私の政治的立場は護憲であり、憲法九条を「世界情勢に合わせて」純化するという立場です。個人的なことを言えば、私はこれまでいかなる政治的・宗教的団体にも所属したことがなく、選挙の時は自民党以外の政党に投票してきました。
民主党にも投票しましたし、前回は共産党に投票しました。しかし、政党にはあまり期待していません。したがって、自分が投票した政党が惨敗しても落胆することもありません。その国の政治のレベルは国民のレベルですから、過剰に期待してもしようがありません。
国民が、自分の経済的利益だけを考えて社会的な影響力を持つ勢力にすり寄るのをやめない限り、政治は変わりません。少子高齢化が進み、人口減少社会の中で格差が固定化され、原発事故の後始末という永遠の課題を背負った国が、依然として『富国強兵』路線を突き進むのは、破滅への道を歩んでいるとしか思えないのです。
私の考えは悲観的でしょうか。しかし、「現実主義」を標榜し、弱者をかえりみず、強権的な空威張りを続ける、冷笑主義(シニシズム)と虚無主義(ニヒリズム)に侵された集団にくみすることがどうしてもできないのです。
こういう連中に金と権力と軍隊を持たせれば国家は滅びる、というのが歴史の教えです。日本は「弱小国」として、しかし、世界に向かって堂々と主張できる普遍的な価値の唱導者になるしかない、と私は思います。
前置きが長くなりました。護憲派の欺瞞を乗りこえるために考えなければならないもう一つの点について検討します。
2:日本が集団的自衛権の行使を法制化したことは、すべてとは言わないまでも、国際的には歓迎されているという事実。
についてです。
なぜ日本の集団的自衛権が、いわゆるアメリカを始めとする有志国連合に歓迎されているのか。
それは、これまで日本は世界の平和にただ乗りしていると見なされていたからです。日本だけ「兵役逃れ」をするのはけしからんというわけです。ここにきて、日本もようやく「武力行使」という「乗車券」を買うようになったと認識されたのです。
つまり、国際社会は日本の軍事力を徴集しようとしていたのです。護憲派はこの現実的趨勢に対して、それと拮抗するだけの理念を提出しなければなりません。
その理念こそは、憲法九条を根拠とする良心的兵役拒否の権利を国家レベルにまで高めることで生まれる「積極的中立主義」です。前に述べたように、良心的兵役拒否をした場合、その権利を行使した者には、必ず、代替的役務が課されます。この代替的役務が「積極的中立主義」です。これは安倍政権の「積極的平和主義」に対抗するものです。ことばは似ていますが、中身は全く違います。
まず自衛隊を軍隊として認め、その機能を個別的自衛権の範囲内に限定する旨を憲法に規定する。その際、解釈改憲の余地がない明文の規定を作る。たとえば「理由のいかんにかかわらず、またその規模を問わず、日本国内に他国の軍事基地を置いてはならない」というような。次に自衛隊を2つの組織に再編する。
1:個別的自衛権(日本の領土・領海・領空に限定する)と積極的中立主義を実行する軍事部門。
2:日本だけではなく世界で活躍することを前提とした、先進の装備を備えた国際災害救助隊。
当ブログ、
『国を守るということ−忘れられないシーン』
http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=22
をご覧ください。
積極的中立主義は、A国とB国が争っている時、一切の代償を求めず、「贈与」として、紛争当事国の両方を援助するという思想です。その条件は以下のようになります。
1:援助は非軍事的なものに限る。死傷者の救助や破壊されたインフラの復旧、食糧や薬などの物資の運搬など。ただし、一方だけを援助しない。損得やイデオロギーを超えて両方を平等に援助する。
2:援助するときは主権を侵害しないように、相手国の同意を必要とする。
以上の条件のもとで、自衛隊は紛争地帯で活躍します。胸と背中に日の丸をつけ、それがやがては国際赤十字のシンボルのようなものとして世界に認知される日をめざして。そうなった時、自衛隊は、国を守り災害救助に駆けつける名誉ある組織として位置づけられます。名誉を重んずる若者の入隊も増えることでしょう。
その結果、国民は、平和のために自衛隊に「ただ乗り」するのではなく、国を守るということは、国民と自衛隊がともに担わなければならない名誉ある崇高な仕事だと認識するようになります。
そして、この理念を世界に向けて発信するのにふさわしい政治家は山本太郎氏を置いて他にいません。なぜなら、彼ほど反対勢力から罵倒され、顰蹙を買い、無視されたにもかかわらず、初心を貫いている政治家はいないからです。以上、アウトラインだけを述べました。少なくとも野党はこの程度の理念を掲げて、選挙を戦ってほしいものです。