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まず私たちの生命と暮らしを脅かす事実を知ること。それにたいしてどのような認識を持つのか。この国のみならず、世界を壊滅させる災厄とどう向き合うのか。次世代に対してどう責任を取るのか、そもそも責任を取れるのか。自分に何ができるのか。この現実にどう向き合うのか。それを教えるのが教育のはずだが、この国には教育も哲学も存在しない。
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「最悪」の核施設 六ヶ所再処理工場 (集英社新書)
「最悪」の核施設 六ヶ所再処理工場 (集英社新書) (JUGEMレビュー »)
小出 裕章,渡辺 満久,明石 昇二郎
原発よりもはるかに危険な六ヶ所村再処理工場。私たちの日々の生活が薄氷の上で営まれていることを痛感させられる。同時に、この国には「国民の生命・財産・自由を守り抜く!」と威勢のいいことを言う総理大臣と無能の政治家しかいないことに絶望する。核燃料サイクルと言い、下北半島の再処理工場と言い、3兆円以上の国民の税金がつぎ込まれ、いまだ後始末も将来の見通しもたっていない現実をどう考えているのか。彼らは核兵器を持ちたいという願望と税金をロンダリングして私腹を肥やすことしか眼中にない。北海道の地震だけに目を奪われてはならない。六ヶ所村は今回の震源地の目と鼻の先にあるのだ。
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幻影(イメジ)の時代―マスコミが製造する事実 (現代社会科学叢書)
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D.J.ブーアスティン
私にとっては古典の中の古典。三度読みました。そしてその慧眼にいまだに驚いています。
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殺人犯はそこにいる (新潮文庫)
殺人犯はそこにいる (新潮文庫) (JUGEMレビュー »)
清水 潔
ジャーナリストと称する職業がある。自称ジャーナリストもいれば、テレビのコメンテーターとしてリベラルに媚びる政権批判をし、名を売り、講演で稼ぐ職業をジャーナリストと呼ぶ者もいる。とんだ茶番である。ジャーナリストとはどこまでも「事実」を追いかける。テレビに出て能天気な解釈や感想を垂れ流している暇などないはずだ。ジャーナリストを志す若い人には清水氏の著作は避けて通れない。その名に値する本物のジャーナリストがここにいる。
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デジタル・ポピュリズム 操作される世論と民主主義 (集英社新書)
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福田 直子
おそらく自民党・安倍政権はSNSを駆使し、分析するデータサイエンス(日本版なのでレベルはまだ低いですが)の重要性に着目し、選挙にどうすれば勝てるか、自分たちに有利な世論を形成し、国民を誘導・分断するにはどうすればいいのかが分かっているのです。そのためのノウハウも蓄積しつつあります。安倍首相の貧困な語彙力からは想像できないカタカナ言葉を聞いていると、それがSNSを分析している集団から教えられたものであることがよくわかります。ただ彼らの致命的な弱点は将来の社会を導く理想がないことです。おそらく、思いもかけない結果が待っていることでしょう。なぜなら、所詮、彼らはアメリカとビッグデータの奴隷でしかないのですから。これからの政治は、好むと好まざるとにかかわらず、この本に書かれていること抜きには語れなくなっているのです。
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 (JUGEMレビュー »)

安倍政権に対するメディアの忖度が云々されていますが、元々同じ穴のムジナなのです。忘れてならないのは、日中戦争から太平洋戦争にかけて、日本の世論と新聞のほぼ全部は好戦的・拡張主義的だったのです。しかも、当時はまだ言論統制体制が発足していなかったのです。この本は、そうした「一貫して好戦的な世論とそれに便乗する新聞」が先導し、近衛文麿はじめ文民政治家がそれに便乗、軍部がさらに便乗、という構図を一次資料で克明に論証しています。安倍政権を支持するネトウヨの皆さんの日本語力では、まともな読解は無理ですので勧めません。一方、正確な歴史を知るためには「世論」の不気味さを知ることだと気づいている若い人には是非一読を勧めます。
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茫漠の曠野 ノモンハン
茫漠の曠野 ノモンハン (JUGEMレビュー »)
松本草平
著者は大分市にある『天心堂へつぎ病院』の院長、松本文六氏の御尊父、松本草平(本名松本弘)氏です。詳しくは、ブログで紹介したいと思いますが、第一次資料として極めて価値の高いものです。40年ぶりに復刻版を出された松本文六氏と出版社に感謝する他ありません。
戦略も何もない、無謀・無慈悲な戦争を語り継ぐことは、最も崇高で重要な人間の営為だと私は考えています。作家の司馬遼太郎氏は、電話で草平氏に次のように伝えてきたそうです。「先生の臨場感のあるノモンハン戦記に出会えて本当にありがとうございました。私は大東亜戦争の折、戦車隊の一員として従軍しましたが、先生の従軍記以上のものを創ることはできません。」と。
一人でも多くの方がこの本を読まれることを望みます。ちなみに松本文六氏は伊方原発差止め訴訟の原告でもあります。その縁で、この本に出会うことができました。
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「南京事件」を調査せよ (文春文庫)
「南京事件」を調査せよ (文春文庫) (JUGEMレビュー »)
清水 潔
全国のネトウヨの皆さんへの推薦図書です。清水氏のこの本を読んでから、「南京事件はなかった!」「南京事件は捏造だ!」と叫びましょうネ。
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日本列島の全原発が危ない! 広瀬隆 白熱授業  DAYS JAPAN(デイズジャパン)2018年1月号増刊号
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広瀬隆
広瀬氏をアジテーターだの、オオカミ少年だの、悲観主義に過ぎると言って批判する人がいる。しかし、ブログで何度も述べてきたように、真の悲観主義こそがマインドコントールによって奴隷根性のしみ込んだ私たちの精神を浄化してくれるのだ。そもそも無知では悲観が生まれようもないではないか。国などいくら破れても結構。せめて山河だけでも次世代に残そうと考える人ならぜひとも読むべき本である。いや、これから幾多の春秋に富む若い人にこそすすめたい。
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チャヴ 弱者を敵視する社会
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オーウェン・ジョーンズ,Owen Jones
【本書への賛辞】

「怒りが生んだ、最高の本」
──ガーディアン紙

最高の論争がみなそうであるように、知性に裏打ちされた怒りが本書を支えている。
──エコノミスト誌

暴動や世界中に広がったオキュパイ運動に照らして考えると、分断社会に関する著者の鋭い分析は、
不気味なほど未来を予知していたことがわかる。
──アートフォーラム誌

情熱と、思いやりと、すぐれた道徳性が結実した仕事だ。
──ニューヨーク・タイムズ紙

政治の定説を見直す大胆な試み。著者は戦後のイギリス史を縦横無尽に往き来し、
階級、文化、アイデンティティといった複雑な問題を軽々とまとめてみせ、
結果として「階級」問題に火をつけ、大きな効果をあげている。
──インディペンデント紙

いまの制度が貧しい人々を見捨てていることに対する苛烈な警告──それが本書だ。
──ブログサイト「デイリー・ビースト」

ジョーンズは、「地の塩」だった労働者階級が政治のせいで「地のクズ」と見なされるようになった経緯を見事に説明している。
──タイムズ紙

この本は、新しいタイプの階級嫌悪と、その裏にあるものを痛烈にあばいて見せてくれる。
──ジョン・ケアリー(The Intellectuals and the Masses著者)

これは「イギリスはおおむね階級のない社会である」という考え方への、論理的で情報満載の大反撃だ。
──オブザーバー紙

情熱的で示唆に富む……この声が届くことを心から願う。
──スコットランド・オン・サンデー紙
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紹介していない本が山のようにあります。数日前にこの本を本棚の奥から引っ張り出し再読しました。いや〜面白かった。。とにかくこの本のことを忘れていた自分が信じられない。読んでない人に熱烈に勧めます。ハイ。
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秋山 敏
高校生にとって、今でも一押しの不朽の名著。でもこの本をことを知っている英語教師は少ないと思います。是非復刊してほしいものです。
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スノーデン 日本への警告 (集英社新書)
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エドワード・スノーデン,青木 理,井桁大介,金昌浩,ベン・ワイズナー,宮下紘,マリコ・ヒロセ
2017年4月18日、朝日新聞がようやく「パノプティプコン」を取り上げました。遅すぎますね。
これから先の日本社会は、ますます荒廃が進み、国民の不満が頂点に達し、やがて爆発します。それを未然に防ぐために、国は国民の監視を強化します。
実際アメリカでは「愛国者法」により、電子メールや携帯の通話履歴が監視の対象になっています。誰が、いつ、どこで、何を読んで、誰と通信を交わしたか、すべて国に筒抜けです。
「パノプティプコン」とはフランスの哲学者フーコーが用いた概念ですが、国民が刑務所の囚人のように監視される体制を言います。監視者の姿は見えませんが、囚人は監視者不在でも、監視を意識することによって管理統制されるのです。これを「パノプティシズム」と言います。
このシステムから解放されるためには、権力がどう管理・統制しようとしているかを知らねばなりません。この本はそれを知るための第一歩です。あなたが無知のまま、奴隷の人生を送りたければ、読む必要はありません。
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A.ミラー
アリスミラーのこの本は、塾を始めるきっかけになりました。ただ生活のためだけなら、他のことをしていたでしょう。『才能ある子のドラマ』とあわせて、当時の私には衝撃的な本でした。人生はどこでどう転ぶかわかりません。人間の奥深さを知ることで、何とか自分を維持していたのです。この本を読むと当時のことが、ありありと思い出されます。ある意味で、私の人生を方向づけた本かもしれません。
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NHK「東海村臨界事故」取材班

2月18日のブログでも書きましたが、仕事のために読むビジネス書の類は、最終的には効率を重視し、最小の資本と労力の投下で、いかにして最大の利益を上げるかということに尽きていると思います。そのための働き方改革であり、そのための賃上げです。そのための人心掌握術であり、顧客対応です。ビジネス書を読めば読むほど、人間は軽薄になり、視野が狭くなっていきます。もしあなたがそれを自覚するきっかけがほしいなら、是非この本を読むことを勧めます。読書はビジネスのためにするのではないということが分かると思います。この本は私たちの日常の風景を一変させるだけのインパクトを持っています。いわば、ことばの最高の意味における「闖入者」なのです。
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服従
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瀬木 比呂志
この本はまだ発売されていません。自分で読んでいない本を推薦するのは邪道でしょう。しかし、これまでの『絶望の裁判所』『ニッポンの裁判』(ともに講談社現代新書)に続く裁判所、司法批判の第3弾が長編の権力小説だということで、過去2冊の本の面白さからして、推薦に値する本だと思いました。『原発ホワイトアウト』の最高裁判所ヴァージョンだと思います。読んでからコメントを追加したいと思います。
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アモン・シェイ
学校なる場所に通っていた時、毎年夏になると課題図書を読んで、読書感想文を書かねばならないのが苦痛でした。課題図書の選定には学校と書店の密約があるに違いないと思っていたくらいです。

偶然巡り合った面白い本の感想を書くのならまだ我慢できたかもしれません。つくづく学校というところは、余計なことをしてくれると思ったものです。

あまりにめんどうくさいので、「あとがき」を参考に、あらすじを書いて提出したら、トリプルAをもらいました。

学校というところは、もしかしたら、人生の退屈に耐える訓練をする場所だったのかもしれません。この本を読んで、改めてそのことを確認しました。別に先生を責めているわけではありません。それほど自覚的に生きるということは難しいのだとため息をついているだけです。
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選挙 [DVD]
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想田和弘監督の観察映画。音楽による演出は一切なく、徹頭徹尾監督の視点で撮られたドキュメンタリー映画。見終わった後、日本の選挙風土の貧困さが浮かび上がる。この国に民主主義はない、ということを改めて確認し、そこから出発するしかない。その勇気を持つ人には必見の映画です。合わせて『選挙2』もどうぞ。
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マックス ヴェーバー
ウェーバーの死の1年前、1919年、学生達に向けた講演の記録です。
一部抜粋します。

「自分が世間に対して捧げようとするものに比べて、現実の世の中が―自分の立場からみて―どんなに愚かであり卑俗であっても、断じてく挫けない人間。どんな事態に直面しても「それにもかかわらず!」と言い切る自信のある人間。そういう人間だけが政治への「天職」を持つ。」(P105〜106)

「さて、ここにおいでの諸君、10年後にもう一度この点について話し合おうではないか。残念ながら私はあれやこれやいろんな理由から、どうも悪い予感がしてならないのだが、10年後には反動の時代がとっくに始まっていて、諸君の多くの人が―正直に言って私もだが―期待していたことのまずほとんどは、まさか全部でもあるまいが、少なくとも外見上たいていのものは、実現されていないだろう。」(P103〜104)

10年後には、ワイマール体制は機能不全に陥り、1933年にはヒトラーが首相に就任します。

平和憲法は、日本人にとって310万人の命と引き換えに手に入れた唯一と言っていい理念であり、アイデンティティーでした。その唯一の誇りを、日本人は損得勘定で葬り去ろうとしています。言い古された言葉ですが、歴史は繰り返すのです。
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中沢 新一
小学校を卒業するころ、将来なりたい職業として思い描いていたのが、天文学者か生物学者でした。プロ野球選手は、自分のセンスでは無理だと悟りました。物ごころついたころから興味があったのは宇宙や昆虫や植物の世界でした。そんなわけで南方熊樟に出会うのは必然的な成り行きだったのです。人間は言葉によって世界を把握しますが、それ以外の把握の仕方があるはずだと、ずっと思ってきました。南方熊樟は、小林秀雄と同じく、直観による世界の把握の仕方を教えてくれました。この本は、言葉によって構成された世界秩序の外に出て、世界を改めて考えたい人に大いなるヒントをあたえてくれます。安倍政権によるゴキブリのフンのような、あまりにばかばかしい政治状況を見せつけられているので、精神の衛生学として一気に読みました。
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こどもの教育から裏金を使ったオリンピック誘致、原発再稼働、戦争準備から武器の売却、安倍政権の裏の権力としてメディアに絶大な影響力を行使する電通。私たちは電通が作り上げた「箱」の中でいいようにマインドコントロールされている。自分の意見だと思っていたものが、実はそう思わされていただけだということに気づかなければならない。音楽をはじめとする芸能情報、その中で踊らされるミュージシャンやタレント、果てはデザイン業界までを席巻する。今や電通の介在しないメディアはないと言ってもいい。利権あるところに電通あり、です。
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前作『日本はなぜ「基地」と「原発」止められないのか』に続く著者渾身の力作。自分の人生を生きたい人にすすめます。ただそれだけです。18歳で選挙権が与えらる高校生が政治を考える際の基本的なテキストになる日がくるといいですね。無理でしょうが。これ以上余計なコメントはしません。まず手に取ってみてください。
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メディアで取り上げられるよりはるか前から日本会議の存在について私は言及していました。電通と同じくタブー視するメディアには心底失望したものです。報道すればタブーはタブーでなくなるのです。何を恐れているのでしょうか。干されれば、何とか生活をする工面をすればよい。それだけのことです。
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磯崎新
帯に「祝祭都市にスタジアムはいらない」とあります。そもそも2020年まで天災と原発事故をやり過ごし、経済危機を乗り越えて存在しているでしょうか。極めて怪しいですね。偶然書店で手に取って読みました。彼の文章を読むと、建築は現世の権力に奉仕するものではなく、想像力の王国を作るものだと思わされます。建築にそれほど興味のない人でも、読めます。いや、いつのまにか引き込まれているでしょう。
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難関中高一貫校で学び、東大に合格しても、それはもはや知性のバロメーターではありません。この本に書かれていることが真実だと見破れることこそが本物の知性です。ニセの知性は既得権益を守るためにはどんな屁理屈でもひねり出します。おまえは何も知らないと言って他人を見下し、金と権力におもねるのです。ニセの知性は理想の灯を掲げることができません。「脳内お花畑」などという幼稚な言葉を使って揶揄するしかないのです。彼らの決まり文句は、他国が攻めてきたらどうするのかという、それこそ「脳内お花畑」的なものです。「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」とは、まさに至言です。
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私の元塾生の縁でお会いしたことのある烏賀陽弘道氏の渾身のレポート。事実を丹念に調べ上げ(これがジャーナリストの本来やることです)事実をして語らしめることのできる稀有なジャーナリスト。この本を読まずに福島第一原発の事故の本質に迫ることはできない。ダブル選挙の前に一人でも多くの国民が読むことを期待します。
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松岡正剛氏の本はどれも面白く、シリーズの千夜千冊を除けばほとんど読んでいます。『多読術』は、高校生にぜひ勧めたいと思います。高校時代に、この本を読んでおくと、さまざまな分野の知的見取り図を手に入れることができます。学校の授業だけではなく、この本を手掛かりにして知の荒野に歩みを進めてほしいと思います。
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安倍首相は「この道しかない」と言って消費税を上げ、集団的自衛権の行使を可能にする閣議決定をし、公約とは正反対のTPPを批准することで、日本の文化=アイデンティティーを破壊しようとしています。

もし私たちが生き延びたければ、そのヒントがこの本の中に書かれています。日本は超大国の「夢」を代弁するだけの国になってはなりません。
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山本氏の国会での質問を、本になって改めて読み直して感じることは、文字通り「みんなが聞きたい」質問をしてくれたということです。安倍首相が小学生に「なぜ政治家になったのですか」と質問された時、「父親も祖父も政治家をしていたからです」と答えていました。小学生相手に、何と言う悲しい答えでしょうか。語るべき理想を持たない政治家など、所詮は官僚に利用されるだけです。それに対して、山本氏には語るべき理想がある。「政治なんてそんなものさ」というリアリストが発散する腐臭を吹き飛ばすさわやかさがある。それは、彼の身体には収まりきれない理想が持つ力そのものです。彼は言います。「力を貸してほしい。少なくとも、あなたが必要だと思われる社会、私が必要だと思われる社会を作っていきたい。そう思うんです」と。日本の総理大臣にふさわしいのはどちらでしょうか。
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ジョン・W・ダワー,ガバン・マコーマック
おそらく、日本人自身よりも海外の知識人のほうが、日本の問題を正確にとらえていると思わせる本です。読み終えて何気なくテレビを見たら、わが大分県選出の国会議員、岩屋毅氏と江藤晟一氏が、2016年ミスユニバース大分県代表を選ぶ催し物に出ていました。名誉顧問だそうです。いかがわしい宗教団体をバックに票を稼ぐだけでは飽き足らず、こんな大会に顔を出して名前を売ろうとする。大分市長の佐藤樹一郎氏も出席していました。このお三方は、こんなことをするために国会議員や市長になったのでしょうか。国民の税金を使ってやることといえば、テレビに出演してにやけた顔をさらすことでしょうか。もう物事の軽重が全く分かっていません。せめてこの本くらい読んではどうでしょうか。私はこの本に書かれていることの大部分に賛成です。
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出版されてすぐ読みました。国会で、読んでもいないのに、安倍首相が躍起になって否定した事実が書かれています。蓮池氏はあちこちから人格攻撃の対象とされてきましたが、自分にも落ち度があったと認めています。自分は総理大臣なのだから落ち度はないと居直る人間とは好対照です。この本を読んで、拉致問題について今一度国民が考えることを望みます。
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渡邉 格
2年半ほど前に求めて、一気に読みました。マルクスの『資本論』の中に書かれていることを、著者が自分なりに消化し実践していく過程が書かれているので、一種のドキュメンタリー文学として読めます。きっと著者と同じ思いの若者は全国にたくさんいると思います。かけがえのない一回きりの人生を、充実して生きたいと思っている人に勇気を与える本です。
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今年度ノーベル文学賞受賞作品。チェルノブイリは言うまでもなく、フクシマでさえ人々は忘れたがっています。もう過去のことだと言い聞かせて。しかし、過去のことではなく、まぎれもない現在進行中の現実であり、私たちが生きている世界そのものです。この本を読んだ後、橋下徹が御堂筋をイルミネーションで照らし出し、F1カーに乗って写真を撮っているところを見ました。その時のセリフ。「大阪はここまでできる!」

もう何と言うか、別世界を生きている人間です。彼の発する言葉は文学とは無縁です。人間が言葉を持ったのは、言葉にしがたいものを言葉にしようとするためです。政治家が発する言葉の軽さと言ったらありません。それだけ現実も軽いものになったということでしょう。
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鈴木大拙の言わんとすることが、ようやくわかりかけてきました。年齢を重ね、日本文化の基底にあるものをじっくり味わうことで開示される世界があるのです。日々の生活に追われていては、この本を読み、味わう暇などないでしょうが、それだからこそ手に取ってみてはいかがでしょう。
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人間は、条件次第で、喜々として殺人を犯す。そして、その条件を整備しつつあるのが、安倍政権とその背後でうごめく『日本会議』である。このことに気づいていても、「配慮する」ことを最優先して報道しないメディア(特にNHK・読売新聞・産経新聞)。そしてそこに寄生する学者やコメンテーター、芸能人。このドキュメンタリー映画は、彼らの自画像である。たまには、自らの顔をじっくり眺めてみるがよい。
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私が長年考えてきた問題を解明するヒントになりました。ブログで書いたように、まず感情を基にした結論があって、それを正当化するために人は「知性」を動員するという、ごく当たり前のことが書かれている。つまり、知の粉飾決算報告書である。
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中村 好文
中村さんの著作の中では、個人的に最も好きな本です。読んでいるだけで楽しくなります。限りなく優しい、でも、痛烈な文明批評です。これからの生き方のヒントが満載です。それを一人でも多くの人と分かち合いたいと思い、中村好文論・その3の中で引用させていただきました。
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暮らしを旅する
暮らしを旅する (JUGEMレビュー »)
中村 好文
以下は私がアマゾンのレビューに投稿したものです。再録します。
「もし人に幸福な生き方があるとしたら、中村好文さんのような生き方だろうと、ずっと思ってきました。
建築雑誌をパラパラとめくりながら、ふむ、と思って手が止まると、そこには必ずと言っていいほど中村さんの設計した住宅がありました。
文は人なりと言いますが、その人の書く文章のエッセンスがこれほど見事に建築にも表現されている例はめったにありません。
建築に限らず、食の分野でも、ことばと実物の乖離がはなはだしい時代に、中村さんの設計した住宅や美術館に出会うと、どこか安心するのですね。
そういうわけで、著者の本はすべて読ませてもらっています。
この本も偶然、年末に本屋さんで手に入れ、装丁やカバーの手触りを楽しみながら読んでいます。
読みながらいつの間にかほのぼのとしている自分を発見します。
一日に一編か二編を過去の記憶をたどるようにして読んでいます。
この本の平明さ、やさしさがどこから来るのか。そんなことを分析するのは野暮というものです。
とにかくこの素敵な小さな本は、旅のお供にどうぞ!とすすめたくなります。」
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中村 好文,神 幸紀
中村さんの書かれた本はすべて読みました。どの本もおすすめです。これから家を建てようと考えている人は、どの本でもいいですから、一冊中村さんの本を読んでみてはいかがでしょうか。エッセイとしても十分楽しめます。この本は北海道にあるパン屋さんの建物を作りながら、人は「パンのみにて生きるにあらず」を実践したものです。ダジャレ好きの中村さんらしい(笑)。
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中村さんの本を全部は読めないという人向けに、一冊だけ選ぶとすればこれでしょうか。普通、設計したらそれで終わりという建築家が多い中、かってのクライアントを訪問して話を聞き、それを本にしたものです。クライアントといい関係が築けてないと難しいですね。加えて自信がないとなかなかできることではありません。
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反・情報としての文学だけが世界を変革する。
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    今回のタイトルは、少し大げさかもしれません。世界を変革するなどと、この暑いときに何言ってるんだ、妄想はお前の頭の中だけにしてくれと言われるかもしれませんね。

     

     

     

    わかりました。ブログを書くのは一円の儲けにもならないどころか、企業のコマーシャルを載せないためにお金を払っているので、なるべく簡潔に書くつもりです。そうは言っても、断片をつぎはぎしたような文章では、せっかく貴重な時間を使って読んで下さる方に申し訳ないので、ある程度の長さは必要になります。

     

     

     

    今回のブログでは、そもそも本など読む価値があるのか、ましてや文学などいったい何の役に立つのか、という問いに答えます。さらに、本当の文学だけが世界を変革すると考える理由を語りたいと思います。

     

     

     

    今の出版業界は、自分が理解できないものには価値がないという風潮を背景に、読んでもわからない、頭に入らない、だからもっとわかりやすく書け、なんだこの翻訳は、そもそも前提となる知識すら書いてないじゃないか、とクレームをつけるような読者大衆を相手にしています。

     

     

     

    大手出版社はとにかく本を売らなければならないので、この現状を初級があって中級があって上級があるというような、知の序列の問題としてとらえ、読者層を絞ります。

     

     

     

    つまり、読者の不安や劣等感や怒りにつけこんで、入門書やビジネス書や自己啓発本を矢継ぎ早に出版するわけです。例えば、名前が売れているだけで何のオリジナリティーもない起業家の話をゴーストライターに書かせて、読者をつなぎとめます。これを搾取といいます。幻冬舎の見城徹のように権力者に取り入り、時代の空気を読んで読者を搾取できる人間ほど有能だと言われるのです。

     

     

     

    かくしてテレビや出版メディアは、人間を消費単位とみなして平準化し、動物化し、アトム化して交換可能な存在にしました。そして子供たちは、地域共同体や自然から学ぶよりも、もっぱらメディアから学んでいます。

     

     

     

    今では、情報とはメディアによって薄められ広められた通俗な話、よくある話、分かりやすい話のことです。自分だけの体験はメディアによって漂白されたのです。

     

     

     

    これは自分のかけがえのなさを失わせるだけでなく、他人のかけがえのなさも失わせます。自分の真の欲望はなくなってしまい、残っているのは誰かの、誰かから教わった、借り物の欲望だけになりました。これが疑似体験を提供するメディアが隆盛を極めている理由です。

     

     

     

    文学とは無縁の作家や評論家の中には、読んだ本の量を誇っているような人がいますが、同じような本を大量に読まされているだけです。知の伝道師を気取っていても、実は搾取されていることに気づいていません。読んだ本の数を誇っている時点で、出版業界から安全パイとして認知されているのです。

     

     

     

    そもそも彼らは「読む」という行為の恐ろしさがわかっていません。情報に還元されたものしか相手にしていないので、自分を根底から変革する書物に出会っても、それと正面から向き合うことができないのです。

     

     

     

    ところで、そもそも「文学」とは、かつては読み書く技法一般のことでした。哲学者ジョン・ロックやヒューム、物理学者のニュートンは「文学者」と呼ばれていました。彼らは文献を、あるいは自然法則を「読み」、本を書くことにおいて抜きんでた才能をもっていたからです。

     

     

     

    そしてブログでも取り上げた18世紀最大の経済学者アダム・スミスは、出世作の『道徳感情論』を書く前も書いてからもエディンバラ大学で文学を教えていたのです。マキャベリや『ガリバー旅行記』の作者であるスウィフトを例に挙げて、いかに書くべきかについてこまごまと実際的な注意をしていました。これだけでも私たちが現在「文学」と呼ぶものがいかに狭隘なものか分かろうというものです。

     

     

     

    そもそも、ものを読んだり書いたりすることは奇妙な熱狂と愉悦をはらみ、ある種の狂気をはらむものです。真の文学は情報に還元できないものを持っていて、それに触れた人は、しばらくは何もしないで茫然としているほかないのです。これが「読む」という行為の恐ろしさです。小林秀雄もヴィトゲンシュタインも、語り得ぬものについては沈黙しなければならない、と言っています。

     

     

     

    しかし、今の軽薄極まりない出版業界の中では、沈黙すれば才能がないとみなされます。それどころか、前々回のブログ『情報のアンテナを折る』で書いたように、無知で愚か者の烙印を押されます。テレビタレントや芸人と同じように、絶えず名前を売り、メディアに露出する必要があるのです。

     

     

     

    私が影響を受けた文学者は、「無数のアンテナを張りめぐらす」生き方を拒否し、無名と日蔭を選び、運命にみちびかれるようにして、突然、社会の表舞台に登場してきた人たちです。

     

     

     

    「読む」という行為の恐ろしさについて、もう少しだけ話をさせてください。読むという行為は書き手の無意識に接続することです。例えば、ニーチェを読んでわかるということは、ニーチェの無意識に接続し、彼の夢を自分の夢として見てしまうということです。ご存じのように、ニーチェは錯乱し、発狂して精神病院の中で死にました。

     

     

     

    彼の本の一章句を読んで理解するということは、その言葉に導かれて生きる他なくなることを意味します。その言葉が青白く発光するのを、かたずをのんで見つめる時間を過ごすということです。ですから、古井由吉氏は「文学にはうっかり理解したら大変だという作品が多い」と言っています。

     

     

     

    もちろん、「読む」という行為には、神でさえ嫉妬するような愉悦(ヴァージニア・ウルフ)の瞬間があります。情報に還元する読書には、損得勘定はあっても、世界を変革する力はありません。仮に、世界同時革命というものがあるとしても、それはまず個人の中で「文学」によって自らの世界を変革することから始まっているはずです。今回のタイトル『反・情報としての文学だけが世界を変革する』の意味がお分かりいただけたでしょうか。

     

     

     

    それでは具体的にどうすればいいのかという問いに答えます。

     

    古井由吉も小林秀雄も夏目漱石も、ニーチェもショウペンハウアーもスタンダールもロラン・バルトもヘンリー・ミラーも同じことを言っています。「本は少なく読め。多く読むものではない」と。「少ない本を繰り返し読め」と。

     

     

     

    幼い子供さんを持つお母さんは、子供にせがまれたときには同じ本を何度も何度も読んであげてほしいと思います。その本はきっとお子さんの無意識に触れているのです。それをよすがとして、さらなる言葉の海を泳ぐ楽しみを発見することでしょう。

     

     

     

    最後にある人物を紹介して終わりにします。ブログでも取りあげたロシア文学者、北御門二郎氏です。彼は「うっかり」トルストイを「読んだ」のです。トルストイの思想を懐胎したのです。東京外国語大学の原卓也教授と翻訳論争を巻き起こしましたが、職業的行為としてトルストイを翻訳する学者が、生活のすべてを傾注してトルストイの思想を生きた「文学者」にかなうはずがありません。ちなみに、小林秀雄は熊本の山奥で農業をしていた北御門氏を訪ねています。振舞われた一杯の湧水を本当においしそうに飲んだということです。

     

     

    北御門二郎氏については、以下の過去記事をご覧頂ければ幸いです。

     

    『良心的兵役拒否について』

    http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=113

     

     

    | 文学・哲学・思想 | 17:21 | comments(0) | - |
    情報のアンテナを折る。
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      以下は、小林秀雄の『当麻』の中の言葉です。

       

      美しい「花」がある、「花」の美しさという様なものはない。

       

      これは彼が人生にどのように向き合ってきたかを象徴的に表した言葉です。

       

       

       

      告白しますが、私は18歳の時に小林秀雄に出会い、その後ずっと彼の影響下にあります。中井久夫氏や古井由吉氏との共通点に気づいた時は、上流では別々に流れていた川が、下流で合流し、大河となって海に流れ込むさまを見ているような感動を覚えました。その時、こういった経験をすることが自分にとって人生の最大の喜びだと感じたのです。

       

       

       

      この言葉を現代風に解釈すれば、以下のようになるかもしれません。

       

      「花」の美しさについてあれこれ議論することは、抽象的な「情報」を収集しているだけである。どんなに多くの情報を収集しても、あるいは情報を収集すればするほど、実在する「花」から遠ざかる。

       

       

      それは、「批評家」や「専門家」を生み出すかもしれない。彼らは世界のすべてを一望のもとに置き、あらゆる問題について語りうるという幻想に憑かれている。あるいは特定の分野についてすべてを知っているという幻想にすがりついている。そんな全知全能を目指す自我が一体存在しうるのかと疑うことさえしない。これこそが彼らの幼児性のよって来るところだ、ということになるでしょうか。

       

       

       

      小林秀雄は、人生を深く生きるには目の前に「花」があれば足りる、後はその花を飽きず眺めることだ、だから「情報のアンテナを折れ」と言っているのです。日々の生活を大事にする人は、情報のアンテナなどなくても生き生きと愉しんでいるではないか、と言うのです。

       

       

       

      この言葉から、ジル・ドゥルーズの「堕落した情報があるのではない、情報それ自体が堕落なのだ」という言葉を思い出しました。なぜ、情報それ自体が堕落なのでしょうか。

       

       

       

      「情報」は「命令」だからです。例えば、中二病(中学二年生頃の思春期に見られる自己愛に満ちた空想や嗜好が特徴の病気)に侵された大阪府知事の吉村洋文氏が、「イソジンでうがいすればコロナの陽性率が下がる」と言えば、たちどころに品切れになるのは、人々が「情報」を「命令」だと受け取ったからです。府知事がこんな根も葉もない情報を流せば、それだけで知事の資質が問題になるはずです。

       

       

       

      「情報」の本質は「命令」ですから、情報不足の人は大事な命令を聞き逃しているのではないかという恐怖にさいなまれるようになります。その結果、ますます情報収集に拍車がかかります。しかし、情報を集めることは「命令」を集めることです。すすんで誰かの奴隷になることです。

       

       

       

      命令にはそれを下す側と下される側があります。命令を下す側には、さらに上から命令が下されます。他方、命令された側はさらに下に対して命令を下します。かくして情報収集の名のもとに指揮命令系統が私たちの意識の隅々にまで張り巡らされます。

       

       

       

      私たちが情報を収集するのは何のためでしょうか。企業が利潤をあげて生き延びるためでしょうか。受験を勝ち抜いて社会的なヒエラルキーの上位に位置するためでしょうか。それもありますが、情報がなければ自分が正しいかどうかがわからなくなるからではないでしょうか。愚かで無知に見えるからです。

       

       

       

      そうだとすると、小林秀雄の言葉を「情報のアンテナを折れ」という意味だと解釈することは、時代錯誤もはなはだしいということになります。彼は私たちに愚かで無知になれと言っているのでしょうか。実はそうなのです。

       

       

       

      現代では、情報を収集することは嬉々として誰かの命令に服することだと言いました。命令に従ってさえいれば、のけ者にされることもなく、自分は正しい、間違っていないと思い込めるのです。

       

       

       

      私は若い人たちに、それでも勇気をもって「情報のアンテナを折れ」と言いたいと思います。自分のいる場所がわからなくなるかもしれません。周りの話題についていけずに、愚かで無知だと思われるかもしれません。しかし、メディアの匿名性に責任を転嫁して、自分らしく生きていると思い込み、すすんで誰かの奴隷になるよりましではありませんか。

       

       

       

      情報のアンテナを折るということは、スマホやiPadを一度は捨てるということです。テレビは見ない、ネットにもアクセスしないということです。それでは生きていけないというのでしょうか。そんなことはありません。つい数年前まで、高校生も大学生も「スマホ」なしで生きていたのですから。

       

       

       

      私のこの記事を読んで、何を無責任なことを言っているのか、気でも狂ったのかと思われるかもしれません。しかし、そう思うのは、情報によって構築された現実がすべてだと思い込まされてきたからです。私は正気です。

       

       

       

      長くなるので続きは次回にしますが、いったん情報を遮断して自分は本当は何をしたいのか、何のために生きているのかと真剣に自問自答問しなければ、もはや私たちは自分の人生を生きることができない世界にいることを知るべきなのです。無知で愚か者だと思われることを恥じてはなりません。

       

       

      | 文学・哲学・思想 | 22:14 | comments(0) | - |
      「裸の王様」はマスクして引きこもっています。
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        安倍政権がよって立つ「現実」はことごとく捏造されたものです。この「現実」の中には歴史も含まれます。そのスポークスマンである菅官房長官は、今日も記者会見の場で付箋だらけの原稿を読み上げています。質問があらかじめ分かっているから付箋を貼ることができるのです。

         

         

         

        機械仕掛けの自動人形(菅官房長官の顔を見ているとこの言葉しか浮かびません)と魂を抜かれた記者との応答は、空語の見本市となっています。彼に国民を思う気持ちがあれば、すなわち政治家としてまともな神経を持っていれば、このような茶番劇にはとうてい耐えられないはずです。こんなバカげた記者会見はやめにしようという人間がいないところが、我が国のディストピア化に拍車をかけています。

         

         

         

        ところで、わが国の「王様」は何をしているのでしょうか。マスク一枚で裸になって引きこもっています。ブリーフくらいは着けているでしょうが、腑抜けの記者たちの中に裸であることを指摘する者がいないので、お互いにもたれあって無気力状態に陥っているのでしょう。

         

         

         

        これまでは、他人の書いたフリガナ付きの原稿を読むだけで総理大臣の職責を果たしたつもりになっていたのが、ここに来て原稿を読む気力すらも枯渇させてしまったのです。文字通り人格が空洞化すれば、自分の言葉を発することなどできません。

         

         

         

        言い換えれば、傀儡の役回りに耐えられなくなったということです。それはそうでしょう。統一的な人格があってこそ、問題の所在も、解決策も、前後の脈絡も理解できます。人の心に響かない言葉を量産してきたツケがまわったのです。自分の言葉で語ることさえできれば、どんな難局にも対応できます。

         

         

         

        ところで、アンデルセンの『裸の王様』は、よその国から来た巧妙な詐欺師に騙されて裸のまま街に出た王様の話ですが、このあまりに有名な童話は、多くの人の心に忘れられない印象を残しています。なぜか。実は、『裸の王様』は、権力者に迎合・忖度する中で「現実」がいかに捏造されていくかを描いているからです。あらすじをおさらいしてみましょう。

         

         

         

        「ある国に、新しい服が大好きな、おしゃれな皇帝がいました。ある日、城下町に二人組の仕立て屋がやってきます。彼らは「自分の地位にふさわしくない者や、手におえないばか者」の目には見えない不思議な布地を織ることができるというのです。噂を聞いた皇帝は二人に大金を払い、新しい衣装を注文します。

         

         

        彼らはお城の一室で忙しく布地を織っているようです。皇帝が大臣を視察にやると、「ばか者には見えない布地」は大臣の目には見えません。大臣は困りますが、皇帝には布地が見えなかったと言えず、仕立て屋たちが説明する布地の色と柄をそのまま報告します。

         

         

        その後、視察にいった家来はみな「布地は見事なものでございます」と言います。最後に皇帝が仕事場に行くと「自分の地位にふさわしくない者や、手におえないばか者には見えない布地」は、皇帝の目にもさっぱり見えません。皇帝はうろたえますが、家来たちに見えないとは言えず、布地の出来栄えを大声で賞賛し、周囲の家来も調子を合わせて衣装を褒めます。

         

         

        そして、皇帝はパレードで新しい衣装をお披露目することにし、見えてもいない衣装を身にまとい、大通りを行進します。集まった国民も「手におえないばか者」だと思われるのが怖くて、歓呼して衣装を誉めそやします。

         

         

        その時、沿道にいた一人の子供が、「王様は裸だよ!」と叫び、群衆はざわめきます。ざわめきは広がり、ついに皆が「王様は裸だ!」と叫びだすなか、皇帝のパレードは続くのでした。」以上。

         

         

         

        この物語の解釈は3通りあります。

         

         

        1:王様が裸だということは、みんなに分かっているのに、それを言うとまずいと思って(自分が手におえないばか者であることがばれてしまうので)人々は黙っている。それが子供の一言で王様は裸だということがばれてしまう。

         

         

        2:王様が裸だということは、一人ひとりには見えているが、実はそう見えているのは自分だけで、他の人には服が見えていると思っているので、人々は黙っている。

         

         

        これは現実が見えているにもかかわらず、そう見えているのは自分だけだと思うと、現実に対する認識がゆらいでしまうということを意味します。つまり、現実を認識するためには、自分の目で見えていることだけでは不十分で、多くの人にもそう見えているはずだという了解を必要とするのです。ここにはとても重要な問題が含まれています。このことは『言葉の意味は誰が決めるのか』ですでに述べました。

         

         

         

        3:王様の目にも、街の大人たちの目にも、ちょっと見ると裸のように見えるけれど、圧倒的多数の人にはほとんど透明の素晴らしい服が見えていると思うと、「了解」が知覚に影響を与えて、実際に見えているような気がしてしまうということが起こります

         

         

         

        かくして、多数派がありもしない現実を捏造していくのです。これは見て見ぬふりをすることとは違います。錯覚がそのまま現実になっていくのです。嘘が深まれば、本当は嘘なのに、もはやそれが嘘であると認識できなくなります。これが今の日本の政治的・文化的状況ではないでしょうか。

         

         

         

        「王様は裸だ!」と声を上げる「子供」もいなくなりました。受験と就職という「官製の現実」に適応することが最大の関心事ですからね。さて、あなたならどうしますか?

         

         

        | 文学・哲学・思想 | 13:50 | comments(2) | - |
        悪霊は「理性」の仮面をかぶって降臨する。
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          世はあげて「Go toトラベル」キャンペーン真っ只中です。「Go toトラベル」は英語でいえば Travel だけで済みます。わざわざカタカナにしているのは和製英語ですよ、文法的に間違っていることはわかっていますよ、と言うためでしょうか。と思っていたら、Go to eat とか言い出したので、あわわわ・・・です。なぜ素直にトラベルキャンペーンと言わないのでしょうか。どうしても Go to と英語の文字を入れたかったのかもしれません。いや、何とかして旅行させようという思いが、命令文となって結晶したのでしょう。おそらくこれも電通の仕業でしょう、なんちゃって。

           

           

           

          そんなバカ丸出しの日本ですが、今から4年前の今日、世間を震撼させる事件が起こりました。ほとんどの人は覚えていると思いますが、忘れている人もいるかもしれないので、過去記事を再録しておきます。

           

           

          ・「思想的確信犯」はいかにして生まれるのか?

          http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=389

           

          ・悪(霊)が降臨する前に。

          http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=561

           

           

          | 文学・哲学・思想 | 23:10 | comments(0) | - |
          「笑い」と人生
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            20代の頃に読んだベルクソンの『笑い』(岩波文庫版)は、どれだけ正確に読めていたのか怪しいものですが、芸術論の白眉だと思いました。今は増田靖彦氏の新訳でより分かりやすくなっています。

             

             

             

            ベルクソンは、「笑い」とは「しなやか」であるはずの生の表面を覆う「自動的」なものや「機械的」なものへのリアクションであるといいます。習慣、惰性、形式、類型、常識、等はいずれも自由な精神の働きを妨げ、それがもたらす「ちぐはぐ」な感じが「笑い」を生むと考えました。それは生のこわばりを解きほぐし反省する契機になるものだというのです。

             

             

             

            日本の「お笑い」は吉本の芸人に占拠されています。暴力団がらみで芸能界を引退した島田紳助の後を受け、今は松本人志が「お笑い」の世界を牛耳っています。お笑いの世界で生きていくには彼に「上納金」を収め、認めてもらわなければなりません。もちろん批判や反抗は許されません。

             

             

             

            つまり、もっぱらテレビを中心とした、恐ろしく狭い歪んだ世界なのです。その彼が安倍晋三というおバカな権力者をバックに、「お笑い」の世界の権力者として君臨しているというわけです。昨年、吉本興業とNTTが共同で行う映像配信などの教育事業に政府が100億円を投資することを決めたことと無関係ではありません。

             

             

            かくして、日本の「お笑い」は、ベルクソンの言う、習慣、惰性、形式、類型、反復、ひとりよがりの世界に堕しました。一言でいうなら、この国の政治も文化も報道ジャーナリズムも「お笑い」も、これ以上ないところまで腐敗堕落を極めているということです。

             

             

             

            気分が悪くなったので、一つだけ動画をアップしておきます。松本人志の芸では笑ったことのない私が、清水ミチコの芸には笑ってしまいました。小池百合子という政治家の硬直、惰性、形式、類型、反復、を見事に表現しています。これぞ「お笑い」です。

             

             

             

             

            | 文学・哲学・思想 | 21:01 | comments(0) | - |
            命の選別と「トロッコ問題」について。
            0

               

              大西つねき氏はれいわ新選組を除名されました。このことに異議はありません。処分に時間がかかったことも納得できます。

               

               

               

              私は前回のブログで彼のことを良きリバタリアン(オバタリアンではありません)だと言いました。彼の謝罪の言葉を信じたからです。しかし彼はそれを取り消し、自分の考えは間違っていないと主張したそうです。

               

               

               

              彼は確信犯的な悪しきリバタリアンだったのです。日本維新の会と同じです。現実主義を標榜し、「決められる政治」「結果を重視する政治」を叫ぶ政治集団と本質的に同じだったというわけです。それにエリート主義が加わります。

               

               

               

              「命の選別をするのが政治だ」という考えは、歴史的に見ると、戦争の下準備をし、遂行するときに使われるプロパガンダそのものです。国家権力が命の選別をした無残な結果の象徴がインパール作戦だったのです。大西氏はこの程度の認識もなかったのでしょうか。

               

               

               

              そもそも「命の選別をするのが政治だ」という考えはどこからでてくるのでしょうか。それを考えるときに引き合いに出されるのがいわゆる「トロッコ問題」です。

               

               

               

              「ハーバード白熱教室」のマイケル・サンデル教授が日本で紹介したので、一時有名になりました。2010年にNHKが東大での授業を番組にしたのですが、テレビで彼の「哲学」の授業を見て、なぜこの人物がハーバード大学で最も人気のある教授なのか理解できませんでした。彼の授業は「哲学」どころか、思考停止を強制する単なるパフォーマンスのレベルを出ないものだったからです。以下、具体的に論じます。

               

               

               

              サンデル教授は次のように言います。(『ハーバード白熱教室講義録+東大特別授業(上)ハヤカワ文庫』(P17〜18)より。

               

               

              ― この講義は「正義」について考える。まずこの話から始めよう。君は路面電車の運転手で、時速100キロの猛スピードで走っている。君は、行く手に5人の労働者がいることに気づいて電車を止めようとするが、ブレーキが利かない。君は絶望する。そのまま進んで5人の労働者に突っ込めば、5人とも死んでしまうからだ。ここでは、それは確実なことだと仮定しよう。君は「何もできない」と諦めかける。が、そのとき、脇に逸れる線路=待避線があることに気づく。しかしそこにも働いている人が1人いる。ブレーキは利かないがハンドルは利くので、ハンドルを切って脇の線路に入れば、1人は殺してしまうけれども、5人は助けることができる。

              ここで最初の質問だ。正しい行いはどちらか。君ならどうする?多数決を取ってみよう。ハンドルを切って避けるという人は?手を挙げて。では、曲がらずに直進するという人? ― 以上。

               

               

               

              これがいわゆる「トロッコ問題」と呼ばれるものです。要は「5人を救うために1人を犠牲にすることは許されるのか?」という問題です。

               

               

              大西氏はこの問いに対して、「5人を救うために1人を犠牲にする」選択をするのが政治の役目だと考えています。5人の若者を救うために1人の老人・障碍者を犠牲にすることはやむを得ないというのです。(7月17日の動画では障碍者などと一言も言ってないと発言していますが、彼の発想では5人の健常者と1人の障碍者を選択するときも同じ結論になるはずです。)

               

               

               

              これこそがエリート主義です。思考の幅がせますぎます。こういった問題に政治が口出ししてはなりません。災害時や感染症のパンデミックが広がっているときに、トリアージ(病状の重さによって患者を選別すること)の責任を負うのは現場の医師や医療関係者のはずです。政治家が顔を出す場面ではありません。ましてや国家権力(政治)が命の選別をあらかじめ法で決めておくべきだと考えるのはファシズムそのものです。

               

               

               

              「トロッコ問題」に戻ります。サンデル教授がこの問題を出したとき、東大生の皆さんは次のような疑問を持たなかったのでしょうか。

               

               

              ・路面電車がなぜ時速100キロの猛スピードで走るのか。乗客の命を危険にさらすのは「正義」に反するのではないか。

               

              ・運転手は時速100キロになるまでなぜ電車を止めようとはしなかったのか。病気だったのか。

               

              ・なぜ警笛を鳴らして労働者たちを避難させないのか。

               

              ・ハンドルを大きく切って電車を脱線させることはできないのか。

               

              ・乗客の存在は考えなくてもいいのか。

               

              ・以上の疑問や可能性について考えることをすべて封じて、果たして「哲学」の授業といえるのか。

               

               

               

              サンデル教授は「正しい行いはどちらか。」という二者択一を強制し、即座に挙手させているのです。ほかのさまざまな可能性を想像する自由を学生に与えません。与えたら授業にならないではないか、サンデル教授は思考実験を通して概念を教えているだけだ、空気読めよというのでしょうか。

               

               

               

              そのとき私が感じたのは、ハーバード大学で最も人気のある教授だということが、実は東大生の疑問を封じる大きな働きをしているのではないかということでした。彼らは権威に弱いのです。

               

               

               

              それはともかく、自分が設定した二者択一の中でのみ学生に考えさせる授業が「哲学」の名に値するでしょうか。サンデル教授は職業人として既成の概念を教えているだけで自らは哲学していないのです。

               

               

               

              そういった授業を受けた学生は、概念をひねくり回すのが得意な単なる物知りになるだけで、自分の頭で考えることを学びません。自分の頭で考えるためには、サンデル教授が設けた条件の枠組みを疑う必要があります。学生に事例を分析・批判する自由と時間を保障しなければならないのです。

               

               

               

              私は以前、論理的思考とはできるだけ多くの具体的事実の上に築かれるものだと述べました。

               

               

              開成中学・高等学校長 − 柳沢幸雄氏を批判する。

              http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=614

               

               

              考えるためには、事実をこと細かく知ろうと努めなければなりません。それをせずに、抽象的で大雑把な概念を使って本質を考えているつもりになっていることを、本質主義といいます。

               

               

               

              「トロッコ問題」で「正しい行いはどちらか。」といくら判断を迫られても、状況が不明では判断するのは不可能です。サンデル教授の授業について行くのに必要なのは、氏が何を意図し、何を学生に期待しているかを察知することです。簡単に言えば忖度するということです。受験勉強を通じて出題者の意図を読むことに長けている東大生には、素晴らしい授業だと映るのでしょうね。問題の枠組みそのものを疑ったり、具体的事実を掘り起こし検証することではありません。

               

               

               

               

              話を元に戻します。大西氏もこの思考の落とし穴にはまっているのです。エリート主義と批判したのは、「命の選別」を抽象的に語るだけで、具体的な事実を知ろうとしていないからです。していれば、「命の選別をするのが政治だ」という言葉は出てこないはずです。

               

               

               

              長くなりました。次回は今回述べたことを前提に、日本社会にはびこる優性思想とその担い手である日本維新の会やネトウヨの皆さんの無知と無思考を批判することにします。

               

               

               

              ちなみに山本太郎氏は「自分の中にも優性思想がある」と述べています。政治家でこのことを自覚しているのは素晴らしい。今の社会で現実に苦しんでいる人を多く見てきたからこそ、この言葉が出るのだと思います。

               

               

              | 文学・哲学・思想 | 15:25 | comments(2) | - |
              権力者に命の選別をさせてはならない。
              0

                2013年のフランス映画『母の身終い(みじまい)』を観たのは、母が死んでから5年後のことでした。自分の人生の終わりを、自分の意志で選択することをテーマにした映画で、7年がたった今でも余韻が尾を引いています。Amazon Prime Videoで観ることができます。

                 

                 

                 

                 

                私の人生は後悔の連続でしたが、とりわけ母の死には後悔ばかりが残っています。母が私に注いでくれた愛情の十分の一も母に返していないと思います。愛情の量を言っているのではありません。日々の具体的で細やかな接し方の総量を言っているのです。

                 

                 

                 

                あの時なぜもっと優しい言葉をかけてやれなかったのか、伴侶をなくして22年間どんなに寂しい思いで夜をやり過ごし、むなしい朝を迎えたことか、その気持ちに寄り添った行動をとれなかった自分の無神経さを悔やむばかりです。

                 

                 

                本題に入ります。れいわ新選組から昨夏の参院選(比例)に立候補した、大西恒樹氏(56)の発言が物議をかもしています。7月3日の動画投稿サイト上で「どこまで高齢者を長生きさせるのか。命、選別しないと駄目だと思う」「高齢者を長生きさせなくてはいけないという政策をとっていると若者たちの時間の使い方の問題になる」と主張。少子高齢化問題に触れるなかで、「命、選別しないと駄目だと思う。その選択が政治。選択するんであればもちろん高齢の方から逝ってもらうしかない」などと述べたのです。

                 

                 

                 

                大西氏は7月7日、自らの発言について謝罪と撤回をしました。以下はその全文です。

                 

                 

                — 私は7月3日の自身の動画チャンネルにおいて、「命の選別が政治家の仕事」という政治家としてはあるまじき発言をしました。この考えそのものが、従来の障がい者や社会で苦しんでいる人々へのケアを不十分なものにする元凶であり、「命の選別をやめよう」というれいわ新選組の結党の精神とは真逆の主張であったと、自分の発言の愚かさを深く痛感しております。今回の発言で命の選別に正面から取り組まれている舩後議員、木村議員ならびに多くの当事者の方々はもとより、全ての人々に深く謝罪すると共に発言を撤回いたします。

                代表からは、「命の選別」の問題に真正面から取り組んでおられる当事者の方々の声をしっかりと聞くべきとの指摘を受けました。自分の考えの浅はかさをより自覚し、新しい自分に生まれ変われるように努力したいと思います。

                ※なお、当該動画については、発言撤回と共に公開停止にいたしました。― 以上

                 

                 

                 

                この件について山本太郎代表がどのような対応をとるか、現在の時点(7月12日)では明らかになっていません。しかし、この間の対応の遅さこそが、私が山本太郎氏を信頼する大きな理由の一つです。

                 

                 

                 

                れいわ新選組の対応の遅さや組織としての未熟さを論難するジャーナリストや、今がチャンスとばかりに山本太郎たたきに血道をあげる人々がいますが、大西氏はいまだ国会議員でもなく、れいわ新選組に所属する一民間人に過ぎません。今回の不用意な発言によって除籍処分にされるかもしれませんが、彼を見捨ててはならないと思います。

                 

                 

                 

                なぜか。金融経済についての彼の知見はこれからの日本に必要だということもありますが、それよりも彼の謝罪の言葉に彼の人間性が見て取れるからです。

                 

                 

                 

                56歳になった人間が「政治家としてはあるまじき発言をし」たと認め、自分の発言が「障がい者や社会で苦しんでいる人々へのケアを不十分なものにする元凶であ」ると自己批判し、「れいわ新選組の結党の精神とは真逆の主張であったと、自分の発言の愚かさを深く痛感しております。」と述べているのです。そして最後の「自分の考えの浅はかさをより自覚し、新しい自分に生まれ変われるように努力したいと思います。」という真率な決意表明は、社会的な地位や周囲の評価を気にして人格が空洞化した人間には決して吐けない言葉です。

                 

                 

                 

                自民党の国会議員が失言という名の本音を吐露した時に決まって言うセリフ「誤解を与えたとしたら、言葉足らずだったと思う」に比べれば、大西氏の謝罪は心のこもったものではないでしょうか。

                 

                 

                 

                今回の失言は、大西氏ほどの賢明な人でも、心にスキができると、自分はタブーを気にせず真実を話す勇気と大胆さを持っているとアピールしたくなる心情に発するものです。心のスキとは、金融経済に関する自分の認識が、少数派でも少しずつ理解を得られていることに対するプライドというか充実感を指します。

                 

                 

                 

                大西氏の動画には、「自由」と「若者」という言葉が頻繁に登場します。若者に、自立した自由な個人として自己決定ができるようになってほしいと願っていることがわかります。

                 

                 

                 

                大西氏は良きリバタリアンなのです。リバタリアンは経済的自由も含めて、何よりも自由に価値を置きます。しかし、他者に依存することなく自由に生きていける強い人間というイメージには、エリート主義が潜んでいることが多いのです。今回の発言は、他者意識(動画を観た視聴者がどう思うかということ)が希薄になったスキを狙ってエリート主義が頭をもたげたということです。

                 

                 

                 

                大西氏は政治家にしては珍しく自分の言葉を持っている人です。だから山本太郎氏に共感できるのです。前回のブログでも書きましたが、政治の言葉の本質は、つまるところ「わたしは正しい、やつは間違っている。やつは敵だ。殺せ!」に極まります。「戦争」は「政治」がとる最後の形態です。つまり「戦争」は言葉の中にその根拠を持っているのです。

                 

                 

                 

                私が山本代表の立場なら、国家権力が命を選別できないシステムを作ります。命はギリギリのところで個人の尊厳において個人が選択できるものであることを法に明記します。そして、戦争に通じる政治の言葉を人間的想像力の世界つまり文学と哲学の言葉に変えていくためのきっかけとして今回の件を位置づけます。

                 

                 

                 

                教条主義的な左翼がやってきたような、問答無用の処分をする必要はありません。甘いという批判には、山本代表が言葉を尽くして反論すればよいのです。パワーゲームとしての政治はもはや終焉させなければなりません。

                 

                 

                | 文学・哲学・思想 | 22:39 | comments(2) | - |
                unknownさんへ。
                0

                  コメントありがとうございます。私を「能天気」だと見抜いたあなたの眼力はなかなかのものです。能天気は生まれつきで、今も時々その本性が現れます。

                   

                   

                   

                  能天気な人間の小中学生時代を紹介しましょう。小学生の頃は呆けたように遊びまわり、いろいろと悪さをしていました。中学生のころは加山雄三にあこがれ、映画の若大将シリーズを観るために友達とせっせと映画館に通ったものです。コンサートにも行きました。そういうわけで彼のレコードは全部持っていました。

                   

                   

                   

                  好きな女の子の関心を引くためにLPレコードを貸したこともありました。お返しにモンキーズのシングルレコードを貸してもらったときはうれしかったですね。要するに影響を受けやすい世間知らずの坊ちゃんだったということです。

                   

                   

                   

                  最近は、寝る前に加山雄三の動画を観て当時を思い出し、小声で歌っています。その健康すぎる歌詞とメロディーに照れながら、ああ、なんて素朴で純情な時代だったのだろうと思います。CDもDVDもなく、ダウンロードという言葉さえなかった時代です。生活必需品としてスマホを手にする時代が来るなどと、いったい誰が想像できたでしょうか。

                   

                   

                   

                  素朴で純情と言えば、韓国映画『愛の不時着』もこちらが恥ずかしくなるくらいクサいセリフが多いのですが、それでも引き込まれ、気がつくと涙が頬を伝っています。現代版ロミオとジュリエット(『愛の不時着』と同じくコメディーです)だと言ってもいいかもしれません。恋愛映画としてはお決まりのストーリーですが、南北朝鮮が統一されることを願う「能天気」な夢がこの映画の中心テーマなのかもしれません。

                   

                   

                   

                  ところで、あなたの言う「革命」が何を意味するのか分かりませんが、私は、すべての人がこの国に生きていてよかったと思えるような国にすることが「革命」だと考えています。単純すぎますか?

                   

                   

                   

                  そして革命は一度で終わらせてはなりません。なぜなら革命によって誕生した権力が国民を抑圧するようになれば、さらなる革命が必要になるからです。暴力によらず、教育と投票箱によって永久に革命を続けること、そしてそれを当たり前だと考える国民が多数派になることが理想です。

                   

                   

                   

                  振り返ると、プラトンの『国家』にはじまり、マルクスの著作を経て、レーニンの『哲学ノート』を読み、ヒットラーの『我が闘争』をはさんでフランクルの『夜と霧』の前で立ち止まり、ドストエフスキーの『悪霊』に至る道のりは決して平たんとは言えませんでしたが、常に「革命」について考えていたことは確かです。

                   

                   

                   

                  私は「革命」を政治の枠組みでとらえることにあまり興味がありません。むしろ文学としてとらえています。政治的な党派に所属すれば、自分の信じていない言葉で誰かを政治に誘い込むことになります。その責任はだれがとるのでしょうか。

                   

                   

                   

                  もちろん政治も文学も、自然科学とは異なり、言葉で成り立つものである以上、何かを正確に表現することはできません。しかし、私は自分のふるまいや言葉が自分の感受性を根拠にしているのなら、個人として責任を取ることができるのではないかと思っています。これが政治ではなく文学によって世界を解釈することを選んだ理由です。ではその感受性を制約しているものは何か。それこそが日本語という言葉なのです。

                   

                   

                   

                  なんだか難しい話になってきました。話を変えます。世の中が動乱と言われる事態に立ち至った時には、必ず魅力的な人物が登場します。『ペスト』のカミュもその一人です。そしてチェ・ゲバラです。すでにブログでも取り上げていますが、あなたにもう一度彼の言葉を紹介しておきます。

                   

                   

                   

                  「もし私たちが空想家のようだといわれるならば、救いがたい理想主義者だといわれるならば、できもしないことを考えているといわれるならば、何千回でも答えよう、『その通りだ』と」

                   

                   

                   「世界のどこかで、誰かが蒙っている不正を、心の底から深く悲しむことのできる人間になりなさい。それこそが革命家としての、一番美しい資質なのだから」

                   

                  これはボリビアに立つ前、自分の死を予感して5人の子供達に遺した手紙の一部です。

                   

                   

                  「最も重要なことは権力を握ることではなく、握った後に何をするかを明らかにすることだ」

                   

                   

                  「バカらしいと思うかもしれないが、真の革命家は偉大なる愛によって導かれる。人間への愛、正義への愛、真実への愛。愛の無い真の革命家を想像することは不可能だ」

                   

                   

                   

                  コメント欄では書ききれなかったので、ブログで返事をしました。なお、大西つねき氏の件については、重要な論点が含まれているので、後日にしたいと思います。

                   

                   

                  | 文学・哲学・思想 | 15:01 | comments(0) | - |
                  言葉の荒野。
                  0

                    畑仕事と作庭、草刈や外壁の塗装に精を出しているうちに気がつけば6月。水無月です。野菜を作り、我が家の定番料理のレシピをメモするようになってかれこれ1年になります。日曜日は野菜のグリルを中心としたイタリアンを作ることを妻に約束しています。

                     

                     

                     

                    それでも、庭に積もったケヤキやクヌギの枯葉で腐葉土を作り、荒れた土に敷き込んでふかふかの土にするにはあと1年はかかります。それまではいろいろと実験を重ねる日々です。葡萄のツタも順調に伸びて棚を覆い始めています。今年の夏には葡萄棚らしくなることでしょう。

                     

                     

                     

                    いつのころからか判然としませんが、人が発する言葉にその人固有の人格を感じなくなってずいぶん時が流れたような気がします。見渡せば言葉の荒野が広がっています。言葉が歪めば世界の像も歪みます。この国は成熟する機会を奪われた幼児であふれかえっているのです。

                     

                     

                     

                    私は元々あまのじゃくで、大道を闊歩することができず、大勢の人が右といえば左に行きたくなる性格です。いや、そうなるように自分を教育してきました。

                     

                     

                     

                    それというのも世の中で出世している人の多くが権威主義的で「立場」の奴隷になっていることに気づいたからです。彼らは意見を異にする相手に対して、お前にそんなことを言う資格があるのかと恫喝し、内容以前に相手の立場を問題にします。単なる言論封じに過ぎないのですが、空洞化した人格を晒していることに気づきません。他者意識のない言説は幼児そのものです。

                     

                     

                     

                    そういった社会的なヒエラルキーに滑稽なほどこだわる人間たちが生息する世界には、真実の言葉が生まれる余地はありません。ここらで一線を画そうと考えた所以です。

                     

                     

                     

                    畑仕事の手を休めて木陰の椅子に座っていると、昔読んだ本の一章句が不意に思い浮かびます。記憶をたどり、作者を思い出そうとします。家に帰って書棚を探します。それは自分を確認するひと時です。してみると、何らの経済的利益を生み出さなかった読書という行為こそが私を作り上げているのかもしれません。

                     

                     

                     

                    ある詩人が書いています。

                     

                     

                    言葉が多すぎる
                    というより
                    言葉らしきものが多すぎる
                    というより
                    言葉と言えるほどのものが無い

                    この不毛 この荒野
                    賑々しきなかの亡国のきざし
                    ・・・・

                    「茨木のり子詩集」より

                     

                    ひとびとは
                    怒りの火薬をしめらせてはならない
                    まことの自己の名において立つ日のために 

                     

                    同詩集「内部からくさる桃」より

                     

                     

                     

                    そういえば水無月で思い出しました。伊東静雄の「水中花」です。桑原武夫編集の全一冊の詩集の中にあります。まだ日本語に韻律があり、厳しさがあり、明晰さと力がありました。そこには唯一無二の伊東静雄という人格があったのです。以下全文引用します。

                     

                     

                     

                    ― 水中花と言つて夏の夜店に子供達のために売る品がある。木のうすいうすい削片を細く圧搾してつくつたものだ。そのまゝでは何の変哲もないのだが、一度水中に投ずればそれは赤青紫、色うつくしいさまざまの花の姿にひらいて、哀れに華やいでコツプの水のなかなどに凝としづまつてゐる。都会そだちの人のなかには瓦斯燈に照しだされたあの人工の花の印象をわすれずにゐるひともあるだらう。



                    ことし水無月のなどかくは美しき。
                    軒端を見れば息吹のごとく
                    萌えいでにける釣(つり)しのぶ。
                    忍(しのぶ)べき昔はなくて
                    何をか吾の嘆きてあらむ。
                    六月の夜と昼のあはひに
                    万象のこれは自(みづから)光る明るさの時刻(とき)。
                    遂(つひ)逢はざりし人の面影
                    一茎(いつけい)の葵(あふひ)の花の前に立て。
                    堪へがたければわれ空に投げうつ水中花。
                    金魚の影もそこに閃(ひらめ)きつ。
                    すべてのものは吾にむかひて
                    死ねといふ、
                    わが水無月のなどかくはうつくしき。

                     

                     

                     

                    | 文学・哲学・思想 | 13:20 | comments(0) | - |
                    今、目の前で何が起きているのか。
                    0

                      新型コロナウイルスの蔓延でテレワークが注目されるようになりました。教育のオンライン化も加速度的に進むことでしょう。しかし、世の中を支えているのはテレワークとは程遠い現場の労働です。医師や看護師、高齢者の介護施設で働く人々の労働なしに社会は維持できないのです。コロナの蔓延はそれを可視化しました。

                       

                       

                       

                      教育の話をしましょう。学校はオンライン授業を通じてますます塾化します。塾化するということは商品化するということです。学校と塾の境界はなくなり、学ぶことは単なる情報のやりとりに過ぎないと考える人が出てきます。ホリエモンがその典型ですね。彼は常々学校なんかいらないと言っていますから。社会的共通資本としての学校の価値を再構築することなど思いもよらないのでしょう。

                       

                       

                       

                      大学生くらいになればオンラインでの学びも主体的にできるかもしれません。しかし、幼少年期の子供たちにとって、オンライン授業は自我の周りにヴァーチャル空間を張り巡らすことになります。これを学びの中心にすることは避けるべきでしょう。

                       

                       

                       

                      なぜなら、親も教師も徹底的に商品化された教育の末路を思い描けないからです。消費社会では教育の中身はもとより、教師も生徒も記号化され商品化される運命にあります。それを当然だと考え、根本的な疑義をさしはさむ余地などない地点まで来ています。

                       

                       

                       

                      塾を休んでいる間に、私は「スタディサプリ」の「神授業」なるものを見ました。細切れにした知識を1分間でテンポよく説明していくのですが、こういう授業形態は20年以上前に予測していました。コンテンツの中継地点に過ぎない塾は(今では98%の塾がそうです)、授業のオンライン化で淘汰されていく運命だと書きました。

                       

                       

                       

                      細分化された授業には一コマいくらといったプライスタグが貼り付いています。わざわざ塾に通って、さえないアルバイト講師の授業を聞くよりずっと効率的ですし、時間に制約されないという利点もあります。

                       

                       

                       

                      それにしても「サプリ」とはよく言ったものです。サプリメントをいくら飲んでも、本当の体力や免疫力はつきません。ましてや身体のしなやかな操縦法や力の抜き方などわかるはずもないのです。これからは人気のアプリをめぐって争奪戦が繰り広げられることでしょう。

                       

                       

                       

                      前にも書きましたが、要するに教育はアプリの購入と使い方といった技術的な問題になりつつあります。ということは、家庭の文化資本と経済力によってますます格差が開くことになります。この問題を自己責任という言葉で見て見ぬふりをするのが今の社会です。

                       

                       

                       

                      ここで原点に戻ってみましょう。そもそも私たちが学び続けるのは「今、目の前で何が起きているのか」という最重要な問いに答えを出すためです。

                       

                       

                       

                      コロナで休校している間に勉強が「遅れる」と心配している人が多いようですが、いったい何を基準にしているのでしょうか。文部科学省のカリキュラムでしょうか。あるいは入学試験に間に合わないと心配しているのでしょうか。それは制度=匿名のシステムの側から見た都合に過ぎません。

                       

                       

                       

                      匿名のシステムに順応することを第一義にして学び続ける限り、「今、目の前で何が起きているのか」という問いに対する答えは出ません。いや、この国はそのような問いを抱いて学び続ける若者を必要としていないのです。英語の民間試験の活用や共通テストの失敗を見るまでもなく、文科省のやってきた教育改革は一つとして成功していません。

                       

                       

                       

                      その根本的な理由は、国家と大企業が結託して富を独占するシステム(コーポラティズム)に順応できる人間を選別するために教育を利用してきたからです。選別の階段を疑うことなく駆け上がり、自己利益を最大化した者こそが成功者であり模範たりうるとする価値判断に誘導することが教育の役割なのです。そして今の教育に異議を唱えることを妨害し、批判精神の芽を摘む大きな働きをしているのが消費社会のイデオロギーです。

                       

                       

                       

                      イデオロギーという言葉は、何やら政治的な党派性を連想させます。観念的で難解なイメージがあるのですね。共産主義的イデオロギーのように「主義」と結びつきやすく、敵対する陣営の間で粛清の嵐が吹き荒れることもあります。その硬直した思想や現実無視の観念の遊戯が、橋下徹のような事件屋(最もTVマスコミが欲しがるタイプ)や百田尚樹のような煽情屋(ツイッターで大言壮語してケチな承認欲求を満足させるタイプ)の格好の標的になります。それに高須クリニックの院長が絡んでくると、もはや声の大きい者勝ち、無知でバカな者だけが勝ち残るトーナメント戦の様相を呈して来ます。

                       

                       

                       

                      しかし、私たちの生活で最も影響力のあるイデオロギーは、不安や嫉妬や羨望といった感情に働きかけ、いつの間にか消費へと誘導するイデオロギーです。ブランド物を買ったり、子供を有名中学の受験に駆り立てたりするのも立派なイデオロギーです。教育や報道の政治的中立性も思考停止のイデオロギーに他なりません。

                       

                       

                       

                      しかし、新型コロナウイルスのパンデミックで、一気にとはいきませんが、消費を中心としたライフスタイルも色あせてきます。一時期は憧れの対象だったものがお荷物に思えてくるのです。例えば、消費社会の象徴である首都圏に林立するタワーマンション(私にはアスパラガスの化け物のように見えます)で暮らす人々のライフスタイルを考えてみましょう。

                       

                       

                       

                      あれは今から十年ほど前、日経MJの記事を読んだ時のことです。そのタイトルは『素敵に敏感 ムサコ妻』というものでした。最初、「ムサコ妻」がわかりませんでした。むさくるしい妻ならわかるのですが・・・。

                       

                       

                       

                      読み進むと「ムサコ妻」とは、どうやら神奈川県川崎市の武蔵小杉に住む「素敵に敏感な」若い奥様方を指すのだとわかりました。2007〜2008年ころからタワーマンションが増えるのにともなって湧いてきた、いや、流入して来た人たちのことだそうです。

                       

                       

                       

                      ちなみに武蔵小杉は「住みたい街」トップ10の常連で、二子玉川と同じく人気のエリアだそうです。私は九州の田舎に住んでいるので、最初「ニコタマ」が地名だとわかりませんでした。男性しか住めない街なのかな、と思ったくらいです。言葉の省略はやめてほしいですね。

                       

                       

                       

                      冗談はさておき、「ムサコ妻」は、常にオシャレに振る舞い、地元愛もある、そして他人に羨ましがられるような生活スタイル、オフの過ごし方が特徴だそうです。そうなると金儲けに敏い企業が黙っていません。

                       

                       

                       

                      武蔵小杉に早くから目をつけていたのがセブン&アイ・ホールディングスだったそうです。その経営戦略を見てみましょう。

                       


                      ― イトーヨーカ堂の前社長、亀井淳顧問は再開発の計画が浮上する30年も前から、駅前に広大な土地を持つ東京機械製作所にアプローチをしてきた。

                       

                       

                      超高層マンションができた頃から、ムサコ妻たちの服装やバギーの種類、バッグ、靴、読んでいる雑誌を調べた。「情報にたけ、時間を効率的に使う。おしゃれにも子育てにも熱心で、自然環境も重視する、いいとこどりの消費者」と分析。「ファストファッションなら、ZARAとギャップ。ほかのブランドはあまり響かない。ZARAも、川崎店ではなく銀座や六本木ヒルズで買う」と細かな消費行動まで調べ、店づくりを進めた。

                       

                       

                      ムサコ妻の消費を考えると、ヨーカ堂のプライベートブランド(PB)の婦人服「ギャローリア」を入れるのは挑戦だ。ヨーカ堂のPBというフィルターを通しては苦戦が予想される。そこで、売り場をヨーカ堂のエリアから離してパリのブティックのような内装に。商品もイタリア別注の素材に、型紙も見直してプレステージラインを展開する。

                       

                       

                      店づくりの随所に"ムサコ色"をちりばめた。屋上庭園にラフランスやイチジクなどの果樹を植える。ミカンやリンゴなど定番の果物でないところがミソだ。東京・広尾などにある全米ナンバーワンの子供向けフィットネス「マイジム」も入る。入り口近くの高さ14メートルの水のオブジェは「全国でもここだけ」(同社)で、他から一目を置かれたいという思いをかたちにした象徴的な存在だ―

                      https://matome.naver.jp/odai

                      /2141697103726331501

                       

                       

                       

                      さて、47階建ての高級タワーマンション「パークシティ武蔵小杉ステーションフォレストタワー」(一回で覚えられませんね。アメリカ人に発音して聞かせたいものです)が昨年の台風19号でどうなったか。そこに住む40代の女性の話です。是非お読みください。

                       

                       

                      「武蔵小杉の「高級タワマン」で起きた悲劇…その全貌が見えてきた」

                      https://gendai.ismedia.jp/articles/-/68039

                       

                       

                       

                      この高級タワーマンションがコロナ禍でどうなったか想像に難くありません。密になるエレベーターを避けて、47階から1階まで駆け下りなければなりません。運動不足解消になるかもしれませんが、階段もきっと密になるでしょうね。消費社会のイデオロギーをライフスタイルにした「ムサコ妻」たちに私は同情します。

                       

                       

                       

                      しかし、同情はしても彼女たちに近づく気にはなりません。コロナが怖いからではなく、その言葉やライフスタイルに私の身体が拒否反応を示すからです。人格の最も肝心なところが「情報」で占拠されている女性と話すことほど虚しいことはありません。

                       

                       

                       

                      他から一目を置かれたいと願い、情報から疎外されることを何よりも恐れている人間は、病気になることはあっても孤独の意味を理解できないでしょう。いったい、孤独な魂を持たない人間をどうすれば愛することができるでしょうか。他人が身に着けているもののブランドと値段を瞬時に思い浮かべるような思考回路こそが消費社会のイデオロギーそのものなのです。

                       

                       

                       

                      今回のパンデミックは私たちの社会のありようを見直す絶好のチャンスです。しかし、すべてにおいて後手後手の現政権にそれを期待するのは100年早い。コロナ後、日本は一人勝ちするだの、経済はV字回復するなどと予言している経済評論家もいるくらいです。

                       

                       

                       

                      次回はこの状況を少しでもましなものにするための提案、すなわち「希望の処方箋」を書いてみようと思います。今回も長い記事を読んでいただきありがとうございました。

                       

                       

                      | 文学・哲学・思想 | 13:47 | comments(0) | - |
                      政治家も官僚も弁護士もお笑い芸人も狂っている。
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                        2011年の原発事故の直後、居ても立っても居られず塾教師の領分を逸脱していることは百も承知で書いた文章があります。今それを思い出しています。あれほどの事故が人間と社会に影響を与えないはずはないと素朴に信じていたのです。

                         

                         

                         

                        だから3・11を契機に山本太郎が政治家になるべく活動を始めた時、私は心から共感し応援しました。大いなる悲劇はある種の人間を劇的な人物に変えます。ネルソン・マンデラをはじめとして、歴史を見渡せば具体例に事欠きません。

                         

                         

                         

                        話を戻しますが、その時書いた文章を読むと、日本社会は本質的に変わらない、いや、自ら変わる力がないのかもしれない、という思いにとらわれます。いま私たちの社会はコロナウイルスの蔓延によって試されているのです。特に政治家の質と国民の批判的思考力が。

                         

                         

                         

                        私が書いた文章は以下の通りです。タイトルは『ビュリダンのロバ』です。

                         

                         

                        『あるとき腹をすかせたロバが餌を探して歩いていると、道が左右に分かれた場所にやってきます。それぞれの道の先には、同じ距離に、同じ量の干草が置かれています。これはロバにとっては想定外のできごとでした。知的なロバはどちらの道を選択するべきか迷い、決断ができず、岐路に立ったまま餓死するという話です。

                         

                         

                        知的なロバは日ごろから物事を絶えず比較して、自分に利益をもたらす方を選ぶのが得意でした。ところが今回は両者の間に差を認めることができず、今決断しなくても飢え死にすることはないだろうと判断して不作為を選んだのです。選択に伴う痛みと責任を回避した結果、餓死することになったこのロバを私たちは笑うことができるでしょうか。



                         幸か不幸か人生は選択の連続です。価値判断から逃れることはできません。二つの価値のどちらを選ぶかも、より上位の価値判断です。では、価値判断を正しいものにし、より高めていくものは何なのでしょうか。

                         

                         

                        知的データベースがあって、そこに効率的にアクセスでき、それを覚えて試験のためにアウトプットするのが教育だと多くの人が信じてきました。しかし、知識の獲得が世界観を変えることに結びつきませんでした。原発事故後も再稼働をもくろむ人間たちが幅を利かせているのですから。

                         

                         

                        そして戦後、知識を通じて人々が成長できる社会は今日まで実現していません。しかし、この価値判断の根拠を日本の文化と歴史の中に探そうとする精神の営みこそが知性であり、それを日々養うことが教育の最終目標のはずです。



                         バブル崩壊後、1990年代の後期戦後社会が始まってほぼ三十年の間に、私たちはこの正しい価値判断をするための精神の営みを放棄してしまったのです。その結果残されたのは選択肢が一つしかない人生でした。それをニーチェは「鎖につながれて踊る猿」の生と呼びました。

                         

                         

                        そこでは価値判断は不要となり、効率よく合理的に目前の階段を駆け上がる技術だけが幅を利かせます。後はその技術を受験勉強を通じて洗練させるだけです。つまり、歴史の経験の中から正しさを汲み上げる力は枯渇させられたのです。

                         

                         

                        私は「鎖につながれて踊る猿」の生を生きるのも、知的なロバになるのもごめんこうむりたい。特に若い人たちの生が無気力に沈むのを見たくないのです。最悪なのは「鎖につながれて踊る知的なロバ」になることです。そうならないためにはどうすればよいか。まず、「鎖につながれて踊る知的なロバ」の言説をじっくり見極めることです。』

                         

                         

                         

                        以下にその具体例を挙げます。つまるところ自己顕示欲と承認欲求を満たすだけの言いっ放しです。他人を説得するための論理性もなければ、過去の発言との整合性もありません。一々挙げていたらきりがありませんので、代表的な人物とその言説を検討します。

                         

                         

                         

                        「布マスク二枚」の問題について。

                         

                        杉村太蔵。「マスクは効果あるかも」

                        科学的論拠より安心感を重視するトンデモアホ言説。

                         

                         

                        弁護士の八代英輝。

                        新聞の投書欄で目にした老夫婦の声を紹介。「『いろんなドラッグストアに行っているけど、一度もマスクを買えず本当に困っている』と訴えられていた。批判の声は大きいとは思いますけど、その陰で感謝している方もけっこういらっしゃるのかなと思う」と。質の悪い大衆迎合型言説。政権を批判するポーズを見せるものの、結局は安倍晋三と自民党をヨイショする知的風味を利かせたコメンテーターに過ぎない。問題の本質が見えていない。

                         

                         

                        マスク二枚を批判する理由は、安倍政権が国民の命と健康を守ることを本気で考えていないという事実を明瞭に可視化しているからです。しかも400億円以上の税金をかけて今緊急にやるべき施策かという至極まっとうな疑問を提起しているだけです。読解力がないのもはなはだしい。諸外国は国民の生活破綻を回避するために迅速な現金給付をしています。国民への向き合い方が根本的に違うのです。

                         

                         

                        テリー伊藤。「政府に文句言うより、マスクは自分で作れ」

                        テレビ業界で食っている人間には、前後の脈絡よりも、ファッションや脱常識のユニークな視点からコメントすればいいと思っている人物が多い。莫大な税金をつぎ込み、しかもこのタイミングで費用対効果が怪しい政策は無意味だからやめろと言っているのに対して「自分でマスクを作れ」という言説が論理的になり立つと思っています。ユニーク過ぎて頭は大丈夫かと思ってしまいますね。

                         

                         

                        国交大臣政務官、自民党の佐々木紀氏

                        「国は自粛を要請しています。感染拡大を国のせいにしないでくださいね」とのツイート。

                         

                        小沢一郎氏いわく。「何気ないこの言葉に政権の全てが象徴されている。あるのは責任回避への熱意、無いのは働かざるを得ない方々を思いやる想像力と補償の発想。」見事なコメントです。

                        「国のせいにするな」と政府側の人間が言うということは「われわれには国家を運営する能力はありません」と白状するようなものです。世も末です。終末はすぐそこです。

                         

                         

                         

                        最後は爆笑問題・太田光「安倍さんいろいろ言われてるけど、ツッコむのはツッコむでいいと思うんだけど、いろいろやってる内の一つで、なおかつ洗濯して使えるという利点もあるわけだし、俺が言うと本当に説得力がないんだけど、言い争いとか、ギャグとしてツッコむ気持ちはあるんだけど。とんちんかんな事もこれからいっぱい出てくると思うんだけど、今はとりあえず、安倍首相と小池都知事と厚生労働省の人たちが一生懸命やってるところであって、それにツッコみたい気持ちはわかるけど、疑うというか陰謀論というのは一番効率が悪くなるような気がするんだよね。一番守らなければならないのは医療現場だから、そこに混乱させるような事に我々がもめ出しちゃうと、一番効率が悪くなっちゃう」。

                         

                         

                        「分断を生むから為政者にツッコミを入れるな」というのは、「一生懸命やってる」んだから愚かな為政者であっても国民全員がおとなしく従うべきだと言っているのですね。それは一億玉砕に向かってまっしぐらという大日本帝国時代の発想と同じです。みんなで応援してまとまろうという議論は、必ず「非国民」を生み出します。それよりも新しい社会を作り出すための分断のほうがよほど健全です。

                         

                         

                        太田光の言説は常に同調者を意識して発せられています。それがいかにももっともらしく聞こえる理由です。腐敗した権力者を笑うのがコメディアンのはずだったのですが、彼はテレビ向けの「お笑い芸人」ですから期待しても仕方ありません。しょせんは安倍政権に媚を売る松本人志の同類です。時代は変わったということでしょう。

                         

                         

                        | 文学・哲学・思想 | 23:01 | comments(0) | - |
                        人類史的な転換点に立つ。
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                          コロナウィルスの世界的な蔓延は、私たちの社会の枠組みと意識(つじつま合わせで延命するしかない安倍政権とそこに資金提供する原子力村、そしてコーポラティズムのイデオロギーである新自由主義と自己責任論など)を大きく変えるでしょう。

                           

                           

                          この期に及んでまだオリンピックを開催する気のノータリン政権。五輪のマークは世界の5大陸を表しているのですが、スポーツの祭典は世界が平和であることを大前提にしているのです。かくのごとく小学生でもわかることが安倍政権の回りにいる人間たちやオリンピックのスポンサーになっている大手メディアにはわからないようです。国民の命よりも金というわけです。

                           

                           

                           

                          かくなる上は日本だけでオリンピックを開催すればよい。しかも無観客で。外国人選手は参加しないのですから、日本勢が金銀銅メダルを独占できます。日の丸と君が代が各会場に響き渡ります。これほどの悲喜劇はないでしょう。

                           

                           

                          「安倍総理大臣」をバカの一つ覚えのように連呼するNHK。「都民ファースト」「アスリートファースト」以外の言葉を知らない学歴詐称の小池東京都知事。

                           

                           

                           

                          それでも、私は「間髪入れずに」「一気呵成に」「ワンチームで」オリンピックを開催してほしいと思っています。そして国民に「笑顔を取り戻す」ためにJOCにはぜひ頑張ってもらいたい。なぜなら、現在の日本の自画像をこれほど露骨にかつ鮮明に可視化するイベントはないからです。

                           

                           

                          さて、コロナの蔓延が人類史的な転換点になると考えるヒントを以下に示したいと思います。ただし、コロナが終息すれば、今までと何ら変わらない日常が戻ってくるだろうと思っている人には理解できないかもしれません。

                           

                           

                          これからは人類全体で立ち向かわざるを得ない事件や事象が頻々として起こるようになります。それを象徴的に描いたのが1の映画『メランコニア』です。

                           

                           

                          天災と戦争、革命と疫病が人間の実存を考える契機になるとブログで書きましたが、その引き金になるのが民族差別や宗教であり社会的弱者や障害者さらに女性や子供をモノのように考える思想です。その象徴が相模原連続殺傷事件の確信犯・植松聖です。2〜4で論じています。

                           

                           

                          そして今回のコロナウィルスの蔓延を予言的に描いた5の映画『インフェルノ』です。時間があれば1、4、5の映画はぜひ観てもらいたいと思います。6は疫病が社会や人間の意識に及ぼす影響を描いたカミュの小説です。

                           

                           

                          1:映画『メランコニア』

                           

                          2:『悪(霊)が降臨する前に』

                          http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=561

                           

                          3:「思想的確信犯」はいかにして生まれるのか?

                          http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=389

                           

                          4:映画『特捜部 Q カルテ番号 64』を観る。

                          http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=601

                           

                          5:映画『インフェルノ』

                           

                           

                          6:アルベール・カミュ『ペスト』

                           

                           

                          | 文学・哲学・思想 | 23:52 | comments(0) | - |
                          退屈を深く生きる。
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                            このところ、古井由吉の『仮往生伝試文』を読み返していました。そして今朝起きて新聞を見ると古井由吉氏の死が伝えられているではありませんか。最近、こういうことがよくあります。

                             

                             

                            古井由吉氏をあまりご存じない方には、以下の本を勧めます。

                             

                             

                             

                             

                            政治の世界、とりわけ統治機構のトップにいる者の無能と批判精神(主体性の本質です)の欠如を意識しないメディアの報道を見ていると、バカバカしさを通り越して言葉をなくします。

                             

                             

                             

                            そんな時、決まって読む本の一冊が古井由吉氏の小説であり、随筆だったのです。氏の文章の明晰さが白濁した意識を浄化してくれるのです。

                             

                             

                             

                            私は6年以上も前から、おバカ総理とその取り巻きの浅薄さや人格の空洞化を批判してきました。言葉や表情、振る舞いを観察した結果、彼らは単なる操り人形、言葉の自動機械に過ぎないことに気づいたからです。そして3年前に『イベント人間は信用できない。』を書きました。

                             

                             

                             

                            『イベント人間は信用できない。』

                            http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=412

                             

                             

                             

                            私は、この社会を覆っている文化というか空気の軽さは、人々が退屈から逃げることで生み出されているのではないかと考えました。古井由吉氏の文章の明晰さと強さは、退屈と向き合い、それを深く生きることが自分であり続ける唯一の方法だと自覚したことに由来しているような気がします。

                             

                             

                             

                            人類史をたどるまでもなく、天災と戦争(人災の最たるものです)、革命と疫病が人間社会の本質をあぶりだし、人間が平等であることに気づかせる4つの契機です。そしていま私たちの社会は新型コロナウィルスという疫病によって試されています。どんな結果になろうとも、それは私たち自身が招来するものであることを自覚しておかねばなりません。

                             

                             

                            | 文学・哲学・思想 | 12:14 | comments(0) | - |
                            二十歳になった皆さんへ。
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                              二十歳になった皆さんへ贈る言葉は一つだけです。匿名のシステムから脱出する勇気を持とうということです。匿名のシステムとは、簡単に言うと「現実」のことです。「現実を見ろ」「立場を考えろ」と言われたりしますが、その言葉の意味は、考えるのをやめて匿名のシステムに順応しろということです。

                               

                               

                               

                              現実とは個人の中にある集団への志向が作りだした共同幻想にすぎません。それは集団が生き延びるために考え出されたものです。もちろんそれは僕たちが生きるために必要です。現実は僕たちが生きる場所ですから、生きるためにはまずそれに適応しなければなりません。

                               

                               

                               

                              しかし、誰にとっても同じ現実など存在しません。それは共同幻想ですから、よく観察するとあちこちに隙間のある多層空間だとわかります。いたるところに自分らしく生きることができる隙間があるのです。

                               

                               

                               

                              考えるということは、そういった空間を発見し、創造することです。現実から逃走するのではなく、それを前提にして、自分の人生を生きるためのもう一つ別の場所を作ることです。ブログを書いてきたたった一つの目的は、それを伝えるためだったのです。

                               

                               

                               

                              人間も鳥たちと同じように自分の巣を作ることができます。まだ見ぬ他者の巣から届く便りこそが、生きるために必要な意思の伝達なのです。あなたが創造した巣から発信される便りは、必ずやまだ見ぬ他者に勇気を与えるはずです。

                               

                               

                               

                              実は今日1月12日、ブログを書く気になったのは、この国の副総理兼財務大臣である麻生太郎氏が新成人に宛てた言葉を読んだからです。

                               

                               

                               

                              「皆さんがた、もし今後、万引きでパクられたら名前が出る。少年院じゃ済まねえぞ。間違いなく。姓名がきちっと出て「20歳」と書かれる。それだけはぜひ頭に入れて、自分の行動にそれだけ責任が伴うということを、嫌でも世間から知らしめられることになる。それが二十歳だ。(12日、福岡県直方市での成人式来賓あいさつで)」(朝日新聞より)

                               

                              これが日本という国の要職にいる大臣が新成人に宛てた言葉だろうかと我が目を疑いました。

                               

                               

                               

                              今の政治の惨状を変えるのは、「デモするやつの頭って、ウジがわいてるんじゃねえの」と言ったホリエモンのような旧い世代の人間の発想(民主主義は多数決といったような)ではなく、自分の生きる空間を日々発見し創造している人間たちです。民主主義社会を作ろうとする人たちにとって、デモは憲法でも認められている当然の権利なのです。

                               

                              1月12日、新宿。現実にからめとられていない人たちのデモは楽しそうです。

                               

                               

                               

                               

                               

                               

                              良いプラカードですね。私の気持ちを代弁しています。

                               

                               

                               

                              | 文学・哲学・思想 | 01:26 | comments(0) | - |
                              アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニ入レズニ
                              0

                                アラユルコトヲ
                                ジブンヲカンジョウニ入レズニ
                                ヨクミキキシワカリ
                                ソシテワスレズ

                                 

                                 

                                 

                                これは宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の中の一節です。中村哲医師が殺害されて脳裏に浮かんだのがこの一節でした。「人間と人間の違いは、人間と犬の違いより大きい」と言ったのはパスカルだったと思います。安倍晋三と中村哲医師の人間の格の違いを見せつけられました。

                                 

                                 

                                 

                                以下は「ヨクミキキシワカリ、ソシテワスレ」ないための私家版「雨ニモマケズ」です。

                                 

                                 

                                アラユルコトヲ ジブンダイイチニカンガヘ、

                                 

                                コクミンノゼイキンデ ナカマニノミクイサセ、

                                 

                                カンリョウニ コウブンショヲハキ・カイザンサセ、

                                 

                                ケンポウカイセイハクチダケデ、

                                 

                                ナニヨリモ権力ノ座ニイルコトガジュウヨウデ、

                                 

                                イツモ下品ナヤジヲトバシ、

                                 

                                東ニ原発ヲウゴカシタイトイフヒトアレバ 行ッテマカセナサイトイイ、

                                 

                                南ニツカレタ母子アレバ同情スルフリヲシ、

                                 

                                西ニ囚ワレノジャーナリストアレバ 自己責任ダトイッテミゴロシニシ

                                 

                                ヒトリノトキハナク、イツモナカマトゴルフヲシ、

                                 

                                大学マデツクッテヤリ、

                                 

                                ミンナニデクノボートヨバレルコトヲナニヨリモオソレ、


                                母親ニホメラレルコトヲナニヨリモノゾミ、


                                苦ニサレルコトヲナニヨリモコワガル、


                                サウイフモノニボクチャンハナリタイ


                                 

                                | 文学・哲学・思想 | 22:55 | comments(0) | - |
                                それでも『JOKER』は暗示する。
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                                  すぐれた映画や文学は人間の命を支えます。ここでは、動物としての命ではなく言葉を持った人間の命すなわち精神のことを言っています。

                                   

                                   

                                   

                                  映画『JOKERは、ご存知のように、バットマンの敵役・ホアキン・フェニックスが演じるジョーカーの人生にフォーカスした完全オリジナル・ストーリーです。狂気で人々を恐怖に陥れる 「ジョーカー」 そのものではなく、孤独な男がジョーカーになるまでの内面のリアルなドラマを描いています。日本では R15+ に指定されており、15歳未満の入場・鑑賞が禁止されています。

                                   

                                   

                                   

                                  この映画はそれだけのインパクトを持っています。そのインパクトはどこから来るのでしょうか。もちろん音楽や映像の持つ力は大きいのです。しかし、すぐれた映画や文学には、揺らぎがあります。全てを語ることなどできないのですから当然です。

                                   

                                   

                                   

                                  この映画は隠喩によって、鑑賞者が自覚していないものを引き出し、語りつくせないものを投入できる余白を準備しています。隠喩は、文字通り隠すことですべてを語ろうとする試みであり、余白を生みだす手法です。

                                   

                                   

                                   

                                  ミロのヴィーナスが美しいのは、両腕がないからです。喪われた部分に自分の想像できる限りの最高の美を注入することができます。つまり、自分の経験を積み重ねることによって、どんどん美しいものが見えてくるのです。これこそが、芸術の存在理由です。

                                   

                                   

                                   

                                  想像によって両腕が復元されたヴィーナス像。

                                   

                                   

                                   

                                  この間の事情を、主演のホアキン・フェニック自身に語ってもらいましょう。

                                   

                                   

                                  「創造には流動性がなければならない。ただ数をこなすためだけのものじゃないんだ。創作するということは、呼吸をしているということだから」

                                   

                                  「映画って往々にして、答えを簡単に出しすぎる時がある。『こんな体験をしたからこのキャラクターはこんな人間になった』みたいなね。でも生きるってことはそんなに浅くて簡単な事じゃないし、人間の心理ってもっともっと複雑だ。何でそんなことをするのか? 人の言動の裏側は理解できないことの方が多いし、無意識に行動に駆られる事だってある。この映画は、表面的な答えは出していない。簡単な答えが出るものなんて、この世の中にないんだからね」

                                   

                                   

                                   

                                  それに対して、直喩は余白をなくすことで想像力を制限します。分わかりやすいのですが、心の奥深くにまで届きません。感動は画一的でうわべだけのものになり、簡単に特定の方向へと誘導されてしまいます。例えば、百田尚樹原作の映画『永遠の0(ゼロ)』はその典型です。

                                   

                                   

                                   

                                  言うまでもなく、すぐれた映画には強烈な力があります。それは詩のもつ力です。人生を一変させるような力です。これから高校の国語で主流になる「論理国語」にはそういった力はありません。ビジネス文書を正確に読み取る力は、会社の役に立っても魂を養うことはできません。

                                   

                                   

                                   

                                  ブログで何度も言及してきましたが、「論理的思考力」や「速読」は人間の魂の問題を数値化し、商品化しているだけです。商品化にはデータやエビデンスは欠かせませんからね。

                                   

                                   

                                   

                                  プロパガンダにころりと騙されるのも、この種の「教育」によって、あまりに人間が薄っぺらになったがためです。精神の奥行きがなくなり、ゆで卵のようにツルんとした陰翳のない表情はこうして生まれたのです。

                                   

                                   

                                   

                                  JOKERのような優れた映画が道徳的に危険視され、隠喩の持つ力よりも権力者を信じる人間たちが多い世の中で、映画や文学は人間の命=精神を支えていると言ったところで、「豚に真珠」でしょうね。

                                   

                                   

                                  | 文学・哲学・思想 | 16:15 | comments(0) | - |
                                  顕在化する悪霊たち。
                                  0

                                    私は身の程をわきまえているつもりです。したがって、先見の明を誇る気持ちなど全くありません。しかし、予想していたことが次々に現実になっていく様を見ると、歴史の証言者として書き留めておこうという気になるのです。

                                     

                                     

                                     

                                    一昨日のブログでN国の立花孝志党首の発言を批判しました。今日になって朝日新聞が批判していますが、軽減税率の適用と引きかえに安倍政権を批判できなかった自分たちのふがいなさを自己批判すべきです。もっとも、朝日新聞にそれを期待しても無理でしょうが。

                                     

                                     

                                     

                                     

                                     

                                    重要なことは、無知と空洞化した人格から発せられるレイシズムと優生思想が社会の中に広く行きわたっていることを認識することです。

                                     

                                     

                                     

                                    新自由主義のイデオロギーであるコーポラティズムと社会ダーヴィニズムは、必然的に優生思想に行きつくのだと、前々から指摘してきました。いや、人間の中に潜む幻想力としての残虐性が優生思想となって人権意識の希薄となった社会の網の目をかいくぐって顕在化すると言った方が正確かもしれません。

                                     

                                     

                                     

                                    それはともかく、一昨日のブログに書いたN国の立花孝志党首の発言をどうかもう一度お読みください。

                                     

                                     

                                     

                                    その中で次のように書きました。「歴史を振り返るまでもなく、安倍政権は民族差別と優生思想を胚胎しているのです。私が鬼胎の政権と呼ぶ所以です。こういう政権には必ずや同調者が現れます。それが日本維新の会でありN国です。」と。

                                     

                                     

                                     

                                    そして、そのN国党からホリエモンが立候補するとのニュースが飛び込んできました。私は全く驚きませんでした。来るべきものが来たのだ、と妙に冷めた気持ちでした。そのうち、長谷川豊の名前も挙がるかもしれません。

                                     

                                     

                                     

                                    もはや大声で彼らを批判しても、家畜というか奴隷根性のしみ込んだ人間には届かないのです。彼らは「何一つ結果も出さずに文句ばかり言うやつはいつの世にもいるもんだ。」というような、言葉による意思の疎通を断念させるほどの動物的反応しか示せないのですから。

                                     

                                     

                                     

                                    私は正気を維持するために、小声で、誰も読まないブログに自分の考えを書き留めておこうと思います。2年以上前に書いた記事ですが、今日の状況を予想しています。よかったらお読みください。

                                     

                                     

                                     

                                    IT成金の皆さんの貧困な想像力

                                    http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=382

                                     

                                     

                                     

                                    | 文学・哲学・思想 | 12:21 | comments(0) | - |
                                    とどまるところを知らない人間の劣化。
                                    0

                                      人間の劣化、特に政治家を始めとして、社会で上に立つ者の劣化がとどまるところを知りません。この傾向は第二次安倍政権が発足して以降特に顕著です。慎み深さも、最低限のモラルも、職業倫理も、教養も、そして責任感も失われようとしています。

                                       

                                       

                                       

                                      その原因を最も根源的なところまでさかのぼって究明したのが、『資本主義の終わりか、人間の終焉か?未来への大分岐』です。少々早いかもしれませんが、「今年の一冊」の有力候補です。

                                       

                                       

                                       

                                       

                                       

                                       

                                      そういうわけで、昨夜、高校生の授業でも紹介しました。近いうちに、ブログでまとめるつもりです。

                                       

                                       

                                       

                                      それにしても、「資本主義の終わりか、人間の終焉か?」などと、何を大げさなことを言っているのか、自分を高みにおいて悲観的な言説をばらまいて何になるのか、これこそ左翼の典型だ、と感じている人も多いと思います。

                                       

                                       

                                       

                                      しかし、そういう人に限って「英霊」だの「自虐史観」などといったヤワでアブナイ概念を頼りにして考えたつもりになっているのです。「国のために戦う」だの「今日の繁栄は戦争で命を落とした英霊のおかげである」などというセリフを聴いただけで涙ぐんだりします。ああ、何という無知!何という空洞化した人格!その結果、彼らは靖国神社を精神的な支柱として「尊崇」するのです。

                                       

                                       

                                       

                                      その典型が小泉進次郎です。無知と空洞化した人格の見本です。

                                      参院選が終わって間もないころ、彼は次のように言いました。「悲観的な考えしか持てない人口12千万人の国より、将来を楽観し自信に満ちた人口6千万人の国の方が、成功事例を生み出せるのではないか」と。

                                       

                                       

                                       

                                      自分では人口減少社会へのラディカルなビジョンを披歴したつもりかも知れませんが、いつものように風の向くまま気の向くままの観測気球にすぎません。何の根拠もない言いっぱなしこそが、彼の発言の特徴です。

                                       

                                       

                                       

                                      それよりも、この発言の中に現れている彼の偏見と浅薄さに驚きました。それをあっけらかんと言い放つ無神経さにもあきれます。

                                       

                                       

                                       

                                      何より、人間を「悲観的な考えしか持てない」人口と「将来を楽観し自信に満ちた」人口に二分するといった、血液型占いよりも粗雑な分類しかできない人間が将来の宰相候補などと言われるこの国の政治のレベルに絶望するのです。

                                       

                                       

                                       

                                      「ほら、そうやってすぐ絶望する人が成功事例を生み出す人を邪魔しているのですよ」と言われるかもしれませんね。やれやれ、暖簾に腕押しでしょうが、3年以上前に書いた記事を載せておきます。小泉進次郎様、よかったらクリちゃんといちゃつきながらでも結構ですのでお読みください。

                                       

                                       

                                       

                                      悲観する能力。

                                      http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=131

                                       

                                      感情にもレベルがある。

                                      http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=126

                                       

                                       

                                      | 文学・哲学・思想 | 16:47 | comments(0) | - |
                                      あるべき<生>のさ中へ。
                                      0

                                        自分の人生を振り返ったとき、幸せな人生だったと思えるための条件は何でしょうか。立派な教育を受け、自分の望む職業に就き、よき伴侶や子供に恵まれて生涯を終えることでしょうか。私はそうは思いません。

                                         

                                         

                                         

                                        なぜなら、ここに書いたような、人々が無意識のうちに志向する人生は、実はどこにも存在しないからです。類型化されたイメージとしての人生は、現にその中を生きている人間にとっては何の支えにもならないのです。

                                         

                                         

                                         

                                        実際の人生は、偶然の出来事や悪意によって翻弄される一方で、思いがけない出来事や出会いによって救われたりもします。多くの場合、現実の中であがいているうちに人生は終わってしまうのかも知れません。

                                         

                                         

                                         

                                        しかし、そもそも「現実」とは何でしょうか。それは、ぶつかり、傷つき、あがくに値するものでしょうか。今や「現実」とはテレビやSNSを通じて流されるエンタテインメントと化した「電子情報」になっています。

                                         

                                         

                                         

                                        大企業と政府が国家を私物化(コーポラティズムと言います)し、社会的共通資本を破壊し、彼らの代理人に過ぎないテレビとマスメディアによって現実は隠蔽されているのです。

                                         

                                         

                                         

                                        現実は見ようとすれば誰の目にも見えるものです。もちろん、現実のどの部分を切り取るか、どこに着目するかは人によって様々でしょう。しかし、客観的な事実は確かに存在するのです。偏向したレトリックやでっち上げによって事実を隠蔽しようとする「メガホン男」たちが安倍政権の周りで跳梁跋扈しようとも、早晩、私たちは現実を身をもって知ることになります。

                                         

                                         

                                         

                                        誰の目にも見える現実が8日の朝日新聞の一面に載っていました。『汚染水タンク、あと3年で満杯』福島第一原発の敷地飽和、という見出しがついています。記事によれば「東京電力は8日、福島第一原発で事故を起こした建屋などから発生する汚染水をためるタンクが、2022年夏ごろに満杯になる見通しを明らかにした。」とのことです。どこが、「完全にアンダーコントロールされている」のでしょうか。

                                         

                                         

                                         

                                        そのうち海に流すしかなくなります。それを正当化するもっともらしい「科学的な知見」が流布されることでしょう。その時、この事態を引き起こした責任者である安倍晋三は政界を引退してゴルフ三昧の日々を送っているのでしょうね。

                                         

                                         

                                         

                                         

                                         

                                        除染によって出た膨大な量の汚染土はフレコンバッグに詰められて山積みにされたままです。しかも各原発から出た使用済み核燃料が原発敷地内のプールにぎっしり詰まっています。どれか一つでも冷却できなくなれば、この国は終焉を迎えるのです。

                                         

                                        フレコンバッグの山。ほんの一部です。

                                         

                                         

                                        現実と言えば、これも現実です。NHKが報道番組の中で臨時ニュースを流すくらいですから。

                                         

                                         

                                         

                                         

                                        前にも書きましたが、私たちはもともとウソだった現実をうかつにも現実だと勘違いしていたのです。3・11によってウソがばれた後も、現実が回復したというさらなるウソを重ねられているのが、日本社会です。

                                         

                                         

                                         

                                        私たちは、アンドロイドが電気羊の夢を見るように、教育を通じて催眠性の薬を飲まされ続けています。地震によって原発が暴発し、そこに津波が襲いかかり、列島を縦断する台風によって高濃度の放射能が国中に撒きちらされる事態など想像すらしていません。

                                         

                                         

                                         

                                        教育とは、想像力や歴史認識を鍛えることによって、目に見えないものを見る力を育むものです。放射能は目に見えません。しかるに、この国の教育は子供たちに劣等感と嫌悪感を味わわせ、早い段階から「負け犬根性」と「あきらめ」を叩き込んでいます。

                                         

                                         

                                         

                                        それは一面的な見方に過ぎない、と反論したくなる人もいるでしょう。しかし、一面的な見方ではなく本質的な見方です。私は教育の末端にいて、この国の教育の犠牲者をいやというほど見て来たのです。

                                         

                                         

                                         

                                        18歳の大学受験の時が知的水準のピークで、学校を出たら何ら自分で知る努力をしない大人たちこそが、日本の教育(塾も例外ではありません。むしろ主導しています。)が描いた理想の愚民なのです。彼らはツイッターの中でわめきちらし、人々の感情に訴え、憎悪と差別を煽ります。哀れな人生というほかありません。

                                         

                                         

                                         

                                        自分なりの意見を主張する資格は誰にもありますが、自分なりの事実などありません。私には夢の中でさらなる夢を見るような生き方はできません。窓のない地下室で日に日に偏狭になっていくような生き方もできません。

                                         

                                         

                                         

                                        あるべき<生>とは、この国の過去の死者のために、そして未来の幼き命のために覚醒して現政権と闘うことです。幸福とは、自分一個の幸せを超えて、このあるべき<生>に向かっている時に感じることのできる共通感覚のようなものではないでしょうか。

                                         

                                         

                                         

                                        | 文学・哲学・思想 | 14:39 | comments(0) | - |
                                        あるネトウヨ誕生秘話。
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                                          先日、ジュンク堂書店で必要な本を買い、レジに並んでいました。ちなみに私は田舎に住んでいるので、書籍の9割は古本を含めアマゾンで購入しています。それでも、一月に数回は書店に行きます。書店で偶然見つけた本の中に、その後の人生に多大な影響を及ぼしたものがあったからです。思えば、本との偶然の出会いは様々な恩恵をもたらしてくれました。

                                           

                                           

                                           

                                          スティーブ・ジョブズではありませんが、若いころ読んだ本がその時は点(dot)でも、それが繋がって線となり、面となり、50歳を過ぎて一つの像(picture)を結ぶようになってくると毎日が楽しくなってきます。世界を読解する醍醐味とでも言えばいいのでしょうか。病気にでもならない限り、この楽しみは死ぬまで続きそうです。少なくとも私には歳をとったり退屈している暇などないのです。知りたいことが山のようにあるのですから。

                                           

                                           

                                           

                                          時々「いや〜、そんなことは学校で習わなかったからね〜」という大人がいますが、わからないことがあれば自分で納得するまで調べ、知識を積み上げていくしかありません。それを怠っておいて自分の無知を学校のせいにするなど、たとえ冗談でも情けなくなります。日本の学校教育はこういう大人を大量に育てているのです。

                                           

                                           

                                           

                                          話が脱線しました。ジュンク堂のレジの場面に戻ります。私の隣に、70歳過ぎとおぼしき白髪の老人がレジに並んでいました。同じ雑誌を2冊ずつ、合計4冊を手に持っています。ネトウヨ雑誌の『 WiLL 』と『 Hanada 』でした。

                                           

                                           

                                           

                                           

                                           

                                           

                                           

                                          70歳過ぎて読む雑誌がこれかと、少し気の毒になったのですが、それは私の傲慢というものです。人がどんな雑誌を読もうが、他人に干渉されるいわれはありません。私は代金を払い書店を後にしました。その老人のことを気の毒に思ったことを反省したものの、そのシーンがいつまでも心に引っ掛かっていました。

                                           

                                           

                                           

                                          数週間が経ち、その老人のことを忘れかけたころ、偶然以下の記事を見つけました。ブログでネトウヨを批判してきましたが、その内実はここに書かれている通りなのではないかと思います。もちろんこれは例外的なケースかもしれません。人は歳をとると寂しくなり、何かにすがりたくなるものです。以下の小論を読み、老人のことを気の毒に思った理由がわかったような気がしたのです。

                                           

                                           

                                           

                                          亡き父は晩年なぜ「ネット右翼」になってしまったのか。

                                          https://www.dailyshincho.jp/article/2019/07251101/

                                           

                                           

                                          あわせて、今年の7月22日に Film photography さんから頂いたコメントも掲載しておきます。

                                           

                                          ― コメントをいただきありがとうございます。

                                           

                                          低投票率に落胆しつつも、参院選挙結果には一縷の希望を見出すことができました。落ちたりといえども比例でわれわれ国民の代表二人を国政に送り込んだ山本太郎氏の笑顔の清々しさに心を洗われた気分です。次の衆院選に希望を繋ぐことができました。

                                           



                                          さて、3・11を界にこの国は全く変わってしまいました。いや、本当はそれ以前から変わりつつあったのかもしれません。日米安保条約新ガイドライン(1997)に始まり、小泉政権下の自衛隊イラク派遣(2003)に戦争への階段を昇りつつあることを、わたくしの父を含む戦争世代は敏感に感じ取っていたようです。亡き父が遺した手記には、岸信介がいかなる人間であったか、そして満州の地でその者どもによって棄てられた者の一人として、かの時代が再び到来することへの恐れと危惧が書き連ねられています。

                                           



                                          3・11は我々の国の第二の敗戦日と思います。8・15に続く彼の地での棄民と同じく、自己責任とばかりに棄民が公然と行われるその始まりでした。オリンピック招致が決まった瞬間の強烈な違和感、不都合なる事実を棄てるための壮大な虚飾・粉飾・嘘や偽りが当たり前の世の中にもはや声も上げることもできず、寝たきりとなっていた父がどんなに無念と歯噛みしたことか、その思いをわたくしは引き継いでいこうと思います。

                                           



                                          それこそ、戦争世代を親に持つ大人の将来世代への責任だと考えます。―

                                           

                                           

                                          | 文学・哲学・思想 | 21:53 | comments(0) | - |
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