孤独は時代を超え、年齢を超え、テクノロジーを超えます。時代背景を手がかりに人間の孤独を分析しようとしても、無駄です。孤独は時代背景の問題ではないからです。他人が自分のことを分かってくれないという寂しさの問題でもありません。人間が言語を手に入れた瞬間から宿命的に身にまとっているものです。
孤独とは自分で自分に話しかけることであり、人は言語を発明したことで孤独になることができたのです。孤独とは言語の別名です。つまり、人は自分で自分に話しかけることで私になったのです。私という現象は、私が孤独であると気づくことです。
言語を所有するということは、自己を俯瞰する眼を手に入れることを意味します。それができなければ、問うことそのものが成り立ちません。
なぜこんなことを言うかというと、本日9月6日に封切られた映画『フリーソロ(Free Solo)』を観ている間中、主人公の孤独について考えていたからです。これほど見事に孤独を体現している人物はいないのではないか、つまり、真実もフェイクも等価になってしまった今の世の中と隔絶した場所で、彼は有史以来の孤独に一人向き合っている、そう感じたのです。
岩を登っている間、彼はひたすら自分と自分の肉体に話しかけていたはずです。傍からは無心に見えるほどに。強靭な身体は、彼の精神=言語そのものです。もし彼の言語の中に、政治や愛の言葉が混入していたら、おそらく滑落死していたのではないかと思います。
観終わった後、私はひどく疲れました。彼と呼吸を合わせ、ひたすら無心になろうとしていたからです。私の感想は的外れかもしれません。興味のある人はぜひ映画館に足を運んで下さい。
以下に映画の紹介を載せておきます。
「米アカデミー賞を長編ドキュメンタリ部門で受賞したのをはじめ、世界各地の映画賞を総なめにした作品。エル・キャピタンというヨセミテの巨大な岸壁を、ザイル(ロープ)をいっさい使わずに手と足だけで完登したクライマー、アレックス・オノルド。その登攀の様子を頭上のドローンや撮影クルーの手持ちカメラ、下からの超望遠レンズで追い続ける。この最後の20分間のシーンだけでも、映画の歴史に残る映像だ。
それをCGや合成などいっさい使わずに、人間の肉体を駆使して撮影し、身体性の極地である迫力のある映像を、21世紀のテクノロジーの時代に見せる。まさに究極のドキュメンタリである。」