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《目次》
プロローグ
第1章 テレビマンとは何者か
第2章 大事なのは、誰と仕事をするか
第3章 表現とタブー
第4章 放送は常に未完である
第5章 世の中には理解不能な現実がある
第6章 ドキュメンタリーを、誰が求めているのか
第7章 「ダメモト」が表現世界を開く──〈司法シリーズ〉のこと
第8章 「ドキュメンタリー・ドラマ」とは何か
第9章 あの時から、ドキュメンタリーは閉塞した世界だった
第10章 題材は探すのではなく、出会うもの
第11章 組織の中の職人は茨の道
第12章 「わかりやすさ」という病
第13章 樹木希林ふたたび
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まず私たちの生命と暮らしを脅かす事実を知ること。それにたいしてどのような認識を持つのか。この国のみならず、世界を壊滅させる災厄とどう向き合うのか。次世代に対してどう責任を取るのか、そもそも責任を取れるのか。自分に何ができるのか。この現実にどう向き合うのか。それを教えるのが教育のはずだが、この国には教育も哲学も存在しない。
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小出 裕章,渡辺 満久,明石 昇二郎
原発よりもはるかに危険な六ヶ所村再処理工場。私たちの日々の生活が薄氷の上で営まれていることを痛感させられる。同時に、この国には「国民の生命・財産・自由を守り抜く!」と威勢のいいことを言う総理大臣と無能の政治家しかいないことに絶望する。核燃料サイクルと言い、下北半島の再処理工場と言い、3兆円以上の国民の税金がつぎ込まれ、いまだ後始末も将来の見通しもたっていない現実をどう考えているのか。彼らは核兵器を持ちたいという願望と税金をロンダリングして私腹を肥やすことしか眼中にない。北海道の地震だけに目を奪われてはならない。六ヶ所村は今回の震源地の目と鼻の先にあるのだ。
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D.J.ブーアスティン
私にとっては古典の中の古典。三度読みました。そしてその慧眼にいまだに驚いています。
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殺人犯はそこにいる (新潮文庫)
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清水 潔
ジャーナリストと称する職業がある。自称ジャーナリストもいれば、テレビのコメンテーターとしてリベラルに媚びる政権批判をし、名を売り、講演で稼ぐ職業をジャーナリストと呼ぶ者もいる。とんだ茶番である。ジャーナリストとはどこまでも「事実」を追いかける。テレビに出て能天気な解釈や感想を垂れ流している暇などないはずだ。ジャーナリストを志す若い人には清水氏の著作は避けて通れない。その名に値する本物のジャーナリストがここにいる。
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福田 直子
おそらく自民党・安倍政権はSNSを駆使し、分析するデータサイエンス(日本版なのでレベルはまだ低いですが)の重要性に着目し、選挙にどうすれば勝てるか、自分たちに有利な世論を形成し、国民を誘導・分断するにはどうすればいいのかが分かっているのです。そのためのノウハウも蓄積しつつあります。安倍首相の貧困な語彙力からは想像できないカタカナ言葉を聞いていると、それがSNSを分析している集団から教えられたものであることがよくわかります。ただ彼らの致命的な弱点は将来の社会を導く理想がないことです。おそらく、思いもかけない結果が待っていることでしょう。なぜなら、所詮、彼らはアメリカとビッグデータの奴隷でしかないのですから。これからの政治は、好むと好まざるとにかかわらず、この本に書かれていること抜きには語れなくなっているのです。
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安倍政権に対するメディアの忖度が云々されていますが、元々同じ穴のムジナなのです。忘れてならないのは、日中戦争から太平洋戦争にかけて、日本の世論と新聞のほぼ全部は好戦的・拡張主義的だったのです。しかも、当時はまだ言論統制体制が発足していなかったのです。この本は、そうした「一貫して好戦的な世論とそれに便乗する新聞」が先導し、近衛文麿はじめ文民政治家がそれに便乗、軍部がさらに便乗、という構図を一次資料で克明に論証しています。安倍政権を支持するネトウヨの皆さんの日本語力では、まともな読解は無理ですので勧めません。一方、正確な歴史を知るためには「世論」の不気味さを知ることだと気づいている若い人には是非一読を勧めます。
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茫漠の曠野 ノモンハン
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松本草平
著者は大分市にある『天心堂へつぎ病院』の院長、松本文六氏の御尊父、松本草平(本名松本弘)氏です。詳しくは、ブログで紹介したいと思いますが、第一次資料として極めて価値の高いものです。40年ぶりに復刻版を出された松本文六氏と出版社に感謝する他ありません。
戦略も何もない、無謀・無慈悲な戦争を語り継ぐことは、最も崇高で重要な人間の営為だと私は考えています。作家の司馬遼太郎氏は、電話で草平氏に次のように伝えてきたそうです。「先生の臨場感のあるノモンハン戦記に出会えて本当にありがとうございました。私は大東亜戦争の折、戦車隊の一員として従軍しましたが、先生の従軍記以上のものを創ることはできません。」と。
一人でも多くの方がこの本を読まれることを望みます。ちなみに松本文六氏は伊方原発差止め訴訟の原告でもあります。その縁で、この本に出会うことができました。
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「南京事件」を調査せよ (文春文庫)
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清水 潔
全国のネトウヨの皆さんへの推薦図書です。清水氏のこの本を読んでから、「南京事件はなかった!」「南京事件は捏造だ!」と叫びましょうネ。
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広瀬隆
広瀬氏をアジテーターだの、オオカミ少年だの、悲観主義に過ぎると言って批判する人がいる。しかし、ブログで何度も述べてきたように、真の悲観主義こそがマインドコントールによって奴隷根性のしみ込んだ私たちの精神を浄化してくれるのだ。そもそも無知では悲観が生まれようもないではないか。国などいくら破れても結構。せめて山河だけでも次世代に残そうと考える人ならぜひとも読むべき本である。いや、これから幾多の春秋に富む若い人にこそすすめたい。
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チャヴ 弱者を敵視する社会
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オーウェン・ジョーンズ,Owen Jones
【本書への賛辞】

「怒りが生んだ、最高の本」
──ガーディアン紙

最高の論争がみなそうであるように、知性に裏打ちされた怒りが本書を支えている。
──エコノミスト誌

暴動や世界中に広がったオキュパイ運動に照らして考えると、分断社会に関する著者の鋭い分析は、
不気味なほど未来を予知していたことがわかる。
──アートフォーラム誌

情熱と、思いやりと、すぐれた道徳性が結実した仕事だ。
──ニューヨーク・タイムズ紙

政治の定説を見直す大胆な試み。著者は戦後のイギリス史を縦横無尽に往き来し、
階級、文化、アイデンティティといった複雑な問題を軽々とまとめてみせ、
結果として「階級」問題に火をつけ、大きな効果をあげている。
──インディペンデント紙

いまの制度が貧しい人々を見捨てていることに対する苛烈な警告──それが本書だ。
──ブログサイト「デイリー・ビースト」

ジョーンズは、「地の塩」だった労働者階級が政治のせいで「地のクズ」と見なされるようになった経緯を見事に説明している。
──タイムズ紙

この本は、新しいタイプの階級嫌悪と、その裏にあるものを痛烈にあばいて見せてくれる。
──ジョン・ケアリー(The Intellectuals and the Masses著者)

これは「イギリスはおおむね階級のない社会である」という考え方への、論理的で情報満載の大反撃だ。
──オブザーバー紙

情熱的で示唆に富む……この声が届くことを心から願う。
──スコットランド・オン・サンデー紙
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紹介していない本が山のようにあります。数日前にこの本を本棚の奥から引っ張り出し再読しました。いや〜面白かった。。とにかくこの本のことを忘れていた自分が信じられない。読んでない人に熱烈に勧めます。ハイ。
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英語の実際的研究 (1969年)
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高校生にとって、今でも一押しの不朽の名著。でもこの本をことを知っている英語教師は少ないと思います。是非復刊してほしいものです。
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スノーデン 日本への警告 (集英社新書)
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エドワード・スノーデン,青木 理,井桁大介,金昌浩,ベン・ワイズナー,宮下紘,マリコ・ヒロセ
2017年4月18日、朝日新聞がようやく「パノプティプコン」を取り上げました。遅すぎますね。
これから先の日本社会は、ますます荒廃が進み、国民の不満が頂点に達し、やがて爆発します。それを未然に防ぐために、国は国民の監視を強化します。
実際アメリカでは「愛国者法」により、電子メールや携帯の通話履歴が監視の対象になっています。誰が、いつ、どこで、何を読んで、誰と通信を交わしたか、すべて国に筒抜けです。
「パノプティプコン」とはフランスの哲学者フーコーが用いた概念ですが、国民が刑務所の囚人のように監視される体制を言います。監視者の姿は見えませんが、囚人は監視者不在でも、監視を意識することによって管理統制されるのです。これを「パノプティシズム」と言います。
このシステムから解放されるためには、権力がどう管理・統制しようとしているかを知らねばなりません。この本はそれを知るための第一歩です。あなたが無知のまま、奴隷の人生を送りたければ、読む必要はありません。
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A.ミラー
アリスミラーのこの本は、塾を始めるきっかけになりました。ただ生活のためだけなら、他のことをしていたでしょう。『才能ある子のドラマ』とあわせて、当時の私には衝撃的な本でした。人生はどこでどう転ぶかわかりません。人間の奥深さを知ることで、何とか自分を維持していたのです。この本を読むと当時のことが、ありありと思い出されます。ある意味で、私の人生を方向づけた本かもしれません。
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NHK「東海村臨界事故」取材班

2月18日のブログでも書きましたが、仕事のために読むビジネス書の類は、最終的には効率を重視し、最小の資本と労力の投下で、いかにして最大の利益を上げるかということに尽きていると思います。そのための働き方改革であり、そのための賃上げです。そのための人心掌握術であり、顧客対応です。ビジネス書を読めば読むほど、人間は軽薄になり、視野が狭くなっていきます。もしあなたがそれを自覚するきっかけがほしいなら、是非この本を読むことを勧めます。読書はビジネスのためにするのではないということが分かると思います。この本は私たちの日常の風景を一変させるだけのインパクトを持っています。いわば、ことばの最高の意味における「闖入者」なのです。
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服従
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瀬木 比呂志
この本はまだ発売されていません。自分で読んでいない本を推薦するのは邪道でしょう。しかし、これまでの『絶望の裁判所』『ニッポンの裁判』(ともに講談社現代新書)に続く裁判所、司法批判の第3弾が長編の権力小説だということで、過去2冊の本の面白さからして、推薦に値する本だと思いました。『原発ホワイトアウト』の最高裁判所ヴァージョンだと思います。読んでからコメントを追加したいと思います。
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アモン・シェイ
学校なる場所に通っていた時、毎年夏になると課題図書を読んで、読書感想文を書かねばならないのが苦痛でした。課題図書の選定には学校と書店の密約があるに違いないと思っていたくらいです。

偶然巡り合った面白い本の感想を書くのならまだ我慢できたかもしれません。つくづく学校というところは、余計なことをしてくれると思ったものです。

あまりにめんどうくさいので、「あとがき」を参考に、あらすじを書いて提出したら、トリプルAをもらいました。

学校というところは、もしかしたら、人生の退屈に耐える訓練をする場所だったのかもしれません。この本を読んで、改めてそのことを確認しました。別に先生を責めているわけではありません。それほど自覚的に生きるということは難しいのだとため息をついているだけです。
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想田和弘監督の観察映画。音楽による演出は一切なく、徹頭徹尾監督の視点で撮られたドキュメンタリー映画。見終わった後、日本の選挙風土の貧困さが浮かび上がる。この国に民主主義はない、ということを改めて確認し、そこから出発するしかない。その勇気を持つ人には必見の映画です。合わせて『選挙2』もどうぞ。
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マックス ヴェーバー
ウェーバーの死の1年前、1919年、学生達に向けた講演の記録です。
一部抜粋します。

「自分が世間に対して捧げようとするものに比べて、現実の世の中が―自分の立場からみて―どんなに愚かであり卑俗であっても、断じてく挫けない人間。どんな事態に直面しても「それにもかかわらず!」と言い切る自信のある人間。そういう人間だけが政治への「天職」を持つ。」(P105〜106)

「さて、ここにおいでの諸君、10年後にもう一度この点について話し合おうではないか。残念ながら私はあれやこれやいろんな理由から、どうも悪い予感がしてならないのだが、10年後には反動の時代がとっくに始まっていて、諸君の多くの人が―正直に言って私もだが―期待していたことのまずほとんどは、まさか全部でもあるまいが、少なくとも外見上たいていのものは、実現されていないだろう。」(P103〜104)

10年後には、ワイマール体制は機能不全に陥り、1933年にはヒトラーが首相に就任します。

平和憲法は、日本人にとって310万人の命と引き換えに手に入れた唯一と言っていい理念であり、アイデンティティーでした。その唯一の誇りを、日本人は損得勘定で葬り去ろうとしています。言い古された言葉ですが、歴史は繰り返すのです。
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中沢 新一
小学校を卒業するころ、将来なりたい職業として思い描いていたのが、天文学者か生物学者でした。プロ野球選手は、自分のセンスでは無理だと悟りました。物ごころついたころから興味があったのは宇宙や昆虫や植物の世界でした。そんなわけで南方熊樟に出会うのは必然的な成り行きだったのです。人間は言葉によって世界を把握しますが、それ以外の把握の仕方があるはずだと、ずっと思ってきました。南方熊樟は、小林秀雄と同じく、直観による世界の把握の仕方を教えてくれました。この本は、言葉によって構成された世界秩序の外に出て、世界を改めて考えたい人に大いなるヒントをあたえてくれます。安倍政権によるゴキブリのフンのような、あまりにばかばかしい政治状況を見せつけられているので、精神の衛生学として一気に読みました。
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こどもの教育から裏金を使ったオリンピック誘致、原発再稼働、戦争準備から武器の売却、安倍政権の裏の権力としてメディアに絶大な影響力を行使する電通。私たちは電通が作り上げた「箱」の中でいいようにマインドコントロールされている。自分の意見だと思っていたものが、実はそう思わされていただけだということに気づかなければならない。音楽をはじめとする芸能情報、その中で踊らされるミュージシャンやタレント、果てはデザイン業界までを席巻する。今や電通の介在しないメディアはないと言ってもいい。利権あるところに電通あり、です。
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前作『日本はなぜ「基地」と「原発」止められないのか』に続く著者渾身の力作。自分の人生を生きたい人にすすめます。ただそれだけです。18歳で選挙権が与えらる高校生が政治を考える際の基本的なテキストになる日がくるといいですね。無理でしょうが。これ以上余計なコメントはしません。まず手に取ってみてください。
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メディアで取り上げられるよりはるか前から日本会議の存在について私は言及していました。電通と同じくタブー視するメディアには心底失望したものです。報道すればタブーはタブーでなくなるのです。何を恐れているのでしょうか。干されれば、何とか生活をする工面をすればよい。それだけのことです。
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磯崎新
帯に「祝祭都市にスタジアムはいらない」とあります。そもそも2020年まで天災と原発事故をやり過ごし、経済危機を乗り越えて存在しているでしょうか。極めて怪しいですね。偶然書店で手に取って読みました。彼の文章を読むと、建築は現世の権力に奉仕するものではなく、想像力の王国を作るものだと思わされます。建築にそれほど興味のない人でも、読めます。いや、いつのまにか引き込まれているでしょう。
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難関中高一貫校で学び、東大に合格しても、それはもはや知性のバロメーターではありません。この本に書かれていることが真実だと見破れることこそが本物の知性です。ニセの知性は既得権益を守るためにはどんな屁理屈でもひねり出します。おまえは何も知らないと言って他人を見下し、金と権力におもねるのです。ニセの知性は理想の灯を掲げることができません。「脳内お花畑」などという幼稚な言葉を使って揶揄するしかないのです。彼らの決まり文句は、他国が攻めてきたらどうするのかという、それこそ「脳内お花畑」的なものです。「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」とは、まさに至言です。
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私の元塾生の縁でお会いしたことのある烏賀陽弘道氏の渾身のレポート。事実を丹念に調べ上げ(これがジャーナリストの本来やることです)事実をして語らしめることのできる稀有なジャーナリスト。この本を読まずに福島第一原発の事故の本質に迫ることはできない。ダブル選挙の前に一人でも多くの国民が読むことを期待します。
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松岡正剛氏の本はどれも面白く、シリーズの千夜千冊を除けばほとんど読んでいます。『多読術』は、高校生にぜひ勧めたいと思います。高校時代に、この本を読んでおくと、さまざまな分野の知的見取り図を手に入れることができます。学校の授業だけではなく、この本を手掛かりにして知の荒野に歩みを進めてほしいと思います。
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カント
安倍首相は「この道しかない」と言って消費税を上げ、集団的自衛権の行使を可能にする閣議決定をし、公約とは正反対のTPPを批准することで、日本の文化=アイデンティティーを破壊しようとしています。

もし私たちが生き延びたければ、そのヒントがこの本の中に書かれています。日本は超大国の「夢」を代弁するだけの国になってはなりません。
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山本 太郎
山本氏の国会での質問を、本になって改めて読み直して感じることは、文字通り「みんなが聞きたい」質問をしてくれたということです。安倍首相が小学生に「なぜ政治家になったのですか」と質問された時、「父親も祖父も政治家をしていたからです」と答えていました。小学生相手に、何と言う悲しい答えでしょうか。語るべき理想を持たない政治家など、所詮は官僚に利用されるだけです。それに対して、山本氏には語るべき理想がある。「政治なんてそんなものさ」というリアリストが発散する腐臭を吹き飛ばすさわやかさがある。それは、彼の身体には収まりきれない理想が持つ力そのものです。彼は言います。「力を貸してほしい。少なくとも、あなたが必要だと思われる社会、私が必要だと思われる社会を作っていきたい。そう思うんです」と。日本の総理大臣にふさわしいのはどちらでしょうか。
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転換期の日本へ―「パックス・アメリカーナ」か「パックス・アジア」か (NHK出版新書 423)
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ジョン・W・ダワー,ガバン・マコーマック
おそらく、日本人自身よりも海外の知識人のほうが、日本の問題を正確にとらえていると思わせる本です。読み終えて何気なくテレビを見たら、わが大分県選出の国会議員、岩屋毅氏と江藤晟一氏が、2016年ミスユニバース大分県代表を選ぶ催し物に出ていました。名誉顧問だそうです。いかがわしい宗教団体をバックに票を稼ぐだけでは飽き足らず、こんな大会に顔を出して名前を売ろうとする。大分市長の佐藤樹一郎氏も出席していました。このお三方は、こんなことをするために国会議員や市長になったのでしょうか。国民の税金を使ってやることといえば、テレビに出演してにやけた顔をさらすことでしょうか。もう物事の軽重が全く分かっていません。せめてこの本くらい読んではどうでしょうか。私はこの本に書かれていることの大部分に賛成です。
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出版されてすぐ読みました。国会で、読んでもいないのに、安倍首相が躍起になって否定した事実が書かれています。蓮池氏はあちこちから人格攻撃の対象とされてきましたが、自分にも落ち度があったと認めています。自分は総理大臣なのだから落ち度はないと居直る人間とは好対照です。この本を読んで、拉致問題について今一度国民が考えることを望みます。
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2年半ほど前に求めて、一気に読みました。マルクスの『資本論』の中に書かれていることを、著者が自分なりに消化し実践していく過程が書かれているので、一種のドキュメンタリー文学として読めます。きっと著者と同じ思いの若者は全国にたくさんいると思います。かけがえのない一回きりの人生を、充実して生きたいと思っている人に勇気を与える本です。
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もう何と言うか、別世界を生きている人間です。彼の発する言葉は文学とは無縁です。人間が言葉を持ったのは、言葉にしがたいものを言葉にしようとするためです。政治家が発する言葉の軽さと言ったらありません。それだけ現実も軽いものになったということでしょう。
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人間は、条件次第で、喜々として殺人を犯す。そして、その条件を整備しつつあるのが、安倍政権とその背後でうごめく『日本会議』である。このことに気づいていても、「配慮する」ことを最優先して報道しないメディア(特にNHK・読売新聞・産経新聞)。そしてそこに寄生する学者やコメンテーター、芸能人。このドキュメンタリー映画は、彼らの自画像である。たまには、自らの顔をじっくり眺めてみるがよい。
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私が長年考えてきた問題を解明するヒントになりました。ブログで書いたように、まず感情を基にした結論があって、それを正当化するために人は「知性」を動員するという、ごく当たり前のことが書かれている。つまり、知の粉飾決算報告書である。
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食う寝る遊ぶ 小屋暮らし (JUGEMレビュー »)
中村 好文
中村さんの著作の中では、個人的に最も好きな本です。読んでいるだけで楽しくなります。限りなく優しい、でも、痛烈な文明批評です。これからの生き方のヒントが満載です。それを一人でも多くの人と分かち合いたいと思い、中村好文論・その3の中で引用させていただきました。
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暮らしを旅する
暮らしを旅する (JUGEMレビュー »)
中村 好文
以下は私がアマゾンのレビューに投稿したものです。再録します。
「もし人に幸福な生き方があるとしたら、中村好文さんのような生き方だろうと、ずっと思ってきました。
建築雑誌をパラパラとめくりながら、ふむ、と思って手が止まると、そこには必ずと言っていいほど中村さんの設計した住宅がありました。
文は人なりと言いますが、その人の書く文章のエッセンスがこれほど見事に建築にも表現されている例はめったにありません。
建築に限らず、食の分野でも、ことばと実物の乖離がはなはだしい時代に、中村さんの設計した住宅や美術館に出会うと、どこか安心するのですね。
そういうわけで、著者の本はすべて読ませてもらっています。
この本も偶然、年末に本屋さんで手に入れ、装丁やカバーの手触りを楽しみながら読んでいます。
読みながらいつの間にかほのぼのとしている自分を発見します。
一日に一編か二編を過去の記憶をたどるようにして読んでいます。
この本の平明さ、やさしさがどこから来るのか。そんなことを分析するのは野暮というものです。
とにかくこの素敵な小さな本は、旅のお供にどうぞ!とすすめたくなります。」
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『ここのね自由な学校』を応援する。
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    昨日、6月29日はうれしい日になりました。『ここのね自由な学校』の代表、山下浩二さんと会えたからです。

     

     

     

    数日前の夕飯の時、妻が「さっきテレビで豊後大野市にある何とか学校が紹介されてたわよ。あなたが塾を始めるときに考えてたような学校だった」

    「もしかしてオルタナティブスクールじゃなかった?」

    「そうそう、サマーヒルのような子供が自分でカリキュラムを作るような学校。あなたがいつも口にしてたし、実際に見学にも行ったから覚えてるわ」

    「その何とか学校の名前は覚えてる?」

    「う〜ん、何だったかなあ、ネコと関係あるような名前だった」

     

     

     

    ということで、食事の後ネットで調べて『ここのね自由な学校』だと分かりました。

    ネコとは関係ありませんでした。

     

     

     

    https://www.kokononeschool.com/

     

     

    https://www.facebook.com/kokonone.school/

     

     

    私は塾をやめたばかりで、机をはじめとして備品が余っていたので寄付したいとメールすると、わざわざ豊後大野から車で一時間余りかけて取りに来てくれたのです。長机4脚と椅子14脚、ホワイトボードを寄付することができました。

     

     

     

    主催者の山下浩二さんは24歳のとてもしっかりした人でした。私が知っている塾講師、たとえば学習空間Lのなりすまし塾長Kや例のY田ゼミ塾長とは似ても似つかぬ人間でした。その発想のすばらしさ、実行力はずば抜けていました。

     

     

     

    私が塾の閉業を決意したのと入れ替わるように、こんな若者が登場して来るとは・・・。感慨深いものがあります。38年前はPCも普及しておらず、ましてやスマホもない時代です。今はSNSで自分たちの活動を簡単に知らせることができます。隔世の感があります。

     

     

     

    私は3・11の原発事故が世の中を変えないはずがない、変わってほしいと思っていました。しかし、政財界のエライさんたちの発想と行動は反動と呼ぶしかないもので、オリンピックを含めてこの国を破滅へと導こうとしています。

     

     

     

    その背後で、こういった若者が、他者を批判するのではなく、自分のやりたいこと、できることに全力で取り組んでいることに私は感動を覚えたのです。

     

     

     

    私たちはただひたすら話しました。気がつくと一時間半余りがあっという間でした。私のような年寄りができることは経験を語ることくらいですが、子供たちのことを考えるならまず自分たちの生活基盤を整えることが何より大事だということ、子供たちのためという言いわけを純化して閉鎖的でカルト的な集団にならないように気をつけること等を話しました。

     

     

     

    そんなことはとうの昔に自覚しているという表情が心強かったですね。何より、豊後大野市の普通のおじさん、おばさん、お年寄りたちが輪の中に入っていることが素晴らしい。都会ではなく豊後大野市という里山の自然の中でスタートさせたことが可能性を広げています。

     

     

     

    こういったオールタナティブスクールがあちこちにでき、つながり、そこに世界を見てきた若者が集まる。人間は壊れやすい弱い生き物だということを根底にすえた新しい社会を構想する。私は山下さんと話したことで、わずかでも希望を持てたのです。

     

     

     

    ところで、私は今から6年前、ブログにコメントを寄せてくれたTさんに次のように書きました。「人間の人生なんて高々数十年です。現代人の身勝手な振る舞いのために、この里山文化の価値も風前のともしびですが、若い人たちがその価値を見直す時が必ずやってくると思います。」と。

     

     

    私たちはどこから来てどこへ行くのか。

    http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=93

     

     

    話は尽きませんが、この若者の試みを応援する人が1人でも多く出て来ることを願います。帰り際、採れたての卵をお土産にプレゼントしました。そして山下さんに以下の本を勧めました。

     

     

    上記の本は、これからの世界を構想するうえでヒントになる事例で満ちています。水槽の中で飼われ、絶えず他者の目を気にし、ポジション争いに明け暮れているメダカのような生き方をしている若者も、川に放流されれば元気を取り戻し、生き生きと生きるようになるのです。もちろん危険がつきまといますが、それでこそ人生です。

     

     

    最後に以下のニュースをご覧ください。

    大学院生16%借金3百万円以上 文科省研究所が全国アンケート(共同通信) https://news.yahoo.co.jp/articles/a1b0b

     

    こんな国を変えるのは、若者自身です。誰も代わりにやってくれません。そうではありませんか。

     

     

    | 教育 | 19:05 | comments(0) | - |
    あの子はああいう子なんです。
    0

       

      父の死後、二人の娘を連れて父の本籍地に帰ってきたのは、上の娘が小学校1年生の時で、下の娘は幼稚園でした。二人して片道2キロの道を歩いて通学していました。私は塾を始めたばかりで、収入はほとんどなく、失業者同然の状態でした。

       

       

      そんなある日、二人を迎えに行こうと村の外れで待っていると、ランドセルと幼稚園バッグを肩に掛けた二人が、蓮華の花が満開の田んぼの中をよろよろ歩いてこちらに向かってきます。その光景を見て、私は熱いものがこみあげてくるのをどうすることもできませんでした。親が勝手に決めた新しい環境の中で生きているけなげさというか、よるべなさが伝わってきたからでしょう。

       

      「ほら、パパ、蓮華の首飾り」

      「かわいいね。うまく作ってるじゃない」

       

       

      当時の私は、どういう塾にしようかとあれこれ考えている最中でした。学校の成績を上げるだけの塾なら、迷うこともありません。教科書を先取り学習し、予想問題を解かせればいいわけです。「成績上げなきゃ塾じゃない!」のですから。

       

       

      でもそれができませんでした。その当時の生徒たちとは、明日から期末試験という日に近くの神社に行ってかくれんぼをしたり、缶蹴りをしていたくらいです。

       

       

      そんな時に出会ったのが、前回のブログで紹介したA・Sニイルでした。以下の画像は私の書棚の一角にあるA・Sニイル著作集です。『問題のこども』『問題の親』だけカバーがありません。何度も読んでいたからです。もし子育てで迷ったり、自信を無くしている親御さんがいればぜひ読むことを勧めます。子育ては、親自身がもう一度自分の人生を生き直す試みなのです。

       

       

       

       

      私はサマーヒルを訪問し、それを日本で実現することはできないと思いました。なぜなら、サマーヒルはA・Sニイルあってのものだからです。教育はシステムの中でではなく、一人の個性ある人間との一回きりの出会いで実現できる僥倖だと考えているからです。

       

       

      A・Sニイルについてあれこれ述べることはやめにします。どうぞ各自でお調べください。彼は子供の個性を洞察し、それを丸ごと受け入れることのできる知性とユーモアを兼ね備えた余人をもって代えがたい人間だったのです。

       

       

      ニイルは世界各国から集まった様々な個性を持った子供たちを自由にし、「あの子はああいう子なんだ」と丸ごと受け入れたのです。これは簡単そうでなかなかできないことです。自分が丸ごと受け入れられているかどうかを最も敏感に分かっているのは子供自身なのですね。そんなことを考えていて、ある日本人作家が書いた短い文章を思い出しました。以下に全文引用します。

       

       

       

      「忘れられない言葉――あの子はああいう子なんです」


      ― 小学生の頃は憑かれたように毎日本ばかり読んでいた。どんなにボリュームのある本でも二十四時間以内には読んでいたので、家庭にある本ではとうてい足りない。幸い、通っていた小学校にはとても素晴らしい図書館があったので、その点では恵まれていた。昼休みに前日借りていた本を返しに行き、また新しく本を借りる。すぐに読み始める。帰るとすぐ読む。寝床でも読む。ここでたいてい読み終わるのだが、ときどき翌日に持ち越し、そういう場合は午前中の短い休み時間と、授業中先生の目を盗んで読み、昼休みまでには読み終える。テストのある日は嬉しかった。さっさとすませてあとは思う存分読んでいられるから。

       

      その日のテストもいつものように「さっさとすませて」本の続きに没頭していた。すると教室の後ろのドアが開き、数人のいかにも視察に来たといった風情の恰幅のよろしい方々が担任に案内されてきた。そのうちの一人が何か耳打ちしたらしい。担任の晴れやかな声が聞こえた。

      「ああ、あの子はああいう子なんです」

       

      私は異様に敏感な子だったので、この一言で、テスト中に本を読むという行為が人に不審を抱かせるらしいということ、そして担任が私のことを信頼し、かつその異端ぶりを誇りにすらしてくれているらしいこと等を瞬時に悟った。丸ごと受け入れられている感覚。あれはいいものだったと今でも思う ―

       

      (梨木香歩著『やがて満ちてくる光の』P190〜191より)

       

       

       

      | 教育 | 14:50 | comments(0) | - |
      育ちゆくものを育てる。
      0

        以下の記事はブログを始めて間もないころのものです。子供たちとこんな交流ができたらいいなあと思いながら書きました。本当に知的な大人とは、この記事の中に出てくる自然観察指導員の田原さんのような人だと思います。以下に再掲します。

         

         

        閑話休題

         

        政治ネタばかりで、私が書きたい記事が書けません。でも、ネットで何だかほのぼのとして、しかも感動する記事を見つけました。私がこどもたちに身につけてもらいたいと思っている発想や行動力が、小学校6年生の村田結菜ちゃんによって、生き生きと、しかも、いかんなく発揮されています。

         

         

        この記事を読むと、自然観察指導員の田原さんの存在が大きいですね。子供の好奇心に寄り添い、決して出しゃばらず、同じ目線で考える。それにしても、結菜ちゃんの観察力には脱帽です。

         

         

        子育ての極意は、子供をじっくり観察することです。観察し、待つ。子供を鋳型にはめるのではなく、育ちゆくものを育てる、という姿勢こそが親子ともども幸福になる秘訣ではないでしょうか。都会のタワーマンションで暮らす子供たちは気の毒です。やっぱり子供は自然の中で生活して賢くなるのです。以下の記事をどうぞご覧になってください。

         

        http://dot.asahi.com/dot/2015050800037.html

         

         

        元記事は以下です。

        http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=106

         

        | 教育 | 11:23 | comments(0) | - |
        「失敗した子育て」について。
        0

          怒りで言葉を失い、天を仰ぐことが最近多くなった気がします。怒りと言っても義憤・公憤(indignation)の類です。歳のせいかとも思うのですが、怒りで言葉を失うのは私の精神がまだ若い証拠かもしれません。

           

           

          とりあえず 『週刊文春』2020年3月26日号・森友スクープ全文公開#1をお読みください。

          https://bunshun.jp/articles/-/36818?utm_source=twitter.com&utm

          _medium=social&utm_campaign=socialLink

           

           

          長い間塾教師をしてきて気づくことがあります。それは知性の土台である批判精神と怒りが社会から消えたということです。この二つが歴史を動かすモーメントなのですが、それがなくなるということは歴史が消失していることを意味するのかもしれません。

           

           

           

          子供たちは全く質問をしなくなりました。午後10時に授業が終わりその後2時間くらい質問攻めにあうという時期もあったのです。親御さんが心配して電話をかけてきたこともありました。

           

           

          まず疑問を抱く。次に解決法を探す。その過程で疑問が正当なものか、根拠があるかどうかを再点検(これが私の仕事です)して答えを探し続ける、というサイクルが消失したのです。

           

           

          今ほとんどの子供たちは「成績を上げる」ためのコツや「差をつける」テクニックをただひたすら頭に詰め込む自動機械になっています。優秀で精密な自動機械になればなるほど親から称賛されるというわけです。

           

           

          ブログで何度も書いてきましたが、何よりも結果が求められる社会(私はクソ社会と呼んでいます)の中で自動機械になった大人は、その人格の空洞を満たすためにより上位の権力とつながろうとします。大人たちの劣化した感情の発露としての幼児性を目にすると「失敗した子育て」という言葉が浮かぶのです。何を偉そうに言ってるんだ、他人を批判する資格がお前にあるのか、と言われそうですね。

           

           

          こういう短絡的な批判をする人には、いくら言葉を尽くして説明しても無駄なので、「失敗した子育て」の典型をお見せしようと思います。

           

           

          一昨日の参院予算委員会で福山哲郎議員は森友事件で自殺に追い込まれた近畿財務局の赤木俊夫さんの遺書に新しい事実があることを指摘し、再調査をするように安倍首相を問いただしました。

           

           

          その中で、福山議員は「安倍首相は、2017年2月17日の国会の発言で改ざんが始まる原因をつくりました。(中略) この2人(麻生太郎氏、安倍晋三首相)は調査される側で、再調査しないと発言する立場ではないと思います」とする赤木さんの妻のコメントを読み上げ、「真相究明に改めて乗り出すと決意をいただけませんか」と安倍首相に要望したのです。

           

           

          赤木俊夫さんの遺書

           

           

           

          それに対して安倍首相は、「総理答弁が決済文書改ざんのターニングポイントとなったとは、赤木さんの手記に書かれているのではないと改めて申し上げておきたい。これは週刊誌の記事において記載されているものと承知している」と主張して次のように言い放ちます。

           

          「奥様がそういう発言をされたというのは今初めて承知をしたところでございますが、改めて申し上げますが、これは赤木さんが手記で書かれたことではない」と。

           

           

           

          「総理答弁が決済文書改ざんのターニングポイントとなったとは、赤木さんの手記に書かれていない」のだから、赤木さんの自殺と自分の発言は無関係だと言い張るのが、わが国の総理大臣です。そんなことを書けるはずがないのは小学生でもわかることです。

           

           

          さらに赤木メモには「特捜検事が来ても、5日前の人事で担当者は全員異動してしまい、示すべき資料は何もない。私が知らない間に全部処分されていた」 と書かれています。赤木氏は土地取引について何も知らないのに全責任を負わされたのです。財務省と特捜は赤木氏を「改竄実行犯」に仕立て上げ、自殺に追い込んだのです。

           

           

          もうおわかりでしょう。赤木氏の遺書を読んでも自分とは関係ないと考える冷酷な人間がわが国のトップに君臨しているのです。クラス全員と担任の周到ないじめによって自殺した子供のメモに固有名詞がないからいじめはなかったと認定する学校の態度を彷彿とさせるではありませんか。それを許しているのは去勢されたマスメディアであり、国民です。

           

           

          安倍首相には人間としての情がありません。彼の成育歴をたどれば分かります。しかし、メディアは沈黙したままです。「失敗した子育て」がいかなる人間を作り上げるのか、安倍首相は国民の前で日々それを可視化し続けているのです。

           

           

          長くなるので止めますが、子供を育てるときに私たちが最も気を付けなければならないことは「人間としての感情」が育っているかどうかということです。この点さえ間違えなければ、「一流」の会社や「一流」の大学に行けなくとも、人間は幸せになれるのです。これは断言しておきたいと思います。今後、ブログではこの点をめぐって掘り下げていきたいと思います。もし暇があれば、以下の参考記事をお読みいただけると嬉しいです。

           

           

          『感情にもレベルがある。』

          http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=126

           

           

           

          以下はおまけです。私が野党議員なら安倍首相に次のように質問します。

           

           

          「安倍総理、あなたは今、国権の最高機関である国会にいます。そこで野党議員にヤジを飛ばすのはあなたの幼児性と狭量な人間性を示すだけです。私に言わせれば前代未聞の総理大臣です。今更それを言ったところでどうしようもありませんが。

           

           

          本題に移ります。あなたや麻生財務相は国会ではなく、本来なら刑務所の中にいなければならないのです。韓国やアメリカなら、終身刑に値するでしょう。しかし、あなたたちと同レベルの大手マスメディアに黙認され、民主主義の成熟度において韓国やアメリカにはるかに劣る日本だからこそ、政治家として延命できているのです。

           

           

          第二次安倍政権を見てきて改めて認識したことがあります。それは劣化した感情の持ち主の周りにはクズしか集まらないということです。国会で赤木氏の遺書の件で追及されたとき、あなたは背広のボタンを留めながら笑って答弁していました。週刊文春の記事を読んでいれば、絶対に笑えないところであなたはニヤニヤしていたのです。私はそういう冷酷さと無能が背中合わせになったような人間が整合性のある、国民のための政策を立案し実行できるわけがないと断言したいと思います。

           

           

          それが証拠に、集団的自衛権の行使をいきなり閣議決定し、拉致被害者を自分の政権で必ず取り戻すと言いながら、果たせていません。政治的に利用しただけです。北方4島の返還はどうなったのですか。

           

           

          かくのごとく外交はもとより、経済政策においてもアベノミクスなる言葉によって株価を偽装し、財界を喜ばせているだけです。国民の賃金は一向に上昇していません。生活は苦しくなる一方です。

           

           

          その挙句が、森友・加計学園問題で税金をつぎ込んでバカ友を優遇しました。加計学園の獣医学部は世界に冠たるウイルスの研究施設を備えていたのではなかったのですか。優秀な研究者と学生を集め、コロナウイルスの蔓延を防ぐべく日夜奮闘していることでしょう。

           

           

          桜を見る会の税金の私物化には開いた口がふさがりません。それにしても招待された「功績のあった」人々が誰一人としてあなたの発言に異議を唱えなかったという事実に私は衝撃を受けました。総理大臣が根も葉もない嘘をつけば周囲がそれに合わせて自ら言論統制していくという大日本帝国時代の精神構造を目の当たりにしてうすら寒い思いをしたのです。

           

           

          そしてオリンピックです。もともとウソと賄賂によって招致したオリンピックです。東北の復興をうたいながら、資材と金を東京に集中させて復興を遅らせています。何が「お・も・て・な・し」でしょうか。コロナウイルスで「おもてなし」するつもりなのでしょうね。

           

           

          かくのごとく、あなたが総理になってからこの国の資産は食いつぶされる一方です。人心も荒廃の一途をたどっています。そこに降ってわいたコロナウイルスの蔓延です。よかったですね。これで国民の関心をそらすことができます。

           

           

          NHKでは「やってる感」を演出するため岩田明子記者に明白なウソの解説をさせ、背広を着たあなたがさっそうと登場して何かしゃべっています。スマホには株の乱高下を知らせるニュースが流れてきます。私は言葉をなくします。天を見上げてため息をつくほかありません。

           

           

          あなたはもちろんご存じないでしょうけど、夏目漱石の小説の中の次の一節を読み上げて私の質問を終わります。」

           

           

          「然し(しかし)是(これ)からは日本もだんだん発展するでせう」と弁護した。すると、かの男は、すましたもので、「亡びるね」と云った。(夏目漱石『三四郎』より)

           

           

          | 教育 | 14:18 | comments(0) | - |
          「とある塾ウオッチャー」さんへ。
          0

            コメントありがとうございます。私は学習空間Lの塾長(彼もあなたと同じ塾ウオッチャーでした)にも、塾業界にも関心がありません。塾をやっているのに塾業界に関心がないというのは奇妙に聞こえるかもしれませんが、この業界で流通している情報の陳腐さと無内容さに辟易しているからです。塾ウオッチャーさんが発信している内容も、20年以上前にすでに書いています。

             

             

             

            そこで使われる言葉も、つまるところ「効率」と「便利さ」という二つの範疇に収まります。なんという語彙の貧困でしょうか。学ぶということは、既成のシステムの外で自分固有の語彙を発見することです。今この業界で働いている人は、AIとスマホを使わずに学力をつける方法など想像すらできないでしょう。

             

             

             

            なぜなら、「子育て」が「教育」になり、「教育」が「受験教育」になり、ついには「アプリの使い方」といった「脳育」(受験産業はこの種の語彙を発信し、それに違和感を持つ人を淘汰していくのです)に収斂して行ったからです。

             

             

             

            つまり子育てが技術的な問題になったということです。そして「技術的な問題」を解決するには、家庭の経済力がものを言うというわけです。その意味で萩生田大臣の「身の丈に合った」受験とは、まさにこの実体を見事に言い当てていたのです。

             

             

             

            そんな中で、私が関心を持ち続けて来たテーマは、「親は子育ての楽しさをどこまで受験産業に売り渡すのか、言い換えれば、あだ花に過ぎない受験イデオロギーをどこまで信じるのか」という点です。クズ情報でも受験に役立つと言われればそれを信じてしまう愚かさ、リテラシーのなさを何とかできないかと考えたのです。

             

             

             

            例えば、「一流大学に合格させる子供部屋の作り方」「リビングに大きなテーブルを置いてそこで勉強させる」といった類のものですが、こういった情報を流す出版社のバカさ加減もさることながら、それにコロリと騙されて生活の全てを受験に向けて規制していく親の精神的な貧困をどうにかできないかと考えたのです。「佐藤ママ」を批判したのはこういった流れの中でした。

             

             

             

            私が塾を始めた時、影響を受けた塾教師がいます。次回のブログで「佐藤ママ」の対極にいるその人物をとりあげるつもりです。そのことで、私が「佐藤ママ」を批判する根本の動機を明らかにしていくつもりです。それは善き社会を作るのに役立つはずです。

             

             

             

            社会が驚くほど単純な物差し(結果がすべてといったような)で人間を測るようになれば、人間はまるでヤドカリのように身の丈をモノサシに合わせるようになるのも事実です。「佐藤ママ」は、「優秀なヤドカリ」に過ぎません。彼女の子育てには普遍性がありません。カルト化した受験教育がもたらした特異な事例に過ぎないのです。

             

             

            | 教育 | 23:25 | comments(0) | - |
            「子供の頃にもっと勉強させてもらいたかった大人」さんへ。
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              私の記事

               

              『名もなき一教師さんへ』

              http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=512

               

              に対してコメントを頂きました。ありがとうございます。コメントの内容は以下の通りです。

               

               

               

              「言いたいことは分からなくはありません。
              ただ私は、子供時代の時間や記憶を全て失ってもいいから、今は医師免許が欲しいです。

              大学受験までの18年間と比べると、その後の人生はあまりにも長いですから。
              大学受験までの18年間と比べると、同じ苦労であってもその後の苦労の方がはるかに苦痛を感じますから。

              佐藤家の子供達と同様に、あなたも遊びたいのに漢字ドリルの宿題を嫌嫌やらされてかげがえのない子供時代を奪われた結果、漢字の沢山入ったその文章を楽に書けるようになってかげがえのない大人時代を手に入れたんではないんですか?


              豊かな子供時代を失っても豊かなな大人時代を得ることの方が幸せという考えの元あなたも漢字ドリルやらされてたわけですが、それってそんなにおかしな考え方なのでしょうか?」以上。

               

               

               

              あなたは医師になることを目指しているようですが、大丈夫でしょうか。文章を読む限り、根本的な思考力や判断力を欠いているようです。おそらく私の「佐藤ママ」批判を読んで、納得できなかったのでしょう。以下は私の感想です。

               

               

               

               

              >言いたいことは分からなくはありません。

               

               

              「分からなくはありません」という言い方の中には、納得できなかったのに分かったふりをしようとする苦しさが現れています。しかし、あなたは私の主張を全く分かっていません。

               


               

              >私は、子供時代の時間や記憶を全て失ってもいいから、今は医師免許が欲しいです。

               

               

              「子供時代の時間や記憶を全て失ってもいいから」というのは、人格が空洞化してもいいからという意味ですが、そうまでして医師免許を取りたい理由は何なのでしょうか。小難しいことをあれこれ言わずに、とにかく医師になりたいのだという切羽詰まった決意を述べているのですね。

               

               

               

              >大学受験までの18年間と比べると、その後の人生はあまりにも長いですから。
              大学受験までの18年間と比べると、同じ苦労であってもその後の苦労の方がはるかに苦痛を感じますから。


               

              この部分はつまり、実社会に出てからの「苦労の方がはるかに苦痛を感じますから」大学受験までの18年間の苦労など取るに足りない、自分を受験サイボーグに仕立て上げる佐藤ママのような人がむしろいてほしかったとおっしゃりたいのでしょう。でもこの考えだと、あなたの人生は「苦痛」の連続ということになって、気の毒に思えます。念願の医師になれば苦労も多いでしょうが、喜びも多いのではないでしょうか。それとも医師を安定した高給の職業と見なしているだけなのでしょうか。

               

               

               

              >佐藤家の子供達と同様に、あなたも遊びたいのに漢字ドリルの宿題を嫌嫌やらされてかげがえのない子供時代を奪われた結果、漢字の沢山入ったその文章を楽に書けるようになってかげがえのない大人時代を手に入れたんではないんですか?

               

               

              正直に言いますが、この部分を読んで少し笑ってしまいました。あなたは生まじめで不器用だけど良い人なんじゃないかと思いました。私のことを「遊びたいのに漢字ドリルの宿題を嫌嫌やらされてかげがえのない子供時代を奪われた」というのはあなたの妄想です。

               

               

               

              私は遊びたい時は徹底的に遊んでいました。それは本能のようなものです。「漢字ドリルの宿題を嫌嫌やらされ」たことなど一度もありません。喜んでやったこともありませんが。そもそも私の中では学校の比重は限りなく軽く小さなものだったのです。夏休みが終わって新学期が始まる前日「夏の友」を急いで仕上げるようなことをしていました。子供が自由にできる時間と空間がたっぷりあったということです。

               

               

               

              そんなふまじめな子供だったので、辺境塾教師にしかなれませんでしたが、とても幸せな人生を送っています。

               

               

               

              >豊かな子供時代を失っても豊かな大人時代を得ることの方が幸せという考えの元あなたも漢字ドリルやらされてたわけですが、それってそんなにおかしな考え方なのでしょうか?

               

               

              漢字ドリルにこだわるあなたのことが何だか好きになってきました。医師としてやっていけるか心配だと言ったのは、このくだりを読んだからです。あなたは「知的」な仕事についている人は皆自分と同じような体験をしているだろうという前提で話をしています。でもこれは危ないですよ。それに塾教師なんて知的な仕事でも何でもありません。たまたま塾教師をしている私が知的だっということです、なんちゃって。

               

               

               

              私は、「豊かな子供時代を失っても豊かな大人時代を得ることの方が幸せという考え」とは正反対の考えを持っています。豊かな子供時代を失えば、豊かな大人時代を「得る」(この言葉には違和感があります)ことはできない。それどころか社会に悪影響を及ぼすだろうと考えています。ユダヤ人を大量虐殺したヒトラーの子供時代を知っているのでこう判断しています。「子供時代」などと簡単に言いますが、その実体は震えが来るほど恐ろしいものです。

               

               

               

              あなたは、私のこのブログ記事だけを読んで、事実を妄想的に思い描いたのですね。他の記事を読んで頂ければ、私がずぼらで、運よく生きて来た人間だということが分かると思います。一人として同じ人間はいません。めでたく医師になった暁には、どうか患者さんひとりひとりが抱えている事実と向き合って貰いたいと願うばかりです。

               

               

               

              話は変わりますが、以前『ビリギャル本の詐欺性について』を読んで体験授業を受けに来た女子高校生がいました。授業後話をして、愕然としました。自分もビリギャルと同じく英語を武器にして慶応大学SFCに受かりたいので協力してほしいというではありませんか。「学年ビリのギャル」「偏差値40から」なるキャッチコピーに引っ掛かったのです。上記の記事はビリギャルとその母親、それを利用して一儲けをたくらむ出版社と塾教師を批判したものですが、それがまったく通じていないのです。

               

               

               

              今回の医師志望の方も同様です。そもそも、子育ては、佐藤ママのように効率や費用対効果や将来性を考えて行うものなんでしょうか?私は子育てが面白くて仕方なかったので「こんなチャンスはもう二度とないかも」と言いながら、妻と心行くまで楽しみました。子供の通知表など中学まで見たこともありませんでした。

               

               

               

              親の子育てや教育に対する考えは、議論してどうこうなるものではないようです。最初から波長が合う人もいれば、いくら話し合っても話が通じない相手もいます。「佐藤ママ」はそういう人の代表です。何というか生理的に受けつけないのです。

               

               

               

              話が通じない原因は片方の親が子育てに権力関係を持ちこむからです。権力関係とは言うことをきかせる対象として子供を見ることです。これは産業社会ではもっぱら男親が担っていました。子供の将来のことを考えて、社会的な評価基準や行動原理を教えるわけです。父権といった懐かしい言葉もありました。当時は専業主婦が多かったのですが、母親は社会の権力関係に疎かったために父親に反論できずに、屈服していたのです。「佐藤ママ」は今では少数派の専業主婦であり、時代遅れの「父権」の体現者なのです。

               

               

               

              屈服で思い出しましたが、学校における「いじめ」は特定の生徒を「孤立化」させ、次に「無力化」させます。この段階ではしばしば暴力がふるわれます。そして「いじめ」が第三者に見えなくなる「透明化」の段階を経て、相手を全面的に服従させます。

               

               

               

              「いじめ」は意識的に行われるのではなく、学校という目的なき雑居集団の中で子供たちが生き延びるために無意識的に行われます。その無意識に、実は家庭の中の権力関係(集団が生き延びるために生み出した匿名のシステムの本質)が反映されているのではないかというのが私の仮説です。

               

               

               

              長くなるので終わりにします。私の考えが「子供の頃にもっと勉強させてもらいたかった大人」さんに伝わったかどうか分かりません。でも今の私の考えを正直に述べました。

               

               

               

              そして最後に言いたいことがあります。「子供の頃にもっと勉強させてもらいたかった」などと甘ったれたことを言うんじゃない!今から勉強すればいい。人生はいくらでもやり直しがきく。あらかじめ立てたスケジュール通りの人生なんて成功でも何でもない。あなたは偶然がもたらす豊かさにもっと気づくべきです。

               

               

              | 教育 | 21:26 | comments(0) | - |
              開成中学・高等学校長 − 柳沢幸雄氏を批判する。
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                開成中学・高等学校と言えば、毎年200名に迫る東大合格者を出している文字通り日本のトップエリート校です。そこで校長を務める柳沢幸雄氏が11月3日の朝日新聞「英語民間試験の利用延期、どうすれば」に答えている記事を読みました。はっきり言って、功成り名遂げて耄碌(もうろく)した老人の世迷い言です。

                 

                 

                 

                こんなレベルの言説を全国誌に載せて恥ずかしくないのでしょうか。日本には隠棲の文化があります。いつまでも同じ地位にとどまって恥をさらすよりも、世間から距離を置き隠棲してはどうでしょうか。西行や良寛のようなよいお手本があるではありませんか。私が氏なら、身の程を悟ってさっさと引退します。

                 

                 

                 

                さて本題に入りましょう。氏の意見を逐一批判していたら夜が明けるので、肝心なところ、すなわち氏の本質があらわれている箇所を批判してみます。まず出だしの一文から。

                 

                 

                 

                「日本の大学入試も、もうそろそろ厳格なものから脱する時代なのではないか。今回の大学入試改革の一連の動きは、日本の悪いところが出た典型例だと思う。何か新しい改革をしようという時に、技術論でひっかかってしまう。現実的にこれはできないのではないか、などと細かいところで反対意見が出て、すべてを最初から厳格に完璧にしようとするがあまり、教育に必要なものは何かという、本質を見失って変容してしまう。これまでの教育改革もその繰り返しだった」

                 

                 

                 

                この部分を読んだだけで、結論が抽象的・現状肯定型になるのはわかりきっています。英語民間試験の利用延期について訊いているのに、「もうそろそろ厳格なものから脱する時代」などと抽象的な大風呂敷を広げて論点をそらしています。

                 

                 

                 

                訊かれたことに具体的かつ的確に答えてこそ、読者にとってプラスになるのではありませんか。おや、これは釈迦に説法でしたね。柳沢氏のような他者意識のない弛緩した思考は批判を装った現状肯定に行きつくのです。

                 

                 

                 

                いったん大風呂敷を広げれば、それをたたんで具体的に論じることは不可能とは言わないまでも、大変難しくなります。それが証拠に、氏の答えは最後まで焦点がぼやけた抽象論で終わっています。

                 

                 

                 

                人は抽象から学習し始めるのではありません。抽象論は事実を詳細かつ具体的に検討した後、それを材料として論理的に組み立てるものです。論理的思考とは具体例を豊富に、かつ整合的に使う思考です。なぜなら、人が生きるのは、机上の理論よりもはるかに複雑な事実の世界だからです。

                 

                 

                 

                抽象論は現実の経験とのかかわりが不明なのです。つまりいくらでもごまかしがきくということです。柳沢氏はこのことがわかっていません。具体的な事実を知らなければ、空虚で意味不明な言葉をもてあそぶほかありません。「耄碌(もうろく)した老人の世迷い言」はここから生じるのです。

                 

                 

                 

                もう少し話を進めましょう。氏の考えでは「何か新しい改革をしようという時に、技術論でひっかかってしまう。」のが「日本の悪いところ」だそうです。しかし、そもそも、今回の件のどこを見て「新しい改革」だの「技術論でひっかかっ」たなどと考えるのでしょうか。私はこの箇所に最もひっかかりました。

                 

                 

                 

                今回の問題の本質は、入試改革という名の下に英語の試験を民間に丸投げすることで政治家が私腹を肥やそうと企んだことにあります。すなわち、ゴールの決まっている出来レースを、受験生と現場を無視して突っ走っただけです。これは日本の戦後教育がついに「受験教育」に収斂してしまった無残な象徴に過ぎません。

                 

                 

                 

                塾経営者から政治家になった下村博文と民間業者・ベネッセが組み、それに文部官僚が天下り先を確保するために相乗りしたというわけです。利益相反などおかまいなしに公共部門を民営化してボロ儲けをたくらむ竹中平蔵的・加計学園的手法と同じです。彼らは口を開けば「グローバル化に乗り遅れるな」だの「ICT教育を推進せよ」だのと叫ぶのです。

                 

                 

                 

                柳沢幸雄氏の言説は、この本質から目を背け、「技術論」に矮小化するものです。それを糊塗するために「何か新しい改革をしようという時に」だの「技術論でひっかかってしまう。」だの、ついには「日本の悪いところが出た典型例だと思う。」などと結論付けたのです。

                 

                 

                 

                英語民間試験の利用は本来教育の問題です。教育の問題であれば、大人が(今の政治家や民間業者は金と地位を欲しがるだけのガキになってしまいました)将来の学生のために、教育の観点のみで考えるべきものです。

                 

                 

                 

                合否が採点者の主観や、経済的な格差や、親のコネによって決まるとすれば、誰が地道な努力を続けるでしょうか。それだけではありません。合格者の努力も無に帰すのです。

                 

                 

                 

                大学入試の公平性は、社会の安定と深く関係しています。それが損なわれれば、イソップ童話の「すっぱいブドウ」ではありませんが、現実を都合よく解釈する人間が大量に生み出され、社会に充満したルサンチマンが暴発して犯罪を誘発するようになります。したがって、合否はだれもが納得できる判断基準でなければならないのです。

                 

                 

                 

                しかし、柳沢幸雄氏はそれに続く箇所で「入試ももっとそれぞれの大学のポリシーにあった、緩やかで多様なものにしていいのではないか。」と述べ、「米国ハーバード大学院で教えていた時」の経験で、「入り口で厳格に、何点刻みという選抜をしなくても、卒業する際に、きちんとした結果の測定をすれば済む」と言います。いかにもエリート校の校長の発想です。

                 

                 

                 

                では、日本の大学で「卒業する際に、きちんとした結果の測定を」している大学があったら教えてほしいものです。ついでにどんな方法で「結果の測定を」しているのかも。

                 

                 

                 

                柳沢氏は何を勘違いしているのでしょうか。今問題になっているのは、大学進学を希望する全国の高校生が受けるテストのことを論じているのです。「何でも一律にという点に問題がある」などと一般論を述べても無意味です。有名私立大学の学長や一部エリート校の校長が、富裕層のための高校や大学にするべく入試の判断基準を複雑かつ曖昧で多様なものにする話をしているのではないのです。

                 

                 

                 

                ちなみに、早稲田大学は卒業時の学力を入学試験の方法と関連付けて、肝心な大学教育の中身が空洞化していることを隠そうとしています。3年半前に書いた記事をご覧ください。

                 

                 

                 

                早稲田大学のAO・推薦入試について

                http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=136

                 

                慶応大学の学長選挙について−民主主義は大学の門前で立ちすくむ。

                http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=427

                 

                 

                 

                かくのごとく他者意識のない言説を批判し出したらきりがありません。これ以上「グローバルエリート」特有の言いっぱなしに付き合うのも疲れます。私たちは欧米の一流大学の真似をすることに活路を見出すべきではないのです。自分の頭で、この国の若者のために、一から考え直すべきです。そのための具体的なイメージについてはすでに書きました。

                 

                 

                 

                100年後の生存戦略 ・教育−見果てぬ夢

                http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=446

                 

                100年後の生存戦略・ 教育− 国宝・閑谷(しずたに)学校

                http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=488

                 

                 

                締めくくりとして、柳沢氏は次のように述べています。「東大で教えて来た経験から言えば、英語力のない学生は学ぶ力が弱い。外国語の学びを通じて持続性、論理性が養われる。・・・・これまでの日本のように、英語は読めて書ければいいという時代に逆戻りしてはいけない。」と。

                 

                 

                 

                冗談を言ってはいけません。英語に限らず、一つの外国語をきちんと読めて書ける日本人は全人口の1%(120万人)にも満たないと思います。私は塾で教えながら、英語の読み書きの能力が崩落している場に立ち会っているのです。前にも書きましたが、正確に読めて書くことができれば、話す・聞くは環境と慣れの問題に過ぎないのです。

                 

                 

                 

                肝心な質問には答えずに、短い文章の中で「米国ハーバード大学院で教えていた時」だの「東大で教えて来た経験から言えば」だの、単なる経験や印象を語りながら自分の権威づけを行う人間が日本一のエリート進学校の校長なのです。だから言ったのです。最初の一文を読めば結論がわかると。

                 

                 

                 

                柳沢氏が「外国語の学びを通じて持続性、論理性が養われる。」という時の論理性とはかくのごとくたわいもない言葉の遊びにすぎないのです。なぜなら、優れた論理性は必然的に優れた批判精神に行きつくはずだからです。

                 

                 

                 

                最後におまけです。開成高校で培われる論理性の帰結が端的に表わされたグラフを載せて、今回のブログを終わりにします。これは「グローバルエリート」である柳沢幸雄氏が校長を務めている結果なのでしょうか。

                 

                東大新入生の自民党支持率

                 

                 

                 

                | 教育 | 10:58 | comments(2) | - |
                教育民営化のツケはだれが払うのか?
                0

                  英語民間試験の延期が決まりました。あきれてコメントする気にもなりません。「延期」ではなく「中止」すべきです。しかし、朝日新聞を始めとする大手メディアは、今回の件を正面から一度も批判していません。今になって両論併記の記事を載せてアリバイ作りに精を出しています。この件については過去に書いているので、今回は必要最小限のコメントに留めます。

                   

                   

                   

                  一年半以上前に書いた

                  『教育にまつわるここだけの話』

                  http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=473

                   

                   

                  『英語民間試験の導入は金儲けのために地方の高校生を切り捨てる』

                  http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=593

                   

                   

                   

                  公平と公正を第一に、大学が自らの責任において実施すべき試験を外注したのは、民営化すれば金の流れを始めとして利権の追及が困難になるからです。水道の民営化、特別会計の闇と相似形なのです。

                   

                   

                   

                  事実を振り返ってみると、英語民間試験への外注は、2013年10月、第2次安倍内閣の下、教育再生実行会議が第四次提言を公表したのを受けて2014年末に中教審が答申します。この時の文科大臣は下村博文氏。以来、「民間ありき」の出来レースを突っ走って、2016年8月末に英語民間試験利用が最終決定します。

                   

                   

                   

                  心ある学者が反対しても、完全無視で「2020年度ありき」で杜撰極まりない新入試制度が構築されたのです。この間に,何度か2020年導入が危うくなる局面があったのですが,そのたびに下村氏が出てきて強行の道筋をつけた、というのが事実です。

                   

                   

                   

                  例えば、東大が2018年3月から、民間試験を「使わない」「使う」で混乱していたとき、下村氏が東大の五神総長を自民党本部に呼びつけて圧力をかけたのは記者の間では周知の事実です。この件はぜひ国会の証人喚問で明らかにしてほしいものです。

                   

                   

                   

                  今回の混乱の責任をとるべき人間は、下村博文・元文科大臣です。彼の責任を追及しなければ,公教育の市場化・民営化は止まりません。これに比べれば、萩生田文科大臣の「身の丈」発言など、ワイドショーレベルの戯言に過ぎません。

                   

                   

                   

                  さらに忘れてならないのは、センター試験の「外国語」では、英語以外に、独仏中韓を選択できたのです。 ところが、今回の「民間試験」は英語だけを使うよう無理強いしたもので、他の外国語での受験者を切り捨てています。いかにも英語コンプレックスに凝り固まった植民地人の考えそうなことです。

                   

                   

                   

                  それともう一つ。私がショックを受けたのは、不公平極まりない試験制度に対して抗議すべき立場にある都立高校の1つ、かの日比谷高校の校長が「きちんと準備してきた高校としては大いに迷惑、ふざけるなと言いたい」と発言したことです。

                   

                   

                   

                  この校長は「グローバルエリートの育成」に熱心なあまり、公教育の一翼を担っているという自覚を失くしてしまったのです。気分は都内の有名私立の中高一貫校の校長なのでしょう。たまには胸に手を当てて、税金で生活している意味を考えよ!被害者面して責任転嫁している場合ではない!

                   

                   

                   

                  長くなるので今回はこれでやめにしますが、要は「2020東京オリンピック」のどさくさに紛れて、国の将来を左右する教育が食い物にされているということです。ちなみに、この校長の発想はとうの昔に批判しています。よかったらお読みください。

                   

                   

                  『刑事コロンボ VS 「アルマーニ」校長』

                  http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=458

                   

                  | 教育 | 23:38 | comments(0) | - |
                  佐藤ママの超絶「脳育」論。
                  0

                    今回も、脳が虚血性発作を起こしそうなタイトルで申し訳ありません。「脳育」などという言葉は私の語彙の中にはありません。しかし、お受験界隈ではいかにも出てきそうな言葉ですね。ある層の人には訴求力のある言葉なのでしょう。

                     

                     

                     

                    最初に断っておきますが、「脳育」などという言葉で子育てを語るメディアや親御さんとは、そもそも人間観や社会観が根本的に違うので、コミュニケーションは不可能です。実は社会の分断の根本的な原因は、こういう身近なところにあるのです。

                     

                     

                     

                    佐藤ママの本を読み、「これだ!」と思ったお母様方がランチしながら熱心に情報交換しているところを想像して下さい。彼女たちの幸福感がいびつであること、人間の全体性を無視して子供を幼少のころから受験サイボーグに仕立て上げようとする発想の貧困さには言葉がありません。「脳育」などという言葉は、この種のおバカなお母様方をターゲットにするためにおバカな出版社が生みだしたのです。

                     

                     

                     

                    彼女たちは差別化の道具として、学歴や年収や勤めている会社や住んでいる場所、はたまたどこの幼稚園出身かというようなモノサシを使います。最近はどこの塾に通っているかもプラスされているようです。やれやれ。

                     

                     

                     

                    人格が空洞化しているので自分に自信が持てず、絶えず他者と比較することで自分を維持しています。当然、比較のモノサシは計量可能な数量的・外形的なものにならざるを得ません。

                     

                     

                     

                    直接人と会って話したり、本を読んだりした後、自分の内部に生起した感情や知識と向き合うことで、人は自分というものがわかるのですが、その習慣が未形成なのです。おそらく、似た価値観の親に育てられたためでしょう。

                     

                     

                     

                    一方、地方に住み、ごくふつうに暮らしている母親たちは(都会の母親から見ればリテラシーの低い田舎者に映るのでしょうが)、学歴にこだわったりせずに、子供が自立する手助けをしようと、疲れている中、夕飯の支度をしたり、洗濯物を干したり、時には子供に八つ当たりしながら愛情込めて育てています。

                     

                     

                     

                    もちろん地方にも、何が何でも「県立トップ校」に合格させようと考えている母親もいます。都会に生息する「佐藤ママ」たちの価値観を内面化しているのです。

                     

                     

                     

                    下品なリバタリアン(オバタリアンではありません)である「佐藤ママ」たちは、学歴や年収が幸福のメルクマールであると考える新自由主義的な価値観に洗脳されています。ちょっと言い過ぎですね。洗脳という言葉が悪ければ、自ら様々な情報を入手し、それを取捨選択する中で子供の幸福にとってベストと考える進路を選択している、と言い換えましょう。

                     

                     

                     

                    でもエスカレートすると、中学受験にからんで子供の髪の毛をむしり取ったり、ナイフで刺し殺したりする親も出てきます。いや、これは極端な例でした。極端な例の背後には、その事件を生みだす下地が準備されている筈だと考えるのが、私の悪い癖です。私は世間の耳目を驚かせる事件よりも、海面下に沈んでいる氷山の方が気になるものですから・・・。

                     

                     

                     

                    本来、子供の養育は、日々驚きと喜びに満ちている最も生きがいを感じる行為のはずです。「養育」が「教育」になり、「教育」が「受験教育」になり、さらには「受験教育」が「脳育」になっていくのを加速させているのが「佐藤ママ」に象徴される価値観なのです。

                     

                     

                     

                    もちろんそれが素晴らしいことのように宣伝する塾や出版業界の罪は大きい。彼らは珍奇な受験ネタで消費者の関心を引き、生き残りをかけています。例えばプレジデント社、東洋経済新報社、ベネッセ、ダイヤモンド社、それに最近では朝日新聞社の『アエラ』も加わり多士済々です。

                     

                     

                     

                    今では事あるごとにそれをオンラインで配信しています。中身は相も変らぬ金太郎飴で、脳科学の知見や医学的根拠あるいは経済学的発想?を無理やり持ち込んで「エビデンス」と称して、さも根拠があるかのように喧伝しています。その具体例をお目にかけましょう。

                     

                     

                     

                    受験本の執筆で名を馳せた東大理三出身の精神科医・和田秀樹氏と「佐藤ママ」の対談です。タイトルは、「子供4人を東大医学部へ入れた主婦の脳育」です。出ました「脳育」!

                     

                     

                    『プレジデントベイビー 0歳からの知育大百科 2019完全保存版』の掲載記事から一部抜粋しました。「佐藤ママ」のエスカレートぶりをとくとご覧下さい。

                     

                     

                     

                    【佐藤】私も家の中の知的な雰囲気は大切にしていました。身近なところに新聞や本を置いたり、読み聞かせをしたり。3歳までに1人につき、のべ1万冊の読み聞かせをし、のべ1万回童謡を歌って聞かせました。すごいでしょ?

                     

                    【和田】それはすごい!

                     

                    【佐藤】一緒にたし算の勉強なんかをしていると、「あれ、この子、7+8 が他の計算より 0,005 秒遅いわ」とか気が付くんですよ。その小さな違いが、のちのち大きな躓(つまず)きの原因になると思って、7+8 を何度も練習させました。,005 秒の違いに気付いてやれるのは親だけですから、一緒に乗り越えていけるようなやり方を探せばいいんです。やはり、子どもが勉強できないというのは、私は親のせいだと思いますね。親の努力不足。できないのはやり方が間違っているから。その子に合ったやり方を見つけてやれるのも親だけだと思います。

                     

                     

                     

                     

                    あわわわ・・・。佐藤ママは子供が1歳になるかならないうちから公文に通わせ、3歳の頃にはバイオリンとスイミングも習わせていたそうです。子供が帰宅すれば「のべ1万冊の読み聞かせ」と「のべ1万回の童謡」が待っています。これでよく子供たちが発狂しなかったものだと思います。私は立派な「児童虐待」だと思いますけど・・・。

                     

                     

                     

                    3歳までに「のべ1万冊の読み聞かせ」って、1日何冊になるんでしょうか。1年で3,333 冊。1日で約9冊ですね。しかも0歳児の時からですよ。日曜日も、クリスマスも、正月も関係なく毎日9冊!1日サボれば2日で18冊。一体どんな本を読み聞かせしていたのでしょうか。ぜひ知りたいですね。和田秀樹氏はこんな素朴な疑問すら抱かなかったのでしょうか。

                     

                     

                     

                    それにしても、1万冊の本をどこに収納していたのでしょうか。私はそのボリュームを想像できるのですが、3歳までの読み聞かせに適切な本を1万冊どうやって選んだのでしょうか。「佐藤ママ」の家は、かなり本格的な児童図書館なのでしょうね。

                     

                     

                     

                    「あれ、この子、7+8 が他の計算より0,005秒遅いわ」に至っては、何というか、シュール過ぎて言葉がありません。0,005秒って、どんなストップウォッチで計ったのでしょう。この0,005秒の差がのちのち大きな躓(つまず)きの原因になるような人生って、誰のどんな人生でしょう?もう頭がくらくらしてきました。余りのおバカぶりに。

                     

                     

                     

                    バカなのは「佐藤ママ」だけではありません。「佐藤ママ」の「すごいでしょ?」に「それはすごい!」と応じる受験本のカリスマ・和田秀樹氏も同類です。「佐藤ママ」は東大理三出身の精神科医に賛同してもらって舞い上がっています。和田氏も東大理三にわが子を4人合格させて注目された「佐藤ママ」に一目置いています。

                     

                     

                     

                    よくもこんな他者意識(誰に読ませるのか、その結果どのような影響をもたらすのか意識すること)のない対談ができるものです。身内意識でもたれ合っているだけです。この二人は東大理三を現世の教育界における最高神だと崇めることで正常な感覚を失くしたバカな大人に過ぎません。もはや平気でウソをついても誰からも批判されないだろうと、たかをくくっているのです。誰かにそっくりです。令和元年の日本の受験エリートたちの精神構造はここまでシュールになっているのです。

                     

                     

                     

                    もうやめにします。最後に和田秀樹氏に一言。あなたは以下のようなタイトルの本を出していますが「佐藤ママ」が「自分を平気で盛る人」だとは気付かなかったのですか?精神科医なのに・・・。あなたを信用できないのは、いい歳をしてこういう肝心なことに気づかない「お利口さん」だからです。

                     

                     

                     

                    この二人のバカな大人に対する本格的な批判は次回に回しますが、それは私自身の経験と真に知的な子どもを育てる方法を語ることになります。よければ、もうしばらくお付き合い下さい。

                     

                     

                     

                     

                     

                     

                     

                    アマゾンのレビューではこの二人の本を評価する人が多いのですが、そもそもまともな親はこんなタイトルの本に手を出しません。佐藤ママによれば、子育ては3歳までに「ざっくり」「ゆるく」「とりあえず」1万冊の本を読み聞かせ、1万回童謡を聞かせ、公文とバイオリンとスイミングを習わせるのですね。まともに相手をするのがアホらしくなります。

                     

                     

                    今回も読んでいただきありがとうございます。よろしければ以下の記事も参考になさって下さい。

                     

                     

                    開成中学・高等学校長 柳沢幸雄氏を批判する。

                    http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=614

                     

                     

                    | 教育 | 22:26 | comments(0) | - |
                    カルト化する社会と教育−「佐藤ママにエールを!」のコメント主さんへ。
                    0

                      あなたのコメントに反論するのは気が重いですね。私の反論を読んでもあなたはまったく影響を受けないでしょうから。その点では「佐藤ママ」と同じです。影響を受けるためには多少の知性を必要とするのです。

                       

                       

                       

                      そもそも、あなたや「佐藤ママ」がどのような子育てをしようと、私にはどうでもいいことです。私は塾の教師をしていますが、「佐藤ママ」が4人の子供を東大医学部に合格させたと聞いても驚きません。受験というコップの中の世界では、情報とお金と子供に多少の素質(記憶力の良さ、計算力、高速事務処理能力など)さえあれば可能だからです。カルト化している塾・予備校を、カルト化した母親がうまく利用した結果に過ぎません。

                       

                       

                       

                      しかし、自分の子供がどこの大学に合格したかなどということは本来プライベートなことではないでしょうか。本を出版したり(『受験は母親が9割』など)、講演をして回ったりするのは、教養のある大人のできることではありません。下品な行いです。当然、講演を聞きに行く母親たちも下品です。

                       

                       

                      彼女たちは、社会の空気を読んで、子供の市場価値と自分の存在価値を高めるために行動しているだけです。もちろん背後には、世間に承認されたいという欲求があります。

                       

                       

                       

                      「母親というものは、たとえ世の中がどんなに腐りきっていても、そこに適応するように子供を育てるものだ」とはゲーテの言葉です。昔なら恥ずかしくて言えなかったようなことも、今は露骨に勝ち組・負け組といった二分法を使って「本音」を歯切れよく、堂々と開陳しています。

                       

                       

                       

                      つまり、公共性という概念が欠落しているのです。公共性とは、簡単に言うと「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」(宮沢賢治)と考えることです。彼女たちが公教育をバカにするのももっともです。コメント主さんもその一人です。

                       

                       

                       

                      私はネットで「佐藤ママ」が出演していたテレビの録画を観ました。彼女の話し方、目つき、笑い方、反論の仕方を見て思うところがありますが、それに言及するのはやめにします。その番組の中で「佐藤ママ」がしきりに言っていたセリフがあります。「そんなことしている暇はないのよ」「効率が悪すぎるのよ」「無駄でしょ、そんな時間は」「18年間なんて、あっという間に過ぎるのよ」等々です。

                       

                       

                       

                      そのために18歳までは恋愛禁止、テレビも禁止、意味のない学校の宿題は親が代わりにやる、志望理由書も親が書いたものを写させる、とのことです。要するに子育てが東大医学部に合格するためという一点に絞られているのです。そのために最も必要なことは、効率的な時間の使い方だというわけです。

                       

                       

                       

                      私は時間について思索を巡らせてきました。そして時間と記憶こそがその人そのものだと書いてきました。コメント主さんや「佐藤ママ」の時間感覚は、直線的な時間、消費される時間に集中しています。スケジュールでびっしり埋まっているビジネス手帳に象徴されるような時間です。

                       

                       

                       

                      しかし、あらかじめ流れる方向が直線的に決まっている時間などというものは存在しません。あるところでは滞留し、逆流し、循環しています。時間はわたしたちの感情や価値観によって、短くもなれば長くもなるのです。直線的な時間は、人間を既存の秩序や序列に深く組み込みます。

                       

                       

                       

                      では誰が考え方や感じ方を支配するイデオロギーとしての時間の概念をわたしたちに植え付けたのでしょうか。この点を解き明かさなければ、親や教育産業が子供たちをドッグレースに駆り立てる社会はなくなりません。

                       

                       

                       

                      まず大きな枠組みから考えてみましょう。日本はもはや国民国家ではありません。国民国家とは国民を主権者とする国家体制のことです。主権とは国民の生命、財産、暮らしを守るための独立国家の権利です。それに対して、大企業と政府が一体になった国家運営体制をコーポラティズムといいます。コーポラティズムは、必然的に、国家の枠を超えた富の収奪システムとなります。

                       

                       

                       

                      原発や武器を海外に売りさばく人間たちは この収奪システムの先兵なのです。この体制下では政府と癒着した一部の大企業、なかでもその株主と経営者に富が集中して行きます。2018年の国際NGO「オックスファム」の調査によると、最も富裕な1%の人たちが世界の富の82%を所有していると言われています。

                       

                       

                       

                      この事態を積極的に支持したり、やむを得ないと考えたりするイデオロギーを新自由主義と言います。新自由主義こそが時間の概念を変えたのです。

                       

                       

                       

                      しかし、国民が反発すればこの体制はうまく機能しません。そこでうまく支配するために教育やマスメディアを使って個人や組織などに心理戦を仕掛けるのです。情報を計画的に活用・操作します。

                       

                       

                       

                      「佐藤ママ」やコメント主さんは、この心理戦にまんまと引っ掛かっているだけです。いや、今や国民の大部分が心理戦に敗北して、「こうしてはいられない」と自らを叱咤激励しながらドッグレースに参加しています。精神を病む人が多くなり、子供を虐待する親が後を絶たないのも当然です。いったいどうすればいいのでしょうか。

                       

                       

                       

                      新自由主義によって植え付けられた直線的な時間概念から部分的であれ解放される必要があります。もともと日本の文化には、「循環する時間」をテーマにしているものが多いのです。能や歌舞伎の曲目に見られるように、ほとんどが「転生」の物語です。「井筒」も「道明寺」も「松風」もしかりです。

                       

                       

                       

                      四季の巡りとともにある循環する時間は、悠久の時の流れに身をゆだねていれば、この瞬間がまた巡り来ることを信じさせます。だから私たちは何が起こってもそれを受け入れてきたのです。人間は生まれ変わる、再生するという世界観は人間の魂を根底から癒す力を持っていました。

                       

                       

                       

                      しかし、福島の原発事故がすべてを変えてしまいました。天変地異に限らず、何が起こってもそれを受け入れ、じっと耐え忍び、なかったことにする日本人の美点が、逆にこの国を滅びに向かわせることとなったのです。

                       

                       

                       

                      多くの国民は現実を直視せず、学校やマスメディアがたれ流す情報をうのみにし、私たちの社会があたかも「生きたいように生きる」ことができる自由な社会であるかのように錯覚します。

                       

                       

                       

                      救いは錯覚からは絶対にやってきません。目を開いてよく見れば、私たちの住んでいるところは「ぞぞ〜っとするほどの街(TOWN)」なのに、そこに住む新自由主義の落とし子である住人達は、宇宙に行くことを夢見ているのです。新自由主義がもたらした電脳空間の中で、私たちの脳=意識が地球規模に拡大した結果です。

                       

                       

                       

                      さて以下では、これまで述べたことを頭において、コメント主さんの批判に答えてみましょう。

                       

                       

                      >村上春樹氏や宮崎駿氏と「佐藤ママ」を比べる唐突さが理解できません。「佐藤ママ」を批判するためのこじつけではないでしょうか。

                       

                       

                      こじつけではありません。村上春樹氏や宮崎駿氏の作品のテーマは、傷つけられた無意識であり、転生であり再生なのです。それを日本文化の基底部を流れる循環する時間をヒントにして表現したものです。直線的な時間から離脱する人間が増えれば増えるほど、新自由主義的な世界に多くの穴が空き、その世界を維持することが困難になるとわかっている最も洞察力に富んだ同時代の作家なのです。

                       

                       

                      村上氏自身の言葉で語ってもらいましょう。

                       

                      「僕が今、一番恐ろしいと思うのは特定の主義主張による『精神的な囲い込み』のようなものです。多くの人は枠組みが必要で、それがなくなってしまうと耐えられない。オウム真理教は極端な例だけど、いろんな檻というか囲い込みがあって、そこに入ってしまうと下手すると抜けられなくなる」

                       

                      「物語というのは、そういう『精神的な囲い込み』に対抗するものでなくてはいけない。目に見えることじゃないから難しいけど、いい物語は人の心を深く広くする。深く広い心というのは狭いところには入りたがらないものなんです」

                       

                      (毎日新聞インタビュー、2008年5月12日より)

                       

                       

                       

                      >あなた様が教える塾の隣に「佐藤ママ」の塾ができたとします。どちらが繁盛するか火を見るよりも明らかではないでしょうか。

                       

                       

                      これは、あなたのおっしゃる通りです。「佐藤ママ」の塾が繁盛するに決まっています。塾商売とはそういうものです。ただこの点についても村上氏に語ってもらいましょう。

                       

                       

                      以下は『1Q84』執筆の動機として地下鉄サリン事件について語ったものです。

                       

                       

                      「ごく普通の、犯罪者性人格でもない人間がいろんな流れのままに重い罪を犯し、気がついたときにはいつ命が奪われるかわからない死刑囚になっていた —— そんな月の裏側に一人残されていたような恐怖」の意味を自分のことのように想像しながら何年も考え続けたことが出発点となった。そして「原理主義やある種の神話性に対抗する物語」を立ち上げていくことが作家の役割で「大事なのは売れる数じゃない。届き方だと思う」と述べています。

                       

                       

                       

                      「大事なのは売れる数じゃない。届き方だと思う」を、「大事なのは生徒の数じゃない。届き方だと思う」と、私は読み換えています。今の社会は、他人が作ったモノサシにばかり頼って「自分の中にあるものをちゃんと眺めてみる」ことを否定しています。

                       

                       

                       

                      さてもう終わりにします。「あなた様」のコメントを「読まさせていただき」「失礼かとも思いましたが、私なりの感想を書かさせていただきま」した。最近はやりの、こんな奇妙な日本語を読むのは一度で十分です。疲れるので、これっきりにして下さい。

                       

                      ※以下の関連記事もお読みいただければ幸甚です。

                       

                       

                      子供の人生は幼少期に出会う大人によって大きく左右される。

                      http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=563

                       

                      開成中学・高等学校長 柳沢幸雄氏を批判する。

                      http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=614

                       

                       

                      | 教育 | 14:55 | comments(2) | - |
                      名もなき一教師さんへ ― 子供のためというモラルハラスメント
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                        コメントありがとうございます。コメント欄では余裕がないので、この場を借りて返信いたします。

                         

                         

                        私は子供の魂に対する想像力がこれほど貧困な母親を知りません。「佐藤ママ」が最も罪深いのは、「将来のため」という口実で、子供から「時間」を取り上げている点です。何度も書いてきましたが、時間や記憶はその人の人生そのものです。たかが東大医学部に合格させるために、子供からかけがえのない子供時代を奪い取っているのです。

                         

                         

                         

                        しかもそれが子供の将来のためだと信じ切っています。こうなるともはや歯止めが効きません。大学合格までは恋愛禁止を申し渡し、テレビは見せず、志望理由書も自分で書いたものを子供に写させます。「こんなことはしたくないけど、これがあなたのためなのよ」というのは、モラルハラスメント以外の何ものでもありません。世の中を生きづらいものにし、児童虐待を生み、犯罪と暴力を生み出すのはまさにこういった発想だと思います。

                         

                         

                         

                        おそらく「佐藤ママ」に私の批判は届かないでしょう。なぜなら、「結果を出す」ことで周囲を黙らせようとする人間は、無知で硬直した精神を持つ人間たちから支持され、力に対する共感を呼びさますからです。彼らにとっては「結果を出す」ことが何よりも大事で、プロセスは問わないのが常です。しかし、教育とは結果よりもプロセスに寄り添うもののはずです。人間の、特に子供の幸せは、目的地にではなくそこにたどり着くプロセスの中にこそあるのです。そうではありませんか。

                         

                         

                         

                        私は「佐藤ママ」や「ビリギャル本」を持ち上げるメディアの登場で、この国の教育は最終段階に入ったと思っています。これからは、「結果を出す」ことに居直った、荒廃した精神の末路がいたるところで見られることでしょう。

                         

                         

                         

                        一つだけ具体例を挙げておきます。

                         

                         

                        「全国学力テストの結果で、大阪市が政令市の中で2年連続で最下位だったことを受け、吉村大阪市長が激怒しました。
                        吉村市長は、会見で「私自身は非常に危機感を感じています」「万年最下位でいいと思うなよ」と述べました。今年度の全国学力テストで、大阪市は小6・中3ともに2年連続で政令市で最下位の成績でした。これを受け、吉村市長は来年度のテストから学校ごとに数値目標を設定し、達成できたかどうかを校長・教員の人事評価や給与に反映させるとの考えを明らかにしました。今後、市の教育委員会などとも議論して決めるということですが、全国学力テストの結果を教員の人事評価に用いるのは、全国でも例がないということです。」(平成30年8月2日:大阪市ホームページより)

                         

                         

                         

                        話を戻しますが、ブログでは、村上春樹氏や宮崎駿氏を引き合いに出しました。村上氏は優れた文学的な比喩を通じて、宮崎氏はアニメによって、人間の無意識に影響を与える術を知っていると思ったからです。

                         

                         

                         

                        子供が無意識の世界を育むべきときに、親があれこれ具体的な指示を出すことは、特に受験を効率的に勝ち抜くためのクソのような指示の場合、魂の休息場所である無意識の世界を破壊することにつながると私は思っています。

                         

                         

                         

                        大げさなようですが、それは世界の崩壊へとつながっているのですね。世界は子供たち一人一人の魂が寄り集まって創られている、大きなやわらかい綿菓子のようなものですから。

                         

                         

                         

                        何やら取り留めのない話になりそうなのでやめにしたいと思います。名もなき一教師さんのおかげで、ブログを読み返し、わずかながら思考が深まっていることを確認することができました。ありがとうございました。

                         

                         

                         

                        最後に、中高生の皆さんのために、時間がどれほど大切なものか気づかせてくれる本を推薦しておきます。今の世の中の支配的な価値観に対する痛烈な批判が込められています。「佐藤ママ」はこの物語の中に出てくる「時間貯蓄銀行」の「灰色の男」たちそのものです。残り少なくなった夏休みの思い出にしてもらえたらうれしいです。

                         

                        ※ミヒャエル・エンデ『モモ』(岩波書店)

                         

                         

                         

                        以下は私のブログです。

                         

                        『こどもの魂はどこで育つのか』

                        http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=174

                         

                        | 教育 | 23:24 | comments(1) | - |
                        教育にまつわるここだけの話。
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                          もうなんと言えばいいのか、この国の教育、とくに英語教育のバカバカしさには言葉もありません。国や文部科学省の言い分を聞いてみましょう。

                           

                           

                          文部科学省官僚S氏。

                           

                          「自分たちはグローバル社会のなかで手をこまねいているわけではありませんよ、一応小学校の段階から英語を正規の教科にしましたし、4技能を身につけさせるために大学入試も模様替えする予定です。

                           

                           

                          失敗に終わるだろうという声もありますが、まあ国がスローガンを打ち出すだけで、学校ではもちろんできませんが、何しろ人材も予算も時間もないわけですから、でも、そこはほら、民間企業(塾業界)がわれ先に英語熱を煽って生徒を確保しようと懸命になってくれますし、子どもが落ちこぼれたら大変ということで親は自腹を切って塾に通わせようとします。

                           

                           

                          いやあ、本音を言えば、今時学校だけで教育ができるなんて考えている人はいませんよ。社会保障でも自己責任が叫ばれているでしょ。だから教育も自己責任というわけです。

                           

                           

                          じゃあ国は何のためにあるのかですって?それはほら、政治家が戦争をあおったり、国有財産を二束三文で売り飛ばしたりして、税金をロンダリングして自分のふところに入れるためですよ。アベノミクスと称して紙幣を印刷しまくり、官製相場をつくって株価を上げれば、財界から金と票をもらえるというわけです。

                           

                           

                          国民はそれほどバカじゃないとおっしゃるんですか?そうですかねえ。麻生財務大臣の記者会見を見ましたか?彼は会見で次のように言ったのですよ。「(佐川は)国税庁長官としても理財局長としても適任だが本人の申し出を許可した。併せて、懲戒処分減給3ヶ月にした。今後更なる懲戒の可能性も伝えた」と。

                           

                           

                          この日本語分かりますか?適任なのに懲戒だと。国民がまともだったら、こんな支離滅裂な日本語を使う人間が財務大臣をしているのかと驚き、絶望するはずですよ。政権はとうの昔にひっくり返っていますよ。なんたって、「全体の奉仕者」である公務員を、自分の使用人のようにこき使っているのですから。

                           

                           

                          森友問題は、いつの間にか財務省の問題になっていますが、財務官僚が自分の意思で公文書を改竄したり、削除したりして犯罪に手を染めたりするはずがないじゃありませんか。政治的な力がはたらいたのですよ。削除された文書の中に「本件の特殊性」とあるじゃありませんか。

                           

                           

                          「特殊性」って何ですか。安倍総理夫妻の案件だということですよ。それが分からない官僚などいません。海に落ちた透明のガラス片を探すくらい難しいでしょう。その「特殊性」のために近畿財務局の職員が「自殺」したんですよ。それでも安倍政権は倒れないでしょうね。だって国民とカルト宗教団体が支えているのですから。おや、話がそれましたね。ついつい同じ公務員なので身につまされましてねえ。

                           

                           

                          英語教育の話でしたね。で、大学入試も英語の4技能を向上させるために、民間試験を活用するということになっています。でも昨日3月10日に、東大が民間試験を使わないという方針を明らかにしました。入試に必要な公平性が担保できないというのがその理由です。東大が宣言してくれたので内心ホッとしています。

                           

                           

                          こんなの、あたりまえですよ。よほどのおバカさんでなければ、これからは英検だTOEICだと騒ぎはしません。入試は何より公平でなければなりません。わけのわからない試験で合格したとなると、大学への信頼、ひいては存在そのものが否定されるのですから。

                           

                           

                          例えば、東大の合否が親の年収で決まるとなれば、だれも東大を信頼しなくなります。むしろ軽蔑の対象になるでしょう。なんだ、東大はバカでも金持ちの坊ちゃんや嬢ちゃんなら行けるのか、というわけです。

                           

                           

                          えっ、実態はすでにそうなっているですって。シッ。そんな大きな声で本当のことを言っては困ります。東大の実態がそうだと分かれば、そこに大量に合格者を出している高校も同じことになりますからね。だから、入試の公平性は教育に対する信頼性をつなぎとめる最後の命綱なのです。

                           

                           

                          実のところ、東大をはじめとする難関大学に合格するには、学力だけでは足らなくなっています。家庭の環境や親の学歴といった「文化資本」が必要なのです。その結果、難関大学は富裕層の子どもに独占されることになります。格差はますます開くことになりますね。逆に、富裕層に見られたいという見栄のために子どもに勉強させるといった倒錯した親も出てきます。

                           

                           

                          御存じないかもしれませんが、東大に合格するためのルートはすでに決まっているのです。特に私立の医学部に合格するルートは、親の経済力と、どこの医学部専門予備校・塾に行くかで決まっています。生まれた時から裕福で、高級ホテル並みの個室で手取り足とり教えてくれるような環境で入試を突破した医者にあなたは診てもらいたいですか。私なら二の足を踏みますね。

                           

                           

                          これからはまともな医者は地方の国立大学医学部でしか育たないのではないかと危惧しているのです。ええ、これはもちろん私だけの考えですから間違っているかもしれません。

                           

                           

                          というわけで、東大が合否判定に民間試験を使わないという方針を明らかにしたのは、試験の公平性こそが自分たちの存在を担保するものだと分かっているからです。これから風向きは変わりますよ。

                           

                           

                          ここだけの話ですが、共通テストも民間試験も私たちの天下り先を確保するために考え出されたものです。大学入試センター試験は、この国の未来を託すべき若者を、偏差値という線型の序列性の上に位置づけることで「分をわきまえさせ」、統治しやすくするための方法だったのです。

                           

                           

                          いや、こんなことを言うと陰謀論だといわれるので、一つだけ言い訳をすると、「意図せざる結果の法則」というわけで、半ば偶然に、半ば意図して出来上がったというわけです。

                           

                           

                          ここまで言えば、もうおわかりでしょう。大学入試センター試験も、それに替わる共通テストも民間試験も実は全く不要なのです。各大学が独自の試験をすればいいだけのことです。

                           

                           

                          大学で学問をするためには、これこれの学力が必要だと思えば、各大学がそれなりの難易度の問題を作成し、志願者を選別すればいいのです。一昔前はそうしていたのですから。通分ができない大学生にはそれなりの問題を、高度な英語力が必要な学部はそれなりの問題を作ればいいのです。

                           

                           

                          それができないのは、あまり大きな声では言えないのですが、入試問題を作れない大学が多いからです。それどころか、定員割れの大学は、入学(入園)していただくお客様をテストで選別するなんて、おそれ多いことでございます、と考えているでしょうね。しかし、入試をしなければ大学と認知されません。苦しいところですね。要するに、共通テストは、大学の大衆化に対応するものなのです。

                           

                           

                          少子化が加速する今こそ、大学の再編のチャンスなのですが、そんなことを言おうものなら、金儲けのじゃまをするなということで「粛清」されるかもしれません。今や大学は学問をする所だなどと考えている人はほとんどいません。就職するまでの腰かけにすぎないのです。ノーベル賞をもらった京都大学の山中伸弥教授ですら、クラウドファウンディングでお金を集めなければならないのですよ。

                           

                           

                          はっきりいいましょう。文科省に限らず、財務省でも他の省庁でも、自分の子どもは海外の大学へやると決めている人は大勢います。日本の大学に見切りをつけているんです。今日は少し余計なことをしゃべりすぎたかも知れません。ではまたお会いしましょう。」

                           

                          英語をめぐるバカ騒ぎ。

                          http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=467

                           

                          | 教育 | 16:02 | comments(0) | - |
                          ある兄妹のこと。
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                            私の塾教師人生も第4コーナーを回って最後の直線に入ってきました。個性豊かな子供たちとの出会いがあり、思い返せば様々な出来事がありました。世間の片隅に埋もれるようにして塾稼業を続けてきましたが、ある意味、幸せな時間だったと思います。

                             

                             

                             

                            なぜなら、空前絶後のおバカ総理の発言に沿うべく、後から公文書を書き変えたり、削除したりして、懸命につじつま合わせをしなければならない財務官僚の心中を察すると、気の毒というよりも哀れをもよおすからです。私たちは事実上国家の崩壊に立ち会っているのです。

                             

                             

                             

                            これから日本を襲うカタストロフィーは、自然災害にとどまらず、経済的・文化的・道徳的な枠組みを破壊し、たたけばピーマンのようにパコパコ音のする頭を乗せた人間たちを大量に生み出すことでしょう。

                             

                             

                             

                            私は誰かの意図を忖度して生きることは、本来むなしい生をますますむなしくすると、人生の早い段階から気づいていました。そのせいか、多くの人が望むように一流企業に入ろうとも思わず、潜在的失業者として生きることを選択しました。

                             

                             

                             

                            自分がとるに足らない塾教師であればこそ、そこにやってくる子供たちも親も、なんらかしこまる必要もなく、むしろ見下すくらいの態度で接してくれます。「つまらなければ、他にも塾はあるのだから、やめればいいのよ」という親子のスタンスは、多少私の自尊心を傷つけはしますが、それと引きかえに、何ともいえない自由をもたらしてくれたのです。

                             

                             

                             

                            食うや食わずをがまんすれば、鬱になることもありません。塾教師にとって必要なのは、限られたリソースで生きていこうとする覚悟であり、精神の衛生学なのです。私には多店舗展開の塾をつくって儲けようという気などさらさらありませんでした。自分がやれる間だけやって、時期が来れば、里山にある空き家が人知れず朽ちていくように、やめるだけだと思っていました。

                             

                             

                             

                            そのせいか、幸せな出会いもありました。その中に、ある兄妹がいたのです。まず入塾の時、父親と息子を一目見て、ああこの親子となら通じ合えるにちがいないと思いました。その後、兄が妹を連れてきた時も、まったく同じでした。いつもお父さんがいっしょでしたが、塾教師として私がするべきことはあまりないだろうなと思いました。なぜか?

                             

                             

                             

                            「月謝という対価を払っているのだから、それに見合った効果を出すべきだ」といった雰囲気がこの親子には微塵もなかったからです。人間として学ぶ姿勢がすでにできているので、私の教えることを素直に吸収してくれるだろうと思いました。そしてその通りになりました。単純な事実ですが、教育ではやはり家庭が大きな比重を占めています。

                             

                             

                             

                            消費社会は人間の意識を等価交換と費用対効果というイデオロギーで染め上げます。その結果、今では色々なモノを子どもに買い与えられる家庭がいい家庭だとかんちがいされています。それを思うと、例外的な家庭であり、兄妹だったのです。

                             

                             

                             

                            そんなわけで、兄のK君は京都大学に合格し、妹のSさんは今年大分大学の医学部に合格しました。お父さんとSさんが挨拶に見えた時、私は思わずSさんの手をとり握手しました。なんといっても、7年間の付き合いでしたからね。私の娘のような気持ちがしたのです。本当はハグしたかったのですが、お父さんがそばにいるのでできませんでした(笑)。貸していた映画のDVDを返してもらい、よもやま話をしました。

                             

                             

                             

                            私がSさんを素晴らしいと思うのは、中央志向つまり東京志向がないところです。普通Sさんほどの学力があれば、中央志向、ブランド志向になるのがふつうです。自分の子供4人を全員東大の医学部に「合格させた」母親が脚光をあびるのが今の世の中です。

                             

                             

                             

                            Sさんはそういった世間の浮ついた風潮に迎合することなく、へき地医療にたずさわりたいと言います。これからは、小さな世界で等身大の生き方をすることが幸せにつながると分かっているのです。つまり、10年先を行っているのです。

                             

                             

                            小さな世界で生きる幸福 ドラマ 『鴨川食堂』

                            http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=107

                             

                            『鴨川食堂』という魂の救済場所

                            http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=124

                             

                             

                             

                            ふりかえると、あっという間のようですが、K君もSさんも休むことなく7年間塾に通って来てくれました。私の塾を合格のために利用するのではなく、勉強することそのものを楽しむ場所だと考えてくれたのでしょう。感謝の言葉もありません。

                             

                             

                             

                            よく予備校や塾の宣伝文句で「みなさんは何もしなくてもいい。合格させるのは私たちの責任です。入試から逆算して今何をすべきか。それを教えます。」というのがあります。それに対して私がよく言うのは「合格したら僕のせい。不合格だったら君のせい。」です。

                             

                             

                             

                            何やらふまじめのようですが、続きがあります。

                             

                            「これは冗談です。僕は合格も不合格もすべて君たちにかえしてあげたいと思っています。かりに不合格だったとしても、僕には責任をとる術がありません。授業料をすべて返す、などというのは「結果」によって勉強してきた意味を無価値にする考え方です。懸命に努力しても不合格のこともあります。当然その逆もあります。かりに不合格であっても、そこから見えるものがあります。つまり、合格した人には味わうことのできない気持ちを味わい、見えない景色を見ることができるのです。だから、僕はおめでとうと言いたい。スポーツでも試験でも大切なのは負けた時の態度です。むしろそのために、スポーツや試験はあると考えた方がいいくらいです。金メダリストの陰には、何千人という挫折した金メダリストがいるのです。だから、Be a good loser! (よき敗者であれ!)

                             

                             

                             

                            今回の話はここまでです。読んでくれた皆さんにお礼申し上げます。いつもありがとうございます。

                             

                            | 教育 | 14:58 | comments(0) | - |
                            滅び行く国の教育。
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                              高校入試を控えた中3生の授業もあと1回を残すのみとなりました。国公立大学前期日程の入試も直前です。そこで、久しぶりに静かな土曜日、塾の宣伝を兼ねて(新高3生の授業は3月より開始です)英文法の解説をしようと思ったのですが、どうも気分が乗りません。政治のみならず教育の自壊現象を目の当りにして意気阻喪しているのです。

                               

                               

                              そこでその原因と冷静にむきあうために言葉にしてみました。「思考ノート」の作り方を書いた責任がありますからね。

                               

                               

                              その1:教育の自壊現象について。

                               

                               

                              例の東京・銀座の中央区立アルマーニ小学校、じゃなかった泰明小学校の件です。報道によると、同小学校がイタリアの高級ブランド「アルマーニ」にデザインを依頼し、最大約8万円の標準服の導入を決めたことを巡り、同ブランドの日本法人「ジョルジオアルマーニジャパン」(東京)が、区教育委員会に対し、児童の安全確保などを要望する申し入れを行ったことが23日、同社や区への取材で分かった、とのことです。

                               

                               

                               

                              「標準服導入を巡っては、同小の児童らが登下校中に服をつままれるなどの嫌がらせが起きている。同社によると、申し入れは23日までに文書で行い、児童の安全確保のほか、標準服導入について保護者に改めて説明するよう求めたという。同社の担当者は「児童への影響が出ていることを懸念している。導入を巡る保護者の同意や理解を進めてほしい」と話している。標準服の販売店舗によると、23日現在、今春の入学予定者60人中54人がすでに採寸と入金を終えた。」ということです。

                               

                               

                              ほらね。私が予想した通りのことが起こっています。

                               

                               

                              それにしても、さすが「アルマーニ」です。児童に対するいやがらせが相次ぎ、傷害事件、誘拐事件に発展すれば、ブランドイメージに致命的な傷がつくことを懸念し、早々と手を打ったのです。イタリアの高級ブランドともなれば、危機管理の意識が高い。日本の公教育に指示が出せるのですね。「アルマーニ」がすごいのか、校長や区教育委員会がふがいないのか、どっちでしょう。

                               

                               

                               

                              本来なら、区教育委員会が校長を呼び、「あなたは公立小学校の校長であることを認識しているのか。公共心のある子供を育てることがあなたのやるべきことではないのか。子供たちがいやがらせをうけたり、事件に発展したりすれば、あなたは責任をとれるのか。すぐに撤回していただきたい。」と言うべきだったのです。

                               

                               

                               

                              でもそれは無理です。なぜなら、校長はアルマーニの制服の導入をめぐってすでに区教育委員会に相談をしていたのですから。区教育委員会のなかに見識のある人物がいればその時点で校長をたしなめていたでしょう。でもそれができなかった。理由はすでにブログで書きました。

                               

                               

                               

                              要するに、公教育は消費社会の象徴である「高級ブランド」に屈したのです。当然ですね。教育の最終目的はブランド学校、ブランド大学、ブランド職業に就き、人より少しでも多くかせぎ、人より少しでもいいモノを買うことになったのですから。

                               

                               

                               

                              消費に変わるオールターナティブな価値をつくりだせなければ、私たちの社会は静かに瓦解していくしかありません。私立はどうか、ですって?私立は、ブランドに屈するもなにも、ブランドそのものをつくりあげようと必死になっています。きっと「経営者」の頭の中は「ブランディング」でいっぱいになっていることでしょう。

                               

                               

                              その2:政治の自壊現象について。

                               

                               

                              報道によると、2月23日午前4時頃に東京都千代田区の在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)中央本部の門の前で男2人による銃撃テロが発生しました。警戒中の機動隊員が建造物損壊容疑で2人を現行犯逮捕。そのうち1人が右翼活動家の桂田智司容疑者で、もう1人も右翼団体関係者とみられています。

                               

                              桂田智司容疑者。

                               

                               

                               

                              私が批判したルーリーちゃんこと、国際政治学者・三浦瑠麗ちゃんが、大阪に北朝鮮の「スリーパーセル」というテロリスト分子が大勢潜んでいるというヘイトデマをテレビで流した直後に起こった今回の銃撃テロ。逮捕された容疑者は「スリーパー」どころか、拳銃で武装した極右テロリストでした。

                               

                               

                               

                              こんなイカれた差別主義者がいるのに、国を挙げて北朝鮮危機を煽り、テレビでデマを流して差別煽動すればどうなるか。まさしく関東大震災時の「朝鮮人が井戸に毒」のデマの後に朝鮮人虐殺が発生したことと同じ構図となったわけです。

                               

                               

                              ルーリーちゃんは今回のテロを予想できなかったのでしょうね。彼女はネトウヨのマスコット人形にはなれるかもしれませんが、学者としては完全に失格です。

                               

                               

                               

                              これもすでにブログで書きましたが、ネトウヨ作家の百田尚樹というテロリストもいます。事実、彼自身がツイッタ―で公言しています。「もし北朝鮮のミサイルで私の家族が死に、私が生き残れば、私はテロ組織を作って、日本国内の敵を潰していく」と。しかも彼には少なからぬ賛同者がいるのです。

                               

                               

                               

                              ところで、第二次安倍政権が発足した直後の2013年、一人の女子中学生が大阪の鶴橋でヘイトデモに参加し、「いつまでも調子に乗っとったら南京大虐殺じゃなくて鶴橋大虐殺を実行しますよ」という虐殺予告のヘイトスピーチを行って、日本だけではなく世界中に衝撃を与えました。この女子中学生の父親こそが今回のテロ実行犯である桂田智司です。

                               

                               

                               

                              私は同じようなヘイトスピーチを撒き散らす大分市のY田ゼミ塾長を批判してきました。塾の教師であろうが学校の教師であろうが、教育を通じてヘイトスピーチをあおる人間を放置できなかったのです。この種の人間たちの過激な言説に眉をひそめる人も、自分たちの足元が徐々に切り崩されていることにはなかなか気づきせん。

                               

                               

                               

                              大事なのは経済だ。企業の国際競争力を高めることだ。裁量労働制は間違っていない。データが何だ。自分の考えが「正しい」ことはあたりまえだから論証などいらない。国会は単なるセレモニーに過ぎない。ついでに、国民主権、平和主義、基本的人権の尊重もじゃまだ。そんなものはインテリのへ理屈に過ぎない、というわけです。いやはや、教育とはおそろしいものです。

                               

                              | 教育 | 12:18 | comments(0) | - |
                              バレンタインデーのチョコレートなんか・・・
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                                皆さんは「教育」という言葉から何を連想しますか?「ウザい」「よだきい」「しちくじい」・・・これらは全部同じような意味です。あとの二つは大分県以外の人には伝わりにくいでしょうけど。でも、連想する「もの」ですから、形容詞ではなく名詞で答えてほしいですね。

                                 

                                 

                                 

                                例えば「自由」「権利」「平等」「可能性」「愛」「公平」「文化」「歴史」「伝統」「国民」「知性」「教養」「貢献」などなど。でもこういった言葉を連想する人は、今は少ないかもしれません。

                                 

                                 

                                 

                                それに代わって「商品」「費用対効果」「消費」「差別化」「階層」「特権」「選択と集中」「効率」「格差」「中学受験」「塾」「合格率」「自由競争」「グローバリズム」「自己責任」「義務」「親の経済力」「母親の狂気」「人格喪失」「子供の虐待」「いじめ」「自殺」と言った言葉を連想する人が多くなっている気がします。

                                 

                                「母親の狂気」などいうおどろおどろしいものもまぎれこんでいますが、なんだか経済学っぽい言葉とマイナスイメージの言葉ばかりが並びましたね。

                                 

                                 

                                 

                                前者の中には「公共性」を指向する言葉が含まれていますが、後者の語群からは「公共性」がきれいに消えて、自由競争やグローバリズム(この言葉の本当の意味を理解している者がなんと少ないことか!)という大多数の国民を犠牲にする「豊かな暮らし」を指向する言葉が並んでいます。

                                 

                                 

                                 

                                でも、「豊かな暮らし」って何なんでしょう。「豊かな暮らし」のキーワードは「消費」です。消費は、いろいろな選択肢の中から好きなものを選んで買うことでした。それが自分自身の個性、社会的価値を示すものへと変わりました。すなわち、どれだけ高価な商品を買うことができるのかが、人間の社会的ステイタスを決めると信じられているのです。これはアメリカ的な価値観です。

                                 

                                 

                                 

                                これを否定したり、まったく気にかけない人間は変わり者として消費社会からはじき出されます。働いて金を稼ぎ、それですきなものを買うことが自己実現だとすれば、働くことはお金を稼ぐ手段になってしまいます。つまりお金を稼ぐことが最終的な目的になるのですから、労働に価値を見出せなくなるのも当然です。

                                 

                                 

                                 

                                そこで前々回のブログで書いたコロンボ警部の生き方を思い出してみましょう。高級車に乗り、高級な葉巻きを吸い、豪邸に住み、高級なブランドの服を着ることよりも、彼は刑事として働くことそのものが自己実現だと考えているのです。つまり、「消費に結びつかない自己実現」を実践しているのです。実は、日本人が真似しなければならないのは、コロンボの生き方なのです。

                                 

                                 

                                 

                                これと関連して、このところいわゆる富裕層の子育てがどうしようもなく画一的で貧しくなっていると思います。その代表がこども4人全員を東大医学部に合格させた、例の「佐藤ママ」です。彼、彼女らの子育てはとても巧妙です。「いいかげんに勉強せんか!いつまでテレビ見ちょんのじゃ、ボケ!」というような下品なことは言いません。

                                 

                                 

                                 

                                それどころか、判で押したように「勉強しなさいなんて一度も言ったことはありませんのよ」というのが、彼らのセリフです。あくまで「自主性にまかせる」というわけです。しかし、彼らはこどもを自分の所有物だと考えています。「自主性にまかせる」と言いながら、親の思い通りに育てています。そうすることがこどもの将来のためになる、社会にとって有用な人材になると思い込んでいるのです。教育とは、まず親がしっかりレールを敷いてやることだというわけです。何という貧しいこども観でしょう。

                                 

                                 

                                 

                                考えても見て下さい。こどもの成長のしかたというのはそんなものではないはずです。はたから見ていると、何でそんなものに夢中になるのか全く分からないようなことに夢中になる。時間を忘れてただひたすら同じことを繰り返す。まわりのことなんかまったく気にせずに、ただただ自分の力を伸ばそうとする。自分はあんなこともできる、こんなこともできる、と感じられるのが嬉しくてたまらない。これから何になるかなんてわからない。でもわからないからこそ、何ものにも縛られずに自由奔放に生きている。こどもはいつだって予測不可能なものに成長していくのです。

                                 

                                 

                                 

                                大人がそれを巧妙にコントロールし「善き方向」へと導く。そこで排除されるものは自由と偶然性に満ちた宝の山なのです。「佐藤ママ」が4人のこどもたち全員に、大学に受かるまでだったか、社会人になるまでだったか忘れましたが、「恋愛禁止」を申し渡していると聞いた時、「なに言ってるんだ、このババア(よいこのみなさんは決してまねをしないでね)、人間をなめるのもいいかげんにしろよ!」と、はしたなくも叫びかけました。こどもを受験という人工的な環境の中に囲い込むことによって実は社会の活力や可能性をそいでいることには気づいていないのです。

                                 

                                 

                                 

                                 

                                ところで今日はバレンタインデーだそうです。コマーシャリズムにのせられて、若い女性たちがデパ地下でチョコレートを買いあさっている光景をよくテレビで見かけます。ここにもマインドコントロールされたアホな女性がうじゃうじゃわいていると思うと、悲しくなります。僕はバレンタインデーのチョコレートなんか欲しくありません。お返しが大変だから。

                                 

                                 

                                 

                                娘たちにも、「お父さんはそんなものいらん!」と言っています。彼女たちの返事は毎年決まっていて「ハイハイ、わかっていますよ。心配しないでね」というものです。そう素直に言われると少しさびしい。

                                 

                                 

                                 

                                で今日の午後、妻に「コーヒーいれてよ。ティータイムしましょうよ」と言われたので、居間に行くとテーブルの上に何やらプレゼントらしきものが並んでいるではありませんか。

                                 

                                 

                                「まさか、バレンタインデーのチョコレートじゃないだろうな」

                                「さあ、何でしょう。開けてみたら?」

                                というわけで、開けてみると、これでした。

                                 

                                ピエール・ルドンのチョコレート。

                                 

                                 

                                 

                                チョコレート会社のくちぐるまにのりおってと、ぶつぶつ言いながら口に入れました。なんということでしょう。うまい!マジで。コーヒーと合う!さすがピエール・ルドンだけのことはある、と思いました。

                                 

                                 

                                 

                                「あら、美味しそうじゃないの。チョコレートは嫌いだったんじゃないの?」

                                「ピエール・ルドンかノドンかしらないが、北朝鮮のミサイルのような名前のチョコレートなんか、美味しいわけないだろ」

                                「あらうれしい。じゃあ残りは私が全部もらうわよ」

                                「ちょっ、ちょっと。そんなことしたら、せっかくもってきてくれた娘が悲しむよ・・・」

                                 

                                | 教育 | 14:49 | comments(0) | - |
                                刑事コロンボ VS 「アルマーニ」校長
                                0

                                  突然ですが『刑事コロンボ』が好きでした。プロという言葉から連想するのが、コロンボ警部でしたね。トレードマークのよれよれのレインコート、くしゃくしゃの髪、その辺で拾ってきたような車に何のとりえもない愛犬を乗せ、安物の葉巻をくわえて殺害現場にやってきます。スキだらけの、さえない刑事を絵にかいたようないでたちです。ところが、ドラマが進むにつれて、この印象が180度ひっくりかえります。犯罪者の心理を洞察する力においてコロンボの右に出るものはない、と思い知らされるのです。

                                   

                                   

                                   

                                   

                                  このドラマは、それまでの刑事物・推理小説とは違って、視聴者や読者に最初に殺害シーンを見せ、犯人を教えます。知らないのはコロンボだけです。その結果、犯人が誰かではなく、コロンボが犯人を割り出すプロセスそのものがドラマの中心になります。そして犯人にぐうの音も出ないほどの証拠を突きつけて降参させる最終シーンにもっていく仕掛けになっているのです。

                                   

                                   

                                   

                                  もう一つこのドラマを面白くしている特徴があります。犯人が例外なく大富豪や有名人、歌手やスポーツ選手、政治家や大学教授といったエスタブリッシュメントだということです。例えば、最終シーンで、高名な犯罪心理学者の犯人が「ところでコロンボ君、いつの時点で私が犯人だと気づいたのかね?」と訊くところがあります。

                                   

                                   

                                   

                                  「はい。最初にあなたを見た時からです。あなたが犯人だと分かっていました。ただそれを証明するのに手間取りましてねえ。途中で万事休すかと思いましたよ。でも犯人が分かっているのにあきらめるわけにはいかない。それですべてが腑に落ちるある事実に気付いたというわけです。」とコロンボ警部。このシーンにしびれました。今のマスメディアや野党の政治家に聞かせてやりたい。

                                   

                                   

                                   

                                  コロンボ警部は銃をもっていません。撃ち方も知りません。射撃の練習義務が課されていますが、いろいろ言い訳をして試射場にいきません。自分の仕事が何かよく分かっているのですね。人を殺すことではないと。これぞプロの中のプロです。

                                   

                                   

                                   

                                  何だか前ふりが長くなってしまいました。いや、大したことを言いたいわけではありません。正直どうでもいいことを書くのに、嫌気がさしているのです。そう、例の「アルマーニ」問題です。

                                   

                                   

                                   

                                  泰明小学校の和田利次校長(62)「アルマーニ」の標準服を独断で決めたことをめぐり、「銀座にある学校だからこそ進めてきたが、丁寧な説明をしながら進めるべきだった」と述べています。でも、新標準服の採用は「ご理解いただき、購入者側の判断で購入してほしい」「(採用する)手続きにおいて反省はあるが、非常識な判断とは思っていない。新一年生からこの服でやっていく。変える考えはない」と述べたそうです。

                                   

                                   

                                   

                                  自分の独断で決めておいて、その責任をとるのかと思えば、「購入者側の判断で購入してほしい」って、責任の丸投げです。反省してないですね。しかも自分の判断は非常識ではないとおっしゃっています。結局「アルマーニの制服」が実質的には強制されるわけです。なんかこの手の釈明になっていない釈明、結局は自分の判断を押し通す手法はうんざりするほど見てきた気がします。

                                   

                                   

                                   

                                  今度の件で私が最も違和感を覚えたのは、公立小学校がなんで「アルマーニ」なんだという「正論」に対してでした。

                                   

                                   

                                  和田校長は高額のため購入が難しい家庭がありうることを考えなかったのか。」と問われて「本校の保護者なら出せるのではないかと思った。泰明小でなければこういう話は進めない。価格が高いという苦情があることを聞いており、個別に相談に応じていきたい。」と答えています。気分はほとんど「私立」の校長に、何で「公立」が、しかもアルマーニ」なの?と言ったところで、現状を知らない理想論だと言われるだけです。

                                   

                                   

                                   

                                  泰明小学校は銀座にある特認校で越境入学者が多い。保護者も経済力のある人がほとんどだ。「アルマーニ」の提案は受け入れられるだろう、と和田校長は踏んだのです。つまりたてまえ上は「公立」でも、実質は「私立」である。たてまえより現実に即した決断をしたつもりだ、ということでしょう。結局この問題は「公立」か「私立」か、ではなく、保護者の経済力が決め手になるのです。保護者は校長の判断を受け入れるでしょうね。

                                   

                                   

                                   

                                  それにしても和田校長の発想は軽すぎます。以下にその例を挙げてみます。これでも名門小学校の校長が務まるといういい例です。

                                   

                                   

                                  例その1。

                                   

                                  「アルマーニ制服」の導入を「服育」と称して重要な教育の一貫と位置付けている点。

                                   

                                   

                                  お兄ちゃんやお姉ちゃんのお下がりをつなぎ合わせ、大胆なデザインの服に仕立て上げることは「服育」にならないのか。ゴミ捨て場に捨てられている新品同様の衣類を再生することは資源の節約にもなるし、「服育」と言うなら、これこそが本当の「服育」ではないのか。成長ざかりの子供に「アルマーニ」を着せることのどこが「服育」か、と反論されることは考えなかったのでしょうね。

                                   

                                   

                                   

                                  例その2。

                                   

                                  「銀座の街のブランドと泰明ブランドが合わさった時に銀座にある学校らしさも生まれてくる。視覚から受ける刺激による「ビジュアルアイデンティティーの育成はこれからの人材を育てることに不可欠」であり、それがスクールアイデンティティーの育成にもつながる」と説明していること。

                                   

                                   

                                   

                                  私はこの説明を聞いてひっくり返りました。どこがって?よく見て下さい。「ビジュアルアイデンティティーの育成はこれからの人材を育てることに不可欠」だと言っているんですよ。ビジュアルアイデンティティーなどとわけのわからない横文字を使っていますが、簡単に言うと「あっ、アルマーニの制服を着ている!泰明小学校の生徒だわ。」と認知されることをいいます。これのどこが「これからの人材を育てることに不可欠」なのでしょう。

                                   

                                   

                                   

                                  アルマーニの制服を着ているわが子と銀座でショッピングなんてことを夢見ているお母さんお父さん!「アルマーニの制服を着ている子供の家庭はリッチにちがいない。誘拐すればたんまり身代金がとれるかも」と考える人間もいるかもしれませんよ。それに「ふん、公立のくせに私立のまねして、無理してアルマーニなんて、いかにも貧乏人の考えそうなことだわ」とバカにしながら嫉妬する親御さんの存在も無視できませんよ。おお、こわっ!

                                   

                                   

                                   

                                  なりより、親がそういうことを望めば、子供は「ブランドの服を着ることで人より偉くなった気がする。人よりいいものを着るために、これからも一生懸命勉強しなくっちゃ」と考えるかもしれませんね。それが目的ですって?人を外見で判断したり、見下したりする子供に育てることがですか?

                                   

                                   

                                   

                                  最後に、この校長が気の毒だと思う点。

                                   

                                   

                                  今や「教育=どの学校や大学に入れるかということ」は完全に「商品」だと見なされるようになりました。「商品」である以上、投入した対価に見合う「結果」が出なければなりません。投下資本はなるべく早く回収する必要があるのです。

                                   

                                   

                                  泰明小学校の校長は老舗の小学校が消費社会の中で埋没することを恐れたのでしょう。中学受験が近づけば、教室の半分がガラ空きになります。受験対策のために生徒が欠席するからです。

                                   

                                   

                                   

                                  これは「公立」小学校の教育が「私立」に従属していることを思い知らされる瞬間です。かといって、欠席を認めないというわけにもいきません。和田校長も心中穏やかではなかったはずです。そこで思い付いたのが「アルマーニ」の導入だったというわけです。あちゃ〜。

                                   

                                   

                                   

                                  教育がお金で売買できる「商品」である以上、それを売るためには他の商品と差異化・差別化しなければなりません。なぜなら消費者はその差異に付加価値を認め対価を払うからです。

                                   

                                   

                                   

                                  和田校長はこういった市場の無形の圧力に立ち向かうべく、保護者から認められたいという思いと、ここらで尖ってみようという思いを胸に「決起」したのかもしれません。しかし、そのための方法がいかにも稚拙だったのです。これは私の意見なので大っぴらには言えませんが、こういう人間は「公立」小学校の校長をするべきではありません。

                                   

                                   

                                   

                                  いい歳の大人が、いや教育者が、外形的なものでしか自己アピールできないとは情けないことです。刑事コロンボの爪の垢でも煎じて飲んでみてはいかがでしょうか。

                                   

                                  | 教育 | 19:49 | comments(0) | - |
                                  100年後の生存戦略−教育その3・「ラコリーナ」
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                                    明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願い致します。

                                     

                                     

                                     

                                    元日の朝、ポストを覗いてみると、埼玉県の塾教師O君から年賀状が届いていました。成長した息子さんの写真の上に「3月から新しい環境で始動です。」とありました。川口市からさいたま市、七里へ教室を移すとのことです。風が吹き抜けるとても環境のいいところで、大工さんと相談しながら、教室をデザインしているそうです。いよいよ計画を実行する段階になったのですね。ここにも自分の居場所を懸命に作ろうとしている青年がいます。

                                     

                                     

                                     

                                    市場社会に軸足を置きながら自分の居場所を作ることは、大人でも実はかなり大変なことです。まして子供は大人の用意した環境に適応する他ないので、自分の居場所を作るどころではありません。学校を始めとして与えられた環境の中で何とか生き延びるのに精一杯でしょう。

                                     

                                     

                                     

                                    日本の学校教育は制度疲労を起こしていて、社会の急激な変化についていくことができません。当たり前ですね。相手は人間(子供たち)なので、決められた納期内に一定水準の品質をもった製品を大量に生産する工場のようなわけにはいきません。

                                     

                                     

                                     

                                    子供が成長するには時間がかかるのです。脳に電極をつないで知識や情報をインプットすることができたとしても、魂の成長には、自由と何ものにも奉仕しない時間が必要です。秋になって柿の実が熟すように、ただ待つしかないのです。待つ時間を奪われた子供は、知的には優秀でもいつまでも子供のままです。人間を成長させるのは知識ではなく魂の働きなのですから。

                                     

                                     

                                     

                                    100年後、日本の子供たちが生き生きと学び、活発に議論し、どんな境遇の子供も見捨てられることのない教育の場を作ることは可能でしょうか。戦争経済(原発もその一つです)を回し、国家の富を独占し、私物化して恥じることのない権力者たちを国民の力で排除すれば可能です。そのためには国民が民主主義の力を信じなければなりません。

                                     

                                     

                                     

                                    そのことを確かめるために、私は去年の11月始め、塾を3日間だけ休み、車を飛ばしてある場所へ向かいました。目的地は滋賀県近江八幡市にある『ラコリーナ』です。ラコリーナとはイタリア語で「丘」を意味します。

                                     

                                     

                                     

                                    『ラコリーナ』は、周囲の水郷や緑を活かした美しい原風景の中での、人と自然がふれあう空間づくりをコンセプトにしています。和・洋菓子を総合した店舗および飲食施設や各専門ショップ、農園、本社施設、従業員対象の保育施設などを設けるたねやグループの新たな拠点です。今年の1月9日でメインショップオープンから3年が経ちます。

                                     


                                    カステラショップ・フードガレージと次々に新しい店舗をオープンし、去年は260万人を超える来店者数となりました。

                                     

                                    http://taneya.jp/la_collina/

                                     

                                    メインショップ。向こうに見えるのは八幡山。

                                     

                                     

                                    メインショップの中はカフェと店舗になっている。天井は漆喰に炭をはめ込んだもの。藤森建築の特徴です。とても柔らかい空間です。

                                     

                                     

                                    メインショップを抜けると眼前に広大な田んぼが広がる。右側(画像では正面に見える)が本社。

                                     

                                     

                                     

                                    カステラカフェ。妻とお茶をして疲れをいやしました。

                                     

                                     

                                     

                                    なぜこの場所に向かったかというと、ブログでも書きましたが、以前よりヴァナキュラー建築に興味があり、縄文建築団を率いて活躍する建築家・藤森照信氏に注目していたからです。イタリア人の建築家でデザイナーのミケーレ・デ・ルッキ 氏が全体を構想し、本社やメインショップの設計を手掛けたのが藤森照信氏だったのです。

                                     

                                     

                                     

                                    ヴァナキュラー建築について、ウィキペディアの解説を見てみましょう。

                                     

                                     

                                    引用開始

                                     

                                    「Vernacular」とは「土着の」あるいは「風土的」という意味である。1964年にバーナード・ルドフスキーが著した『建築家なしの建築』によってヴァナキュラー建築の概念は関心を集めた。ルドフスキーは職業的デザイナーである建築家によって建てられたハイスタイルな建築物を系図的にたどることで語られてきた建築史に対して、それまで無視されてきた無名の工匠たちによって造られた風土的建築物を紹介することで、建築芸術の新たな研究対象を提示した。

                                     

                                     

                                    ヴァナキュラー建築は、それぞれの地域で産出する建材を使用して、その土地の気候にあったデザインを考慮して作られる点で、建築部材の全てが工場で生産され、現場で組み立てるだけの近代的な商業建築との大きな違いがある。また、ヴァナキュラー建築の世界では、長年繰り返された選択の蓄積として生まれた建築に必要なルールや知恵の多くは口伝や暗黙知として継承される。その知恵の体系は地域技術として普及し、それぞれの地域に同じような形態の建物が建てられ、風土色のある集落を形成している。

                                     

                                     

                                    引用終わり

                                     

                                    以上でお分かりのように、『ラコリーナ』は、ヴァナキュラー建築をメインコンセプトにしているのです。

                                     

                                    田植えのシーズン。

                                     

                                     

                                    秋の稲刈り。

                                     

                                     

                                    田んぼの小動物観察クラブ。

                                     

                                     

                                    奥にあるフードコート。

                                     

                                     

                                    オレンジティーとシチリアのライスコロッケ「アランチーノ」をたべました。卵をトマト風味のライスで包んで揚げたもので、とても美味しかった。

                                     

                                     

                                     

                                     

                                    新自由主義によるマネー経済の肥大化・加速化は人々を幸福にしません。新自由主義は人間そのものを尊重するのではなく、人間を「手段」とみなす世界観です。私はこの世界観に対抗できるものこそが、ヴァナキュラー建築だと考えています。さらに言えば、「ヴァナキュラー教育」こそ、日本古来の伝統や文化を復興させるものだと確信しています。

                                     

                                     

                                     

                                    『ラコリーナ』のしたたかなところは、市場経済を否定するのではなく、それを乗りこえる可能性を提示しているところです。市場経済を否定すると、最終的には自給自足を目ざす閉ざされた宗教集団のようになってしまいます。「消費」を否定せず、それを逆手にとって、新たな価値を示して見せる。これこそが賞味期限が切れた資本主義社会の先を生きるための処方箋だと思います。

                                     

                                     

                                     

                                    『ラコリーナ』をほぼ半日かけて歩きながら、私はこれが学校だったらどうだろうと考えていました。先入観を捨てて、この場所を学校にすることが可能だろうかと考えてみたのです。結論は可能だということです。

                                     

                                     

                                     

                                    この広い場所に、小学生から高校生までが通い、その土地固有の文化や伝統を学びながら、先端技術の基礎理論やデザインや建築を始めとして様々な教科も学べるようにする。幼稚園児や地域のお年寄りもやって来て、一年に一度盛大なお祭りや収穫祭を開く。

                                     

                                     

                                     

                                    子供たちを部活や宿題で縛るのではなく、自発的創造性にまかせて、宮沢賢治が言うように、農業を舞踏へと高めるのです。もちろん制服など不要です。そこでは100メートルを10秒で走る能力など必要とされません。アクロバティックな鉄棒演技も人間性を無視した集団演技で得点を競うことも不要です。ましてや国家の威信をかけたスポーツ戦士に子供を育てるなど論外です。健康で柔軟性に富んだしなやかな身体を持つ子供に育てればいいのです。

                                     

                                     

                                     

                                    まず『ラコリーナ』のような場所を各都道府県に一つ作る。それだけで私たちが無条件に順応するしかなかった教育システムが、いかに不要・不毛なもので満ちていたかが分かります。

                                     

                                     

                                     

                                    これからの日本は人口減少社会へと突入していきます。お年寄りと若者が手を取り合って生きていかねばならないのです。その時大人が利己的な発想で自分たちの利益を確保するのに精一杯だったとしたら、いったい誰が子供たちの居場所を構想するのでしょうか。

                                     

                                     

                                     

                                    私がここで考えたことは実現できます。決して見果てぬ夢ではありません。現に民間の会社『ラコリーナ』がそれを実現しています。必要なのはヴィジョンです。教育こそが、宇沢弘文氏の言を待つまでもなく、100年先を構想できる社会的共通資本なのです。

                                     

                                     

                                    | 教育 | 21:57 | comments(0) | - |
                                    2017年の終わりに。
                                    0

                                      今年も残すところあとわずかとなりました。一年間、面白くもない、不愉快な内容が多かったブログですが、お付き合い頂いた方には心からお礼申し上げます。

                                       

                                       

                                       

                                      本音を言えば、私は政治などどうでもいいと思っています。この国がどうなろうと、アメリカが北朝鮮を攻撃して日本がその巻き添えを食おうが、それは仕方のないことだというか、自業自得だと思っています。日本人はそれを自ら招き寄せているのですから。

                                       

                                       

                                       

                                      ただそういった空気にどうしてもなじめない、生理的に順応できない自分を発見し、違和感を吐露せざるを得なかったのです。イデオロギーや宗教に胡散臭さを感じるのも、私の体質の問題でしょう。素朴に考えておかしいという感情から出てくるものこそが信頼に値するものです。そうは言っても、どこかで堪忍袋の緒が切れれば、その時点でブログはやめるつもりです。

                                       

                                       

                                       

                                      もともと、今の社会に自分の居場所などあるわけがないと思い、それなら自分の居場所を作るしかないと思って生きてきました。私が惹きつけられる人間の姿というか風情は、ことごとく自分の居場所というか精神のありかを自分で作って来た人たちでした。今は独裁主義に順応する生き方がもてはやされる時代です。いや、いつの時代も世の中とはそういうものかもしれません。

                                       

                                       

                                       

                                      思い返せば、そういった世の中や制度に対する生理的な違和感が私の中で頂点に達したのが、高校3年の時でした。卒業を間近に控えたある日、担任から「○○、お前は卒業アルバムを買わないのか。買わないのは学年でお前一人だぞ。」と言われました。

                                       

                                       

                                       

                                      「僕は上野丘高校に何の愛着もありません。空白の3年間でした。アルバムを買っても、懐かしくなってページを開くことはないと思います。」と私は答えたのです。その時の担任の表情は覚えていません。ただ「そうか」と言っただけでした。今となっては若気の至りというしかありません。

                                       

                                       

                                       

                                      その私が塾の教師になって、生徒を上野丘高校に送り出しているのですから、運命の皮肉というか、罰を受けているようなものです。ただ、罪滅ぼしとして、上野丘高校に最も欠けていたと思うもの(今もそれほど変わりはありません)を、英語を教える中で補おうと心がけています。

                                       

                                       

                                       

                                      ごく単純に言うと、それは今の社会をどうとらえ、どう生きるのかということと切り離して勉強などできないということです。「これほど基本的な事実について無知では、アメリカを始めとして世界の高校生と議論などできるわけがない。いや、議論というよりもコミュニケーションをとることすら不可能だ。英語以前の問題です。」と私はよく言います。英語教師であればなおさらこのことが気になるはずです。

                                       

                                       

                                       

                                      なぜそうなるのか。その背景には、「高校を卒業して大学に入り、大学を卒業して社会に出て初めて現実と向き合える。それまでは準備段階だから黙って受験勉強に励むべきだ」というイデオロギーがあります。それは、かけがえのない現実が今この瞬間にも進行中だということを忘れさせるのです。

                                       

                                       

                                       

                                      現実は今ここにあります。遠い未来にあるのではありません。社会のありようを政治や経済も含めて、あるいは税金の使い方や社会保障のあり方も含めて知ること。それを抜きにした勉強など、本来意味を持たないはずです。上野丘高校が劇的に進学実績を伸ばし、卒業生が懐かしく振り返る場所になるためには、世の中を知ることを含めて、今この瞬間を生きることができる世界で一番自由な場所にするしかありません。

                                       

                                       

                                       

                                      さてもうやめにします。私がこれまでの人生で習得したものは、新しい感情で満たされた日々を送るための技術です。一円のお金も生み出しませんし、自己満足と言われればそれまでかもしれません。しかし。それがなければ人生は無意味だと感じさせるものです。その技術を習得するためには、若い時から訓練を積まなければなりません。それは誰でもいい誰かの人生ではなく、自分自身の人生を生きるためのトレーニングなのです。

                                       

                                       

                                       

                                      今の安倍政権を見れば分かる通り、政治家は本質的に人間として下らない。まともに相手にする人種ではありません。それより、好きな人とデートする方がよっぽどましです。素敵なカフェに入ってコーヒーでも注文しましょう。しかし、そのコーヒー豆がどこから輸入されているのか、その値段を決めるのも政治です。たまには美味しいコーヒーを飲みながら、そういうことも話題にしてみましょう。

                                       

                                       

                                      来年が皆さんにとってよい年でありますように!

                                       

                                      | 教育 | 20:44 | comments(0) | - |
                                      教育の失敗と敗北について。
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                                        安倍政権が登場してからの5年余り、今だけ、金だけ、自分だけといった空気を作り上げ、民主的な社会を破壊してきたのはネトウヨの皆さんの働きによるところが大きいと思います。

                                         

                                         

                                         

                                         

                                        この間の社会の変化を見てきた前文部事務次官の前川喜平氏は、ネトウヨの皆さんを「教育の失敗」だと総括しました。まったくその通りです。それに対してネットでは「お前こそ教育の失敗だ」とか「週4回出会い系バー通いのおっさんに言われたくね〜よ」などという批判が寄せられています。やれやれ、あいかわらずネトウヨの親分の言うことをそのまま鵜呑みにしているのですね。

                                         

                                         

                                         

                                         

                                        しかし、ネトウヨはまさに「教育の失敗」なのです。彼らの発想や行動には、理解できないものを憎むという生理が深く根付いています。歴史的な事実(例えばナチスによるホロコーストなど)を挙げて説得しても、それを捏造だと主張し、自分が理解できることだけが現実であるという歪んだ考えから抜け出ることができません。

                                         

                                         

                                         

                                         

                                        彼らはお金をもらって「愛国」を叫ぶことしかできないのです。「日本スゴイ」だの「中国人、韓国人は悪い連中だ」「トランプさんに北朝鮮を叩き潰してもらおう」「安倍さんを応援しよう」「軍事費をもっと増やそう」などとSNSを通じてわめきちらします。しかし、彼らは企業や団体や特殊な宗教団体からお金をもらって、ウソを流すことに精を出しているだけです。

                                         

                                         

                                         

                                         

                                        具体例を挙げましょう。言わずと知れた大分市中春日町にあるY田ゼミ塾長氏です。この際はっきりさせたいのですが、こんな人間が教えている塾に通ってはなりません。言論の自由すら全くもって理解していないのですから。彼が私と同じ個人塾の教師ではなく、学校の教師やコンプライアンスのしっかりした塾に勤めていたら以下の発言は許されるでしょうか。彼のツイッタ―から少し拾ってみましょう。

                                         

                                         

                                         

                                        ・山尾しおりは不正だろ

                                         

                                        ・大分高専はエロの集まりやな(^O^)欲求不満だらけなんだろう。

                                         

                                        ・谷口とかいう左翼のデブババアを朝からテレビに出すなよ(怒)吐き気がする。デブのくせしてアゴを上げて笑うな、デブ!

                                         

                                        ・早く北朝鮮を攻撃してもらいたい。

                                         

                                        ・早くこのデブジョンウンを殺して欲しい。

                                         

                                        ・これで安倍内閣の支持率がさらに上がる。

                                         

                                        ・憲法9条と叫ぶバカが多いが、憲法9条があっても日本を守ってはくれない。

                                         

                                        ・日本から先制攻撃していいんじゃないのか?

                                         

                                        ・民進党の代表は北朝鮮のスパイ

                                         

                                        ・早く民進党を叩きつぶせ

                                         

                                        ・トランプさん、 早く北朝鮮をtotally destroyしてください。

                                         

                                        ・青木理というジャーナリストは信用するな。こいつは北朝鮮や韓国の応援団だから。

                                         

                                         

                                         

                                         

                                        こういった発言をする人物が「教育の失敗」でなくてなんでしょうか。思想信条とは関係なく、点数を上げてくれるなら教師としての資質を問う必要はないのでしょうね。月謝を払いその対価として成績が上がるなら、その他のことには目をつぶるのでしょうか。

                                         

                                         

                                         

                                         

                                        これこそが消費社会が生んだコスパ万能主義の宿痾です。こういった考え方は学校現場のみならず保護者の間にも広く深く浸透しているはずです。

                                         

                                         

                                         

                                         

                                        さらに、別人になりすますために独身であることを強調して塾紹介サイトを立ち上げ、その中で自塾を宣伝するといった手の込んだ「集客作戦」に打って出る、大分市田尻の学習空間LのK塾長のような教師もいます。

                                         

                                         

                                         

                                        あろうことか、このなりすましの塾長 K氏は、Y田ゼミを「子供がいたら是非とも通わせたい5つの塾」というタイトルをつけて推薦しています。5つの塾の中に未来塾も含まれていたので私は抗議しました。削除するつもりは全くない、自分のやったことは許容範囲だと強弁していたにもかかわらず、サイトは削除されました。なりすまし塾長K氏には、私の塾とY田ゼミの違いが理解できなかったのでしょう。私が親なら子供をこんな塾には絶対に通わせません。

                                         

                                         

                                         

                                         

                                        なぜなら、こんな教師に教えられる子供は、現実そのものに関心を失い、ネットに依存し、命よりも消費と娯楽だけに関心がある大人になる可能性が高いからです。それが証拠にK氏は自分をゲーマーだといっています。そういう人間を大量に生み出していることに無自覚な人々が多くなっていることが「教育の敗北」なのです。

                                         

                                         

                                        | 教育 | 00:43 | comments(1) | - |
                                        カルト化する受験教育 − 子供4人を東大医学部に合格させた「佐藤ママ」は本当にスゴイのか? 
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                                          結論から言うと「スゴイ」の一言です。「スゴイ」と言っても、色々な「スゴイ」がありますからね。私が「佐藤ママ」のことを知ったのは、三日前です。朝日新聞の地方欄の片隅に載っていた「佐藤ママが説く難関校合格の道」なる記事で知りました。記事によると「佐藤ママ」の講演会が17日、大分市のホルトホールであり、親子連れら120人が参加したとのことです。

                                           

                                          「佐藤ママ」。誰かに似ているのですが、思い出せません。

                                           

                                           

                                           

                                           

                                          17日と言えば、大分市は台風18号による暴風雨が吹き荒れていた日です。かつてない猛烈な雨が降り、津久見市や臼杵市では甚大な被害が発生しました。それでも、悪天候をモノともせず、「佐藤ママ」の講演会に行った親子連れら120人の熱意に感心しました。そういった「信者」を作りだすパワーを持っている「佐藤ママ」は、やっぱり「スゴイ」。

                                           

                                           

                                           

                                          いくら頼まれても私なら講演会には行きません。特殊な宗教団体の集まりには、身体が拒否反応を示すからです。予想では、おそらく、子供を中高一貫校(大分の場合本当にお寒い中身なのですが)に通わせているママとその予備軍の方たち、特に附属小中学校のお母さんたちが多かったのではないでしょうか。

                                           

                                           

                                           

                                          今回は、「有名」「一流」「難関」大学へ子供を合格させたいと考えている保護者の皆様必見の内容です。長いですが、ぜひ最後までお読みください。

                                           

                                           

                                           

                                          「佐藤ママ」は大分上野丘高校の出身で津田塾大学に進み、卒業後は大分の私立高校で2年ほど英語教師をした後、弁護士をしていた御主人と結婚し、現在奈良市に住む専業主婦だそうです。彼女のプライバシーについて語りたいわけではありません。本も出し、テレビ出演もして、彼女自身が自分の経歴を語っています。私はネットで彼女に関する記事を読んだだけです。

                                           

                                           

                                           

                                          彼女の著作に『受験は母親が9割』というのがあります。『人は見た目が9割』というベストセラー本のタイトルをパクったのでしょう。しかし正確には『受験は母親と父親のDNA、すなわち生物学的環境に加えて経済的環境、さらに母親の信仰心の強さが9割』というべきです。

                                           

                                           

                                           

                                          もちろんそれでは身も蓋もないし、そもそも本が売れません。売れない本は必要ないという極論(幻冬舎のヤクザ社長見城徹氏の言)は、実は私たちの生活が出版資本主義、情報資本主義、文化資本主義によって支配されている事実をまるごと肯定することから出てきます。出版業界に知性は必要ないのです。

                                           

                                           

                                           

                                          消費者(一般の消費者ではなく、特定の層の消費者をターゲットにしたものですが)の心理を読むプロとマーケティングのプロさえそろえれば、ベストセラー本はかなりの確率で作れるのです。特に合格体験記は、特定のキャッチコピーを散りばめれば、消費者を釣ることなど朝飯前です。ブログでも取り上げた例の『ビリギャル本』と同じです。

                                           

                                           

                                           

                                          ここで、彼女をある象徴的な存在として批判するのも意味のあることですが、そんなことに人生の貴重な時間を費やしたくありません。ただ、彼女のような人間は苦手というか、敬遠したいタイプですね。和田秀樹氏と同様、人生の終盤にさしかかっていても、いまだに受験ネタで商売をしている人間の幼児性には辟易するしかありません。

                                           

                                           

                                           

                                          何より、「佐藤ママ」のような、東大一直線教の教祖に群がる一般信者をダシにひともうけをたくらむ出版人に対しては、嫌悪感しか湧いてきません。

                                           

                                           

                                           

                                           

                                           

                                           

                                          ここで突拍子もない想像をしてみましょう。村上春樹氏なら、終末感が色濃く漂う21世紀の日本の中で「佐藤ママ」と東大一直線教、それを養分にして増殖を続ける出版業界の存在を、どのように描くでしょうか。考えただけでもグロテスクですね。

                                           

                                           

                                          もう一つ。宮崎駿氏が「佐藤ママ」と対談しているシーンを想像してみて下さい。おそらく、コミュニケーションが成り立たないと思います。そもそも宮崎氏がそんな場に出て行くはずもありません。なぜなら、彼のアニメは、この種の親とその発想によって子供たちの魂がどれほど傷つき歪められるのか、そこから恢復するには何が必要かを描いたものだからです。

                                           

                                           

                                          しかし今回は彼女を批判することよりも、その「功績」を評価してみます。ここから先は、子供を東大や難関大学の医学部に合格させたいと考えているお母さん向けの情報です。興味のない方は読む必要はありません。

                                           

                                           

                                          「佐藤ママ」の功績

                                           

                                          東大医学部レベルの大学受験は、ある程度優秀な親のDNAを前提にしているものの、それだけでは合格は難しい。学習環境というか受験環境が決定的に重要であること。逆に言えば、受験環境さえ整えてやれば、子供4人を東大の医学部に合格させることは可能であるという事実を明らかにしたことです。ここで言う受験環境の中には、経済的なものも含みます。これはあまり表に出てきませんが、実はこれこそが決定的に重要な要素なのです。

                                           

                                           

                                          以下「佐藤ママ」が4人の子供たち全員に歩ませたルートを紹介します。そうです、「佐藤ママ」の「功績」は、なにより「東大に合格するためには外せないルートがある」ことを明らかにしたことなのです。逆に言えば、このルートを通らなければ、今や東大合格はおぼつかないということです。もちろん時間とお金がかかります。そして何より、母親の決してぶれない、狂気に近い「信仰心」が必要です。

                                           

                                           

                                          それにしても4人の子供の中に1人くらい、東大一直線教に疑問を持つ子供がいてもよさそうなのですが・・・。しかしそれをさせないところが「佐藤ママ」の「スゴイ」ところです。つまるところ、教育は幼少期からのマインドコントロールだということです。4人の子供全員が東大医学部というところに何とも言えない精神的・文化的貧しさを感じてしまうのは、私のひがみ、負け犬の遠吠えでしょうね。

                                           

                                           

                                          1:子供4人をすべて1〜2歳の時に苦悶式、じゃなかった、公文式に入れる。

                                           

                                          2:全員にバイオリンとスイミングを習わせる。

                                           

                                          3:東大、特に医学部を狙うのであれば、東大合格実績のある私立の中高一貫校に入れるのは絶対条件である。大都市圏でなければ、この環境を整えるのは難しい。

                                           

                                          4:「佐藤ママ」の地元(奈良)では、東大寺学園よりも東大合格実績で上を行く灘中学に進学させるのがベストである。

                                           

                                          5:そのためには、受験情報を豊富に持っていて、実績のある塾を選ぶ。灘中学合格に特化した実績のある塾・浜学園に小学校4年から通わせる。東京ならY−SAPIXというところでしょうか。

                                           

                                           

                                           

                                          6:そしてめでたく全員を灘中学に合格させる。一番下の妹はこれまた進学校の京都の洛南高校に合格。これで東大合格はぐっと近づく。ちなみに、ママの力も大きいですが、通った学校や塾の力に負うところが圧倒的に大きいのです。

                                           

                                          7:忘れていました。リビングに大きなテーブルを置き、そこで勉強させる。

                                           

                                           

                                          これが「佐藤ママ」のお宅のリビング。生活の全てが東大合格に向けて方向づけられている。いや〜「スゴイ」。私なら、耐えられませんね。

                                           

                                           

                                           

                                          ここまで読んで二の足を踏むようでは、お母さん、「信仰心」が足りません!ひるんではだめです。誰かさんも言っていましたね、「この道しかない!この道を前へ!」と。

                                           

                                           

                                           

                                          現在、東大合格者の上位校は、ほとんど都内の私立の中高一貫校に独占されている状態です。国立校も含まれていますが、実体は私立の中高一貫校と同じです。都内では、関西以上に、合格ルートは限定されています。

                                           

                                           

                                           

                                          例えば、中学受験ではY−SAPIXに通わせる。めでたく開成に代表されるような私立の中高一貫校に合格した暁には、東大医学部合格者の6割を輩出している塾・『鉄緑会』に入る。そして現役の東大医学部の学生や東大入試のことを熟知している優秀な講師の授業を受ける。周りに東大医学部の学生が普通にいるので、自分もそうなることを簡単かつ具体的に思い描ける。実はこのことが想像以上に効果があるのです。

                                           

                                           

                                           

                                          二年ほど前に読んだ『ルポ・塾歴社会』。私の予想を裏付けるデータでいっぱいです。読みたい方はどうぞ。ついでに『学力の経済学』もどうぞ。教育を個人的な経験からではなく、科学的な裏付けをもって説明してほしいと考えている人は、教育経済学?の観点から書かれている後者を読んでみるのもいいかもしれません。しかし、教育経済学なるものも経済学も所詮はモデルを作ってそれで演繹的に結論を導き出すものですから、眉に唾して読むべきです。

                                           

                                           

                                           

                                           

                                           

                                          ここで何か思い出しませんか。そう、甲子園の高校野球の常連校、ベスト16に入る学校のほとんどは、私立の特定の学校です。しかも中学校の段階から、優秀な生徒を集めています。部員は軽く100名を超えます。その中で激烈な競争を勝ち抜いた者だけがレギュラーになれるのです。

                                           

                                           

                                           

                                          有能な監督。身体能力抜群の選手たち。豪華なトレーニング機器とナイター設備および専用グラウンド。部活のレベルを出ない練習をやっている地方の公立高校の野球部が甲子園で活躍できるはずもないのです。何より資金が足りません。今や、甲子園の高校野球は将来のプロ野球選手を選別する場になってしまいました。

                                           

                                           

                                           

                                          サッカーしかりです。いや、その他のスポーツも大なり小なり、こういった枠組みの中にあるのです。要するに、オリンピックを目指そうとすれば、選手の努力、親の「信仰心」、それとコスパ(お金)で、ほとんどの選択肢と将来の可能性は決まってきます。

                                           

                                           

                                           

                                          以上、「佐藤ママ」の「功績」について述べました。東大に合格するためには何が必要なのかが分かったと思います。逆に、「佐藤ママ」のおかげで受験熱は一部の層でくすぶり続けるものの、そのマニアックなバカバカしさに気づいた「信仰心」の薄い人たちは、新たな選択肢を見つける旅に乗り出すのではないかと思います。

                                           

                                           

                                           

                                          私は地方都市大分で個人塾を営んでいますが、そこで見聞きするものは、以上述べたことの廉価版のコピーに他なりません。特に塾をめぐる状況は滑稽なほどワンパターンで、能力のある教師は必要とされなくなっています。映像授業を見せ、同じセリフを同じように生徒に向かって吐くだけです。知性も将来を見通す力も不要なのです。

                                           

                                           

                                           

                                          以前ブログでも書いたように、1980年代半ばから、情報社会・消費社会が進展するとともに、学習もスポーツもすべてがコストパフォーマンスで測られ、精密で逃れようのない計画の下に、人工的な環境が整えられ、その中で人工人間(サイボーグ)が作られています。

                                           

                                           

                                          偶然性を重んじ、その土地や地域の固有の気候風土の中で培われてきたものに基礎を置いた<生>の全体性を取り戻すにはどうすればいいのか。これからは、ヴァナキュラー建築と呼ばれている世界各地の伝統的な建物を手掛かりに、100年後の教育を考えてみたいと思います。

                                           

                                           

                                          ※ 尚、よろしければ以下の関連記事も合わせてお読み下さい。

                                           

                                          佐藤ママの超絶「脳育」論。

                                          http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=575

                                           

                                          子供の人生は幼少期に出会う大人によって大きく左右される。

                                          http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=563

                                           

                                          カルト化する社会と教育−「佐藤ママにエールを!」のコメント主さんへ。

                                          http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=519

                                           

                                          開成中学・高等学校長 柳沢幸雄氏を批判する。

                                          http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=614

                                           

                                          「ビリギャル本」の詐欺性について

                                          http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=727

                                           

                                          名もなき一教師さんへ。

                                          http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=512

                                           

                                           

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