記憶によれば(ブログを書くために著作集をひっくり返して調べるのも面倒なので)、生きていて一番いい時期は老年であると言ったのは確か吉田健一氏でした。外語大に吉田健一の大ファンの先生がいて、ことあるごとに彼の著作を読むように薦めていました。
「俺は人から読めと薦められた本は絶対読まない」と宣言している友人もいましたが、私は素直な人間なので、できるだけ読むようにしています。もっとも、日本スゴイ系の本を読んでどこか高揚している人が薦める本は避けています。
例えば、櫻井よしこ氏の本を薦められたことがありましたが、10ページほど読み進んで返しました。私は自分の考えと正反対の意見が書かれた本を敬遠せずに読むようにしているのですが、あちこちに線が引かれ、毎ページと言っていいくらいポストイットを貼り付けている本を手渡されると気持ちが萎えてきますね。そもそもそんな「カスタマイズ」された本を人に貸すのは恥ずかしいことです。
櫻井よしこ氏の本は「歴史を書き換えることはできない。書き換えることができるのは記憶だけである」というティモシー・シュナイダーの言葉を思い出させただけです。
吉田健一に話を戻しますが、『時間』や『思い出すこと』『時をたたせるために』といった著作の中で、彼は繰り返し老人になることの心地よさを説いていました。二十代の頃の私にはピンときませんでしたが、今となっては言わんとすることがよくわかります。
彼は言います。「老人ということでただひとつ面倒なのは、あっという間に老人になれるものではないということだ。老人になるにはひどく時間がかかる。それが面倒だ」と。だから、逆に言えば、老人になることは人生で一度だけの得難い経験なのです。
ブログの中で繰り返し時間について言及してきたのも、もしかすると彼の影響があったのかもしれません。以下は4年前に書いたものです。
循環する時間、再生する命。
http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=521
私は今69歳で、古希を目前にしています。先月、妻の母親も鬼籍に入りました。90歳の時に脳梗塞で倒れて6年が経っていました。寝る間も惜しんで働いてきた分を取り返すように病院のベッドですやすや眠っていました。義母については今から4年前に書いています。
「助け人」
http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=539
老齢期に入り、私はこれから先、いろいろなことを、小さいことであれ、大きいことであれ、一つひとつ終わらせていかなければなりません。死ぬのも手間がかかります。
ところで、塾を辞めて1年半が経ちましたが、38年という長い塾教師人生の間、私は自分の職業が知らず知らずに私という人格に影響を与えてきたのではないかという不安というか疑念を抱いてきました。
医者は医者らしく、警察官は警察官らしくというように、私は長年教師を務めてきたことで、知らない人から見ても、いかにも「先生」のように見えているのだろうか。いや、外見だけではない、気が付かないうちに、教師としての内面的自我を築き上げているのではないか、といった風に。
人は生きていくのに何らかの社会的立場を選ばざるを得ない。何を甘えたことを言っているのか。そんなことは当たり前ではないか、という声が聞こえてきそうです。しかし、私が塾教師という特殊な職業の中でしか物事を認識することができず、しかもそれに無自覚であり、いっこうに不自由を感じていないとすれば、私の認識の幅はひどく狭小でいびつなものになっているはずです。
社会が徐々に市民権を与え始めた塾教師という仕事に自分を合わせ、しかもその限界に気がついていないだけではないか。社会的なアイデンティティーとは別のところに真の自分を確立しておくことを、自分は長く怠ってきたのではないか。まさに失われた30年を過ごしてきたのではないか。同時にそれは自分が特殊な知識(たかが英語にまつわる断片なのですが)を持っているというだけで、それを職業にしていいのだろうか、という疑問でもありました。
68歳になった時、職業的な疲れが蓄積したこともあって、塾教師を辞める決断をしました。今からしてみると、これは限りなく正しい決断でした。私を襲った解放感は予想していたよりはるかに大きかったのです。そうやって得た解放感は残された人生を構想する余力を残してくれました。
私が仕事を辞めると言った時、妻は生活を心配しながらも、「辞めたかったら辞めてもいいわよ。あなたと駆け落ちした時の四畳半一間のアルバイト生活に比べればまだましだから」と言ってくれました。私が「社会的なアイデンティティーとは別のところに真の自分を確立しておく」などと、えらそ〜なことを言えるのも、妻のおかげなのです。