20代の頃に読んだベルクソンの『笑い』(岩波文庫版)は、どれだけ正確に読めていたのか怪しいものですが、芸術論の白眉だと思いました。今は増田靖彦氏の新訳でより分かりやすくなっています。
ベルクソンは、「笑い」とは「しなやか」であるはずの生の表面を覆う「自動的」なものや「機械的」なものへのリアクションであるといいます。習慣、惰性、形式、類型、常識、等はいずれも自由な精神の働きを妨げ、それがもたらす「ちぐはぐ」な感じが「笑い」を生むと考えました。それは生のこわばりを解きほぐし反省する契機になるものだというのです。
日本の「お笑い」は吉本の芸人に占拠されています。暴力団がらみで芸能界を引退した島田紳助の後を受け、今は松本人志が「お笑い」の世界を牛耳っています。お笑いの世界で生きていくには彼に「上納金」を収め、認めてもらわなければなりません。もちろん批判や反抗は許されません。
つまり、もっぱらテレビを中心とした、恐ろしく狭い歪んだ世界なのです。その彼が安倍晋三というおバカな権力者をバックに、「お笑い」の世界の権力者として君臨しているというわけです。昨年、吉本興業とNTTが共同で行う映像配信などの教育事業に政府が100億円を投資することを決めたことと無関係ではありません。
かくして、日本の「お笑い」は、ベルクソンの言う、習慣、惰性、形式、類型、反復、ひとりよがりの世界に堕しました。一言でいうなら、この国の政治も文化も報道ジャーナリズムも「お笑い」も、これ以上ないところまで腐敗堕落を極めているということです。
気分が悪くなったので、一つだけ動画をアップしておきます。松本人志の芸では笑ったことのない私が、清水ミチコの芸には笑ってしまいました。小池百合子という政治家の硬直、惰性、形式、類型、反復、を見事に表現しています。これぞ「お笑い」です。