今日は午後1時前に大分地方裁判所に行きました。原告として、第2回伊方原発運転差し止め裁判口頭弁論に出廷するためです。ブログリンクしている「疾風自由日記」のS氏(上高の同級生)も原告として来ていました。とまれ、私のような、のほほんと生きてきた人間が裁判の原告になろうと決心したのですから、相当深刻な危機が迫っているということです。
私は塾教師として、出来れば世間の片隅で、子供たちと色々なことを学んだり、調べたり、励まし合ったりする平凡な日々を送りたかったのです。この国の行く末について深刻に思い煩うこともなく、豊かな自然に囲まれた笑い声の響く場所で、自分の<生>を全うすることができれば、他には何もいらないと思ってきました。
原発事故は人災です。地震や火山が多い日本に原発を作ること自体が、私たちの生活の中に破局をインプットすることになります。つまり原発は存在そのものが災厄なのです。それを正当化する経済学者や政治家のいかなる論理も屁理屈に過ぎません。
『死の舞踏を舞っているのは誰か』
http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=38
原発事故はこれまでの暮らしを一変させます。ある日突然、けたたましいサイレンの音が近づいてきて、白い防護服に身を固めた人間たちが避難命令を下します。病気のお年寄りや、子供たちは何が起こったのかもわからず、ただ右往左往するだけです。そして、二度と家にも故郷にも戻れません。学校に通うこともできなくなります。家族は引き裂かれ、地域は崩壊するのです。これは福島で現実に起こったことです。
にもかかわらず、安倍政権は何事もなかったように原発を再稼働させています。彼らは政治家失格どころか人間失格です。そういう人間たちを前にして、手をこまねいて何もしないのでは、将来の世代に対して申し開きができません。
伊方原発が暴走すれば、大分や愛媛はもちろん、放射能は瀬戸内海を汚染して関西にまで到達します。この国は終わるのです。なにも大げさなことを言っているのではありません。見ようとすれば誰の眼にも見える明白な事実があるのです。私はそれを書いているだけです。
世の中には、権力と財力をほしいままにし、思い通りに会社や財界や国を動かしているエライさんがいます。しかし、今一度原発事故が起これば、エライさんはエライどころか、真っ当で単純な真実に一度も向き合うことのなかった倫理的に退廃した人間たち、自己利益の最大化にしか関心がなかったエゴイストたち、要するに想像力も知性も感情も持たない最低の人間たちだとして糾弾されるでしょう。
原発は完全に過去の技術です。事故が起こっても原因を究明することができないのですから、未来のない悪魔の技術です。そもそも、フィードバックができない技術は技術ですらありません。核燃料サイクルが完全に破綻した今、原発を続ける合理的な理由はなくなりました。
福井県の高速増殖炉「もんじゅ」も、技術的に廃炉にするめどは全く立っていません。もんじゅは普通の原発とは異なり、冷却に水ではなく金属ナトリウムを溶かしたものを使っています。ナトリウムは空気に触れると燃え出し、水に触れると爆発します。さらに、事故で鉄も溶かしてしまうことがわかりました。
政府は廃炉に向けた研究拠点を福井県内に作るとしていますが、廃炉にする技術がないため、研究を続けざるを得ないのが実態です。もちろん廃炉には巨額の税金が投入される見込みですが、政府は費用の見積もりすら公表していません。敗戦が濃厚になった後も、特攻を命じ、若者を無駄死にさせた勢力がそのまま生き延びているのです。
未来塾通信51『二つの島をつなぐ』
http://www.segmirai.jp/essay_library/essay051.html
ドイツや台湾は、福島の事故から学び、原発から撤退することを決めました。世界は脱原発へと向かっています。大分地裁の裁判官が、見ようとすれば誰の眼にも見える明白な事実について判断し、歴史に残る判決を出してくれるよう、これからも裁判所通いを続けるつもりです。