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洪水の年(上)
洪水の年(上) (JUGEMレビュー »)
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マーガレット・アトウッド
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 (JUGEMレビュー »)

まず私たちの生命と暮らしを脅かす事実を知ること。それにたいしてどのような認識を持つのか。この国のみならず、世界を壊滅させる災厄とどう向き合うのか。次世代に対してどう責任を取るのか、そもそも責任を取れるのか。自分に何ができるのか。この現実にどう向き合うのか。それを教えるのが教育のはずだが、この国には教育も哲学も存在しない。
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「最悪」の核施設 六ヶ所再処理工場 (集英社新書)
「最悪」の核施設 六ヶ所再処理工場 (集英社新書) (JUGEMレビュー »)
小出 裕章,渡辺 満久,明石 昇二郎
原発よりもはるかに危険な六ヶ所村再処理工場。私たちの日々の生活が薄氷の上で営まれていることを痛感させられる。同時に、この国には「国民の生命・財産・自由を守り抜く!」と威勢のいいことを言う総理大臣と無能の政治家しかいないことに絶望する。核燃料サイクルと言い、下北半島の再処理工場と言い、3兆円以上の国民の税金がつぎ込まれ、いまだ後始末も将来の見通しもたっていない現実をどう考えているのか。彼らは核兵器を持ちたいという願望と税金をロンダリングして私腹を肥やすことしか眼中にない。北海道の地震だけに目を奪われてはならない。六ヶ所村は今回の震源地の目と鼻の先にあるのだ。
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幻影(イメジ)の時代―マスコミが製造する事実 (現代社会科学叢書)
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D.J.ブーアスティン
私にとっては古典の中の古典。三度読みました。そしてその慧眼にいまだに驚いています。
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殺人犯はそこにいる (新潮文庫)
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清水 潔
ジャーナリストと称する職業がある。自称ジャーナリストもいれば、テレビのコメンテーターとしてリベラルに媚びる政権批判をし、名を売り、講演で稼ぐ職業をジャーナリストと呼ぶ者もいる。とんだ茶番である。ジャーナリストとはどこまでも「事実」を追いかける。テレビに出て能天気な解釈や感想を垂れ流している暇などないはずだ。ジャーナリストを志す若い人には清水氏の著作は避けて通れない。その名に値する本物のジャーナリストがここにいる。
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デジタル・ポピュリズム 操作される世論と民主主義 (集英社新書)
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福田 直子
おそらく自民党・安倍政権はSNSを駆使し、分析するデータサイエンス(日本版なのでレベルはまだ低いですが)の重要性に着目し、選挙にどうすれば勝てるか、自分たちに有利な世論を形成し、国民を誘導・分断するにはどうすればいいのかが分かっているのです。そのためのノウハウも蓄積しつつあります。安倍首相の貧困な語彙力からは想像できないカタカナ言葉を聞いていると、それがSNSを分析している集団から教えられたものであることがよくわかります。ただ彼らの致命的な弱点は将来の社会を導く理想がないことです。おそらく、思いもかけない結果が待っていることでしょう。なぜなら、所詮、彼らはアメリカとビッグデータの奴隷でしかないのですから。これからの政治は、好むと好まざるとにかかわらず、この本に書かれていること抜きには語れなくなっているのです。
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 (JUGEMレビュー »)

安倍政権に対するメディアの忖度が云々されていますが、元々同じ穴のムジナなのです。忘れてならないのは、日中戦争から太平洋戦争にかけて、日本の世論と新聞のほぼ全部は好戦的・拡張主義的だったのです。しかも、当時はまだ言論統制体制が発足していなかったのです。この本は、そうした「一貫して好戦的な世論とそれに便乗する新聞」が先導し、近衛文麿はじめ文民政治家がそれに便乗、軍部がさらに便乗、という構図を一次資料で克明に論証しています。安倍政権を支持するネトウヨの皆さんの日本語力では、まともな読解は無理ですので勧めません。一方、正確な歴史を知るためには「世論」の不気味さを知ることだと気づいている若い人には是非一読を勧めます。
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茫漠の曠野 ノモンハン
茫漠の曠野 ノモンハン (JUGEMレビュー »)
松本草平
著者は大分市にある『天心堂へつぎ病院』の院長、松本文六氏の御尊父、松本草平(本名松本弘)氏です。詳しくは、ブログで紹介したいと思いますが、第一次資料として極めて価値の高いものです。40年ぶりに復刻版を出された松本文六氏と出版社に感謝する他ありません。
戦略も何もない、無謀・無慈悲な戦争を語り継ぐことは、最も崇高で重要な人間の営為だと私は考えています。作家の司馬遼太郎氏は、電話で草平氏に次のように伝えてきたそうです。「先生の臨場感のあるノモンハン戦記に出会えて本当にありがとうございました。私は大東亜戦争の折、戦車隊の一員として従軍しましたが、先生の従軍記以上のものを創ることはできません。」と。
一人でも多くの方がこの本を読まれることを望みます。ちなみに松本文六氏は伊方原発差止め訴訟の原告でもあります。その縁で、この本に出会うことができました。
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「南京事件」を調査せよ (文春文庫)
「南京事件」を調査せよ (文春文庫) (JUGEMレビュー »)
清水 潔
全国のネトウヨの皆さんへの推薦図書です。清水氏のこの本を読んでから、「南京事件はなかった!」「南京事件は捏造だ!」と叫びましょうネ。
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日本列島の全原発が危ない! 広瀬隆 白熱授業  DAYS JAPAN(デイズジャパン)2018年1月号増刊号
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広瀬隆
広瀬氏をアジテーターだの、オオカミ少年だの、悲観主義に過ぎると言って批判する人がいる。しかし、ブログで何度も述べてきたように、真の悲観主義こそがマインドコントールによって奴隷根性のしみ込んだ私たちの精神を浄化してくれるのだ。そもそも無知では悲観が生まれようもないではないか。国などいくら破れても結構。せめて山河だけでも次世代に残そうと考える人ならぜひとも読むべき本である。いや、これから幾多の春秋に富む若い人にこそすすめたい。
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チャヴ 弱者を敵視する社会
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オーウェン・ジョーンズ,Owen Jones
【本書への賛辞】

「怒りが生んだ、最高の本」
──ガーディアン紙

最高の論争がみなそうであるように、知性に裏打ちされた怒りが本書を支えている。
──エコノミスト誌

暴動や世界中に広がったオキュパイ運動に照らして考えると、分断社会に関する著者の鋭い分析は、
不気味なほど未来を予知していたことがわかる。
──アートフォーラム誌

情熱と、思いやりと、すぐれた道徳性が結実した仕事だ。
──ニューヨーク・タイムズ紙

政治の定説を見直す大胆な試み。著者は戦後のイギリス史を縦横無尽に往き来し、
階級、文化、アイデンティティといった複雑な問題を軽々とまとめてみせ、
結果として「階級」問題に火をつけ、大きな効果をあげている。
──インディペンデント紙

いまの制度が貧しい人々を見捨てていることに対する苛烈な警告──それが本書だ。
──ブログサイト「デイリー・ビースト」

ジョーンズは、「地の塩」だった労働者階級が政治のせいで「地のクズ」と見なされるようになった経緯を見事に説明している。
──タイムズ紙

この本は、新しいタイプの階級嫌悪と、その裏にあるものを痛烈にあばいて見せてくれる。
──ジョン・ケアリー(The Intellectuals and the Masses著者)

これは「イギリスはおおむね階級のない社会である」という考え方への、論理的で情報満載の大反撃だ。
──オブザーバー紙

情熱的で示唆に富む……この声が届くことを心から願う。
──スコットランド・オン・サンデー紙
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紹介していない本が山のようにあります。数日前にこの本を本棚の奥から引っ張り出し再読しました。いや〜面白かった。。とにかくこの本のことを忘れていた自分が信じられない。読んでない人に熱烈に勧めます。ハイ。
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新・日米安保論 (集英社新書)
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柳澤 協二,伊勢崎 賢治,加藤 朗
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英語の実際的研究 (1969年)
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秋山 敏
高校生にとって、今でも一押しの不朽の名著。でもこの本をことを知っている英語教師は少ないと思います。是非復刊してほしいものです。
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スノーデン 日本への警告 (集英社新書)
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エドワード・スノーデン,青木 理,井桁大介,金昌浩,ベン・ワイズナー,宮下紘,マリコ・ヒロセ
2017年4月18日、朝日新聞がようやく「パノプティプコン」を取り上げました。遅すぎますね。
これから先の日本社会は、ますます荒廃が進み、国民の不満が頂点に達し、やがて爆発します。それを未然に防ぐために、国は国民の監視を強化します。
実際アメリカでは「愛国者法」により、電子メールや携帯の通話履歴が監視の対象になっています。誰が、いつ、どこで、何を読んで、誰と通信を交わしたか、すべて国に筒抜けです。
「パノプティプコン」とはフランスの哲学者フーコーが用いた概念ですが、国民が刑務所の囚人のように監視される体制を言います。監視者の姿は見えませんが、囚人は監視者不在でも、監視を意識することによって管理統制されるのです。これを「パノプティシズム」と言います。
このシステムから解放されるためには、権力がどう管理・統制しようとしているかを知らねばなりません。この本はそれを知るための第一歩です。あなたが無知のまま、奴隷の人生を送りたければ、読む必要はありません。
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A.ミラー
アリスミラーのこの本は、塾を始めるきっかけになりました。ただ生活のためだけなら、他のことをしていたでしょう。『才能ある子のドラマ』とあわせて、当時の私には衝撃的な本でした。人生はどこでどう転ぶかわかりません。人間の奥深さを知ることで、何とか自分を維持していたのです。この本を読むと当時のことが、ありありと思い出されます。ある意味で、私の人生を方向づけた本かもしれません。
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朽ちていった命:被曝治療83日間の記録 (新潮文庫)
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NHK「東海村臨界事故」取材班

2月18日のブログでも書きましたが、仕事のために読むビジネス書の類は、最終的には効率を重視し、最小の資本と労力の投下で、いかにして最大の利益を上げるかということに尽きていると思います。そのための働き方改革であり、そのための賃上げです。そのための人心掌握術であり、顧客対応です。ビジネス書を読めば読むほど、人間は軽薄になり、視野が狭くなっていきます。もしあなたがそれを自覚するきっかけがほしいなら、是非この本を読むことを勧めます。読書はビジネスのためにするのではないということが分かると思います。この本は私たちの日常の風景を一変させるだけのインパクトを持っています。いわば、ことばの最高の意味における「闖入者」なのです。
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服従
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黒い巨塔 最高裁判所
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瀬木 比呂志
この本はまだ発売されていません。自分で読んでいない本を推薦するのは邪道でしょう。しかし、これまでの『絶望の裁判所』『ニッポンの裁判』(ともに講談社現代新書)に続く裁判所、司法批判の第3弾が長編の権力小説だということで、過去2冊の本の面白さからして、推薦に値する本だと思いました。『原発ホワイトアウト』の最高裁判所ヴァージョンだと思います。読んでからコメントを追加したいと思います。
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そして、僕はOEDを読んだ
そして、僕はOEDを読んだ (JUGEMレビュー »)
アモン・シェイ
学校なる場所に通っていた時、毎年夏になると課題図書を読んで、読書感想文を書かねばならないのが苦痛でした。課題図書の選定には学校と書店の密約があるに違いないと思っていたくらいです。

偶然巡り合った面白い本の感想を書くのならまだ我慢できたかもしれません。つくづく学校というところは、余計なことをしてくれると思ったものです。

あまりにめんどうくさいので、「あとがき」を参考に、あらすじを書いて提出したら、トリプルAをもらいました。

学校というところは、もしかしたら、人生の退屈に耐える訓練をする場所だったのかもしれません。この本を読んで、改めてそのことを確認しました。別に先生を責めているわけではありません。それほど自覚的に生きるということは難しいのだとため息をついているだけです。
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選挙 [DVD]
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想田和弘監督の観察映画。音楽による演出は一切なく、徹頭徹尾監督の視点で撮られたドキュメンタリー映画。見終わった後、日本の選挙風土の貧困さが浮かび上がる。この国に民主主義はない、ということを改めて確認し、そこから出発するしかない。その勇気を持つ人には必見の映画です。合わせて『選挙2』もどうぞ。
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マックス ヴェーバー
ウェーバーの死の1年前、1919年、学生達に向けた講演の記録です。
一部抜粋します。

「自分が世間に対して捧げようとするものに比べて、現実の世の中が―自分の立場からみて―どんなに愚かであり卑俗であっても、断じてく挫けない人間。どんな事態に直面しても「それにもかかわらず!」と言い切る自信のある人間。そういう人間だけが政治への「天職」を持つ。」(P105〜106)

「さて、ここにおいでの諸君、10年後にもう一度この点について話し合おうではないか。残念ながら私はあれやこれやいろんな理由から、どうも悪い予感がしてならないのだが、10年後には反動の時代がとっくに始まっていて、諸君の多くの人が―正直に言って私もだが―期待していたことのまずほとんどは、まさか全部でもあるまいが、少なくとも外見上たいていのものは、実現されていないだろう。」(P103〜104)

10年後には、ワイマール体制は機能不全に陥り、1933年にはヒトラーが首相に就任します。

平和憲法は、日本人にとって310万人の命と引き換えに手に入れた唯一と言っていい理念であり、アイデンティティーでした。その唯一の誇りを、日本人は損得勘定で葬り去ろうとしています。言い古された言葉ですが、歴史は繰り返すのです。
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熊楠の星の時間 (講談社選書メチエ)
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中沢 新一
小学校を卒業するころ、将来なりたい職業として思い描いていたのが、天文学者か生物学者でした。プロ野球選手は、自分のセンスでは無理だと悟りました。物ごころついたころから興味があったのは宇宙や昆虫や植物の世界でした。そんなわけで南方熊樟に出会うのは必然的な成り行きだったのです。人間は言葉によって世界を把握しますが、それ以外の把握の仕方があるはずだと、ずっと思ってきました。南方熊樟は、小林秀雄と同じく、直観による世界の把握の仕方を教えてくれました。この本は、言葉によって構成された世界秩序の外に出て、世界を改めて考えたい人に大いなるヒントをあたえてくれます。安倍政権によるゴキブリのフンのような、あまりにばかばかしい政治状況を見せつけられているので、精神の衛生学として一気に読みました。
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こどもの教育から裏金を使ったオリンピック誘致、原発再稼働、戦争準備から武器の売却、安倍政権の裏の権力としてメディアに絶大な影響力を行使する電通。私たちは電通が作り上げた「箱」の中でいいようにマインドコントロールされている。自分の意見だと思っていたものが、実はそう思わされていただけだということに気づかなければならない。音楽をはじめとする芸能情報、その中で踊らされるミュージシャンやタレント、果てはデザイン業界までを席巻する。今や電通の介在しないメディアはないと言ってもいい。利権あるところに電通あり、です。
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英語教育に携わる人は、一度この本を読んでみるべきではないでしょうか。言葉は悪いですが「英語ばか」がこの国には余りにも多すぎる気がします。
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前作『日本はなぜ「基地」と「原発」止められないのか』に続く著者渾身の力作。自分の人生を生きたい人にすすめます。ただそれだけです。18歳で選挙権が与えらる高校生が政治を考える際の基本的なテキストになる日がくるといいですね。無理でしょうが。これ以上余計なコメントはしません。まず手に取ってみてください。
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菅野 完
メディアで取り上げられるよりはるか前から日本会議の存在について私は言及していました。電通と同じくタブー視するメディアには心底失望したものです。報道すればタブーはタブーでなくなるのです。何を恐れているのでしょうか。干されれば、何とか生活をする工面をすればよい。それだけのことです。
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磯崎新
帯に「祝祭都市にスタジアムはいらない」とあります。そもそも2020年まで天災と原発事故をやり過ごし、経済危機を乗り越えて存在しているでしょうか。極めて怪しいですね。偶然書店で手に取って読みました。彼の文章を読むと、建築は現世の権力に奉仕するものではなく、想像力の王国を作るものだと思わされます。建築にそれほど興味のない人でも、読めます。いや、いつのまにか引き込まれているでしょう。
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りぼん・ぷろじぇくと
難関中高一貫校で学び、東大に合格しても、それはもはや知性のバロメーターではありません。この本に書かれていることが真実だと見破れることこそが本物の知性です。ニセの知性は既得権益を守るためにはどんな屁理屈でもひねり出します。おまえは何も知らないと言って他人を見下し、金と権力におもねるのです。ニセの知性は理想の灯を掲げることができません。「脳内お花畑」などという幼稚な言葉を使って揶揄するしかないのです。彼らの決まり文句は、他国が攻めてきたらどうするのかという、それこそ「脳内お花畑」的なものです。「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」とは、まさに至言です。
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松岡正剛氏の本はどれも面白く、シリーズの千夜千冊を除けばほとんど読んでいます。『多読術』は、高校生にぜひ勧めたいと思います。高校時代に、この本を読んでおくと、さまざまな分野の知的見取り図を手に入れることができます。学校の授業だけではなく、この本を手掛かりにして知の荒野に歩みを進めてほしいと思います。
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カント
安倍首相は「この道しかない」と言って消費税を上げ、集団的自衛権の行使を可能にする閣議決定をし、公約とは正反対のTPPを批准することで、日本の文化=アイデンティティーを破壊しようとしています。

もし私たちが生き延びたければ、そのヒントがこの本の中に書かれています。日本は超大国の「夢」を代弁するだけの国になってはなりません。
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山本氏の国会での質問を、本になって改めて読み直して感じることは、文字通り「みんなが聞きたい」質問をしてくれたということです。安倍首相が小学生に「なぜ政治家になったのですか」と質問された時、「父親も祖父も政治家をしていたからです」と答えていました。小学生相手に、何と言う悲しい答えでしょうか。語るべき理想を持たない政治家など、所詮は官僚に利用されるだけです。それに対して、山本氏には語るべき理想がある。「政治なんてそんなものさ」というリアリストが発散する腐臭を吹き飛ばすさわやかさがある。それは、彼の身体には収まりきれない理想が持つ力そのものです。彼は言います。「力を貸してほしい。少なくとも、あなたが必要だと思われる社会、私が必要だと思われる社会を作っていきたい。そう思うんです」と。日本の総理大臣にふさわしいのはどちらでしょうか。
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おそらく、日本人自身よりも海外の知識人のほうが、日本の問題を正確にとらえていると思わせる本です。読み終えて何気なくテレビを見たら、わが大分県選出の国会議員、岩屋毅氏と江藤晟一氏が、2016年ミスユニバース大分県代表を選ぶ催し物に出ていました。名誉顧問だそうです。いかがわしい宗教団体をバックに票を稼ぐだけでは飽き足らず、こんな大会に顔を出して名前を売ろうとする。大分市長の佐藤樹一郎氏も出席していました。このお三方は、こんなことをするために国会議員や市長になったのでしょうか。国民の税金を使ってやることといえば、テレビに出演してにやけた顔をさらすことでしょうか。もう物事の軽重が全く分かっていません。せめてこの本くらい読んではどうでしょうか。私はこの本に書かれていることの大部分に賛成です。
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蓮池 透
出版されてすぐ読みました。国会で、読んでもいないのに、安倍首相が躍起になって否定した事実が書かれています。蓮池氏はあちこちから人格攻撃の対象とされてきましたが、自分にも落ち度があったと認めています。自分は総理大臣なのだから落ち度はないと居直る人間とは好対照です。この本を読んで、拉致問題について今一度国民が考えることを望みます。
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渡邉 格
2年半ほど前に求めて、一気に読みました。マルクスの『資本論』の中に書かれていることを、著者が自分なりに消化し実践していく過程が書かれているので、一種のドキュメンタリー文学として読めます。きっと著者と同じ思いの若者は全国にたくさんいると思います。かけがえのない一回きりの人生を、充実して生きたいと思っている人に勇気を与える本です。
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スベトラーナ・アレクシエービッチ
今年度ノーベル文学賞受賞作品。チェルノブイリは言うまでもなく、フクシマでさえ人々は忘れたがっています。もう過去のことだと言い聞かせて。しかし、過去のことではなく、まぎれもない現在進行中の現実であり、私たちが生きている世界そのものです。この本を読んだ後、橋下徹が御堂筋をイルミネーションで照らし出し、F1カーに乗って写真を撮っているところを見ました。その時のセリフ。「大阪はここまでできる!」

もう何と言うか、別世界を生きている人間です。彼の発する言葉は文学とは無縁です。人間が言葉を持ったのは、言葉にしがたいものを言葉にしようとするためです。政治家が発する言葉の軽さと言ったらありません。それだけ現実も軽いものになったということでしょう。
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鈴木大拙の言わんとすることが、ようやくわかりかけてきました。年齢を重ね、日本文化の基底にあるものをじっくり味わうことで開示される世界があるのです。日々の生活に追われていては、この本を読み、味わう暇などないでしょうが、それだからこそ手に取ってみてはいかがでしょう。
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人間は、条件次第で、喜々として殺人を犯す。そして、その条件を整備しつつあるのが、安倍政権とその背後でうごめく『日本会議』である。このことに気づいていても、「配慮する」ことを最優先して報道しないメディア(特にNHK・読売新聞・産経新聞)。そしてそこに寄生する学者やコメンテーター、芸能人。このドキュメンタリー映画は、彼らの自画像である。たまには、自らの顔をじっくり眺めてみるがよい。
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ジョナサン・ハイト
私が長年考えてきた問題を解明するヒントになりました。ブログで書いたように、まず感情を基にした結論があって、それを正当化するために人は「知性」を動員するという、ごく当たり前のことが書かれている。つまり、知の粉飾決算報告書である。
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中村 好文
中村さんの著作の中では、個人的に最も好きな本です。読んでいるだけで楽しくなります。限りなく優しい、でも、痛烈な文明批評です。これからの生き方のヒントが満載です。それを一人でも多くの人と分かち合いたいと思い、中村好文論・その3の中で引用させていただきました。
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暮らしを旅する
暮らしを旅する (JUGEMレビュー »)
中村 好文
以下は私がアマゾンのレビューに投稿したものです。再録します。
「もし人に幸福な生き方があるとしたら、中村好文さんのような生き方だろうと、ずっと思ってきました。
建築雑誌をパラパラとめくりながら、ふむ、と思って手が止まると、そこには必ずと言っていいほど中村さんの設計した住宅がありました。
文は人なりと言いますが、その人の書く文章のエッセンスがこれほど見事に建築にも表現されている例はめったにありません。
建築に限らず、食の分野でも、ことばと実物の乖離がはなはだしい時代に、中村さんの設計した住宅や美術館に出会うと、どこか安心するのですね。
そういうわけで、著者の本はすべて読ませてもらっています。
この本も偶然、年末に本屋さんで手に入れ、装丁やカバーの手触りを楽しみながら読んでいます。
読みながらいつの間にかほのぼのとしている自分を発見します。
一日に一編か二編を過去の記憶をたどるようにして読んでいます。
この本の平明さ、やさしさがどこから来るのか。そんなことを分析するのは野暮というものです。
とにかくこの素敵な小さな本は、旅のお供にどうぞ!とすすめたくなります。」
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中村さんの書かれた本はすべて読みました。どの本もおすすめです。これから家を建てようと考えている人は、どの本でもいいですから、一冊中村さんの本を読んでみてはいかがでしょうか。エッセイとしても十分楽しめます。この本は北海道にあるパン屋さんの建物を作りながら、人は「パンのみにて生きるにあらず」を実践したものです。ダジャレ好きの中村さんらしい(笑)。
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中村さんの本を全部は読めないという人向けに、一冊だけ選ぶとすればこれでしょうか。普通、設計したらそれで終わりという建築家が多い中、かってのクライアントを訪問して話を聞き、それを本にしたものです。クライアントといい関係が築けてないと難しいですね。加えて自信がないとなかなかできることではありません。
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堀部氏のスケッチと自身で撮った写真集。これ見よがしの作家性を前面に押し出したところがない。簡素で謙虚だが、気品に満ちた佇まいは何度見ても見飽きることがない。ブログを書くために、もう一度最初から読み直してみたが、やはり素晴らしい。
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ネトウヨを一掃する!
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    やれやれ、またネトウヨさんからコメントをいただきました。20代だと名乗っていますがウソでしょうね。しかも山本太郎が動画のなかで主張していることを全く理解していません。理解していれば今回のようなコメントは書けないはずです。にもかかわらず、山本太郎を「気狂い」だと言っています。さすがネトウヨだけのことはあります。

     

     

    以下は10月21日に行われた最新版の街頭演説。自分の選挙区ではない神戸で訴えています。前回の動画と内容はダブっていますが、それでも聞く気にさせます。彼は専門用語を駆使して国民を騙すようなことはしません。普通のことばでしゃべっています。つまり、山本太郎はただ一人国民の側に立つ政治家なのです。

     

     

     

     

     

     

    それはともかく、私は読むに耐える批判やコメントであれば、必ず返信するようにしています。それが私の信条です。しかし、一度として読むに耐える批判をいただいたことはありません。

     

     

     

    特にネトウヨからの批判は、一読しただけで脱力するレベル(こんな言葉は使いたくないのですが)で、反論する気にすらなりません。しかも100%匿名です。実名でなくてもURLくらい公開してサイト上で議論しませんか、と提案するのですが、応じてくれた人は皆無です。屁をカマして逃げるのが彼らの習性なのです。

     

     

     

    ネトウヨではありませんが、「佐藤ママにエールを!」のコメント主さんのように、結果主義を信奉するあまり、考えることそのものを放棄している人に対しても、少しですが、相手をしました。なぜなら、彼女もネトウヨも、自分では一応考えているつもりになっているからです。

     

     

     

    さて前回の私の記事『山本太郎は日本のバーニー・サンダースである』に対して、コメントを寄せた「革命戦士」と名乗るネトウヨさんの記事は以下の通りです。もっとも本人は、「俺はネトウヨではない」と思っているかもしれませんね。しかし、正真正銘のネトウヨです。

     

     

     

    引用開始

    ― そうですね山本太郎という男は園遊会で天皇陛下に手紙を直接手渡すなんてことができる気狂いですから彼なら日本を破滅に導くような偉業が達成できるでしょう。

     

     

    「若い人たちのなかには、『政権を批判する』行為は『コンビニで店員に怒鳴り散らす』のと同じような 『利己的で、はた迷惑で、非常識な行為』だと感じている人もいるようです。これこそが教育の敗北です」と書いて居ますが若者が安倍を支持するのは当然、私は20代ですがアベノミクスのおかげでありがたいことに売り手市場です。私が学生時代民主党政権下では買い手市場もいいとこ、ネットカフェ難民なんてのもいましたね。

     

     

    トランプ的安倍晋三的ネトウヨ的言説が増えたのももうグローバリズムとか左派政党が嫌になったんですよ。鳩山的ネトサヨ的はもううんざりです。私から見れば自民党は革新的で、野党こそ保守です。憲法改正や自由貿易の拡大、安倍晋三及び自民党こそ進歩的です。― 引用終わり

     

     

     

     

    こんな日本語しか書けない人間に対して、いちいち反論する気にはなりません。すべての文章が論理的に破綻しています。それを指摘すると5〜6回分の記事を書かなくてはなりません。どんなに暇でもそれはできない相談です。「革命戦士」さんは私が書いた以下の記事を理解できるでしょうか。

     

     

     

    『私の国語の授業−文章を正確に読むために』

    http://www.segmirai.jp/essay_library/essay058.html

     

     

     

    それにしても、今から5年前の9月、安倍首相がニューヨークの証券取引所で行ったスピーチを忘れることができません。以下、首相官邸のHPから引用します。

     

     

     

    引用開始

     

    世界第三位の経済大国である日本が復活する。これは、間違いなく、世界経済回復の大きなけん引役となります。日本は、アメリカからたくさんの製品を輸入しています。日本の消費回復は、確実にアメリカの輸出増大に寄与する。そのことを申し上げておきたいと思います。
     ゴードン・ゲッコー風に申し上げれば、世界経済回復のためには、3語で十分です。

     「Buy my Abenomics」

     

    引用終わり

     

     

     

    ちなみに「Buy my Abenomics」は映画「ウォール街」の中で嘘と裏切りのマネーゲームに明け暮れる主人公ゴードン・ゲッコーが「俺の本を買えばすべて分かるぜ」と言い放ったセリフです。安倍首相にぴったりのセリフです。

     

     

     

    株価の上昇だけで日本経済を論じたり、実質賃金が上がってもいないのに消費が回復していると強弁したり、目も当てられません。今時、アベノミクスのからくりは中学生でもわかっています。日本の粉飾経済の化けの皮が剥がれるのももうすぐです。その時は「Buy my Abenomics」という言葉が虚しく響くことでしょう。

     

     

     

    さらに「革命戦士」さんは、現実を認識するだけの知力を欠いています。一つだけ例を挙げてみましょう。

    「トランプ的安倍晋三的ネトウヨ的言説が増えたのももうグローバリズムとか左派政党が嫌になったんですよ。」とありますが、この論理で行くと、「グローバリズムとか左派政党が嫌になった」から「安倍晋三的ネトウヨ的言説が増えた」ことになりますね。つまり、安倍首相は反グローバリストであり、それをネトウヨが応援しているという構図になります。

     

     

     

    でも、2年前の大統領選のとき、安倍首相はヒラリー・クリントンが当選すると思って、彼女のケツを舐めに行きました(英語でlick one’s bootsは日本語ではケツを舐めるという表現になります)。ところが顔を上げると、ヒラリーのケツではなく、トランプのケツを舐める羽目に陥っていたのです。さぞ慌てたことでしょう。

     

     

     

     

    要するに、安倍首相はグローバリズムの正体を理解しないまま、グローバリズムの走狗として日本の富をアメリカに売り渡しているだけです。それは数年を経ずして、誰の目にも明らかになることでしょう。

     

     

     

     

    それはともかく、ネトウヨの致命的な欠点は事実を知らないということです。ネトウヨ漫画家のはすみとしこ女史にいたっては、北海道地震の際、「泊」原発を再稼働せよと叫ぶつもりで、「柏」原発を再稼働せよと叫んでいました。ネトウヨがリツイートしてあっという間に拡散しましたが、せめて再稼働させたい原発の名前と所在地くらい知ってから叫んでほしいものです。

     

     

     

     

    ところが一事が万事、事実を指摘しても、ネトウヨはそれすら認めないのですから、議論の成立する余地などありません。それどころか「お前たちパヨクは、見たいものしか見ていない」などと、誰かさんから教えてもらった紋切型のフレーズを実体のない論敵に投げつけて溜飲を下げているだけです。

     

     

     

     

    私はブログで事実よりも認識の方が大事だと言ってきました。それは事実に関しては、細部はともかく大枠で認識が一致すると思っていたからです。しかし、ネトウヨはその事実すら自分たちの都合のいいように捏造し、それを指摘すると、逆に「お前たちは事実を捏造している!」と叫びます。自分たちが言われそうなことを相手に投げつけるという言葉の戦略を身につけているのです。

     

     

     

     

    ネトウヨは、イデオロギーというよりもある種の劣情を共有しています。劣情から発せられる言葉は下品になり、差別的になり、レイシズムを生みます。道徳心理学者のジョナサン・ハイトを引用するまでもなく、感情こそが論理を方向付けるのです。したがって、劣情が生み出す論理も劣った論理にならざるを得ません。野党の質問に対して下品なヤジを飛ばす総理大臣の振る舞いはその典型です。

     

     

     

     

    いったいどうすればいいのでしょうか。まず事実認定をしっかり行う必要があります。法治国家であれば、最終的には法廷で決着をつけることになります。ネトウヨや出版社を告訴し、そこで被告人を尋問して事実を捏造したことを白状させるのです。それを実行しているのが元朝日新聞の記者・植村隆氏です。

     

     

     

     

     

    「慰安婦問題は朝日新聞が捏造した」として標的にされたのが植村隆氏です。しかし、植村氏は今係争中の裁判の中で、自分への攻撃の多くが根拠のないものであることをひとつひとつ実証し、極右言論人たちの嘘とでっち上げを、次々と白日のもとに晒しています。事実認定の問題ですから、もうすぐ判決が出るでしょう。

     

     

     

     

    今回も長い記事を読んで下さった皆さんに御礼申し上げます。次回は安倍政権の周りに蝟集(いしゅう)する極右言論人たちの名前を挙げ、その発想がいかにデタラメか、なぜそういう人格が作られるのかを検証します。

     

     

    | 文学・哲学・思想 | 00:00 | comments(0) | - |
    循環する時間、再生する命。
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      9月26日のブログでも書きましたが、今の日本社会は国民国家VSコーポラティズムの戦いの最中で、後者がほとんど勝利しかけています。しかし、沖縄で玉城デニー氏が知事になったことで、国民主権も民主主義も命脈をかろうじて保っています。それを指摘したのがニューヨークタイムズだというのが何とも皮肉ですが。

       

       

       

      コーポラティズムが生み出した新自由主義(意味がわからない人は、ここ数回のブログを読んで理解して下さい)のイデオロギーは、私たちの時間を市場社会の絶対時間に服従させました。

       

       

       

      市場社会の絶対時間とはビジネス手帳に細かく書き込まれている予定のことであり、時間を制する者が受験を制するといったイデオロギーであり、私たちの意識に植え付けられた直線的な時間のことです。

       

       

       

      しかし、すでに書いたように、もともと日本の文化には「循環する時間」をテーマにしているものが多いのです。能や歌舞伎の曲目に見られるように、ほとんどが「転生」の物語です。

       

       

       

      9月26日にブログを書いたとき、実は『苦界浄土』の作家・石牟礼道子氏のことを思い出していました。それから数日して、セレンディピティーというのでしょうか、10月2日の朝日新聞26面で石牟礼道子氏の新作能「沖宮」に関する記事が目に留まりました。

       

       

       

      これも偶然ですが、ブログでも紹介した教え子M君(おじいさんが天草に住んでいて、熊本県庁に就職が決まりました)と湯布院でランチをした時、石牟礼道子の話をしました。その時、彼女の畢生の大作『春の城』を勧めたのを思い出しました。

       

       

       

       

       

      『春の城』は、農作物を作り、信仰を大切にし、質素に、つつましやかに生きていたごく普通の人々が、なぜ一揆に参加し、幕府に壮絶な戦いを挑むようになったのか、登場人物一人ひとりに寄り添って、丁寧に描かれた物語です。

       

       

       

      話を元に戻しますが、「沖宮」は、島原の乱(1637〜38年)の後の天草が舞台です。天草四郎の乳きょうだいで孤児となった少女あやは、干ばつに苦しむ村のため、竜神のいけにえに選ばれます。緋色の衣をまとい、海の底へ沈んでいくあや。その魂を迎えに、四郎の霊が現れるという筋立てです。

       

       

       

      評論家の渡辺京二氏は、「沖宮」で描かれた、共同体のために弱い立場の者が犠牲に差し出される、という構造に注目します。水俣病の補償交渉を支えようと、チッソ本社前の座り込みなどに参加するうち、石牟礼さんに「自分たちは見捨てられ人身御供になるのだという強迫観念が宿ったのでは」と、創作の背景を指摘しています。

       

       

       

      石牟礼さんは生前、「あやは死ぬのではなく、海底にある生命の源に還ってゆくのです」と語っていたそうです。そのあやがまとう緋色の衣は、親交のあった人間国宝の染織家、志村ふくみさんが監修します。

      新作能「沖宮」は6日に熊本市の水前寺成趣園能楽殿、20日に京都市の金剛能楽堂、11月18日に東京の国立能楽堂で上演予定です。

       

       

       

      言うまでもなく、循環する時間は、生命の源に還ってゆく命を運ぶ舟のようなものです。悠久の時の流れのなかで、生命の源に身をゆだねていれば、この瞬間がまた巡り来ることを信じさせます。日本文化の根底にはこういった時間感覚、信仰があったのです。だから私たちは何が起こってもそれを受け入れてきました。人間は生まれ変わる、再生するという世界観は人間の魂を根底から癒す力を持っているのです。

       

       

       

      しかし、福島の原発事故によって私たちの世界観は大きく毀損されました。国家の連続性も絶たれました。その認識を持てるかどうかが、これから先、生き延びられるかどうかのカギを握っています。天変地異に限らず、何が起こってもそれを受け入れ、じっと耐え忍び、再生の時を待つという日本人のエートスが、逆にこの国を滅びに向かわせているのですから。

       

       

       

      もはや手遅れだと思いますが、私たちにできることはただ一つです。日本にある全原発を一日も早く廃炉にすることです。物事には優先順位があります。まず、国民の意識をこの一点に向かわせるのがジャーナリズムの仕事です。

       

       

       

      次に、コーポラティズムが撒き散らす新自由主義のウィルスと戦っている沖縄を支援し、基地のない沖縄を再生させることです。東京オリンピックに浮かれ、テレビのバラエティー番組を見て痴呆になるのは自由ですが、これは後にしてもらいたいものです。

       

       

      | 文学・哲学・思想 | 23:53 | comments(0) | - |
      「佐藤ママにエールを!」のコメント主さんへ。
      0

        あなたのコメントに反論するのは気が重いですね。私の反論を読んでもあなたはまったく影響を受けないでしょうから。その点では「佐藤ママ」と同じです。影響を受けるためには多少の知性を必要とするのです。

         

         

         

        そもそも、あなたや「佐藤ママ」がどのような子育てをしようと、私にはどうでもいいことです。私は塾の教師をしていますが、「佐藤ママ」が4人の子供を東大医学部に合格させたと聞いても驚きません。受験というコップの中の世界では、情報とお金と子供に多少の素質(記憶力の良さ、計算力、高速事務処理能力など)さえあれば可能だからです。カルト化している塾・予備校を、カルト化した母親がうまく利用した結果に過ぎません。

         

         

         

        しかし、自分の子供がどこの大学に合格したかなどということは本来プライベートなことではないでしょうか。本を出版したり(『受験は母親が9割』など)、講演をして回ったりするのは、教養のある大人のできることではありません。下品な行いです。当然、講演を聞きに行く母親たちも下品です。

         

         

        彼女たちは、社会の空気を読んで、子供の市場価値と自分の存在価値を高めるために行動しているだけです。もちろん背後には、世間に承認されたいという欲求があります。

         

         

         

        「母親というものは、たとえ世の中がどんなに腐りきっていても、そこに適応するように子供を育てるものだ」とはゲーテの言葉です。昔なら恥ずかしくて言えなかったようなことも、今は露骨に勝ち組・負け組といった二分法を使って「本音」を歯切れよく、堂々と開陳しています。

         

         

         

        つまり、公共性という概念が欠落しているのです。公共性とは、簡単に言うと「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」(宮沢賢治)と考えることです。彼女たちが公教育をバカにするのももっともです。コメント主さんもその一人です。

         

         

         

        私はネットで「佐藤ママ」が出演していたテレビの録画を観ました。彼女の話し方、目つき、笑い方、反論の仕方を見て思うところがありますが、それに言及するのはやめにします。その番組の中で「佐藤ママ」がしきりに言っていたセリフがあります。「そんなことしている暇はないのよ」「効率が悪すぎるのよ」「無駄でしょ、そんな時間は」「18年間なんて、あっという間に過ぎるのよ」等々です。

         

         

         

        そのために18歳までは恋愛禁止、テレビも禁止、意味のない学校の宿題は親が代わりにやる、志望理由書も親が書いたものを写させる、とのことです。要するに子育てが東大医学部に合格するためという一点に絞られているのです。そのために最も必要なことは、効率的な時間の使い方だというわけです。

         

         

         

        私は時間について思索を巡らせてきました。そして時間と記憶こそがその人そのものだと書いてきました。コメント主さんや「佐藤ママ」の時間感覚は、直線的な時間、消費される時間に集中しています。スケジュールでびっしり埋まっているビジネス手帳に象徴されるような時間です。

         

         

         

        しかし、あらかじめ流れる方向が直線的に決まっている時間などというものは存在しません。あるところでは滞留し、逆流し、循環しています。時間はわたしたちの感情や価値観によって、短くもなれば長くもなるのです。直線的な時間は、人間を既存の秩序や序列に深く組み込みます。

         

         

         

        では誰が考え方や感じ方を支配するイデオロギーとしての時間の概念をわたしたちに植え付けたのでしょうか。この点を解き明かさなければ、親や教育産業が子供たちをドッグレースに駆り立てる社会はなくなりません。

         

         

         

        まず大きな枠組みから考えてみましょう。日本はもはや国民国家ではありません。国民国家とは国民を主権者とする国家体制のことです。主権とは国民の生命、財産、暮らしを守るための独立国家の権利です。それに対して、大企業と政府が一体になった国家運営体制をコーポラティズムといいます。コーポラティズムは、必然的に、国家の枠を超えた富の収奪システムとなります。

         

         

         

        原発や武器を海外に売りさばく人間たちは この収奪システムの先兵なのです。この体制下では政府と癒着した一部の大企業、なかでもその株主と経営者に富が集中して行きます。2018年の国際NGO「オックスファム」の調査によると、最も富裕な1%の人たちが世界の富の82%を所有していると言われています。

         

         

         

        この事態を積極的に支持したり、やむを得ないと考えたりするイデオロギーを新自由主義と言います。新自由主義こそが時間の概念を変えたのです。

         

         

         

        しかし、国民が反発すればこの体制はうまく機能しません。そこでうまく支配するために教育やマスメディアを使って個人や組織などに心理戦を仕掛けるのです。情報を計画的に活用・操作します。

         

         

         

        「佐藤ママ」やコメント主さんは、この心理戦にまんまと引っ掛かっているだけです。いや、今や国民の大部分が心理戦に敗北して、「こうしてはいられない」と自らを叱咤激励しながらドッグレースに参加しています。精神を病む人が多くなり、子供を虐待する親が後を絶たないのも当然です。いったいどうすればいいのでしょうか。

         

         

         

        新自由主義によって植え付けられた直線的な時間概念から部分的であれ解放される必要があります。もともと日本の文化には、「循環する時間」をテーマにしているものが多いのです。能や歌舞伎の曲目に見られるように、ほとんどが「転生」の物語です。「井筒」も「道明寺」も「松風」もしかりです。

         

         

         

        四季の巡りとともにある循環する時間は、悠久の時の流れに身をゆだねていれば、この瞬間がまた巡り来ることを信じさせます。だから私たちは何が起こってもそれを受け入れてきたのです。人間は生まれ変わる、再生するという世界観は人間の魂を根底から癒す力を持っていました。

         

         

         

        しかし、福島の原発事故がすべてを変えてしまいました。天変地異に限らず、何が起こってもそれを受け入れ、じっと耐え忍び、なかったことにする日本人の美点が、逆にこの国を滅びに向かわせることとなったのです。

         

         

         

        多くの国民は現実を直視せず、学校やマスメディアがたれ流す情報をうのみにし、私たちの社会があたかも「生きたいように生きる」ことができる自由な社会であるかのように錯覚します。

         

         

         

        救いは錯覚からは絶対にやってきません。目を開いてよく見れば、私たちの住んでいるところは「ぞぞ〜っとするほどの街(TOWN)」なのに、そこに住む新自由主義の落とし子である住人達は、宇宙に行くことを夢見ているのです。新自由主義がもたらした電脳空間の中で、私たちの脳=意識が地球規模に拡大した結果です。

         

         

         

        さて以下では、これまで述べたことを頭において、コメント主さんの批判に答えてみましょう。

         

         

        >村上春樹氏や宮崎駿氏と「佐藤ママ」を比べる唐突さが理解できません。「佐藤ママ」を批判するためのこじつけではないでしょうか。

         

         

        こじつけではありません。村上春樹氏や宮崎駿氏の作品のテーマは、傷つけられた無意識であり、転生であり再生なのです。それを日本文化の基底部を流れる循環する時間をヒントにして表現したものです。直線的な時間から離脱する人間が増えれば増えるほど、新自由主義的な世界に多くの穴が空き、その世界を維持することが困難になるとわかっている最も洞察力に富んだ同時代の作家なのです。

         

         

        村上氏自身の言葉で語ってもらいましょう。

         

        「僕が今、一番恐ろしいと思うのは特定の主義主張による『精神的な囲い込み』のようなものです。多くの人は枠組みが必要で、それがなくなってしまうと耐えられない。オウム真理教は極端な例だけど、いろんな檻というか囲い込みがあって、そこに入ってしまうと下手すると抜けられなくなる」

         

        「物語というのは、そういう『精神的な囲い込み』に対抗するものでなくてはいけない。目に見えることじゃないから難しいけど、いい物語は人の心を深く広くする。深く広い心というのは狭いところには入りたがらないものなんです」

         

        (毎日新聞インタビュー、2008年5月12日より)

         

         

         

        >あなた様が教える塾の隣に「佐藤ママ」の塾ができたとします。どちらが繁盛するか火を見るよりも明らかではないでしょうか。

         

         

        これは、あなたのおっしゃる通りです。「佐藤ママ」の塾が繁盛するに決まっています。塾商売とはそういうものです。ただこの点についても村上氏に語ってもらいましょう。

         

         

        以下は『1Q84』執筆の動機として地下鉄サリン事件について語ったものです。

         

         

        「ごく普通の、犯罪者性人格でもない人間がいろんな流れのままに重い罪を犯し、気がついたときにはいつ命が奪われるかわからない死刑囚になっていた —— そんな月の裏側に一人残されていたような恐怖」の意味を自分のことのように想像しながら何年も考え続けたことが出発点となった。そして「原理主義やある種の神話性に対抗する物語」を立ち上げていくことが作家の役割で「大事なのは売れる数じゃない。届き方だと思う」と述べています。

         

         

         

        「大事なのは売れる数じゃない。届き方だと思う」を、「大事なのは結果じゃない。プロセスだと思う」と、私は読み換えています。今の社会は、他人が作ったモノサシにばかり頼って「自分の中にあるものをちゃんと眺めてみる」ことを否定しています。

         

         

         

        さてもう終わりにします。「あなた様」のコメントを「読まさせていただき」「失礼かとも思いましたが、私なりの感想を書かさせていただきま」した。最近はやりの、こんな奇妙な日本語を読むのは一度で十分です。疲れるので、これっきりにして下さい。

         

         

         

        | 文学・哲学・思想 | 14:55 | comments(0) | - |
        名もなき一教師さんへ。
        0

          コメントありがとうございます。コメント欄では余裕がないので、この場を借りて返信いたします。

           

           

          私は子供の魂に対する想像力がこれほど貧困な母親を知りません。「佐藤ママ」が最も罪深いのは、「将来のため」という口実で、子供から「時間」を取り上げている点です。何度も書いてきましたが、時間や記憶はその人の人生そのものです。たかが東大医学部に合格させるために、子供からかけがえのない子供時代を奪い取っているのです。

           

           

           

          しかもそれが子供の将来のためだと信じ切っています。こうなるともはや歯止めが効きません。大学合格までは恋愛禁止を申し渡し、テレビは見せず、志望理由書も自分で書いたものを子供に写させます。「こんなことはしたくないけど、これがあなたのためなのよ」というのは、モラルハラスメント以外の何ものでもありません。世の中を生きづらいものにし、児童虐待を生み、犯罪と暴力を生み出すのはまさにこういった発想だと思います。

           

           

           

          おそらく「佐藤ママ」に私の批判は届かないでしょう。なぜなら、「結果を出す」ことで周囲を黙らせようとする人間は、無知で硬直した精神を持つ人間たちから支持され、力に対する共感を呼びさますからです。彼らにとっては「結果を出す」ことが何よりも大事で、プロセスは問わないのが常です。しかし、教育とは結果よりもプロセスに寄り添うもののはずです。人間の、特に子供の幸せは、目的地にではなくそこにたどり着くプロセスの中にこそあるのです。そうではありませんか。

           

           

           

          私は「佐藤ママ」や「ビリギャル本」を持ち上げるメディアの登場で、この国の教育は最終段階に入ったと思っています。これからは、「結果を出す」ことに居直った、荒廃した精神の末路がいたるところで見られることでしょう。

           

           

           

          一つだけ具体例を挙げておきます。

           

           

          「全国学力テストの結果で、大阪市が政令市の中で2年連続で最下位だったことを受け、吉村大阪市長が激怒しました。
          吉村市長は、会見で「私自身は非常に危機感を感じています」「万年最下位でいいと思うなよ」と述べました。今年度の全国学力テストで、大阪市は小6・中3ともに2年連続で政令市で最下位の成績でした。これを受け、吉村市長は来年度のテストから学校ごとに数値目標を設定し、達成できたかどうかを校長・教員の人事評価や給与に反映させるとの考えを明らかにしました。今後、市の教育委員会などとも議論して決めるということですが、全国学力テストの結果を教員の人事評価に用いるのは、全国でも例がないということです。」(平成30年8月2日:大阪市ホームページより)

           

           

           

          話を戻しますが、ブログでは、村上春樹氏や宮崎駿氏を引き合いに出しました。村上氏は優れた文学的な比喩を通じて、宮崎氏はアニメによって、人間の無意識に影響を与える術を知っていると思ったからです。

           

           

           

          子供が無意識の世界を育むべきときに、親があれこれ具体的な指示を出すことは、特に受験を効率的に勝ち抜くためのクソのような指示の場合、魂の休息場所である無意識の世界を破壊することにつながると私は思っています。

           

           

           

          大げさなようですが、それは世界の崩壊へとつながっているのですね。世界は子供たち一人一人の魂が寄り集まって創られている、大きなやわらかい綿菓子のようなものですから。

           

           

           

          何やら取り留めのない話になりそうなのでやめにしたいと思います。名もなき一教師さんのおかげで、ブログを読み返し、わずかながら思考が深まっていることを確認することができました。ありがとうございました。

           

           

           

          最後に、中高生の皆さんのために、時間がどれほど大切なものか気づかせてくれる本を推薦しておきます。今の世の中の支配的な価値観に対する痛烈な批判が込められています。「佐藤ママ」はこの物語の中に出てくる「時間貯蓄銀行」の「灰色の男」たちそのものです。残り少なくなった夏休みの思い出にしてもらえたらうれしいです。

           

          ※ミヒャエル・エンデ『モモ』(岩波書店)

           

           

           

          以下は私のブログです。

           

          『こどもの魂はどこで育つのか』

          http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=174

           

          | 文学・哲学・思想 | 23:24 | comments(0) | - |
          地区の夏祭り−新自由主義とは何か。
          0

            8月5日は坂ノ市の日吉神社の夏祭りでした。今年は私の地区が当番なので、2ヶ月ほど前から代表者が何度も集まり、役割分担を決め、進行について検討をかさねました。そして当日。午前9時にスタートした御神幸祭は、午後9時半のフィナーレに向けて収斂して行きます。

             

             

             

            青い稲穂が揺れる田園の中を通り抜け、住宅が立ち並ぶ市街地を抜ける頃には、日は落ち、疲れはピークに達していました。それでも、感動的なシーンが随所にあり、私の中の農民ジュニアとしてのDNAが刺激され、覚醒する瞬間がありました。

             

             

             

            近代の公教育は一貫して、子供たちを農村からひきはがし、学徒動員と称して無謀極まりない戦争に駆り出し、戦後は高度経済成長を支えるために賃金労働者という交換可能な部品に仕立て上げました。そして、受験競争の勝利者に配分されるわずかばかりの利益を確保するために、消費者という孤立した殻に閉じこもって際限のない快適さを求めることこそ「良い人生」だとみなす新自由主義的な発想を普及させたのです。

             

             

             

            私は山車を引き、交通整理をし、子供たちの面倒を見ながら、こみあげてくる複雑な感情に領されていました。新自由主義とは、簡単に言えば、欲望はよいことだ、市場こそ至上のものである。人生で大切なものはカネだ。公共のもの、共有されているものは何であれ邪悪であり、守るに値しない。私たちの周りは危険だらけなのだから自分の面倒だけ見ればいい。すべては自己責任なのだ。これに代わる選択肢はない、という考えです。

             

             

             

            あるいは自分をコミュニティーの一員としてより、市場における一ブランドと見てしまうようになること。同じような仕事をしている他の人々を、いつか味方になりうる相手とは見ずに、希少な市場シェアを取り合う競合商品と見なす発想といえばいいでしょうか。要するに、すべての人が繁栄し豊かに暮らせるだけの資源などないのだから、たとえどんな犠牲が伴おうと、人を押しのけて上を目指すべきだという発想です。

             

             

             

            実は私の中にも巣食うこういった発想の不可避の産物として生み出されたものこそが、下品で救いようもなく無知な「安倍政権」であり自民党なのです。そして、権力に目がくらみ、自民党をオウム化した公明党です。もちろん、ヤクザ集団の日本維新の会も忘れてはなりません。

             

             

             

            もはや表面的に異議申し立てをする時期は過ぎています。立ち向かうべきなのは「安倍晋三」なるものをさんざん持ち上げて来た深層の風潮であり、手っ取り早い金儲けのハウツー本、億万長者の救世主、資本主義的偽善家などを通して私たちに押しつけられた価値観なのです。私たちは『おだやかな革命』を目指して、明日からでも行動しなければなりません。

             

             

             

            私は塾という商売が、新自由主義的発想を強化し、自明視し、逃れようのない競争世界を作り出すことに一役も二役も買っていることを自覚しています。そして農村文化を破壊していることも。にもかかわらず、私が精神の平衡を失わずに、個人塾の教師を30年以上にわたって続けることができたのは、農村文化の中に精神的な支えを見いだしてきたからです。

             

             

            一年前に書いた関連記事です。よかったらお読みください。

             

            『日本よ、どこへ行く。』

            http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=395

             

             

            本宮お立ちの時間に合わせて、地域の人が神社に向かいます。

             

             

             

             

            厳粛な雰囲気の中、神事が行われています。

             

             

             

             

            いよいよ出発です。

             

             

             

             

             

            これから仮宮に向かった後、二手に分かれて地区を練り歩きます。小さな子供たちも一生懸命山車のロープを引っ張ります。

             

             

             

            そしてフィナーレ。じ〜んとくる感動の一瞬です。二体の神輿は全力を振り絞って舞います。「やりきったぞ!」という声があちこちから聞こえてきました。

             

             

             

             

             

             

            | 文学・哲学・思想 | 23:25 | comments(0) | - |
            ウソと賄賂で誘致した東京オリンピック。何が復興五輪だ!
            0

              災害時であれ何であれ、個人の自主的な意思で活動するのがボランティアですよね。少なくとも私はそう思ってきました。しかし、7月27日の毎日新聞の記事によると、どうやら思い違いをしていたようです。

               

               

               

              スポーツ庁と文部科学省は26日、2020年東京五輪・パラリンピックの期間中にボランティアに参加しやすいように全国の大学と高等専門学校に授業や試験期間を繰り上げるなど柔軟な対応を求める通知を出した。通知では学生がボランティアをすることへの意義を説き、大会期間中は授業や試験を避けることを促した。授業開始時期の繰り上げや祝日の授業実施は学則などに基づき、学校の判断で特例措置を講じることができる。首都大学東京は昨夏、期末試験を大会前に終了させるなどして大会期間中に原則、授業や試験を行わないことを決めている。国士舘大も26日、同様の方針を発表した。」とのことです。

               

              https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180727-00000006-mai-spo

               

               

               

               

               

              いよっ、さすが国士舘大、などと茶々を入れる気はありません。ニッポンを世界にアピールするまたとないチャンスだ。日本人全員で「お・も・て・な・し」をして、オリンピックを成功させるために協力する、それのどこが問題なんだ。しょうもない屁理屈をこねてイチャモンつけるんじゃないよ、というのでしょうね。東京オリンピックに反対すれば非国民呼ばわりされる日も近いかもしれません。

               

               

               

              でもね、「国」がボランティアを動員するってどうなんでしょう?個人の善意や自主性に支えられてこそのボランティアでしょう。小さな善意が国という大きな物語に回収されていくのは、危険ではないでしょうか。

               

               

               

              それに、「国」が「学生がボランティアをすることへの意義を説き、大会期間中は授業や試験を避ける」ように通知を出すなんて、学生を子供扱いしています。それにしても、授業や試験よりもオリンピックの方が大事だなんて、いったい大学って何なんでしょう。

               

               

               

              「生産性」の上がらない部署はどんどん切り捨て、少しでも利益を上げるように檄を飛ばす株式会社のCEO(セコいオッサンの略です)のような人間がこの国のトップに「君臨」し、それを国民が許しているのですから仕方ありませんね。

               

               

               

              はっきり言いましょう。ウソと賄賂で誘致したオリンピック。なにが復興五輪だ!ボランティアを募らなければ開催できないオリンピックなんてやめてしまえ!ということです。オリンピックの誘致自体がいわくつきで、国立競技場からエンブレムの問題まで、疑問符のつくことばかりだったのです。もう忘れたのでしょうか。それに何より財源は国民の税金なんですよ。オリンピックを開催することで一番得をするのは誰でしょうか。オリンピックが終われば、そのツケを払わされるのは国民です。私たちは、この国の崩壊に立ち会っているのです。

               

               

               

              話は変わりますが、私は広瀬すずのファンでした。以前は榮倉奈々や忽那汐里のファンだったのですが(だれもそんなこと聞いてね〜よ)奈々ちゃんは結婚したし汐里ちゃんは今どこにいるのでしょうか。広瀬すずのファンでした、ということは今は違うということです。私が現実に目覚めたのは以下のCMを見たからです。

               

               

               

               

              「青春のど真ん中にオリンピックがやってきます」って、こんなしょ〜もないセリフを堂々と吐くすずちゃんに、いくら仕事とはいえ、ドン引きしたのです。私のすずちゃんに対する幻想はガラガラと音を立てて崩れました。もっとも、私の人生は幻想の崩壊の連続でしたが。

               

               

               

              それにしても、いっせいに駆けだす学生さんたちはなぜみんな学生服なんでしょう?オリンピックのボランティアを募集するコマーシャルですよ。なぜ自由な服装じゃないのかな?普段のテレビコマーシャルでは、いつもまばゆいばかりにカラフルなのに・・・。

               

               

               

              私が連想したのは、昭和18年10月21日、東京・明治神宮外苑競技場において催された大日本帝国 - 学徒出陣式の風景だったのです。ハイ、ハイ分かっていますよ。そんことを連想するのは、お前のようないかれたパヨクだけだと言いたいのでしょう。そうかもしれませんね。多分そうでしょう。いやそうに決まっています。

               

               

               

              ということで、以下の動画をとくとご覧ください。学生の代表は「生きて帰ってくるつもりはない」と宣誓しています。2万5千人の若き学徒の大部分は、戦闘ではなく飢えと病気で死んだのです。この映像を見て、一番心を痛めているのは今上天皇ではないでしょうか。安倍晋三では断じてありません。

               

               

               

               

              | 文学・哲学・思想 | 21:58 | comments(0) | - |
              <生>の始まりに向かって。
              0

                今回は、一週間ほど前に読み終えた本を紹介したいと思います。タイトルは、『石を聴く――イサム・ノグチの芸術と生涯』 ヘイデン・ヘレーラ著(みすず書房)です。今年の2月に出版されました。

                 

                 

                 

                 

                 

                 

                今からちょうど一年前に書いた以下の記事とタイトルが似ていますね。よろしければ、お読み下さい。

                 

                 

                 『石に訊け − イサム・ノグチと宮崎駿』

                http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=340

                 

                 

                 

                古寺巡礼と建築行脚の旅を始めたのは今から16年前でした。そして最初に選んだのが高松市牟礼にある『イサム・ノグチ庭園美術館』でした。

                 

                 

                 

                イサム・ノグチになぜ引きつけられたのか、正直なところ分かりません。彼の作品を言葉で意識的に分析すれば何か重要なものが棄損される気がするのです。だから、作品そのものを語るのではなく、宮崎駿と対比させて感想を述べました。

                 

                 

                イサム・ノグチの作品に対していると、私の内部で、無意識的な記憶の掘り起こしが進行しているのが分かります。それは私固有の記憶とは違った何かです。私たちの内部に私たちの意識よりも多くのことを知っているものがひそんでいて、それが語りかけてくるといった感じなのです。

                 

                 

                 

                それは、自分が知っていることなどたかが知れていると気づかせる何かです。つまり、人間の内部には、意識では到達できない領域が広がっていることを教えてくれるのです。私は以前、人間とは記憶のことだと書きました。その記憶とは個体としての身体の中に閉じ込められている記憶のことでした。

                 

                 

                 

                しかし、自分では体験したことのないことを突然思い出したり、人の死や偶然の出来事によって、異質な記憶の層に引っかかったりしたことはないでしょうか。なんだかオカルトっぽくなりそうですが、人間が霊的な存在であることを思えば、不思議でも何でもありません。鈴木大拙は「霊性」と言っています。

                 

                 

                 

                私はイサム・ノグチの作品を見ている時や、古寺巡礼を続けている時に、こういった経験をすることがあります。すぐれた建築や絵画、彫刻に興味を持ったのは、この経験を深め、その意味を探りたいと思ったからです。そのことをブログで書いたことがあります。

                 

                 

                 

                その中の一つ、『私の古寺巡礼13−奈良・慈光院』から引用します。

                 

                 

                古寺巡礼を続けていると、自分の体温というか体質というか、趣向にとても近い建築に出会います。琴線が共鳴するのです。それは初めて出会ったのに、ずっと前から知っていたような、そんな感じです。私の美意識のルーツはいったいどこに由来しているのか、それはまだいろんなところに存在しているのか、ひょっとしてこれからもそういったものに出会えるのか、と考えると、生きることには意味がある、人生は楽しいと思えてくるのです。」

                 

                 

                 

                そして私は気づきました。私たちの内部にあると思っていた記憶も魂も、実は私たちの外部にあるのではないかと。人間は、一人一人が孤立して独自の魂を持って生きているのではなく、大きな魂を一人一人の魂が形作っている存在だと。それが分かると、自分がなぜ生きてきたのか分かるような気がします。自分がなぜ死んでいくのかも分かりそうです。

                 

                 

                 

                ことによると、人間は本来自分を意識せずに生きて行ける存在なのかもしれません。それに気づけば、いたるところに<生>の起源を見出すことができます。なぜなら、私たちは意識を与えられる前の、<生>の始まりに向かって旅をしているからです。

                 

                 

                 

                興味がありましたら、鈴木大拙に言及している以下の記事をお読み下さい。

                 

                「『普遍的な感情』とは、どのようなものか。」

                http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=87

                 

                | 文学・哲学・思想 | 22:35 | comments(0) | - |
                日本青年会議所(JC)って、どんなところ?
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                  前川氏の授業について文科省に何度も「照会」し、圧力を加えたのは赤池誠章参院議員と池田佳隆衆院議員の2人だと判明しました。赤池氏は自民党の文部科学部会長、池田氏は同代理という関係です。ポスト欲しさに安倍首相に媚びを売るつもりだったのでしょうね。

                   

                   

                  左が池田佳隆氏、右が赤池誠章氏。

                   

                   

                   

                   

                  いうまでもなく、中央省庁にとって、予算や政策の決定に関わる自民党の部会の存在は極めて大きい。その二人が文科省に対して、恫喝まがいの問い合わせをすれば、官僚は「圧力」と受け止めます。その習性を知っていればこそ、この二人は文科省に経緯を何度も照会し、官僚が自らするはずのないことをあえてやるように仕向けたのです。


                   

                  ところが、安倍政権が財務省に公文書の改竄を指示したことが問題になっている時に、この二人は全く同じことを文科省にして、森友事件の本質を可視化して見せたのです。さすがに頭の弱いネトウヨ議員だけのことはあります。忖度が裏目に出ることなど考えもしなかったのでしょうね。今回のブログは、どうすればこのような妄想に近い「万能感」を持てるのかという問いをめぐって書きます。
                   

                   

                   

                   

                  二人とも安倍首相が積極的に閣僚として起用してきた「日本会議国会議員懇談会」の一員です。しかも、池田佳隆衆院議員は元日本青年会議所(JC)の会頭をしていたそうです。日本青年会議所(JC)と言えば、あのネトウヨを大量生産している組織ですが、私には忘れられない思い出があります。

                   

                   

                   

                  あれは確か2012年のことでした。公式サイトで日本国憲法JC草案を読んだ時のことです。読みながら、一体誰がこんな草案を書いたのだろうかと唖然とし、自分でも顔が赤くなっているのが分かりました。憲法の何たるかを全く理解していないことがわかる代物だったのです。

                   

                   

                   

                  ただ分かったことがあります。以前も書きましたが、公明党であれ、自衛隊であれ、電通のような一流のブラック企業であれ、その屋台骨を支えているのは、政治に対して深く思いを致したことのない、人の良い、しかも地域や家族を思いやる優しさを持っている末端の若者だということです。

                   

                   

                   

                  こういった組織で働く若者は、一生懸命に仕事を覚え、上司にほめられることを生きがいにするようになります。しかし、上へ行けばいくほど、組織を束ねるのに必要とされる「イデオロギー」を学ばされ、家族や友人のためではなく組織のために働くようになります。そんな日々に疑問を感じても、それにフタをするために考えることを止め、組織に対して批判的になったことを恥じるのです。こうなればもはや宗教です。その結果、日々の生活や家族よりも組織の発展を優先するようになるのです。

                   

                       

                   

                   

                  より上位の、力を持つ大きなものに対して忠誠を誓わされ、やがて政権与党である自民党や公明党の集票マシーンとして動き始めます。そのあまりの理不尽さ、露骨さに嫌気が差した人間が脱退・退会しようとすると、引き留めるために「国家に対する忠誠」を持ち出し、恫喝します。

                   

                   

                   

                  かくして、人格が空洞化した、主に20代から30代の若者が誕生します。彼らはもともと人情家ですから、グループ内部では思いやりにあふれた行動をとります。そして先輩を尊敬しています。「勘ぐれ!」と言われれば、相手の意図を忖度して行動します。つまり、上層部の意図をすばやく「勘ぐれ」る人間が出世する構造になっているのです。

                   

                   

                   

                  以下は、その日本青年会議所(JC)を退会した人の投稿です。今年の3月6日に投稿され、もと記事は削除されているそうです。

                   

                   

                  『日本青年会議所を退会した』

                   

                   

                  9年ほど前、地方都市の小さな町工場を経営していた父が亡くなり、家族と古株社員に説得され、地元に戻って27歳で後を継いだ。元々継ぐ気はなく、大学以降ずっと都内で過ごしていたので、地元に馴染めず苦労した。仲が良かった友達もほとんど地元を離れていたし、社員や親戚とは話が合わず、友達を作ろうとスポーツサークルに入ってみたら元ヤン達が幅を利かせていてすぐ辞めた。おれは孤独だった。

                   

                   

                  そこに青年会議所の誘いが来た。何をやっている団体なのか全く知らなかったが、地元の祭りや花火大会を盛り上げたり、まちづくりのボランティア活動やビジネスセミナーなどを通じて経営者として勉強して、地元の中小企業の経営者同士のネットワークを構築するのだという。活動内容にはピンと来なかったが「経営者には経営者同士しか分からない悩みと孤独がある。それを共有できる仲間ができる」という言葉が突き刺さった。入会金1万円と、1年分12万円の年会費を振り込み入会した。

                   

                   

                  1年目。子供達のサッカー大会の運営に携わった。市民と一緒にゴミ拾いをした。花火大会のポスターやチラシを検討する部会に入り、自分の意見が採用されると誇らしい気分になった。居酒屋やバーに行く仲間ができ、バーベキューをしたり、地元でようやくリア充的な日々が送れて嬉しかった。

                   

                   

                  2年目。市長や国会議員や100人以上のOBが集まる新春懇談会を運営するスタッフになった。はじめての出向も経験した。それまでは市単位の活動だったが、ブロック (都道府県レベルの組織) 内各地の青年会議所と一緒に委員会を作って活動するのだ。遠方まで出かけ、はじめて行く町で真面目に会議をし、そのあと楽しく飲んで仲良くなった。自分自身が拡張されるようで、嬉しくなった。

                   

                   

                  3年目。4年目。だんだん色んな役職を任された。後輩ができ、教える立場になった。隣県で開催されるフォーラム、京都での会議、横浜でのカンファレンスなどに参加した。たまに動員に協力させられる憲法や領土問題などのセミナーや、いろんな署名活動のお願いなども、積極的とは言えなかったが協力した。

                   

                   

                  5年目。国内で国際会議が開催されることとなり、その運営に携わる委員になった。全国あちこちで開催される会議に毎回参加した。横断幕バナーを持つためだけにヨーロッパにも行った。会社は何とか軌道に乗っていたし、自分の勉強にもなると説得されて役目を承諾した。大変だったが、充実の日々だと自分に言い聞かせた。

                   

                   

                  6年目。ブロックの役員をやった。ブロック内の新入会員に、青年会議所のビジョン・ミッション・バリューを叩き込む役割だった。トップであるブロック会長の教えは厳しく、ブロック内の理事長達が集まる会議に提出した議案は「背景・目的と手法が乖離している」と叩かれてボロクソに言われたが、意地を張って徹夜で修正し、通した。理事長達に「成長したな」と言われて涙を流した。

                   

                   

                  7年目。地方の青年会議所を束ねる上位組織、日本青年会議所のスタッフになった。トップに立つ会頭の言葉は絶対で、役員と一緒のエレベーターに乗ることは許されず、奴隷のような扱いをされながらホテルに缶詰になって上からの指示を徹夜でこなした。なにしろ、国民的な憲法議論を喚起するという大切な事業を遂行するのだ。何度も壁にぶつかったが、委員長や常任理事のアドバイスもあって乗り越えた。素晴らしい先輩達に恵まれたと感じ、あの人達のようになりたいと思った。

                   

                   

                  8年目を迎える直前の年末、母が倒れた。会社はいつのまにか赤字に転落していた。売り上げが落ち、接待交際費と交通宿泊費が激増していた。来年の理事長に相談した。その人を支える女房役となる専務理事を引き受けていたからだ。役目を引き受けるのは無理だ、JCは休んで仕事に専念しないと会社が危ないと話した。次年度理事長は言った。逆境が人を強くする、それはその人に与えられた試練だ、人は乗り越えられない試練を与えられることはない、だから仕事もJCも死に物狂いで頑張れ。そう言われた。

                   

                   

                  こいつは何を言ってるんだ。

                  バカなのか?

                  おれが今までどれほどJCのために頑張ってきたと思っている。

                  少しくらい休むことも許されないのか? こんな状況なのに?

                  そしてすうっと冷静になり目が覚めた。

                   

                   

                  おれは友達が欲しかった。それと、しぶしぶ継いだ会社だったが、なんとか頑張ろうと思って、その役に立つと思って勉強しようと思った。そんな中、せっかく誘われたことだし、青年会議所がどんなものか分からないけどやれるだけやってみようと思って、やってくる機会にチャレンジしていた。そしたらいつの間にか、おれは青年会議所が命じたままに憲法改正や領土領海問題を他人に説き、偉い偉い役員様が海外でスピーチする時のガラガラの席を埋めるためだけに自腹でニューヨークやオランダに行く人間になっていた。そして家族と会社が不幸になっていた。

                   

                   

                  それでおれは、退会届けを出した。引き止めは強烈だった。携帯が鳴り続け、会社に何度も色んな人が来た。時に優しく諭され、時に怒鳴られ、時に泣かれた。父の友達だったというOBまでやってきた。地元の集まりに顔を出しにくくなるぞと脅されもした。どんどん青年会議所が怖くなり、嫌いになり、おれは意思を貫き退会した。

                   

                   

                  青年会議所には、入会前のおれのような人間が陥りやすい罠が待っている。孤独を埋めてくれる仲間と、彼らと一緒にわざわざ作られた苦労を乗り越える経験から得られる高揚感だ。ほどほどで満足できるうちはまだ良いが、のめり込むとだんだん、周りが見えなくなる。入会前に母が「JCはやめておきなさい」と言ったのを聞いておけば良かった。ごめん。病院のベッドに横たわる母に謝ると、彼女はテレビから目を離さずにこう言った。

                   

                   

                  「それよりあのイチゴおいしそう。食べたいから買ってきて」

                   買えたのは韓国産でなく国内産のイチゴだったが、母はもりもり食べて元気になり、きのう退院した。

                   

                  http://archive.is/PH1fb#selection-291.1-1299.3

                   

                  | 文学・哲学・思想 | 13:48 | comments(0) | - |
                  「汝、衆をたのんで、悪を為すなかれ」
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                    若かったころ、繰り返し読み、いつのまにか暗唱してしまった文章があります。一方で、中身のない文章は何度読んでも頭に入ってきませんでした。私は受験に役立つというだけでどんな文章でも次々に暗記できてしまうような優秀な頭脳をもっていなかったのです。

                     

                     

                     

                    以下に挙げたのは、バートランド・ラッセルの『自伝的回想』の中の一文です。最初に出てくる she は彼の祖母を指しています。今読み返してみて、この文章が私の人格におよぼした影響にあらためて気づき、驚いています。こういう祖母をもったラッセルは何と幸せだったのだろうと思います。

                     

                     

                     

                     

                    But in retrospect, as I have grown older, I have realized more and more the importance she had in moulding my outlook on life. Her fearlessness, her public spirit, her contempt for convention, and her indifference to the opinion of the majority have always seemed good to me and have impressed themselves upon me as worthy of imitation. She gave me a Bible with her favourite texts written on the fly-leaf. Among these was “ Thou shalt not follow a multitude to do evil." Her emphasis upon this text led me in later life to be not afraid of belonging to small minorities.

                     

                     

                    ― しかしふりかえってみると、成長するにつれ、私の人生観を形作る上で祖母がいかに重要な存在であったか、しだいにわかるようになった。祖母の恐れを知らない勇気、公共心、因襲に対する軽蔑、多数派の意見に対する無関心はいつも私には善いことだと思われたし、模倣する価値のあることだと強く印象づけられた。祖母は、見返しの遊び紙に祖母のお気に入りの文句が書かれている聖書を私にくれた。その中に次の文句があった。


                     「汝、衆をたのんで、悪を為すなかれ」


                    祖母がこの聖句を強調してくれたことで、後になって、私は少数派に属することを恐れなくなった。―

                     

                     

                     

                    いまこの国では、あらゆる分野が劣化しています。政治について言えば、事実の共通了解すら成立しません。つまり議論の前提が崩壊しているのです。

                     

                     

                     

                    1980年代から90年代にかけて、あらゆるものが消費社会の等価交換にさらされました。その結果、すぐれた言説も歴史を捏造する言説も、等価な「商品」として言論市場にほうりだされました。

                     

                     

                     

                     

                    一部の権力者が捏造した歴史の記憶(これを歴史修正主義といいます)にさらされればさらされるほど、ある種の人間たち(ネトウヨ)は国家に対して従順になります。歴史から切り離され、人格が空洞化した彼らは、その空洞を埋めるために国家主義的な言説とそれを大声で主張する集団を支持します。

                     

                     

                     

                    いわく、どの国もやっていることだ。そもそも戦争だったんだぜ。南京大虐殺も従軍慰安婦もなかった、でっち上げだ。なのに、なぜ自分たちだけが批判されなければならないのか、というわけです。こういった「衆をたのむ」言説は次第にエスカレートしていきます。

                     

                     

                     

                    やれ北朝鮮のミサイルの脅威だ、テロの危険性だとあおります。警察が法外のことをしようが(レイプ犯山口敬之の逮捕を直前でやめさせるなど)、自衛隊を米軍に差し出そうが、国民の安全のためには仕方がないのだ。この緊急時に人権どころの話じゃないだろう。何が憲法違反だ、そもそもアメリカに押しつけられた憲法じゃないか、歴史を知らないのか、もっと勉強しろ、というわけです。

                     

                     

                     

                    彼らは、過去の日本の行い、つまり侵略戦争を正当化したいだけです。現に起こった歴史的事実を突きつけられると、自分たちが責められているように感じ、逆ギレします。加害者なのに被害者のようにふるまいます。日本軍はこんな良いこともしたんだ、知ってるのか、と言って、まるでコンビニの期間限定の「人気商品」をつまみ食いするように「歴史の真実」をとりあげます。とにもかくにも、オレたちの国が悪いことをするわけがない、と思いたいだけです。まるでだだをこねている子供です。

                     

                     

                     

                    バートランド・ラッセルの祖母のような人間がこの国にはいなくなりました。その正反対の「だだをこねるだけの子供」が最高権力者の地位に「恋々」としているのですから、無理もありませんね。

                     

                    | 文学・哲学・思想 | 13:21 | comments(0) | - |
                    ノリのわるい人間になる。
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                      私はノリの悪い人間です。いや、わざと周囲のノリにあわせないように心がけています。居酒屋でも、ちょっとした集まりでも、数人が冗談を言い合って盛り上がっているのを見ると、いい大人がバカじゃなかろうかと思います。

                       

                       

                      しかもそのトークのネタがテレビの二番煎じ、三番煎じと来ているのですから、テンションは下がりっぱなしです。今やテレビに出てくる芸能人のトークが、私たちの会話のテンポや間を決定しているのです。

                       

                       

                       

                      かくいう私も、3・11以前は、けっこうバカなギャグも飛ばし、周囲にあわせたりもしていました。しかし、そのことがこの国を破滅の淵に追いやった原因だと気づき、私はノリの悪い人間になる決心をしたのです。まあ、最後までお読みください。

                       

                       

                       

                      たとえば昔の同級生と居酒屋でもりあがっているとします。みんなが手をたたいて笑い転げているときに、いっしょに笑いながら「お前、パクるのうまいね。そのネタ、このまえテレビで芸人の○○がやってたけど、他人のネタで笑わせて面白いのかよ?」「久しぶりにこうやって集まったんだからさ、どんな時に死にたくなるか、何に絶望しているか、それを話してみようぜ」などと言いたくなるのです。楽しい飲み会が通夜のようになるかもしれません。

                       

                       

                       

                      私は空気を読む気もないし、周囲のノリにあわせることもしません。どうしてわざわざ集団の心理を逆なでするようなことをするのかと思っている人もいるでしょうね。理由はいろいろとあるのですが、ひとつには、もともとなんにでもツッコミを入れたがる性分だったことがあります。 

                       

                       

                       

                      本当をいえば、イタリアの片田舎の人々のように一日の終わりに、美味しい料理とワインを飲みながら、ダンスしたり歌ったりしながら、楽しく時を過ごしたいのです。いっそのこと、イタリアに移住しようかな?しかし、2018年、日本人をしている私にはそれができません。なぜか。

                       

                       

                       

                      3・11の時、津波が町を襲い、家々を破壊し、人々の命を奪うのを目の当りにしました。それに続いて原発が爆発した映像をテレビで見ながら、私は自分の中で何かが崩れていくのを感じていました。感情が揺さぶられ、自分の足元が崩落していくような感じと言えばいいのでしょうか。多くの国民も同じ思いだったに違いありません。

                       

                       

                       

                      しかし、それに続く数年、私が目にしたものは、あれほど感情を揺さぶられる経験をしたにもかかわらず、まるで何ごともなかったかのごとく原発を再稼働し、海外に輸出さえする一大勢力でした。つまり、安倍政権と財界トップ、それをささえる匿名のシステムとしての官僚機構です。

                       

                       

                       

                      しかも彼らはほとんどが高学歴エリートなのです。学歴があろうがなかろうが、富裕層であろうがなかろうが、アルマーニの制服を着ていようがいまいが、だれもがこの国で生きていく権利があることを、彼らは理解していません。今やこの国の教育は個人の利益を最大化するシステムとしてだけ機能するようになっています。

                       

                       

                       

                      それは、日本国民の間に感情の劣化と死滅をもたらしました。だから匿名のシステムに過剰に順応すると感情が死んでしまい、まともな判断が下せなくなるのだと指摘してきたのです。

                       

                       

                       

                      その結果日本社会で今何が起こっているのか。その例を一つだけあげて終わりにします。まずNHKのこの世論調査をご覧ください。

                       

                       

                       

                       

                      なぜ平和を目指して南北融和を進めることが評価されないのでしょうか。そもそも、NHKは何のためにこの質問をしたのか。これはメディアや御用学者、外務省が安倍政権の意向を忖度して南北の対立を煽り続けた成果です。今や国民はマインドコントロールの実験動物=ブタになったのです。

                       

                       

                       

                      アメリカと北朝鮮が戦争するのを期待するように誘導された国民心理は余りにも恐ろしい。そうではありませんか。今の時代をうっすらおおっている、戦争を待望する気分に迎合などできるわけがありません。これが、私がノリのわるい人間になることを決意した理由なのです。

                       

                      | 文学・哲学・思想 | 15:52 | comments(0) | - |
                      自分の時間と空間を生きる。
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                        小学生の頃、自然発生的にできた地域の雑居集団にまじって、よくかくれんぼをしたものです。上野丘高校のテニスコートの上に神社があります。そこを起点に半径二百メートルくらいが隠れる場所でした。私はかくれんぼが得意でした。なぜか。忍者になることを夢見て修行に励んでいたからです。

                         

                         

                         

                        今時そんなことを考えている小学生がいるでしょうか。将来はJリーガーかプロ野球選手、はたまたオリンピック選手、医者、弁護士などというのは、夢ではありません。職業です。

                         

                         

                         

                        消費社会・大衆教育社会の登場が、夢を職業とリンクさせたのです。そしてそのことに疑問を抱かないどころか、親がこどもと同じ「夢」を見て、スポーツ選手にしたり、4人の子供全員を東大医学部に入れたりする母親も登場しました。

                         

                         

                         

                        仮にいま私が小学生でも、親と同じ夢を見るのはご免こうむりたい。これといった理由があるわけではありませんが、私は他人と同じ夢を見ることが生理的に苦手なのです。ましてや、国家と同じ夢を見て他国を攻撃するくらいなら亡命することを選ぶでしょう。

                         

                         

                         

                        この点では、私の両親は申し分のない親でした。周到な計画に沿って、子供に職業とリンクした夢を見させるのではなく、できの悪い息子を偶然性と自然のふところに委ねてくれたのです。昔はそんな親が多かった気がします。おかげで多少の回り道はしましたが、社会の支配的な価値観を鵜呑みにするだけで自分の世界を持たない退屈な大人にならずにすみました。

                         

                         

                         

                        かくれんぼがなぜ得意だったのかという話に戻ります。当時の私は、ある時は地中に生息する昆虫や爬虫類と遊び、ある時は目もくらむような高い木に登りカラスやフクロウと友達になっていました。そのことで、アリの視点と鳥の視点を同時に手に入れたのです。

                         

                         

                         

                        そうやって身につけた複眼的・鳥瞰的視点が、かくれんぼをするときに役立ちました。どこに隠れれば「鬼」の視界に入らないか本能的に分かるようになったのです。隠れ家を作ったり、魚を取ったり、自然の恵みである様々な食べ物を採集するのも得意でした。もっとも、わけのわからないものを食べて、しょっちゅう下痢をしていましたが。

                         

                         

                         

                        何かのきっかけで少年時代の記憶が鮮やかによみがえってくることがあります。前にも書きましたが、記憶や時間は直線的なベクトルを持っているわけではなく、枯れ葉が積み重なるように身体の中に積み重なっています。それを私は記憶と時間のミルフィーユと名付けています。考古学的想像力などと大げさに言うつもりはありません。昔の人なら自然に持っていたものです。

                         

                         

                         

                        ある場所にたたずんでいると、そこを流れていた時間を思い出すことがあります。時間を思い出すというのは変な表現ですが、大地の匂いや季節の足音や空気感が、無意識の底に沈殿している記憶の断片を撹拌し、意識の水面に浮上させます。

                         

                         

                         

                        その時、その場所に生きていた人々の記憶と時間が、私のそれと混然一体となり、そこにもう一つの豊饒な現実があったことに気づきます。そういった記憶と時間に包まれた繭の内部のような場所こそ、人間の魂と感情が生成する場所なのではないかと思います。

                         

                         

                         

                        今にして思えば、そういった感覚が私という人間の原型を形作ったのだと思います。自分固有の時間と空間を作ることなしに、自分の<生>を生きることはできないと確信させたのです。

                         

                         

                         

                        なぜこんなことを書くかというと、大人になり世間の常識や決まり、つまり匿名のシステムに呑み込まれそうになりながらも、それに拮抗する世界を持つためには、自分の時間と空間(サンクチュアリ)が必須だと考えているからです

                         

                         

                         

                        つまり、私にとっては内なるサンクチュアリこそが現実であり、多くの人が「現実」だと考えているものは、匿名のシステム=仮想空間でしかありません。利害や思惑が入り乱れ、人間の精神を堕落させ、ついには死にいたらせる力を持っている一方で、それなくしては社会が成り立たないからこそ「現実」として存在しているのです。私はそれをないがしろにするつもりはありません。なぜなら、まさにその「現実」が、私の<生>に意味を生じさせているからです。

                         

                         

                         

                        さて、私が身を置く塾の現場を見てみましょう。塾は子供たちを匿名のシステムに過剰適応させることで利潤を上げるもう一つの匿名のシステムです。匿名のシステムも多層構造をしています。それゆえ、自作自演のなりすまし塾長やネトウヨ塾長を始めとして、経営コンサルタントを名乗る塾長も後を絶ちません。

                         

                         

                         

                        私たちの社会は、子供から子供時代を奪っています。格差社会の現実を目の当たりにして、親御さんは不安になり、ブレーキを踏むどころかアクセル全開で子供を追い詰めます。塾も学校も親もこのことについて自覚的でなければなりません。なぜなら、子供の将来を思えばこその叱咤激励は、ともすると子供の魂や感情を抑圧する「狂気」に転化しがちだからです。

                         

                         

                         

                        最後に一つだけ覚えておいてほしいことがあります。今ある「現実」は数年後には「現実」ではなくなっている可能性が高いということです。私は、なりすましや匿名を拒否し、目の前にいるひとりひとりの人間と純粋に関われる部分を少しでも広げていきたいと考えています。

                         

                         

                         

                        抽象的で小難しい文章をここまで読んでいただき、ありがとうございました。何かのヒントになればうれしく思います。次回は匿名のシステムに取り込まれることなく、真の知性を身につけるためのノートの作り方について話します。「東大生の必ず美しいノート」などとは比較にならない、あなただけのノートの作り方です。ご期待下さい。

                         

                         

                        尚、今回のテーマと関連した過去の記事を挙げておきます。もし暇がありましたら、お読み下さい。

                         

                        『こどもの魂はどこで育つのか』

                        http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=174

                         

                        | 文学・哲学・思想 | 22:04 | comments(0) | - |
                        「現実」に殺されないために。
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                          91歳の義母が脳梗塞で倒れ、入院して1年2カ月になります。今は佐伯の介護施設にいます。身体も動かず、しゃべることもできない母にとって、「現実」との通路はわずかに開いている左目だけです。私と妻が声をかけると、ほほ笑み、目に光がともります。その小さな「窓」を通して、かろうじて外界とつながっている状態です。

                           

                           

                           

                          95歳になり認知症の兆候があった義父も家で転び、右大腿骨を骨折。手術後2カ月かけてリハビリに励みました。やっと歩けるようになったと思う間もなく、再び介護施設で転び、今度は左大腿骨を骨折しました。2度の手術を経て、車いすの生活になりましたが、認知症の症状が進み、夜中に大声を出し、介護施設では手の施しようがないということで、今は大分市の下郡にある精神科の病院に入院しています。

                           

                           

                           

                          昨日は、佐伯へ墓参りに行き、義母を訪ねた後、義父を見舞いました。面会の人は首からそれと分かるカードを下げています。病棟へのドアには鍵がかけられ、入退出時には呼び出しのベルで看護師さんに連絡し、鍵を開けてもらいます。廊下で数人の患者さんとすれ違い、挨拶を交わします。見たところ普通の人と何ら変わりはありません。

                           

                           

                           

                          「お父さん、僕です、わかりますか?」と言うと、「ああ・・おおっ」と返事が返ってきます。妻が病室で義父の手をさすり、話しかけている間、私は部屋の外にあるラウンジのソファに座って本を読んでいました。数人のお年寄りがテレビで大相撲を見ていました。30分ほど経ったでしょうか。突然、20代と思われる若い女性の患者さんが私の横に来て座りました。

                           

                           

                           

                          「何を読んでるんですか?」

                          と尋ねるので、本の題名とカバーを見せました。それをじっと眺めた後、

                          「なんだか面白そうですね」と言いました。

                          「よかったらどんな内容か話しましょうか」

                          「ええ、ぜひ話して下さい。」

                          「この本を書いた人は躁鬱病という遺伝的な体質を持った人です。鬱の時には死ぬことばかり考えるそうです。中身をひとことで言うと、なぜ僕たちは自分の考えや気持ちを他人に伝えようとするのか、ということが書かれています。」

                           

                           

                          彼女は私にピタッとくっついてきました。私は続けました。

                           

                          「たとえば現実に順応できなければ生きられないと思い込んでいる人がいるとしますね。この本を書いた人は、それはウソだ、現実は一つだと思い込まされているだけだと言います。現実はびくともしないコンクリートの建物のようなものではなくて、人間が集団で生きていくために作り上げたシステムに過ぎないと言っています。僕もそう考えてきました。僕の話がわかりますか?」

                           

                           

                          彼女はうなずきました。私の言葉を理解しているのが分かります。その受容の深さ、切実さは、私が経験したことのないものでした。これ以上続けるべきかどうか悩んでいたとき、妻が病室から出てきて私を呼びました。

                           

                           

                          彼女は状況を瞬時に理解し、「また来て下さい」と言いました。

                           

                           

                          病棟の長い廊下を歩きながら妻は言いました。

                           

                          「あの子、私たちが初めてこの病院に来た時、受付のところで待っていた子よね。」

                          「よく気がついたね。ご主人か恋人かわからないけど、若い男性に付き添われていたのを覚えているよ。」

                          「どんな事情があるにせよ、あの若さでここに入院しているなんて、可哀そうだわ。あなたと何か話してたの?」

                          「僕が読んでいた本に興味があったみたいで、内容を知りたいというので、ちょっと説明していた。」

                          「もっと話してあげればよかったのに。」

                          「彼女は人と話すことに飢えているような気がする。でも部外者が患者さんとどこまで話していいものか・・・。それに僕の話が彼女の心を乱すこともあるかもしれない。無責任なことはできないよ。」

                           

                           

                           

                          私が彼女に伝えたかったのは、ひとことで言えば、「現実」とは匿名のシステムが作りだした仮想空間だということです。「現実が仮想空間だって?そんなバカな!」と考える人は、これ以上読んでも不愉快になるだけでしょうから、私に「変人」のレッテルを張ってどうぞお引き取り下さい。

                           

                           

                           

                          私たちが「現実」と呼んでいる世界の実体は匿名の仮想空間に過ぎないのに、いや、そうだからこそ、私たちの無意識にまで侵入し、世界を単一化・一元化する力を持つのです。このことを認識していないと、匿名の力によって社会から抹殺されるかもしれません。大げさではなく、そういった事例は枚挙にいとまがありません。

                           

                           

                           

                          具体的に話しましょう。ブログでも取り上げた電通の事件です。高橋まつりさんは東大を卒業後、2015年4月に電通に入社します。しかし、その年の12月25日、電通女子寮の4階から投身自殺します。24歳でした。東大から電通と言えば誰もがうらやむエリートコースです。

                           

                           

                          私がこの事件に注目したのは、彼女こそ電通という会社が作り上げた匿名のシステムによって殺された犠牲者だと考えるからです。母子家庭に育ち、それをハンデにすることなく懸命に努力して東大に合格します。きっと親子で抱き合って喜んだことでしょう。

                           

                           

                          東大時代には『週刊朝日』でアルバイトをしていました。インターネット番組のアシスタントやリポーターなどを務めていたそうです。週刊朝日の関係者によると、「相手が大物政治家だろうが、有名人だろうが、物おじしない。機転が利いて、根性もある。あの子を精神的に追い込むことのほうがよっぽど難しい」と彼女の印象を述べています。そのまつりさんを自殺にまで追い込んだのは何だったのでしょうか。

                           

                           

                           

                          まつりさんは、労基署より10月半ばからの1ヶ月間の残業時間が105時間と認定されていますが、自殺する直前の残業時間は、労働組合との取り決め上限である「70時間」のぎりぎりで記載されていました。

                           

                           

                          しかし、遺族側弁護士が、自動的に記録される入退館ゲートのデータを基に集計した残業は、月に130時間を超えることがあったとのことです。しかも、連続53時間勤務を疑わせる入退館記録も残っています。弁護士は「残業が70時間を超えると、正確に申告がなされなくなっていた。指導があったとみられる」と指摘しています。

                           

                           

                           

                          母親の幸美さんによると、残業に加えて自宅で徹夜の作業をしていたとのことです。まつりさんが、2015年10月に本採用となった後は、土日出勤、朝5時帰宅という日もあったそうです。亡くなった12月には部署全員に対して、残業の上限を撤廃する36協定の特別条項が出され、深夜労働が続き、忘年会の準備のためにも土日や深夜に残業していたといいます。

                           

                           

                           

                          そして自殺する日の朝、母親にメールを送ります。そこには次のように書かれていました。「大好きで大切なお母さん。さようなら。ありがとう。人生も仕事もすべてがつらいです。お母さん、自分を責めないでね。最高のお母さんだから。」

                           

                           

                           

                          彼女を自殺に追いやった犯人は特定の人物ではありません。電通が作り上げた「現実」です。それこそが匿名のシステムなのです。電通の社長は裁判で謝罪し、50万円の罰金を支払っただけです。

                           

                           

                           

                          匿名のシステムは、私たちが集団で生き延びるために、長い時間をかけて作りだしたものです。しかし、その過程で、一人一人の固有の世界を形作ってきた記憶はそぎ落とされていきます。そして集団にとってだけ意味のある記憶(歴史)が作られていくのです。歴史は捏造されるということです。会社の場合それは社訓なり社是と呼ばれます。

                           

                           

                           

                          そして、本来なら自分のために使うことができる時間も、市場社会の絶対時間に取って代わられます。つまり、個人が生き延びるのに必要な時間や空間がどんどん狭められていき、集団にとって必要なものだけが残るということです。

                           

                           

                           

                          高橋まつりさんは、自分の時間も、生きる空間も奪われ、「現実という仮想空間」の中に閉じ込められて生きる場を失ったのです。私が精神科の病院で出会った女性も「現実」によって精神のバランスを崩していたのかもしれません。

                           

                           

                           

                          長くなりました。次回からはどうすれば匿名のシステムに呑み込まれずに生きていけるのかを、具体的に話していきたいと思います。今回も最後まで読んで下さった方にお礼申し上げます。いつもありがとうございます。

                           

                          | 文学・哲学・思想 | 22:46 | comments(0) | - |
                          匿名化したシステムを生き延びるために。
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                            2015年の6月から書き始めたブログですが、振り返ってみると、社会に対する生理的な違和感の表明だったと思います。私には社会変革の理論を構築できる頭脳がないので、生理的な違和感をもとに書くしかなかったのです。政治的な話題が多くなりましたが、それは「自分のやりたいことを見つけて、夢と希望に向かって生きよう」というような軽薄で幼稚な「政治的」キャッチフレーズが社会を覆っている以上、避けられないものでした。

                             

                             

                             

                            私はチェ・ゲバラのような人間を愛していますが、革命家ではありません。歴史をひもとくまでもなく、「すべての革命家は最後には弾圧者か異端者になり下がる。」というアルベール・カミュの言葉と洞察力を信じているのです。「恐怖を土台にした尊敬ほど卑劣なものはない。」というのもカミュの言葉です。

                             

                             

                             

                            本題に入りましょう。私たちの社会は、私たちの集合的な無意識が作りだしたものです。したがって、変革を求めるうねりが津波のように膨れ上がらない限り、個人の力で簡単にひっくり返したり、否定したりすることはできません。では何ができるのか?

                             

                             

                             

                            まず疑問を持ち、違和感を表明すること。この世界のどこをおかしいと感じているのか自分に問うこと。これまで生きて来て社会に対して根源的な疑問を感じたことのない人、親や学校教育によって疑問を奪い取られているのを「現実は厳しいのさ」の一言でごまかして来た人、そういう人は一部上場企業へと急ぎましょう。誰かに指示されて自分のものではない誰かの人生を生きていきましょう。そうすれば原発なんか気にしなくても生きていけます。しかし、それでは生き延びられない、生きていることにならない、というのが私の言いたいことです。

                             

                             

                             

                            具体例を見てみましょう。もしあなたが大学側のミスと保身のために1年を棒に振らざるを得なかったとしたら、どうしますか?実際そういう目に会うまでは、なにも考えられないというのであれば、次の犠牲者はあなたになるかもしれないのです。

                             

                             

                             

                            毎日新聞2018年1月7日の記事より。

                             

                             

                             

                            「大阪大は6日、昨年2月に実施した一般入試(前期日程)の物理で、出題と採点にミスがあったと発表した。合否判定をやり直した結果、不合格とした30人を追加合格とした。また、本来は第1志望の学科で合格していたのに、第2志望の学科に入学していた学生も9人いた。大阪大は追加合格者の入学を認め、金銭的な補償を行う方針。昨年6月以降、外部から複数の指摘を受けていたが、3回目で初めてミスを認めた。

                             

                             

                            大阪大によると、昨年2月25日に行われ、特別入試も含めた3850人が受験した物理の試験で、音の伝わり方に関する問題を出題。ミスが見つかった最初の設問で、本来は三つの正答があるにもかかわらず、正解を一つに限定していた。さらに次の設問は、この解答を前提に作成されていたため、別の二つの解答では正解を求められなくなっていた。

                             

                             

                            外部からの指摘を大学側が初めて認識したのは、昨年8月9日。予備校講師から「問題設定が不自然」とのメールが寄せられた。大学側は問題を作成した責任者と副責任者の理学部教授2人の検討を経て、この指摘に対し「ミスはない」と返信していた。昨年12月4日にも別の外部の人から、詳細な同様の指摘が寄せられたため、さらに4人の教員を加えて検討し、大学は初めてミスと認めた。

                             

                             

                            この設問を巡り、高校教員らが参加して昨年6月10日に開催された入試問題検討会でも不備を指摘する意見が出たが、責任者の教授2人だけの判断で「正解は一つ」と説明していた。最初の指摘から半年経過したことについて、記者会見した大阪大の小林傳司(ただし)副学長は「正しい解答は一つだとの思い込みがあったようだ。組織的に対応できなかった」と陳謝した。 」

                            https://mainichi.jp/articles/20180107/k00/00m/040/016000c

                             

                             

                             

                            「正しい解答は一つだとの思い込みがあったようだ。組織的に対応できなかった」という副学長の言葉に注目して下さい。

                             

                             

                            この言葉は、大阪大学がもはや大学ではないということを宣言したものです。なぜなら「正しい解答は一つだとの思い込み」を打ち破ることこそが学問の本質だからです。何度も出題ミスを指摘されながら、それを無視した責任者と副責任者の理学部教授2人は大学で教える資格はありません。内心では自分たちのミスに気づいていたのかもしれません。

                             

                             

                             

                            しかし、入試からほぼ1年経って、3度目の指摘があって初めてミスを認めたことは「組織的に対応」すること、すなわち組織を挙げて何とかミスを認めずにやり過ごせないものか、と考えていたことを意味します。

                             

                             

                             

                             

                            ここではっきりと気づかなければならないのは、私たちの社会は「思い込み」と「組織的に対応」することで成り立っている、いわば匿名化したシステムだということです。「大学側のミス」という言葉で、個人の責任は問われないことになっています。

                             

                             

                             

                            そこでは、教師が提供する授業も、学生が受ける授業も「商品」とみなされ、それに見合った貨幣と等価交換されると教えられます。したがって、それが提供できなかったときには、それに見合った金銭的な補償をすればいいという発想になるのは当然です。匿名化したシステムには、人間にとって最も大切なものが欠けているのです。

                             

                             

                             

                            「こんなバカなことがまかり通っていいはずがない。今すぐミスを認めて受験生に知らせるべきだ。若い人にとって人生の1年間がどれほど貴重なものか分かっているのか。」という意見は感情的だとして退けられます。当然、責任をとる人もいないまま問題は隠蔽されるのです。

                             

                             

                             

                            匿名化したシステムに欠けている最も大切なものとは、「感情」であり「責任の所在」であり「使命」です。大阪大学にはこのすべてが欠けています。このことを自覚していなければ、私たちは生活ばかりでなく命を危険にさらすことになります。今の安倍政権を見れば一目瞭然です。次回はこの匿名化したシステムを生き延びる方法について書くつもりです。

                             

                             

                             

                            よろしければ、以下の過去記事も御参照下さい。

                             

                            「民主主義は大学の門前で立ちすくむ」

                            http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=427

                             

                            「早稲田大学のAO・推薦入試について」

                            http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=136

                             

                            | 文学・哲学・思想 | 23:00 | comments(0) | - |
                            なくてはならないもの
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                              土曜日の午前、初冬の朝の白い光の中で本を読んでいると、背後で突然何かが家にぶつかる音がしました。鈍い音ですが、家を揺るがすような衝撃です。

                               

                               

                              妻がびっくりして駆け寄ってきました。私が背にして座っている大きなFIXのガラス窓の外を見て、悲鳴を上げました。ガラス窓は縦2、5メートル、幅80センチの大きさです。それが6枚連なりR状となって中庭に面しています。

                               

                               

                               

                              妻が悲鳴を上げた瞬間、私は何が起こったのか理解しました。体長20センチはあろうかと思われるヒヨドリがガラス窓に衝突し、テラスの上に落ちていました。窓には産毛がこびりついています。

                               

                               

                              また一つ命を奪ってしまったと思い、自責の念がこみ上げてきました。またというのは、一年に一度くらいの頻度で鳥がわが家の窓にぶつかるからです。たまに山鳩もいますが、ほとんどが猛スピードで飛んでくるヒヨドリです。窓に映った樹木や空の色のために、障害物があることに気づかないのです。

                               

                               

                              ぶつかった直後のヒヨドリ。くちばしを開け、息も絶え絶えの様子です。

                               

                               

                               

                              衝突したヒヨドリが腹を上にしてひっくり返っているときは、首の骨を折って即死状態です。ところが今回のヒヨドリは、かろうじて両足を踏ん張り、ふるえながら立っています。

                               

                               

                              「脳しんとうを起こしているだけで、助かるかもしれないよ。」と言って妻を安心させ、テラスに出てみました。ヒヨドリは人の気配や音を察知した瞬間に逃げる敏感な鳥です。そのヒヨドリが、くちばしを開け、じっとしています。

                               

                               

                               

                               

                              近づくと向きを変えました。さすがにすずめ科の鳥です。すずめに似ていますね。でも大きさが違います。すずめの3倍はあります。飛ぶスピードは断然速く、いつもつがいで行動しています。「ピー」と鋭い甲高い声で鳴きます。フルーツが大好物で、いつも家のジューンベリーやブルーベリーの実を食べにやってきます。

                               

                               

                               

                               

                              スマホで写真を撮ろうと近づきました。逃げません。くちばしをかすかに動かしています。それから小一時間ほどじっとしていました。部屋に戻り見守っていると、首を左右に動かし始めました。これは意識が戻ってきた証拠です。「これは助かるな」と言って妻を呼びました。その瞬間、多少ふらついているようでしたが、中庭の大きなケヤキの枝に飛び移り、裏山の方へ飛び去っていきました。

                               

                               

                               

                              その時読んでいた本は、時々ブログで紹介する『長田弘全詩集』です。その中に「なくてはならないもの」という一編があります。

                               

                               

                              「なくてはならないもの」

                               

                              なくてはならないものの話をしよう。

                              なくてはならないものなんてない。

                              いつもずっと、そう思ってきた。

                              所有できるものはいつか失われる。

                              なくてはならないものは、けっして

                              所有することのできないものだけなのだと。

                              日々の悦びをつくるのは、所有ではない。

                              草。水。土。雨。日の光。猫。

                              石。蛙。ユリ。空の青さ。道の遠く。

                              何一つ、わたしのものはない。

                              空気の澄みきった日の、午後の静けさ。

                              川面の輝き。葉の繁り。樹影。

                              夕方の雲。鳥の影。夕星の瞬き。

                              特別のものなんてない。大切にしたい

                              (ありふれた)ものがあるだけだ。

                              素晴らしいものは、誰のものでもないものだ。

                              真夜中を過ぎて、昨日の続きの本を読む。

                              「風と砂塵のほかは、何も残らない」

                              砂漠の歴史の書には、そう記されている。

                              「すべて人の子はただ死ぬためにのみ

                              この世に生まれる。

                              人はこちらの扉から入って、

                              あちらの扉から出てゆく。

                              人の呼吸の数は運命によって数えられている」

                              この世に在ることは、切ないのだ。

                              そうであればこそ、戦争を求めるものは、

                              なによりも日々の穏やかさを恐れる。

                              平和とは(平凡きわまりない)一日のことだ。

                              本を閉じて、目を瞑る。

                              おやすみなさい。すると、

                              暗闇が音のない音楽のようにやってくる。

                               

                              ※「  」内はフェルドウスィー『王書』より。

                               

                              | 文学・哲学・思想 | 16:52 | comments(0) | - |
                              大分県立美術館(OPAM)でイサム・ノグチ展を見る。
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                                11月17日、上高の同級生(3人とも伊方原発差し止め裁判の原告です)と大分県立美術館で開催されているイサム・ノグチ展に行ってきました。彼の作品は折に触れて様々な美術館で見てきましたが、北京ドローイングなど初めて見るものもあり、充実した時を過ごすことができました。

                                 

                                 

                                 

                                 

                                ついでに昔の記事も挙げておきます。よろしかったらお読みください。

                                 

                                石に訊け イサム・ノグチと宮崎駿

                                http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=340

                                 

                                劣化する日本の中で

                                http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=177

                                 

                                 

                                展覧会を見た後、3人で昼食を食べながら、私は以下のような話をしました。それはいかなる文化的な階層にも属さないイサム・ノグチの独創性、超越性についてです。

                                 

                                 

                                えっ、そんな話をしながらランチなんて、せっかくの食事がまずくなるのでは?と思う方もいるでしょうね。心配ご無用です。そんなことはありません。たぶん・・。でも私以外の二人はビールやハイボールを飲んでいましたから、私の話はしらふでは聞けなかったのかもしれません。

                                 

                                 

                                 

                                話の中身は、簡単に言うとこういうことです。例えばヨーロッパにはワインにまつわる歴史があります。それは生活に根づいた長い時間が生み出した文化そのものです。日本人がワインの歴史を勉強し、試飲会場のテイスティングで味を識別し、生産地と収穫年を当てるべくどれだけがんばったところで限界があります。なぜならワインのうまさを識別することは純粋に味覚だけの問題ではないからです。

                                 

                                 

                                 

                                今仮に味覚だけの問題だとしましょう。ワインの試飲会場で「テイスティング」する際にはソムリエたちは「テイスティングシート」と呼ばれる基準に沿ってワインを評価するそうです。ソムリエたちは試飲用のグラスとテイスティングシートと鉛筆を持って、ワイナリーの担当者のアドバイスを受けながら、ブースを順に移動しながら試飲していきます。

                                 

                                 

                                 

                                そのときテイスティングシートに書かれる言葉は、隣接する数十種類のワインを「識別」するための言葉ではあっても、ワインの味そのものを表現する言葉ではないということです。仮に自由に表現できたとしても、それはある種の「芸風」の域を出ません。差異を識別するだけの言葉は、おそらく何かを探求する言葉としては使えないのです。これはとても大事なことです。

                                 

                                 

                                 

                                では、そもそも「美味しい」とか「味覚が繊細である」ということは、何を意味しているのでしょうか。

                                 

                                 

                                 

                                私は妻の作る味噌汁を美味しいと感じます。特に自家製の麦味噌で作る味噌汁は絶品です。そうなると即席の味噌汁や外食産業で出される味噌汁は飲めません。以前、奥湯河原にある旅館に泊まったとき、朝食に出された味噌汁を飲んでその美味しさに感動しました。なぜでしょう。私の味覚が繊細だったからでしょうか。何のことはない、妻の作る味噌汁とそっくり同じ味だったからです。

                                 

                                 

                                 

                                何が言いたいのかというと、味覚のような私たちが独自性の根拠にしているようなもの(だからこそ人は美味しいものを求めるのです)の本質は、つまるところそれを生みだしている地域性、社会的階層(どのような社会的集団に所属しているのかということ)が反映されたものに過ぎないのだということです。つまりワインを飲む機会や習慣のない人にワインの味の識別はできないという、ただそれだけのことです。

                                 

                                 

                                 

                                言い換えると、生まれた時からごく自然に食卓にワインが並んでいる環境で育った人たちにとっては、おそらくワインは美味いかまずいかだけが問題なのです。生産地や収穫年代を懸命に学習し記憶してワインの通になっている人たちとは「文化的資本」の蓄積や厚みが違うということです。

                                 

                                 

                                 

                                よく考えてみると、私たちが「味覚」という身体性にもとづく独自性の根拠としているようなものも、実は自分がある特定の社会的な関係・階層に集団として属していることを語っているに過ぎません。それは自分がどの位置にいるかということを教えてくれはしますが、自分の存在の根拠になるものではないのです。

                                 

                                 

                                 

                                イサム・ノグチはこの社会的な諸関係・階層性のくびきから解放された独自の個性の持ち主です。そういう人間が創り出した作品の一部が、今OPAMで展示されています。

                                 

                                 

                                 

                                それにしても、こんな小難しい話がランチの席にふさわしかったかどうか疑問ですね。でもまあ、空気を読まないことが信条なので、その場で考えたことをしゃべってしまいました。だまって私の話を聞いてくれる同級生の存在はありがたいものです。

                                 

                                | 文学・哲学・思想 | 13:23 | comments(0) | - |
                                「株式会社日本」はどこへ行く?
                                0

                                  私はいかなる政党、結社、宗教団体にも属していないので、選挙の時は投票しない政党を決めるだけです。戦略的・消去法的投票行動と言えばいいのでしょうか。二十歳を過ぎてから、そのようにして選挙権を行使してきました。

                                   

                                   

                                  もともと政治的人間ではないので、選挙結果に一喜一憂することはありません。ただ、この人にだけは当選してもらいたい、あるいは当選してほしくないという個人的な思いはあります。そういうわけでここ1週間ほど、選挙の喧騒から離れて昔読んだ本を読み返していました。

                                   

                                   

                                   

                                  塾を始めた30歳の頃、日本の学校は「校内暴力」や「いじめ」が蔓延し、荒れていました。教師や学校文化に反抗するいわゆる「不良たち」が、やみくもにうっぷんを晴らしていたのです。

                                   

                                   

                                   

                                  メディアや教育評論家、学者たちは批判の矛先を学校に向けるだけで、当の子供たちの内面で進行していた変化には無頓着でした。子供たちは、消費社会・大衆教育社会がもたらした文化の中で、単なる消費主体としてわがまま勝手に振舞いながら、個人としての輪郭を失い、「透明な存在」と化していたのです。

                                   

                                   

                                   

                                  そんな時に読んだのが『ハマータウンの野郎ども』 (ポール・E. ウィリス著)でした。訳者の熊沢誠氏の『民主主義は工場の門前で立ちすくむ』を読んだのがきっかけでした。前にも紹介しましたが、アリス・ミラーの『魂の殺人』を読んだのもこのころです。

                                   

                                   

                                   

                                  『ハマータウンの野郎ども』は、イギリスの労働者階級の「不良たち」が、学校が押しつけてくる文化に同化せず、努力すれば誰でも成功するといったメッセージ(メリトクラシー)の無効性を暴き出す様子を描きます。

                                   

                                   

                                   

                                  著者は、労働者階級の子供たちの文化や彼らの才能に共感しつつも、個人としての社会的上昇が困難であるがゆえに集団として連帯することができたのだとして、その限界にも着目します。

                                   

                                   

                                   

                                  つまり、彼らに言わせれば、メリトクラシーは、結局は精神的生産に価値を置くものだということになります。学校文化に反抗する彼らは、肉体労働をむしろ高く評価します。努力すれば誰もが価値の高い精神労働ができると言っても、実際は誰かがきつい肉体労働を引き受けなければならないというのです。かくして彼らは工場での肉体労働を「自発的に」「誇りを持って」選ぶようになります。

                                   

                                   

                                   

                                  そこで著者は問いかけます。

                                   

                                   

                                  「単純労働は、普通ならばだれでも嫌がる。仕事はキツイのに給料や社会的地位は低い。でも、それをこなせるやつだからこそ、『真の男』と認められるのだと思っていないか?」と。

                                   

                                   

                                   

                                  肉体労働よりも精神労働に価値を置く社会を批判した「不良たち」が、結果として、肉体労働を選ぶのは皮肉とはいえ納得できます。かくして、彼らははみ出し者として社会から排除されることなく、逆に現代人が避ける肉体労働に『真の男』として積極的に参画していきます。わざわざきつい仕事を「自発的に」「誇りを持って」選んだ「不良たち」は、資本主義社会で重宝され、まさに社会の価値序列を支えることになります。

                                   

                                   

                                   

                                  著者はこのように、社会秩序を転覆させるような要素をもつ文化が、社会秩序の構造の中に吸収されていく様を描きます。つまり労働者階級の文化が、労働者階級を再生産していると言うのです。確かに文化は社会構造によって規定されます。しかし、忘れてならないのは、その社会構造を生み出すのも文化だということです。

                                   

                                   

                                   

                                  この本には忘れられない一節があります。「不良たち」が肉体労働を「自主的に選択」したその後について、著者は次のように書きます。

                                   

                                   

                                   

                                  「かつてはおしなべて…深く考えることなく工場の門をくぐった。そうして今日、明日と働き、いつしか三十年が経ってしまうのである。真の機会をのがしたり、もともと機会を機会と理解できなかったこと、逆に好機到来とばかりに選んだ道がまやかしにすぎなかったこと、こうした苦い思いが、労働者仲間のあいだで工場に入る前の人生についての神話を生みだす。」と。

                                   

                                   

                                   

                                  イギリスがEUから離脱することを決めた背景には、以上述べたようなイギリスの労働者階級の文化があるのかもしれません。政治的決断の背景には長い歴史があるのですね。

                                   

                                   

                                   

                                  ところで、『ハマータウンの野郎ども』を再読しようと思い立ったのはRECOMMEND欄でも紹介した以下の本を読んだからです。『チャヴ』とは下流社会の手のつけられない暴徒、「野郎ども」を指す言葉ですが、イギリスの一般大衆社会が新自由主義によって壊滅的打撃を受けた様子を克明に分析しています。二十代の若者が書いたというのですから、驚きです。

                                   

                                   

                                   

                                   

                                  ひるがえって、「改革」や「人づくり革命」を唱えながら、新自由主義路線をひた走る「株式会社日本」は、労働者文化に何をもたらし、社会をどのように変えていくのでしょうか。

                                   

                                   

                                   

                                  一つはっきりしていることがあります。さらなる経済成長を唱えるバカな社長が舵取りをしている「株式会社日本」は、社員が次々に辞めて行く人口減少国家だということです。

                                   

                                  | 文学・哲学・思想 | 17:45 | comments(0) | - |
                                  早期英語教育は、子供たちから考える力を奪う。
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                                    最近はブログを書く意味を見出せなくなっています。書きたいことの百分の一くらいは書いた気がしますが、今の政治状況を見ていると、まるで言葉の通じない異国に来ているような気がします。

                                     

                                     

                                     

                                    そんな状況とは関係なく、日々の生活を楽しめればいいのですが、意識の底にわだかまりがあって、どうしてもそれができません。「心に移りゆくよしなしごとをそこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ」と書いた兼好法師の心境が分かります。

                                     

                                     

                                     

                                    それでも、ブログを書いていると、思わぬ人から便りがあったり、相談があったりします。たまにネトウヨの皆さんからの中傷もあります。実名なら相手をしますと言っているのですが、一人として同意する人はいません。彼らは、匿名という形でネット空間にかろうじて生息しているダニのような生き物です。最近では自分で意見を述べるのではなく、リツイートという形でフェイクニュースを拡散しています。

                                     

                                     

                                     

                                    さて本題に入ります。今回は東京在住の教育熱心なお母さんであるYさんから、子供さんの進路について御相談がありました。それに対する私の考えを簡潔に述べてみます。「簡潔に」というのは、正直言ってまともに返事をする気にならなかったからです。

                                     

                                     

                                     

                                    Yさんによると、先日の「佐藤ママ」の記事とカズオ・イシグロ氏のノーベル文学賞受賞について書いた記事がきっかけでメールする気になったとのことでした。その長い、にわかには信じられないメールを読んで、私は絶句し、どう返事をしていいかわからなかったのです。一瞬、フェイクニュース、いや、いたずらかと思ったほどです。

                                     

                                     

                                     

                                    でもよく読んでみると、Yさんはいたってまじめで、子供の将来を真剣に考えていることが分かりました。それをフェイクニュースだとかいたずらではないかと疑うことは不謹慎で、不誠実ではないかと反省したほどです。

                                     

                                     

                                    質問の要旨は次のようなものでした。

                                     

                                    「私もカズオ・イシグロ氏の熱烈なファンである。ついては、自分の子供を将来カズオ・イシグロ氏のようなノーベル文学賞をとれる作家に育てたい。日本の学校で英語教育を受けさせていたのでは、まともな英語力はつかないと思う。子供は今4歳で、仕事のこともあり留学させるのは難しい。そこで日本にあるインターナショナルスクールに通わせてバイリンガルに育てれば、ノーベル文学賞をとれる作家になれるだろうか?」という内容です。

                                     

                                     

                                     

                                    私が絶句したのがお分かり頂けるでしょうか。

                                     

                                     

                                    さらに、「佐藤ママ」のように、子供4人全員を東大の医学部に合格させることができるのなら、周到な計画さえ立てれば、ノーベル文学賞も夢ではないはずだ。そのための将来の留学計画、留学先、子供に読ませたい本100冊も決めている、とのことでした。

                                     

                                     

                                     

                                    もしかしたら・・・と思わせますよね。えっ、そうは思わない?いや〜仲間がいてよかったです。Yさんから見れば、あなたや私は、子育ての緻密な計画を立てる能力のないずぼらな人間か、情報弱者だと思われているかもしれません。

                                     

                                     

                                    でもYさんは件のブログの次の箇所は読み飛ばしたのでしょうね。

                                     

                                     

                                    「それにしても4人の子供の中に1人くらい、東大一直線教に疑問を持つ子供がいてもよさそうなのですが・・・。しかしそれをさせないところが「佐藤ママ」の「スゴイ」ところです。つまるところ、教育は幼少期からのマインドコントロールだということです。4人の子供全員が東大医学部というところに何とも言えない精神的・文化的貧しさを感じてしまうのは、私のひがみ、負け犬の遠吠えでしょうね。」

                                     

                                     

                                     

                                    Yさんからすれば、文章を読むことは役立ちそうな情報をピックアップすることで、書いている人間の価値判断は主観なので無視してかまわないということなのでしょう。

                                     

                                     

                                    しかし、大人になるということは自分の主観を成熟させていくことです。それが分かっていない人の行動や意見は、一見中立かつ客観的で大人のように見えますが、本質的には幼稚です。つまり、自分は偏見や主観からは自由ですよ、と言いたいがために情報収集に血眼になり、未成熟な精神を抱えたまま大人になったということです。

                                     

                                     

                                    おやおや、話がわき道にそれました。Yさんの質問に端的に答えましょう。

                                     

                                     

                                    1.4歳から日本にあるインターナショナルスクールに通わせるのはおやめなさい。子供を精神的に不安定にするばかりではなく、知的な発達を阻害します。特に言葉を覚えるには有利だと思われがちな6歳以下の子供にそういった環境を強制するのは、子供をバカに育てるようなものです。この事実は英語業界の利益にならないので、無視されていますが、お茶の水女子大学の内田伸子教授がこれを裏付ける興味深いデータを提供しています。

                                     

                                     

                                     

                                    2.日本語と英語という二つの言語を、別立てでバラバラに習得することはできません。特に子供が幼い時にそのような環境を強制するのは、子供の言語運用能力つまり知的能力を阻害します。

                                     

                                     

                                     

                                    一見別のものに見える言語でも、根底の部分を共用しています。私はこのことをノーム・チョムスキーから学びました。つまり、人間は最初の言語を習得する時、論理を組み立てたり、類推したり、まとめたり、比較するといった「考える力」も習得するのです。二番目の言語は、この考える力を使いながら習得されます。したがって、最初の言語によって習得した「考える力」がしっかりしていなければ、二番目の言語は簡単には習得できないのです。

                                     

                                     

                                     

                                    4歳からインターナショナルスクールに通わせたり、英会話学校に通わせたりするのは全く意味がありません。それどころか、考える力が身についていないうちから二番目の言語を覚えようとすると、母語の習得をも妨害することになります。

                                     

                                     

                                     

                                    それなら、7〜9歳からならいいのではないかと考える人もいるでしょうね。でも、そうまでして急いで英語を習わせることに何の意味があるのでしょうか。7〜9歳は小学校の低学年です。日本語すら十分に習得しているレベルではありません。その時点で、仮に英語を習得したとしても、その時点での日本語の理解度にあったレベルでしか習得できないのです。幼児期に複数の言語を教えるのは、子供の発達や人格形成をわざわざ妨害するようなものです。

                                     

                                     

                                     

                                    仕事の都合で海外に家族で移住するのならともかく(その場合でも子供の年齢によってはマイナス面が大きいのです)、日本にいながら無理やり子供をバイリンガルに育てる必要はないでしょう。帰国子女という言葉にあこがれて「国内留学」させるのであれば、彼らは大学入試においても、実社会においても必ずしも優遇されるわけでもなければ有能でもないという事実を知っておくべきです。

                                     

                                     

                                     

                                    要は、幼いころからの英語教育や英会話ブームは、英語業界の金儲けにまんまと騙されて、本来なら必要ないお金をつぎ込んでいるということです。インターナショナルスクールは大金がかかります。芸能人や有名人の子供が通っているのにつられて、見栄でお金を捨てたいなら、どうぞそうして下さい。私が口出しできることではありません。

                                     

                                     

                                     

                                    3.さて、一番肝心な質問に答えなくてはなりません。用意周到な子育てによって将来子供にノーベル文学賞を取らせることが可能か、という問いです。

                                     

                                     

                                     

                                    不可能だとも可能だとも断言できません。カズオ・イシグロ氏は長崎出身です。しかし、彼は日本人ではありません。国籍のことを言っているのではありません。彼はバイリンガルでもありません。彼は日本語をほとんど話せないし、日本語で文章を書くこともできません。れっきとしたイギリス人です。ただ、幼いころの日本の記憶にうながされるようにして、人間にとって記憶の持つ意味を比類のない実験精神で文学にまで高めたのです。

                                     

                                     

                                     

                                    親の仕事の都合で5歳の時にイギリスに渡り、のちにイギリスに帰化しました。もし彼の両親がバイリンガルに育てるために日本語の勉強を強要していたら、ノーベル文学賞の作家は誕生していなかったでしょう。これは断言できます。彼自身が次のように言っています。

                                     

                                     

                                    「もし私が漢字やカタカナを覚えるための教育を受けていたら、歪んだものになっていただろう」と。

                                     

                                     

                                     

                                    言葉は人格を形成する骨格となるものです。その国の文化を理解するのも、歴史を理解するのも、その国の言語を自分のものとしているからです。ブログでもしつこいくらいに言ってきました。人は言葉によって思考するのです。その言葉がおぼつかないと、思考まで揺らぎ、歪んだものとなります。

                                     

                                     

                                     

                                    さてこれが私の答えの全てです。日本社会は私の考えとは正反対の方向に進んでいます。ここに書いたことは、少数意見として無視されるでしょう。小学校から英語を正規の教科にし、財界は英語を社内公用語にしようとしているのですから。

                                     

                                     

                                     

                                    しかし、本当に創造的な思考は母語でなければできないのだということは、断言しておきたいと思います。何も戦争を起こさなくても、教育をコントロールすればその国を滅亡に導くことは可能なのです。

                                     

                                    | 文学・哲学・思想 | 15:57 | comments(0) | - |
                                    政治と言葉
                                    0

                                      9月21日のブログで次のように書きました。「閉ざされた世界にいる人間にとって光とは、言葉のことです。あなたがどんな言葉に出会うかによって、世界は全く違って見えます。そればかりではありません。相手が話す言葉によって、その人が世界をどのように見ているかということも分かります。」と。

                                       

                                      『深い迷いの中にいる若い皆さんへ2冊の推薦図書』

                                      http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=409

                                       

                                       

                                       

                                      ブログを書く時に一番気をつけていることは、ある言葉が、どのような状況で、誰から発せられたのか、ということです。その都度本人に会って事の真偽を確かめるわけにはいきません。しかし、言葉はそれを使う人間の意図を超えて、その人間の本質を否応なしに現わします。

                                       

                                       

                                       

                                      もちろん思い違いということもあります。特に若いころは、言葉の表面的なかっこよさやきらびやかさに幻惑されて、あるいは難解さに魅せられてある特定の人間の言葉を信じてしまう傾向があります。もちろん私自身のことを言っているのです。

                                       

                                       

                                       

                                      しかし、ある程度年をとってくると、思考することは言葉による暫定的な足場作りでしかないということがわかってきます。もちろん、どんな言葉も同じ価値があるというのは間違っています。言葉の価値はどんな人間が吐くかによって決まります。そこに優劣があるからこそ、人はより高い価値判断を求めて生きることができるのです。

                                       

                                       

                                       

                                      そもそも他者の言い分を理解するということは、ある意味で折り合いのつかないいくつもの意見を抱え込むことを意味します。そうなると価値判断に迷いが生じて、しばらくは身動きが取れなくなり、無気力に沈むことも多くなります。そうなるのが怖いので、人は他者の言い分に耳をふさぐか、聞いているふりをするのです。

                                       

                                       

                                       

                                      しかし、自分の人生を生きるためには、言葉の優劣を判断することを避けて通るわけにはいきません。同調圧力に屈し、それを避けて通れば自分が何者であるかわからなくなるからです。逆にそれを恐れてたった一つの言葉(宗教やイデオロギーの言葉)だけを頼りに生きれば、誰でもいい誰かの人生を生きることになります。

                                       

                                       

                                       

                                      この世に絶対的な真実(価値判断)などというものはありません。絶えざる「仮の足場作り」だけが、自分の人生を生きる導きの星となるのです。だからといって、しり込みする必要はありません。仮の足場が仮にでも固定する瞬間がやってきます。それは、誰のどういう言葉ならば信頼できるかというある程度客観的な基準が出来上がることを意味します。

                                       

                                       

                                       

                                      その時、私たちは自分の存在と世界との新しい関係を手にすることができるのです。信頼できる他者とは、いつ崩れるかわからない不安定な相互信頼の中にあっても、常に「仮の足場作り」を続けている人です。このことについては、今年の6月15日のブログに書きました。

                                       

                                      『私たちは暫定的な足場をたよりに考えるほかない存在である。』

                                       http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=365

                                       

                                       

                                       

                                      さて、結論です。言葉に最大の価値を置き、言葉に対する信頼を武器として現実に異議申し立てをし、それを改変していくのが政治家の仕事です。税金をロンダリングして私腹を肥やし、権力欲を満足させるために政治家をしている人間たちの言葉は、矛盾だらけで、空虚です。それは、言葉を発する人格そのものが矛盾に満ち、空虚だからです。安倍首相の言葉がその典型です。もちろん小池百合子の言葉も信用できません。かれらの言葉は、頭蓋骨のなかで空虚な自我がぶつかり合って反響している音に過ぎません。

                                       

                                       

                                       

                                      それに対し、常に弱者を思い、国権の発動としての戦争を回避することを使命だと自覚している政治家の言葉は、穏やかで自信に満ちています。人々を振り向かせる力を持っています。批判に耳を傾け、言葉を尽くそうとします。それは無私の言葉です。

                                       

                                       

                                      以下の画像をご覧ください。10月6日、国分寺南口での安倍首相の街宣風景。はるか向こうの街宣車の上で傘をさしているのが、安倍首相らしい。遠すぎて見えません。しかも、周りは警官だらけ。

                                       

                                       

                                       

                                       

                                      「お前が国難!」のプラカードを掲げた人たちは、自民党員にプラカードが見えないように妨害されています。聴衆の方を向いているのが自民党員。

                                       

                                       

                                       

                                      7日の朝日新聞によると、自民党はヤジを警戒して首相の演説日程を公表しないそうです。安倍首相が「こんな人たちに負けるわけにはいかないんです!」なんて興奮して、また本心を吐露したら選挙に影響すると判断したのでしょう。

                                       

                                       

                                      それにしても、ここまでヤジごときに怯える首相が、かつていたでしょうか。Jアラートを鳴らしまくって、「北朝鮮に異次元の圧力をかける!」と威勢のいいことを口にする極度に臆病な人間が、日本を守り抜くと大口を叩いているのです。これは何かのギャグでしょうか。いや、悪い夢を見ているのでしょうね。

                                       

                                      | 文学・哲学・思想 | 16:09 | comments(0) | - |
                                      カズオ・イシグロ氏、ノーベル文学賞受賞!
                                      0

                                        塾の授業が終わって居間に戻ると、カズオ・イシグロがノーベル文学賞を受賞したと妻が教えてくれました。今年一番の嬉しいニュースです。彼女もカズオ・イシグロのファンなのです。暗唱するほど読んだ氏の代表作『わたしを離さないで』をはじめとする氏の一連の作品が対象になったとのことです。現存するイギリスの作家では、最も好きな作家です。

                                         

                                         

                                         

                                        その冒頭部分。

                                        My name is Kathy. I’m thirty-one years old, and I’ve been a carer now for over eleven years. That sounds long enough, I know, but actually they want me to go on for another eight months, until the end of this year. That’ll make it almost exactly twelve years. Now I know my being a carer so long isn’t necessarily because they think I’m fantastic at what I do.

                                         

                                         

                                        そして最後の文。

                                        ,and if I waited long enough, a tiny figure would appear on the horizon across the field, and gradually get larger until I’d see it was Tommy, and he’d wave maybe even call. The fantasy never got beyond that−I didn’t let it−and though the tears rolled down my face, I wasn’t sobbing or out of control. I just waited a bit, then turned back to the car, to drive off to wherever it was I was supposed to be.

                                         

                                         

                                        カズオ・イシグロの心の声がそのまま文体になった素晴らしい小説です。カズオ・イシグロについては2年前にブログで書いています。よろしかったらお読みください。

                                         

                                         

                                        『私たちは、みな執事なのか?』

                                        http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=97

                                         

                                        『私たちは「執事」であることから逃れられないのか?』

                                        http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=98

                                         

                                        | 文学・哲学・思想 | 21:43 | comments(0) | - |
                                        イベント人間は信用できない。
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                                          イベント人間ほど信用できないものはありません。世間の耳目を集めるために(最終的にはカネ集めなのですが)絶えず何かを企画する人間、その企画に乗せられて落ち着きを失い、それがなければ身がもたないようになった人間をイベント人間と言います。もちろんこれは私の勝手な定義です。今では、SNSがイベント人間の増殖に拍車をかけています。

                                           

                                           

                                          ではなぜ人はイベントを欲するのでしょうか。

                                           

                                           

                                          私たちの日常は、さしたる変化もなく、同じことの繰り返しです。それが家族や親しい友人を中心として、ある場合には数十年にわたって続きます。日常は、長い時間の経過とともに、そして平凡であればある程、その価値が色褪せ、意味を捉えがたくなる宿命を持っています。

                                           

                                           

                                           

                                          そして、その宿命に忍び寄り、土台を切り崩す最大のものこそが「退屈」です。人間は、それが大事だと分かっていればいるほど、時にはそれに唾をかけ、かなぐり捨てたくなる衝動を持っているやっかいな生きものです。つまり、イベントは退屈から逃れるための手っ取り早い手段なのです。

                                           

                                           

                                           

                                          もちろん最大のイベントは戦争です。オリンピックをはじめとする大小さまざまなイベントはすべて戦争へと収斂するベクトルを持っています。そんなバカな、と思うでしょうね。しかし、戦後72年間続いてきた平和が今葬り去られようとしています。日本人の多くは平和に「退屈」し始めているのです。2011年の東日本大震災と福島の原発事故すら、退屈を紛らわすのに足りなかったのです。

                                           

                                           

                                           

                                          戦争はある日突然起こるのではありません。それは日常生活の中で分泌される「退屈」を養分にして徐々に成長していく人類の宿痾のようなものです。今の日本の政治・文化状況を云々するまでもなく、ここまで膨れ上がった大衆の暗い情念を抑えることはほとんど不可能な気がします。

                                           

                                           

                                           

                                          今はやりの不倫も、退屈を紛らわすために、当人たちが自ら招き寄せたものです。不倫は色あせた日常への忌避感覚がその感情的土台となっています。9月21日のブログでも述べましたが、自分の夫に対する感情を「マザコン」という言葉で固定させ、二人の関係を見直すこともせず、かたくなに目と耳を閉ざし、それを脱出願望にまで高めれば、離婚か不倫に行きつく可能性が大きくなります。

                                           

                                          http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=409

                                           

                                           

                                           

                                          私は取るに足らない自分の人生を生きる中で気づいたことがあります。それは、夫婦や恋人との関係における倦怠や退屈という感情は一種の「行為」だということです。相手に対してある感情を繰り返し再現してしまうような場合には、そこに、意志的な傾向を認めざるを得ません。つまり、感情的な真実(相手に対する軽蔑感情といったもの)は、それを真実だと思いこむことによって、ますます確実で変更できないものに変わってゆくのですね。

                                           

                                           

                                           

                                          政治家や芸能人に不倫が多いのは、権力を持ち、有名人の仲間入りを果たしたことで、自分は現実を超越した存在だといううぬぼれに骨がらみとらえられてしまうからです。その結果、すべての現実を、それがただ現実であるということだけで、一括して見下すようになります。夫婦関係こそは退屈な現実の象徴です。それを嫌悪し、そこから逃れるための不倫が、相手の家族やこども、何より相手にどんな犠牲を強いるのかを想像できません。

                                           

                                           

                                           

                                          しかし、人間は自分だけが現実から抜け出したり、超越的な人格を持ったりすることはできません。私たちの渇望を満たすものは、現実の条件の中にしかないからです。この点を勘違いすると、どこへ行っても、何を選んで見ても、自分を満足させないという感じが残り、その残ってしまった渇望を満たすために、次から次へと情熱を満たす対象や生き方を求めるようになります。こうなればもはや本当に相手との関係を大切にしようとする感覚はマヒしてしまいます。残るのは破滅と疲労感だけです。

                                           

                                           

                                           

                                          感情は一種の「行為」だといった意味がお分かりいただけたでしょうか。そして、最大のイベントは戦争だといった理由も。

                                           

                                           

                                          今回のブログを書くきっかけになったのは、映画『パターソン』を観たからです。平凡を絵にかいたようなバスの運転手の一週間を追ったものですが、この映画の監督は、おそらく日常の中にある、ありふれたものの価値を再発見することの意味を問うているのだと思います。

                                           

                                           

                                           

                                           

                                          ただ一つ、主人公のパターソンには普通でないところがあります。彼は詩を書く人間なのです。普通なら退屈極まりないと思えるような日常の中で、彼は時間を見つけてはノートに詩を書きつけます。何の利益も生み出さない詩を書くことで、彼は何をしていたのでしょうか。

                                           

                                           

                                           

                                          以前、『たまには塾のことでも書いてみようか。』の中で、詩人の西脇順三郎のことばを引用しました。それは次のようなものです。「人間の存在の現実それ自身はつまらない。詩とはこのつまらない現実を一種独特の興味(不思議な快感)を持って意識させる一つの方法である。」

                                           

                                          http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=326

                                           

                                           

                                          不倫は不倫であるという不安な状態そのものによって人々のロマン的欲望をかきたてている側面があります。不倫は不倫であるからこそ人を燃え上がらせるに過ぎません。すでに述べたように、その根底には日常に対する倦怠や退屈、さらには蔑視があります。

                                           

                                           

                                           

                                          戦争も同じです。国家間に「不安な状態そのもの」を作りだし、それを「国難」ということばで針小棒大に語るバカが、大衆の中に充満する退屈に火をつけ、燃え上がらせようと画策しています。それにロマン的欲望をかきたてられた政治家やマスメディアが協力しています。これほど心暗くなる光景はありません。私たちはこのことに対して自覚的であるべきです。

                                           

                                           

                                           

                                          それに抵抗する方法は、私たち一人一人がパターソンのような詩人になり、平凡でありきたりな日常が持つ深い恩寵に気づくことです。救いはそこにしかありません。

                                           

                                          | 文学・哲学・思想 | 15:37 | comments(0) | - |
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