大晦日は、見たい番組がないので、ブログを書いた後、いつものようにお気に入りのCDを聴いて過ごしました。元旦は午前中に家の用事を済ませ、午後からシネマ5に向かいました。『A GHOST STORY』を観るためです。登場人物は二人だけ。セリフもほとんどありません。製作費は何と1千万円。しかし、印象的な音楽とともに、私には忘れられない映画となりました。
帰宅してからも、余韻が尾を引いていました。一つ一つの場面を思い返しながらこの映画のテーマについて誰かと話したい衝動に駆られました。映画のパンフレットには「これは、記憶の旅の物語−」「自分がいなくなった世界で 残された妻を見守る一人の男の切なくも美しい物語」とあります。
しかし、この映画がパンフレット通りであれば、言葉にならない奇妙な余韻がいつまでも尾を引くことはなかったでしょう。
しかし、余韻について考えているうちに、この映画はテーマについて考えさせるのではなく、観た人の内面にある変化を引き起こすことが目的だったのだと気づきました。恋愛ものでもなく、エンタテインメントでもない、見方によっては退屈極まりないストーリーかもしれません。
私はブログで時間と記憶こそがその人の人生そのものである、と書きました。コーポラティズムと新自由主義のイデオロギーが、本来独自性を持っているはずの時間を市場世界の絶対時間に服従させ、記憶をすら画一化しているのだと述べてきました。
こういった考えは、様々な建築を見て回るうちに、ある場所に積もっている記憶と時間の本質について、稲妻に打たれるように理解したことが元になっています。
時間とは直線的なベクトルを持ったものではなく、ある場所にミルフィーユのように積み重なっているのだ、それを発見するには考古学的な想像力を必要とする、と書きました。あるいは、時間は時計で測るものではなく、本来、私たちを取り巻いているものの変化として感得するしかないのだ、とも書きました。
この映画の中で、妻を見守るゴーストは、場所に執着します。二人のかけがえのない思い出が宿る場所を、数百年、いや宇宙的ともいえる時間が流れます。そこにゴーストは立ち続けます。そして、宇宙の輪廻=巡り来る時間と記憶に遭遇するのです。
人間の魂は身体の中に閉じ込められていて、他者の魂と一つになることができません。愛という、断崖絶壁に架けられた狭い橋を渡ることによってのみそれが可能になるのだと思います。
人間の魂は個人に帰属しているのではなく、小さな魂が寄り集まって、大きな綿菓子のようなものを創っているのではないか、魂とは本来そういうものだというのが私の考えです。
この映画は、ある場所に執着する魂(愛)を、時間と記憶の長い旅を通過させることで、浄化させ再生させることを試みた稀有な作品だと言えます。愛なんて詩人の夢に過ぎないと考えている幼稚な大人には勧めません。途中で居眠りするだけでしょうから。でも、もしあなたが・・・