あなたのコメントに反論するのは気が重いですね。私の反論を読んでもあなたはまったく影響を受けないでしょうから。その点では「佐藤ママ」と同じです。影響を受けるためには多少の知性を必要とするのです。
そもそも、あなたや「佐藤ママ」がどのような子育てをしようと、私にはどうでもいいことです。私は塾の教師をしていますが、「佐藤ママ」が4人の子供を東大医学部に合格させたと聞いても驚きません。受験というコップの中の世界では、情報とお金と子供に多少の素質(記憶力の良さ、計算力、高速事務処理能力など)さえあれば可能だからです。カルト化している塾・予備校を、カルト化した母親がうまく利用した結果に過ぎません。
しかし、自分の子供がどこの大学に合格したかなどということは本来プライベートなことではないでしょうか。本を出版したり(『受験は母親が9割』など)、講演をして回ったりするのは、教養のある大人のできることではありません。下品な行いです。当然、講演を聞きに行く母親たちも下品です。
彼女たちは、社会の空気を読んで、子供の市場価値と自分の存在価値を高めるために行動しているだけです。もちろん背後には、世間に承認されたいという欲求があります。
「母親というものは、たとえ世の中がどんなに腐りきっていても、そこに適応するように子供を育てるものだ」とはゲーテの言葉です。昔なら恥ずかしくて言えなかったようなことも、今は露骨に勝ち組・負け組といった二分法を使って「本音」を歯切れよく、堂々と開陳しています。
つまり、公共性という概念が欠落しているのです。公共性とは、簡単に言うと「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」(宮沢賢治)と考えることです。彼女たちが公教育をバカにするのももっともです。コメント主さんもその一人です。
私はネットで「佐藤ママ」が出演していたテレビの録画を観ました。彼女の話し方、目つき、笑い方、反論の仕方を見て思うところがありますが、それに言及するのはやめにします。その番組の中で「佐藤ママ」がしきりに言っていたセリフがあります。「そんなことしている暇はないのよ」「効率が悪すぎるのよ」「無駄でしょ、そんな時間は」「18年間なんて、あっという間に過ぎるのよ」等々です。
そのために18歳までは恋愛禁止、テレビも禁止、意味のない学校の宿題は親が代わりにやる、志望理由書も親が書いたものを写させる、とのことです。要するに子育てが東大医学部に合格するためという一点に絞られているのです。そのために最も必要なことは、効率的な時間の使い方だというわけです。
私は時間について思索を巡らせてきました。そして時間と記憶こそがその人そのものだと書いてきました。コメント主さんや「佐藤ママ」の時間感覚は、直線的な時間、消費される時間に集中しています。スケジュールでびっしり埋まっているビジネス手帳に象徴されるような時間です。
しかし、あらかじめ流れる方向が直線的に決まっている時間などというものは存在しません。あるところでは滞留し、逆流し、循環しています。時間はわたしたちの感情や価値観によって、短くもなれば長くもなるのです。直線的な時間は、人間を既存の秩序や序列に深く組み込みます。
では誰が考え方や感じ方を支配するイデオロギーとしての時間の概念をわたしたちに植え付けたのでしょうか。この点を解き明かさなければ、親や教育産業が子供たちをドッグレースに駆り立てる社会はなくなりません。
まず大きな枠組みから考えてみましょう。日本はもはや国民国家ではありません。国民国家とは国民を主権者とする国家体制のことです。主権とは国民の生命、財産、暮らしを守るための独立国家の権利です。それに対して、大企業と政府が一体になった国家運営体制をコーポラティズムといいます。コーポラティズムは、必然的に、国家の枠を超えた富の収奪システムとなります。
原発や武器を海外に売りさばく人間たちは この収奪システムの先兵なのです。この体制下では政府と癒着した一部の大企業、なかでもその株主と経営者に富が集中して行きます。2018年の国際NGO「オックスファム」の調査によると、最も富裕な1%の人たちが世界の富の82%を所有していると言われています。
この事態を積極的に支持したり、やむを得ないと考えたりするイデオロギーを新自由主義と言います。新自由主義こそが時間の概念を変えたのです。
しかし、国民が反発すればこの体制はうまく機能しません。そこでうまく支配するために教育やマスメディアを使って個人や組織などに心理戦を仕掛けるのです。情報を計画的に活用・操作します。
「佐藤ママ」やコメント主さんは、この心理戦にまんまと引っ掛かっているだけです。いや、今や国民の大部分が心理戦に敗北して、「こうしてはいられない」と自らを叱咤激励しながらドッグレースに参加しています。精神を病む人が多くなり、子供を虐待する親が後を絶たないのも当然です。いったいどうすればいいのでしょうか。
新自由主義によって植え付けられた直線的な時間概念から部分的であれ解放される必要があります。もともと日本の文化には、「循環する時間」をテーマにしているものが多いのです。能や歌舞伎の曲目に見られるように、ほとんどが「転生」の物語です。「井筒」も「道明寺」も「松風」もしかりです。
四季の巡りとともにある循環する時間は、悠久の時の流れに身をゆだねていれば、この瞬間がまた巡り来ることを信じさせます。だから私たちは何が起こってもそれを受け入れてきたのです。人間は生まれ変わる、再生するという世界観は人間の魂を根底から癒す力を持っていました。
しかし、福島の原発事故がすべてを変えてしまいました。天変地異に限らず、何が起こってもそれを受け入れ、じっと耐え忍び、なかったことにする日本人の美点が、逆にこの国を滅びに向かわせることとなったのです。
多くの国民は現実を直視せず、学校やマスメディアがたれ流す情報をうのみにし、私たちの社会があたかも「生きたいように生きる」ことができる自由な社会であるかのように錯覚します。
救いは錯覚からは絶対にやってきません。目を開いてよく見れば、私たちの住んでいるところは「ぞぞ〜っとするほどの街(TOWN)」なのに、そこに住む新自由主義の落とし子である住人達は、宇宙に行くことを夢見ているのです。新自由主義がもたらした電脳空間の中で、私たちの脳=意識が地球規模に拡大した結果です。
さて以下では、これまで述べたことを頭において、コメント主さんの批判に答えてみましょう。
>村上春樹氏や宮崎駿氏と「佐藤ママ」を比べる唐突さが理解できません。「佐藤ママ」を批判するためのこじつけではないでしょうか。
こじつけではありません。村上春樹氏や宮崎駿氏の作品のテーマは、傷つけられた無意識であり、転生であり再生なのです。それを日本文化の基底部を流れる循環する時間をヒントにして表現したものです。直線的な時間から離脱する人間が増えれば増えるほど、新自由主義的な世界に多くの穴が空き、その世界を維持することが困難になるとわかっている最も洞察力に富んだ同時代の作家なのです。
村上氏自身の言葉で語ってもらいましょう。
「僕が今、一番恐ろしいと思うのは特定の主義主張による『精神的な囲い込み』のようなものです。多くの人は枠組みが必要で、それがなくなってしまうと耐えられない。オウム真理教は極端な例だけど、いろんな檻というか囲い込みがあって、そこに入ってしまうと下手すると抜けられなくなる」
「物語というのは、そういう『精神的な囲い込み』に対抗するものでなくてはいけない。目に見えることじゃないから難しいけど、いい物語は人の心を深く広くする。深く広い心というのは狭いところには入りたがらないものなんです」 |
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(毎日新聞インタビュー、2008年5月12日より)
>あなた様が教える塾の隣に「佐藤ママ」の塾ができたとします。どちらが繁盛するか火を見るよりも明らかではないでしょうか。
これは、あなたのおっしゃる通りです。「佐藤ママ」の塾が繁盛するに決まっています。塾商売とはそういうものです。ただこの点についても村上氏に語ってもらいましょう。
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以下は『1Q84』執筆の動機として地下鉄サリン事件について語ったものです。
「ごく普通の、犯罪者性人格でもない人間がいろんな流れのままに重い罪を犯し、気がついたときにはいつ命が奪われるかわからない死刑囚になっていた —— そんな月の裏側に一人残されていたような恐怖」の意味を自分のことのように想像しながら何年も考え続けたことが出発点となった。そして「原理主義やある種の神話性に対抗する物語」を立ち上げていくことが作家の役割で「大事なのは売れる数じゃない。届き方だと思う」と述べています。
「大事なのは売れる数じゃない。届き方だと思う」を、「大事なのは生徒の数じゃない。届き方だと思う」と、私は読み換えています。今の社会は、他人が作ったモノサシにばかり頼って「自分の中にあるものをちゃんと眺めてみる」ことを否定しています。
さてもう終わりにします。「あなた様」のコメントを「読まさせていただき」「失礼かとも思いましたが、私なりの感想を書かさせていただきま」した。最近はやりの、こんな奇妙な日本語を読むのは一度で十分です。疲れるので、これっきりにして下さい。
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