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《目次》
プロローグ
第1章 テレビマンとは何者か
第2章 大事なのは、誰と仕事をするか
第3章 表現とタブー
第4章 放送は常に未完である
第5章 世の中には理解不能な現実がある
第6章 ドキュメンタリーを、誰が求めているのか
第7章 「ダメモト」が表現世界を開く──〈司法シリーズ〉のこと
第8章 「ドキュメンタリー・ドラマ」とは何か
第9章 あの時から、ドキュメンタリーは閉塞した世界だった
第10章 題材は探すのではなく、出会うもの
第11章 組織の中の職人は茨の道
第12章 「わかりやすさ」という病
第13章 樹木希林ふたたび
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まず私たちの生命と暮らしを脅かす事実を知ること。それにたいしてどのような認識を持つのか。この国のみならず、世界を壊滅させる災厄とどう向き合うのか。次世代に対してどう責任を取るのか、そもそも責任を取れるのか。自分に何ができるのか。この現実にどう向き合うのか。それを教えるのが教育のはずだが、この国には教育も哲学も存在しない。
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小出 裕章,渡辺 満久,明石 昇二郎
原発よりもはるかに危険な六ヶ所村再処理工場。私たちの日々の生活が薄氷の上で営まれていることを痛感させられる。同時に、この国には「国民の生命・財産・自由を守り抜く!」と威勢のいいことを言う総理大臣と無能の政治家しかいないことに絶望する。核燃料サイクルと言い、下北半島の再処理工場と言い、3兆円以上の国民の税金がつぎ込まれ、いまだ後始末も将来の見通しもたっていない現実をどう考えているのか。彼らは核兵器を持ちたいという願望と税金をロンダリングして私腹を肥やすことしか眼中にない。北海道の地震だけに目を奪われてはならない。六ヶ所村は今回の震源地の目と鼻の先にあるのだ。
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D.J.ブーアスティン
私にとっては古典の中の古典。三度読みました。そしてその慧眼にいまだに驚いています。
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殺人犯はそこにいる (新潮文庫)
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清水 潔
ジャーナリストと称する職業がある。自称ジャーナリストもいれば、テレビのコメンテーターとしてリベラルに媚びる政権批判をし、名を売り、講演で稼ぐ職業をジャーナリストと呼ぶ者もいる。とんだ茶番である。ジャーナリストとはどこまでも「事実」を追いかける。テレビに出て能天気な解釈や感想を垂れ流している暇などないはずだ。ジャーナリストを志す若い人には清水氏の著作は避けて通れない。その名に値する本物のジャーナリストがここにいる。
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福田 直子
おそらく自民党・安倍政権はSNSを駆使し、分析するデータサイエンス(日本版なのでレベルはまだ低いですが)の重要性に着目し、選挙にどうすれば勝てるか、自分たちに有利な世論を形成し、国民を誘導・分断するにはどうすればいいのかが分かっているのです。そのためのノウハウも蓄積しつつあります。安倍首相の貧困な語彙力からは想像できないカタカナ言葉を聞いていると、それがSNSを分析している集団から教えられたものであることがよくわかります。ただ彼らの致命的な弱点は将来の社会を導く理想がないことです。おそらく、思いもかけない結果が待っていることでしょう。なぜなら、所詮、彼らはアメリカとビッグデータの奴隷でしかないのですから。これからの政治は、好むと好まざるとにかかわらず、この本に書かれていること抜きには語れなくなっているのです。
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安倍政権に対するメディアの忖度が云々されていますが、元々同じ穴のムジナなのです。忘れてならないのは、日中戦争から太平洋戦争にかけて、日本の世論と新聞のほぼ全部は好戦的・拡張主義的だったのです。しかも、当時はまだ言論統制体制が発足していなかったのです。この本は、そうした「一貫して好戦的な世論とそれに便乗する新聞」が先導し、近衛文麿はじめ文民政治家がそれに便乗、軍部がさらに便乗、という構図を一次資料で克明に論証しています。安倍政権を支持するネトウヨの皆さんの日本語力では、まともな読解は無理ですので勧めません。一方、正確な歴史を知るためには「世論」の不気味さを知ることだと気づいている若い人には是非一読を勧めます。
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茫漠の曠野 ノモンハン
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松本草平
著者は大分市にある『天心堂へつぎ病院』の院長、松本文六氏の御尊父、松本草平(本名松本弘)氏です。詳しくは、ブログで紹介したいと思いますが、第一次資料として極めて価値の高いものです。40年ぶりに復刻版を出された松本文六氏と出版社に感謝する他ありません。
戦略も何もない、無謀・無慈悲な戦争を語り継ぐことは、最も崇高で重要な人間の営為だと私は考えています。作家の司馬遼太郎氏は、電話で草平氏に次のように伝えてきたそうです。「先生の臨場感のあるノモンハン戦記に出会えて本当にありがとうございました。私は大東亜戦争の折、戦車隊の一員として従軍しましたが、先生の従軍記以上のものを創ることはできません。」と。
一人でも多くの方がこの本を読まれることを望みます。ちなみに松本文六氏は伊方原発差止め訴訟の原告でもあります。その縁で、この本に出会うことができました。
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「南京事件」を調査せよ (文春文庫)
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清水 潔
全国のネトウヨの皆さんへの推薦図書です。清水氏のこの本を読んでから、「南京事件はなかった!」「南京事件は捏造だ!」と叫びましょうネ。
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広瀬隆
広瀬氏をアジテーターだの、オオカミ少年だの、悲観主義に過ぎると言って批判する人がいる。しかし、ブログで何度も述べてきたように、真の悲観主義こそがマインドコントールによって奴隷根性のしみ込んだ私たちの精神を浄化してくれるのだ。そもそも無知では悲観が生まれようもないではないか。国などいくら破れても結構。せめて山河だけでも次世代に残そうと考える人ならぜひとも読むべき本である。いや、これから幾多の春秋に富む若い人にこそすすめたい。
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チャヴ 弱者を敵視する社会
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オーウェン・ジョーンズ,Owen Jones
【本書への賛辞】

「怒りが生んだ、最高の本」
──ガーディアン紙

最高の論争がみなそうであるように、知性に裏打ちされた怒りが本書を支えている。
──エコノミスト誌

暴動や世界中に広がったオキュパイ運動に照らして考えると、分断社会に関する著者の鋭い分析は、
不気味なほど未来を予知していたことがわかる。
──アートフォーラム誌

情熱と、思いやりと、すぐれた道徳性が結実した仕事だ。
──ニューヨーク・タイムズ紙

政治の定説を見直す大胆な試み。著者は戦後のイギリス史を縦横無尽に往き来し、
階級、文化、アイデンティティといった複雑な問題を軽々とまとめてみせ、
結果として「階級」問題に火をつけ、大きな効果をあげている。
──インディペンデント紙

いまの制度が貧しい人々を見捨てていることに対する苛烈な警告──それが本書だ。
──ブログサイト「デイリー・ビースト」

ジョーンズは、「地の塩」だった労働者階級が政治のせいで「地のクズ」と見なされるようになった経緯を見事に説明している。
──タイムズ紙

この本は、新しいタイプの階級嫌悪と、その裏にあるものを痛烈にあばいて見せてくれる。
──ジョン・ケアリー(The Intellectuals and the Masses著者)

これは「イギリスはおおむね階級のない社会である」という考え方への、論理的で情報満載の大反撃だ。
──オブザーバー紙

情熱的で示唆に富む……この声が届くことを心から願う。
──スコットランド・オン・サンデー紙
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紹介していない本が山のようにあります。数日前にこの本を本棚の奥から引っ張り出し再読しました。いや〜面白かった。。とにかくこの本のことを忘れていた自分が信じられない。読んでない人に熱烈に勧めます。ハイ。
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英語の実際的研究 (1969年)
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高校生にとって、今でも一押しの不朽の名著。でもこの本をことを知っている英語教師は少ないと思います。是非復刊してほしいものです。
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スノーデン 日本への警告 (集英社新書)
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エドワード・スノーデン,青木 理,井桁大介,金昌浩,ベン・ワイズナー,宮下紘,マリコ・ヒロセ
2017年4月18日、朝日新聞がようやく「パノプティプコン」を取り上げました。遅すぎますね。
これから先の日本社会は、ますます荒廃が進み、国民の不満が頂点に達し、やがて爆発します。それを未然に防ぐために、国は国民の監視を強化します。
実際アメリカでは「愛国者法」により、電子メールや携帯の通話履歴が監視の対象になっています。誰が、いつ、どこで、何を読んで、誰と通信を交わしたか、すべて国に筒抜けです。
「パノプティプコン」とはフランスの哲学者フーコーが用いた概念ですが、国民が刑務所の囚人のように監視される体制を言います。監視者の姿は見えませんが、囚人は監視者不在でも、監視を意識することによって管理統制されるのです。これを「パノプティシズム」と言います。
このシステムから解放されるためには、権力がどう管理・統制しようとしているかを知らねばなりません。この本はそれを知るための第一歩です。あなたが無知のまま、奴隷の人生を送りたければ、読む必要はありません。
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A.ミラー
アリスミラーのこの本は、塾を始めるきっかけになりました。ただ生活のためだけなら、他のことをしていたでしょう。『才能ある子のドラマ』とあわせて、当時の私には衝撃的な本でした。人生はどこでどう転ぶかわかりません。人間の奥深さを知ることで、何とか自分を維持していたのです。この本を読むと当時のことが、ありありと思い出されます。ある意味で、私の人生を方向づけた本かもしれません。
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NHK「東海村臨界事故」取材班

2月18日のブログでも書きましたが、仕事のために読むビジネス書の類は、最終的には効率を重視し、最小の資本と労力の投下で、いかにして最大の利益を上げるかということに尽きていると思います。そのための働き方改革であり、そのための賃上げです。そのための人心掌握術であり、顧客対応です。ビジネス書を読めば読むほど、人間は軽薄になり、視野が狭くなっていきます。もしあなたがそれを自覚するきっかけがほしいなら、是非この本を読むことを勧めます。読書はビジネスのためにするのではないということが分かると思います。この本は私たちの日常の風景を一変させるだけのインパクトを持っています。いわば、ことばの最高の意味における「闖入者」なのです。
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服従
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瀬木 比呂志
この本はまだ発売されていません。自分で読んでいない本を推薦するのは邪道でしょう。しかし、これまでの『絶望の裁判所』『ニッポンの裁判』(ともに講談社現代新書)に続く裁判所、司法批判の第3弾が長編の権力小説だということで、過去2冊の本の面白さからして、推薦に値する本だと思いました。『原発ホワイトアウト』の最高裁判所ヴァージョンだと思います。読んでからコメントを追加したいと思います。
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アモン・シェイ
学校なる場所に通っていた時、毎年夏になると課題図書を読んで、読書感想文を書かねばならないのが苦痛でした。課題図書の選定には学校と書店の密約があるに違いないと思っていたくらいです。

偶然巡り合った面白い本の感想を書くのならまだ我慢できたかもしれません。つくづく学校というところは、余計なことをしてくれると思ったものです。

あまりにめんどうくさいので、「あとがき」を参考に、あらすじを書いて提出したら、トリプルAをもらいました。

学校というところは、もしかしたら、人生の退屈に耐える訓練をする場所だったのかもしれません。この本を読んで、改めてそのことを確認しました。別に先生を責めているわけではありません。それほど自覚的に生きるということは難しいのだとため息をついているだけです。
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想田和弘監督の観察映画。音楽による演出は一切なく、徹頭徹尾監督の視点で撮られたドキュメンタリー映画。見終わった後、日本の選挙風土の貧困さが浮かび上がる。この国に民主主義はない、ということを改めて確認し、そこから出発するしかない。その勇気を持つ人には必見の映画です。合わせて『選挙2』もどうぞ。
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マックス ヴェーバー
ウェーバーの死の1年前、1919年、学生達に向けた講演の記録です。
一部抜粋します。

「自分が世間に対して捧げようとするものに比べて、現実の世の中が―自分の立場からみて―どんなに愚かであり卑俗であっても、断じてく挫けない人間。どんな事態に直面しても「それにもかかわらず!」と言い切る自信のある人間。そういう人間だけが政治への「天職」を持つ。」(P105〜106)

「さて、ここにおいでの諸君、10年後にもう一度この点について話し合おうではないか。残念ながら私はあれやこれやいろんな理由から、どうも悪い予感がしてならないのだが、10年後には反動の時代がとっくに始まっていて、諸君の多くの人が―正直に言って私もだが―期待していたことのまずほとんどは、まさか全部でもあるまいが、少なくとも外見上たいていのものは、実現されていないだろう。」(P103〜104)

10年後には、ワイマール体制は機能不全に陥り、1933年にはヒトラーが首相に就任します。

平和憲法は、日本人にとって310万人の命と引き換えに手に入れた唯一と言っていい理念であり、アイデンティティーでした。その唯一の誇りを、日本人は損得勘定で葬り去ろうとしています。言い古された言葉ですが、歴史は繰り返すのです。
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中沢 新一
小学校を卒業するころ、将来なりたい職業として思い描いていたのが、天文学者か生物学者でした。プロ野球選手は、自分のセンスでは無理だと悟りました。物ごころついたころから興味があったのは宇宙や昆虫や植物の世界でした。そんなわけで南方熊樟に出会うのは必然的な成り行きだったのです。人間は言葉によって世界を把握しますが、それ以外の把握の仕方があるはずだと、ずっと思ってきました。南方熊樟は、小林秀雄と同じく、直観による世界の把握の仕方を教えてくれました。この本は、言葉によって構成された世界秩序の外に出て、世界を改めて考えたい人に大いなるヒントをあたえてくれます。安倍政権によるゴキブリのフンのような、あまりにばかばかしい政治状況を見せつけられているので、精神の衛生学として一気に読みました。
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こどもの教育から裏金を使ったオリンピック誘致、原発再稼働、戦争準備から武器の売却、安倍政権の裏の権力としてメディアに絶大な影響力を行使する電通。私たちは電通が作り上げた「箱」の中でいいようにマインドコントロールされている。自分の意見だと思っていたものが、実はそう思わされていただけだということに気づかなければならない。音楽をはじめとする芸能情報、その中で踊らされるミュージシャンやタレント、果てはデザイン業界までを席巻する。今や電通の介在しないメディアはないと言ってもいい。利権あるところに電通あり、です。
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前作『日本はなぜ「基地」と「原発」止められないのか』に続く著者渾身の力作。自分の人生を生きたい人にすすめます。ただそれだけです。18歳で選挙権が与えらる高校生が政治を考える際の基本的なテキストになる日がくるといいですね。無理でしょうが。これ以上余計なコメントはしません。まず手に取ってみてください。
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メディアで取り上げられるよりはるか前から日本会議の存在について私は言及していました。電通と同じくタブー視するメディアには心底失望したものです。報道すればタブーはタブーでなくなるのです。何を恐れているのでしょうか。干されれば、何とか生活をする工面をすればよい。それだけのことです。
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磯崎新
帯に「祝祭都市にスタジアムはいらない」とあります。そもそも2020年まで天災と原発事故をやり過ごし、経済危機を乗り越えて存在しているでしょうか。極めて怪しいですね。偶然書店で手に取って読みました。彼の文章を読むと、建築は現世の権力に奉仕するものではなく、想像力の王国を作るものだと思わされます。建築にそれほど興味のない人でも、読めます。いや、いつのまにか引き込まれているでしょう。
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難関中高一貫校で学び、東大に合格しても、それはもはや知性のバロメーターではありません。この本に書かれていることが真実だと見破れることこそが本物の知性です。ニセの知性は既得権益を守るためにはどんな屁理屈でもひねり出します。おまえは何も知らないと言って他人を見下し、金と権力におもねるのです。ニセの知性は理想の灯を掲げることができません。「脳内お花畑」などという幼稚な言葉を使って揶揄するしかないのです。彼らの決まり文句は、他国が攻めてきたらどうするのかという、それこそ「脳内お花畑」的なものです。「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」とは、まさに至言です。
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私の元塾生の縁でお会いしたことのある烏賀陽弘道氏の渾身のレポート。事実を丹念に調べ上げ(これがジャーナリストの本来やることです)事実をして語らしめることのできる稀有なジャーナリスト。この本を読まずに福島第一原発の事故の本質に迫ることはできない。ダブル選挙の前に一人でも多くの国民が読むことを期待します。
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松岡正剛氏の本はどれも面白く、シリーズの千夜千冊を除けばほとんど読んでいます。『多読術』は、高校生にぜひ勧めたいと思います。高校時代に、この本を読んでおくと、さまざまな分野の知的見取り図を手に入れることができます。学校の授業だけではなく、この本を手掛かりにして知の荒野に歩みを進めてほしいと思います。
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カント
安倍首相は「この道しかない」と言って消費税を上げ、集団的自衛権の行使を可能にする閣議決定をし、公約とは正反対のTPPを批准することで、日本の文化=アイデンティティーを破壊しようとしています。

もし私たちが生き延びたければ、そのヒントがこの本の中に書かれています。日本は超大国の「夢」を代弁するだけの国になってはなりません。
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山本 太郎
山本氏の国会での質問を、本になって改めて読み直して感じることは、文字通り「みんなが聞きたい」質問をしてくれたということです。安倍首相が小学生に「なぜ政治家になったのですか」と質問された時、「父親も祖父も政治家をしていたからです」と答えていました。小学生相手に、何と言う悲しい答えでしょうか。語るべき理想を持たない政治家など、所詮は官僚に利用されるだけです。それに対して、山本氏には語るべき理想がある。「政治なんてそんなものさ」というリアリストが発散する腐臭を吹き飛ばすさわやかさがある。それは、彼の身体には収まりきれない理想が持つ力そのものです。彼は言います。「力を貸してほしい。少なくとも、あなたが必要だと思われる社会、私が必要だと思われる社会を作っていきたい。そう思うんです」と。日本の総理大臣にふさわしいのはどちらでしょうか。
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転換期の日本へ―「パックス・アメリカーナ」か「パックス・アジア」か (NHK出版新書 423)
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ジョン・W・ダワー,ガバン・マコーマック
おそらく、日本人自身よりも海外の知識人のほうが、日本の問題を正確にとらえていると思わせる本です。読み終えて何気なくテレビを見たら、わが大分県選出の国会議員、岩屋毅氏と江藤晟一氏が、2016年ミスユニバース大分県代表を選ぶ催し物に出ていました。名誉顧問だそうです。いかがわしい宗教団体をバックに票を稼ぐだけでは飽き足らず、こんな大会に顔を出して名前を売ろうとする。大分市長の佐藤樹一郎氏も出席していました。このお三方は、こんなことをするために国会議員や市長になったのでしょうか。国民の税金を使ってやることといえば、テレビに出演してにやけた顔をさらすことでしょうか。もう物事の軽重が全く分かっていません。せめてこの本くらい読んではどうでしょうか。私はこの本に書かれていることの大部分に賛成です。
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出版されてすぐ読みました。国会で、読んでもいないのに、安倍首相が躍起になって否定した事実が書かれています。蓮池氏はあちこちから人格攻撃の対象とされてきましたが、自分にも落ち度があったと認めています。自分は総理大臣なのだから落ち度はないと居直る人間とは好対照です。この本を読んで、拉致問題について今一度国民が考えることを望みます。
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2年半ほど前に求めて、一気に読みました。マルクスの『資本論』の中に書かれていることを、著者が自分なりに消化し実践していく過程が書かれているので、一種のドキュメンタリー文学として読めます。きっと著者と同じ思いの若者は全国にたくさんいると思います。かけがえのない一回きりの人生を、充実して生きたいと思っている人に勇気を与える本です。
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もう何と言うか、別世界を生きている人間です。彼の発する言葉は文学とは無縁です。人間が言葉を持ったのは、言葉にしがたいものを言葉にしようとするためです。政治家が発する言葉の軽さと言ったらありません。それだけ現実も軽いものになったということでしょう。
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人間は、条件次第で、喜々として殺人を犯す。そして、その条件を整備しつつあるのが、安倍政権とその背後でうごめく『日本会議』である。このことに気づいていても、「配慮する」ことを最優先して報道しないメディア(特にNHK・読売新聞・産経新聞)。そしてそこに寄生する学者やコメンテーター、芸能人。このドキュメンタリー映画は、彼らの自画像である。たまには、自らの顔をじっくり眺めてみるがよい。
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私が長年考えてきた問題を解明するヒントになりました。ブログで書いたように、まず感情を基にした結論があって、それを正当化するために人は「知性」を動員するという、ごく当たり前のことが書かれている。つまり、知の粉飾決算報告書である。
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食う寝る遊ぶ 小屋暮らし (JUGEMレビュー »)
中村 好文
中村さんの著作の中では、個人的に最も好きな本です。読んでいるだけで楽しくなります。限りなく優しい、でも、痛烈な文明批評です。これからの生き方のヒントが満載です。それを一人でも多くの人と分かち合いたいと思い、中村好文論・その3の中で引用させていただきました。
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暮らしを旅する
暮らしを旅する (JUGEMレビュー »)
中村 好文
以下は私がアマゾンのレビューに投稿したものです。再録します。
「もし人に幸福な生き方があるとしたら、中村好文さんのような生き方だろうと、ずっと思ってきました。
建築雑誌をパラパラとめくりながら、ふむ、と思って手が止まると、そこには必ずと言っていいほど中村さんの設計した住宅がありました。
文は人なりと言いますが、その人の書く文章のエッセンスがこれほど見事に建築にも表現されている例はめったにありません。
建築に限らず、食の分野でも、ことばと実物の乖離がはなはだしい時代に、中村さんの設計した住宅や美術館に出会うと、どこか安心するのですね。
そういうわけで、著者の本はすべて読ませてもらっています。
この本も偶然、年末に本屋さんで手に入れ、装丁やカバーの手触りを楽しみながら読んでいます。
読みながらいつの間にかほのぼのとしている自分を発見します。
一日に一編か二編を過去の記憶をたどるようにして読んでいます。
この本の平明さ、やさしさがどこから来るのか。そんなことを分析するのは野暮というものです。
とにかくこの素敵な小さな本は、旅のお供にどうぞ!とすすめたくなります。」
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「わかる」ということ。
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    1年前に塾をやめましたが、「わかる」ということが何を意味するのか、それはどんな状態なのか、どうやってそれを確かめればいいのかわからない、とブログで正直に「告白」したことがあります。教師失格ですね。

     

     

     

    学習の大部分は知識の習得であり、知識を軽んじることは外部世界への道を閉ざすことになるのだと口を酸っぱくして言ってきました。一方で、カリキュラムを消化することが第一義になり、テストで高得点を取ることが自己目的化すれば、学習は形骸化していきます。学習が形だけのものになれば、これほど苦痛なことはありません。

     

     

     

    「わかる」ということは、単にテストで高得点を取ることとは別のことです。私の経験で言えば、分かった瞬間は心の中で何かがはじけたような感覚がある、殻を破って新しい世界に遭遇したような感覚があるのです。それを経験すれば、おそらく学ぶことが楽しくなり、生涯にわたって学び続けることができます。

     

     

     

    逆に、60歳になっても70歳になっても学び続けている人は、「わかる」ことが人生の楽しみになり、生きることと切り離せないものになっているようです。歳をとって、飲んで食って運動するだけでは精神が動物化すると言ったのはそういう意味です。

     

     

     

    ところで、昨日(4月8日)新聞を読んでいると、普段は読み飛ばすのですが、『折々のことば』に幸田文さんの言葉が紹介されていました。幸田文さんは明治の文豪・幸田露伴の娘です。幸田露伴は博覧強記の大教養人で、しかも日々の生活の達人で、現在では望むべくもない大作家です。

     

     

     

    露伴は娘に、本を読んでものが「わかる」ということの意味を訊かれ、「氷の張るようなものだ」と答えます。知識は知識を呼び、それらの先端が伸び、あるとき急に牽(ひ)きあって結びつく。そうしてこの線に囲まれた水面を氷が薄く蔽う。それが「わかる」ことだと。以後、文はこれをずっと心に留めおく。(随想集『幸田文 老いの身じたく』より)

     

     

     

    私は露伴の比喩の的確さに感嘆しました。そうそう、「わかる」とはまさにこういったことが心の中で起こっているのだ、そして露伴の答えは子供の人格=生き方に影響を与えずには置かないだろう、と思ったのです。

     

    | 中高生の皆さんへ | 11:52 | comments(0) | - |
    「夢」なんかいらない。若者よ、覚醒せよ!
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      義務教育を終えた若い皆さんへ。

       

      自分の人生を切り開くときに最も重要なものは何でしょうか。今回はそれを書いてみます。小難しい話ではありません。もちろん私の考えですからそれをどう受けとめるかは皆さんの自由です。

       

       

       

      そもそも、消費社会が垂れ流す薄っぺらな「夢」は、ショーウインドウの中に並べられた商品に過ぎません。将来の職業を連想させる「夢」は、あなた自身の夢ではなく、社会(企業)が社会の都合のためにあなたに提供する「夢」です。「夢」の大バーゲンというわけです。

       

       

       

      その「夢」を実現するための努力はほとんどが水泡に帰すでしょう。なぜなら、他人から与えられたものはあなたの人生を豊かにはしないからです。それは出来合いの「幸福」や「豊かさ」しかもたらしません。

       

       

       

      重要なのは、好むと好まざるとにかかわらず、あなたが遭遇する現実に向き合うことです。その現実から鍛造(たんぞう)された勇気を武器に現実に立ち向かうことです。

       

       

       

      鍛造は、金属をハンマーやプレスで叩くことで内部の空隙をつぶし、結晶を微細化し、結晶の方向を整えることで強度を高めます。鉄は叩くことで介在物を除去し強くなるのです。日本刀をイメージしてもらえば分かります。鍛造で製造された製品は、強度が高く、熱が加えられても変形しにくいという特徴があります。

       

       

       

      何を抽象的なことを言っているのか、と訝しんでいる人もいるでしょう。そんな人に一つだけ提案があります。あなたの辞書から「夢」という言葉を削除するのです。つまり、今後一切「夢」という言葉を使わないと決めるのです。虚飾と金にまみれた「夢」など、あなたの今後の人生に必要ありません。エリック・ホッファーが言うように、必要なのは「勇気」です。

       

       

       

      あなたが今やらなければならないことは、塾のテレビコマーシャルにつられて春期講習会に参加することではありません。参加すれば入塾を勧誘され、「夢」を押し売りされ、「不安」を注入されるだけです。中学生でもなく高校生でもないこの自由な時期を、ありきたりの薄汚れた場所で過ごすつもりですか?

       

       

       

      というわけで、今回は「夢」から覚醒するための本を2冊紹介します。これを読めば「勇気」とは何か理解できると思います。

       

       

      一冊目は、浮谷東次郎(うきやとうじろう)が書いた『がむしゃら1500キロ』(ちくま文庫)です。東次郎は1957年夏、14歳の誕生日に買ってもらったドイツ製50ccのバイク、クライドラーにまたがり砂利道も残る東海道をひたすら大阪めざして出発します。市川−大阪往復1500キロの旅のはじまりです。今から65年前のことです。著者はあなたと同じ中学生です。

       

       

      クライドラーにまたがった東次郎の真剣な姿は悲壮感がただよっているものの、どこかユーモラスです。

       

       

      この「はじめての旅」で彼が発見したのは、「すべての道はどこかに通じる」ということでした。単純で恐ろしい真実です。

       

       

       

      すべての道は新しいはじまりです。すべての曲がり角も新しいはじまりに通じている。はじまりは無数あり、生きている限りはじまりは無限にくりかえされる。そのくりかえしのどの先にも、新しい、知らない風景がひろがっているのです。

       

       

      人間の生もまた未知を踏むものであり、世界を新しく読むものであれば「はじめての旅」になります。「はじめての旅」は出来合いのイメージをなぞるのではなく、確実な発見と衝突を記憶に定着させます。旅がそういったものである限り、60歳になろうと、70歳になろうと、「はじめての旅」は起こりうるのです。

       

       

       

      私が義務教育を終えた中学生の親なら、子供に少しばかりの小遣いを与え、一週間の旅に出るように言います。塾の春期講習に参加して、精神を混濁させ麻酔を注入するようなくだらない授業を受けさせるべきではありません。みずみずしい精神を持った子供たちをドッグレースに駆り立ててはならないのです。

       

       

      旅を続ければ続けるだけ、多くのものごとが見えてきて、意識は覚醒してきます。世界と向き合うことで知識や技能を身につけ、予想もつかない自分になっていくことを東次郎は感じます。この過程こそが知性の起源です。

       

       

       

      ― ぼくに収穫なぞあろうはずもない。消費ばかりで、生産はないのではないだろうか・・・

      作るとしたら何が作れるのだろうか・・・。ぼくは負けず嫌いだ。「自分には生産する能力がない」と思いっぱなしになぞしていられるものではない。ぼくは考えた。「この旅行をして何を作れるか ― 生産できるか」そしてついに知った。「ぼくに生産できるものは一つしかない。紀行文を書くことだ。紀行文を終わりまで書き上げることだ。上手だろうが下手だろうが、そんなことは全然問題ではない。ベストをつくして終わりまで書きあげれば、それで立派な生産だ。ぼくにだって生産できるのだ。(ちくま文庫版123〜124ページ)

       

       


      そして、夜の琵琶湖畔で野宿しながら、この世界のすべての存在には高貴なものがある、という感覚にとらわれます。手探りでついに自分に出会うのです。ちくま文庫版153〜155ページはこの本で最も美しい箇所です。旅の終わりに、15歳のライダーは毅然と繰り返します。「消費の生活は人間の生活ではない。生産の生活こそこの世の最大価値だ」と。65年前の中学生の言葉です。

       

       

      その後、東次郎はプロのレーサーとなり、23歳で鈴鹿サーキットでの練習中に事故死します。飛行機乗りだったサン=テグジュペリの死を思い出します。『人間の土地』は観念の旅を拒否した彼の傑作です。

       

       

       

      二冊目は『チェ・ゲバラ モーターサイクル南米旅行日記』です。それを元に映画化されたのが、『モーターサイクル・ダイアリーズ』です。以前、大分のシネマ5で観ました。

       

       

       

       

       

      キューバ革命の7年前、1952年1月4日 、アルゼンチンのブエノスアイレスに住む23歳の医大生エルネスト(チェ・ゲバラ)は喘息持ちにもかかわらず、親友のアルベルトと共に1台の中古のバイク(イギリスのバイク・ノートン500)にまたがり、1万2千キロの南米大陸縦断旅行へ出かけます。

       

       

      金もなく泊まるあてもない旅。喘ぐバイクでアンデスを超え、船倉に隠れての密航。旅の途上での恋人との出会い。バイク事故。雪山を走ったり、徒歩やヒッチハイクや最後にはイカダに乗ってアマゾンを下る。先住民族や、チリのチュキカマタ銅山の最下層の労働者、ペルーのマチュ・ピチュや ハンセン病患者らとの出会いなど、行く手に巻き起こるさまざまな出来事を通して、南米社会の現実を思い知らされます。

       

       

       

      様々な出会いと別れ、そして初めて目にする過酷な現実。この旅の記憶が、エルネストの運命を変えます。そこで見聞きしたさまざまな貧困や窮乏の現実が、彼をして革命へと駆り立てたのです。

       

       

       

      今回紹介した二冊の本は、もし日本にも「はじめての旅」を敢行しようという若者がいればきっと本物の「勇気」を与えてくれることでしょう。「冒険」や「反逆」のないところに勇気が生まれるわけもないのですから。最後に一言。若者よ、覚醒せよ!

       

      以下は関連する過去記事です。よければお読みください。

       

      情報のアンテナを折れ。

      http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=678

       

       

      | 中高生の皆さんへ | 21:08 | comments(0) | - |
      聖東京五輪。日本政府は「ノモンハン」「インパール作戦」決行中。
      0

        ブログが長くなるので「ノモンハン」と「インパール作戦」については、各自でお調べ下さい。ただし「ノモンハン」については村上春樹氏の『ねじまき鳥クロニクル』は必読です。

         

         

         

        一見歴史とは何の関係もないようにみえても、地下のマグマが吹き上がるタイミングをうかがっているように、大日本帝国の精神が歴史の裂け目から再登場する機会をうかがっています。熱狂なきファシズムとして。忘れてならないのは、歴史の裂け目は愚民と腰砕けの忖度メディアが作るということです。かくして、歴史は繰り返すのです。

         

         

         

        と、ここまで書けば、私の言いたいことはすでにお判りでしょう。「聖」東京五輪について簡単にまとめておきます。 

         

         

        ・選手は毎日PCR検査は必要ないよ。唾液検査で十分だよ。

        ・観客は入れるよ(日本人だけ1万人?ウソです)
        ・客席にいる関係者、スポンサーは別枠
        ・動員の小中学生も別枠だよ
        ・酒は売るよ

        ・選手村は飲酒OKだよ(飲食店の経営者はよく我慢できますね。何を恐れているのでしょう。)

        ・コンドームも準備しているよ(選手村はラブホか?さすが、おもてなしの国。後に撤回?)
        ・メディアは政府の悪口言うなよ(悪口と批評の区別すらつかなくなったようです。)

         


         

        要するに、古代ローマの権力者が、奴隷同士を戦わせてそれを肴に一杯やるのと何ら変わりないのです。「アスリートファースト」とは、権力者の高みの見物を台無しにしないように、コロナ対策をしっかりやり、奴隷に十分食事を与え、体を鍛えておけというわけです。IOCのバッカ会長の発言はそう解釈できます。バッカじゃなかろか。

         

         

         

        それにしても可哀相なのは子供たちです。東京五輪の観戦に100万人以上の子どもを動員する計画があるそうです。一年で一番暑いときに、コロナの感染や熱中症のリスクに子ども達をさらすことになります。

         

         

         

        教師や親は抗議しないのでしょうか。それとも聖オリンピックに参加する意義のほうが大きいと考えているのでしょうか。計画を取り止める自治体も出てきていますが東京都ではそのような動きがありません。

         

         

         

        小池百合子都知事はパブリックビューイングの中止を決断したのだから子どもの観戦計画も中止にすべきです。そしてオリンピックよりも運動会をやらせてあげるべきです。

         

         

         

        上智大学の中野晃一氏は「『学徒動員ではない。学校や教育委員会の判断に任せているから』って無責任の構造と論法は、『特攻隊員は志願だった』と重なる」と喝破しています。私の歴史認識と重なります。以下はバカウヨから総攻撃を受けた記事です。是非お読みください。広瀬すずちゃんも出ています。

         

         

        ウソと賄賂で誘致した東京オリンピック。何が復興五輪だ!

        http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=509

         

         

         

        ところで、組織委員長の橋本セーコさんは「オリンピックに反対する人の中には、あまり医学的、科学的でない議論もあるように感じます」とおっしゃっています。コメントしようがありません。あわわわ・・・。やっぱり脳みそが筋肉でできているのでしょう。

         

         

         

        と思いきや、「五輪会場、酒類販売を見送りへ 提供検討から一転、コロナ対策で(共同通信)」とのニュースです。さすが医学的、科学的議論を積み重ねてきた人だけのことはあります。

         

         

         

        聖東京五輪は歴史上類を観ない開催国有利の大会になるでしょう。かくなる上は、日本選手のメダルラッシュとなることを期待しましょう。皆さん、日本選手がメダルを取るたびに、渋谷交差点で静かに騒ぎましょう。私は頭がおかしくなりそうなので観ませんけど。もちろん、コカ・コーラもアサヒビールも飲みません。

         

         

        | 中高生の皆さんへ | 23:14 | comments(0) | - |
        「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」はウソである。
        0

          中高生の皆さん、こんにちは。できれば、今回のブログは是非最後までお読みください。では始めます。

           

           

          スポーツの世界では「勝たなければ意味がない」と言われます。これは「政治は結果がすべてなんです」「東大に受からないと勉強する意味がない」「売り上げがすべてだ」などと変奏され、私たちの社会をクソ社会にしてしまいました。

           

           

           

          しかし、この言い方は「勝ちにしか意味を見出せない狭量な精神」そのものです。勝つということを目的化しない、その中で完結するようなスポーツ(芸術あるいは舞踏としてのスポーツ)、あるいは働くことそのものが生きがいであり幸福である、といったもう一つの可能性を想像すらできない精神です。現に実践している人々がいるにもかかわらずです。

           

           

           

          スポンサーの意向を忖度しての大会運営や選手のPR活動は、スポーツではなく明らかに資本主義の論理で行われています。結果として、お金や権威のためになりふり構わず勝利を追求する風潮が、私たちの心に冷ややかな風を吹かせています。

           

           

           

          「スポーツは健全である」というイメージを隠れ蓑にして広がるこの風潮に私たちは興ざめしているのです。強行される東京五輪を境に、このことに気づく人が多くなるだろうと私は思っています。

           

           

           

          ところで「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」ということわざをご存じでしょう。古代ローマ時代の詩人ユウェナリスが『風刺詩集』の中で述べた言葉です。その名の通り、社会の歪みを、痛烈に風刺した詩集です。いったい何を風刺していたのでしょうか?

           

           

           

          それにしても「健全なる精神」とは何でしょうか?安倍首相に面と向かって「ウソつくな!」と叫んだ私のような人間は「健全なる精神」の持ち主とは言えないのでしょうね。

           

           

           

          それはともかく、このことわざは「健全な精神を手に入れるために、しっかり体を鍛えるべきである」という意味ではありません。前後の文脈や内容を踏まえると、誰もが神に「富」「権力」「長寿」「美貌」を願う不毛さを嘆いたものだったのです。

           

           

           

          この言葉は「願わくば、心身ともに健康であることを願う程度にしておきなさい」という意味でした。つまり「そうであればいいのに…」という願望を表現したもので、ユウェナリスは「現実はそうでないことが多い」ことを嘆いていたわけです。

           

           

           

          少し考えればわかることですが、「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」という言葉には障害者への差別と偏見が横たわっています。もし健全な精神と健全な肉体が常に一体ならば、スポーツ選手は誰でも「健全な精神」を持っているはずです。しかし、ユウェナリスが嘆いたように、現実は古代ローマと変わっていません。

           

           

           

          この言葉を単純な体力賛美に変化させてしまったのは戦争でした。近代に入り世界的な大戦が勃発すると、ナチス・ドイツをはじめとした各国が、軍事力増強のために名言を歪めてスローガン化したのです。

           

           

           

          ナチス・ドイツは特に、ヒトラーの親衛隊員のルックスも重視し、軍人が「憧れ」の対象になるようなPR効果を狙ったことで有名です。人々の心に入りやすい名言を引用し、歪めることで、民衆が軍国主義に傾倒しやすいイメージとして利用したのです。

           

          | 中高生の皆さんへ | 15:18 | comments(0) | - |
          人類(哺乳類)はウイルスのおかげで存在している。
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            私は菅義偉氏が総理大臣になる前からBullshit Politician(クソ政治屋)だと言ってきました。その取り巻きも、もちろんBullshit Officials(クソ官僚)だらけです。安倍晋三がクソ官僚ばかりを登用したために、若い有能な官僚はニヒリズムに陥っていることでしょう。

             

             

             

            その菅首相は、12日、英コーンウォールで開かれたG7サミットで、新型コロナウイルスの起源調査の必要性に賛同を表明しました。新型コロナの起源を巡り、バイデン米大統領は中国の研究所からの漏えい説と、動物を介した感染説があるとして、情報機関に追加調査を指示したとのことです。

             

             

             

            これは予想できたことです。したがって、有能な官僚がいれば、アメリカは中国の研究所からの漏えいを主張する可能性があるので、それに賛同しないようにクギを刺すはずです。ネトウヨならともかく、一国の総理がそれに賛同すると後で恥をかくことになると忠告しなければなりません。でもさっそく賛同しちゃったようです。あわわのわ。

             

             

             

            そもそも、脳も筋肉も、実はウイルスの助けでできているのです。2003年に東京医科歯科大の石野史敏教授(64)が明らかにしました。同年、研究成果を初めて発表したフランス・モンペリエでの国際学会では皆口をつぐみ、シーンと静まりかえったとのことです。「それぐらい意外すぎて、誰も予想していなかった」(石野史敏教授)のです。

             

             

             

            胎盤は哺乳類の母親がおなかの中で子どもを育むのに欠かせません。鳥類や爬虫(はちゅう)類にはない胎盤は、進化の歴史の中でウイルスが外から運び入れた遺伝子によってつくられたのです。これを石野史敏教授が明らかにしたのです。

             

             

             

            細胞内を動き回る動く遺伝子をトランスポゾンといいますが、その中のレトロトランスポゾンがエイズや白血病等の原因となるレトロウィルスと非常に似た構造をもっている。すなわちレトロウィルスはRNAを鋳型にしてDNAを逆転写し、感染細胞のゲノムに入り込む性質をもったウィルスなのです。

             

             

             

            要は、このレトロウィルスによって、人類は胎盤で子供を育てることができるようになったわけです。卵で産み落とされなくてよかった!なんちゃって。冗談ではありません。

             

            詳細は以下をお読みください。

            https://globe.asahi.com/article/13707574

             

             

             

            コロナウィルスに対しては、冷静で科学的な対処をするべきで、ネトウヨ並みの「中国起源説」などを騒ぎ立てるのは、後々、国際社会でバカにされるだけです。それでなくとも、パンデミックの中でオリンピックをやろうとしているのですから。やれやれ、日本人やめよっかな。

             

             

            | 中高生の皆さんへ | 22:43 | comments(0) | - |
            中学3年生の皆さんへ ・「スタンド・バイ・ミー」を歌う時。
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              中学3年生の新しい英語の教科書Lesson1は「Stand by me.」です。この歌はベン E. キングが1961年に歌い、その後1986年に映画化されました。その主題歌が「Stand by me.」だったのです。

               

               

               

              1986年と言えば、塾を始めて間もない頃でした。塾の生徒と一緒にリビングでこのアメリカ映画を観ました。DVDはなくVHSの時代です。終わったら巻き戻さなければならないあれです。

               

               

               

              それはともかく、この映画の登場人物は4人の12歳の男の子たちです。オレゴン州の人口2千人余りの田舎町で、決して裕福とは言えない家庭環境のもとで育ちます。左からゴーディ、クリス、テディ、バーンの4人です。

               

              スタンド・バイ・ミー : 作品情報 - 映画.com

               

               

               

              成長して作家になったゴーディは、ある日『弁護士クリストファー・チェンパーズ刺殺』という新聞記事を偶然目にします。刺殺されたのは、あのクリスだったのです。映画はそこから少年の日の2日間の出来事を回想する形で展開します。ネタバレになるので後はPrime Videoでご覧ください。

               

               

               

              最後のシーンでゴーディがパソコンに打ち込む文章が胸に響きます。

               

               

              I never had any friends later on like the ones I had when I was twelve. Jesus, does anyone?

              あの12歳の時のような友達はもうできない。もう二度と・・・

               

               

              この映画は少年たちの成長と友情を描いたものではありません。ましてや、泣ける映画でもありません。むしろ、少年の日の輝ける2日間の思い出が、4人の少年がその後たどる運命の過酷さというか残酷さを際立たせている、そういう映画だと思います。私は深く沈みこむようにしてこの映画の余韻を味わったのを覚えています。

               

               

               

              ここからが本題です。「スタンド・バイ・ミー」はジョン・レノンも歌っていますが、黒人のベン E. キング以外にこの歌を歌うのに最もふさわしい人物を紹介したいのです。中学3年生の皆さん、ぜひ以下の記事をお読みください。

               

               

              「彼らには恨みも憎しみもない。殺す理由もない」

              http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=179

               

              二人の金メダリスト

              http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=187

               

               

              | 中高生の皆さんへ | 22:48 | comments(0) | - |
              未来塾閉業のお知らせ ― To have から to be へ。
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                誠に残念ですが、2021年2月をもちまして38年間続いた塾を閉めることにしました。コロナの終息も先が見えませんし、まだまだ学んでほしいことがたくさんあったのですが、この辺が潮時かなという思いがしきりで、その思いを無理に抑えて授業をするのは本意ではないと考えました。何事にも終わりがあります。引き際を誤ることほど、みじめなことはありません。

                 

                 

                 

                思えば38年前、父の急死がきっかけで始めた塾でした。いつまで続くかわからない中での不安と手探りの船出でした。上の娘が幼稚園で、下の娘が生まれたばかりの頃でした。

                 

                 

                 

                そんな時、名古屋で塾をされていた磯村懋(つとむ)さんの『秀才をつくる家庭革命』と『奇跡の対話教育』(この本は、学校に頼らず、子供を自分で育てたいと思っている親御さんのバイブルになります。)を読みました。

                 

                 

                 

                磯村さんは67歳で亡くなられたそうですが、おかげで、自分なりの方針で塾をやれるのではないかという希望らしきものが見えてきました。その後、自分の考えが通用するか確かめるために、世界で一番自由な学校といわれたイギリスの『サマーヒル』を訪ねました。そして、生涯一塾教師としての人生をスタートさせる決心をしたのです。

                 

                 

                 

                当時、私が考えていたのは、温室できちんと管理された、大きさも、色も、味も均質なトマトを作るのではなく、場所を用意したらどこからか種が飛んできたり、鳥が飛んできて、それぞれが思い思いに実をならせたり、花を咲かせたりできるような場所を作ることでした。

                 

                 

                 

                そして、私の庭で育った花の種が、風や鳥たちによって遠くの見知らぬ場所に運ばれ、そこで花を咲かせることを夢見て、日々子供たちと向き合って来ました。この試みは、半ば成功し、当然ながら、半ば失敗に終わりました。

                 

                 

                 

                意味を見出せない仕事はしない、子どものため、合格のため、などという口実で宿題やテストを強制しないというのが自分に課したルールでした。テレビで塾の宣伝をするくらいなら、いつつぶれてもいいと覚悟を決めていたのです。

                 

                 

                 

                告白すると、私が目指したのは、学校に行かなくても、会社に就職しなくても、生きていけるのだということを証明することでした。受験勉強を手伝いながら、内心では私の考えに共感してくれる生徒との偶然の出会いを待ち望んでいたのです。授業の合間の脱線話は、そういう生徒と出会うための試みだったのかもしれません。

                 

                 

                 

                翻って、学校の教育課程で学ぶことは基本的には訓練と服従です。それは、兵舎の設計をベースにした学校建築を見れば一目瞭然です。将来ある若者が学ぶ場所が、かくも画一的で、機能重視で、冷たい、創造力をまったく刺激しない建築物であっていいはずがありません。

                 

                 

                 

                制服と校則、宿題とテストから、不屈の精神や真の批評精神が生まれるはずもありません。生まれるのは、否定と批評の区別もつかない短絡的な現状肯定主義です。学校へ行けば行くほど、現状に服従するようになります。生活と思考の断絶は深まるばかりです。これこそが匿名のシステムの恐ろしさです。

                 

                 

                 

                皆さんの年頃は、遠心力を利用してできるだけ自分の世界を広げる時期です。それが、人生を豊かにする求心力へとつながります。ホリエモンの「留学なんて時代遅れだ!」などという妄言は無視してください。

                 

                 

                 

                思うに、私は特別な能力を持っている人間ではないので、自分の価値判断と経験を語ることしかできませんでした。人間の価値は何かを所有することではなく、どのような人間になるかで決まる、というのが私の変わらぬ考えです。それが、To have から to be へ、という副題の意味です。

                 

                 

                 

                これからも、皆さんが、幸せな瞬間をできるだけ多く持てることを、そして何ものにもとらわれない自由な心を持てるように応援しています。そのためには、皆さん自身のニッチを探すことです。自分だけのとっておきの場所、音楽、書物、映画などを探すのです。

                 

                 

                 

                さて、そろそろ終わりにします。

                 

                これから先、どんな境遇が待ち受けていようとも、自分らしく生きて行くことはできるはずです。社会のために役立つパーツとなって働きながらも、生き生きと生きる個としての自分を忘れないでください。塾で少しでも学んだことがあれば、それを活かして人生を前へ前へと進むことを期待しています。

                 

                 

                 

                これまでのように会うことができなくなりますが、コロナが終息したらいつでも遊びに来てください。教室だったところには、大きな丸テーブルと、コーヒーミルと4脚の椅子を置いています。コーヒーでも飲みながら、また雑談しましょう。

                 

                 

                 

                最後に改めて、今回の勝手な判断をお詫びするとともに、長い間お付き合いいただいたことを心より感謝します。ありがとうございました。

                Thank you, boys and girls!

                 

                | 中高生の皆さんへ | 21:56 | comments(12) | - |
                10年後の暮らしを思い描く ― ソロ −『森の生活』
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                  昔から「出を切り詰めると、入りがしっかりしてくる」といいます。出費を切り詰めていくと、自分や家族が生きていくのに最低限何があればよいのか、その輪郭がはっきりしてくるということですね。

                   

                   

                  自分が何を求めて生きているのかよく考えると、次第にあいまいなところがなくなります。どれだけ稼げばよいのかが分かると、肥大化する欲望に追い立てられて、際限なく働き続ける必要もありません。

                   

                   

                   

                  それだけではありません。周囲を落ち着いて観察する余裕も生まれ、自然に対する感情も育ちます。何より子供を大事に育てるようになります。教育も生活水準もすべてお金で買えるというのは、不幸の始まりです。それは他人任せの生活をするということですから。

                   

                   

                   

                  建築に興味があったので、いろいろな建物を見てきました。狭くても豊かな空間があるし、広くても不毛でいたたまれない空間もあります。つくづく、住宅とは住む人の心を映す鏡だと思います。

                   

                   

                   

                  里山にひっそりとたたずむ農家の庭先に立つと、格別な温かさ、小ぎれいでさっぱりとした美しさにこちらの心が洗われる瞬間があります。生活のための空間には、財力や権力を誇示するものとは違った、謙虚さとやさしさが漂っているのです。そういった住居は、一言でいうと、人に不快感を与えないたたずまいを維持することを旨とし、その中に楽しみを見出しているような雰囲気があります。

                   

                   

                   

                  なぜこんなことを書くかというと、つまるところ「思想」とは、人間の自然に対する態度そのものだからです。それは人間を生かしもすれば、滅ぼしもします。これから先10年、人間らしい暮らしをしようと思えば、分野を問わず、かならずや闘いになります。まずは自分自身との闘いです。若い人には、勇気をもって「反抗せよ」と言いたい。

                   

                   

                   

                  以下はブログで何度も言及したヘンリー・デイヴィッド・ソローの『森の生活』を漫画で描いたものです。岩波文庫版の『森の生活』はむずかしいと思う人は、この本で概略を理解するのもいいかもしれません。

                   

                   

                   

                   

                  ここでは、マクシミリアン・ル・ロワの「まえがき」から、重要だと思われる点を要約しておきます。

                   

                   

                  ― 実は、ヘンリー・デイヴィッド・ソローの名前は、ヨーロッパでは人権擁護活動と政治の領域で知られていて、「市民的不服従の父」と見なされています。アメリカ合衆国で奴隷制が横行していた時代に奴隷制に反対し、アメリカがメキシコに対して行った戦争にも反対します。にもかかわらず、「平和主義」や「非暴力」といった、穏やかで無害な思想家として描かれてきました。「国家に対する陰謀」を企み、システムを「破壊しようと」してきた人物であるにもかかわらずです。

                   

                  マハトマ・ガンディーは牢獄の中でソローの著作に出会い、以後彼を「師」と仰ぎます。マーティン・ルーサー・キングはアフリカ系アメリカ人に対する人種隔離政策に反対する活動に身を投じ、ソローの教えに命を吹き込んだと宣言しました。要するに、様々な人々が1817年生まれのこのアメリカ人の著作や生涯の中に、あらゆる種類の抑圧や不正義と戦うための武器を見出してきたのです。―

                   

                   

                   

                   

                  以下は、スゥエーデンの作家・スティーグ・ダーゲルマンの言葉です。

                   

                  「ソローにはまだウォルデンの森があった―しかし現代において、すっかり硬直してしまった社会の外側のどこに、人間が自由に生きられる森はあるのだろう?私は答えざるを得ない。どこにもないと。

                   

                  自由に生きたければ、当面、この社会の中で自由を満喫するしかないのだ。なるほど、世界は私より強い。その力に対抗するものとして私が持ち合わせているものといえば、他ならぬこの私だけである。

                   

                  だが、それだって決して捨てたもんじゃない。数の力に飲み込まれさえしなければ、それもまた力だ。

                   

                  そして、自分の言葉と世界を対峙させられる限り、私の力は恐るべきものである。なぜなら、牢獄を作る者の言葉など、自由を求める者の言葉に比べたら、まるで説得力を持たないのだから」

                   

                   

                  | 中高生の皆さんへ | 17:04 | comments(0) | - |
                  孤立を恐れず自分の世界を広げよう。
                  0

                    わが国の報道ジャーナリズムは・・・と書いて手が止まります。この種の言葉を主語にした書き出しは人格を空洞化させるからです。肝心なのは自分がどう感じ、どう考えるかということですから。

                     

                     

                     

                    続けます。わが国の報道ジャーナリズムは、自己規制と忖度がアイデンティティーになっています。官邸と経済界に首根っこを押さえられているからだ、と考える人もいるかもしれませんが、それは違います。

                     

                     

                     

                    報道する側は統治機構の一部であり、もともと官邸や経済界と同じ価値観を持った集団なのです。つまり、押さえつけられる首根っこが最初からないのです。その結果、今ではまともな言論の水準がどこにあるのかさえわからなくなっています。

                     

                     

                     

                    一昔前は、企業内ジャーナリストといえども、気骨のある人物もいました。その人たちを目標にして報道の世界に入った人もいたのです。しかし、今や高給で安定した職業の一つとして認知されているだけです。それも怪しいのですが。

                     

                     

                     

                    NHKがこれほどまでに堕落したのも、そういった現状に疑問を抱かず、個人や組織の利益を第一にしているからです。以下の動画は、わずか5年前のことですが、永田浩三氏のような人物はNHKからいなくなりました。

                     

                     

                    『NHKは死んだのか?』

                    http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=43

                     

                     

                     

                    その結果何が起こっているのか。新聞報道でもネットでも、5W1Hを無視している記事が氾濫しています。一番肝心なWhoに関する情報がないのです。まるで天気予報のような書き方で、無責任そのものです。これは責任主体をぼかすわが国特有の文化なのか、報道に携わる人間の頭が悪いのか判然としません。おそらく両方でしょう。思考停止の両論併記病は膏肓に入っています。

                     

                     

                     

                    安倍首相がトンずらして下火になったものの、陰謀論と妄想で頭をいっぱいにしている人間たちは、欲求不満のはけ口をアメリカの反トランプ陣営に見つけたというわけです。まるで重力の赴くままに移動するアメーバのようです。

                     

                     

                     

                    ところで安倍政権を支えていたネトウヨ的言説は、歴史的事実を無視した下品で暴力的な言葉を用いて、ナイーブな報道人たちを両論併記や政治的中立などという架空の世界に閉じこもらせました。

                     

                     

                     

                    最初から政治的中立を狙った言説が中立になるわけがありません。権力側を利するだけです。事実を調べ、責任を自覚した人間が、誰の立場に立って報道しているかを鮮明にしていない報道はその名に値しません。

                     

                     

                     

                    政治は理論ではないので、論争する際には誰の立場に立つのかという覚悟と選択の問題になります。「中立」とは、徹底的に論争の優劣を競うことで結果的に実現する状態のことです。それは目指すべき目標ではなく、絶えざる調査と思考と論争の果てに立ち現れてくる地平のようなものです。

                     

                     

                     

                    わが国の報道ジャーナリズムに欠けているのは、徹底的に論争するという姿勢です。彼らは一体何を恐れているのでしょうか。真実を報道する者は権力から疎まれ、「辺境」へと追いやられることを覚悟していなければなりません。してみると、最も欠けているのは「覚悟」かも知れません。

                     

                     

                     

                    権力者や大衆が最も嫌うのは、世界のありようを深化更新させる本質的な認識です。事実はその前提として重要なのです。真実(事実に認識がともなったもの)を忌み嫌い恐れているのは権力者や大衆の側なのです。だからそれを報道するジャーナリストは、人格攻撃を受け、その言説がバランスを欠いているとして非難され無視されますが、恐れる必要はないのです。

                     

                     

                     

                    もし報道に携わる人間が、職場や業界、はたまた友人関係からはじき出されるのを恐れているとすれば、小中学生の政治学というか心理劇のレベルです。自分の意見を述べることで居場所がなくなり、それまでの交友関係が断絶しても、世間が狭くなるだけです。世間が狭くなった分だけ、自分の世界が広くなります。これは人間を強くします。そして、本当に人を愛することができるようになります。

                     

                     

                     

                    分断を克服するために、人種、宗教、階層、支持政党の異なる人々を敵視せず、バカにしないことが大切だという人がいますが、そういった言い方を私はどうしようもなく薄っぺらだと感じます。

                     

                     

                     

                    そういうことを言う人は、徹底的に論争したことがあるのでしょうか。ブログで何度も書いてきたように、論争のかなたに理想の審判者が立ち現れてくるまで議論を尽くしたのでしょうか。

                     

                     

                     

                    私はレイシストや排外主義者と妥協することはできません。「建設的な未来を切り開くために」と称して、あからさまなエゴイストや道徳的破綻者の主張を受け入れることもできません。

                     

                     

                     

                    道徳的破綻者とは、誰もがアクセスできる大手マスコミを「マスゴミ」と言い、ネット上のネタをパクッて発信することで自分が凡庸な人間とは違う、特別な選ばれた人間だと思いこむに至った人のことです。

                     

                     

                     

                    この7年8カ月の間、スカ政権になってからも、そういう人間を至る所で見てきました。人間理解の底の浅さと歴史的事実に対する歪んだ認識を、自ら変えようとするだけの知性を持たない人とは、もはや妥協の余地はありません。私は世間の狭さを気にするよりも、自分の世界を広げて、少数の人を愛する方を選びたいと思います。人生の時間は有限なのですから。

                     

                     

                    | 中高生の皆さんへ | 23:25 | comments(0) | - |
                    おすすめの映画『コンテイジョン(contagion)』
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                      高校生の皆さん、お元気ですか?

                      学校が再開されていますが、皆さんがコロナに感染することなく、元気で毎日を送っていることを何よりも願っています。

                       

                       

                      さて、今回は英単語の勉強をしてみましょう。

                       

                      1:contagion という単語を知っていますか。形容詞形の contagious の方をよく目にしますが、Cambridge Advanced Learner's Dictionary によると次のように定義されています。

                       

                      when a disease is spread by touching someone or something:

                       

                      形容詞形の contagious の方は describe a disease that can be caught by touching someone with the disease or a piece of infected clothing:となっています。

                       

                       

                      2:類義語の infection も大事な単語ですね。動詞は infect です。今の状況下ではぜひ知っておくべき単語です。a disease in your body that is caused by bacteria or virus:

                       

                      英英辞典は初級者向けで結構ですから座右に備えておきましょう。ところで virus は正確に発音できるでしょうね。ウィルスなんて発音しないでくださいよ。

                       

                       

                       

                      では本題に入りましょう。

                       

                      今回おすすめの映画のタイトルが『コンテイジョン(contagion)』です。2011年制作の映画ですが、すぐれた映画は古さを感じさせないどころか、近未来をリアルに可視化してくれます。日本はあらゆる面で世界から取り残されています。若い高校生の皆さんが日本を先進国だと思っているとしたら、それはとんでもない勘違いだと言っておきます。Amazon prime か Netflixで観ることができます。

                       

                       

                       

                       

                       

                      | 中高生の皆さんへ | 22:11 | comments(0) | - |
                      東京はニューヨークになるか?
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                        3月30日に『ウソの代償−災厄の春』の中で次のように書きました。

                         

                         

                        「現場の医者にとってPCR検査は、原発労働者にとっての線量計のようなものです。PCR検査抑制論は、線量計を持たずに原発の作業をやれと言っているようなものです。 

                         

                        「お医者様」や「専門家」の言うことだからと簡単に信用して、自分で調べようともしない人は、国家資格を盲信する、権威に弱い人です。 学校時代の偏差値序列を大人になっても引きずっています。一言でいえば序列意識が骨の髄まで染み込んでいる人たちです。彼らの生きる道は忖度しかありません。」と。

                         

                        http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=646

                         

                         

                         

                        私はこの国の教育は根本的に失敗したと思っています。取り返しがつきません。慶応大学医学部の研修生が今この時期に飲み会を開いてクラスターを発生させました。倫理的な教育が足らないのではなく、きちんとした医学教育がなされていないのです。もちろん人間としての判断力の未熟さは言うまでもありません。偏差値教育の勝利者の内実はかくもお粗末なのです。

                         

                         

                         

                        教育の貧困のつけは政治家に払わせることなどできません。最終的には国民が自らの命で払うしかないのです。だから、安倍政権によって殺されたくなかったら、国民は自らの責任で立ち上がるほかないとブログで何度も書いてきました。比喩ではなく、見るべきものを見れば私と同じ結論になるはずだと思います。責任という言葉を吐くことが責任をとることだと思っている人間がトップに居座っているのですから。

                         

                         

                         

                        ジャーナリズムが正確な情報を伝えていれば、今頃国民は大規模なデモを仕掛けるべく国会前に押し寄せているはずです。安倍晋三の祖父を退陣に追い込んだように。

                         

                         

                         

                        さて、今回のタイトルに対する答えは出ています。以下の動画をご覧ください。確かに人間は自分の見たいものしか見ません。教育はこの壁を破るためにあります。最終的には自分で自分を教育するしかありません。学校での教育など、生涯続く自己教育に比べれば、言葉は悪いですが、鼻くそほどのものでしかありません。あなたが、あなた自身の命を全うするために以下の動画を理解することを切に願います。

                         

                         

                         

                         

                        | 中高生の皆さんへ | 20:20 | comments(0) | - |
                        「川」のそばで立ちすくむ。
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                          小学生の頃、私は大分市上野丘に住んでいました。勉強はほとんどせず、近所の仲間と四六時中遊んでいました。今振り返ると、放課後の時間や夏休みの遊びが人生の黄金時代を作り上げていたのだとつくづく思います。

                           

                           

                           

                          そんなある日、大きな台風が去った後、いつもの悪ガキ数人と大分川の様子を見に行こうということになりました。川が増水して勢いよく流れる様子をテレビで見て思い立ったのです。

                           

                           

                           

                          川の水は流木や砕けた木片やゴミを巻き込み、うねりとなって下流方向に流れていました。土手を降りて流れのすぐそばまで近寄ると、ゴーッと低くうなるような音が身体を圧しました。

                           

                           

                           

                          通りかかった大人から大声で注意されたので、川岸を離れ広瀬橋の欄干から(当時は木造の橋でした)川を眺めました。そばで見た時と違って、茶色く濁った大きな川が生き物のように静かに移動していました。その異様な静けさを空恐ろしく感じたことをはっきり覚えています。その時、この川に落ちたらどうなるだろうと空想しました。次の瞬間、溺れながら流されていく自分の姿がはっきり見えた気がしたのです。

                           

                           

                           

                          いま全国の小・中・高校が一斉休校になっていますが、生活や経済に及ぼす影響ではなく、子供たちの意識に及ぼす影響について考えてみます。「意図せざる結果の法則」ではありませんが、今回の一斉休校は思いもよらない結果をもたらすかもしれません。

                           

                           

                           

                          子供の自殺が最も多いのは夏休み明けだと言われています。よほどのことがないかぎり、子供は自殺したりしません。長い休みが続いた後、学校の日常に復帰できなくなる子供たちの気持ちを考えたことがあるでしょうか。子供の自殺という悲劇に対して、私たちは弱さのせいだと結論づけたり、適者生存、自然淘汰、身勝手さ、あるいは自己責任といった言葉で無関心を決め込んではいないでしょうか。

                           

                           

                           

                          今回は年間スケジュールの中に組み込まれた休みではありません。唐突な日常の中断で、場合によっては、子供たちは一日中間延びした時間と向き合い、親と向き合わざるを得ない環境に置かれます。

                           

                           

                           

                          一週間くらいならともかく、一ヶ月以上ともなると、勉強や日々の過ごし方について四六時中親に口やかましく言われ、親子関係にひびが入ることも考えられます。こんなに嫌われていたのか、自分は邪魔なんだと感じる子供たちもいるかもしれません。

                           

                           

                           

                          ところで、今回の件ではからずも可視化されたことがあります。学校が果たしている託児所・収容所としての役割です。「収容所」は悪意に満ちた言葉だと思われるでしょうか。しかし、小学生から高校生までの子供たちが学校に行かず街をうろついている様子を想像してみて下さい。膨大な数の若年失業者が街にあふれることになるのです。治安は乱れ、事件や事故が頻発するかもしれません。

                           

                           

                           

                          要するに、学校は最もコストをかけずに社会システムを維持するための装置なのです。学びの場というよりも、子供たちを預かり一定の時間を過ごした後、親元に返し社会へと送り出す施設なのです。そこでは何よりも安全が重視されます。

                           

                           

                           

                          そもそも近代以前の社会では、子供は家庭や共同体の中で立派な労働力としてあてにされていました。いわば「小さな大人」だったのです。それに対して、近代以降の社会では、生産性が劇的に向上したため子供は生産労働に従事する必要がなくなり余剰の労働力となります。ここに、子供を収容する施設の必要性が議論され「学校」が誕生します。同時にイデオロギーとしての「教育」が誕生した瞬間でした。

                           

                           

                           

                          歴史をたどればこれが学校に課された役割だったのです。半面、身分制の下で重労働にあえいでいた子供たちを解放するという面もありました。学校に行けば働かなくて済むというわけです。学校がまだオーラに包まれていた時代の話です。

                           

                           

                           

                          時は巡り、世の中が産業社会から消費社会へ、情報社会からAIを駆使する電脳コントロール社会へと変化する中で、学校はどうなったでしょうか。

                           

                           

                           

                          今学校は、受験を通じて優勝劣敗を納得させ、格差を当然だと考える新しい身分制のヒエラルキーを国民に納得させる場所になっています。さらに言えば、富裕層が持っている既得権益をロンダリングし、大企業と政府が結託して国民から富を収奪するコーポラティズムのイデオロギーを内面化する場所となりました。いわゆる出来のいい優秀な生徒ほどこの流れにうまく順応していきます。その成果が「優秀な」官僚群というわけです。

                           

                           

                           

                          ブログで何度も指摘してきたように、この体制を維持承認する制度としての学校の本質にいち早く気付いた子供たちは、その毒を飲まされ続けることに何とか耐えています。はっきり言語化できないにしても、経済成長をいまだに信じる東京を中心とした文化の非人間性に拒否反応を示しています。

                           

                           

                           

                          聡明な子供たちは自問自答しています。よりよく生きるために、あるいは日本の歴史に根差した豊かな共同体を築くために学校はどうしても復帰しなければならない場所なのか、と。

                           

                           

                           

                          今回の一斉休校は子供たちに考えるきっかけを与える気がします。いや、ぜひそうあってほしい。私は大学受験に失敗して、幸運にも社会で当たり前だと考えられている価値の序列を疑うことができました。社会を客観的に冷めた目で見ることが可能になったのです。

                           

                           

                           

                          就職予備校と化した大学に通い、時期が来たら同じ色のスーツを着て「ちょっとでも上の」企業をめざして就職活動に励む、という発想を受け入れることができなかったのです。以来、大企業で「イエスマン」にならずとも、生き延びることができるのではないかと考え、私の思考実験が始まりました。

                           

                           

                           

                          「川」の話は、制度疲労を起こした既存の社会システム、特に今の学校が負わされている役割を考えていて思い出しました。幼少のころからその中にいれば、全員が一緒になって流される「川」の異様さ・残酷さには気づきません。それが当たり前になります。しかし、何かの拍子でその流れを橋の上から眺める機会があると、自分がいかに当たり前でない世界にいたかがわかるのです。

                           

                           

                           

                          これからの社会では、既存のシステムを否定するのではなく、それを前提にしつつもその外で生きる通路を確保することがますます重要になってくるでしょう。今回の一斉休校は子供たちにとって人生で初めて訪れた、考える人間になるための「長期休暇」になる可能性を秘めているのです。

                           

                           

                           

                          できることなら、親御さんには、寝てゲームをするだけの子供をどうかそのままにしておいてほしいと思います。自分なりの時間の使い方は、最初は無駄だらけに見えます。しかし子供たちにとって、これだけまとまった時間を自由にできるチャンスは二度とないかもしれないのです。文化の母体は「暇」なのです。

                           

                           

                           

                          そうは言っても、これをチャンスだと考える親御さんは少ないと思います。「子供は放っておいたら絶対勉強なんかしません。(これは例の佐藤ママの発言です)」という貧困な人間観が邪魔をするのです。

                           

                           

                           

                          それだけではありません。偶然もたらされた「長期休暇」に、いつものごとく大量に宿題を出す高校の教師たちもいます。自分のやっていることが社会を生きづらい場所にしているなどとは考えないのでしょう。佐藤ママの同類です。この種の人間たちは、いったい子供たちにどうなってほしいのでしょうか。

                           

                           

                           

                          今回、教師にもそれを根底から考え直すための時間が与えられたのです。にもかかわらず、そのことに気づいている教師はどれくらいいるでしょう。安定した職業だというだけで、公教育に価値を見出せず、無意識のうちに学校の塾化を加速させている教師は、ただ流れに乗っているだけのサル、いや言葉の自動機械になることで給料をもらっているのです。

                           

                           

                           

                          えらそうに言ってるが、お前はどうなんだ、という批判にも応えておきます。もちろん、塾は本質的にはコーポラティズムを加速化させるシステムです。自己利益を最大化させるための階段をよりスピーディーに駆け上るテクニックや方法を教えることで利潤を上げているわけですが、それも終わりを迎えつつあります。効率的な勉強の仕方などと銘打った受験情報を流し、情報弱者の親や子供たちを相手にするビジネスモデルは賞味期限切れなのです。「消費者」がダイレクトに情報にアクセスできる社会が到来しているのですから。

                           

                           

                           

                          長い休み明け、おそらく子供たちの多くは、重い身体を引きずりながら自分を幸福にすることのない学校に復帰することでしょう。いや、友達に再会できる喜びで自然と足取りが軽くなるかもしれませんね。しかし、制度疲労の極みにある学校を前にして、立ちすくんでいる子供たちもいると思います。私が川を見ながら茫然としていたように。そういった子供たちに対しては、何とか生き延びてもらいたいという思いをこめて、ブログの中で具体的な勉強方法やノートの作り方を提示しています。よかったらお読みください。

                           

                           

                          高橋まつりさんはなぜ自殺したのか?

                          http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=449

                           

                          自分の時間と空間を生きる。

                          http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=450

                           

                          『東大合格生のノートはかならず美しい』わけがない。

                          http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=451

                           

                          世界に二つとないノートの作り方。

                          http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=453

                           

                          あなただけのノートの作り方。

                          http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=455

                           

                           

                          | 中高生の皆さんへ | 14:51 | comments(2) | - |
                          「ありえたかもしれない地点」に立ち戻る。
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                            息を吐くようにウソを言い、フリガナだらけの原稿を棒読みするか屁理屈で時間を稼いで野党議員の質問をはぐらかす。かと思えば、コロナウィルス対策のスタンドプレーで支持率回復を狙う。疫病から国民の命や生活を守ることは、本来専門家が迅速に決断することで、政治は財政面を含めてそれを後押しすればいいのです。「ボクちゃん」の出番はないのです。

                             

                             

                             

                            ところが、原発事故の際に湧いて出てきた御用学者同様、当の専門家を信用できないときています。だから、国民は徐々に殺されていく運命だと言ったのです。政治の無策が原因で殺されたくなかったら、「ボクちゃん」を一刻も早く辞めさせることだと言い続けて8年になります。

                             

                             

                             

                            政治家は国民の日々の暮らしの上に載っている神輿に過ぎません。神輿が威張りちらし、我が物顔に振る舞い、国富を私物化して恥じないなら、そんな神輿は放り投げればいいのです。しかし、その神輿をありがたがって担いでいるのが、倫理なき経済界なのです。

                             

                             

                             

                            今度の全国の小中高等学校の一斉休校も、「ボクちゃん」の頭にパッとひらめいた思いつきに過ぎません。一斉休校すれば、給食も止まります。止まると野菜も肉も生乳も大量に余ります。農業や酪農で生計を立てている人の生活を直撃するのです。当然経済的ダメージも計り知れません。そのうえ食事抜きの子供も出てきます。

                             

                             

                             

                            そんな諸問題についての政府説明は一切なしです。自民党議員よ!バカの気まぐれに付き合うのもいい加減にせよ!と言ってもあなたたちもバカだから「どうしようもねえな」。

                             

                             

                             

                            かくも幼稚な戦争屋が憲法を改正して、緊急事態条項を手に入れようものなら、この国は本当に終わってしまいます。いや、3・11の原発事故の際、「ボクちゃん」が総理をしていたら、東日本はまちがいなく全滅していたでしょう。

                             

                             

                             

                            歴史にifはないと言われますが、過去を振り返り「ありえたかもしれない地点」に立ち戻って考えることこそが、私たちの社会をより良きものしていくために必要な真に自由な精神的な態度です。

                             

                             

                             

                            コロナウィルスが全国に蔓延しているとき、南海トラフ地震が日本を襲い、原発が暴走し、放射能をまき散らしている事態をシュミレーションしている政治家がいるでしょうか。そういうわけですから、コロナウィルスの封じ込めは失敗するでしょう。その結果私たちの価値観は大きく転換せざるを得ません。

                             

                             

                             

                            最後に、時間を持て余すかもしれない中高生に一つだけ映画を推薦しておきます。タイトルは『メランコリア』です。アマゾンプライムでもネットフリックスでも観ることができます。惑星が地球に衝突する話ですが、アルベール・カミュの『ペスト』と同じように、驚くべき洞察に満ちた作品です。

                             

                             

                             

                             

                             

                            私たちは、人間がまとっている外形的なもの、学歴や勤めている会社、あるいは地縁血縁といったもので人の価値を判断します。たまたま能力が高く、美形で、家庭環境に恵まれた人が活躍し見返りを得るのは当然で、そうでない人が落ちぶれるのは必然で仕方ない、「自己責任」だと考えるのが今の社会です。

                             

                             

                             

                            たまたま裕福な家庭に生まれ、たまたま多数派に属している人が、自らの地位を当然だと思い、頭数を武器に民主的な暴政をふるっているのが今の日本です。

                             

                             

                             

                            それをただすにはどうすればいいのでしょうか。人格に対する洞察力を高めるしかありません。外形的なものにとらわれず、相手の言葉や立ち居振る舞い、笑ったり、怒ったり、悲しんだりするときの様子を観察することです。その結果、自分の内面に起こった感情の由来を確かめる、私にはそれしか思いつきません。

                             

                             

                            | 中高生の皆さんへ | 14:56 | comments(0) | - |
                            入試に臨む皆さんへ。1年後に今日という日を振り返る。
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                              皆さんはunsung hero という言葉をご存知ですか。unsung とは「歌われることのない」という意味です。sung はsing の過去分詞ですね。

                               

                               

                              「注目もされず、称賛もされないけれど、本来ならそれに値する善き行い」という意味です。僕たちのまわりには、「歌われざる英雄」がたくさんいます。社会はそういう人によって支えられています。

                               

                               

                              例えば、雪深い北陸や北海道の街で、朝早く起きて雪かきをする人は、誰のためでもない自分のためにやっているのかもしれません。しかし、皆がそれをすることで通行人が転んで骨折をしたり、足をくじいたりしないで済みます。

                               

                               

                              もちろん雪かきをした人は誰からも感謝されません。しかし、一人一人が自分の仕事をきちんとすることで、多くの人を救っているのです。おそらく、こういった行為の集積によって巨大なカタストロフィー(破局)が未然に防止されているのです。つまり、雪かきが社会貢献だなどとは思ってはいない人々によって、社会は安全を保つことができているということです。

                               

                               

                              僕たちは、明日も今日と同じ日が続くと考えますが、それを保証するものは何一つありません。日本はこれから高齢化が進み、人口が減少していきます。これまでの枠組みで考えていては、生き延びることができないかもしれません。僕は君たちになんとか生き延びてほしいのです。一体どうすればいいのでしょうか。

                               

                               

                              僕は次のように考えています。現実をしっかり見て、学び続ける人が生き延びるのだ、と。

                               

                               

                              具体的に話しましょう。世の中には色々な職業があります。皆さんはあと数年もすれば、自分で生活の糧を得なければなりません。大変そうですね。でも、次のことを忘れないでください。

                               

                               

                              まず、15歳で、あるいは18歳の段階で、自分が何に向いているかはわからないのが当たり前だということ。むしろ、就職する前に、自分の向き不向きを決めつけてしまうことは危険です。僕は今でも塾の教師という仕事が自分に向いているかどうか分からないのです。

                               

                               

                              僕は、父親が突然癌で亡くなり、妻と子供たちを連れて大分に帰ってきた日から、一日一日を工夫してなんとか生きてきました。塾教師として今日まで生きて来られたのは運がよかったからです。そして人生は偶然が積み重なってできていると気づいたのです。こうすればこういう結果が必ず生じるという考え方(必然論といいます)は、どこか嘘っぽいですね。

                               

                                

                              それは、お前がさえない塾の教師だからそう思うんだろう、という考え方も一理あります。世の中には、夢を実現させてそれを職業にしている人もいるではないか、と言いたいのでしょう。わかります。でも僕もそれなりに歳をとって、色々な経験を積んできました。だからしがない塾教師の話を少しだけ聞いて下さい。

                               

                               

                              僕が塾を始めた30年ほど前から、「夢」と「職業」を結びつけて考える傾向が強くなりました。そして、今や「夢」は、「将来就きたい職業」そのものを意味する言葉になってしまいました。

                               

                               

                               たとえば「プロ野球選手になりたい」「世界で活躍するサッカー選手になりたい」「医者になりたい」「弁護士になりたい」「ファッションデザイナーになりたい」というように。

                               

                               

                               それを後押しするように「夢を持ちなさい」「夢のない人生ほど退屈な人生はない」「夢があってこそ人生は輝く」「自分だけの夢に向かって努力しなさい」というキャッチフレーズが叫ばれています。そのことを疑問に思う声は聞こえて来ません。

                               

                               

                               子どもの頃の僕の「夢」は、大福もちを腹一杯食べたい、パンツ一丁になってウエディングケーキに飛び込みたい(甘党でしたから)、鳥になって空を飛びたいというものでした。職業と全く結びついていません。いや、職業と結びつかないものこそが夢だったのです。

                               

                               

                               そんなたわいもない夢ですから、夢なんかなくても子ども時代は楽しかった。大人から「夢を持て」などと言われたこともありません。そもそも子どもは、今の一瞬一瞬を生きているあるがままの存在です。だから、僕に言わせれば、お仕着せの「夢」にとらわれた子どもはかけがえのない今という時間を台無しにしているかもしれないのです。

                               

                               

                               僕は勉強するなと言っているのではありません。逆です。勉強すればするほど、人間は色々だ、だからこそ職業や肩書で人間を評価する必要はないということがわかります。

                               

                               

                              一方で、勉強が「試験で好成績を上げるためのもの」になればなるほど、本来の学びは忘れられます。そしていくばくかの金銭と虚栄心を満足させることと引き換えに、むなしい人生だけが残ることになる、と言いたいのです。

                               

                               

                              それだけではありません。職業にもとづく肩書信仰は、特定の職業についている人たちへの差別感情を生みます。だれかを見下し差別することによって、自分のプライドを保つなんて、あまりに悲しいことです。君たちは、そういった人生を歩んではなりません。

                               

                               

                               夢はある仕事について数年して振り返って笑えるようなものの方がいいのです。夢やあこがれは、それに到達することによってではなく、届かないことや、笑い話になることによって人間を成長させるものです。

                               

                               

                               自分の望む職業につけなかったら自分の人生は失敗だと考えるのは間違いです。次のように考えてみてはどうでしょうか。「職業」や「職種」で考えるのではなく「職場」で考えるのです。自分の気に入った職場で、気の合う仲間といっしょに働くことができれば、与えられた役割をこなすという単純なことでも責任感と達成感をもたらすからです。 

                               

                               

                               最後にこれだけは覚えておいて下さい。職業は君の個性を生かしたり、夢を実現したりするためにあるのではないということです。社会が必要としているからあるのです。

                               

                               

                               たとえば、新幹線がストップしている深夜にトンネルの点検をする仕事は社会が必要としているからあるのです。 皆さんの中に将来の夢の職業として深夜のトンネル点検を思い描いた人はいるでしょうか。職業は、それをする人間がいないと社会が成り立たないから職業として存在しているのです。

                               

                               

                              そして世の中の大部分の仕事はそういったものです。地味な仕事です。誰からも注目されず、スポットライトが当たることもありません。新幹線にコンクリートの塊が落ちて大事故になったときに初めて注目されます。そして責任を追及されます。でも一方で、僕たちが安心して新幹線を利用できていたのは、陰で点検している人がいたからだという事実に気づくのです。

                               

                               

                               大人になるということは、こういった気づきを一つ一つ積み上げていくということです。 

                               

                               

                              話が長くなりました。でもここまで読んでくれた皆さんなら、高校受験は長い人生の中の単なる通過地点に過ぎないということが分かったはずです。できれば1年後にどこの高校に行っていても、今日という日を振り返って、「ありえたかもしれないもう一つの人生」を想像してもらいたいと思います。あの時、偶然によって別の人生が開かれていたかもしれないと想像することこそが「自由」の意味ですから。

                               

                               

                              さて、いよいよお別れです。今日の話をもし覚えていてくれたら、僕はうれしいです。長い間、雨の日も冬の寒い日も最後まで通って来てくれてありがとう。どうか立派な大人になって下さい。さようなら、中学3年生の皆さん。

                               

                                                      

                               

                              | 中高生の皆さんへ | 22:50 | comments(2) | - |
                              「未来がないなら、学ぶ必要もない」− STAND WITH HONG KONG
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                                孤独とは自分で自分に話しかけることです。言葉がそれを可能にしました。孤独は人間の特性です。動物が孤独などということはあり得ません。

                                 

                                 

                                 

                                言い換えると、誰もが「私」であるということです。そして誰もが「私」であるからこそ、人と人は分かりあえないという一点において分かりあうしかありません。何もレトリックをもてあそんでいるわけではありません。私はこの一点を巡ってブログを書いてきました。しかし、もうそろそろ終わりにしなければなりません。言葉が前提としている能力の自壊現象がとどまるところを知らないからです。

                                 

                                 

                                 

                                言葉は相手の身になる能力、相手と入れ替わる能力を前提にしています。この前提を理解する能力を育むのが教育であり、政治なのです。

                                 

                                 

                                 

                                政治?そんなバカな、と思われるでしょうか。政治とは自分の会社や組織に利益をもたらしてくれる集団や教団とつながり、ある時は平伏し、ある時はその力を利用する営みだと考えれば、そうかもしれません。

                                 

                                 

                                 

                                リアリストを自称し、「世の中、そんなものさ」と居直って見せる人間たちは、言葉の本質が相手の身になる能力、相手と入れ替わる能力であることを理解していません。しかし、政治は言葉の問題なのです。

                                 

                                 

                                 

                                すべての政治は言葉による対話から始まります。戦争で殺し合っている敵同士ですら、停戦のためには話し合います。いかなる異論であっても対話をすることこそ政治家の仕事なのです。しかるに、政治家が対話をバカにし、言葉を信じなくなった時点でその国は滅亡へのカウントダウンを始めることになります。

                                 

                                 

                                 

                                私は教育の末端の、そのまた末端にいるおかげで、どこに希望をつなげばいいのかを考えることができました。

                                 

                                 

                                 

                                8月31日のブログで、ある国の文化的・政治的成熟度を見るとき2つの指標があると述べました。

                                 

                                 

                                 1:若者が政治的意見(反政府的意見のことです)を表明する自由すなわち民主主義国に不可欠な表現の自由を行使しているか。

                                 

                                2:時代状況を抉り自国の負の歴史をテーマにする映画を製作する自由があるか。

                                 

                                 

                                 

                                そして結論です。希望をつなぐべき若者はいなくなった、ということです。若者は既成の価値観に異議を唱えてこそ若者です。しかし、今はただひたすら親の言う通りに受験勉強に励み、多様なアプリが作り出すVR空間の中で自足しています。

                                 

                                 

                                 

                                ブログで取り上げた佐藤ママは、若者の知性を破壊する大人の代表です。幼少のころから子供を受験専用の培養器の中に閉じ込め、下劣な出版社や同種の親たちから承認されることを頼りに、参考書や塾情報を発信し、子供たちの時間を管理することこそが親の仕事だと胸を張っています。

                                 

                                 

                                 

                                つまり、日本の若者は親から心配されるだけの存在になったのです。親はただひたすら子供の将来を思い、その利益の最大化につとめています。

                                 

                                 

                                 

                                私の言っていることは時代錯誤の妄言でしょうか。違います。世界の中で日本だけはこれまでと同じような社会が続くと信じて、コップの中、いやスプーンの中で暮らしているのが比較的裕福な家庭の実態です。その結果、勉強とゲームと音楽が若者の生活を駆動させるものとなりました。スマホ一つで幸せになれるというわけです。

                                 

                                 

                                 

                                しかし、目と鼻の先の香港の若者は違います。それが以下の写真です。

                                 

                                 

                                 

                                 

                                ついに自由を求める香港デモ隊のテーマソングが誕生しました。
                                香港の抗議活動を続ける人々の気持ちを代弁した歌詞と荘厳なメロディーが支持され、香港各地のデモで歌われるようになりました。
                                作者の男性は「自由や平等などの権利が奪われている。香港に輝かしい未来が来てほしいという願いを込めた。」と話しています。

                                 

                                 

                                 

                                 

                                 

                                新学期が始まった2日、逃亡犯条例案を政府に撤回させるために、香港の中高生およそ4000人が授業をボイコットしてデモを行いました。参加した高校1年生(16)の男子生徒は「僕らと同じ若者が、警官に殴られてケガをしている。ひどい」と怒りをあらわにしました。

                                 

                                 

                                 

                                政府は新学期が始まればデモは収束に向かうと期待していましたが、生徒たちは授業をボイコットして、その期待を打ち砕きました。

                                 

                                 

                                 

                                この日の集会のテーマは「未来がないなら、学ぶ必要もない」でした。高校3年生の女子生徒(18)は、香港返還から50年は守られるはずの「一国二制度」が次第に骨抜きにされ、香港が中国に呑み込まれようとしていると感じて次のように言います。「大人になった時、香港がどうなっているか怖い。自分の将来のためにも抗議はやめない」と。

                                 

                                 

                                 

                                そして9月4日、香港政府トップの行政長官が逃亡犯条例案の撤回を表明しました。日本の中高生の皆さんは逃亡犯条例案の中身を知っているでしょうか。調べる気のない人は、私のブログを読むのを止めて受験勉強に専念することです。

                                 

                                 

                                 

                                以下は

                                周庭 Agnes Chow Ting さんのツイッタ―からです。

                                 

                                 

                                条例の撤回は喜べません。遅すぎました。 この3ヶ月間、

                                8人が自殺。

                                3人が警察の暴力によって失明。

                                2人がナイフを持つ親北京派に攻撃され、重傷。

                                1,000人以上逮捕。

                                100人以上起訴。

                                怪我した人は数えきれないです。

                                 

                                私たちは、5つの要求を求めています。これからも戦い続けます。

                                 

                                 

                                 

                                 

                                9月10日の彼女のツイッタ―によれば、「昨日の朝、200校以上の中学、高校の生徒が学校の前で手をつないで「人間の鎖」を作り、抗議活動への支持を示しました。」とのことです。

                                 

                                 

                                 

                                お前は日本の中高生にデモをけしかけているのか、と考える人もいるかもしれません。そうではありません。日本の中高生がデモをする時は、国民的な規模でデモが起こっているはずです。そしてその時は、もはやすべてが手遅れになっている時です。それくらいの認識は持ってほしいと言っているのです。

                                 

                                 

                                 

                                安倍政権は、国民を税金を絞り取るだけの存在だと考えています。ここ1年を振り返っただけでも明白な事実です。そして今回の内閣改造。文部科学大臣に誰を据えているか見ただけでその本質がわかります。もちろん、台風被害で苦しんでいる人のことなど眼中にありません。彼らの発する言葉は、相手の身になる能力、相手と入れ替わる能力を根底から欠いているのです。

                                 

                                | 中高生の皆さんへ | 12:07 | comments(0) | - |
                                未来のエリック・ホッファーのために。
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                                  明日から新学期が始まります。中高生の皆さんは、もやもやした気持ちを抱えたまま、夏の終わりの陽射しが照りつける通学路をいつものように学校へ向かわなければなりません。夏休み明けのテストが待っているところもあるでしょう。

                                   

                                   

                                   

                                  正直に言うと、大人になってよかったと心の底から思うのは、もう学校に行かなくていいんだ、夏休み明けの早朝の乾いた通学路を意味もなく歩かなくていいんだという事実を確認する時です。それはまるで悪い夢から覚めた時のような感覚に似ています。

                                   

                                   

                                   

                                  皆さんの中にも、中高生時代の僕と同じ気持ちを持っている人がきっといると思います。60歳を過ぎても僕は人生とは何か、生きるとは、人間とは何かという問いの前でよろめいています。要するに、中身は中高生と変らないのです。

                                   

                                   

                                   

                                  今回はそんな中高生に一人の人物を紹介します。問いの前で茫然としていた時に出会った人物です。彼のおかげで確たる信念が持てたわけではありません。人間はよろめくものだ、だから学び、考える。僕は彼からよろめくことの強さを学んだのです。彼の名前はエリック・ホッファー。何度か取り上げたので、ご存知の方も多いでしょう。

                                   

                                   

                                   

                                  「1902−83。ニューヨークのブロンクスにドイツ系移民の子として生まれる。7歳のとき失明し、15歳のとき突然視力が回復。正規の学校教育をいっさい受けていない。18歳で天涯孤独になった後、ロサンゼルスに渡り様々な職を転々とする。28歳のとき自殺未遂を機に季節労働者となり、10年間カリフォルニア州各地を渡り歩く。41年から67年までサンフランシスコで港湾労働者として働きながら、51年に処女作「The True Believer」を発表し、著作活動に入る。この間、64年から72年までカリフォルニア大学バークレー校で政治学を講じる。常に社会の最底辺に身を置き、働きながら読書と思索を続け、独自の思想を築き上げた沖仲仕の哲学者として知られている。」

                                   

                                   

                                   

                                  エリック・フォッファー。彼は本をほとんど所有せず、行く先々の図書館で、労働の合間を縫って読書し、思索しました。僕も彼のような老人になりたいと思います。

                                   

                                   

                                   

                                   

                                  彼の『自伝』から引用します。

                                   

                                  「1931年から第二次世界大戦が起こるまでの10年間、私は放浪者として過ごした。自殺に失敗し、小さな袋を肩にかけてロサンゼルスを離れたとき、気持ちは軽やかだったし、広々した田舎に出たときは、故郷に戻ったような気がした。恐れるものもなければ、新たな生活を始めるための準備期間も必要なかった。ヒッチハイクもせず貨物列車にも乗らず、南に向かって歩き始めた。乗せて行ってくれるというなら断らなかっただろうが、自分から頼むつもりはなかった」

                                   

                                   

                                   

                                  この箇所を読むたびに、僕は少し泣けてきます。記述は平明ですが、僕にとっては天啓のようなものでした。そうだ、人間は何ものにも縛られず生きることができるんだ、自由に生きてこそ自分の人生だ、と改めて確信したのです。

                                   

                                   

                                   

                                  夏休み明けの早朝の乾いた通学路を意味もなく歩くことと、ホッファーが小さな袋を肩にかけて広々とした田舎を歩くことは、同じ歩くという行為でも、まったく違う世界の出来事です。

                                   

                                   

                                   

                                  彼は次のようにも言っています。

                                   

                                   

                                  「自己欺瞞なくして希望はないが、勇気は理性的で、あるがままにものを見る。希望は損なわれやすいが、勇気の寿命は長い。希望に胸を膨らませて困難なことにとりかかるのはたやすいが、それをやりとげるには勇気がいる。絶望的な状況を勇気によって克服するとき、人間は最高の存在になるのである」と。

                                   

                                   

                                   

                                  詳しくは「未来塾通信13」をご覧ください。

                                   

                                   

                                  夢や希望ではなく勇気 ― エリック・ホッファー自伝 ―

                                  http://www.segmirai.jp/essay_library/essay013.html

                                   

                                   

                                   

                                  ホッファーと同じことを言っている人もいます。アメリカの詩人・思想家のラルフ・ウォルドー・エマソン(1803-82)です。
                                   

                                  「何をやろうとしても、あなたは間違っていると批判する者がいる。その批判が正しいと思わせる多くの困難がたちはだかる。計画を描き、最後まで実行するには、勇気がいる。」と。

                                   

                                  Whatever course you decide upon, there is always someone to tell you that you are wrong. There are always difficulties arising which tempt you to believe that your critics are right. To map out a course of action and follow it to an end requires courage.

                                   

                                   

                                   

                                  そのエマソンが成功とは何かについて語っています。それを引用して今回は終わりにします。

                                   

                                   

                                  「成功とは何か。よく笑うこと。知的な人からの尊厳を得て、子供たちに好かれること。よい評論家に認められ、見せかけの友人の裏切りに耐えられること。美しいものが分かり、他人のよいところを見つけられること。この世を少しでもよいものにして去ること。それが元気な子供を育てることや庭を作ることでも、社会問題を解決することでもよい。そしてたった一人でもいいから、私の存在によって、心が安らいだ人がいるということを知ること。それができたら、人生は成功だったと言える。」

                                   

                                   

                                   

                                  | 中高生の皆さんへ | 22:32 | comments(0) | - |
                                  福島原発事故、森友・加計問題そして日航123便墜落事故。
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                                    今から34年前の8月12日、日航123便が墜落し520人の尊い命が失われました。毎年8月12日になると、テレビがこの事故を報じます。事故の教訓が年々風化していくことを憂えるといった調子です。

                                     

                                     

                                     

                                    しかし、私はこの事故の真相は34年経った今も明らかになっていない、それどころか政府によって隠蔽されていると考えています。政府の中のある人間たちは、意図して真実と法の支配に攻撃を仕掛けているのです。もちろん、それが引き起こす途方もない悪影響には想像が及びません。

                                     

                                     

                                     

                                    憲法21条によって保障されている表現の自由など、経済的自由に比べれば何でもないと思っているのでしょう。いや、そんなものを保障していたら、自分たちの悪だくみが暴露されるおそれがあるので、敵視すらしています。いま私たちの国では、国益を理由に、民主主義の根幹をなす表現の自由が葬られようとしているのです。

                                     

                                     

                                     

                                    真実は民主主義の基盤であり、私たちを独裁主義から切り離す重要な砦です。以前、国会で山尾志桜里(やまお しおり)議員が安倍首相に、憲法ではなぜ表現の自由が経済的自由よりも優越的な地位を与えられているのか、と質問したことがあります。しかし、安倍首相は全く答えられませんでした。この問いに答えられない人間が日本の首相であることに、絶望を通り越して恥ずかしささえ覚えます。

                                     

                                     

                                     

                                    cf 表現の自由(憲法21条)の優越的地位について。

                                    http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=118

                                     

                                     

                                     

                                     

                                    今回は「真実」や「事実」について、高校生の皆さんに練習問題を出したいと思います。

                                     

                                     

                                    日航123便の墜落事故は、言われているような圧力隔壁の破損によるものだったのでしょうか。もし、事故の真相を闇に葬ろうとする人間たちがいるとしたらそれは誰か。なぜ、どのような方法でそれを行っているのか。ジャーナリズムはそれにどう対峙したのか。福島原発事故、森友・加計問題の真相を隠蔽する勢力と関係しているのか。マスメディアの存在意義は何なのか。

                                     

                                     

                                     

                                    事件の場合、時系列を意識し、一人でも多くの証言をかき集めることで真実は見えてきます。それを完璧にやってのけたのが、以下の本の著者、元日本航空の客室乗務員だった青山透子さんです。彼女は事故機のクルーと同じグループで乗務していました。真相を究明しようと、東京大学大学院博士課程を修了して、博士号まで取得しました。

                                     

                                     

                                    事実の調べ方、並べ方、相互の関連性を追求する手並みは見事というしかありません。中高生のみなさんは是非読んでみましょう。『日航123便 墜落の新事実』も是非。あまりにも衝撃的で面白いので一日で読めます。

                                     

                                     

                                     

                                     

                                    素朴な疑問を提示する森永卓郎氏。これも是非見習いましょう。

                                     

                                     

                                     

                                     

                                     

                                     

                                    事実はジグソーパズルの小さなピースのようなものです。前後左右に矛盾なく並べることで全体像が見えてきます。完成した絵を見て『モナリザ』だと分かるわけです。このモナリザが真実です。いや、ゴッホの『ひまわり』だと騒ぎたてる人もいるでしょうが、彼らは無知のために盲目になっているだけです。声が大きいだけが取り柄の人物など無視すればいいのです。

                                     

                                     

                                     

                                    社会に対して素朴な疑問を抱くことなく、自己利益の最大化に資するべく受験勉強に励んでいる皆さんは、配給された「現実」の中で社会への通路だけでなく自分の可能性もふさがれていることに気づくべきなのです。

                                     

                                     

                                    | 中高生の皆さんへ | 22:39 | comments(0) | - |
                                    朝一番の新鮮な空気を呼吸するために。
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                                      今日は8月2日です。部活生の都合で前倒しした中学3年生の模試の日です。最初に、問題に向き合うときの注意事項を述べ、そして終わりに一言。「カンニングはしないように。塾でカンニングをしても何のメリットもありません。カンニングしたい人は学校でするように。あわわわ・・・・」

                                       

                                       

                                       

                                      冗談はさておき、今回は私たちの日々の生活を息苦しくしているものの正体について書きます。何だ、また政治についてエラソ〜に書くのか、いい加減にしろ、と思っている人もいるでしょうね。

                                       

                                       

                                       

                                      しかし、私は政治学者でもなければジャーナリストでもありません。日々をどう生きていったらいいのか、それだけを考えるので精一杯です。私が政治について語るのは、庶民の立場から見て、どうにも我慢ならない出来事があった場合(結構あるのです)に限ります。そうでなければ、大切な時間と労力を割いたりしません。

                                       

                                       

                                       

                                      大文字の政治状況を語る時、常に聞こえてくる声があります。「どうせ人間は死ぬんだ、何をそんなに深刻ぶっているのか。お前の考えていることなど、時間がたてばすべて無に帰すのさ」という声です。つまり、太宰治の小説『トカトントン』の中でこだます虚無の槌音です。それは主人公が労働運動や恋愛に夢中になりかけると決まって聞こえてくる音なのです。

                                       

                                       

                                       

                                      太宰治『トカトントン』

                                      https://www.aozora.gr.jp/

                                      cards/000035/files/2285_15077.html

                                       

                                       

                                       

                                      さて、日々の生活を息苦しくしているものの正体にもどります。もちろん私が個人的に考えているものです。それが分かったからと言って、明日からの生活が変わるわけではありません。

                                       

                                       

                                       

                                      しかし、何事であれ原因が分かると対策を立てることができます。私たちの思考や意識が更新され、自由になり、方向性を見出すことができます。そして日々の生活の中で澱んでいた感情が刷新されます。

                                       

                                       

                                       

                                      私は感情が刷新されることを何より大事にしています。なぜなら、ブログで何度も書いてきたように感情こそが論理を方向づけるからです。感情が劣化していれば、その上に築かれた論理もしょせんは砂上の楼閣に過ぎません。

                                       

                                       

                                       

                                      ところで、皆さんはオルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』ジョージ・オーウェルの『1984年』をご存知でしょうか。トランプ大統領が誕生した月に『1984年』とハンナ・アーレントの『全体主義の起源』がベストセラー入りしたと聞いて、私はアメリカ社会の知的な層の分厚さに嫉妬しました。

                                       

                                       

                                      今回は『すばらしい新世界』ではなく、ハクスリーの『集中講義』と驚くべき教育への洞察を含んだ『島』を紹介します。

                                       

                                       

                                       

                                       

                                      中高生にとっては、オーウェルの『1984年』は、読むのに苦労するかもしれません。名前は知られていても、実際に読んだ人は最も少ないと言われている小説です。しかしその洞察力には脱帽するはずです。おそらく未来の才能ある小説家には避けて通れない作品です。『動物農場』とあわせて読んでみてください。

                                       

                                       

                                       

                                       

                                       

                                      ニール・ポストマンは1985年の著書『愉しみながら死んでいく』の中で「電気プラグが可能にしたテクノロジーによる気晴らし」が私たちの文化的会話を永久に塗り替えていると論じました。

                                       

                                       

                                       

                                      それは、より些細な、取るに足らぬものになり、伝達される情報も「単純に割り切った、実質のない、非歴史上の、文脈のないものに、つまりエンタテインメントとして梱包された情報」と化していると。

                                       

                                       

                                       

                                      そして「我々の聖職者や大統領、外科医や弁護士、教育者やニュースキャスターたちは、自らの専門分野の要求よりも演出術を気にかけるようになっている」と書きました。

                                       

                                       

                                       

                                      1985年の著書ですから、「電気プラグ」とはテレビのことです。しかし、ポストマンの考察はインターネットとスマホが普及した現代にこそ最もぴったり当てはまります。

                                       

                                       

                                       

                                      つまり、データ過多により、最も明るく光るもの、すなわち最も大きな声または最も常軌を逸脱した意見が私たちの注意を引き、最も多くのクリックと熱狂を獲得するようになった、というわけです。

                                       

                                       

                                       

                                      そのポストマンがオルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』とジョージ・オーウェルの『1984年』を比較しています。この二つの作品はディストピアを描いていますが、その世界の空気こそが、私たちの社会の生き苦しさの正体なのです。

                                       

                                       

                                       

                                      『すばらしい新世界』(光文社古典新訳文庫)は、「西暦2540年。人間の工場生産と条件付け教育、フリーセックスの奨励、快楽薬の配給によって、人類は不満と無縁の安定社会を築いていた。だが、時代の異端児たちと未開社会から来たジョンは、世界に疑問を抱き始め・・・驚くべき洞察力で描かれた、ディストピア小説の決定版! 」と紹介されています(「BOOK」データベースによる)。簡単に言うと、薬物と軽薄なエンタテインメントで麻痺した人々が催眠性の人生を送る様子を描いているのです。

                                       

                                       

                                       

                                      「オーウェルはわれわれから情報を奪う者を恐れた。ハクスリーは、われわれが受動性とエゴイズムに陥るまで多くを与える者を恐れた。ハクスリーは無意味なものだらけの海に真実が溺れることを危ぶんだ」とポストマンは書いています。1985年の時点で、全体主義国家に対するオーウェルの懸念がソ連に当てはまる一方で、西側民主主義国家が出会っている脅威を言い当てていたのです。

                                       

                                       

                                       

                                      ハクスリーの悪夢によって象徴されているのは、「あからさまにつまらない事柄」によって麻痺するあまりに、責任ある市民として関与できない人々です。

                                       

                                       

                                       

                                      そして今、日本ではハクスリーの悪夢とオーウェルの描いた全体主義国家が新たな現実味を帯びています。それは、ビッグブラザーがあらゆる物語を支配し、現在と過去を書き換える国家に重なります。

                                       

                                       

                                       

                                      私たちの社会を覆う息苦しさの正体は、この二冊の小説ですでに描かれていたのです。金と権力で汚れた空気ではなく、朝一番の新鮮な空気を吸いたい人にはおすすめです。

                                       

                                       

                                       

                                      | 中高生の皆さんへ | 17:05 | comments(0) | - |
                                      頭がよくなる魔法の言葉。
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                                        今回のタイトルは、売り上げ至上主義の低劣な出版社が出す本の題名のようで気が引けます。『受験は母親が9割』だの『英語で一流を育てる』だの『学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶應大学に現役合格した話』などというタイトルが、いったいどのような読者をターゲットにしているか、ブログをお読みいただいている方にはもうお分かりでしょう。

                                         

                                         

                                         

                                        この種の本は自分の頭で考えることのできないバカな読者をターゲットにしているのです。上昇志向・ブランド志向を刺激するバカ本ですが、中身は詐欺そのものです。

                                         

                                         

                                         

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                                        「ビリギャル本」の詐欺性について

                                        http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=292

                                         

                                         

                                         

                                         

                                        前置きはこのくらいにしてさっそく魔法の言葉をお教えしましょう。ただし、正確には「考える力がつく魔法の言葉です」。

                                         

                                         

                                         

                                        それは「そもそも」という言葉です。物事の本質を考えたり、問題がどこから生じているかその原因を考えたりするときに、私たちが思わずつぶやく言葉です。逆に、「そもそも」とつぶやけば、私たちを原理的・本質的な思考にいざなってくれます。言葉は恐ろしいですね。

                                         

                                         

                                         

                                        少し例を挙げてみましょう。学校でこれから新しい単元を学習するときに、あるいは学習が終わった時につぶやくのです。そもそも化学反応とは何か、そもそも虚数とは何か、そもそも酸とアルカリとは何か、等々。

                                         

                                         

                                         

                                        そして先生に質問するのです。ただし、1分で説明してくれるように頼みましょう。「そもそも、指数関数と対数関数はどのように関連しているのですか。」などと。実力のある先生は必ずや1分で説明してくれます。

                                         

                                         

                                         

                                        1分で説明するためには、日頃から余分なところを切り落とし、関連個所とのつながりやその単元を学習する意味を考えていなければなりません。それを可能にするのが「そもそも」という小さな言葉なのです。

                                         

                                         

                                         

                                        授業中に「そもそも」という言葉を使う先生はいい先生です。もっとも、「そもそも」と言いながら、わが国の首相のようにちっとも「そもそも」になっていない説明をダラダラと続ける人もいます。そういった説明を聞いていると確実に頭が悪くなるばかりでなく、考えることもできなくなります。

                                         

                                         

                                         

                                        ところで、皆さんは「ミラーニューロン」をご存知でしょうか。聞いたことのある人も多いと思います。1996年にイタリアのジャコモ・リゾラッティがサルの実験で発見しました。

                                         

                                         

                                         

                                        例えばサルがもの持ち上げる動作をすると、それに伴って脳の一部が活動します。ところが驚くべきことに、その脳の同じ部位が、他のサルがものを持ち上げる動作を見ているだけでも活動するのです。自分が運動しているときだけでなく、他者の運動を見ているときにも、あたかも自分がその運動をしているように脳が活動するのです。これを「ミラーニューロン」と言います。

                                         

                                         

                                         

                                        何が言いたいのかというと、私たちは生まれつき他者と共感する強い能力を持っているということです。言い換えれば、私たちは他者の思考から強い影響を受けるようにできているのです。学ぶことは影響を受けることです。それは生き延びるために私たちのDNAにインプットされた神秘的な力です。

                                         

                                         

                                         

                                        つまり、「そもそも」という言葉を使って原理的・本質的な思考をする教師の授業を受けていると、生徒もおなじように思考できるようになるのです。そして、そういった思考は必ずや他分野へと波及します。結果、言われたことを鵜呑みにするのではなく、疑問を持ち、物事を批判的に見るようになります。

                                         

                                         

                                         

                                        こうやって知性が誕生するのです。以前、知性は独自性ゆえに個人の内部にとどまり、いわば命を宿し呼吸しているので感じるほかないものだと言いました。知性はその人の生き方から分泌されるもので、時間や量で切り売りできる知識とは違うのです。ましてやいわゆる学歴とはまったく関係ありません。

                                         

                                         

                                         

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                                        『知性とは生死の「機微」をつかむことから生まれる美意識である。』

                                        http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=384

                                         

                                         

                                         

                                        しかし、「そもそも」などと考えていたら、時間がいくらあっても足りないだろうと考える人もいるでしょう。そうなのです。学ぶことは時間との勝負だと考えている人にとって「そもそも」思考は障害以外の何ものでもありません。ここに受験勉強の大きな落とし穴があります。

                                         

                                         

                                         

                                        例の「佐藤ママ」はこの落とし穴に落ちた典型的な「善意」の人です。「善意」ですから歯止めが利きません。自分は社会に求められていると勘違いして、出版社や塾と協力して他人も巻き込みます。

                                         

                                         

                                         

                                        社会的には何ら責任を果たしていないにもかかわらず、4人の子供が東大医学部に合格したというだけでまるで偉業を達成したかのごとく持ち上げる出版ジャーナリズムはいよいよ末期です。

                                         

                                         

                                         

                                        実際には、大学合格のための精緻なマニュアルを手に入れ、ある種の情熱と家庭環境にものを言わせて、それを忠実に実行したに過ぎません。「佐藤ママ」は自己承認欲求のかたまりであり、それがエスカレートして最近では常識外れのレベルにまで達しています。この件に関しては次回触れるつもりです。

                                         

                                         

                                         

                                        最後に「そもそも」が波及していく例をお目にかけましょう。全部を挙げることなど到底できません。「そもそも思考」は、たえず発展・生成し続けるものであり、すべてが関連しているからです。それに気づけば、人は自ら永久に学び続けるのです。

                                         

                                         

                                         

                                        あなたは以下の問いに1分で答えられますか?

                                         

                                        ・そもそも言語とは何か。

                                        ・そもそも私たちが見ている世界は同じなのか。

                                        ・そもそも幸せとはなにか。

                                        ・そもそも社会とは何か。

                                        ・そもそも何のために学ぶのか。

                                        ・そもそもなぜ学校に行かなければならないのか。

                                        ・そもそも資本主義とは何か。

                                        ・そもそも貨幣とは何か。

                                         

                                         

                                         

                                        | 中高生の皆さんへ | 20:59 | comments(0) | - |
                                        受験で緊張する中学3年生の皆さんへ。
                                        0

                                          いよいよ高校入試まであと20日を切るところまで来ました。以下気をつけることを簡単に述べておきます。

                                           

                                           

                                           

                                          1:普段と変わったことをする必要はありません。つまり、保護者の皆さんは、特別な気遣いをする必要などないということです。「落ちる」とか「すべる」といった言葉も普通に使いましょう。

                                           

                                           

                                          例えば夕食のとき、

                                           

                                          「ほら、○○ちゃん、ほうれん草の白和えが落ちているわよ。拾ってよ。誰かが踏んですべるといけないから。」

                                           

                                          「お兄ちゃん、そんなところに本を積み上げていたら落ちてくるよ。」

                                           

                                          「大丈夫だよ。すべらないようにちゃんと気をつけて積んでいるんだから」

                                           

                                          「そんなことないよ。それじゃあ、絶対すべって落ちてくるってば!」

                                           

                                          「キャ〜、おばあちゃんがお風呂ですべってころんで、おおイタ県!」などというように。

                                           

                                           

                                           

                                          こんな言葉に過敏に反応するようでは先が思いやられます。今はお父さんまでが神経質になっています。

                                           

                                          試験当日の朝。お父さんは次のように子どもさんに声をかけてはどうでしょうか。

                                           

                                           

                                          「○○、よく頑張ったな。オレなんかお前の半分も勉強しなかったぞ。でもな、こうやってちゃんと飯が食えてる。試験なんてものは運だよ。受かるも落ちるも運次第だ。オレが今の会社に就職したのも運だ。そして母ちゃんに出会ったのが運の尽きだ。ナハハ、なんちゃって。結果はお天道さまだけが知っている。気にせず全力でぶつかってこい!」

                                           

                                           

                                           

                                          2:この時期になってあれやこれやの参考書や問題集に手を出してはなりません。理科や社会は一問一答式で知識を整理するといいでしょう。持っていない人は、「新研究」で十分です。

                                           

                                           

                                          アンダーラインの箇所をなつかしく眺めましょう。ああ、このころはまだ彼女とうまく行っていたのに・・・などと思い出しながら。もちろん今時の中学生で、こんな感慨にふける人はいないことくらい分かっていますよ。

                                           

                                           

                                          でも、本当にあなたがあなただけのノートを作っていれば、全くあわてる必要などありません。よければ、以下の記事を参考にして下さい。僕の言っていることが、痛烈に分かるでしょうから。

                                           

                                           

                                          『世界に二つとないノートの作り方。』 

                                          http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=453

                                           

                                          『あなただけのノートの作り方。』

                                          http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=455

                                           

                                           

                                           

                                          3:数学は、これまでやった問題を解き直すこと。その際注意すべきことは、初めて解くような気持ちで向き合うことです。解き方を思い出そうとして知識の道具箱の中を探さないこと。記憶に頼ると迷路に迷い込み、時間だけが過ぎていきます。塾の生徒の皆さんは、このことを実感しているはずです。

                                           

                                           

                                           

                                          数学は与えられた情報を「数式化する」ことがすべてです。計算問題をさっさと済ませた後、問題をじっくり眺め、数学の言語に翻訳すること、すなわち、単純に言えば、問題をグラフ化したり図形化したりするのです。これが数式化の中身です。そこへ意識を集中すること。

                                           

                                           

                                           

                                          思い出して下さい。数学を学ぶのは、よろこびを味わうためなのです。それはまだ誰も見たことのない宇宙の真実と最初に向き合うことができたという歓喜と恍惚感をいち早く手に入れるためなのです。これを味わうために生きているのが数学者です。僕が授業でフェルマーの最終定理について話すのも、これこそが数学の本質・コンテンツだということを分かってほしいからです。

                                           

                                           

                                           

                                          4:国語は、作者や筆者の言いたいことではなく、問題作成者の視点で、設問を読むこと。その際、たった一つのことに意識を集中して下さい。

                                           

                                           

                                          文章を読みながら、不足情報を追いかける。そして、抽象表現を具体表現に、具体表現を抽象表現に言い換えている箇所にマーキングすること。これを「論理国語」などと称して、売りにしているのが「塾・予備校の国語」です。しかし、これは試験形式と試験時間が生み出した方便に過ぎません。

                                           

                                           

                                           

                                          本物の国語力とは、「論理国語」や「文学国語」(聞いたことのない、滑稽な命名です)などといったジャンルを飛び越え、どこまでも広がる、すなわち物事をクリティカル(批判的)に見ていく自由な思考と言語表現力なのです。

                                           

                                           

                                          そもそも、安倍政権の統計偽装と同じく、センター試験であれ、共通テストであれ、子供たちのことを考えたものではなく、利権に群がる愚かな大人の考え出したものです。そんなものは本来不要なのです。少子化の今こそ、各大学が独自に試験を行えばいいだけのことです。英語にまつわる教育改革は、めまいがするほどの愚行です。このことの本質はまた改めて述べます。

                                           

                                           

                                           

                                          さて、最後に受験生に見てもらいたい動画があります。それが僕からのプレゼントです。これから試験までの日々、時々見ては、自らの精神に喝を入れて下さい。それではまたお会いしましょう。

                                           

                                           

                                           

                                          2012年、世界空手選手権で優勝した宇佐美 里香選手の演武。世界を感嘆させました。同じく下は優勝した女子団体の演武です。受験生は試験会場で決して真似しないように。

                                           

                                           

                                           

                                           

                                           

                                           

                                          | 中高生の皆さんへ | 14:48 | comments(0) | - |
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