昨日のブログで、私は次のように書きました。
致死量の毒入りペットボトルを公園のベンチに置けば、実際にそれを飲む人がいなくても、誰かが飲む可能性があるとわかっていて置くのだから、法的には故意があるとみなされる。 安倍政権は、誰かが死ぬかもしれないと分かっていて、あえて実行している点で、未必の故意による殺人を実行する政権だ、と。
このことに関して、私には忘れられないシーンがあります。それは昨年の9月26日の衆院本会議での出来事です。安倍首相は所信表明演説を中断して、自衛隊員や海上保安官の任務遂行の努力を讃えるために自民党の国会議員に対して起立と拍手を求めました。
安倍首相は、「現場では夜を徹し、今この瞬間も海上保安庁、警察、自衛隊の諸君が任務に当たっている。」「今この場所から、心からの敬意を表そうではありませんか。」と呼びかけたのです。安倍氏に促された自民党の議員たちが一斉に立ち上がって約10秒間、拍手をし続けました。
私はこのシーンをテレビで見ていて、思わず「マンセー!」と叫びました。いや、これは冗談ですが、あのゴロツキ集団、日本維新の会の馬場伸幸幹事長ですら「ちょっと異常な光景だ。落ち着いて真摯(しんし)に議論をしあうという状況ではなく、自画自賛をするためにやっていると、言論の府ではなくなってしまう。」と懸念を示したほどです。
この「マンセー!」の中に、安倍首相と自民党の体質というか精神構造が露呈していて、私はあきれるというか、その幼児性に絶句したのです。小沢一郎氏は「異様な光景だ。今までも日本の議会では見られないと思うし、北朝鮮か中国共産党大会みたいで、不安に感じた。」と語りました。まともな感覚ですね。
安倍政権が北朝鮮や中国共産党大会の様相を呈してきたとしても、心配はいりません。安倍政権は骨の髄まで対米従属政権ですから。日本が本当に北朝鮮や中国共産党に接近すれば、アメリカ様が黙っていません。日本は内戦状態になります。そのためにアメリカ軍が駐留しているのですから。
それはさておき、この「マンセー!」劇の核心は、全体主義国家を連想させたことではありません。そこに露呈していたのは、途方もなく傲慢な特権意識でした。バカに権力を持たせるとこうなるという典型的な悲喜劇だったのです。
翌10月11日の国会で、南スーダンでは内戦が再燃し、紛争継続地には自衛隊を派遣しないとする「PKO参加5原則」が完全に崩れているとの指摘がされた時、安倍首相は、「衝突はあったが戦闘行為ではない」という趣旨の答弁をしました。「名を歪める」答弁です。
そして翌12日、南スーダンの情勢の認識を質されて、「永田町と比べればはるかに危険」と安倍首相は答弁したのです。本人は、ジョークで切り返したつもりだったのでしょう。
しかし、命の危険を日々感じながら任務にあたっている人々が現にいるなかで、こうした冗談を口にする人間と同じ人間が、他方で、自衛隊員や海上保安官の任務遂行の努力を讃えるために、演説を中断して起立と拍手を求めてもいるのです。この種の冗談は、危険な現場に身を置く人々を、人間ではなく、単なるコマ(安倍首相のことばでは「兵隊」)だと見なしていることを意味します。これは、統一的な人格を持った人間にはできないことです。私がサイコパス総理と呼ぶゆえんです。
自衛隊員らを称賛する「マンセー!」劇の深層意識は、白井聡氏がいうように「あの身分の低い連中のために、総理大臣がわざわざ演説を中断し、白紙領収書を切れるほどの特権階級たる与党議員がわざわざ席から立って拍手したのだ、ありがたく思え」というもの以外ではあり得ません。
それは、あえて言えば、南スーダンで自衛隊員の人命が失われることを見越し、期待すらしていることの表れです。あのスタンディングオベーションは、「この特権階級たるわれわれから感謝されるという身に余る光栄を得た諸君には、もう思い残すことはあるまい」というメッセージでもあったのです。
安倍政権はたとえ死者が出ても、南スーダンから自衛隊を撤退させないでしょう。なぜなら、以下のスケジュールを念頭に置いているからです。
1:南スーダン駐在の自衛隊PKO部隊に死者が出る。
2:国家をあげて死者を追悼する。
3:自衛隊員の英雄化・英霊化。
4:「軍隊を軍として派遣できない弱腰憲法」「隊員を見殺しにする憲法」「英霊を祀れない憲法」ということで、改憲議論が沸騰。
5:1年以内に国民投票。
国民やマスメディアが黙っていないだろう、と思う人もいるかもしれませんが、児童虐待・愛国教育の「森友学園」による国有地不当払下げ問題一つまともに報道しないマスメディアに期待などできるわけがありません。
国家が戦争に突き進めば、「兵隊」や国民は見殺しにされ、捨石にされます。「国のために命をささげた」という言い方は、権力者の身勝手極まりない解釈であり、「死者を讃える」という体裁を取りながら、その実、敬意と哀悼を欠いた傲岸不遜な言い方だということを忘れてはなりません。