に、この風景から受けた影響は測り知れません。なんだか、涙が出てくる風景です。福島県の飯館村にはこういう美しい風景があちこちにあったはずです。それが一夜にして高濃度の放射能汚染地帯になり、生活のよりどころを根こそぎ奪われました。一方で東京電力は過去最高益を出しています。




                                         

                                        | 自己救済術としての家作り | 00:20 | comments(0) | - |
                                        暮らしをデザインする−中村好文論・最終章
                                        0

                                          私には、「どうしてもやりたいこと」がありません。むしろ、できない、やりたくないことの方が多いですね。その一つが、都会の高層マンションで暮らすことです。どんなにお金があっても、それだけはごめんこうむりたい。一人で気ままに暮らせていいではないか、安全、安心、便利が手に入るのだ、と考える人は多いかもしれませんね。
                                           

                                          しかし、そこで暮らすことによって失うものを、私は即座に挙げることができます。それは私の生活といのちにとって本質的で欠くことのできないものです。なにもヘンリー・ディヴィッド・ソローやレイチェル・カーソンを気取って文明批評をしようというつもりはありません。もともと田舎育ちの人間ですから、都会が苦手なだけです。

                                          でも、ロンドンやボストン、パリのモンマルトル界隈は好きですね。こういう都市の小さなアパート暮らしなら、喜んで受け入れると思います。時間の蓄積が感じられる場所だからです。建築においても、人間の<生>においても、時間の果たす役割は想像以上に大きいのです。でもこの話は又いつかしましょう。

                                           

                                          一人で暮らすことには、全く抵抗はありません。しかし、それが都会の(高層)マンションだとすれば、遠慮したいです。それよりも、中村さんの「休暇小屋」のほうが断然いい。鴨長明の方丈の庵、良寛さんの五合庵、コルビュジェが晩年住んでいたカップマルタンの休暇小屋、ソローの森の中の小屋、そして中村さんの休暇小屋。

                                          鴨長明の方丈の庵。長明さんは、何が無駄と言って、住居に金をかけるほど無駄なことはない、と言っています。その結果たどりついたのが、このプレファブ住宅です。あらゆる余分なものを捨て去った長明さんですが、楽器の名手だったこともあり、折琴と継琵琶だけは離さず、部屋の中のとっておきの場所に立てかけてあったそうです。



                                          良寛さんの五合庵。「欲無ければ一切足り、求むるあれば万事窮す」



                                          コルビュジェが晩年住んでいたカップマルタンの休暇小屋。隣が「ひとで軒」というレストランで、コルビュジェはそこで食事をしていたそうです。



                                          ソローの森の中の小屋。ソローの小屋には風呂もトイレもありません。当然、外で用を足さなければなりません。夏はいいとしても、冬は大変です。



                                          そして、中村さんの休暇小屋。こうやって見て来ると、やはり中村さんの小屋が断然良い。思想的に共感はしても、最低限の文明生活は必要ですね。


                                           

                                          私は第一回目のブログ記事「自己救済術としての家作り−その1」の中に次のように書きました。「ただ、事物にまっすぐ相対できるような、ゆったりとした時間が流れる空間であること。室内は抑制された光と静けさに満ちていて、心理的に深く下降していける落ち着きがあること。京都などの町家の坪庭を介して引きこまれるひんやりとした光線の質を思い出していました。(中略)季節の移り変わりを感じられること。図面を引きながら、思い出と時間だけで満たされている黙想的な空間を思い描いていたのです」と。
                                           

                                          中村さんの話をしなければならないのに、脱線してしまいました。でも脱線ついでに、もう一つだけ。私は現在の住処を気に入っています。どこにでもある、ごく平凡で簡素な住宅です。でも、もし、宝くじに当たったら小屋を作りたいと考えています。場所は琵琶湖の北、湖北です。妻とよく旅行して、二人が気に入った場所です。葦の生い茂る浜辺を見渡せる高台に、吉村順三の軽井沢山荘のような小屋を作り、そこで晩年を過ごしたいですね。
                                           

                                          夏は湖面を吹きわたる風の音を聞き、秋は寂漠とした風情の中で紅葉を観賞し、吹雪の夜は(湖北は北陸地方の天気に近く、冬は五十センチの積雪も珍しくありません)薪ストーブでパンを焼きます。そして春になれば山菜を取りに山に入る。そうした季節の巡りとともに生きる生活を思い描いているのです。
                                           

                                          話を元に戻しましょう。私は中村さんと価値観を共有しているというか感性が似ています。従って、生き方も似てきます。中村さん曰く、
                                           

                                          「建築でも家具デザインでも、独創性とか新奇性とか、話題性だけを競うのは本筋じゃないと思うな。僕はジーンズみたいに基本的には流行に左右されない普段着の定番みたいな住宅や家具が作りたいんだよ。人目を引くよそ行きのお洒落な服を作るテイラーじゃないわけ。着ていることを忘れるぐらい着心地のいい普段着。質のいい木綿地で、しっかりした縫製で、洗えば洗うほど風合いが良くなり、愛着の増す、ジーンズのような住宅や家具を作る腕の良いテイラーになりたいんだ」
                                           

                                          建築にはその時代の流行が表れます。住宅も例外ではありません。新しくできた住宅地に行くと、ステレオタイプの「何々風」といった住宅が並んでいます。そんな中で、最先端の技術や素材を駆使した独創的なアイデアの空間を作ることは、建築家にとっては、魅力的なことです。でも、中村さんは言います。
                                           

                                          「でもね、僕はイヤなんだよね、そんな<作品>の中に住むのは。もし自分が住み手だったら、どんなに画期的な住宅だと言われても、建築家の自己満足のために日々の暮らしを犠牲にすることはしないし、新奇な建築的アイデアのために、なけなしの予算を使うことは許さないと思う」と。
                                           

                                          設計するとき、施主から自分の信念に反することを要求されると、ひたすら抵抗します。そして、施主にとっても建物にとっても、こうしておいた方が絶対に良いと思うことは譲らない。判断に迷ったら、建築家としてではなく、僕という人間を信じて任せて下さい、と言うそうです。
                                           

                                          「設計には建築的な知識や経験だけではなく、モノの見方、感じ方、考え方、つまり、その人のすべてが出る。自分の思いを伝えるというのは、説得力の問題じゃなくて全人格的なキャラクターの問題じゃない?建築を愛し続けてきた、本を読んだ、映画や音楽にも熱中した、世界各地を旅して人々の暮らしをつぶさに観察してきた、そして、その都度、自分の肌で感じ、自分の頭で考えてきた、といったこれまでの経験があるから、僕を信じて任せて下さい、悪いようにはしませんから、と言うんです」
                                           

                                          ここには、少しでも有利な情報を求めて右往左往する現代人が忘れがちな、極めて重要なことが述べられています。それについては、次回のブログ『感情の劣化をくいとめるために』で詳しく述べたいと思います。

                                          | 自己救済術としての家作り | 18:40 | comments(0) | - |
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