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 (JUGEMレビュー »)

まず私たちの生命と暮らしを脅かす事実を知ること。それにたいしてどのような認識を持つのか。この国のみならず、世界を壊滅させる災厄とどう向き合うのか。次世代に対してどう責任を取るのか、そもそも責任を取れるのか。自分に何ができるのか。この現実にどう向き合うのか。それを教えるのが教育のはずだが、この国には教育も哲学も存在しない。
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「最悪」の核施設 六ヶ所再処理工場 (集英社新書)
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小出 裕章,渡辺 満久,明石 昇二郎
原発よりもはるかに危険な六ヶ所村再処理工場。私たちの日々の生活が薄氷の上で営まれていることを痛感させられる。同時に、この国には「国民の生命・財産・自由を守り抜く!」と威勢のいいことを言う総理大臣と無能の政治家しかいないことに絶望する。核燃料サイクルと言い、下北半島の再処理工場と言い、3兆円以上の国民の税金がつぎ込まれ、いまだ後始末も将来の見通しもたっていない現実をどう考えているのか。彼らは核兵器を持ちたいという願望と税金をロンダリングして私腹を肥やすことしか眼中にない。北海道の地震だけに目を奪われてはならない。六ヶ所村は今回の震源地の目と鼻の先にあるのだ。
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幻影(イメジ)の時代―マスコミが製造する事実 (現代社会科学叢書)
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D.J.ブーアスティン
私にとっては古典の中の古典。三度読みました。そしてその慧眼にいまだに驚いています。
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殺人犯はそこにいる (新潮文庫)
殺人犯はそこにいる (新潮文庫) (JUGEMレビュー »)
清水 潔
ジャーナリストと称する職業がある。自称ジャーナリストもいれば、テレビのコメンテーターとしてリベラルに媚びる政権批判をし、名を売り、講演で稼ぐ職業をジャーナリストと呼ぶ者もいる。とんだ茶番である。ジャーナリストとはどこまでも「事実」を追いかける。テレビに出て能天気な解釈や感想を垂れ流している暇などないはずだ。ジャーナリストを志す若い人には清水氏の著作は避けて通れない。その名に値する本物のジャーナリストがここにいる。
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デジタル・ポピュリズム 操作される世論と民主主義 (集英社新書)
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福田 直子
おそらく自民党・安倍政権はSNSを駆使し、分析するデータサイエンス(日本版なのでレベルはまだ低いですが)の重要性に着目し、選挙にどうすれば勝てるか、自分たちに有利な世論を形成し、国民を誘導・分断するにはどうすればいいのかが分かっているのです。そのためのノウハウも蓄積しつつあります。安倍首相の貧困な語彙力からは想像できないカタカナ言葉を聞いていると、それがSNSを分析している集団から教えられたものであることがよくわかります。ただ彼らの致命的な弱点は将来の社会を導く理想がないことです。おそらく、思いもかけない結果が待っていることでしょう。なぜなら、所詮、彼らはアメリカとビッグデータの奴隷でしかないのですから。これからの政治は、好むと好まざるとにかかわらず、この本に書かれていること抜きには語れなくなっているのです。
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 (JUGEMレビュー »)

安倍政権に対するメディアの忖度が云々されていますが、元々同じ穴のムジナなのです。忘れてならないのは、日中戦争から太平洋戦争にかけて、日本の世論と新聞のほぼ全部は好戦的・拡張主義的だったのです。しかも、当時はまだ言論統制体制が発足していなかったのです。この本は、そうした「一貫して好戦的な世論とそれに便乗する新聞」が先導し、近衛文麿はじめ文民政治家がそれに便乗、軍部がさらに便乗、という構図を一次資料で克明に論証しています。安倍政権を支持するネトウヨの皆さんの日本語力では、まともな読解は無理ですので勧めません。一方、正確な歴史を知るためには「世論」の不気味さを知ることだと気づいている若い人には是非一読を勧めます。
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茫漠の曠野 ノモンハン
茫漠の曠野 ノモンハン (JUGEMレビュー »)
松本草平
著者は大分市にある『天心堂へつぎ病院』の院長、松本文六氏の御尊父、松本草平(本名松本弘)氏です。詳しくは、ブログで紹介したいと思いますが、第一次資料として極めて価値の高いものです。40年ぶりに復刻版を出された松本文六氏と出版社に感謝する他ありません。
戦略も何もない、無謀・無慈悲な戦争を語り継ぐことは、最も崇高で重要な人間の営為だと私は考えています。作家の司馬遼太郎氏は、電話で草平氏に次のように伝えてきたそうです。「先生の臨場感のあるノモンハン戦記に出会えて本当にありがとうございました。私は大東亜戦争の折、戦車隊の一員として従軍しましたが、先生の従軍記以上のものを創ることはできません。」と。
一人でも多くの方がこの本を読まれることを望みます。ちなみに松本文六氏は伊方原発差止め訴訟の原告でもあります。その縁で、この本に出会うことができました。
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「南京事件」を調査せよ (文春文庫)
「南京事件」を調査せよ (文春文庫) (JUGEMレビュー »)
清水 潔
全国のネトウヨの皆さんへの推薦図書です。清水氏のこの本を読んでから、「南京事件はなかった!」「南京事件は捏造だ!」と叫びましょうネ。
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日本列島の全原発が危ない! 広瀬隆 白熱授業  DAYS JAPAN(デイズジャパン)2018年1月号増刊号
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広瀬隆
広瀬氏をアジテーターだの、オオカミ少年だの、悲観主義に過ぎると言って批判する人がいる。しかし、ブログで何度も述べてきたように、真の悲観主義こそがマインドコントールによって奴隷根性のしみ込んだ私たちの精神を浄化してくれるのだ。そもそも無知では悲観が生まれようもないではないか。国などいくら破れても結構。せめて山河だけでも次世代に残そうと考える人ならぜひとも読むべき本である。いや、これから幾多の春秋に富む若い人にこそすすめたい。
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チャヴ 弱者を敵視する社会
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オーウェン・ジョーンズ,Owen Jones
【本書への賛辞】

「怒りが生んだ、最高の本」
──ガーディアン紙

最高の論争がみなそうであるように、知性に裏打ちされた怒りが本書を支えている。
──エコノミスト誌

暴動や世界中に広がったオキュパイ運動に照らして考えると、分断社会に関する著者の鋭い分析は、
不気味なほど未来を予知していたことがわかる。
──アートフォーラム誌

情熱と、思いやりと、すぐれた道徳性が結実した仕事だ。
──ニューヨーク・タイムズ紙

政治の定説を見直す大胆な試み。著者は戦後のイギリス史を縦横無尽に往き来し、
階級、文化、アイデンティティといった複雑な問題を軽々とまとめてみせ、
結果として「階級」問題に火をつけ、大きな効果をあげている。
──インディペンデント紙

いまの制度が貧しい人々を見捨てていることに対する苛烈な警告──それが本書だ。
──ブログサイト「デイリー・ビースト」

ジョーンズは、「地の塩」だった労働者階級が政治のせいで「地のクズ」と見なされるようになった経緯を見事に説明している。
──タイムズ紙

この本は、新しいタイプの階級嫌悪と、その裏にあるものを痛烈にあばいて見せてくれる。
──ジョン・ケアリー(The Intellectuals and the Masses著者)

これは「イギリスはおおむね階級のない社会である」という考え方への、論理的で情報満載の大反撃だ。
──オブザーバー紙

情熱的で示唆に富む……この声が届くことを心から願う。
──スコットランド・オン・サンデー紙
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 (JUGEMレビュー »)

紹介していない本が山のようにあります。数日前にこの本を本棚の奥から引っ張り出し再読しました。いや〜面白かった。。とにかくこの本のことを忘れていた自分が信じられない。読んでない人に熱烈に勧めます。ハイ。
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新・日米安保論 (集英社新書)
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英語の実際的研究 (1969年)
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秋山 敏
高校生にとって、今でも一押しの不朽の名著。でもこの本をことを知っている英語教師は少ないと思います。是非復刊してほしいものです。
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スノーデン 日本への警告 (集英社新書)
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エドワード・スノーデン,青木 理,井桁大介,金昌浩,ベン・ワイズナー,宮下紘,マリコ・ヒロセ
2017年4月18日、朝日新聞がようやく「パノプティプコン」を取り上げました。遅すぎますね。
これから先の日本社会は、ますます荒廃が進み、国民の不満が頂点に達し、やがて爆発します。それを未然に防ぐために、国は国民の監視を強化します。
実際アメリカでは「愛国者法」により、電子メールや携帯の通話履歴が監視の対象になっています。誰が、いつ、どこで、何を読んで、誰と通信を交わしたか、すべて国に筒抜けです。
「パノプティプコン」とはフランスの哲学者フーコーが用いた概念ですが、国民が刑務所の囚人のように監視される体制を言います。監視者の姿は見えませんが、囚人は監視者不在でも、監視を意識することによって管理統制されるのです。これを「パノプティシズム」と言います。
このシステムから解放されるためには、権力がどう管理・統制しようとしているかを知らねばなりません。この本はそれを知るための第一歩です。あなたが無知のまま、奴隷の人生を送りたければ、読む必要はありません。
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A.ミラー
アリスミラーのこの本は、塾を始めるきっかけになりました。ただ生活のためだけなら、他のことをしていたでしょう。『才能ある子のドラマ』とあわせて、当時の私には衝撃的な本でした。人生はどこでどう転ぶかわかりません。人間の奥深さを知ることで、何とか自分を維持していたのです。この本を読むと当時のことが、ありありと思い出されます。ある意味で、私の人生を方向づけた本かもしれません。
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NHK「東海村臨界事故」取材班

2月18日のブログでも書きましたが、仕事のために読むビジネス書の類は、最終的には効率を重視し、最小の資本と労力の投下で、いかにして最大の利益を上げるかということに尽きていると思います。そのための働き方改革であり、そのための賃上げです。そのための人心掌握術であり、顧客対応です。ビジネス書を読めば読むほど、人間は軽薄になり、視野が狭くなっていきます。もしあなたがそれを自覚するきっかけがほしいなら、是非この本を読むことを勧めます。読書はビジネスのためにするのではないということが分かると思います。この本は私たちの日常の風景を一変させるだけのインパクトを持っています。いわば、ことばの最高の意味における「闖入者」なのです。
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黒い巨塔 最高裁判所
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瀬木 比呂志
この本はまだ発売されていません。自分で読んでいない本を推薦するのは邪道でしょう。しかし、これまでの『絶望の裁判所』『ニッポンの裁判』(ともに講談社現代新書)に続く裁判所、司法批判の第3弾が長編の権力小説だということで、過去2冊の本の面白さからして、推薦に値する本だと思いました。『原発ホワイトアウト』の最高裁判所ヴァージョンだと思います。読んでからコメントを追加したいと思います。
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そして、僕はOEDを読んだ
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アモン・シェイ
学校なる場所に通っていた時、毎年夏になると課題図書を読んで、読書感想文を書かねばならないのが苦痛でした。課題図書の選定には学校と書店の密約があるに違いないと思っていたくらいです。

偶然巡り合った面白い本の感想を書くのならまだ我慢できたかもしれません。つくづく学校というところは、余計なことをしてくれると思ったものです。

あまりにめんどうくさいので、「あとがき」を参考に、あらすじを書いて提出したら、トリプルAをもらいました。

学校というところは、もしかしたら、人生の退屈に耐える訓練をする場所だったのかもしれません。この本を読んで、改めてそのことを確認しました。別に先生を責めているわけではありません。それほど自覚的に生きるということは難しいのだとため息をついているだけです。
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想田和弘監督の観察映画。音楽による演出は一切なく、徹頭徹尾監督の視点で撮られたドキュメンタリー映画。見終わった後、日本の選挙風土の貧困さが浮かび上がる。この国に民主主義はない、ということを改めて確認し、そこから出発するしかない。その勇気を持つ人には必見の映画です。合わせて『選挙2』もどうぞ。
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マックス ヴェーバー
ウェーバーの死の1年前、1919年、学生達に向けた講演の記録です。
一部抜粋します。

「自分が世間に対して捧げようとするものに比べて、現実の世の中が―自分の立場からみて―どんなに愚かであり卑俗であっても、断じてく挫けない人間。どんな事態に直面しても「それにもかかわらず!」と言い切る自信のある人間。そういう人間だけが政治への「天職」を持つ。」(P105〜106)

「さて、ここにおいでの諸君、10年後にもう一度この点について話し合おうではないか。残念ながら私はあれやこれやいろんな理由から、どうも悪い予感がしてならないのだが、10年後には反動の時代がとっくに始まっていて、諸君の多くの人が―正直に言って私もだが―期待していたことのまずほとんどは、まさか全部でもあるまいが、少なくとも外見上たいていのものは、実現されていないだろう。」(P103〜104)

10年後には、ワイマール体制は機能不全に陥り、1933年にはヒトラーが首相に就任します。

平和憲法は、日本人にとって310万人の命と引き換えに手に入れた唯一と言っていい理念であり、アイデンティティーでした。その唯一の誇りを、日本人は損得勘定で葬り去ろうとしています。言い古された言葉ですが、歴史は繰り返すのです。
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中沢 新一
小学校を卒業するころ、将来なりたい職業として思い描いていたのが、天文学者か生物学者でした。プロ野球選手は、自分のセンスでは無理だと悟りました。物ごころついたころから興味があったのは宇宙や昆虫や植物の世界でした。そんなわけで南方熊樟に出会うのは必然的な成り行きだったのです。人間は言葉によって世界を把握しますが、それ以外の把握の仕方があるはずだと、ずっと思ってきました。南方熊樟は、小林秀雄と同じく、直観による世界の把握の仕方を教えてくれました。この本は、言葉によって構成された世界秩序の外に出て、世界を改めて考えたい人に大いなるヒントをあたえてくれます。安倍政権によるゴキブリのフンのような、あまりにばかばかしい政治状況を見せつけられているので、精神の衛生学として一気に読みました。
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こどもの教育から裏金を使ったオリンピック誘致、原発再稼働、戦争準備から武器の売却、安倍政権の裏の権力としてメディアに絶大な影響力を行使する電通。私たちは電通が作り上げた「箱」の中でいいようにマインドコントロールされている。自分の意見だと思っていたものが、実はそう思わされていただけだということに気づかなければならない。音楽をはじめとする芸能情報、その中で踊らされるミュージシャンやタレント、果てはデザイン業界までを席巻する。今や電通の介在しないメディアはないと言ってもいい。利権あるところに電通あり、です。
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前作『日本はなぜ「基地」と「原発」止められないのか』に続く著者渾身の力作。自分の人生を生きたい人にすすめます。ただそれだけです。18歳で選挙権が与えらる高校生が政治を考える際の基本的なテキストになる日がくるといいですね。無理でしょうが。これ以上余計なコメントはしません。まず手に取ってみてください。
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メディアで取り上げられるよりはるか前から日本会議の存在について私は言及していました。電通と同じくタブー視するメディアには心底失望したものです。報道すればタブーはタブーでなくなるのです。何を恐れているのでしょうか。干されれば、何とか生活をする工面をすればよい。それだけのことです。
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帯に「祝祭都市にスタジアムはいらない」とあります。そもそも2020年まで天災と原発事故をやり過ごし、経済危機を乗り越えて存在しているでしょうか。極めて怪しいですね。偶然書店で手に取って読みました。彼の文章を読むと、建築は現世の権力に奉仕するものではなく、想像力の王国を作るものだと思わされます。建築にそれほど興味のない人でも、読めます。いや、いつのまにか引き込まれているでしょう。
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難関中高一貫校で学び、東大に合格しても、それはもはや知性のバロメーターではありません。この本に書かれていることが真実だと見破れることこそが本物の知性です。ニセの知性は既得権益を守るためにはどんな屁理屈でもひねり出します。おまえは何も知らないと言って他人を見下し、金と権力におもねるのです。ニセの知性は理想の灯を掲げることができません。「脳内お花畑」などという幼稚な言葉を使って揶揄するしかないのです。彼らの決まり文句は、他国が攻めてきたらどうするのかという、それこそ「脳内お花畑」的なものです。「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」とは、まさに至言です。
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私の元塾生の縁でお会いしたことのある烏賀陽弘道氏の渾身のレポート。事実を丹念に調べ上げ(これがジャーナリストの本来やることです)事実をして語らしめることのできる稀有なジャーナリスト。この本を読まずに福島第一原発の事故の本質に迫ることはできない。ダブル選挙の前に一人でも多くの国民が読むことを期待します。
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松岡正剛氏の本はどれも面白く、シリーズの千夜千冊を除けばほとんど読んでいます。『多読術』は、高校生にぜひ勧めたいと思います。高校時代に、この本を読んでおくと、さまざまな分野の知的見取り図を手に入れることができます。学校の授業だけではなく、この本を手掛かりにして知の荒野に歩みを進めてほしいと思います。
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安倍首相は「この道しかない」と言って消費税を上げ、集団的自衛権の行使を可能にする閣議決定をし、公約とは正反対のTPPを批准することで、日本の文化=アイデンティティーを破壊しようとしています。

もし私たちが生き延びたければ、そのヒントがこの本の中に書かれています。日本は超大国の「夢」を代弁するだけの国になってはなりません。
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山本氏の国会での質問を、本になって改めて読み直して感じることは、文字通り「みんなが聞きたい」質問をしてくれたということです。安倍首相が小学生に「なぜ政治家になったのですか」と質問された時、「父親も祖父も政治家をしていたからです」と答えていました。小学生相手に、何と言う悲しい答えでしょうか。語るべき理想を持たない政治家など、所詮は官僚に利用されるだけです。それに対して、山本氏には語るべき理想がある。「政治なんてそんなものさ」というリアリストが発散する腐臭を吹き飛ばすさわやかさがある。それは、彼の身体には収まりきれない理想が持つ力そのものです。彼は言います。「力を貸してほしい。少なくとも、あなたが必要だと思われる社会、私が必要だと思われる社会を作っていきたい。そう思うんです」と。日本の総理大臣にふさわしいのはどちらでしょうか。
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おそらく、日本人自身よりも海外の知識人のほうが、日本の問題を正確にとらえていると思わせる本です。読み終えて何気なくテレビを見たら、わが大分県選出の国会議員、岩屋毅氏と江藤晟一氏が、2016年ミスユニバース大分県代表を選ぶ催し物に出ていました。名誉顧問だそうです。いかがわしい宗教団体をバックに票を稼ぐだけでは飽き足らず、こんな大会に顔を出して名前を売ろうとする。大分市長の佐藤樹一郎氏も出席していました。このお三方は、こんなことをするために国会議員や市長になったのでしょうか。国民の税金を使ってやることといえば、テレビに出演してにやけた顔をさらすことでしょうか。もう物事の軽重が全く分かっていません。せめてこの本くらい読んではどうでしょうか。私はこの本に書かれていることの大部分に賛成です。
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蓮池 透
出版されてすぐ読みました。国会で、読んでもいないのに、安倍首相が躍起になって否定した事実が書かれています。蓮池氏はあちこちから人格攻撃の対象とされてきましたが、自分にも落ち度があったと認めています。自分は総理大臣なのだから落ち度はないと居直る人間とは好対照です。この本を読んで、拉致問題について今一度国民が考えることを望みます。
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渡邉 格
2年半ほど前に求めて、一気に読みました。マルクスの『資本論』の中に書かれていることを、著者が自分なりに消化し実践していく過程が書かれているので、一種のドキュメンタリー文学として読めます。きっと著者と同じ思いの若者は全国にたくさんいると思います。かけがえのない一回きりの人生を、充実して生きたいと思っている人に勇気を与える本です。
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スベトラーナ・アレクシエービッチ
今年度ノーベル文学賞受賞作品。チェルノブイリは言うまでもなく、フクシマでさえ人々は忘れたがっています。もう過去のことだと言い聞かせて。しかし、過去のことではなく、まぎれもない現在進行中の現実であり、私たちが生きている世界そのものです。この本を読んだ後、橋下徹が御堂筋をイルミネーションで照らし出し、F1カーに乗って写真を撮っているところを見ました。その時のセリフ。「大阪はここまでできる!」

もう何と言うか、別世界を生きている人間です。彼の発する言葉は文学とは無縁です。人間が言葉を持ったのは、言葉にしがたいものを言葉にしようとするためです。政治家が発する言葉の軽さと言ったらありません。それだけ現実も軽いものになったということでしょう。
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鈴木大拙の言わんとすることが、ようやくわかりかけてきました。年齢を重ね、日本文化の基底にあるものをじっくり味わうことで開示される世界があるのです。日々の生活に追われていては、この本を読み、味わう暇などないでしょうが、それだからこそ手に取ってみてはいかがでしょう。
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人間は、条件次第で、喜々として殺人を犯す。そして、その条件を整備しつつあるのが、安倍政権とその背後でうごめく『日本会議』である。このことに気づいていても、「配慮する」ことを最優先して報道しないメディア(特にNHK・読売新聞・産経新聞)。そしてそこに寄生する学者やコメンテーター、芸能人。このドキュメンタリー映画は、彼らの自画像である。たまには、自らの顔をじっくり眺めてみるがよい。
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ジョナサン・ハイト
私が長年考えてきた問題を解明するヒントになりました。ブログで書いたように、まず感情を基にした結論があって、それを正当化するために人は「知性」を動員するという、ごく当たり前のことが書かれている。つまり、知の粉飾決算報告書である。
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食う寝る遊ぶ 小屋暮らし (JUGEMレビュー »)
中村 好文
中村さんの著作の中では、個人的に最も好きな本です。読んでいるだけで楽しくなります。限りなく優しい、でも、痛烈な文明批評です。これからの生き方のヒントが満載です。それを一人でも多くの人と分かち合いたいと思い、中村好文論・その3の中で引用させていただきました。
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暮らしを旅する
暮らしを旅する (JUGEMレビュー »)
中村 好文
以下は私がアマゾンのレビューに投稿したものです。再録します。
「もし人に幸福な生き方があるとしたら、中村好文さんのような生き方だろうと、ずっと思ってきました。
建築雑誌をパラパラとめくりながら、ふむ、と思って手が止まると、そこには必ずと言っていいほど中村さんの設計した住宅がありました。
文は人なりと言いますが、その人の書く文章のエッセンスがこれほど見事に建築にも表現されている例はめったにありません。
建築に限らず、食の分野でも、ことばと実物の乖離がはなはだしい時代に、中村さんの設計した住宅や美術館に出会うと、どこか安心するのですね。
そういうわけで、著者の本はすべて読ませてもらっています。
この本も偶然、年末に本屋さんで手に入れ、装丁やカバーの手触りを楽しみながら読んでいます。
読みながらいつの間にかほのぼのとしている自分を発見します。
一日に一編か二編を過去の記憶をたどるようにして読んでいます。
この本の平明さ、やさしさがどこから来るのか。そんなことを分析するのは野暮というものです。
とにかくこの素敵な小さな本は、旅のお供にどうぞ!とすすめたくなります。」
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中村 好文,神 幸紀
中村さんの書かれた本はすべて読みました。どの本もおすすめです。これから家を建てようと考えている人は、どの本でもいいですから、一冊中村さんの本を読んでみてはいかがでしょうか。エッセイとしても十分楽しめます。この本は北海道にあるパン屋さんの建物を作りながら、人は「パンのみにて生きるにあらず」を実践したものです。ダジャレ好きの中村さんらしい(笑)。
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中村さんの本を全部は読めないという人向けに、一冊だけ選ぶとすればこれでしょうか。普通、設計したらそれで終わりという建築家が多い中、かってのクライアントを訪問して話を聞き、それを本にしたものです。クライアントといい関係が築けてないと難しいですね。加えて自信がないとなかなかできることではありません。
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佐藤ママの超絶「脳育」論。
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    今回も、脳が虚血性発作を起こしそうなタイトルで申し訳ありません。「脳育」などという言葉は私の語彙の中にはありません。しかし、お受験界隈ではいかにも出てきそうな言葉ですね。ある層の人には訴求力のある言葉なのでしょう。

     

     

     

    最初に断っておきますが、「脳育」などという言葉で子育てを語るメディアや親御さんとは、そもそも人間観や社会観が根本的に違うので、コミュニケーションは不可能です。実は社会の分断の根本的な原因は、こういう身近なところにあるのです。

     

     

     

    佐藤ママの本を読み、「これだ!」と思ったお母様方がランチしながら熱心に情報交換しているところを想像して下さい。彼女たちの幸福感がいびつであること、人間の全体性を無視して子供を幼少のころから受験サイボーグに仕立て上げようとする発想の貧困さには言葉がありません。「脳育」などという言葉は、この種のお母様方をターゲットにするためにおバカな出版社が生みだしたのです。

     

     

     

    彼女たちは差別化の道具として、学歴や年収や勤めている会社や住んでいる場所、はたまたどこの幼稚園出身かというようなモノサシを使います。最近はどこの塾に通っているかもプラスされているようです。やれやれ。

     

     

     

    人格が空洞化しているので自分に自信が持てず、絶えず他者と比較することで自分を維持しています。当然、比較のモノサシは計量可能な数量的・外形的なものにならざるを得ません。

     

     

     

    直接人と会って話したり、本を読んだりした後、自分の内部に生起した感情や知識と向き合うことで、人は自分というものがわかるのですが、その習慣が未形成なのです。おそらく、似た価値観の親に育てられたためでしょう。

     

     

     

    一方、地方に住み、ごくふつうに暮らしている母親たちは(都会の母親から見ればリテラシーの低い田舎者に映るのでしょうが)、学歴にこだわったりせずに、子供が自立する手助けをしようと、疲れている中、夕飯の支度をしたり、洗濯物を干したり、時には子供に八つ当たりしながら愛情込めて育てています。

     

     

     

    もちろん地方にも、何が何でも「県立トップ校」に合格させようと考えている母親もいます。都会に生息する「佐藤ママ」たちの価値観を内面化しているのです。

     

     

     

    下品なリバタリアン(オバタリアンではありません)である「佐藤ママ」たちは、学歴や年収が幸福のメルクマールであると考える新自由主義的な価値観に洗脳されています。ちょっと言い過ぎですね。洗脳という言葉が悪ければ、自ら様々な情報を入手し、それを取捨選択する中で子供の幸福にとってベストと考える進路を選択している、と言い換えましょう。

     

     

     

    でもエスカレートすると、中学受験にからんで子供の髪の毛をむしり取ったり、ナイフで刺し殺したりする親も出てきます。いや、これは極端な例でした。極端な例の背後には、その事件を生みだす下地が準備されている筈だと考えるのが、私の悪い癖です。私は世間の耳目を驚かせる事件よりも、海面下に沈んでいる氷山の方が気になるものですから・・・。

     

     

     

    本来、子供の養育は、日々驚きと喜びに満ちている最も生きがいを感じる行為のはずです。「養育」が「教育」になり、「教育」が「受験教育」になり、さらには「受験教育」が「脳育」になっていくのを加速させているのが「佐藤ママ」に象徴される価値観なのです。

     

     

     

    もちろんそれが素晴らしいことのように宣伝する塾や出版業界の罪は大きい。彼らは珍奇な受験ネタで消費者の関心を引き、生き残りをかけています。例えばプレジデント社、東洋経済新報社、ベネッセ、ダイヤモンド社、それに最近では朝日新聞社の『アエラ』も加わり多士済々です。

     

     

     

    今では事あるごとにそれをオンラインで配信しています。中身は相も変らぬ金太郎飴で、脳科学の知見や医学的根拠あるいは経済学的発想?を無理やり持ち込んで「エビデンス」と称して、さも根拠があるかのように喧伝しています。その具体例をお目にかけましょう。

     

     

     

    受験本の執筆で名を馳せた東大理三出身の精神科医・和田秀樹氏と「佐藤ママ」の対談です。タイトルは、「子供4人を東大医学部へ入れた主婦の脳育」です。出ました「脳育」!

     

     

    『プレジデントベイビー 0歳からの知育大百科 2019完全保存版』の掲載記事から一部抜粋しました。「佐藤ママ」のエスカレートぶりをとくとご覧下さい。

     

     

     

    【佐藤】私も家の中の知的な雰囲気は大切にしていました。身近なところに新聞や本を置いたり、読み聞かせをしたり。3歳までに1人につき、のべ1万冊の読み聞かせをし、のべ1万回童謡を歌って聞かせました。すごいでしょ?

     

    【和田】それはすごい!

     

    【佐藤】一緒にたし算の勉強なんかをしていると、「あれ、この子、7+8 が他の計算より 0,005 秒遅いわ」とか気が付くんですよ。その小さな違いが、のちのち大きな躓(つまず)きの原因になると思って、7+8 を何度も練習させました。,005 秒の違いに気付いてやれるのは親だけですから、一緒に乗り越えていけるようなやり方を探せばいいんです。やはり、子どもが勉強できないというのは、私は親のせいだと思いますね。親の努力不足。できないのはやり方が間違っているから。その子に合ったやり方を見つけてやれるのも親だけだと思います。

     

     

     

     

    あわわわ・・・。佐藤ママは子供が1歳になるかならないうちから公文に通わせ、3歳の頃にはバイオリンとスイミングも習わせていたそうです。子供が帰宅すれば「のべ1万冊の読み聞かせ」と「のべ1万回の童謡」が待っています。これでよく発狂しなかったものだと思います。私は立派な「児童虐待」だと思いますけど・・・。

     

     

     

    3歳までに「のべ1万冊の読み聞かせ」って、1日何冊になるんでしょうか。1年で3,333 冊。1日で約9冊ですね。しかも0歳児の時からですよ。日曜日も、クリスマスも、正月も関係なく毎日9冊!1日サボれば2日で18冊。一体どんな本を読み聞かせしていたのでしょうか。ぜひ知りたいですね。和田秀樹氏はこんな素朴な疑問すら抱かなかったのでしょうか。

     

     

     

    それにしても、1万冊の本をどこに収納していたのでしょうか。私はそのボリュームを想像できるのですが、3歳までの読み聞かせに適切な本を1万冊どうやって選んだのでしょうか。「佐藤ママ」の家は、かなり本格的な児童図書館なのでしょうね。

     

     

     

    「あれ、この子、7+8 が他の計算より0,005秒遅いわ」に至っては、何というか、シュール過ぎて言葉がありません。0,005秒って、どんなストップウォッチで計ったのでしょう。この0,005秒の差がのちのち大きな躓(つまず)きの原因になるような人生って、誰のどんな人生でしょう?もう頭がくらくらしてきました。余りのバカさ加減に。

     

     

     

    バカなのは「佐藤ママ」だけではありません。「佐藤ママ」の「すごいでしょ?」に「それはすごい!」と応じる受験本のカリスマ・和田秀樹氏も同類です。「佐藤ママ」は東大理三出身の精神科医に賛同してもらって舞い上がっています。和田氏も東大理三にわが子を4人合格させて注目された「佐藤ママ」に一目置いています。

     

     

     

    よくもこんな他者意識(誰に読ませるのか、その結果どのような影響をもたらすのか意識すること)のない対談ができるものです。身内意識でもたれ合っているだけです。この二人は東大理三を現世の教育界における最高神だと崇めることで正常な感覚を失くしたバカな大人に過ぎません。もはや平気でウソをついても誰からも批判されないだろうと、たかをくくっているのです。誰かにそっくりです。令和元年の日本のエリートたちの精神構造はここまでシュールになっているのです。

     

     

     

    もうやめにします。最後に和田秀樹氏に一言。あなたは以下のようなタイトルの本を出していますが「佐藤ママ」が「自分を平気で盛る人」だとは気付かなかったのですか?精神科医なのに・・・。あなたを信用できないのは、いい歳をしてこういう肝心なことに気づかない「お利口さん」だからです。

     

     

     

    この二人のバカな大人に対する本格的な批判は次回に回しますが、それは私自身の経験と真に知的な子どもを育てる方法を語ることになります。よければ、もうしばらくお付き合い下さい。

     

     

     

     

     

     

     

    アマゾンのレビューではこの二人の本を評価する人が多いのですが、そもそもまともな親はこんなタイトルの本に手を出しません。佐藤ママによれば、子育ては3歳までに「ざっくり」「ゆるく」「とりあえず」1万冊の本を読み聞かせ、1万回童謡を聞かせ、公文とバイオリンとスイミングを習わせるのですね。まともに相手をするのがアホらしくなります。

     

     

    | 教育 | 22:26 | comments(0) | - |
    カルト化する社会と教育−「佐藤ママにエールを!」のコメント主さんへ。
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      あなたのコメントに反論するのは気が重いですね。私の反論を読んでもあなたはまったく影響を受けないでしょうから。その点では「佐藤ママ」と同じです。影響を受けるためには多少の知性を必要とするのです。

       

       

       

      そもそも、あなたや「佐藤ママ」がどのような子育てをしようと、私にはどうでもいいことです。私は塾の教師をしていますが、「佐藤ママ」が4人の子供を東大医学部に合格させたと聞いても驚きません。受験というコップの中の世界では、情報とお金と子供に多少の素質(記憶力の良さ、計算力、高速事務処理能力など)さえあれば可能だからです。カルト化している塾・予備校を、カルト化した母親がうまく利用した結果に過ぎません。

       

       

       

      しかし、自分の子供がどこの大学に合格したかなどということは本来プライベートなことではないでしょうか。本を出版したり(『受験は母親が9割』など)、講演をして回ったりするのは、教養のある大人のできることではありません。下品な行いです。当然、講演を聞きに行く母親たちも下品です。

       

       

      彼女たちは、社会の空気を読んで、子供の市場価値と自分の存在価値を高めるために行動しているだけです。もちろん背後には、世間に承認されたいという欲求があります。

       

       

       

      「母親というものは、たとえ世の中がどんなに腐りきっていても、そこに適応するように子供を育てるものだ」とはゲーテの言葉です。昔なら恥ずかしくて言えなかったようなことも、今は露骨に勝ち組・負け組といった二分法を使って「本音」を歯切れよく、堂々と開陳しています。

       

       

       

      つまり、公共性という概念が欠落しているのです。公共性とは、簡単に言うと「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」(宮沢賢治)と考えることです。彼女たちが公教育をバカにするのももっともです。コメント主さんもその一人です。

       

       

       

      私はネットで「佐藤ママ」が出演していたテレビの録画を観ました。彼女の話し方、目つき、笑い方、反論の仕方を見て思うところがありますが、それに言及するのはやめにします。その番組の中で「佐藤ママ」がしきりに言っていたセリフがあります。「そんなことしている暇はないのよ」「効率が悪すぎるのよ」「無駄でしょ、そんな時間は」「18年間なんて、あっという間に過ぎるのよ」等々です。

       

       

       

      そのために18歳までは恋愛禁止、テレビも禁止、意味のない学校の宿題は親が代わりにやる、志望理由書も親が書いたものを写させる、とのことです。要するに子育てが東大医学部に合格するためという一点に絞られているのです。そのために最も必要なことは、効率的な時間の使い方だというわけです。

       

       

       

      私は時間について思索を巡らせてきました。そして時間と記憶こそがその人そのものだと書いてきました。コメント主さんや「佐藤ママ」の時間感覚は、直線的な時間、消費される時間に集中しています。スケジュールでびっしり埋まっているビジネス手帳に象徴されるような時間です。

       

       

       

      しかし、あらかじめ流れる方向が直線的に決まっている時間などというものは存在しません。あるところでは滞留し、逆流し、循環しています。時間はわたしたちの感情や価値観によって、短くもなれば長くもなるのです。直線的な時間は、人間を既存の秩序や序列に深く組み込みます。

       

       

       

      では誰が考え方や感じ方を支配するイデオロギーとしての時間の概念をわたしたちに植え付けたのでしょうか。この点を解き明かさなければ、親や教育産業が子供たちをドッグレースに駆り立てる社会はなくなりません。

       

       

       

      まず大きな枠組みから考えてみましょう。日本はもはや国民国家ではありません。国民国家とは国民を主権者とする国家体制のことです。主権とは国民の生命、財産、暮らしを守るための独立国家の権利です。それに対して、大企業と政府が一体になった国家運営体制をコーポラティズムといいます。コーポラティズムは、必然的に、国家の枠を超えた富の収奪システムとなります。

       

       

       

      原発や武器を海外に売りさばく人間たちは この収奪システムの先兵なのです。この体制下では政府と癒着した一部の大企業、なかでもその株主と経営者に富が集中して行きます。2018年の国際NGO「オックスファム」の調査によると、最も富裕な1%の人たちが世界の富の82%を所有していると言われています。

       

       

       

      この事態を積極的に支持したり、やむを得ないと考えたりするイデオロギーを新自由主義と言います。新自由主義こそが時間の概念を変えたのです。

       

       

       

      しかし、国民が反発すればこの体制はうまく機能しません。そこでうまく支配するために教育やマスメディアを使って個人や組織などに心理戦を仕掛けるのです。情報を計画的に活用・操作します。

       

       

       

      「佐藤ママ」やコメント主さんは、この心理戦にまんまと引っ掛かっているだけです。いや、今や国民の大部分が心理戦に敗北して、「こうしてはいられない」と自らを叱咤激励しながらドッグレースに参加しています。精神を病む人が多くなり、子供を虐待する親が後を絶たないのも当然です。いったいどうすればいいのでしょうか。

       

       

       

      新自由主義によって植え付けられた直線的な時間概念から部分的であれ解放される必要があります。もともと日本の文化には、「循環する時間」をテーマにしているものが多いのです。能や歌舞伎の曲目に見られるように、ほとんどが「転生」の物語です。「井筒」も「道明寺」も「松風」もしかりです。

       

       

       

      四季の巡りとともにある循環する時間は、悠久の時の流れに身をゆだねていれば、この瞬間がまた巡り来ることを信じさせます。だから私たちは何が起こってもそれを受け入れてきたのです。人間は生まれ変わる、再生するという世界観は人間の魂を根底から癒す力を持っていました。

       

       

       

      しかし、福島の原発事故がすべてを変えてしまいました。天変地異に限らず、何が起こってもそれを受け入れ、じっと耐え忍び、なかったことにする日本人の美点が、逆にこの国を滅びに向かわせることとなったのです。

       

       

       

      多くの国民は現実を直視せず、学校やマスメディアがたれ流す情報をうのみにし、私たちの社会があたかも「生きたいように生きる」ことができる自由な社会であるかのように錯覚します。

       

       

       

      救いは錯覚からは絶対にやってきません。目を開いてよく見れば、私たちの住んでいるところは「ぞぞ〜っとするほどの街(TOWN)」なのに、そこに住む新自由主義の落とし子である住人達は、宇宙に行くことを夢見ているのです。新自由主義がもたらした電脳空間の中で、私たちの脳=意識が地球規模に拡大した結果です。

       

       

       

      さて以下では、これまで述べたことを頭において、コメント主さんの批判に答えてみましょう。

       

       

      >村上春樹氏や宮崎駿氏と「佐藤ママ」を比べる唐突さが理解できません。「佐藤ママ」を批判するためのこじつけではないでしょうか。

       

       

      こじつけではありません。村上春樹氏や宮崎駿氏の作品のテーマは、傷つけられた無意識であり、転生であり再生なのです。それを日本文化の基底部を流れる循環する時間をヒントにして表現したものです。直線的な時間から離脱する人間が増えれば増えるほど、新自由主義的な世界に多くの穴が空き、その世界を維持することが困難になるとわかっている最も洞察力に富んだ同時代の作家なのです。

       

       

      村上氏自身の言葉で語ってもらいましょう。

       

      「僕が今、一番恐ろしいと思うのは特定の主義主張による『精神的な囲い込み』のようなものです。多くの人は枠組みが必要で、それがなくなってしまうと耐えられない。オウム真理教は極端な例だけど、いろんな檻というか囲い込みがあって、そこに入ってしまうと下手すると抜けられなくなる」

       

      「物語というのは、そういう『精神的な囲い込み』に対抗するものでなくてはいけない。目に見えることじゃないから難しいけど、いい物語は人の心を深く広くする。深く広い心というのは狭いところには入りたがらないものなんです」

       

      (毎日新聞インタビュー、2008年5月12日より)

       

       

       

      >あなた様が教える塾の隣に「佐藤ママ」の塾ができたとします。どちらが繁盛するか火を見るよりも明らかではないでしょうか。

       

       

      これは、あなたのおっしゃる通りです。「佐藤ママ」の塾が繁盛するに決まっています。塾商売とはそういうものです。ただこの点についても村上氏に語ってもらいましょう。

       

       

      以下は『1Q84』執筆の動機として地下鉄サリン事件について語ったものです。

       

       

      「ごく普通の、犯罪者性人格でもない人間がいろんな流れのままに重い罪を犯し、気がついたときにはいつ命が奪われるかわからない死刑囚になっていた —— そんな月の裏側に一人残されていたような恐怖」の意味を自分のことのように想像しながら何年も考え続けたことが出発点となった。そして「原理主義やある種の神話性に対抗する物語」を立ち上げていくことが作家の役割で「大事なのは売れる数じゃない。届き方だと思う」と述べています。

       

       

       

      「大事なのは売れる数じゃない。届き方だと思う」を、「大事なのは人数じゃない。学びの質だと思う」と、私は読み換えています。今の社会は、他人が作ったモノサシにばかり頼って「自分の中にあるものをちゃんと眺めてみる」ことを否定しています。

       

       

       

      さてもう終わりにします。「あなた様」のコメントを「読まさせていただき」「失礼かとも思いましたが、私なりの感想を書かさせていただきま」した。最近はやりの、こんな奇妙な日本語を読むのは一度で十分です。疲れるので、これっきりにして下さい。

       

       

       

      | 教育 | 14:55 | comments(0) | - |
      教育にまつわるここだけの話。
      0

        もうなんと言えばいいのか、この国の教育、とくに英語教育のバカバカしさには言葉もありません。国や文部科学省の言い分を聞いてみましょう。

         

         

        文部科学省官僚S氏。

         

        「自分たちはグローバル社会のなかで手をこまねいているわけではありませんよ、一応小学校の段階から英語を正規の教科にしましたし、4技能を身につけさせるために大学入試も模様替えする予定です。

         

         

        失敗に終わるだろうという声もありますが、まあ国がスローガンを打ち出すだけで、学校ではもちろんできませんが、何しろ人材も予算も時間もないわけですから、でも、そこはほら、民間企業(塾業界)がわれ先に英語熱を煽って生徒を確保しようと懸命になってくれますし、子どもが落ちこぼれたら大変ということで親は自腹を切って塾に通わせようとします。

         

         

        いやあ、本音を言えば、今時学校だけで教育ができるなんて考えている人はいませんよ。社会保障でも自己責任が叫ばれているでしょ。だから教育も自己責任というわけです。

         

         

        じゃあ国は何のためにあるのかですって?それはほら、政治家が戦争をあおったり、国有財産を二束三文で売り飛ばしたりして、税金をロンダリングして自分のふところに入れるためですよ。アベノミクスと称して紙幣を印刷しまくり、官製相場をつくって株価を上げれば、財界から金と票をもらえるというわけです。

         

         

        国民はそれほどバカじゃないとおっしゃるんですか?そうですかねえ。麻生財務大臣の記者会見を見ましたか?彼は会見で次のように言ったのですよ。「(佐川は)国税庁長官としても理財局長としても適任だが本人の申し出を許可した。併せて、懲戒処分減給3ヶ月にした。今後更なる懲戒の可能性も伝えた」と。

         

         

        この日本語分かりますか?適任なのに懲戒だと。国民がまともだったら、こんな支離滅裂な日本語を使う人間が財務大臣をしているのかと驚き、絶望するはずですよ。政権はとうの昔にひっくり返っていますよ。なんたって、「全体の奉仕者」である公務員を、自分の使用人のようにこき使っているのですから。

         

         

        森友問題は、いつの間にか財務省の問題になっていますが、財務官僚が自分の意思で公文書を改竄したり、削除したりして犯罪に手を染めたりするはずがないじゃありませんか。政治的な力がはたらいたのですよ。削除された文書の中に「本件の特殊性」とあるじゃありませんか。

         

         

        「特殊性」って何ですか。安倍総理夫妻の案件だということですよ。それが分からない官僚などいません。海に落ちた透明のガラス片を探すくらい難しいでしょう。その「特殊性」のために近畿財務局の職員が「自殺」したんですよ。それでも安倍政権は倒れないでしょうね。だって国民とカルト宗教団体が支えているのですから。おや、話がそれましたね。ついつい同じ公務員なので身につまされましてねえ。

         

         

        英語教育の話でしたね。で、大学入試も英語の4技能を向上させるために、民間試験を活用するということになっています。でも昨日3月10日に、東大が民間試験を使わないという方針を明らかにしました。入試に必要な公平性が担保できないというのがその理由です。東大が宣言してくれたので内心ホッとしています。

         

         

        こんなの、あたりまえですよ。よほどのおバカさんでなければ、これからは英検だTOEICだと騒ぎはしません。入試は何より公平でなければなりません。わけのわからない試験で合格したとなると、大学への信頼、ひいては存在そのものが否定されるのですから。

         

         

        例えば、東大の合否が親の年収で決まるとなれば、だれも東大を信頼しなくなります。むしろ軽蔑の対象になるでしょう。なんだ、東大はバカでも金持ちの坊ちゃんや嬢ちゃんなら行けるのか、というわけです。

         

         

        えっ、実態はすでにそうなっているですって。シッ。そんな大きな声で本当のことを言っては困ります。東大の実態がそうだと分かれば、そこに大量に合格者を出している高校も同じことになりますからね。だから、入試の公平性は教育に対する信頼性をつなぎとめる最後の命綱なのです。

         

         

        実のところ、東大をはじめとする難関大学に合格するには、学力だけでは足らなくなっています。家庭の環境や親の学歴といった「文化資本」が必要なのです。その結果、難関大学は富裕層の子どもに独占されることになります。格差はますます開くことになりますね。逆に、富裕層に見られたいという見栄のために子どもに勉強させるといった倒錯した親も出てきます。

         

         

        御存じないかもしれませんが、東大に合格するためのルートはすでに決まっているのです。特に私立の医学部に合格するルートは、親の経済力と、どこの医学部専門予備校・塾に行くかで決まっています。生まれた時から裕福で、高級ホテル並みの個室で手取り足とり教えてくれるような環境で入試を突破した医者にあなたは診てもらいたいですか。私なら二の足を踏みますね。

         

         

        これからはまともな医者は地方の国立大学医学部でしか育たないのではないかと危惧しているのです。ええ、これはもちろん私だけの考えですから間違っているかもしれません。

         

         

        というわけで、東大が合否判定に民間試験を使わないという方針を明らかにしたのは、試験の公平性こそが自分たちの存在を担保するものだと分かっているからです。これから風向きは変わりますよ。

         

         

        ここだけの話ですが、共通テストも民間試験も私たちの天下り先を確保するために考えだされものです。大学入試センター試験は、この国の未来を託すべき若者を、偏差値という線型の序列性の上に位置づけることで「分をわきまえさせ」、統治しやすくするための方法だったのです。

         

         

        いや、こんなことを言うと陰謀論だといわれるので、一つだけ言い訳をすると、「意図せざる結果の法則」というわけで、半ば偶然に、半ば意図して出来上がったというわけです。

         

         

        ここまで言えば、もうおわかりでしょう。大学入試センター試験も、それに替わる共通テストも民間試験も実は全く不要なのです。各大学が独自の試験をすればいいだけのことです。

         

         

        大学で学問をするためには、これこれの学力が必要だと思えば、各大学がそれなりの難易度の問題を作成し、志願者を選別すればいいのです。一昔前はそうしていたのですから。通分ができない大学生にはそれなりの問題を、高度な英語力が必要な学部はそれなりの問題を作ればいいのです。

         

         

        それができないのは、あまり大きな声では言えないのですが、入試問題を作れない大学が多いからです。それどころか、定員割れの大学は、入学(入園)していただくお客様をテストで選別するなんて、おそれ多いことでございます、と考えているでしょうね。しかし、入試をしなければ大学と認知されません。苦しいところですね。要するに、共通テストは、大学の大衆化に対応するものなのです。

         

         

        少子化が加速する今こそ、大学の再編のチャンスなのですが、そんなことを言おうものなら、金儲けのじゃまをするなということで「粛清」されるかもしれません。今や大学は学問をする所だなどと考えている人はほとんどいません。就職するまでの腰かけにすぎないのです。ノーベル賞をもらった京都大学の山中伸弥教授ですら、クラウドファウンディングでお金を集めなければならないのですよ。

         

         

        はっきりいいましょう。文科省に限らず、財務省でも他の省庁でも、自分の子どもは海外の大学へやると決めている人は大勢います。日本の大学に見切りをつけているんです。今日は少し余計なことをしゃべりすぎたかも知れません。ではまたお会いしましょう。」

         

        英語をめぐるバカ騒ぎ。

        http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=467

         

        | 教育 | 16:02 | comments(0) | - |
        ある兄妹のこと。
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          私の塾教師人生も第4コーナーを回って最後の直線に入ってきました。個性豊かな子供たちとの出会いがあり、思い返せば様々な出来事がありました。世間の片隅に埋もれるようにして塾稼業を続けてきましたが、ある意味、幸せな時間だったと思います。

           

           

           

          なぜなら、空前絶後のおバカ総理の発言に沿うべく、後から公文書を書き変えたり、削除したりして、懸命につじつま合わせをしなければならない財務官僚の心中を察すると、気の毒というよりも哀れをもよおすからです。私たちは事実上国家の崩壊に立ち会っているのです。

           

           

           

          これから日本を襲うカタストロフィーは、自然災害にとどまらず、経済的・文化的・道徳的な枠組みを破壊し、たたけばピーマンのようにパコパコ音のする頭を乗せた人間たちを大量に生み出すことでしょう。

           

           

           

          私は誰かの意図を忖度して生きることは、本来むなしい生をますますむなしくすると、人生の早い段階から気づいていました。そのせいか、多くの人が望むように一流企業に入ろうとも思わず、潜在的失業者として生きることを選択しました。

           

           

           

          自分がとるに足らない塾教師であればこそ、そこにやってくる子供たちも親も、なんらかしこまる必要もなく、むしろ見下すくらいの態度で接してくれます。「つまらなければ、他にも塾はあるのだから、やめればいいのよ」という親子のスタンスは、多少私の自尊心を傷つけはしますが、それと引きかえに、何ともいえない自由をもたらしてくれたのです。

           

           

           

          食うや食わずをがまんすれば、鬱になることもありません。塾教師にとって必要なのは、限られたリソースで生きていこうとする覚悟であり、精神の衛生学なのです。私には多店舗展開の塾をつくって儲けようという気などさらさらありませんでした。自分がやれる間だけやって、時期が来れば、里山にある空き家が人知れず朽ちていくように、やめるだけだと思っていました。

           

           

           

          そのせいか、幸せな出会いもありました。その中に、ある兄妹がいたのです。まず入塾の時、父親と息子を一目見て、ああこの親子となら通じ合えるにちがいないと思いました。その後、兄が妹を連れてきた時も、まったく同じでした。いつもお父さんがいっしょでしたが、塾教師として私がするべきことはあまりないだろうなと思いました。なぜか?

           

           

           

          「月謝という対価を払っているのだから、それに見合った効果を出すべきだ」といった雰囲気がこの親子には微塵もなかったからです。人間として学ぶ姿勢がすでにできているので、私の教えることを素直に吸収してくれるだろうと思いました。そしてその通りになりました。単純な事実ですが、教育ではやはり家庭が大きな比重を占めています。

           

           

           

          消費社会は人間の意識を等価交換と費用対効果というイデオロギーで染め上げます。その結果、今では色々なモノを子どもに買い与えられる家庭がいい家庭だとかんちがいされています。それを思うと、例外的な家庭であり、兄妹だったのです。

           

           

           

          そんなわけで、兄のK君は京都大学に合格し、妹のSさんは今年大分大学の医学部に合格しました。お父さんとSさんが挨拶に見えた時、私は思わずSさんの手をとり握手しました。なんといっても、7年間の付き合いでしたからね。私の娘のような気持ちがしたのです。本当はハグしたかったのですが、お父さんがそばにいるのでできませんでした(笑)。貸していた映画のDVDを返してもらい、よもやま話をしました。

           

           

           

          私がSさんを素晴らしいと思うのは、中央志向つまり東京志向がないところです。普通Sさんほどの学力があれば、中央志向、ブランド志向になるのがふつうです。自分の子供4人を全員東大の医学部に「合格させた」母親が脚光をあびるのが今の世の中です。

           

           

           

          Sさんはそういった世間の浮ついた風潮に迎合することなく、へき地医療にたずさわりたいと言います。これからは、小さな世界で等身大の生き方をすることが幸せにつながると分かっているのです。つまり、10年先を行っているのです。

           

           

          小さな世界で生きる幸福 ドラマ 『鴨川食堂』

          http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=107

           

          『鴨川食堂』という魂の救済場所

          http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=124

           

           

           

          ふりかえると、あっという間のようですが、K君もSさんも休むことなく7年間塾に通って来てくれました。私の塾を合格のために利用するのではなく、勉強することそのものを楽しむ場所だと考えてくれたのでしょう。感謝の言葉もありません。

           

           

           

          よく予備校や塾の宣伝文句で「みなさんは何もしなくてもいい。合格させるのは私たちの責任です。入試から逆算して今何をすべきか。それを教えます。」というのがあります。それに対して私がよく言うのは「合格したら僕のせい。不合格だったら君のせい。」です。

           

           

           

          何やらふまじめのようですが、続きがあります。

           

          「これは冗談です。僕は合格も不合格もすべて君たちにかえしてあげたいと思っています。かりに不合格だったとしても、僕には責任をとる術がありません。授業料をすべて返す、などというのは「結果」によって勉強してきた意味を無価値にする考え方です。懸命に努力しても不合格のこともあります。当然その逆もあります。かりに不合格であっても、そこから見えるものがあります。つまり、合格した人には味わうことのできない気持ちを味わい、見えない景色を見ることができるのです。だから、僕はおめでとうと言いたい。スポーツでも試験でも大切なのは負けた時の態度です。むしろそのために、スポーツや試験はあると考えた方がいいくらいです。金メダリストの陰には、何千人という挫折した金メダリストがいるのです。だから、Be a good loser! (よき敗者であれ!)

           

           

           

          今回の話はここまでです。読んでくれた皆さんにお礼申し上げます。いつもありがとうございます。

           

          | 教育 | 14:58 | comments(0) | - |
          滅び行く国の教育。
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            高校入試を控えた中3生の授業もあと1回を残すのみとなりました。国公立大学前期日程の入試も直前です。そこで、久しぶりに静かな土曜日、塾の宣伝を兼ねて(新高3生の授業は3月より開始です)英文法の解説をしようと思ったのですが、どうも気分が乗りません。政治のみならず教育の自壊現象を目の当りにして意気阻喪しているのです。

             

             

            そこでその原因と冷静にむきあうために言葉にしてみました。「思考ノート」の作り方を書いた責任がありますからね。

             

             

            その1:教育の自壊現象について。

             

             

            例の東京・銀座の中央区立アルマーニ小学校、じゃなかった泰明小学校の件です。報道によると、同小学校がイタリアの高級ブランド「アルマーニ」にデザインを依頼し、最大約8万円の標準服の導入を決めたことを巡り、同ブランドの日本法人「ジョルジオアルマーニジャパン」(東京)が、区教育委員会に対し、児童の安全確保などを要望する申し入れを行ったことが23日、同社や区への取材で分かった、とのことです。

             

             

             

            「標準服導入を巡っては、同小の児童らが登下校中に服をつままれるなどの嫌がらせが起きている。同社によると、申し入れは23日までに文書で行い、児童の安全確保のほか、標準服導入について保護者に改めて説明するよう求めたという。同社の担当者は「児童への影響が出ていることを懸念している。導入を巡る保護者の同意や理解を進めてほしい」と話している。標準服の販売店舗によると、23日現在、今春の入学予定者60人中54人がすでに採寸と入金を終えた。」ということです。

             

             

            ほらね。私が予想した通りのことが起こっています。

             

             

            それにしても、さすが「アルマーニ」です。児童に対するいやがらせが相次ぎ、傷害事件、誘拐事件に発展すれば、ブランドイメージに致命的な傷がつくことを懸念し、早々と手を打ったのです。イタリアの高級ブランドともなれば、危機管理の意識が高い。日本の公教育に指示が出せるのですね。「アルマーニ」がすごいのか、校長や区教育委員会がふがいないのか、どっちでしょう。

             

             

             

            本来なら、区教育委員会が校長を呼び、「あなたは公立小学校の校長であることを認識しているのか。公共心のある子供を育てることがあなたのやるべきことではないのか。子供たちがいやがらせをうけたり、事件に発展したりすれば、あなたは責任をとれるのか。すぐに撤回していただきたい。」と言うべきだったのです。

             

             

             

            でもそれは無理です。なぜなら、校長はアルマーニの制服の導入をめぐってすでに区教育委員会に相談をしていたのですから。区教育委員会のなかに見識のある人物がいればその時点で校長をたしなめていたでしょう。でもそれができなかった。理由はすでにブログで書きました。

             

             

             

            要するに、公教育は消費社会の象徴である「高級ブランド」に屈したのです。当然ですね。教育の最終目的はブランド学校、ブランド大学、ブランド職業に就き、人より少しでも多くかせぎ、人より少しでもいいモノを買うことになったのですから。

             

             

             

            消費に変わるオールターナティブな価値をつくりだせなければ、私たちの社会は静かに瓦解していくしかありません。私立はどうか、ですって?私立は、ブランドに屈するもなにも、ブランドそのものをつくりあげようと必死になっています。きっと「経営者」の頭の中は「ブランディング」でいっぱいになっていることでしょう。

             

             

            その2:政治の自壊現象について。

             

             

            報道によると、2月23日午前4時頃に東京都千代田区の在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)中央本部の門の前で男2人による銃撃テロが発生しました。警戒中の機動隊員が建造物損壊容疑で2人を現行犯逮捕。そのうち1人が右翼活動家の桂田智司容疑者で、もう1人も右翼団体関係者とみられています。

             

            桂田智司容疑者。

             

             

             

            私が批判したルーリーちゃんこと、国際政治学者・三浦瑠麗ちゃんが、大阪に北朝鮮の「スリーパーセル」というテロリスト分子が大勢潜んでいるというヘイトデマをテレビで流した直後に起こった今回の銃撃テロ。逮捕された容疑者は「スリーパー」どころか、拳銃で武装した極右テロリストでした。

             

             

             

            こんなイカれた差別主義者がいるのに、国を挙げて北朝鮮危機を煽り、テレビでデマを流して差別煽動すればどうなるか。まさしく関東大震災時の「朝鮮人が井戸に毒」のデマの後に朝鮮人虐殺が発生したことと同じ構図となったわけです。

             

             

            ルーリーちゃんは今回のテロを予想できなかったのでしょうね。彼女はネトウヨのマスコット人形にはなれるかもしれませんが、学者としては完全に失格です。

             

             

             

            これもすでにブログで書きましたが、ネトウヨ作家の百田尚樹というテロリストもいます。事実、彼自身がツイッタ―で公言しています。「もし北朝鮮のミサイルで私の家族が死に、私が生き残れば、私はテロ組織を作って、日本国内の敵を潰していく」と。しかも彼には少なからぬ賛同者がいるのです。

             

             

             

            ところで、第二次安倍政権が発足した直後の2013年、一人の女子中学生が大阪の鶴橋でヘイトデモに参加し、「いつまでも調子に乗っとったら南京大虐殺じゃなくて鶴橋大虐殺を実行しますよ」という虐殺予告のヘイトスピーチを行って、日本だけではなく世界中に衝撃を与えました。この女子中学生の父親こそが今回のテロ実行犯である桂田智司です。

             

             

             

            私は同じようなヘイトスピーチを撒き散らす大分市のY田ゼミ塾長を批判してきました。塾の教師であろうが学校の教師であろうが、教育を通じてヘイトスピーチをあおる人間を放置できなかったのです。この種の人間たちの過激な言説に眉をひそめる人も、自分たちの足元が徐々に切り崩されていることにはなかなか気づきせん。

             

             

             

            大事なのは経済だ。企業の国際競争力を高めることだ。裁量労働制は間違っていない。データが何だ。自分の考えが「正しい」ことはあたりまえだから論証などいらない。国会は単なるセレモニーに過ぎない。ついでに、国民主権、平和主義、基本的人権の尊重もじゃまだ。そんなものはインテリのへ理屈に過ぎない、というわけです。いやはや、教育とはおそろしいものです。

             

            | 教育 | 12:18 | comments(0) | - |
            バレンタインデーのチョコレートなんか・・・
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              皆さんは「教育」という言葉から何を連想しますか?「ウザい」「よだきい」「しちくじい」・・・これらは全部同じような意味です。あとの二つは大分県以外の人には伝わりにくいでしょうけど。でも、連想する「もの」ですから、形容詞ではなく名詞で答えてほしいですね。

               

               

               

              例えば「自由」「権利」「平等」「可能性」「愛」「公平」「文化」「歴史」「伝統」「国民」「知性」「教養」「貢献」などなど。でもこういった言葉を連想する人は、今は少ないかもしれません。

               

               

               

              それに代わって「商品」「費用対効果」「消費」「差別化」「階層」「特権」「選択と集中」「効率」「格差」「中学受験」「塾」「合格率」「自由競争」「グローバリズム」「自己責任」「義務」「親の経済力」「母親の狂気」「人格喪失」「子供の虐待」「いじめ」「自殺」と言った言葉を連想する人が多くなっている気がします。

               

              「母親の狂気」などいうおどろおどろしいものもまぎれこんでいますが、なんだか経済学っぽい言葉とマイナスイメージの言葉ばかりが並びましたね。

               

               

               

              前者の中には「公共性」を指向する言葉が含まれていますが、後者の語群からは「公共性」がきれいに消えて、自由競争やグローバリズム(この言葉の本当の意味を理解している者がなんと少ないことか!)という大多数の国民を犠牲にする「豊かな暮らし」を指向する言葉が並んでいます。

               

               

               

              でも、「豊かな暮らし」って何なんでしょう。「豊かな暮らし」のキーワードは「消費」です。消費は、いろいろな選択肢の中から好きなものを選んで買うことでした。それが自分自身の個性、社会的価値を示すものへと変わりました。すなわち、どれだけ高価な商品を買うことができるのかが、人間の社会的ステイタスを決めると信じられているのです。これはアメリカ的な価値観です。

               

               

               

              これを否定したり、まったく気にかけない人間は変わり者として消費社会からはじき出されます。働いて金を稼ぎ、それですきなものを買うことが自己実現だとすれば、働くことはお金を稼ぐ手段になってしまいます。つまりお金を稼ぐことが最終的な目的になるのですから、労働に価値を見出せなくなるのも当然です。

               

               

               

              そこで前々回のブログで書いたコロンボ警部の生き方を思い出してみましょう。高級車に乗り、高級な葉巻きを吸い、豪邸に住み、高級なブランドの服を着ることよりも、彼は刑事として働くことそのものが自己実現だと考えているのです。つまり、「消費に結びつかない自己実現」を実践しているのです。実は、日本人が真似しなければならないのは、コロンボの生き方なのです。

               

               

               

              これと関連して、このところいわゆる富裕層の子育てがどうしようもなく画一的で貧しくなっていると思います。その代表がこども4人全員を東大医学部に合格させた、例の「佐藤ママ」です。彼、彼女らの子育てはとても巧妙です。「いいかげんに勉強せんか!いつまでテレビ見ちょんのじゃ、ボケ!」というような下品なことは言いません。

               

               

               

              それどころか、判で押したように「勉強しなさいなんて一度も言ったことはありませんのよ」というのが、彼らのセリフです。あくまで「自主性にまかせる」というわけです。しかし、彼らはこどもを自分の所有物だと考えています。「自主性にまかせる」と言いながら、親の思い通りに育てています。そうすることがこどもの将来のためになる、社会にとって有用な人材になると思い込んでいるのです。教育とは、まず親がしっかりレールを敷いてやることだというわけです。何という貧しいこども観でしょう。

               

               

               

              考えても見て下さい。こどもの成長のしかたというのはそんなものではないはずです。はたから見ていると、何でそんなものに夢中になるのか全く分からないようなことに夢中になる。時間を忘れてただひたすら同じことを繰り返す。まわりのことなんかまったく気にせずに、ただただ自分の力を伸ばそうとする。自分はあんなこともできる、こんなこともできる、と感じられるのが嬉しくてたまらない。これから何になるかなんてわからない。でもわからないからこそ、何ものにも縛られずに自由奔放に生きている。こどもはいつだって予測不可能なものに成長していくのです。

               

               

               

              大人がそれを巧妙にコントロールし「善き方向」へと導く。そこで排除されるものは自由と偶然性に満ちた宝の山なのです。「佐藤ママ」が4人のこどもたち全員に、大学に受かるまでだったか、社会人になるまでだったか忘れましたが、「恋愛禁止」を申し渡していると聞いた時、「なに言ってるんだ、このババア(よいこのみなさんは決してまねをしないでね)、人間をなめるのもいいかげんにしろよ!」と、はしたなくも叫びかけました。こどもを受験という人工的な環境の中に囲い込むことによって実は社会の活力や可能性をそいでいることには気づいていないのです。

               

               

               

               

              ところで今日はバレンタインデーだそうです。コマーシャリズムにのせられて、若い女性たちがデパ地下でチョコレートを買いあさっている光景をよくテレビで見かけます。ここにもマインドコントロールされたアホな女性がうじゃうじゃわいていると思うと、悲しくなります。僕はバレンタインデーのチョコレートなんか欲しくありません。お返しが大変だから。

               

               

               

              娘たちにも、「お父さんはそんなものいらん!」と言っています。彼女たちの返事は毎年決まっていて「ハイハイ、わかっていますよ。心配しないでね」というものです。そう素直に言われると少しさびしい。

               

               

               

              で今日の午後、妻に「コーヒーいれてよ。ティータイムしましょうよ」と言われたので、居間に行くとテーブルの上に何やらプレゼントらしきものが並んでいるではありませんか。

               

               

              「まさか、バレンタインデーのチョコレートじゃないだろうな」

              「さあ、何でしょう。開けてみたら?」

              というわけで、開けてみると、これでした。

               

              ピエール・ルドンのチョコレート。

               

               

               

              チョコレート会社のくちぐるまにのりおってと、ぶつぶつ言いながら口に入れました。なんということでしょう。うまい!マジで。コーヒーと合う!さすがピエール・ルドンだけのことはある、と思いました。

               

               

               

              「あら、美味しそうじゃないの。チョコレートは嫌いだったんじゃないの?」

              「ピエール・ルドンかノドンかしらないが、北朝鮮のミサイルのような名前のチョコレートなんか、美味しいわけないだろ」

              「あらうれしい。じゃあ残りは私が全部もらうわよ」

              「ちょっ、ちょっと。そんなことしたら、せっかくもってきてくれた娘が悲しむよ・・・」

               

              | 教育 | 14:49 | comments(0) | - |
              刑事コロンボ VS 「アルマーニ」校長
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                突然ですが『刑事コロンボ』が好きでした。プロという言葉から連想するのが、コロンボ警部でしたね。トレードマークのよれよれのレインコート、くしゃくしゃの髪、その辺で拾ってきたような車に何のとりえもない愛犬を乗せ、安物の葉巻をくわえて殺害現場にやってきます。スキだらけの、さえない刑事を絵にかいたようないでたちです。ところが、ドラマが進むにつれて、この印象が180度ひっくりかえります。犯罪者の心理を洞察する力においてコロンボの右に出るものはない、と思い知らされるのです。

                 

                 

                 

                 

                このドラマは、それまでの刑事物・推理小説とは違って、視聴者や読者に最初に殺害シーンを見せ、犯人を教えます。知らないのはコロンボだけです。その結果、犯人が誰かではなく、コロンボが犯人を割り出すプロセスそのものがドラマの中心になります。そして犯人にぐうの音も出ないほどの証拠を突きつけて降参させる最終シーンにもっていく仕掛けになっているのです。

                 

                 

                 

                もう一つこのドラマを面白くしている特徴があります。犯人が例外なく大富豪や有名人、歌手やスポーツ選手、政治家や大学教授といったエスタブリッシュメントだということです。例えば、最終シーンで、高名な犯罪心理学者の犯人が「ところでコロンボ君、いつの時点で私が犯人だと気づいたのかね?」と訊くところがあります。

                 

                 

                 

                「はい。最初にあなたを見た時からです。あなたが犯人だと分かっていました。ただそれを証明するのに手間取りましてねえ。途中で万事休すかと思いましたよ。でも犯人が分かっているのにあきらめるわけにはいかない。それですべてが腑に落ちるある事実に気付いたというわけです。」とコロンボ警部。このシーンにしびれました。今のマスメディアや野党の政治家に聞かせてやりたい。

                 

                 

                 

                コロンボ警部は銃をもっていません。撃ち方も知りません。射撃の練習義務が課されていますが、いろいろ言い訳をして試射場にいきません。自分の仕事が何かよく分かっているのですね。人を殺すことではないと。これぞプロの中のプロです。

                 

                 

                 

                何だか前ふりが長くなってしまいました。いや、大したことを言いたいわけではありません。正直どうでもいいことを書くのに、嫌気がさしているのです。そう、例の「アルマーニ」問題です。

                 

                 

                 

                泰明小学校の和田利次校長(62)「アルマーニ」の標準服を独断で決めたことをめぐり、「銀座にある学校だからこそ進めてきたが、丁寧な説明をしながら進めるべきだった」と述べています。でも、新標準服の採用は「ご理解いただき、購入者側の判断で購入してほしい」「(採用する)手続きにおいて反省はあるが、非常識な判断とは思っていない。新一年生からこの服でやっていく。変える考えはない」と述べたそうです。

                 

                 

                 

                自分の独断で決めておいて、その責任をとるのかと思えば、「購入者側の判断で購入してほしい」って、責任の丸投げです。反省してないですね。しかも自分の判断は非常識ではないとおっしゃっています。結局「アルマーニの制服」が実質的には強制されるわけです。なんかこの手の釈明になっていない釈明、結局は自分の判断を押し通す手法はうんざりするほど見てきた気がします。

                 

                 

                 

                今度の件で私が最も違和感を覚えたのは、公立小学校がなんで「アルマーニ」なんだという「正論」に対してでした。

                 

                 

                和田校長は高額のため購入が難しい家庭がありうることを考えなかったのか。」と問われて「本校の保護者なら出せるのではないかと思った。泰明小でなければこういう話は進めない。価格が高いという苦情があることを聞いており、個別に相談に応じていきたい。」と答えています。気分はほとんど「私立」の校長に、何で「公立」が、しかもアルマーニ」なの?と言ったところで、現状を知らない理想論だと言われるだけです。

                 

                 

                 

                泰明小学校は銀座にある特認校で越境入学者が多い。保護者も経済力のある人がほとんどだ。「アルマーニ」の提案は受け入れられるだろう、と和田校長は踏んだのです。つまりたてまえ上は「公立」でも、実質は「私立」である。たてまえより現実に即した決断をしたつもりだ、ということでしょう。結局この問題は「公立」か「私立」か、ではなく、保護者の経済力が決め手になるのです。保護者は校長の判断を受け入れるでしょうね。

                 

                 

                 

                それにしても和田校長の発想は軽すぎます。以下にその例を挙げてみます。これでも名門小学校の校長が務まるといういい例です。

                 

                 

                例その1。

                 

                「アルマーニ制服」の導入を「服育」と称して重要な教育の一貫と位置付けている点。

                 

                 

                お兄ちゃんやお姉ちゃんのお下がりをつなぎ合わせ、大胆なデザインの服に仕立て上げることは「服育」にならないのか。ゴミ捨て場に捨てられている新品同様の衣類を再生することは資源の節約にもなるし、「服育」と言うなら、これこそが本当の「服育」ではないのか。成長ざかりの子供に「アルマーニ」を着せることのどこが「服育」か、と反論されることは考えなかったのでしょうね。

                 

                 

                 

                例その2。

                 

                「銀座の街のブランドと泰明ブランドが合わさった時に銀座にある学校らしさも生まれてくる。視覚から受ける刺激による「ビジュアルアイデンティティーの育成はこれからの人材を育てることに不可欠」であり、それがスクールアイデンティティーの育成にもつながる」と説明していること。

                 

                 

                 

                私はこの説明を聞いてひっくり返りました。どこがって?よく見て下さい。「ビジュアルアイデンティティーの育成はこれからの人材を育てることに不可欠」だと言っているんですよ。ビジュアルアイデンティティーなどとわけのわからない横文字を使っていますが、簡単に言うと「あっ、アルマーニの制服を着ている!泰明小学校の生徒だわ。」と認知されることをいいます。これのどこが「これからの人材を育てることに不可欠」なのでしょう。

                 

                 

                 

                アルマーニの制服を着ているわが子と銀座でショッピングなんてことを夢見ているお母さんお父さん!「アルマーニの制服を着ている子供の家庭はリッチにちがいない。誘拐すればたんまり身代金がとれるかも」と考える人間もいるかもしれませんよ。それに「ふん、公立のくせに私立のまねして、無理してアルマーニなんて、いかにも貧乏人の考えそうなことだわ」とバカにしながら嫉妬する親御さんの存在も無視できませんよ。おお、こわっ!

                 

                 

                 

                なりより、親がそういうことを望めば、子供は「ブランドの服を着ることで人より偉くなった気がする。人よりいいものを着るために、これからも一生懸命勉強しなくっちゃ」と考えるかもしれませんね。それが目的ですって?人を外見で判断したり、見下したりする子供に育てることがですか?

                 

                 

                 

                最後に、この校長が気の毒だと思う点。

                 

                 

                今や「教育=どの学校や大学に入れるかということ」は完全に「商品」だと見なされるようになりました。「商品」である以上、投入した対価に見合う「結果」が出なければなりません。投下資本はなるべく早く回収する必要があるのです。

                 

                 

                泰明小学校の校長は老舗の小学校が消費社会の中で埋没することを恐れたのでしょう。中学受験が近づけば、教室の半分がガラ空きになります。受験対策のために生徒が欠席するからです。

                 

                 

                 

                これは「公立」小学校の教育が「私立」に従属していることを思い知らされる瞬間です。かといって、欠席を認めないというわけにもいきません。和田校長も心中穏やかではなかったはずです。そこで思い付いたのが「アルマーニ」の導入だったというわけです。あちゃ〜。

                 

                 

                 

                教育がお金で売買できる「商品」である以上、それを売るためには他の商品と差異化・差別化しなければなりません。なぜなら消費者はその差異に付加価値を認め対価を払うからです。

                 

                 

                 

                和田校長はこういった市場の無形の圧力に立ち向かうべく、保護者から認められたいという思いと、ここらで尖ってみようという思いを胸に「決起」したのかもしれません。しかし、そのための方法がいかにも稚拙だったのです。これは私の意見なので大っぴらには言えませんが、こういう人間は「公立」小学校の校長をするべきではありません。

                 

                 

                 

                いい歳の大人が、いや教育者が、外形的なものでしか自己アピールできないとは情けないことです。刑事コロンボの爪の垢でも煎じて飲んでみてはいかがでしょうか。

                 

                | 教育 | 19:49 | comments(0) | - |
                見果てぬ夢 ・100年後の生存戦略−教育
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                  明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願い致します。

                   

                   

                   

                  元日の朝、ポストを覗いてみると、埼玉県の塾教師O君から年賀状が届いていました。成長した息子さんの写真の上に「3月から新しい環境で始動です。」とありました。川口市からさいたま市、七里へ教室を移すとのことです。風が吹き抜けるとても環境のいいところで、大工さんと相談しながら、教室をデザインしているそうです。いよいよ計画を実行する段階になったのですね。ここにも自分の居場所を懸命に作ろうとしている青年がいます。

                   

                   

                   

                  市場社会に軸足を置きながら自分の居場所を作ることは、大人でも実はかなり大変なことです。まして子供は大人の用意した環境に適応する他ないので、自分の居場所を作るどころではありません。学校を始めとして与えられた環境の中で何とか生き延びるのに精一杯でしょう。

                   

                   

                   

                  日本の学校教育は制度疲労を起こしていて、社会の急激な変化についていくことができません。当たり前ですね。相手は人間(子供たち)なので、決められた納期内に一定水準の品質をもった製品を大量に生産する工場のようなわけにはいきません。

                   

                   

                   

                  子供が成長するには時間がかかるのです。脳に電極をつないで知識や情報をインプットすることができたとしても、魂の成長には、自由と何ものにも奉仕しない時間が必要です。秋になって柿の実が熟すように、ただ待つしかないのです。待つ時間を奪われた子供は、知的には優秀でもいつまでも子供のままです。人間を成長させるのは知識ではなく魂の働きなのですから。

                   

                   

                   

                  100年後、日本の子供たちが生き生きと学び、活発に議論し、どんな境遇の子供も見捨てられることのない教育の場を作ることは可能でしょうか。戦争経済(原発もその一つです)を回し、国家の富を独占し、私物化して恥じることのない権力者たちを国民の力で排除すれば可能です。そのためには国民が民主主義の力を信じなければなりません。

                   

                   

                   

                  そのことを確かめるために、私は去年の11月始め、塾を3日間だけ休み、車を飛ばしてある場所へ向かいました。目的地は滋賀県近江八幡市にある『ラコリーナ』です。ラコリーナとはイタリア語で「丘」を意味します。

                   

                   

                   

                  『ラコリーナ』は、周囲の水郷や緑を活かした美しい原風景の中での、人と自然がふれあう空間づくりをコンセプトにしています。和・洋菓子を総合した店舗および飲食施設や各専門ショップ、農園、本社施設、従業員対象の保育施設などを設けるたねやグループの新たな拠点です。今年の1月9日でメインショップオープンから3年が経ちます。

                   


                  カステラショップ・フードガレージと次々に新しい店舗をオープンし、去年は260万人を超える来店者数となりました。

                   

                  http://taneya.jp/la_collina/

                   

                  メインショップ。向こうに見えるのは八幡山。

                   

                   

                  メインショップの中はカフェと店舗になっている。天井は漆喰に炭をはめ込んだもの。藤森建築の特徴です。とても柔らかい空間です。

                   

                   

                  メインショップを抜けると眼前に広大な田んぼが広がる。右側(画像では正面に見える)が本社。

                   

                   

                   

                  カステラカフェ。妻とお茶をして疲れをいやしました。

                   

                   

                   

                  なぜこの場所に向かったかというと、ブログでも書きましたが、以前よりヴァナキュラー建築に興味があり、縄文建築団を率いて活躍する建築家・藤森照信氏に注目していたからです。イタリア人の建築家でデザイナーのミケーレ・デ・ルッキ 氏が全体を構想し、本社やメインショップの設計を手掛けたのが藤森照信氏だったのです。

                   

                   

                   

                  ヴァナキュラー建築について、ウィキペディアの解説を見てみましょう。

                   

                   

                  引用開始

                   

                  「Vernacular」とは「土着の」あるいは「風土的」という意味である。1964年にバーナード・ルドフスキーが著した『建築家なしの建築』によってヴァナキュラー建築の概念は関心を集めた。ルドフスキーは職業的デザイナーである建築家によって建てられたハイスタイルな建築物を系図的にたどることで語られてきた建築史に対して、それまで無視されてきた無名の工匠たちによって造られた風土的建築物を紹介することで、建築芸術の新たな研究対象を提示した。

                   

                   

                  ヴァナキュラー建築は、それぞれの地域で産出する建材を使用して、その土地の気候にあったデザインを考慮して作られる点で、建築部材の全てが工場で生産され、現場で組み立てるだけの近代的な商業建築との大きな違いがある。また、ヴァナキュラー建築の世界では、長年繰り返された選択の蓄積として生まれた建築に必要なルールや知恵の多くは口伝や暗黙知として継承される。その知恵の体系は地域技術として普及し、それぞれの地域に同じような形態の建物が建てられ、風土色のある集落を形成している。

                   

                   

                  引用終わり

                   

                  以上でお分かりのように、『ラコリーナ』は、ヴァナキュラー建築をメインコンセプトにしているのです。

                   

                  田植えのシーズン。

                   

                   

                  秋の稲刈り。

                   

                   

                  田んぼの小動物観察クラブ。

                   

                   

                  奥にあるフードコート。

                   

                   

                  オレンジティーとシチリアのライスコロッケ「アランチーノ」をたべました。卵をトマト風味のライスで包んで揚げたもので、とても美味しかった。

                   

                   

                   

                   

                  新自由主義によるマネー経済の肥大化・加速化は人々を幸福にしません。新自由主義は人間そのものを尊重するのではなく、人間を「手段」とみなす世界観です。私はこの世界観に対抗できるものこそが、ヴァナキュラー建築だと考えています。さらに言えば、「ヴァナキュラー教育」こそ、日本古来の伝統や文化を復興させるものだと確信しています。

                   

                   

                   

                  『ラコリーナ』のしたたかなところは、市場経済を否定するのではなく、それを乗りこえる可能性を提示しているところです。市場経済を否定すると、最終的には自給自足を目ざす閉ざされた宗教集団のようになってしまいます。「消費」を否定せず、それを逆手にとって、新たな価値を示して見せる。これこそが賞味期限が切れた資本主義社会の先を生きるための処方箋だと思います。

                   

                   

                   

                  『ラコリーナ』をほぼ半日かけて歩きながら、私はこれが学校だったらどうだろうと考えていました。先入観を捨てて、この場所を学校にすることが可能だろうかと考えてみたのです。結論は可能だということです。

                   

                   

                   

                  この広い場所に、小学生から高校生までが通い、その土地固有の文化や伝統を学びながら、先端技術の基礎理論やデザインや建築を始めとして様々な教科も学べるようにする。幼稚園児や地域のお年寄りもやって来て、一年に一度盛大なお祭りや収穫祭を開く。

                   

                   

                   

                  子供たちを部活や宿題で縛るのではなく、自発的創造性にまかせて、宮沢賢治が言うように、農業を舞踏へと高めるのです。もちろん制服など不要です。そこでは100メートルを10秒で走る能力など必要とされません。アクロバティックな鉄棒演技も人間性を無視した集団演技で得点を競うことも不要です。ましてや国家の威信をかけたスポーツ戦士に子供を育てるなど論外です。健康で柔軟性に富んだしなやかな身体を持つ子供に育てればいいのです。

                   

                   

                   

                  まず『ラコリーナ』のような場所を各都道府県に一つ作る。それだけで私たちが無条件に順応するしかなかった教育システムが、いかに不要・不毛なもので満ちていたかが分かります。

                   

                   

                   

                  これからの日本は人口減少社会へと突入していきます。お年寄りと若者が手を取り合って生きていかねばならないのです。その時大人が利己的な発想で自分たちの利益を確保するのに精一杯だったとしたら、いったい誰が子供たちの居場所を構想するのでしょうか。

                   

                   

                   

                  私がここで考えたことは実現できます。決して見果てぬ夢ではありません。現に民間の会社『ラコリーナ』がそれを実現しています。必要なのはヴィジョンです。教育こそが、宇沢弘文氏の言を待つまでもなく、100年先を構想できる社会的共通資本なのです。

                   

                   

                  | 教育 | 21:57 | comments(0) | - |
                  2017年の終わりに。
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                    今年も残すところあとわずかとなりました。一年間、面白くもない、不愉快な内容が多かったブログですが、お付き合い頂いた方には心からお礼申し上げます。

                     

                     

                     

                    本音を言えば、私は政治などどうでもいいと思っています。この国がどうなろうと、アメリカが北朝鮮を攻撃して日本がその巻き添えを食おうが、それは仕方のないことだというか、自業自得だと思っています。日本人はそれを自ら招き寄せているのですから。

                     

                     

                     

                    ただそういった空気にどうしてもなじめない、生理的に順応できない自分を発見し、違和感を吐露せざるを得なかったのです。イデオロギーや宗教に胡散臭さを感じるのも、私の体質の問題でしょう。素朴に考えておかしいという感情から出てくるものこそが信頼に値するものです。そうは言っても、どこかで堪忍袋の緒が切れれば、その時点でブログはやめるつもりです。

                     

                     

                     

                    もともと、今の社会に自分の居場所などあるわけがないと思い、それなら自分の居場所を作るしかないと思って生きてきました。私が惹きつけられる人間の姿というか風情は、ことごとく自分の居場所というか精神のありかを自分で作って来た人たちでした。今は独裁主義に順応する生き方がもてはやされる時代です。いや、いつの時代も世の中とはそういうものかもしれません。

                     

                     

                     

                    思い返せば、そういった世の中や制度に対する生理的な違和感が私の中で頂点に達したのが、高校3年の時でした。卒業を間近に控えたある日、担任から「○○、お前は卒業アルバムを買わないのか。買わないのは学年でお前一人だぞ。」と言われました。

                     

                     

                     

                    「僕は上野丘高校に何の愛着もありません。空白の3年間でした。アルバムを買っても、懐かしくなってページを開くことはないと思います。」と私は答えたのです。その時の担任の表情は覚えていません。ただ「そうか」と言っただけでした。今となっては若気の至りというしかありません。

                     

                     

                     

                    その私が塾の教師になって、生徒を上野丘高校に送り出しているのですから、運命の皮肉というか、罰を受けているようなものです。ただ、罪滅ぼしとして、上野丘高校に最も欠けていたと思うもの(今もそれほど変わりはありません)を、英語を教える中で補おうと心がけています。

                     

                     

                     

                    ごく単純に言うと、それは今の社会をどうとらえ、どう生きるのかということと切り離して勉強などできないということです。「これほど基本的な事実について無知では、アメリカを始めとして世界の高校生と議論などできるわけがない。いや、議論というよりもコミュニケーションをとることすら不可能だ。英語以前の問題です。」と私はよく言います。英語教師であればなおさらこのことが気になるはずです。

                     

                     

                     

                    なぜそうなるのか。その背景には、「高校を卒業して大学に入り、大学を卒業して社会に出て初めて現実と向き合える。それまでは準備段階だから黙って受験勉強に励むべきだ」というイデオロギーがあります。それは、かけがえのない現実が今この瞬間にも進行中だということを忘れさせるのです。

                     

                     

                     

                    現実は今ここにあります。遠い未来にあるのではありません。社会のありようを政治や経済も含めて、あるいは税金の使い方や社会保障のあり方も含めて知ること。それを抜きにした勉強など、本来意味を持たないはずです。上野丘高校が劇的に進学実績を伸ばし、卒業生が懐かしく振り返る場所になるためには、世の中を知ることを含めて、今この瞬間を生きることができる世界で一番自由な場所にするしかありません。

                     

                     

                     

                    さてもうやめにします。私がこれまでの人生で習得したものは、新しい感情で満たされた日々を送るための技術です。一円のお金も生み出しませんし、自己満足と言われればそれまでかもしれません。しかし。それがなければ人生は無意味だと感じさせるものです。その技術を習得するためには、若い時から訓練を積まなければなりません。それは誰でもいい誰かの人生ではなく、自分自身の人生を生きるためのトレーニングなのです。

                     

                     

                     

                    今の安倍政権を見れば分かる通り、政治家は本質的に人間として下らない。まともに相手にする人種ではありません。それより、好きな人とデートする方がよっぽどましです。素敵なカフェに入ってコーヒーでも注文しましょう。しかし、そのコーヒー豆がどこから輸入されているのか、その値段を決めるのも政治です。たまには美味しいコーヒーを飲みながら、そういうことも話題にしてみましょう。

                     

                     

                    来年が皆さんにとってよい年でありますように!

                     

                    | 教育 | 20:44 | comments(0) | - |
                    ネトウヨ塾長とそれを礼賛する塾教師−教育の失敗と敗北について。
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                      安倍政権が登場してからの5年余り、今だけ、金だけ、自分だけといった空気を作り上げ、民主的な社会を破壊してきたのはネトウヨの皆さんの働きによるところが大きいと思います。

                       

                       

                       

                       

                      この間の社会の変化を見てきた前文部事務次官の前川喜平氏は、ネトウヨの皆さんを「教育の失敗」だと総括しました。まったくその通りです。それに対してネットでは「お前こそ教育の失敗だ」とか「週4回出会い系バー通いのおっさんに言われたくね〜よ」などという批判が寄せられています。やれやれ、あいかわらずネトウヨの親分の言うことをそのまま鵜呑みにしているのですね。

                       

                       

                       

                       

                      しかし、ネトウヨはまさに「教育の失敗」なのです。彼らの発想や行動には、理解できないものを憎むという生理が深く根付いています。歴史的な事実(例えばナチスによるホロコーストなど)を挙げて説得しても、それを捏造だと主張し、自分が理解できることだけが現実であるという歪んだ考えから抜け出ることができません。

                       

                       

                       

                       

                      彼らはお金をもらって「愛国」を叫ぶことしかできないのです。「日本スゴイ」だの「中国人、韓国人は悪い連中だ」「トランプさんに北朝鮮を叩き潰してもらおう」「安倍さんを応援しよう」「軍事費をもっと増やそう」などとSNSを通じてわめきちらします。しかし、彼らは企業や団体や特殊な宗教団体からお金をもらって、ウソを流すことに精を出しているだけです。

                       

                       

                       

                       

                      具体例を挙げましょう。言わずと知れた大分市中春日町にあるY田ゼミ塾長氏です。この際はっきりさせたいのですが、こんな人間が教えている塾に通ってはなりません。言論の自由すら全くもって理解していないのですから。彼が私と同じ個人塾の教師ではなく、学校の教師やコンプライアンスのしっかりした塾に勤めていたら以下の発言は許されるでしょうか。彼のツイッタ―から少し拾ってみましょう。

                       

                       

                       

                      ・山尾しおりは不正だろ

                       

                      ・大分高専はエロの集まりやな(^O^)欲求不満だらけなんだろう。

                       

                      ・谷口とかいう左翼のデブババアを朝からテレビに出すなよ(怒)吐き気がする。デブのくせしてアゴを上げて笑うな、デブ!

                       

                      ・早く北朝鮮を攻撃してもらいたい。

                       

                      ・早くこのデブジョンウンを殺して欲しい。

                       

                      ・これで安倍内閣の支持率がさらに上がる。

                       

                      ・憲法9条と叫ぶバカが多いが、憲法9条があっても日本を守ってはくれない。

                       

                      ・日本から先制攻撃していいんじゃないのか?

                       

                      ・民進党の代表は北朝鮮のスパイ

                       

                      ・早く民進党を叩きつぶせ

                       

                      ・トランプさん、 早く北朝鮮をtotally destroyしてください。

                       

                      ・青木理というジャーナリストは信用するな。こいつは北朝鮮や韓国の応援団だから。

                       

                       

                       

                       

                      こういった発言をする人物が「教育の失敗」でなくてなんでしょうか。思想信条とは関係なく、点数を上げてくれるなら教師としての資質を問う必要はないのでしょうね。月謝を払いその対価として成績が上がるなら、その他のことには目をつぶるのでしょうか。

                       

                       

                       

                       

                      これこそが消費社会が生んだコスパ万能主義の宿痾です。こういった考え方は学校現場のみならず保護者の間にも広く深く浸透しているはずです。

                       

                       

                       

                       

                      さらに、別人になりすますために独身であることを強調して塾紹介サイトを立ち上げ、その中で自塾を宣伝するといった手の込んだ「集客作戦」に打って出る、大分市田尻の学習空間LのK塾長のような教師もいます。

                       

                       

                       

                      あろうことか、このなりすましの塾長 K氏は、Y田ゼミを「子供がいたら是非とも通わせたい5つの塾」というタイトルをつけて推薦しています。5つの塾の中に未来塾も含まれていたので私は抗議しました。削除するつもりは全くない、自分のやったことは許容範囲だと強弁していたにもかかわらず、サイトは削除されました。なりすまし塾長K氏には、私の塾とY田ゼミの違いが理解できなかったのでしょう。私が親なら子供をこんな塾には絶対に通わせません。

                       

                       

                       

                       

                      なぜなら、こんな教師に教えられる子供は、現実そのものに関心を失い、ネットに依存し、命よりも消費と娯楽だけに関心がある大人になる可能性が高いからです。それが証拠にK氏は自分をゲーマーだといっています。そういう人間を大量に生み出していることに無自覚な人々が多くなっていることが「教育の敗北」なのです。

                       

                       

                      | 教育 | 00:43 | comments(0) | - |
                      知性ある人格はどうすればできるのか。
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                        学力と知性は根本的に違います。学力は人格と切り離すことができますが、知性は人格と切り離すことができません。またその話か、と思わないでください。ガンジーは「七つの社会的罪」の中に「人格なき学識」を挙げています。塾の教師をしながら私が考えてきたことは、たった一つのことです。それは知性ある人格はどうすればできるのか、ということです。

                         

                         

                        もしあなたが子育ての最中であれば、子供に生き延びてほしいと思うでしょう。いや、私たち自身も生き延びなければなりません。そうであれば私の話に少しだけ耳を傾けて下さい。

                         

                         

                        問題は「ただ生き延びる」ことではありません。大事なことは「どのように生き延びるか、そのためにはどのような学識を身につけ、それを誰のために使うべきか」という問いを発することです。

                         

                         

                        たかが塾の教師には重すぎる問いです。しかし、この問いに答えようとせず、ただ生徒の点数を伸ばすことだけに注力していたなら、私はとっくの昔に塾をやめていたでしょう。

                         

                         

                        試験に役立つ「情報」を生徒の頭にインプットし、条件反射的にそれを取り出して答案に書かせるような訓練ばかりしていれば、教える方も教えられる方も動物化するだけです。映像授業を見せて上前を撥ねるような仕事は、早晩AIに取って代わられるでしょう。

                         

                         

                        人格教育や道徳教育をせよ、というのではありません。それは私が最も忌避するものです。私が人格にこだわっているのは、それこそが知識に命を吹き込むために最も必要なものだと考えているからです。そのためにはどうすればよいのか。その答えを提示したいのですが、限られたスペースで書くのは無理なので、少しずつ書いていくことにします。

                         

                         

                        ごく大雑把に言うと、建築的発想と宇宙的発想、そして土に根ざした子育てを融合した、名付けて「風の谷プロジェクト」(もちろん『風の谷のナウシカ』からヒントを得ています)という壮大な、それでいて簡単に実現できるプロジェクトです。そのためには富裕税を1%導入するだけでいいのです。それで生じる80兆円の税収を財源に充てればできます。消費税を上げる必要もありません。

                         

                         

                        100年後、この国がまだ存在していて、人々が平和に暮らしているとすれば、このプロジェクトが成功した時です。それ以外の可能性は今のところない、と断言できます。

                         

                         

                        しかし、それに抵抗する人たちがいます。ガンジーが指摘した「七つの社会的罪」の中の「人格なき学識」「道徳なき商業」「人間性なき科学」の奴隷になって人格が空洞化した人間たちです。

                         

                         

                        具体的には、原発再稼働に前のめりになっている政治家や財界人たちです。彼らは、 所詮、バカな家来を引き連れた裸の王様に過ぎません。国民が賢くなればこの状況を変えることはできるのです。ガンジーは「すべての改革は少数派が多数派に反対する行動から始まっている」とも言っています。

                         

                         

                        今この国では、「人格なき学識」を身につけた人間たちが大手を振ってまかり通っています。中でも政治の世界の退廃ぶりは目を覆うものがあります。えっ、そうかな、日本はスゴイんじゃないの、と思っているなら、あなたには真実を見分ける「人格」がありません。知識はなくとも、「普遍的な感情」を持っていれば、この国のひどさに至るところで出会うはずなのです。

                         

                         

                        一つだけ具体例を挙げて置きます。

                         

                        「日本、2年ぶり最下位=教育への公的支出−OECD」

                         

                        経済協力開発機構(OECD)は12日、2014年の加盟各国の国内総生産(GDP)に占める教育機関への公的支出の割合を公表した。日本は3.2%で、比較可能な34カ国中最低だった。前年は33カ国中32位で、2年ぶりに最下位に転落した。特に、大学など高等教育に対する日本の公的支出の割合は英国の28%に次いで低い34%で、OECD平均(70%)の約半分。OECDの担当者は「授業料も高額で、家計負担が極めて大きい。奨学金などの公的支援により、才能ある若者が高等教育を受けやすいようにする必要がある」と指摘した。(2017/09/12-19:24)

                         

                        https://www.jiji.com/jc/article?k=2017091201092&g=soc

                         

                         

                        さて、最後に知性の本質について少しだけ補足しておきます。

                         

                         

                        本来「知性」とは、現状に懐疑的であり、現状の変更を求めるものです。その意味で、知性の本質は反逆的で反権威的なものにならざるを得ません。もしあなたが「現状」に100%満足しているのなら、何も変える必要はありません。つまり、知性は必要ありません。

                         

                         

                        しかし、そんな現実は存在しません。だからこそ、明日を今日より少しでも良くしたいと願うなら、問題点を指摘し、現状を変えなければなりません。その営みのすべてを「知性」というのです。知性が反逆的であるゆえんです。

                         

                         

                        もしあなたが、「知性」とは本来ダイナミックかつスリリングで、世界を変える力を持っていると信じられないのであれば、それはなぜでしょうか。その理由は、日本の学校教育を通じて、あまりに膨大な「やりたくもない、おもしろくもないこと」を義務として課されてきたからです。まともな神経の持ち主なら「やりたくないことからいかに逃げるか」「いかに義務を適当にごまかすか」に必死になるはずです。

                         

                         

                        膨大で無意味なことを長年にわたって課すのが、マインドコントロールの常套手段です。その結果「知性」について考える機会だけでなく、生命力すら奪い取られているのかもしれません。学力世界一のフィンランドを見て下さい。宿題を廃止してから子供たちの学力は伸びています。

                         

                         

                        日本の学校教育を通じて「知性」と初めて出会う日本の子供たちは本当に不幸です。「学力」という「知性の代替品」を配給されているだけなのですから。

                         

                         

                        考えても見て下さい。来る日も来る日も、ファミレスで同じ物ばかり食べさせられたら、子供が食や食文化に興味を持つようになるでしょうか。子供たちの歓声が響く彩り豊かな学校生活の中にこそ、「退屈」という精神的な危機が見え隠れしています。

                         

                        | 教育 | 15:56 | comments(0) | - |
                        日本の教育はマイナスの動機付けによって駆動されている。
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                          塾教師を始めて30年以上が経過しました。教育産業の底辺で定点観察をしている私の目にこの国の教育はどのように映っているのか、今回はそれについて少しだけ述べてみようと思います。

                           

                           

                          この国が質的に大きく変化したのは、敗戦を境にしてではなく、1980年代に高度情報社会・消費社会と大衆教育社会が実現した時期からです。これは日本人の意識だけではなく日本文化のDNA(エートス)をすら変えるラディカルな変化でした。

                           

                           

                          80年代の終わりから90年代の初めにかけて、現場の教師だけではなく、第一級の知識人や思想家たちが教育について論じていました。中でも小浜逸郎氏の『学校の現象学のために』は当時としては出色の学校論・文化論でした。埼玉県の高校教師・諏訪哲二氏の『反動的!―学校、この民主主義パラダイス』も洞察力に富む学校論でした。

                           

                           

                           

                          ひとことで言えば、サヨクの観念的学校論・教育論(子供は純粋無垢で、みんな学びたがっている、といったもの)に対する批判でした。その後、1995年に苅谷剛彦氏が『大衆教育社会のゆくえ―学歴主義と平等神話の戦後史』(中公新書)を著し、教師批判や学校批判が社会構造の基底部を無視した世間話のレベルを出ないことを明らかにしました。ちなみに、苅谷氏は現在オックスフォード大学の教授で、今年の7月に『オックスフォードからの警鐘 - グローバル化時代の大学論』 を著しています。

                           

                           

                          あれから四半世紀が経過し、教育論・学校論の思想的レベルはどうなったでしょうか。私の感覚では、壊滅的な状況だと言わざるを得ません。言うまでもなく、すぐれた教育論は社会制度批判・文化批判になります。すなわち、 すぐれた教育論であればある程、それは政治権力を批判することになるのです。現状を肯定し、とりあえず現政権を支持しておこうというような精神からは優れた教育論も教育実践も生まれようがないのです。

                           

                           

                           

                          では、どこがどのように壊滅的なのでしょう。大衆教育社会とは、学校教育と受験を通して同じ教育を受け、同じ条件の競争をくぐった以上、「努力した者が報われるのは当然という意識(メリトクラシー)」によって成立した社会です。メリトクラシーとは、生まれや身分によって地位が決定された前近代社会から、個人の能力と業績(メリット)によって地位が決定される近代社会への転換の必要性から生まれた概念です。

                           

                           

                           

                          もうお分かりだと思いますが、メリトクラシーこそが、塾だけではなく学校の存在を支えていたのです。特に日本の教育システムが制度疲労を起こしはじめていたとき、その外側でメリトクラシーのほころびを繕い、強化・先鋭化する役割を担っていたのが塾産業でした。

                           

                           

                          ところが今は、トマ・ピケティの指摘を待つまでもなく、富と情報が一部の階層に集中し固定化される格差社会です。平等主義的なメリトクラシーは、今や本音主義・差別(化)主義によって葬り去られようとしています。

                           

                           

                          その結果、日本の教育は、自己利益を最大化することに役立つかどうか、所属する階層を「それとなく」示せるかどうかという親たちの思惑によって動かされるようになりました。ここで言う「親たち」とは、弁護士や医師などのテクノクラート、官僚、大企業の執行役員、大学教師、情報という「商品」を売り買いするNHKをはじめとするマスメディアで働く社員などを指します。

                           

                           

                          彼らは自分たちの子供を公立の学校に入れたいとは思わないはずです。そんなことをすれば自己利益の最大化に役立たないだけでなく、下位の階層だと見なされる屈辱感に耐えなければならないからです。

                           

                           

                          つまり、日本の教育に対して影響力を持っている「親たち」の心理は、いったん手にした豊かさ、すなわち既得権益を手放したくないという、いわばマイナスの動機付けによっていろどられているのです。

                           

                           

                          マイナスの動機付けは、転落の恐怖によって支えられているので周囲の人間を皆ライバルだと見なすようになります。嫉妬と同じく、自分を向上させることよりも、相手をひきずりおろすことにエネルギーを注ぐようになるのです。

                           

                           

                          そうやって相手を傷つけたり人生を破滅に追いやったりしても、それを競争社会・格差社会のせいにします。「仕方がなかったんだ」「人生は厳しいんだ」とつぶやいて自己欺瞞を決め込みます。

                           

                           

                          結果、じっくり人生を考え、周囲の人間と協調して生きるなどというのは綺麗ごとにしか聞こえなくなります。悪くすると負け犬の遠吠えだとして、水に落ちた犬にさらに石を投げたりするようになるのです。もちろん、子供の知的成長を長い目で見守ることなどできません。アへ首相が言うように「結果がすべて」ですからね。

                           

                           

                          はじめに書いたように、私は日本の教育は壊滅状態にあると思っています。大学も例外ではありません。大学のありようとそこで働く教師たちの資質も含めて、これからも書いていこうと思います。

                           

                           

                          ただ、もし、あなたが「現状」にほぼ満足していて、何も変える必要がないと考えているのであれば、私のブログを読んでも得るものは少ないと思います。あなたは考えることも知性も必要としていないのですから。長くなるので今日はここでやめておきます。貴重な時間を割いてお読み下さった方に御礼申し上げます。

                           

                          | 教育 | 14:25 | comments(0) | - |
                          「先生は日頃から政治を語って」
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                            知性とは批判精神そのものです。歴史をさかのぼってそのありかを尋ね、現代の世界の知性から学んだ経験から言っているのです。私には、体制を批判しない知性など、ほとんど想像することすらできません。水が高いところから低いところへ、わずかな隙間さえあればそこを変幻自在に流れるように、知性もまた自由を求める人間精神の働きそのものです。

                             

                             

                            だから、ファシズムに対して自由を守るというような紋切型の言い方はやめた方がいい。安全地帯から発する言説は、力を持ちません。もし自由に何らかの意味があるとすれば、それは相手(特に権力を持っている者)が聞きたがらないことを、危険と不利益を承知で相手に告げる権利を意味するはずです。

                             

                             

                            この権利を最も勇敢に行使しているのが東京新聞の望月衣塑子記者です。それに対して官邸は東京新聞に「未確定な事実や単なる推測に基づく質疑応答がなされ、国民に誤解を生じさせるような事態は断じて許容できない」と厳重抗議しました。菅官房長官は、これが「報道の自由」に対する圧力だとは思わない人間だからこそ、アヘ政権のスポークスマンが務まるのでしょう。

                             

                            具体的に学びたい人は、以下の記事を是非ご覧ください。

                            http://lite-ra.com/2017/09/post-3428.html

                             

                             

                            しかし、この国では、特に若い人の間では、他者や社会制度を批判することをネガティブにとらえる傾向があるようです。その結果、国からの有形無形の支援が次々と切り捨てられ、不当な高値で政府が買う米国製兵器のツケまで背負わされている事実には無関心です。自分たちの生活が近い将来破綻する要因を自ら招き寄せているにもかかわらずです。

                             

                             

                            事実を確認したい方は、以下の記事をご覧ください。

                             

                            『米から高額兵器爆買い  安倍政権で“防衛費リボ払い”急拡大』

                             

                             

                            ≪安倍政権になってリボ払いはフル回転。防衛費の後年度負担は、民主党政権時代には3兆円前後で横ばいだったが、安倍政権になってからは右肩上がり。14年度に3兆6000億円を計上すると、15年度には4兆円を突破。来年度の概算要求ではついに5兆円を超えた》

                            https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/212993

                             

                             

                            にもかかわらず、ただ空気を読んで「デモに行ったり、批判したりするのはウザいし、カッコ悪いよね〜」で終わってしまう若者が大半です。それが日本の若者たちに特有な文化であることに気づこうともしません。日本の教育が「成功」した証ですね。つまり、知性が死滅し、それに代わって「学力」なるものがもてはやされる時代になったということです。

                             

                             

                            そして、「北朝鮮に対して断固たる措置を取る。米国と協調して圧力をかける」と息巻くアへ首相を支持する若者も多いようです。今この国は、全体主義が国民の側から生まれてくる歴史的プロセスの実験場になりつつあります。教科書からではなく、身を持ってそれを追体験できる絶好のチャンス到来というわけです。

                             

                             

                            でもそんな若者だけではありません。今年の8月26日、今から二週間前ですが、19歳の大学生の投書を読みました。『先生は日頃から政治を語って』というタイトルで、高校生時代を振り返って書かれたものです。重要なのは日常です。イベント化した日々の喧騒から距離を置き、日常を見つめ直すことでしか、次のステップに進めないのが人間です。「日頃から」という言葉の重みに思いを致すべきではないでしょうか。以下に引用します。

                             

                             

                                     

                            「若年層の政治的無関心や低投票率が問題視され、高校で主権者教育が進められている。学校で政治参加の重要性を教えることに異論のある人はいないだろう。しかし、本当に生徒の主権者意識を高めているだろうか。

                             

                             

                             私は主権者教育が生活や授業と切り離されて行われ、内容が選挙権の行使に限られていることが、最大の問題点だと思う。私の出身校では、教師が学年全員を前に投票の重要性について語った。しかし、これでは生徒が政治を身近に感じることはできないのではないだろうか。

                             

                             

                             普段から生徒たちに国会情勢や社会の動きについて話していなければ、投票に行けと言われても実感がわかない。「中立」であろうとするためか、自分の政治的意見を言わない教師も多い。そんな状況で生徒に自分の意見を持てというのは無理だ。

                             

                             逆に生徒に政治的関心を持ってほしくないのでは、とさえ思われる出来事もあった。高校時代、自転車に「アベ政治を許さない」と書いた紙を付けて登校したら、教師にとがめられた。政治参加の方法は選挙だけではない。生徒の意見表明を禁止するような学校で、主権者教育ができるのだろうか。教師は教科書をなぞるだけではなく、折に触れて政治の話をしてほしい。」(朝日新聞・声欄より)

                             

                            | 教育 | 13:49 | comments(0) | - |
                            幻想としての学歴の効用
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                              今の社会では、学歴とは出身大学のことを指すようですが、具体的に学歴はどのような力を持っているのでしょうか。今ここに東大卒で一流企業に勤めている青年と、 高校中退で町工場に勤めている青年がいたとします。若い女性から見てどちらが結婚相手として魅力があるでしょうか。


                               

                              例えば、高校中退の男性と付き合っていた女性が、東大卒の一流企業に勤める男性と出会い、そのライフスタイルや人脈の広さ、余裕のある生活に感嘆し、それまで付き合っていた高校中退の男性と別れたとします。


                               

                              しかし、背伸びをして付き合うことに疲れ、すべてを合理的な考えで割り切る相手の姿勢に違和感を覚えます。そして、自分に本当にふさわしいのは高校中退の彼だったと気づきます。そして彼のところへ帰ります。寛大な彼は「君を待っていた、きっと戻ってくると信じていた」と言います。


                               

                              これがドラマの最終シーンであれば、めでたしめでたしとなります。しかし、現実はドラマではありません。最終回の劇的なフィナーレはおとずれません。人生は続き、帰った翌日から生活が始まります。結婚し、こどもが生まれ、日々の生活はやりくりの連続となります。こどもの学校も近くの公立小学校以外の選択肢はありません。余裕のない生活からケンカの絶えない二人になります。


                               

                              そして、「ああ、あの時、東大卒の一流企業に勤める男性と結婚していたら、こんなみじめな思いをせずにすんだのに」と、女性は思います。


                               

                              つまり、学歴は、ありえたかもしれない物事のよい面だけを空想する女性(男性も)に、見果てぬ夢を提供する効用があるということです。



                              夢はいつか覚めます。そして、その夢が悪夢に変わることもあるのです。東大卒の一流企業に勤める男性と結婚していれば、自分が東大卒というだけで他人を見下し、子育ても費用対効果でソロバンをはじき、生活そのものが何かを達成するための手段とみなされていたかもしれません。最悪の場合、「結果を求められる」ことに疲れたこどもが反抗し、家庭が殺人事件の修羅場と化す可能性もあるのです。しかし、その可能性をすっぱり切り捨てるのが学歴の効用というわけです。


                               

                              人間は幸か不幸か、一度に二つの人生を生きることができません。自分が選んだ人生を引き受け、その中で伴侶を愛し、ともに苦労を重ねる覚悟をしなければなりません。要は、それに値する人を見極めることができるかどうかです。


                               

                              「結婚し、こどもが生まれ、日々の生活はやりくりの連続となり、学校も最寄りの公立小学校で、ケンカの絶えない二人になる」などということは、実はほとんどの家庭で起こっていることです。一見すると退屈で無意味な日常に見えるかもしれませんが、そういった生活こそが幸福の形なのかもしれません。「不幸な家庭はそれぞれに不幸だが、幸福な家庭はどこも似ている」と言ったのはトルストイです。3・11の東日本大震災と原発事故がこのことを教えてくれました。ひるがえって、平凡だけれど幸福な生活を支えていた基盤そのものが崩壊しつつあるのが今の日本の現実なのです。


                               

                              学歴の効用のもう一つの事例をあげてみます。



                              結婚が決まった若い女性に、結婚相手のことをしつこく尋ねるオバサンがいるとします。
                               

                              オバサン「ねえねえ、○○ちゃん、あなたの結婚相手はどんな人?」
                               

                              若い女性「そうねえ、スポーツマンで、音楽がすごく好きな人よ」
                               

                              オバサン「それだけじゃ、どんな人かわからないじゃないの。もっと詳しく教えてよ」
                               

                              若い女性「どんな人?う〜ん、そうだ!料理がすごく上手で、食材は近所でとれた、新鮮な野菜が一番だと言ってたわ。この間も近所のおばさんと野菜作りの話で盛り上がってたよ」
                               

                              オバサン「それだけ?どんな人かわかるエピソードはないの?将来性につながるような」


                               

                              若い女性「そういえば、3カ月ほど前、会社の上司とケンカして、辞表を叩きつけたそうよ。機械の安全性をチェックする精密機械を作っている会社なんだけど、ひどい手抜きをしているのに気づいて、それを社長に直談判したらしいの。それで、こんな会社で一生働くのは耐えられない、やめます!と言ったら、社長が、お前のようなはねっ返りはわが社にはいらない、と言ったんですって。辞めてせいせいしたと言ってたわ」


                               

                              オバサン「会社を辞めたって・・・。これからどうすんのよ。結婚するんでしょ!」
                               

                              若い女性「君一人くらい食べさせていけるよ。それに僕のバンドが今度デビューするから大丈夫だと言ってたわ」
                               

                              オバサン「○○ちゃん、あなた正気なの?現実はそんな生易しいものじゃないわよ。会社は辞める、バンドでデビューする?なんなのそれ。どうせ学校もろくに出ていない人なんでしょう」
                               

                              若い女性「学校って、学歴のこと?う〜ん、よく覚えてないな。彼そんなことには興味ないみたいだから・・・」
                               

                              オバサン「ほらごらんなさい。どうせ、ろくな学校しか出てないのよ」
                               

                              若い女性「あっ、そうだ。そういえばこの前彼の部屋に卒業証書があったけど、慶応大学工学部大学院って書かれてたわ。」
                               

                              オバサン「・・・・・」

                               

                              学歴の効用その2は、口うるさいオバサンを黙らせることができる、です。



                              いずれにしても、とるに足らない効用ですね。実存としての人間を深く見つめている人には、学歴は単なるワッペンでしかありません。ワッペンを人に見せびらかして自慢するのは、こどもか自分に自信のない大人と相場が決まっています。おっと、忘れていました。自分たちが国を守っていると勘違いしている軍人さんもそうでしたね。

                               

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