小学生の頃、私は大分市上野丘に住んでいました。勉強はほとんどせず、近所の仲間と四六時中遊んでいました。今振り返ると、放課後の時間や夏休みの遊びが人生の黄金時代を作り上げていたのだとつくづく思います。
そんなある日、大きな台風が去った後、いつもの悪ガキ数人と大分川の様子を見に行こうということになりました。川が増水して勢いよく流れる様子をテレビで見て思い立ったのです。
川の水は流木や砕けた木片やゴミを巻き込み、うねりとなって下流方向に流れていました。土手を降りて流れのすぐそばまで近寄ると、ゴーッと低くうなるような音が身体を圧しました。
通りかかった大人から大声で注意されたので、川岸を離れ広瀬橋の欄干から(当時は木造の橋でした)川を眺めました。そばで見た時と違って、茶色く濁った大きな川が生き物のように静かに移動していました。その異様な静けさを空恐ろしく感じたことをはっきり覚えています。その時、この川に落ちたらどうなるだろうと空想しました。次の瞬間、溺れながら流されていく自分の姿がはっきり見えた気がしたのです。
いま全国の小・中・高校が一斉休校になっていますが、生活や経済に及ぼす影響ではなく、子供たちの意識に及ぼす影響について考えてみます。「意図せざる結果の法則」ではありませんが、今回の一斉休校は思いもよらない結果をもたらすかもしれません。
子供の自殺が最も多いのは夏休み明けだと言われています。よほどのことがないかぎり、子供は自殺したりしません。長い休みが続いた後、学校の日常に復帰できなくなる子供たちの気持ちを考えたことがあるでしょうか。子供の自殺という悲劇に対して、私たちは弱さのせいだと結論づけたり、適者生存、自然淘汰、身勝手さ、あるいは自己責任といった言葉で無関心を決め込んではいないでしょうか。
今回は年間スケジュールの中に組み込まれた休みではありません。唐突な日常の中断で、場合によっては、子供たちは一日中間延びした時間と向き合い、親と向き合わざるを得ない環境に置かれます。
一週間くらいならともかく、一ヶ月以上ともなると、勉強や日々の過ごし方について四六時中親に口やかましく言われ、親子関係にひびが入ることも考えられます。こんなに嫌われていたのか、自分は邪魔なんだと感じる子供たちもいるかもしれません。
ところで、今回の件ではからずも可視化されたことがあります。学校が果たしている託児所・収容所としての役割です。「収容所」は悪意に満ちた言葉だと思われるでしょうか。しかし、小学生から高校生までの子供たちが学校に行かず街をうろついている様子を想像してみて下さい。膨大な数の若年失業者が街にあふれることになるのです。治安は乱れ、事件や事故が頻発するかもしれません。
要するに、学校は最もコストをかけずに社会システムを維持するための装置なのです。学びの場というよりも、子供たちを預かり一定の時間を過ごした後、親元に返し社会へと送り出す施設なのです。そこでは何よりも安全が重視されます。
そもそも近代以前の社会では、子供は家庭や共同体の中で立派な労働力としてあてにされていました。いわば「小さな大人」だったのです。それに対して、近代以降の社会では、生産性が劇的に向上したため子供は生産労働に従事する必要がなくなり余剰の労働力となります。ここに、子供を収容する施設の必要性が議論され「学校」が誕生します。同時にイデオロギーとしての「教育」が誕生した瞬間でした。
歴史をたどればこれが学校に課された役割だったのです。半面、身分制の下で重労働にあえいでいた子供たちを解放するという面もありました。学校に行けば働かなくて済むというわけです。学校がまだオーラに包まれていた時代の話です。
時は巡り、世の中が産業社会から消費社会へ、情報社会からAIを駆使する電脳コントロール社会へと変化する中で、学校はどうなったでしょうか。
今学校は、受験を通じて優勝劣敗を納得させ、格差を当然だと考える新しい身分制のヒエラルキーを国民に納得させる場所になっています。さらに言えば、富裕層が持っている既得権益をロンダリングし、大企業と政府が結託して国民から富を収奪するコーポラティズムのイデオロギーを内面化する場所となりました。いわゆる出来のいい優秀な生徒ほどこの流れにうまく順応していきます。その成果が「優秀な」官僚群というわけです。
ブログで何度も指摘してきたように、この体制を維持承認する制度としての学校の本質にいち早く気付いた子供たちは、その毒を飲まされ続けることに何とか耐えています。はっきり言語化できないにしても、経済成長をいまだに信じる東京を中心とした文化の非人間性に拒否反応を示しています。
聡明な子供たちは自問自答しています。よりよく生きるために、あるいは日本の歴史に根差した豊かな共同体を築くために学校はどうしても復帰しなければならない場所なのか、と。
今回の一斉休校は子供たちに考えるきっかけを与える気がします。いや、ぜひそうあってほしい。私は大学受験に失敗して、幸運にも社会で当たり前だと考えられている価値の序列を疑うことができました。社会を客観的に冷めた目で見ることが可能になったのです。
就職予備校と化した大学に通い、時期が来たら同じ色のスーツを着て「ちょっとでも上の」企業をめざして就職活動に励む、という発想を受け入れることができなかったのです。以来、大企業で「イエスマン」にならずとも、生き延びることができるのではないかと考え、私の思考実験が始まりました。
「川」の話は、制度疲労を起こした既存の社会システム、特に今の学校が負わされている役割を考えていて思い出しました。幼少のころからその中にいれば、全員が一緒になって流される「川」の異様さ・残酷さには気づきません。それが当たり前になります。しかし、何かの拍子でその流れを橋の上から眺める機会があると、自分がいかに当たり前でない世界にいたかがわかるのです。
これからの社会では、既存のシステムを否定するのではなく、それを前提にしつつもその外で生きる通路を確保することがますます重要になってくるでしょう。今回の一斉休校は子供たちにとって人生で初めて訪れた、考える人間になるための「長期休暇」になる可能性を秘めているのです。
できることなら、親御さんには、寝てゲームをするだけの子供をどうかそのままにしておいてほしいと思います。自分なりの時間の使い方は、最初は無駄だらけに見えます。しかし子供たちにとって、これだけまとまった時間を自由にできるチャンスは二度とないかもしれないのです。文化の母体は「暇」なのです。
そうは言っても、これをチャンスだと考える親御さんは少ないと思います。「子供は放っておいたら絶対勉強なんかしません。(これは例の佐藤ママの発言です)」という貧困な人間観が邪魔をするのです。
それだけではありません。偶然もたらされた「長期休暇」に、いつものごとく大量に宿題を出す高校の教師たちもいます。自分のやっていることが社会を生きづらい場所にしているなどとは考えないのでしょう。佐藤ママの同類です。この種の人間たちは、いったい子供たちにどうなってほしいのでしょうか。
今回、教師にもそれを根底から考え直すための時間が与えられたのです。にもかかわらず、そのことに気づいている教師はどれくらいいるでしょう。安定した職業だというだけで、公教育に価値を見出せず、無意識のうちに学校の塾化を加速させている教師は、ただ流れに乗っているだけのサル、いや言葉の自動機械になることで給料をもらっているのです。
えらそうに言ってるが、お前はどうなんだ、という批判にも応えておきます。もちろん、塾は本質的にはコーポラティズムを加速化させるシステムです。自己利益を最大化させるための階段をよりスピーディーに駆け上るテクニックや方法を教えることで利潤を上げているわけですが、それも終わりを迎えつつあります。効率的な勉強の仕方などと銘打った受験情報を流し、情報弱者の親や子供たちを相手にするビジネスモデルは賞味期限切れなのです。「消費者」がダイレクトに情報にアクセスできる社会が到来しているのですから。
長い休み明け、おそらく子供たちの多くは、重い身体を引きずりながら自分を幸福にすることのない学校に復帰することでしょう。いや、友達に再会できる喜びで自然と足取りが軽くなるかもしれませんね。しかし、制度疲労の極みにある学校を前にして、立ちすくんでいる子供たちもいると思います。私が川を見ながら茫然としていたように。そういった子供たちに対しては、何とか生き延びてもらいたいという思いをこめて、ブログの中で具体的な勉強方法やノートの作り方を提示しています。よかったらお読みください。
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