開成中学・高等学校と言えば、毎年200名に迫る東大合格者を出している文字通り日本のトップエリート校です。そこで校長を務める柳沢幸雄氏が11月3日の朝日新聞「英語民間試験の利用延期、どうすれば」に答えている記事を読みました。はっきり言って、功成り名遂げて耄碌(もうろく)した老人の世迷い言です。
こんなレベルの言説を全国誌に載せて恥ずかしくないのでしょうか。日本には隠棲の文化があります。いつまでも同じ地位にとどまって恥をさらすよりも、世間から距離を置き隠棲してはどうでしょうか。西行や良寛のようなよいお手本があるではありませんか。私が氏なら、身の程を悟ってさっさと引退します。
さて本題に入りましょう。氏の意見を逐一批判していたら夜が明けるので、肝心なところ、すなわち氏の本質があらわれている箇所を批判してみます。まず出だしの一文から。
「日本の大学入試も、もうそろそろ厳格なものから脱する時代なのではないか。今回の大学入試改革の一連の動きは、日本の悪いところが出た典型例だと思う。何か新しい改革をしようという時に、技術論でひっかかってしまう。現実的にこれはできないのではないか、などと細かいところで反対意見が出て、すべてを最初から厳格に完璧にしようとするがあまり、教育に必要なものは何かという、本質を見失って変容してしまう。これまでの教育改革もその繰り返しだった」
この部分を読んだだけで、結論が抽象的・現状肯定型になるのはわかりきっています。英語民間試験の利用延期について訊いているのに、「もうそろそろ厳格なものから脱する時代」などと抽象的な大風呂敷を広げて論点をそらしています。
訊かれたことに具体的かつ的確に答えてこそ、読者にとってプラスになるのではありませんか。おや、これは釈迦に説法でしたね。柳沢氏のような他者意識のない弛緩した思考は批判を装った現状肯定に行きつくのです。
いったん大風呂敷を広げれば、それをたたんで具体的に論じることは不可能とは言わないまでも、大変難しくなります。それが証拠に、氏の答えは最後まで焦点がぼやけた抽象論で終わっています。
人は抽象から学習し始めるのではありません。抽象論は事実を詳細かつ具体的に検討した後、それを材料として論理的に組み立てるものです。論理的思考とは具体例を豊富に、かつ整合的に使う思考です。なぜなら、人が生きるのは、机上の理論よりもはるかに複雑な事実の世界だからです。
抽象論は現実の経験とのかかわりが不明なのです。つまりいくらでもごまかしがきくということです。柳沢氏はこのことがわかっていません。具体的な事実を知らなければ、空虚で意味不明な言葉をもてあそぶほかありません。「耄碌(もうろく)した老人の世迷い言」はここから生じるのです。
もう少し話を進めましょう。氏の考えでは「何か新しい改革をしようという時に、技術論でひっかかってしまう。」のが「日本の悪いところ」だそうです。しかし、そもそも、今回の件のどこを見て「新しい改革」だの「技術論でひっかかっ」たなどと考えるのでしょうか。私はこの箇所に最もひっかかりました。
今回の問題の本質は、入試改革という名の下に英語の試験を民間に丸投げすることで政治家が私腹を肥やそうと企んだことにあります。すなわち、ゴールの決まっている出来レースを、受験生と現場を無視して突っ走っただけです。これは日本の戦後教育がついに「受験教育」に収斂してしまった無残な象徴に過ぎません。
塾経営者から政治家になった下村博文と民間業者・ベネッセが組み、それに文部官僚が天下り先を確保するために相乗りしたというわけです。利益相反などおかまいなしに公共部門を民営化してボロ儲けをたくらむ竹中平蔵的・加計学園的手法と同じです。彼らは口を開けば「グローバル化に乗り遅れるな」だの「ICT教育を推進せよ」だのと叫ぶのです。
柳沢幸雄氏の言説は、この本質から目を背け、「技術論」に矮小化するものです。それを糊塗するために「何か新しい改革をしようという時に」だの「技術論でひっかかってしまう。」だの、ついには「日本の悪いところが出た典型例だと思う。」などと結論付けたのです。
英語民間試験の利用は本来教育の問題です。教育の問題であれば、大人が(今の政治家や民間業者は金と地位を欲しがるだけのガキになってしまいました)将来の学生のために、教育の観点のみで考えるべきものです。
合否が採点者の主観や、経済的な格差や、親のコネによって決まるとすれば、誰が地道な努力を続けるでしょうか。それだけではありません。合格者の努力も無に帰すのです。
大学入試の公平性は、社会の安定と深く関係しています。それが損なわれれば、イソップ童話の「すっぱいブドウ」ではありませんが、現実を都合よく解釈する人間が大量に生み出され、社会に充満したルサンチマンが暴発して犯罪を誘発するようになります。したがって、合否はだれもが納得できる判断基準でなければならないのです。
しかし、柳沢幸雄氏はそれに続く箇所で「入試ももっとそれぞれの大学のポリシーにあった、緩やかで多様なものにしていいのではないか。」と述べ、「米国ハーバード大学院で教えていた時」の経験で、「入り口で厳格に、何点刻みという選抜をしなくても、卒業する際に、きちんとした結果の測定をすれば済む」と言います。いかにもエリート校の校長の発想です。
では、日本の大学で「卒業する際に、きちんとした結果の測定を」している大学があったら教えてほしいものです。ついでにどんな方法で「結果の測定を」しているのかも。
柳沢氏は何を勘違いしているのでしょうか。今問題になっているのは、大学進学を希望する全国の高校生が受けるテストのことを論じているのです。「何でも一律にという点に問題がある」などと一般論を述べても無意味です。有名私立大学の学長や一部エリート校の校長が、富裕層のための高校や大学にするべく入試の判断基準を複雑かつ曖昧で多様なものにする話をしているのではないのです。
ちなみに、早稲田大学は卒業時の学力を入学試験の方法と関連付けて、肝心な大学教育の中身が空洞化していることを隠そうとしています。3年半前に書いた記事をご覧ください。
早稲田大学のAO・推薦入試について
http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=136
慶応大学の学長選挙について−民主主義は大学の門前で立ちすくむ。
http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=427
かくのごとく他者意識のない言説を批判し出したらきりがありません。これ以上「グローバルエリート」特有の言いっぱなしに付き合うのも疲れます。私たちは欧米の一流大学の真似をすることに活路を見出すべきではないのです。自分の頭で、この国の若者のために、一から考え直すべきです。そのための具体的なイメージについてはすでに書きました。
100年後の生存戦略 ・教育−見果てぬ夢
http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=446
100年後の生存戦略・ 教育− 国宝・閑谷(しずたに)学校
http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=488
締めくくりとして、柳沢氏は次のように述べています。「東大で教えて来た経験から言えば、英語力のない学生は学ぶ力が弱い。外国語の学びを通じて持続性、論理性が養われる。・・・・これまでの日本のように、英語は読めて書ければいいという時代に逆戻りしてはいけない。」と。
冗談を言ってはいけません。英語に限らず、一つの外国語をきちんと読めて書ける日本人は全人口の1%(120万人)にも満たないと思います。私は塾で教えながら、英語の読み書きの能力が崩落している場に立ち会っているのです。前にも書きましたが、正確に読めて書くことができれば、話す・聞くは環境と慣れの問題に過ぎないのです。
肝心な質問には答えずに、短い文章の中で「米国ハーバード大学院で教えていた時」だの「東大で教えて来た経験から言えば」だの、単なる経験や印象を語りながら自分の権威づけを行う人間が日本一のエリート進学校の校長なのです。だから言ったのです。最初の一文を読めば結論がわかると。
柳沢氏が「外国語の学びを通じて持続性、論理性が養われる。」という時の論理性とはかくのごとくたわいもない言葉の遊びにすぎないのです。なぜなら、優れた論理性は必然的に優れた批判精神に行きつくはずだからです。
最後におまけです。開成高校で培われる論理性の帰結が端的に表わされたグラフを載せて、今回のブログを終わりにします。これは「グローバルエリート」である柳沢幸雄氏が校長を務めている結果なのでしょうか。
東大新入生の自民党支持率