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卑怯者の島: 戦後70年特別企画
卑怯者の島: 戦後70年特別企画 (JUGEMレビュー »)
小林 よしのり
2015年に読み、感動した本(漫画)です。個人的には、これは小林よしのりの最高傑作だと思っています。『堕落論』とあわせて読んでほしいと思います。左右に関係なく、あなたが絶えず仮の足場を求めて思考を継続する意思を持つなら、避けて通れない著作です。
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日本列島の全原発が危ない! 広瀬隆 白熱授業  DAYS JAPAN(デイズジャパン)2018年1月号増刊号
日本列島の全原発が危ない! 広瀬隆 白熱授業 DAYS JAPAN(デイズジャパン)2018年1月号増刊号 (JUGEMレビュー »)
広瀬隆
広瀬氏をアジテーターだの、オオカミ少年だの、悲観主義に過ぎると言って批判する人がいる。しかし、ブログで何度も述べてきたように、真の悲観主義こそがマインドコントールによって奴隷根性のしみ込んだ私たちの精神を浄化してくれるのだ。そもそも無知では悲観が生まれようもないではないか。国などいくら破れても結構。せめて山河だけでも次世代に残そうと考える人ならぜひとも読むべき本である。いや、これから幾多の春秋に富む若い人にこそすすめたい。
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知識人とは何か (平凡社ライブラリー)
知識人とは何か (平凡社ライブラリー) (JUGEMレビュー »)
エドワード・W. サイード
いわゆる「知識人」なるものが絶滅して久しい。しかし、サイードの言う知識人の定義は時代がどんなに変わっても常に新しい。「知識人とは亡命者にして周辺的存在であり、またアマチュアであり、さらには権力に対して真実を語ろうとする言葉の使い手である」高校生や大学生にはぜひとも読んでほしい本です。
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磯崎新と藤森照信の茶席建築談議
磯崎新と藤森照信の茶席建築談議 (JUGEMレビュー »)
磯崎 新,藤森 照信
この本は茶室を巡る様々な建築的発想・知識の宝庫です。それにしても磯崎新氏の驚くべき記憶力と該博な知識には驚かさされます。建築史を語るには欠かせない二人の対談です。時がたつのを忘れさせるほどの面白さでした。
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チャヴ 弱者を敵視する社会
チャヴ 弱者を敵視する社会 (JUGEMレビュー »)
オーウェン・ジョーンズ,Owen Jones
【本書への賛辞】

「怒りが生んだ、最高の本」
──ガーディアン紙

最高の論争がみなそうであるように、知性に裏打ちされた怒りが本書を支えている。
──エコノミスト誌

暴動や世界中に広がったオキュパイ運動に照らして考えると、分断社会に関する著者の鋭い分析は、
不気味なほど未来を予知していたことがわかる。
──アートフォーラム誌

情熱と、思いやりと、すぐれた道徳性が結実した仕事だ。
──ニューヨーク・タイムズ紙

政治の定説を見直す大胆な試み。著者は戦後のイギリス史を縦横無尽に往き来し、
階級、文化、アイデンティティといった複雑な問題を軽々とまとめてみせ、
結果として「階級」問題に火をつけ、大きな効果をあげている。
──インディペンデント紙

いまの制度が貧しい人々を見捨てていることに対する苛烈な警告──それが本書だ。
──ブログサイト「デイリー・ビースト」

ジョーンズは、「地の塩」だった労働者階級が政治のせいで「地のクズ」と見なされるようになった経緯を見事に説明している。
──タイムズ紙

この本は、新しいタイプの階級嫌悪と、その裏にあるものを痛烈にあばいて見せてくれる。
──ジョン・ケアリー(The Intellectuals and the Masses著者)

これは「イギリスはおおむね階級のない社会である」という考え方への、論理的で情報満載の大反撃だ。
──オブザーバー紙

情熱的で示唆に富む……この声が届くことを心から願う。
──スコットランド・オン・サンデー紙
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フェイクニュースの見分け方 (新潮新書)
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烏賀陽 弘道
私は政治的な言葉と詩的言語の間を、その振幅が大きいがゆえに、往復することによって精神を活性化させています。政治的な文章を読むときに気をつけていることは、ファクトとオピニオンを区別することです。これはイロハのイだと思っていたのですが、今はお互い罵詈雑言の投げつけ合いで、言論空間がいびつになっています。これは今の政治を反映したものでしょう。菅官房長官が「問題ない」「その指摘は当たらない」などといったコミュニケーション遮断語を頻繁に使いだしてから、この傾向は加速しています。言論空間のゆがみを正し、正常な論争が復活することがあるのでしょうか。地に足がついた生き方をしたいなら、まず気分に流されず、事実を見極めることから始めなければなりません。事実を提示しないジャーナリストは、ジャーナリストではありません。そのことを確認するためにも本書は必読です。本物の読解力をつけたいと考えている中高生には特にお勧めです。
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 (JUGEMレビュー »)

紹介していない本が山のようにあります。数日前にこの本を本棚の奥から引っ張り出し再読しました。いや〜面白かった。。とにかくこの本のことを忘れていた自分が信じられない。読んでない人に熱烈に勧めます。ハイ。
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チェンジング・ブルー――気候変動の謎に迫る (岩波現代文庫)
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大河内 直彦
アインシュタインの名言のひとつに、「過去から学び、今日のために生き、未来に対して希望をもつ。大切なことは、何も疑問を持たない状態に陥らないことである。」があります。
本書は文系・理系を問わず、高校生や大学生必読の本です。単に気候の科学を紹介しただけではなく、科学者たちのさまざまな逸話を紹介しながら、科学における知識・研究の積み重ねの重要性を教えてくれます。この本にのめり込むかどうかが、あなたの知性のリトマス試験紙になります。受験勉強的発想の狭隘な世界観を粉砕してくれるかもしれません。
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見て見ぬふりをする社会
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柳澤 協二,伊勢崎 賢治,加藤 朗
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英語の実際的研究 (1969年)
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秋山 敏
高校生にとって、今でも一押しの不朽の名著。でもこの本をことを知っている英語教師は少ないと思います。是非復刊してほしいものです。
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安倍首相から「日本」を取り戻せ! !
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泥 憲和
まともな言説は、誰にでもわかる易しい言葉で書かれています。そして、それが本物であればあるだけ、真実を直視する勇気のない、臆病者からバッシングを受けます。安倍政権や維新の会のヤクザ議員からバッシングを受けない言説は何のインパクトもない、ニセモノだと言ってもいいくらいです。泥さんの発言は、間違いなく政権にとって都合の悪いものだったのです。表紙の写真はコワいですが、この本を読めば泥さんの優しい心根に触れることができます。
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エドワード・スノーデン,青木 理,井桁大介,金昌浩,ベン・ワイズナー,宮下紘,マリコ・ヒロセ
2017年4月18日、朝日新聞がようやく「パノプティプコン」を取り上げました。遅すぎますね。
これから先の日本社会は、ますます荒廃が進み、国民の不満が頂点に達し、やがて爆発します。それを未然に防ぐために、国は国民の監視を強化します。
実際アメリカでは「愛国者法」により、電子メールや携帯の通話履歴が監視の対象になっています。誰が、いつ、どこで、何を読んで、誰と通信を交わしたか、すべて国に筒抜けです。
「パノプティプコン」とはフランスの哲学者フーコーが用いた概念ですが、国民が刑務所の囚人のように監視される体制を言います。監視者の姿は見えませんが、囚人は監視者不在でも、監視を意識することによって管理統制されるのです。これを「パノプティシズム」と言います。
このシステムから解放されるためには、権力がどう管理・統制しようとしているかを知らねばなりません。この本はそれを知るための第一歩です。あなたが無知のまま、奴隷の人生を送りたければ、読む必要はありません。
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日本力
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松岡正剛,エバレット・ブラウン
テレビを始めとするメディアを通じて、何かといえば日本はスゴイ!と叫んでいる、あるいは叫ばないと身が持たない人たちに読んでもらいたい本です。だってそれは日本人がまともな思考をしてこなかった、今もできていないことの裏返しでしかありませんからね。日本スゴイと叫んでいる人を見ると、自分が持っている劣等感をこんな形でしか表現できないのかと思って気の毒になります。日本スゴイ!だからどうしたの?あなたは何をやりたいわけ?
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佐藤 正明
今の政治状況に対して、まともに反応すればするほど、こちらがアホに思えてきます。正面突破は犠牲者が出るだけでなく、精神的にも疲労困憊しますからね。こういう時代の表現方法は、もはや風刺とブラックジョークしか残っていない気がします。
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A.ミラー
アリスミラーのこの本は、塾を始めるきっかけになりました。ただ生活のためだけなら、他のことをしていたでしょう。『才能ある子のドラマ』とあわせて、当時の私には衝撃的な本でした。人生はどこでどう転ぶかわかりません。人間の奥深さを知ることで、何とか自分を維持していたのです。この本を読むと当時のことが、ありありと思い出されます。ある意味で、私の人生を方向づけた本かもしれません。
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NHK「東海村臨界事故」取材班

2月18日のブログでも書きましたが、仕事のために読むビジネス書の類は、最終的には効率を重視し、最小の資本と労力の投下で、いかにして最大の利益を上げるかということに尽きていると思います。そのための働き方改革であり、そのための賃上げです。そのための人心掌握術であり、顧客対応です。ビジネス書を読めば読むほど、人間は軽薄になり、視野が狭くなっていきます。もしあなたがそれを自覚するきっかけがほしいなら、是非この本を読むことを勧めます。読書はビジネスのためにするのではないということが分かると思います。この本は私たちの日常の風景を一変させるだけのインパクトを持っています。いわば、ことばの最高の意味における「闖入者」なのです。
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生前退位をめぐる安倍首相の策謀 (宝島社新書)
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五味 洋治
天皇陛下が去年8月のお言葉で一番国民に伝えたかったのは、一言で言うと安倍首相の改憲を許してはならない、ということだったのです。それはブログでも再三書いてきましたが、今上天皇の20年にわたる慰霊の旅や国民に寄り添う姿勢が何よりそのことを証明しています。普通の読解力があれば分かることです。しかし、安倍首相には肝心の読解力がありません。安倍首相は今上天皇の思いを、単なる生前退位の「制度上の問題」にしてしまったのです。これは明らかな策謀です。国民は今一度、天皇陛下のメッセージに真剣に耳を傾けるべきです。
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教育の論理―文部省廃止論 (講談社文庫)
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羽仁 五郎
1979年、今から38年前に出版されたこの本を読み返しました。そして愕然としました。羽仁五郎が指摘したことがますますリアリティーをもって、前景化しています。福沢諭吉も言うように文部科学省はいらないのです。教育関係者は、自らの原点に戻るため、この本を読むべきです。
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服従
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ミシェル ウエルベック
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排除と抵抗の郊外: フランス〈移民〉集住地域の形成と変容
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森 千香子
第16回大仏次郎論壇賞を受賞した本作は、従来時間軸で論じてきた社会学の手法に、パリ郊外というエスニック・マイノリティーが住む「空間」を突きつけ、彼らがなぜグローバルテロリズムに追い込まれるのかを明らかにしたものです。

一読し感銘を受けました。問いを生きるという学問の原点が、彼女のフィールドワークにつながり、「移民たちは、彼ら自身に問題があるのだという視線を注がれていました。でも実際には、多数派による差別が問題を生み出していた。問題は社会の側にあったのです」と結論付けます。

この著作は日本社会のみならず、世界のこれからを考えるのに、大いに役立ちます。これぞ学問と言えるものです。『シャルリとは誰か? 人種差別と没落する西欧 』とあわせて読むことを勧めます。
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瀬木 比呂志
この本はまだ発売されていません。自分で読んでいない本を推薦するのは邪道でしょう。しかし、これまでの『絶望の裁判所』『ニッポンの裁判』(ともに講談社現代新書)に続く裁判所、司法批判の第3弾が長編の権力小説だということで、過去2冊の本の面白さからして、推薦に値する本だと思いました。『原発ホワイトアウト』の最高裁判所ヴァージョンだと思います。読んでからコメントを追加したいと思います。
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被災の思想 難死の思想
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小田 実
若い人は彼の仕事も、名前すら知らない人もいるでしょう。来年で没後10年になります。彼が生きていたら、3・11をどうとらえ、どう表現していたか。それを見たかったし、彼の発言を聞きたかった、とつくづく思います。ジャーナリズムは劣化の一途をたどり、教育は非民主的な社会に適応できるように、こどもたちに真実を教えません。すべてのものには歴史があります。今ある世界が全てではなく、それを作り出した社会と人間の営みがあったのです。もし若い人が自由に生きようと思うのであれば、そして元気を出したければ、彼の著作を読んでみることです。『何でも見てやろう』でもいいですね。とにかく一冊手にとって見てください。そして彼の提示した問いに答えてみてください。
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アモン・シェイ
学校なる場所に通っていた時、毎年夏になると課題図書を読んで、読書感想文を書かねばならないのが苦痛でした。課題図書の選定には学校と書店の密約があるに違いないと思っていたくらいです。

偶然巡り合った面白い本の感想を書くのならまだ我慢できたかもしれません。つくづく学校というところは、余計なことをしてくれると思ったものです。

あまりにめんどうくさいので、「あとがき」を参考に、あらすじを書いて提出したら、トリプルAをもらいました。

学校というところは、もしかしたら、人生の退屈に耐える訓練をする場所だったのかもしれません。この本を読んで、改めてそのことを確認しました。別に先生を責めているわけではありません。それほど自覚的に生きるということは難しいのだとため息をついているだけです。
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想田和弘監督の観察映画。音楽による演出は一切なく、徹頭徹尾監督の視点で撮られたドキュメンタリー映画。見終わった後、日本の選挙風土の貧困さが浮かび上がる。この国に民主主義はない、ということを改めて確認し、そこから出発するしかない。その勇気を持つ人には必見の映画です。合わせて『選挙2』もどうぞ。
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マックス ヴェーバー
ウェーバーの死の1年前、1919年、学生達に向けた講演の記録です。
一部抜粋します。

「自分が世間に対して捧げようとするものに比べて、現実の世の中が―自分の立場からみて―どんなに愚かであり卑俗であっても、断じてく挫けない人間。どんな事態に直面しても「それにもかかわらず!」と言い切る自信のある人間。そういう人間だけが政治への「天職」を持つ。」(P105〜106)

「さて、ここにおいでの諸君、10年後にもう一度この点について話し合おうではないか。残念ながら私はあれやこれやいろんな理由から、どうも悪い予感がしてならないのだが、10年後には反動の時代がとっくに始まっていて、諸君の多くの人が―正直に言って私もだが―期待していたことのまずほとんどは、まさか全部でもあるまいが、少なくとも外見上たいていのものは、実現されていないだろう。」(P103〜104)

10年後には、ワイマール体制は機能不全に陥り、1933年にはヒトラーが首相に就任します。

平和憲法は、日本人にとって310万人の命と引き換えに手に入れた唯一と言っていい理念であり、アイデンティティーでした。その唯一の誇りを、日本人は損得勘定で葬り去ろうとしています。言い古された言葉ですが、歴史は繰り返すのです。
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熊楠の星の時間 (講談社選書メチエ)
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中沢 新一
小学校を卒業するころ、将来なりたい職業として思い描いていたのが、天文学者か生物学者でした。プロ野球選手は、自分のセンスでは無理だと悟りました。物ごころついたころから興味があったのは宇宙や昆虫や植物の世界でした。そんなわけで南方熊樟に出会うのは必然的な成り行きだったのです。人間は言葉によって世界を把握しますが、それ以外の把握の仕方があるはずだと、ずっと思ってきました。南方熊樟は、小林秀雄と同じく、直観による世界の把握の仕方を教えてくれました。この本は、言葉によって構成された世界秩序の外に出て、世界を改めて考えたい人に大いなるヒントをあたえてくれます。安倍政権によるゴキブリのフンのような、あまりにばかばかしい政治状況を見せつけられているので、精神の衛生学として一気に読みました。
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本間龍
こどもの教育から裏金を使ったオリンピック誘致、原発再稼働、戦争準備から武器の売却、安倍政権の裏の権力としてメディアに絶大な影響力を行使する電通。私たちは電通が作り上げた「箱」の中でいいようにマインドコントロールされている。自分の意見だと思っていたものが、実はそう思わされていただけだということに気づかなければならない。音楽をはじめとする芸能情報、その中で踊らされるミュージシャンやタレント、果てはデザイン業界までを席巻する。今や電通の介在しないメディアはないと言ってもいい。利権あるところに電通あり、です。
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英語教育に携わる人は、一度この本を読んでみるべきではないでしょうか。言葉は悪いですが「英語ばか」がこの国には余りにも多すぎる気がします。
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前作『日本はなぜ「基地」と「原発」止められないのか』に続く著者渾身の力作。自分の人生を生きたい人にすすめます。ただそれだけです。18歳で選挙権が与えらる高校生が政治を考える際の基本的なテキストになる日がくるといいですね。無理でしょうが。これ以上余計なコメントはしません。まず手に取ってみてください。
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メディアで取り上げられるよりはるか前から日本会議の存在について私は言及していました。電通と同じくタブー視するメディアには心底失望したものです。報道すればタブーはタブーでなくなるのです。何を恐れているのでしょうか。干されれば、何とか生活をする工面をすればよい。それだけのことです。
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経済学という自己正当化の道具、あるいは権力に寄生するための方便を分かりやすい言葉で暴露した本物の経済学の本。宇沢弘文氏の「社会的共通資本」と併せて読むことをすすめます。
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磯崎新
帯に「祝祭都市にスタジアムはいらない」とあります。そもそも2020年まで天災と原発事故をやり過ごし、経済危機を乗り越えて存在しているでしょうか。極めて怪しいですね。偶然書店で手に取って読みました。彼の文章を読むと、建築は現世の権力に奉仕するものではなく、想像力の王国を作るものだと思わされます。建築にそれほど興味のない人でも、読めます。いや、いつのまにか引き込まれているでしょう。
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難関中高一貫校で学び、東大に合格しても、それはもはや知性のバロメーターではありません。この本に書かれていることが真実だと見破れることこそが本物の知性です。ニセの知性は既得権益を守るためにはどんな屁理屈でもひねり出します。おまえは何も知らないと言って他人を見下し、金と権力におもねるのです。ニセの知性は理想の灯を掲げることができません。「脳内お花畑」などという幼稚な言葉を使って揶揄するしかないのです。彼らの決まり文句は、他国が攻めてきたらどうするのかという、それこそ「脳内お花畑」的なものです。「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」とは、まさに至言です。
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桐野 夏生
権力も財力もない人間は、想像力を武器に戦うほかありません。以前ブログでも取り上げた『亡国記』とともに読むことをすすめます。
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文部科学省と財界は文系学部、特に社会思想を研究する学部を標的にして、その廃止を迫っている。これがどれだけ短慮で、バカげたことかヨーロッパの大学を見てみればよい。コンピテンス、要するに高速事務処理能力と記憶力を重視する理系学部さえあれば国は繁栄するという考え方です。文系学部は「結果を出せない」といいます。株式会社化をなりふりかまわず進めようとする国の中で、文系学部は穀つぶしだと映っているのでしょうね。この国の知性の劣化はとどまるところを知らないようです。
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私の元塾生の縁でお会いしたことのある烏賀陽弘道氏の渾身のレポート。事実を丹念に調べ上げ(これがジャーナリストの本来やることです)事実をして語らしめることのできる稀有なジャーナリスト。この本を読まずに福島第一原発の事故の本質に迫ることはできない。ダブル選挙の前に一人でも多くの国民が読むことを期待します。
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松岡正剛氏の本はどれも面白く、シリーズの千夜千冊を除けばほとんど読んでいます。『多読術』は、高校生にぜひ勧めたいと思います。高校時代に、この本を読んでおくと、さまざまな分野の知的見取り図を手に入れることができます。学校の授業だけではなく、この本を手掛かりにして知の荒野に歩みを進めてほしいと思います。
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安倍首相は「この道しかない」と言って消費税を上げ、集団的自衛権の行使を可能にする閣議決定をし、公約とは正反対のTPPを批准することで、日本の文化=アイデンティティーを破壊しようとしています。

もし私たちが生き延びたければ、そのヒントがこの本の中に書かれています。日本は超大国の「夢」を代弁するだけの国になってはなりません。
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山本氏の国会での質問を、本になって改めて読み直して感じることは、文字通り「みんなが聞きたい」質問をしてくれたということです。安倍首相が小学生に「なぜ政治家になったのですか」と質問された時、「父親も祖父も政治家をしていたからです」と答えていました。小学生相手に、何と言う悲しい答えでしょうか。語るべき理想を持たない政治家など、所詮は官僚に利用されるだけです。それに対して、山本氏には語るべき理想がある。「政治なんてそんなものさ」というリアリストが発散する腐臭を吹き飛ばすさわやかさがある。それは、彼の身体には収まりきれない理想が持つ力そのものです。彼は言います。「力を貸してほしい。少なくとも、あなたが必要だと思われる社会、私が必要だと思われる社会を作っていきたい。そう思うんです」と。日本の総理大臣にふさわしいのはどちらでしょうか。
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おそらく、日本人自身よりも海外の知識人のほうが、日本の問題を正確にとらえていると思わせる本です。読み終えて何気なくテレビを見たら、わが大分県選出の国会議員、岩屋毅氏と江藤晟一氏が、2016年ミスユニバース大分県代表を選ぶ催し物に出ていました。名誉顧問だそうです。いかがわしい宗教団体をバックに票を稼ぐだけでは飽き足らず、こんな大会に顔を出して名前を売ろうとする。大分市長の佐藤樹一郎氏も出席していました。このお三方は、こんなことをするために国会議員や市長になったのでしょうか。国民の税金を使ってやることといえば、テレビに出演してにやけた顔をさらすことでしょうか。もう物事の軽重が全く分かっていません。せめてこの本くらい読んではどうでしょうか。私はこの本に書かれていることの大部分に賛成です。
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出版されてすぐ読みました。国会で、読んでもいないのに、安倍首相が躍起になって否定した事実が書かれています。蓮池氏はあちこちから人格攻撃の対象とされてきましたが、自分にも落ち度があったと認めています。自分は総理大臣なのだから落ち度はないと居直る人間とは好対照です。この本を読んで、拉致問題について今一度国民が考えることを望みます。
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本では土屋正雄氏の名訳が出ていますが、できれば英語で読んでもらいたい小説です。カズオ・イシグロの文章は読んでいてとても気持ちがいい。素晴らしい文体です。いつの間にか声に出して読んでいることがあります。ジョージ・オーエルと並んで私が最も好きな海外の作家です。彼が書くような英語を書きたいですし、彼のように考え、話したいものです。DVDを見た後は、是非小説も読んでください。
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もう何と言うか、別世界を生きている人間です。彼の発する言葉は文学とは無縁です。人間が言葉を持ったのは、言葉にしがたいものを言葉にしようとするためです。政治家が発する言葉の軽さと言ったらありません。それだけ現実も軽いものになったということでしょう。
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長谷川 宏
著者は私と同じく学習塾を営む在野の哲学者。私が塾を始めた時、著者の『赤門塾通信』を読み、励まされました。

上下2巻で、結構なヴォリュームですが、やっと読み終わりました。今改めて日本の精神史をたどりなおしたいと考えている人には、ぜひ勧めたいと思います。感想は又いつか別の機会に。
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小林秀雄は、私を文学や哲学の世界にいざなってくれた恩人です。彼と岡潔との対談です。
この本を理解できる政治家はおそらくいません。いたら、絶滅危惧種でしょう。
小林秀雄、岡潔、鈴木大拙のような人間はもう出てこないでしょうね。こういう人間を生み出す土壌が日本にはなくなりました。
代わりに登場してきたのが、橋下徹やホリエモンこと堀江貴史といった、マスコミによって改革の旗手と持ち上げられたマネー資本主義の申し子たちです。
感情を劣化させた人間が幅を利かせる社会は、効率を追求し、競争を加速させるだけの生きづらい社会です。日本社会はどうしようもなく劣化が進んでいます。
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教育で最も大切であるにもかかわらず、多くの人が忘れているのが感情教育です。世界的数学者・岡潔のことばでは「情緒」ということになります。普通、情緒とは正反対にあると考えられている数学のような学問で、ブレイクスルーをもたらすものは「情緒」だと岡潔は言います。今回読み直してみて、その深い洞察力と、そこから出てくるみずみずしい感性と新しさに、改めて驚かされました。

こどもの将来を本当に考える親なら、あれこれ参考書を買い与えるより、是非この本を読むことをすすめます。私たちが失ったものの価値が分かり、呆然とするはずです。

この本を読んで何も感じなかったらどうするのか?
残念ですが、どうしようもありませんね。これまで通り、自分の信じる道をお進みください。
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人間は、条件次第で、喜々として殺人を犯す。そして、その条件を整備しつつあるのが、安倍政権とその背後でうごめく『日本会議』である。このことに気づいていても、「配慮する」ことを最優先して報道しないメディア(特にNHK・読売新聞・産経新聞)。そしてそこに寄生する学者やコメンテーター、芸能人。このドキュメンタリー映画は、彼らの自画像である。たまには、自らの顔をじっくり眺めてみるがよい。
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以下は私がアマゾンのレビューに投稿したものです。再録します。
「もし人に幸福な生き方があるとしたら、中村好文さんのような生き方だろうと、ずっと思ってきました。
建築雑誌をパラパラとめくりながら、ふむ、と思って手が止まると、そこには必ずと言っていいほど中村さんの設計した住宅がありました。
文は人なりと言いますが、その人の書く文章のエッセンスがこれほど見事に建築にも表現されている例はめったにありません。
建築に限らず、食の分野でも、ことばと実物の乖離がはなはだしい時代に、中村さんの設計した住宅や美術館に出会うと、どこか安心するのですね。
そういうわけで、著者の本はすべて読ませてもらっています。
この本も偶然、年末に本屋さんで手に入れ、装丁やカバーの手触りを楽しみながら読んでいます。
読みながらいつの間にかほのぼのとしている自分を発見します。
一日に一編か二編を過去の記憶をたどるようにして読んでいます。
この本の平明さ、やさしさがどこから来るのか。そんなことを分析するのは野暮というものです。
とにかくこの素敵な小さな本は、旅のお供にどうぞ!とすすめたくなります。」
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審判はどこにいるのか?
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    高校生および大学受験生の皆さんこんにちは。

     

    今回は塾教師の分をわきまえない極論として聞いていただきたいのですが、これから日大、東大、近畿大を受験しようと考えている人は、止めましょう。理由を書くと長くなるので、今回は日大に絞って短くコメントします。

     

     

    日本大学アメリカンフットボール部の悪質タックルは、単にスポーツの分野にとどまらず、日本大学全体に深く張り巡らされた反知性の体質そのものを表面化させたものです。

     

     

     

    謝罪会見を開いた選手の言葉は具体的で誠意にあふれたものでした。よほど鈍感な人間でない限り、彼がウソを言っていると思う人はいないでしょう。真実の持つ力は単純で誤解を与える余地などないのです。

     

     

     

    300を超えるマスメディアの前に実名と顔をさらすことは、人間の尊厳をかけた、本当に勇気のいる行為です。安倍首相のお抱えジャーナリスト、山口敬之にレイプされた伊藤詩織さんの勇気と通じるものがあります。

     

     

     

    今回の事件の本質は誰の目にも明らかなので、これ以上言及しません。ただ、私はある言葉に対して、どうしようもなく嫌悪感を抱きました。それは関学大への回答書の中にあった「乖離(かいり)」という言葉です。「指導者と選手の受け取り方に乖離(かいり)が起きたことが問題の本質」という風に使われていました。

     

     

     

    まかり間違えば一人の人間の人生をも奪いかねない反則プレーに対して、「乖離(かいり)」といういかにも客観的で小難しい欺瞞言語を当てるのは、世間を煙に巻いて事件を小さく見せようとする意図があるからです。私はこういった真実を隠蔽しようとする言葉に言いようのない嫌悪を感じます。

     

     

     

    しかも、日大広報部は「誤解を招いたとすれば、言葉足らずであったと心苦しく思います」と弁明しています。この「誤解を招いたとすれば」という言葉は、特に安倍政権になってから、政治家が自分の責任をごまかすために、まるで判で押したように使う言葉です。

     

     

     

    この言い方は、自分の言っていることは正しいのだが、相手が誤解する可能性を考慮に入れていなかった自分にも落ち度があったと謝罪するふりをしながら、巧妙に責任を回避する言い方なのです。

     

     

     

    私は第二次安倍政権が誕生してからすぐ、この政権は戦前のエートス(国体)が生き延びて作りだした鬼胎の政権であり、安倍内閣は犯罪者集団であると言ってきました。今振り返ってみると、間違っていなかったと思います。

     

     

     

    自分の間違いや落ち度を認めず、責任を部下に押しつけ、「セクハラ罪はない」と閣議決定し、被害女性の心をさらにいたぶる。首相や大臣が道徳的に振舞うことよりも、いかに弱者に暴言を吐けるかが支持率を維持するカギとなっているのです。今回の日大の対応は、安倍政権を支える人間たちの本質が期せずして象徴的に現われたものです。

     

     

     

    どう考えても理屈に合わない、完全に論理や説得力を欠いたように見える決断や行動でも、ある種の人間にとっては合理的で納得のいく理屈が必ずあるものです。

     

     

     

    ある種の人間とは誰か。それは英雄主義(ヒロイズム)を精神的支柱とし日本国憲法を葬り去ることを自分の使命と思いこんでいる安倍晋三その人です。

     

     

     

    英雄主義(ヒロイズム)とは、人々の「高み」に立って「国家」や「祖国」や「民族」を救うという目標を掲げ、その目標のために障害となる人々や国は、力で排除するという行動を取ることを言います。「英雄主義」にとっては、たとえ大量に人を殺すことがあっても、それは「人殺し」なのではなく、国や祖国や民族を守るための「善行」であり「称賛される行為」になると考えられています。

     

    「ヒトラーの思想が降りてきた」という犯人を後押ししたもの。

    http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=211

     

     

     

    今回の日大のルール違反のタックルも、詭弁とはぐらかしでその場を乗り切り、監督・コーチの判断が何ら倫理的に非難されずに既成事実としてまかり通れば、勝利のための「称賛される行為」となるのです。それが新たな基準となり、後に続く者が同じルール違反をしても罰せられなくなります。

     

     

     

    それを防ぐには、詭弁とはぐらかしを認めた段階で「間髪を入れずに」審判が笛を吹き、違反者に退場を命じなければなりません。しかし、今この国には、勇気を持って真実を語る二十歳の若者はいても、笛を吹くべき審判の姿が見当たらないのです。これほど悲しいことはありません。

     

     

    | 中高生の皆さんへ | 15:57 | comments(0) | - |
    虚しさの行きつく先 − 71回目の憲法記念日に。
    0

      中高生の皆さん、こんばんは。

       

      今回は、自分の見通しの甘さ、浅はかさを告白することから始めます。私は2011年の原発事故でこの国は変わる、文明の転換点になる、と考えていました。基幹エネルギーを石油と原子力(核)に依存する社会から脱却して、技術革新と教育に投資し、百年後には国際社会に誇れる国になるかもしれないと期待したのです。それが原発事故を起こした国が最低限取るべき責任だと思っていたのです。

       

       

       

      しかし、あれから7年が経過する中で目にしたものは、集団自殺を目指しているとしか思えないこの国の政府や財界、出版ジャーナリズムとそれに追従する国民の振る舞いでした。世界に類のない原発事故で殺されかけたにもかかわらず、時間の経過とともに日本国民の大半は危機意識を失いつつあります。もはや生存本能すらが壊れているのだと考えるほかないようです。

       

       

       

      そして今日5月3日、71回目の憲法記念日を迎えました。各地で集会が開かれたようですが、憲法記念日を現行憲法の原理原則を葬り去るための記念日にしようと考えている人たちもいます。日本会議系の改憲集会です。結婚記念日に、結婚を解消させる方法を話し合っているようなものです。その集会に、一国の首相がわざわざビデオメッセージを送っているのですから、その倒錯ぶりは目を覆いたくなるほどです。

       

       

       

       

      日本会議系の人たちは、小学生でもわかる現実を理解していません。どう考えても、軍事力で日本を守ることはできないのです。福島第一原発の事故が進行中で、しかも原発だらけの日本が一体どこの国と戦争できるというのでしょうか。

       

       

       

      相手が中国でもロシアでも、戦争になれば日本は瞬時に負けます。核武装しても無駄です。アメリカは日本を守りません。この国を守るためには、戦争をしないという選択肢しかないのです。

       

       

       

      軍事力を増強するのは抑止力を高めるためだと言われます。しかし、抑止力とは「脅迫」のことです。安倍首相は「戦争をしたいなどと思っている人はいませんよ」とよく言いますが、軍事力による脅迫は決して平和をもたらしません。それどころか「一人蚊帳の外」に置かれ、安倍首相とその取り巻きの知的レベルを考えると「結果的に」戦争になる可能性すらあります。

       

       

       

      国防や安全保障を「軍事の視点」だけで考えていると国を破滅へと導きます。軍事力で国を守れたのは明治や大正までの話で、昭和に入ってからは不可能だったのです。それに気づかず、軍事力を過信し、対外問題を軍事力のみで解決しようとして破滅したのが昭和の15年戦争の歴史でした。

       

       

       

      日本会議やそれに連なる人々の安全保障観は、1930年代〜1945年にわたる戦争の歴史を「日本国家の破滅を招いた大失態」として総括することから逃げています。そのため、現在でも当時と同じ「軍事力万能」の思考の中にとどまっています。日本を大国だと思い込みたいがために、中国包囲網のような非現実的な空想の中に逃避して、仲間内で「国防の大義」に酔っているだけです。

       

       

       

      さて、公文書のみならず歴史すら捏造して民主主義を葬り去ろうとしている安倍政権や日本会議のような集団に対して、私たちは何ができるでしょうか。過去の戦史(日清、日露から昭和の15年戦争の終結まで)を、一般教養として学ぶ機会を増やすべきだと思います。

       

       

       

      一般市民が国防や安全保障について様々な角度から学ぶ機会がなければ、安全保障とはアメリカの属国になって軍事力を強化し、国民の税金で最新兵器を購入して兵器産業をもうけさせることに貢献するだけです。いや、すでにそうなっています。また同じ自滅の道を、それと気づかずに進むのか、それとも歴史を学んで立ち止まり、引き返す決断をするのか、私たちは今その岐路に立っています。

       

       

       

      今の国会の惨状を見ると、虚しさだけがつのります。しかしその虚しさを招き寄せたのは私たち自身です。自業自得なのです。普段から政治に関心を持ち、投票所に足を運び権利を行使する。それだけで実は世の中は大きく変わります。虚しさを乗りこえる方法は、事実を学び、行動することの中にしかありません。もちろん、政治的行動に限りません。

       

       

       

      私がこういうことを言っても、今の若い人の心に響かないかもしれません。「合理的な」思考にならされている若い人は、国会で証人喚問しても、どうせ本当のことは出てこないのだから、グダグダ言ってないで重要法案を審議しろよ、と考えていることでしょう。その通りかもしれません。

       

       

       

      しかし、政治を私物化し、公文書の改竄まで引き起こし、その上責任を取らない政治家に重要法案を審議させてはならないのです。それを許せば、私たちは真実や正義がまったく価値をもたなくなった世界の出現に手を貸すことになります。

       

       

       

      みなさんは正義や公正さが意味をもたなくなった世界で生きることを想像したことがあるでしょうか。そこは権力と金だけが意味を持つ no man's land(不毛の地)に他なりません。

       

       

       

      合理的な思考はともすれば虚無とシニシズム(冷笑主義)につながります。虚しさの行きつく先には精神の死があるのみです。生き生きと生きたければ、常に学び行動するしかありません。以下にみなさんが政治について考えるヒントになる記事をあげておきます。暇な時に読んで参考にしてもらえればうれしいです。

       

       

      「国を守るということ忘れられないシーン」

      http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=22

       

      「なでしこジャパン」は、なぜ強くなったのか?

      http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=11

       

      「憲法九条を蘇生させるために」

      http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=119

       

      「良心的兵役拒否の権利から積極的中立主義へ−その1」

      http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=127

       

      「良心的兵役拒否の権利から積極的中立主義へ−最終版」

      http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=129

       

      「100年後の生存戦略−その1・国防」

      http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=199

       

       

      | 中高生の皆さんへ | 21:47 | comments(0) | - |
      100年後の生存戦略 − 教育 : 国宝・閑谷(しずたに)学校
      0

        昨年の11月、奈良の慈光院を再訪し、滋賀県の湖東三山(西明寺、金剛輪寺、百済寺)を回りました。慈光院は訪れる度に発見があり、特にそのプロポーションにはため息が出ます。京都の詩仙堂と並ぶ私のお気に入りの建築です。奈良へ旅する機会があったら、ぜひ一度訪ねてみて下さい。

         

         

         

        私のブログは、春や秋になるとアクセス数が急増します。旅の参考に『古寺巡礼』を読んで下さっている方が多いからでしょうか。そうだとすれば嬉しいですね。ブログでは、どこの誰がアクセスしているのか、知る術がありません。一番アクセス数が多いのは『自己救済術としての家作り』を始めとする建築関係の記事です。

         

         

         

        政治の話題になるとアクセス数は減ります。この5年間で、私たちの国のリソースは、法治国家の建前を含めて、ズタズタにされました。膿そのもののサイコパス総理が「膿を出し切る」と言っているのですから、これはもうギャグというか白昼夢を見ている気がします。いやな時代に生き合わせたものです。

         

         

         

        旅の帰途、一番の目的だった閑谷学校に寄りました。山陽自動車道の備前ICから車で15分くらいだったでしょうか。途中、すれ違う車も人の姿もほとんどありません。山に囲まれた道を奥へ奥へと進んでいきます。到着した時はあいにくの雨でしたが、霧雨に煙る山間の閑谷学校も捨てたものではありません。妻と広大な敷地を歩きながら、日本という国が持っている文化的リソースの豊かさを思いました。

         

         

        閑谷学校全景

         

         

         

         

        現在の閑谷学校。右手の楷の木の新芽が膨らんでいます。

         

         

        秋の閑谷学校

         

         

         

        ついでに奥方様の写真も。

         

         

         

         

        閑谷学校は、江戸時代・寛文10年(1670年)岡山藩主池田光政によって創建された、岡山藩直営の庶民教育のための学校・学問所です。国宝の講堂をはじめ、聖廟や閑谷神社などほとんどの建造物が国の重要文化財、資料館は登録有形文化財に指定されています。

         

         

        国宝の講堂内部。ピカピカに磨き上げられた床。現在でも地元の子供たちはここで論語を読んでいます。

         

         

         

         

        1660年代の半ば、光政は岡山の領地内に池田家の墓所のための土地を探していました。菩提寺である京都妙心寺の護国院が火災で焼失してしまったからです。光政の命を受けたのが、優秀な側近、津田永忠でした。永忠は領内をくまなく歩いて候補地を探しました。その一つが後に閑谷学校の用地となった和気郡木谷村だったのです。

         

         

         

        光政が木谷村を訪れたのは晩秋だったそうです。紅葉の美しい敷地を歩きながら、ここは墓所ではなく、庶民の子供たちが学ぶ学校にうってつけの土地だと直覚します。さすがに名君と言われるだけのことはあります。国家を私物化して恥じないどこかのバカ殿とは大違いです。

         

         

         

        私が興味をひかれたのは、国宝の講堂だけではありません。敷地を取り巻く石塀の美しさもさることながら、そのランドスケープデザインの秀逸さでした。ここは『風の谷のナウシカ』に描かれた風の谷の祖形だと直感しました。

         

         

         

        図面を見ると寄宿舎や食堂、厨房が敷地の西に配置されています。そして、東側の講堂や聖廟との間に火除山を築いています。防火のためにわざわざ山を築いたのです。そして、弘火四年(1847年)、寄宿舎からの失火で西側にあった建物が焼失した時も、この火除山のおかげで、東側の講堂や聖廟は延焼をまぬがれたのです。何という先見の明、危機管理の意識の高さでしょうか。

         

         

         

         

        草一本生えないように設計されたこの石塀(幅1,8メートル、高さ1,5〜1,6メートル)が敷地を取り囲んでいる。全長765メートル。石工たちの創意工夫と忍耐力に頭が下がります。この石塀だけでも見に行く価値があります。

         

         

         

         

        さて、最後に閑谷学校からもらったインスピレーションについて書きます。今私たちの国は首の皮一枚で繋がっている状態です。早晩、カタストロフィーに見舞われます。統治機構の自壊現象のことを言っているのではありません。営利行為としての戦争のことでもありません。それよりもっと確実で深刻な危機に直面しているのです。

         

         

         

        それは、福島第一原発の事故で、放射能によって高濃度に汚染された地下水とそれを貯蔵している巨大タンク、除染によって出た膨大な放射能汚染土をどうするのかという問題です。次なる地震が襲えば、これらは確実に海に放出され、溶け出します。

         

         

         

        もちろん、地震がこなくても、やがてリミッターが振り切れる時がやってきます。その時、日本近海はもとより、太平洋は放射能によって汚染され、漁業は壊滅するでしょう。チッソが水俣湾に有機水銀を垂れ流して住民の命を奪った事件は、その後の私たちの運命を暗示していたのです。

         

         

         

        その時、私たちは海を捨てなければならなくなります。海に面した都市は、徐々に放射能に蝕まれていきます。子供たちはどこで生きればいいのか。最悪の場合、海外に脱出するしかありません。

         

         

         

        しかし、すべての子供たちが脱出するわけにはいきません。国内にとどまり、なんとか再生の時を待つしかないのです。その場所はどこにあるのでしょうか。そうです、全国に点在する「閑谷学校」こそが、子供たちが生き延びるための「風の谷」になるのです。

         

         

         

        今の政権は、こういったことをシュミレーションすらしていません。そもそもそういった発想がないのです。自分たちにとって都合の悪い事実を隠蔽し、歴史を捏造し、さらには女性をモノのように扱う体質が表面化するに及んで、彼らは事実に向き合うことすらできない痴呆になったのです。

         

         

        | 中高生の皆さんへ | 22:11 | comments(0) | - |
        「自由で公平で平和な国で死にたい」
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          私は多数派に迎合したり、権力に擦り寄ったりすることが何よりも嫌いです。ある人の言説が多数派を恃んでいたり、権力に秋波を送っているのが分かると、生理的に敬遠したくなります。若者ならともかく、それなりに社会経験を積んできた大の大人が政治的言説にころりと騙されるのを目にすると、もはや私の出る幕はないのだと痛感させられます。

           

           

           

          やっかいなのは、政治的な発言を避けることによって、現状を肯定し、権力を延命させている人たちです。それは、岩ツバメが唾液で巣を作るように、生活の中で分泌される無意識によって形作られた態度です。日本にはこういった態度を、さも知的で良識的であるかのように考えている人が多い。

           

           

           

          私は彼らのことを消極的ネトウヨ層と呼んでいます。少し考えればわかることですが、「政治的な発言を避ける」ことは、「いま権力を握っている人間たちに決定権を委任し、口出しはしません。」という責任放棄と隷従を意味します。

           

           

           

          思えば、こういった態度を教養人のマナーだと勘違いしている人に、何人出会ってきたことでしょうか。その度に私は思ったものです。人格のない1万人にちやほやされるよりも、一人称で考え一人称で行動する一人の人間から信頼されるような生き方をしようと。

           

           

           

          以来、消極的ネトウヨ層が分泌し続ける言説に、首まで浸かりながら、私は自分の心に届く言葉を探し続けてきました。なぜなら、自分の果たしている政治的な役回りに無自覚な人間たちが分泌する言葉によって精神の衛生が害され、人格が空洞化することを知っているからです。

           

           

           

          そんな日々の中で、久しぶりに素直に心に入ってくる言葉に出会いました。それは、5日、82歳で亡くなった高畑勲監督の短い言葉です。高畑監督の年賀状を映像研究家の叶精二氏がツイッター上で公開したものです。

           

           

           

          高畑勲監督の『火垂るの墓』

           

           

           

           

           

          「皆さまがお健やかに
          お暮らしなされますようお祈りします
          公平で、自由で、仲良く
          平穏な生活ができる国
          海外の戦争に介入せず
          国のどこにも原発と外国の部隊がいない
          賢明強靭な外交で平和を維持する国
          サウイフ国デ ワタシハ死ニタイ です」

           

           

          ブログでこれまで13回にわたって宮崎駿監督を取り上げました。その監督が、インタビューで「宮崎さんは夢を見るんですか?」という問いに、「見ますよ。でもぼくの夢はひとつしかない、いつも登場人物は高畑さんです」と答えています。

           

           

           

          以下、高畑勲監督の言葉を取り上げます。

           

           

           

          「『火垂るの墓』は反戦映画と評されますが、反戦映画が戦争を起こさないため、止めるためのものであるなら、あの作品はそうした役には立たないのではないか」

           

           


          「攻め込まれてひどい目に遭った経験をいくら伝えても、これからの戦争を止める力にはなりにくいのではないか。なぜか。為政者が次なる戦争を始める時は『そういう目に遭わないために戦争をするのだ』と言うに決まっているからです。自衛のための戦争だ、と。惨禍を繰り返したくないという切実な思いを利用し、感情に訴えかけてくる」

           

           

           

          「『火垂るの墓』のようなものが戦争を食い止めることはできないだろう。それは、ずっと思っています。戦争というのはどんな形で始まるのか。情に訴えて涙を流させれば、何かの役にたつか。感情というのはすぐに、あっと言うまに変わってしまう危険性のあるもの。心とか情というのは、人間にとってものすごく大事なものではあるけれども、しかし、平気で変わってしまう。何が支えてくれるかというと、やはり『理性』だと思うんです。戦争がどうやって起こっていくのかについて学ぶことが、結局、それを止めるための大きな力になる」

           

           

           

          「政府が戦争のできる国にしようというときに“ズルズル体質”があったら、ズルズルといっちゃう。戦争のできる国になったとたんに、戦争をしないでいいのに、つい、しちゃったりするんです」

           

           


          「日本は島国で、みんな仲良くやっていきたい。『空気を読み』ながら。そういう人間たちはですね、国が戦争に向かい始めたら、『もう勝ってもらうしかないじゃないか!』となるんです。わかりますか? 負けちゃったら大変ですよ。敗戦国としてひどい目にあう。だから『前は勝てっこないなんて言っていたけれど、もう勝ってもらうしかない』となるんです」

           

           

           

          「『戦争をしたとしても、あのような失敗はしない。われわれはもっと賢くやる。70年前とは時代が違う』とも言うでしょう。本当でしょうか。私たちは戦争中の人と比べて進歩したでしょうか。3・11で安全神話が崩れた後の原発をめぐる為政者の対応をみても、そうは思えません。成り行きでずるずるいくだけで、人々が仕方がないと諦めるところへいつの間にかもっていく。あの戦争の負け方と同じです」

           

           

           

          「日本がずっとやってきた“ズルズル体質”や、責任を取らせない、責任が明確にならないままやっていくような体質が、そのまま続いていくに決まっている。そうしたら、歯止めがかからないのです。だから絶対的な歯止めが必要。それが9条です」

           

           

           

          「『普通の国』なんかになる必要はない。ユニークな国であり続けるべきです。 戦争ができる国になったら、必ず戦争をする国になってしまう。閣議決定で集団的自衛権の行使を認めることによって9条は突如、突破された。私たちはかつてない驚くべき危機に直面しているのではないでしょうか。あの戦争を知っている人なら分かる。戦争が始まる前、つまり、いまが大事です。始めてしまえば、私たちは流されてしまう。だから小さな歯止めではなく、絶対的な歯止めが必要なのです。それが9条だった」

           

           

           

          「なんとかしなきゃと言いながら、無力感が強いですね。安倍政権には(自衛隊南スーダン派遣の)日誌のことも、森友学園も、すごい不祥事が続いていて、でも、なんでそんなことになっているのかを考えたら、えらいことでしょう? 『政権を維持するため』ですよね、簡単に言えば。忖度であれ、なんであれ、どういうメカニズムかは知りません。もちろん、それは改善する必要があるんでしょうが、しかしどっちにしても、それを支えようという力があれだけ働いているのが露骨にわかるにもかかわらず、これで崩れないというのは、もうちょっと考えられない。本当に信じられない」

           

           

           

          宮崎監督は高畑監督が亡くなった日、「まだその気持ちにはなれない」と、コメントは出していません。当然ですね。ふたりの巨匠を支えてきたスタジオジブリの鈴木敏夫プロデューサーは「宮さんはじつはただひとりの観客を意識して、映画を作っている。宮崎駿がいちばん作品を見せたいのは高畑勲」と断言しました。

           

           

           

          その高畑勲監督の「自由で公平で平和な国で死にたい」という痛切な思いは、これからも無視され続けるのでしょうか。

           

           

          | 中高生の皆さんへ | 13:47 | comments(0) | - |
          『翼よ!あれがパリの灯だ』 − 中学3年生の皆さんへ。
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            中学3年生のみなさん、卒業おめでとう。今日は3年生の最後の授業でした。いつもと変わりなく、淡々と数学の難問を解きました。妻がたててくれた抹茶と和菓子をふるまい、お開きにしました。私の塾では気合を入れるためにこぶしを突きだしたり、シュプレヒコールを叫んだりしません。毎年、静かな最後の授業です。そして明後日はいよいよ高校入試です。

             

             

             

            最近は入試前に緊張する生徒が多くなりました。そこで今日は緊張を解いてもらうため、チャールズ・A・リンドバーグの話をしました。リンドバーグと言っても、今の中学生で知っている人はほとんどいないでしょうね。私とリンドバーグの出会いは後で話します。

             

            チャールズ・A・リンドバーグ。なかなかのイケメンですね。

             

             

             

             

            彼は1902年2月4日スウェーデン移民の息子としてミシガン州デトロイト市で生まれました。1920年代にはセントルイス−シカゴ間で、郵便機の夜間飛行のパイロットをしていました。その彼が人類史上初の偉業を成し遂げたのです。

             

             

             

            1927年5月20日5時52分(出発時の現地時刻)、リンドバーグはプロペラ機「スピリット・オブ・セントルイス号」でニューヨーク・ロングアイランドのルーズベルト飛行場を飛び立ち、孤独や睡魔と戦いながら翌21日、22時21分(到着時の現地時刻)、パリのル・ブルジェ空港に着陸、大西洋単独無着陸飛行に初めて成功したのです。この時、リンドバーグ25歳。飛行距離は5、810km、飛行時間は33時間半に及びました。

             

             

            「スピリット・オブ・セントルイス号」の飛行航路。

             

             

             

             

            無着陸飛行を達成した際に、ル・ブルジェ空港へ押し寄せた観客の数は、空港に入り切らなかった分も含めて延べ75万人とも100万人ともいわれています。これによりリンドバーグは、オルティーグ賞とその賞金25,000ドル、さらに世界的な名声を得ます。

             

             

             

            ところで、「スピリット・オブ・セントルイス号」の機体は、リンドバーグの指示でカスタマイズされたものでした。当時、無名の操縦士だったリンドバーグには出資者が少なかったため、調達した機材そのものも、性能の低いものにせざるを得ませんでした。さらに、多量のガソリンを積むべく操縦席の前方に燃料タンクを設置したため、座席からは直接前方が見えず、潜望鏡のようなものを使うか、機体側面の窓から顔を出す必要があったそうです。現在、この機体はスミソニアン航空宇宙博物館に展示されています。

             

             

            「スピリット・オブ・セントルイス号」

             

             

             

             

            1957年には、ビリー・ワイルダー監督、ジェームズ・ステュアート主演で映画にもなっています。その映画のタイトルが『翼よ!あれがパリの灯だ』でした。その映画が私とリンドバーグとの最初の出会いです。

             

             

             

            そうはいっても、物心がつくかつかないかの頃で、父親につれて行かれた、どこか場末のうらさびしい映画館だったような気がします。時代劇ファンだった父親が、なぜこの映画を観る気になったのか、今となっては分かりません。

             

             

             

            上映中、ときどき大きな音で目が覚めてスクリーンを見ましたが、ストーリーが分からず、ただ眠かったのをおぼえています。後から知ったことですが、その映画は機内のシーンが大半を占める地味な映画だったようです。ただ、鮮明に覚えているシーンがあります。

             

             

             

            主人公のさびしげな目。格納庫を出て愛機セントルイス号に向かうヒョロッとしたその姿。ひとびとの歓声を背に飛び立ったあと、ひとりっきりになった操縦席にみつけた一匹の蠅。その一匹の蠅だけがパリまでの同行者です。リンドバーグはその蠅に向かって話しかけます。

             

             

             

            ああ、思い出してきました。鮮明に覚えているシーンとは、主人公がもうれつな睡魔におそわれながら、夢のように思い出すわびしい故郷の草原の美しい風景だったのです。

             

             

             

            大西洋単独無着陸飛行という快挙をなしとげた青年を支えたものが、わずかに一匹の蠅と淡い故郷への追憶だった、というそのことに私は感動していたのかもしれません。もちろんそれは後年、映画の内容を知ってからの、あと付けの感想ですが。

             

             

             

            それでも、言葉をもたない幼少期の私にあれほど鮮烈な印象を残し、今になってそれを思い出し、塾の中学生に話してみようと思ったその理由は何だったのでしょうか。それは人生最初の試練に立ち向かう生徒たちにエールを送りたいという思いだったのかもしれません。

             

             

             

            青年リンドバークの孤独と不安と夢を想え。胸に抱くひとつの原風景と、つつましく小さな同行者と、たったそれだけで、人は無人の夜の空を渡っていけるのか。人は生きてゆけるものだったのか。リンドバークの孤独と不安と夢を想え!と。

             

             

             

            ちなみに『翼よ!あれがパリの灯だ』は彼の大西洋横断飛行を記録した本(原題:The Spirit of St. Louis、佐藤亮一訳)の邦題です。1953年に出版され、翌年ピュリツァー賞を受賞しています。

             

             

             

            この本の中で、リンドバーグはこんな言葉を残しています。ニューヨークを出発して23時間目、睡魔や嵐と戦いながら飛び続け、体力の限界を感じるなかでの言葉です。

            “How beautiful the ocean is; how clear the sky; how fiery the sun!
             Whatever coming hours hold, it's enough to be alive this minute.”


            「なんという海の美しさだ! なんという澄み切った大空だ! 炎のような太陽! 何が起ろうと、この瞬間、生きているだけでじゅうぶんだ。」
             

            | 中高生の皆さんへ | 19:16 | comments(0) | - |
            「沙羅ノート」は、世界に二つとないノートである。
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              沙羅ちゃん、銅メダルおめでとう!よかったね。

               

               

              僕の中ではオリンピックは終わっています。テレビを見る気にもならないし、なにより全く関心がなくなってしまいました。どうせ裏で電通が暗躍し、それテレビ放映権だ、コマーシャルだ、と奔走しているのですから。商業ジャーナリズムと利権が結託し、ある一定の視点(インスタ映えということばに現れています)から切り取られた映像にスポーツのだいご味など映っているはずもないのです。

               

               

               

              加えて、おバカな政治権力が、不利な事実がつぎつぎに明るみに出ているので、国民の目をそらそうとたくらんでいます。日の丸を背負って戦うことは、もはやかっこよくもなんともないのだと気づくべきです。オリンピック憲章にもありますよね。「オリンピックは国威を発揚するものであってはならない」と。

               

               

               

              ところで、昨夜、塾が終わって居間に行くと、妻がテレビを見ていました。「今から沙羅ちゃんが飛ぶわよ」というではありませんか。日本を応援する気にはなりませんが、沙羅ちゃんなら観てもいいかと思い、テレビの前に座り、どういうわけか手に汗にぎりました。

               

               

               

              たぶん現地にいたら日の丸の旗をちぎれんばかりに振り、「沙羅ちゃんがんばれ〜。失敗してもいいから、思い切って飛べ!さあ、安心して僕の腕の中に飛び込んでおいで!」とかなんとか叫んでいたと思います。

               

               

               

              ついでに前の方にいる「ニッポン!チャチャチャ!」「ニッポンすごい!」「ニッポン、キラキラ!」とか叫んでいるネトウヨのケツに思いっきり蹴りを入れて、人ごみにまぎれて逃げていたでしょう。

               

               

               

              僕が今回沙羅ちゃんを応援する気になったのは、最近とくに綺麗になったこともありますが、それだけではありません。絶対的な優勝候補として臨んだソチはまさかの4位。その時の悔しさはいかばかりだったでしょう。僕もいっしょに涙したくらいですから。挫折を経験した沙羅ちゃんが、今回どう成長しているのか。さらなる挫折を経験するのか、不死鳥のごとくよみがえるのか(ちょっとおおげさですね)、その点に注目していました。

               

               

               

              結果は見事な銅メダル。金、銀、銅の差なんてほとんど運です。たまたまジャンプした時追い風が吹いたとか、そういったことで左右されるのですから。それよりも今回僕が注目したのは、沙羅ちゃんの精神的な成長でした。前回は土壇場で自分を支えることができなかった。周りを気にし過ぎたのです。つまり弱かった。しかし今回は違いました。なぜそうなったのか。ある一つの事実を知って、納得しました。それは「沙羅ノート」とでも言うべきノートの存在です。

               

               

               

              沙羅さん(ここからはちゃん付けで呼べません)は「自分と話し合う時間が、ソチの頃は足りなかった」といいます。練習時間ではありません。「自分と話し合う時間」が足らなかったと言っているのです。えらい!(大人になった沙羅さんが僕は好きです。マジで。)

               

               

               

              それで昨春から、1センチほどの厚さのメモ帳を持ち歩くようになったそうです。良かった点、悪かった点、指導された内容を書き留め、行き詰まった時に見返す。メモは1月末で3冊。牧野講平トレーナー(38)は「書き出すことで整理して課題を見つけやすい。メンタル的にも落ち着くのでは」と言っています。

               

               

               

              う〜ん、「メンタル的にも落ち着くのでは」はちがいます。沙羅さんは、匿名のシステムの内部に自分の時間と空間を作り上げたのです。つまり、周囲に左右されない人格を作り上げたということです。トレーナーならこのメモが彼女を決定的に変えたのだということに気づかなければなりません。僕が言ってきた「思考ノート」の威力です。さあ、バカな出版人の皆さん、『高梨沙羅のノートは必ず美しい』という本を書きましょう。

               

               

               

              オリンピック選手は匿名のシステムから絶えずプレッシャーを受けています。自分のためではなく、組織のため、国のためにたたかうことを要請されているのです。東京オリンピックの銅メダリスト、マラソンの円谷幸吉選手は、このプレッシャーに押しつぶされて自殺しました。僕はオリンピック選手に言いたい。「国のためではなく、自分自身のために全力でたたかえ!そんな君を応援するぞ!」と。べつに僕が言わなくてもいいんですが。

               

               

               

              『日の丸を背負って戦うことは、そんなにカッコいいか?』

              http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=222

               

               

              平昌入りした沙羅さんに、山田いずみコーチは「ソチの時より、今の顔が好きだよ」と言ったそうです。本番を前にした選手には最高の言葉ですね。僕も試験前の女子生徒に言おうかな。「一か月前より、今の顔が好きだよ」と。キモ〜イ。でも何だかはやりそうで怖いですね。

               

              | 中高生の皆さんへ | 12:45 | comments(0) | - |
              言葉の力を信じて・・・「思考ノート」の有限化と可能性。
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                「言葉の力を信じて・・・」という今回のタイトルを書きながら、どうしようもないむなしさを感じています。なぜなら、私たちの国の指導的立場にいる人たち、特に政治家が言葉の力など全く信じていないからです。

                 

                 

                安倍政権は警察官僚を手足のごとく動かし、ゲシュタポ政治を作り上げました。前川喜平氏の例を挙げるまでもなく、自分たちにとって都合の悪いことを言った人間、言いそうな人間の一挙手一投足を見張り、隙あらば失脚させようと狙っています。彼らはもはや金と力しか信じていないのです。

                 

                 

                さて、前回のブログの最後に「このノートを作るために必要なことが一つだけあります。学校の勉強と並行しつつも、教科書の枠組みからはみ出す勇気を持つことです。その具体例を次回お目にかけましょう。」と書きました。今回はそれを受けて「思考ノート」の具体的な中身と重要な注意点を述べます。

                 

                 

                 

                まず注意点から。自分の頭に浮かんだことや疑問点を次々に書き出していったら、時間がいくらあっても足らなくなるのではないか。それでは学校の勉強に支障が出ると心配している人もいることでしょう。心配ならそこでやめればいいのです。どこまでも書き続けるなんて、土台無理なのです。

                 

                 

                 

                僕たちが生きる空間も時間も有限です。以前も書きましたが、僕たちの思考も有限ですし、自分をどこまでも掘り下げることは不可能なのです。暫定的な足場を作っておいて、明日はそこから再出発するしかありません。

                 

                 

                 

                今はここまででいいと区切りをつけることの中にもその人の主体性が宿ります。そうやって、仮の足場を補強したり、ある時はそれを壊したりして、また最初からスタートするしかありません。そうこうしているうちに僕たちの人生も終わりがやってきます。実は勉強に区切りをつける術も、思考ノートから学ぶことができるのです。

                 

                 

                 

                次に、「教科書の枠組みにこだわらない勇気を持つ」ことについて。

                 

                これは前にも書きましたが、言葉にこだわることで、自分の適性や将来の職業が見えてくるという話です。例えば、ノートを作っている最中に、まったくの思いつきで糖尿病は英語で何と言うのだろう、と思ったとします。そこで10分という時間制限を設けて自分の知っている病気を日本語でできるだけたくさん書き出します。

                 

                 

                 

                脳梗塞、心筋梗塞、高血糖、すい臓がん、悪性腫瘍、認知症、腎不全、ポリープ、統合失調症、多動性障害に始まり、側頭葉、三半規管、大脳、大脳皮質、海馬、胆のう、十二指腸、大腸、鼓膜、角膜、瞳孔、網膜といった身体の一部から、めまい、吐き気、手のふるえ、難聴といった症状まで。

                 

                 

                 

                次に辞書で調べて英語を書き込んでいきます。今は電子辞書で発音も聞けます。連続5回も聞けば、音が耳になじんできます。書き込みが終わったら、少し休憩します。病名は合成語でできているケースがほとんどです。例えばコンピュータ断層撮影(CT)はcomputed tomographyと言いますが、tomoは「切る」という意味です。graphyは「記録」のことです。統合失調症はschizophreniaですが、schizoは「分離した」という意味で、phreniaは「精神」を意味します。

                 

                 

                 

                あなたがたまたま病院の待合室にいて、お年寄りが病気の話をしていたら、「糖尿病」だとか「高血糖」「高血圧」「脳梗塞」という言葉が耳に入ってくるかもしれません。その時、いままでとは違った感覚があなたの中に生まれていることに気づくはずです。病名を英語で言えるということは、あなたの世界を拡張することにつながるからです。

                 

                 

                 

                あるいは、身近な人が難病にかかって不幸にも亡くなったとします。あなたはその難病の名前を忘れないでしょう。その名前を聞くと、苦しんでいた両親、祖父母の表情を思い出します。その時、難しかった医学の専門用語があなたの実体験と結びつきます。

                 

                 

                 

                それがきっかけで、医学に興味を持ち、難病の名前や症状、治療法を調べてノートに書き出します。もちろん中学や高校で習う範囲をとっくに超えています。そして気がつくと、あなたの前には医師になる道が開けています。これは奇跡でもなんでもありません。ことばは、そういう神秘的としか言いようのない力を持っているのです。

                 

                 

                 

                子供のころ私たちは好奇心を全開にして世界に向き合っていたはずです。昆虫や植物に興味をもったり、天体に魅了されたり、小さな秘密基地を作ってそこにこもったりした経験があるはずです。つまり、昆虫学者にも植物学者にも、天文学者にも建築家にもなれた、少なくともその可能性を持っていたのです。

                 

                 

                 

                しかし、匿名化されたシステムの象徴とも言うべき学校を通過するうちに、好奇心はしぼみ、漂白され平準化された言葉を覚えることの方が「将来の生活」にとって重要だと思い込まされます。

                 

                 

                 

                何度も言うように、それは集団が生き延びるために必要とされた言葉です。私たちの内面世界のほとんどが、その種の言葉で満たされれば、人は生きる気力を失います。既成事実を積み上げる権力に、「しかたない」といって屈服します。

                 

                 

                 

                そういった奴隷の<生>を送りたくないと思う若い人は、自分だけの「思考ノート」を作らねばなりません。現実の内部にもう一つの世界を持たない人間の言葉は、空虚です。私たちは言葉の持つ力をもっと信じてもよいのです。

                 

                 

                今回も読んでいただきありがとうございました。以下は参考記事です。暇があったら読んでみて下さい。

                 

                『学ぶことは、自分を壊すことである。』

                http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=359

                 

                『君の魂くらい、君自身が救え!』

                http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=361

                 

                 

                | 中高生の皆さんへ | 15:26 | comments(0) | - |
                「思考ノート」の威力は実際に作ってみなければわからない。
                0

                  「思考ノート」の目的は既存のシステムの外に自分の時間と空間を作ることだと言いました。しかし、正確には「外に」ではなく「内部に」です。既存のシステムと敵対するのではなく、その「内部に」あなた自身の世界を作る、が正しい言い方です。マトリョーシカのように入れ子構造を作るのです。なぜそれが必要なのか。

                   

                   

                   

                   

                  3・11以降、「世間的には」申し分のない地位や職業についている人間たちの振る舞いや言説に、共通する特徴があることに私は気付きました。いくら目を凝らし、耳を澄ましても、彼らには人間としての「真っ当さ」が感じられないのです。ひとことで言えば人格が空洞化しているのです。そのことに気づいて以来、いわゆるエライさんたちが、私の目には腹話術師にしゃべらされている人形のように見えてきたのです。

                   

                   

                   

                  なぜそんなことになるのか。現実という匿名化されたシステムの中で生き延びようと思えば、だれが金と権力と人事権を握っているのか見分ける必要があるからです。そのためには嗅覚を研ぎ澄まさなければなりません。生まれながらに鋭い嗅覚を持っている「犬」のような人間が生き延びるのです。もとより、「犬」に高い倫理性を期待することなどできません。倫理性は人間と動物を区別する唯一にして最高の徳目だからです。

                   

                   

                   

                  政治家の発言や振る舞いを見ていると、ウソをでっち上げたり裏切ったりすることを何とも思わないどころか、それができることが有能さの証明だと考えているようです。日本社会は熾烈な出世競争を繰り広げる株式会社になったのです。

                   

                   

                   

                  政治の世界が株式会社と同じ原理で動くようになれば何がまずいのか。国民を飢えさせない、戦争はしない、という政治の究極の二大目標が忘れ去られます。その結果、何のために学ぶのかという根本的な問いを発する人間がいなくなります。問いを発することのできない社会はディストピアに他なりません。

                   

                   

                   

                  もうおわかりでしょう。私たちはいわゆる現実の中を生きなければなりません。それは圧倒的な力を持っています。しかし同時に、それは私たちの共同幻想や集合的な無意識が作りだしたある種の約束事にすぎません。その約束事に必要以上に縛られ、過剰適応していると、肝心な自分の<生>を見失ってしまいます。

                   

                   

                   

                  私は塾の教師をしているので、どうすれば日々の勉強を楽しく意味のあるものにできるのか、毎日を新鮮に感じ、将来を展望できるのか、と絶えず考えてきました。その一つの方法が「思考ノート」を作ることだったのです。

                   

                   

                   

                  今日初めてブログを読んだ人は、ずいぶん大げさなことを言ってるけどしょせんノートの作り方か、と思われたでしょう。しかし、私の言うノートは、テストの点数や成績を上げる即効性のあるものではありません(ここだけの話ですが、一カ月も続ければ勉強が楽しくなりますし、成績も上がることを保証します)。

                   

                   

                   

                  即効性のあるものを期待する人は、『東大合格生のノートはかならず美しい』という本でも読んで下さい。全く役に立たないことが分かると思います。知識は体系があって初めて意味を持ちます。体系の構築は、思考錯誤と関連性を絶えず意識するノートがあって初めて可能になるのです。

                   

                   

                   

                  このことはすでに書きました。よければお読みください。

                   

                  『この問題が解ければ上野丘高校に合格できます!』

                  http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=443

                   

                   

                  私はこの記事の中で次のように書きました。

                   

                  「知識は個性や思考と連動し、さまざまな局面で独自の動きをしているのです。一度インプットされた知識は解体され再構成されて、それを使う人間と一体化します。それを知識の質といいます。 

                  野球で言えば、ピッチャーの球質が体重移動や指の長さやリリースポイントや天候やその日の体調によって左右されるのと同じなのです。一流のピッチャーはこれらすべての条件を頭に入れ、ピッチングを組み立てています。速い球を投げるだけでは、簡単に打ち崩されてしまいます。」と。

                   

                   

                  とにかく、あなたが実際に始めないことには、私が何を言っても無駄です。面倒くさいと思う人は、これまでと同じ勉強を続けて下さい。ただし、このノートを作るために必要なことが一つだけあります。学校の勉強と並行しつつも、教科書の枠組みにこだわらない勇気を持つことです。その具体例を次回お目にかけましょう。今回も貴重な時間を割いて読んでいただき、ありがとうございました。

                   

                  | 中高生の皆さんへ | 14:29 | comments(0) | - |
                  あなただけのノートの作り方− その2
                  0

                    『世界に二つとないノートの作り方』を読んで、面白そうだ、「いっちょ、やってみるか」と思った人はいるでしょうか。一人でもいれば嬉しいですね。今の中高生は、集団の中で空気を読み、周りに合わせ(キャラをたてるのもその一つです)、ナナフシのように学校空間を生き延びているので、「世界に二つとない」とか「あなただけの」という言い方には抵抗を感じるかもしれません。 

                     

                     

                     

                    子供の頃、ナナフシを枝と間違えてつかんだ時のショックは忘れることができません。枝だと思っていたのが動いたのですから。それで私はナナフシのような生き方ができなくなったのかもしれません。いや、きっとそうです。

                     

                     

                     

                     

                    日本文化は多民族国家のアメリカと違って、自己をアピールしなくとも生きていける社会を作りました。それは私たちの作法として、身のこなしだけではなく、ものの考え方にも影響を与えています。私はそれを素晴らしいと思います。

                     

                     

                    しかし、擬態によって自分の存在を隠していると、いつのまにか自分を見失ってしまうのも人間です。日本には「和して同ぜず」という言葉があります。周囲と協調することを重んじながらも、自分の思想・信条まで売り渡すことはしない、という意味です。

                     

                     

                    今回はそういった生き方をしたいと思っている人に、前回言い忘れたことを補足します。知識や情報だけでなく、感性を駆使して時間と空間を作り上げるためのノートは、いわば、「母港」としてのノートです。このノートを起点として、様々な知識を採集したり、捕獲したりします。そして獲物を抱えて、このノートに帰ってきます。

                     

                     

                     

                    例えば次のような情景をイメージして下さい。朝まだ明けきらぬころから、漁船は、漁場を目指して港を出ていきます。そして漁を終えて夕方港に戻ってきます。もし帰るべき港がなければ、漁船は永遠に大海をさまよわなければなりません。その寄る辺なさを想像してみて下さい。つまり、帰ることができる母港があるからこそ、安心して漁に出ることができるのです。

                     

                     

                     

                    私の言う「思考ノート」は、この「母港」のことです。そこに何を書くかは説明しました。詳しくはブログをお読みください。重要なことは、時系列で書くことでした。今回の補足は、中心となるノートを時系列で書く以上、配布されるプリントや、返却されたテスト用紙、文化祭のパンフレット、コンサートのチケットなどもすべて時系列で整理しなければならないということです。もちろん一つのファイルに一日分を保存します。教科別で整理されたものは役に立ちません。

                     

                     

                     

                     

                    百均に行くとA4のクリアファイルが売られています。高校生なら1か月で30枚必要です。その中に今述べたプリントの類を時系列で挟んでいきます。もちろん表を見ただけで、それが何月何日のファイルかすぐに分かるように日付を書きます。それと「思考ノート」の日付を同期させるのです。ノートにコンサートのことが書かれていれば、同じ日付のファイルにコンサートのチケットが入っていることになります。

                     

                     

                     

                    「思考ノート」の日付は、クリアファイルの日付と一致しているのです。これでクロスレファレンス(参照箇所)が楽に探せます。探しながら、このページに書かれてあることは3日前に書いたことと関連があるのでは?と気づきます。こうなればしめたものです。赤の矢印でつなぎましょう。

                     

                     

                     

                    クロスレファレンスが多ければ多いほど、点が線になり、線が面になり、やがては空間になっていきます。あなたの思考によって生み出された空間はあなたのもう一つの現実になります。どんなに辛いことがあっても、そこへ帰ってくれば癒されます。そういう世界を持っていればこそ、匿名の現実に立ち向かう勇気も出てきます。

                     

                     

                    どうです、「いっちょ、やってみるか」という気になったでしょうか。だまされたと思ってやってみて下さい。長くなるので今日はここまでにしておきます。それではまたお会いしましょう。

                     

                    | 中高生の皆さんへ | 22:49 | comments(0) | - |
                    The time has not come yet.(機未だ熟さず)
                    0

                      今年の高校入試も順調なすべり出しです。国立高専を志望していた3人のうち、推薦入試を受験したN君、K君がみごとに合格しました。N君は3年間、K君は5年間私の塾に通ってくれました。N君とは入試前に小論文の書き方を勉強しましたが、少しは役に立ったでしょうか。後は一般入試でチャレンジするA君の合格を待つばかりです。上野丘、舞鶴を志望している人も、まず間違いなく合格するでしょう。

                       

                       

                      昨日は授業の終わりに、適性と「時機」について話しました。そもそも適性とは何でしょうか。その人の才能や性格や将来性のことを指すのでしょうか。ほら、わからないでしょ。ちょっと考えるだけでも意味不明の言葉が、進路を決める時に独り歩きしているのです。このことはすでに書きました。中高生の皆さんにも参考になるのでよかったらお読みください。

                       

                       

                      『贈る言葉 ・ 中学3年生の皆さんへ。』

                      http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=318

                       

                       

                      今回は「時機」について話します。正直に言うと、私は中学、高校、浪人時代を通じて、受験勉強に本気で向き合うことがついにできませんでした。だから「本気で」受験勉強に取り組んでいる人を見ると、ただただ感心するばかりでした。きっと将来の夢をはっきりと思い描いていたのでしょうね。

                       

                       

                      でも、私のような人間もいるのではないでしょうか。案外多数派かもしれませんね。そのせいか、私は塾教師として、生徒を「本気で」勉強に追い込むことができません。本気になるのはあくまでも生徒の皆さんですから。

                       

                       

                      いずれにせよ、大切なのは普段の学習環境です。東大に合格することが教育の最良・最高の結果などとは一ミリも思っていない大人がいて、それに変わる価値を示し、ともに知的トレーニングに励む場所が私の塾です。

                       

                       

                      ところで、人間には、その人の持っている能力が開花する「時機」があるような気がします。「桃栗三年、柿八年」という言葉があります。しばらく会っていない昔の生徒に会うと、それがよく分かります。ああ、やっぱり○○君は「柿」だったんだ。○○さんは「桃」で、○○君は「栗」だったのかもしれないという風に。それぞれに立派な実をならせているのを見るとうれしくなります。

                       

                       

                      「桃栗三年、柿八年」という言葉は、母が良く唱えていました。私のようなできの悪い息子を育てながら、この子は桃や栗のように三年で実がなりはしない、一人前になるには時間がかかるだろうと自分に言い聞かせていたのだと思います。

                       

                       

                      そのリズムのよさも手伝って、私もすぐに覚えました。広辞苑第6版によると「芽生えの時から、桃と栗とは三年、柿は八年たてば実を結ぶ意。どんなものにも相応の年数があるということ」とあります。「何かに取り組んだとき、すぐに結果を求めたがる人に対して、まずは地道な努力が大切と、言い聞かせる場合に使われることが多い。」とのことです。

                       

                       

                      はたしてそうでしょうか。これは「地道な努力が大切と、言い聞かせる」ための言葉でしょうか。もっと深い意味があるような気がします。人間には器というか「時機」がある。実がなるのに8年かかるのに、3年で実をならせようとすれば、果樹であれ、人間であれ、可能性をつぶしてしまう。それどころか、世の中を息苦しく住みにくい場所にしてしまうという昔の人の知恵というか洞察が込められているような気がします。

                       

                       

                      人生100年の時代だと言われています(私は70歳まで生きることができれば十分だと思っています)。そうであれば、なおのこと期限を区切っていつまでにこれができなければならないと考える必要はないはずです。

                       

                       

                      そもそも、6・3・3制の学校教育はアメリカから輸入された近代の産物にすぎません。そこでは子供たちの能力の開花時機も一律に決められます。その結果、全員が横並びのドッグレースを走らされることになります。「柿」なのに、「桃」や「栗」と競争させられるのです。もともと無理な競争をさせられているわけですから、当然脱落する子供も出てきます。「桃」や「栗」が「柿」を見下す教育は終わらせるべきです。

                       

                       

                      言うまでもなく、近代国家は軍隊と学校制度を持つことでスタートしました。その近代が終わりを迎えているときに、近代的な枠組みの中でしか考えられないとしたら、私たちの社会は早晩破綻するしかありません。安倍政権の道徳的・倫理的な退廃は、その予兆なのです。

                       

                       

                      ではどうすればいいのか。簡単です。まず腐った部分を切除します。放置すれば菌が全身に回り、健康な細胞も壊死します。次に、少子高齢化、人口減少社会の入り口に立っている今こそ、社会の時間軸をとらえ直す絶好のチャンスです。

                       

                       

                      「働き方改革」だとか「人づくり革命」といった軽薄この上ない言葉は、沈みかけている船の中で、カラ元気を出すための欺瞞言語に過ぎません。私たちは沈みかけた船を捨て、救命ボートに乗り換えて新しい大地を目指さなければなりません。では社会の時間軸をとらえ直すために何をすればいいのか。そのヒントはすでに述べました。

                       

                       

                      『100年後の生存戦略−教育』

                      http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=446

                       

                       

                      さて、話は塾の現場に戻ります。他に取り柄のない私のような人間でも、長い間塾教師を続けていると、否が応でも気づくことがあります。それは、大人が市場社会の絶対時間とコスパ万能主義のとりこになった結果、子供たちの使う言葉が、瞬間芸としての擬音語や擬態語のようなものに退化したということです。

                       

                       

                      世の中で最も大事なものは経済=お金だと考えれば、言葉をつむぐ必要などありません。新しい社会を構想する言葉も、常識的な物の見方を切り裂く言葉も必要とされなくなります。

                       

                       

                      私たちは日に何度か胃袋を満たさなければなりません。同様に、私たちの精神も言葉で満たさなければなりません。獲れたばかりの生きのいい魚のような言葉。太陽の光を思う存分浴び、栄養たっぷりの土壌で育ったみずみずしい野菜のような言葉。

                       

                       

                      人は新しい言葉に出会い、新しい生き方を発見することで「いっちょ、やってみるか」という気になるものです。私が心がけているのは、生徒に「いっちょ、やってみるか」という気を起こさせることです。一方で、理解が遅い生徒に向き合うときは、The time has not come yet.(機未だ熟さず)とつぶやくことにしています。

                       

                      | 中高生の皆さんへ | 09:45 | comments(0) | - |
                      世界に二つとないノートの作り方。
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                        今回は世界に二つとないノートの作り方について書きます。誰にも真似ができないノートです。真似ができないのなら読む必要はない、と思っている人もいるでしょうね。でもそういう人にこそ読んでもらいたいと思います。

                         

                         

                        私の言う「思考ノート」、別名「生き延びるためのノート」がどういうものか分かれば、ノートを作ることも、勉強することもきっと面白くなると思います。それだけではありません。生きることも楽しくなります。以下二つに分けて説明します。

                         

                         

                        その1:「思考ノート」を作る意味。

                         

                         

                        前回のブログでも述べましたが、考えることは目の前の現実を疑うことを意味します。「思考ノート」は、現実という既存のシステムの外にあなた自身の世界を作る創作ノートです。受験勉強に役立つのか、ですって?それは以下を読んであなたが判断することです。

                         

                         

                        でも、匿名化した既存のシステムにいかに効率よく順応するか、いかに効率よく点数を伸ばしてブランド大学に合格するか、というようなことばかり考えている人には、「目の前の現実を疑う」という意味がわからないでしょうね。それどころか、悲しいことに、現実を疑う人を嫌悪するようになります。

                         

                         

                        この国のいわゆる「富裕層」は知識と情報を独占することで富を独り占めにしています。しかし、知識や情報はすべての人がアクセスできる開かれたものでなければなりません。権力によって情報がゆがめられ、隠蔽されることを許してはなりません。同様に知識の習得も経済力によって左右されることがあってはならないのです。

                         

                         

                        若い人たちは、「富裕層」の価値判断を無批判に受け入れたり、行動規準を真似たりして、「道徳的貧困層」に転落してはなりません。私の言っていることが理解できる若い人もいると思います。今回はそういう人に向けて書きます。

                         

                         

                        「思考ノート」は『東大合格生のノートはかならず美しい』といった類の「知識の整理ノート」ではありません。この手のノートは早晩AIに取って代わられます。「事務処理能力」や「知識の整理」では人間はAIにかなわないのですから。

                         

                         

                        ここで注意してもらいたいことがあります。「知識」はあなたの外部にあります。それによって文明社会が築かれてきました。学校教育は、不完全ながらも、この知識を伝える場です。決してどうでもいいものではありません。

                         

                         

                        しかし、次のことも忘れてはなりません。現実とは集団が作り出した、集団が生き延びるための匿名化したシステムだということです。その最たるものが「国家」です。「国家」は国民に「死ね」と命令することがあります。その時あなたは命を投げ出すことができますか。今から75年前、前途ある多くの若者が戦場に赴き命を落としました。以下の動画をご覧ください。彼らの命とあなたの命はつながっています。

                         

                         

                         

                         

                        「思考ノート」は、こういった現実に拮抗する、「もう一つの現実(Alternative Reality)」を作るためのノートです。「東大合格生の必ず美しいノート」は、誰でもいい誰かの人生を生きるためのノートです。若い知的なあなたなら、そもそも他人が作ったノートなど役に立たないと知るべきです。

                         

                         

                        皆さんは様々な知識を学びます。しかし、知識は断片です。「思考ノート」は、断片としての知識を回収し、関連づけ、集積して一つの空間を作り上げる設計図のようなものです。

                         

                         

                        その2:「思考ノート」の作り方。

                         

                         

                        それでは具体的な内容に入りましょう。まず大学ノートを用意して下さい。重要なポイントは「時系列」で書くということです。そして、知的活動の全てがこの一冊のノートを起点として展開され、そこに収束するようにします。つまり、「このノートが私です」と言えるものを作ります。

                         

                         

                        ノートを開いて最初にすることは、日付と曜日、現在時刻を書き込むことです。科目別、テーマ別ではなく、あなたがその日に学んだ知識とそれについて考えたこと、思いついたこと、後で調べようと思ったことなどのすべてを一冊のノートに時系列で書きます。今日の天気、気温、学校であった事、友達が言った気になる一言があればそれも書きます。要するに今あなたが考えていることをそのまま言語化します。

                         

                         

                        例えば「こんなことばかりしていては数学の課題ができなくなる」と思えば、それを書きます。そしてノートを開いたままで、数学のプリントに取り組みます。すらすら解ければ「今日の課題は簡単だった。楽勝!」とノートに戻って書き込みます。簡単な問題はクロスレファレンス(参照箇所)を書き込むだけでいいでしょう。もちろん解くのに要した時間と、終わった時刻を書き込むのを忘れないように。

                         

                         

                        解けなければ、「この問題が解けない原因はどこにあるのだろう。そもそも確率の基礎が分かってないのかもしれない。順列と組み合わせと確率はどう関連しているのだろう。確率の『同様に確からしい』という言葉はどういう意味なのか?」などと書き込みます。

                         

                         

                        もしあなたが高校生で、数学の問題に行き詰ったら、イラストを描きましょう。牧場の中に羊を描きます。4頭くらい描いて名前を付けます。つまり、羊と数学の「分からない問題」を関連づけるのです。

                         

                         

                        例えば羊の「ショーン」を見ると数列の問題を、「ルーシー」で三角関数の問題を思い出すという風に。これであなたは常に問題を考えることができるようになります。羊を飼うように頭の中に問題を飼っているのですから。

                         

                         

                        あるいは次のようなことを書いてもいいですね。その日の予定、部活のスケジュール、一週間後に迫ったテスト範囲の確認、夏までにやっておきたいこと、昨日見た夢のこと、その夢で出会った人物のイラスト、化学の解けなかった問題、学校の机の中に忘れてきた読みかけの小説、思いつき、ただの落書き、その日食べたものなど。以前考えたことと関連があると思ったらそのページを探して赤の矢印で結びつける。クロスレファレンスをあちこちに書き込む。

                         

                         

                        もちろん気に入った英語の参考書の表紙を勝手にレタリングしてもいいし、気分が滅入ったときには色鉛筆、ボールペン、クレヨン等を使ってカラフルに仕上げるのも面白いでしょう。プリクラを貼るのもいいでしょう。しかし、あくまで勉強を中心にしたノートでなければ長続きしないということを忘れないように。

                         

                         

                        こうやって作ったノートはあなただけのものです。誰にも真似のできない、あなたの思考の軌跡や感情が刻印された世界に二つとないノートとなります。そしてあなたは気づきます。自分の内面世界の豊かさに。これこそが自分の時間と空間だということに。あるいは、無関係だと思っていたことがつながっていることに気づき、驚嘆するのです。

                         

                         

                        これが匿名のシステムに拮抗する「もう一つの現実」=あなた自身の世界です。私の言う「思考ノート」はあなたの日記でもあり、詩集でもあり、スケッチブックでもあり、あなた自身に宛てた手紙でもあり、設計図でもあるのです。つまりこれこそが世界に二つとない「生き延びるためのノート」です。ノートを作るかどうかはあなたにかかっています。

                         

                         

                        参考までに以下の記事を挙げておきます。10年以上前に書いたものです。みなさんの健闘を祈ります。

                         

                        未来塾通信31『他人から理解されないつらさと、そこから生まれるものについて』

                        http://www.segmirai.jp/essay_library/essay031.html

                         

                        | 中高生の皆さんへ | 10:24 | comments(3) | - |
                        もうひとつの「現実」(Alternative Reality)を見る。
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                          明日からいよいよセンター試験が始まります。先ほど塾の生徒に激励のメールを送りました。この時期は、寒さが一年で一番厳しくなります。雪が舞い、道路が凍結する中、受験生が試験会場へと向かうのを何度となく見送ってきた気がします。

                           

                           

                          ところで、前回のブログで、「自分のやりたいことを見つけて、夢と希望に向かって生きよう」というフレーズを、軽薄で幼稚な「政治的」なキャッチフレーズだと書きました。

                           

                           

                          匿名化したシステム(例えば、学校でいじめにあって生徒が自殺した時、だれも責任をとりません。原発事故でも責任をとった人はいませんし、刑務所に入った人もいません)に殺されずに生き延びるには、私の言う意味が分かっていることが必要です。それを説明しましょう。

                           

                           

                          「自分のやりたいことを見つける」は、一時期流行した「自分探し」や「自己実現」という言葉の言い換えに過ぎません。まるで、幸せになるためには「自分のやりたいこと」を見つけなければならないと言っているようです。

                           

                           

                           

                          このたぐいの言葉は、スポーツ選手・タレント・マスコミ・出版社・教育関係者などから発せられます。さらにはビートたけしのような似非芸術家もこれに加わります。自分の「芸術」が世間に迎合した余興に過ぎないことに気づいていないのですから言葉が見つかりません。私は、芸術の本質は、既存の社会や組織や流派を変革するエネルギーを生みだすところにあると思っています。

                           

                           

                           

                          そもそも、本当に自分のやりたいことを見つけた人は、沈黙しているはずです。それを世間に向けてアピールしたいなどとは思わないはずです。

                           

                           

                           

                          しかし、その一方で、他者から承認されたいという欲求を抑えられない人がいます。少しばかり名前が売れただけで、あちこちに顔を出し、「スポンサー」に媚びます。うるさくて仕方ありません。彼らは沈黙とは無縁なのです。競争社会では沈黙していては金になりませんからね。

                           

                           

                           

                          かくして「自分のやりたいことを見つける競争」はアメリカ流の「自己アピール」とセットになって、私たちの社会を軽薄で幼稚で騒々しい社会に変えたのです。

                           

                           

                           

                          「政治的」なキャッチフレーズと言ったのは、自分の足元を見つめ、そこを掘り下げれば様々な矛盾や不都合な真実が出てくるので、夢や希望を追いかけさせて注意をそらす必要があるからです。

                           

                           

                           

                          「自分のやりたいこと」が被災地のボランティアならメディアに取り上げてもらえます。しかし、東京オリンピックに反対したり、電力会社を相手に裁判を起こしたり、電源三法や総括原価方式の廃止を訴えたりすることは「自分のやりたいこと」の中には含まれません。

                           

                           

                           

                          さらに、日本がいまだにアメリカの占領下にあるという事実を指摘したり、日米地位協定の見直しを政府に迫ったり、「日米合同委員会」の存在を世間に知らせたりする活動は、「自分のやりたいこと」どころか、「やってはならないこと」にされます。

                           

                           

                           

                          つまり「自分のやりたいこと」は、匿名のシステムを固定化し補強する限りで認められるのです。これを「政治的」と呼ばずになんと呼べばいいのでしょうか。匿名のシステムは、まさに私たちの無意識が作り出したものです。それが私たちを監視し、自由を奪っているのです。このあちこちに張り巡らされている抑圧のシステムを私たちは「現実」と呼んでいます。

                           

                           

                           

                          しかし、勘違いしてはなりません。無意識が作りだしたもの、すなわち多くの人が見ている夢を一人でひっくり返そうとしても無駄です。ではどうすればいいのか。他人の夢に付き合う必要などないと、一人で宣言すればいいのです。皆で同じ夢を見るためには現実は一つだと思い込まなければなりません。戦争は皆で同じ夢を見ることです。これほどバカげたことはない!

                           

                           

                           

                          振り返ってみれば、私はブログを通じて、現実を多層構造で見ることの大切さを繰り返し語ってきた気がします。時間と空間にこだわったのは、その感知の仕方こそが、その人固有の現実を発見し作り上げるのに役立つと確信しているからです。

                           

                           

                          最後に一言。人生は「自分のやりたいことを見つける」ためにあるのではありません。「これは自分がやるしかない、やらなければならない、と覚悟したこと」をやるためにあるのです。つまり「使命」を自覚するということです。続きはまた次回にします。今回も読んでいただきありがとうございました。

                           

                           

                          未来塾は2018年度、塾生の募集を始めました。詳細は LINKS [未来塾 Webぺージ]をご覧ください。

                           

                          | 中高生の皆さんへ | 23:30 | comments(0) | - |
                          この問題が解ければ上野丘高校に合格できます!
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                            以下がその問題です。新潟県の公立高校の問題ですが、決して難問というわけではありません。

                             

                             

                             

                             

                            今回のタイトルは、集客力がすべての(つまり資本力にモノを言わせる)塾のキャッチコピーのようで恥ずかしいのですが、せっかくの中身も読んでもらえなければ意味がないので、このタイトルにしました。

                             

                             

                             

                            過去、この問題が解けた生徒で上高に不合格になった生徒はいません。もちろん他教科との兼ね合いもありますし、内申点もありますから、この問題が解けたからといって、100%合格できるわけではありません。

                             

                             

                             

                            私は生徒の志望校合格可能性を判断する時、模試の点もさることながら、どの問題が解けたかという細かいデータを頭に入れています。Aの問題が解ければ○○高校合格、Bの問題が解ければ○○高校は大丈夫、しかしCの問題が解けなければ○○高校は危ないという風に。これは長く塾を続けてきたおかげで蓄積されたいわば「自家製のデータ」です。

                             

                             

                             

                            ところで冬期講習会の少し前から、私がこれまで良問だと思った問題を絞りに絞って『高校入試数学究極の30問』と題するプリントを作り、それを解いてもらっています。これに「じっくり」取り組めば、満点が狙えるはずです。たぶん。上の問題はその第1問です。

                             

                             

                             

                            『高校入試数学究極の30問』の中には図形の面積や線分の長さを求めるものが10問ほどあります。クイズのようで、解いている間に力がつく問題です。集中力と発想力が必要とされますが、解説を聞いても分からないようなアクロバティックな数学的センスは必要ありません。

                             

                             

                             

                            (1)の問題は絶対に解けなければなりません。

                            (2)については、短いヒントを出します。以下は生徒とのやり取りです。

                             

                             

                             

                            「(2)の問題は線分の長さを求めるものですが、これまで習った線分の長さの求め方はどんなものがありますか」

                             

                            「相似比と平行線と線分の比、あと三平方の定理」

                             

                            「ではこの問題でそれが使えますか?相似の三角形もないし、直角三角形もありません。つまり、それ以外の方法を考えないとね。普通この問題を見た時、情報量が少ないのでどこから手をつけていいかわからないはずです。そんなときどうしますか?」

                             

                            「・・・・・・・」

                             

                            「とにかく、15分間はあれこれ考えてみて下さい。あれこれ考えると言いましたが、その中身がイメージできていますか?一本の補助線を引くことで問題を全く違う角度から考えることもできます。」

                             

                            「えっ、補助線を引くんですか?」

                             

                            「この問題で補助線を引かずに、次の段階に進めると思っているの?」

                             

                            「どこに補助線を引くんですか?」

                             

                            「どこにでも、君の好きなところに。なんならボールペンで君のおでこに引いてもいいよ。冗談だけど。」とまあ、こんなやりとりが続いた後、生徒は集中します。

                             

                             

                             

                            もちろん制限時間が経過した後、詳しい解説をします。解説しながら生徒の顔を見ると、思考が深まっているのが手にとるように分かります。一人一人の名前を呼び、理解できたか確認します。決して先を急ぎません。一日で何問やったかなどということは、瑣末なことです。

                             

                             

                             

                            ところで、前回のブログで私は次のように書きました。

                             

                             

                             

                            「知識は個性や思考と連動し、さまざまな局面で独自の動きをしているのです。一度インプットされた知識は解体され再構成されて、それを使う人間と一体化します。それを知識の質といいます。 

                            野球で言えば、ピッチャーの球質が体重移動や指の長さやリリースポイントや天候やその日の体調によって左右されるのと同じなのです。一流のピッチャーはこれらすべての条件を頭に入れ、ピッチングを組み立てています。速い球を投げるだけでは、簡単に打ち崩されてしまいます。」と。

                             

                             

                             

                            私がここで書いたことは、数学だけではなく、およそ人間の知識や思考にまつわる問題ではジャンルを問わず当てはまると確信しています。なぜなら今朝の朝日新聞の文化文芸欄で作家の村上春樹氏が翻訳について全く同じことを言っていたからです。私は驚くというか、本質的な発想の類似性に絶句してしまいました。

                             

                             

                             

                            以下は村上氏がレイモンド・チャンドラーの長編7作を完訳したことを受けてインタビューに応じたものです。

                            ちなみにチャンドラーは私の大好きな作家で、塾の生徒にも『ロング・グッドバイ』を紹介したことがあります。彼が生み出したハードボイルド小説の探偵フィリップ・マーロウの次のセリフは有名です。

                             

                             

                             

                            「タフじゃなくては生きていけない。やさしくなくては、生きている資格はない。」原文は「If I wasn't hard, I wouldn't be alive. If I couldn't ever be gentle, I wouldn't deserve to be alive.」です。元京都大学原子炉実験所の小出裕章氏が講演でこの言葉が好きだといった時、私は必死で涙をこらえたのを覚えています。

                             

                             

                             

                            村上氏の記事に戻ります。

                             

                            引用開始

                             

                            翻訳とは原典を「ばらばらにしてもう一度組み立て直す」作業だと村上さんは言う。

                             

                             「チャンドラーは、解体して再構築するには絶好のモデルなんです。チャンドラーのようなミステリーを書こうとしても、それはむずかしい。小説は、どう解体するかというところにかかってるんです。そこから何かを学ぶとしたらね」

                             

                             同じような「解体と再構築」をしている書き手として、村上さんは今年のノーベル文学賞を受けたカズオ・イシグロさんの名を挙げた。

                             

                             

                             「SFをやったり昔のイギリスの執事ものをやったり、書くたびにある種の小説のスタイルを再構築している。彼もチャンドラーが大好きなんです。何度か会って話してるけど、チャンドラーの話になると生き生きしてくる」

                             

                             村上さんの小説は現実と非現実の世界を行き来するようなものが多いのに、翻訳ではリアリズムの作品を多く手がけるのは、なぜなのか。

                             

                             

                            「非リアリズムのものを書こうと思っても、きちんとしたリアリズムの文章が書けないと、それはできないんです」

                             

                             「僕は自分の文体を強くしなくちゃいけないと思って『ノルウェイの森』をリアリズムで書いて、そこからずいぶん楽になった。だから翻訳でもリアリズムのものをやって文体を磨き上げたい、文体を引き締める訓練をしたいという気持ちがある」

                             

                             村上さんは小説でも翻訳でも、原稿に繰り返し手を入れるという。

                             

                             

                            「たいそうな言い方になるかもしれないけど、生きた文章を書くには潜在意識で洗い直す作業が必要なんです。ある程度の時間をおいて無意識のなかを何度も通さないと、文章が立ち上がってこない、本当に

                             

                             「文章の力は、評価するのがすごく難しい」と村上さん。

                             

                             

                            「家庭風呂と温泉のお湯との違いを表現するのが難しいのと同じです。温泉のお湯の持つ力を出すためには、時間をかけて、潜在意識を何度もくぐらせることがすごく大事になってくる。小説でも翻訳でも、それはまったく同じです」

                             

                             

                            引用終わり

                             

                             

                            アンダーラインの部分をよくお読み下さい。一部語句を入れ替えて書いてみます。

                             

                            「たいそうな言い方になるかもしれないけど、問題を解決する糸口を見つけるには潜在意識で洗い直す作業が必要なんです。ある程度の時間をおいて無意識のなかを何度も通さないと、アイデアが立ち上がってこない、本当に」

                            「無意識のなかを動いている思考の力は、評価するのがすごく難しい」

                             

                            | 中高生の皆さんへ | 18:11 | comments(1) | - |
                            「画竜点睛を欠く(がりょうてんせいをかく)」
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                              冬期講習会が迫ってきました。昨日も附属中学に通っている子供をもつお母さんから冬期講習に参加したい旨のお問い合わせをいただきました。今月に入って4人目です。皆さんすでに塾に行っています。かけもちで私の塾にも来たいとのことでした。

                               

                               

                               

                              中学3年生の入塾は夏休みの講習会が最後で、それ以降は空席があってもお断りしている旨を説明しました。せっかくお問い合わせいただいたのにお断りするのは心苦しいのですが、今通っている塾での学習の質を高めるようにアドバイスしました。

                               

                               

                               

                              講習会の直前まで生徒を募集している塾もあるようですが、これまでの経験から、未来塾ではお断りすることにしています。理由は今来ている生徒さんを大事にするということはもちろんですが、直前になって塾を掛け持ちすれば不合格になる可能性が高くなるのです。

                               

                               

                               

                              私の塾でも過去2名ほど直前になってかけ持ちをしたいという生徒がいました。不安なのでしょうね。もちろん選択は自由です。しかし、結果は2名とも舞鶴高校に不合格でした。「この調子でいけば確実に合格するよ」という私の言葉を信じることができなかったのです。

                               

                               

                               

                              人より少しでも多くの時間とお金をかけ、塾をかけ持ちすれば受験に有利になると考えているのでしょうが、人間はそれほど単純な生き物ではありません。つねに有利か不利か、受験に役立つかどうかで物事を考えている人は、知識や情報を量で測ろうとします。お金をためるのと同じ感覚でとらえているのですね。必要最小限の投資で最大の利益を上げることを目指す、コスパ至上主義に毒されているのです。

                               

                               

                               

                              最近の入試では、知識を単純に問うだけではなく(そうは言っても受験では8割が知識を問う問題です)知識相互の関連やそこから予想される結果を問う問題も増えています。つまり、知識は個性や思考と連動し、さまざまな局面で独自の動きをしているのです。一度インプットされた知識は解体され再構成されて、それを使う人間と一体化します。それを知識の質といいます。

                               

                               

                               

                              野球で言えば、ピッチャーの球質が体重移動や指の長さやリリースポイントや天候やその日の体調によって左右されるのと同じなのです。一流のピッチャーはこれらすべての条件を頭に入れ、ピッチングを組み立てています。速い球を投げるだけでは、簡単に打ち崩されてしまいます。

                               

                               

                               

                              この最も肝心なことが分からず、言っても聞く耳をもたない生徒には退塾を勧告することにしています。前述の2人にも退塾を勧告しました。知識の習得が単純なブロックの積み上げ作業のようなものだと信じていれば、学ぶことは楽しくないでしょうね。

                               

                               

                               

                              ところで皆さんは「画竜点睛を欠く(がりょうてんせいをかく)」という言葉をご存知ですか。数年前までは、塾の生徒でこの言葉を知らない人はいませんでした。ところがいまの中学3年生は、知らない人の方が多いのではないでしょうか。言葉を知らなければ認識の幅も狭まります。つまり思考し行動する幅が狭くなるのです。

                               

                               

                               

                              「画竜」は竜の絵を描くこと、「睛」は瞳のことで(「晴」ではありませんよ)「点睛」は瞳を点ずる、描き込むということです。中国の梁の時代、張僧ヨウという絵師が竜の絵を描き、最後に瞳を入れたところ竜が天に昇ったという故事から、「画竜点睛」は大事な仕上げをするという意味です。「画竜点睛を欠く」とは、その仕上げを欠いてしまうことです。

                               

                               

                               

                               

                              やさしく言えば「物事をりっぱに完成させるための、最後の仕上げを忘れること。また、全体を引き立たせる最も肝心なところが抜けていること。」を意味します。

                               

                               

                               

                              おそらくどこの塾でも、先生が良心的で生徒のことを考えていれば「画竜点睛を欠く」ことがないように、最後の仕上げに全力を傾けるはずです。もちろん私もそうするつもりです。冬期講習の期間はそのためにあります。

                               

                               

                               

                              墨の濃淡に工夫を凝らし、躍動感や迫力が出るように試行錯誤してきて、肝心な竜の瞳を描き込むことをしなければ、竜が天に昇ることもないでしょうから。

                               

                              | 中高生の皆さんへ | 15:20 | comments(0) | - |
                              冬期講習会直前の時期になりました。
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                                以下の問題は、集中力を持続させるために中3生に解かせた数学の問題です。8人中4人しかできませんでした。全体像を理解し、この方法で解くしかないと決断し、手順を間違えないようにする力が、すなわち自分を信じる力がまだまだ不足しています。

                                 

                                 

                                 

                                 

                                ところで、毎年この時期になると、受験生は浮足立ってきます。勉強が上滑りになり、じっくり落ち着いて問題に取り組むことができなくなるのですね。受験がリアルな問題として前景化してくると、誰だれはどこの冬期講習会に行っている、などといった情報が飛び交い、ますます落ち着かなくなってきます。無理もありません。日頃から閉ざされた教室の中で他人のことばかり気にして生活しているのですから。

                                 

                                 

                                 

                                自己宣伝ではありませんが、これまで高校受験での当塾の塾生の合格率は98〜99%です。140人近くが上野丘・舞鶴に合格していますが、毎年5〜6人が合格し続けた結果、集計すればそうなったというだけのことです。地元に密着して30年以上も塾をやっているためか、口コミで地域の優秀な生徒さんが集まってくれるようになったのです。

                                 

                                 

                                 

                                「驚異的な合格率!」などと宣伝するつもりは全くありません。それを自分で言える神経が私にはわかりません。いや、わかりすぎるほどわかっているのです。しかし、金もうけがしたいだけの単なるバカになることがどうしてもできないのです。

                                 

                                 

                                 

                                「そういった発想自体が時代遅れなんだよ!宣伝しないでどうして商品を売るんだ?」と批判されるかもしれませんが、「商品」を売っているという意識が私にはないのです。知性を身につけ、矛盾と欺瞞に満ちた社会を他人や組織に操られることなく、何とか生き延びて幸せになってもらいたいという思いで生徒に勉強を教えているのですが、それが「商品を売る」ことだとはどうしても思えないのです。生徒や親御さんを「お客さん」だとも思いません。「買い物以外に、この世の中で大事なことはない」と思い込まされている「お客さん」を相手に、いったいどうやって勉強を教えることができるでしょう。

                                 

                                 

                                 

                                それどころか「集客」にはかえってマイナスになる内容のブログをこうして書いています。それで、生徒や親御さんとの教育方針のミスマッチを防ごうとしているのです。ある意味「驚異的な合格率!」なる宣伝文句につられて入塾してきそうな「お客さん」にはご遠慮いただいているとも言えます。

                                 

                                 

                                 

                                どこかの塾長のように、第三者になりすまして自塾を宣伝し、一橋大学出身という学歴をニセの管理人に「足元にも及ばない」と言わせて「集客」することなど思いつきもしません。ネット社会とは表の顔と裏の顔の隔たりが大きい社会のことです。「なりすまし」は当たり前だと思っていた方がいいのです。

                                 

                                 

                                 

                                ところで、最近は部活の疲労のためか、授業中に居眠りする生徒が増えてきました。そんな時、私は次のように言います。

                                 

                                 

                                 

                                「部活をした後、あわてて夕食をとり、塾に来れば眠たくなるのは当然だね。眠るなとは言わない。それでなくとも君たちの年頃は眠たい盛りだからね。時々、瞬間的に意識が遠のいている人もいる。でもこれだけは覚えておいて下さい。君たちのお父さんやお母さんが一生懸命働いて月謝を納めているわけです。その上、車で送り迎えもしてもらっている。だから塾に来ている時間くらいは、なんとか我慢しなさい。それが君たちの義務です。僕が一番残念なのは、せっかく塾に来ているにもかかわらず、塾を生かし切れていない人がいることです。頻繁に居眠りをしている人から月謝をもらうわけにはいきません。僕のそういう気持ちが限界に達した時には、退塾を言い渡すので、恨まないように。」と。

                                 

                                 

                                 

                                それにしても、冬「休み」になって学校から解放されたと思う間もなく、塾の冬期講習会で教室の中に何時間も閉じ込められれば、発想のみならず身体も委縮してしまいます。たかが高校入試なのに、それがとてつもなく大きな壁に見えて来て、神経質になればなるほど、解ける問題も解けなくなります。

                                 

                                 

                                 

                                高校入試の時も大学受験の時も、私は子供には普通に家の手伝いをさせていました。「人並みに受験生扱いしてもらいたい」と子供が言った時には「何が受験生だ。甘えるんじゃない!」と叱ったものです。やたら子供のことを心配して情報集めに奔走する今のお母さんからは理解されないでしょうね。それどころか、離婚されるかもしれません。おお〜こわい。

                                 

                                | 中高生の皆さんへ | 13:55 | comments(0) | - |
                                バカでも慶応大学大学院教授になれます。
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                                  私は他人をバカ呼ばわりしたことはあまりありません。こういう言葉を使うのは思考の怠慢なのです。本来なら、どこがどうバカなのかを説明しなければなりません。かつては養老孟司氏の『バカの壁』を売らんかなのタイトルだとして批判したこともあります。ですから、私がバカという言葉を使うのは、よほどのことだと御理解下さい、なんちゃって。いやいや、のっけからこれではいけません。

                                   

                                   

                                   

                                  言い訳がましいことを言うようですが、バカという言葉を使うのは、批判する対象が本当にバカである場合と、私の語彙力不足が原因です。要するに、他に言葉が思いつかないのです。

                                   

                                   

                                   

                                  自分のブログを読み直すとバカという言葉は三度使われていますが、これ以上ないタイミングで適切に使われていると思います。しかもそれは安倍政権がお友だちを優遇するために国家を私物化していることが明らかになって以降のことです。

                                   

                                   

                                   

                                  では始めましょう。そうは言っても、なるべく手短に済ませます。時間がもったいないし、疲れるだけですから。今回の批判のお相手は岸博幸氏。テレビでよく見かける官僚上がりの電波芸人、いや、小泉純一郎内閣のときに竹中平蔵元経済財政担当相に秘書官として仕え、今は慶應義塾大学大学院メディアデザイン研究科教授です。

                                   

                                  岸博幸氏。

                                   

                                   

                                   

                                  それにしても、「メディアデザイン研究科」は何を研究しているのでしょうか。テレビに出演し、どうでもいいそれらしいことをしゃべって安倍政権を持ち上げ、ちゃっかりギャラを稼ぐ研究をしているのでしょうね。慶應義塾大学も墜ちるところまで墜ちました。

                                   

                                   

                                   

                                  岸博幸氏のような自分のことをバカだとは思っていないバカを批判しようと思ったのは、彼が前文部事務次官の前川喜平氏を「官僚のクズ」と呼んだのがきっかけです。今回は二点だけに絞って書きます。本格的に批判すれば夜が明けてしまいますからね。

                                   

                                   

                                   

                                  私は『本物の国語力は生き方とリンクしている』と書きました。中高生の皆さんには退屈で難しいかもしれませんが、そのことを確かめる絶好の教材です。純然たる論理の問題で、堂々とすり替えをやっていながらそのことに気づかない。気づいているとしたら、道徳的に退廃した信用できない人間だということになります。

                                   

                                   

                                  先ず以下の記事をお読みください。逐一批判したいのですが、中高生の皆さんにとって重要だと思われるところだけを青字で批判してみます。

                                   

                                   

                                   

                                  ― 岸博幸・慶大院教授インタビュー 「加計学園問題は改革つぶし」「前川は官僚のクズ」―

                                  http://www.sankei.com/politics/news/170612/plt1706120032-n1.html

                                   

                                   

                                   

                                  岸博幸氏いわく、「前川喜平前事務次官が「総理のご意向」で「行政がゆがめられた」と証言した。だが、特区を活用した加計学園の獣医学部新設に問題があるのであれば、国家戦略特区諮問会議やワーキンググループで異議を唱えればいい話だった。(ハイハイ、後からなら何とでも言えます。それにしても岸博幸氏は元官僚だったはずです。権力のありかにここまで鈍感でよく仕事ができましたね。後に述べる前川氏の「面従腹背」が理解できないのも無理はありません。)

                                   

                                   

                                   

                                  でも現実には止められなかったのは、文科省には説得材料がなかったからだ。(因果関係をわざとすりかえています。文科省には説得材料がなかったから、というのは原因ですよね。でも本当の原因は官邸や総理の意向という無言の圧力があったことです。自分の保身のために本当の原因を隠しています。このようにわざと因果関係を切断して、ウソの事実を忍びこませるのが官僚上がりの電波芸人の常套手段です。気を付けましょう。因果関係をたどる力は重要な国語力です。)

                                   

                                   

                                   

                                  それは理解できているのだろうか。(オマエが言うな!Y田ゼミ塾長氏の言い方を真似しました。)

                                   

                                   

                                   

                                   

                                  こんなことで行政がゆがめられたというならば、政治主導は全て行政をゆがめることになる。岸博幸氏は anyとallの違い がわかっていません。段ボール箱の中にリンゴがたくさん入っているとします。その中の一つが腐っていたら、すべてのリンゴが腐っていることになるのでしょうか。岸博幸氏はもう一度ゼロから勉強をし直すべきです。どれでもいいから取りだした任意の一つのリンゴが腐っていれば、すべてが腐っていることになります。これが any です。この違いが分かっていれば「政治主導は全て行政をゆがめることになる」などという結論はバカでなければ出せません。事実は、行政をゆがめる政治主導もあれば、そうでないものもある、です。前川氏は行政をゆがめる政治主導があったと言っているのです。)

                                   

                                   

                                   

                                  安倍首相の「ご意向」は岩盤規制の突破だった。(はあ〜?安倍首相の「ご意向」は、岩盤に、お友だちの加計孝太郎氏だけが通れる穴をあけることだったのは明らかです。そのために京都産業大学は弾き飛ばされました。)

                                   

                                   

                                   

                                   

                                  仮に「総理のご意向」が働いたとしても、間違った行政は修正するのが当然だ。(ここまで来ると、なんだか脱力してきます。「間違った行政は修正するのが当然だ」との発言は、巧妙なすり替えです。これは国家戦略特区ワーキンググループ座長である八田達夫氏の「(総理の意向で)不公平な行政が正されたと考えている。獣医学部の新設制限は日本全体の成長を阻害している」との発言と同じです。前川氏が問題にしたのは、獣医学部新設の是非ではなく、それを決めるプロセスの公平さです。それを「間違った行政」と呼び、「修正するのが当然だ」という結論に持っていこうとしています。巧妙というか、アホらしくて問題にもなりません。)

                                   

                                   

                                   

                                   

                                  首相が規制改革の意向を表明しても実現できていない改革なんて、腐るほどある。だから、「総理のご意向」があるから逆らえなかったというのは間違っている。

                                  安倍内閣が人事権を握っているから逆らえないともいわれるが、本当に日本のために必要だと思うなら、クビを恐れずにやればいい。自慢する気はないが、竹中氏の秘書官として不良債権処理をやっていたときは、竹中氏が失敗したら私も辞めるつもりでいた。人事権を握られたぐらいで何もできないなんて、その程度の志しかない人間が偉そうにモノを言うなと思う。(やれやれ。岸博幸氏よ!あなたたちが「不良債権処理」とやらをやっていたとき、それを妨害する総理や官邸からの圧力があったのか?小泉総理はあなたたちを全面的にバックアップしていたではないか。)

                                   

                                   

                                   

                                   

                                   前川氏の座右の銘は「面従腹背」だそうだが、論外だ。(岸氏よ、論外はあなたの方だ!そもそも岸氏には「面従腹背」が理解できないのです。本物の国語力は生き方とリンクしているから。前川氏は最終的に国民のことを考えていたからこそ、「面従腹背」を座右の銘とし、精神の平衡を保っていたのです。岸氏のように保身のために「面従」するしか能のない人間に理解できないのも無理はありません。それでいて前川氏を「官僚のクズ」呼ばわりするのですから、どこまで幼稚で「バカ」なのでしょうか。理解できないものを生理的に嫌悪するというネトウヨの生き方を内面化しています。デカルトの「仮装されたポリティーク」でも読んではどうか。どうせ理解できないでしょうが。)

                                   

                                   

                                   

                                  疲れたのでやめにします。長い文章をここまで読んでくれた中高生がいるでしょうか。もしいたとしたら、心からありがとうと言いたいです。私が『本物の国語力は生き方とリンクしている』を書いたのも、皆さんに本物の知性を身につけてもらいたいという一心からでした。またお会いしましょう。

                                   

                                  | 中高生の皆さんへ | 13:05 | comments(0) | - |
                                  それでも世界はうつくしいと。
                                  0

                                    11月19日のブログを書いた時、頭にあったのは、イサム・ノグチのような突出した芸術家は、社会的な階層からも、教育制度がもたらす様々な制約、弊害からも自由であるということでした。

                                     

                                     

                                     

                                    つまり、彼の作品は、言葉や数式によって精緻に組み立てられた意識的な世界ではなく、身体感覚を全開にして自然の発するメッセージを受けとめている宇宙的でエロス的(生命の根源にあるもの)な作品なのです。

                                     

                                     

                                     

                                    そのとき、ワインの話をしました。ワインの味はつまるところ文化的・社会的階層で決まるもので、単なる味覚の問題ではないということを指摘しました。なぜそんなことを話したかというと、ワインの味を最終的に決めるのは生産地の歴史や文化であり、文化である以上、個性的で大量生産にはなじまないもののはずだと言いたかったのです。

                                     

                                     

                                     

                                    ワインを「純粋に味覚の問題」だと考えるのは、偏差値に代表される線型の序列性の上に子供たちを位置づける教育のようなものです。偏差値は「テイスティングシート」によって子供たちを「識別」する役割を果たすだけです。一方で、様々な障害を持つ子供たちは「不良品」として別の「市場」に供給されます。

                                     

                                     

                                     

                                    大分県立美術館(OPAM)でイサム・ノグチ展を見る。」

                                    http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=428

                                     

                                     

                                     

                                    「そのときテイスティングシートに書かれる言葉は、隣接する数十種類のワインを「識別」するための言葉ではあっても、ワインの味そのものを表現する言葉ではないということです。仮に自由に表現できたとしても、それはある種の「芸風」の域を出ません。差異を識別するだけの言葉は、おそらく何かを探求する言葉としては使えないのです。これはとても大事なことです。」

                                     

                                     

                                     

                                    「よく考えてみると、私たちが「味覚」という身体性にもとづく独自性の根拠としているようなものも、実は自分がある特定の社会的な諸関係・階層に集団として属していることを語っているに過ぎません。それは自分がどの位置にいるかということを教えてくれはしますが、自分の存在の根拠になるものではないのです。」

                                     

                                     

                                     

                                    現在、日本の教育は、子供たちに将来少しでもいい値がつくように、つまり自己利益の最大化に奉仕することを目標に運営されています。子供たちは受験という「公平で平等で客観的な」関門をくぐるようになっているのですが、裏で合否を大きく左右している文化的・社会的階層をロンダリングする機能を果たしているのです。

                                     

                                     

                                     

                                    日本の高学歴「エリート」たちは、表向きは受験勉強の勝利者として自分がある特定の社会的な関係・階層に集団として属していることを意識しています。(意識していなければ単なるバカです。)それに見合った様々な特権を当然だと思っていることでしょう。しかし、繰り返しになりますが、それは自分がどの位置にいるかということを教えてくれるだけで、自分の存在の根拠になるものではないのです。

                                     

                                     

                                     

                                    人間とは不思議な存在です。社会的な成功を遂げても、どこかで自分の存在の根拠になるものを探さざるを得ない生き物だからです。それを放棄すれば内部から腐っていくほかありません。それについてはすでに書きました。

                                     

                                     

                                     

                                    「自壊する日本の高学歴「エリート」たち」

                                    http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=279

                                     

                                     

                                     

                                    日本の教育がめざすべき方向は、人口減少社会の到来を繰り込んだ上で構想されなければなりません。それについては近いうちに書く予定です。

                                     

                                     

                                    さて、高学歴「エリート」たちだけでなく、中高生の皆さんの中で悩み、ひとり震えている人に言いたいことがあります。それでも「世界は美しい」と。

                                     

                                     

                                    以下は「長田弘・全詩集」の518ページから抜粋したものです。

                                     

                                     

                                     

                                    世界は美しいと

                                    長田弘

                                     

                                    うつくしいものの話をしよう。

                                    いつからだろう。ふと気がつくと、

                                    うつくしいということばを、ためらわず

                                    口にすることを、誰もしなくなった。

                                    そうしてわたしたちの会話は貧しくなった。

                                    うつくしいものをうつくしいと言おう。

                                    風の匂いはうつくしいと。渓谷の

                                    石を伝わってゆく流れはうつくしいと。

                                    午後の草に落ちている雲の影はうつくしいと。

                                    遠くの低い山並みの静けさはうつくしいと。

                                    きらめく川辺の光はうつくしいと。

                                    おおきな樹のある街の通りはうつくしいと。

                                    行き交いの、なにげない挨拶はうつくしいと。

                                    花々があって、奥行きのある路地はうつくしいと。

                                    雨の日の、家々の屋根の色はうつくしいと。

                                    太い枝を空いっぱいにひろげる

                                    晩秋の古寺の、大銀杏(おおいちょう)はうつくしいと。

                                    冬がくるまえの、曇り日の、

                                    南天の、小さな朱い実はうつくしいと。

                                    コムラサキの、実のむらさきはうつくしいと。

                                    過ぎてゆく季節はうつくしいと。

                                    さらりと老いていく人の姿はうつくしいと。

                                    一体、ニュースとよばれる日々の破片が、

                                    わたしたちの歴史と言うようなものだろうか。

                                    あざやかな毎日こそ、わたしたちの価値だ。

                                    うつくしいものをうつくしいと言おう。

                                    幼い猫とあそぶ一刻はうつくしいと。

                                    シュロの枝を燃やして、灰にして、撒く。

                                    何ひとつ永遠なんてなく、いつか

                                    すべて塵にかえるのだから、世界はうつくしいと。

                                     

                                    | 中高生の皆さんへ | 16:00 | comments(0) | - |
                                    本物の国語力は生き方とリンクしている。
                                    0

                                      以前ブログでも書きましたが、私は塾や予備校さらには学校で言うところの「国語力」なるものを信じていません。なぜか?教えている側の「国語力」の中身があまりにお粗末だからです。特に塾や予備校のそれは、「論理的思考力を鍛える」と銘打っただけの抽象的記号操作に過ぎません。入試対応という枠の中に安住して、過去の入試問題にある種の法則(陳腐極まりない形式的なものです)を当てはめ、その法則に習熟すれば「短期間に」「結果を出す」ことができると宣伝します。

                                       

                                       

                                       

                                      具体例を挙げてみましょう。あまりにばかばかしいと思う方は、読み飛ばして下さって結構です。

                                       

                                       

                                       

                                      小説を例にとりましょう。主人公の女の子が、クラスでいやがらせを受け、耐えられなくなって突然泣き出すシーンがあります。設問は、「なぜ主人公は突然泣き出したのか、30字以内で答えなさい」というものです。

                                       

                                       

                                       

                                      「仲良くしていた友達にいやがらせを受け、耐えられなくなったから」は間違いです。なぜか。この答案には主人公の感情や気持ちを表す言葉(感情語)が入っていないからです。正解は「それまで仲良くしていた友達に裏切られ、仲間はずれにされたことで孤立感(疎外感)を感じたから」です。

                                       

                                       

                                       

                                      中学受験や高校入試の答案の書き方対策として塾の教師は次のような解説をするでしょう。「事実だけを書くんじゃなくて、主人公の心情を表わす言葉を書かなければ得点になりません。孤立感といったキーワードを書くことで合格に近づきます。」

                                       

                                       

                                       

                                      ここまで読んで、なるほど、これが合格答案を書くためのトレーニングなのかと感心された方はいるでしょうか。これなら塾に月謝を払う意味があると思われたでしょうか。大学受験対策の国語の授業ですら、本質は変わりません。

                                       

                                       

                                       

                                      しかし、この種の解説は、本来多様な読み方が許されているはずの読解を最大公約数的な地点(10人中8人がそう書くだろうと予想される点)に誘導するものです。人間が泣くのは孤立感や疎外感を感じた時だけでしょうか。「いやがらせを受けている最中に、突然、死んだ母親の優しさを思い出したから」はバツなのでしょうか。あるいは「友達のやっていることがあまりに幼稚でバカバカしいことに気づき、泣かずにはいられなくなったから」はどうでしょうか。

                                       

                                       

                                       

                                      もちろん入学試験である以上、与えられた文章から「合理的に」導き出される答案が正解になるのは仕方ありません。最大公約数的な答案からの偏差が得点に影響するのも分かります。しかし、これはカッコつきの特殊な受験対応の「国語力」の話であって、決して言葉の力や考えることの素晴らしさを教えるものではありません。

                                       

                                       

                                       

                                      以前センター試験の国語の評論が分からないという生徒に、私は半ば冗談で、実は本気で次のように言ったことがあります。

                                       

                                       

                                       

                                      「こんなわけのわからない文章は分からなくて当たり前だよ。おそらく書いている本人も自分が何を言っているか分かっていないだろう。筆者が自分の考えを本気で伝えたいと思っているなら、文章は単純明快、誤解の余地のないように書くものだよ。でも、誤解の余地がない文章は入試問題にならないからね。あちこちに意味不明な言い回しや、持って回った表現、難解な語句がある悪文だからこそ入試問題になっているのさ。だから本文の意味や、筆者の考え方を理解しようと思ってはいけない。出題者の意図を読み解くこと、すなわち正解の選択肢を隠すパターンを類型化しておくことだね。つまりゲーム感覚で、消去法でいくしかないのさ。まかり間違っても、この種の問題ができる人間は頭がいいのだと絶対に思ってはならない。むしろ逆だね。パターン化されたことを短時間で効率よくこなす事務処理能力の問題なのだ。」

                                       

                                       

                                       

                                      では次に「国語力」ではなく、本物の言葉の力を身につけ、考えることの喜びを実感できる方法について話しましょう。

                                       

                                       

                                      それは、本当に言いたいことのある人間が、自らの不利益を覚悟の上で書いた文章を読むことです。それは単純明快で、普遍性に富んだ力強い文章のはずです。そういった文章を発表するには勇気がいるはずです。何度も発表を止めようと考えたはずです。でも言わずにはおれない。それをやめれば自分がこの世界に生きている意味がなくなるという切迫感が伝わってくる文章です。それが以下に挙げる元日本代表ラガーマン平尾 剛氏が書いた「反東京五輪宣言」です。是非全文をお読みください。

                                       

                                       

                                      私はこういった文章が「国語の授業で」取り上げられることを心から願っています。そして、難解な文章を読み解くのではなく、いかにしたら単純明快で分かりやすい文章を書けるかに的を絞った授業が当たり前になる日が来ることを。

                                       

                                       

                                       

                                      反東京五輪宣言

                                      http://www.sumufumulab.jp/sumufumulab/column/writer/w/6

                                      平尾 剛(神戸親和女子大学講師)

                                       

                                       

                                      3年後に東京でオリンピック&パラリンピックが開かれる。どうやらそういうことらしい。
                                       そういうことらしい? 今さらなにを言っているのだ?
                                       高みから見下ろすような白々しいこの物言いに難癖をつけたくなる読者はおそらく山ほどいるはずだ。しらばくれるつもりはもちろんないが、その気持ちはよくわかる。がしかし、つい嘯(うそぶ)いてしまいたくなるほどにリアリティが感じられないのが今の僕の偽らざる実感だ。

                                       



                                       大会組織委員会が運営する公式サイトによれば、開幕まで2020日となる2015年1月12日を皮切りにカウントダウンイベントが行われており、あと1000日となる10月28日にも各地で催されたばかりらしい。街ですれ違うスーツ姿の人の胸にエンブレムを象ったバッジを見ることもあるし、テレビをつければ関連ニュースがたまに目にとびこんでくる。もしかすると僕の知らないところで着々と機運が醸成されつつあるのかもしれないが、今のところその盛り上がりを肌感覚としては感じられない。僕が東京からはほど遠い神戸に住んでいることも、あるのかもしれない。

                                       



                                       回りくどい言い方はこのくらいにして、率直に言おう。
                                       僕は東京オリンピック&パラリンピック(以下、東京五輪)は返上すべきだと思っている。
                                      「リアリティを感じない」のは、開催が現実化して欲しくないという願望を強く抱きながらも、元アスリートとして正面から反対の声を上げることをためらっていたからである。

                                       



                                       過去も現在もスポーツの恩恵に与る立場の人間がスポーツの祭典を批判してもよいものだろうか。アスリートのための4年に一度の晴れ舞台を元アスリートが否定することは、つまりのところ自己否定につながるのではないか。そう自問自答してきた。

                                       

                                       


                                       主張したいことが明確にあるにもかかわらず、それを口にすることは憚られる。アクセルとブレーキを同時に踏み込んでいるような状態に耐えかねて、東京五輪関連のニュースを知らず知らず遠ざけているうちに、だんだんリアリティがなくなっていった。ここではないどこかで粛々と進行していることとして決めつけて、思考を手放すことによって楽になろうとしていたのだった。

                                       

                                       


                                       でももうやめにする。元アスリートでスポーツを愛する一人の人間として、これ以上は黙っていられない。競技者の理想を脇に置きつつ、権力者は「レガシー」作りのため、資本家にとっては商機をつかむための巨大なイベントにオリンピックが成り下がっている現状に、一言物申したい。

                                       

                                       



                                       思い起こせば東京招致が決まったときからキナ臭さに溢れていた。2013年9月7日にブエノスアイレスで行われたIOC総会で安倍首相は、「フクシマについて、お案じの向きには、私から保証をいたします。状況は、統御されています。東京には、いかなる悪影響にしろ、これまで及ぼしたことはなく、今後とも、及ぼすことはありません」と述べた(首相官邸のサイトより)。だが現実はというと、放射性汚染水は今も増え続け、制御どころか今後の見通しすら立っていない。我が国の首相は世界に向けて力強く「アンダーコントロール」と口にしたが、その内実は虚偽であった。

                                       



                                       さらに招致に関していえば、あの裏金問題も未解決のままだ。

                                       招致委員会からシンガポールのブラック・タイディングス社の代表イアン・タン氏にコンサルタント料が支払われていたことが国会で問題になった。金額にして2億円超の大金が、築50年近く経った古い公営住宅の一室を所在地とする同社に振り込まれていたのである。このイアン氏は、国際陸連前会長で国際オリンピック委員会(IOC)の選考委員でもあるラミン・ディアク氏の息子パパ・マッサタ・ディアク氏と深い関係にあることから、票集めのための裏金ではないかとの疑惑がもたれている。

                                       



                                       昨夏に行われたリオデジャネイロ五輪でも同様に、ブラジル側から同社にたいして多額の金額が支払われていることが明らかになった。開催国の招致委員会から同一人物が経営する会社に多額の金が支払われているという偶然の一致が意味するところは推して知るべしである。

                                       



                                       2017年9月13日付のイギリス「ザ・ガーディアン」は、この両五輪の裏金問題について新展開があったと報じている。ブラジル連邦検察局はこの支払いについて「IOC内部に強い影響力を持つラミン・ディアクの支援と票の買収の意図を持って」2016年リオ、2020年東京の招致成功のためになされたという結論を出した。それを受けて調査に乗り出したブラジル司法当局は同年10月5日、開催都市決定で投票権を持つIOC委員の買収に関わった疑いでブラジル・オリンピック委員会のヌズマン会長を逮捕した(本人は容疑を否認している)。

                                       



                                       これら送金の事実は、国際陸連の汚職と資金洗浄を調査していたフランスの検察局が明らかにしたわけだが、その調査を受けたブラジル当局は贈賄を認め、それに関わる人物を逮捕した。これに対して日本ではまだ詳細が明らかにされていない。だが、これら一連の報道から推測すれば、日本も限りなく「クロ」であると判断するのは妥当だろう。もしも潔白であるとするならば、可及的速やかに説明していただきたい。

                                       



                                       フクシマを蔑ろにした虚偽発言、未解決なままの裏金問題、この二つだけでも十分に返上に値する理由になる。さらにその他の東京五輪にまつわる報道を見渡せば、どこをどう考えても開催を見送るべきという結論にしか至らない。新国立競技場建設にまつわる諸問題(今年の7月には建設現場監督の過労自殺事件も報道された)、エンブレムの盗用疑惑から競技会場をめぐる問題まで、挙げていけばきりがない。これらを合わせ読むと、いかに「開催ありき」で事が進んでいることは明らかである。理念がまるで感じられないこんなハリボテの大会は、もうやめにしたほうがいい。

                                       

                                       



                                       内田樹氏は、未来のスポーツ紙に「金で票を買って招致した五輪は、この東京五輪が最後になった。経済浮揚効果を狙っての招致だったが、所期の効果は得られず、経済はさらに失速し、社会制度全般の劣化をもたらし、『亡国のイベント』と呼ばれた」と書かれることが確実だとSNSで発信している。僕もそうなる気がしてならない。

                                       

                                       



                                       東京五輪の開催をめぐり、逡巡のうちに日々を過ごしていた僕が、友人の勧めで手にしたのが『反東京オリンピック宣言』(小笠原博毅・山本敦久編、航思社)だった。 
                                       この本にはスポーツを、オリンピックを、その本質から捉え直そうとする重厚かつ深遠な論考が収められている。どれも読み応えがあり、恥ずかしながら僕はこの本を読んで初めて知った事実がたくさんある。中でも特筆すべきは、オリンピックを真っ向から批判している現役のアスリートがいたことである。ノルウェー出身のプロスノーボーダー、テリエ・ハーコンセン選手だ。

                                       

                                       



                                       IOCが国やスポンサー、選手に求める欲求が非常識で受け入れ難いとして、彼は1998年長野オリンピックの出場をボイコットした。スノーボードの歴史や文化に対する敬意が一切存在しないIOCを自分たちは必要としないという意思を表明したのだ。

                                       



                                      「オリンピックでは、自分の荷造りすらさせてもらえない。あらゆるメディアを統制したいという理由から、ソーシャル・メディアでさえ自由に使わせてもらえない国もあるようだ。スポンサーにも統制される。急にコカ・コーラやマクドナルドを宣伝しなければいけないことになる。なんでこんなことに付き合わなければいけないのか、僕には理解できない。」

                                       



                                       ここだけを読めば自由への希求が彼をそうさせていると思われるが、本質は別のところにある。次を読めば彼が抱いている危機感の射程の遠さに思いが及ぶだろう。

                                       



                                      「(……)オリンピックのせいでハーフパイプは過去十年ほぼ何の変化もしていない。同じ形式で、同じパイプで、選手がどんなことをするのかさえ簡単に予想できてしまう。
                                       ひどく停滞しているんだ。三位、あるいは三位とは言わずとも、どうしたら入賞できるかを選手達は把握している。アクションスポーツが築きあげてきた自発的創造性がそこには存在しない。」

                                       



                                       スノーボードの一種目であるハーフパイプ全体の競技レベルの停滞を彼は憂いている。その要因として、入賞を目標に、高得点を目指してミスなく滑ることを最優先にするときに失われる「自発的創造性」を挙げ、過度な競争的環境がパフォーマンスの向上を阻害することを危惧しているのだ。

                                       

                                       


                                       共同体内での競争相手にいかにして勝つのかに腐心するのではなく、勝ったり負けたりしながら互いに切磋琢磨することで、その共同体が全体としてより高みに至ることを彼は望んでいる。スポーツが単なる精神修養や身体訓練、名声や金を得るための手段ではなく、その本質にあるアートな部分を彼は全力で守ろうとしている。彼が抱く問題意識はとても高い。

                                       



                                       ラグビーにおいても各チームの戦い方が画一化しつつあるように僕は感じている。競争に勝つことだけが主題になれば効率的な戦法が選択されるようになる。リスクを伴うチャレンジングな姿勢はその陰に隠れ、その状態が続けばいつのまにかラグビー界全体がシュリンクしてゆくのは自明だ。戦術の進化と画一化を見極めることは容易ではないが、少なくとも勝利至上に傾きすぎないようアンテナを張っておくことは不可欠だ。テリエ・ハーコンセン氏の言う「自発的創造性」が発揮できる環境を守ること、そのためには関係者一同が目の届く範囲で点検し続けなければならない。

                                       

                                       


                                       自発的創造性こそがスポーツ選手にとって醍醐味だ。この意味でスポーツはアートの要素を含んでいる。勝敗を競い合うのはあくまでも副次的なものに過ぎない。

                                       



                                       話をオリンピックに戻す。
                                       オリンピックが金まみれなのは今さらいうまでもないことで、これをとぼけてみせるほど僕はナイーブではない。ただそれを知った上でもまだオリンピックを支持する人たちはいる。

                                       



                                      「それなのに人びとはオリンピックを支持する。なぜか。マネーを手に入れるため、そして手っ取り早く名声を得るためにオリンピックが必要だと考えているからだ。それがたとえ四年に一度、一人か二人の選手にしか起こらないことだと知っていてもそうなのだ。そして、オリンピックがスノーボードを僕たちの手から奪い取ったということを忘れないでほしい。」

                                       



                                       自身が行うスポーツをオリンピックから守るために彼は声を上げた。彼にとってはもはやオリンピックはスポーツの祭典などではない。スポーツの本質であるアート性を稀釈し、スポーツそのものを骨抜きにするイベントとして憎んでさえいる。スポーツとオリンピックは別離してしまったというハーコンセン氏の主張に僕も同意する。

                                       



                                       オリンピックは巨大公共事業の口実となり、国民の税金を堂々と私物化するための体のよい名目だ。国民統制、監視強化、ナショナリズムの動員など、資本家や権力者によって蹂躙されている。「アスリートファースト」という耳当たりのよいフレーズは、これらを隠すために用いられているに過ぎず、競技者なきところでオリンピックは開幕から運営までが決められていくのだ。

                                       



                                       同書の中で池内了氏は「スポーツはもはやオリンピックを必要としない」と述べている。テリエ・ハーコンセン氏の主張と照らし合わせると、これまで抱いていた様々な靄が晴れて腑に落ちる。

                                       

                                       


                                       そういえば僕の周りにいる生徒や学生たちは、それほどオリンピックに興味を示していない。個人的な憧れは抱きつつも、ここではないどこかよその世界での出来事かのように現実と切り離して、クラブ活動や各スポーツ活動に励んでいるようにみえる。おそらく彼女たちはスポーツに含まれるアート性に魅力を感じ、「自発的創造性」の発揮を楽しんでいるのだと思われる。

                                       



                                       これからはオリンピックのしがらみがないところで、ラグビー指導やスポーツに関する研究を粛々と行っていくことにする。オリンピックを必要としないスポーツのあり方を模索し、それを発信していきたい。

                                       

                                      | 中高生の皆さんへ | 16:29 | comments(0) | - |
                                      民主主義は大学の門前で立ちすくむ。
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                                        とうとうと言うか、やはりというか、14日「加計(かけ)学園」(岡山市)の獣医学部新設が認可されました。林芳正文部科学相や大学設置・学校法人審議会(設置審)の面々は、いったい何を議論したのでしょうか。

                                         

                                         

                                        いい歳をして、それなりに地位も収入もあるでしょうに、おバカ連中のケツを舐め(よい子の皆さんはこんな表現を真似してはいけません)出来レースの片棒を担がされただけです。彼らには羞恥心がないのでしょう。自分が何をしているのか自覚できず、倫理観もプライドもないことを天下に公表したのですから。何より国家の崩壊に手を貸したのです。何を大げさな、と言う方もいるでしょうね。私の言っていることが大げさかどうか、いずれわかります。

                                         

                                         

                                        とまれ、国家戦略特区を「活用」して岩盤に穴をあけると言えば聞こえはいいのですが、本質は形式的な合法を盾にとった税金のロンダリング、つまり私腹を肥やすための抜け穴づくりです。これはわが国の大学教育が、単なる利潤追求の道具として「一族のため」の株式会社に改変され、形骸化していることの一例に過ぎません。

                                         

                                         

                                        私はこのことについて既にブログで指摘しています。

                                         

                                         

                                        「大学受験生の皆さん、穴場の大学教えます!」

                                        http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=385

                                         

                                        さらに学長が安倍首相のお友だちである早稲田大学についても書いています。以下の記事を是非ご覧ください。

                                         

                                        「早稲田大学のAO・推薦入試について」

                                        http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=136

                                         

                                         

                                         

                                        次は慶応大学です。慶應義塾の塾長選はこれまで教職員による投票で得票1位を塾長にするという慣例がありました。最低限の民主主義的手続きが機能していたのです。ところが塾長を決める評議員会は得票2位の元文学部長・長谷山彰教授を選びました。得票1位を塾長にするという慣例を破り、なぜ2位を塾長にしたのか。不透明な選考過程への違和感が学内に広がっているそうです。

                                         

                                         

                                         

                                        私はこの記事を今年の4月に朝日新聞で読み、日本の大学の私物化がいよいよ本格化するのだと思いました。関連する記事を探していたところ、山田厚史の「世界かわら版」に詳細な経緯が書かれていました。一部を抜粋しますが、是非全文をお読みください。山田厚史氏は信頼できるジャーナリストです。「ドクター勝廚茲衞滅鬚い任垢茵

                                         

                                        http://diamond.jp/articles/-/127480

                                         

                                         

                                        引用開始

                                         

                                        塾長は、3つの選考過程を経て、約1ヵ月かけて選ばれる。最初の関門は10学部、小中高、職員の12職場がそれぞれ2人の候補者を選ぶ(今年は4月4日まで)。延べ24人が選ばれ、重複して推薦を受けた分を除く19人が今回、候補者になった。それぞれが所信表明し、投票に臨む。職場代表の推薦委員450人が日曜日の三田キャンパスに集まり、最初の投票で5人を選び、その中から3人に絞って評議員会に推薦した。4月16日に行われた投票(3名まで複数連記が可能)は、細田教授230票、長谷山教授217票、医学部長の岡野栄之教授170票。

                                         

                                         

                                         

                                         20日の臨時評議員会は紛糾した。議長である岩沙弘道・三井不動産会長は「塾長銓衡(せんこう)委員会は長谷山氏を選んだ」と報告、議論もないまま「長谷山候補を塾長とすることにご異議は…」と、いきなり拍手による承認を求めた。拍手の中で「異議あり」の声があちこちから上がった。真っ先に発言したのは附属中学の宮内完二教諭だった。(続きは本文でどうぞ)

                                         

                                         

                                        話はこれだけにとどまりません。今年の10月30日、中央大学でも全く同じ事態が起こったのです。

                                         

                                         

                                        10月31日の朝日新聞によると、中央大学の新しい学長に選ばれた福原紀彦・法務研究科教授(63)について、同大の評議員会と理事会が就任を認めない決定をしたのです。取材によると、新学長案の否決は異例で、同大は今後、理事会を再度開き、対応を検討するとのことです。学長選は10月1日に行われました。酒井正三郎・現学長の任期満了に伴う選挙で、教職員らの投票の結果、再選を目指す酒井氏らを破って福原氏が当選していました。28日に福原氏を学長とする案について評議会と理事会が開かれましたが、福原氏の学長案はともに賛成少数で否決されました。

                                         

                                         

                                         

                                        民主主義は、国会ばかりでなく、大学の門前でも立ちすくんでいるのです。繰り返しますが、「加計(かけ)学園」(岡山市)の獣医学部が認可されたのは、わが国の大学教育が、単なる利潤追求の道具として「一族のため」の株式会社に改変されていることの象徴なのです。

                                         

                                         

                                         

                                        こういったことが起きる背景には何があるのでしょうか。それはまた近いうちに論じるつもりです。評論家的な興味からではなく、現実の入学試験制度に適応するしかなく、合格を夢見て日々一生懸命勉強している生徒がどの大学を目指し、大学教育がどのように変貌を遂げようとしているのか、塾の教師として気になるからです。青春の数年を過ごす大学が民主的に運営され、可能性を広げる場所になってほしいと願うばかりです。

                                         

                                        | 中高生の皆さんへ | 13:47 | comments(0) | - |
                                        「君たちはどう生きるか」
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                                          昨日、10月28日、早稲田大学で開催されたイベント「漱石と日本、そして子どもたちへ」に宮崎駿監督が登壇し、制作中の新作の題名が「君たちはどう生きるか」になると明かしました。1937年に出版された吉野源三郎の本の題名からとったもので、「その本が主人公にとって大きな意味を持つという話です」と述べました。

                                           

                                           

                                           

                                          余談ですが、そのイベントで宮崎監督は夏目漱石の「草枕」を「何度読んだかわからないくらい好き」と言っています。この言葉の中に監督の創作の秘密が隠されています。いや、監督に限らず、真に創造的な思考なり表現を生み出す源泉には、こういった人間的な心の傾きがあるのです。

                                           

                                           

                                          すべてを効率と費用対効果といった数値化できるモノサシで測り、結果を求めるような社会では、人間の可能性は閉ざされるほかありません。今は学校教育でさえそうなっています。それを極端な形で推し進めているのが塾産業というわけです。

                                           

                                           

                                          ではどうすればいいのかですって?簡単です。学校と塾を辞めればいいのです。これからの学校はあらゆることをマニュアル化していくでしょう。生活のみならず学習における評価基準も画一化・平準化していきます。だから私の言っていることはまんざら極論でもありません。

                                           

                                           

                                           

                                          でも塾をやめることはできても、学校はそうはいきません。そこで手っ取り早い方法を教えましょう。まずA4の紙を用意して下さい。大学ノートではダメです。すぐに閉じますからね。そのA4の紙に太字のサインペンか筆で、「何度読んだかわからないくらい好き」という宮崎監督の言葉を書きます。それを机の前かどこかに貼って、いつまでも眺めるのです。

                                           

                                           

                                           

                                          すると不思議なことが起こります。書かれている言葉の意味が分からなくなります。言葉の表面的な意味が剥がれ落ちて行き、やがて声が聞こえるようになります。そう、宮崎監督の声や息づかいが聞こえるのです。言葉の本当の意味が分かるのはその時です。そして同じような息づかいで「何度読んだかわからないくらい好き」と発話する人の存在に気付くようになります。何だかオカルトっぽい話ですね。でも人間は高速情報処理機械ではありません。本質的には霊的な存在なのです。この話はここまでにします。

                                           

                                           

                                           

                                          宮崎監督は2013年の『風立ちぬ』を最後に長編アニメの監督を引退しましたが、今年になって撤回しました。76歳になる監督の創作意欲に再び火をつけたのは何だったのでしょう。

                                           

                                           

                                           

                                          『風立ちぬ』の意図を誤解されたままで終わりたくないという思いも少しあったかもしれません。しかし、より本質的な理由は、これまで作って来たアニメの集大成として、「君たちはどう生きるか」と問いかける作品を作りたかったのだと思います。

                                           

                                           

                                          もちろん監督は教師のようにただ言葉だけで「君たちはどう生きるか」と問うようなことはしません。そういうことが最も嫌いな人間だと思います。だからこそ、手間と時間とお金のかかる長編アニメーションを作る必要があったのです。

                                           

                                           

                                          長くなりそうなのでもうやめにします。ただこれだけは覚えておいて下さい。人は様々な職業に就きます。それがうまくいくこともあれば、失敗することもあります。でも人間は「君(たち)はどう生きるか」という問いから逃れられない存在です。それが言葉を持った人間の宿命です。そして、この問いに答えようとする限り、あなたにとって本質的な失敗などないのです。

                                           

                                           

                                           

                                          以下は蛇足です。「君たちはどう生きるか」と問われているのは日本人全体だと思います。そしてこの問いに答えることのできる人間は、残念ですが今の日本にはいません。政治家はもちろんのこと財界人も同様です。ただ一つだけ例外的な人々がいます。それは日本人のアイデンティティーを持っている沖縄の人々です。安倍政権と戦っている沖縄の人々です。

                                           

                                           

                                           

                                          宮崎駿監督の新作がどのようなものになるか分かりません。しかし、「君たちはどう生きるか」と問われた沖縄の人々が、日本から独立する物語であってほしいと思います。そして、その力が本土の人たちに伝わって、日本が平和国家としてアメリカから独立する物語であってほしいものです。もちろん主人公は白髪の交じった初老の風の谷のナウシカです。

                                           

                                          | 中高生の皆さんへ | 22:35 | comments(0) | - |
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