今日はいよいよ『鴨川食堂』の最終回です。前回はジーンとくる場面がたくさんありました。看板娘のこいし(忽那汐里)と父親(萩原健一)がおにぎりを食べながら話す場面では、思わず大粒の涙を流してしまいました。年のせいか、このドラマを見ると一回は泣いてしまいます。最近は土曜日の11:45分からの再放送も見ています。妻には「あなた、泣くために見てるの?」とからかわれます。
忽那汐里演じるこいしと父親役の萩原健一のやり取りが絶妙で、このドラマのはまり役です。この役が二人を生かしています。よくよく考えてみると、こいし役の忽那汐里が好きなのか、忽那汐里演じるこいしが好きなのかわからなくなりました。たぶん後者なのでしょう。
以前にも書きましたが、『鴨川食堂』はメタファー(比喩)なのです。もちろん現代社会に対する批判も含まれています。上から目線の偉そうな批判ではなく、ドラマのいくつかの場面を見る者の心に残し、それと気づかぬうちに見る者の感情を豊かにし、もう一つの世界を垣間見せるといった方法によって。
「鴨川食堂」は、
1:不特定多数の人間を相手にしていない。
2:従って、膨大な資金を投入した広告宣伝の力に頼ったりしない。ある意味で閉ざされた世界で生きることが、幸せにつながる(感情を劣化させない)とわかっている。
3:「思い出の食、探します」という謎めいた一行広告だけをたよりに、客はこの食堂を探すことになる。思いが強ければ必ずたどり着けるはずだと、父と娘は信じている。そのことで、相手を単なる消費者の一人だとは考えていないことを間接的に伝えている。
4:そうやってたどり着いた客の話にじっくりと耳を傾け、決して威張らず、卑屈にもならず、あくまで一人の人間として対等に接する。
5:「思い出」と「食」という人間にとって最も根源的なものを通じて、人はお互いに理解しあえると信じている。
6:「お代は、あなた様の気持ちに見合った額をお振り込みください」というセリフは、物の価値をお金で測ることを当然だと考えている消費者に、「気持ち」というお金では測れないものをつけ加えることによって、別の価値観があることを伝えようとしている。つまり、自分たちはビジネスマンではない、と優しく宣言している、等々。
とまあ、こんな小理屈は抜きにして、今夜の最終回を見ることにしましょう。このドラマが終われば、もう忽那汐里演じるこいしには会えなくなります。こいしがこいし、なんちゃって。それにしても寂しくなるなあ・・・。
※ 最終回を見終わりましたが、やっぱり前回がクライマックスでした。最終回はこのドラマに区切りをつけるためのものでイマイチでしたね。でも、こいしが幸せになれそうで、めでたしめでたしです。ほな、またのお越しをお待ちしております。