ひねくれていると思われるかもしれませんが、私はスポーツから「勇気」や「希望」をもらったことはありません。ただ勝利の瞬間、喜びを共にしたり、負ければ、悔しさや挫折感を味わったりするだけです。
でも、純粋にスポーツは好きですね。ただこの「純粋に」という条件が私にはネックです。なぜなら、私たちが目にするのは、商業ジャーナリズムに毒され、企業の宣伝部隊と化したスポーツがほとんどだからです。まるで企業の資金的援助がなければ、スポーツは成り立たないと言わんばかりです。
バックに企業がついている以上、企業側は当然見返りを要求します。舞台裏の打算や権謀術数のえげつなさを隠蔽するために、自社の商品にクリーンで社会性に富んだイメージを付加する必要が出てきます。それがスポーツとは本来関係のない「勇気」や「希望」というわけです。
まるで「勇気」や「希望」の在庫一掃大バーゲンです。財布のひもを固く締めていた人も、ここぞとばかりに殺到します。普段の生活に必要でないものも、安いからという理由だけで買わされてしまいます。
オリンピックともなれば、それに国家の思惑まで加わります。元総理にして東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会会長の森喜朗氏は今年7月に行われたリオデジャネイロの壮行会で日本人選手が国歌を斉唱しなかったことを「国歌を歌えないような選手は日本の代表ではない」と批判しました。
スポーツから「勇気」や「希望」をもらえると信じている人は、その実体を考えたことがあるのでしょうか。選手が頑張っているのを見て、苦しいのは自分だけじゃない、他の人も職場で逃げ出したくなるのをがまんして、家族のために頑張っている。精神を病むのは自分が弱いからだ、忍耐力がないからだ、ここで頑張るのが本当の勇気だ、などと自分に言い聞かせているのだとしたら、二重の意味で企業に「貢献」していることになります。
企業はスポーツを利用して自社のイメージを高め、株価を上げ、劣悪な条件で働く労働者に「勇気」と「希望」を供給することで、これまで通り自社に縛りつけておくことができるのですから。それは勇気ではありません。ただ飼いならされているだけです。飼いならされている状況と戦うことこそが勇気です。
なぜこんなことを言うかというと、別に私が変わり者だからではありません。それどころかとてもまともだと思っています。ひょっとすると、まともすぎるのかも知れません、なんちゃって。
人間はとても弱い生き物です。もともと自然状態では一人で生きることができない存在です。だから<社会>を作りました。社会を作らなければ生きていけないのです。つまり<社会>は弱者としての人間が生き延びるための必要から生まれたのですね。弱者に気を配るのは、道徳からではなく、そうしないと社会がもたないからです。こんな不平等は許せない、ではなくて、こんな不平等を許していると社会が持たないからです。
エリック・ホッファーは自伝(作品社)の中で次のように述べています。「自己欺瞞なくして希望はないが、勇気は理性的で、あるがままにものを見る。希望は損なわれやすいが、勇気の寿命は長い。希望に胸を膨らませて困難なことにとりかかるのはたやすいが、それをやりとげるには勇気がいる。絶望的な状況を勇気によって克服するとき、人間は最高の存在になるのである」と。
希望が損なわれやすいのは、ありのままの自分と向き合っていないからです。だから、簡単に希望を持つこともできるし、厳しい現実に直面して簡単に希望を捨てることもできるのです。勇気の寿命が長いのは、孤独で長い思索の過程を経て作り上げた人格に根を張っているからです。その意味で勇気は人格そのものといえます。
エリック・ホッファーもガンジーもネルソン・マンデラもキング牧師も、そして金メダルを川に投げ捨てたモハメド・アリも勇気の実体を分かっていました。http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=179
それは自らの生命を危険にさらして、長い闘いの日々の中で作り上げられることを。そして、無数の「歌われざる英雄」によって支えられていることを。