本来、世界や自然は分断することができない。にもかかわらず、出来ないものをできると勘違いするところから世界は滅びに向かい始める。何度も指摘したように、単なる観念の遊戯であった要素還元主義が社会の隅々にまでいきわたり、人間の想像力をやせ細らせ、他者に共感する力を奪ってきたのだ。
利便性と効率性は幸福をもたらしはしない。こんなことは幼稚園の子供ですら分かることだ。大規模商業施設やコンビニやAmazonは地元の商店街を廃業に追いやり、利便性依存症という病を蔓延させることとなった。この病の特徴は時間がかかることを強迫神経症的に恐れる。そして価値のないものとして断罪する。
一方で、子供が大人になるまでには時間がかかる。作物が実り、収穫するまでにも時間がかかる。人間の社会にとって最も重要な子供を育てることと作物を育てることは時間がかかるのだ。しかも教育の成果は死ぬまでわからないので、特定の学校や大学に合格したことを教育の成果と見なすようになったのだ。
かつて、日本の教育の最もダメなところは、子供たちに何ものにも奉仕しない野放図な時間を与えないことだと書いた。育ち行くものを育てるという発想がないことが何よりもこの国の教育を貧困にしている。私が「佐藤ママ」を批判した所以である。
もうやめにしたい。以下の事件は大学生が幼児化した象徴に過ぎない。そしてこうなることは目に見えていたので、8年前にブログで指摘しておいた。なお、「舞子ちゃん」も同類なので次回以降のブログで述べる。なぜ「舞子ちゃん」が同類なのか、彼女は立派な裁判官ではないかと考えている人には一言、世界はつながっているのだ、と言っておきたい。
神戸大学のバトミントンサークル「BADBOYS」の学生たちは、ノリでやったのだろうが、彼らが畳にゲロ吐いたり、壁にキムチを投げつけたり、障子を破ったりしていた同じ時刻にガザでは子供たちが虐殺されているのだ。私はもはや日本の大学生に想像力を持てとは言わないが、残念で言葉がない。
学生が旅館の天井など壊す 神戸大学が謝罪し処分検討
https://youtu.be/H6-rFP95-Lo?si=qSDjrNqcx5bkTedS
以下の記事は8年前に書いたものですが、記事の中の映画「ライオット・クラブ」も是非見てもらいたいと思います。特に自分はプチエリートだと思っている愚かな若者に。
自壊する日本の高学歴「エリート」たち
https://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=279
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一冊目は『工芸とは何か』(拙考編集室)
一月に予約注文していた本ですが、数日前に届きました。著者は輪島塗の塗師・赤木明登氏と、以前ブログでも紹介した堀畑裕之氏です。興味のある方はどうぞ自らお求めになって下さい。
映画『うつろいの時をまとう』を観る。
https://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=845
二冊目は地元大分の「此君亭」の歴史と四季を、撮影に5年、編集に3年の年月をかけて発刊された『此君亭好日』(月虹舎文庫)です。この本は、竹藝家・生野徳三氏と寿子夫人の人生讃歌です。大分が世界に誇れる数少ない場所であり、お二人の暮らしぶりには心が洗われます。
上記2冊の本は、人生の集大成として私の背中を押してくれたかけがえのない本です。
ところで、私事ですが、4月中に「陶工房(Pottery Studio)・而今(にこん)」を開店?することになりました。詳しくは後日改めてお知らせ致します。作陶はまだまだ発展途上ですが、お近くをお通りの際は遠慮なくお訪ねください。美味しいコーヒーでも飲みながら、ゆっくり話をしましょう。
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判決を聞いたとき私は立ち上がって次のように叫びたかったのだ。しかし、判決から5秒後、私は即座に席を立ち、法廷を後にした。
「舞子ちゃん、ブラボー!素晴らしい。あなたの母ちゃんも、父ちゃんも、じいちゃんも、ばあちゃんも、舞子よくやった!立派な判決だ!とほめてくれるれるだろう。日本国憲法第76条3項には「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される。」と謳われている。今回、あなたが公にしたあなたの良心は後世に残るのだ。おめでとう!」
報道では「大分地裁の判決」と言われているが勘違いしてはいけない。大分地裁で働く国家公務員・武智舞子が下した判決である。
今から6年前、同じく大分地裁・佐藤重憲裁判長が伊方原発差し止め却下の判決を下した時、私は記事の中で次のように書いた。
「今回、佐藤重憲裁判長が、四国電力といわゆる原子力ムラの言い分をそのまま追認しただけの決定しか下せなかったのは、匿名のシステム(この場合裁判所という組織を指します)に逃げ込んで裁判官個人としての「良心」や見識を世に問うことが怖かったからです。既成事実を追認するだけの勇気のない裁判官などいりません。追認するならせめて後世の批判に耐えられるだけの論理と根拠を明確に示してもらいたいものです。」と。
大分地裁佐藤重憲裁判長、伊方原発差し止め却下。
https://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=520
大分地裁裁判長への意見陳述書。
https://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=426
今回、武智舞子氏が下した判決が世間にどのような影響を及ぼすのか、一見まともに見える言説や生き方の中に卑怯で勇気のない大人の論理がどのように忍び込んでいるのか、については次回のブログで述べる。
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作家や画家、書家、陶芸家などについて論ずる際には作品が重要で−この場合は建築家だが−作者は重要ではないという、私に言わせれば単なる衒学趣味、新しがりの評論が大学教師の間ではやったことがあった。いや、今でもテクストクリティークなどと称して研究されているのかもしれない。
これは受験を通じて、作者や筆者に興味を持つことを禁ぜられ、代わりに出題者の意図を探るように訓練されてきたことと関係があるのかもしれない。美味しい料理を食べた時、作った人の顔を思い浮かべるより、レシピを調べるのと似ている。
しかし、ある優れた建築を前にして、感動すればするほど、それをこの世に生み出した人間のことを知りたいと思うのは自然ではないか。少なくとも私は知りたいと思う。ゴッホやルオーの絵を前にして、あるいは良寛の書を前にして、人間に興味がわかないなどというのは、影響を受けるということを深く考えたことのない人間の戯言だと思う。
いきなり話がそれてしまった。
私が影響を受けた建築家は多い。白井晟一氏や吉坂隆正氏を筆頭に海外の建築家を入れれば30人ほどになる。その中に山本理顕氏(78)がいた。その山本氏が今年、「建築界のノーベル賞」と言われる「プリツカー賞」を日本人として5年ぶりに受賞した。こんなうれしいことはない。
ところで、以下の記事を書いたとき、建築の素人が何を偉そうなことを言っているのかとのコメントをもらった。私は心ある建築家が批判するだろうと思っていた。しかし、批判しないどころか、高名な建築家が率先して愚行に手を染めているのを見て、やむを得ず書いたものだった。
三流腐敗国日本の象徴−関西万博 大屋根(リング)
https://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=884
それでなくとも、今の日本では、批判はネガティブなもので、コンビニの店員に理不尽なクレームをつけているようなものだと考えられている。批判は創造的行為だなどと思っている人は絶滅危惧種なのかもしれない。
そんな時、尊敬する山本理顕氏が関西万博を建築的観点から批判しているのを知って、救われた気がしたのだ。真実は単純で、誰もが見ようとすれば見えるし、聞こうとすれば聞こえるものだ。聞く力を強調していたどこかのfoolには無理だろうが・・・
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問題はお互いが「後ろ髪を引かれている」ことの価値に気づいているかどうかです。気づけるためには、直観を信じなければなりません。社会的なステイタスや通念に縛られていると直観は生き生きと働きません。そして人生で最も大切なものを見失ってしまうのです。
なぜこんなことを言うかといえば、「後ろ髪を引かれる想い」を見事に描いた映画を思い出したからです。1998年に公開された映画『ジョー・ブラックをよろしく』(原題は「Meet Joe Black」)です。
すでに多くの方がご存じだと思いますが、二人の男女が出会う最初のシーンが素晴らしい。公開から26年経った今見ても、監督の手腕に感心します。それもそのはず、監督は「セント・オブ・ウーマン・夢の香り」のマーティン・ブレストだからです。
ファンタスティックなラヴストーリーだと言ってしまえばそれまでですが、正直に告白すると、私のお気に入りの映画の一つです。そして二人の出会いは、「後ろ髪を引かれる想い」というか、一瞬で恋に落ちる男女のリアリティーを描いた最も煽情的で心に残るシーンだと思います。
恋愛なんて単なる幻想、ファンタジーに過ぎないと一蹴する人間が増えれば増えるほど、世の中は生きづらくなっていくのではないでしょうか。人は高学歴・高収入を抱きしめて生きることはできないのです。
主演はブラッド・ピットとクレア・フォーラニです。二人の演技が自然ですばらしい。Netflixで見ることができます。野暮な解説はやめにします。どうぞ全編をご覧ください。
以下は二人が出会う最初のシーン
https://youtu.be/I9NrCuSccP8?si=4JN0VJKjBcmsD_N_
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今回は雨の中、実家の庭に咲くミモザの花と美味しいお菓子を持ってきてくれました。時間があるとのことで久しぶりにゆっくりと話ができました。
話をしながら、台所のテーブルの上に置いてあった粉引きの茶碗が素敵だとほめてくれました。それは初めて満足のいくものができたと妻に自慢していた茶碗でした。それから話題は陶芸に及び、気がつくと、あっという間に3時間が過ぎていました。
まだまだ下手ですが何か欲しいものがあったら作ります、とむりやり要望を聞きだしました。彼女曰く、アンティークの小物でデルフト焼が好きなんだけど作れますか、とのことでした。デルフト焼は知りませんでした。スマホを取り出し、画像を見せてくれました。オランダの焼き物が一瞬で見れるとは、なんとも便利な時代になったものです。
アンティークの小物。見れば見るほど美しい。
デルフトはオランダの都市の名前です。コロナ前、ちょうど旅をしようと計画していたのがオランダとベルギー、そしてデンマークでした。妻にいろいろと蘊蓄を傾け、ガイドブックも買ってやっと了承を得ていたのですが、残念な結果となりました。
ところでデルフトと言えば、画家のフェルメールが、生誕から亡くなるまで43年間を過ごした都市です。いつか訪れてみたい場所ですね。
青と白の食器が好きなら、一度は訪れてみたい街
https://wabbey.net/blogs/blog/delft
さて、これからしばらくは彼女のリクエストに応えるべく、デルフト焼に挑戦することにしましょう。風合いが粉引に似ているので何とかなるでしょう。
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私は建築に興味があったので、今でも建築雑誌をパラパラとめくっている。そしていつも残念な気持ちになる、というか今の建築界の惨状を目にして憂鬱になる。そこには何とか人々の生活を本当の意味で支えようと呻吟する姿がない。富裕層のしゃれた邸宅の写真が掲載されているだけで、生活がない。大工や左官の苦闘の跡がない。
日本社会がコーポラティズムに広くおおわれるようになって、建築家も経済学者と同様に権力からの目くばせに敏感な職業となった。そんな中、住宅建築家という目立たない生き方を選び、バブル経済とは一線を画し、あくまでクライアントの生活を重視してきたのが建築家の中村好文氏である。ブログで何度も取り上げてきた。
そして、能登半島地震で被災した塗師の赤木明登氏のことはすでに書いた。
日本の中の二つの国。
http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=887
赤木氏のことは『欲しかったモノ』(ラトルズ)の中で中村氏に教えてもらった。今から18年前のことだ。この本の中で中村氏は言う。
「一人一人がつくったモノは、みんな自分の仕事や暮らしから発想されたもので、今、自分が本当に欲しかったモノ、心惹かれるモノ、つくりたいモノができたと思います。世界には、売れ筋狙いのモノや、安直なモノがあふれていて、本当に自分が欲しいものを探そうとするとなかなか見つからない。作り手側がモノづくりの動機を見失っているような気がするので、自分の暮らしの中から発想するモノづくりというのは大きな意味を持っているんじゃないでしょうか」
この本の一番手として登場する赤木明登氏曰く。
「人がいて、家族と時を過ごす。友だちがやって来て酒を飲む。ご飯を食べて風呂に入って、という当たり前のことが一番大切だと思う。そうやって、誰かと出会って一緒にいることを慈しめる道具があるといいと思うんですよ。暮らしに仕えるような道具」
「つくるときにあるのは、その元にある感動だと思う。何かに出会って、心が震えて、いろんなことが始まっていくんだと思うんです。その感動をうちに持って帰って、それを多少なりともドキドキしながら喜んで使うということが、その人の暮らしをすこしゆたかにするんじゃないか、って」
地震で輪島塗の技術も職人さんもコミュニティーもいま崩壊の危機に瀕している。それでも赤木氏は元気いっぱいである。輪島塗という工芸が人を救うということを実感しているからだ。
壊れた屋根にブルーシートを張ったり、崩落した家や工房を片付けたり、再建を話し合うために大工さんがボランティアでやってくる。まさに工芸が人の命を救っている。仮設住宅だけでなく、こんなところにこそ国の資源を集中すべきだと言えば真っ先に反対するのは橋下徹をはじめとする維新の連中でしょうね。
そんな折、今日、赤木氏のSNSを見た。
「建築家の中村好文さんが、東京から能登にやって来た! 住まいを失った、工房の職人さんたち6人のために、好文さんがステキなプランをつくってくれました。岡山チーズ大王の全作小屋をプロトタイプに、電気、上下水道、ガス、外部からライフラインの供給が無くても、自律して生活できるかわいい小屋を森の中に何棟もつくる。これで、もういちど地震が来ても大丈夫だと。先生、後光が指しています!」
これこそが暮らしを第一に考える建築家の仕事だと素朴に思う。
以下の記事は今回の内容に関連したものです。よかったらお読みください。
縁切りハウス。
http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=804
三流腐敗国日本の象徴−関西万博 大屋根(リング)
http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=884
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面接試験で高校生や大学生ならせめて「中村哲氏です。彼こそが国民栄誉賞に価する人物だと思います。」くらい言ってほしいものだ。チェ・ゲバラやエリック・ホッファー、ジャンケレヴィッチ、北御門二郎の名前を挙げなくてもよい。どうせ「それ誰?」という反応しか返ってこないだろうから。
あるいは「はい、尊敬する人物は安倍晋三氏です。彼ほど日本と日本人に誇りを取り戻そうと努力した人はいません。そのために、祖父の代から三代にわたって統一教会とズブズブの関係を結び、全人類の真(まこと)の母であらせられる韓鶴子氏にビデオメッセージを送り、トランプ大統領とゴルフに興じ、バンカーに落ちてひっくり返えっても泣かずにプレーを続けたのですから。彼こそが国葬に価する不世出の政治家です。」というのも立派な答えかもしれない。いや、マジで。
話がそれた。「オヤカク」とは採用企業が学生の内定時などに「(入社について)親の確認を取る」ことだそうです。内定通知書を親にも出したり、親向けの内定同意書を作成したりする企業もあるとのこと。
日本社会は劣化というより幼児化しているのだ。「親ガチャ」を変換したら「親が茶」しか出てこない。「オヤカク」は「親格」だ。とにかく勝手に言葉を短縮する。金曜日の卵料理は「キンタマ」か?
報道によれば「新卒採用で学生優位の『売り手市場』が続く中、企業側が学生の内定辞退を防ごうと親の意向を確認する『オヤカク』が広がっている。辞退理由に親の反対を挙げる学生が絶えないためで、企業は親子参加の会社説明会を開くなどして、親の不安解消に努めている。
就職情報会社「マイナビ」が、2022年度に就職活動した学生の親を対象に調査したところ、オヤカクを受けた人は48%に上った。18年度調査では18%だった。複数の内定を得て悩む学生の支持を取り付けようと、親に接触する企業は増えているという。」とのことである。
親から自立せよ、などと叫ぶつもりは毛頭ありません。親子が信頼し合って、頼りにし、何でも相談。大学選びも就職も結婚も、海外旅行も親と一緒。投資先はNISAを勧めてくれました。やっぱうちの親はハイスペックなだけあって、相談すれば的確な答えが返ってきます。母はケイオーの幼稚舎出身の内部生で、父はトーダイで医学部の教授。
ていうか、それは表向きの肩書で、実は資産家です。トマ・ピケティが言うように田舎出の一部上場企業のエリートサラリーマンがいくら稼ごうと、決して追いつけないもんね。人生の勝敗は生まれたときから決まっている。庶民は宝くじに当たった夢でも見て暮らしなさい。
日本は「平和」で「自由」です。格差なんて当然でしょ。山本太郎は何を騒いでいるの?高校中退の芸能人上がりのくせに。そのうち消えていなくなるに決まっている。偽善者面したパフォーマンスが我慢ならない。それにしても投票に行く人間なんて哀れなものです。民主主義なんてもう終わっているのだから。
かくのごとく、今の「教育」システムはお行儀のよい家畜の量産工場になってしまった。家畜の人生を拒否する人は刮目せよ。 Catastrophe is just around the corner.
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能登半島地震によって多くの命が失われ、貴重な街並みや文化が消滅の危機に瀕している。もはや立ち直れないだろうと他人事のように考えている人間があまりにも多い。限りある国の資源を復興に費やすのはどうか、といった意見もある。
要するに、自分たちの納める税金がやがて消滅するはずの地方の街に使われるのは非効率だというわけだ。なんという浅薄な考えだろう。日本の優れた文化は地方に住む職人やその家族が営々として築いてきたものだということに想像力が及ばないのだ。
地震が発生したのは午後4時過ぎ。日没まで一時間しかない。停電で真っ暗闇の中、倒壊した建物の下敷きになって救助を待っている人たちは、翌朝まで最低12時間以上瓦礫の中に閉じ込められたままである。そのまま圧死した人もいれば、焼け死んだ人もいただろう。道路が損壊しているので翌朝になってももちろん救助隊はやってこない。
国のトップは正月気分で官僚からの報告をただ待っているだけ。痴呆のように新年会をはしごしていたのだ。国民のことを第一に考えるリーダーなら正月休み返上で、すぐ自衛隊の出動を要請するはずだ。大型ヘリコプターで電源車と重機を運び、倒壊した建物を照らし、夜を徹して救助に当たったことだろう。
岸田首相は40億の予備費の投入を宣言し、その後批判されて47億に増額した。バカか。しかも各戸に一律10万円、最大20万円の「貸付」を行うと発表した。これが棄民でなくて何だ。
大阪万博の木造リングには350億円をかけている。しかも半年後には取り壊されるのだ。自分たちの懐を肥やすものには税金を湯水のごとく投入する。国民が望んでもいない「大阪万博」に「機運醸成費」と銘打って莫大な税金が注がれ、広告代理店やイベント会社に落ちていく仕組みが出来上がっているのだ。
「機運醸成費」とは、「大阪万博」に賛同するように仕向ける「世論操作」のための税金である。国民から巻き上げた税金で、国民を標的とする「世論操作」を行う。福島第1原発事故の「風評対策費」と同じである。
博徒と犯罪者の集団、維新の会の吉村知事は万博と復興は二者択一ではないと言った。十倉経団連会長も同じ表現を使って万博を後押ししている。つまり、何が何でも万博はやる、と言っているのだ。しかし、被災者と国民の立場に立てば二者択一なのだ。政治家の最も基本的な責務は国民から集めた税金を公平公正に使うことである。維新の博徒たちはその能力を根底から欠いている。
それにしても、前にも書いたが、万博リングの設計者である「才能ある気鋭の建築家」藤本壮介氏はこの事態をどう考えているのだろうか。建築家のあずかり知らぬことだと考えているのだろうか。
頭のいい人間は、いとも簡単に葛藤から自由になる方法を身につける。逆に、それができるからこそアタマガイイと言われるのだ。それにしても金儲けと売名を第一義とする集団を批判する建築家はいないのだろうか。そうだとすれば、倫理観と想像力を欠いた人間たちによってこの国の風景は平準化し堕落し、そこに住む人間たちは静かに発狂していくことだろう。
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Pottery&Teahouse「而今」で、来し方を振り返り、この国と世界の行く末を見とどけたいと思い、今はその準備に一日の大部分の時間を割いている。「而今」では、来客があれば、自作の茶碗の中から一つを選んでもらい、それでお茶を点て、静かに時を過ごしたいと空想している。
「いやな場所には絶対近寄らない」と以前ブログに書いたが、滅びに向かうこの国は今や修復しようのないほど分断が進み、たまにまともなことを言う人間がいれば、よってたかって相対主義、多様性の海へ沈めてしまおうとする。「それはあなたの感想ですよね」「思い込みによるパフォーマンスですよね」というわけである。
能登半島の地震で多くの人が死に、家を失い、避難所生活を余儀なくされているにもかかわらず、原発は粛々と再稼働すると言い放つ総理大臣。避難する道路がズタズタになっていて、逃げ場がないにもかかわらずだ。
能登町に入った山本太郎に批判的な時事通信社は、記者会見の場で官房長官に「れいわ新選組の山本太郎代表が石川県能登町に入った。山本氏の行動が適切とお考えか。被災地を離れるよう求める考えはあるか?」と質問した。官房長官は「コメントは差し控える」。
唖然とするしかない。これが今の日本の政治とマスコミのレベルである。
政治家も財界人もマスメディアの人間たちも、すでに美味しい果実を十分手に入れているにもかかわらず、それを国民に還元しようとも思わず、私腹を肥やし、挙句の果てにルサンチマンの虜になっている。
ルサンチマンは人間の醜さを白日の下にさらす。自分たちの仕事がどれほど愚かで道を見失ったものであるかを指摘する人間がいれば、その人間を貶めることに全力を傾注する。卑小な人間はソクラテスの昔からいる。いい歳の高学歴人間たちが嫉妬に狂っているのだ。
自民党と経団連、維新、国民新党そして電通、パソナ、吉本。彼らには羞恥心はおろか罪悪感もない。自分たちが日本の経済を担っていると信じているからだ。実際は国民の税金を吸い上げて公共事業で山分けするヤクザであり、犯罪者の集団であり、博徒でしかない。
彼らにどう反撃すればいいのか。反撃できるのは国民だけだ。山本太郎はその先頭に立てる人間である。
https://youtu.be/cfdNo89dlNk?si=qN9ASYfIzq2O8yWL
私はこんな国に生きていることが恥ずかしい。苦しい。そこでこの国にはもう一つの国があると思うことにした。そこで生き生きと生きることで反撃を開始する。
ところで、今回の地震で最も甚大な被害を受けた輪島で塗師をしている赤木明登氏の安否が気になっていたが、元気だとわかり安心する。彼の新著をてがかりに、もう一つの国の豊かさを一人でも多くの人に実感してもらいたい。
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生きているときは発言や行動に目を奪われてなかなかその人の本質にたどりつけません。頭にきたり、後悔したり、憎んでみたり、逆に愛し過ぎてしまうのです。要するに、実存としての人間に振り回されるわけです。
しかし、ある人が死んで、世界のどこを探しても二度と再び会えないとわかると、その事実が余計な思いをさせなくなります。ここにおいてです。その人が持っていた本当の価値が分かるようになるのは。それは地震で崩落した崖から過去の堆積層が現れるようなものです。
昨日は義理の妹のお父さんが亡くなり、妻と葬儀に出席しました。九十二歳でした。弱音を吐かず、人の悪口を決して言わない人でした。母も私たちもいろいろなところに連れて行ってもらいました。
該博な知識を持っていても自慢することなく、常に人の良い所を見つけては褒める人でした。肉体はいつか滅びます。しかし、その人に寄せていた想いというか感情は残ります。まるで脱いだばかりの服がそこに置かれたままになっているように。
以下は義理の妹が追悼のしおりに書いていた文です。私は何度も読み返し故人を偲びました。
〜激動の時代を力強く生き抜いた父〜
「ありがとう…そしてお疲れさまでした」
情熱的で愛情深い人でした。
本と外国映画が大好きで、人に優しくてサービス精神旺盛。
行きつけの喫茶店で出会った人と仲良くなっては交友関係を広げていました。
子供時代を満州本渓湖で過ごし敗戦一年後に別府に引き揚げ。その間大変な苦労をしたとか。
竹田高校から熊本大学に進学しましたが、学生運動にのめり込んで勝手に上京。亡き祖父母にはとても心配をかけたようです。
鶴崎高校、大分工業定時制の教師時代は、公害反対の研究会を作り、住民と一緒に精力的に活動していました。
五十八歳で早期退職した後は、光厳寺の住職と勝光寺の住職も途中兼務して多くの檀家さんから慕われていたようです。安心院と大分の往復は傍で見ていても大変そうでしたが、疲れたと言っているのを聞いたことがありません。
ドライブが好きで、五十年間で乗った車は何と十六台。旅行も好きで、晩年は孫たちや満州時代の同級生、親戚御三家で旅行に行くのを楽しみにしていました。また、私たちの影響で韓国のドラマと映画にはまり、ビデオを十本借りてきては一気見していました。結婚五十周年のお祝いに家族四人でソウルに行ったのが良い思い出です。
父の人生は出会いと縁で彩られていました。同級生や親しかった方々の多くはすでに鬼籍に入っていますのでこれから再会できることでしょう。太陽のような父の姿はいつまでも私たちの胸に生きています。
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「バベルの塔」とは、旧約聖書の「創世記」に登場する伝説上の高層建築物の通称で、 神の怒りを買った「人間の驕りの象徴」とされ、今日でも「思い上がった実現不可能な構想」の代名詞となっている。
「麻布台ヒルズ」は、森ビルによれば「世界中から超一流の才能が結集し、一丸となって計画全体を練り上げてきました。」とのことである。コンセプトは「多様でありながら一体感のある、唯一無二の街」だそうだ。私にはエイリアンのグロテスクな手足がビルに吸い付いているようにしか見えないのだが・・・
「麻布台ヒルズ」東側エントランス
関西万博 大屋根(リング)のコンセプトも「多様でありながら、ひとつ」である。
それにしても、建築家の隈研吾氏が東京オリンピックに際して国立競技場を設計してからというもの、大小を問わず(中にはスターバックスコーヒーの店舗まである)至る所に氏の設計になる木造建築が建てられている。
関西万博 大屋根(リング)を見た時、隈研吾氏が関係しているなと思ったが、案の定その通りであった。ゼネコン大手の大成建設と隈研吾建築都市設計事務所が落札した。
隈氏は、大阪万博の会場はカジノを建設するための口実であり、税金が湯水のごとく使われ、人々の生活は苦しくなる一方であることなど意に介さなかったのであろうか。
21世紀に入り、3・11とコロナを経験した後でさえ、ますます加速化する経済活動の到達点が関西万博であり、このプロジェクトは「バベルの塔」の建設そのものだとは考えなかったのだろう。金と権力は建築家の想像力まで衰弱させてしまったのだ。
あちこちに雨後の筍のごとく隈氏設計の建物が建つのを見て、私はウォルター・リップマン(米国のジャーナリスト・コラムニスト・政治評論家、1889〜1974)の言葉を思い出した。
When all men think alike, no one thinks very much.
(皆が同じように考えている時は、誰も深く考えていない。)
ところで、大屋根(リング)は、万博の会場デザインプロデューサーである建築家の藤本壮介氏が建設を要求し2020年12月に加えることになったものである。
藤本壮介氏と言えば、元塾生のK君と大分市にある「House N」を見学に行った時のことを思い出す。K君は建築家志望の学生で、中津にある『風の丘斎場』の見学にも行った。「House N」は藤本夫人の両親の家である。夫人の御両親は気持ちよく私たちを迎えてくれ、しばし歓談した。
藤本壮介氏が2008年に完成させた大分市の住宅「House N」
その藤本氏、以前はインタビューで次のように答えていた。
「一番影響を受けたのは『混沌からの秩序』(I・プリゴジン、I・スタンジェール著/みすず書房)という本だと思います。これは、ノーベル化学賞をとった物理化学者が書いた、その世界ではとても有名な本です。昔のことなので、細かい内容は忘れてしまいましたが、近代がもっていた「大きな秩序」に対して、部分と部分の関係から生じる「部分からの秩序」がありえる、というメッセージに衝撃を受けたことを覚えています。」と。
藤本氏はメッセージに衝撃を受けた自分と万博 大屋根(リング)の建設を要求した自分を一個の人格の中でどのように統御しているのだろうか。少なくとも、万博 大屋根(リング)は時代にそぐわない『大きな秩序』を志向するものではないのか。
最後に、大分市の住宅「House N」を見学した時、藤本氏の現在地を予感していたことを付け加えて今回のブログを終わりたい。
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人間は感情が劣化すればその上に築かれるいかなる論理も空理空論になるのだ。「論理的思考とは具体例を豊富に、かつ整合的に使う思考です。なぜなら、人が生きるのは、机上の理論よりもはるかに複雑な事実の世界だからです。」と、過去記事の中で書いた。
開成中学・高等学校長 − 柳沢幸雄氏を批判する。
http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=614
自民党の議員は痛いところを衝かれると「個別具体的な案件についてはコメントを差し控える」と胸を張っているが、国会は個別具体的な案件について議論する場ではなかったのか。一般論に逃げて「コメントを差し控える」のなら議員を辞めろ、と言うしかない。
自民党の中にはたまに不心得者がいるのではなく、自民党という母集団が腐っているのだ。だから誰が閣僚になっても同じだ。官房機密費という国民の税金を飲み食いに使い、東京オリンピックを誘致する賄賂として使った。それをドヤ顔で暴露する馳浩知事は自民党議員の典型である。
私の言っていることを疑う者は、以下の動画を見よ。これこそが国会議員の仕事であり、常に国民のことを第一に考えている政治家の顔だ。
山本太郎の国会質問!参議院・予算委員会(2023年11月28日)
https://youtu.be/2O4Rh4JDMq4?si=0qa-zgSvbY1bP5nw
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この映画の監督と脚本を手がけたのは『燃ゆる女の肖像』のセリーヌ・シアマ監督です。『燃ゆる女の肖像』は18世紀のフランスの孤島を舞台にした女性どうしの愛を描いたものですが、始まるとすぐ引き込まれました。映像の美しさだけではなく、人や物の存在感が際立っていました。エンディングでヴィヴァルディの四季の中の『夏』が流れた時には、本当に感動しました。あちこちに伏線が張られ、それが回収されるエンディングは半ば予想できるものであったとしても、それでも驚きと新鮮さがありました。愛に男も女も関係ないと感じさせる説得力を持つ、余韻の残る映画です。
その同じ監督が次に作ったのが『秘密の森の、その向こう』です。娘・母・祖母の3世代をつなぐ喪失と癒しの物語です。わずか72分の映画ですが、最後のシーンで少女ネリーが母親にかけるひと言が魂を揺さぶります。観た後、しばらく座席に沈み込んでいました。
私は拙いながらも時間と記憶をテーマにして思索を巡らせてきましたが、この映画からはいろいろなインスピレーションをもらうことができました。特に母親を亡くした喪失感からなかなか立ち直れなかった経験を持つ女性に勧めたいと思います。そして人生を深く生きたいと思っている人にも。どちらもPrime Videoで観ることができます。
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日本のテレビ、新聞が日々垂れ流している映像や情報が作り上げた社会のイメージは現実ではない。それを現実だと思い込んで生きることは夢の中を生きているようなものだ。
「夢から覚めて現実に戻る」という表現があるが、戻った現実が夢ではない保証があるのか。私たちが見ているのは現実ではなく、「現実だと言われているもの」「現実だと思わされているもの」に過ぎない。
3・11で私たちは現実に直面した。そして夢から覚めたと思った。が、それも一瞬で、数年を経ずしてまた夢の中に逆戻りしてしまった。汚染水の海洋投棄といい、東京オリンピック、大阪万博と続くイベントは、「原子力、明るい未来のエネルギー」というキャッチフレーズを誰もが疑わなかった世界へと逆戻りさせるものだ。
だから「イベント人間は信用できない」を書いた。それも遠い昔の気がする。私は欺かれたくない。捏造された現実の中で生きるのはまっぴらごめんである。
現実とは何かという問題は次回にまわす。といっても、私のブログはこの問いの周辺をぐるぐるまわっているだけで、またか、と思われるだけだろう。生産的なものではない。ただ、思考のぐるぐるまわりを怠ると夢の中に引きずり込まれてしまう。できればボケるまでは覚醒していたいものだ。
私にとって現実に直面する機会を与えてくれるのは、SNSやテレビではなく、読書と映画だ。これらは現実から逃避するもののように思われている。しかし、まったく逆だ。人間は読書や良質の映画を観ることを怠ると、他人に、特に若い人に対して「現実を見よ」「そんなことをしていると食えないぞ」と言うようになるのだ。
というわけで、昨日観たのが以下の映画。「意識低い系」の私が、現実に向き合い、覚醒するための映画だ。事実に基づいて作られた。私の感想など不要だ。
映画『私はモーリーン・カーニー』。シネマ5bisで11月17日まで。
パンフレットの紹介記事より。
― 世界最大の仏原子力発電会社の労働組合代表モーリーン・カーニー。会社とその未来、従業員5万人の雇用を守るため、中国とのハイリスクな技術移転契約の内部告発者となったモーリーンが、自宅で何者かに襲われるというスキャンダラスな事件が起きる。耐え難い肉体的暴力と、それを自作自演だと無理やり供述させようとする権力側からの精神的暴力。被害者から容疑者へと真逆の立場に追い込まれながら、屈することなく闘い続け、無実を勝ち取るまでを描いた実話の映画化。最悪の状況からなぜ彼女は立ち直ることができたのか・・・。―
今死にたいと考えている人、そして夢の中を生きている連合の会長・芳野友子氏にこの映画の感想をぜひ聞いてみたいものだ。