私は、日々の生活から政治を遠ざけ、できることなら関わりたくないと思ってきました。なぜなら、政治ほど人の善意をほんろうし、実践的勇気を悪用するものはないからです。
政治にうとい、政治に深く思いを致したことのない人間ほど、軽はずみに政治の世界に飛び込みます。その結果、私たちの生活が政治の犠牲になるというおぞましい光景を幾度となく見てきました。しかし、黙っているのは余りに精神衛生上悪いので、友人に話しかけるつもりで書いていこうと思います。
時計が遅れている時、長針・短針そのものに手を触れ、強引に正しい時刻の位置まで動かすとします。確かに一瞬、針は正しい時刻を指します。しかし、強引に針だけを動かせば、時計内部のメカニズムはこわれて、時計は動かなくなります。針の位置を力で動かしたのが間違いなのです。こんなことは小学生でもわかることです。
安倍政権のやっていることはまさにそういうことです。原因と結果の区別がつかない政治家が違憲の安保法制を強引に成立させようとしています。一番「権力を握らせてはならない種類の人間」が、権力を握っているのです。
前にも書きましたが、民主主義は論理的に整合性のある言論を前提にしています。これに対する信頼が揺らげば、民主主義は死んでしまいます。国会の内外を問わず、論理的な議論で安倍政権は「完敗」しています。「反則勝ち(論点のすり替えやはぐらかし)」で当座をしのいでいるに過ぎません。「論理的に反論できないなら威圧と恫喝で黙らせればいい」という苛立ちが噴出しています。
この苛立ちを象徴するものが、25日、自民党本部で初会合があった『文化芸術懇話会』です。安倍首相に近い若手議員が立ち上げた勉強会です。この勉強会の「名前」に注目すべきです。『文化芸術懇話会』。
彼らの言う「文化」や「芸術」とは何を意味するのでしょうか。この「名前」は、政治権力が羊の皮をかぶったオオカミであることを隠すカモフラージュに過ぎません。しかも、歴史上繰り返し使われてきた陳腐極まりない「名前」です。
安保法制の実体は違憲の戦争法案にほかなりません。戦争法案を可決するには、国民の同意が必要です。その国民の意見をコントロールするために政権は様々な手を打ってきます。
『懇話会』の出席議員からは『マスコミを懲らしめるには広告料収入がなくなるのが一番。経団連に働きかけて欲しい』『悪影響を与えている番組を発表し、そのスポンサーを列挙すればいい』など、政権に批判的な報道を規制すべきだという声が上がりました。
そして、講師役に首相の応援団である(安倍首相の再登板を再三再四要請し、それに励まされたと首相本人が言っている)作家の百田尚樹氏が呼ばれました。日ごろから、自分たちの考えを正当化し、強化してくれるベストセラー作家を呼べば、「文化」と「芸術」の香りがするとでも思ったのでしょうか。それに何と言っても、親分のお友達を呼んで話を聞くことは、親分の覚えめでたくなると踏んだのでしょう。
百田氏は常々「愛国者」を自称しています。しかし、基地を作るのに反対する地元の住民に「お前ら金目的」だの「お前ら左翼」だのと言い「沖縄の二つの新聞はつぶさなあかん。あってはいけないことだが、沖縄のどこかの島が中国に取られれば目を覚ますはずだ」と主張する「愛国者」とは。きっと、百田氏の頭の中では、沖縄は日本ではないのでしょうね。
私たちがしなければならないことは、この種の倒錯した「愛国者」の具体的な発言を非難することよりもむしろ、彼らに割り振られた役回りについて考えることです。
すでに、安倍政権は、『文化芸術懇話会』の演出された「過激」な発言に国民やマスメディアの関心を引き付けることに成功しました。彼らは自民党の中の過激分子であり(実は本流なのですが)、それと一線を画す法案は穏健妥当なものだとの印象操作をしたのです。
パクリ作家の百田尚樹氏やチンピラ・ヤクザ弁護士の橋下徹氏、橋下氏の子分である大阪府知事の松井一郎氏といった、お調子者の面々が、いかに安倍政権に利用され、猿回しのサルよろしく芸を仕込まれているのかは明日のブログで書きたいと思います。