私は多数派に迎合したり、権力に擦り寄ったりすることが何よりも嫌いです。ある人の言説が多数派を恃んでいたり、権力に秋波を送っているのが分かると、生理的に敬遠したくなります。若者ならともかく、それなりに社会経験を積んできた大の大人がデマゴーグにころりと騙されるのを目にすると、もはや私の出る幕はないのだと痛感させられます。
やっかいなのは、政治的な発言を避けることによって、現状を肯定し、権力を延命させている人たちです。それは、生活の中で分泌される無意識によって形作られた態度です。日本にはこういった態度を、さも知的で良識的であるかのように考えている人が多い。
私は彼らのことを消極的ネトウヨ層と呼んでいます。少し考えればわかることですが、「政治的な発言を避ける」ことは、「いま権力を握っている人間たちに決定権を委任し、口出しはしません。」という責任放棄と隷従を意味します。
思えば、こういった態度を教養人のマナーだと勘違いしている人に、何人出会ってきたことでしょうか。その度に私は思ったものです。人格のない1万人にちやほやされるよりも、一人で考え一人で行動する人間から信頼されるような生き方をしようと。
以来、消極的ネトウヨ層の言説に、首まで浸かりながら、私は自分の心に届く言葉を探し続けてきました。なぜなら、自分の果たしている政治的な役回りに無自覚な人間たちの言葉によって精神が害され、人格が空洞化することを知っているからです。
そんな日々の中で、久しぶりに素直に心に入ってくる言葉に出会いました。それは、5日、82歳で亡くなった高畑勲監督の短い言葉です。高畑監督の年賀状を映像研究家の叶精二氏がツイッター上で公開したものです。
高畑勲監督の『火垂るの墓』
「皆さまがお健やかに
お暮らしなされますようお祈りします
公平で、自由で、仲良く
平穏な生活ができる国
海外の戦争に介入せず
国のどこにも原発と外国の部隊がいない
賢明強靭な外交で平和を維持する国
サウイフ国デ ワタシハ死ニタイ です」
ブログでこれまで13回にわたって宮崎駿監督を取り上げました。その監督が、インタビューで「宮崎さんは夢を見るんですか?」という問いに、「見ますよ。でもぼくの夢はひとつしかない、いつも登場人物は高畑さんです」と答えています。
以下、高畑勲監督の言葉を取り上げます。
「『火垂るの墓』は反戦映画と評されますが、反戦映画が戦争を起こさないため、止めるためのものであるなら、あの作品はそうした役には立たないのではないか」
「攻め込まれてひどい目に遭った経験をいくら伝えても、これからの戦争を止める力にはなりにくいのではないか。なぜか。為政者が次なる戦争を始める時は『そういう目に遭わないために戦争をするのだ』と言うに決まっているからです。自衛のための戦争だ、と。惨禍を繰り返したくないという切実な思いを利用し、感情に訴えかけてくる」
「『火垂るの墓』のようなものが戦争を食い止めることはできないだろう。それは、ずっと思っています。戦争というのはどんな形で始まるのか。情に訴えて涙を流させれば、何かの役にたつか。感情というのはすぐに、あっと言うまに変わってしまう危険性のあるもの。心とか情というのは、人間にとってものすごく大事なものではあるけれども、しかし、平気で変わってしまう。何が支えてくれるかというと、やはり『理性』だと思うんです。戦争がどうやって起こっていくのかについて学ぶことが、結局、それを止めるための大きな力になる」
「政府が戦争のできる国にしようというときに“ズルズル体質”があったら、ズルズルといっちゃう。戦争のできる国になったとたんに、戦争をしないでいいのに、つい、しちゃったりするんです」
「日本は島国で、みんな仲良くやっていきたい。『空気を読み』ながら。そういう人間たちはですね、国が戦争に向かい始めたら、『もう勝ってもらうしかないじゃないか!』となるんです。わかりますか? 負けちゃったら大変ですよ。敗戦国としてひどい目にあう。だから『前は勝てっこないなんて言っていたけれど、もう勝ってもらうしかない』となるんです」
「『戦争をしたとしても、あのような失敗はしない。われわれはもっと賢くやる。70年前とは時代が違う』とも言うでしょう。本当でしょうか。私たちは戦争中の人と比べて進歩したでしょうか。3・11で安全神話が崩れた後の原発をめぐる為政者の対応をみても、そうは思えません。成り行きでずるずるいくだけで、人々が仕方がないと諦めるところへいつの間にかもっていく。あの戦争の負け方と同じです」
「日本がずっとやってきた“ズルズル体質”や、責任を取らせない、責任が明確にならないままやっていくような体質が、そのまま続いていくに決まっている。そうしたら、歯止めがかからないのです。だから絶対的な歯止めが必要。それが9条です」
「『普通の国』なんかになる必要はない。ユニークな国であり続けるべきです。 戦争ができる国になったら、必ず戦争をする国になってしまう。閣議決定で集団的自衛権の行使を認めることによって9条は突如、突破された。私たちはかつてない驚くべき危機に直面しているのではないでしょうか。あの戦争を知っている人なら分かる。戦争が始まる前、つまり、いまが大事です。始めてしまえば、私たちは流されてしまう。だから小さな歯止めではなく、絶対的な歯止めが必要なのです。それが9条だった」
「なんとかしなきゃと言いながら、無力感が強いですね。安倍政権には(自衛隊南スーダン派遣の)日誌のことも、森友学園も、すごい不祥事が続いていて、でも、なんでそんなことになっているのかを考えたら、えらいことでしょう? 『政権を維持するため』ですよね、簡単に言えば。忖度であれ、なんであれ、どういうメカニズムかは知りません。もちろん、それは改善する必要があるんでしょうが、しかしどっちにしても、それを支えようという力があれだけ働いているのが露骨にわかるにもかかわらず、これで崩れないというのは、もうちょっと考えられない。本当に信じられない」
宮崎監督は高畑監督が亡くなった日、「まだその気持ちにはなれない」と、コメントは出していません。当然ですね。ふたりの巨匠を支えてきたスタジオジブリの鈴木敏夫プロデューサーは「宮さんはじつはただひとりの観客を意識して、映画を作っている。宮崎駿がいちばん作品を見せたいのは高畑勲」と断言しました。
その高畑勲監督の「自由で公平で平和な国で死にたい」という痛切な思いは、これからも無視され続けるのでしょうか。