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《目次》
プロローグ
第1章 テレビマンとは何者か
第2章 大事なのは、誰と仕事をするか
第3章 表現とタブー
第4章 放送は常に未完である
第5章 世の中には理解不能な現実がある
第6章 ドキュメンタリーを、誰が求めているのか
第7章 「ダメモト」が表現世界を開く──〈司法シリーズ〉のこと
第8章 「ドキュメンタリー・ドラマ」とは何か
第9章 あの時から、ドキュメンタリーは閉塞した世界だった
第10章 題材は探すのではなく、出会うもの
第11章 組織の中の職人は茨の道
第12章 「わかりやすさ」という病
第13章 樹木希林ふたたび
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まず私たちの生命と暮らしを脅かす事実を知ること。それにたいしてどのような認識を持つのか。この国のみならず、世界を壊滅させる災厄とどう向き合うのか。次世代に対してどう責任を取るのか、そもそも責任を取れるのか。自分に何ができるのか。この現実にどう向き合うのか。それを教えるのが教育のはずだが、この国には教育も哲学も存在しない。
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小出 裕章,渡辺 満久,明石 昇二郎
原発よりもはるかに危険な六ヶ所村再処理工場。私たちの日々の生活が薄氷の上で営まれていることを痛感させられる。同時に、この国には「国民の生命・財産・自由を守り抜く!」と威勢のいいことを言う総理大臣と無能の政治家しかいないことに絶望する。核燃料サイクルと言い、下北半島の再処理工場と言い、3兆円以上の国民の税金がつぎ込まれ、いまだ後始末も将来の見通しもたっていない現実をどう考えているのか。彼らは核兵器を持ちたいという願望と税金をロンダリングして私腹を肥やすことしか眼中にない。北海道の地震だけに目を奪われてはならない。六ヶ所村は今回の震源地の目と鼻の先にあるのだ。
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D.J.ブーアスティン
私にとっては古典の中の古典。三度読みました。そしてその慧眼にいまだに驚いています。
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殺人犯はそこにいる (新潮文庫)
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清水 潔
ジャーナリストと称する職業がある。自称ジャーナリストもいれば、テレビのコメンテーターとしてリベラルに媚びる政権批判をし、名を売り、講演で稼ぐ職業をジャーナリストと呼ぶ者もいる。とんだ茶番である。ジャーナリストとはどこまでも「事実」を追いかける。テレビに出て能天気な解釈や感想を垂れ流している暇などないはずだ。ジャーナリストを志す若い人には清水氏の著作は避けて通れない。その名に値する本物のジャーナリストがここにいる。
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福田 直子
おそらく自民党・安倍政権はSNSを駆使し、分析するデータサイエンス(日本版なのでレベルはまだ低いですが)の重要性に着目し、選挙にどうすれば勝てるか、自分たちに有利な世論を形成し、国民を誘導・分断するにはどうすればいいのかが分かっているのです。そのためのノウハウも蓄積しつつあります。安倍首相の貧困な語彙力からは想像できないカタカナ言葉を聞いていると、それがSNSを分析している集団から教えられたものであることがよくわかります。ただ彼らの致命的な弱点は将来の社会を導く理想がないことです。おそらく、思いもかけない結果が待っていることでしょう。なぜなら、所詮、彼らはアメリカとビッグデータの奴隷でしかないのですから。これからの政治は、好むと好まざるとにかかわらず、この本に書かれていること抜きには語れなくなっているのです。
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安倍政権に対するメディアの忖度が云々されていますが、元々同じ穴のムジナなのです。忘れてならないのは、日中戦争から太平洋戦争にかけて、日本の世論と新聞のほぼ全部は好戦的・拡張主義的だったのです。しかも、当時はまだ言論統制体制が発足していなかったのです。この本は、そうした「一貫して好戦的な世論とそれに便乗する新聞」が先導し、近衛文麿はじめ文民政治家がそれに便乗、軍部がさらに便乗、という構図を一次資料で克明に論証しています。安倍政権を支持するネトウヨの皆さんの日本語力では、まともな読解は無理ですので勧めません。一方、正確な歴史を知るためには「世論」の不気味さを知ることだと気づいている若い人には是非一読を勧めます。
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茫漠の曠野 ノモンハン
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松本草平
著者は大分市にある『天心堂へつぎ病院』の院長、松本文六氏の御尊父、松本草平(本名松本弘)氏です。詳しくは、ブログで紹介したいと思いますが、第一次資料として極めて価値の高いものです。40年ぶりに復刻版を出された松本文六氏と出版社に感謝する他ありません。
戦略も何もない、無謀・無慈悲な戦争を語り継ぐことは、最も崇高で重要な人間の営為だと私は考えています。作家の司馬遼太郎氏は、電話で草平氏に次のように伝えてきたそうです。「先生の臨場感のあるノモンハン戦記に出会えて本当にありがとうございました。私は大東亜戦争の折、戦車隊の一員として従軍しましたが、先生の従軍記以上のものを創ることはできません。」と。
一人でも多くの方がこの本を読まれることを望みます。ちなみに松本文六氏は伊方原発差止め訴訟の原告でもあります。その縁で、この本に出会うことができました。
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「南京事件」を調査せよ (文春文庫)
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清水 潔
全国のネトウヨの皆さんへの推薦図書です。清水氏のこの本を読んでから、「南京事件はなかった!」「南京事件は捏造だ!」と叫びましょうネ。
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広瀬隆
広瀬氏をアジテーターだの、オオカミ少年だの、悲観主義に過ぎると言って批判する人がいる。しかし、ブログで何度も述べてきたように、真の悲観主義こそがマインドコントールによって奴隷根性のしみ込んだ私たちの精神を浄化してくれるのだ。そもそも無知では悲観が生まれようもないではないか。国などいくら破れても結構。せめて山河だけでも次世代に残そうと考える人ならぜひとも読むべき本である。いや、これから幾多の春秋に富む若い人にこそすすめたい。
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チャヴ 弱者を敵視する社会
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オーウェン・ジョーンズ,Owen Jones
【本書への賛辞】

「怒りが生んだ、最高の本」
──ガーディアン紙

最高の論争がみなそうであるように、知性に裏打ちされた怒りが本書を支えている。
──エコノミスト誌

暴動や世界中に広がったオキュパイ運動に照らして考えると、分断社会に関する著者の鋭い分析は、
不気味なほど未来を予知していたことがわかる。
──アートフォーラム誌

情熱と、思いやりと、すぐれた道徳性が結実した仕事だ。
──ニューヨーク・タイムズ紙

政治の定説を見直す大胆な試み。著者は戦後のイギリス史を縦横無尽に往き来し、
階級、文化、アイデンティティといった複雑な問題を軽々とまとめてみせ、
結果として「階級」問題に火をつけ、大きな効果をあげている。
──インディペンデント紙

いまの制度が貧しい人々を見捨てていることに対する苛烈な警告──それが本書だ。
──ブログサイト「デイリー・ビースト」

ジョーンズは、「地の塩」だった労働者階級が政治のせいで「地のクズ」と見なされるようになった経緯を見事に説明している。
──タイムズ紙

この本は、新しいタイプの階級嫌悪と、その裏にあるものを痛烈にあばいて見せてくれる。
──ジョン・ケアリー(The Intellectuals and the Masses著者)

これは「イギリスはおおむね階級のない社会である」という考え方への、論理的で情報満載の大反撃だ。
──オブザーバー紙

情熱的で示唆に富む……この声が届くことを心から願う。
──スコットランド・オン・サンデー紙
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紹介していない本が山のようにあります。数日前にこの本を本棚の奥から引っ張り出し再読しました。いや〜面白かった。。とにかくこの本のことを忘れていた自分が信じられない。読んでない人に熱烈に勧めます。ハイ。
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英語の実際的研究 (1969年)
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高校生にとって、今でも一押しの不朽の名著。でもこの本をことを知っている英語教師は少ないと思います。是非復刊してほしいものです。
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スノーデン 日本への警告 (集英社新書)
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エドワード・スノーデン,青木 理,井桁大介,金昌浩,ベン・ワイズナー,宮下紘,マリコ・ヒロセ
2017年4月18日、朝日新聞がようやく「パノプティプコン」を取り上げました。遅すぎますね。
これから先の日本社会は、ますます荒廃が進み、国民の不満が頂点に達し、やがて爆発します。それを未然に防ぐために、国は国民の監視を強化します。
実際アメリカでは「愛国者法」により、電子メールや携帯の通話履歴が監視の対象になっています。誰が、いつ、どこで、何を読んで、誰と通信を交わしたか、すべて国に筒抜けです。
「パノプティプコン」とはフランスの哲学者フーコーが用いた概念ですが、国民が刑務所の囚人のように監視される体制を言います。監視者の姿は見えませんが、囚人は監視者不在でも、監視を意識することによって管理統制されるのです。これを「パノプティシズム」と言います。
このシステムから解放されるためには、権力がどう管理・統制しようとしているかを知らねばなりません。この本はそれを知るための第一歩です。あなたが無知のまま、奴隷の人生を送りたければ、読む必要はありません。
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A.ミラー
アリスミラーのこの本は、塾を始めるきっかけになりました。ただ生活のためだけなら、他のことをしていたでしょう。『才能ある子のドラマ』とあわせて、当時の私には衝撃的な本でした。人生はどこでどう転ぶかわかりません。人間の奥深さを知ることで、何とか自分を維持していたのです。この本を読むと当時のことが、ありありと思い出されます。ある意味で、私の人生を方向づけた本かもしれません。
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NHK「東海村臨界事故」取材班

2月18日のブログでも書きましたが、仕事のために読むビジネス書の類は、最終的には効率を重視し、最小の資本と労力の投下で、いかにして最大の利益を上げるかということに尽きていると思います。そのための働き方改革であり、そのための賃上げです。そのための人心掌握術であり、顧客対応です。ビジネス書を読めば読むほど、人間は軽薄になり、視野が狭くなっていきます。もしあなたがそれを自覚するきっかけがほしいなら、是非この本を読むことを勧めます。読書はビジネスのためにするのではないということが分かると思います。この本は私たちの日常の風景を一変させるだけのインパクトを持っています。いわば、ことばの最高の意味における「闖入者」なのです。
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服従
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瀬木 比呂志
この本はまだ発売されていません。自分で読んでいない本を推薦するのは邪道でしょう。しかし、これまでの『絶望の裁判所』『ニッポンの裁判』(ともに講談社現代新書)に続く裁判所、司法批判の第3弾が長編の権力小説だということで、過去2冊の本の面白さからして、推薦に値する本だと思いました。『原発ホワイトアウト』の最高裁判所ヴァージョンだと思います。読んでからコメントを追加したいと思います。
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アモン・シェイ
学校なる場所に通っていた時、毎年夏になると課題図書を読んで、読書感想文を書かねばならないのが苦痛でした。課題図書の選定には学校と書店の密約があるに違いないと思っていたくらいです。

偶然巡り合った面白い本の感想を書くのならまだ我慢できたかもしれません。つくづく学校というところは、余計なことをしてくれると思ったものです。

あまりにめんどうくさいので、「あとがき」を参考に、あらすじを書いて提出したら、トリプルAをもらいました。

学校というところは、もしかしたら、人生の退屈に耐える訓練をする場所だったのかもしれません。この本を読んで、改めてそのことを確認しました。別に先生を責めているわけではありません。それほど自覚的に生きるということは難しいのだとため息をついているだけです。
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想田和弘監督の観察映画。音楽による演出は一切なく、徹頭徹尾監督の視点で撮られたドキュメンタリー映画。見終わった後、日本の選挙風土の貧困さが浮かび上がる。この国に民主主義はない、ということを改めて確認し、そこから出発するしかない。その勇気を持つ人には必見の映画です。合わせて『選挙2』もどうぞ。
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マックス ヴェーバー
ウェーバーの死の1年前、1919年、学生達に向けた講演の記録です。
一部抜粋します。

「自分が世間に対して捧げようとするものに比べて、現実の世の中が―自分の立場からみて―どんなに愚かであり卑俗であっても、断じてく挫けない人間。どんな事態に直面しても「それにもかかわらず!」と言い切る自信のある人間。そういう人間だけが政治への「天職」を持つ。」(P105〜106)

「さて、ここにおいでの諸君、10年後にもう一度この点について話し合おうではないか。残念ながら私はあれやこれやいろんな理由から、どうも悪い予感がしてならないのだが、10年後には反動の時代がとっくに始まっていて、諸君の多くの人が―正直に言って私もだが―期待していたことのまずほとんどは、まさか全部でもあるまいが、少なくとも外見上たいていのものは、実現されていないだろう。」(P103〜104)

10年後には、ワイマール体制は機能不全に陥り、1933年にはヒトラーが首相に就任します。

平和憲法は、日本人にとって310万人の命と引き換えに手に入れた唯一と言っていい理念であり、アイデンティティーでした。その唯一の誇りを、日本人は損得勘定で葬り去ろうとしています。言い古された言葉ですが、歴史は繰り返すのです。
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中沢 新一
小学校を卒業するころ、将来なりたい職業として思い描いていたのが、天文学者か生物学者でした。プロ野球選手は、自分のセンスでは無理だと悟りました。物ごころついたころから興味があったのは宇宙や昆虫や植物の世界でした。そんなわけで南方熊樟に出会うのは必然的な成り行きだったのです。人間は言葉によって世界を把握しますが、それ以外の把握の仕方があるはずだと、ずっと思ってきました。南方熊樟は、小林秀雄と同じく、直観による世界の把握の仕方を教えてくれました。この本は、言葉によって構成された世界秩序の外に出て、世界を改めて考えたい人に大いなるヒントをあたえてくれます。安倍政権によるゴキブリのフンのような、あまりにばかばかしい政治状況を見せつけられているので、精神の衛生学として一気に読みました。
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こどもの教育から裏金を使ったオリンピック誘致、原発再稼働、戦争準備から武器の売却、安倍政権の裏の権力としてメディアに絶大な影響力を行使する電通。私たちは電通が作り上げた「箱」の中でいいようにマインドコントロールされている。自分の意見だと思っていたものが、実はそう思わされていただけだということに気づかなければならない。音楽をはじめとする芸能情報、その中で踊らされるミュージシャンやタレント、果てはデザイン業界までを席巻する。今や電通の介在しないメディアはないと言ってもいい。利権あるところに電通あり、です。
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前作『日本はなぜ「基地」と「原発」止められないのか』に続く著者渾身の力作。自分の人生を生きたい人にすすめます。ただそれだけです。18歳で選挙権が与えらる高校生が政治を考える際の基本的なテキストになる日がくるといいですね。無理でしょうが。これ以上余計なコメントはしません。まず手に取ってみてください。
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メディアで取り上げられるよりはるか前から日本会議の存在について私は言及していました。電通と同じくタブー視するメディアには心底失望したものです。報道すればタブーはタブーでなくなるのです。何を恐れているのでしょうか。干されれば、何とか生活をする工面をすればよい。それだけのことです。
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磯崎新
帯に「祝祭都市にスタジアムはいらない」とあります。そもそも2020年まで天災と原発事故をやり過ごし、経済危機を乗り越えて存在しているでしょうか。極めて怪しいですね。偶然書店で手に取って読みました。彼の文章を読むと、建築は現世の権力に奉仕するものではなく、想像力の王国を作るものだと思わされます。建築にそれほど興味のない人でも、読めます。いや、いつのまにか引き込まれているでしょう。
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難関中高一貫校で学び、東大に合格しても、それはもはや知性のバロメーターではありません。この本に書かれていることが真実だと見破れることこそが本物の知性です。ニセの知性は既得権益を守るためにはどんな屁理屈でもひねり出します。おまえは何も知らないと言って他人を見下し、金と権力におもねるのです。ニセの知性は理想の灯を掲げることができません。「脳内お花畑」などという幼稚な言葉を使って揶揄するしかないのです。彼らの決まり文句は、他国が攻めてきたらどうするのかという、それこそ「脳内お花畑」的なものです。「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」とは、まさに至言です。
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私の元塾生の縁でお会いしたことのある烏賀陽弘道氏の渾身のレポート。事実を丹念に調べ上げ(これがジャーナリストの本来やることです)事実をして語らしめることのできる稀有なジャーナリスト。この本を読まずに福島第一原発の事故の本質に迫ることはできない。ダブル選挙の前に一人でも多くの国民が読むことを期待します。
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松岡正剛氏の本はどれも面白く、シリーズの千夜千冊を除けばほとんど読んでいます。『多読術』は、高校生にぜひ勧めたいと思います。高校時代に、この本を読んでおくと、さまざまな分野の知的見取り図を手に入れることができます。学校の授業だけではなく、この本を手掛かりにして知の荒野に歩みを進めてほしいと思います。
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カント
安倍首相は「この道しかない」と言って消費税を上げ、集団的自衛権の行使を可能にする閣議決定をし、公約とは正反対のTPPを批准することで、日本の文化=アイデンティティーを破壊しようとしています。

もし私たちが生き延びたければ、そのヒントがこの本の中に書かれています。日本は超大国の「夢」を代弁するだけの国になってはなりません。
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山本 太郎
山本氏の国会での質問を、本になって改めて読み直して感じることは、文字通り「みんなが聞きたい」質問をしてくれたということです。安倍首相が小学生に「なぜ政治家になったのですか」と質問された時、「父親も祖父も政治家をしていたからです」と答えていました。小学生相手に、何と言う悲しい答えでしょうか。語るべき理想を持たない政治家など、所詮は官僚に利用されるだけです。それに対して、山本氏には語るべき理想がある。「政治なんてそんなものさ」というリアリストが発散する腐臭を吹き飛ばすさわやかさがある。それは、彼の身体には収まりきれない理想が持つ力そのものです。彼は言います。「力を貸してほしい。少なくとも、あなたが必要だと思われる社会、私が必要だと思われる社会を作っていきたい。そう思うんです」と。日本の総理大臣にふさわしいのはどちらでしょうか。
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転換期の日本へ―「パックス・アメリカーナ」か「パックス・アジア」か (NHK出版新書 423)
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ジョン・W・ダワー,ガバン・マコーマック
おそらく、日本人自身よりも海外の知識人のほうが、日本の問題を正確にとらえていると思わせる本です。読み終えて何気なくテレビを見たら、わが大分県選出の国会議員、岩屋毅氏と江藤晟一氏が、2016年ミスユニバース大分県代表を選ぶ催し物に出ていました。名誉顧問だそうです。いかがわしい宗教団体をバックに票を稼ぐだけでは飽き足らず、こんな大会に顔を出して名前を売ろうとする。大分市長の佐藤樹一郎氏も出席していました。このお三方は、こんなことをするために国会議員や市長になったのでしょうか。国民の税金を使ってやることといえば、テレビに出演してにやけた顔をさらすことでしょうか。もう物事の軽重が全く分かっていません。せめてこの本くらい読んではどうでしょうか。私はこの本に書かれていることの大部分に賛成です。
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出版されてすぐ読みました。国会で、読んでもいないのに、安倍首相が躍起になって否定した事実が書かれています。蓮池氏はあちこちから人格攻撃の対象とされてきましたが、自分にも落ち度があったと認めています。自分は総理大臣なのだから落ち度はないと居直る人間とは好対照です。この本を読んで、拉致問題について今一度国民が考えることを望みます。
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2年半ほど前に求めて、一気に読みました。マルクスの『資本論』の中に書かれていることを、著者が自分なりに消化し実践していく過程が書かれているので、一種のドキュメンタリー文学として読めます。きっと著者と同じ思いの若者は全国にたくさんいると思います。かけがえのない一回きりの人生を、充実して生きたいと思っている人に勇気を与える本です。
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もう何と言うか、別世界を生きている人間です。彼の発する言葉は文学とは無縁です。人間が言葉を持ったのは、言葉にしがたいものを言葉にしようとするためです。政治家が発する言葉の軽さと言ったらありません。それだけ現実も軽いものになったということでしょう。
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人間は、条件次第で、喜々として殺人を犯す。そして、その条件を整備しつつあるのが、安倍政権とその背後でうごめく『日本会議』である。このことに気づいていても、「配慮する」ことを最優先して報道しないメディア(特にNHK・読売新聞・産経新聞)。そしてそこに寄生する学者やコメンテーター、芸能人。このドキュメンタリー映画は、彼らの自画像である。たまには、自らの顔をじっくり眺めてみるがよい。
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私が長年考えてきた問題を解明するヒントになりました。ブログで書いたように、まず感情を基にした結論があって、それを正当化するために人は「知性」を動員するという、ごく当たり前のことが書かれている。つまり、知の粉飾決算報告書である。
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食う寝る遊ぶ 小屋暮らし (JUGEMレビュー »)
中村 好文
中村さんの著作の中では、個人的に最も好きな本です。読んでいるだけで楽しくなります。限りなく優しい、でも、痛烈な文明批評です。これからの生き方のヒントが満載です。それを一人でも多くの人と分かち合いたいと思い、中村好文論・その3の中で引用させていただきました。
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暮らしを旅する
暮らしを旅する (JUGEMレビュー »)
中村 好文
以下は私がアマゾンのレビューに投稿したものです。再録します。
「もし人に幸福な生き方があるとしたら、中村好文さんのような生き方だろうと、ずっと思ってきました。
建築雑誌をパラパラとめくりながら、ふむ、と思って手が止まると、そこには必ずと言っていいほど中村さんの設計した住宅がありました。
文は人なりと言いますが、その人の書く文章のエッセンスがこれほど見事に建築にも表現されている例はめったにありません。
建築に限らず、食の分野でも、ことばと実物の乖離がはなはだしい時代に、中村さんの設計した住宅や美術館に出会うと、どこか安心するのですね。
そういうわけで、著者の本はすべて読ませてもらっています。
この本も偶然、年末に本屋さんで手に入れ、装丁やカバーの手触りを楽しみながら読んでいます。
読みながらいつの間にかほのぼのとしている自分を発見します。
一日に一編か二編を過去の記憶をたどるようにして読んでいます。
この本の平明さ、やさしさがどこから来るのか。そんなことを分析するのは野暮というものです。
とにかくこの素敵な小さな本は、旅のお供にどうぞ!とすすめたくなります。」
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大橋巨泉氏の英語力。
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    前回のブログで大橋巨泉氏を取り上げました。その多才ぶりは多くの人の知るところです。今回は氏の英語力について書きます。中高生の皆さんの参考になると思いますので、頑張って読んで下さい。

     

     

     

    まず、「学校英語」なるものがあるのかどうかわかりませんが、ここでは単純に日本の公立中・高等学校の授業で出会うものとしておきます。私の個人的な経験から言えば、平板で、没個性的で、退屈なものでした。それは文化から切り離された選別のための暗記と抽象的な記号操作であり、一部の地域でだけ通用する通貨のようなものだと言えば言い過ぎでしょうか。

     

     

     

    しかも、「学校英語」の長いトンネルをくぐりぬけた先に待っているものは、世界を相対的に見る能力ではなく、今の日本で出世するのに役立ちそうな功利的な考え方です。文科省の打ち出す政策は、ことごとくこの線に沿ったもので、もはやその破綻は誰の目にも明らかです。

     

     

     

    それに対して、巨泉氏の英語は「学校英語」を支えているイデオロギーから最も遠いものでした。つまり、学校で勉強しただけでは身につかない自在さと楽しさ、奥の深さを持っていたのです。

     

     

     

    彼は、より自由に生きるために英語を使いこなし、世界各国で生活していました。カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、アメリカで暮らし、そこで商売を立ち上げ成功したのも氏の人間性を物語っています。

     

     

     

    では彼の英語力の秘密はどこにあったのでしょうか。それこそが、ジャズ評論家としてのキャリアだったのです。彼はジャズの歌詞を何千曲も英語でそらんじることができました。

     

     

    中高生が見本にすべきは、氏のような自由闊達で柔軟な発想を持った英語の使い手であり、真の平和主義者です。残念なことに、大橋巨泉氏は今から3年前、2016年7月12日に他界しました。

     

     

     

    彼の英語力を物語るエピソードをもう一つ挙げます。女優の竹下景子さんが追悼文の中で書いています。

     

     

    「ハワイの別荘に家族で伺った際、英英辞書を片手に真剣にアメフトの実況中継をご覧になっていた姿が今も浮かんで来ます。あんなに英語が堪能なのに巨泉さんは辞書と首っ引きでした。不断の努力家の一面を垣間見ました」と。

     

     

    巨泉氏が不断の努力家であることに異論はありません。しかし、誤解してならないのは、アメフトのアナウンサーの実況は速射砲のような英語だということです。アメフトの実況中にテレビ画面を見ながら英英辞典が引けるということ自体が氏の英語力を証明しています。

     

     

     

    英語力と言えば日本人はすぐTOEICの点数や英検のランクで測ろうとします。悲しいかな、自分のモノサシではなく、外部の権威がありそうな試験の点数と結びつけて判断するのですね。

     

     

     

    幸か不幸か、私は学校の教師が教えてくれる英語には壊れた時計のように全く反応しませんでした。それはつまるところ高校入試や大学入試で使われる選別のモノサシに過ぎなかったからです。それは言語に対する国家ぐるみの冒涜に他なりません。

     

     

     

    英語をモノにした人は、おそらく自分の人生を豊かにする英語とどこかで幸運な出会いをしているはずです。たとえば、歌やスポーツや映画を通じて生きた英語に出会っているのではないでしょうか。

     

     

     

    そもそも外国の文化(その象徴が言葉です)について学ぶことが面白くないわけがありません。たとえば、英語の歌を一年に10曲ほど、中・高で合計60曲を完璧に歌いこなすことをカリキュラムに組み込めば、何も入試で英語を課す必要などないのです。今の何倍も英語力がつくに決まっています。それを大学入試のモノサシにすることで、アメリカに隷属した卑屈な精神を再生産する装置にしているのです。

     

     

     

    入試で測れる「話す能力」など鼻クソほどの価値もありません。そもそも文科省や財界人、一部の学者やお調子者の予備校講師たちは、50万人以上の「話す能力」を1〜2週間で測るなどということが可能だと本気で信じているのでしょうか。空気を読むしか能のない人間たちと話していれば可能だと錯覚するのも無理もありません。結局は定型的なフレーズの暗記に行きつき、対策本を発行する業者をもうけさせるだけです。

     

     

     

    それが可能だと考えている人間は、話すことがどれほどの深さと広がりを持っているか経験したことがないのです。片言隻句の背後に広がる沈黙に震えたこともないのです。

     

     

     

    おやおや、話が脱線しました。巨泉氏の英語力の話でした。以下は彼が犯したミスの話です。それを、あれは自分の若い頃の誤訳、と率直に認められたとのこと。その率直さが、さすが巨泉氏らしいなあと思います。ミスどころか、明白なウソの上塗りすら認めようとしないどこかの安倍晋三とは大違いですね。

     

     

     

    誤訳の話に戻ります。ヘレン・メリルがハスキーな声で歌って有名になった曲“You'd Be So Nice to Come Home To”は、長らく「帰ってくれたらうれしいわ」という訳で親しまれていました。それを訳したのが大橋巨泉氏だったのです。

     

     

     

    中高生の皆さんなら、You'd  be so nice to come home to.をどう訳しますか。

     

     

     

    正解は「君の待つ家に帰るのはすてきだろうね(=君と結婚できたらなあ)」です。えっ、どうしてそんな訳になるのかわからないですって?「あなたが家に帰ってくる」のと「あなたが待つ家に帰る」のでは正反対じゃないか、というのですね。

     

     

     

    これはいわゆる「繰り上げ構文」と呼ばれるものです。文末のyouが仮主語のitを押しのけて繰り上がったもの、と考えたわけです。この曲のタイトルも、It would be so nice to come home to you.となっていれば誤解の余地はまったくありません。

     

     

     

    誤解の原因は、You are nice.と考えたからですね。nice なのは「(私が)あなたが待つ家に帰ること」なのです。「あなたが家に帰ってくる」では意味が反対になります。もちろん come という動詞の視点が相手側にあることや、文末の to が文頭の You を目的語にしていることにも気づかなければなりません。

     

     

     

    You'd  be so nice to come home to.は  You are difficult to please.という文と同じ構造をしています。あなたがdifficultなのではなくて、あなたを please(喜ばせる)するのが difficult なわけです。したがって、「あなたは気難しい人だわ」という意味になります。

     

     

     

    何だかややこしいですね。巨泉氏ほどの人でも、文法を忘れるとミスを犯すという例でした。長くなったのでもうやめにします。ここまで読んで下さった方にお礼を言います。なお「繰り上げ構文」については、ブログで詳しく説明しています。よかったら参考にして下さい。

     

     

     『高校生のための英文法−その7』

    http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=468

     

    | 英語教育 | 14:21 | comments(0) | - |
    英語民間試験の導入は金儲けのために地方の高校生を切り捨てる。
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      これまでブログで何度も指摘しましたが、共通テストへの英語民間試験の導入は,欠陥・不公正だらけです。およそ入試で最も必要とされる条件は公平性ですが、国と文科省自身がそれを破壊しています。公平で客観的な基準をうやむやにする姿勢は、公文書の改ざんのみならず、歴史までも書き変えようとする現政権の本質そのものです。そして財界の意向を受けての今回の件です。最も被害をこうむるのは、この国の若い人たちです。

       

       

       

      そもそも、大学入試は各大学が学生の能力を測るために個別に実施すればよいだけの話です。特に今は18歳人口が減少しているのですから、以前の全教科記述式の入試に戻す絶好のチャンスです。

       

       

       

      マークシート方式は、選択肢の中に正解がすでにあるのですから、それを選ぶだけです。最後は消去法と確率の問題になります。正解へ至るまでの緻密で分析的な思考は必要ありません。これは受験生の学力を大幅に低下させました。

       

       

       

      共通一次試験とそれに続くセンター試験がもたらしたものは、大学の序列化と予備校や塾の隆盛だけです。以後、大学入試のための勉強は予備校や塾の専売特許になって行くのです。公立高校が予備校に倣ったり、人気講師を講演に呼んだりするようになったのもこの頃からです。

       

       

       

      要するに、教育産業は公共部門を民営化する新自由主義(国民の資産である教育を始めとする社会的共通資本を個人の資産に付け替える口実)の先兵となっていくのです。吉本興業が国から100億円以上の補助金をもらい教育部門に進出するのもこの流れです。

       

       

       

      それの極めつけが、共通テストへの英語民間試験の導入というわけです。教育を受験教育に収斂させ、効率と費用対効果を全面に押し出した予備校や塾が、この金儲けのチャンスを逃すはずがありません。本来のコミュニケーションを大学入試という一試験形態の中に限局しようとする動きがあちこちで見られます。

       

       

       

      この流れに異議を申し立てる人がいれば、柴山昌彦文部科学大臣の「サイレントマジョリティは賛成です。」という一言で押し切られるのです。少数意見をなかったことにするこのセリフこそが安倍政権の本質です。まことに唾棄すべき反民主主義的な言い草です。

       

       

       

      柴山昌彦文部科学大臣のこの発言に対して、ある高校生がツイートしています。

       

       

      「高校生として私は反対です。学校、塾の友達も反対。そもそも私たちに国がアンケートを実施した記憶はなく、反対を主張する機会が無い状況でサイレントマジョリティというのはおかしくないですか? 自分に都合のよい声だけを取り上げ、誇張して言及する質の悪いやり取りは、ディベートにもなってない。」

       

       

       

      まさにその通りです。文部科学大臣よりも高校生の方がはるかにまともです。

       

      いつのまにか文部科学省委員になっていた、この「有名予備校講師」も、柴山昌彦文部科学大臣のように「サイレントマジョリティは賛成です。」と考えているのでしょう。「東進」の映像授業は根本的な欠陥があると前に述べましたが、「リスニングで人生が変わる」という何の根拠もない「宗教」を広めるのが使命だと考える人の人生なら、変わるかもしれませんね。たかが英語です。きちっと基礎を固めた後は、各人が必要な時に必要なだけ勉強すればいいのです。それを人生と結び付けるなど、根本的な知性を欠いている人間の考えそうなことです。

       

       

       

       

       

      以下のサイトの記事を読めば、今回の件が単なる大学入試の問題ではなく、国家レベルで知の崩壊が進んでいることが分かります。メディアの劣化はこれに拍車をかけています。全部読んでもらいたいのですが、時間がない人のために今回は代表的な二人の論者の意見を取り上げます。

       

      https://nominkaninkyotsu.com/collaborator/

       

       

       

       

      阿部 公彦(東京大学大学院人文社会系研究科・文学部教授/英米文学)


      英語入試の改悪に反対します。今回の「4技能均等」なる看板は,政治的な理由で捏造されただけのニセものです。テスト運用の観点からも問題は山積。入試出題者が入試対策も請け負うという制度は問題漏洩の温床です。高大接続と大学入試システムの一日も早い「正常化」を願います。

       

       

       

      寺島 隆吉(国際教育総合文化研究所・所長、元岐阜大学教育学部教授/英語教育学)


      大学英語入試への民間試験導入は重大な欠陥があり,中止すべきです。その理由は以下のとおりです。
      1:目的・内容が異なる試験をCEFRで標準化することは不可能。
      2:田舎に住むものと都会に住むものとでは受験する機会がまるで違う。
      3:文科省の指導要領に従わない民間試験を高校生が受験しなければならないのは全くの不合理。
      4:本来は文科省が無料で実施すべき全国大学入試を受験生が高い金を払って受験しなければならないのも全く不合理。
      5:民間試験を受験したとしても,それを採点するのは誰がするのか,その公平性を誰が保証するのか,全く不明。
      6:英語の大学入試を民間委託するのは,高校教育の現場を民間企業のための予備校に変質させる危険性が極めて高い
      7:結局,英語の大学入試を民間委託するのは,英語教育産業を儲けさせる方策となり,英語教育の改善には役立たない

       

      以上。

       

      | 英語教育 | 15:11 | comments(0) | - |
      TOEIC、共通テストへの参加を取り下げる。
      0

        この知らせを受けて、受験生を抱える高校や予備校など、教育関係者の間で「激震」が走っているそうです。言葉は悪いですが、バカかと思います。

         

         

         

        英語民間試験の実施団体がまともなら、今回の決定は当然なのです。「TOEIC」を運営する国際ビジネスコミュニケーション協会は2日「責任を持って対応を進めることが困難と判断した」とのことです。当たり前すぎて、あごが外れそうです。

         

         

         

        身も蓋もないことを先に言ってしまえば、日本がアメリカの属国である間は、英語「教育」と言っても、せいぜいのところ、宗主国の意向により、植民地の中で「富裕層」の仲間入りをしようと走り回るコマネズミのような人間を育てるだけです。

         

         

         

        私は、大学入試における民間試験の導入は、財界の要望と官僚の天下り先の確保、およびテスト業者の利益がミックスされた新たな教育シンジケートができるだけだと言ってきました。それは英語という宗主国の言語を梃子にして、日本を回復不能なほどの格差社会にするのです。

         

         

         

        問題は、格差社会の中で苦しんでいる人たちが、自己責任という言葉で格差を受け入れていることです。政府や大手メディアが垂れ流す情報をそのまま、なんとなく信じ、「世の中こんなものさ」とあきらめていることです。「スキル」と「カネ」がすべての世の中で、それを身につけてこなかった自分が悪いと考え、「オレの考え、リアルじゃね?」と言いたいのです。

         

         

         

        それは、たとえるなら、中学校や高校で不合理な校則を変えようと行動する生徒への感情的な反発のようなものです。「なにめんどくせえこと言ってんだよ!自分たちだけいいかっこしやがって。こんな集会なんて意味ねえんだよ。」というような。

         

         

         

        実は、この感情的な反発も、政治的に利用されているのです。これこそが大阪維新の会、日本維新の会の「イデオロギー」なのです。

         

         

         

        英語の民間試験の話にもどります。私は、民間試験の導入は失敗すると言ってきました。高校生は、時間が制約されているのだから、英文法を徹底的に勉強するべきです。

         

         

         

        ただし、私の言う英文法とは英語と日本語の間に立ちはだかる壁の本質を理解し、それを取り払うためのもので、英語を日本語の発想で学習するものではありません。おそらくこれまで経験したことのない中身のはずです。興味のある高校生は、いつでも無料体験ができます。

         

         

         

        以下は、2019年6月19日の、「しわ寄せは受験生に…“欠陥”英語民間試験に学者が国会請願」と題した、日刊ゲンダイの記事です。ぜひお読みください。

         

         

         

         

         

         

        ― センター試験に代わって2020年度から始まる大学入学共通テストの英語民間試験。東大の阿部公彦教授ら学者有志が18日、利用中止を求める国会請願を行った。制度上の欠陥が多く、最低限の公正性・公平性が確保されていない。高校生や保護者、学校関係者に不安が広がっているという。



         英語民間試験は、TOEIC、TOEFL、英検など8つの民間実施団体が行う。各試験での点数を対照表に従い、統一のスコア(6段階)に置き換えるのだが、あり得ない評価法だという。京都工芸繊維大の羽藤由美教授は「全く科学的裏付けがない。50メートル走と握力を測ってどちらが体力があるか見るようなものだ」と声を荒らげた。



         加えて、営利を追求する民間業者の入試は公平性を損なう危険が満載だ。受験者数を増やすための“スコアダンピング”はすでに始まっているという。また、実施団体自身が問題集などを発売する対策ビジネスもきな臭い。手の内を熟知する出題者の対策は、鬼に金棒。高得点に直結する“参考書”は、受験生のバイブルになって売れまくるだろう。他にも、5000〜2万5000円超の高額の受験料や、受験機会をめぐる都市部と地方の格差も指摘されている。

         

         

        元凶は、8つもの民間実施団体に試験を委ねたからだ。下村博文文科相の下、2014年に始まった有識者会議は、英語ビジネスを展開したい楽天・三木谷浩史会長が主導し民営化が決められたとされる。この有識者会議の傘下の協議会がビックリ仰天だ。阿部教授が指摘する。



        「外部試験を導入すべきかを検討する協議会に、多くの試験実業者が名を連ねました。推進するのは当たり前だし、自ら実施主体になった。その結果8つもの民間試験が生まれたのです」



         協議会は、TOEIC、TOEFL、英検、ケンブリッジ英語検定、GTEC(ベネッセ)などの実施団体がメンバーになっている。天下りを受け入れるなど文科省との癒着関係は深い。

         


        「政治家も民間に開放し、その先に献金を受けるなどうまみがあるのでしょう。しわ寄せはすべてムダな負担を強いられる受験生に来るのです」(阿部公彦教授)



        欠陥試験で人生の大勝負がメチャメチャだ。―

         

         

         

        過去記事

         

        「英会話」って何?

        http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=547

         

        英語学習において最も大事なこと− その1。

        http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=549

         

        英語学習において最も大事なこと − その2。

        http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=550

         

        | 英語教育 | 15:26 | comments(0) | - |
        英語学習において最も大事なこと − その2。
        0

          閉ざされ、歪み、穴だらけになった出版業界から定期的に流れてくる「○○式英語勉強法」というタイトルの本をいつの間にか買ってしまう症状のある方は、以下を読む必要はありません。

           

           

           

          ここで言う症状とは、やれハーバード式、佐藤ママ式、イモヅル式じゃなかったヒロツル式英語メソッドだの、あるいは『英語で一流を育てる』『学年ビリのギャルが一年で偏差値を40上げて慶応大学に現役合格した話』といった例の詐欺本に興味をもったり、実際に買って読んだりする症状を言います。こういった本のタイトルに惹かれるということは、あなたはすでに出版社が狙う特殊な読者層に入っているわけです。

           

           

           

          人は成長過程のどこかで、あれっ、これは自分が本当に望み、考えたあげくの判断なのだろうか、と自らに問いかける瞬間があるのではないでしょうか。

           

           

           

          つまり、他人からの影響(無意識の制度的強制)なくして自分の考えなど持てるわけがない、私たちが自分の考えだと思っているものはすべて誰かの受け売りなのではないか、本当は全く別の世界があるのにそれを想像すらできないようにされているのではないか、という疑問を持ったことのない人が安手の「英語学習法」なるものに引っ掛かるのです。

           

           

           

          なぜなら、外国語を学ぶということは、今自分がいる世界とは根本的に違う別の世界があることに気付くことなのですから。しかし、今この国で猖獗を極めているのは「グローバル社会への適応」を合言葉にした、格差助長政策であり、入試対策に特化したいびつな外国語教育なのです。

           

           

           

          またまた前置きが長くなりました。本題に入ります。英語学習において最も大事なこと−その2です。

           

           

           

          2:語彙の運用能力こそが知性の幅であり、語彙数こそが教養の深さを示すインデックスである、ということです。

           

           

          英米人の場合、あくまで平均ですが、2歳で300語、5歳になるまでに2,000語程度、10歳で7,000語、12歳で12,000語、18歳で18,000語程度を修得しています。今回の英語教育改革では、中学3年生までに習得すべき単語数が1,500語になる!と塾が脅していますが、日本の中学校で習う語彙数では勝負になりません。

           

           

           

          ところで、英語の新聞を読むには、どれくらいの語彙が必要でしょうか。語彙には話したり書いたりするときに使う Active vocabulary と人の話を聞いたり読んだりするときに使う Passive vocabulary の違いはありますが、多くの研究者が指摘しているのは、およそ20,000語、どんなに少なく見積もっても6,000語だと言われています。

           

           

           

          英米の教養人がもっている語彙数は約25,000語程度だと言われています。中学英語をマスターすれば英会話は大丈夫、などという人もいますが、1,500語程度の語彙数で、いったいどうやって大人の会話が成立するのでしょうか。

           

           

           

          日本語の読み書きすら怪しい安倍ちゃんが世界のインテリたちと渡り合えるわけがないのです。もしそれが可能だというのであれば、英米の社会は相当に薄っぺらで、知の蓄積のない社会ということになります。

           

           

           

          現在、英米の政治家と対等に話し合えるだけの英語力を持っている日本の政治家がいるでしょうか。過去、自民党の中には一人いました。今の自民党の面々を見て下さい。気分が萎えてきますね。もちろん官僚の中にもいません。これは元駐日大使が言っていることです。

           

           

           

          英語教育改革は、まずなによりも政治家や官僚など国のトップに対して行う必要があります。それ以外は、財界人も含めてせいぜい国民の1%が英語を使えるようにすれば充分です。1%は120万人です。これでも気が遠くなるような数字ですね。

           

           

           

          もうお分かりでしょう。英語教育改革の中に、一般の国民を巻き込む必要などないのです。日本の英語教育は、教育に名を借りた格差助長政策であり、せいぜいのところ「シンガポールのユニクロの店長」を目指す「改革」なのです。

           

           

                         

          ここからは私の経験を語りたいと思います。若いころ、まあまあ英語はできる方だとうぬぼれていたときがありました。井の中の蛙ですね。それを思い知ったのは以下の小説に出会った時です。

           

           

           

          ジェイムズ・ジョイスの『若き芸術家の肖像』『ユリシーズ』そして最後の小説『フィネガンズ・ウェイク』です。

           

           

          その冒頭は以下のように始まります。しかも小文字です。最初は印刷ミスかと思いました。

           

           

          riverrun, past Eve and Adam's, from swerve of shore to bend of bay, brings us by a commodius vicus of recirculation back to Howth Castle and Environs.

           

           

           

          私ごとき人間の語彙力では、全く歯が立ちませんでした。そこで方向転換して読んだのが1973年にアメリカで刊行されるや600万部の大ベストセラーになり、ヘンリー・ミラーやアップダイクが絶賛した新しい女性の文学『飛ぶのが怖い』でした。

           

           

           

          この本でも語彙力のなさを痛感しました。そして、翻訳家・柳瀬尚紀氏を知ることとなったのです。ブログでも何回か言及しています。彼が翻訳不可能と言われた『フィネガンズ・ウェイク』を訳していると聞いて私はひっくり返りました。以来私は、日本語・英語ともに語彙力不足というトラウマを引きずっています。

           

           

           

          以下が『飛ぶのが怖い』のペーパーバック版。下は柳瀬尚紀氏の翻訳本(新潮文庫)。一度は手に取ってみることを勧めます。ただし、かなり興奮する性的描写があちこちにあるので R18+ですね。奥手の私が読んだのは30歳の時です。

           

           

          1985年にパルコブックセンターで買ったと裏表紙に書いています。

           

           

           

           

          新潮文庫版のカバーに書かれている紹介によると「これは一人の女の精神と性の放浪物語である ― 精神分析医を二度目の夫に持つ詩人イザドラは、結婚生活で窒息させられた欲望のうずきを感じていた。不毛の倦怠と激しい自己嫌悪を覚えながらも、狂気じみた情熱に駆られ夫と愛人の奇妙な三角関係に陥った彼女は、心と肉体の完全な充足を求めてさまよう・・・。大胆奔放な言葉を用いて全米を騒然とさせた女流作家の自伝的長編」とのことです。

           

           

           

          イザドラは、単に「二人の男のどちらをとるか」ということだけでなく、たとえば「芸術家になるか、それとも子沢山な主婦になるか」とか、「従順な女になるか、冒険的で支配的な女になるか」、あるいは「ユダヤ人としてのバックグラウンドを意識するか、コスモポリタンになるか」という感じで、常に二つの価値観の間で揺れ、しかもどちらの道をとっても孤独感を味わうという閉塞的な状況に陥っているのです。

           

           

           

          閉塞的な状況を抱えつつ放浪を続けるということについて言えば、J・D・サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』に似ています。『ライ麦』が10代の男の子の放浪だとすれば、『飛ぶのが怖い』は30歳の既婚女性の放浪というわけです。『ライ麦』のホールデンも、『飛ぶのが怖い』のイザドラも、よくしゃべります。おしゃべりの面白さを味わう小説と言えば、まず思いつくのがこの2冊でしょうか。

           

           


          以来、語彙力不足というトラウマを引きずっている私がしていることは、常に英英辞典の一種である Vocabulary Buildingのテキストを持ち歩くことです。それが以下のテキストです。

           

           

           

          接頭辞、接尾辞、語源の解説と、章ごとにドリルがついています。英検1級にチャレンジする人には必須です。でもこれを高校生がやるのは無理ですね。

           

           

           

          画像の demagogue(デマゴーグ)の定義を見て下さい。A political leader のことですね。そして彼は appeal します。人々の emotions(感情)や prejudices (偏見)に。目的は discontent(不平不満)を  arouse(引き起こ)し、自らの political purposes(政治的目的)を達成することです。安倍ちゃんは言うまでもなく、橋下徹のような政治家のことです。この定義によって、彼らがデマゴーグであることが深く納得できます。

           

           

           

          ある単語の意味を理解するには、その単語を構成する key word を知る必要があります。上記の例でいえば、a political leader、appeal、emotions、prejudices は demagogue(デマゴーグ)という単語と同時に連想しなければならないのです。言葉は連想によって意味範囲が決まるからです。

           

           

           

          最後にもう一つ大事なことをつけ加えます。受験用の単語集をやみくもに暗記するより、信頼できる和英辞典を引き、「自分が」「今」知りたい単語や言い回しを調べることが、語彙力増強のための最強・最短の方法です。これについてはまたいつか話しましょう。

           

           

           

          語彙は料理で言えば材料です。材料なしではどんなに腕のいい料理人でも料理を作ることはできません。豊富な語彙力があってこそ、会話にも「いい味」が出るというものです。

           

           

           

          | 英語教育 | 23:29 | comments(0) | - |
          英語学習において最も大事なこと− その1。
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            英語の話題が続いたので、ついでに英語学習において最も大事なこと、およびそれにまつわる勉強方法について話します。もちろん、私の個人的な意見であり経験です。したがって何の権威もありません。

             

             

             

            そもそも勉強方法に権威を求めることがおかしい。思考錯誤によって自分のものにした方法だけが、いざというときにモノを言うのです。自分のモノサシを作ることを怠っておいて、外部のモノサシに頼ること自体が間違っています。勉強方法から始まって、価値判断そのものまで外部に頼るようになれば、人格が空洞化するのは当たり前です。

             

             

             

            特に、英語の勉強方法(受験本もそうですが)なるものは、手を替え品を替え新しいものが登場します。出版社はあなたのことなど何も考えてはいません。売れるかどうか、それだけを考えています。つまり必然的に質は低下するのです。

             

             

             

            『ついに登場!究極の英語勉強法』『あなたを絶対合格に導く革命的な勉強法』『東大生の80%が実践している勉強法』『あなたを震撼させる東大首席卒業の超絶・悶絶・壮絶・効率的・合目的的・新自由主義的・竹中平蔵的勉強法』のようなタイトルをつけた本が出ても、眉に唾して、ふ〜ん、相変わらずだなあ、くらいに思っていればいいのです。

             

             

             

            世の中には英語の勉強の仕方について書かれた本に時間と大金をつぎ込み、一向に英語そのものに取り組もうとしない人が多いようです。せめてアメリカやイギリスの古典を数十冊英語で読んでみてはどうでしょうか。

             

             

             

            言わずもがなのことですが、すべての人に有効な勉強方法など存在しません。能力も、関心も、目的も、置かれている環境も一人一人違うのですから。この単純な事実をよく肝に銘じておくことが大事です。そうすれば、出版社の販売戦略にひっかからなくて済みます。

             

             

             

            前置きが長くなりました。さっそく本題に入ります。英語学習において最も大事なことは単純明快です。2つあります。

             

             

            1:語学学習における記憶力というものは、覚えたいものにしか反応しないということです。ここでポンと膝を打って納得してくれる人ばかりではないと思うので、少し説明します。

             

             

             

            世間では、いわゆる頭のいい人=記憶力がいいと信じている人が多いようです。計算が速いのも同じように頭のいい人の特徴だと考えられています。

             

             

             

            しかし、本当でしょうか。人間は高性能のICレコーダーではありません。目にするもの、聞くものすべてを記憶していたら日常生活が立ち行かなくなります。だから、覚えるべきものとそうでないものを取捨選択するようにできているのです。では何を基準に私たちは取捨選択するのでしょうか。

             

             

             

             

            それが「覚えたいもの」という欲求すなわち自分のモノサシなのです。これは人によって違います。自分の欲求に忠実な人は、学校教育の中ではわがままに見えます。「そうすることになっている」ことを文句を言わずにやる場所が学校だからです。

             

             

             

            特に普通科の進学校では、難関大学に合格するために学習すべきもの、記憶しなければならないものは決まっています。あとは限られた時間内にどれだけ効率的に知識をインプットするかが問題になるだけです。

             

             

             

            そこでいい成績を収め、東大に合格しようと思う人は、佐藤ママが言うように恋愛もダメ、テレビもダメ、下らない宿題をするのも志望理由書を書くのも時間がもったいないので母親が代わりにやる、ということになるのです。

             

             

             

            経済的にゆとりのある家庭は「プロの塾・予備校教師」や「プロ家庭教師」に勉強を外注します。面白おかしく、ギャグを交えて、時には「人生が変わる1分間の深イイ話」を聞かせて合格へと導いてくれます。今は小学生の段階から、この精緻なシステムが出来上がっています。それを可視化して見せたのが佐藤ママだというわけです。

             

             

             

            このシステムが罪深いのは、内心の欲求を抑圧し、それに気づかなくしてしまうところです。代わりに、難関大学に合格したいという偽造された欲求が与えられます。

             

             

             

            小学生の頃から人格空洞化トンネルの中に入れば、トンネルを抜ける頃には、倫理意識を欠落させた人間が出来上がります。なりすまし塾長や事実と妄想の区別すらつかないネトウヨ塾長、はたまた全自動忖度機が出来上がるのは当然です。このことに気付いた人間が「私の人生を返せ!」と叫んだとしても「負け犬」の烙印を押されるだけです。

             

             

             

            話を元に戻します。本来、記憶力とは、分野によって強弱があります。記憶力が起動する分野もあれば、起動しない分野もあるのです。「語学学習における」記憶力と限定したのは、そういうわけです。

             

             

             

            イチロー選手は、ピッチャーの投げる球をことごとく記憶していたと言います。球種やコース、スピードに合わせて身体の始動を早めたり遅らせたりし、バットの角度やスイングスピードを微調整するためです。ここが凡庸な選手と違うところです。この種の記憶力を身体的記憶力と呼びましょう。

             

             

             

            しかし私たちの記憶力はもともと身体的なものだったのではないでしょうか。農業も林業も漁業も、あるいは土木工事も大工仕事も左官業も、世の中の基幹をなす仕事は身体的記憶力なしには成り立ちません。

             

             

             

            孫が新体操をしているのですが、衣装はすべて妻の手作りです。これまで10着以上の衣装を作りましたが、作るたびに進化しているのが分かります。ロシアの新体操の選手の衣装をテレビやネットで研究した後、ミシンを出してきて、数日以内にその衣装を作り上げます。その手早さといい、デザイン力といい、とてもまねできません。熱中しはじめたら取り合ってもくれません。ちなみに妻は学校の勉強は得意ではなかったと言っています。

             

             

             

            そうなのです。私たちの記憶力は覚えたいものにしか反応しないのです。それに対して、近代の学校教育は、身体と切り離した抽象的な概念を記憶することを重んじてきました。その最たるものが、大学入試や資格試験に合格することを目標にした語学学習です。でも絶えざる競争を推進力にした学習は、本当の欲求に気付いた人には、まったく魅力のないものに映ります。

             

             

             

            そもそも、あなたの記憶力=欲求が語学学習という分野に向いていない場合もあります。料理のレシピならいくらでも覚えられるのに、好きな歌手の歌なら英語で歌えるのに、英語の単語や構文となると覚えられない人がいます。当たり前ですよね。

             

             

             

            もしあなたが教室で身体を小さくして屈辱と退屈に耐えているとしたら、語学学習など思い切ってやめてしまうことです。そもそもやりたくもないことに貴重な時間を捧げるなんて、自分の人生に対して失礼です。「英語なんかやりたくない」という意思をしっかり表明して、別の山を目指しましょう。

             

             

             

            猫も杓子も英語!英語!英語!の世の中で、自分の意思を表明するのは勇気のいることかもしれませんが、心配いりません。世の中の方が狂っているのですから。私たちの生活を豊かにしてくれるはずの身体的記憶力が起動しない場で生きる必要はないのです。

             

             

             

            私は今年から塾棟の隣にある300坪の畑を借りて、野菜を作ったり、果樹を栽培したり、鶏を飼うことを計画しています。教育の原点に戻り、子どもたちに勉強を教えながら、オールターナティブな教育を目指そうと思っています。別にたいそうなことではありません。私が少年だった頃の普通の農村の風景を再現するだけですから。

             

             

             

            長くなるので英語学習において最も大事なことの2番目は次回に譲ります。ここまで読んで下さった皆さんにお礼を言います。ありがとうございました。

             

             

             

            | 英語教育 | 13:02 | comments(0) | - |
            会話は最も人間的な営みである。
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              私は人と話すことが好きです。直接会って話すことも嫌いではありません。最近はマルクス・ガブリエル氏とよく話をしています。もちろん著作を通じてですが。読書も一種の会話なのです。

               

               

               

               

              「その問題が最も重要だと考えていました。おっしゃるようにテクノロジーは、独自に進化するロジックを持っています。そのロジックが僕たちの倫理意識を滅ぼしているのですね。あなたはそれに関して最も根源的な思考を展開しているように見えます。よかったらコーヒーでも飲みながら、数時間で結構ですから話して行きませんか」

               

               

              「もちろんいいですよ。是非話しましょう。私はどこにも行きませんから。すべての問題に答えることはできませんが、テクノロジーの進化と教育システムとの関係を議論したいですね」

               

               

               

              これは私が勝手に想像したものですが、会話に必要なのは、誰と話すか、何を話すかというこの2点です。もちろん世間話もいいものです。時候の挨拶やお互いの無事を確認し合うことも大切です。しかし、私にとって『なぜ世界は存在しないのか』を起点に、問題意識を共有する人との会話ほど楽しいものはありません。

               

               

               

              誰と話すか、何を話すかという2点に戻りましょう。前回のブログで、外国人に道を尋ねられた時、困らないように「英会話」を勉強することの不毛さについて書きました。こういう発想は英会話産業の儲け主義にまんまと騙されているわけですが、致命的にむなしいのは、「会話の相手」と「中身」が全く想定されていないことです。

               

               

               

              確率的にほとんどゼロに等しい(いまはスマホの時代です)外国人に道を聞かれた時のことを想定して英会話学習にはげんでも、お金と時間を無駄にするだけだと書いたのは、まさに「会話の相手」と「中身」が全く想定されていないからです。

               

               

               

              「じゃあ、オレたちが日本語を習得するとき、会話の相手を想定していたとでも言うのかよ。いつの間にか身についていたんだろ。だから英会話を勉強するときだって同じじゃね〜か。なにをグダグダ言ってるんだ!」という意見もあるかもしれません。ネトウヨの影響で、こんな言葉使いになってしまうのをどうかお許しください、なんちゃって。

               

               

               

              それはともかく、幼児が母語を習得していくメカニズムはいまだに解明されていません。おそらく、DNAの仕業ではなくて、神様からのプレゼントでしょう。私は大学時代ロシア語を勉強しましたが、こんな複雑な言語を習得するロシア人の子供たちはみんな天才だ、と思ったものです。もちろん日本の子供たちも同じです。それほど母語を修得するときは神の恩寵と呼ぶしかない力が働いているのです。

               

               

               

              「英会話」と母語の習得を同列に論じることなどできません。「ゼロ歳からの英会話」がどれほど荒唐無稽で残酷なものか、人間の神秘的な力に弓を引くものか、分かろうとしない親御さんがいるのは悲しいことですね。第二言語として英語を勉強する時に頼りになるのは、必要性と目的意識、そして自由になる時間です。「神の恩寵」は当てにできません。

               

               

               

              私は英語がそれほどできるわけではありません。それゆえ、誰と話すか、何を話すかという2点にこだわって、勉強を続けています。話したいと思わない相手と、中身のない会話を交わすことほど疲れることはありませんからね。

               

               

               

              これまで、この人となら話したいと思う人が何人もいました。今回は英語だけに限って具体的人物を紹介しましょう。もちろん私の個人的な感想であり、好みが反映されていることは言うまでもありません。しかし、こういう人と話してみたい、そのためなら英語の勉強を続けようと思っています。

               

               

               

              まず一人目は、言語学者のノーム・チョムスキー氏。高齢ですが、世界で最も論文引用数の多い学者・活動家です。演題は「Education For Whom and For What」(誰のための、何のための教育か?)です。

               

               

               

              二人目は、ノーベル文学賞を受賞する前から、ブログで何度も取り上げていたカズオ・イシグロ氏です。彼の話す「英語が好き」なのではありません。言葉は、話す人物の内面を表出させます。私は彼の実験精神と自由さが好きなのです。長いですが、是非最後までご覧ください。

               

               

              | 英語教育 | 13:29 | comments(0) | - |
              「英会話」って何?
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                数日前、用があってパーク・プレイスに行きました。「くまざわ書店」に向かっていると、場内アナウンスで英会話教室の宣伝が流れてきました。な・な・なんと「ゼロ歳からの英会話」と叫んでいるではありませんか。

                 

                 

                 

                えっ、びっくりするのはお前だけだよ、とおっしゃるのでしょうか。そうかもしれませんね。なるほど、そのアナウンスに衝撃を受け、精神が錯乱して脳波が乱れ、よだれが垂れて二つの眼球が飛び出したりするのは私くらいかもしれません。

                 

                 

                 

                まわりを見ると、皆さんほとんど聞いていないか、軽〜く聞き流してショッピングを楽しんでいるようでした。でもちょっと考えてみて下さい。「ゼロ歳からの英会話」なんですよ!ゼロ歳と言えば、まだ1歳になっていないんですよ!当たり前ですが・・・。自分の親の顔がやっとわかりかけるころから、「英会話」なんですよ!

                 

                 

                 

                ゼロ歳から自分の子供に「英会話を習わせよっかな〜」と考えている親御さんにぜひ会ってみたい。いや、マジで。なぜ日本語ではなくて「英会話」なのか、訊いてみたいものです!自分の子供をアメリカ人にでも育てるつもりなのでしょうか?

                 

                 

                 

                「子供4人全員を東大医学部に合格させた佐藤ママも、4人全員を1歳から苦悶式に通わせたというじゃないの。1歳からじゃもう遅いのよ。ゼロ歳からじゃなくっちゃ、もう無理!」などという返事が帰ってきたらどうしましょう。

                 

                 

                 

                そんな親の相手をするのは、まともな神経をしている私には、もう無理!です。いっそのこと、ライダーキックでもくらわして逃げようか。いや、四の痔固め(字が違うことくらい分かっていますよ。安倍ちゃんじゃないんだから)のあと、連続技で逆エビ固めを食らわして泡を吹かせ、ギブアップさせてやろうかと想像したくらいです。

                 

                 

                 

                やれ、東大医学部だ、ハーバードだ(ここはヨットハーバーど!なんちゃって)、ジュリアード音楽院だ、受験は母親が9割なのだ!英語で一流を育てるのだ!バカボンのママなのだ!グローバル社会で落ちこぼれたら悲惨なものよ。一気に貧困層へ転落よ!剛力 彩芽と宇宙にも行けないのよ!どうしてくれるのよ!

                 

                 

                 

                どうもしませんけど・・・。世の母親たちを焦らせ、競争に駆り立てる「一流」の母親たちと出版社。出版不況の中で一定数の読者を獲得しようと思えば、周囲は皆ライバルだと考え、自分の子供だけは「1%」の「一流」に育てようと妄想する付和雷同型の親をターゲットにするしかないのですね。

                 

                 

                 

                この種の親たちは、自分の発言や行動が、世の中に差別的な空気を作り出していることに気付いていません。いや、なんとなく気付いているのかも知れませんね。それで「グローバル社会」という中身の全くない言葉を呪文のように唱和して、世の母親たちだけでなく、自分をごまかしているのです。

                 

                 

                 

                ダグラス・ダミス氏は『イデオロギーとしての英会話』の中で「英会話の世界は人種差別である。雇用方式において人種差別であり、その広告が人種差別であり、テキストブックやクラスに蔓延するイデオロギーにおいて人種差別的」だと言っています。極端な言説でしょうか。

                 

                 

                 

                作家で詩人の富岡多恵子氏が『英会話私情』(集英社文庫)の中で、「英会話は敗戦によって生まれた日本独特の大衆文化である。従って英会話という言葉があるうちは、まだ戦後である」と喝破していたのを思い出しました。寸鉄人を刺す見事な例です。

                 

                 

                 

                いえ、何もこれから英会話を学ぼうとしている人を冷やかそうと思っているわけではありません。すぐ「なんだこいつ、上から目線でエラソ〜に言いやがって」などと思っている、そこのあなた。私は誰もが納得する経営学の基本を語ろうとしているだけです。

                 

                 

                 

                「日本もどんどんグローバル化して、オリパラ(なんのこっちゃ)やラグビーのワールカッ(末尾のdとpは発音しません)もありますよね。それで外国人の方が大勢やって来ていますでしょ。で、いつ道を尋ねられてもいいように、英会話を勉強しようかと思っているのです」とおっしゃる女性に相談を持ちかけられたことがあります。いや〜、なんというお人好しのボランティア精神でしょうか。

                 

                 

                 

                でもちょっと待って下さい。いったい世界のどこに、道を尋ねられたときのために外国語を学ぶ人がいるというのでしょう。私の狭い経験でも、日本人以外でそんな動機を持っている人に出会ったことがありません。

                 

                 

                 

                その時のために少なからぬお金を払い、何年も英語を勉強してきたにもかかわらず、道を尋ねられなかったらどうするのでしょう。それに相手の言うことをカンペキに聞き取れても、たまたま尋ねられた場所を知らなかった場合は、いったいどうするのでしょうか。

                 

                 

                 

                私はこういう人には必ず次のように訊きます。

                 

                 

                ・あなたはどんな苦労をしてでも英語が使えるようになりたいですか?

                 

                ・あなたが身につけたい、身につけなければならない英語は、どのようなものですか?

                 

                ・その英語を手段として、あなたは何をやるつもりですか?

                 

                ・その英語を身につけるために、毎日どれくらいの時間を使えますか?

                 

                ・それをいつまでに実現されるつもりですか?

                 

                 

                以上の質問にできるだけ具体的かつ明確に答えてみて下さい。それによってあなたが必要とする英語学習の量と方法が決まるからです、と言います。

                 

                 

                 

                「教養を高めるため」とか「英会話を趣味にしたい」とか「ボケ防止のために」などという人には次のように念を押します。「教養を高めたり、趣味にしたり、ボケ防止のためにするのが英語でなくてはダメなのですか?」と。

                 

                 

                 

                ダイエットを目的とするエクササイズや健康食品の定期購入、アンチエイジングのための化粧品のお試し買いなどと同じノリで英語学習を考えているなら、やめた方がいいとアドバイスします。

                 

                 

                 

                 

                そして、「なかなか上達しない英語に時間とお金をかけてイライラするくらいなら、映画を観たり、読書をしたり、好きな歌手やグループの追っかけをやったり、スポーツでいい汗を流し、美味しい料理に舌鼓を打つ方が、はるかに有意義な人生を送ることになると思いませんか」と言います。ほとんどの人は「それはそうよね」と珍しく私の考えに賛同してくれます。

                 

                 

                 

                そもそも英語を習得することによって得られるメリットと、その修得にかかるコストを考えた場合、つまりインヴェスティッド・キャピタル(投下資本)とそこから得られるベネフィット(利益)を計算してコスト・パフォーマンスを考えた場合、コストがメリットを上回ると予想されたら、それには手を出さないのが、資本主義社会における経営学のイロハではないでしょうか。柄にもなくカタカナだらけの説明をしましたが、実は小学生でもやっていることです。

                 

                 

                 

                私は子供たちに、できることなら生き生きと自分固有の人生を生きてほしいと思っています。英語学習がそのために必要であれば、勉強方法を教えますし、自分の経験を語りたいと思います。

                 

                 

                 

                しかし、よく考えてみると、べつに英語ができなくても困らない国に私たちは生きているのです。(日本語という)母語だけで人生のほとんどを過ごせる国はそうそうありません。私たちは日本という国の文化的資源の豊かさにもっと感謝すべきなのです。

                 

                 

                 

                それでもどうしても英語のプロになりたいと考えている人には二つだけアドバイスをしたいと思います。

                 

                 

                 

                1:涙ぐましいというか、時には痛ましいような努力が、生涯を通じてなされるという、いわば「終わりのない旅」を覚悟しなければならないということ。

                 

                 

                2:日本人が英語を話せない本当の原因は、すでに述べたように切実な必要性がないからです。言い換えると、目標が明確であればあるほど、目標を達成する可能性は高くなります。学習過程で味わう不安や焦燥感は、目的意識が強ければ強いほど、払拭されるということです。

                 

                 

                 

                 

                あなたは目標をきちっと設定して、それに情熱を傾け、好奇心を絶えずかきたてて日々英語の学習にまい進する、前向きのマゾヒストになれますか?

                 

                 

                 

                私は年端も行かない子供たちに、「楽しいね!」「やればできるじゃん!」などという言葉をかけて英語学習を強制することに何のメリットも感じません。彼らの人生の貴重な時間を奪っているだけです。長じて、せいぜい上品な差別主義者になるのが関の山です。そんなことなら、鼻くそをほじくりながら寝ていた方がはるかにましだと断言できます。

                 

                 

                 

                もちろん、自分で目標をはっきり設定できる高校生くらいになれば、話は別です。一時期、死ぬほど勉強するのも悪くないと思います。でもどうして「英語」なのかなあ。答えは富岡多恵子氏の言葉にあります。

                 

                 

                 

                この話題は次回に続きますが、以下はアクセス数がとても多い記事です。参考にしていただけると幸いです。

                 

                 

                『早期英語教育は、子供たちから考える力を奪う。』

                http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=419

                 

                 

                | 英語教育 | 16:30 | comments(0) | - |
                高校生に読んでほしい1冊の本 − 受験英語の向こう側へ。
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                  高校生の皆さんこんにちは。私たちが英語を学ぶ目的は何でしょうか。旅行や買い物のため?それとも契約書や製品の仕様書を読むためでしょうか?あるいは外国人に道を尋ねられた時、自信を持って答えるためでしょうか?

                   

                   

                   

                  僕は外国人に道を尋ねられたことはありません。かりに尋ねられたとして、道順や目的地を知っている確率はどのくらいでしょうか。今はスマホで調べれば簡単にわかる時代です。グーグルの翻訳機能を使えば、数十ヵ国の言語に翻訳できます。実用的な英語はAIに取って代わられるのです。実用英語のフォーマットはビッグデータに無数と言っていいくらい蓄積されているのですから。

                   

                   

                   

                  英語を学ぶ目的は、母語的な枠組みを抜け出して、未知のもの、新しいものに出会うことです。当然とされているものの見方に揺さぶりをかけるためです。それは英米の文化を深く学ぶことによってのみ可能となります。

                   

                   

                   

                  今回は高校生の時に読んでほしい本(小説)を紹介します。高校生の時でなければダメなのか、小説なんていつ読んでもいいではないかと思う人もいるでしょうね。

                   

                   

                   

                  そもそも今の高校生は、小説はおろか本も読まないと言われています。でも、中には、小説や詩を読むことで、自分の感受性が世界の感受性とつながっていることを発見する人もいるでしょう。自分の感受性の変化が世界の変化につながる、そこに希望がある、と考えるのです。

                   

                   

                   

                  自分の経験を振り返ってみると、小説から深く影響されるには、それを読む年代やタイミングがあるように思います。深く影響されるとは、現実と拮抗する世界を自分の内部に築くということです。つまり、その世界を基準にして逆に現実を見るということです。

                   

                   

                   

                   

                  現実を絶対視し、それに屈服し、その中でよろしくやることだけを考えるようになってからでは遅いのです。僕は比較的早い時期に大人世界のイカサマ性というか鈍感さ、権力的な体質を嗅ぎ取ることができました。

                   

                   

                   

                  以来、大人のやっていることに、いちいちムカついていました。頭ではバカげていると分かっていたのですが、受け入れようとすると身体が拒否反応を示すのです。そして自分もあんな大人になっていくのかもしれない。それは何となく予感できる。でもあんな大人にだけはなりたくない、なるまいと考える。

                   

                   

                   

                  つまり「世の中はみんな金や地位といった外形的なことしか考えないバカばっかりで、自分だけが正しい」と思いつめるのです。これは若い時の特権ですね。今回紹介する小説は、そんな高校生のギリギリのところを描いた作品です。

                   

                   

                   

                  その小説は次のように始まります。

                   

                   

                  If you really want to hear about it, the first thing you’ll probably want to know is where I was born, and what my lousy childhood was like, and how my parents were occupied and all before they had me, and all that David Copperfield kind of crap, but I don’t feel like going into it.

                   

                   

                   

                   この小説は高校を中退せざるを得なかった少年が語り手なのですが、冒頭部分を読んで皆さんはどんな感じがしましたか。理路整然とした冷静な語り口でしょうか。違いますね。どこかせわしない、落ち着きのない感じです。青年期特有の不安も見え隠れしています。もちろんこれはかなり読み進んでわかることです。

                   

                   

                   

                  僕がこの小説を始めて読んだのは、大学受験に失敗して浪人しているときでした。まあ、ギリギリ高校生と言える時期ですね。「you」って誰、オレのことかな。「it」って何のことだよ。まして、and all がこの語り手の口癖で、「〜とか」という意味だとは知る由もありませんでした。lousy だとか crap という単語も見たことがなかったのです。学校の教科書には出てきませんからね。

                   

                   

                   

                  それでも読み進めました。我慢して数十ページほど読み進めると、語り手の高校生の声が聞こえて来て、気持ちが分かるようになりました。英語の小説を読むときは「今は分からなくても、そのうち分かるようになる」という経験を積み重ねることが大事ですね。

                   

                   

                   

                  そんなわけで僕が英語を勉強していてよかったと思うのは、英米の現代小説を読んで、作者の個性つまりそれを生みだしている社会の根底にある「文化」に触れた時なのです。英語を通じて獲得するものが「文化」でないとしたら、一体外国語を学ぶ意味などあるのでしょうか。

                   

                   

                   

                  文部科学省の推進する英語の4技能向上とは、つまるところアメリカの植民地で行われる宗主国の言語教育を意味します。それは宗主国アメリカに仕え、日本の富を売り渡すことになんら痛痒を感じない官僚や財界人が、自分たちの地位を保全するために考え出した仕掛けに過ぎません。それを国民の税金を使ってやるのです。

                   

                   

                   

                  彼らの言語観は「言葉は道具(ツール)である」というものです。その根底には、意味さえ伝わればいいと考える貧困な言語観があります。

                   

                   

                   

                  文科省の『「英語ができる日本人」の育成のための行動計画の策定について』には、「金」と「競争」と「格付け」の話しか出てきません。平田オリザさんに言わせると、日本の英語教育は「ユニクロのシンガポール支店長を育てる教育」だそうです。言い得て妙ですね。

                   

                   

                   

                  話がそれました。小説の話でしたね。上に挙げた小説の冒頭を日本語に訳してみましょう。

                   

                   

                   

                  「もしあなたがそれについて本当に聞きたいなら、あなたがおそらく最初に知りたいのは、私がどこで生まれて、私のお粗末な少年時代がいかなるものであったか、そして私を生む前に私の両親がどのようなことに従事していたか等々のデイヴィッド・コパフィールド風の下らぬ話であろうが、私はそれに立ち入る気はない。」

                   

                   

                   

                  この訳は構文を正確にとらえた、大学入試なら満点の訳です。「言葉は道具(ツール)である」とする言語観からすれば見事な出来栄えと言うほかありません。

                   

                   

                   

                  しかし本当でしょうか。言葉には意味だけではなく、姿があります。文体と言ってもいいですね。人にたたずまいがあるように、文にもそれがあります。そして僕たちの精神に影響を与えるのは、語り口、トーン、すなわち作者の個性なのです。意味を抽出したら言葉は用済みだとすれば、人間が書く文とAIが書く文の区別はつかなくなってしまいます。

                   

                   

                   

                  同じ箇所の別の訳文を挙げます。

                   

                   

                  「もし君がほんとに僕の話を聞きたいんだったら、まず知りたがるのはたぶん、僕がどこで生まれたかとか、子どもの頃のしょうもない話とか、僕が生まれる前に両親は何をやっていたかとかなんとか、そういうデイヴィッド・コパフィールドっぽい寝言だろうと思うんだけど、そういうことって、話す気になれないんだよね。」

                   

                   

                   

                  この訳はどうでしょう。とてもいいですね。これなら語り手の高校生の個性が伝わってきます。先を読みたくなりますね。でも「デイヴィッド・コパフィールドっぽい寝言」とはどういう意味でしょうか。

                   

                   

                   

                  デイヴィッド・コパフィールドはイギリスの文豪チャールズ・ディケンズの小説です。実は「僕はデイヴィッド・コパフィールドみたいなどうでもいい話はしたくない」というのは「僕はイギリス人みたいな話はしたくない」ということなのです。

                   

                   

                   

                  ここはよくわかります。僕が初めて読んだ長編小説はペンギンブック版で600ページ以上ある『 Of Human Bondage 』(人間の絆)でした。イギリスの作家、サマセット・モームが書いた小説です。デイヴィッド・コパフィールドも700ページ以上ある長編小説です。この両者とも、主人公が生まれたところから始まって、世間の無理解や逆境を乗り越え、波乱万丈の人生を生きて、最後に「いい人生だったなあ」と回想する話です。これはイギリスの小説の典型です。

                   

                  初めて読んだ長編小説。『 Of Human Bondage 』表紙にフィルムを貼って補修しています。ちなみに左のページクリップは高3のY・Nさんからのプレゼントです。

                   

                   

                   

                   

                   

                   

                  そこには、自分という人間を語るのに、どこで生まれ、親はどこの誰それで、どういう親戚がいて、どういう暮らしをしてきたのか、それを順序立てて話すことが、自分を語ることになるという前提があるのです。

                   

                   

                   

                  しかし、アメリカ人の語り手である少年にはこれがウザい。そんなことで自分を語った気にはなれない。どこで生まれたかとか、親がどんなだったとか、自分が子どものころどうだったかさえ、そんなことをしゃべっても、自分を分かってもらえる気がしない。過去や世界とのつながりなんてしゃべったところで自分を語った気になれない。今ここにいる自分がすべてなんだ、というわけです。これは極めてアメリカ的な考え方です。

                   

                   

                   

                  アメリカの後を追いかける日本もいわゆる格差社会・階級社会になりつつあります。本来なら、そういった格差や不平等に対して嫌悪を感じるはずの若い人たちでさえ、学歴や勤めている会社、親の職業、住んでいる場所など、外形的なもので人を値踏みする傾向があります。いわゆる「知的な職業」や「専門職」についている人ほど、この傾向を受け入れています。

                   

                   

                   

                  作者J・D・サリンジャーは、そういった大人社会を軽蔑し、憎みながらも不安にかられ、出口の見えない世界でもがき続ける少年の内面を描いたのです。つまり、社会に適応できない少年の撞着を文学に昇華したのですね。よかったら、村上春樹氏の翻訳で読んでみて下さい。原題は『ライ麦畑でつかまえて』( The Catcher in the Rye)です。共感するか反発するか、それはあなた次第です。長くなりました。ここまで読んでくれてありがとう。それではまた次回お会いしましょう。

                   

                   

                   

                  | 英語教育 | 13:06 | comments(1) | - |
                  晩秋の朝、英語教育について考える。
                  0

                    午前7時。新聞を取りに玄関へ近づくと窓の外が明るいのです。ドアを開けて外に出ると、晩秋の紅葉と一面の落葉に朝日が反射していました。野鳥の鳴き声が空気を切り裂き、冬の到来を告げています。

                     

                     

                    玄関から見た晩秋の前庭。どことなくさびしい風情が一年の終わりが近づいていることを告げています。

                     

                     

                     

                    夏の間、鬱蒼とした木陰を作っていたカツラの木も、今はほとんどの葉を落として冬支度です。

                     

                     

                     

                    今年も残り少なくなりました。センター試験も近づいています。この時期は塾教師にとって、何となくあわただしい日々なのです。高校3年生と勉強する機会もあとわずかです。夜遅い時間に、津久見や臼杵から通って来てくれた生徒さんたちには感謝するしかありません。そしてもうすぐお別れです。慌ただしさの中には、寂しさも多少含まれているのかもしれませんね。

                     

                     

                     

                    それはともかく、私は塾教師でよかったとつくづく思います。なぜなら、文部科学省から一律かつ一方的に下される「命令」に従わなくて済むからです。その命令を実質的に下しているのは財界であり、ブログで何度も言及してきた新自由主義・コーポラティズムのイデオロギーなのです。

                     

                     

                     

                    この種のイデオロギーの先兵・走狗になっているのが日本の英語教育です。「読み」「書き」「聞く」「話す」4技能を身につけさせると宣言するだけで(文科省の仕事は口先で幻想をふりまくことなのでしょうか)、人材育成も予算配分も現場に丸投げしています。

                     

                     

                     

                    考えても見て下さい。例えば、中学や高校の美術の教師がいきなりテニス部の顧問をしなければならなくなったときのことを。あるいは剣道一筋でやって来た教師が野球部の顧問を命じられた時のことを。

                     

                     

                     

                    即席でルールブックを読み、指導方法を研究するのがせいぜいでしょう。そもそも4技能のうち1つの技能すら身についていない英語教師が、いったいどうして4技能を身につけさせることができるのでしょうか。

                     

                     

                     

                    それでも見切り発車で英語教育を推進するのであれば、ほとんどの生徒は振り落とされ、学習環境が整備され優秀な人材が確保できる都市部の学校が有利になるに決まっています。

                     

                     

                     

                    しかも民間試験の受験料はTOEFULでは約2万6千円、TOEICは5千725円です。TOEICの年間受験者は270万人を超えています。いったい多額の受験料はどこへ消えているのでしょう。TOEFULでは受験者数すら公表されていません。

                     

                     

                     

                     

                    まともな神経をしていれば、英語教育を取り巻くバカ騒ぎは正視に堪えないはずです。にもかかわらず、今が儲け時だと走り出す塾・予備校、英会話業界。その説明会に出て洗脳される塾教師たち。これほど心暗くなる光景がかってあったでしょうか。

                     

                     

                     

                    安倍政権の強権的なヤクザ政治にホトホト嫌気がさしているときに、予算の裏付けも根拠となるデータもない幻想によって振り回されているのですから、これで心暗くならない人は幸せなるかな、です。私は落ちているエサをわれ先に拾うサルになることはどうしてもできません。ちっぽけなプライドが許さないのではなく、サルに教えられる子供たちがあまりに気の毒だからです。

                     

                     

                     

                    なんだかんだ言っても、世間とはこんなものだとも思います。しかし、幻想は所詮幻想でしかないことを痛切に思い知った後で、これ以上騙されることは私には精神的な拷問を受けているに等しいのです。

                     

                     

                     

                    例えば、今の英語教育業界を支配している幻想を挙げてみましょう。

                     

                     

                    1.英語はネイティブスピーカーから学ぶのが一番だ。

                     

                    2.英語学習は幼少期から、できるだけ早く始めたほうがよい。

                     

                    3.英語力は社会的・経済的成功をもたらす。

                     

                    4.英語ができれば世界中誰とでも意思疎通ができる。

                     

                    5.英語は英語で学んだほうがよい。

                     

                    6.英語を学ぶことは欧米の社会や文化を知ることにつながる。

                     

                     

                     

                    以上はすべて根拠のない誤った俗説です。もうお分かりでしょうが、日本の英語教育はこの種の幻想によって駆動されています。その結果、子どもたちはテストを通じて序列化されるモルモットのような扱いを受けているのです。少しでも子供が上位に位置することを望む親御さんは、投資だと割り切って気前よくお金を払います。

                     

                     

                     

                    実は、すべての人に平等に機会を保障するという建前のもと、社会的・経済的格差がロンダリングされているのです。すでに書きましたが、日本の英語教育は世界へ通じる通路を開いたりしません。今回の改革も、成績上位層にとって有利に働くだけです。日本社会の中で選別のモノサシとして機能するだけの外国語教育など、100年遅れているのです。

                     

                     

                     

                    はっきり言いましょう。日本における「外国語」教育は、アメリカやイギリスの白人社会で使われる標準英語をお手本とした「英語」教育でしかないのです。英語を母語とする国々の人口は世界人口の6%に過ぎません。しかもそれらの国はすべて多民族国家です。私たちがお手本とする標準英語を話す人の割合は、おそらく全人口の1%を切っていると思います。

                     

                     

                     

                    文科省は「国際共通語としての英語力向上」だの「グローバル化に対応した英語教育」などと言いますが、「国際共通語」の中身も「グローバル化」もまったく分かっていません。それどころか、塾・英会話業界のキャッチコピーかと見紛うほどの偏見と誤謬に満ちています。この程度の認識では、国内の格差を拡大させるだけでなく、新たなレイシズムの温床になる可能性もあります。いや、すでにそうなっています。

                     

                     

                     

                    お前はいつも文句ばっかり言っているけど実際どんな授業をしているんだ、と言われることも承知しています。その答えは次回以降に譲ります。あまり気が進まないのですが、何のために英語を勉強し、どんなときに英語を勉強していてよかったと思えるのか、今現にどんな勉強をしているのかを少しずつ明らかにしていこうと思います。今回はここまでにしておきます。暇があればまたお付き合い下さい。

                     

                     

                    | 英語教育 | 22:45 | comments(0) | - |
                    英語をめぐるバカ騒ぎ。
                    0

                      今日は伊方原発差し止め訴訟の第8回口頭弁論を傍聴するため、大分地裁へ行ってきました。強風で花粉が舞い散る中、呼吸困難に陥りながらも(笑)、なんとかたどりつきました。

                       

                       

                       

                      だれのためでもありません。理想が世の中で実現されるかどうかというような大それたことを考えているわけではありません。ただ自分自身が腐った妥協をしていないかどうかを内省するために足をはこんでいるのです。

                       

                       

                       

                      さて、政治の劣化の陰であまり注目されていませんが、教育分野、特に大学教育の質的な劣化は目をおおいたくなるほどです。にもかかわらず、学校、塾・予備校業界は東大を頂点とする大学ヒエラルキーの上位校にどれだけの生徒を送り込んだかという「実績」作りに血道をあげています。

                       

                       

                       

                      教育において「実績」だとか「結果」、あるいは「エビデンス」といった言葉を疑いもせずに使う人は、貧困な人間観・教育観ひいては世界観の持ち主だということを告白しているに等しい。多少なりとも羞恥心を持っている人間なら、経済用語もどきの言葉を何の抵抗もなしに使えるはずがないのです。

                       

                       

                       

                      ところで、毎年この時期になると、幹線道路沿いに、キラキラしたカラフルなノボリや看板が登場します。生き残りをかけた塾の宣伝合戦です。チラシやテレビコマーシャルでは「マイレージ」「ポイント」といったカタカナ語とともに「成績保証」「やる気スイッチ」などといったわけのわからない言葉が踊るようになります。こういったキラキラ言葉に吸い寄せられる保護者や子供の目は、さぞや夢や希望でキラキラ輝いていることでしょう。

                       

                       

                       

                      教育の劣化はそこで使われる言葉の劣化にほかなりません。

                      「あなたのすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。そうしたことをするのは、世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないようにするためである」というガンジーの言葉を支えに、私は今日まで塾教師を続けてきましたが、もはや私の出る幕ではないな、と最近つくづく思います。

                       

                       

                       

                      私を意気阻喪させるものの一つに、英語をめぐるバカ騒ぎがあります。英語の4技能ですって?一体誰がそれを教えるのでしょうか。4技能どころか1つの技能すら身についていない教師にそれが可能でしょうか。もし本気で英語の4技能を子供につけさせたいのなら、莫大な予算と時間を工面しなければなりません。あたりまえですね。つまり、「安かろう、悪かろう」のなかでスタートさせるのですから、結果は目に見えています。

                       

                       

                       

                      それにしても、世界のいったいどこの国が、これほど他国の言語に執着し、義務教育の中にまでとりいれようと必死になっているでしょうか。中国は義務教育で子供たちに英語を学ばせているでしょうか。フランスやドイツはどうでしょう。イタリアやスペイン、ベトナムはどうでしょう。

                       

                       

                       

                      日本ほど強迫神経症のように他国の言語=英語を受け入れようとしている国はありません。なぜでしょう。それは日本がアメリカの属国として生きていく運命を積極的に受け入れているからです。そのけなげさは世界でも類を見ません。政治家、官僚、ビジネスアスリート(なんという下品なことばでしょう)を問わず、その積極性の度合いによって出世が左右されるというわけです。

                       

                       

                       

                      「他国の言語」と言いましたが、正確には「宗主国の言語」です。それを一律下降的に義務教育で強制すれば、ちょっとでも有利な地位に就こうと思う人たちの間で競争が激しくなるだけです。意地悪い見方かもしれませんが、ちょっとでも優秀な奴隷になろうと、幼少のころから親といっしょになってトレーニングに励むことが当たり前になるのです。

                       

                       

                       

                      名誉白人ならぬ名誉奴隷になることを夢見る人たちは、グローバル時代の中では英語ぐらいできないと困ると考えています。つまり時代の空気を読んでいるのです。その結果、だまされてかなりの時間とお金を費やします。それでも、英語は将来のポジションを確保し金儲けをするための「ツール」だという考えはゆらぎません。

                       

                       

                       

                      しかし、グローバリズムの意味を正確に理解している人はほとんどいません。ただなんとなく世界が単一の市場と化し、英語が公用語になるだろうといったイメージでしょうね。なんだか荒れた天気になりそうだから、準備をしておかなければといった感じでしょうか。そうだとしたら、あなたは確実にグローバリズムの餌食になるでしょう。

                       

                       

                       

                      そうならないためには、まず足元の現実を見さえすればいいのです。

                      今、大学の40%が中学・高校で履修すべき英語の補習を実施しています。「話す英語」に資源を集中したせいで、語彙力がないので英文が読めない、文法を知らないので主語や動詞のない文を書く、といった「症状」がもはや珍しくないそうです。

                       

                       

                       

                      それでも相変わらず政治家や官僚や財界は「文法や講読に金と時間を割いているので英語力が落ちているのだ。もっと会話に時間を使え」と言っています。

                       

                       

                      お言葉ですが、30年前から文法よりも会話を重視する方針の下に教えた結果がこれです。国は過去30年「英語が話せる」ために無数の教育改革を行い、その一つ一つの成否の検証をしないまま次の改革にのめり込むということを繰り返してきました。その結果、日本の大学生の英語力は過去最低を記録することになったのです。

                       

                       

                       

                      以上述べたことは私の実感と一致しています。

                      最後に具体例を挙げておきます。私の住む大分県ではトップクラスの高校生でも苦労する問題です。なぜその単語を選び、その文を作ったのかという私の問いに答えられる高校生はさらに少ないのです。

                       

                       

                      以下の日本語を英語にしなさい。

                       

                      1「最近、日が長くなってきた。」

                      2「昨夜、頭がさえて、夜明けまで眠ることができなかった。」

                       

                      これくらいの基本的な問題ができない「英語教育」って、何なんでしょう。きっと、話すトレーニングが足りないのでしょうね。

                       

                       

                      「読み」「書き」「聞く」力がついていれば話すことは慣れの問題に過ぎません。うまく話せないのはそれを支える基本の3技能が身についていないからです。こんなことも分からない人間たちに、英語教育をああしろ、こうしろなどという資格はありません。ふう〜、なんだか疲れますね。

                       

                       

                      | 英語教育 | 23:35 | comments(0) | - |
                      小学生の英語の授業風景−その2
                      0

                        今回は未来塾の小学校6年生の英語の授業を紹介します。使用しているテキストは英検や高校入試を意識したものではありません。中学校の教科書でもありません。テキストは以前紹介したBeatrix Potterさんの『 Peter Rabbit 』です。

                         

                         

                         

                         

                         

                         

                        ちなみに、この画像にある3ページ分の英語を書き出してみます。

                         

                         

                        Peter gave himself up for lost, and shed big tears ; but his sobs were overheard by some friendly sparrows, who flew to him in great excitement, and implored him to exert himself. Mr. McGregor came up with a sieve, which he intended to pop upon the top of Peter ; but Peter wriggled out just in time, leaving his jacket behind him, and rushed into the tool-shed, and jumped into a can. It would have been a beautiful thing to hide in, if it had not had so much water in it.

                         

                         

                        この英文を小学校6年生がスラスラと音読します。しかも全部読むのにかかる時間はストップウオッチではかると30秒弱です。その後全文暗唱し、最後は暗唱した英文をテキストを見ずに書ける(暗写)ようになっています。

                         

                         

                         

                        御存じの方も多いと思いますが、この文は『 Peter Rabbit 』の中の難しい部分ではありません。この本は半分が可愛らしいイラストですが、それを除くと、このレベルの英文が合計35ページあります。

                         

                         

                         

                        私は文法の説明をほとんどしません。ただ、文の意味は情報提示の流れを意識させながら何度も説明します。次に、英語を見ずに、まず日本語でストーリーを再現してもらいます。この部分が重要です。なぜなら、丸暗記するだけでは、いったん英語を忘れると続きが出てこなくなるからです。「続きはどうだったかな。忘れたら、日本語で言ってみて」と促します。

                         

                         

                         

                        以下は生徒とのやり取りです。

                         

                        「グースベリーのネットにつかまったピーターはどうした? gave himself up for lost したんだね。それで大粒の涙を流している。じゃあ、gave himself up for lost はどんな意味?」

                         

                        「お父さんと同じようにパイにされると思った。あきらめた。」

                         

                        「その通りだね。君たちがそういう状況になったときのことを想像して、この言い方を覚えて。(この時点で、消える音、つながる音を教えているので、子供たちは見事に発音します。読めなければ覚えられないのです。しかも日本語のように一語一語区切って読んだのでは、リスニングができなくなります)」

                         

                        「それから、ピーターの泣き声を聞いてスズメたちが飛んできた。そのときスズメたちのようすはどうだった?」

                         

                        「みんなパニックだった。」

                         

                        「そう。それを表わすのが in great excitement という表現だね。この in という小さな単語に注意して。それからどうしたの。」

                         

                        「ピーターに逃げてくれと言う」

                         

                        「それが imploreという単語。implore は難しい単語だけど、もうダメだとあきらめたピーターを励ますように、頼むように発音しないとね。そこにマクレガ―さんがやってくる。seive はどんな意味だろう。イラストを見るとわかるよ。」

                         

                        「ざる!」

                         

                        「う〜ん、イラストをよく見て。ざるかな?」

                         

                        「ふるい!」

                         

                        「正解!よく知ってるね。(それからひとしきりふるいについて説明する)」

                         

                         

                         

                        こういったやり取りが発音の矯正とともに続きます。まかり間違っても、下線部の「, who」や「, which」は関係代名詞の非制限用法、「, leaving」は分詞構文。最後の would have been は仮定法過去完了などと口にしてはなりません。もちろん中学生に対しても同様です。

                         

                         

                         

                        メタ言語(言葉そのものではなく、その言葉の文法構造を説明する用語)を教えることは、高校生なら多少意味がありますが、小学生に教えてはなりません。それは発話の意欲をそぐだけです。ひいては生き生きとした想像力を枯渇させます。

                         

                         

                         

                        would have been (ウダヴベン)の説明より、まず「あのとき〜していたら、・・・だったんだけど」という言い方を「日本語で」できるだけ多く発表させます。日本語に対応する英語の言い方があるんだと安心させるためです。もちろん対応する言い方がない場合もあります。それはそれで、また深い勉強になります。

                         

                         

                         

                        いずれにせよ、私は中学受験のための対策や先取り学習はしません。必要性も有益性も感じられないからです。ましてや、中学受験に特化した都市部の塾(四谷大塚やY-SAPIXなど)のテキストを使っていることを宣伝したり、授業の代わりに業者の作成したDVDを見せて上前をはねるようなことはできません。それより、小学生の時期は、身体を鍛え、想像力を膨らませ、自然の不思議に目覚めさせる時期です。自然は混沌としていて、偶然性と例外に満ちています。すぐに「わかった」「できた」というのは、何かをじっくり探求する精神から最も遠いのです。

                         

                         

                         

                        それでなくても、ネット社会の出現で、物事を調べるあらゆるプロセスが殺菌され漂白されています。効率よく知識に到達できるので、学びのリアルさが失われてしまったのです。それは生きるということそのものからリアルさが失われることを意味します。世界のあらゆる発明や発見は偶然の僥倖による副産物なのです。当初の予想が外れたことで何かに偶然出会う。そんな経験を蓄積し、受容する場が減っている気がします。

                         

                        | 英語教育 | 21:39 | comments(0) | - |
                        英語教育を云々する前に、人間としてやるべきことがある。
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                          たまには教室風景でも書いてみましょうか。以下の数学の問題は、二日前の中学3年生のクラスで解いたものです。問題のレベルは特別なテクニックや数学的センスを要するものではなく、じっくり集中して考えれば解けるものです。意欲のある中学生のみなさんは挑戦してみて下さい。塾では8人中6人の生徒が正解しました。

                           

                           

                           

                           

                           

                           

                          毎年この時期になるとこれまで学んだ知識を総動員しなければ解けない問題にチャレンジしています。一見すると問題は難しくなります。しかし逆に言えば楽しくなるのです。数学は試行錯誤の楽しさそのものだと言ってもいいくらいです。

                           

                           

                           

                          たとえて言えば、名前と使い方を覚えた大工道具を使って実際に椅子やテーブルやチェストなどを作る工程に入るわけです。この工程を抜きにしては大工道具の使い方を本当に身につけたとは言えません。

                           

                           

                           

                          つい先日も大工のナベさんに室内のリフォームをお願いしました。温めていたアイデアを伝えると即座に理解して材料を準備してくれます。下準備の時間を含めてわずか2時間、材料費込みで2万円の仕事でしたが、その手順といい、正確さといい、いつもながらのスピードには感嘆するほかありませんでした。相方のOさんのユーモアたっぷりの話しぶりも何とも云えず心がなごみます。大げさではなく、二人の身のこなしはアートそのものです。おそらく数学の問題を解く楽しさの本質はアートなのです。

                           

                           

                           

                          話を元に戻しますが、私は生徒に問題を渡すとき次のように言います。「この問題を解くのに必要な知識は相似と三平方の定理をはじめとして全部で5つあります。残りの3つは何か考えて下さい。後は、知識の組み合わせ方と集中力、自分のやり方が正しいと思えばそれを押し通す勇気が必要です。解き方の分からない問題を前にして考えているときほど充実した時間はないね。解けなければ宿題にします。帰宅してからも考える楽しみがあるのですから最高のプレゼントでしょ。」と。

                           

                           

                           

                          最初の頃は「マジかよ〜」という表情をしていた生徒も、最近ではまんざらでもないようです。試行錯誤の果てに、いくつかの定理や基本的な知識を組み合わせることで正解に近づいていることを実感すること、言い換えれば、それまで思ってもみなかった地平に立っている自分を発見できることが数学の醍醐味ですね。

                           

                           

                           

                          そういうわけで、塾の授業から数学をはずせません。週2回、英語だけに特化した塾にすれば、中学卒業時点で塾生全員とは言わないまでも、8割の生徒を英検2級に合格させる自信があります。現に、いつの間にか2級に合格し、準1級にチャレンジしている生徒もいます。

                           

                           

                           

                          しかし、私たちの国で生きて行くのに英語がそれほど必要でしょうか。英検2級に合格しても、高校入試や大学入試で考慮されることはありません。準1級や1級に合格していれば大学入試で多少は有利になるかもしれませんが、社会に出て仕事に役立つかと言えば、まずそれはないでしょう。中国語ができる人の方が需要はあるでしょう。英検は英語の勉強を続ける意欲につながると思う人が個人的に受験すればいいだけのことです。

                           

                           

                           

                          身も蓋もないことを言えば、日本人が英語を話せないのは技術的なこともありますが、話したいことがそもそもないのです。私はブログを書く前に、内容をすべて英語で発表することをシュミレーションしています。たとえつたない英語でも、聞くに値する中身があれば、耳を傾けてくれる人はいるのです。

                           

                           

                           

                          日本の学校教育では、たとえ少数意見であれ、自分の意見を堂々と発表できるだけの意欲を育てていません。空気を読むだけで、他者に向けて自分の意見を発表する意欲のない若者を育てておきながら、いったいどうやって外国語を勉強しろと言うのでしょうか。

                           

                           

                           

                          それにしても、ろくに英語もできない財界人がグローバリスト養成に躍起になるのはどうしてでしょうか。その方が日本の富をたやすくアメリカに売り渡せるからです。肌の色は黄色ですが、中身は「名誉白人」になろうとしている人間のなんと多いことか。英語教育を云々する前に、人間としてやるべきことがある筈です。

                           

                           

                           

                          森友学園の籠池氏は、下手をすれば偽証罪に問われるリスクを背負って国会で証言しました。しかし、安倍政権は何一つ情報も出さず、証拠となるべき公文書は廃棄されたことになっています。籠池氏は、そんな安倍政権に嘘つき呼ばわりされた挙句、裁判も受けられないまま4ヶ月も勾留されています。

                           

                           

                           

                          一方、学園に深く関与し、国有地取引に「神風」を吹かせた昭恵夫人は安倍首相と自民党に守られて自由を謳歌し、加計学園の加計考太郎氏は雲隠れしたままです。私はこの状況をなんとかすることの方が、英語ができるバカを育てるよりはるかに重要だと思います。これが人間としてやるべきことです。そうではありませんか?

                           

                          | 英語教育 | 14:01 | comments(0) | - |
                          早期英語教育は、子供たちから考える力を奪う。
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                            最近はブログを書く意味を見出せなくなっています。書きたいことの百分の一くらいは書いた気がしますが、今の政治状況を見ていると、まるで言葉の通じない異国に来ているような気がします。

                             

                             

                             

                            そんな状況とは関係なく、日々の生活を楽しめればいいのですが、意識の底にわだかまりがあって、どうしてもそれができません。「心に移りゆくよしなしごとをそこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ」と書いた兼好法師の心境が分かります。

                             

                             

                             

                            それでも、ブログを書いていると、思わぬ人から便りがあったり、相談があったりします。たまにネトウヨの皆さんからの中傷もあります。実名なら相手をしますと言っているのですが、一人として同意する人はいません。彼らは、匿名という形でネット空間にかろうじて生息しているダニのような生き物です。最近では自分で意見を述べるのではなく、リツイートという形でフェイクニュースを拡散しています。

                             

                             

                             

                            さて本題に入ります。今回は東京在住の教育熱心なお母さんであるYさんから、子供さんの進路について御相談がありました。それに対する私の考えを簡潔に述べてみます。「簡潔に」というのは、正直言ってまともに返事をする気にならなかったからです。

                             

                             

                             

                            Yさんによると、先日の「佐藤ママ」の記事とカズオ・イシグロ氏のノーベル文学賞受賞について書いた記事がきっかけでメールする気になったとのことでした。その長い、にわかには信じられないメールを読んで、私は絶句し、どう返事をしていいかわからなかったのです。一瞬、フェイクニュース、いや、いたずらかと思ったほどです。

                             

                             

                             

                            でもよく読んでみると、Yさんはいたってまじめで、子供の将来を真剣に考えていることが分かりました。それをフェイクニュースだとかいたずらではないかと疑うことは不謹慎で、不誠実ではないかと反省したほどです。

                             

                             

                            質問の要旨は次のようなものでした。

                             

                            「私もカズオ・イシグロ氏の熱烈なファンである。ついては、自分の子供を将来カズオ・イシグロ氏のようなノーベル文学賞をとれる作家に育てたい。日本の学校で英語教育を受けさせていたのでは、まともな英語力はつかないと思う。子供は今4歳で、仕事のこともあり留学させるのは難しい。そこで日本にあるインターナショナルスクールに通わせてバイリンガルに育てれば、ノーベル文学賞をとれる作家になれるだろうか?」という内容です。

                             

                             

                             

                            私が絶句したのがお分かり頂けるでしょうか。

                             

                             

                            さらに、「佐藤ママ」のように、子供4人全員を東大の医学部に合格させることができるのなら、周到な計画さえ立てれば、ノーベル文学賞も夢ではないはずだ。そのための将来の留学計画、留学先、子供に読ませたい本100冊も決めている、とのことでした。

                             

                             

                             

                            もしかしたら・・・と思わせますよね。えっ、そうは思わない?いや〜仲間がいてよかったです。Yさんから見れば、あなたや私は、子育ての緻密な計画を立てる能力のないずぼらな人間か、情報弱者だと思われているかもしれません。

                             

                             

                            でもYさんは件のブログの次の箇所は読み飛ばしたのでしょうね。

                             

                             

                            「それにしても4人の子供の中に1人くらい、東大一直線教に疑問を持つ子供がいてもよさそうなのですが・・・。しかしそれをさせないところが「佐藤ママ」の「スゴイ」ところです。つまるところ、教育は幼少期からのマインドコントロールだということです。4人の子供全員が東大医学部というところに何とも言えない精神的・文化的貧しさを感じてしまうのは、私のひがみ、負け犬の遠吠えでしょうね。」

                             

                             

                             

                            Yさんからすれば、文章を読むことは役立ちそうな情報をピックアップすることで、書いている人間の価値判断は主観なので無視してかまわないということなのでしょう。

                             

                             

                            しかし、大人になるということは自分の主観を成熟させていくことです。それが分かっていない人の行動や意見は、一見中立かつ客観的で大人のように見えますが、本質的には幼稚です。つまり、自分は偏見や主観からは自由ですよ、と言いたいがために情報収集に血眼になり、未成熟な精神を抱えたまま大人になったということです。

                             

                             

                            おやおや、話がわき道にそれました。Yさんの質問に端的に答えましょう。

                             

                             

                            1.4歳から日本にあるインターナショナルスクールに通わせるのはおやめなさい。子供を精神的に不安定にするばかりではなく、知的な発達を阻害します。特に言葉を覚えるには有利だと思われがちな6歳以下の子供にそういった環境を強制するのは、子供をバカに育てるようなものです。この事実は英語業界の利益にならないので、無視されていますが、お茶の水女子大学の内田伸子教授がこれを裏付ける興味深いデータを提供しています。

                             

                             

                             

                            2.日本語と英語という二つの言語を、別立てでバラバラに習得することはできません。特に子供が幼い時にそのような環境を強制するのは、子供の言語運用能力つまり知的能力を阻害します。

                             

                             

                             

                            一見別のものに見える言語でも、根底の部分を共用しています。私はこのことをノーム・チョムスキーから学びました。つまり、人間は最初の言語を習得する時、論理を組み立てたり、類推したり、まとめたり、比較するといった「考える力」も習得するのです。二番目の言語は、この考える力を使いながら習得されます。したがって、最初の言語によって習得した「考える力」がしっかりしていなければ、二番目の言語は簡単には習得できないのです。

                             

                             

                             

                            4歳からインターナショナルスクールに通わせたり、英会話学校に通わせたりするのは全く意味がありません。それどころか、考える力が身についていないうちから二番目の言語を覚えようとすると、母語の習得をも妨害することになります。

                             

                             

                             

                            それなら、7〜9歳からならいいのではないかと考える人もいるでしょうね。でも、そうまでして急いで英語を習わせることに何の意味があるのでしょうか。7〜9歳は小学校の低学年です。日本語すら十分に習得しているレベルではありません。その時点で、仮に英語を習得したとしても、その時点での日本語の理解度にあったレベルでしか習得できないのです。幼児期に複数の言語を教えるのは、子供の発達や人格形成をわざわざ妨害するようなものです。

                             

                             

                             

                            仕事の都合で海外に家族で移住するのならともかく(その場合でも子供の年齢によってはマイナス面が大きいのです)、日本にいながら無理やり子供をバイリンガルに育てる必要はないでしょう。帰国子女という言葉にあこがれて「国内留学」させるのであれば、彼らは大学入試においても、実社会においても必ずしも優遇されるわけでもなければ有能でもないという事実を知っておくべきです。

                             

                             

                             

                            要は、幼いころからの英語教育や英会話ブームは、英語業界の金儲けにまんまと騙されて、本来なら必要ないお金をつぎ込んでいるということです。インターナショナルスクールは大金がかかります。芸能人や有名人の子供が通っているのにつられて、見栄でお金を捨てたいなら、どうぞそうして下さい。私が口出しできることではありません。

                             

                             

                             

                            3.さて、一番肝心な質問に答えなくてはなりません。用意周到な子育てによって将来子供にノーベル文学賞を取らせることが可能か、という問いです。

                             

                             

                             

                            不可能だとも可能だとも断言できません。カズオ・イシグロ氏は長崎出身です。しかし、彼は日本人ではありません。国籍のことを言っているのではありません。彼はバイリンガルでもありません。彼は日本語をほとんど話せないし、日本語で文章を書くこともできません。れっきとしたイギリス人です。ただ、幼いころの日本の記憶にうながされるようにして、人間にとって記憶の持つ意味を比類のない実験精神で文学にまで高めたのです。

                             

                             

                             

                            親の仕事の都合で5歳の時にイギリスに渡り、のちにイギリスに帰化しました。もし彼の両親がバイリンガルに育てるために日本語の勉強を強要していたら、ノーベル文学賞の作家は誕生していなかったでしょう。これは断言できます。彼自身が次のように言っています。

                             

                             

                            「もし私が漢字やカタカナを覚えるための教育を受けていたら、歪んだものになっていただろう」と。

                             

                             

                             

                            言葉は人格を形成する骨格となるものです。その国の文化を理解するのも、歴史を理解するのも、その国の言語を自分のものとしているからです。ブログでもしつこいくらいに言ってきました。人は言葉によって思考するのです。その言葉がおぼつかないと、思考まで揺らぎ、歪んだものとなります。

                             

                             

                             

                            さてこれが私の答えの全てです。日本社会は私の考えとは正反対の方向に進んでいます。ここに書いたことは、少数意見として無視されるでしょう。小学校から英語を正規の教科にし、財界は英語を社内公用語にしようとしているのですから。

                             

                             

                             

                            しかし、本当に創造的な思考は母語でなければできないのだということは、断言しておきたいと思います。何も戦争を起こさなくても、教育をコントロールすればその国を滅亡に導くことは可能なのです。

                             

                            | 英語教育 | 15:57 | comments(0) | - |
                            私の英語「種本」
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                              前回のブログで英語教師たるもの、種本を公開すべきだと書きました。そのことで複数の方からメールをいただきました。ありがとうございます。

                               

                               

                              その中に『英語の実際的研究(秋山敏他・開拓社)』は入手困難なので、その他の種本はないのかというお尋ねがありました。もっともなお尋ねです。絶版になっている参考書、しかも古書で¥29,999円(私が紹介した時点では¥4,980円でしたが)もすることを考えると、非現実的でしたね。あくまで、英語力をつけるのに最も貢献度が高かったものを、諸条件を無視して私の独断と思い入れで挙げたに過ぎません。

                               

                               

                              同時に、横浜在住の大学教師の方からは、「私も『英語の実際的研究(秋山敏他・開拓社)』は最高の参考書だと思う、だからこの本に少しでも脚光が当たるのはうれしい。学生時代を思い出して懐かしかった。」というお便りまでいただきました。SNS恐るべしです。

                               

                               

                              そこで今回は前回に引き続き、私の英語種本の第二弾をお送りすることにしました。高校生の皆さんのみならず、英語教師の皆さんでも以下に挙げる種本を知らない方もいらっしゃるかも知れません。新しい本も含まれていますが、おおむね半世紀以上の時の試練に耐えて生き残っているものです。もちろん、著者の実力は折り紙つきです。

                               

                               

                              予備校講師が参考書を出版しはじめる1990年代以降、生徒を「消費者」や「お客様」扱いする傾向は加速するばかりです。それにIT化の流れが拍車をかけます。

                               

                               

                              結果、前回のブログでも書きましたが、生徒の皆さんは、学校や塾・予備校で用意されたテキストをやり、課題をこなすだけで精一杯になります。加えて詐欺まがいの映像授業に高額な費用を払い、授業や講師に関する情報に幻惑され、本来どうでもいいことに時間と精力を使うことになります。

                               

                               

                              情報洪水に呑み込まれてどうしていいか分からなくなった生徒は「結果にコミットする」がうたい文句の「スポーツジム」に通うようになり、「優秀なトレーナー」の命ずるままに、与えられたメニューをこなす日々に没入します。いや、今時の「トレーナー」は命令したりしません。優しく自信に満ちた声で「目標に向かって、一緒に頑張りましょう」と言います。

                               

                               

                              かくして、この国では、独学の気概を持ち、試行錯誤に耐えられる知性と野性味を持った生徒は絶滅危惧種となり、育ちが良く、素直で、他人を傷つけることに異様に敏感な心優しき生徒ばかりになりました。

                               

                               

                              なお、私は映像授業の効果を否定するものではありません。ただ本来それは無料で公開されるべきだと考えています。以下の動画をご覧ください。電子黒板を使っての授業は非能率この上ありません。授業は教師と生徒で作りだす「生き物」だからです。MITでの分子生物学の基礎講義です。

                               

                               

                              以下に挙げる私の種本は、そういった世の中になる前の、自分の知的な欠陥を突きつけられた生徒が、それを補うべく、懸命に勉学に励んだ時代のものです。著者たちは、生徒に迎合することなく、厳しい指導を貫いています。それこそが、反転して本当の優しさに通じるはずだと信じていたのですね。

                               

                               

                              では私の種本を紹介します。◎をつけているのは入手が容易で、全力で取り組むに値する参考書(辞書も含む)です。左から順に

                               

                               

                              BBI英和連語活用辞典(寺沢芳雄・丸善)

                              ◎英文構成法(佐々木高政・文建書房)

                              ◎英語構文全解説(山口俊二・研究社)

                              英文解釈考(佐々木高政・金子書房)

                              思考訓練の場としての英文解釈(多田正行・育文社)

                              ◎表現英文法(田中茂範・コスモピア)

                              Oxford Advanced Learner’s dictionary

                              熟語本位英和中辞典(斎藤秀三郎・岩波書店)

                              和文英訳の修業(佐々木高政・文建書房)

                              英語の実際的研究(秋山敏他・開拓社)

                               

                              それぞれの中身は、またの機会に徐々に説明していくつもりです。

                               

                              | 英語教育 | 18:46 | comments(0) | - |
                              高校生にすすめたい英語参考書のNO1。
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                                高校生の皆さん、こんにちは。

                                 

                                世の中には英語の参考書があふれています。社会人向けの「英語の勉強の仕方」と銘打ったものから、高校生や大学受験生向けのものまでいったい何冊になるでしょう。しかも毎日と言っていいくらい新刊書が出ています。

                                 

                                 

                                高校生の皆さんは、書店の参考書売り場の前に立って途方に暮れているのではないでしょうか。そもそも、今の高校生は定期的に書店に足を運び、膨大な参考書の中から自分に合った一冊を選ぶという習慣がないのかもしれません。

                                 

                                 

                                学校や塾・予備校で用意されたテキストをやり、課題をこなすだけで精一杯なのでしょう。「結果にコミットする」がうたい文句の「スポーツジムのトレーナー」の言うとおりに、ただ与えられたメニューをこなし、結果として表れた数値によって、自分の進路を決めているのではないでしょうか。

                                 

                                 

                                そうだとすれば、本当は自分は何がやりたいのか、自分の能力や適性はどこにあるのか、そして何よりそれが好きなのか、といった人間にとって最も肝心なことをなおざりにしていることになります。

                                 

                                 

                                財務省には、昔から東大法学部出身の優秀な人材が集まっていました。官僚の中の官僚です。彼らには国家を背負っているというプライドと「公のために奉仕する」という倫理観もあったはずです。しかし受験勉強の勝利者としての彼らは、今や、「全自動忖度機」と化し、国民のことなど眼中にありません。法務省の官僚に至っては、安倍政権と「ズブズブの関係」になって、共謀罪を強行採決させようとしています。

                                 

                                 

                                一方で、高橋まつりさんのように、努力して東大に入ったものの、電通で馬車馬のように働かされ、あげくの果てにセクハラまがいの嫌がらせを受け、自ら命を絶った人もいます。死ぬくらいなら、イスを蹴り飛ばし、辞表を叩きつけて辞めることもできたはずです。でも、それができませんでした。できないように「教育」されてきたのです。

                                 

                                 

                                話がそれました。英語の参考書の話でしたね。私は仕事柄、新刊も含めてほとんどの英語関係の本に目を通しています。一冊数十秒から、長くて一分もあればその善し悪しは判別できます。

                                 

                                 

                                そういった経験の中から、一冊だけを挙げるとすれば、『英語の実際的研究』(開拓社)を挙げます。浪人時代に出会ったこの参考書は私の英語力のバックボーンを作ってくれました。出版されたのは1969年です。なんと48年前です。これを聞いただけで「もういいよ」と思う高校生もいることでしょう。

                                 

                                 

                                書名からして地味で、消費者に訴えかけるものが乏しいですね。無理もありません。当時の教師たちには生徒を「消費者」や「お客様」とみなす発想がなかったのですから。カラフルな装丁で可愛らしくパッケージングされた今どきの中身ペラペラの参考書とは違います。「○○式」だの、「世界で一番簡単」「サルでもわかる」「一週間で攻略」云々(安倍首相のように、でんでん、なんて読まないでくださいね)といった書名は参考書にふさわしくなかったのです。受験勉強の延長線上に学問的研鑽が構想されていたからです。

                                 

                                 

                                おそらく、今の高校生は「学問」や「教養」という言葉に拒否反応を示すのではないでしょうか。それでなくとも受験勉強はウザいんだから、なるべく楽して、最小の努力で最大の効果を上げられるのが良いに決まってるじゃん、というところでしょうね。

                                 

                                 

                                この参考書は絶版となっていますが、アマゾンで検索したら中古で¥4980円の値がついていました。いわゆるヴィンテージ物ですね。今でもこの本に¥4980円を払う価値があるのか、ですって?私は10万円で売ってくれと言われても断ります。不朽の名著とはそういうものです。特に「練習問題」が素晴らしいです。「実際的研究」と銘打っているのが納得できます。只管打座ならぬ、只管音読で本物の英語力を身につけてください。

                                (私がブログで紹介したからでしょうか、わずか一日で¥29,999円に跳ね上がっています。)

                                 

                                出版後半世紀が経過しようとしているので、フイルムの透明カバーを貼っています。

                                 

                                 

                                 

                                 

                                最初の「はしがき」「編集方針」「英語を読むことについて」だけでも22ページあります。全621ページ。私はこの参考書を通して5〜6回読みました。そして今でも折に触れて読んでいます。それほど素晴らしいのです。

                                 

                                 

                                読みながら著者たち(高校の英語教師たち7人が6年をかけて書いています)の熱意というか、誠実さが伝わってきます。高校生向けに書かれた英語参考書中の白眉です。私が塾を始めた時、高校生にこの本の中の「注意すべき動詞」と「前置詞」合計100ページをコピーして渡しました。

                                 

                                 

                                皆さんは中学や高校で、あるいは大学で英語の授業を受けているでしょう。その時、先生に 尋ねたことがありますか。「先生がこれぞ最高の参考書だと思うものを一冊だけ挙げて下さい。その本とはいつ、どこで出会ったのですか。最高だと思う理由は何ですか?」と。

                                 

                                 

                                教師たるもの、そういった本の一冊や二冊を持っていなければ嘘ですね。今は偉そうに生徒に教えていても、その知識の原型となる書物があるはずです。私が尊敬する翻訳家の故・柳瀬尚紀氏は『和文英訳の修業』だったと言っています。東大の行方昭夫氏も同じ本を挙げています。正直ですね。これが経験を語るということです。

                                 

                                 

                                今の高校の英語の先生方もそんな本をお持ちだと思います。是非生徒たちに、自分の種本について語ってほしいと思います。俺の種本は公文のプリントと進研ゼミ、それと予備校講師の書いた本(それは48年後でも読むに値しますか?)だったというのなら、自らの知的源泉の貧困について考えてみるべきです。

                                 

                                 

                                おや、一時間が経過しました。パソコンに向かうのは一日一時間と決めているので、続きはまたにします。塾の教師は、問題の解き方を教えたり受験情報を提供したりする以上に、自らの経験を語るべきです。なぜって、みんな昔は悩み多き中学生や高校生だったのですから。

                                 

                                今、わが家の中庭は、エゴの木が満開です。ピンクチャイムという品種で、画像でははっきりしませんが、ピンクの花が釣鐘状に咲いていてきれいです。

                                 

                                 

                                 

                                ここに座って、『英語の実際的研究』を読んでいました。そうだ、この本のことをブログに書こうと思い立ちました。左の奥に見えるのがエゴの木。

                                 

                                 

                                リビングから中庭を見たところ。草取りとの追いかけっこが始まる季節です。

                                 

                                 

                                | 英語教育 | 13:35 | comments(0) | - |
                                「前置詞+関係代名詞」および世界認識について
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                                  まず残っていた第7問の解説をします。空欄には前置詞が入ります。

                                   

                                  7:The first name (    ) which a child makes conscious use may be compared to a stick (    ) the aid (    ) which a blind man gropes his way.

                                   

                                  そもそも英語は左から右に読むものです。参考書や学校の授業などで、後ろから前の名詞や動詞に矢印をひっかけている図や板書を見ますが、あれは英語を日本語の発想で読むことを教えているのです。川の水が上流から下流に流れているのを堰止めているようなものです。論理を逆流させているわけです。これを逆茂木(さかもぎ)型の解説といいます。逆茂木とは、敵の侵入を防ぐために、先端を鋭くとがらせた木の枝を外に向けて並べ、結び合わせた柵(さく)のことです。画像をご覧ください。

                                   

                                   

                                   

                                  日本語の文章は逆茂木型の文章だと言われています。つまり、枝葉末節なことから始まり、最後まで読まなければ何を言いたいのかよくわからないような文章のことです。

                                   

                                   

                                  英語は中心となる情報を最初に提示し、その後で補足情報や詳細な情報をつけ加えて行くことばです。いわば話者に立証責任を負わせているのです。逆茂木型の日本語の発想で読めば時間がかかるのは当たり前ですね。これではいつまでたっても英語をスピード豊かに読むことはできません。

                                   

                                   

                                  そもそもリスニングは聞こえてくる順番に理解していかなければなりませんね。ということは、英文を読む場合も左から右へ、ドミノ倒しのピースが倒れるようにスピード感をもって読まなければならないのです。

                                   

                                   

                                  第7問の文章を見て下さい。 The first name (    ) which a child makes conscious use may be compared to a stick (    ) the aid (    ) which a blind man gropes his way.

                                   

                                   

                                  最初に The first name (    ) が目に飛び込んできます。この時点で (    ) に何が入るか分かる人はいません。The first name (    ) which まで読むと(   )には前置詞が入るだろうと予想できます。「予想なんかできるわけないよ」と思っている人は、それは英文を緻密に読むという経験が不足しているからです。能力の問題ではありません。

                                   

                                   

                                  次に、The first name (    ) which a child makes conscious use まで読むと、makes conscious use の中に make use of 〜で「〜を利用する、使う」というコロケーションが入っていることに気づきます。そして(   )に of を入れることができるのです。これまで何度も説明してきた文末の熟語型ですね。

                                   

                                   

                                  ここまでがこの文の主語です。すなわち名詞のカタマリです。文の主語になれるのは名詞ですからね。「ここまで」が主語だと判断できるのは、次に助動詞を含んだ may be compared があるからです。この部分がこの文の心臓部、すなわち述語動詞だというわけです。

                                   

                                   

                                  ここまでの意味は「こどもが意識的に使う最初の名前は、たとえられる」となります。「えっ、いったい何にたとえられるんだ?」と思って次を読むと、to a stick が目に入ります。「はは〜ん、杖にたとえられると言いたいんだな」とわかります。

                                   

                                   

                                  次に「どんな杖にたとえられるんだろう」と疑問がわいてきますね。そして次を見ると、(    ) the aid (    ) which a blind man gropes his way. と続いているのを見てパニくるのです。「な、な、なんじゃ〜これは?」などと言って。でも心配ご無用。英語は語順が命のことばです。つまり、語や語のカタマリがどのような順序で並んでいるかを解き明かせばいいのです。そのためには、どこで区切るのか、が重要になってきます。

                                   

                                   

                                   

                                  例えば「ココデハキモノヲヌイデクダサイ」という文はどこで区切りますか。区切り方によっては「ここで、はきものを脱いで下さい」とも取れますし、「ここでは、着物を脱いで下さい」とも取れるわけです。この区別はどこでするのですか。意味を考えて区別するのですか。違います。この区別は2歳くらいの赤ちゃんの方ができるでしょう。なぜなら、赤ちゃんは「音」で意味を認識しているからです。「ココデハ」の「ハ」と、「ココデ、ハキモノヲ」の「ハ」は音がちがいますね。

                                   

                                   

                                  ついでにもう一つ。「いや、よして!」は区切り方によっては「いやよ、して!」ともなります。何だか危なくなってきそうなのでこれでやめておきます。

                                   

                                   

                                  つまり、(    ) the aid (    ) which a blind man gropes his way. というカタマリは(    ) the aid (    ) which と a blind man gropes his way.とに分けられる、ということが理解できなければなりません。

                                   

                                   

                                  関係代名詞の解説で僕が言ったことを思い出して下さい。関係代名詞は二つの文をつなぐ方法の一つだと教えられてきましたが、それはミスリーディングですね。むしろ代名詞としての働きの方が重要だと言いました。先行詞を代入することを忘れない!ということです。

                                   

                                   

                                  そこで、(    ) the aid (    ) which a blind man gropes his way.の部分は「杖」の説明だったことを思い出して下さい。そこで which に a stick を代入します。 (    ) the aid (    ) a stickとなります。同時に a blind man gropes his way.の意味を考えます。意味と形は同時進行!です。「盲目の人が手探りで進む」には「杖の助け」が必要だ。だから「杖の助けによって」の意味だから(by)the aid(of)whichとなるはずだ、と考えればよいのです。

                                   

                                   

                                  語順訳は「こどもが意識的に使う最初の名前は、にたとえられる。どんなかというとね、そのの助けによって、盲目の人が手探りで進む時の、あののことだよ」となります。この語順訳の中には「杖」ということばが4回出てきます。これこそが関係代名詞が代名詞たるゆえんなのです。

                                   

                                   

                                  前にも言いましたが、感覚的には次のような感じです。ジョギングしている途中、踏切にさしかかり、遮断機が下りてきます。そこで走るのをやめて立ち止まるのではなく、その場で足踏みをします。遮断機が上がると再び走り始めるという、あの感覚です。わかってもらえたでしょうか。

                                   

                                   

                                  ところで、「この文章の構造は分かったけれど、なんだか意味がいまいちわからないなあ」「こどもが意識的に使う最初の名前が、盲目の人の杖と一体どんな関係があるんだろう」と考えている人もいるでしょうね。

                                   

                                   

                                  それは僕たちが世界をどのように認識していくかということに関係しています。生まれて1年間くらいは、赤ちゃんにとっては、世界は未分化のままです。つまり自分と自分を取り巻く世界の区別がついていません。

                                   

                                   

                                  ヘレン・ケラーが「water!」と叫ぶシーンは感動的ですね。それは自分と外の世界が分化された瞬間なのです。つまり、モノに名前をつけることによって、自分と世界が区別され、自分という認識の主体が立ちあがるのです。それは盲目の人が杖によってモノの存在を認識することに似ていますね。これがこの文章の意味です。語学的理解に精神的・文化的理解がともなって初めて、文の意味は確定されるのです。

                                   

                                   

                                  最後に、僕は10月7日のブログ、

                                  「映画『ROOM』・人は世界とどう向き合うのか」の中でこのことに触れています。

                                  http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=246

                                  第7問の解説をしようと思ったときに、この映画を思い出したのです。

                                   

                                   

                                  狭い「部屋」に閉じ込められていたこどもが、朝起きると部屋の中にある「モノ」一つ一つの「名前」を呼び、それに「おはよう」とあいさつするシーンでこの映画は始まります。それは世界認識の最初の場面です。

                                   

                                   

                                  そして現実の世界に直面したとき、主人公のこどもは「scared!」と叫びます。現実の世界に直面することは、本質的に怖いことなのです。しかし、僕たちはことばの力によって、幽閉された世界から脱出することができます。さらに自分のことばをもつことによって、孤独からも解放されるのです。

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                                  前置詞+関係代名詞の解説−その2
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                                    前回の続きです。第2問以下の解説をしておきます。

                                     

                                    2:We were amazed at the rapidity (     ) which he learned to speak Japanese.

                                     

                                     

                                    前半の文、We were amazed at the rapidity は「私たちはその速さに驚いた」という意味ですね。そして、左から読んで「どんな速さかというと」(which はもともと疑問代名詞ですからね。根底には疑問の意味があるのです)「彼が日本語を話せるようになった速さのことだけど」と続けて、rapidity を聞き手(読者)との間で特定しています。もちろんその働きをしているのは the です。

                                     

                                     

                                    ここで注意しなければならないのは、(     ) which は後続の文の中(通常は文末)に入るということです。前半の We were amazed at the rapidity という文は文法的に完結しているので、その文に付け加えたり、文中に入れるわけにはいきません。

                                     

                                    したがって、he learned to speak Japanese(   )rapidity.となります。彼はその速さを「持って」日本語を話せるようになったということですから、(   )には having の意味を持った前置詞 with が入ります。

                                     

                                    with+抽象名詞=副詞と覚えている人もいるでしょう。つまり、with rapidity = rapidlyというわけです。まとめると、「私たちはその速さに驚いた。それはどんな速さかというと、彼が日本語を話せるようになった速さのことを言っているんだけどね」という意味になります。

                                     

                                    3:Nowadays we speak quite easily and naturally of the crisis (      ) which our own civilization is passing.

                                     

                                    だんだん分かるようになってきたでしょう。which の中に the crisis を入れて、後続の文末にもってきて our own civilization is passing(    )the crisis.とします。pass through で、トンネルの中を通り抜ける感じですね。つまり、危機の中を通過するわけですから、前置詞はthroughになるわけです。これは「文末の熟語」のパターンですね。

                                     

                                    「今日、われわれはいとも簡単に、しかも当たり前のようにその危機について口にする。それはどんな危機かというと、その(危機の)中を、私たちの文明が通り抜けている、その危機のことを言っているんだけどね」という意味になります。この日本語の中に「危機」ということばが3回出てきますね。このタイミングを是非覚えて下さい。踏切でその場駆け足をし、遮断機が上がるのを待って、また走りだすというあのタイミングです

                                     

                                     

                                    4:What Americans need to be concerned with is the direction (     ) which their culture will go.

                                     

                                     

                                    最初の what は関係代名詞の whatですが、自由英作文をはじめとして極めて使い勝手のいいものです。改めて別立てで解説します。

                                     

                                    この文も例によって左から意味をとると「アメリカ人が心配しなければならないのは、その方向だ。どんな方向かというと、彼らの文化が進む方向のことを言っているんだけどね」

                                     

                                    カッコの中に適切な前置詞を入れるためには、direction という単語と前置詞の結びつきを覚えておかなければなりません。その「方向へ」だから to the direction だと思っている人がいるでしょうね。Merriam-Webster を引くと次のような例文が載っています。

                                     

                                    a:You are headed in the wrong direction.(間違った方向に行っていますよ)

                                     

                                    b:The car was headed in the direction of the stadium.

                                     

                                    c:She started walking in my direction.(彼女は私の方へ向って歩き始めた)

                                     

                                    これで正解は to ではなく in だということがお分かりでしょう。つまり「文末の熟語」のパターンではなく、先行詞 direction から導かれる前置詞だったのです。

                                     

                                    「なぜ to ではなく in なのか、これだから前置詞はわからない」と思っている人には、The sun rises in the east.(太陽は東から昇る)の in だと言えば分るでしょうか。「東から」だから from the east だと考えるのは日本語を英語に置き換えているからですね。from は「特定の場所から」という、いわば平面的なとらえ方であるのに対して、in は「空間」を指します。東という空間から太陽は昇ると考えるのです。to も具体的な場所、帰着点、相手を必要とします。つまり、direction とは相性が悪いのです。

                                     

                                     

                                    5:Freedom of speech is a condition (     ) which democracy cannot exist.

                                     

                                    さて、この問題は「文末の熟語」のパターンでもなければ、先行詞から導かれる前置詞でもありません。困りましたね。思考力が試されますね。前半の Freedom of speech is a condition は「言論の自由は、いくつかある条件の中の一つである」と democracy cannot exist.「民主主義は存在できない」をよく考えて、(     ) which でつながなければなりません。そして「言論の自由は、いくつかある条件の中の一つである。どんな条件かというと、その条件なければ、民主主義は存在できないんだよ」という意味になると考えて、前置詞 without を入れるのです。言論の自由と民主主義の関係を考えさせるいい問題ですね。

                                     

                                     

                                    6:All tourists cherish an illusion, (     ) which no amount of experience can ever completely cure them.

                                     

                                     

                                    これは「文末の熟語」のパターンです。文末の cure を見れば cure 人 of somethingで「人から something を取り除く」という意味の熟語を思い浮かべなければなりません。これは必要な知識です。知らなければ困ります。注意しなければならないのは、All tourists cherish an illusion の後にカンマがあります。つまり、illusion を特定する必要はなく(だから an になっていますね)、自分の意見をつけ加えているのです。

                                    「旅行者は皆、何らかの幻想を抱いている。その幻想はどんなものかというと、どんなに経験を積んだところで、彼らからその幻想を取り除くことはできないんだけどね」という意味です。

                                     

                                     

                                    難しかったですか。でも僕の解説をよく読んで下さい。きっと得るものがあると思いますよ。

                                    後は、第7問

                                     

                                    The first name (    ) which a child makes conscious use may be compared to a stick (    ) the aid (    ) which a blind man gropes his way.

                                     

                                     

                                    の解説を残すのみとなりました。次回で前置詞+関係代名詞の解説はいったん終わります。まだまだ英語の学習で重要なところはたくさんあります。しかも面白くなります。楽しみにしていて下さい。

                                     

                                    | 英語教育 | 00:00 | comments(0) | - |
                                    前置詞+関係代名詞の解説
                                    0

                                      私が授業で使う文法用語はごくわずかです。まず基本は以下の3つです。

                                       

                                      1:名詞の働きは、主語、目的語(他動詞又は前置詞の目的語)、補語になる。

                                       

                                      2:形容詞の働きは、名詞を修飾するか補語になる。

                                       

                                      3:副詞の働きは、動詞、形容詞、副詞、文全体を修飾する

                                       

                                      というものです。

                                       

                                      単語には「意味」だけではなく、「働き」があります。その働きを見極めるのが文法です。最低限この基本3原則が分かっていないと、英文を読んだり、書いたりすることはできません。要するに、独力で英語の学習ができないのです。塾の生徒にはこれを完璧に暗唱してもらいます。もちろん、文の意味を確定するには、語学的理解だけではなく文化的・精神的な理解も必要ですが、それはまた別の問題です。

                                       

                                       

                                      ところで、9月7日のブログで説明したように、関係代名詞は「代名詞」としてとらえることが重要です。それは感覚的には次のようなものです。あなたがジョギングしているとします。踏切にさしかかったところで遮断機が下りてきます。そこで走るのをやめるのではなく、その場で駆け足をします。やがて遮断機が上がります。また走り始める。そんな感覚ですね。

                                       

                                       

                                      「代名詞」は奥が深いのです。それについては、追々説明していくことにします。とりあえず、今回は前置詞+関係代名詞の解説を「簡単に」しておきます。

                                       

                                       

                                      問題を見てみましょう。次のようなものでした。

                                       

                                      1:We don’t know the extent (     ) which we depend on others.

                                       

                                       

                                      空欄にはどんな前置詞を入れればいいのでしょうか。まず We don’t know the extent. の意味を考えます。「私たちはその程度を理解していない」という意味です。文法的にはこれで正しいのですが、いきなり the extentといわれても何のことかわかりませんね。肝心な情報がありません。そこで話し手(書き手)にそれを説明する義務が発生します。

                                       

                                      そして、この(   )の中にどんな前置詞が入るのかと考えます

                                       

                                      この場合2つのパターンがあります。

                                       

                                      (a)後続の文(この場合 we depend on others.)が熟語や分離動詞句を作っている場合

                                       

                                      (b)先行詞との関係で決まる場合

                                       

                                       

                                      (a)の例を挙げます。

                                       

                                      These are the facts (      ) which his new theory is based.

                                       

                                      この場合、後続の文 his new theory is based.を見れば、be based on〜が頭に浮かびます。したがって(    )には on が入ります。

                                       

                                      もう一つやってみましょう。

                                       

                                      Physics was the subject (      ) which he devoted his mind.

                                       

                                      これも he devoted his mind.の後には to が続くとわかりますね。devote〜to は知識として知っておかなければなりません。

                                       

                                      ところが、

                                       

                                      1:We don’t know the extent (     ) which we depend on others.

                                       

                                      の場合、we depend on others.をいくら見ても、前置詞が思い浮かびません。この場合は先行詞 extentとの関係で考えなければならないのです。which は代名詞なので、それが指す名詞 the extentを which に「代入」します。すると、(     ) which が、(     ) the extent と変わります。前半の文は文法的に完結しているので、この(     ) the extent は後続の文の文末にもっていくしかありません。つまり、 We depend on others(   )the extent.の(   )に入る前置詞を考えることになります。

                                       

                                       

                                      ちょっと心配になってきました。「前置詞+関係代名詞って、こんなことを考えなきゃいけないの?」と思っている高校生が多そうですね。しかし、文字で書けばこういう説明になります。

                                       

                                       

                                      extentを辞書(Merriam-Webster)で引くと次のような例文が載っています。

                                       

                                      To what extent can we trust them?(どこまで奴らの言うことを信用できるのか)

                                      They’re both right, to some extent.(奴らの言っていることはどちらも当たっている、ある程度はな)

                                       

                                       

                                      ご覧のように extent は前置詞 to と使われるのです。したがって、正解は to ということになります。先行詞との関係で決まる前置詞というわけです。左から右に意味をとると次のようになります。「われわれは、その程度が分かっていないどんな程度かというと、われわれが他人に依存している程度だがね」。この下線部が、その場で駆け足をし、遮断機が上がり、また走り始める、という感覚なのです。

                                       

                                       

                                      2から6までの解説は次回に譲りますが、3と6だけが(a)のパターンです。他はすべて(b)のパターンなので難しかったかもしれません。次回の解説を楽しみにしていて下さい。

                                       

                                       

                                      「そんなもん、だれが楽しみにするかよ!」と思っている君。どんな分野であれ、一度はきちんと向き合い、徹底的に考えることが必要です。買い物英語、旅行英語で満足するのなら、何も苦労して勉強する必要はありません。たぶん。

                                       

                                      | 英語教育 | 23:59 | comments(0) | - |
                                      英語学習・初歩の初歩 −「ことば」か「実物」か?
                                      0

                                        前回のブログの最後で、次のような問題を出しました。

                                         

                                        以下の英文で正しいものには○、間違っているものには×をつけよ。

                                         

                                        1:This is pen.

                                        2:These are pen.

                                        3:This is a pen.

                                        4:This is my pen.

                                        5:These are pens.

                                         

                                        そして、正解は「すべて正しいとも言えるし、すべて間違いだとも言える」と言いました。説明します。

                                         

                                         

                                        「ことばはことば、ものはもの」と言えば、そんなこと当たり前だと思われるでしょう。しかし英語のネイティブスピーカーは、そう思っているだけではなく、話の中で物を指すたびに、そのものが「ことば」か「実物」か、それをはっきり区別しています。これは意識的に区別しているのではなく、英語ということばの仕組みそのものなのです。

                                         

                                         

                                        日本語の場合は「実物」のペンを指しても、「ことば」(カードや黒板に書かれているもの)を指しても「これはペンです」と言います。

                                         

                                         

                                        ところが英語では「実物」のペンを指すときには、名詞の前に a, the, my, this や複数の s をつけて個体情報を伝えます。つまり、話し手が a, the, my, this や複数の s をつけて話せば、聞き手は「あっ、実物のことを言っているんだな」とわかるわけです。

                                         

                                         

                                        逆に「ことば」の pen”を指す場合、「ことば」には個体がないため個体情報は必要ではありません。名詞をそのまま、何もつけずにいわば「裸で」使います。

                                         

                                         

                                        黒板に“pen, pen, pen ”と3つ書かれているのを見ても、three pens とは言わないのです。話し手が pen, apple, cat, student などのことばを「裸のまま」使えば、「あっ、実物じゃなくて、ことばのことを言っているんだな」とわかるわけです。

                                         

                                         

                                        以上のことを頭において、最初の問題を見てみましょう。

                                         

                                        1:This is pen.  黒板やカードに書かれた「ことば」を見て言うときは正解です。「実物」のペンを指してこう言えば間違いです。

                                         

                                        2:These are pen. おなじく、複数個の「ことば」(3枚のカードにそれぞれpenと書かれている場合)を見て言うときは正解です。pen s をつける必要はありません。しかし複数の「実物」のペンを指してこう言えば間違いです。

                                         

                                        3:This is a pen. これは「実物」のペンを指しています。「実物」を指していますから、必ず a をつけます。「ことば」を指していると考えるのは間違いです。

                                         

                                        4:This is my pen. これも「実物」のペンを指しています。「ことば」を指していると考えるのは間違いです。

                                         

                                        5:These are pens. これも「実物」のペンを指しています。黒板に“pen, pen, pen ”と3つ書かれているからといって、それを指してこのように表現することはできません。

                                         

                                         

                                        ちなみに、写真や、絵に描かれたペンは「ことば」ではなく「実物」ですから、This is a pen.でいいのです。

                                          

                                         

                                        皆さんは This is pen. という英語を無条件に間違いだと思っていたのではありませんか。「ことば」と「実物」の表し方の違いという本質的なところに気づかないまま、文の表面的な形だけに注目する英語の学習は、初歩の初歩でつまずいているのです。

                                         

                                         

                                        最後に以下の英文を見て下さい。

                                         

                                        1:車内表示:It is dangerous to get off the train between station.

                                         

                                        2:卵パックの表示:Freshly delivered egg.

                                         

                                        2つの英文にある、station, egg ともに「裸のまま」名詞を使っています。もちろん egg を裸で使えば「ほら、シャツに卵がついているわよ」というときの卵になります。卵がまるまる1個シャツについているようなシュールな場面を想像する人はいませんからね。

                                         

                                         

                                        とにかく、現実では「駅」「卵」が「個体2つ以上」なのに、複数の s をつけていないのが間違いです。こういうミスはケアレスミスではありません。書いた人が自分の表わそうとしているもの(実物)をよく見ていないから起こるミスです。

                                         

                                         

                                        学校の授業では、指すもの(「駅」「卵」)を見て、個体の「数」(1つだけか2つ以上か)の情報を相手に伝えるような練習がされていません。実物を見てきちんと伝えることをせず、試験で○をとるためだけの作業を続けていれば、上の間違いのように、日本語の単語「駅」「卵」を英語の単語 station, egg に置き換えるだけになるのです。

                                         

                                         

                                        しかし、ネイティブスピーカーはこのような間違いを絶対にしません。いや、できないのです。ネイティブスピーカーにとって、指している個体が「1つだけ」か「2つ以上」かは、試験で○をもらうための文法ではありません。現実なのです。

                                        | 英語教育 | 21:48 | comments(0) | - |
                                        日本人は英語学習の第一歩でつまずいている。
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                                          前回の続きです。英語では、自分の話している「個体」が、話を聞いている相手が考えている「個体」と一致していることが重要だと述べました。あたりまえですね。

                                           

                                           

                                          例えば、「けさ、リンゴを食べた」というときのリンゴと「リンゴ、ありがとうね。おいしかったよ」というときのリンゴは、英語では a や the を使って厳密に区別されるということです。もちろん日本語でも区別しています。そうでなければ、コミュニケーションが成り立ちません。ただその差が、書いても、発音しても表面には現れません。日本語では、どちらも「リンゴ」ですね。

                                           

                                          まとめると、以下の二つになります。

                                           

                                          1:お互いが考えている個体(リンゴ)は一致していない、どれでもいい場合は a や some などを使う。

                                           

                                           

                                          2:お互いが考えている個体(リンゴ)は一致していないと困る、どれでもいいわけではなく、特定されていなければならない場合は、the などを使う。(など、というのは人称代名詞の所有格やthis, that などで特定できるからです)

                                           

                                          英語で表せば、

                                           

                                          1:I ate an apple this morning.

                                            I ate some apples this morning.

                                           

                                          2:Thanks for the apple. It was delicious.

                                            Thanks for the apples. They were delicious.

                                           

                                           

                                          となります。ここで重要なことがあります。中高生には、ぜひ理解してもらいたいことです。いま、「特定されていなければならない場合は、the などを使う」と言いましたが、「特定されたか、特定されていないかは相手による」ということです。

                                           

                                           

                                          具体例で考えてみましょう。

                                           

                                          あなたが(名前をサトシとしましょう)家で勉強しているところに、友人のトムがやってきます。トムはあなたがこの前図書館で本を借りたことや、レポートを書いていることなど知りません。何をしていたのか尋ねられたあなたは、I was reading a book I borrowed from the library the other day. と言うしかありません。お互いの間で、その本は特定されていませんからね。

                                           

                                           

                                          そこへ30分ほどしてケイトがやってきます。ケイトは数日前、あなたといっしょに図書館でレポートのための本を探しています。そこで、あなたはI was reading the book I borrowed from the library the other day.と言います。そして、ケイトはあなたに、How’s the report coming, Satoshi? と尋ねます。

                                           

                                           

                                          それを聞いたトムは困惑します。なぜなら、ケイトが the report と言ったからです。3人で話しているのに、お互いが考えている(想像している)個体(この場合はreport )は一致していません。そこでトムは、What report is that? と確認を求めないと気が済まないのです。そこであなたはトムにレポートについて説明しなければなりません。仕方ないですね、the report と言ったのですから。関係代名詞を使って詳しく説明してあげて下さい。

                                           

                                           

                                          さて、2人が帰り支度を始めたとき、あなたはケイトに言います。I already returned the book to the library. と。これを聞いたトムは、またまたWhat book is that? と聞かずにはいられなくなりました。トムはいつになったら帰ることができるのでしょうか。あなたが the を使うのをやめればいいのです。とまあ、これは冗談ですが・・・。

                                           

                                           

                                          さて、念のために復習しましょう。コミュニケーションの場では「特定されたか、特定されていないかは相手による」ということをしっかり理解して下さい。

                                           

                                           

                                          な〜んだ、その程度のことか。そんなことは常識じゃん、「日本人は英語学習の第一歩でつまずいている」なんて、タイトル大げさじゃね?と思っているあなた。頼もしいですね。でも今回のブログは前回の復習でした。僕が言いたいのは次のことです。もしかしたら、あなたは以下のように考えているのではありませんか。問題形式で質問しますね。

                                           

                                           

                                          以下の英文で正しいものには○、間違っているものには×をつけよ。

                                           

                                          1:This is pen.

                                          2:These are pen.

                                          3:This is a pen.

                                          4:This is my pen.

                                          5:These are pens.

                                           

                                           

                                          ちなみに、こんな問題はテストには絶対出ません。正解は、「すべて正しいとも言えるし、すべて間違いだとも言える」です。ほらほら、そこでひっくり返っている君。だから言ったのです。「日本人は英語学習の第一歩でつまずいている」とね。

                                           

                                           

                                          なかなか「前置詞+関係代名詞」の解説にたどり着けませんね。でも関係代名詞もしょせんは名詞を他の名詞と区別したり、後で情報をつけ加えたりするのですね。その名詞が相手との関係で、つまりコミュニケーションにおいて、特定されるかどうかという問題なのです。解説は次回に譲ります。その間、絶望的な政治状況が新たに発生しないことを祈ります。

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