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卑怯者の島: 戦後70年特別企画
卑怯者の島: 戦後70年特別企画 (JUGEMレビュー »)
小林 よしのり
2015年に読み、感動した本(漫画)です。個人的には、これは小林よしのりの最高傑作だと思っています。『堕落論』とあわせて読んでほしいと思います。左右に関係なく、あなたが絶えず仮の足場を求めて思考を継続する意思を持つなら、避けて通れない著作です。
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日本列島の全原発が危ない! 広瀬隆 白熱授業  DAYS JAPAN(デイズジャパン)2018年1月号増刊号
日本列島の全原発が危ない! 広瀬隆 白熱授業 DAYS JAPAN(デイズジャパン)2018年1月号増刊号 (JUGEMレビュー »)
広瀬隆
広瀬氏をアジテーターだの、オオカミ少年だの、悲観主義に過ぎると言って批判する人がいる。しかし、ブログで何度も述べてきたように、真の悲観主義こそがマインドコントールによって奴隷根性のしみ込んだ私たちの精神を浄化してくれるのだ。そもそも無知では悲観が生まれようもないではないか。国などいくら破れても結構。せめて山河だけでも次世代に残そうと考える人ならぜひとも読むべき本である。いや、これから幾多の春秋に富む若い人にこそすすめたい。
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知識人とは何か (平凡社ライブラリー)
知識人とは何か (平凡社ライブラリー) (JUGEMレビュー »)
エドワード・W. サイード
いわゆる「知識人」なるものが絶滅して久しい。しかし、サイードの言う知識人の定義は時代がどんなに変わっても常に新しい。「知識人とは亡命者にして周辺的存在であり、またアマチュアであり、さらには権力に対して真実を語ろうとする言葉の使い手である」高校生や大学生にはぜひとも読んでほしい本です。
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磯崎新と藤森照信の茶席建築談議
磯崎新と藤森照信の茶席建築談議 (JUGEMレビュー »)
磯崎 新,藤森 照信
この本は茶室を巡る様々な建築的発想・知識の宝庫です。それにしても磯崎新氏の驚くべき記憶力と該博な知識には驚かさされます。建築史を語るには欠かせない二人の対談です。時がたつのを忘れさせるほどの面白さでした。
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チャヴ 弱者を敵視する社会
チャヴ 弱者を敵視する社会 (JUGEMレビュー »)
オーウェン・ジョーンズ,Owen Jones
【本書への賛辞】

「怒りが生んだ、最高の本」
──ガーディアン紙

最高の論争がみなそうであるように、知性に裏打ちされた怒りが本書を支えている。
──エコノミスト誌

暴動や世界中に広がったオキュパイ運動に照らして考えると、分断社会に関する著者の鋭い分析は、
不気味なほど未来を予知していたことがわかる。
──アートフォーラム誌

情熱と、思いやりと、すぐれた道徳性が結実した仕事だ。
──ニューヨーク・タイムズ紙

政治の定説を見直す大胆な試み。著者は戦後のイギリス史を縦横無尽に往き来し、
階級、文化、アイデンティティといった複雑な問題を軽々とまとめてみせ、
結果として「階級」問題に火をつけ、大きな効果をあげている。
──インディペンデント紙

いまの制度が貧しい人々を見捨てていることに対する苛烈な警告──それが本書だ。
──ブログサイト「デイリー・ビースト」

ジョーンズは、「地の塩」だった労働者階級が政治のせいで「地のクズ」と見なされるようになった経緯を見事に説明している。
──タイムズ紙

この本は、新しいタイプの階級嫌悪と、その裏にあるものを痛烈にあばいて見せてくれる。
──ジョン・ケアリー(The Intellectuals and the Masses著者)

これは「イギリスはおおむね階級のない社会である」という考え方への、論理的で情報満載の大反撃だ。
──オブザーバー紙

情熱的で示唆に富む……この声が届くことを心から願う。
──スコットランド・オン・サンデー紙
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フェイクニュースの見分け方 (新潮新書)
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烏賀陽 弘道
私は政治的な言葉と詩的言語の間を、その振幅が大きいがゆえに、往復することによって精神を活性化させています。政治的な文章を読むときに気をつけていることは、ファクトとオピニオンを区別することです。これはイロハのイだと思っていたのですが、今はお互い罵詈雑言の投げつけ合いで、言論空間がいびつになっています。これは今の政治を反映したものでしょう。菅官房長官が「問題ない」「その指摘は当たらない」などといったコミュニケーション遮断語を頻繁に使いだしてから、この傾向は加速しています。言論空間のゆがみを正し、正常な論争が復活することがあるのでしょうか。地に足がついた生き方をしたいなら、まず気分に流されず、事実を見極めることから始めなければなりません。事実を提示しないジャーナリストは、ジャーナリストではありません。そのことを確認するためにも本書は必読です。本物の読解力をつけたいと考えている中高生には特にお勧めです。
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 (JUGEMレビュー »)

紹介していない本が山のようにあります。数日前にこの本を本棚の奥から引っ張り出し再読しました。いや〜面白かった。。とにかくこの本のことを忘れていた自分が信じられない。読んでない人に熱烈に勧めます。ハイ。
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チェンジング・ブルー――気候変動の謎に迫る (岩波現代文庫)
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大河内 直彦
アインシュタインの名言のひとつに、「過去から学び、今日のために生き、未来に対して希望をもつ。大切なことは、何も疑問を持たない状態に陥らないことである。」があります。
本書は文系・理系を問わず、高校生や大学生必読の本です。単に気候の科学を紹介しただけではなく、科学者たちのさまざまな逸話を紹介しながら、科学における知識・研究の積み重ねの重要性を教えてくれます。この本にのめり込むかどうかが、あなたの知性のリトマス試験紙になります。受験勉強的発想の狭隘な世界観を粉砕してくれるかもしれません。
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見て見ぬふりをする社会
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柳澤 協二,伊勢崎 賢治,加藤 朗
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英語の実際的研究 (1969年)
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秋山 敏
高校生にとって、今でも一押しの不朽の名著。でもこの本をことを知っている英語教師は少ないと思います。是非復刊してほしいものです。
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安倍首相から「日本」を取り戻せ! !
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泥 憲和
まともな言説は、誰にでもわかる易しい言葉で書かれています。そして、それが本物であればあるだけ、真実を直視する勇気のない、臆病者からバッシングを受けます。安倍政権や維新の会のヤクザ議員からバッシングを受けない言説は何のインパクトもない、ニセモノだと言ってもいいくらいです。泥さんの発言は、間違いなく政権にとって都合の悪いものだったのです。表紙の写真はコワいですが、この本を読めば泥さんの優しい心根に触れることができます。
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エドワード・スノーデン,青木 理,井桁大介,金昌浩,ベン・ワイズナー,宮下紘,マリコ・ヒロセ
2017年4月18日、朝日新聞がようやく「パノプティプコン」を取り上げました。遅すぎますね。
これから先の日本社会は、ますます荒廃が進み、国民の不満が頂点に達し、やがて爆発します。それを未然に防ぐために、国は国民の監視を強化します。
実際アメリカでは「愛国者法」により、電子メールや携帯の通話履歴が監視の対象になっています。誰が、いつ、どこで、何を読んで、誰と通信を交わしたか、すべて国に筒抜けです。
「パノプティプコン」とはフランスの哲学者フーコーが用いた概念ですが、国民が刑務所の囚人のように監視される体制を言います。監視者の姿は見えませんが、囚人は監視者不在でも、監視を意識することによって管理統制されるのです。これを「パノプティシズム」と言います。
このシステムから解放されるためには、権力がどう管理・統制しようとしているかを知らねばなりません。この本はそれを知るための第一歩です。あなたが無知のまま、奴隷の人生を送りたければ、読む必要はありません。
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日本力
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松岡正剛,エバレット・ブラウン
テレビを始めとするメディアを通じて、何かといえば日本はスゴイ!と叫んでいる、あるいは叫ばないと身が持たない人たちに読んでもらいたい本です。だってそれは日本人がまともな思考をしてこなかった、今もできていないことの裏返しでしかありませんからね。日本スゴイと叫んでいる人を見ると、自分が持っている劣等感をこんな形でしか表現できないのかと思って気の毒になります。日本スゴイ!だからどうしたの?あなたは何をやりたいわけ?
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佐藤 正明
今の政治状況に対して、まともに反応すればするほど、こちらがアホに思えてきます。正面突破は犠牲者が出るだけでなく、精神的にも疲労困憊しますからね。こういう時代の表現方法は、もはや風刺とブラックジョークしか残っていない気がします。
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A.ミラー
アリスミラーのこの本は、塾を始めるきっかけになりました。ただ生活のためだけなら、他のことをしていたでしょう。『才能ある子のドラマ』とあわせて、当時の私には衝撃的な本でした。人生はどこでどう転ぶかわかりません。人間の奥深さを知ることで、何とか自分を維持していたのです。この本を読むと当時のことが、ありありと思い出されます。ある意味で、私の人生を方向づけた本かもしれません。
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NHK「東海村臨界事故」取材班

2月18日のブログでも書きましたが、仕事のために読むビジネス書の類は、最終的には効率を重視し、最小の資本と労力の投下で、いかにして最大の利益を上げるかということに尽きていると思います。そのための働き方改革であり、そのための賃上げです。そのための人心掌握術であり、顧客対応です。ビジネス書を読めば読むほど、人間は軽薄になり、視野が狭くなっていきます。もしあなたがそれを自覚するきっかけがほしいなら、是非この本を読むことを勧めます。読書はビジネスのためにするのではないということが分かると思います。この本は私たちの日常の風景を一変させるだけのインパクトを持っています。いわば、ことばの最高の意味における「闖入者」なのです。
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生前退位をめぐる安倍首相の策謀 (宝島社新書)
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五味 洋治
天皇陛下が去年8月のお言葉で一番国民に伝えたかったのは、一言で言うと安倍首相の改憲を許してはならない、ということだったのです。それはブログでも再三書いてきましたが、今上天皇の20年にわたる慰霊の旅や国民に寄り添う姿勢が何よりそのことを証明しています。普通の読解力があれば分かることです。しかし、安倍首相には肝心の読解力がありません。安倍首相は今上天皇の思いを、単なる生前退位の「制度上の問題」にしてしまったのです。これは明らかな策謀です。国民は今一度、天皇陛下のメッセージに真剣に耳を傾けるべきです。
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教育の論理―文部省廃止論 (講談社文庫)
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羽仁 五郎
1979年、今から38年前に出版されたこの本を読み返しました。そして愕然としました。羽仁五郎が指摘したことがますますリアリティーをもって、前景化しています。福沢諭吉も言うように文部科学省はいらないのです。教育関係者は、自らの原点に戻るため、この本を読むべきです。
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服従
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ミシェル ウエルベック
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排除と抵抗の郊外: フランス〈移民〉集住地域の形成と変容
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森 千香子
第16回大仏次郎論壇賞を受賞した本作は、従来時間軸で論じてきた社会学の手法に、パリ郊外というエスニック・マイノリティーが住む「空間」を突きつけ、彼らがなぜグローバルテロリズムに追い込まれるのかを明らかにしたものです。

一読し感銘を受けました。問いを生きるという学問の原点が、彼女のフィールドワークにつながり、「移民たちは、彼ら自身に問題があるのだという視線を注がれていました。でも実際には、多数派による差別が問題を生み出していた。問題は社会の側にあったのです」と結論付けます。

この著作は日本社会のみならず、世界のこれからを考えるのに、大いに役立ちます。これぞ学問と言えるものです。『シャルリとは誰か? 人種差別と没落する西欧 』とあわせて読むことを勧めます。
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瀬木 比呂志
この本はまだ発売されていません。自分で読んでいない本を推薦するのは邪道でしょう。しかし、これまでの『絶望の裁判所』『ニッポンの裁判』(ともに講談社現代新書)に続く裁判所、司法批判の第3弾が長編の権力小説だということで、過去2冊の本の面白さからして、推薦に値する本だと思いました。『原発ホワイトアウト』の最高裁判所ヴァージョンだと思います。読んでからコメントを追加したいと思います。
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被災の思想 難死の思想
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小田 実
若い人は彼の仕事も、名前すら知らない人もいるでしょう。来年で没後10年になります。彼が生きていたら、3・11をどうとらえ、どう表現していたか。それを見たかったし、彼の発言を聞きたかった、とつくづく思います。ジャーナリズムは劣化の一途をたどり、教育は非民主的な社会に適応できるように、こどもたちに真実を教えません。すべてのものには歴史があります。今ある世界が全てではなく、それを作り出した社会と人間の営みがあったのです。もし若い人が自由に生きようと思うのであれば、そして元気を出したければ、彼の著作を読んでみることです。『何でも見てやろう』でもいいですね。とにかく一冊手にとって見てください。そして彼の提示した問いに答えてみてください。
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アモン・シェイ
学校なる場所に通っていた時、毎年夏になると課題図書を読んで、読書感想文を書かねばならないのが苦痛でした。課題図書の選定には学校と書店の密約があるに違いないと思っていたくらいです。

偶然巡り合った面白い本の感想を書くのならまだ我慢できたかもしれません。つくづく学校というところは、余計なことをしてくれると思ったものです。

あまりにめんどうくさいので、「あとがき」を参考に、あらすじを書いて提出したら、トリプルAをもらいました。

学校というところは、もしかしたら、人生の退屈に耐える訓練をする場所だったのかもしれません。この本を読んで、改めてそのことを確認しました。別に先生を責めているわけではありません。それほど自覚的に生きるということは難しいのだとため息をついているだけです。
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想田和弘監督の観察映画。音楽による演出は一切なく、徹頭徹尾監督の視点で撮られたドキュメンタリー映画。見終わった後、日本の選挙風土の貧困さが浮かび上がる。この国に民主主義はない、ということを改めて確認し、そこから出発するしかない。その勇気を持つ人には必見の映画です。合わせて『選挙2』もどうぞ。
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マックス ヴェーバー
ウェーバーの死の1年前、1919年、学生達に向けた講演の記録です。
一部抜粋します。

「自分が世間に対して捧げようとするものに比べて、現実の世の中が―自分の立場からみて―どんなに愚かであり卑俗であっても、断じてく挫けない人間。どんな事態に直面しても「それにもかかわらず!」と言い切る自信のある人間。そういう人間だけが政治への「天職」を持つ。」(P105〜106)

「さて、ここにおいでの諸君、10年後にもう一度この点について話し合おうではないか。残念ながら私はあれやこれやいろんな理由から、どうも悪い予感がしてならないのだが、10年後には反動の時代がとっくに始まっていて、諸君の多くの人が―正直に言って私もだが―期待していたことのまずほとんどは、まさか全部でもあるまいが、少なくとも外見上たいていのものは、実現されていないだろう。」(P103〜104)

10年後には、ワイマール体制は機能不全に陥り、1933年にはヒトラーが首相に就任します。

平和憲法は、日本人にとって310万人の命と引き換えに手に入れた唯一と言っていい理念であり、アイデンティティーでした。その唯一の誇りを、日本人は損得勘定で葬り去ろうとしています。言い古された言葉ですが、歴史は繰り返すのです。
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熊楠の星の時間 (講談社選書メチエ)
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中沢 新一
小学校を卒業するころ、将来なりたい職業として思い描いていたのが、天文学者か生物学者でした。プロ野球選手は、自分のセンスでは無理だと悟りました。物ごころついたころから興味があったのは宇宙や昆虫や植物の世界でした。そんなわけで南方熊樟に出会うのは必然的な成り行きだったのです。人間は言葉によって世界を把握しますが、それ以外の把握の仕方があるはずだと、ずっと思ってきました。南方熊樟は、小林秀雄と同じく、直観による世界の把握の仕方を教えてくれました。この本は、言葉によって構成された世界秩序の外に出て、世界を改めて考えたい人に大いなるヒントをあたえてくれます。安倍政権によるゴキブリのフンのような、あまりにばかばかしい政治状況を見せつけられているので、精神の衛生学として一気に読みました。
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本間龍
こどもの教育から裏金を使ったオリンピック誘致、原発再稼働、戦争準備から武器の売却、安倍政権の裏の権力としてメディアに絶大な影響力を行使する電通。私たちは電通が作り上げた「箱」の中でいいようにマインドコントロールされている。自分の意見だと思っていたものが、実はそう思わされていただけだということに気づかなければならない。音楽をはじめとする芸能情報、その中で踊らされるミュージシャンやタレント、果てはデザイン業界までを席巻する。今や電通の介在しないメディアはないと言ってもいい。利権あるところに電通あり、です。
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英語教育に携わる人は、一度この本を読んでみるべきではないでしょうか。言葉は悪いですが「英語ばか」がこの国には余りにも多すぎる気がします。
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前作『日本はなぜ「基地」と「原発」止められないのか』に続く著者渾身の力作。自分の人生を生きたい人にすすめます。ただそれだけです。18歳で選挙権が与えらる高校生が政治を考える際の基本的なテキストになる日がくるといいですね。無理でしょうが。これ以上余計なコメントはしません。まず手に取ってみてください。
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メディアで取り上げられるよりはるか前から日本会議の存在について私は言及していました。電通と同じくタブー視するメディアには心底失望したものです。報道すればタブーはタブーでなくなるのです。何を恐れているのでしょうか。干されれば、何とか生活をする工面をすればよい。それだけのことです。
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経済学という自己正当化の道具、あるいは権力に寄生するための方便を分かりやすい言葉で暴露した本物の経済学の本。宇沢弘文氏の「社会的共通資本」と併せて読むことをすすめます。
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磯崎新
帯に「祝祭都市にスタジアムはいらない」とあります。そもそも2020年まで天災と原発事故をやり過ごし、経済危機を乗り越えて存在しているでしょうか。極めて怪しいですね。偶然書店で手に取って読みました。彼の文章を読むと、建築は現世の権力に奉仕するものではなく、想像力の王国を作るものだと思わされます。建築にそれほど興味のない人でも、読めます。いや、いつのまにか引き込まれているでしょう。
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難関中高一貫校で学び、東大に合格しても、それはもはや知性のバロメーターではありません。この本に書かれていることが真実だと見破れることこそが本物の知性です。ニセの知性は既得権益を守るためにはどんな屁理屈でもひねり出します。おまえは何も知らないと言って他人を見下し、金と権力におもねるのです。ニセの知性は理想の灯を掲げることができません。「脳内お花畑」などという幼稚な言葉を使って揶揄するしかないのです。彼らの決まり文句は、他国が攻めてきたらどうするのかという、それこそ「脳内お花畑」的なものです。「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」とは、まさに至言です。
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桐野 夏生
権力も財力もない人間は、想像力を武器に戦うほかありません。以前ブログでも取り上げた『亡国記』とともに読むことをすすめます。
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文部科学省と財界は文系学部、特に社会思想を研究する学部を標的にして、その廃止を迫っている。これがどれだけ短慮で、バカげたことかヨーロッパの大学を見てみればよい。コンピテンス、要するに高速事務処理能力と記憶力を重視する理系学部さえあれば国は繁栄するという考え方です。文系学部は「結果を出せない」といいます。株式会社化をなりふりかまわず進めようとする国の中で、文系学部は穀つぶしだと映っているのでしょうね。この国の知性の劣化はとどまるところを知らないようです。
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私の元塾生の縁でお会いしたことのある烏賀陽弘道氏の渾身のレポート。事実を丹念に調べ上げ(これがジャーナリストの本来やることです)事実をして語らしめることのできる稀有なジャーナリスト。この本を読まずに福島第一原発の事故の本質に迫ることはできない。ダブル選挙の前に一人でも多くの国民が読むことを期待します。
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松岡正剛氏の本はどれも面白く、シリーズの千夜千冊を除けばほとんど読んでいます。『多読術』は、高校生にぜひ勧めたいと思います。高校時代に、この本を読んでおくと、さまざまな分野の知的見取り図を手に入れることができます。学校の授業だけではなく、この本を手掛かりにして知の荒野に歩みを進めてほしいと思います。
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安倍首相は「この道しかない」と言って消費税を上げ、集団的自衛権の行使を可能にする閣議決定をし、公約とは正反対のTPPを批准することで、日本の文化=アイデンティティーを破壊しようとしています。

もし私たちが生き延びたければ、そのヒントがこの本の中に書かれています。日本は超大国の「夢」を代弁するだけの国になってはなりません。
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山本氏の国会での質問を、本になって改めて読み直して感じることは、文字通り「みんなが聞きたい」質問をしてくれたということです。安倍首相が小学生に「なぜ政治家になったのですか」と質問された時、「父親も祖父も政治家をしていたからです」と答えていました。小学生相手に、何と言う悲しい答えでしょうか。語るべき理想を持たない政治家など、所詮は官僚に利用されるだけです。それに対して、山本氏には語るべき理想がある。「政治なんてそんなものさ」というリアリストが発散する腐臭を吹き飛ばすさわやかさがある。それは、彼の身体には収まりきれない理想が持つ力そのものです。彼は言います。「力を貸してほしい。少なくとも、あなたが必要だと思われる社会、私が必要だと思われる社会を作っていきたい。そう思うんです」と。日本の総理大臣にふさわしいのはどちらでしょうか。
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おそらく、日本人自身よりも海外の知識人のほうが、日本の問題を正確にとらえていると思わせる本です。読み終えて何気なくテレビを見たら、わが大分県選出の国会議員、岩屋毅氏と江藤晟一氏が、2016年ミスユニバース大分県代表を選ぶ催し物に出ていました。名誉顧問だそうです。いかがわしい宗教団体をバックに票を稼ぐだけでは飽き足らず、こんな大会に顔を出して名前を売ろうとする。大分市長の佐藤樹一郎氏も出席していました。このお三方は、こんなことをするために国会議員や市長になったのでしょうか。国民の税金を使ってやることといえば、テレビに出演してにやけた顔をさらすことでしょうか。もう物事の軽重が全く分かっていません。せめてこの本くらい読んではどうでしょうか。私はこの本に書かれていることの大部分に賛成です。
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出版されてすぐ読みました。国会で、読んでもいないのに、安倍首相が躍起になって否定した事実が書かれています。蓮池氏はあちこちから人格攻撃の対象とされてきましたが、自分にも落ち度があったと認めています。自分は総理大臣なのだから落ち度はないと居直る人間とは好対照です。この本を読んで、拉致問題について今一度国民が考えることを望みます。
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本では土屋正雄氏の名訳が出ていますが、できれば英語で読んでもらいたい小説です。カズオ・イシグロの文章は読んでいてとても気持ちがいい。素晴らしい文体です。いつの間にか声に出して読んでいることがあります。ジョージ・オーエルと並んで私が最も好きな海外の作家です。彼が書くような英語を書きたいですし、彼のように考え、話したいものです。DVDを見た後は、是非小説も読んでください。
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もう何と言うか、別世界を生きている人間です。彼の発する言葉は文学とは無縁です。人間が言葉を持ったのは、言葉にしがたいものを言葉にしようとするためです。政治家が発する言葉の軽さと言ったらありません。それだけ現実も軽いものになったということでしょう。
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長谷川 宏
著者は私と同じく学習塾を営む在野の哲学者。私が塾を始めた時、著者の『赤門塾通信』を読み、励まされました。

上下2巻で、結構なヴォリュームですが、やっと読み終わりました。今改めて日本の精神史をたどりなおしたいと考えている人には、ぜひ勧めたいと思います。感想は又いつか別の機会に。
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小林秀雄は、私を文学や哲学の世界にいざなってくれた恩人です。彼と岡潔との対談です。
この本を理解できる政治家はおそらくいません。いたら、絶滅危惧種でしょう。
小林秀雄、岡潔、鈴木大拙のような人間はもう出てこないでしょうね。こういう人間を生み出す土壌が日本にはなくなりました。
代わりに登場してきたのが、橋下徹やホリエモンこと堀江貴史といった、マスコミによって改革の旗手と持ち上げられたマネー資本主義の申し子たちです。
感情を劣化させた人間が幅を利かせる社会は、効率を追求し、競争を加速させるだけの生きづらい社会です。日本社会はどうしようもなく劣化が進んでいます。
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教育で最も大切であるにもかかわらず、多くの人が忘れているのが感情教育です。世界的数学者・岡潔のことばでは「情緒」ということになります。普通、情緒とは正反対にあると考えられている数学のような学問で、ブレイクスルーをもたらすものは「情緒」だと岡潔は言います。今回読み直してみて、その深い洞察力と、そこから出てくるみずみずしい感性と新しさに、改めて驚かされました。

こどもの将来を本当に考える親なら、あれこれ参考書を買い与えるより、是非この本を読むことをすすめます。私たちが失ったものの価値が分かり、呆然とするはずです。

この本を読んで何も感じなかったらどうするのか?
残念ですが、どうしようもありませんね。これまで通り、自分の信じる道をお進みください。
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人間は、条件次第で、喜々として殺人を犯す。そして、その条件を整備しつつあるのが、安倍政権とその背後でうごめく『日本会議』である。このことに気づいていても、「配慮する」ことを最優先して報道しないメディア(特にNHK・読売新聞・産経新聞)。そしてそこに寄生する学者やコメンテーター、芸能人。このドキュメンタリー映画は、彼らの自画像である。たまには、自らの顔をじっくり眺めてみるがよい。
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以下は私がアマゾンのレビューに投稿したものです。再録します。
「もし人に幸福な生き方があるとしたら、中村好文さんのような生き方だろうと、ずっと思ってきました。
建築雑誌をパラパラとめくりながら、ふむ、と思って手が止まると、そこには必ずと言っていいほど中村さんの設計した住宅がありました。
文は人なりと言いますが、その人の書く文章のエッセンスがこれほど見事に建築にも表現されている例はめったにありません。
建築に限らず、食の分野でも、ことばと実物の乖離がはなはだしい時代に、中村さんの設計した住宅や美術館に出会うと、どこか安心するのですね。
そういうわけで、著者の本はすべて読ませてもらっています。
この本も偶然、年末に本屋さんで手に入れ、装丁やカバーの手触りを楽しみながら読んでいます。
読みながらいつの間にかほのぼのとしている自分を発見します。
一日に一編か二編を過去の記憶をたどるようにして読んでいます。
この本の平明さ、やさしさがどこから来るのか。そんなことを分析するのは野暮というものです。
とにかくこの素敵な小さな本は、旅のお供にどうぞ!とすすめたくなります。」
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<生>の始まりに向かって。
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    今回は、一週間ほど前に読み終えた本を紹介したいと思います。タイトルは、『石を聴く――イサム・ノグチの芸術と生涯』 ヘイデン・ヘレーラ著(みすず書房)です。今年の2月に出版されました。

     

     

     

     

     

     

    今からちょうど一年前に書いた以下の記事とタイトルが似ていますね。よろしければ、お読み下さい。

     

     

     『石に訊け − イサム・ノグチと宮崎駿』

    http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=340

     

     

     

    古寺巡礼と建築行脚の旅を始めたのは今から16年前でした。そして最初に選んだのが高松市牟礼にある『イサム・ノグチ庭園美術館』でした。

     

     

     

    イサム・ノグチになぜ引きつけられたのか、正直なところ分かりません。彼の作品を言葉で意識的に分析すれば何か重要なものが棄損される気がするのです。だから、作品そのものを語るのではなく、宮崎駿と対比させて感想を述べました。

     

     

    イサム・ノグチの作品に対していると、私の内部で、無意識的な記憶の掘り起こしが進行しているのが分かります。それは私固有の記憶とは違った何かです。私たちの内部に私たちの意識よりも多くのことを知っているものがひそんでいて、それが語りかけてくるといった感じなのです。

     

     

     

    それは、自分が知っていることなどたかが知れていると気づかせる何かです。つまり、人間の内部には、意識では到達できない領域が広がっていることを教えてくれるのです。私は以前、人間とは記憶のことだと書きました。その記憶とは個体としての身体の中に閉じ込められている記憶のことでした。

     

     

     

    しかし、自分では体験したことのないことを突然思い出したり、人の死や偶然の出来事によって、異質な記憶の層に引っかかったりしたことはないでしょうか。なんだかオカルトっぽくなりそうですが、人間が霊的な存在であることを思えば、不思議でも何でもありません。鈴木大拙は「霊性」と言っています。

     

     

     

    私はイサム・ノグチの作品を見ている時や、古寺巡礼を続けている時に、こういった経験をすることがあります。すぐれた建築や絵画、彫刻に興味を持ったのは、この経験を深め、その意味を探りたいと思ったからです。そのことをブログで書いたことがあります。

     

     

     

    その中の一つ、『私の古寺巡礼13−奈良・慈光院』から引用します。

     

     

    古寺巡礼を続けていると、自分の体温というか体質というか、趣向にとても近い建築に出会います。琴線が共鳴するのです。それは初めて出会ったのに、ずっと前から知っていたような、そんな感じです。私の美意識のルーツはいったいどこに由来しているのか、それはまだいろんなところに存在しているのか、ひょっとしてこれからもそういったものに出会えるのか、と考えると、生きることには意味がある、人生は楽しいと思えてくるのです。」

     

     

     

    そして私は気づきました。私たちの内部にあると思っていた記憶も魂も、実は私たちの外部にあるのではないかと。人間は、一人一人が孤立して独自の魂を持って生きているのではなく、大きな魂を一人一人の魂が形作っている存在だと。それが分かると、自分がなぜ生きてきたのか分かるような気がします。自分がなぜ死んでいくのかも分かりそうです。

     

     

     

    ことによると、人間は本来自分を意識せずに生きて行ける存在なのかもしれません。それに気づけば、いたるところに<生>の起源を見出すことができます。なぜなら、私たちは意識を与えられる前の、<生>の始まりに向かって旅をしているからです。

     

     

     

    興味がありましたら、鈴木大拙に言及している以下の記事をお読み下さい。

     

    「『普遍的な感情』とは、どのようなものか。」

    http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=87

     

    | 文学・哲学・思想 | 22:35 | comments(0) | - |
    日本青年会議所(JC)って、どんなところ?
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      前川氏の授業について文科省に何度も「照会」し、圧力を加えたのは赤池誠章参院議員と池田佳隆衆院議員の2人だと判明しました。赤池氏は自民党の文部科学部会長、池田氏は同代理という関係です。ポスト欲しさに安倍首相に媚びを売るつもりだったのでしょうね。

       

       

      左が池田佳隆氏、右が赤池誠章氏。

       

       

       

       

      いうまでもなく、中央省庁にとって、予算や政策の決定に関わる自民党の部会の存在は極めて大きい。その二人が文科省に対して、恫喝まがいの問い合わせをすれば、官僚は「圧力」と受け止めます。その習性を知っていればこそ、この二人は文科省に経緯を何度も照会し、官僚が自らするはずのないことをあえてやるように仕向けたのです。


       

      ところが、安倍政権が財務省に公文書の改竄を指示したことが問題になっている時に、この二人は全く同じことを文科省にして、森友事件の本質を可視化して見せたのです。さすがに頭の弱いネトウヨ議員だけのことはあります。忖度が裏目に出ることなど考えもしなかったのでしょうね。今回のブログは、どうすればこのような妄想に近い「万能感」を持てるのかという問いをめぐって書きます。
       

       

       

       

      二人とも安倍首相が積極的に閣僚として起用してきた「日本会議国会議員懇談会」の一員です。しかも、池田佳隆衆院議員は元日本青年会議所(JC)の会頭をしていたそうです。日本青年会議所(JC)と言えば、あのネトウヨを大量生産している組織ですが、私には忘れられない思い出があります。

       

       

       

      あれは確か2012年のことでした。公式サイトで日本国憲法JC草案を読んだ時のことです。読みながら、一体誰がこんな草案を書いたのだろうかと唖然とし、自分でも顔が赤くなっているのが分かりました。憲法の何たるかを全く理解していないことがわかる代物だったのです。

       

       

       

      ただ分かったことがあります。以前も書きましたが、公明党であれ、自衛隊であれ、電通のような一流のブラック企業であれ、その屋台骨を支えているのは、政治に対して深く思いを致したことのない、人の良い、しかも地域や家族を思いやる優しさを持っている末端の若者だということです。

       

       

       

      こういった組織で働く若者は、一生懸命に仕事を覚え、上司にほめられることを生きがいにするようになります。しかし、上へ行けばいくほど、組織を束ねるのに必要とされる「イデオロギー」を学ばされ、家族や友人のためではなく組織のために働くようになります。そんな日々に疑問を感じても、それにフタをするために考えることを止め、組織に対して批判的になったことを恥じるのです。こうなればもはや宗教です。その結果、日々の生活や家族よりも組織の発展を優先するようになるのです。

       

           

       

       

      より上位の、力を持つ大きなものに対して忠誠を誓わされ、やがて政権与党である自民党や公明党の集票マシーンとして動き始めます。そのあまりの理不尽さ、露骨さに嫌気が差した人間が脱退・退会しようとすると、引き留めるために「国家に対する忠誠」を持ち出し、恫喝します。

       

       

       

      かくして、人格が空洞化した、主に20代から30代の若者が誕生します。彼らはもともと人情家ですから、グループ内部では思いやりにあふれた行動をとります。そして先輩を尊敬しています。「勘ぐれ!」と言われれば、相手の意図を忖度して行動します。つまり、上層部の意図をすばやく「勘ぐれ」る人間が出世する構造になっているのです。

       

       

       

      以下は、その日本青年会議所(JC)を退会した人の投稿です。今年の3月6日に投稿され、もと記事は削除されているそうです。

       

       

      『日本青年会議所を退会した』

       

       

      9年ほど前、地方都市の小さな町工場を経営していた父が亡くなり、家族と古株社員に説得され、地元に戻って27歳で後を継いだ。元々継ぐ気はなく、大学以降ずっと都内で過ごしていたので、地元に馴染めず苦労した。仲が良かった友達もほとんど地元を離れていたし、社員や親戚とは話が合わず、友達を作ろうとスポーツサークルに入ってみたら元ヤン達が幅を利かせていてすぐ辞めた。おれは孤独だった。

       

       

      そこに青年会議所の誘いが来た。何をやっている団体なのか全く知らなかったが、地元の祭りや花火大会を盛り上げたり、まちづくりのボランティア活動やビジネスセミナーなどを通じて経営者として勉強して、地元の中小企業の経営者同士のネットワークを構築するのだという。活動内容にはピンと来なかったが「経営者には経営者同士しか分からない悩みと孤独がある。それを共有できる仲間ができる」という言葉が突き刺さった。入会金1万円と、1年分12万円の年会費を振り込み入会した。

       

       

      1年目。子供達のサッカー大会の運営に携わった。市民と一緒にゴミ拾いをした。花火大会のポスターやチラシを検討する部会に入り、自分の意見が採用されると誇らしい気分になった。居酒屋やバーに行く仲間ができ、バーベキューをしたり、地元でようやくリア充的な日々が送れて嬉しかった。

       

       

      2年目。市長や国会議員や100人以上のOBが集まる新春懇談会を運営するスタッフになった。はじめての出向も経験した。それまでは市単位の活動だったが、ブロック (都道府県レベルの組織) 内各地の青年会議所と一緒に委員会を作って活動するのだ。遠方まで出かけ、はじめて行く町で真面目に会議をし、そのあと楽しく飲んで仲良くなった。自分自身が拡張されるようで、嬉しくなった。

       

       

      3年目。4年目。だんだん色んな役職を任された。後輩ができ、教える立場になった。隣県で開催されるフォーラム、京都での会議、横浜でのカンファレンスなどに参加した。たまに動員に協力させられる憲法や領土問題などのセミナーや、いろんな署名活動のお願いなども、積極的とは言えなかったが協力した。

       

       

      5年目。国内で国際会議が開催されることとなり、その運営に携わる委員になった。全国あちこちで開催される会議に毎回参加した。横断幕バナーを持つためだけにヨーロッパにも行った。会社は何とか軌道に乗っていたし、自分の勉強にもなると説得されて役目を承諾した。大変だったが、充実の日々だと自分に言い聞かせた。

       

       

      6年目。ブロックの役員をやった。ブロック内の新入会員に、青年会議所のビジョン・ミッション・バリューを叩き込む役割だった。トップであるブロック会長の教えは厳しく、ブロック内の理事長達が集まる会議に提出した議案は「背景・目的と手法が乖離している」と叩かれてボロクソに言われたが、意地を張って徹夜で修正し、通した。理事長達に「成長したな」と言われて涙を流した。

       

       

      7年目。地方の青年会議所を束ねる上位組織、日本青年会議所のスタッフになった。トップに立つ会頭の言葉は絶対で、役員と一緒のエレベーターに乗ることは許されず、奴隷のような扱いをされながらホテルに缶詰になって上からの指示を徹夜でこなした。なにしろ、国民的な憲法議論を喚起するという大切な事業を遂行するのだ。何度も壁にぶつかったが、委員長や常任理事のアドバイスもあって乗り越えた。素晴らしい先輩達に恵まれたと感じ、あの人達のようになりたいと思った。

       

       

      8年目を迎える直前の年末、母が倒れた。会社はいつのまにか赤字に転落していた。売り上げが落ち、接待交際費と交通宿泊費が激増していた。来年の理事長に相談した。その人を支える女房役となる専務理事を引き受けていたからだ。役目を引き受けるのは無理だ、JCは休んで仕事に専念しないと会社が危ないと話した。次年度理事長は言った。逆境が人を強くする、それはその人に与えられた試練だ、人は乗り越えられない試練を与えられることはない、だから仕事もJCも死に物狂いで頑張れ。そう言われた。

       

       

      こいつは何を言ってるんだ。

      バカなのか?

      おれが今までどれほどJCのために頑張ってきたと思っている。

      少しくらい休むことも許されないのか? こんな状況なのに?

      そしてすうっと冷静になり目が覚めた。

       

       

      おれは友達が欲しかった。それと、しぶしぶ継いだ会社だったが、なんとか頑張ろうと思って、その役に立つと思って勉強しようと思った。そんな中、せっかく誘われたことだし、青年会議所がどんなものか分からないけどやれるだけやってみようと思って、やってくる機会にチャレンジしていた。そしたらいつの間にか、おれは青年会議所が命じたままに憲法改正や領土領海問題を他人に説き、偉い偉い役員様が海外でスピーチする時のガラガラの席を埋めるためだけに自腹でニューヨークやオランダに行く人間になっていた。そして家族と会社が不幸になっていた。

       

       

      それでおれは、退会届けを出した。引き止めは強烈だった。携帯が鳴り続け、会社に何度も色んな人が来た。時に優しく諭され、時に怒鳴られ、時に泣かれた。父の友達だったというOBまでやってきた。地元の集まりに顔を出しにくくなるぞと脅されもした。どんどん青年会議所が怖くなり、嫌いになり、おれは意思を貫き退会した。

       

       

      青年会議所には、入会前のおれのような人間が陥りやすい罠が待っている。孤独を埋めてくれる仲間と、彼らと一緒にわざわざ作られた苦労を乗り越える経験から得られる高揚感だ。ほどほどで満足できるうちはまだ良いが、のめり込むとだんだん、周りが見えなくなる。入会前に母が「JCはやめておきなさい」と言ったのを聞いておけば良かった。ごめん。病院のベッドに横たわる母に謝ると、彼女はテレビから目を離さずにこう言った。

       

       

      「それよりあのイチゴおいしそう。食べたいから買ってきて」

       買えたのは韓国産でなく国内産のイチゴだったが、母はもりもり食べて元気になり、きのう退院した。

       

      http://archive.is/PH1fb#selection-291.1-1299.3

       

      | 文学・哲学・思想 | 13:48 | comments(0) | - |
      「汝、衆をたのんで、悪を為すなかれ」
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        若かったころ、繰り返し読み、いつのまにか暗唱してしまった文章があります。一方で、中身のない文章は何度読んでも頭に入ってきませんでした。私は受験に役立つというだけでどんな文章でも次々に暗記できてしまうような優秀な頭脳をもっていなかったのです。

         

         

         

        以下に挙げたのは、バートランド・ラッセルの『自伝的回想』の中の一文です。最初に出てくる she は彼の祖母を指しています。今読み返してみて、この文章が私の人格におよぼした影響にあらためて気づき、驚いています。こういう祖母をもったラッセルは何と幸せだったのだろうと思います。

         

         

         

         

        But in retrospect, as I have grown older, I have realized more and more the importance she had in moulding my outlook on life. Her fearlessness, her public spirit, her contempt for convention, and her indifference to the opinion of the majority have always seemed good to me and have impressed themselves upon me as worthy of imitation. She gave me a Bible with her favourite texts written on the fly-leaf. Among these was “ Thou shalt not follow a multitude to do evil." Her emphasis upon this text led me in later life to be not afraid of belonging to small minorities.

         

         

        ― しかしふりかえってみると、成長するにつれ、私の人生観を形作る上で祖母がいかに重要な存在であったか、しだいにわかるようになった。祖母の恐れを知らない勇気、公共心、因襲に対する軽蔑、多数派の意見に対する無関心はいつも私には善いことだと思われたし、模倣する価値のあることだと強く印象づけられた。祖母は、見返しの遊び紙に祖母のお気に入りの文句が書かれている聖書を私にくれた。その中に次の文句があった。


         「汝、衆をたのんで、悪を為すなかれ」


        祖母がこの聖句を強調してくれたことで、後になって、私は少数派に属することを恐れなくなった。―

         

         

         

        いまこの国では、あらゆる分野が劣化しています。政治について言えば、事実の共通了解すら成立しません。つまり議論の前提が崩壊しているのです。

         

         

         

        1980年代から90年代にかけて、あらゆるものが消費社会の等価交換にさらされました。その結果、すぐれた言説も歴史を捏造する言説も、等価な「商品」として言論市場にほうりだされました。

         

         

         

         

        一部の権力者が捏造した歴史の記憶(これを歴史修正主義といいます)にさらされればさらされるほど、ある種の人間たち(ネトウヨ)は国家に対して従順になります。歴史から切り離され、人格が空洞化した彼らは、その空洞を埋めるために国家主義的な言説とそれを大声で主張する集団を支持します。

         

         

         

        いわく、どの国もやっていることだ。そもそも戦争だったんだぜ。南京大虐殺も従軍慰安婦もなかった、でっち上げだ。なのに、なぜ自分たちだけが批判されなければならないのか、というわけです。こういった「衆をたのむ」言説は次第にエスカレートしていきます。

         

         

         

        やれ北朝鮮のミサイルの脅威だ、テロの危険性だとあおります。警察が法外のことをしようが(レイプ犯山口敬之の逮捕を直前でやめさせるなど)、自衛隊を米軍に差し出そうが、国民の安全のためには仕方がないのだ。この緊急時に人権どころの話じゃないだろう。何が憲法違反だ、そもそもアメリカに押しつけられた憲法じゃないか、歴史を知らないのか、もっと勉強しろ、というわけです。

         

         

         

        彼らは、過去の日本の行い、つまり侵略戦争を正当化したいだけです。現に起こった歴史的事実を突きつけられると、自分たちが責められているように感じ、逆ギレします。加害者なのに被害者のようにふるまいます。日本軍はこんな良いこともしたんだ、知ってるのか、と言って、まるでコンビニの期間限定の「人気商品」をつまみ食いするように「歴史の真実」をとりあげます。とにもかくにも、オレたちの国が悪いことをするわけがない、と思いたいだけです。まるでだだをこねている子供です。

         

         

         

        バートランド・ラッセルの祖母のような人間がこの国にはいなくなりました。その正反対の「だだをこねるだけの子供」が最高権力者の地位に「恋々」としているのですから、無理もありませんね。

         

        | 文学・哲学・思想 | 13:21 | comments(0) | - |
        ノリのわるい人間になる。
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          私はノリの悪い人間です。いや、わざと周囲のノリにあわせないように心がけています。居酒屋でも、ちょっとした集まりでも、数人が冗談を言い合って盛り上がっているのを見ると、いい大人がバカじゃなかろうかと思います。

           

           

          しかもそのトークのネタがテレビの二番煎じ、三番煎じと来ているのですから、テンションは下がりっぱなしです。今やテレビに出てくる芸能人のトークが、私たちの会話のテンポや間を決定しているのです。

           

           

           

          かくいう私も、3・11以前は、けっこうバカなギャグも飛ばし、周囲にあわせたりもしていました。しかし、そのことがこの国を破滅の淵に追いやった原因だと気づき、私はノリの悪い人間になる決心をしたのです。まあ、最後までお読みください。

           

           

           

          たとえば昔の同級生と居酒屋でもりあがっているとします。みんなが手をたたいて笑い転げているときに、いっしょに笑いながら「お前、パクるのうまいね。そのネタ、このまえテレビで芸人の○○がやってたけど、他人のネタで笑わせて面白いのかよ?」「久しぶりにこうやって集まったんだからさ、どんな時に死にたくなるか、何に絶望しているか、それを話してみようぜ」などと言いたくなるのです。楽しい飲み会が通夜のようになるかもしれません。

           

           

           

          私は空気を読む気もないし、周囲のノリにあわせることもしません。どうしてわざわざ集団の心理を逆なでするようなことをするのかと思っている人もいるでしょうね。理由はいろいろとあるのですが、ひとつには、もともとなんにでもツッコミを入れたがる性分だったことがあります。 

           

           

           

          本当をいえば、イタリアの片田舎の人々のように一日の終わりに、美味しい料理とワインを飲みながら、ダンスしたり歌ったりしながら、楽しく時を過ごしたいのです。いっそのこと、イタリアに移住しようかな?しかし、2018年、日本人をしている私にはそれができません。なぜか。

           

           

           

          3・11の時、津波が町を襲い、家々を破壊し、人々の命を奪うのを目の当りにしました。それに続いて原発が爆発した映像をテレビで見ながら、私は自分の中で何かが崩れていくのを感じていました。感情が揺さぶられ、自分の足元が崩落していくような感じと言えばいいのでしょうか。多くの国民も同じ思いだったに違いありません。

           

           

           

          しかし、それに続く数年、私が目にしたものは、あれほど感情を揺さぶられる経験をしたにもかかわらず、まるで何ごともなかったかのごとく原発を再稼働し、海外に輸出さえする一大勢力でした。つまり、安倍政権と財界トップ、それをささえる匿名のシステムとしての官僚機構です。

           

           

           

          しかも彼らはほとんどが高学歴エリートなのです。学歴があろうがなかろうが、富裕層であろうがなかろうが、アルマーニの制服を着ていようがいまいが、だれもがこの国で生きていく権利があることを、彼らは理解していません。今やこの国の教育は個人の利益を最大化するシステムとしてだけ機能するようになっています。

           

           

           

          それは、日本国民の間に感情の劣化と死滅をもたらしました。だから匿名のシステムに過剰に順応すると感情が死んでしまい、まともな判断が下せなくなるのだと指摘してきたのです。

           

           

           

          その結果日本社会で今何が起こっているのか。その例を一つだけあげて終わりにします。まずNHKのこの世論調査をご覧ください。

           

           

           

           

          なぜ平和を目指して南北融和を進めることが評価されないのでしょうか。そもそも、NHKは何のためにこの質問をしたのか。これはメディアや御用学者、外務省が安倍政権の意向を忖度して南北の対立を煽り続けた成果です。今や国民はマインドコントロールの実験動物=ブタになったのです。

           

           

           

          アメリカと北朝鮮が戦争するのを期待するように誘導された国民心理は余りにも恐ろしい。そうではありませんか。今の時代をうっすらおおっている、戦争を待望する気分に迎合などできるわけがありません。これが、私がノリのわるい人間になることを決意した理由なのです。

           

          | 文学・哲学・思想 | 15:52 | comments(0) | - |
          自分の時間と空間を生きる。
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            小学生の頃、自然発生的にできた地域の雑居集団にまじって、よくかくれんぼをしたものです。上野丘高校のテニスコートの上に神社があります。そこを起点に半径二百メートルくらいが隠れる場所でした。私はかくれんぼが得意でした。なぜか。忍者になることを夢見て修行に励んでいたからです。

             

             

             

            今時そんなことを考えている小学生がいるでしょうか。将来はJリーガーかプロ野球選手、はたまたオリンピック選手、医者、弁護士などというのは、夢ではありません。職業です。

             

             

             

            消費社会・大衆教育社会の登場が、夢を職業とリンクさせたのです。そしてそのことに疑問を抱かないどころか、親がこどもと同じ「夢」を見て、スポーツ選手にしたり、4人の子供全員を東大医学部に入れたりする母親も登場しました。

             

             

             

            仮にいま私が小学生でも、親と同じ夢を見るのはご免こうむりたい。これといった理由があるわけではありませんが、私は他人と同じ夢を見ることが生理的に苦手なのです。ましてや、国家と同じ夢を見て他国を攻撃するくらいなら亡命することを選ぶでしょう。

             

             

             

            この点では、私の両親は申し分のない親でした。周到な計画に沿って、子供に職業とリンクした夢を見させるのではなく、できの悪い息子を偶然性と自然のふところに委ねてくれたのです。昔はそんな親が多かった気がします。おかげで多少の回り道はしましたが、社会の支配的な価値観を鵜呑みにするだけで自分の世界を持たない退屈な大人にならずにすみました。

             

             

             

            かくれんぼがなぜ得意だったのかという話に戻ります。当時の私は、ある時は地中に生息する昆虫や爬虫類と遊び、ある時は目もくらむような高い木に登りカラスやフクロウと友達になっていました。そのことで、アリの視点と鳥の視点を同時に手に入れたのです。

             

             

             

            そうやって身につけた複眼的・鳥瞰的視点が、かくれんぼをするときに役立ちました。どこに隠れれば「鬼」の視界に入らないか本能的に分かるようになったのです。隠れ家を作ったり、魚を取ったり、自然の恵みである様々な食べ物を採集するのも得意でした。もっとも、わけのわからないものを食べて、しょっちゅう下痢をしていましたが。

             

             

             

            何かのきっかけで少年時代の記憶が鮮やかによみがえってくることがあります。前にも書きましたが、記憶や時間は直線的なベクトルを持っているわけではなく、枯れ葉が積み重なるように身体の中に積み重なっています。それを私は記憶と時間のミルフィーユと名付けています。考古学的想像力などと大げさに言うつもりはありません。昔の人なら自然に持っていたものです。

             

             

             

            ある場所にたたずんでいると、そこを流れていた時間を思い出すことがあります。時間を思い出すというのは変な表現ですが、大地の匂いや季節の足音や空気感が、無意識の底に沈殿している記憶の断片を撹拌し、意識の水面に浮上させます。

             

             

             

            その時、その場所に生きていた人々の記憶と時間が、私のそれと混然一体となり、そこにもう一つの豊饒な現実があったことに気づきます。そういった記憶と時間に包まれた繭の内部のような場所こそ、人間の魂と感情が生成する場所なのではないかと思います。

             

             

             

            今にして思えば、そういった感覚が私という人間の原型を形作ったのだと思います。自分固有の時間と空間を作ることなしに、自分の<生>を生きることはできないと確信させたのです。

             

             

             

            なぜこんなことを書くかというと、大人になり世間の常識や決まり、つまり匿名のシステムに呑み込まれそうになりながらも、それに拮抗する世界を持つためには、自分の時間と空間(サンクチュアリ)が必須だと考えているからです

             

             

             

            つまり、私にとっては内なるサンクチュアリこそが現実であり、多くの人が「現実」だと考えているものは、匿名のシステム=仮想空間でしかありません。利害や思惑が入り乱れ、人間の精神を堕落させ、ついには死にいたらせる力を持っている一方で、それなくしては社会が成り立たないからこそ「現実」として存在しているのです。私はそれをないがしろにするつもりはありません。なぜなら、まさにその「現実」が、私の<生>に意味を生じさせているからです。

             

             

             

            さて、私が身を置く塾の現場を見てみましょう。塾は子供たちを匿名のシステムに過剰適応させることで利潤を上げるもう一つの匿名のシステムです。匿名のシステムも多層構造をしています。それゆえ、自作自演のなりすまし塾長やネトウヨ塾長を始めとして、経営コンサルタントを名乗る塾長も後を絶ちません。

             

             

             

            私たちの社会は、子供から子供時代を奪っています。格差社会の現実を目の当たりにして、親御さんは不安になり、ブレーキを踏むどころかアクセル全開で子供を追い詰めます。塾も学校も親もこのことについて自覚的でなければなりません。なぜなら、子供の将来を思えばこその叱咤激励は、ともすると子供の魂や感情を抑圧する「狂気」に転化しがちだからです。

             

             

             

            最後に一つだけ覚えておいてほしいことがあります。今ある「現実」は数年後には「現実」ではなくなっている可能性が高いということです。私は、なりすましや匿名を拒否し、目の前にいるひとりひとりの人間と純粋に関われる部分を少しでも広げていきたいと考えています。

             

             

             

            抽象的で小難しい文章をここまで読んでいただき、ありがとうございました。何かのヒントになればうれしく思います。次回は匿名のシステムに取り込まれることなく、真の知性を身につけるためのノートの作り方について話します。「東大生の必ず美しいノート」などとは比較にならない、あなただけのノートの作り方です。ご期待下さい。

             

             

            尚、今回のテーマと関連した過去の記事を挙げておきます。もし暇がありましたら、お読み下さい。

             

            『こどもの魂はどこで育つのか』

            http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=174

             

            | 文学・哲学・思想 | 22:04 | comments(0) | - |
            「現実」に殺されないために。
            0

              91歳の義母が脳梗塞で倒れ、入院して1年2カ月になります。今は佐伯の介護施設にいます。身体も動かず、しゃべることもできない母にとって、「現実」との通路はわずかに開いている左目だけです。私と妻が声をかけると、ほほ笑み、目に光がともります。その小さな「窓」を通して、かろうじて外界とつながっている状態です。

               

               

               

              95歳になり認知症の兆候があった義父も家で転び、右大腿骨を骨折。手術後2カ月かけてリハビリに励みました。やっと歩けるようになったと思う間もなく、再び介護施設で転び、今度は左大腿骨を骨折しました。2度の手術を経て、車いすの生活になりましたが、認知症の症状が進み、夜中に大声を出し、介護施設では手の施しようがないということで、今は大分市の下郡にある精神科の病院に入院しています。

               

               

               

              昨日は、佐伯へ墓参りに行き、義母を訪ねた後、義父を見舞いました。面会の人は首からそれと分かるカードを下げています。病棟へのドアには鍵がかけられ、入退出時には呼び出しのベルで看護師さんに連絡し、鍵を開けてもらいます。廊下で数人の患者さんとすれ違い、挨拶を交わします。見たところ普通の人と何ら変わりはありません。

               

               

               

              「お父さん、僕です、わかりますか?」と言うと、「ああ・・おおっ」と返事が返ってきます。妻が病室で義父の手をさすり、話しかけている間、私は部屋の外にあるラウンジのソファに座って本を読んでいました。数人のお年寄りがテレビで大相撲を見ていました。30分ほど経ったでしょうか。突然、20代と思われる若い女性の患者さんが私の横に来て座りました。

               

               

               

              「何を読んでるんですか?」

              と尋ねるので、本の題名とカバーを見せました。それをじっと眺めた後、

              「なんだか面白そうですね」と言いました。

              「よかったらどんな内容か話しましょうか」

              「ええ、ぜひ話して下さい。」

              「この本を書いた人は躁鬱病という遺伝的な体質を持った人です。鬱の時には死ぬことばかり考えるそうです。中身をひとことで言うと、なぜ僕たちは自分の考えや気持ちを他人に伝えようとするのか、ということが書かれています。」

               

               

              彼女は私にピタッとくっついてきました。私は続けました。

               

              「たとえば現実に順応できなければ生きられないと思い込んでいる人がいるとしますね。この本を書いた人は、それはウソだ、現実は一つだと思い込まされているだけだと言います。現実はびくともしないコンクリートの建物のようなものではなくて、人間が集団で生きていくために作り上げたシステムに過ぎないと言っています。僕もそう考えてきました。僕の話がわかりますか?」

               

               

              彼女はうなずきました。私の言葉を理解しているのが分かります。その受容の深さ、切実さは、私が経験したことのないものでした。これ以上続けるべきかどうか悩んでいたとき、妻が病室から出てきて私を呼びました。

               

               

              彼女は状況を瞬時に理解し、「また来て下さい」と言いました。

               

               

              病棟の長い廊下を歩きながら妻は言いました。

               

              「あの子、私たちが初めてこの病院に来た時、受付のところで待っていた子よね。」

              「よく気がついたね。ご主人か恋人かわからないけど、若い男性に付き添われていたのを覚えているよ。」

              「どんな事情があるにせよ、あの若さでここに入院しているなんて、可哀そうだわ。あなたと何か話してたの?」

              「僕が読んでいた本に興味があったみたいで、内容を知りたいというので、ちょっと説明していた。」

              「もっと話してあげればよかったのに。」

              「彼女は人と話すことに飢えているような気がする。でも部外者が患者さんとどこまで話していいものか・・・。それに僕の話が彼女の心を乱すこともあるかもしれない。無責任なことはできないよ。」

               

               

               

              私が彼女に伝えたかったのは、ひとことで言えば、「現実」とは匿名のシステムが作りだした仮想空間だということです。「現実が仮想空間だって?そんなバカな!」と考える人は、これ以上読んでも不愉快になるだけでしょうから、私に「変人」のレッテルを張ってどうぞお引き取り下さい。

               

               

               

              私たちが「現実」と呼んでいる世界の実体は匿名の仮想空間に過ぎないのに、いや、そうだからこそ、私たちの無意識にまで侵入し、世界を単一化・一元化する力を持つのです。このことを認識していないと、匿名の力によって社会から抹殺されるかもしれません。大げさではなく、そういった事例は枚挙にいとまがありません。

               

               

               

              具体的に話しましょう。ブログでも取り上げた電通の事件です。高橋まつりさんは東大を卒業後、2015年4月に電通に入社します。しかし、その年の12月25日、電通女子寮の4階から投身自殺します。24歳でした。東大から電通と言えば誰もがうらやむエリートコースです。

               

               

              私がこの事件に注目したのは、彼女こそ電通という会社が作り上げた匿名のシステムによって殺された犠牲者だと考えるからです。母子家庭に育ち、それをハンデにすることなく懸命に努力して東大に合格します。きっと親子で抱き合って喜んだことでしょう。

               

               

              東大時代には『週刊朝日』でアルバイトをしていました。インターネット番組のアシスタントやリポーターなどを務めていたそうです。週刊朝日の関係者によると、「相手が大物政治家だろうが、有名人だろうが、物おじしない。機転が利いて、根性もある。あの子を精神的に追い込むことのほうがよっぽど難しい」と彼女の印象を述べています。そのまつりさんを自殺にまで追い込んだのは何だったのでしょうか。

               

               

               

              まつりさんは、労基署より10月半ばからの1ヶ月間の残業時間が105時間と認定されていますが、自殺する直前の残業時間は、労働組合との取り決め上限である「70時間」のぎりぎりで記載されていました。

               

               

              しかし、遺族側弁護士が、自動的に記録される入退館ゲートのデータを基に集計した残業は、月に130時間を超えることがあったとのことです。しかも、連続53時間勤務を疑わせる入退館記録も残っています。弁護士は「残業が70時間を超えると、正確に申告がなされなくなっていた。指導があったとみられる」と指摘しています。

               

               

               

              母親の幸美さんによると、残業に加えて自宅で徹夜の作業をしていたとのことです。まつりさんが、2015年10月に本採用となった後は、土日出勤、朝5時帰宅という日もあったそうです。亡くなった12月には部署全員に対して、残業の上限を撤廃する36協定の特別条項が出され、深夜労働が続き、忘年会の準備のためにも土日や深夜に残業していたといいます。

               

               

               

              そして自殺する日の朝、母親にメールを送ります。そこには次のように書かれていました。「大好きで大切なお母さん。さようなら。ありがとう。人生も仕事もすべてがつらいです。お母さん、自分を責めないでね。最高のお母さんだから。」

               

               

               

              彼女を自殺に追いやった犯人は特定の人物ではありません。電通が作り上げた「現実」です。それこそが匿名のシステムなのです。電通の社長は裁判で謝罪し、50万円の罰金を支払っただけです。

               

               

               

              匿名のシステムは、私たちが集団で生き延びるために、長い時間をかけて作りだしたものです。しかし、その過程で、一人一人の固有の世界を形作ってきた記憶はそぎ落とされていきます。そして集団にとってだけ意味のある記憶(歴史)が作られていくのです。歴史は捏造されるということです。会社の場合それは社訓なり社是と呼ばれます。

               

               

               

              そして、本来なら自分のために使うことができる時間も、市場社会の絶対時間に取って代わられます。つまり、個人が生き延びるのに必要な時間や空間がどんどん狭められていき、集団にとって必要なものだけが残るということです。

               

               

               

              高橋まつりさんは、自分の時間も、生きる空間も奪われ、「現実という仮想空間」の中に閉じ込められて生きる場を失ったのです。私が精神科の病院で出会った女性も「現実」によって精神のバランスを崩していたのかもしれません。

               

               

               

              長くなりました。次回からはどうすれば匿名のシステムに呑み込まれずに生きていけるのかを、具体的に話していきたいと思います。今回も最後まで読んで下さった方にお礼申し上げます。いつもありがとうございます。

               

              | 文学・哲学・思想 | 22:46 | comments(0) | - |
              匿名化したシステムを生き延びるために。
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                2015年の6月から書き始めたブログですが、振り返ってみると、社会に対する生理的な違和感の表明だったと思います。私には社会変革の理論を構築できる頭脳がないので、生理的な違和感をもとに書くしかなかったのです。政治的な話題が多くなりましたが、それは「自分のやりたいことを見つけて、夢と希望に向かって生きよう」というような軽薄で幼稚な「政治的」キャッチフレーズが社会を覆っている以上、避けられないものでした。

                 

                 

                 

                私はチェ・ゲバラのような人間を愛していますが、革命家ではありません。歴史をひもとくまでもなく、「すべての革命家は最後には弾圧者か異端者になり下がる。」というアルベール・カミュの言葉と洞察力を信じているのです。「恐怖を土台にした尊敬ほど卑劣なものはない。」というのもカミュの言葉です。

                 

                 

                 

                本題に入りましょう。私たちの社会は、私たちの集合的な無意識が作りだしたものです。したがって、変革を求めるうねりが津波のように膨れ上がらない限り、個人の力で簡単にひっくり返したり、否定したりすることはできません。では何ができるのか?

                 

                 

                 

                まず疑問を持ち、違和感を表明すること。この世界のどこをおかしいと感じているのか自分に問うこと。これまで生きて来て社会に対して根源的な疑問を感じたことのない人、親や学校教育によって疑問を奪い取られているのを「現実は厳しいのさ」の一言でごまかして来た人、そういう人は一部上場企業へと急ぎましょう。誰かに指示されて自分のものではない誰かの人生を生きていきましょう。そうすれば原発なんか気にしなくても生きていけます。しかし、それでは生き延びられない、生きていることにならない、というのが私の言いたいことです。

                 

                 

                 

                具体例を見てみましょう。もしあなたが大学側のミスと保身のために1年を棒に振らざるを得なかったとしたら、どうしますか?実際そういう目に会うまでは、なにも考えられないというのであれば、次の犠牲者はあなたになるかもしれないのです。

                 

                 

                 

                毎日新聞2018年1月7日の記事より。

                 

                 

                 

                「大阪大は6日、昨年2月に実施した一般入試(前期日程)の物理で、出題と採点にミスがあったと発表した。合否判定をやり直した結果、不合格とした30人を追加合格とした。また、本来は第1志望の学科で合格していたのに、第2志望の学科に入学していた学生も9人いた。大阪大は追加合格者の入学を認め、金銭的な補償を行う方針。昨年6月以降、外部から複数の指摘を受けていたが、3回目で初めてミスを認めた。

                 

                 

                大阪大によると、昨年2月25日に行われ、特別入試も含めた3850人が受験した物理の試験で、音の伝わり方に関する問題を出題。ミスが見つかった最初の設問で、本来は三つの正答があるにもかかわらず、正解を一つに限定していた。さらに次の設問は、この解答を前提に作成されていたため、別の二つの解答では正解を求められなくなっていた。

                 

                 

                外部からの指摘を大学側が初めて認識したのは、昨年8月9日。予備校講師から「問題設定が不自然」とのメールが寄せられた。大学側は問題を作成した責任者と副責任者の理学部教授2人の検討を経て、この指摘に対し「ミスはない」と返信していた。昨年12月4日にも別の外部の人から、詳細な同様の指摘が寄せられたため、さらに4人の教員を加えて検討し、大学は初めてミスと認めた。

                 

                 

                この設問を巡り、高校教員らが参加して昨年6月10日に開催された入試問題検討会でも不備を指摘する意見が出たが、責任者の教授2人だけの判断で「正解は一つ」と説明していた。最初の指摘から半年経過したことについて、記者会見した大阪大の小林傳司(ただし)副学長は「正しい解答は一つだとの思い込みがあったようだ。組織的に対応できなかった」と陳謝した。 」

                https://mainichi.jp/articles/20180107/k00/00m/040/016000c

                 

                 

                 

                「正しい解答は一つだとの思い込みがあったようだ。組織的に対応できなかった」という副学長の言葉に注目して下さい。

                 

                 

                この言葉は、大阪大学がもはや大学ではないということを宣言したものです。なぜなら「正しい解答は一つだとの思い込み」を打ち破ることこそが学問の本質だからです。何度も出題ミスを指摘されながら、それを無視した責任者と副責任者の理学部教授2人は大学で教える資格はありません。内心では自分たちのミスに気づいていたのかもしれません。

                 

                 

                 

                しかし、入試からほぼ1年経って、3度目の指摘があって初めてミスを認めたことは「組織的に対応」すること、すなわち組織を挙げて何とかミスを認めずにやり過ごせないものか、と考えていたことを意味します。

                 

                 

                 

                 

                ここではっきりと気づかなければならないのは、私たちの社会は「思い込み」と「組織的に対応」することで成り立っている、いわば匿名化したシステムだということです。「大学側のミス」という言葉で、個人の責任は問われないことになっています。

                 

                 

                 

                そこでは、教師が提供する授業も、学生が受ける授業も「商品」とみなされ、それに見合った貨幣と等価交換されると教えられます。したがって、それが提供できなかったときには、それに見合った金銭的な補償をすればいいという発想になるのは当然です。匿名化したシステムには、人間にとって最も大切なものが欠けているのです。

                 

                 

                 

                「こんなバカなことがまかり通っていいはずがない。今すぐミスを認めて受験生に知らせるべきだ。若い人にとって人生の1年間がどれほど貴重なものか分かっているのか。」という意見は感情的だとして退けられます。当然、責任をとる人もいないまま問題は隠蔽されるのです。

                 

                 

                 

                匿名化したシステムに欠けている最も大切なものとは、「感情」であり「責任の所在」であり「使命」です。大阪大学にはこのすべてが欠けています。このことを自覚していなければ、私たちは生活ばかりでなく命を危険にさらすことになります。今の安倍政権を見れば一目瞭然です。次回はこの匿名化したシステムを生き延びる方法について書くつもりです。

                 

                 

                 

                よろしければ、以下の過去記事も御参照下さい。

                 

                「民主主義は大学の門前で立ちすくむ」

                http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=427

                 

                「早稲田大学のAO・推薦入試について」

                http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=136

                 

                | 文学・哲学・思想 | 23:00 | comments(0) | - |
                なくてはならないもの
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                  土曜日の午前、初冬の朝の白い光の中で本を読んでいると、背後で突然何かが家にぶつかる音がしました。鈍い音ですが、家を揺るがすような衝撃です。

                   

                   

                  妻がびっくりして駆け寄ってきました。私が背にして座っている大きなFIXのガラス窓の外を見て、悲鳴を上げました。ガラス窓は縦2、5メートル、幅80センチの大きさです。それが6枚連なりR状となって中庭に面しています。

                   

                   

                   

                  妻が悲鳴を上げた瞬間、私は何が起こったのか理解しました。体長20センチはあろうかと思われるヒヨドリがガラス窓に衝突し、テラスの上に落ちていました。窓には産毛がこびりついています。

                   

                   

                  また一つ命を奪ってしまったと思い、自責の念がこみ上げてきました。またというのは、一年に一度くらいの頻度で鳥がわが家の窓にぶつかるからです。たまに山鳩もいますが、ほとんどが猛スピードで飛んでくるヒヨドリです。窓に映った樹木や空の色のために、障害物があることに気づかないのです。

                   

                   

                  ぶつかった直後のヒヨドリ。くちばしを開け、息も絶え絶えの様子です。

                   

                   

                   

                  衝突したヒヨドリが腹を上にしてひっくり返っているときは、首の骨を折って即死状態です。ところが今回のヒヨドリは、かろうじて両足を踏ん張り、ふるえながら立っています。

                   

                   

                  「脳しんとうを起こしているだけで、助かるかもしれないよ。」と言って妻を安心させ、テラスに出てみました。ヒヨドリは人の気配や音を察知した瞬間に逃げる敏感な鳥です。そのヒヨドリが、くちばしを開け、じっとしています。

                   

                   

                   

                   

                  近づくと向きを変えました。さすがにすずめ科の鳥です。すずめに似ていますね。でも大きさが違います。すずめの3倍はあります。飛ぶスピードは断然速く、いつもつがいで行動しています。「ピー」と鋭い甲高い声で鳴きます。フルーツが大好物で、いつも家のジューンベリーやブルーベリーの実を食べにやってきます。

                   

                   

                   

                   

                  スマホで写真を撮ろうと近づきました。逃げません。くちばしをかすかに動かしています。それから小一時間ほどじっとしていました。部屋に戻り見守っていると、首を左右に動かし始めました。これは意識が戻ってきた証拠です。「これは助かるな」と言って妻を呼びました。その瞬間、多少ふらついているようでしたが、中庭の大きなケヤキの枝に飛び移り、裏山の方へ飛び去っていきました。

                   

                   

                   

                  その時読んでいた本は、時々ブログで紹介する『長田弘全詩集』です。その中に「なくてはならないもの」という一編があります。

                   

                   

                  「なくてはならないもの」

                   

                  なくてはならないものの話をしよう。

                  なくてはならないものなんてない。

                  いつもずっと、そう思ってきた。

                  所有できるものはいつか失われる。

                  なくてはならないものは、けっして

                  所有することのできないものだけなのだと。

                  日々の悦びをつくるのは、所有ではない。

                  草。水。土。雨。日の光。猫。

                  石。蛙。ユリ。空の青さ。道の遠く。

                  何一つ、わたしのものはない。

                  空気の澄みきった日の、午後の静けさ。

                  川面の輝き。葉の繁り。樹影。

                  夕方の雲。鳥の影。夕星の瞬き。

                  特別のものなんてない。大切にしたい

                  (ありふれた)ものがあるだけだ。

                  素晴らしいものは、誰のものでもないものだ。

                  真夜中を過ぎて、昨日の続きの本を読む。

                  「風と砂塵のほかは、何も残らない」

                  砂漠の歴史の書には、そう記されている。

                  「すべて人の子はただ死ぬためにのみ

                  この世に生まれる。

                  人はこちらの扉から入って、

                  あちらの扉から出てゆく。

                  人の呼吸の数は運命によって数えられている」

                  この世に在ることは、切ないのだ。

                  そうであればこそ、戦争を求めるものは、

                  なによりも日々の穏やかさを恐れる。

                  平和とは(平凡きわまりない)一日のことだ。

                  本を閉じて、目を瞑る。

                  おやすみなさい。すると、

                  暗闇が音のない音楽のようにやってくる。

                   

                  ※「  」内はフェルドウスィー『王書』より。

                   

                  | 文学・哲学・思想 | 16:52 | comments(0) | - |
                  大分県立美術館(OPAM)でイサム・ノグチ展を見る。
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                    11月17日、上高の同級生(3人とも伊方原発差し止め裁判の原告です)と大分県立美術館で開催されているイサム・ノグチ展に行ってきました。彼の作品は折に触れて様々な美術館で見てきましたが、北京ドローイングなど初めて見るものもあり、充実した時を過ごすことができました。

                     

                     

                     

                     

                    ついでに昔の記事も挙げておきます。よろしかったらお読みください。

                     

                    石に訊け イサム・ノグチと宮崎駿

                    http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=340

                     

                    劣化する日本の中で

                    http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=177

                     

                     

                    展覧会を見た後、3人で昼食を食べながら、私は以下のような話をしました。それはいかなる文化的な階層にも属さないイサム・ノグチの独創性、超越性についてです。

                     

                     

                    えっ、そんな話をしながらランチなんて、せっかくの食事がまずくなるのでは?と思う方もいるでしょうね。心配ご無用です。そんなことはありません。たぶん・・。でも私以外の二人はビールやハイボールを飲んでいましたから、私の話はしらふでは聞けなかったのかもしれません。

                     

                     

                     

                    話の中身は、簡単に言うとこういうことです。例えばヨーロッパにはワインにまつわる歴史があります。それは生活に根づいた長い時間が生み出した文化そのものです。日本人がワインの歴史を勉強し、試飲会場のテイスティングで味を識別し、生産地と収穫年を当てるべくどれだけがんばったところで限界があります。なぜならワインのうまさを識別することは純粋に味覚だけの問題ではないからです。

                     

                     

                     

                    今仮に味覚だけの問題だとしましょう。ワインの試飲会場で「テイスティング」する際にはソムリエたちは「テイスティングシート」と呼ばれる基準に沿ってワインを評価するそうです。ソムリエたちは試飲用のグラスとテイスティングシートと鉛筆を持って、ワイナリーの担当者のアドバイスを受けながら、ブースを順に移動しながら試飲していきます。

                     

                     

                     

                    そのときテイスティングシートに書かれる言葉は、隣接する数十種類のワインを「識別」するための言葉ではあっても、ワインの味そのものを表現する言葉ではないということです。仮に自由に表現できたとしても、それはある種の「芸風」の域を出ません。差異を識別するだけの言葉は、おそらく何かを探求する言葉としては使えないのです。これはとても大事なことです。

                     

                     

                     

                    では、そもそも「美味しい」とか「味覚が繊細である」ということは、何を意味しているのでしょうか。

                     

                     

                     

                    私は妻の作る味噌汁を美味しいと感じます。特に自家製の麦味噌で作る味噌汁は絶品です。そうなると即席の味噌汁や外食産業で出される味噌汁は飲めません。以前、奥湯河原にある旅館に泊まったとき、朝食に出された味噌汁を飲んでその美味しさに感動しました。なぜでしょう。私の味覚が繊細だったからでしょうか。何のことはない、妻の作る味噌汁とそっくり同じ味だったからです。

                     

                     

                     

                    何が言いたいのかというと、味覚のような私たちが独自性の根拠にしているようなもの(だからこそ人は美味しいものを求めるのです)の本質は、つまるところそれを生みだしている地域性、社会的階層(どのような社会的集団に所属しているのかということ)が反映されたものに過ぎないのだということです。つまりワインを飲む機会や習慣のない人にワインの味の識別はできないという、ただそれだけのことです。

                     

                     

                     

                    言い換えると、生まれた時からごく自然に食卓にワインが並んでいる環境で育った人たちにとっては、おそらくワインは美味いかまずいかだけが問題なのです。生産地や収穫年代を懸命に学習し記憶してワインの通になっている人たちとは「文化的資本」の蓄積や厚みが違うということです。

                     

                     

                     

                    よく考えてみると、私たちが「味覚」という身体性にもとづく独自性の根拠としているようなものも、実は自分がある特定の社会的な関係・階層に集団として属していることを語っているに過ぎません。それは自分がどの位置にいるかということを教えてくれはしますが、自分の存在の根拠になるものではないのです。

                     

                     

                     

                    イサム・ノグチはこの社会的な諸関係・階層性のくびきから解放された独自の個性の持ち主です。そういう人間が創り出した作品の一部が、今OPAMで展示されています。

                     

                     

                     

                    それにしても、こんな小難しい話がランチの席にふさわしかったかどうか疑問ですね。でもまあ、空気を読まないことが信条なので、その場で考えたことをしゃべってしまいました。だまって私の話を聞いてくれる同級生の存在はありがたいものです。

                     

                    | 文学・哲学・思想 | 13:23 | comments(0) | - |
                    「株式会社日本」はどこへ行く?
                    0

                      私はいかなる政党、結社、宗教団体にも属していないので、選挙の時は投票しない政党を決めるだけです。戦略的・消去法的投票行動と言えばいいのでしょうか。二十歳を過ぎてから、そのようにして選挙権を行使してきました。

                       

                       

                      もともと政治的人間ではないので、選挙結果に一喜一憂することはありません。ただ、この人にだけは当選してもらいたい、あるいは当選してほしくないという個人的な思いはあります。そういうわけでここ1週間ほど、選挙の喧騒から離れて昔読んだ本を読み返していました。

                       

                       

                       

                      塾を始めた30歳の頃、日本の学校は「校内暴力」や「いじめ」が蔓延し、荒れていました。教師や学校文化に反抗するいわゆる「不良たち」が、やみくもにうっぷんを晴らしていたのです。

                       

                       

                       

                      メディアや教育評論家、学者たちは批判の矛先を学校に向けるだけで、当の子供たちの内面で進行していた変化には無頓着でした。子供たちは、消費社会・大衆教育社会がもたらした文化の中で、単なる消費主体としてわがまま勝手に振舞いながら、個人としての輪郭を失い、「透明な存在」と化していたのです。

                       

                       

                       

                      そんな時に読んだのが『ハマータウンの野郎ども』 (ポール・E. ウィリス著)でした。訳者の熊沢誠氏の『民主主義は工場の門前で立ちすくむ』を読んだのがきっかけでした。前にも紹介しましたが、アリス・ミラーの『魂の殺人』を読んだのもこのころです。

                       

                       

                       

                      『ハマータウンの野郎ども』は、イギリスの労働者階級の「不良たち」が、学校が押しつけてくる文化に同化せず、努力すれば誰でも成功するといったメッセージ(メリトクラシー)の無効性を暴き出す様子を描きます。

                       

                       

                       

                      著者は、労働者階級の子供たちの文化や彼らの才能に共感しつつも、個人としての社会的上昇が困難であるがゆえに集団として連帯することができたのだとして、その限界にも着目します。

                       

                       

                       

                      つまり、彼らに言わせれば、メリトクラシーは、結局は精神的生産に価値を置くものだということになります。学校文化に反抗する彼らは、肉体労働をむしろ高く評価します。努力すれば誰もが価値の高い精神労働ができると言っても、実際は誰かがきつい肉体労働を引き受けなければならないというのです。かくして彼らは工場での肉体労働を「自発的に」「誇りを持って」選ぶようになります。

                       

                       

                       

                      そこで著者は問いかけます。

                       

                       

                      「単純労働は、普通ならばだれでも嫌がる。仕事はキツイのに給料や社会的地位は低い。でも、それをこなせるやつだからこそ、『真の男』と認められるのだと思っていないか?」と。

                       

                       

                       

                      肉体労働よりも精神労働に価値を置く社会を批判した「不良たち」が、結果として、肉体労働を選ぶのは皮肉とはいえ納得できます。かくして、彼らははみ出し者として社会から排除されることなく、逆に現代人が避ける肉体労働に『真の男』として積極的に参画していきます。わざわざきつい仕事を「自発的に」「誇りを持って」選んだ「不良たち」は、資本主義社会で重宝され、まさに社会の価値序列を支えることになります。

                       

                       

                       

                      著者はこのように、社会秩序を転覆させるような要素をもつ文化が、社会秩序の構造の中に吸収されていく様を描きます。つまり労働者階級の文化が、労働者階級を再生産していると言うのです。確かに文化は社会構造によって規定されます。しかし、忘れてならないのは、その社会構造を生み出すのも文化だということです。

                       

                       

                       

                      この本には忘れられない一節があります。「不良たち」が肉体労働を「自主的に選択」したその後について、著者は次のように書きます。

                       

                       

                       

                      「かつてはおしなべて…深く考えることなく工場の門をくぐった。そうして今日、明日と働き、いつしか三十年が経ってしまうのである。真の機会をのがしたり、もともと機会を機会と理解できなかったこと、逆に好機到来とばかりに選んだ道がまやかしにすぎなかったこと、こうした苦い思いが、労働者仲間のあいだで工場に入る前の人生についての神話を生みだす。」と。

                       

                       

                       

                      イギリスがEUから離脱することを決めた背景には、以上述べたようなイギリスの労働者階級の文化があるのかもしれません。政治的決断の背景には長い歴史があるのですね。

                       

                       

                       

                      ところで、『ハマータウンの野郎ども』を再読しようと思い立ったのはRECOMMEND欄でも紹介した以下の本を読んだからです。『チャヴ』とは下流社会の手のつけられない暴徒、「野郎ども」を指す言葉ですが、イギリスの一般大衆社会が新自由主義によって壊滅的打撃を受けた様子を克明に分析しています。二十代の若者が書いたというのですから、驚きです。

                       

                       

                       

                       

                      ひるがえって、「改革」や「人づくり革命」を唱えながら、新自由主義路線をひた走る「株式会社日本」は、労働者文化に何をもたらし、社会をどのように変えていくのでしょうか。

                       

                       

                       

                      一つはっきりしていることがあります。さらなる経済成長を唱えるバカな社長が舵取りをしている「株式会社日本」は、社員が次々に辞めて行く人口減少国家だということです。

                       

                      | 文学・哲学・思想 | 17:45 | comments(0) | - |
                      早期英語教育は、子供たちから考える力を奪う。
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                        最近はブログを書く意味を見出せなくなっています。書きたいことの百分の一くらいは書いた気がしますが、今の政治状況を見ていると、まるで言葉の通じない異国に来ているような気がします。

                         

                         

                         

                        そんな状況とは関係なく、日々の生活を楽しめればいいのですが、意識の底にわだかまりがあって、どうしてもそれができません。「心に移りゆくよしなしごとをそこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ」と書いた兼好法師の心境が分かります。

                         

                         

                         

                        それでも、ブログを書いていると、思わぬ人から便りがあったり、相談があったりします。たまにネトウヨの皆さんからの中傷もあります。実名なら相手をしますと言っているのですが、一人として同意する人はいません。彼らは、匿名という形でネット空間にかろうじて生息しているダニのような生き物です。最近では自分で意見を述べるのではなく、リツイートという形でフェイクニュースを拡散しています。

                         

                         

                         

                        さて本題に入ります。今回は東京在住の教育熱心なお母さんであるYさんから、子供さんの進路について御相談がありました。それに対する私の考えを簡潔に述べてみます。「簡潔に」というのは、正直言ってまともに返事をする気にならなかったからです。

                         

                         

                         

                        Yさんによると、先日の「佐藤ママ」の記事とカズオ・イシグロ氏のノーベル文学賞受賞について書いた記事がきっかけでメールする気になったとのことでした。その長い、にわかには信じられないメールを読んで、私は絶句し、どう返事をしていいかわからなかったのです。一瞬、フェイクニュース、いや、いたずらかと思ったほどです。

                         

                         

                         

                        でもよく読んでみると、Yさんはいたってまじめで、子供の将来を真剣に考えていることが分かりました。それをフェイクニュースだとかいたずらではないかと疑うことは不謹慎で、不誠実ではないかと反省したほどです。

                         

                         

                        質問の要旨は次のようなものでした。

                         

                        「私もカズオ・イシグロ氏の熱烈なファンである。ついては、自分の子供を将来カズオ・イシグロ氏のようなノーベル文学賞をとれる作家に育てたい。日本の学校で英語教育を受けさせていたのでは、まともな英語力はつかないと思う。子供は今4歳で、仕事のこともあり留学させるのは難しい。そこで日本にあるインターナショナルスクールに通わせてバイリンガルに育てれば、ノーベル文学賞をとれる作家になれるだろうか?」という内容です。

                         

                         

                         

                        私が絶句したのがお分かり頂けるでしょうか。

                         

                         

                        さらに、「佐藤ママ」のように、子供4人全員を東大の医学部に合格させることができるのなら、周到な計画さえ立てれば、ノーベル文学賞も夢ではないはずだ。そのための将来の留学計画、留学先、子供に読ませたい本100冊も決めている、とのことでした。

                         

                         

                         

                        もしかしたら・・・と思わせますよね。えっ、そうは思わない?いや〜仲間がいてよかったです。Yさんから見れば、あなたや私は、子育ての緻密な計画を立てる能力のないずぼらな人間か、情報弱者だと思われているかもしれません。

                         

                         

                        でもYさんは件のブログの次の箇所は読み飛ばしたのでしょうね。

                         

                         

                        「それにしても4人の子供の中に1人くらい、東大一直線教に疑問を持つ子供がいてもよさそうなのですが・・・。しかしそれをさせないところが「佐藤ママ」の「スゴイ」ところです。つまるところ、教育は幼少期からのマインドコントロールだということです。4人の子供全員が東大医学部というところに何とも言えない精神的・文化的貧しさを感じてしまうのは、私のひがみ、負け犬の遠吠えでしょうね。」

                         

                         

                         

                        Yさんからすれば、文章を読むことは役立ちそうな情報をピックアップすることで、書いている人間の価値判断は主観なので無視してかまわないということなのでしょう。

                         

                         

                        しかし、大人になるということは自分の主観を成熟させていくことです。それが分かっていない人の行動や意見は、一見中立かつ客観的で大人のように見えますが、本質的には幼稚です。つまり、自分は偏見や主観からは自由ですよ、と言いたいがために情報収集に血眼になり、未成熟な精神を抱えたまま大人になったということです。

                         

                         

                        おやおや、話がわき道にそれました。Yさんの質問に端的に答えましょう。

                         

                         

                        1.4歳から日本にあるインターナショナルスクールに通わせるのはおやめなさい。子供を精神的に不安定にするばかりではなく、知的な発達を阻害します。特に言葉を覚えるには有利だと思われがちな6歳以下の子供にそういった環境を強制するのは、子供をバカに育てるようなものです。この事実は英語業界の利益にならないので、無視されていますが、お茶の水女子大学の内田伸子教授がこれを裏付ける興味深いデータを提供しています。

                         

                         

                         

                        2.日本語と英語という二つの言語を、別立てでバラバラに習得することはできません。特に子供が幼い時にそのような環境を強制するのは、子供の言語運用能力つまり知的能力を阻害します。

                         

                         

                         

                        一見別のものに見える言語でも、根底の部分を共用しています。私はこのことをノーム・チョムスキーから学びました。つまり、人間は最初の言語を習得する時、論理を組み立てたり、類推したり、まとめたり、比較するといった「考える力」も習得するのです。二番目の言語は、この考える力を使いながら習得されます。したがって、最初の言語によって習得した「考える力」がしっかりしていなければ、二番目の言語は簡単には習得できないのです。

                         

                         

                         

                        4歳からインターナショナルスクールに通わせたり、英会話学校に通わせたりするのは全く意味がありません。それどころか、考える力が身についていないうちから二番目の言語を覚えようとすると、母語の習得をも妨害することになります。

                         

                         

                         

                        それなら、7〜9歳からならいいのではないかと考える人もいるでしょうね。でも、そうまでして急いで英語を習わせることに何の意味があるのでしょうか。7〜9歳は小学校の低学年です。日本語すら十分に習得しているレベルではありません。その時点で、仮に英語を習得したとしても、その時点での日本語の理解度にあったレベルでしか習得できないのです。幼児期に複数の言語を教えるのは、子供の発達や人格形成をわざわざ妨害するようなものです。

                         

                         

                         

                        仕事の都合で海外に家族で移住するのならともかく(その場合でも子供の年齢によってはマイナス面が大きいのです)、日本にいながら無理やり子供をバイリンガルに育てる必要はないでしょう。帰国子女という言葉にあこがれて「国内留学」させるのであれば、彼らは大学入試においても、実社会においても必ずしも優遇されるわけでもなければ有能でもないという事実を知っておくべきです。

                         

                         

                         

                        要は、幼いころからの英語教育や英会話ブームは、英語業界の金儲けにまんまと騙されて、本来なら必要ないお金をつぎ込んでいるということです。インターナショナルスクールは大金がかかります。芸能人や有名人の子供が通っているのにつられて、見栄でお金を捨てたいなら、どうぞそうして下さい。私が口出しできることではありません。

                         

                         

                         

                        3.さて、一番肝心な質問に答えなくてはなりません。用意周到な子育てによって将来子供にノーベル文学賞を取らせることが可能か、という問いです。

                         

                         

                         

                        不可能だとも可能だとも断言できません。カズオ・イシグロ氏は長崎出身です。しかし、彼は日本人ではありません。国籍のことを言っているのではありません。彼はバイリンガルでもありません。彼は日本語をほとんど話せないし、日本語で文章を書くこともできません。れっきとしたイギリス人です。ただ、幼いころの日本の記憶にうながされるようにして、人間にとって記憶の持つ意味を比類のない実験精神で文学にまで高めたのです。

                         

                         

                         

                        親の仕事の都合で5歳の時にイギリスに渡り、のちにイギリスに帰化しました。もし彼の両親がバイリンガルに育てるために日本語の勉強を強要していたら、ノーベル文学賞の作家は誕生していなかったでしょう。これは断言できます。彼自身が次のように言っています。

                         

                         

                        「もし私が漢字やカタカナを覚えるための教育を受けていたら、歪んだものになっていただろう」と。

                         

                         

                         

                        言葉は人格を形成する骨格となるものです。その国の文化を理解するのも、歴史を理解するのも、その国の言語を自分のものとしているからです。ブログでもしつこいくらいに言ってきました。人は言葉によって思考するのです。その言葉がおぼつかないと、思考まで揺らぎ、歪んだものとなります。

                         

                         

                         

                        さてこれが私の答えの全てです。日本社会は私の考えとは正反対の方向に進んでいます。ここに書いたことは、少数意見として無視されるでしょう。小学校から英語を正規の教科にし、財界は英語を社内公用語にしようとしているのですから。

                         

                         

                         

                        しかし、本当に創造的な思考は母語でなければできないのだということは、断言しておきたいと思います。何も戦争を起こさなくても、教育をコントロールすればその国を滅亡に導くことは可能なのです。

                         

                        | 文学・哲学・思想 | 15:57 | comments(0) | - |
                        政治と言葉
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                          9月21日のブログで次のように書きました。「閉ざされた世界にいる人間にとって光とは、言葉のことです。あなたがどんな言葉に出会うかによって、世界は全く違って見えます。そればかりではありません。相手が話す言葉によって、その人が世界をどのように見ているかということも分かります。」と。

                           

                          『深い迷いの中にいる若い皆さんへ2冊の推薦図書』

                          http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=409

                           

                           

                           

                          ブログを書く時に一番気をつけていることは、ある言葉が、どのような状況で、誰から発せられたのか、ということです。その都度本人に会って事の真偽を確かめるわけにはいきません。しかし、言葉はそれを使う人間の意図を超えて、その人間の本質を否応なしに現わします。

                           

                           

                           

                          もちろん思い違いということもあります。特に若いころは、言葉の表面的なかっこよさやきらびやかさに幻惑されて、あるいは難解さに魅せられてある特定の人間の言葉を信じてしまう傾向があります。もちろん私自身のことを言っているのです。

                           

                           

                           

                          しかし、ある程度年をとってくると、思考することは言葉による暫定的な足場作りでしかないということがわかってきます。もちろん、どんな言葉も同じ価値があるというのは間違っています。言葉の価値はどんな人間が吐くかによって決まります。そこに優劣があるからこそ、人はより高い価値判断を求めて生きることができるのです。

                           

                           

                           

                          そもそも他者の言い分を理解するということは、ある意味で折り合いのつかないいくつもの意見を抱え込むことを意味します。そうなると価値判断に迷いが生じて、しばらくは身動きが取れなくなり、無気力に沈むことも多くなります。そうなるのが怖いので、人は他者の言い分に耳をふさぐか、聞いているふりをするのです。

                           

                           

                           

                          しかし、自分の人生を生きるためには、言葉の優劣を判断することを避けて通るわけにはいきません。同調圧力に屈し、それを避けて通れば自分が何者であるかわからなくなるからです。逆にそれを恐れてたった一つの言葉(宗教やイデオロギーの言葉)だけを頼りに生きれば、誰でもいい誰かの人生を生きることになります。

                           

                           

                           

                          この世に絶対的な真実(価値判断)などというものはありません。絶えざる「仮の足場作り」だけが、自分の人生を生きる導きの星となるのです。だからといって、しり込みする必要はありません。仮の足場が仮にでも固定する瞬間がやってきます。それは、誰のどういう言葉ならば信頼できるかというある程度客観的な基準が出来上がることを意味します。

                           

                           

                           

                          その時、私たちは自分の存在と世界との新しい関係を手にすることができるのです。信頼できる他者とは、いつ崩れるかわからない不安定な相互信頼の中にあっても、常に「仮の足場作り」を続けている人です。このことについては、今年の6月15日のブログに書きました。

                           

                          『私たちは暫定的な足場をたよりに考えるほかない存在である。』

                           http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=365

                           

                           

                           

                          さて、結論です。言葉に最大の価値を置き、言葉に対する信頼を武器として現実に異議申し立てをし、それを改変していくのが政治家の仕事です。税金をロンダリングして私腹を肥やし、権力欲を満足させるために政治家をしている人間たちの言葉は、矛盾だらけで、空虚です。それは、言葉を発する人格そのものが矛盾に満ち、空虚だからです。安倍首相の言葉がその典型です。もちろん小池百合子の言葉も信用できません。かれらの言葉は、頭蓋骨のなかで空虚な自我がぶつかり合って反響している音に過ぎません。

                           

                           

                           

                          それに対し、常に弱者を思い、国権の発動としての戦争を回避することを使命だと自覚している政治家の言葉は、穏やかで自信に満ちています。人々を振り向かせる力を持っています。批判に耳を傾け、言葉を尽くそうとします。それは無私の言葉です。

                           

                           

                          以下の画像をご覧ください。10月6日、国分寺南口での安倍首相の街宣風景。はるか向こうの街宣車の上で傘をさしているのが、安倍首相らしい。遠すぎて見えません。しかも、周りは警官だらけ。

                           

                           

                           

                           

                          「お前が国難!」のプラカードを掲げた人たちは、自民党員にプラカードが見えないように妨害されています。聴衆の方を向いているのが自民党員。

                           

                           

                           

                          7日の朝日新聞によると、自民党はヤジを警戒して首相の演説日程を公表しないそうです。安倍首相が「こんな人たちに負けるわけにはいかないんです!」なんて興奮して、また本心を吐露したら選挙に影響すると判断したのでしょう。

                           

                           

                          それにしても、ここまでヤジごときに怯える首相が、かつていたでしょうか。Jアラートを鳴らしまくって、「北朝鮮に異次元の圧力をかける!」と威勢のいいことを口にする極度に臆病な人間が、日本を守り抜くと大口を叩いているのです。これは何かのギャグでしょうか。いや、悪い夢を見ているのでしょうね。

                           

                          | 文学・哲学・思想 | 16:09 | comments(0) | - |
                          カズオ・イシグロ氏、ノーベル文学賞受賞!
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                            塾の授業が終わって居間に戻ると、カズオ・イシグロがノーベル文学賞を受賞したと妻が教えてくれました。今年一番の嬉しいニュースです。彼女もカズオ・イシグロのファンなのです。暗唱するほど読んだ氏の代表作『わたしを離さないで』をはじめとする氏の一連の作品が対象になったとのことです。現存するイギリスの作家では、最も好きな作家です。

                             

                             

                             

                            その冒頭部分。

                            My name is Kathy. I’m thirty-one years old, and I’ve been a carer now for over eleven years. That sounds long enough, I know, but actually they want me to go on for another eight months, until the end of this year. That’ll make it almost exactly twelve years. Now I know my being a carer so long isn’t necessarily because they think I’m fantastic at what I do.

                             

                             

                            そして最後の文。

                            ,and if I waited long enough, a tiny figure would appear on the horizon across the field, and gradually get larger until I’d see it was Tommy, and he’d wave maybe even call. The fantasy never got beyond that−I didn’t let it−and though the tears rolled down my face, I wasn’t sobbing or out of control. I just waited a bit, then turned back to the car, to drive off to wherever it was I was supposed to be.

                             

                             

                            カズオ・イシグロの心の声がそのまま文体になった素晴らしい小説です。カズオ・イシグロについては2年前にブログで書いています。よろしかったらお読みください。

                             

                             

                            『私たちは、みな執事なのか?』

                            http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=97

                             

                            『私たちは「執事」であることから逃れられないのか?』

                            http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=98

                             

                            | 文学・哲学・思想 | 21:43 | comments(0) | - |
                            イベント人間は信用できない。
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                              イベント人間ほど信用できないものはありません。世間の耳目を集めるために(最終的にはカネ集めなのですが)絶えず何かを企画する人間、その企画に乗せられて落ち着きを失い、それがなければ身がもたないようになった人間をイベント人間と言います。もちろんこれは私の勝手な定義です。今では、SNSがイベント人間の増殖に拍車をかけています。

                               

                               

                              ではなぜ人はイベントを欲するのでしょうか。

                               

                               

                              私たちの日常は、さしたる変化もなく、同じことの繰り返しです。それが家族や親しい友人を中心として、ある場合には数十年にわたって続きます。日常は、長い時間の経過とともに、そして平凡であればある程、その価値が色褪せ、意味を捉えがたくなる宿命を持っています。

                               

                               

                               

                              そして、その宿命に忍び寄り、土台を切り崩す最大のものこそが「退屈」です。人間は、それが大事だと分かっていればいるほど、時にはそれに唾をかけ、かなぐり捨てたくなる衝動を持っているやっかいな生きものです。つまり、イベントは退屈から逃れるための手っ取り早い手段なのです。

                               

                               

                               

                              もちろん最大のイベントは戦争です。オリンピックをはじめとする大小さまざまなイベントはすべて戦争へと収斂するベクトルを持っています。そんなバカな、と思うでしょうね。しかし、戦後72年間続いてきた平和が今葬り去られようとしています。日本人の多くは平和に「退屈」し始めているのです。2011年の東日本大震災と福島の原発事故すら、退屈を紛らわすのに足りなかったのです。

                               

                               

                               

                              戦争はある日突然起こるのではありません。それは日常生活の中で分泌される「退屈」を養分にして徐々に成長していく人類の宿痾のようなものです。今の日本の政治・文化状況を云々するまでもなく、ここまで膨れ上がった大衆の暗い情念を抑えることはほとんど不可能な気がします。

                               

                               

                               

                              今はやりの不倫も、退屈を紛らわすために、当人たちが自ら招き寄せたものです。不倫は色あせた日常への忌避感覚がその感情的土台となっています。9月21日のブログでも述べましたが、自分の夫に対する感情を「マザコン」という言葉で固定させ、二人の関係を見直すこともせず、かたくなに目と耳を閉ざし、それを脱出願望にまで高めれば、離婚か不倫に行きつく可能性が大きくなります。

                               

                              http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=409

                               

                               

                               

                              私は取るに足らない自分の人生を生きる中で気づいたことがあります。それは、夫婦や恋人との関係における倦怠や退屈という感情は一種の「行為」だということです。相手に対してある感情を繰り返し再現してしまうような場合には、そこに、意志的な傾向を認めざるを得ません。つまり、感情的な真実(相手に対する軽蔑感情といったもの)は、それを真実だと思いこむことによって、ますます確実で変更できないものに変わってゆくのですね。

                               

                               

                               

                              政治家や芸能人に不倫が多いのは、権力を持ち、有名人の仲間入りを果たしたことで、自分は現実を超越した存在だといううぬぼれに骨がらみとらえられてしまうからです。その結果、すべての現実を、それがただ現実であるということだけで、一括して見下すようになります。夫婦関係こそは退屈な現実の象徴です。それを嫌悪し、そこから逃れるための不倫が、相手の家族やこども、何より相手にどんな犠牲を強いるのかを想像できません。

                               

                               

                               

                              しかし、人間は自分だけが現実から抜け出したり、超越的な人格を持ったりすることはできません。私たちの渇望を満たすものは、現実の条件の中にしかないからです。この点を勘違いすると、どこへ行っても、何を選んで見ても、自分を満足させないという感じが残り、その残ってしまった渇望を満たすために、次から次へと情熱を満たす対象や生き方を求めるようになります。こうなればもはや本当に相手との関係を大切にしようとする感覚はマヒしてしまいます。残るのは破滅と疲労感だけです。

                               

                               

                               

                              感情は一種の「行為」だといった意味がお分かりいただけたでしょうか。そして、最大のイベントは戦争だといった理由も。

                               

                               

                              今回のブログを書くきっかけになったのは、映画『パターソン』を観たからです。平凡を絵にかいたようなバスの運転手の一週間を追ったものですが、この映画の監督は、おそらく日常の中にある、ありふれたものの価値を再発見することの意味を問うているのだと思います。

                               

                               

                               

                               

                              ただ一つ、主人公のパターソンには普通でないところがあります。彼は詩を書く人間なのです。普通なら退屈極まりないと思えるような日常の中で、彼は時間を見つけてはノートに詩を書きつけます。何の利益も生み出さない詩を書くことで、彼は何をしていたのでしょうか。

                               

                               

                               

                              以前、『たまには塾のことでも書いてみようか。』の中で、詩人の西脇順三郎のことばを引用しました。それは次のようなものです。「人間の存在の現実それ自身はつまらない。詩とはこのつまらない現実を一種独特の興味(不思議な快感)を持って意識させる一つの方法である。」

                               

                              http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=326

                               

                               

                              不倫は不倫であるという不安な状態そのものによって人々のロマン的欲望をかきたてている側面があります。不倫は不倫であるからこそ人を燃え上がらせるに過ぎません。すでに述べたように、その根底には日常に対する倦怠や退屈、さらには蔑視があります。

                               

                               

                               

                              戦争も同じです。国家間に「不安な状態そのもの」を作りだし、それを「国難」ということばで針小棒大に語るバカが、大衆の中に充満する退屈に火をつけ、燃え上がらせようと画策しています。それにロマン的欲望をかきたてられた政治家やマスメディアが協力しています。これほど心暗くなる光景はありません。私たちはこのことに対して自覚的であるべきです。

                               

                               

                               

                              それに抵抗する方法は、私たち一人一人がパターソンのような詩人になり、平凡でありきたりな日常が持つ深い恩寵に気づくことです。救いはそこにしかありません。

                               

                              | 文学・哲学・思想 | 15:37 | comments(0) | - |
                              日本よ、どこへ行く。
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                                昨日は私の住んでいる地区の夏祭りでした。全行程8キロ余り、酷暑の中、重い神輿を担ぐ人には長すぎる距離です。地区の消防団の若者が主な担ぎ手ですが、60代の人も交じっています。年々参加する人が少なくなり、山車を引くお伴も高齢化の一途をたどっています。現状では祭りの存続も危ういのです。

                                 

                                 

                                全行程中、こういったお旅所が10か所ほどあります。昔はお伴の人、こどもたち、地元の人でこの場所はあふれかえっていました。じっとしているだけで汗が吹き出て来るような強い日差しでは、お年寄りも出てこれません。それでも祭りは続きます。

                                 

                                 

                                 

                                ここは今年91歳で亡くなった I さんの家の庭。普通、神輿は初盆の家へは立ち寄りません。しかし、I さんはこの村の夏祭りを戦後70年以上にわたって支えてくれた人です。I さんのお孫さんを塾で教えたこともあります。お礼にお米を頂きました。本当に優しい人柄のにじみ出た人でした。わが村には、こういったお年寄りがまだたくさんいます。そういう訳で、特別に立ち寄ることになりました。神輿の担ぎ手たちは、I さんの家に立ち寄った後、神輿が重くなったと言っていました。きっと I さんの魂が神輿に乗り移ったからでしょう。

                                 

                                 

                                 

                                 

                                余りの暑さのため、手前の人が神輿の担ぎ手に放水しています。昔、神輿を担いでいた時、体中に冷水をかけられて気持ちよかったことを覚えています。それで私もあちこちで水をかけてあげます。時にはバケツ一杯の水を。

                                 

                                 

                                 

                                 

                                私はよほどのことがない限り、夏祭りに参加するようにしています。今年で30回以上になります。義務感からではありません。麦わら帽子をかぶり、噴き出る汗を拭いながら農村の集落をねり歩くと、何か名状しがたい独特の感情を味わえるのです。

                                 

                                 

                                青々と茂った稲穂の上を吹き抜けていく風、セミの声、赤とんぼの群れ、笛と太鼓の音。どこか前世とつながっているような記憶の断片が呼び覚まされます。街中の商店街をねり歩くお祭りなら、参加しなかっただろうと思います。

                                 

                                 

                                小学生のころ、夏休みになると父の実家(いま私が住んでいるところです)へ帰省しました。祭りが近づくと、村の若者が大きな庭のある家に集まり、そこで太鼓や笛の練習をします。私も仲間に入れてもらいました。練習の合間には井戸で冷やしたスイカを頬張るのですが、その美味しかったこと。もちろん買ったものではなく、畑で採れたものです。太鼓の練習をすぐそばで見ていたせいか、練習が終わって家に帰った後もお腹のあたりが太鼓の音でふるえているような気がしました。

                                 

                                 

                                お祭りの日の夜8時ごろになると、まず獅子が家に駆け込んできます。その後、提灯をかざした集団が遠くに見えると、やがて白装束に身を包み、地下足袋をはいた担ぎ手たちによって高く掲げられた黄金の神輿が灯りに照らされて登場します。神々しい雰囲気をまとい、辺りを睥睨し、掛け声とともに突然暴れはじめたかと思うと次の瞬間静かになり去って行きました。私は子供心にこの静から動への転調に魅了されて呆然としていたものです。

                                 

                                 

                                フィナーレは神社の境内での奉納です。神輿はあらんかぎりの力を振り絞って暴れます。クライマックスを演出すべく、太鼓たたきの荒武者たちは狂ったように踊り、喧嘩でもしているかのように太鼓をたたきます。農作業で鍛えた赤銅色の筋肉は汗で光り、その逞しい足腰や両腕はまるで彫刻作品のようです。宮沢賢治は書いています。「農業労働を冷たく透明な解析によってその藍色の影と一緒に舞踏の範囲に高めよ」と。

                                 

                                 

                                1960年代、日本の労働人口の半分は一次産業に従事する人たちで占められていました。農村がこの国を豊かにし、この国を支え、文化を創出していたのです。その後、農村の働き手たちは高度経済成長を下支えする兵站戦の一翼を担うべく、都市へ流入していきます。そして1980年代を境に、この国は高度消費社会、情報社会へと劇的な変貌を遂げます。その結果、日本は株式会社国家、すなわち一部の「経営者」に富が集中する「ファミリー企業」となり果てました。

                                 

                                 

                                なるほど暮らしは便利になり、豊かになったように見えます。しかしそれは農業と地方を、すなわち自然を食い物にした結果です。おそらく、この国の命脈はあと10年くらいで尽きるような気がします。いや、気がするのではなく、多くの人が見て見ぬふりをしている事実がそれを告げているのです。宮沢賢治の言葉が、私の中で残響のように鳴っています。

                                 

                                | 文学・哲学・思想 | 16:47 | comments(0) | - |
                                知性とは生死の「機微」をつかむことから生まれる美意識である。
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                                  読書に没頭していたので、ブログを書くのが後回しになりました。心に浮かぶよしなしごとをそこはかとなく書こうと、しばらくぶりでパソコンに向かっていると、民進党の蓮舫代表が辞意を表明するとのニュースが入ってきました。辞任する意向を表明していた野田佳彦幹事長と足並みをそろえるということでしょうか。なんでも、辞任の理由は東京都議選で惨敗した責任を取るとのことです。

                                   

                                   

                                  見当違いもはなはだしい。都議選で惨敗することは、誰の目にも明らかだったのですから。それが辞任の理由だとすれば、民進党が置かれている状況がまったく見えていなかったことを告白しているに等しい。それに、もともと私は政治家としての蓮舫氏を全く評価していませんでした。

                                   

                                   

                                  民進党がやるべきことは、代表の辞任などではなく、解党です。なぜなら、蓮舫氏が代表を辞任したところで、その後釜を狙ってまたぞろ隠れ自民党の面々が動き出し、もはや民進党の存在意義などなくなるでしょうから。

                                   

                                   

                                  私は政治に何かを期待するほどお人好しでもなければ、楽観的でもありません。しかし、もし今まともな政治家がいれば、必ず次のような手を打ち、その流れを加速させるでしょう。

                                   

                                   

                                  第一段階として、民進党を分裂させます。つまり、原発即廃炉と立憲主義を掲げるグループとそうでないグループを分裂させるのです。これが御用組合の「連合」から脱却して自らの足で立ち、真の国民政党になる唯一の方法です。

                                   

                                   

                                  第二段階として、すべての野党に党名を変更させ、「立憲民主党」(仮称)とします。安倍政権の対立軸を作り、小選挙区制の中で勝とうと思えば野党は一つにまとまるしかありません。この構想のネックになりそうな共産党も党名を変える覚悟で臨むべきです。そして、「立憲民主党」山尾派、小沢派、志位派、福島派として、国民にアピールし、政策を競い合うのです。「立憲民主党」の党首は山本太郎です。これは第二の原発事故が起こった時に頼りになる人材という意味です。

                                   

                                   

                                  安倍晋三は辞任しません。憲法問題は隠れ蓑に過ぎず、権力の座にいることが目的なのですから。それは、ハコモノである原発や大学に補助金という名の国民の税金を注ぎ込み、合法的にそれをかすめ取る巧妙なシステムを手にしていることを意味します。そんなおいしい立場を自ら放棄するようなことをするはずもありません。

                                   

                                   

                                  これは私の構想ですが、今の政治状況から必然的に導かれる結論ではないでしょうか。この簡単・自明なことすら実行できないようでは、大げさではなく、確実に日本は破滅します。

                                   

                                   

                                  政治の最大の課題は「経済」だと多くの人は考えているようですが、それは「経済」を強調することで拝金主義を蔓延させ、国民を堕落させ、弱体化させておけば奴隷としてマインドコントロールしやすくなるからです。そしてある日、巨大地震がこの国をヒットし、私たちはディアスポラ(元の居住地に帰還できない流浪の民と化すのです。

                                   

                                   

                                  いえいえ、何も陰謀論を展開するつもりなどありません。世の中の物事は、政治も含めて、なかば意図して、なかば偶然によってできあがっています。偶然の中にも意図があり、意図の中にも偶然が混入しています。すべてが、ある人間たちの意図通りに進んでいると考えるのはあまりに子供っぽい思考です。

                                   

                                   

                                  本題に入りましょう。ええっ、まだ続くの!と反射的にプチッと画面を消そうと思った方、最後までお付き合いください。あと少しですから。

                                   

                                   

                                  私はブログで知性や普遍的な感情や知識について色々と述べてきました。そして今、知性とは人間の持つ価値の最上位に位置するものだと考えています。真善美と簡単に言いますが、倫理的な徳目も、勇気も、節度も美であり、美こそが知の対象となり、理想となるのです。

                                   

                                   

                                  知性はともすると知識と勘違いされます。この両者は似ていますが、別次元のものです。簡単に言うと、知性は質が問われるのです。一方、知識は正確さや量が問題にされるだけです。以下、対比的に書いてみます。

                                   

                                   

                                  ・知性は文化であり、知識は文明である。したがって、知性のグローバリゼーションはあり得ない。

                                  ・知性は物事や人間の内面を問題にし、知識は外面をとらえる。

                                  ・知性は美であるが、知識は真であるか否かが問われるだけである。

                                  ・知性は独自性ゆえに個人の内部にとどまるが、知識は他者へと還流する普遍性を持つ。

                                  ・知性は生き方から分泌される他ないものだが、知識は時間や量で切り売りできる。

                                  ・知性は有機的なもので、命を宿し呼吸しているが、知識は無機的なものである。

                                  ・知性は感じるほかないものだが、知識は学習によって身につけることができる。

                                   

                                   

                                  様々な人物を思い起こしながら、適当に書き出してみました。この暑い時に、小難しいことばかり書いて、これが一体何の役に立つんだと考えている人もいるでしょう。でも、知性のある人は、「一体何の役に立つんだ」とは考えません。そうそう、知性はコスパとは無縁である、と書くのを忘れていました。

                                   

                                   

                                  私は武士道の徳目である忠誠、犠牲、信義、廉恥、礼儀、潔白、質素、倹約、尚武、名誉、情愛といったものに共感します。それは、個人の「機微」によって無限の反応や姿勢、濃淡、バリエーションを持っているからです。これは思想であり知性です。上からの一律下降的な押し付けではなく、主従という精神的な紐帯から生まれる固有の道徳律を持ち、生死の「機微」をつかむことが個人の自覚にゆだねられているからです。

                                   

                                   

                                  これは「道徳教育」によって復活できる代物ではありません。知性(=徳)は独自性を持って個人の内部にとどまるのですから。最後に、知性とは生死の「機微」をつかむことから生まれる美意識である、と付け加えておきたいと思います。

                                   

                                  | 文学・哲学・思想 | 20:24 | comments(0) | - |
                                  偏差値と知性は比例しない。一橋大学が百田尚樹氏の講演会を開く件について。
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                                    知性を身につけるためには、一定レベルの読書力、特に言葉に対する感応力が必要なのは言うまでもありません。言葉に対する感応力とは、言葉がどのような人格から発せられているか、それを見分ける力のことをいいます。さらに言えば、ある言葉が普遍的な道徳・倫理に根ざしているかどうかを見分ける力のことです。

                                     

                                     

                                    AとB二つの言説が優劣を競っているとき、最終的な決め手になるのは、どちらが論理的かということではありません。

                                     

                                     

                                    なぜなら、論理的であるということは、しょせんはその社会の支配的な価値観(パラダイム)に合致していることを意味するからです。例えば、国民の命よりも電力会社の利益すなわち政治家や官僚の利権を優先する社会では、それに沿った言説が論理的だと見なされます。

                                     

                                     

                                    前回のブログで批判した百田尚樹氏も、自分の主張は論理的だと考えているはずです。「朝日新聞の社長を半殺しにしろ。」と煽るのも「テロ組織を作って、日本国内の敵を潰していく。」と宣言するのも彼に言わせれば論理なのです。つまり、論理とは、ある時代、ある社会でのみ通用するその時々の支配層の価値観を正当化するための方便に過ぎません。

                                     

                                     

                                    福島第一原発の事故の後、それまでの論理が、大部分の国民から富を奪い、一部の企業や人間たちに利益を付け替えるものであったことが暴露されました。安倍政権は破綻した論理を権力で隠蔽するために登場してきた鬼胎の政権に他なりません。彼らは言葉を信じていません。ましてや、言葉の感応力など持ち合わせているはずもないのです。

                                     

                                     

                                    私は塾の教師をしながら、「何が言葉の感応力を鈍らせるのか」を考えてきました。それは、「感情を劣化させるものは何か」という問いと同じです。なぜなら、ジョナサン・ハイトの指摘を待つまでもなく、感情こそが論理を方向付けるものだからです。逆ではありません。

                                     

                                     

                                    この問いに私なりに答えておきます。もちろん仮説に過ぎません。

                                     

                                     

                                    そもそも教育は、ある共同体(小さな村社会から国までを含みます)が存続するために、その構成員に対して無償で提供する「贈与」であるべきです。すなわち、国は自らが生き延びるために、何よりもまず、教育を無償化して次の世代を育てなければならないのです。この前提を否定すれば、私たちの社会は自壊するしかありません。以下の表をご覧ください。

                                     

                                     

                                     

                                    私たちは、教育には金がかかって当然だと考える社会に生きています。そして、生まれ持った環境や能力の差を、経済的な差に還元するのが教育だと思いこんでいます。

                                     

                                     

                                    教育は、多くの人にとっては、将来子供や自分自身を高く売るための投資なのです。投資である以上資金が必要になります。始めから資金を持っていない人は、教育市場に参入できません。逆に資金を持っている人は、弱肉強食・適者生存の競争社会を積極的に支持し、そこから落ちこぼれた人間を敗者だと決めつけるようになります。

                                     

                                     

                                     

                                    彼らはたまたま経済的に恵まれた環境に生まれただけですが、資産や文化的環境をロンダリングするために受験競争に参入します。受験こそは皆に平等に開かれたチャンスだ、それをものにできなかった人間は努力が足らなかったのだと考えています。しかし、それがまやかしであることに薄々気づいています。だから、彼らは後ろめたさを隠すために「努力」に最高の価値を置きます。そのことで不遇の人間に対する「惻隠の情」をロンダリングするのです。

                                     

                                     

                                    かくして、もともと努力できる環境になかった人間を十把ひとからげにして自己責任という言葉をかぶせ、自らの感情を劣化させていきます。ここには同じ共同体の成員だという発想が生まれる余地などないのです。繰り返しますが、知性の母胎は「感情」です。感情を劣化させた人間が知性を持つことなどあり得ません。

                                     

                                     

                                    いわゆる偏差値が高いということは、せいぜい、ゝ憶力と事務処理能力にたけていること、⇒燭┐蕕譴寝歛蠅どんなに無味乾燥なものでも、ねばり強く取り組める「鈍感さ」を身につけていること、A澗里問題になっている時に部分に分割して考えれば解決できると無邪気に信じていること(要素還元主義)、ぜ験に有利とされる情報を効率よく手に入れられる環境に身を置いている(サピックスや鉄緑会といった塾に小学生の頃から通い続けること等を表しているに過ぎません。

                                     

                                     

                                    自分という存在や社会の仕組みを根底から疑うことが知性を身につけるための第一条件ですが、偏差値によるヒエラルキーのどこに自分が位置しているかを絶えず気にかけている人間は知性から最も遠い存在です。ブログで批判した「なりすまし塾長K氏」などはその典型です。

                                     

                                     

                                    「なりすまし塾長K氏」と言えば、彼の出身校である一橋大学で最近あることが話題になりました。例の百田尚樹氏を呼んで講演会を開くというのです。

                                     

                                     

                                    卒業生をはじめ各方面から批判が寄せられています。

                                    https://twitter.com/KODAIRAfes

                                    /status/844162207025848320

                                     

                                    それに対する実行委員会の返答を読んで、私は「なりすまし塾長K氏」の文体を思い出し、少し気分が悪くなりました。以下がその文章です。

                                     

                                     

                                    「ご指摘ありがとうございます。当委員会ではご質問の内容に関係なく、公開でお答えすることは控えさせていただいております。何卒ご理解いただけますようよろしくお願い申し上げます。」

                                     

                                     

                                    一橋大学と言えばかの竹中平蔵氏の出身校でもあります。「利益相反(conflict of interest)」の何たるかも分かっていない人間が学者や政治家になっているのです。同じく経済学者の宇沢弘文氏が彼を蛇蝎の如く嫌っていたのもうなずけます。学者としてデビューした最初の論文が盗作だったのも有名な話です。http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=296398

                                     

                                     

                                    歴代最低最悪の法務大臣である金田勝年氏も一橋大学出身です。以前は官僚が書いた原稿を棒読みするだけでした。それではあまりに無能に見えるので、最近は三文役者のような身振り手振りを取り入れています。さる方面からアドバイスがあったのでしょう、安倍総理のそっくりさんになりました。言っていることは意味不明、はぐらかしのオンパレードです。首相の倫理性の欠如が閣僚に伝播し、目も当てられない様相を呈しています。大学の偏差値と知性が比例しないことがよく分って頂けると思います。

                                     

                                     

                                     

                                    | 文学・哲学・思想 | 23:52 | comments(0) | - |
                                    捏造記事が民主主義を壊すとき
                                    0

                                      安倍政権はなぜ続くのか、誰に支持されているのか、という問いに対する納得できる答えを見つけました。もちろん大手メディアをはじめとする世論調査(裏で電通が仕切っています)による誘導も大きな理由の一つですが、それだけでは説明がつかない、説得力に欠けると思ってきました。最近の Facebook の世論調査では、安倍政権を支持しないと言う人が90%を超えているのですから。

                                       

                                       

                                      しかし、BuzzFeed News の記事を読んで、納得できました。イギリスのEU離脱、トランプ氏の勝利と安倍政権が続く理由が一つに繋がりました。忙しい方は、以下の記事は飛ばしてくださって結構です。最後の BuzzFeed News の記事に直接アクセスしてください。

                                       

                                       

                                      ところで、今から10年以上前、私は『未来塾通信18・呆れた塾の実態 −知的な中学・高校生のために−』と題して次のように書きました。(ちなみに、この塾はほどなくして廃業しています。この塾を大々的に取り上げて宣伝していたのが『大分の学校と塾がわかる本』という雑誌です。)

                                       

                                       

                                      「私はそもそもブログに興味がない。中身の信憑性もさることながら、お手軽な自己表現欲求そのものに対して懐疑的である。

                                       

                                      パソコンとケータイが普及し、誰もが情報発信できるようになった社会では、プロの表現者が日常の中で感じる微妙な違和感を言語化しようとして発した言葉と、現状を追認するだけのキャッチコピーが、同じ言説空間の中に「等価」な「情報」として投げ出される。

                                       

                                      その結果、優れたものもくだらないものも一緒に押し流され、淘汰の力学が健全に機能せず、価値ある言葉をじっくり見極めるだけの判断力を働かせる余裕がなくなる。

                                       

                                      人々の生活感覚や価値観は平準化され、何が自分の生にとって本当に問題であるのか、先入観抜きに率直になってみたら本当はどう感ずるのか、といったことが隠蔽され精神のローカルカラーをなくしてしまう状況を作り出す。世の中が生きにくい場所になっていくのはこういったことと関係している」と。

                                       

                                      http://www.segmirai.jp/essay_library/essay018.html

                                       

                                       

                                      上の記事を書いた当時は、スマホもなければ Facebook のようなソーシャルメディアもありませんでした。しかし、ジョージ・オーエルの『1984年』やオルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』を読んでいたおかげで、今日のような社会が到来するのを予想できたのです。

                                       

                                       

                                      自慢しているわけではありません。私には、読書したり考えたりするための比較的自由な時間があったというだけのことです。ブログに懐疑的だったにもかかわらず、いまこうしてブログを書いているのは、やむにやまれぬ思いがあったからです。

                                       

                                       

                                      そんな私が最近注目した記事があります。BuzzFeed Newsの記事です。見出しのタイトルは、

                                       

                                      「捏造記事が民主主義を壊すとき・増幅装置となったFacebook、そして政治家は沈黙する」です。

                                       

                                      副題に小さく「やつらはファクトチェックしないからね」とあります。

                                       

                                      そして、

                                       

                                      「全てが真実になり、全てが真実ではない」「これまでは皆が拠りどころとできる事実のベースラインがあった。しかしいまや、それは失われた」

                                       

                                      オバマ大統領がNewYorker誌に述べた発言だ。アメリカの民主主義の変容を表している。

                                       

                                      と続きます。興味のある方は是非お読みください。

                                       

                                      https://www.buzzfeed.com/sakimizoroki/fake-news-on-sns-and-democracy?utm_term=.ib5Mm3JLP#.uapavOrog

                                      | 文学・哲学・思想 | 17:32 | comments(0) | - |
                                      「純愛」主義が国を滅ぼす−その1
                                      0

                                        私は大学時代ロシア語とロシア文学を学びました。いや、かじったと言った方がいいですね。ロシア語はついにモノにできませんでしたが、ロシア文学は私にとって汲めども尽きぬ泉のような存在です。

                                         

                                        ドストエフスキー、トルストイ、チェーホフ、ゴーゴリ、プーシキン・・・。挙げればきりがありません。特に若いころはドストエフスキーとトルストイに圧倒的な影響を受けました。年をとるにつれて、チェーホフの面白さがわかるようになりました。彼は短編の名手ですが、日本では『かもめ』『桜の園』『三人姉妹』などの戯曲が有名です。時々、思い出しては全集を読んでいます。

                                         

                                         

                                        かなり古くなったチェーホフ全集。日々の生活を維持するのに精いっぱいだったころ、アルバイトで得た大枚をはたいて買いました。


                                         

                                         

                                        チェーホフが言いたかったのは、次のようなことです。恋をして幸せになる以外、人生は無意味な出来事の連続だ。そして、恋に落ちることは、人生で最も簡単なことの一つである。なぜならそれは幻想だから。落とし穴はあちこちで待ち受けている。人生で最も難しいのは、その女あるいは男を愛し続けること。すなわち幸せになることだ。

                                         

                                         

                                        彼の作品の登場人物は、今で言えば、毎日会社に出かけ、途中でゴミを捨て、家のローンやこどもの教育を巡って妻(夫)と言い争いをし、レンジで温めた冷凍食品を食べ、会社帰りに軽く一杯やることが楽しみなごく普通のサラリーマンです。こんなさえない自分を妻(夫)は今でも愛してくれているのだろうかと考え、どこか自信をなくしているような人物です。

                                         

                                         

                                        そんな人物を通して、チェーホフは言います。恋は冷める。男も女も関係ない。この人生の冷厳な現実から目を背けてはならない。もう愛せなくなった妻がいる。顔を見るのもぞっとする夫がいる。彼らは、かつて身を焦がして愛し抜いた人だった。そのかつてのいとしき人を、かつてと同じような「純愛」では愛せない。そう思って人生に絶望している人に、いい加減に目を覚ませ、そんなことは当たり前のことだと言うのです。

                                         

                                         

                                        チェーホフの作品に『決闘』という中編があります。秀才で文学青年のラエーフスキーは大都会ペテルブルグで人妻のナジェージダと激しい恋に落ち、ロシア南部のコーカサスの田舎町へ「本当の生活」を求めて逃げてきます。しかし頭だけで考えたそんな暮らしができるはずもありません。最近ではナジェージダへの愛も冷めきっています。

                                         

                                         

                                        あんなに愛した女なのに、一緒に住み始めると、何もかもがいやになる。他に好きな女ができたのではない。ただ、身を焦がすような、道ならぬ恋の炎が落ち着くと、毎日が平凡で、単調な「生活」に変わるだけ。気がふさぐ。ちょっとしたことで、イライラする。おれの人生を破滅させたのは、すべてこの女のせいだと思い始める。昔は好きでたまらなかった、女の愛らしいしぐささえもが憎悪の対象となる。

                                         

                                         

                                        <今度は、あらわな白い首筋と後ろ首を這う巻き毛の束とが、たまらなくラエーフスキーの気にさわるのだった。夫への愛の冷めたアンナ・カレーニナにとって、何より厭でならなかったのは夫の耳だったという話を思い出して、彼は『本当だ、あれは実に本当だ』と思った。(略)彼女が牛乳をかけたジェリーをまず匙で触ってみてから、やがて牛乳をすすりながらものうげに食べはじめたとき、こくんと喉の鳴る音がするたびに、彼は嫌悪のあまり髪の根がかゆくなるほどだった。(略)彼は自分をとがめる気はせず、かえってこうした感情を起こさせるナジェージダが無性に腹立たしかった。世の中の男が愛人殺しをする気持ちがわかるような気がした>

                                         

                                         

                                        そこにラエーフスキーの不実さが許せない「人生の検察官」フォン・コーレンなる人物が登場します。狭隘な正義をふりかざして芸能人の不倫を糾弾するワイドショーのコメンテーターのような人物です。お互い対極にあるようなこの二人が、ある出来事をきっかけに衝突し、命をかけた決闘へとなだれ込んでいきます。二人は夜明けの町はずれでピストルを手に至近距離で向き合います。

                                         

                                         

                                        軟弱な文学青年ラエーフスキーには射撃の心得などあるはずもありません。死を覚悟した彼は、出がけに、愛人のナジェージダと言葉を交わします。そして、不安で恐れおののく、身寄りのない、罪深くもあるこの不幸な女こそが、自分にとって唯一の、親身の、かけがえのない人間であることに気づきます。ラエーフスキーは、初めて、この女と生きたいと、痛切に思います。

                                         

                                         

                                        かつて愛し合った。ただそれだけで、どんなにお互いを頼りにしたか、お互いの欠点をよろこんで許し、それぞれを尊重し合うことができたか。かりに人生の荒波によって夫婦関係が破綻しかけたとしても、この世には実に少ない、尊いものであることか。それだけでも相手に寛大に接するには不足だというのか。チェーホフは、そう言いたかったのではないでしょうか。

                                         

                                         

                                        夫婦の中心に「純愛」を置けば、おそらくかなりの確率で夫婦関係は破綻するでしょう。なぜなら、「純愛」は空想の産物だからです。「この人のために生きる」「この人への愛は変わらない」という、愚かな思いこみと、相手にもそれを求める傲慢さは生活をむしばみます。身を焦がすような「純愛」は若いときの特権にしたいものです。

                                         

                                         

                                        この事実に気がつけば、「純愛」が終わった後の、気持ちが安らぎ、和やかで、精神的に落ち着いた幸福な時代を迎えられるかもしれません。それは、相手に何かを求めるのではなく、現在すでにそなわっているもの以外に何一つ必要ではないことに思い至ることです。

                                         

                                         

                                        さて、『決闘』の結末はどうなるのでしょうか。ラエーフスキーは、自分の拳銃を空に向けて撃ちます。一方、フォン・コーレンはラエーフスキーの額に冷酷に狙いを定めます。結末を知りたい方は本屋さんへ急ぎましょう。

                                        | 文学・哲学・思想 | 15:18 | comments(0) | - |
                                        画家はなぜ自画像を描くのか
                                        0

                                          「人は様々な可能性を抱いてこの世に生まれてくる。彼は科学者にもなれたろう、軍人にもなれたろう、小説家にもなれたろう、しかし彼は彼以外のものにはなれなかった。これは驚くべき事実である」と述べたのは、小林秀雄です。

                                          父が死んで帰郷し、さて何をして生きていこうかと考えたとき、塾教師をすることくらいしか取り柄のない自分を発見しました。そして、運や偶然のおかげもあって、何とか今日までやって来ました。

                                           

                                          たまたま自分が生まれ合わせた時代の、たまたま居合わせた場所で、塾教師という仕事を受け入れ、生徒と向き合ってきたに過ぎません。いま思うと、あの時こうすればよかったと思うこともあります。しかし、できませんでした。それが自分の限界だったのだと思います。

                                           

                                          今、タイムスリップして幼年期の自分に出会い、その瞳をのぞき込み、行動を観察すれば、「この子は将来、こういった生き方をするだろう」と予測できたかもしれません。その予測と今の私の生き方は、あまりずれていなかったと感じます。「彼は彼以外のものにはなれなかった。これは驚くべき事実である」ということを痛感するのです。

                                           

                                          私は世間が成長段階に応じて次々に準備する『箱』の中で生きることをせず、その外をさまよいながら生きてきました。日常的に不愉快なことも経験しました。しかし、そのことによって、自分の精神の<型>を作り上げることができたのだと思います。

                                           

                                          それは、人生で出会うことの一つ一つに対して、どのように考え、どのように行動すればよいのかという指針となりました。世間的な常識の話をしているのではありません。『箱』の外の世界で自我を形成するということが、私にもたらした自由と恩寵について話しているのです。

                                           

                                          幼少年期の人間をじっくり観察すれば、その人間が後年たどることになる宿命の萌芽がすでに出ていることに気づきます。人生の早い時期に、自分の宿命を自覚し、世間との距離を測りながら生きてきた自分とはそもそも何者か?前世の漠然とした記憶をたどるようにして生きていた、あのときの自分が今の自分なのか?あのとき、象の墓場のような場所で暗い眼をしていた少年は、今のこの自分なのか?

                                           

                                          画家が自画像を描く理由は、おそらくこういうところにあるのだと思います。そこにあるのは、自意識を超越した、宿命という名の生命の持続感なのです。

                                           

                                          私はこのブログで他人の顔を勝手にアップしています。私が尊敬する人も軽蔑する人も含めて。自分の顔を隠して、他人の顔をアップするのは卑怯で、公平ではないかもしれません。そこで、3週間ほど前に撮った自分の顔をアップすることにしました。そのことによって、何一つプラスになることはありません。願わくば、この中年男の顔が見る人の食欲をなくしたり、目覚めが悪くなったりしないことを祈るばかりです。

                                           

                                           

                                          | 文学・哲学・思想 | 17:19 | comments(0) | - |
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