すぐれた映画や文学は人間の命を支えます。ここでは、動物としての命ではなく言葉を持った人間の命すなわち精神のことを言っています。
映画『JOKER』は、ご存知のように、バットマンの敵役・ホアキン・フェニックスが演じるジョーカーの人生にフォーカスした完全オリジナル・ストーリーです。狂気で人々を恐怖に陥れる 「ジョーカー」 そのものではなく、孤独な男がジョーカーになるまでの内面のリアルなドラマを描いています。日本では R15+ に指定されており、15歳未満の入場・鑑賞が禁止されています。
この映画はそれだけのインパクトを持っています。そのインパクトはどこから来るのでしょうか。もちろん音楽や映像の持つ力は大きいのです。しかし、すぐれた映画や文学には、揺らぎがあります。全てを語ることなどできないのですから当然です。
この映画は隠喩によって、鑑賞者が自覚していないものを引き出し、語りつくせないものを投入できる余白を準備しています。隠喩は、文字通り隠すことですべてを語ろうとする試みであり、余白を生みだす手法です。
ミロのヴィーナスが美しいのは、両腕がないからです。喪われた部分に自分の想像できる限りの最高の美を注入することができます。つまり、自分の経験を積み重ねることによって、どんどん美しいものが見えてくるのです。これこそが、芸術の存在理由です。
想像によって両腕が復元されたヴィーナス像。
この間の事情を、主演のホアキン・フェニック自身に語ってもらいましょう。
「創造には流動性がなければならない。ただ数をこなすためだけのものじゃないんだ。創作するということは、呼吸をしているということだから」
「映画って往々にして、答えを簡単に出しすぎる時がある。『こんな体験をしたからこのキャラクターはこんな人間になった』みたいなね。でも生きるってことはそんなに浅くて簡単な事じゃないし、人間の心理ってもっともっと複雑だ。何でそんなことをするのか? 人の言動の裏側は理解できないことの方が多いし、無意識に行動に駆られる事だってある。この映画は、表面的な答えは出していない。簡単な答えが出るものなんて、この世の中にないんだからね」
それに対して、直喩は余白をなくすことで想像力を制限します。分わかりやすいのですが、心の奥深くにまで届きません。感動は画一的でうわべだけのものになり、簡単に特定の方向へと誘導されてしまいます。例えば、百田尚樹原作の映画『永遠の0(ゼロ)』はその典型です。
言うまでもなく、すぐれた映画には強烈な力があります。それは詩のもつ力です。人生を一変させるような力です。これから高校の国語で主流になる「論理国語」にはそういった力はありません。ビジネス文書を正確に読み取る力は、会社の役に立っても魂を養うことはできません。
ブログで何度も言及してきましたが、「論理的思考力」や「速読」は人間の魂の問題を数値化し、商品化しているだけです。商品化にはデータやエビデンスは欠かせませんからね。
プロパガンダにころりと騙されるのも、この種の「教育」によって、あまりに人間が薄っぺらになったがためです。精神の奥行きがなくなり、ゆで卵のようにツルんとした陰翳のない表情はこうして生まれたのです。
『JOKER』のような優れた映画が道徳的に危険視され、隠喩の持つ力よりも権力者を信じる人間たちが多い世の中で、映画や文学は人間の命=精神を支えていると言ったところで、「豚に真珠」でしょうね。