突然ですが『刑事コロンボ』が好きでした。プロという言葉から連想するのが、コロンボ警部でしたね。トレードマークのよれよれのレインコート、くしゃくしゃの髪、その辺で拾ってきたような車に何のとりえもない愛犬を乗せ、安物の葉巻をくわえて殺害現場にやってきます。スキだらけの、さえない刑事を絵にかいたようないでたちです。ところが、ドラマが進むにつれて、この印象が180度ひっくりかえります。犯罪者の心理を洞察する力においてコロンボの右に出るものはない、と思い知らされるのです。
このドラマは、それまでの刑事物・推理小説とは違って、視聴者や読者に最初に殺害シーンを見せ、犯人を教えます。知らないのはコロンボだけです。その結果、犯人が誰かではなく、コロンボが犯人を割り出すプロセスそのものがドラマの中心になります。そして犯人にぐうの音も出ないほどの証拠を突きつけて降参させる最終シーンにもっていく仕掛けになっているのです。
もう一つこのドラマを面白くしている特徴があります。犯人が例外なく大富豪や有名人、歌手やスポーツ選手、政治家や大学教授といったエスタブリッシュメントだということです。例えば、最終シーンで、高名な犯罪心理学者の犯人が「ところでコロンボ君、いつの時点で私が犯人だと気づいたのかね?」と訊くところがあります。
「はい。最初にあなたを見た時からです。あなたが犯人だと分かっていました。ただそれを証明するのに手間取りましてねえ。途中で万事休すかと思いましたよ。でも犯人が分かっているのにあきらめるわけにはいかない。それですべてが腑に落ちるある事実に気付いたというわけです。」とコロンボ警部。このシーンにしびれました。今のマスメディアや野党の政治家に聞かせてやりたい。
コロンボ警部は銃をもっていません。撃ち方も知りません。射撃の練習義務が課されていますが、いろいろ言い訳をして試射場にいきません。自分の仕事が何かよく分かっているのですね。人を殺すことではないと。これぞプロの中のプロです。
何だか前ふりが長くなってしまいました。いや、大したことを言いたいわけではありません。正直どうでもいいことを書くのに、嫌気がさしているのです。そう、例の「アルマーニ」問題です。
泰明小学校の和田利次校長(62)は「アルマーニ」の標準服を独断で決めたことをめぐり、「銀座にある学校だからこそ進めてきたが、丁寧な説明をしながら進めるべきだった」と述べています。でも、新標準服の採用は「ご理解いただき、購入者側の判断で購入してほしい」「(採用する)手続きにおいて反省はあるが、非常識な判断とは思っていない。新一年生からこの服でやっていく。変える考えはない」と述べたそうです。
自分の独断で決めておいて、その責任をとるのかと思えば、「購入者側の判断で購入してほしい」って、責任の丸投げです。反省してないですね。しかも自分の判断は非常識ではないとおっしゃっています。結局「アルマーニの制服」が実質的には強制されるわけです。なんかこの手の釈明になっていない釈明、結局は自分の判断を押し通す手法はうんざりするほど見てきた気がします。
今度の件で私が最も違和感を覚えたのは、公立小学校がなんで「アルマーニ」なんだという「正論」に対してでした。
和田校長は「高額のため購入が難しい家庭がありうることを考えなかったのか。」と問われて「本校の保護者なら出せるのではないかと思った。泰明小でなければこういう話は進めない。価格が高いという苦情があることを聞いており、個別に相談に応じていきたい。」と答えています。気分はほとんど「私立」の校長に、何で「公立」が、しかも「アルマーニ」なの?と言ったところで、現状を知らない理想論だと言われるだけです。
泰明小学校は銀座にある特認校で越境入学者が多い。保護者も経済力のある人がほとんどだ。「アルマーニ」の提案は受け入れられるだろう、と和田校長は踏んだのです。つまりたてまえ上は「公立」でも、実質は「私立」である。たてまえより現実に即した決断をしたつもりだ、ということでしょう。結局この問題は「公立」か「私立」か、ではなく、保護者の経済力が決め手になるのです。保護者は校長の判断を受け入れるでしょうね。
それにしても和田校長の発想は軽すぎます。以下にその例を挙げてみます。これでも名門小学校の校長が務まるといういい例です。
例その1。
「アルマーニ制服」の導入を「服育」と称して重要な教育の一貫と位置付けている点。
お兄ちゃんやお姉ちゃんのお下がりをつなぎ合わせ、大胆なデザインの服に仕立て上げることは「服育」にならないのか。ゴミ捨て場に捨てられている新品同様の衣類を再生することは資源の節約にもなるし、「服育」と言うなら、これこそが本当の「服育」ではないのか。成長ざかりの子供に「アルマーニ」を着せることのどこが「服育」か、と反論されることは考えなかったのでしょうね。
例その2。
「銀座の街のブランドと泰明ブランドが合わさった時に銀座にある学校らしさも生まれてくる。視覚から受ける刺激による「ビジュアルアイデンティティーの育成はこれからの人材を育てることに不可欠」であり、それがスクールアイデンティティーの育成にもつながる」と説明していること。
私はこの説明を聞いてひっくり返りました。どこがって?よく見て下さい。「ビジュアルアイデンティティーの育成はこれからの人材を育てることに不可欠」だと言っているんですよ。ビジュアルアイデンティティーなどとわけのわからない横文字を使っていますが、簡単に言うと「あっ、アルマーニの制服を着ている!泰明小学校の生徒だわ。」と認知されることをいいます。これのどこが「これからの人材を育てることに不可欠」なのでしょう。
アルマーニの制服を着ているわが子と銀座でショッピングなんてことを夢見ているお母さんお父さん!「アルマーニの制服を着ている子供の家庭はリッチにちがいない。誘拐すればたんまり身代金がとれるかも」と考える人間もいるかもしれませんよ。それに「ふん、公立のくせに私立のまねして、無理してアルマーニなんて、いかにも貧乏人の考えそうなことだわ」とバカにしながら嫉妬する親御さんの存在も無視できませんよ。おお、こわっ!
なりより、親がそういうことを望めば、子供は「ブランドの服を着ることで人より偉くなった気がする。人よりいいものを着るために、これからも一生懸命勉強しなくっちゃ」と考えるかもしれませんね。それが目的ですって?人を外見で判断したり、見下したりする子供に育てることがですか?
最後に、この校長が気の毒だと思う点。
今や「教育=どの学校や大学に入れるかということ」は完全に「商品」だと見なされるようになりました。「商品」である以上、投入した対価に見合う「結果」が出なければなりません。投下資本はなるべく早く回収する必要があるのです。
泰明小学校の校長は老舗の小学校が消費社会の中で埋没することを恐れたのでしょう。中学受験が近づけば、教室の半分がガラ空きになります。受験対策のために生徒が欠席するからです。
これは「公立」小学校の教育が「私立」に従属していることを思い知らされる瞬間です。かといって、欠席を認めないというわけにもいきません。和田校長も心中穏やかではなかったはずです。そこで思い付いたのが「アルマーニ」の導入だったというわけです。あちゃ〜。
教育がお金で売買できる「商品」である以上、それを売るためには他の商品と差異化・差別化しなければなりません。なぜなら消費者はその差異に付加価値を認め対価を払うからです。
和田校長はこういった市場の無形の圧力に立ち向かうべく、保護者から認められたいという思いと、ここらで尖ってみようという思いを胸に「決起」したのかもしれません。しかし、そのための方法がいかにも稚拙だったのです。これは私の意見なので大っぴらには言えませんが、こういう人間は「公立」小学校の校長をするべきではありません。
いい歳の大人が、いや教育者が、外形的なものでしか自己アピールできないとは情けないことです。刑事コロンボの爪の垢でも煎じて飲んでみてはいかがでしょうか。