今日は8月2日です。部活生の都合で前倒しした中学3年生の模試の日です。最初に、問題に向き合うときの注意事項を述べ、そして終わりに一言。「カンニングはしないように。塾でカンニングをしても何のメリットもありません。カンニングしたい人は学校でするように。あわわわ・・・・」
冗談はさておき、今回は私たちの日々の生活を息苦しくしているものの正体について書きます。何だ、また政治についてエラソ〜に書くのか、いい加減にしろ、と思っている人もいるでしょうね。
しかし、私は政治学者でもなければジャーナリストでもありません。日々をどう生きていったらいいのか、それだけを考えるので精一杯です。私が政治について語るのは、庶民の立場から見て、どうにも我慢ならない出来事があった場合(結構あるのです)に限ります。そうでなければ、大切な時間と労力を割いたりしません。
大文字の政治状況を語る時、常に聞こえてくる声があります。「どうせ人間は死ぬんだ、何をそんなに深刻ぶっているのか。お前の考えていることなど、時間がたてばすべて無に帰すのさ」という声です。つまり、太宰治の小説『トカトントン』の中でこだます虚無の槌音です。それは主人公が労働運動や恋愛に夢中になりかけると決まって聞こえてくる音なのです。
太宰治『トカトントン』
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さて、日々の生活を息苦しくしているものの正体にもどります。もちろん私が個人的に考えているものです。それが分かったからと言って、明日からの生活が変わるわけではありません。
しかし、何事であれ原因が分かると対策を立てることができます。私たちの思考や意識が更新され、自由になり、方向性を見出すことができます。そして日々の生活の中で澱んでいた感情が刷新されます。
私は感情が刷新されることを何より大事にしています。なぜなら、ブログで何度も書いてきたように感情こそが論理を方向づけるからです。感情が劣化していれば、その上に築かれた論理もしょせんは砂上の楼閣に過ぎません。
ところで、皆さんはオルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』とジョージ・オーウェルの『1984年』をご存知でしょうか。トランプ大統領が誕生した月に『1984年』とハンナ・アーレントの『全体主義の起源』がベストセラー入りしたと聞いて、私はアメリカ社会の知的な層の分厚さに嫉妬しました。
今回は『すばらしい新世界』ではなく、ハクスリーの『集中講義』と驚くべき教育への洞察を含んだ『島』を紹介します。
中高生にとっては、オーウェルの『1984年』は、読むのに苦労するかもしれません。名前は知られていても、実際に読んだ人は最も少ないと言われている小説です。しかしその洞察力には脱帽するはずです。おそらく未来の才能ある小説家には避けて通れない作品です。『動物農場』とあわせて読んでみてください。
ニール・ポストマンは1985年の著書『愉しみながら死んでいく』の中で「電気プラグが可能にしたテクノロジーによる気晴らし」が私たちの文化的会話を永久に塗り替えていると論じました。
それは、より些細な、取るに足らぬものになり、伝達される情報も「単純に割り切った、実質のない、非歴史上の、文脈のないものに、つまりエンタテインメントとして梱包された情報」と化していると。
そして「我々の聖職者や大統領、外科医や弁護士、教育者やニュースキャスターたちは、自らの専門分野の要求よりも演出術を気にかけるようになっている」と書きました。
1985年の著書ですから、「電気プラグ」とはテレビのことです。しかし、ポストマンの考察はインターネットとスマホが普及した現代にこそ最もぴったり当てはまります。
つまり、データ過多により、最も明るく光るもの、すなわち最も大きな声または最も常軌を逸脱した意見が私たちの注意を引き、最も多くのクリックと熱狂を獲得するようになった、というわけです。
そのポストマンがオルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』とジョージ・オーウェルの『1984年』を比較しています。この二つの作品はディストピアを描いていますが、その世界の空気こそが、私たちの社会の生き苦しさの正体なのです。
『すばらしい新世界』(光文社古典新訳文庫)は、「西暦2540年。人間の工場生産と条件付け教育、フリーセックスの奨励、快楽薬の配給によって、人類は不満と無縁の安定社会を築いていた。だが、時代の異端児たちと未開社会から来たジョンは、世界に疑問を抱き始め・・・驚くべき洞察力で描かれた、ディストピア小説の決定版! 」と紹介されています(「BOOK」データベースによる)。簡単に言うと、薬物と軽薄なエンタテインメントで麻痺した人々が催眠性の人生を送る様子を描いているのです。
「オーウェルはわれわれから情報を奪う者を恐れた。ハクスリーは、われわれが受動性とエゴイズムに陥るまで多くを与える者を恐れた。ハクスリーは無意味なものだらけの海に真実が溺れることを危ぶんだ」とポストマンは書いています。1985年の時点で、全体主義国家に対するオーウェルの懸念がソ連に当てはまる一方で、西側民主主義国家が出会っている脅威を言い当てていたのです。
ハクスリーの悪夢によって象徴されているのは、「あからさまにつまらない事柄」によって麻痺するあまりに、責任ある市民として関与できない人々です。
そして今、日本ではハクスリーの悪夢とオーウェルの描いた全体主義国家が新たな現実味を帯びています。それは、ビッグブラザーがあらゆる物語を支配し、現在と過去を書き換える国家に重なります。
私たちの社会を覆う息苦しさの正体は、この二冊の小説ですでに描かれていたのです。金と権力で汚れた空気ではなく、朝一番の新鮮な空気を吸いたい人にはおすすめです。