前回のブログの続きです。短くない私の塾教師人生の中で再発見した単純な真実についてでした。再発見というのは、何となくわかっているつもりだったことにあらためて気づいたということです。
たとえていうならば、チェーホフが生涯をかけて人生は虚しいということに気づいたように、と言えるかもしれません。しかし、今時小学生でも人生は虚しいと言います。ロシアの世界的な文豪の認識と小学生のそれが同じはずはありません。わかるということには無限の段階があるのです。
正直に言いますが、私は塾教師をしながら、「わかる」ということが何を意味するのか、いまだにわかっていないのです。学校や塾で、教師は「わかりましたか」と言い、生徒は「はい、わかりました」と答えるのですが、何がどのレベルでわかったのかを検証することはできません。生徒がテストで高得点を取りさえすれば、分かっていることにして先に進むだけです。教室とはわからせたつもりの教師とわかったつもりの生徒のことばが飛びかっている空間に過ぎません。
あることが「わかる」には時間と空間、そして人格の変容が必要です。そして、人格は倫理と深く関係しています。いや、人格の変容をともなわない「わかる」は、言葉の自動機械を大量生産するだけです。「東大出ててもバカはバカ」というわけです。そのことについてはまた改めて書きます。
話を元に戻しましょう。私が気づいた真実とは、一言で言うと、今回のタイトル「こどもの人生は幼少期に出会う大人によって大きく左右される」というものです。それにあらためて気づいたのは、宮崎駿監督のインタビューがきっかけでした。それは同時に監督の創造の源泉を垣間見た瞬間でした。
そのインタビューは次のようなものでした。
「五歳の子供が両親と一緒にスタジオジブリに遊びに来たことがあった。」監督はしばらく遊んだ後、三人を車で駅まで送っていきます。当時の監督の車は屋根が開くオープンカーでした。「この子は屋根を開けたらきっと喜ぶだろう」と考えます。ところが、屋根を開けようとしたちょうどその瞬間、小雨が降り始めます。「次の機会にしよう」と彼は判断して、屋根を閉じたまま駅まで車を運転して行ったのです。
しかし、少し経って後悔の念がわき始めたと言います。「子供にとってその一日はその一日。子供は今、ここを生きている。二度と同じ日は戻って来ないのだ」と彼は気づきます。「子供は急速に成長して、これまでの自分を脱皮していってしまう。たとえその子が一年後にまた来て、今度は屋根を開けて運転してあげたとしても、同じことにはならない。つまり、その貴重な瞬間は、不覚にも永遠に失われてしまったのです。」と語ります。
宮崎監督は、子供たちが今ここを生きていることの価値を深く理解しています。子供は、過去や未来といった明確な観念を持っていない。子供の幸せは「今、現在」の中にあることを知っているのです。それは彼がアニメを描くことに没頭しているときの幸福感と同じだからです。
彼は子供の心を理解し尽くしています。それは凡百の教師や心理学者の及ぶところではありません。彼の<内なる子供>が傑作を生み出したのです。もしあなたの子供が、人生の初期に宮崎監督と同じような大人に出会っていれば、かなりの確率で創造的な人生を送るようになるだろうと思います。
それに対して、子供が一歳になるかならない頃から、「公文」に通わせ、バイオリンとスイミングを習わせ、効率的な時間の使い方を教え、まるでビジネス手帳にぎっしり書き込まれているスケジュールをこなすような生き方を強制する「佐藤ママ」のような大人に出会えば、子供がどんな人生を送るようになるのか、私はリアルに想像できます。そんな<他人の人生を生きる子供>が大量生産されれば、社会がどのように変わっていくか、それを克明に記述することが今回のテーマなのです。
その前にいくつか問いを立てておきます。私の考えは以下の問いをめぐって展開するつもりです。箇条書きにすれば以下の通りですが、すべての問いは関連しています。
1:宮崎監督と「佐藤ママ」の子供観はどちらが普遍的か?
2:どちらの子供観が人々を幸せにするか?
3:子供の実存に沿った教育とはどのようなものか?
4:子供を自殺に追いやる匿名のシステムとしての学校に未来はあるか?
続きはまた次回。今回も読んで下さってありがとうございます。