山本太郎率いる『れいわ新選組』は、今回の選挙活動を通じて、様々なものを可視化しました。中でも特筆すべきは、大手マスコミ、特にテレビ局のふがいなさです。
山本太郎の訴えに耳を澄ます聴衆の多さや、その熱気や盛り上がりを目にし、取材しているにもかかわらず、選挙期間中ついにそれを報道しませんでした。政党要件を満たしていないなどという屁理屈ならいくらでも吐けます。
しかし、今回の選挙で彼以上に聴衆を集めた政治家がいたでしょうか。一種の社会現象にまでなっているものを、そのまま報道しないのであれば、報道機関はいったい何のためにあるのでしょうか。報道しない報道機関など、悪い冗談以外の何物でもありません。
吉本の芸人の謝罪会見や河野外相の韓国に対する選挙目当ての「無礼」発言(これほど恥ずかしいシーンはめったにお目にかかれません)、京アニメの放火事件などは、そのまま報道しているではありませんか。
もちろんブログで何度も指摘したように、日本の報道機関が権力から独立しているなどとは思ってもいません。記者クラブにどっぷりつかって、すでに選別された情報をありがたく頂戴して生活の糧にしている人間たちが、安倍政権を批判などできるわけがないのです。
それどころか、安倍政権と同じ穴のむじななのです。それすら意識できない人間は、国民のために報道の現場から立ち去るべきです。生活していく術は他にもあります。私のように、塾の教師でもすればよいのです。
過去記事
マスコミは圧力をかけられているのか?
http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=117
日本の報道記者や官僚たちは、高偏差値大学を卒業した受験の勝者です。彼らの特技は、何よりも空気を読むことです。自分の地位を守るために裏の裏を読みます。これこそが頭がいいと言われる人間の内実なのです。
結果、空気を読む=忖度することが自己目的化します。トップがアホになれば、アホを忖度しなければなりません。かくして委縮は伝播し、国民のことを考える者はいなくなり、国家は破滅への道を突き進むのです。
そういった日本の政治文化自体に異を唱えているのが山本太郎です。彼は聴衆のすぐ前で、手の届くところで演説をします。街宣車の上から、一方的に自分の言いたいことだけを叫び、去って行ったりしません。大きなディスプレイにデータを映し出し、それを使って説明します。野党の政治家に彼と同じ手法で、国民と対話する勇気のある人間がいるでしょうか。
山本太郎の言葉もさることながら、彼の選挙スタイルそのものが国民の側に立っているのです。今回の彼の街宣の中で、忘れられないシーンがあります。それは反対意見を述べる聴衆に向き合い、限られた時間の中で説得を試みているシーンです。ここに政治家に最も必要とされる資質が現れています。
福島駅東口での演説です。3・11以降、彼を政治家にした原点ともいうべき地での演説です。田舎の果樹園で隠れて演説する誰かさんとは大違いです。
ヤジを飛ばされれば、警察力でたちどころにそれを排除する安倍晋三(ノミのしんぞう)総理大臣とはあまりに違いすぎます。
私たちの生活を大きく左右する力を持つ政治家としてどちらがふさわしいか一目瞭然ではありませんか。たとえ選挙結果が不細工なものになろうとも、山本太郎が荒野に向けて発した言葉は雲散霧消しません。現に私の中で反響しているのです。