高校生の皆さんこんにちは。私たちが英語を学ぶ目的は何でしょうか。旅行や買い物のため?それとも契約書や製品の仕様書を読むためでしょうか?あるいは外国人に道を尋ねられた時、自信を持って答えるためでしょうか?
僕は外国人に道を尋ねられたことはありません。かりに尋ねられたとして、道順や目的地を知っている確率はどのくらいでしょうか。今はスマホで調べれば簡単にわかる時代です。グーグルの翻訳機能を使えば、数十ヵ国の言語に翻訳できます。実用的な英語はAIに取って代わられるのです。実用英語のフォーマットはビッグデータに無数と言っていいくらい蓄積されているのですから。
英語を学ぶ目的は、母語的な枠組みを抜け出して、未知のもの、新しいものに出会うことです。当然とされているものの見方に揺さぶりをかけるためです。それは英米の文化を深く学ぶことによってのみ可能となります。
今回は高校生の時に読んでほしい本(小説)を紹介します。高校生の時でなければダメなのか、小説なんていつ読んでもいいではないかと思う人もいるでしょうね。
そもそも今の高校生は、小説はおろか本も読まないと言われています。でも、中には、小説や詩を読むことで、自分の感受性が世界の感受性とつながっていることを発見する人もいるでしょう。自分の感受性の変化が世界の変化につながる、そこに希望がある、と考えるのです。
自分の経験を振り返ってみると、小説から深く影響されるには、それを読む年代やタイミングがあるように思います。深く影響されるとは、現実と拮抗する世界を自分の内部に築くということです。つまり、その世界を基準にして逆に現実を見るということです。
現実を絶対視し、それに屈服し、その中でよろしくやることだけを考えるようになってからでは遅いのです。僕は比較的早い時期に大人世界のイカサマ性というか鈍感さ、権力的な体質を嗅ぎ取ることができました。
以来、大人のやっていることに、いちいちムカついていました。頭ではバカげていると分かっていたのですが、受け入れようとすると身体が拒否反応を示すのです。そして自分もあんな大人になっていくのかもしれない。それは何となく予感できる。でもあんな大人にだけはなりたくない、なるまいと考える。
つまり「世の中はみんな金や地位といった外形的なことしか考えないバカばっかりで、自分だけが正しい」と思いつめるのです。これは若い時の特権ですね。今回紹介する小説は、そんな高校生のギリギリのところを描いた作品です。
その小説は次のように始まります。
If you really want to hear about it, the first thing you’ll probably want to know is where I was born, and what my lousy childhood was like, and how my parents were occupied and all before they had me, and all that David Copperfield kind of crap, but I don’t feel like going into it.
この小説は高校を中退せざるを得なかった少年が語り手なのですが、冒頭部分を読んで皆さんはどんな感じがしましたか。理路整然とした冷静な語り口でしょうか。違いますね。どこかせわしない、落ち着きのない感じです。青年期特有の不安も見え隠れしています。もちろんこれはかなり読み進んでわかることです。
僕がこの小説を始めて読んだのは、大学受験に失敗して浪人しているときでした。まあ、ギリギリ高校生と言える時期ですね。「you」って誰、オレのことかな。「it」って何のことだよ。まして、and all がこの語り手の口癖で、「〜とか」という意味だとは知る由もありませんでした。lousy だとか crap という単語も見たことがなかったのです。学校の教科書には出てきませんからね。
それでも読み進めました。我慢して数十ページほど読み進めると、語り手の高校生の声が聞こえて来て、気持ちが分かるようになりました。英語の小説を読むときは「今は分からなくても、そのうち分かるようになる」という経験を積み重ねることが大事ですね。
そんなわけで僕が英語を勉強していてよかったと思うのは、英米の現代小説を読んで、作者の個性つまりそれを生みだしている社会の根底にある「文化」に触れた時なのです。英語を通じて獲得するものが「文化」でないとしたら、一体外国語を学ぶ意味などあるのでしょうか。
文部科学省の推進する英語の4技能向上とは、つまるところアメリカの植民地で行われる宗主国の言語教育を意味します。それは宗主国アメリカに仕え、日本の富を売り渡すことになんら痛痒を感じない官僚や財界人が、自分たちの地位を保全するために考え出した仕掛けに過ぎません。それを国民の税金を使ってやるのです。
彼らの言語観は「言葉は道具(ツール)である」というものです。その根底には、意味さえ伝わればいいと考える貧困な言語観があります。
文科省の『「英語ができる日本人」の育成のための行動計画の策定について』には、「金」と「競争」と「格付け」の話しか出てきません。平田オリザさんに言わせると、日本の英語教育は「ユニクロのシンガポール支店長を育てる教育」だそうです。言い得て妙ですね。
話がそれました。小説の話でしたね。上に挙げた小説の冒頭を日本語に訳してみましょう。
「もしあなたがそれについて本当に聞きたいなら、あなたがおそらく最初に知りたいのは、私がどこで生まれて、私のお粗末な少年時代がいかなるものであったか、そして私を生む前に私の両親がどのようなことに従事していたか等々のデイヴィッド・コパフィールド風の下らぬ話であろうが、私はそれに立ち入る気はない。」
この訳は構文を正確にとらえた、大学入試なら満点の訳です。「言葉は道具(ツール)である」とする言語観からすれば見事な出来栄えと言うほかありません。
しかし本当でしょうか。言葉には意味だけではなく、姿があります。文体と言ってもいいですね。人にたたずまいがあるように、文にもそれがあります。そして僕たちの精神に影響を与えるのは、語り口、トーン、すなわち作者の個性なのです。意味を抽出したら言葉は用済みだとすれば、人間が書く文とAIが書く文の区別はつかなくなってしまいます。
同じ箇所の別の訳文を挙げます。
「もし君がほんとに僕の話を聞きたいんだったら、まず知りたがるのはたぶん、僕がどこで生まれたかとか、子どもの頃のしょうもない話とか、僕が生まれる前に両親は何をやっていたかとかなんとか、そういうデイヴィッド・コパフィールドっぽい寝言だろうと思うんだけど、そういうことって、話す気になれないんだよね。」
この訳はどうでしょう。とてもいいですね。これなら語り手の高校生の個性が伝わってきます。先を読みたくなりますね。でも「デイヴィッド・コパフィールドっぽい寝言」とはどういう意味でしょうか。
デイヴィッド・コパフィールドはイギリスの文豪チャールズ・ディケンズの小説です。実は「僕はデイヴィッド・コパフィールドみたいなどうでもいい話はしたくない」というのは「僕はイギリス人みたいな話はしたくない」ということなのです。
ここはよくわかります。僕が初めて読んだ長編小説はペンギンブック版で600ページ以上ある『 Of Human Bondage 』(人間の絆)でした。イギリスの作家、サマセット・モームが書いた小説です。デイヴィッド・コパフィールドも700ページ以上ある長編小説です。この両者とも、主人公が生まれたところから始まって、世間の無理解や逆境を乗り越え、波乱万丈の人生を生きて、最後に「いい人生だったなあ」と回想する話です。これはイギリスの小説の典型です。
初めて読んだ長編小説。『 Of Human Bondage 』表紙にフィルムを貼って補修しています。ちなみに左のページクリップは高3のY・Nさんからのプレゼントです。
そこには、自分という人間を語るのに、どこで生まれ、親はどこの誰それで、どういう親戚がいて、どういう暮らしをしてきたのか、それを順序立てて話すことが、自分を語ることになるという前提があるのです。
しかし、アメリカ人の語り手である少年にはこれがウザい。そんなことで自分を語った気にはなれない。どこで生まれたかとか、親がどんなだったとか、自分が子どものころどうだったかさえ、そんなことをしゃべっても、自分を分かってもらえる気がしない。過去や世界とのつながりなんてしゃべったところで自分を語った気になれない。今ここにいる自分がすべてなんだ、というわけです。これは極めてアメリカ的な考え方です。
アメリカの後を追いかける日本もいわゆる格差社会・階級社会になりつつあります。本来なら、そういった格差や不平等に対して嫌悪を感じるはずの若い人たちでさえ、学歴や勤めている会社、親の職業、住んでいる場所など、外形的なもので人を値踏みする傾向があります。いわゆる「知的な職業」や「専門職」についている人ほど、この傾向を受け入れています。
作者J・D・サリンジャーは、そういった大人社会を軽蔑し、憎みながらも不安にかられ、出口の見えない世界でもがき続ける少年の内面を描いたのです。つまり、社会に適応できない少年の撞着を文学に昇華したのですね。よかったら、村上春樹氏の翻訳で読んでみて下さい。原題は『ライ麦畑でつかまえて』( The Catcher in the Rye)です。共感するか反発するか、それはあなた次第です。長くなりました。ここまで読んでくれてありがとう。それではまた次回お会いしましょう。