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《目次》
プロローグ
第1章 テレビマンとは何者か
第2章 大事なのは、誰と仕事をするか
第3章 表現とタブー
第4章 放送は常に未完である
第5章 世の中には理解不能な現実がある
第6章 ドキュメンタリーを、誰が求めているのか
第7章 「ダメモト」が表現世界を開く──〈司法シリーズ〉のこと
第8章 「ドキュメンタリー・ドラマ」とは何か
第9章 あの時から、ドキュメンタリーは閉塞した世界だった
第10章 題材は探すのではなく、出会うもの
第11章 組織の中の職人は茨の道
第12章 「わかりやすさ」という病
第13章 樹木希林ふたたび
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まず私たちの生命と暮らしを脅かす事実を知ること。それにたいしてどのような認識を持つのか。この国のみならず、世界を壊滅させる災厄とどう向き合うのか。次世代に対してどう責任を取るのか、そもそも責任を取れるのか。自分に何ができるのか。この現実にどう向き合うのか。それを教えるのが教育のはずだが、この国には教育も哲学も存在しない。
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小出 裕章,渡辺 満久,明石 昇二郎
原発よりもはるかに危険な六ヶ所村再処理工場。私たちの日々の生活が薄氷の上で営まれていることを痛感させられる。同時に、この国には「国民の生命・財産・自由を守り抜く!」と威勢のいいことを言う総理大臣と無能の政治家しかいないことに絶望する。核燃料サイクルと言い、下北半島の再処理工場と言い、3兆円以上の国民の税金がつぎ込まれ、いまだ後始末も将来の見通しもたっていない現実をどう考えているのか。彼らは核兵器を持ちたいという願望と税金をロンダリングして私腹を肥やすことしか眼中にない。北海道の地震だけに目を奪われてはならない。六ヶ所村は今回の震源地の目と鼻の先にあるのだ。
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D.J.ブーアスティン
私にとっては古典の中の古典。三度読みました。そしてその慧眼にいまだに驚いています。
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殺人犯はそこにいる (新潮文庫)
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清水 潔
ジャーナリストと称する職業がある。自称ジャーナリストもいれば、テレビのコメンテーターとしてリベラルに媚びる政権批判をし、名を売り、講演で稼ぐ職業をジャーナリストと呼ぶ者もいる。とんだ茶番である。ジャーナリストとはどこまでも「事実」を追いかける。テレビに出て能天気な解釈や感想を垂れ流している暇などないはずだ。ジャーナリストを志す若い人には清水氏の著作は避けて通れない。その名に値する本物のジャーナリストがここにいる。
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福田 直子
おそらく自民党・安倍政権はSNSを駆使し、分析するデータサイエンス(日本版なのでレベルはまだ低いですが)の重要性に着目し、選挙にどうすれば勝てるか、自分たちに有利な世論を形成し、国民を誘導・分断するにはどうすればいいのかが分かっているのです。そのためのノウハウも蓄積しつつあります。安倍首相の貧困な語彙力からは想像できないカタカナ言葉を聞いていると、それがSNSを分析している集団から教えられたものであることがよくわかります。ただ彼らの致命的な弱点は将来の社会を導く理想がないことです。おそらく、思いもかけない結果が待っていることでしょう。なぜなら、所詮、彼らはアメリカとビッグデータの奴隷でしかないのですから。これからの政治は、好むと好まざるとにかかわらず、この本に書かれていること抜きには語れなくなっているのです。
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安倍政権に対するメディアの忖度が云々されていますが、元々同じ穴のムジナなのです。忘れてならないのは、日中戦争から太平洋戦争にかけて、日本の世論と新聞のほぼ全部は好戦的・拡張主義的だったのです。しかも、当時はまだ言論統制体制が発足していなかったのです。この本は、そうした「一貫して好戦的な世論とそれに便乗する新聞」が先導し、近衛文麿はじめ文民政治家がそれに便乗、軍部がさらに便乗、という構図を一次資料で克明に論証しています。安倍政権を支持するネトウヨの皆さんの日本語力では、まともな読解は無理ですので勧めません。一方、正確な歴史を知るためには「世論」の不気味さを知ることだと気づいている若い人には是非一読を勧めます。
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茫漠の曠野 ノモンハン
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松本草平
著者は大分市にある『天心堂へつぎ病院』の院長、松本文六氏の御尊父、松本草平(本名松本弘)氏です。詳しくは、ブログで紹介したいと思いますが、第一次資料として極めて価値の高いものです。40年ぶりに復刻版を出された松本文六氏と出版社に感謝する他ありません。
戦略も何もない、無謀・無慈悲な戦争を語り継ぐことは、最も崇高で重要な人間の営為だと私は考えています。作家の司馬遼太郎氏は、電話で草平氏に次のように伝えてきたそうです。「先生の臨場感のあるノモンハン戦記に出会えて本当にありがとうございました。私は大東亜戦争の折、戦車隊の一員として従軍しましたが、先生の従軍記以上のものを創ることはできません。」と。
一人でも多くの方がこの本を読まれることを望みます。ちなみに松本文六氏は伊方原発差止め訴訟の原告でもあります。その縁で、この本に出会うことができました。
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「南京事件」を調査せよ (文春文庫)
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清水 潔
全国のネトウヨの皆さんへの推薦図書です。清水氏のこの本を読んでから、「南京事件はなかった!」「南京事件は捏造だ!」と叫びましょうネ。
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広瀬隆
広瀬氏をアジテーターだの、オオカミ少年だの、悲観主義に過ぎると言って批判する人がいる。しかし、ブログで何度も述べてきたように、真の悲観主義こそがマインドコントールによって奴隷根性のしみ込んだ私たちの精神を浄化してくれるのだ。そもそも無知では悲観が生まれようもないではないか。国などいくら破れても結構。せめて山河だけでも次世代に残そうと考える人ならぜひとも読むべき本である。いや、これから幾多の春秋に富む若い人にこそすすめたい。
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チャヴ 弱者を敵視する社会
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オーウェン・ジョーンズ,Owen Jones
【本書への賛辞】

「怒りが生んだ、最高の本」
──ガーディアン紙

最高の論争がみなそうであるように、知性に裏打ちされた怒りが本書を支えている。
──エコノミスト誌

暴動や世界中に広がったオキュパイ運動に照らして考えると、分断社会に関する著者の鋭い分析は、
不気味なほど未来を予知していたことがわかる。
──アートフォーラム誌

情熱と、思いやりと、すぐれた道徳性が結実した仕事だ。
──ニューヨーク・タイムズ紙

政治の定説を見直す大胆な試み。著者は戦後のイギリス史を縦横無尽に往き来し、
階級、文化、アイデンティティといった複雑な問題を軽々とまとめてみせ、
結果として「階級」問題に火をつけ、大きな効果をあげている。
──インディペンデント紙

いまの制度が貧しい人々を見捨てていることに対する苛烈な警告──それが本書だ。
──ブログサイト「デイリー・ビースト」

ジョーンズは、「地の塩」だった労働者階級が政治のせいで「地のクズ」と見なされるようになった経緯を見事に説明している。
──タイムズ紙

この本は、新しいタイプの階級嫌悪と、その裏にあるものを痛烈にあばいて見せてくれる。
──ジョン・ケアリー(The Intellectuals and the Masses著者)

これは「イギリスはおおむね階級のない社会である」という考え方への、論理的で情報満載の大反撃だ。
──オブザーバー紙

情熱的で示唆に富む……この声が届くことを心から願う。
──スコットランド・オン・サンデー紙
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紹介していない本が山のようにあります。数日前にこの本を本棚の奥から引っ張り出し再読しました。いや〜面白かった。。とにかくこの本のことを忘れていた自分が信じられない。読んでない人に熱烈に勧めます。ハイ。
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英語の実際的研究 (1969年)
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高校生にとって、今でも一押しの不朽の名著。でもこの本をことを知っている英語教師は少ないと思います。是非復刊してほしいものです。
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スノーデン 日本への警告 (集英社新書)
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エドワード・スノーデン,青木 理,井桁大介,金昌浩,ベン・ワイズナー,宮下紘,マリコ・ヒロセ
2017年4月18日、朝日新聞がようやく「パノプティプコン」を取り上げました。遅すぎますね。
これから先の日本社会は、ますます荒廃が進み、国民の不満が頂点に達し、やがて爆発します。それを未然に防ぐために、国は国民の監視を強化します。
実際アメリカでは「愛国者法」により、電子メールや携帯の通話履歴が監視の対象になっています。誰が、いつ、どこで、何を読んで、誰と通信を交わしたか、すべて国に筒抜けです。
「パノプティプコン」とはフランスの哲学者フーコーが用いた概念ですが、国民が刑務所の囚人のように監視される体制を言います。監視者の姿は見えませんが、囚人は監視者不在でも、監視を意識することによって管理統制されるのです。これを「パノプティシズム」と言います。
このシステムから解放されるためには、権力がどう管理・統制しようとしているかを知らねばなりません。この本はそれを知るための第一歩です。あなたが無知のまま、奴隷の人生を送りたければ、読む必要はありません。
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A.ミラー
アリスミラーのこの本は、塾を始めるきっかけになりました。ただ生活のためだけなら、他のことをしていたでしょう。『才能ある子のドラマ』とあわせて、当時の私には衝撃的な本でした。人生はどこでどう転ぶかわかりません。人間の奥深さを知ることで、何とか自分を維持していたのです。この本を読むと当時のことが、ありありと思い出されます。ある意味で、私の人生を方向づけた本かもしれません。
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NHK「東海村臨界事故」取材班

2月18日のブログでも書きましたが、仕事のために読むビジネス書の類は、最終的には効率を重視し、最小の資本と労力の投下で、いかにして最大の利益を上げるかということに尽きていると思います。そのための働き方改革であり、そのための賃上げです。そのための人心掌握術であり、顧客対応です。ビジネス書を読めば読むほど、人間は軽薄になり、視野が狭くなっていきます。もしあなたがそれを自覚するきっかけがほしいなら、是非この本を読むことを勧めます。読書はビジネスのためにするのではないということが分かると思います。この本は私たちの日常の風景を一変させるだけのインパクトを持っています。いわば、ことばの最高の意味における「闖入者」なのです。
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服従
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瀬木 比呂志
この本はまだ発売されていません。自分で読んでいない本を推薦するのは邪道でしょう。しかし、これまでの『絶望の裁判所』『ニッポンの裁判』(ともに講談社現代新書)に続く裁判所、司法批判の第3弾が長編の権力小説だということで、過去2冊の本の面白さからして、推薦に値する本だと思いました。『原発ホワイトアウト』の最高裁判所ヴァージョンだと思います。読んでからコメントを追加したいと思います。
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アモン・シェイ
学校なる場所に通っていた時、毎年夏になると課題図書を読んで、読書感想文を書かねばならないのが苦痛でした。課題図書の選定には学校と書店の密約があるに違いないと思っていたくらいです。

偶然巡り合った面白い本の感想を書くのならまだ我慢できたかもしれません。つくづく学校というところは、余計なことをしてくれると思ったものです。

あまりにめんどうくさいので、「あとがき」を参考に、あらすじを書いて提出したら、トリプルAをもらいました。

学校というところは、もしかしたら、人生の退屈に耐える訓練をする場所だったのかもしれません。この本を読んで、改めてそのことを確認しました。別に先生を責めているわけではありません。それほど自覚的に生きるということは難しいのだとため息をついているだけです。
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想田和弘監督の観察映画。音楽による演出は一切なく、徹頭徹尾監督の視点で撮られたドキュメンタリー映画。見終わった後、日本の選挙風土の貧困さが浮かび上がる。この国に民主主義はない、ということを改めて確認し、そこから出発するしかない。その勇気を持つ人には必見の映画です。合わせて『選挙2』もどうぞ。
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マックス ヴェーバー
ウェーバーの死の1年前、1919年、学生達に向けた講演の記録です。
一部抜粋します。

「自分が世間に対して捧げようとするものに比べて、現実の世の中が―自分の立場からみて―どんなに愚かであり卑俗であっても、断じてく挫けない人間。どんな事態に直面しても「それにもかかわらず!」と言い切る自信のある人間。そういう人間だけが政治への「天職」を持つ。」(P105〜106)

「さて、ここにおいでの諸君、10年後にもう一度この点について話し合おうではないか。残念ながら私はあれやこれやいろんな理由から、どうも悪い予感がしてならないのだが、10年後には反動の時代がとっくに始まっていて、諸君の多くの人が―正直に言って私もだが―期待していたことのまずほとんどは、まさか全部でもあるまいが、少なくとも外見上たいていのものは、実現されていないだろう。」(P103〜104)

10年後には、ワイマール体制は機能不全に陥り、1933年にはヒトラーが首相に就任します。

平和憲法は、日本人にとって310万人の命と引き換えに手に入れた唯一と言っていい理念であり、アイデンティティーでした。その唯一の誇りを、日本人は損得勘定で葬り去ろうとしています。言い古された言葉ですが、歴史は繰り返すのです。
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中沢 新一
小学校を卒業するころ、将来なりたい職業として思い描いていたのが、天文学者か生物学者でした。プロ野球選手は、自分のセンスでは無理だと悟りました。物ごころついたころから興味があったのは宇宙や昆虫や植物の世界でした。そんなわけで南方熊樟に出会うのは必然的な成り行きだったのです。人間は言葉によって世界を把握しますが、それ以外の把握の仕方があるはずだと、ずっと思ってきました。南方熊樟は、小林秀雄と同じく、直観による世界の把握の仕方を教えてくれました。この本は、言葉によって構成された世界秩序の外に出て、世界を改めて考えたい人に大いなるヒントをあたえてくれます。安倍政権によるゴキブリのフンのような、あまりにばかばかしい政治状況を見せつけられているので、精神の衛生学として一気に読みました。
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こどもの教育から裏金を使ったオリンピック誘致、原発再稼働、戦争準備から武器の売却、安倍政権の裏の権力としてメディアに絶大な影響力を行使する電通。私たちは電通が作り上げた「箱」の中でいいようにマインドコントロールされている。自分の意見だと思っていたものが、実はそう思わされていただけだということに気づかなければならない。音楽をはじめとする芸能情報、その中で踊らされるミュージシャンやタレント、果てはデザイン業界までを席巻する。今や電通の介在しないメディアはないと言ってもいい。利権あるところに電通あり、です。
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前作『日本はなぜ「基地」と「原発」止められないのか』に続く著者渾身の力作。自分の人生を生きたい人にすすめます。ただそれだけです。18歳で選挙権が与えらる高校生が政治を考える際の基本的なテキストになる日がくるといいですね。無理でしょうが。これ以上余計なコメントはしません。まず手に取ってみてください。
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メディアで取り上げられるよりはるか前から日本会議の存在について私は言及していました。電通と同じくタブー視するメディアには心底失望したものです。報道すればタブーはタブーでなくなるのです。何を恐れているのでしょうか。干されれば、何とか生活をする工面をすればよい。それだけのことです。
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磯崎新
帯に「祝祭都市にスタジアムはいらない」とあります。そもそも2020年まで天災と原発事故をやり過ごし、経済危機を乗り越えて存在しているでしょうか。極めて怪しいですね。偶然書店で手に取って読みました。彼の文章を読むと、建築は現世の権力に奉仕するものではなく、想像力の王国を作るものだと思わされます。建築にそれほど興味のない人でも、読めます。いや、いつのまにか引き込まれているでしょう。
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難関中高一貫校で学び、東大に合格しても、それはもはや知性のバロメーターではありません。この本に書かれていることが真実だと見破れることこそが本物の知性です。ニセの知性は既得権益を守るためにはどんな屁理屈でもひねり出します。おまえは何も知らないと言って他人を見下し、金と権力におもねるのです。ニセの知性は理想の灯を掲げることができません。「脳内お花畑」などという幼稚な言葉を使って揶揄するしかないのです。彼らの決まり文句は、他国が攻めてきたらどうするのかという、それこそ「脳内お花畑」的なものです。「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」とは、まさに至言です。
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私の元塾生の縁でお会いしたことのある烏賀陽弘道氏の渾身のレポート。事実を丹念に調べ上げ(これがジャーナリストの本来やることです)事実をして語らしめることのできる稀有なジャーナリスト。この本を読まずに福島第一原発の事故の本質に迫ることはできない。ダブル選挙の前に一人でも多くの国民が読むことを期待します。
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松岡正剛氏の本はどれも面白く、シリーズの千夜千冊を除けばほとんど読んでいます。『多読術』は、高校生にぜひ勧めたいと思います。高校時代に、この本を読んでおくと、さまざまな分野の知的見取り図を手に入れることができます。学校の授業だけではなく、この本を手掛かりにして知の荒野に歩みを進めてほしいと思います。
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カント
安倍首相は「この道しかない」と言って消費税を上げ、集団的自衛権の行使を可能にする閣議決定をし、公約とは正反対のTPPを批准することで、日本の文化=アイデンティティーを破壊しようとしています。

もし私たちが生き延びたければ、そのヒントがこの本の中に書かれています。日本は超大国の「夢」を代弁するだけの国になってはなりません。
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山本 太郎
山本氏の国会での質問を、本になって改めて読み直して感じることは、文字通り「みんなが聞きたい」質問をしてくれたということです。安倍首相が小学生に「なぜ政治家になったのですか」と質問された時、「父親も祖父も政治家をしていたからです」と答えていました。小学生相手に、何と言う悲しい答えでしょうか。語るべき理想を持たない政治家など、所詮は官僚に利用されるだけです。それに対して、山本氏には語るべき理想がある。「政治なんてそんなものさ」というリアリストが発散する腐臭を吹き飛ばすさわやかさがある。それは、彼の身体には収まりきれない理想が持つ力そのものです。彼は言います。「力を貸してほしい。少なくとも、あなたが必要だと思われる社会、私が必要だと思われる社会を作っていきたい。そう思うんです」と。日本の総理大臣にふさわしいのはどちらでしょうか。
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転換期の日本へ―「パックス・アメリカーナ」か「パックス・アジア」か (NHK出版新書 423)
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ジョン・W・ダワー,ガバン・マコーマック
おそらく、日本人自身よりも海外の知識人のほうが、日本の問題を正確にとらえていると思わせる本です。読み終えて何気なくテレビを見たら、わが大分県選出の国会議員、岩屋毅氏と江藤晟一氏が、2016年ミスユニバース大分県代表を選ぶ催し物に出ていました。名誉顧問だそうです。いかがわしい宗教団体をバックに票を稼ぐだけでは飽き足らず、こんな大会に顔を出して名前を売ろうとする。大分市長の佐藤樹一郎氏も出席していました。このお三方は、こんなことをするために国会議員や市長になったのでしょうか。国民の税金を使ってやることといえば、テレビに出演してにやけた顔をさらすことでしょうか。もう物事の軽重が全く分かっていません。せめてこの本くらい読んではどうでしょうか。私はこの本に書かれていることの大部分に賛成です。
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出版されてすぐ読みました。国会で、読んでもいないのに、安倍首相が躍起になって否定した事実が書かれています。蓮池氏はあちこちから人格攻撃の対象とされてきましたが、自分にも落ち度があったと認めています。自分は総理大臣なのだから落ち度はないと居直る人間とは好対照です。この本を読んで、拉致問題について今一度国民が考えることを望みます。
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2年半ほど前に求めて、一気に読みました。マルクスの『資本論』の中に書かれていることを、著者が自分なりに消化し実践していく過程が書かれているので、一種のドキュメンタリー文学として読めます。きっと著者と同じ思いの若者は全国にたくさんいると思います。かけがえのない一回きりの人生を、充実して生きたいと思っている人に勇気を与える本です。
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もう何と言うか、別世界を生きている人間です。彼の発する言葉は文学とは無縁です。人間が言葉を持ったのは、言葉にしがたいものを言葉にしようとするためです。政治家が発する言葉の軽さと言ったらありません。それだけ現実も軽いものになったということでしょう。
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人間は、条件次第で、喜々として殺人を犯す。そして、その条件を整備しつつあるのが、安倍政権とその背後でうごめく『日本会議』である。このことに気づいていても、「配慮する」ことを最優先して報道しないメディア(特にNHK・読売新聞・産経新聞)。そしてそこに寄生する学者やコメンテーター、芸能人。このドキュメンタリー映画は、彼らの自画像である。たまには、自らの顔をじっくり眺めてみるがよい。
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私が長年考えてきた問題を解明するヒントになりました。ブログで書いたように、まず感情を基にした結論があって、それを正当化するために人は「知性」を動員するという、ごく当たり前のことが書かれている。つまり、知の粉飾決算報告書である。
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食う寝る遊ぶ 小屋暮らし (JUGEMレビュー »)
中村 好文
中村さんの著作の中では、個人的に最も好きな本です。読んでいるだけで楽しくなります。限りなく優しい、でも、痛烈な文明批評です。これからの生き方のヒントが満載です。それを一人でも多くの人と分かち合いたいと思い、中村好文論・その3の中で引用させていただきました。
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暮らしを旅する
暮らしを旅する (JUGEMレビュー »)
中村 好文
以下は私がアマゾンのレビューに投稿したものです。再録します。
「もし人に幸福な生き方があるとしたら、中村好文さんのような生き方だろうと、ずっと思ってきました。
建築雑誌をパラパラとめくりながら、ふむ、と思って手が止まると、そこには必ずと言っていいほど中村さんの設計した住宅がありました。
文は人なりと言いますが、その人の書く文章のエッセンスがこれほど見事に建築にも表現されている例はめったにありません。
建築に限らず、食の分野でも、ことばと実物の乖離がはなはだしい時代に、中村さんの設計した住宅や美術館に出会うと、どこか安心するのですね。
そういうわけで、著者の本はすべて読ませてもらっています。
この本も偶然、年末に本屋さんで手に入れ、装丁やカバーの手触りを楽しみながら読んでいます。
読みながらいつの間にかほのぼのとしている自分を発見します。
一日に一編か二編を過去の記憶をたどるようにして読んでいます。
この本の平明さ、やさしさがどこから来るのか。そんなことを分析するのは野暮というものです。
とにかくこの素敵な小さな本は、旅のお供にどうぞ!とすすめたくなります。」
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老人になることの心地よさについて。
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    記憶によれば(ブログを書くために著作集をひっくり返して調べるのも面倒なので)、生きていて一番いい時期は老年であると言ったのは確か吉田健一氏でした。外語大に吉田健一の大ファンの先生がいて、ことあるごとに彼の著作を読むように薦めていました。

     

     

     

    「俺は人から読めと薦められた本は絶対読まない」と宣言している友人もいましたが、私は素直な人間なので、できるだけ読むようにしています。もっとも、日本スゴイ系の本を読んでどこか高揚している人が薦める本は避けています。

     

     

     

    例えば、櫻井よしこ氏の本を薦められたことがありましたが、10ページほど読み進んで返しました。私は自分の考えと正反対の意見が書かれた本を敬遠せずに読むようにしているのですが、あちこちに線が引かれ、毎ページと言っていいくらいポストイットを貼り付けている本を手渡されると気持ちが萎えてきますね。そもそもそんな「カスタマイズ」された本を人に貸すのは恥ずかしいことです。

     

     

     

    櫻井よしこ氏の本は「歴史を書き換えることはできない。書き換えることができるのは記憶だけである」というティモシー・シュナイダーの言葉を思い出させただけです。

     

     

     

    吉田健一に話を戻しますが、『時間』や『思い出すこと』『時をたたせるために』といった著作の中で、彼は繰り返し老人になることの心地よさを説いていました。二十代の頃の私にはピンときませんでしたが、今となっては言わんとすることがよくわかります。

     

     

     

    彼は言います。「老人ということでただひとつ面倒なのは、あっという間に老人になれるものではないということだ。老人になるにはひどく時間がかかる。それが面倒だ」と。だから、逆に言えば、老人になることは人生で一度だけの得難い経験なのです。

     

     

     

    ブログの中で繰り返し時間について言及してきたのも、もしかすると彼の影響があったのかもしれません。以下は4年前に書いたものです。

     

     

    循環する時間、再生する命。

    http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=521

     

     

     

    私は今69歳で、古希を目前にしています。先月、妻の母親も鬼籍に入りました。90歳の時に脳梗塞で倒れて6年が経っていました。寝る間も惜しんで働いてきた分を取り返すように病院のベッドですやすや眠っていました。義母については今から4年前に書いています。

     

     

    「助け人」

    http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=539

     

     

     

    老齢期に入り、私はこれから先、いろいろなことを、小さいことであれ、大きいことであれ、一つひとつ終わらせていかなければなりません。死ぬのも手間がかかります。

     

     

     

    ところで、塾を辞めて1年半が経ちましたが、38年という長い塾教師人生の間、私は自分の職業が知らず知らずに私という人格に影響を与えてきたのではないかという不安というか疑念を抱いてきました。

     

     

     

    医者は医者らしく、警察官は警察官らしくというように、私は長年教師を務めてきたことで、知らない人から見ても、いかにも「先生」のように見えているのだろうか。いや、外見だけではない、気が付かないうちに、教師としての内面的自我を築き上げているのではないか、といった風に。

     

     


    人は生きていくのに何らかの社会的立場を選ばざるを得ない。何を甘えたことを言っているのか。そんなことは当たり前ではないか、という声が聞こえてきそうです。しかし、私が塾教師という特殊な職業の中でしか物事を認識することができず、しかもそれに無自覚であり、いっこうに不自由を感じていないとすれば、私の認識の幅はひどく狭小でいびつなものになっているはずです。

     

     

     

    社会が徐々に市民権を与え始めた塾教師という仕事に自分を合わせ、しかもその限界に気がついていないだけではないか。社会的なアイデンティティーとは別のところに真の自分を確立しておくことを、自分は長く怠ってきたのではないか。まさに失われた30年を過ごしてきたのではないか。同時にそれは自分が特殊な知識(たかが英語にまつわる断片なのですが)を持っているというだけで、それを職業にしていいのだろうか、という疑問でもありました。

     

     

     

    68歳になった時、職業的な疲れが蓄積したこともあって、塾教師を辞める決断をしました。今からしてみると、これは限りなく正しい決断でした。私を襲った解放感は予想していたよりはるかに大きかったのです。そうやって得た解放感は残された人生を構想する余力を残してくれました。

     

     

     

    私が仕事を辞めると言った時、妻は生活を心配しながらも、「辞めたかったら辞めてもいいわよ。あなたと駆け落ちした時の四畳半一間のアルバイト生活に比べればまだましだから」と言ってくれました。私が「社会的なアイデンティティーとは別のところに真の自分を確立しておく」などと、えらそ〜なことを言えるのも、妻のおかげなのです。

     

     

    | 人生 | 13:38 | comments(0) | - |
    昭和挽歌 ― なかにし礼氏を悼む。
    0

      若いころ、私はジャズ喫茶に足しげく通いながら、一方でモーツァルトとバッハをこよなく愛していました。ジョン・ルイスがジャズ風にアレンジしたバッハはジャズとクラシックが絶妙にブレンドされていて、私にとっては空気のようなもので、聴いていて飽きることがありません。最近は大西順子のCDをかけっぱなしにしています。

       

       

       

      しかし、歳のせいか夜になると昭和の歌謡曲が突如としてよみがえります。中でも忘れられない曲が『石狩挽歌』と『天城越え』です。歌詞と曲が見事に融合して、しんと静まり返った夜には凄味さえ感じさせる名曲です。日本語の持つイメージ喚起力の極北に位置する歌だと思います。

       

       

       

       

      その『石狩挽歌』を作詞したなかにし礼氏が2020年12月23日、亡くなりました。82歳でした。なかにし礼、浜圭介、そして北原ミレイの三人が生み出した『石狩挽歌』は昭和の歌謡曲の奇跡ともいえる作品で、個人的には涙なくしては聴けない歌です。

       

       

       

       

      ウィキペディアによれば、なかにし礼(本名:中西禮三)は、昭和13年9月、旧満州国牡丹江省牡丹江市(現・中華人民共和国黒竜江省牡丹江市)生まれ。ハルピンで終戦を迎え、昭和21年10月、父母の故郷、小樽に到着。手宮西小学校2年に編入とあります。

       

       

       

      なかにし礼には、14歳年上の、破滅傾向で疫病神のような兄・政之がおり、その兄が引き起こすトラブルや葛藤が人生にしつこくつきまといます。

       

       

       

      幼少時、なかにし家は貧困のどん底にありました。そんな中、兄は両親の家を担保に増毛(ましけ)のニシン網の権利を3日間買い、見事大漁の網を曳きます。さらに一攫千金を夢見て、それを本州へ運ぼうとしてせっかくのニシンを腐らせてしまい、全てを失います。後には膨大な借金が残り、一家は離散することになります。

       

       

       

      8歳のなかにし礼は、兄が増毛でニシン漁を行なったのを見ています。『石狩挽歌』には、自身の幼少時の体験、兄に対する複雑な気持ち、人生に対する想いが織り込まれているのです。

       

       

       

      「兄さん、お願いだから死んでくれ〜」(なかにし礼著『兄弟』)と叫ぶような壮絶な体験をした人間でなければ書けない歌です。

       

       

       

       

      『石狩挽歌』は1975年6月25日に発売されました。北原ミレイのドスの効いた歌声で昭和の歌謡史に金字塔を打ち立てたのです。

       

       

       

       

      海猫(ごめ)や赤い筒袖(つっぽ)といった方言が出てきますが、聞きなれない言葉でも、いやそうだからこそ、情景が鮮やかに浮かび上がります。かがり火をたきながら、男たちは懸命に地曳網を引き、女は夜通し飯を炊く。戦後の貧しかった時代、全国津々浦々で一つ屋根の下に肩を寄せ合って懸命に生きていた人々の姿が思い起こされます。

       

       

       

       

      鰊場を必ず通る元ブラジル移民船「笠戸丸」の名前も出てきます。笠戸丸が辿った数奇な運命に共感したのだと思います。なかにし自身は見ていないはずですが、点描としてそれを入れなくては空間の広がりが出ないと考えたのでしょう。

       

       

       

       

      今年は作曲家の筒美京平氏も亡くなりました。昭和がどんどん遠くなります。今夜は一人で思い出の曲に浸るのも一興かと思います。

       

       

       

       

      石川さゆりの『天城越え』もどうぞ。

       

       

       

       

      | 人生 | 12:55 | comments(0) | - |
      線香花火は消える瞬間が美しい。
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        いつからでしょうか。「政治的」という言葉が「反政府的」を意味するようになったのは。いまではマスメディアまでが「反政府先導」「反政府的組織」などという言葉を使うようになりました。官邸が学術会議に貼ったレッテルを無批判に垂れ流しているのです。

         

         

         

        いつからでしょうか。政府を批判する言説を見聞きすると、自分の存立根拠を否定されたように感じる若者が多くなったのは。批判精神は知性と不可分です。知性は金では買えませんが、学力は今や親の経済力と文化資本で買える商品、つまり「コンテンツ」になったのです。

         

         

         

        裕福な家庭は現体制を(それがクソでも、多数派だから)消極的であれ肯定することで豊かになっているのです。昔から「金持ち喧嘩せず」と言うではありませんか。

         

         

         

        子供は成長過程で親の価値観を内面化します。つまり家庭の空気を吸って大きくなるのです。結果、彼らは「喧嘩」を下品だと見なす文化(ライフスタイル)を「洗練」させます。そこでは「反抗期」などという言葉も死語になっているはずです。

         

         

         

        とにかく今の世の中に適応しようと、あるいは適応させられようとしている若者に、私はもう一つ別の(オールターナティブな)価値を提示しようとしてきました。批判精神をテコに本格的な知性を創造することを期待したのです。私のブログはこの一点を巡って書かれたものです。

         

         

         

        しかし、それは今の社会では少数者になることを意味します。それを望む若者がいるでしょうか。同様に、アベ前首相の熱烈な支持者の中に、「桜を見る会」にまつわる政治資金規正法違反および公職選挙法違反の汚名をそそぐべく、安倍氏に国会の証人喚問の場で潔白を証明するチャンスを与えるべきだと訴える人間がいるでしょうか。皆無です。これこそが教育の失敗と政治の退廃を象徴しているのです。

         

         

         

        あらゆるものには終わりがあります。辺境塾教師としての仕事もいよいよ終わりに近づいてきたなと思うことしきりです。それでも、まだまだ若者に伝えたいことが残っています。線香花火は消える瞬間が美しい。後に残るのは火薬のにおいと白い煙だけですが、楽しかった思い出を胸に、残された日々を悔いなく過ごそうと思っています。

         

         

        「つまみ食い勉強から論理の糸をたどる勉強へ ― その5」は次回に回します。「その6」は、英語の勉強法に関する本を出版しているにもかかわらず、つまみ食い勉強によって犯罪的な英語をまき散らしている有名人を取り上げる予定です。ご期待ください。

         

        | 人生 | 15:24 | comments(0) | - |
        卒業する高校生の皆さんへ。
        0

          昨日は県内の高校の卒業式でした。テレビで上野丘高校の卒業式の様子が流れていました。卒業した高校生の皆さん、おめでとう。

           

           

           

          卒業式の朝のことは鮮明に覚えています。忘れようにも忘れられないのです。僕は布団にくるまり、時間が来ても起きませんでした。居間からは、母が着物に着替えている衣擦れの音が聞こえていました。しばらくして玄関を開ける音がし、母は僕のいない卒業式に出かけて行きました。帰宅した母は、僕を非難する言葉をひとりごとのように呟いていました。教師をしていた父は、その日のことを一言も口にしませんでした。

           

           

           

          名状しがたい怒りのようなものを抱えていた当時の僕にとって、卒業式に出席して高校生活に区切りをつけ、「希望にあふれる未来に向けて羽ばたく」ことなど考えられなかったのです。自分の中で納得のいく時間を過ごしたという感覚がまったくなかったからでしょう。前にも書いたように、僕にとっては人生の中の空白の3年間だったのです。それは、すべて自分の至らなさが招いた結果だと思います。

           

           

           

          しかし、もし今の僕が高校3年生だったらどうしたでしょうか。結局、同じ行動をとったのではないかと思います。そういう意味で、高校の卒業式は、僕自身の僕自身による人生のスタートを切った忘れられない出来事となったのです。卒業して以降、僕は上野丘高校のクラス会には一度も出席していません。

           

           

           

          ただ、息子のいない卒業式に出席した母の落胆と無念さを想い、そのことを一言も口にしなかった父のことを想うと、どうしようもなく涙があふれてきます。母はこの日を楽しみにして僕を育てていたのかも知れないのです。

           

           

           

          しかし、それが僕という人間であり、後年それを宿命として受け入れる生き方を選ぶ他なかったのです。人生は偶然の集積です。個人の意思などというものは、存在するのかどうかさえ分かりません。ただ、高校時代の僕と今の僕はつながっているのだという痛烈な思いがしきりにしているだけです。

           

           

           

          最後に、卒業する高校生に一篇の詩を送りたいと思います。

           

           

           

          ぱさぱさに乾いてゆく心を

          ひとのせいにはするな

          みずから水やりを怠っておいて

           

          気難しくなってきたのを

          友人のせいにはするな

          しなやかさを失ったのはどちらなのか

           

          苛立つのを

          近親のせいにはするな

          なにもかも下手だったのはわたくし

           

          初心消えかかるのを

          暮らしのせいにはするな

          そもそもが ひよわな志にすぎなかった

           

          駄目なことの一切を

          時代のせいにはするな

          わずかに光る尊厳の放棄

           

          自分の感受性くらい

          自分で守れ

          ばかものよ

           

          ― 茨木のり子詩集「自分の感受性くらい」より

           

          | 人生 | 09:53 | comments(0) | - |
          「助け人」
          0

            今年は私にとって忘れられない年になりそうです。4月には義父が95年の生涯を閉じました。そして、2年前に脳梗塞で倒れた義母の命が今まさに、燃え尽きる寸前の蠟燭のように、消えようとしています。

             

             

             

            この2年余り、毎週1〜2回は佐伯の病院に義理の父母を見舞ってきました。義父が亡くなってからは、日曜日ごとに義母を見舞っています。今日は土曜日ですが、義母の容態がよくないということで、午前中の授業を済ませ、午後から妻と佐伯の介護施設に向かいました。

             

             

             

            義母はただ眠っているだけで、呼びかけても反応しなくなりました。日によっては目で合図するときもありましたが、日々反応がなくなっていくのが分かります。過酷な労働から解放されてきれいになった手はやせ細り、骨だけになっています。

             

             

             

            「今日は、もう少し付き添うから・・・。あなたは仕事があるから先に帰って」と言い、妻は病室へ戻って行きました。義父の死を看取ったのも妻でした。帰途、車の中で義母の存在が私にとっていかに大きなものであったか、しみじみと思い出し、いい歳をして涙滂沱となってしまいました。

             

             

             

            「助け人」という言葉がありますが、義母はまさに「助け人」そのものでした。家族や親戚はもとより、地域の人だけでなく、見も知らぬ貧しい人にも手を差し伸べました。戦後の貧しい時代を生き抜き、家の仕事(真珠の養殖・加工・販売、漁業・林業など、要するに一次産業の生産労働に従事し、牛馬のごとく働く人生でした。これは筆舌に尽くしがたいほど大変だったのです。)をしながら、5人の子供を育てました。自分の時間などあるはずもなく、文字通り朝から晩まで働き、夜なべをして子どもたちの服を縫っていたのです。

             

             

             

            貧しさに負けまいと、人々が一つ屋根の下に肩を寄せ合って生きていた時代です。それでも、子どもたちは明るく奔放で、親の目の届かないところで遊びに興じていました。

             

             

             

            夕刻になると、三々五々、家々から大人や子どもが出て来て、道端で世間話をしたり、水を撒いたり、遊んだりしていました。その何とも言えない、やわらかで優しいひとときが好きでした。

             

             

             

            今思えば、大人が子どもたちを何よりも大事にし、優しいまなざしを向けていた時代でした。私の母はよく、「銀(しろがね)も金(くがね)も玉も何せむにまされる宝子にしかめやも(子ども以上に大事な宝物はない)」という「万葉集」にある山上憶良の歌を口ずさんでいました。

             

             

             

            そんなことを思い出しながら家に帰り着くと、アマゾンから荷物が届いていました。注文していたCDでした。何というタイミングでしょう。それから1時間ほど音楽に耳を傾け、義母の人生を思い返していたのです。それが以下のCDです。

             

             

            ヨーヨー・マのバッハ『無伴奏チェロ組曲(全曲)』。20代で一度、40代にさしかかった頃に一度、そして60代の今回、三度目の録音です。素晴らしい。それにしても音楽とは不思議なものです。今回の演奏が一番自由で深みがあります。ワインの熟成に年月が必要なように、ヨーヨー・マの演奏にも積み重なった時間を感じます。おすすめです。

             

             

             

            私にとって、音楽と建築と文学は生きる上での「助け人」です。久しぶりに今年の大晦日はこのCDを聴いて過ごしたいと思います。

             

            | 人生 | 22:41 | comments(0) | - |
            義父の死と魂の救済について。
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              去る4月26日、義父が95年の生涯を閉じました。その前後はブログを書く気にならず、今は少し落ち着いたので、久しぶりにパソコンに向かっています。

               

               

               

              私は29歳の時に実父を亡くしました。その時のことは『父の記』に書きました。大分に帰って来てから私を物心両面で支えてくれたのが妻の両親でした。今の住居は建てて22年になりますが、使った材木はすべて義父が育てた樹齢60年以上のスギとヒノキです。

               

               

               

              生来、立身出世と金儲けに関心がない私を義父は温かく見守ってくれました。そして私の少ない取り柄を見抜き、「こいつなら材木をうまく使えるかもしれない」と考えて提供してくれたのでしょう。その義父を父親のように慕う大工のナベさんとの幸運な出会いもあり、私のような者でもなんとか今日まで生きることができました。

               

               

               

              一昨年の10月に90歳になる義母が脳梗塞で倒れたとき、94歳になる義父が救急車を呼び一命を取り留めました。その後病院で義母を看病していた時に転んで右大腿骨を骨折します。手術を経て回復して歩けるようになっていましたが、再び転んで今度は左大腿骨を骨折し車椅子の生活となりました。このころから少しずつ認知症の兆候が出始めます。

               

               

               

              それでも、同じ病院に入院していた義母のところに車いすを押して連れて行くと、「お前のおかげでいい人生じゃった。ありがとう。お前が逝ったら、わしもすぐ逝く。あの世で再び契りを結ぼう」とはっきり言いました。そばで聞いていた妻は驚き、こらえきれずに涙を流していました。

               

               

               

              その父が母よりも先に亡くなりました。義父が亡くなるまでのことを思い出すと、涙があふれます。テーブルを挟んで食事をしていると、突然妻の目から涙が止めどなくあふれ出し、私もつられて泣いてしまうのです。歳のせいか涙腺がゆるくなっているのかもしれません。同じ経験をしている人がおそらく全国に何万人、何十万人といることでしょう。

               

               

               

              不慮の死を遂げた人や、自ら命を絶った人に比べれば、義父の人生は幸せだったと思います。できることなら、家で最期を迎えさせてあげたかったと思います。それこそが、死期を悟った義父が最後まで望んでいたことでしたから。

               

               

               

              病院のベッドに寝ている義母に向かって、義父が大声で「もう俺達は十分生きた。人間には寿命があるんじゃ。こんなところにいてどうする。さあ家に帰るぞ!」と語りかけたのも、最期は家でとの思いがあったからでしょう。

               

               

               

              義父が生業(漁業、林業、真珠の養殖・加工・販売など)の中で培った、すべての人に分け隔てなく接すること、富める者が貧しい者に施しをするのは当たり前だと考えること、決して威張らず、私利私欲に走らず、何よりも自分を育んでくれた地域のために生涯を捧げる生き方から、私は多大な影響を受けました。

               

               

               

              私の人生の僥倖は、義父が育てた「自由者」の三女を伴侶にしたことです。特に義父が亡くなるまでの一年半の間、看病する妻を見ていてこのことを痛感しました。妻は何よりも、誰よりも、父を家に帰すことを考えていました。それは父の人生の終着駅であり、同時に、戦争を経験した父の世代の願いでもあるからです。父の魂が安らげる場所は、先祖とともに育てた山の木を使って建てた家以外になかったのです。

               

               

               

               

              私たちの社会は、何よりも効率を重視し、一定の手続きに則って動いています。病人や認知症の患者が出れば、家族になるべく負担がかからないようにと考え、公的な機関や病院に頼ります。

               

               

               

              もちろんそれは必要なことでもあり、社会全体にかかわる問題です。社会保障の本質は、そもそも国はなぜ存在しているのかという問いと密接にかかわっています。つまり、何かと言えば自己責任を叫ぶしか能のない成金趣味の人間たちに、自らの考えの後進性、身勝手さ、独善性を悟らせなければならないのです。

               

               

               

              話がそれました。社会保障を充実させることも重要ですが、それよりももっと大事なことがあります。それは死に行く人間の魂をどうやって救済するのかという問題です。

               

               

               

              それにしても、家で死にたいとあれほど願っていた義父の気持ちは、いったいどこに発していたのでしょうか。それはぜいたくな願いだったのでしょうか。そうではありません。自分を育んでくれた自然、記憶と過去の時間が積み重なっている場所、いわば魂の故郷へ帰りたいという素朴で真っ当な感情が、死の間際まで人間の体内を流れていることを証明するものだったのです。

               

               

               

              今回それをかなえてあげることができませんでした。しかし、上で述べた感情を理解できる人間たちがいれば、決してできないことではなかったのです。多少の犠牲が伴っていたとしても。

               

               

               

              妻はそれだけが心残りだと言います。私は「もう過ぎたことだ。ただお互いに死期が近づいた時には、魂が安らげる場所で死ぬことを第一に考えよう」と言って慰めています。

               

               

               

              私は、泣く時には心の底から泣ける人間、怒るべき時には本当に怒る人間でなければ、愛することができません。私の伴侶がその種の人間であることを改めて確認できたのは、義父が私に残してくれた、最後のささやかなプレゼントだったのかもしれません。

               

               

              | 人生 | 22:26 | comments(0) | - |
              うれしい便り・春。
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                ブログで紹介したSさん夫妻の住宅の新築工事が始まりました。車を飛ばして現場を見にいきましたが、ロケーションが素晴らしく、成功したも同然だと思いました。それほど住宅にとってロケーションは大切です。私の家も、街中の住宅街にあれば、資材置き場と間違われていたでしょう。周囲に樹木を植えて家らしく見せているだけです。

                 

                 

                 

                図面を見せてもらうと、骨格だけは腕の確かなプロに頼み、後は二人だけで少しずつ作っていく計画が見事に書き込まれていました。住み手である夫妻の、大らかで丁寧な暮らしぶりや、ゆったりとした時間とともにある日々の生活が立ち現われてくるようなプランでした。完成が待ち遠しいですね。

                 

                 

                 

                そんなとき、塾教師 O 君からメールが届きました。家族で埼玉県からわざわざ塾の見学に来てくれたのが、去年の4月23日でした。ちょうど1年になります。あれから中古住宅を手に入れ、私が紹介した中村好文さんの本を読んでデザインし、大工さんと相談して実行に移したのです。そして今春ついに開校だそうです。おめでとう!

                 

                 

                 

                メールには新しい塾の教室の画像が添えられていました。風の吹きぬける、ちょうどいい規模の、あちこちに工夫の跡がうかがえる落ち着ける空間です。黒板の後ろの壁は杉の羽目板を貼っています。教室中に杉板の香りがほのかに漂っているようで、何ともいえない安らぎを与えてくれそうです。

                 

                 

                 

                その一部がドアになっているのですが、見た目には単なる壁です。忍者屋敷の扉のようで、遊び心がありますね。こんな環境で勉強できる生徒は幸せだと思います。

                 

                 

                 

                塾業界では、なにかといえばエビデンスだの、費用対効果だの、何点アップだの、何人抜きだの、成績保証だの、といったキャッチコピーが躍っています。O 君の塾は、幹線道路沿いにある人目を引くキラキラ塾ではなく、閑静な住宅街にあります。

                 

                 

                 

                夕刻になると、部活で疲れ、人間関係でささくれ立った心を抱えた子供たちがやってきます。忘れ物をした生徒や宿題をやっていない生徒もいるかもしれません。それでも塾で勉強するうちに、 O 君の話や数学の面白さに魅せられて、帰る頃にはすっかり元気になっていることでしょう。

                 

                 

                 

                私は、塾教師は O 君の天職だと言いました。それはつまりこういうことです。今 ICT 教育が盛んに宣伝されています。ICT 教育とは簡単に言えばインターネット、タブレット、デジタルコンテンツなどのデジタル技術を使った教育のことです。

                 

                 

                つまり、「従来の教育では、インターネットを調べればわかることを教師に教わり覚えるということが中心だった。ICT を使うことで、インターネットに聞けばわかることはインターネットに任せて、より効率的に情報を活用した創造的なスキルを養うことに焦点を当てることができる」というわけです。

                 

                 

                 

                要するに塾産業からすれば、ゆくゆくは AI が教育の大部分を肩代わりする時代になる。だから教育をデジタル機器に任せ、先を読んで設備投資をし、費用対効果を常に頭におきながら、利潤を上げるサービスに転換しなければならないということです。

                 

                 

                 

                これからの塾教師は、なによりも、デジタル機器を使いこなせる人材でなければ務まらないと言っているわけです。現に多店舗展開している多くの塾は、そういった人材がいないため、ただ DVD を見せたり、別料金で子供たちに英会話や、速読教室なるものを受講させています。

                 

                 

                 

                一方で、O 君のように塾教師を天職と考える人間は、多店舗展開型の塾などまったく考えていないはずです。これはあくまで、金儲けの論理なのですから。では何をしなければならないのか。

                 

                 

                 

                「教育」そのものを再定義するという困難な仕事に着手しなければならないのです。そうすれば ICT 教育が人間の創造性を高めることに本当に役立つかどうかが見えてくるはずです。加えて、創造性は例えば自己犠牲の精神よりも上位の価値なのか、という疑問にも答えなければなりません。

                 

                 

                 

                 ICT 教育は一つの手段です。手段はあくまで手段に過ぎません。にもかかわらず、手段が目的そのものになっているのが今の教育なのです。教育の目的は子供を東大に入れることでは断じてありません。

                 

                 

                 

                手段が目的になればどんな不都合が起こるか。手段と目的の区別がつかない人間が大量に出現し、目的が失われます。その結果、人間を含めてすべてのものが手段と見なされるようになります。

                 

                 

                 

                安倍政権は目的を喪失させ、手段を自己目的化したのです。公文書の偽造・変造や原発の再稼働はその典型例です。目的(理想といってもいい)を喪失した社会の行きつく先はグロテスクな社会つまりディストピア以外にありません。国民は奴隷として働かされ、殺されるしかないのです。現に自殺者が複数出ているではありませんか。

                 

                 

                 

                塾教師を天職だと考えている O 君には、これからやることがまだまだあります。それは困難を伴いますが、これ以上にやりがいのあることはないかもしれません。O 君の健闘を祈ります。

                 

                 

                | 人生 | 22:06 | comments(0) | - |
                幸せな一日でした。
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                  午前9時40分頃、塾の生徒Y君のお母さんからうれしいプレゼントを戴きました。臼杵の『さかいや』さんの桜餅です。そろそろ買いに行こうかと考えていた矢先だったので、なんとタイミングがいいのだろうと、感激しました。

                   

                   

                   

                  午前9時40分頃と細かい時間を書いたのは、開店時間が午前9時だからです。『さかいや』さんは、その日の商品が売り切れればそこで営業は終わりです。予約せずに行くと買えないこともあります。私の住んでいる坂ノ市から車で往復すれば40分くらいはかかります。

                   

                   

                   

                  Y君のお母さんはきっと開店時間に合わせて行かれたのだと思います。そして帰りにわざわざ私の家に寄ってくれたのです。本当にありがたいことです。戴いた桜餅は出来たてで、まだ温かく、桜餅独特の春の香りがしていました。

                   

                  Y君のお母さんに戴いた桜餅。

                   

                   

                   

                   

                  でも、私が『さかいや』さんの桜餅が好きだとどうして分かったのでしょう。そう言えば今から2年前、一度ブログで紹介したことがあります。それを覚えて下さっていたとしたら、こんなうれしいことはありません。

                   

                   

                  絶品の桜餅』

                  http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=140

                   

                   

                   

                  私のブログは記事が長く、小難しいことも書いているのであまり人気がありません。もちろん塾の営業にとってプラスにはなりません。それでも、一日に700を越えるアクセスがあります。

                   

                   

                   

                  私は不特定多数の人に向けて文章を書くのが苦手です。それでもブログを書こうとすれば、理想的な読者をどこかに想定して、その人に向けて書くよりほかありません。期待し、励まし、ほめる文章を書きたいからです。相手の矛盾を突き、論理的に批判し、追い詰める文章を書いても(それも結構好きなのですが)楽しくありません。

                   

                   

                   

                  塾の教師をしているせいか、私にとっての理想的な読者は、高校生から大学生くらいの精神の可塑性に富んでいる聡明な若者ということになります。一対一で向き合って、何時間でも話すことのできる若者なら理想的ですね。

                   

                   

                   

                  そういうわけで、私は正直に自分の思ったことを書いているつもりです。いきおい、若かったころの至らなさを棚に上げておくわけにもいきません。見栄や打算に衝き動かされていたころのことも書かなければなりません。

                   

                   

                   

                  しかし、今時、他人の告白的青春記を読みたいなどと思う人はいないでしょう。人間そのものに対する関心がなくなったからです。私にできることは、挫折や失敗や逡巡の経験を語ることよりも、両親や多くの人の経済的・精神的な犠牲の上に私の人生が形作られていることを、さまざまなジャンルの語り手たちの助けを借りて、間接的に、小声で語ることくらいです。

                   

                   

                   

                  ところで今日はもう一ついいことがありました。ブログでも書きましたが、大分大学の医学部に合格したSさんとお兄さんのK君、熊大に合格したMさんと私の4人で合格祝いとお別れを兼ねて、ランチ会をしました。

                   

                  手前右がSさん、左がMさん、後ろ右がK君。左はカフェフランセユキのオーナー幸さん。楽しいひと時をありがとう。

                   

                   

                   

                  トキハ会館の1階で待ち合わせをしていたのですが、デートの待ち合わせ場所に行くようで、私はドキドキしました。全員6〜7年間、塾に通って来てくれた生徒さんたちでした。大学を卒業すれば、すぐ社会人です。その時の社会が今よりは少しでもましになっていることを願いながら別れました。ああ、この若者たちに幸あらんことを!

                   

                  | 人生 | 23:25 | comments(0) | - |
                  お気に入りの文房具・万年筆
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                    『小刀で鉛筆を削る楽しみを味わわずに大人になってしまう人たちは気の毒である』と書いたのは、確か串田孫一氏だったと思います。突然思い出して書棚をひっくり返し『文房具56話』を見つけました。告白すると(べつに告白しなくてもいいのですが)、私は彼のファンです。精神を浄化したいと思った時、決まってページを開いたものです。

                     

                     

                    ついでに言うと、削った鉛筆のカスを小さな瀬戸物の容器に入れて燃やすと、独特の香りがして、冬の夜長の楽しみにもなります。もっとも、安物の鉛筆はただけむたいだけでしたが。そう言えば、日本には香道なるものもありますね。

                     

                     

                    どういうわけか、串田氏のエッセイは一気に読むことができません。一日に一つか二つ。文章が速読を拒否しているのです。そんなわけで、山に行くときは必ず彼の本をリュックに入れていました。山歩きに疲れると沢の近くや木陰に座り込んで、『山のパンセ』を読みます。思い出の中で、山の記憶と彼の文章が分かちがたく結びついているのです。

                     

                     

                    さて今回は、私が愛用している文房具、なかでも万年筆の話です。今また万年筆ブームだそうですが、いやはや、消費社会の宣伝は巧妙というか、いかにも購買欲をそそる文句が並びます。

                     

                     

                    大人なら持っておくべき筆記具、人間の格が上がったような気分にしてくれるモノ、ステイタスシンボルとして持っておきたい小物、等々。たかが筆記用具じゃないか、大人なら持ちたいだの、人間の格が上がった気になるだの、いい加減にしてほしいと思うものの、どこかでうなずいている自分を発見して内心忸怩たるものがあります。

                     

                     

                    今使っている万年筆。左端はパイロット。右の3本はシェーファーのもの。

                     

                     

                    左端のステンレス製のシェーファーは、中学生の頃通っていた英語塾の N 先生に頂いたもの。50年以上前のものです。さすがに書き味は落ちました。当時70歳を過ぎていた先生の授業は脱線の連続で、楽しいことこの上なかった。右の2本は現在愛用のものです。50年経ってもペン先のデザインは変わっていません。

                     

                     

                     

                    男という生き物は、適当に遊び道具さえ与えておけば、いつまでもそれに夢中になって時間を忘れることができる?という説があります。だからどうした、と言いたいのですが、自分を振り返ってみると、確かにそういうところがあります。

                     

                     

                    少年時代は、今のようにおもちゃもなかったので、小刀の肥後の守で何でも自作しました。切れ味が鈍くなると砥石で研ぎました。研いだ後、鈍く光る刃先に指を当て、よみがえった切れ味を確かめて悦に入ったものです。

                     

                     

                    おやおや、万年筆の話でしたね。万年筆に興味を持ったのは、父に若草公園のすぐそばにあった『江藤万年筆店』に連れて行かれたのがきっかけでした。黒い丸眼鏡の店主がのっそり出てきて、何やら父と親しげに話していました。私はそばにあったショーケースの中に陳列されていた万年筆をじっと眺めました。小学校低学年の時ですから、もう半世紀以上前のことです。

                     

                     

                    その時、一本の万年筆が私の目に飛び込んできました。それを指さして「これがいい。父ちゃん、これ買うて!」と言いました。その時の店主と父の笑い声、驚きの表情を今でもよく覚えています。

                     

                     

                    父に頭をなでられながら「買ってやりたいが、お父さんの給料では手が出ない」と言われました。その瞬間から万年筆は私にとってあこがれの対象になったのです。

                     

                     

                    とはいえ、子供らしいそういった感情は長続きしませんでした。いつの間にか万年筆のことは忘れてしまいました。ところが、高校時代、ほとんどの生徒が鉛筆を使っていた時、一人だけノック式万年筆(たぶんセイラーだったと思います)を使ってノートを取っていたクラスメイトがいました。O君でした。

                     

                     

                    O君は成績抜群で、現役で京都大学の医学部に合格しました。試験前、彼のノートを借りたことがありますが、そこには何が書いてあるのか判然としない、流れるような文字が躍っていました。それは思考のスピードに文字を書くのが追いつかないといった風情でした。

                     

                     

                    私が彼から学んだことは、ノートは人に見せるものではなく自分が分かればいいのだということ、そして万年筆を使うということでした。善は急げです。母親にお金をもらい、彼と同じ万年筆を買いました。

                     

                     

                    ところが不思議なもので、あれほど夢中になった万年筆の記憶はそこでパタリと途絶えています。どこで買ったのか、いつまで使ったのかという記憶もありません。おそらく、上野丘にあったトタン貼りの狭い粗末な家の勉強机の抽斗の端っこにころがったままだったのでしょう。

                     

                     

                    そんなわけですから、私の万年筆に対するこだわりは、こだわりと言えるほどのものではありません。ただどういうわけか、大型書店やデパートの文房具売り場に行くと、万年筆のコーナーに目がいきます。ショーケースの中をのぞいていると、江藤万年筆店の黒い丸眼鏡の店主と父の笑い声が聞こえてくるような気がするのです。

                     

                    | 人生 | 15:49 | comments(0) | - |
                    個人的な、あまりに個人的な・・・
                    0

                      私は自分の書いたブログをあまり読み返しません。てにをはの間違いに気付き訂正するくらいです。今日は高校生の顔を思い浮かべながら英文法の解説をしようと思っていました。すると思いもかけず、ある曲のメロディーが脳裏をかすめたのです。そのメロディーは一瞬のうちに私を青春時代に連れもどしました。

                       

                       

                      そこで、今日は日曜日だし、政治の話題に辟易しているので、青春時代によく聴いた曲で精神を浄化することにしました。以下にアップした歌は、一つ一つに忘れられない思い出があります。しかし、それは個人的な、あまりに個人的なものなので、書く気になりません。

                       

                       

                      私は青春時代に帰りたいなどとセンチメンタルな感傷に浸ることはしません。何と言っても、青春時代の思考も感情もすべて今となっては正視に耐えられない恥ずかしいものばかりですから。残された人生を先へ先へと歩むほかないのです。

                       

                       

                       

                       

                       

                       

                       

                       

                      | 人生 | 18:06 | comments(0) | - |
                      父の記
                      0

                        父が56年の生涯を閉じた時、私は28歳でした。父は教師をしていましたが、決して理論家ではありませんでした。どちらかというと無口で口べたでした。文章を書くのも得意ではなかったというか、あまり関心がなかったようです。それでも、読むことは嫌いではなく、司馬遼太郎をよく読んでいました。愛煙家で囲碁が趣味でした。

                         

                         

                         

                        明確な文章にならない理論などというものはありません。しかし、<思想>は違います。父は<思想>を持っていました。A B であるという命題の形にならなくても、自分の生き方について安定した統一的な判断基準を持っていたのです。それは、名も無い一人の実践者として身につけた、<核>となる判断基準でした。これをすれば怒られる、これをしたときには喜んでもらえる、ということが少年の私に無意識のうちに浸透していったのです。

                         

                         

                         

                        ラッキョウの皮むきではありませんが、どこまでむいても核のない教育史家の言説のような薄っぺらなものではなく、あくまで自分の実践や経験で得たものを根拠にしていたので、ぶつかり甲斐のある存在でした。父の存在なくして自我を形成することができたかどうか、今となっては判然としません。

                         

                         

                         

                        5歳で実母に死なれ、若いときに戦争を経験したことも大きかったと思います。思えば、昔の教師の中にはこの種の<思想家>が多かった気がします。

                         

                         

                         

                        55歳の時、囲碁の最中に左手に持っていたタバコを落としても気づかず、手がしびれ始めます。一過性の脳虚血性発作でした。糖尿病が原因だったのでしょうか。その年の暮れに入院し、手にしびれが若干残るものの、順調に回復し、リハビリのため別府の病院へ転院します。

                         

                         

                         

                        その当時、私は奈良県生駒市に妻と娘と3人で暮らしていました。あれは確か3月ごろだったと思います。弟から電話がありました。緊迫した不安そうな声でした。父を見舞いに行ったらベッドの上で不安そうに泣いているというではありませんか。言葉を発することができなくなっていたのです。

                         

                         

                         

                        私は飛行機に飛び乗り、病院へ駆けつけました。父のベッドに近づき、その顔を見た時のことは生涯忘れることができません。父は私の顔を見ると身もだえしながら激しく泣き出したのです。元気な時の姿とのあまりのギャップに、私は言葉を失いました。脳梗塞の発症でした。

                         

                         

                         

                        私は泊まり込みで看病しました。そのうち、父は深夜になると下腹部をおさえて苦しむようになります。医師は神経的なものだろうと言いました。しかし、そばで看病している者から見れば、とうてい神経的なものとは思えませんでした。

                         

                         

                         

                        私はもしかしたら癌ではないかと疑い、知り合いに頼んで大分医科大学に転院させました。医大の A 医師から、転院したその日に、父は大腸ガンの末期で、余命2カ月だろうと告げられました。父は脳梗塞と癌を併発していたのです。

                         

                         

                         

                        季節は春爛漫で、桜が満開の中をバスに乗って医大へ通いました。バスの座席に座ると、開け放たれた窓から桜の花びらが舞いこんできました。それを見ていると、間もなく父の命が消えるのだという感慨に襲われ、涙を抑えることができませんでした。

                         

                         

                         

                        桜の花が散り、葉桜となって世間はゴールデンウィークのまっ最中でした。その日は、私に代わって母が付き添っていました。南大分の親戚の家で仮眠をとっていた私に母から電話がありました。駆けつけると、心臓マッサージの最中でした。私は A 医師に「ありがとうございました。もう結構です。」と声をかけました。5月8日の未明、心電図は、一本のか細い線となり、父は56年の生涯を閉じました。

                         

                         

                         

                        葬儀は父の従姉で、丹生小学校の校長をしていた(平山)美津子おばさんが取り仕切ってくれました。その美津子おばさんも、すでに他界しています。葬儀が終わって一週間後、美津子おばさんといっしょに校長会へ挨拶に出向きました。その時の挨拶を私ははっきりと記憶しています。

                         

                         

                         

                        「去る5月8日に、父は56年の生涯を閉じました。父は戦争中に名古屋に動員で駆り出され、文字どおり生死の境を生きる日々を過ごしました。動けなくなった老婆を背負い、焼夷弾が雨あられと降る中を逃げた話を聞かせてくれました。俺には青春がなかった、とも申しておりました。ここにおられる先生方の中には、父と同じ釜の飯を食い、同じ経験をした方も多くいると思います。

                         

                        人間は二度死ぬと申します。一度目は肉体が滅ぶことによる死です。二度目は父の記憶を持っている人々が死ぬことによる死です。父は死にましたが、まだ、ここにいらっしゃる先生方の記憶の中に生きています。父の二度目の死をなるべく遅らせるために、どうかお元気でいつまでも御活躍されることをお祈りしています。生前のご厚誼に対しまして、父に代わって心よりお礼申し上げます。ありがとうございました。」

                         

                         

                         

                        今考えると、28歳の若造が居並ぶ校長を前にして、よくもこんな偉そうなことを言ったものだと思います。しかし、それを言わせたのは、校長会の温かい雰囲気だったのです。

                         

                         

                         

                        その父が生前、最後に読んでいた本です。

                         

                         

                        私が勧めました。あちこちに線が引かれています。糖尿病で視力が落ちていたにもかかわらず、最後まで読み通しています。それだけの力がこの本にはあったのだと思います。詳しくは次回のブログで取り上げます。

                         

                        | 人生 | 18:51 | comments(0) | - |
                        2017年元旦・文化と歴史の断絶を前にして
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                          あけましておめでとうございます。

                           

                          大みそかは、紅白歌合戦も、民放各局の年末特番も見ず、除夜の鐘を聞きながら静かに一年を振り返りました。

                           

                           

                          新春だからすべてをリセットして、また新たな気持ちで前に進んでいこうと思うほど、私はお人好しの単細胞人間ではありません。水に流せないことがあまりにも多いのです。昨年起こったことも、これから起こることも、私には何もかもが茶番に思えてしかたがありません。

                           

                           

                          結末の分かったスト―リーを見せられて面白いとはしゃぐ人間にはどうしてもなれないのです。割り振られた役を、喜々として演じる猿回しのサルになることだけは遠慮します。芸がうまく行って拍手喝采され、人気者になり、悦に入っている自分の姿など、正視に耐えません。

                           

                           

                          テレビは一切見ていなかったのですが、今日の昼過ぎ「面白いのをやってるわよ」という妻のことばに誘われて見たのが、ETV特集 アンコール「女ひとり 70歳の茶事行脚」という番組でした。ETV特集は、まだわずかに残っているNHKの知性であり良心です。

                           

                           

                          番組紹介によると、

                           

                          おもてなしの原点と言われる「茶事」に人生をかけ、全国行脚を決意した女性がいる。日本で数少ない茶事の出張料理人、半澤鶴子さん。茶事とは千利休が確立した4時間ほどの茶会だ。懐石から始まり酒を振るまい、最後にお茶でもてなす。70歳を機に茶事の神髄を極めようと、鍋釜と茶道具をバンに積み、着物姿で車を運転。全国各地で出あった初対面の人々に、その土地の食材を使った料理とお茶をふるまう。2年に渡る旅に密着した。

                           

                          とのことです。

                           

                           

                          亡き母が茶事を趣味にしていたこともあり、思わずひきこまれました。自分の考える茶事を、淡々と実践している半澤鶴子さんの生き方に、心洗われる思いでした。一期一会ということばが、これほどリアリティーを持って感じられたことはありません。本物の文化は、きらびやかな衆目を集める場所にではなく、打ち捨てられた辺境にこそあるのだと、改めて思い知らされました。

                           

                           

                          ウソで固めたオリンピックの誘致合戦で「お・も・て・な・し」がキャッチフレーズになったとき、日本のおもてなし文化もこれで終わりだと思ったものです。何もかもが軽薄でバカバカしい。キャッチフレーズになった「おもてなし」など、おもてなしに値しないことくらい、日本人なら分かろうというものです。

                           

                           

                          そうなのです。安倍政権が大手を振って大道を闊歩しはじめて以来、この国で起こっていることは、文化と歴史の断絶なのです。正月が、カウントダウンに象徴されるような単なるイベントになるのも、歴史の皮肉でしょうね。

                           

                           

                          | 人生 | 18:11 | comments(0) | - |
                          冬の散歩道
                          0

                            今日は暖かい一日でした。このところ運動不足なので、冬期講習の午前中の授業が終わった後、散歩に出かけました。

                             

                             

                            塾を出て100メートルほど歩くと、この道に出ます。

                             

                             

                             

                            川に沿って1,5キロほど歩きますが、人と会うことはまずありません。私専用の散歩道です。県道と合流したところで引き返すので、往復3キロほどの散歩になります。引き返さずに県道を渡ると、以前、『私の散歩道』で紹介した山間の集落に出ます。集落を回って帰宅すると全行程8キロのコースになります。

                             

                            『私の散歩道』http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=74

                            『私たちはどこから来てどこへ行くのか』http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=93

                             

                             

                            私の長い脚で、息が上がるくらいのスピードで歩いても1時間半はかかります。普通の脚の持ち主なら2時間はかかるでしょう、なんちゃって、と書くところですが、書きません。ウソだと思うならいつか一緒に歩きましょう。脚の短い人は途中でリタイアするでしょうね。マジで。

                             

                             

                            そういうわけで、8キロのコースは時間がかかり過ぎるので、最近は3キロのコースを歩きます。往復30分なのでちょっとした時間を見つけて散歩できます。

                             

                             

                            このコースでは、私の10mほど前を、セキレイのつがいが道案内をするように、ちょこちょこ歩きます。この川には、白鷺のつがいも住んでいます。鋭いくちばしで小魚をとらえます。一瞬の早業です。

                             

                             

                            数日前は、トビが自分の体ほどもあるカエルをつかんで飛んでいました。カエルが重かったのでしょう、川面すれすれに飛んでいましたが、向こう岸についた途端、力尽きてカエルを落としてしまいました。カエルはコンクリートの土手を転がり落ち、大きな白い腹を上にして川に浮かんでいました。この川のおかげで、いろいろな生物が命を育んでいるのです。

                             

                             

                            今日はこの川でカワセミを見かけました。スズメと同じくらいの大きさですが、鋭く長いくちばしを持っています。もちろん水中の小魚を捕えるためです。しかし、見た人を虜にするのは、何といってもそのあざやかな青です。こちらの岸から飛び立った瞬間、そのあざやかな青が私の目を捉えたのです。陽の光を反射して、カワセミは半透明に見えました。冬枯れの川は、色がありません。その中を、光輝く青い軌跡を描いてカワセミは飛んだのです。

                             

                            カワセミは、こちらの岸辺から飛び立ち、小魚を捕って向こう岸へと消えました。夢を見ているような瞬間でした。

                             

                             

                            カワセミの青

                             

                             

                             

                             

                             

                            それにしても、カワセミはいったい何のために、このあざやかな青を身にまとっているのでしょうか。少年の日の、あの底知れない驚きと不思議な感覚がまざまざとよみがえってきました。それは至福の瞬間でした。

                             

                             

                            思えばずいぶん長い間、私は昆虫や鳥や魚を友として生きていたように思います。そして、小動物たちが身にまとう、グロテスクで吐き気を催すような色や模様を、飽かず眺めていたのです。

                             

                             

                            そのなかで、私をとらえて離さなかったのが青でした。私は色ではなんといっても青が好きです。カワセミの青。ミヤマカラスアゲハの青。ルリボシカミキリの青。校舎の3階くらいの高さはある木に登り、カラスの巣をのぞいたときに見た、あざやかなターコイズブルーの卵。玉虫の深い虹色の翅の中に見た青。挙げればきりがありません。

                             

                            ミヤマカラスアゲハ

                             

                             

                            ルリボシカミキリ

                             

                             

                            カラスの卵。私の見たカラスの卵はもっと鮮やかなブルーでした。ムクドリの卵も鮮やかなブルーですが、カラスの卵には黒の斑点があります。

                             

                             

                            おそらく、幼少年時代に見た小動物のあざやかな青が記憶の底に沈殿していて、私の色彩感覚に影響を与えているのだと思います。言葉を所有する以前、自然と未分化の状態で動物としての<生>を生きていたときに見たものは、私たちを深いところで規定しているような気がします。

                             

                             

                            人格が未形成の時期に、ことばというフィルターを通さず直に自然と接することで生まれる驚きの原初的な感覚こそが、感情や知性の根幹を形作っているのではないでしょうか。

                             

                             

                            人間は人間の発することばによって傷つきます。立ち直れないほど魂が深い傷を負ったとき、それを癒してくれるのは自然です。自然に抱かれて、人は、ことばを所有する以前の、魂の揺籃期に戻ることができるのですね。だから、豊かな自然こそが、何にも増して、次世代に残すことのできる最大の遺産なのだと思います。

                             

                            | 人生 | 23:02 | comments(0) | - |
                            孤軍奮闘している塾教師 ・ O君へ
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                              どういうわけか、最近メールや電話で昔の生徒さんからよく連絡があります。一番昔の生徒さんは、例のトコちゃんです。ブログにも何度か登場してもらいました。トコちゃんは、私が二十代の頃、奈良県生駒市で家庭教師をしていた時の生徒さんです。三十数年ぶりにメールをもらい、驚くと同時に、なつかしさでいっぱいになりました。私は一度教えた生徒のことは忘れません。入塾の際、一緒に来られた親御さんの顔はすぐ忘れるのですが・・・。

                               

                              初冬の前庭。葉もほとんど散ってしまったこの時節が私は一番好きです。

                               

                               

                               

                               

                              今回紹介するのは、O君です。当時、O君は上野丘高校の3年生で、受験まで半年を切っていました。初対面の時、青年らしいひたむきさと緊張感が顔にあらわれていました。そのO君から二十数年ぶりに電話をもらいました。

                               

                               

                              彼は今40歳。奥さんとかわいい息子さんに支えられて、埼玉県で数学の塾をしています。こどもたちに教えることが大好きで、大手の塾で講師をしていたそうですが、あまりのブラックぶりに絶望し、自分で塾をやろうと決心したそうです。

                               

                               

                              私はこどもたちに「僕の真似をして、将来、塾の講師になろうなどとは思わないように!」と半分冗談で、半分は本気で言います。しかし、職業というものは、大部分の人にとっては、自分で選んだつもりでも、結局は世間が与えてくれるものなのですね。「お前は他にとりえがないのだから、これをやって生きていけ」と。要はその声を聞けるかどうかです。O君は、おそらく、この声を聞いたのです。

                               

                               

                              以下はO君のブログです。私のことを書いてくれています。ありがとう、O君。塾の教師は何の保証もない厳しい職業だけれど、君の天職だと思います。身体にだけは気をつけて、なんとか生き延びて下さい。そのうち会いましょう。

                               

                               

                              ― 先月下旬、緊張しながら約二十年ぶりに、電話をかけた。

                              いつか会いに行かないと、そしてお礼を言わないと、と思って約二十年。

                              私のことを覚えてくれているだろうか?

                              電話の呼び出し音の間、不安でしかたがなかった。

                              その相手とは、尊敬できる先生の一人、S先生だ。

                               

                              S先生との出会いに少しさかのぼっていくと、きっかけは、中学生の頃まで英語が好きだったが高校に入学してから英語が嫌いになったことだ。

                               

                              高校では丸暗記英語。質問しに行っても全然答える気が無い先生だらけだった。実際に答えてくれた先生はいなかった。高校三年間、英語に関しては、だいぶ無駄な時間を過ごしていたかもしれない。

                              高校三年生の夏、これではまずいと思い、母にお願いして塾を探してもらった。

                              それも、英語専科の塾だ。

                               

                              S先生に出会うまでは、正直なところ暗記英語だろうと期待はしていなかった。情報もなかったので・・・

                              初めて教室に行き、木のドアを開けると、木のぬくもり、香り、ここは塾なのかと疑ったくらいの不思議な空間だった。

                               

                              そして、先生と軽く面談。先生は、私が数学者になりたいと知って『遥かなるケンブリッジ 藤原正彦 著』を貸してくれた。1日で読み上げた。そして、いつまでも借りていられないから自分で買って何度も読んだ。

                               

                              授業では、周りの生徒達もアットホームな感じだが、内容がすごかった。英語を体系的にそして、私の知りたいこと全て答えてくれた。

                               

                              先生から「自習室もあるからおいでよ、質問があったらいつでも」と言われていたが、変に遠慮してしまい、一回も自習室には行かなかった。今思えば、もったいない!!

                               

                              英語の面白さを再認識させてくれた先生が、S先生だ。単語を覚えるにしろ自分で考え、接頭語から単語を暗記する術のきっかけを作ってくれたのも先生だ。

                               

                              S先生の授業は半年しか受講していない。

                               

                              電話が通じた、S先生の奥さんだった。

                               

                              「約二十年前にお世話になったOです。先生、ご在宅ですか?」

                              そして先生に代わってもらった。

                               

                              「覚えていますか、約二十年前にお世話になったOです」

                              すると先生は「Oくんか(大分の方言・なまり)覚えてるよ。元気にしちょんね、今なにをしてるん?」

                               

                              先生と約二十分、最近のこと、先生に会いに行けなかったこと、そして、教育のことを話した。会話の始めの方は、緊張して早口になってしまった。

                               

                              そして、先生から「O君は、まだまだ若い。もっと頑張れる」と励まされた。

                              最後に「大分に帰ることがあれば、是非家においでよ」と。

                               

                              私は、すごく嬉しかった。

                              夏に入るまで、実家でいろいろあり、大分に帰ることはないと思っていたが・・・

                              大分に行くときは、S先生の自宅に伺い、私の家族の紹介、そして、お礼を言いたい。

                               

                              この場をお借りして、

                              S先生に出会えたから、今の自分があり、先生像があるのかもしれない。

                              私の夢は、先生の作った塾の雰囲気・教室、そのものです。その夢を実現させるまで頑張ります。

                              突然の電話で、申し訳ありませんでした。そして、話を聞いて頂き、ありがとうございました。

                               

                              | 人生 | 15:23 | comments(2) | - |
                              長渕剛 『 乾杯』 2016/12/7
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                                東日本大震災の折、身を粉にして救助活動にあたる自衛隊員を前に長渕剛は歌いました。それを見て私は涙しました。その時思いました。これだけの事故があったのだ、この国は変われるかも知れないと。

                                 

                                しかし、それに続く5年余りの間、鬼胎の政権が吹く笛につられて、人々は再び破局への道を歩み始めました。この惨状を見て、いったい心暗くならない人間がいるのでしょうか。私には理解できないことだらけです。

                                 

                                いや、世間は所詮こんなものさと、頭では理解できているのです。しかし、感情がついていかない。感情はことばを求めて荒れ狂い、ついに歌となってほとばしります。

                                 

                                「日本から歌が消えていく。日本から言葉が消えていく」と彼は歌います。彼は空気を読まない。読めない。そんな自分を持て余しているに違いありません。そんな長淵剛がたまらなく好きです。久しぶりに「歌い手」の歌を聴いた気がします。

                                 

                                彼の叫びがどこに発しているか、まっとうな感情を持っている人には分かるはずです。奴隷の人生を生きるくらいなら死んだ方がましだ!と彼は叫んでいるのです。

                                 

                                 

                                 

                                追加コメント:私が昨夜この動画を見た時、閲覧者はわずか数百人でした。その後千人を超え、視聴者は増えていきました。すると、動画は削除されました。そこで Dailymotion の動画をすぐにアップしました。

                                 

                                今、YouTube の視聴者は47万人(12月14日現在58万)を超えています。そのせいでしょうか、閲覧可能になっています。やれやれ、削除したり、復活させたりと忙しいことですね。一人の歌手の歌に神経をとがらせ、動画を削除させるとは、この国の支配層とその追従者たちはなんという小心者の集まりでしょうか。

                                 

                                YouTube にコメントを寄せている人たちの、日本語能力のなさ、読解力のなさにはあきれるほかありません。同じ発想、同じ語彙で、ただ長渕剛の人格を攻撃しています。彼らこそが感情が劣化した人間たちの見本です。You Tube のコメントを読んでみてください。安倍政権はこの種の人間たちに支持されているのです。

                                 

                                 

                                 

                                動画は以下からも見ることができます。

                                http://dai.ly/x54nmjj

                                この動画も削除されました。

                                | 人生 | 23:58 | comments(0) | - |
                                これまでの人生、これからの人生
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                                  父の死という全く予期していなかった事情で塾をはじめたものの、数年も経たないうちに、この業界で生き残っていくためには、あえて主流にならないという自分のスタンスを確立することが大事だと感じました。塾といえども、何らかの文化がなければ続かないと思ったのです。

                                   

                                   

                                  その時、この業界で生き残っていく、つまりビジネスとして成功するためには何をすればいいのか、そのイメージは鮮明に浮かんでいました。しかし、私はそのイメージを受け入れることができず(それについては『未来塾通信』に何度も書いています)、それとは逆の方向に舵を切りました。先見の明があったなどということとは違います。私にはそうすることしかできなかったのです。そして、そのときイメージしていたものは、30年あまりを経て、予想通り現実となりました。

                                   

                                   

                                  ほんの数年で、いや数カ月で変化する消費者のトレンドを探るより、自分が信じる「個人店」の現場をたえず見直すことで、生き延びてきたと、今となってはそう思います。

                                   

                                   

                                  私は旅が好きですが、インターネットの情報はあまり信用していません。これまでの経験と地元に長く住んでいる人の意見をまず聞きます。ネットの情報は、自分の判断と照らし合わせるために、参考程度に見るだけです。

                                   

                                   

                                  たとえば『食べログ』とか『ぐるなび』などは、今はやりの店の情報を載せていますね。しかし、そこに投稿している人の多くは、その場所に行くことが目的となっているようです。地図に、行った場所のしるしをつけるのが目的であるかのように。

                                   

                                   

                                  そして、一回行っただけで自分の勝手な感想を書きます。あるいは宣伝のために、有名なブロガーを雇って、好意的で良い情報ばかりを載せている店もあります。絶賛している投稿はこの種のブロガーが書いていると思った方がいいですね。

                                   

                                   

                                  プロのブロガーはお金もうけのためにやっているので除外するとして、一般の人の感想も、自分がグルメ評論家になったつもりで、ある店をけなしたり、ほめたりしています。やっかいなのは、それを妄信して、行ってもいないのに店のことをああだこうだと語る人が出てくることです。

                                   

                                   

                                  私は食べ物のことをああだこうだ言う趣味はまったくありません。ただ「うまい」か「まずい」か、それだけです。テレビのグルメ番組に登場するアナウンサーやレポーターの「シャキシャキした食感がたまらないですね〜」だの「あっ、ジューシーで、やわらか〜い。お口に入れた瞬間、すぐに溶けますね」などというコメントを聞くと、溶けているのはあなたの脳だろう、と言いたくなります。

                                   

                                   

                                  私も一度レポーターになってみたい。有名レストランに行って、テレビカメラが回っている前で自慢の料理を食べます。食べた後、小難しい顔をして、一言「まず〜い」と言ってみたいですね。でもテレビでは、この「まず〜い」という答えは、あらかじめ排除されています。二度とレポーターの仕事は回って来ないでしょうね。それどころかその放送局はグルメ番組を放送できなくなるでしょう。

                                   

                                   

                                  結婚式で「あなたは、死が二人を分かつまで夫を愛し続けることを誓いますか」と問われた花嫁が「そんなことできるわけないじゃ〜ん。来年あたり浮気してるかもしれないし〜」と答えることが事実上不可能であるのと同じです。

                                   

                                   

                                  トランプ氏が大統領選に勝ったのは、この花嫁のようなセリフを吐いたからだとも言えます。決して言ってはいけないことを、空気を読まずに言う、本音をぶつける、これが痛快さを求める国民に受けたというわけです。わが国の「小トランプ」たちが勢いづくわけです。

                                   

                                   

                                  なぜこんなことを言うかというと、塾業界で「成功」するということは、この種のバカバカしさに付き合い、その先を読み、トレンドを追いかけることを意味するからです。「成功」した塾の経営者は、ちょっとしたCEO気取りで、そろばんをはじきつつ、一方で時代の波に乗り遅れるのではないかと常にびくびくしています。

                                   

                                   

                                  私は経営者にはなれないので、個人店主としての文化を守り、平凡な塾教師としての日常をどうすれば肯定できるかと考えて今日までやってきました。これから先もこのスタンスでやり続けるつもりです。

                                   

                                   

                                  合理性と効率性、つまり費用対効果を常に追求する企業の経営者は、あらゆるものを数値化します。数値化できないものには価値を見出せません。いや、トレンドに敏感な企業は、数値化できないものにこそ価値があると宣伝して、それを数値化するかもしれません。そんな合理性を極端に推し進めた結果、訪れるだろう人類の29世紀の姿を描いた映画があります。ピクサーとディズニーによる共同制作の映画『ウォーリー』です。内容を簡単に紹介します。

                                   

                                   

                                  高度消費社会が極点に達し、ゴミに覆い尽くされた地球を脱出してスペースコロニーで生活する人類。そこでは、個々のカプセルの中ですべての情報収集や消費が完結し、肉体労働も、「家族」という単位すらも見当たらない。超巨大企業の寡占状態のなか、より賢い消費者として万能をめざしたはずの人々は、もはや選択の余地はおろか、選ぶ意思すら失っている。捨てられた地球で孤独に働き続けるごみ処理ロボットのウォーリー。彼は玩具やカトラリーなど、人類の生活の遺品をゴミの山から見つけ出し、ひそかにコレクションしていた。ある日、ウォーリーはミュージカル映画『ハロー・ドーリー』のビデオテープを見つける。以来彼は、人と人とが「手をつなぐ」ワンシーンを、あこがれのまなざしで繰り返し見続ける・・・。

                                   

                                   

                                  これは極端な例でしょうか。しかし、合理性をとことん追求する社会は、必然的にこうなります。かつて私は、「学校や塾で教えられることを理解できなかったり、拒否したりするこどもがいることに、人間の尊厳を見出している」と書きました。以来、「非合理ゆえにわれ信ず」というのが、私のモットーとなりました。

                                   

                                  いつものように長くなりました。ここまで読んで下さった皆さん、ありがとうございました。

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                                  なつかしくて、うれしい便り
                                  0

                                    学生のころ私は奈良県生駒(いこま)市に住んでいました。結婚してからも、父が病に倒れ、生駒を引き払って大分に帰るまで、数年を過ごしたなつかしい土地です。ベッドタウンとして徐々に開発されていましたが、まだあちこちに田畑が残っていて、お百姓さんの姿も見ることができました。生駒山からなだらかに続く山裾には豊かな自然があり、住むには格好の場所でした。

                                     

                                    その当時、妻は開店したばかりのジャスコにパートタイムで勤めていましたが、日曜日の夕刻、迎えに行くと、店内では決まってピンクレディーの曲が流れていました。彼女たちの全盛期だったのです。

                                     

                                     

                                    そのころ、私は生活費の足しにするために家庭教師のアルバイトをしていました。バイト先の松美台まではバスで通いました。バスの一番前の席に座って車窓の風景を楽しみながら、時々運転手さんと話をして道中を楽しみました。松美台に着くとそこからは徒歩です。高台の一番奥に住んでいた中学生のE子さんと、小学生の妹T子さんが生徒でした。今から思うと、教える技術もなく、何を教えていたのか、恥ずかしくなります。でも二人のことははっきり覚えています。時々生駒時代のことを思い出しては、妻となつかしく語り合います。

                                     

                                     

                                    昨日は私の誕生日で、娘たち夫婦と孫たちがやってきて、盛大なパーティーをしてくれました。バーベキューをしたり、栗の収穫をしたりと、楽しい一日を過ごしました。

                                     

                                     

                                    夜、パソコンに向かってメールをチェックすると、驚いたことに、生駒時代、家庭教師をしていたT子さんからメールが届いていました。当時小学校の6年生だったと思います。姓が変わっていても、名前を見てすぐに分かりました。三十数年が経っています。妻に話すと「えーっ」と感激していました。

                                     

                                     

                                    さっそく返事を書いたのですが、メールが届きません。何度か送信したのですがやはりダメでした。そこで、ブログを借りて返事を書くことにしました。無断で私信を公開することをお許しください。

                                     

                                     

                                    まずT子さんのメールから。

                                     

                                     

                                    ― 懐かしいです。相変わらずのご活躍嬉しく思います。

                                    私は小、中学校時代先生に家庭教師をして頂いていました。そうそう、当時先生はアグネスラムちゃんがかわいいと仰っていましたね。

                                     

                                    さて、私は今、大阪府で特別支援教育の教員をしております。小学部で授業をしたり、地域の小、中学校の先生方に特別支援教育についてお伝えしたりするのが仕事です。

                                     

                                    人生山あり谷ありで、ここまできましたが、子どもが高校3年で不登校になりました。いや、それ以前から、少しずつブレーキがかかっていたようですが。

                                     

                                    進学校で国公立大学受験コースにいました。成績は悪くなかったのですが、動けなくなってしまいました。と言っても、家では元気です。ひょろひょろですが、家ではご機嫌で、お姉ちゃんたちと、音楽、漫画にふけってます。

                                     

                                    たまたま、先生のブログを拝見し、相変わらずの筋を通した指導に心和ませて拝見させていただきました。

                                    母と姉とは、ある件で、少し大笑いしてしまいましたが。

                                    先生のご活躍お祈りしております。ではまた。

                                     

                                     

                                    以下は私の返信。

                                     

                                    T子さん!

                                     

                                    まさか三十数年たって、当時小学生だったT子さんからメールをもらうとは思いもしませんでした。

                                    ほんとうになつかしいね。

                                    T子さんのことはよく覚えています。

                                    お茶目で可愛かったもの。

                                     

                                    松美台までよく通いました。

                                    生駒がなつかしくなり、2年ほど前、妻と京都旅行の途中で立ち寄りました。

                                    松美台の前の道を通り生駒駅へと向かいました。

                                    その間ずっと、ここは一体どこだろうとびっくりし通しでした。

                                    昔の生駒の面影はなく、あまりの変わりように、浦島太郎になったような気分でした。

                                    全国でも、これほど劇的に変わった街はないかもしれませんね。

                                     

                                    生駒警察署の裏にあった、新婚時代に住んでいたぼろアパートはもはや住む人もなく、取り壊し寸前でした。

                                    流れた時間を改めて思い、死んだ子の年を数えるような気持ちになりました。

                                    なんといっても、貧しいながらも僕たち夫婦の出発点でしたからね。

                                    妻と写真を撮り、なんだか呆然としながら、その場所を後にしました。

                                     

                                    時代は流れ、世の中はどんどん変わりますね。

                                    T子さんは僕の記憶の中でずっとあのころのままです。そこで時間は止まっています。

                                    止まった時間がまた再び流れだすようなことがあるでしょうか。

                                    大分へ来るようなことがあったら、ぜひ声をかけて下さい。お会いしたいですね。

                                     

                                    僕は塾の教師が性にあっています。

                                    T子さんもいろいろと大変だと思いますが、頑張って下さいね。

                                    思い出してくれてありがとう。

                                    お姉さんのE子さん、お母さんをはじめ、皆様によろしくお伝えください。

                                     

                                    追伸:今はアグネスラムではなくて、忽那汐里のファンですピース。 なんちゃって。

                                     

                                    | 人生 | 12:07 | comments(0) | - |
                                    さびしさと悲傷とを焚(た)いて
                                    0

                                      父が55歳で死んだとき、母は51歳でした。今から思えば母はまだ若かったのです。父の死後、お茶のお稽古に、まるで心の空白を埋めるようにのめりこんでいました。母の死後、日記の片隅に「お茶をしている時の君が一番君らしい、と夫に言われてうれしかった」とありました。

                                       

                                       

                                       

                                      短歌の会で歌を詠み、新聞に掲載されることもありました。母はその切り抜きを大学ノートに貼っていました。残されたノートの中に短歌の習作と新聞の切り抜きを発見したのは、死後のことです。

                                       

                                       

                                       

                                      父が死んで3年がたった頃、母は短歌の会で心を許せる男性と知り合いになったのでしょう、時々電話がかかってきました。私が電話に出ることもありました。そんな時、母は待ちかねたように駆け寄ってきて、私から受話器を受け取りました。そのうれしそうな様子は、まるで恋愛中の娘のようでした。

                                       

                                       

                                       

                                      そんな母に私は、歳を考えたらどうか、死んだ夫に顔向けできるのかというようなことを言ったのです。その時の母の表情を忘れることができません。私は何という残酷なことを言ったのでしょう。それからというもの、男性からの電話はぷっつりと途絶えてしまいました。

                                       

                                       

                                       

                                      私は30歳でしたが、こどもでした。母の気持ちも考えず、夫と死別した寂しさにも思いが及ばなかったのです。こればかりは私の人生における最大の痛恨事の一つです。

                                       

                                       

                                       

                                      母が78歳で死んだとき、あの時の母の悲しそうな表情が心中にしきりとよみがえり、昼夜を問わず、突然悲しみがこみ上げてきてどうすることもできませんでした。母が生き返ってくれたら、土下座でも何でもして謝りたいと思いました。こどもから見れば母親は母親なのです。一人の女性として、人間として、どんな思いで、どんな悲しみを抱えて生きていたのか想像することすらできなかったのです。

                                       

                                       

                                       

                                      最愛の人を失ったとき、悲しみはその人の経験や時間の蓄積によって独自の相貌を持ちます。親を失った悲しみ、こどもを失った悲しみ、伴侶や恋人を失った悲しみ、人間が一人一人違うように、悲しみの深さも質も一つとして同じものはありません。私たちはただ独りで固有の悲しみと向き合うしかありません。しかし、だからこそ、悲しみは時空を超えて、広く深く他者とつながるのかもしれません。

                                       

                                       

                                       

                                      父が一月しか持たないと医者に告げられた時、母はその意味を理解できないようでした。医大で残された日々を看病していた母は、ある時突然私を非常階段に連れていき、父が死んだ後のことを話し始めました。それは最愛の人が死ぬのだということを必死に自分に言い聞かせているようでした。

                                       

                                       

                                       

                                      その話の最中、突然、母の目から小さく砕いた氷ような涙が次から次へとあふれ出し、非常階段を転がり落ちていきました。この小さな体のいったいどこにこれほどの涙があるのだろうと、私はただ呆然としていました。

                                       

                                       

                                      日本人はかつて、「かなし」を、「悲し」と書いただけではなく、「愛し」と書き、「美し」とすら書きました。悲しみの中にはどこか愛(いつく)しむ心があり、それは美と呼ぶしかない姿をしているのだと、昔の日本人は感じていたのです。

                                       

                                       

                                      宮沢賢治は、死にゆく妹トシを前にして次のように書きました。

                                       

                                       

                                      もうけつしてさびしくはない

                                      なんべんさびしくないと云ったとこで

                                      またさびしくなるのはきまってゐる

                                      けれどもここはこれでいいのだ

                                      すべてさびしさと悲傷とを焚いて

                                      ひとは透明な軌道をすすむ

                                       

                                       

                                      妹の死が頭を強くよぎる中で、淋しさに耐え、自分は独り、定められた道を「すべてさびしさと悲傷とを焚いて」すすむと書きます。「透明な軌道」とは、誰の目にも見えない人生の軌道であり、その固有性を指すのでしょう。

                                       

                                       

                                      仏教では死者は極楽浄土に行き、仏になると教えています。しかし、本当でしょうか。悲しみは永遠の別離に伴う現象というよりも、亡き者が私たちの中で再び生き始める合図のような気がします。出会った意味が痛切にわかるのは、その人と二度と再び会うことができなくなってからなのかもしれません。

                                       

                                       

                                      | 人生 | 21:46 | comments(0) | - |
                                      その人固有の<生>から発せられることばに耳を澄ませ
                                      0

                                        昨日のブログの最後に、次のように書きました。
                                         

                                        「『箱』の外の世界をさまようことは、逆に、自分の精神の<型>を作り上げることに役立ちます。その経験は、あなたがこれからの人生で出会うことに対して、どのように考え、どのように行動するかについての、ベースを作ります。つまり、(学生時代の)期限付きの逸脱が、具体的な人生に立ち向かうための、自分の生き方を固めるのです」と。
                                         

                                        私のように塾教師というエスタブリッシュメントとは程遠い仕事をして、一生「箱」の外の世界をさまようことは、若い人たちには勧めません。「自由」にともなうのは「責任」ではなく、「危険」ですからね。それに、意図してそういう生き方を選んだわけではなく、いつの間にか、やむを得ずそうなったというのが真相ですから。
                                         

                                        だからと言って、そこには主体性がないわけではありません。むしろ、「いつの間にか」「やむを得ず」そういった生き方をしてきたということの中にこそ、その人の譲れない精神の<型>が現れるものです。私はそういった人間の発することばを頼りに生きてきました。そこには、その人固有の<生>、つまり精神の<型>が現れているため、信頼できると思わせる強さがあるのです。
                                         

                                        エリック・ホッファーしかり、山本太郎しかり、そして3年前の参院選の時から応援している三宅洋平しかりです。今はそういった人間の生の声を聞けるからありがたいですね。以下の動画は、昨日6月14日に行われた、三宅洋平の参院選出馬を応援する山本太郎のスピーチと、三宅洋平の決意表明です。途中で入ってきて、怪しい意見を述べたオッサンに対する二人の対応も見事でした。この二人は本当にことばだけで戦っているんだとわかります。長いですが、私は画面の前を離れることができませんでした。


                                         

                                        | 人生 | 12:47 | comments(0) | - |
                                        こどもが親を好きになるとき
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                                          私の住んでいる大分市東部の坂ノ市地区では、現在「萬弘寺の市」が開催されています。1400年以上の歴史を誇る「市」で、今日が最終日だそうです。

                                           

                                           

                                          私が小学校4年生のころ、坂ノ市には父方の祖父母が住んでいました。祖父は脳血栓で倒れ記憶が定かではありませんでした。それでも父の名前だけは覚えていました。不思議ですね。

                                           

                                           

                                          笠智衆にそっくりの祖父に、父は自分を指さして「誰か分かるかい?」と問いかけます。祖父は、バカにするなといった表情で「あたりまえじゃ。ヨシユキじゃ」と応えます。父はそれを聞いてうれしそうでした。

                                           

                                           

                                          祖父の面倒は祖母が見ていました。祖母は本当にやさしい人でした。どこがどうやさしいとは言えないのですが、存在そのものがやさしいと言えばいいのでしょうか。いつもモンペ姿で、作業が終わると着物に着替えていました。昔は、こういうお年寄りがたくさんいました。

                                           

                                           

                                          当時私たちは上野ヶ丘に住んでいて、数カ月に一度、父はバイクの後ろに私をのせて祖父母のところへ帰省しました。私は父の背中につかまり、時々身を乗り出しては、顔で風を受けました。

                                           

                                          父は柔道五段でがっしりした体格の持ち主で、病気とは無縁の人でした。まさか56歳で癌で死ぬ運命だったとは、周囲の誰も想像すらしていなかったと思います。

                                           

                                          あれは「萬弘寺の市」が開催されていたちょうど今頃の季節でした。昼過ぎに実家に着き、祖母が作ってくれたまんじゅうを食べ、昼寝をしたり、とりとめのない話をしたりして時間を過ごしました。夕方近い時刻になり、外は少し暗くなりかけていました。父にうながされて帰り支度をはじめました。

                                           

                                           

                                          どういうわけか帰りの時刻が近付くと、祖父母との別れの寂しさが潮のように押し寄せてきて、私は自然に涙ぐんでしまいます。村の外れまで祖母は見送りに出てきて、いつまでもいつまでも手を振っていました。

                                           

                                           

                                          それから、父のバイクは「萬弘寺の市」へと向かいました。食べ物を売る出店や瀬戸物を並べる店、鎌や鍬をはじめとする農機具を並べたテント、地区の商店街の品物を売る棚、その間を多くの人が行き来していました。普段からは想像できないような活気があります。

                                           

                                           

                                          その中をバイクは通り抜けていきます。その出店が並ぶとっかかりにテントが張ってあって、裸電球の下、老夫婦が飴を売っていました。砕いた飴を透明のビニール袋に入れて並べています。まるでスローモーションで見るかのようにその老夫婦の様子が見えました。そのテントの前をバイクは通り過ぎて行きました。

                                           

                                           

                                           

                                          その老夫婦が、さっき別れてきたばかりの祖父母と重なって、私は心の中で父に叫びました。「止まって、あの飴を買って!」と。バイクはスピードを落とすこともなく駆け抜けました。老夫婦の店を見たのはほんの一瞬です。父は運転しているので見る余裕などなかったのだと思います。駅前の国道197号線に出て、大分へと向かいました。

                                           

                                           

                                          ところが王ノ瀬橋を過ぎた時、バイクはUターンしたのです。忘れ物でもしたのだろうかと思っていると、「萬弘寺の市」へと向かったのです。そしてバイクは先ほどの老夫婦のテントの前で止まりました。

                                           

                                           

                                           

                                          バイクから降り、父は何やら話しながら財布からお金を取り出し、飴を二袋買いました。「ほら、これ」と言って私に渡しました。家に着いたとき、飴は父の背中と私の間で温められて柔らかくなっていました。

                                           

                                           

                                           

                                          こどもは色々なきっかけで、親を憎むようになったり、生涯許せないという思いで心を閉ざしたりすることもあるでしょう。しかし、私は幸運だったのでしょうか。この瞬間から父が大好きになり、生涯愛し続けることができたのですから。

                                           

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