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 (JUGEMレビュー »)

まず私たちの生命と暮らしを脅かす事実を知ること。それにたいしてどのような認識を持つのか。この国のみならず、世界を壊滅させる災厄とどう向き合うのか。次世代に対してどう責任を取るのか、そもそも責任を取れるのか。自分に何ができるのか。この現実にどう向き合うのか。それを教えるのが教育のはずだが、この国には教育も哲学も存在しない。
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「最悪」の核施設 六ヶ所再処理工場 (集英社新書)
「最悪」の核施設 六ヶ所再処理工場 (集英社新書) (JUGEMレビュー »)
小出 裕章,渡辺 満久,明石 昇二郎
原発よりもはるかに危険な六ヶ所村再処理工場。私たちの日々の生活が薄氷の上で営まれていることを痛感させられる。同時に、この国には「国民の生命・財産・自由を守り抜く!」と威勢のいいことを言う総理大臣と無能の政治家しかいないことに絶望する。核燃料サイクルと言い、下北半島の再処理工場と言い、3兆円以上の国民の税金がつぎ込まれ、いまだ後始末も将来の見通しもたっていない現実をどう考えているのか。彼らは核兵器を持ちたいという願望と税金をロンダリングして私腹を肥やすことしか眼中にない。北海道の地震だけに目を奪われてはならない。六ヶ所村は今回の震源地の目と鼻の先にあるのだ。
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幻影(イメジ)の時代―マスコミが製造する事実 (現代社会科学叢書)
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D.J.ブーアスティン
私にとっては古典の中の古典。三度読みました。そしてその慧眼にいまだに驚いています。
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殺人犯はそこにいる (新潮文庫)
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清水 潔
ジャーナリストと称する職業がある。自称ジャーナリストもいれば、テレビのコメンテーターとしてリベラルに媚びる政権批判をし、名を売り、講演で稼ぐ職業をジャーナリストと呼ぶ者もいる。とんだ茶番である。ジャーナリストとはどこまでも「事実」を追いかける。テレビに出て能天気な解釈や感想を垂れ流している暇などないはずだ。ジャーナリストを志す若い人には清水氏の著作は避けて通れない。その名に値する本物のジャーナリストがここにいる。
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デジタル・ポピュリズム 操作される世論と民主主義 (集英社新書)
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福田 直子
おそらく自民党・安倍政権はSNSを駆使し、分析するデータサイエンス(日本版なのでレベルはまだ低いですが)の重要性に着目し、選挙にどうすれば勝てるか、自分たちに有利な世論を形成し、国民を誘導・分断するにはどうすればいいのかが分かっているのです。そのためのノウハウも蓄積しつつあります。安倍首相の貧困な語彙力からは想像できないカタカナ言葉を聞いていると、それがSNSを分析している集団から教えられたものであることがよくわかります。ただ彼らの致命的な弱点は将来の社会を導く理想がないことです。おそらく、思いもかけない結果が待っていることでしょう。なぜなら、所詮、彼らはアメリカとビッグデータの奴隷でしかないのですから。これからの政治は、好むと好まざるとにかかわらず、この本に書かれていること抜きには語れなくなっているのです。
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 (JUGEMレビュー »)

安倍政権に対するメディアの忖度が云々されていますが、元々同じ穴のムジナなのです。忘れてならないのは、日中戦争から太平洋戦争にかけて、日本の世論と新聞のほぼ全部は好戦的・拡張主義的だったのです。しかも、当時はまだ言論統制体制が発足していなかったのです。この本は、そうした「一貫して好戦的な世論とそれに便乗する新聞」が先導し、近衛文麿はじめ文民政治家がそれに便乗、軍部がさらに便乗、という構図を一次資料で克明に論証しています。安倍政権を支持するネトウヨの皆さんの日本語力では、まともな読解は無理ですので勧めません。一方、正確な歴史を知るためには「世論」の不気味さを知ることだと気づいている若い人には是非一読を勧めます。
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茫漠の曠野 ノモンハン
茫漠の曠野 ノモンハン (JUGEMレビュー »)
松本草平
著者は大分市にある『天心堂へつぎ病院』の院長、松本文六氏の御尊父、松本草平(本名松本弘)氏です。詳しくは、ブログで紹介したいと思いますが、第一次資料として極めて価値の高いものです。40年ぶりに復刻版を出された松本文六氏と出版社に感謝する他ありません。
戦略も何もない、無謀・無慈悲な戦争を語り継ぐことは、最も崇高で重要な人間の営為だと私は考えています。作家の司馬遼太郎氏は、電話で草平氏に次のように伝えてきたそうです。「先生の臨場感のあるノモンハン戦記に出会えて本当にありがとうございました。私は大東亜戦争の折、戦車隊の一員として従軍しましたが、先生の従軍記以上のものを創ることはできません。」と。
一人でも多くの方がこの本を読まれることを望みます。ちなみに松本文六氏は伊方原発差止め訴訟の原告でもあります。その縁で、この本に出会うことができました。
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「南京事件」を調査せよ (文春文庫)
「南京事件」を調査せよ (文春文庫) (JUGEMレビュー »)
清水 潔
全国のネトウヨの皆さんへの推薦図書です。清水氏のこの本を読んでから、「南京事件はなかった!」「南京事件は捏造だ!」と叫びましょうネ。
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日本列島の全原発が危ない! 広瀬隆 白熱授業  DAYS JAPAN(デイズジャパン)2018年1月号増刊号
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広瀬隆
広瀬氏をアジテーターだの、オオカミ少年だの、悲観主義に過ぎると言って批判する人がいる。しかし、ブログで何度も述べてきたように、真の悲観主義こそがマインドコントールによって奴隷根性のしみ込んだ私たちの精神を浄化してくれるのだ。そもそも無知では悲観が生まれようもないではないか。国などいくら破れても結構。せめて山河だけでも次世代に残そうと考える人ならぜひとも読むべき本である。いや、これから幾多の春秋に富む若い人にこそすすめたい。
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チャヴ 弱者を敵視する社会
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オーウェン・ジョーンズ,Owen Jones
【本書への賛辞】

「怒りが生んだ、最高の本」
──ガーディアン紙

最高の論争がみなそうであるように、知性に裏打ちされた怒りが本書を支えている。
──エコノミスト誌

暴動や世界中に広がったオキュパイ運動に照らして考えると、分断社会に関する著者の鋭い分析は、
不気味なほど未来を予知していたことがわかる。
──アートフォーラム誌

情熱と、思いやりと、すぐれた道徳性が結実した仕事だ。
──ニューヨーク・タイムズ紙

政治の定説を見直す大胆な試み。著者は戦後のイギリス史を縦横無尽に往き来し、
階級、文化、アイデンティティといった複雑な問題を軽々とまとめてみせ、
結果として「階級」問題に火をつけ、大きな効果をあげている。
──インディペンデント紙

いまの制度が貧しい人々を見捨てていることに対する苛烈な警告──それが本書だ。
──ブログサイト「デイリー・ビースト」

ジョーンズは、「地の塩」だった労働者階級が政治のせいで「地のクズ」と見なされるようになった経緯を見事に説明している。
──タイムズ紙

この本は、新しいタイプの階級嫌悪と、その裏にあるものを痛烈にあばいて見せてくれる。
──ジョン・ケアリー(The Intellectuals and the Masses著者)

これは「イギリスはおおむね階級のない社会である」という考え方への、論理的で情報満載の大反撃だ。
──オブザーバー紙

情熱的で示唆に富む……この声が届くことを心から願う。
──スコットランド・オン・サンデー紙
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 (JUGEMレビュー »)

紹介していない本が山のようにあります。数日前にこの本を本棚の奥から引っ張り出し再読しました。いや〜面白かった。。とにかくこの本のことを忘れていた自分が信じられない。読んでない人に熱烈に勧めます。ハイ。
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新・日米安保論 (集英社新書)
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柳澤 協二,伊勢崎 賢治,加藤 朗
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英語の実際的研究 (1969年)
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秋山 敏
高校生にとって、今でも一押しの不朽の名著。でもこの本をことを知っている英語教師は少ないと思います。是非復刊してほしいものです。
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スノーデン 日本への警告 (集英社新書)
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エドワード・スノーデン,青木 理,井桁大介,金昌浩,ベン・ワイズナー,宮下紘,マリコ・ヒロセ
2017年4月18日、朝日新聞がようやく「パノプティプコン」を取り上げました。遅すぎますね。
これから先の日本社会は、ますます荒廃が進み、国民の不満が頂点に達し、やがて爆発します。それを未然に防ぐために、国は国民の監視を強化します。
実際アメリカでは「愛国者法」により、電子メールや携帯の通話履歴が監視の対象になっています。誰が、いつ、どこで、何を読んで、誰と通信を交わしたか、すべて国に筒抜けです。
「パノプティプコン」とはフランスの哲学者フーコーが用いた概念ですが、国民が刑務所の囚人のように監視される体制を言います。監視者の姿は見えませんが、囚人は監視者不在でも、監視を意識することによって管理統制されるのです。これを「パノプティシズム」と言います。
このシステムから解放されるためには、権力がどう管理・統制しようとしているかを知らねばなりません。この本はそれを知るための第一歩です。あなたが無知のまま、奴隷の人生を送りたければ、読む必要はありません。
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A.ミラー
アリスミラーのこの本は、塾を始めるきっかけになりました。ただ生活のためだけなら、他のことをしていたでしょう。『才能ある子のドラマ』とあわせて、当時の私には衝撃的な本でした。人生はどこでどう転ぶかわかりません。人間の奥深さを知ることで、何とか自分を維持していたのです。この本を読むと当時のことが、ありありと思い出されます。ある意味で、私の人生を方向づけた本かもしれません。
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朽ちていった命:被曝治療83日間の記録 (新潮文庫)
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NHK「東海村臨界事故」取材班

2月18日のブログでも書きましたが、仕事のために読むビジネス書の類は、最終的には効率を重視し、最小の資本と労力の投下で、いかにして最大の利益を上げるかということに尽きていると思います。そのための働き方改革であり、そのための賃上げです。そのための人心掌握術であり、顧客対応です。ビジネス書を読めば読むほど、人間は軽薄になり、視野が狭くなっていきます。もしあなたがそれを自覚するきっかけがほしいなら、是非この本を読むことを勧めます。読書はビジネスのためにするのではないということが分かると思います。この本は私たちの日常の風景を一変させるだけのインパクトを持っています。いわば、ことばの最高の意味における「闖入者」なのです。
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服従
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黒い巨塔 最高裁判所
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瀬木 比呂志
この本はまだ発売されていません。自分で読んでいない本を推薦するのは邪道でしょう。しかし、これまでの『絶望の裁判所』『ニッポンの裁判』(ともに講談社現代新書)に続く裁判所、司法批判の第3弾が長編の権力小説だということで、過去2冊の本の面白さからして、推薦に値する本だと思いました。『原発ホワイトアウト』の最高裁判所ヴァージョンだと思います。読んでからコメントを追加したいと思います。
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そして、僕はOEDを読んだ
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アモン・シェイ
学校なる場所に通っていた時、毎年夏になると課題図書を読んで、読書感想文を書かねばならないのが苦痛でした。課題図書の選定には学校と書店の密約があるに違いないと思っていたくらいです。

偶然巡り合った面白い本の感想を書くのならまだ我慢できたかもしれません。つくづく学校というところは、余計なことをしてくれると思ったものです。

あまりにめんどうくさいので、「あとがき」を参考に、あらすじを書いて提出したら、トリプルAをもらいました。

学校というところは、もしかしたら、人生の退屈に耐える訓練をする場所だったのかもしれません。この本を読んで、改めてそのことを確認しました。別に先生を責めているわけではありません。それほど自覚的に生きるということは難しいのだとため息をついているだけです。
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想田和弘監督の観察映画。音楽による演出は一切なく、徹頭徹尾監督の視点で撮られたドキュメンタリー映画。見終わった後、日本の選挙風土の貧困さが浮かび上がる。この国に民主主義はない、ということを改めて確認し、そこから出発するしかない。その勇気を持つ人には必見の映画です。合わせて『選挙2』もどうぞ。
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ウェーバーの死の1年前、1919年、学生達に向けた講演の記録です。
一部抜粋します。

「自分が世間に対して捧げようとするものに比べて、現実の世の中が―自分の立場からみて―どんなに愚かであり卑俗であっても、断じてく挫けない人間。どんな事態に直面しても「それにもかかわらず!」と言い切る自信のある人間。そういう人間だけが政治への「天職」を持つ。」(P105〜106)

「さて、ここにおいでの諸君、10年後にもう一度この点について話し合おうではないか。残念ながら私はあれやこれやいろんな理由から、どうも悪い予感がしてならないのだが、10年後には反動の時代がとっくに始まっていて、諸君の多くの人が―正直に言って私もだが―期待していたことのまずほとんどは、まさか全部でもあるまいが、少なくとも外見上たいていのものは、実現されていないだろう。」(P103〜104)

10年後には、ワイマール体制は機能不全に陥り、1933年にはヒトラーが首相に就任します。

平和憲法は、日本人にとって310万人の命と引き換えに手に入れた唯一と言っていい理念であり、アイデンティティーでした。その唯一の誇りを、日本人は損得勘定で葬り去ろうとしています。言い古された言葉ですが、歴史は繰り返すのです。
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熊楠の星の時間 (講談社選書メチエ)
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中沢 新一
小学校を卒業するころ、将来なりたい職業として思い描いていたのが、天文学者か生物学者でした。プロ野球選手は、自分のセンスでは無理だと悟りました。物ごころついたころから興味があったのは宇宙や昆虫や植物の世界でした。そんなわけで南方熊樟に出会うのは必然的な成り行きだったのです。人間は言葉によって世界を把握しますが、それ以外の把握の仕方があるはずだと、ずっと思ってきました。南方熊樟は、小林秀雄と同じく、直観による世界の把握の仕方を教えてくれました。この本は、言葉によって構成された世界秩序の外に出て、世界を改めて考えたい人に大いなるヒントをあたえてくれます。安倍政権によるゴキブリのフンのような、あまりにばかばかしい政治状況を見せつけられているので、精神の衛生学として一気に読みました。
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こどもの教育から裏金を使ったオリンピック誘致、原発再稼働、戦争準備から武器の売却、安倍政権の裏の権力としてメディアに絶大な影響力を行使する電通。私たちは電通が作り上げた「箱」の中でいいようにマインドコントロールされている。自分の意見だと思っていたものが、実はそう思わされていただけだということに気づかなければならない。音楽をはじめとする芸能情報、その中で踊らされるミュージシャンやタレント、果てはデザイン業界までを席巻する。今や電通の介在しないメディアはないと言ってもいい。利権あるところに電通あり、です。
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英語教育に携わる人は、一度この本を読んでみるべきではないでしょうか。言葉は悪いですが「英語ばか」がこの国には余りにも多すぎる気がします。
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前作『日本はなぜ「基地」と「原発」止められないのか』に続く著者渾身の力作。自分の人生を生きたい人にすすめます。ただそれだけです。18歳で選挙権が与えらる高校生が政治を考える際の基本的なテキストになる日がくるといいですね。無理でしょうが。これ以上余計なコメントはしません。まず手に取ってみてください。
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メディアで取り上げられるよりはるか前から日本会議の存在について私は言及していました。電通と同じくタブー視するメディアには心底失望したものです。報道すればタブーはタブーでなくなるのです。何を恐れているのでしょうか。干されれば、何とか生活をする工面をすればよい。それだけのことです。
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帯に「祝祭都市にスタジアムはいらない」とあります。そもそも2020年まで天災と原発事故をやり過ごし、経済危機を乗り越えて存在しているでしょうか。極めて怪しいですね。偶然書店で手に取って読みました。彼の文章を読むと、建築は現世の権力に奉仕するものではなく、想像力の王国を作るものだと思わされます。建築にそれほど興味のない人でも、読めます。いや、いつのまにか引き込まれているでしょう。
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難関中高一貫校で学び、東大に合格しても、それはもはや知性のバロメーターではありません。この本に書かれていることが真実だと見破れることこそが本物の知性です。ニセの知性は既得権益を守るためにはどんな屁理屈でもひねり出します。おまえは何も知らないと言って他人を見下し、金と権力におもねるのです。ニセの知性は理想の灯を掲げることができません。「脳内お花畑」などという幼稚な言葉を使って揶揄するしかないのです。彼らの決まり文句は、他国が攻めてきたらどうするのかという、それこそ「脳内お花畑」的なものです。「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」とは、まさに至言です。
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私の元塾生の縁でお会いしたことのある烏賀陽弘道氏の渾身のレポート。事実を丹念に調べ上げ(これがジャーナリストの本来やることです)事実をして語らしめることのできる稀有なジャーナリスト。この本を読まずに福島第一原発の事故の本質に迫ることはできない。ダブル選挙の前に一人でも多くの国民が読むことを期待します。
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松岡正剛氏の本はどれも面白く、シリーズの千夜千冊を除けばほとんど読んでいます。『多読術』は、高校生にぜひ勧めたいと思います。高校時代に、この本を読んでおくと、さまざまな分野の知的見取り図を手に入れることができます。学校の授業だけではなく、この本を手掛かりにして知の荒野に歩みを進めてほしいと思います。
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カント
安倍首相は「この道しかない」と言って消費税を上げ、集団的自衛権の行使を可能にする閣議決定をし、公約とは正反対のTPPを批准することで、日本の文化=アイデンティティーを破壊しようとしています。

もし私たちが生き延びたければ、そのヒントがこの本の中に書かれています。日本は超大国の「夢」を代弁するだけの国になってはなりません。
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山本 太郎
山本氏の国会での質問を、本になって改めて読み直して感じることは、文字通り「みんなが聞きたい」質問をしてくれたということです。安倍首相が小学生に「なぜ政治家になったのですか」と質問された時、「父親も祖父も政治家をしていたからです」と答えていました。小学生相手に、何と言う悲しい答えでしょうか。語るべき理想を持たない政治家など、所詮は官僚に利用されるだけです。それに対して、山本氏には語るべき理想がある。「政治なんてそんなものさ」というリアリストが発散する腐臭を吹き飛ばすさわやかさがある。それは、彼の身体には収まりきれない理想が持つ力そのものです。彼は言います。「力を貸してほしい。少なくとも、あなたが必要だと思われる社会、私が必要だと思われる社会を作っていきたい。そう思うんです」と。日本の総理大臣にふさわしいのはどちらでしょうか。
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ジョン・W・ダワー,ガバン・マコーマック
おそらく、日本人自身よりも海外の知識人のほうが、日本の問題を正確にとらえていると思わせる本です。読み終えて何気なくテレビを見たら、わが大分県選出の国会議員、岩屋毅氏と江藤晟一氏が、2016年ミスユニバース大分県代表を選ぶ催し物に出ていました。名誉顧問だそうです。いかがわしい宗教団体をバックに票を稼ぐだけでは飽き足らず、こんな大会に顔を出して名前を売ろうとする。大分市長の佐藤樹一郎氏も出席していました。このお三方は、こんなことをするために国会議員や市長になったのでしょうか。国民の税金を使ってやることといえば、テレビに出演してにやけた顔をさらすことでしょうか。もう物事の軽重が全く分かっていません。せめてこの本くらい読んではどうでしょうか。私はこの本に書かれていることの大部分に賛成です。
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蓮池 透
出版されてすぐ読みました。国会で、読んでもいないのに、安倍首相が躍起になって否定した事実が書かれています。蓮池氏はあちこちから人格攻撃の対象とされてきましたが、自分にも落ち度があったと認めています。自分は総理大臣なのだから落ち度はないと居直る人間とは好対照です。この本を読んで、拉致問題について今一度国民が考えることを望みます。
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渡邉 格
2年半ほど前に求めて、一気に読みました。マルクスの『資本論』の中に書かれていることを、著者が自分なりに消化し実践していく過程が書かれているので、一種のドキュメンタリー文学として読めます。きっと著者と同じ思いの若者は全国にたくさんいると思います。かけがえのない一回きりの人生を、充実して生きたいと思っている人に勇気を与える本です。
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今年度ノーベル文学賞受賞作品。チェルノブイリは言うまでもなく、フクシマでさえ人々は忘れたがっています。もう過去のことだと言い聞かせて。しかし、過去のことではなく、まぎれもない現在進行中の現実であり、私たちが生きている世界そのものです。この本を読んだ後、橋下徹が御堂筋をイルミネーションで照らし出し、F1カーに乗って写真を撮っているところを見ました。その時のセリフ。「大阪はここまでできる!」

もう何と言うか、別世界を生きている人間です。彼の発する言葉は文学とは無縁です。人間が言葉を持ったのは、言葉にしがたいものを言葉にしようとするためです。政治家が発する言葉の軽さと言ったらありません。それだけ現実も軽いものになったということでしょう。
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鈴木 大拙
鈴木大拙の言わんとすることが、ようやくわかりかけてきました。年齢を重ね、日本文化の基底にあるものをじっくり味わうことで開示される世界があるのです。日々の生活に追われていては、この本を読み、味わう暇などないでしょうが、それだからこそ手に取ってみてはいかがでしょう。
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人間は、条件次第で、喜々として殺人を犯す。そして、その条件を整備しつつあるのが、安倍政権とその背後でうごめく『日本会議』である。このことに気づいていても、「配慮する」ことを最優先して報道しないメディア(特にNHK・読売新聞・産経新聞)。そしてそこに寄生する学者やコメンテーター、芸能人。このドキュメンタリー映画は、彼らの自画像である。たまには、自らの顔をじっくり眺めてみるがよい。
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私が長年考えてきた問題を解明するヒントになりました。ブログで書いたように、まず感情を基にした結論があって、それを正当化するために人は「知性」を動員するという、ごく当たり前のことが書かれている。つまり、知の粉飾決算報告書である。
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中村 好文
中村さんの著作の中では、個人的に最も好きな本です。読んでいるだけで楽しくなります。限りなく優しい、でも、痛烈な文明批評です。これからの生き方のヒントが満載です。それを一人でも多くの人と分かち合いたいと思い、中村好文論・その3の中で引用させていただきました。
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以下は私がアマゾンのレビューに投稿したものです。再録します。
「もし人に幸福な生き方があるとしたら、中村好文さんのような生き方だろうと、ずっと思ってきました。
建築雑誌をパラパラとめくりながら、ふむ、と思って手が止まると、そこには必ずと言っていいほど中村さんの設計した住宅がありました。
文は人なりと言いますが、その人の書く文章のエッセンスがこれほど見事に建築にも表現されている例はめったにありません。
建築に限らず、食の分野でも、ことばと実物の乖離がはなはだしい時代に、中村さんの設計した住宅や美術館に出会うと、どこか安心するのですね。
そういうわけで、著者の本はすべて読ませてもらっています。
この本も偶然、年末に本屋さんで手に入れ、装丁やカバーの手触りを楽しみながら読んでいます。
読みながらいつの間にかほのぼのとしている自分を発見します。
一日に一編か二編を過去の記憶をたどるようにして読んでいます。
この本の平明さ、やさしさがどこから来るのか。そんなことを分析するのは野暮というものです。
とにかくこの素敵な小さな本は、旅のお供にどうぞ!とすすめたくなります。」
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堀部氏のスケッチと自身で撮った写真集。これ見よがしの作家性を前面に押し出したところがない。簡素で謙虚だが、気品に満ちた佇まいは何度見ても見飽きることがない。ブログを書くために、もう一度最初から読み直してみたが、やはり素晴らしい。
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「民主主義が終わってるなら、始めるぞ!」そのとおりです。彼らは「○○大学、○○○○(氏名)、私は戦争法案に反対します」と堂々と個人の責任で発言している。ネット上で匿名で反対意見を罵倒する勢力に比べると何とすがすがしいことか。デモや民主主義について一から考えたい人、あるいは、それくらいのことはわかってるつもりだという学者の皆さんに読んでもらいたい。もちろん大学生や18歳で選挙権を持つ若い人たちにも。ただし、民主主義は感情統治だの多数決だのと言っている橋下徹やホリエモンこと堀江貴史は読まなくてよい。あなたたちはSEALDsの新しさを理解する能力を欠いているから。
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昭和は遠くなりにけり。
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    今朝、庭を見ているとオハグロトンボが数匹飛んでいました。他のトンボと違って、羽をひらひらさせて蝶のように飛ぶので、視界に入りやすいのです。しかし、人が近づくとすぐに逃げてなかなか捕まえることができません。やっとのことでカメラに収めました。

     

     

    よ〜く目をこらさないと見えません。画面中央にいます。バックが黒なので余計分かりにくいですね。

     

     

     

     

     

    オハグロトンボは水と空気がきれいなところにいる、と言われています。してみると、私の家の庭はそういう場所なのかなと思い、少しうれしくなります。木々が鬱蒼と茂る森の中の小屋の風情が漂っていますが、日差しが強烈で外気温が高い日でも、家の中は涼しいのです。

     

     

     

    私が少年だった頃、水を売って商売が成り立つなどとは思いもしませんでした。

     

     

     

    帰宅して、ランドセルを放り投げ、裏山に行けば清水がこんこんと湧き出ている場所がありました。夏休みともなると、昆虫や小動物に同一化し、我を忘れて遊んだものです。そして、疲れた手足を冷やすために、冷たい水で顔を洗い、頭から清水をかぶりました。

     

     

     

    むっとする草の匂い。その間を小さな舌をちょろちょろ出しながら音もなく進むヘビ。蝉の鳴き声。生い茂る木々の葉の間から見える青い空と流れる白い雲。仲間が自分を呼ぶ声。半パンとランニングシャツ一枚で、日が暮れるまで遊びました。間違いなく、人生の黄金時代だったのです。

     

     

     

    そして高度経済成長の時代。いぜんとして水は水でした。のどが渇いた時に飲むもの。水鉄砲を作って友達の顔めがけて飛ばすもの。かき氷の材料。夕方、庭先の焼けた石にかけるもの。要するに、私たちの周りに水はたっぷりあり、水自体に価値がありました。

     

     

     

    そして高度経済成長が終わるころには、水の質や安全性が求められるようになります。無尽蔵にあると思っていた清水や湧水が、新たな付加価値を与えられ、商品として売買されるようになったのです。

     

     

     

    水自体は変わらないのに、季節と時間と場所を考え、消費者が喜ぶ提供の仕方が重要になります。暑い夏の日は、冷やした井戸の水にレモンをひとしずくたらして美しいガラスのコップに入れて出し、冬は身体の芯から温かくなるお茶を和菓子を添えて淹れる、といった風に。

     

     

     

    結果、水源は投機対象にまでなっています。そしてこの流れは不可逆です。歴史がそうであるように。私は、日々絶滅していく昆虫の種を数えながら呆然とする昆虫学者の心境です。

     

     

     

    しかし、見方を変えると、これからはモノ自体や量ではなく、それをいかに提供するかという質、言い換えれば芸術的センスが問われる時代になるということです。

     

     

     

    ただやみくもに情報を仕入れ、有利か不利かというモノサシで進路を設定し、少しでも高い労働力として子供を売りだそうとする発想=受験勉強的発想は、高度経済成長時代の名残に過ぎません。「佐藤ママ」がその時代遅れの発想を可視化してくれました。

     

     

     

    芸術が常にその時代の支配的な価値観に異を唱えて来たように、これからは効率や量ではなく、勉強そのものの質が、すなわち芸術性が問われる時代になるのです。それは私たちがどのような社会でどのように生きるのかという問いと深く結びついています。それにしても、昭和は遠くなりにけり、です。

     

     

    その来たるべき時代の血路を必死で開こうとしている人間もいます。

     

     

     

     

     

    | 文学・哲学・思想 | 00:10 | comments(0) | - |
    Idiot Box (バカの箱)を遠ざける。
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      何十年振りでしょうか。ヘミングウェイの短編小説『心が二つある大きな川』を読んでいます。原題は Big Two-Hearted River。どういうわけか題名を含めて、いや題名ゆえに心に残る小説です。

       

       

       

      彼の小説は自伝的要素を含んだものが多く、しかもすべての文章が暗喩になっています。主人公が人里離れた渓流へ鱒釣りに行き、テントを張り、鱒を釣り、食事を作り、毛布を敷いて眠る、ただそれだけのストーリーです。

       

       

       

      表現は簡潔で、引き締まった文体は、感情移入する余地がほとんどありません。戦争で深く傷ついた心を持てあましている主人公が、自己回復のために一人で自然と向き合い、日常に復帰しようとする物語です。

       

       

       

      この小説は、子供を交通事故で亡くした母親が、家にこもっていると気が変になりそうなので、外に出てひたすら手作業に没頭することで精神の安定を取り戻す話を思い出させます。

       

       

       

      ヘミングウェイの小説は、日本の作家では小川国夫を彷彿とさせます。私は二十歳の頃、彼の小説を好んで読んでいました。当時の私は精神の重りになるような文章を必要としていたのです。たまたま、大阪の旭屋書店に行くと、彼のサイン会が開かれていました。偶然とはおそろしいものです。

       

       

       

      実物の彼は物静かで、ギリシャ彫刻を想わせる彫りの深い顔をしていました。作家然としたところがなく、淡々とサインに応じていました。マイナーな作家でも熱心なファンがいて、次々に色紙を差し出していました。

       

       

       

      私は色紙など準備していません。そこで彼の全集本の一冊を買って、それを恐る恐る差し出しました。彼は私の目をまっすぐ見つめ、裏表紙にサインしてくれました。それが以下の画像です。後日、私は乏しい小遣いをはたいて彼の全集を買いました。軽佻浮薄な言葉が雑音のように頭の中に侵入してくると、彼の本を読んだものです。

       

       

       

       

       

       

      欧米の知識人はテレビを Idiot Box (バカの箱)と呼んでいます。しかし、多くの日本人はテレビなしでは時間を持て余すだけでしょう。一週間だけでもいいから、テレビなしの生活を送ってみてはどうでしょう。

       

       

       

      そもそも、Idiot Box が垂れ流すニュースは、総理大臣とマスコミが酒を飲みながら内容を決定しているのです。政権とメディアの談合です。特に安倍総理のお気に入りであるNHKの岩田明子氏の垂れ流すニュースはフェイクニュースならぬ大本営発表と化しています。

       

       

       

      当然、TPP の危険性も原発事故の実態も報道されません。日本新聞協会も自民党に献金しているので、新聞にも期待できません。野党の立憲民主党も東京電力の労組から支持されているので、真に国民の側に立った政策など望むべくもありません。

       

       

       

      私は、政治的な内容のブログを書くことに飽き飽きしています。もっと書きたいことがあるのです。しかし、「政治的」という言葉がいつの間にか「政権を批判する言葉」という意味にすり替えられ、「芸人は政治的発言をするべきではない」というように使われています。それが証拠に、安倍政権をヨイショする松本人志とその影響下にある芸人の発言は「政治的」とは見なされません。

       

       

       

      テレビに気を取られているすきに、グローバル資本によってこの国は乗っ取られてしまいました。それに気がついて、押し戻そうとしている政治家は山本太郎一人だけとは、余りに気が滅入る風景ではないでしょうか。

       

       

       

      私は、残りの人生を自分の好きなことをして暮らしたいのです。しかし、政治がこの体たらくではそれもできません。この国の行く末がどうしても気にかかるのです。若い人に期待するしかないのですが、それが極端なアメリカ排斥主義にならないように、小さな声を上げ続けるつもりです。モットーは「一人でもやる。一人でもやめる」です。今回も読んで頂きありがとうございました。

       

       

      | 文学・哲学・思想 | 14:23 | comments(0) | - |
      胡散臭い(うさんくさい)人間であり続けること − 加藤典洋氏を悼む。
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        今回のタイトルを見て、こいつはついにおかしくなったか、と思う人もいるでしょうね。ではタイトルを変えましょう。「人から後ろ指を指される人間になれ」はどうでしょう。

         

         

         

        私は反語もアイロニーも逆説も通じなくなった社会に絶望しているのですが、それにしても、いつからこの国はこれほど狭隘な精神に領されてしまったのでしょうか。息苦しさは増すばかりです。そこで今回は「呼吸法」について書きます。

         

         

         

        結論から言うと、私の「呼吸法」は、胡散臭い(うさんくさい)人間であり続けることです。今日のような逆説的な時代においては、真の誠実さは誠実さの風貌をまとっていません。むしろ反道徳的な風貌をまとっているはずです。私にとって自由な場所で思い切り深呼吸するためには、この種の「呼吸法=処世術」を身につける必要があったのです。

         

         

         

        エリートやエスタブリッシュメントを目指す生き方は、他人の呼吸に合わせなければなりませんから、自由に深呼吸できません。いつも酸素不足で疲れていて、自分の立場に有利かどうかというモノサシで人を判断するので、ろくな人間に出会えません。

         

         

         

        私は中学高校時代陸上部に所属していました。大会が近づくと練習するようなずぼらな学生でした。短距離の選手でしたが、今思うと全力で走った記憶がありません。はた目から見ると全力疾走しているのでしょうが、いつもゴールした瞬間、いったい俺は何をがんばっているのだろうかという思いがこみ上げて来て脱力したものです。

         

         

         

        そんな折、偶然、アラン・シリトーの『長距離走者の孤独』を読み、大いに共感しました。自分なりに呼吸することの気持ちよさに気づいたのです。それで少し救われた気になり、陸上部を自然退部しました。要するにどうでもよくなったのですね。今思うと、中学時代の経験がどこかで影響していたのかもしれません。

         

         

        詳しくは「ある教師から学んだ「公平さ」について」に書いています。

        http://www.segmirai.jp/essay_library/essay007.html

         

         

        何が言いたいのかというと、思春期は自分なりの「呼吸法」を身につけるべき時期なのに、学校教育がその機会を奪っていると言いたいのです。もちろん「呼吸法」は比喩です。学ぶタイミングとリズムのことであり、その人間の個性というか独自性を育てるのに欠かすことのできないものです。

         

         

         

        山に登るのも、泳ぐのも、全力疾走するのも、そして学ぶのも、「呼吸法」をものにしているとずいぶん楽です。周囲の人間たちの呼吸のリズムに合わせることは、肉体だけでなく精神をとても疲れさせます。そして、へたをすると自分だけでなく他人の生命を危険にさらすことになるのです。

         

         

         

        私は四六時中頑張れる人間ではありません。全力で取り組むのは一生に一度あればいいと思っています。ただし、自分の「呼吸法」を身につけた後です。

         

         

         

        学校のいじめは、自分なりの呼吸法を見つけることができない子どもたちの断末魔の叫びのような気がします。いじめる側もいじめられる側も、匿名のシステムである学校空間の中で息ができずに苦しんでいるのです。

         

         

         

        にもかかわらず、週刊誌(特に『週刊朝日』や『サンデー毎日』)は、毎年相も変わらず全国高校別大学合格者数を特集して、ランク付けに精を出しています。朝日新聞や毎日新聞が格差社会や安倍政権を批判したところで、同じ穴のムジナ同士の役割分担に過ぎないことがわかります。野党といえども、東京電力の労働組合のヒモつきなのですから、今の体制を変革しようなどといったところで、下手な洒落にもなっていません。

         

         

         

        話がそれました。「呼吸法」の話でした。学ぶということは人格の変容をともなうはずだと言いました。それは価値判断と無縁ではありません。Aという価値とBという価値の相克に悩んで、より上位のCという価値を創造するとき、それは倫理的な色彩を帯びてくるはずです。

         

         

         

        学ぶということは全身運動なのです。受験アプリをダウンロードしてチョコチョコやるようなものではありません。全身を使って呼吸法を覚えるのに似ています。そのためには何をすればよいのか。

         

         

         

        私に言えることはたった一つです。競争的な環境からいったん降りて、世間から胡散臭い(うさんくさい)目で見られるような場所に自分を置いてみることです。一人でいないと、あなたが必要とする人間に出会えません。立派な集団や組織の中にいて空気を読み、「上」を目指している限り、新しい世界の風景は見えないようになっています。

         

         

         

        これは、私が塾教師という経済的にきわめて不安定で世間から胡散臭い目で見られる場所に自分を置くことでわかったことです。胡散臭い場所で胡散臭い書物を読んでいると、必ず運命的な出会いがあるのです。どういうわけか、世界はそういうふうにできているのですね。

         

         

         

        自分の「呼吸法」を身につけることで出会った一人に加藤典洋氏がいます。5月16日に71歳で亡くなりました。私は書物を通じて彼に出会いました。彼の言葉は私の最も深いところに届くのです。書棚の一角には数十冊の彼の本が並んでいます。ひそかにカトちゃんコーナーと呼んでいます。

         

        ここでは高校生のために2冊だけ紹介しておきます。

        まず『言語表現法講義』そして『僕が批評家になったわけ』です。

         

         

         

         

         

         

         

        彼の本を読むことで、塾で教えられている国語の授業や論理的思考なるものがいかに薄っぺらで的外れで、貴重な時間を無駄にしているかがわかるでしょう。数カ月で偏差値が40上がるなどというのは金儲けのための自己宣伝にすぎません。眉唾ものです。そんなテクニックを高いカネを出して買うこと自体が、人間をとんでもなく堕落させるのです。

         

         

         

        論理的思考は頭の中だけで考えることとは違います。全身で生きることそのものを指すのです。これについては「なぜ東大生の人格は空洞化するのか」の続編で述べるつもりです。

         

         

         

        以下、『僕が批評家になったわけ』(p13〜14)から引用してみます。

         

         

        「批評というものが、学問とはとことん違い、本を百冊読んでいる人間と本を一冊も読んでいない人間とが、ある問題を前にして、自分の思考の力というものだけを頼りに五分五分の勝負ができる、そういうものなら、これはなかなか面白い」

         

        「批評とは、本を一冊も読んでなくても、百冊読んだ相手とサシの勝負ができる、そういうゲームだ」

         

        「あるできごとが価値あることか、価値ないことか。何が善で何が悪か。その判断にも、究極的には、本を百冊読んでいるかいないかは、関係してこないのではないか。そうでなければ、考える、ということの意味が、なくなるのではないか」

         

         

         

        私は高校を卒業してしばらくの間、小林秀雄の影響下にありました。時代に左右されない強靭な思考と、思ってもいないことを決して書かない倫理的な姿勢に惹かれたのです。加藤典洋氏もまたそういう人間の一人でした。

         

         

        小林秀雄については6年以上前に書いた記事をお読みください。

         

        「あまりにも浅薄な朝日新聞『天声人語』」

        http://www.segmirai.jp/essay_library/essay041.html

         

         

        何だか小難しい話になって来たので、この辺でやめにします。最後に少し柔らかい話題を。

         

        加藤典洋氏の山荘の話です。加藤氏が設計を依頼した相手は、なんと、かの中村好文さんでした。不特定多数を相手にせず、大勢から距離を置き、一人でいることを生き方の原理に据えている人は、不思議なもので、必ずその時々で必要な人に出会うのですね。縁は異なものというしかありません。

         

         

         

        加藤氏は要望書に一言「みすぼらしい家」にしてほしいと書いていたそうです。加藤夫人は山荘を持つことで「物持ち的な不自由感」を味わいたくないといい、理想は「雨風寒さがしのげることが身近に感じられる家」というものだったそうです。そうやってできたのが浅間山のふもとにある「Asama Hut」です。

         

         

        「Asama Hut」は建築面積39,66屐延床面積48,47屬任以下の写真は中村さんの『普通の住宅、普通の別荘』から借りたものです。詳しくはそちらをどうぞ。

         

         

         

         

         

        中村さん曰く「私は根が貧乏性なのだと思う。小さな建物、つつましやかな建物に心惹かれる。特に別荘となるとその傾向が強い。別荘はすべからくひっそりとした「大草原の小さな家」のようであってほしいと願うのである。場違いな規模と場違いな仕上げの別荘、これみよがしのデザインの別荘の前はできれば避けて通りたい。私が「Hut=小屋」という言葉を多用するのはこうした私の好みによる。」

         

         

        | 文学・哲学・思想 | 14:19 | comments(0) | - |
        無差別テロの時代。
        0

          川崎の無差別殺傷事件について気になることがあったので書いておきます。この事件の本質は無差別テロです。テロとは本来政治権力に向けられるものですが、ついに国民同士が殺し合う社会になったということです。しかも決まって子供たちや社会的弱者が犠牲になるのです。防ぎようがありません。

           

           

           

          文科省は「まさかこんな事件が起こるとは」と絶句しているとのことですが、その鈍感さには言葉が見つかりません。私は今から15年前にすでに予測しています。先見の明を誇るつもりなどありません。ただ、見ようとすれば誰の目にも見える世界の景色を言葉にしただけです。そして社会が、他人事ではなく、本当に子供たちのことを考えるなら、どういう処方箋を描くべきかについても述べています。

           

           

           

          未来塾通信29

          「驚くべき教育格差 − 中学受験の意味するもの −」

          http://www.segmirai.jp/essay_library/essay029.html

           

          末尾を一部抜粋しています。

           

           

          「高度に発達した文化・情報資本主義社会の中で、家庭の資産や文化力まで含めてあらゆるものがシャッフルされ、人生の早い段階で勝敗が決するのを、競争社会の必然的な結果だとして多くの人は受け入れることができるだろうか。突然、自分の努力ではどうしようもないところで勝敗が決まる教育という市場で、個人として競争に駆り立てられたら、そこに精神の変調や荒れが出現しても当然ではないか。しかも、教育競争から早めに降りざるを得なかった子どもたちほど、学習機会から遠ざけられ、本来持っていた学習能力を枯渇させてしまう境遇に置かれる可能性が極めて高いのである。



           教育格差は所得格差を生み出し、所得格差は地域間格差を生み出す。かくして、日本社会は階層分化が進み、政治は混乱し、人々の心は荒廃し、治安は悪化の一途をたどる。競争に勝利して幸せな生活を営んでいた一家が、社会の底辺に吹き寄せられた人間の凶刃に倒れるといった性質の事件が頻々として起こらないと誰が断言できようか。人間は他者や地域共同体の支えなくして生存できない生き物である。自分だけが、自分の家族だけが幸せでいられることなどあり得ないのである。」

           

           

          処方箋については以下の二つの記事があります。

           

          1:「見果てぬ夢 ・100年後の生存戦略−教育」 

          http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=446

           

          2:「100年後の生存戦略 教育 : 国宝・閑谷(しずたに)学校」

          http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=488

           

           

          | 文学・哲学・思想 | 10:37 | comments(0) | - |
          なぜ東大生の人格は空洞化するのか?
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            「東大生」と言ってもひとくくりに論じることはできません。それを十把一からげに論じるのは、ビジネス雑誌やお受験雑誌を刊行する「プレジデント社」や「東洋経済新報社」を始めとするその他の出版社、東大ネタで視聴率を稼ぐテレビ局に任せておきましょう。

             

             

             

            出版社やテレビ局の粗雑な発想は、東大と聞いただけで好奇心を刺激されたり、一目置いたりする層をターゲットにするところから出てきます。要するに、売り上げを伸ばすための経営判断なのです。例の「選択と集中」です。

             

             

             

            付和雷同する大衆を「選択」し、そこに資源を「集中」するというわけです。自社の出版物や番組作りが受けていると思うのは勝手ですが、それとて社会・産業構造の影響を受けているだけのことです。この点についてはまた論じるつもりです。

             

             

             

            「なぜ東大生の人格は空洞化するのか」というタイトルでひとくくりに論じようとしているはお前の方だろう、と思われる方もいるかもしれません。しかし、「戦争しないとどうしようもなくないですか?」の丸山穂高議員や近畿財務局の職員を自殺に追い込んだ佐川宣寿前国税庁長官の言動を見ていると、人格が空洞化していると判断するしかないのです。両人とも「東大卒」です。

             

             

             

            「戦争しないとどうしようもなくないですか?」って、日本がアメリカの許可なくロシアに戦争を仕掛けられるとでも思っているのでしょうか。対米従属ケツ舐め路線をひた走る安倍政権の下でそれは不可能だとわかっているので、口先だけで威勢のいいことを言ってみたかったのですね。さすがにウソだらけの二枚舌政党、日本維新の会の議員だけのことはあります。

             

             

             

            一方、佐川宣寿氏に代表される「高級」官僚の実態は、安倍政権の忠実な犬であり、ケツを舐めろと言われれば舐める、誇りなき下僕に過ぎないということが明らかになりました。親分がトランプのケツを舐めれば、子分はその親分のケツを舐めるという、このケツ舐め連鎖を見せつけられて、心暗くならない人がいるとすれば、その人もまた人格が空洞化しているのだと断言せざるを得ません。

             

             

             

            事ここに至って、特に3・11以降、この国の文化を破壊しアメリカに国富を売り渡して恥じない人間たちの共通点は「東大卒」だという事実に気づかないわけにはいきません。

             

             

             

            東大は日本の近代化において一定の役割を果たしましたが、そのほとんどは戦争に明け暮れた時期だったのです。そして、戦争を始めた責任も敗戦の責任も日本人はいまだに自分で落とし前をつけていません。

             

             

             

            その結果、重大なことが見落とされています。実は、この国の歴史の転換点は、何度も述べてきたように、福島の原発事故だという点です。それは日本が再び一等国になるために画策されたもう1つの戦争がもたらした第二の敗戦だったのです。

             

             

             

            それを隠蔽するために政財界はオリンピックを誘致し、やれリニア新幹線だ、やれカジノだ、大阪万博だという花火を打ち上げ、国民をイベント人間に改造しています。その中心を担っているのも「東大卒」の「エリート」たちです。

             

             

             

            ここに於いてです。「なぜ東大生の人格は空洞化するのか」という問いが立ち上がるのは。そして、私の従事する塾産業も「東大合格者を何人出したか」という時代遅れの物差しに縛られたままで、人格が空洞化した人間を陸続として送り出しています。それを望んでいるのは親たちであり、教師たちです。つまり、少し長い目で見れば、自分で自分の首を絞めているというわけです。

             

             

             

            何だか難しい話になりそうなので、結論を先に言っておきます。

             

             

            35年以上にわたって塾教師を続けてきた結果、私がたどり着いた結論は、今の社会で東大を目指して勉強すれば、絶えざる競争に身をさらし、自分の足元が見えなくなって、不幸になる確率がきわめて高いということです。

             

             

             

            今の社会とは、大企業が国家と国民を食い物にするコーポラティズムと、格差は当然とする自己責任論に基づいた新自由主義のイデオロギーが跳梁跋扈する社会のことです。それは沈むとわかっている船の中で、他人を蹴落とし、自己利益の最大化を目指すような生き方です。

             

             

             

            ここで次のような疑問が湧くかもしれません。塾教師の仕事は、少しでも上の学校や大学に生徒を合格させる事ではないのか、何を偉そうに大風呂敷を広げているんだ、と。

             

             

             

            しかし、私は塾教師としての経験から、それは間違っている、むしろ子供たちを不幸にするイデオロギーだと断言したいと思います。自明に見えるイデオロギーも一皮むけば、しょせんは人口動態に左右される社会構造の産物に過ぎないからです。

             

             

            重要なのは、少しでも「上」の学校や大学や企業を目指すことではなく、少しでも多くの「横」の人間と繋がり、外形的な肩書やレッテルに惑わされず、現実にやっていることを見て人格を評価できる人間になることです。人格が空洞化している「エリート」たちは、現実から目をそむけ、「今までの自分の人生は間違いじゃない」と必死で自分に言い聞かせています。「東大出てても、バカはバカ」と堂々と言えるようになりましょう。

             

             

             

            長くなるので今回はここまでにしておきます。にわかには信じられないかもしれませんが、東大を目指した勉強は人格を空洞化させるという私の仮説に興味をお持ちの方は、次回以降もお付き合い頂ければと思います。私は東大を目指している人を含めて、若い人たちの新しい生き方を後押しするために、このブログを書いています。それ以外の意図はありません。

             

            | 文学・哲学・思想 | 14:09 | comments(0) | - |
            子供の人生は最初に出会う大人や環境によって大きく左右される。
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              前回のブログの続きです。短くない私の塾教師人生の中で再発見した単純な真実についてでした。再発見というのは、何となくわかっているつもりだったことに、35年以上かけて、あらためて気づいたからです。

               

               

               

              たとえていうならば、チェーホフが生涯をかけて人生は虚しいということに気づいたように、と言えるかもしれません。しかし、今時小学生でも人生は虚しいと言います。ロシアの世界的な文豪の認識と小学生のそれが同じはずはありません。わかるということには無限の段階があるのです。

               

               

               

              正直に言いますが、私は塾教師をしながら、「わかる」ということが何を意味するのか、その「からくり」がいまだにわかっていないのです。学校や塾で、教師は「わかりましたか」と言い、生徒は「はい、わかりました」と答えるのですが、何がどのレベルでわかったのかを検証するのはタブーです。いや、そもそもできないのです。生徒がテストで高得点を取りさえすれば、分かっていることにして先に進むだけです。教室とはわからせたつもりの教師とわかったつもりの生徒のことばが、たてまえ上行きかっている空間に過ぎません。

               

               

               

              あることが「わかる」には歴史的な時間と空間、そして人格の変容が必要です。そして、人格は倫理と深く関係しています。いや、人格の変容をともなわない「わかる」は、コンピュータ的人間を大量生産するだけです。「東大出ててもバカはバカ」というわけです。そのことについてはまた改めて書きます。

               

               

               

              話を元に戻しましょう。私が気づいた真実とは、一言で言うと、今回のタイトル「こどもの人生は最初に出会う大人や環境によって大きく左右される」というものです。それにあらためて気づいたのは、宮崎駿監督のインタビューがきっかけでした。それは同時に監督の創造の源泉を垣間見た瞬間でした。

               

               

               

              そのインタビューは次のようなものでした。

               

              「五歳の子供が両親と一緒にスタジオジブリに遊びに来たことがあった。」監督はしばらく遊んだ後、三人を車で駅まで送っていきます。当時の監督の車は屋根が開くオープンカーでした。「この子は屋根を開けたらきっと喜ぶだろう」と考えます。ところが、屋根を開けようとしたちょうどその瞬間、小雨が降り始めます。「次の機会にしよう」と彼は判断して、屋根を閉じたまま駅まで車を運転して行ったのです。

               

               

              しかし、少し経って後悔の念がわき始めたと言います。「子供にとってその一日はその一日。子供は今、ここを生きている。二度と同じ日は戻って来ないのだ」と彼は気づきます。「子供は急速に成長して、これまでの自分を脱皮していってしまう。たとえその子が一年後にまた来て、今度は屋根を開けて運転してあげたとしても、同じことにはならない。つまり、その貴重な瞬間は、不覚にも永遠に失われてしまったのです。」と語ります。

               

               

               

              宮崎監督は、子供たちが今ここを生きていることの価値を深く理解しています。子供は、過去や未来といった明確な観念を持っていない。子供の幸せは「今、現在」の中にあることを知っているのです。それは彼がアニメを描くことに没頭しているときの幸福感を知っているからです。

               

               

               

              彼は子供の心を理解し尽くしています。それは凡百の教師や心理学者の及ぶところではありません。彼の<内なる子供>が傑作を生み出したのです。もしあなたの子供が、人生の初期に宮崎監督と同じような大人に出会っていれば、かなりの確率で創造的な人生を送るようになるだろうと思います。

               

               

              それに対して、子供が一歳になるかならない頃から、「公文」に通わせ、バイオリンとスイミングを習わせ、効率的な時間の使い方を教え、まるでビジネス手帳にぎっしり書き込まれているスケジュールをこなすような生き方を強制する「佐藤ママ」のような大人に出会えば、子供がどんな人生を送るようになるのか、私はリアルに想像できます。そんな<他人の人生を生きる子供>が大量生産されれば、社会がどのように変わっていくか、それを克明に記述することが今回のテーマなのです。

               

               

               

              その前にいくつか問いを立てておきます。私の考えは以下の問いをめぐって展開するつもりです。箇条書きにすれば以下の通りですが、すべての問いは関連しています。

               

               

               

              1:宮崎監督と「佐藤ママ」の子供観はどちらが普遍的か?

               

              2:どちらの子供観が人口減少社会の中で人々を幸せにするか?

               

              3:子供の実存に沿った教育とはどのようなものか?

               

              4:子供を自殺に追いやる匿名のシステムとしての学校に未来はあるか?

               

              5:フィリップ・アリエスの指摘を待つまでもなく、<子供>なる概念は社会(産業構造)の産物である以上、人口動態や産業構造の変化によって<子供>はいなくなるのではないか?

               

               

               

              続きはまた次回。今回も読んで下さってありがとうございます。

               

               

              | 文学・哲学・思想 | 00:10 | comments(0) | - |
              一つの時代の終わりに。
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                最近ブログの更新がないので心配しています、というメールや電話をいただきます。ありがたいことです。別に体調が悪いわけでも、忙しいわけでもありません。

                 

                 

                 

                ここ一カ月の間、ニワトリ小屋や葡萄棚を作り、午前中は畑を耕しながらこれから先の人生を構想していました。夕方からはいつものように塾で生徒と勉強しています。連休だからと言って、消費社会の実験動物よろしく喧騒の中を出かける気にはなりません。

                 

                 

                 

                例年なら、まとまった休みがあれば静かに本を読んで過ごすのですが、最近は読むに耐える本が少なくなり、もっぱら古典の森を逍遥しています。同世代の私の友人はマルクスの『資本論』に取り組み、改めてその素晴らしさに感動しているとのことです。ヨーロッパの知識人の間で人類に最も影響を与えた人物は誰かというアンケートをとったところ、マルクスが断トツで1位だったそうです。

                 

                 

                 

                それに対して日本はどうでしょう。目を覆いたくなるほどの社会の劣化、特に政・財界とジャーナリズムのそれを前にして私は言葉を失っています。しかし、それとて、ウソのように薄っぺらな社会がウソのように薄っぺらな言葉を必要としているだけのことで、カルト化した安倍政権をカルト化した「大衆」が支持しているのと同根です。

                 

                 

                 

                東大生の6割が自民党を支持しているのも、彼らがカルト化した受験教育の勝利者であり、恵まれた情報環境、文化・経済環境の申し子であることを考えれば当然の帰結です。自分が置かれている立場なり環境なりの土台を切り崩すような批評性を身につけることこそが知性の証なのですが、コスパが悪すぎるということなのでしょうね。

                 

                 

                 

                かくして、体制を翼賛することが当然とされ、それに異を唱える者に対しては先回りして「お前は見たいものしか見ていない」というお決まりのフレーズを投げつけ、自らの精神の栄養失調を自覚できないようにされているのです。

                 

                 

                そういうわけですから、たかが塾教師にできることなどほとんどありません。しかし、エリート医師でも弁護士様でもなく、忖度の達人である「高級官僚」でもない、たかが塾教師だからこそたどり着いた真実があります。今回はそのことについて書きます。

                 

                 

                 

                万が一私の考えに共感(自分を相手の立場に置いたとき、自分の内部で生起するもの:アダム・スミス『道徳感情論』の中の言葉)してくれる人がいれば、以て瞑すべし(いつ死んでもいいの意)です。

                 

                 

                 

                共感するには、捏造された希望ではなく勇気が必要です。勇気はある日突然降ってくるものではありません。それは、身の回りの小さなことに対する違和感を表明し、それに対するリアクションを受け止め、崩落した思考の足場を固める中で出来上がる人格のことです。群れから離れることを恐れない精神そのものです。知性と同様に勇気もまた人間性が刻印されているのです。

                 

                 

                 

                本題に入りましょう。

                 

                今から15年ほど前、塾を始めて20年ほど経った頃、ホームページを作りました。その中で「受験に巻き込まれやすい優等生ほど、深く物事を考えることができないという逆説を痛感している。」と書きました。続けて「この傾向がここ数年加速する一方、高偏差値を取ってみたところで、それは単なる囲い込まれた世界での抽象的なゲームでしかなく、現実社会では通用しないということを、かなり多くの親が理解するようになってきたと思う。」とも書きました。『学力低下は塾のせい。PART−1』を書いたのもこの頃です。

                 

                 

                 

                当時は変わり者のたわごとだとして無視されました。「優等生ほど、深く物事を考えることができない」だの「学力低下は塾のせい」だのと、一体この塾教師は何を考えているのだ、というわけです。

                 

                 

                 

                「優等生ほど、深く物事を考えることができない」ということは、「東大生は深く物事を考えることができないということになるのか」というメールを頂きました。私は、例外もありますが「その通りです」と答えました。反論があれば、具体的に論証しようと思っていたのですが、その機会はありませんでした。

                 

                 

                 

                それから7年後、東日本大震災と福島第一原子力発電所の事故が起こりました。特に原発事故は「優等生ほど、深く物事を考えることができない」ことの例証になるだろうと思いました。私は、原子力工学や土木、建築をはじめとするいわゆる理系の学問は、イデオロギーとは無縁の客観的・中立的な学問だと信じていた人々も、さすがに反省するだろうと思いました。

                 

                 

                 

                しかしその後、政治の世界のみならず、学会やジャーナリズム、経済界で起こった事は、この国の文化の底の浅さというか、歴史を抹殺することも意に介さない鈍感で無知で傍若無人な権力の存在を可視化することとなったのです。

                 

                 

                 

                原発事故後、その権力の手先となってあちこちのメディアに登場し、トンデモ発言をしていた者たちこそ、東大に生息して東京電力から研究費という名目の賄賂をもらい、税金を食い物にしていたエセ学者たちだったのです。

                 

                ハイロウズ 「東大出ててもバカはバカ」御用学者編

                 

                 

                 

                私はもう何年も前に安倍政権は鬼胎の政権だと書きました。従来の自民党とは明らかに質が違うからです。では、何が質の違いをもたらしたのか?表面的にはネトウヨに乗っ取られたおバカ政権だとも言えますが、そのおバカ政権になぜ優秀なはずの官僚たちがひざまずき、忖度し、国民の利益をかえりみることがなくなったのか?それに対して国民はなぜ怒らないのか?

                 

                 

                 

                この問いは、東大や慶応の医学部を始めとする難関大学を卒業した優秀なはずのエリートたちがなぜ麻原彰晃というイカサマ宗教家に帰依し、最後には大量殺人を犯すにいたったのか?という問いと重なります。これは、塾教師として生計を立てながら、常に私の頭にあった問いです。これから先は長くなるので次回に譲ります。興味のある方はぜひ続きをお読みください

                 

                 

                | 文学・哲学・思想 | 21:45 | comments(0) | - |
                悪(霊)が降臨する前に。
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                  今回のタイトルを見て何を大げさな、今どき悪霊などいるわけがないと考えている人がほとんどでしょう。しかし、輪廻というか歴史の裂け目というか、ある条件がそろえばレイシスト(民族差別主義者)や極右思想に骨がらみ囚われた個人あるいはカルト教団に所属する人間の中に悪霊は降臨するのです。

                   

                   

                  嘘だと思う人は、映画『ウトヤ島、7月22日』を観て下さい。大分のシネマ5bisで現在上映中です。私は初日、4月6日に観ました。

                   

                   

                   


                   

                   

                   

                   

                   

                  この映画はノルウェーのウトヤ島で実際に起きた銃乱射事件を映画化したものです。2011年7月22日、午後3時17分オスロの政府庁舎が爆破され8人が死亡します。同じ日の午後5時過ぎ、オスロから40キロ離れたウトヤ島でノルウェー労働党青年部のサマーキャンプに参加していた十代の若者69人が警官になりすました極右青年により射殺されます。両事件とも当時32歳のアンネシュ・ベーリング・ブレイビクが単独で実行した無差別テロ事件でした。

                   

                   

                   

                  彼は犯行直前にインターネット上で声明を出しており、そのなかで日本を“多文化主義を完全に排する”理想的な国の一例として賞賛。さらには「会ってみたい人」のひとりとして、現政権の副総理である麻生太郎の名前をあげていたのです。

                   

                   

                   

                  この事件から2年後の2013年7月。その麻生太郎は「憲法は、ある日気づいたら、ワイマール憲法が変わって、ナチス憲法に変わっていたんですよ。だれも気づかないで変わった。あの手口学んだらどうかね」と発言しています。

                   

                   

                   

                  麻生太郎が「ヒトラーの方法を学んではどうかね」と発言したのは、愚かにも政治的な方法の問題だと考えていたからです。しかし、それは根本的に間違っています。『わが闘争』を読めば、ナチズムの本質はヒトラーという邪悪なる天才の中に降臨した、人格が崩壊するほどの憎悪と残虐性に対する燃え上がる欲望だということがわかります。麻生太郎のような坊っちゃんに模倣できるわけもありません。

                   

                   

                   

                  ヒトラーは、歴史上の客観的事実を「先入観」に過ぎないと考え、それによって自分の思想を検討することを「破滅の方法」と呼んでいます。それは自己の教義と客観的に矛盾するもの(歴史上の事実など)すべてを主観的に考える能力(独善的に思い込む能力)を指すのですが、それを皆が殺していると言います。

                   

                   

                   

                  わかりやすく説明しましょう。

                   

                   

                  例の極右美容整形外科医、高須クリニックの高須克弥院長が、2015年10月19日のツイートで、「南京もアウシュビッツも捏造だと思う」と述べました。

                   

                   

                   

                  これに対してアウシュビッツ記念館が2019年3月15日、コメント欄で「アウシュビッツは史実」と忠告し、高須院長の認識を正しました。

                   

                   

                   

                  いわく「アウシュビッツは世界中の人々の心に絶えず忠告する史実です。 ナチス・ドイツによって造られたその強制・絶滅収容所の史跡は、 人類史上最大の悲劇を象徴しています」と。

                   

                   

                   

                  たかが日本の一極右美容整形外科医の発言に対してわざわざ反論するのも、日本の政治思想の変質を憂慮しているからでしょう。

                   

                   

                   

                  アウシュビッツ記念館の忠告に対して、高須院長は3月16日「全ての歴史は検証されるべきだと思います。これが正しい科学者の姿勢だと思います」と反論し「オレは自分の信じたいことだけを信じる」と述べています。

                   

                   

                   

                  ヒトラーに言わせれば高須克弥院長は、「自己の教義に客観的に矛盾するものすべてを主観的に考える能力」をもっている、例外的な称賛されるべき人物だということになります。

                   

                   

                   

                  私はこの「正しい科学者の姿勢」という言葉を見た時、ネトウヨの思想的レベルが象徴的に表れていると思いました。彼らの日本語力で『わが闘争』を読解できるわけがないのです。だから自己流に解釈して自分を正当化するためにヒトラーの名前を持ち出します。彼らにはヒトラーの本当の恐ろしさが分からないのです。

                   

                   

                   

                  ウトヤ島の事件から5年後、麻生太郎の発言から3年後、日本でも凄惨極まりない事件が起こります。

                   

                   

                  2016年7月26日の午前1時40分、入所者が寝静まる中、神奈川県相模原市緑区の知的障碍者施設「津久井やまゆり園」の近くに一台の車が停車し、金髪の男が降り立ちます。元施設職員、植松聖。当時、26歳でした。五本の刃物、二本のハンマーの入ったバッグを車から取り出し、施設に向かいます。そして入所者19人を殺害し、26人に重軽傷を負わせるという戦後最悪の大量殺人事件となるのです。

                   

                   

                  犯行後、植松はツイッターに「世界が美しくなりますように。Beautiful Japan!!!!!!」と書き込み、津久井署に出頭し逮捕されました。

                   

                   

                   

                  彼は知的障害者を「心失者」と呼び、「日本は社会保障を充実させていって100兆円もの借金を抱えることになりました。あなた自身はそれをどう思いますか?」 「僕の言うことを非難する人は、現実を見てないなと思います。勉強すればするほど問題だと思いました。僕の考え、どこか間違っていますか?」「社会保障に多額のお金をかけてる現実をあなたはどう思うんですか?」と言います。

                   

                   

                   

                  このセリフは日本維新の会から立候補して落選した元アナウンサーの長谷川豊のものと瓜二つです。彼らは社会保障のイロハすらわかっていません。もちろん「社会保障を充実させていって100兆円もの借金」というのもウソです。

                   

                   

                   

                  それよりも私が心配するのは、最初に、ある条件がそろえば人間の中に悪霊は降臨すると書いたその条件のことです。

                   

                   

                   

                  例えば、在特会の桜井誠の「ゴキブリ朝鮮人、叩き殺せ」などというヘイトを放置する安倍政権と大手マスメディア。路上のヘイトデモを護衛する警察。その空気に便乗して「尖閣にやってくる中国人を射殺せよ」と叫ぶ大分市のY田ゼミ塾長のような空洞化した人格。そして少子高齢化が叫ばれる中、命を選別しなければ国民の生活が立ち行かなくなると不安を煽る評論家や経済学者や政治家たち。

                   

                   

                   

                  この種の人間が増えることで徐々に悪霊が降臨する条件が満たされていくのです。最初は人間の持つ幻想力としての残虐性が個人を通じて噴出します。そしてある臨界点を超えれば、もはや誰にもその流れを止めることなどできません。雪崩を打って破滅へ向かうしかないのです。

                   

                   

                   

                  長くなるので今回はここまでにします。これに関連する記事は数年前に書いています。ぜひご覧ください。

                   

                   

                  「ヒトラーの思想が降りてきた」という犯人を後押ししたもの。

                  http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=211

                   

                  「思想的確信犯」はいかにして生まれるのか?

                  http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=389

                   

                   

                  | 文学・哲学・思想 | 23:45 | comments(0) | - |
                  花とみづからをささへつつ歩みを運べ
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                    昨夜は比較的早く床に就きました。塾の授業が終わった後、昼の畑仕事のせいか、突然睡魔が襲ってきたのです。そのせいで明け方早く目が覚めました。布団にくるまったまま目を閉じていると、色々な考えが浮かんでは消えていきます。

                     

                     

                     

                    30年ほど前、雑草が生い茂るだけで何もなかった荒れ地を造成し、塾棟と家を建てました。建てたい家のイメージを思い描くために、書物を通じて世界中の名だたる住宅を調べました。実際に足を運んだものもあります。

                     

                     

                     

                    しかし、私が心惹かれるのは、決まって簡素でどちらかというとみすぼらしい風情が漂っている家でした。日常の中で培われた使い勝手のよさそうな家。時間に洗われ、住んでいる人の生き方や心配りが伝わってくるような家でした。

                     

                     

                     

                    そういうわけで、住宅メーカーが建てた家に漫然と住むのではなく、安普請でも自ら構想した愛着のある家に断固として住もうと思っていたのです。おかげで、安全・安心・便利を謳った充実した設備はありませんが、心地よい空間と古びて味わいのある佇まいを手に入れることができました。

                     

                     

                     

                    春になって日一日と緑が濃くなっていく様を見るのは、何よりの楽しみです。それは本当に繊細な変化なので、細心の注意を払い、耳を澄ませなければかき消されてしまう「気配」のようなものです。

                     

                     

                     

                    それはこの土地に植えた様々な樹木が季節とともに奏でるかすかな音や動きなのです。昨夜は巨木となった樹木たちが一斉に水を吸い上げはじめたために、その力で家が宙に浮いているような錯覚すら覚えました。それにつられて、半覚醒の中で色々なことを考えます。

                     

                     

                     

                    塾の教師として長い間子どもたちを見てきましたが、2019年の春(これがどんな時代なのかということは置いておきます)に、たとえば12歳や15歳であること、あるいは20歳であることがどれほどの重みを持っているか、それをあらためて考えてしまうのです。

                     

                     

                     

                    子ども時代を生きるとは、どんな景色を生きることなのか。どんな世界のただなかを通過することなのか。幼児期から児童期を、そして思春期を私たちはうかうかと通り過ぎてしまいます。それができればそれに越したことはありません。

                     

                     

                     

                    しかし、アリス・ミラーの言う「才能ある子ども」は、うかうかとはいかず、鋭敏な感受性と知力がわざわいして、ひそかに耐え、人知れずたたかっているに違いないのです。現実に対処する能力を身につけていないために、身のおぼつかなさを強く意識しています。

                     

                     

                     

                    この時期を、危険な分水嶺をわたるようにして歩んでいる子どもは少なくありません。失調に転落するか、辛くもわたりきるかは紙一重です。私は自分の思春期をできるだけリアルに思い出すことによって、彼らと同期しようとするのですが、年々難しくなっています。私の想像力が衰えたからではありません。子どもは元より親も教師も教育の本来の価値を見失ってしまったからです。

                     

                     

                     

                    急峻な尾根を前にして足がすくんでいるこどもには命綱が必要です。命綱で結ばれた相手がいれば、不安や絶望や死の恐怖をいくぶんなりともやわらげることができるはずです。そういう相手に出会うのも運不運に左右されるのですが、本人の能力にも依存しているのがつらいところです。

                     

                     

                     

                    成長の過程でぶつかる苦しみや痛みは、鋭利に現れるかどうかという程度の差はあれ普遍的なものです。平凡な人生をまっとうするにも、おぼつかなさと孤独を抱えながら懸命に努力する必要があるのですね。

                     

                     

                     

                    そのとき支えになるのが、イメージ世界の奥行きや歴史認識の深さ、言葉のトーンや韻律への繊細な感覚です。その源泉は文学の中にこそあります。高校の国語から文学作品を追放し、「論理国語」なるものをでっち上げようとする人間たちは、このことがまったく分かっていません。

                     

                     

                     

                    実存としての子どもたちは、命綱も、それで結ばれた相手もいない状態で急峻な尾根を渡らなければなりません。その彼らが通過する世界は、「入試に失敗して希望の高校や大学に行けなかったら大変だ」「成績が下がったら大変だ」「進学実績が下がったら、学校や塾にとって大変なだけでなく自分の収入や将来にもかかわってくる」といった大人のエゴが作りだした世界なのです。

                     

                     

                     

                    マイナスの動機付けによって駆動される社会は、なるべく高い保険をかけることに注力します。発達期の子どもにとって、勉強は将来の安全を確保するためにやむを得ずするものとなります。本質的には恐怖や不安に対する意識的な対抗措置なのです。

                     

                     

                     

                    そこには強い喜びの感情をともなった満足感はありません。自発的に湧き上がる生命活動の発露でもありません。それは次第に人の心を枯らしていきます。教育の目的は自己利益の最大化に収斂し、教育全体が単色化してきます。

                     

                     

                     

                    そんなことを考えていると、突然、若かったころに読んだ伊東静雄の詩の一節が浮かびました。コーポラティズムと新自由主義が跳梁する社会で生き抜くために必要なのは、優れた詩や文学作品を源泉とする、汲めども尽きぬ言葉の泉なのです。

                     

                     

                    そんなに凝視めるな  伊東静雄

                     

                     

                    そんなに凝視〔みつ〕めるな わかい友

                    自然が与へる暗示は

                    いかにそれが光耀にみちてゐようとも

                    凝視めるふかい瞳にはつひに悲しみだ

                    鳥の飛翔の跡を天空〔そら〕にさがすな

                    夕陽と朝陽のなかに立ちどまるな

                    手にふるる野花はそれを摘み

                    花とみづからをささへつつ歩みを運べ

                    問ひはそのままに答へであり

                    堪へる痛みもすでにひとつの睡眠〔ねむり〕だ

                    風がつたへる白い稜石〔かどいし〕の反射を わかい友

                    そんなに永く凝視めるな

                    われ等は自然の多様と変化のうちにこそ育ち

                    あゝ 歓びと意志も亦そこにあると知れ

                     

                     

                    | 文学・哲学・思想 | 08:46 | comments(0) | - |
                    声の届く場所で生きる。
                    0

                      8年目の3・11です。あれから私たちの国はどうなったか。これ以上ないほど劣化が進み、真実の言葉はマスメディアから消え去り、「いわば」と「まさに」をくり返すだけのバカが、質問している野党議員にヤジを飛ばしています。

                       

                       

                      いやいや、日本にはまだまだいいところがたくさんある。捨てたものではないよ。あなたは見たいものしか見ていないのだよ。

                       

                       

                      ほ〜、そうですか。私はこの国を愛することにおいて人後に落ちないつもりです。少しでもいいところを探し、そこに希望をつなごうとしてきました。人生の時間の大部分をそのことに費やしてきたと言ってもいいくらいです。この国の文化や歴史を知ることで、なんとか精神の平衡を維持してきたのです。

                       

                       

                       

                      もちろん希望を捨てたわけではありません。しかし、この国を愛すれば愛するほど、反作用も大きいのです。軽佻浮薄な言説ばかりがマスメディアを通じて垂れ流され、深刻そうな顔をしてしゃべっている人間も、結局は長いものに巻かれ、口をつぐむ。あまりに見え透いているのです。

                       

                       

                       

                      そもそも、「かけがえのない日々の生活」を犠牲にしない思想などというものはない。あらかじめ着地点が決まっている噴飯もののドラマを見せられて感動などできるはずもないのです。

                       

                       

                       

                      3・11以降、声が大きいだけで知性のかけらもない為政者たちが、社会的弱者や政治の貧困のつけを払わされている人々を権力で踏みつけにしています。それが今の社会です。その象徴が、何度も書いてきましたが、ヤクザ政治家の安倍晋三であり、大阪維新の会から生まれたヤクザ以下の魑魅魍魎たちです。クロスダブル選挙ですって?バカもいい加減にせよ!

                       

                       

                       

                      私はひそかに心を決めています。SNSで自我を肥大化させ、全能感に酔いしれている愚か者たちとは絶縁しようと。電脳空間の中で生きるのではなく、手を伸ばせば土と水と草花がすぐそばにある場所で生きようと。声の届く場所で生きようと。

                       

                       

                      | 文学・哲学・思想 | 23:08 | comments(0) | - |
                      真理とは方向感覚である。
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                        一つの国が滅びるというのはこういうことなのだと、最近つくづく思います。地震や津波、火山の破局噴火、台風などの天変地異によって国が滅ぶこともあるでしょうが、これは私たちの意思の及ばない出来事なのでどうしようもありません。

                         

                         

                         

                        しかし、滅亡を回避しようと思えばできるにもかかわらず、私たちは不作為によってこの国の衰退と滅亡を自ら招き寄せています。南海トラフ地震がスタンバイしているときに、原発を再稼働させ、使用済み核燃料の処分を放置しているのですから。もちろんこれは一例に過ぎません。

                         

                         

                         

                        危機に直面していても、根拠のない安心感をいだくのは、「みんな仲良く」というスローガンを教室の壁に張っただけで、「みんな仲良く」なれると錯覚するような教育のせいかもしれません。

                         

                         

                         

                        その結果、高校生や大学生になっても、いや社会人ですら、「政治的な発言はダサいよね」「世の中を批判するのって、コンビニの店員にクレーム付けてるような感じじゃん」「皆が幸せになれるなんて幻想だよ」「やっぱ、自己責任でしょ」というような、誰に対して発言しているのかわからない、他者意識のない言葉を発するようになったのです。

                         

                         

                         

                        ネトウヨの発言はまさにこれです。しかし、こういった言葉の集積こそが国の土台を切り崩し、存立を危うくしていることに気付かねばなりません。

                         

                         

                         

                        地震や津波の後、国土がかろうじて残ったとしても、原発が暴発し、放射能によって国土が半永久的に汚染されれば(福島で現実に起こっていることです)、この国は終わるのです。豊かな水と大地、季節の巡りとともにあった五穀豊穣を祝う村々の祭りと祈り。それも遠い昔の記憶として風化の運命をたどります。

                         

                         

                         

                        このままでは、日本は、世界の核のゴミ捨て場になるしかありません。それは大げさだ、そんなことはありえないというのであれば、その根拠を示してほしいと思います。私は愚かな政権によって、ロシアンルーレットの実験台にされたくないのです。

                         

                         

                         

                        3年半前に亡くなった鶴見俊輔氏はインタビューの中で次のように語っています。

                         

                         

                        「 私にとっては戦後50年よりも戦中の方が重いんですよ。 その戦中のほうが重いという感覚が重大だと思う。 真理は間違いから逆算される。間違いは間違いとして認識する。こういう間違いを自分がした。その記憶は自分の中にはっきりある。

                         

                        だけどこの間違いの道がこうあって、ゆっくり考えていけば、それがある方向をさしている。それが真理の方向だ。だから真理は方向感覚と考える。その場合、間違いの記憶をぎゅっと持っていることが必要だ。これは消極的能力だ。負けたことは忘れない。戦中の様々な記憶を保ち続ける、それが未来だと思う 」と。

                         

                         

                         

                        今この国で、誰よりも「間違いの記憶をぎゅっと持っている」のが天皇皇后両陛下です。両陛下は私たち国民に代わって、戦争で犠牲になった310万人の魂を慰霊する旅を続けてこられました。両陛下は靖国神社に一度も参拝していません。死者の魂を国家の都合で差別することは、真理の方向が逆だと認識しているからです。

                         

                         

                         

                        1975年、皇太子ご夫妻として初めて沖縄を訪問された時、反対派から火炎瓶を投げられたにもかかわらず、鎮魂の思いは変わらず、周囲に「何度でも沖縄に行きたい」と語り、6月23日の「沖縄慰霊の日」には欠かさず黙禱(もくとう)をささげてきました。退位前に沖縄に足を運びたいというお二人の強い希望により、昨年11回目の訪問が実現しました。両陛下こそが、間違いから逆算して真理に到達しているのです。

                         

                         

                         

                        今この国の支配層は、完全に方向感覚を失っています。歪んだ歴史認識と復古的ナショナリズムに侵されたカルト集団が新自由主義的イデオロギーの洗礼を受けているからです。

                         

                         

                         

                        沖縄に寄り添うと言いながら、辺野古に土砂を投入し、政権の御用放送局・NHKのインタビューでサンゴはあらかじめ移しているなどと平気でウソを言う男は、戦争犠牲者のみならず、被災者や社会的弱者に常に心を寄せてきた天皇皇后両陛下の対極に位置しています。

                         

                         

                         

                        こんな男がこの国のトップにふんぞり返り、国民から一定の支持を得ていることそのものがこの国の劣化です。アベノミクスのおこぼれに預かってはしゃいでいるうちにこの国は確実に滅亡へと近づいています。私はネトウヨのような無知・無思考ではないので具体的な論拠を一つだけ挙げます。

                         

                         

                         

                        経団連の中西宏明会長(日立製作所会長)は、年初のインタビューで、3.11以降、東日本の原発が1基も再稼働していないことを例にあげて「国民が反対するものはつくれない。反対するものをエネルギー業者や日立といったベンダーが無理につくることは民主国家ではない」と語っていました。

                         

                         

                        経団連の中西宏明会長

                         

                         

                         

                         

                        ところが15日、原発の再稼働が進まない状況について、「私はどんどん進めるべきだと思っている。原子力というエネルギーを人類のために使うべきだ」との見解を示し、そのうえで「原子力に関する議論が不足している」と述べ、政界や学界などを巻き込んだ討論会の開催を訴えたのです。そして同日の定例会見では「安全性の議論を尽くした原発も多いが、自治体が同意しないので動かせない。次のステップにどうやって進めるのか。電力会社だけの責任では済まされない」と語ったのです。

                         

                         

                         

                        財界関係者によると「安倍官邸から怒られたのではないか。原発推進は安倍政権の基本政策なのに、『国民が反対するものはつくれない』と異を唱えた。安倍官邸から激怒されておかしくありません。世論調査では反対が多数ですからね。それで慌てて官邸に聞こえるように“原発推進”を叫んだのではないか、とみられています」とのことです。

                         

                         

                         

                        いずれにせよ、政権の中枢にいる人間たちが「方向感覚」を喪失しているのです。福島の原発事故の後、国内で原発を作ることは難しくなったので、国民の税金を担保に海外で売ろうとしました。何という反倫理的な所業でしょうか。それもことごとく頓挫しました。

                         

                         

                         

                        かくなる上は、もう一度国内でと考えているのです。バカにつける薬はないとはこのことです。こういった一連の流れを画策しているのは、坊ちゃん総理ではありません。そんな発想も能力も彼にはありません。

                         

                         

                         

                        では一体誰が暗躍して、この国を滅亡へと導いているのでしょうか。私たちが忘れてはならない中心人物を3人だけ挙げておきます。

                         

                         

                        国土交通省出身の和泉洋人首相補佐官。経産省出身の今井尚哉(たかや)首相秘書官。そして元首相秘書官の柳瀬唯夫氏です。この3人は「森友問題」「加計学園」問題に関与している「官邸官僚」です。彼らが「官邸ポリス」と組んで、方向感覚ゼロの坊ちゃん総理の劣情に媚び、国家を私物化し、小さな権力欲を満足させている哀れな人間たちです。

                         

                         

                        和泉洋人首相補佐官

                         

                         

                        今井尚哉(たかや)首相秘書官

                         

                         

                         

                        元首相秘書官の柳瀬唯夫氏

                         

                         

                         

                         

                        さて、私たち国民はどうすればいいのでしょうか。簡単です。生き延びたければ、そしてこの国の自然環境を少しでもましな状態で次の世代に手渡したければ、自公政権と維新の会に投票しなければいいのです。でもそれが難しいのですね。そうしないように教育されているので・・・。

                         

                         

                        | 文学・哲学・思想 | 12:48 | comments(0) | - |
                        最もアクセス数の多い二つの記事について。
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                          ブログを書き始めてから4年が経過します。この間、543本の記事を書いてきましたが、アクセス数が突出して多いのが以下の二つの記事です。

                           

                           

                          .「反日」で「左翼」の妻は「極左雑誌」を愛読しています。

                          http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=281

                           

                          .「ビリギャル本」の詐欺性について。

                          http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=292

                           

                           

                           

                          特に1は、『通販生活』の記事について書いたものですが、毎日100を超えるアクセスがあります。おそらく、「反日」「左翼」「極左雑誌」をキーワードに検索しているネトウヨに「人気」なのでしょう。その割には全く反論がありませんが・・・。ネトウヨの実態については、次回改めて取り上げる予定です。

                           

                           

                           

                          その『通販生活』が、また時機を得た本質的で分かりやすい動画を作りました。ぜひご覧下さい。

                           

                           

                           

                           

                           

                          いわゆる戦争法案によって、自衛隊は米軍とともに世界のあらゆる地域で「活動」できるようになったのに、なぜ安倍政権は改憲にこだわる必要があるのかと不思議に思う人もいるでしょう。安倍首相の歪んだ認識と心理はひとまず置いておきます。

                           

                           

                           

                          その答えは、以前から当ブログで指摘してきたように、緊急事態条項を憲法に書き込むためです。これによって、文字通り安倍政権によるファシズム体制が完成するのです。それを「背後」で(安倍氏のように「せご」などと読む人はいないでしょうね)推し進めているのが、法務省や警察官僚です。

                           

                           

                           

                          にもかかわらず、大手マスメディアは、現実を正確な言葉で表現し、進行している事態を批判するという最も基本的な責務を放棄しています。「安倍一強体制」ではなく「安倍独裁体制」という言葉を使うべきです。彼らは、歴史的事実を指摘して国民の警戒心を高めるよりも、現体制に与することを選んでいるのです。

                           

                           

                           

                          例えば、『報道ステーション』は、映画『ボヘミアン・ラプソディー』を「世界中で大ヒットとなっている映画です!」と紹介したにもかかわらず、ブライアン・メイ氏が呼びかけた辺野古埋め立て中止請願署名のことは完全スルーしました。報道番組がバラエティ番組に堕したことの証左です。安倍官邸の意向を損ねるかどうかというフィルターで番組作りをしているのですから、番組のレベルも小学生並みになるわけです。

                           

                           

                           

                          なぜこんなことを言うかというと、わずか2年前、その『報道ステーション』が素晴らしい特集番組を作っていたからです。タイトルは『独・ワイマール憲法の"教訓" − なぜ独裁がうまれたのか?』です。

                           

                           

                           

                          これは『報道ステーション』のスタッフが叡智を結集して送り出した過去最高の特集です。放映された当時、私はすぐブログで動画を取り上げたので鮮明に覚えています。しかし、その後まもなく、「著作権者により削除されました」とのことで、観ることができなくなっていました。同じテレビ局でもこれほどまでに変わるものかと驚きます。

                           

                           

                           

                          今回その動画が復元できたので、再びアップします。削除されないうちにご覧下さい。およそ社会科や歴史の教師でこの特集の意味が理解できない人は、AIによってほどなく職を奪われる運命にあることを自覚しておいた方がよいでしょう。

                           

                           

                           

                           

                           

                          | 文学・哲学・思想 | 15:24 | comments(0) | - |
                          私立大学の医学部は錬金術師たちの巣窟である。
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                            そもそも経済的にゆとりのある家庭でなければ、私立大学の医学部を志望することはできません。ましてや受験など論外です。多くの人が知っているので話題にもなりませんが、私立大学の歯学部も同じです。

                             

                             

                             

                            ブログで何度も言及してきましたが、日本の私立大学はもはや大学ではありません。学生とその保護者を ATM と勘違いした錬金術師たちの巣窟と化しています。そこに政財界の「大物」が絡んで、本来なら民主主義的手続きによって決めるべき学長選挙を牛耳っているのです。

                             

                             

                             

                            むろん国立大学も、文科省を通じて政財界の軍門に下っています。国の言うことを聞かなければ、蛇口を締めてカネの流れを止めるぞ、と脅迫されて素直に従っているのですから。「役に立たない」文系学部を廃止する方針を打ち出したりするのもその流れです。

                             

                             

                             

                            要するに、彼らは学問を「生産性」と「錬金術」の観点からしか見ていないのです。「生産性」とは財界の意向に沿うということであり、「錬金術」とは天下り先を確保することです。それを隠蔽するために屁理屈にすらなっていない屁理屈をこねます。

                             

                             

                             

                            13日付けの朝日新聞朝刊によると、日本大学の医学部は、一般入試で繰り上げ合格者を決める際、医学部卒業生の子供計18人を優先して合格させていたとのことです。文科省から「不適切だ」と指摘されたことに、高山忠利医学部長は「入学意識が高く、大学の維持発展に資する可能性が高いためだった」と説明しています。しかもそれは「私立大学の裁量の範囲内だ」と言うのです。

                             

                             

                             

                            「はあ〜、マジかよ?」という言葉がぴったりですね。「裁量の範囲内だ」という言葉は便利です。要は「入学者の選別は自分達が自由に決めていいのだ」と言っているのです。思えば、フェイクサイトを立ち上げて「許容範囲だ」と自分で勝手に判断していた大分市田尻にある学習空間LのK塾長は時代の先端を走っていたのですね。

                             

                             

                             

                            ところで、「入学意識が高い」とは、どういう意味でしょうか。「学習意欲が高い」という言葉なら聞いたことがあるのですが・・・。具体的に言い換えてみましょう。

                             

                             

                             

                            「パパがいつも言ってるように、ガツガツ勉強するのは貧乏人のやることでしょ。そんな勉強はまっぴらだよ。勉強は合格してからするから、なんとか医学部に合格させてよ〜。友達はみんな親の力とか金で合格してるよ。安倍首相も真っ赤なスポーツカーに乗って成蹊大学に通っていたというじゃない。とにかく合格したいんだよ!」というようなバカ息子を、日本大学の医学部は、「入学意識が高」いと言うのでしょうね。全国津々浦々でネトウヨ医師が跳梁跋扈しているのもうなずけます。

                             

                             

                             

                            さらに「大学の維持発展に資する可能性が高い」とは、寄付金のみならず、国家試験にかこつけた特別講座や進級に際してたっぷり金を払ってくれそうだからという意味でしょう。要するに、いいカネづるになるということです。

                             

                             

                            また同じ日、「文部科学省から、入試で性別や年齢によって差をつけていることが疑われる」と指摘された聖マリアンナ医科大は「属性による一律評価は行わず、受験生を個々に総合評価している」と反論し、問題はないとしています。

                             

                             

                             

                            「属性による一律評価は行わず」とは「医師になる最低限の能力が備わっているかどうかを、公平な入学試験で判断しない」という意味でしょう。「公平なテスト」を「一律」という言葉を使って欠陥があるように見せかけ「個々に総合評価している」と言うのです。

                             

                             

                             

                            「個々に総合評価している」とは、密室での談合を意味します。「一人一人の人脈・金脈を考慮して、自分たちに利益をもたらしてくれそうな受験生(の保護者)をピックアップして合否を決める」と言っているのです。ものは言いようですね。

                             

                             

                             

                            私はこういう事実を聞いても驚きません。ブログで何度も指摘してきました。例えば2年以上前に書いた以下の記事をご覧下さい。

                             

                             

                            「早稲田大学のAO・推薦入試について」

                            http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=136

                             

                            「民主主義は大学の門前で立ちすくむ。−慶応大学の学長選挙について。」

                            http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=427

                             

                             

                             

                            当の早稲田大学は、「属性による一律評価は行わず」、ひたすら推薦入試枠の拡大へと舵を切っています。その一方で、入試では「論理的思考力を試す」と言っているのですから、これほどの茶番もありません。

                             

                             

                             

                            前にも書いたように、国民国家が空洞化し、アメリカ資本と一部の大企業が支配するコーポラティズムが国家の中心に居座っているのですから、当然の帰結です。この国は、大学も高校も義務教育すら株式会社化・民営化に向けてまっしぐらに突き進んでいます。その象徴が、山本太郎が言うように、利益相反行為を屁とも思わない竹中平蔵であり安倍晋三なのです。

                             

                             

                             

                            ブログで書いてきたことがことごとく現実化しています。もはや手遅れでしょうが、この国を愛する者として、無抵抗で座視するわけにはいきません。来るべき経済恐慌と大地震、それに続く原発事故に備えようと思います。

                             

                             

                            | 文学・哲学・思想 | 09:11 | comments(0) | - |
                            あとは野となれ山となれ。
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                              「あとは野となれ山となれ」とは、目先のことさえ解決できれば、後はどうなってもかまわないというたとえをいいます。またの名を、「あとの祭り化政策」といいます。それを推進しているのが財界と官僚(日米合同委員会)です。

                               

                               

                               

                              彼らは記憶喪失に陥った痴呆のごとく日本の国富を次々に売り飛ばし、政治家を顎で使っています。これが安倍自公政権とそれにヒルのごとく吸いついておこぼれにありつく日本維新の会のトライアングルシンジケートです。

                               

                               

                               

                               

                              彼らの精神構造は、公共と名のつくもの、たとえば社会保障や水道事業は言うまでもなく、果ては公教育を民営化して食い物にすることを使命とするものです。その先兵となるのが、前回指摘した英語教育改革です。

                               

                               

                               

                               

                              さらには、種子法を廃止し種苗法を改悪して農業を大資本の傘下に収め、私たちの食べるものさえ投機の対象にする算段をしているのです。彼らはそれを批判したり邪魔したりする人間たちを罵倒し生理的に毛嫌いするように教育されています。自分の意見や政策を語っているつもりでしょうが、何のことはない、単なる操り人形です。しゃべっているのは後ろにいる腹話術師なのです。

                               

                               

                               

                               

                              私は何も大げさなことを言っているのではありません。6年前から同じ事を言い続けているので、事ここに至っては、「あとは野となれ山となれ」と言いたくなっています。簡単に言えば、「知ったことか。勝手にしろ!」という心境です。

                               

                               

                               

                               

                              それにしても3・11の東日本大震災と福島の原発事故を経験した後の日本社会が、まさかこんな体たらくになろうとは予想だにしていませんでした。私たちが正気を取り戻したのは、ほんの一瞬だったのですね。もう少しまともな人間もいるのではないかと期待した自分が愚かでした。

                               

                               

                               

                               

                              その極めつけが東京オリンピックと大阪万博です。大阪万博は時代遅れのカジノを大阪に誘致するための口実、お祭りに過ぎません。

                               

                               

                               

                              朝日新聞デジタルは次のように伝えています。

                               

                               

                              「24日未明、大阪・中之島のホテルの一室は、歓喜に包まれていた。パリで開かれていた2025年万博の開催地を決める博覧会国際事務局(BIE)総会の映像を見守るため、国会議員や財界幹部ら約300人が集合。大阪開催が決まり、大いに沸いた。

                               

                               

                               その直後、突然スクリーンに安倍晋三首相のビデオメッセージが映し出された。「大阪万博を最高の万博にしていきましょう」。首相が笑顔で語ると、拍手が起きた。ほぼ同時に発表された首相コメントには「地域経済が活性化する『起爆剤』になると確信する」と書かれていた。

                               

                               

                               25年大阪万博は、政府が20年東京五輪後の景気対策として誘致をめざしてきた。地元自治体や財界と連携した総力戦で、4年間で約35億円を誘致費につぎ込み、万博が実現した場合は途上国など約100カ国に約240億円を支援する計画も公表。パビリオンの建設費などを支援する「経済カード」で支持拡大を図った。

                               

                               

                              会場予定地の整備費や鉄道インフラの延伸などで少なくとも約2千億円以上かかるとされ、具体的な開催内容も固まっていない。歓喜の先には、課題が山積している。」

                               

                               

                               

                               

                              私はこの記事を読みながら、これは何かの間違い、白昼夢なのではないかと思いました。同時に、ジョージ・オーウエルの『1984』を思い出し、何ともいえない気持ちになりました。私を支えていた心棒がポキンと折れる音を聞いたのです。

                               

                               

                               

                              猿回しの猿よろしく、いい大人が飛び跳ねる図。世耕ケイサン大臣、榊原経団連名誉会長、そしてヤクザの松井大阪府知事。

                               

                               

                              例によって例のごとく登場する二人。全く中身のない空疎な言葉をもてあそぶ「合理的な愚か者」。

                               

                               

                               

                               

                              私は1年以上前に『イベント人間は信用できない』という記事を書きました。そこで書いたことを再確認する思いでした。http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=412

                               

                               

                               

                               

                              世の中が、やれ東京オリンピックだ、大阪万博だと盛り上がっているときに、冷や水を浴びせるような人間は必要とされないのでしょう。これからは世間の片隅で土を耕し野菜でも作ることにしましょう。私の役目は完全に終わったのだと思う晩秋の昼下がりです。

                               

                              | 文学・哲学・思想 | 14:58 | comments(0) | - |
                              ネトウヨを一掃する!
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                                やれやれ、またネトウヨさんからコメントをいただきました。20代だと名乗っていますがウソでしょうね。しかも山本太郎が動画のなかで主張していることを全く理解していません。理解していれば今回のようなコメントは書けないはずです。にもかかわらず、山本太郎を「気狂い」だと言っています。さすがネトウヨだけのことはあります。

                                 

                                 

                                以下は10月21日に行われた最新版の街頭演説。自分の選挙区ではない神戸で訴えています。前回の動画と内容はダブっていますが、それでも聞く気にさせます。彼は専門用語を駆使して国民を騙すようなことはしません。普通のことばでしゃべっています。つまり、山本太郎はただ一人国民の側に立つ政治家なのです。

                                 

                                 

                                 

                                 

                                 

                                それはともかく、私は読むに耐える批判やコメントであれば、必ず返信するようにしています。それが私の信条です。しかし、一度として読むに耐える批判をいただいたことはありません。

                                 

                                 

                                 

                                特にネトウヨからの批判は、一読しただけで脱力するレベル(こんな言葉は使いたくないのですが)で、反論する気にすらなりません。しかも100%匿名です。実名でなくてもURLくらい公開してサイト上で議論しませんか、と提案するのですが、応じてくれた人は皆無です。屁をカマして逃げるのが彼らの習性なのです。

                                 

                                 

                                 

                                ネトウヨではありませんが、「佐藤ママにエールを!」のコメント主さんのように、結果主義を信奉するあまり、考えることそのものを放棄している人に対しても、少しですが、相手をしました。なぜなら、彼女もネトウヨも、自分では一応考えているつもりになっているからです。

                                 

                                 

                                 

                                さて前回の私の記事『山本太郎は日本のバーニー・サンダースである』に対して、コメントを寄せた「革命戦士」と名乗るネトウヨさんの記事は以下の通りです。もっとも本人は、「俺はネトウヨではない」と思っているかもしれませんね。しかし、正真正銘のネトウヨです。

                                 

                                 

                                 

                                引用開始

                                ― そうですね山本太郎という男は園遊会で天皇陛下に手紙を直接手渡すなんてことができる気狂いですから彼なら日本を破滅に導くような偉業が達成できるでしょう。

                                 

                                 

                                「若い人たちのなかには、『政権を批判する』行為は『コンビニで店員に怒鳴り散らす』のと同じような 『利己的で、はた迷惑で、非常識な行為』だと感じている人もいるようです。これこそが教育の敗北です」と書いて居ますが若者が安倍を支持するのは当然、私は20代ですがアベノミクスのおかげでありがたいことに売り手市場です。私が学生時代民主党政権下では買い手市場もいいとこ、ネットカフェ難民なんてのもいましたね。

                                 

                                 

                                トランプ的安倍晋三的ネトウヨ的言説が増えたのももうグローバリズムとか左派政党が嫌になったんですよ。鳩山的ネトサヨ的はもううんざりです。私から見れば自民党は革新的で、野党こそ保守です。憲法改正や自由貿易の拡大、安倍晋三及び自民党こそ進歩的です。― 引用終わり

                                 

                                 

                                 

                                 

                                こんな日本語しか書けない人間に対して、いちいち反論する気にはなりません。すべての文章が論理的に破綻しています。それを指摘すると5〜6回分の記事を書かなくてはなりません。どんなに暇でもそれはできない相談です。「革命戦士」さんは私が書いた以下の記事を理解できるでしょうか。

                                 

                                 

                                 

                                『私の国語の授業−文章を正確に読むために』

                                http://www.segmirai.jp/essay_library/essay058.html

                                 

                                 

                                 

                                それにしても、今から5年前の9月、安倍首相がニューヨークの証券取引所で行ったスピーチを忘れることができません。以下、首相官邸のHPから引用します。

                                 

                                 

                                 

                                引用開始

                                 

                                世界第三位の経済大国である日本が復活する。これは、間違いなく、世界経済回復の大きなけん引役となります。日本は、アメリカからたくさんの製品を輸入しています。日本の消費回復は、確実にアメリカの輸出増大に寄与する。そのことを申し上げておきたいと思います。
                                 ゴードン・ゲッコー風に申し上げれば、世界経済回復のためには、3語で十分です。

                                 「Buy my Abenomics」

                                 

                                引用終わり

                                 

                                 

                                 

                                ちなみに「Buy my Abenomics」は映画「ウォール街」の中で嘘と裏切りのマネーゲームに明け暮れる主人公ゴードン・ゲッコーが「俺の本を買えばすべて分かるぜ」と言い放ったセリフです。安倍首相にぴったりのセリフです。

                                 

                                 

                                 

                                株価の上昇だけで日本経済を論じたり、実質賃金が上がってもいないのに消費が回復していると強弁したり、目も当てられません。今時、アベノミクスのからくりは中学生でもわかっています。日本の粉飾経済の化けの皮が剥がれるのももうすぐです。その時は「Buy my Abenomics」という言葉が虚しく響くことでしょう。

                                 

                                 

                                 

                                さらに「革命戦士」さんは、現実を認識するだけの知力を欠いています。一つだけ例を挙げてみましょう。

                                「トランプ的安倍晋三的ネトウヨ的言説が増えたのももうグローバリズムとか左派政党が嫌になったんですよ。」とありますが、この論理で行くと、「グローバリズムとか左派政党が嫌になった」から「安倍晋三的ネトウヨ的言説が増えた」ことになりますね。つまり、安倍首相は反グローバリストであり、それをネトウヨが応援しているという構図になります。

                                 

                                 

                                 

                                でも、2年前の大統領選のとき、安倍首相はヒラリー・クリントンが当選すると思って、彼女のケツを舐めに行きました(英語でlick one’s bootsは日本語ではケツを舐めるという表現になります)。ところが顔を上げると、ヒラリーのケツではなく、トランプのケツを舐める羽目に陥っていたのです。さぞ慌てたことでしょう。

                                 

                                 

                                 

                                 

                                要するに、安倍首相はグローバリズムの正体を理解しないまま、グローバリズムの走狗として日本の富をアメリカに売り渡しているだけです。それは数年を経ずして、誰の目にも明らかになることでしょう。

                                 

                                 

                                 

                                 

                                それはともかく、ネトウヨの致命的な欠点は事実を知らないということです。ネトウヨ漫画家のはすみとしこ女史にいたっては、北海道地震の際、「泊」原発を再稼働せよと叫ぶつもりで、「柏」原発を再稼働せよと叫んでいました。ネトウヨがリツイートしてあっという間に拡散しましたが、せめて再稼働させたい原発の名前と所在地くらい知ってから叫んでほしいものです。

                                 

                                 

                                 

                                 

                                ところが一事が万事、事実を指摘しても、ネトウヨはそれすら認めないのですから、議論の成立する余地などありません。それどころか「お前たちパヨクは、見たいものしか見ていない」などと、誰かさんから教えてもらった紋切型のフレーズを実体のない論敵に投げつけて溜飲を下げているだけです。

                                 

                                 

                                 

                                 

                                私はブログで事実よりも認識の方が大事だと言ってきました。それは事実に関しては、細部はともかく大枠で認識が一致すると思っていたからです。しかし、ネトウヨはその事実すら自分たちの都合のいいように捏造し、それを指摘すると、逆に「お前たちは事実を捏造している!」と叫びます。自分たちが言われそうなことを相手に投げつけるという言葉の戦略を身につけているのです。

                                 

                                 

                                 

                                 

                                ネトウヨは、イデオロギーというよりもある種の劣情を共有しています。劣情から発せられる言葉は下品になり、差別的になり、レイシズムを生みます。道徳心理学者のジョナサン・ハイトを引用するまでもなく、感情こそが論理を方向付けるのです。したがって、劣情が生み出す論理も劣った論理にならざるを得ません。野党の質問に対して下品なヤジを飛ばす総理大臣の振る舞いはその典型です。

                                 

                                 

                                 

                                 

                                いったいどうすればいいのでしょうか。まず事実認定をしっかり行う必要があります。法治国家であれば、最終的には法廷で決着をつけることになります。ネトウヨや出版社を告訴し、そこで被告人を尋問して事実を捏造したことを白状させるのです。それを実行しているのが元朝日新聞の記者・植村隆氏です。

                                 

                                 

                                 

                                 

                                 

                                「慰安婦問題は朝日新聞が捏造した」として標的にされたのが植村隆氏です。しかし、植村氏は今係争中の裁判の中で、自分への攻撃の多くが根拠のないものであることをひとつひとつ実証し、極右言論人たちの嘘とでっち上げを、次々と白日のもとに晒しています。事実認定の問題ですから、もうすぐ判決が出るでしょう。

                                 

                                 

                                 

                                 

                                今回も長い記事を読んで下さった皆さんに御礼申し上げます。次回は安倍政権の周りに蝟集(いしゅう)する極右言論人たちの名前を挙げ、その発想がいかにデタラメか、なぜそういう人格が作られるのかを検証します。

                                 

                                 

                                | 文学・哲学・思想 | 00:00 | comments(0) | - |
                                循環する時間、再生する命。
                                0

                                  9月26日のブログでも書きましたが、今の日本社会は国民国家VSコーポラティズムの戦いの最中で、後者がほとんど勝利しかけています。しかし、沖縄で玉城デニー氏が知事になったことで、国民主権も民主主義も命脈をかろうじて保っています。それを指摘したのがニューヨークタイムズだというのが何とも皮肉ですが。

                                   

                                   

                                   

                                  コーポラティズムが生み出した新自由主義(意味がわからない人は、ここ数回のブログを読んで理解して下さい)のイデオロギーは、私たちの時間を市場社会の絶対時間に服従させました。

                                   

                                   

                                   

                                  市場社会の絶対時間とはビジネス手帳に細かく書き込まれている予定のことであり、時間を制する者が受験を制するといったイデオロギーであり、私たちの意識に植え付けられた直線的な時間のことです。

                                   

                                   

                                   

                                  しかし、すでに書いたように、もともと日本の文化には「循環する時間」をテーマにしているものが多いのです。能や歌舞伎の曲目に見られるように、ほとんどが「転生」の物語です。

                                   

                                   

                                   

                                  9月26日にブログを書いたとき、実は『苦界浄土』の作家・石牟礼道子氏のことを思い出していました。それから数日して、セレンディピティーというのでしょうか、10月2日の朝日新聞26面で石牟礼道子氏の新作能「沖宮」に関する記事が目に留まりました。

                                   

                                   

                                   

                                  これも偶然ですが、ブログでも紹介した教え子M君(おじいさんが天草に住んでいて、熊本県庁に就職が決まりました)と湯布院でランチをした時、石牟礼道子の話をしました。その時、彼女の畢生の大作『春の城』を勧めたのを思い出しました。

                                   

                                   

                                   

                                   

                                   

                                  『春の城』は、農作物を作り、信仰を大切にし、質素に、つつましやかに生きていたごく普通の人々が、なぜ一揆に参加し、幕府に壮絶な戦いを挑むようになったのか、登場人物一人ひとりに寄り添って、丁寧に描かれた物語です。

                                   

                                   

                                   

                                  話を元に戻しますが、「沖宮」は、島原の乱(1637〜38年)の後の天草が舞台です。天草四郎の乳きょうだいで孤児となった少女あやは、干ばつに苦しむ村のため、竜神のいけにえに選ばれます。緋色の衣をまとい、海の底へ沈んでいくあや。その魂を迎えに、四郎の霊が現れるという筋立てです。

                                   

                                   

                                   

                                  評論家の渡辺京二氏は、「沖宮」で描かれた、共同体のために弱い立場の者が犠牲に差し出される、という構造に注目します。水俣病の補償交渉を支えようと、チッソ本社前の座り込みなどに参加するうち、石牟礼さんに「自分たちは見捨てられ人身御供になるのだという強迫観念が宿ったのでは」と、創作の背景を指摘しています。

                                   

                                   

                                   

                                  石牟礼さんは生前、「あやは死ぬのではなく、海底にある生命の源に還ってゆくのです」と語っていたそうです。そのあやがまとう緋色の衣は、親交のあった人間国宝の染織家、志村ふくみさんが監修します。

                                  新作能「沖宮」は6日に熊本市の水前寺成趣園能楽殿、20日に京都市の金剛能楽堂、11月18日に東京の国立能楽堂で上演予定です。

                                   

                                   

                                   

                                  言うまでもなく、循環する時間は、生命の源に還ってゆく命を運ぶ舟のようなものです。悠久の時の流れのなかで、生命の源に身をゆだねていれば、この瞬間がまた巡り来ることを信じさせます。日本文化の根底にはこういった時間感覚、信仰があったのです。だから私たちは何が起こってもそれを受け入れてきました。人間は生まれ変わる、再生するという世界観は人間の魂を根底から癒す力を持っているのです。

                                   

                                   

                                   

                                  しかし、福島の原発事故によって私たちの世界観は大きく毀損されました。国家の連続性も絶たれました。その認識を持てるかどうかが、これから先、生き延びられるかどうかのカギを握っています。天変地異に限らず、何が起こってもそれを受け入れ、じっと耐え忍び、再生の時を待つという日本人のエートスが、逆にこの国を滅びに向かわせているのですから。

                                   

                                   

                                   

                                  もはや手遅れだと思いますが、私たちにできることはただ一つです。日本にある全原発を一日も早く廃炉にすることです。物事には優先順位があります。まず、国民の意識をこの一点に向かわせるのがジャーナリズムの仕事です。

                                   

                                   

                                   

                                  次に、コーポラティズムが撒き散らす新自由主義のウィルスと戦っている沖縄を支援し、基地のない沖縄を再生させることです。東京オリンピックに浮かれ、テレビのバラエティー番組を見て痴呆になるのは自由ですが、これは後にしてもらいたいものです。

                                   

                                   

                                  | 文学・哲学・思想 | 23:53 | comments(0) | - |
                                  名もなき一教師さんへ。
                                  0

                                    コメントありがとうございます。コメント欄では余裕がないので、この場を借りて返信いたします。

                                     

                                     

                                    私は子供の魂に対する想像力がこれほど貧困な母親を知りません。「佐藤ママ」が最も罪深いのは、「将来のため」という口実で、子供から「時間」を取り上げている点です。何度も書いてきましたが、時間や記憶はその人の人生そのものです。たかが東大医学部に合格させるために、子供からかけがえのない子供時代を奪い取っているのです。

                                     

                                     

                                     

                                    しかもそれが子供の将来のためだと信じ切っています。こうなるともはや歯止めが効きません。大学合格までは恋愛禁止を申し渡し、テレビは見せず、志望理由書も自分で書いたものを子供に写させます。「こんなことはしたくないけど、これがあなたのためなのよ」というのは、モラルハラスメント以外の何ものでもありません。世の中を生きづらいものにし、児童虐待を生み、犯罪と暴力を生み出すのはまさにこういった発想だと思います。

                                     

                                     

                                     

                                    おそらく「佐藤ママ」に私の批判は届かないでしょう。なぜなら、「結果を出す」ことで周囲を黙らせようとする人間は、無知で硬直した精神を持つ人間たちから支持され、力に対する共感を呼びさますからです。彼らにとっては「結果を出す」ことが何よりも大事で、プロセスは問わないのが常です。しかし、教育とは結果よりもプロセスに寄り添うもののはずです。人間の、特に子供の幸せは、目的地にではなくそこにたどり着くプロセスの中にこそあるのです。そうではありませんか。

                                     

                                     

                                     

                                    私は「佐藤ママ」や「ビリギャル本」を持ち上げるメディアの登場で、この国の教育は最終段階に入ったと思っています。これからは、「結果を出す」ことに居直った、荒廃した精神の末路がいたるところで見られることでしょう。

                                     

                                     

                                     

                                    一つだけ具体例を挙げておきます。

                                     

                                     

                                    「全国学力テストの結果で、大阪市が政令市の中で2年連続で最下位だったことを受け、吉村大阪市長が激怒しました。
                                    吉村市長は、会見で「私自身は非常に危機感を感じています」「万年最下位でいいと思うなよ」と述べました。今年度の全国学力テストで、大阪市は小6・中3ともに2年連続で政令市で最下位の成績でした。これを受け、吉村市長は来年度のテストから学校ごとに数値目標を設定し、達成できたかどうかを校長・教員の人事評価や給与に反映させるとの考えを明らかにしました。今後、市の教育委員会などとも議論して決めるということですが、全国学力テストの結果を教員の人事評価に用いるのは、全国でも例がないということです。」(平成30年8月2日:大阪市ホームページより)

                                     

                                     

                                     

                                    話を戻しますが、ブログでは、村上春樹氏や宮崎駿氏を引き合いに出しました。村上氏は優れた文学的な比喩を通じて、宮崎氏はアニメによって、人間の無意識に影響を与える術を知っていると思ったからです。

                                     

                                     

                                     

                                    子供が無意識の世界を育むべきときに、親があれこれ具体的な指示を出すことは、特に受験を効率的に勝ち抜くためのクソのような指示の場合、魂の休息場所である無意識の世界を破壊することにつながると私は思っています。

                                     

                                     

                                     

                                    大げさなようですが、それは世界の崩壊へとつながっているのですね。世界は子供たち一人一人の魂が寄り集まって創られている、大きなやわらかい綿菓子のようなものですから。

                                     

                                     

                                     

                                    何やら取り留めのない話になりそうなのでやめにしたいと思います。名もなき一教師さんのおかげで、ブログを読み返し、わずかながら思考が深まっていることを確認することができました。ありがとうございました。

                                     

                                     

                                     

                                    最後に、中高生の皆さんのために、時間がどれほど大切なものか気づかせてくれる本を推薦しておきます。今の世の中の支配的な価値観に対する痛烈な批判が込められています。「佐藤ママ」はこの物語の中に出てくる「時間貯蓄銀行」の「灰色の男」たちそのものです。残り少なくなった夏休みの思い出にしてもらえたらうれしいです。

                                     

                                    ※ミヒャエル・エンデ『モモ』(岩波書店)

                                     

                                     

                                     

                                    以下は私のブログです。

                                     

                                    『こどもの魂はどこで育つのか』

                                    http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=174

                                     

                                    | 文学・哲学・思想 | 23:24 | comments(0) | - |
                                    地区の夏祭り−新自由主義とは何か。
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                                      8月5日は坂ノ市の日吉神社の夏祭りでした。今年は私の地区が当番なので、2ヶ月ほど前から代表者が何度も集まり、役割分担を決め、進行について検討をかさねました。そして当日。午前9時にスタートした御神幸祭は、午後9時半のフィナーレに向けて収斂して行きます。

                                       

                                       

                                       

                                      青い稲穂が揺れる田園の中を通り抜け、住宅が立ち並ぶ市街地を抜ける頃には、日は落ち、疲れはピークに達していました。それでも、感動的なシーンが随所にあり、私の中の農民ジュニアとしてのDNAが刺激され、覚醒する瞬間がありました。

                                       

                                       

                                       

                                      近代の公教育は一貫して、子供たちを農村からひきはがし、学徒動員と称して無謀極まりない戦争に駆り出し、戦後は高度経済成長を支えるために賃金労働者という交換可能な部品に仕立て上げました。そして、受験競争の勝利者に配分されるわずかばかりの利益を確保するために、消費者という孤立した殻に閉じこもって際限のない快適さを求めることこそ「良い人生」だとみなす新自由主義的な発想を普及させたのです。

                                       

                                       

                                       

                                      私は山車を引き、交通整理をし、子供たちの面倒を見ながら、こみあげてくる複雑な感情に領されていました。新自由主義とは、簡単に言えば、欲望はよいことだ、市場こそ至上のものである。人生で大切なものはカネだ。公共のもの、共有されているものは何であれ邪悪であり、守るに値しない。私たちの周りは危険だらけなのだから自分の面倒だけ見ればいい。すべては自己責任なのだ。これに代わる選択肢はない、という考えです。

                                       

                                       

                                       

                                      あるいは自分をコミュニティーの一員としてより、市場における一ブランドと見てしまうようになること。同じような仕事をしている他の人々を、いつか味方になりうる相手とは見ずに、希少な市場シェアを取り合う競合商品と見なす発想といえばいいでしょうか。要するに、すべての人が繁栄し豊かに暮らせるだけの資源などないのだから、たとえどんな犠牲が伴おうと、人を押しのけて上を目指すべきだという発想です。

                                       

                                       

                                       

                                      実は私の中にも巣食うこういった発想の不可避の産物として生み出されたものこそが、下品で救いようもなく無知な「安倍政権」であり自民党なのです。そして、権力に目がくらみ、自民党をオウム化した公明党です。もちろん、ヤクザ集団の日本維新の会も忘れてはなりません。

                                       

                                       

                                       

                                      もはや表面的に異議申し立てをする時期は過ぎています。立ち向かうべきなのは「安倍晋三」なるものをさんざん持ち上げて来た深層の風潮であり、手っ取り早い金儲けのハウツー本、億万長者の救世主、資本主義的偽善家などを通して私たちに押しつけられた価値観なのです。私たちは『おだやかな革命』を目指して、明日からでも行動しなければなりません。

                                       

                                       

                                       

                                      私は塾という商売が、新自由主義的発想を強化し、自明視し、逃れようのない競争世界を作り出すことに一役も二役も買っていることを自覚しています。そして農村文化を破壊していることも。にもかかわらず、私が精神の平衡を失わずに、個人塾の教師を30年以上にわたって続けることができたのは、農村文化の中に精神的な支えを見いだしてきたからです。

                                       

                                       

                                      一年前に書いた関連記事です。よかったらお読みください。

                                       

                                      『日本よ、どこへ行く。』

                                      http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=395

                                       

                                       

                                      本宮お立ちの時間に合わせて、地域の人が神社に向かいます。

                                       

                                       

                                       

                                       

                                      厳粛な雰囲気の中、神事が行われています。

                                       

                                       

                                       

                                       

                                      いよいよ出発です。

                                       

                                       

                                       

                                       

                                       

                                      これから仮宮に向かった後、二手に分かれて地区を練り歩きます。小さな子供たちも一生懸命山車のロープを引っ張ります。

                                       

                                       

                                       

                                      そしてフィナーレ。じ〜んとくる感動の一瞬です。二体の神輿は全力を振り絞って舞います。「やりきったぞ!」という声があちこちから聞こえてきました。

                                       

                                       

                                       

                                       

                                       

                                       

                                      | 文学・哲学・思想 | 23:25 | comments(0) | - |
                                      ウソと賄賂で誘致した東京オリンピック。何が復興五輪だ!
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                                        災害時であれ何であれ、個人の自主的な意思で活動するのがボランティアですよね。少なくとも私はそう思ってきました。しかし、7月27日の毎日新聞の記事によると、どうやら思い違いをしていたようです。

                                         

                                         

                                         

                                        スポーツ庁と文部科学省は26日、2020年東京五輪・パラリンピックの期間中にボランティアに参加しやすいように全国の大学と高等専門学校に授業や試験期間を繰り上げるなど柔軟な対応を求める通知を出した。通知では学生がボランティアをすることへの意義を説き、大会期間中は授業や試験を避けることを促した。授業開始時期の繰り上げや祝日の授業実施は学則などに基づき、学校の判断で特例措置を講じることができる。首都大学東京は昨夏、期末試験を大会前に終了させるなどして大会期間中に原則、授業や試験を行わないことを決めている。国士舘大も26日、同様の方針を発表した。」とのことです。

                                         

                                        https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180727-00000006-mai-spo

                                         

                                         

                                         

                                         

                                         

                                        いよっ、さすが国士舘大、などと茶々を入れる気はありません。ニッポンを世界にアピールするまたとないチャンスだ。日本人全員で「お・も・て・な・し」をして、オリンピックを成功させるために協力する、それのどこが問題なんだ。しょうもない屁理屈をこねてイチャモンつけるんじゃないよ、というのでしょうね。東京オリンピックに反対すれば非国民呼ばわりされる日も近いかもしれません。

                                         

                                         

                                         

                                        でもね、「国」がボランティアを動員するってどうなんでしょう?個人の善意や自主性に支えられてこそのボランティアでしょう。小さな善意が国という大きな物語に回収されていくのは、危険ではないでしょうか。

                                         

                                         

                                         

                                        それに、「国」が「学生がボランティアをすることへの意義を説き、大会期間中は授業や試験を避ける」ように通知を出すなんて、学生を子供扱いしています。それにしても、授業や試験よりもオリンピックの方が大事だなんて、いったい大学って何なんでしょう。

                                         

                                         

                                         

                                        「生産性」の上がらない部署はどんどん切り捨て、少しでも利益を上げるように檄を飛ばす株式会社のCEO(セコいオッサンの略です)のような人間がこの国のトップに「君臨」し、それを国民が許しているのですから仕方ありませんね。

                                         

                                         

                                         

                                        はっきり言いましょう。ウソと賄賂で誘致したオリンピック。なにが復興五輪だ!ボランティアを募らなければ開催できないオリンピックなんてやめてしまえ!ということです。オリンピックの誘致自体がいわくつきで、国立競技場からエンブレムの問題まで、疑問符のつくことばかりだったのです。もう忘れたのでしょうか。それに何より財源は国民の税金なんですよ。オリンピックを開催することで一番得をするのは誰でしょうか。オリンピックが終われば、そのツケを払わされるのは国民です。私たちは、この国の崩壊に立ち会っているのです。

                                         

                                         

                                         

                                        話は変わりますが、私は広瀬すずのファンでした。以前は榮倉奈々や忽那汐里のファンだったのですが(だれもそんなこと聞いてね〜よ)奈々ちゃんは結婚したし汐里ちゃんは今どこにいるのでしょうか。広瀬すずのファンでした、ということは今は違うということです。私が現実に目覚めたのは以下のCMを見たからです。このCMの制作にかかわっているのは電通でしょうが、ボランティア募集のあくどさと言い、やり口の単純さと言い、バカバカしくて目も当てられません。

                                         

                                         

                                         

                                         

                                        「皆さん!青春のど真ん中にオリンピック・パラリンピックがやってきます」って、こんなしょ〜もないセリフを堂々と吐くすずちゃんに、いくら仕事とはいえ、ドン引きしたのです。私のすずちゃんに対する幻想はガラガラと音を立てて崩れました。

                                         

                                         

                                         

                                        それにしても、いっせいに駆けだす学生さんたちはなぜみんな学生服なんでしょう?オリンピックのボランティアを募集するコマーシャルですよ。なぜ自由な服装じゃないのかな?普段のテレビコマーシャルでは、いつもまばゆいばかりにカラフルなのに・・・。

                                         

                                         

                                         

                                        私が連想したのは、昭和18年10月21日、東京・明治神宮外苑競技場において催された大日本帝国 - 学徒出陣式の風景だったのです。ハイ、ハイ分かっていますよ。そんことを連想するのは、お前のようないかれたパヨクだけだと言いたいのでしょう。そうかもしれませんね。多分そうでしょう。いやそうに決まっています。

                                         

                                         

                                         

                                        ということで、以下の動画をとくとご覧ください。学生の代表は「生きて帰ってくるつもりはない」と宣誓しています。2万5千人の若き学徒の大部分は、戦闘ではなく飢えと病気で死んだのです。この映像を見て、一番心を痛めているのは今上天皇ではないでしょうか。安倍晋三では断じてありません。

                                         

                                         

                                         

                                         

                                        | 文学・哲学・思想 | 21:58 | comments(0) | - |
                                        <生>の始まりに向かって。
                                        0

                                          今回は、一週間ほど前に読み終えた本を紹介したいと思います。タイトルは、『石を聴く――イサム・ノグチの芸術と生涯』 ヘイデン・ヘレーラ著(みすず書房)です。今年の2月に出版されました。

                                           

                                           

                                           

                                           

                                           

                                           

                                          今からちょうど一年前に書いた以下の記事とタイトルが似ていますね。よろしければ、お読み下さい。

                                           

                                           

                                           『石に訊け − イサム・ノグチと宮崎駿』

                                          http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=340

                                           

                                           

                                           

                                          古寺巡礼と建築行脚の旅を始めたのは今から16年前でした。そして最初に選んだのが高松市牟礼にある『イサム・ノグチ庭園美術館』でした。

                                           

                                           

                                           

                                          イサム・ノグチになぜ引きつけられたのか、正直なところ分かりません。彼の作品を言葉で意識的に分析すれば何か重要なものが棄損される気がするのです。だから、作品そのものを語るのではなく、宮崎駿と対比させて感想を述べました。

                                           

                                           

                                          イサム・ノグチの作品に対していると、私の内部で、無意識的な記憶の掘り起こしが進行しているのが分かります。それは私固有の記憶とは違った何かです。私たちの内部に私たちの意識よりも多くのことを知っているものがひそんでいて、それが語りかけてくるといった感じなのです。

                                           

                                           

                                           

                                          それは、自分が知っていることなどたかが知れていると気づかせる何かです。つまり、人間の内部には、意識では到達できない領域が広がっていることを教えてくれるのです。私は以前、人間とは記憶のことだと書きました。その記憶とは個体としての身体の中に閉じ込められている記憶のことでした。

                                           

                                           

                                           

                                          しかし、自分では体験したことのないことを突然思い出したり、人の死や偶然の出来事によって、異質な記憶の層に引っかかったりしたことはないでしょうか。なんだかオカルトっぽくなりそうですが、人間が霊的な存在であることを思えば、不思議でも何でもありません。鈴木大拙は「霊性」と言っています。

                                           

                                           

                                           

                                          私はイサム・ノグチの作品を見ている時や、古寺巡礼を続けている時に、こういった経験をすることがあります。すぐれた建築や絵画、彫刻に興味を持ったのは、この経験を深め、その意味を探りたいと思ったからです。そのことをブログで書いたことがあります。

                                           

                                           

                                           

                                          その中の一つ、『私の古寺巡礼13−奈良・慈光院』から引用します。

                                           

                                           

                                          古寺巡礼を続けていると、自分の体温というか体質というか、趣向にとても近い建築に出会います。琴線が共鳴するのです。それは初めて出会ったのに、ずっと前から知っていたような、そんな感じです。私の美意識のルーツはいったいどこに由来しているのか、それはまだいろんなところに存在しているのか、ひょっとしてこれからもそういったものに出会えるのか、と考えると、生きることには意味がある、人生は楽しいと思えてくるのです。」

                                           

                                           

                                           

                                          そして私は気づきました。私たちの内部にあると思っていた記憶も魂も、実は私たちの外部にあるのではないかと。人間は、一人一人が孤立して独自の魂を持って生きているのではなく、大きな魂を一人一人の魂が形作っている存在だと。それが分かると、自分がなぜ生きてきたのか分かるような気がします。自分がなぜ死んでいくのかも分かりそうです。

                                           

                                           

                                           

                                          ことによると、人間は本来自分を意識せずに生きて行ける存在なのかもしれません。それに気づけば、いたるところに<生>の起源を見出すことができます。なぜなら、私たちは意識を与えられる前の、<生>の始まりに向かって旅をしているからです。

                                           

                                           

                                           

                                          興味がありましたら、鈴木大拙に言及している以下の記事をお読み下さい。

                                           

                                          「『普遍的な感情』とは、どのようなものか。」

                                          http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=87

                                           

                                          | 文学・哲学・思想 | 22:35 | comments(0) | - |
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