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《目次》
プロローグ
第1章 テレビマンとは何者か
第2章 大事なのは、誰と仕事をするか
第3章 表現とタブー
第4章 放送は常に未完である
第5章 世の中には理解不能な現実がある
第6章 ドキュメンタリーを、誰が求めているのか
第7章 「ダメモト」が表現世界を開く──〈司法シリーズ〉のこと
第8章 「ドキュメンタリー・ドラマ」とは何か
第9章 あの時から、ドキュメンタリーは閉塞した世界だった
第10章 題材は探すのではなく、出会うもの
第11章 組織の中の職人は茨の道
第12章 「わかりやすさ」という病
第13章 樹木希林ふたたび
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まず私たちの生命と暮らしを脅かす事実を知ること。それにたいしてどのような認識を持つのか。この国のみならず、世界を壊滅させる災厄とどう向き合うのか。次世代に対してどう責任を取るのか、そもそも責任を取れるのか。自分に何ができるのか。この現実にどう向き合うのか。それを教えるのが教育のはずだが、この国には教育も哲学も存在しない。
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「最悪」の核施設 六ヶ所再処理工場 (集英社新書)
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小出 裕章,渡辺 満久,明石 昇二郎
原発よりもはるかに危険な六ヶ所村再処理工場。私たちの日々の生活が薄氷の上で営まれていることを痛感させられる。同時に、この国には「国民の生命・財産・自由を守り抜く!」と威勢のいいことを言う総理大臣と無能の政治家しかいないことに絶望する。核燃料サイクルと言い、下北半島の再処理工場と言い、3兆円以上の国民の税金がつぎ込まれ、いまだ後始末も将来の見通しもたっていない現実をどう考えているのか。彼らは核兵器を持ちたいという願望と税金をロンダリングして私腹を肥やすことしか眼中にない。北海道の地震だけに目を奪われてはならない。六ヶ所村は今回の震源地の目と鼻の先にあるのだ。
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D.J.ブーアスティン
私にとっては古典の中の古典。三度読みました。そしてその慧眼にいまだに驚いています。
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殺人犯はそこにいる (新潮文庫)
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清水 潔
ジャーナリストと称する職業がある。自称ジャーナリストもいれば、テレビのコメンテーターとしてリベラルに媚びる政権批判をし、名を売り、講演で稼ぐ職業をジャーナリストと呼ぶ者もいる。とんだ茶番である。ジャーナリストとはどこまでも「事実」を追いかける。テレビに出て能天気な解釈や感想を垂れ流している暇などないはずだ。ジャーナリストを志す若い人には清水氏の著作は避けて通れない。その名に値する本物のジャーナリストがここにいる。
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デジタル・ポピュリズム 操作される世論と民主主義 (集英社新書)
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福田 直子
おそらく自民党・安倍政権はSNSを駆使し、分析するデータサイエンス(日本版なのでレベルはまだ低いですが)の重要性に着目し、選挙にどうすれば勝てるか、自分たちに有利な世論を形成し、国民を誘導・分断するにはどうすればいいのかが分かっているのです。そのためのノウハウも蓄積しつつあります。安倍首相の貧困な語彙力からは想像できないカタカナ言葉を聞いていると、それがSNSを分析している集団から教えられたものであることがよくわかります。ただ彼らの致命的な弱点は将来の社会を導く理想がないことです。おそらく、思いもかけない結果が待っていることでしょう。なぜなら、所詮、彼らはアメリカとビッグデータの奴隷でしかないのですから。これからの政治は、好むと好まざるとにかかわらず、この本に書かれていること抜きには語れなくなっているのです。
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安倍政権に対するメディアの忖度が云々されていますが、元々同じ穴のムジナなのです。忘れてならないのは、日中戦争から太平洋戦争にかけて、日本の世論と新聞のほぼ全部は好戦的・拡張主義的だったのです。しかも、当時はまだ言論統制体制が発足していなかったのです。この本は、そうした「一貫して好戦的な世論とそれに便乗する新聞」が先導し、近衛文麿はじめ文民政治家がそれに便乗、軍部がさらに便乗、という構図を一次資料で克明に論証しています。安倍政権を支持するネトウヨの皆さんの日本語力では、まともな読解は無理ですので勧めません。一方、正確な歴史を知るためには「世論」の不気味さを知ることだと気づいている若い人には是非一読を勧めます。
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茫漠の曠野 ノモンハン
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松本草平
著者は大分市にある『天心堂へつぎ病院』の院長、松本文六氏の御尊父、松本草平(本名松本弘)氏です。詳しくは、ブログで紹介したいと思いますが、第一次資料として極めて価値の高いものです。40年ぶりに復刻版を出された松本文六氏と出版社に感謝する他ありません。
戦略も何もない、無謀・無慈悲な戦争を語り継ぐことは、最も崇高で重要な人間の営為だと私は考えています。作家の司馬遼太郎氏は、電話で草平氏に次のように伝えてきたそうです。「先生の臨場感のあるノモンハン戦記に出会えて本当にありがとうございました。私は大東亜戦争の折、戦車隊の一員として従軍しましたが、先生の従軍記以上のものを創ることはできません。」と。
一人でも多くの方がこの本を読まれることを望みます。ちなみに松本文六氏は伊方原発差止め訴訟の原告でもあります。その縁で、この本に出会うことができました。
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「南京事件」を調査せよ (文春文庫)
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清水 潔
全国のネトウヨの皆さんへの推薦図書です。清水氏のこの本を読んでから、「南京事件はなかった!」「南京事件は捏造だ!」と叫びましょうネ。
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広瀬隆
広瀬氏をアジテーターだの、オオカミ少年だの、悲観主義に過ぎると言って批判する人がいる。しかし、ブログで何度も述べてきたように、真の悲観主義こそがマインドコントールによって奴隷根性のしみ込んだ私たちの精神を浄化してくれるのだ。そもそも無知では悲観が生まれようもないではないか。国などいくら破れても結構。せめて山河だけでも次世代に残そうと考える人ならぜひとも読むべき本である。いや、これから幾多の春秋に富む若い人にこそすすめたい。
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チャヴ 弱者を敵視する社会
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オーウェン・ジョーンズ,Owen Jones
【本書への賛辞】

「怒りが生んだ、最高の本」
──ガーディアン紙

最高の論争がみなそうであるように、知性に裏打ちされた怒りが本書を支えている。
──エコノミスト誌

暴動や世界中に広がったオキュパイ運動に照らして考えると、分断社会に関する著者の鋭い分析は、
不気味なほど未来を予知していたことがわかる。
──アートフォーラム誌

情熱と、思いやりと、すぐれた道徳性が結実した仕事だ。
──ニューヨーク・タイムズ紙

政治の定説を見直す大胆な試み。著者は戦後のイギリス史を縦横無尽に往き来し、
階級、文化、アイデンティティといった複雑な問題を軽々とまとめてみせ、
結果として「階級」問題に火をつけ、大きな効果をあげている。
──インディペンデント紙

いまの制度が貧しい人々を見捨てていることに対する苛烈な警告──それが本書だ。
──ブログサイト「デイリー・ビースト」

ジョーンズは、「地の塩」だった労働者階級が政治のせいで「地のクズ」と見なされるようになった経緯を見事に説明している。
──タイムズ紙

この本は、新しいタイプの階級嫌悪と、その裏にあるものを痛烈にあばいて見せてくれる。
──ジョン・ケアリー(The Intellectuals and the Masses著者)

これは「イギリスはおおむね階級のない社会である」という考え方への、論理的で情報満載の大反撃だ。
──オブザーバー紙

情熱的で示唆に富む……この声が届くことを心から願う。
──スコットランド・オン・サンデー紙
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紹介していない本が山のようにあります。数日前にこの本を本棚の奥から引っ張り出し再読しました。いや〜面白かった。。とにかくこの本のことを忘れていた自分が信じられない。読んでない人に熱烈に勧めます。ハイ。
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英語の実際的研究 (1969年)
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秋山 敏
高校生にとって、今でも一押しの不朽の名著。でもこの本をことを知っている英語教師は少ないと思います。是非復刊してほしいものです。
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スノーデン 日本への警告 (集英社新書)
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エドワード・スノーデン,青木 理,井桁大介,金昌浩,ベン・ワイズナー,宮下紘,マリコ・ヒロセ
2017年4月18日、朝日新聞がようやく「パノプティプコン」を取り上げました。遅すぎますね。
これから先の日本社会は、ますます荒廃が進み、国民の不満が頂点に達し、やがて爆発します。それを未然に防ぐために、国は国民の監視を強化します。
実際アメリカでは「愛国者法」により、電子メールや携帯の通話履歴が監視の対象になっています。誰が、いつ、どこで、何を読んで、誰と通信を交わしたか、すべて国に筒抜けです。
「パノプティプコン」とはフランスの哲学者フーコーが用いた概念ですが、国民が刑務所の囚人のように監視される体制を言います。監視者の姿は見えませんが、囚人は監視者不在でも、監視を意識することによって管理統制されるのです。これを「パノプティシズム」と言います。
このシステムから解放されるためには、権力がどう管理・統制しようとしているかを知らねばなりません。この本はそれを知るための第一歩です。あなたが無知のまま、奴隷の人生を送りたければ、読む必要はありません。
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A.ミラー
アリスミラーのこの本は、塾を始めるきっかけになりました。ただ生活のためだけなら、他のことをしていたでしょう。『才能ある子のドラマ』とあわせて、当時の私には衝撃的な本でした。人生はどこでどう転ぶかわかりません。人間の奥深さを知ることで、何とか自分を維持していたのです。この本を読むと当時のことが、ありありと思い出されます。ある意味で、私の人生を方向づけた本かもしれません。
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NHK「東海村臨界事故」取材班

2月18日のブログでも書きましたが、仕事のために読むビジネス書の類は、最終的には効率を重視し、最小の資本と労力の投下で、いかにして最大の利益を上げるかということに尽きていると思います。そのための働き方改革であり、そのための賃上げです。そのための人心掌握術であり、顧客対応です。ビジネス書を読めば読むほど、人間は軽薄になり、視野が狭くなっていきます。もしあなたがそれを自覚するきっかけがほしいなら、是非この本を読むことを勧めます。読書はビジネスのためにするのではないということが分かると思います。この本は私たちの日常の風景を一変させるだけのインパクトを持っています。いわば、ことばの最高の意味における「闖入者」なのです。
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服従
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瀬木 比呂志
この本はまだ発売されていません。自分で読んでいない本を推薦するのは邪道でしょう。しかし、これまでの『絶望の裁判所』『ニッポンの裁判』(ともに講談社現代新書)に続く裁判所、司法批判の第3弾が長編の権力小説だということで、過去2冊の本の面白さからして、推薦に値する本だと思いました。『原発ホワイトアウト』の最高裁判所ヴァージョンだと思います。読んでからコメントを追加したいと思います。
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そして、僕はOEDを読んだ
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アモン・シェイ
学校なる場所に通っていた時、毎年夏になると課題図書を読んで、読書感想文を書かねばならないのが苦痛でした。課題図書の選定には学校と書店の密約があるに違いないと思っていたくらいです。

偶然巡り合った面白い本の感想を書くのならまだ我慢できたかもしれません。つくづく学校というところは、余計なことをしてくれると思ったものです。

あまりにめんどうくさいので、「あとがき」を参考に、あらすじを書いて提出したら、トリプルAをもらいました。

学校というところは、もしかしたら、人生の退屈に耐える訓練をする場所だったのかもしれません。この本を読んで、改めてそのことを確認しました。別に先生を責めているわけではありません。それほど自覚的に生きるということは難しいのだとため息をついているだけです。
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選挙 [DVD]
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想田和弘監督の観察映画。音楽による演出は一切なく、徹頭徹尾監督の視点で撮られたドキュメンタリー映画。見終わった後、日本の選挙風土の貧困さが浮かび上がる。この国に民主主義はない、ということを改めて確認し、そこから出発するしかない。その勇気を持つ人には必見の映画です。合わせて『選挙2』もどうぞ。
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マックス ヴェーバー
ウェーバーの死の1年前、1919年、学生達に向けた講演の記録です。
一部抜粋します。

「自分が世間に対して捧げようとするものに比べて、現実の世の中が―自分の立場からみて―どんなに愚かであり卑俗であっても、断じてく挫けない人間。どんな事態に直面しても「それにもかかわらず!」と言い切る自信のある人間。そういう人間だけが政治への「天職」を持つ。」(P105〜106)

「さて、ここにおいでの諸君、10年後にもう一度この点について話し合おうではないか。残念ながら私はあれやこれやいろんな理由から、どうも悪い予感がしてならないのだが、10年後には反動の時代がとっくに始まっていて、諸君の多くの人が―正直に言って私もだが―期待していたことのまずほとんどは、まさか全部でもあるまいが、少なくとも外見上たいていのものは、実現されていないだろう。」(P103〜104)

10年後には、ワイマール体制は機能不全に陥り、1933年にはヒトラーが首相に就任します。

平和憲法は、日本人にとって310万人の命と引き換えに手に入れた唯一と言っていい理念であり、アイデンティティーでした。その唯一の誇りを、日本人は損得勘定で葬り去ろうとしています。言い古された言葉ですが、歴史は繰り返すのです。
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中沢 新一
小学校を卒業するころ、将来なりたい職業として思い描いていたのが、天文学者か生物学者でした。プロ野球選手は、自分のセンスでは無理だと悟りました。物ごころついたころから興味があったのは宇宙や昆虫や植物の世界でした。そんなわけで南方熊樟に出会うのは必然的な成り行きだったのです。人間は言葉によって世界を把握しますが、それ以外の把握の仕方があるはずだと、ずっと思ってきました。南方熊樟は、小林秀雄と同じく、直観による世界の把握の仕方を教えてくれました。この本は、言葉によって構成された世界秩序の外に出て、世界を改めて考えたい人に大いなるヒントをあたえてくれます。安倍政権によるゴキブリのフンのような、あまりにばかばかしい政治状況を見せつけられているので、精神の衛生学として一気に読みました。
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こどもの教育から裏金を使ったオリンピック誘致、原発再稼働、戦争準備から武器の売却、安倍政権の裏の権力としてメディアに絶大な影響力を行使する電通。私たちは電通が作り上げた「箱」の中でいいようにマインドコントロールされている。自分の意見だと思っていたものが、実はそう思わされていただけだということに気づかなければならない。音楽をはじめとする芸能情報、その中で踊らされるミュージシャンやタレント、果てはデザイン業界までを席巻する。今や電通の介在しないメディアはないと言ってもいい。利権あるところに電通あり、です。
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前作『日本はなぜ「基地」と「原発」止められないのか』に続く著者渾身の力作。自分の人生を生きたい人にすすめます。ただそれだけです。18歳で選挙権が与えらる高校生が政治を考える際の基本的なテキストになる日がくるといいですね。無理でしょうが。これ以上余計なコメントはしません。まず手に取ってみてください。
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メディアで取り上げられるよりはるか前から日本会議の存在について私は言及していました。電通と同じくタブー視するメディアには心底失望したものです。報道すればタブーはタブーでなくなるのです。何を恐れているのでしょうか。干されれば、何とか生活をする工面をすればよい。それだけのことです。
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磯崎新
帯に「祝祭都市にスタジアムはいらない」とあります。そもそも2020年まで天災と原発事故をやり過ごし、経済危機を乗り越えて存在しているでしょうか。極めて怪しいですね。偶然書店で手に取って読みました。彼の文章を読むと、建築は現世の権力に奉仕するものではなく、想像力の王国を作るものだと思わされます。建築にそれほど興味のない人でも、読めます。いや、いつのまにか引き込まれているでしょう。
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りぼん・ぷろじぇくと
難関中高一貫校で学び、東大に合格しても、それはもはや知性のバロメーターではありません。この本に書かれていることが真実だと見破れることこそが本物の知性です。ニセの知性は既得権益を守るためにはどんな屁理屈でもひねり出します。おまえは何も知らないと言って他人を見下し、金と権力におもねるのです。ニセの知性は理想の灯を掲げることができません。「脳内お花畑」などという幼稚な言葉を使って揶揄するしかないのです。彼らの決まり文句は、他国が攻めてきたらどうするのかという、それこそ「脳内お花畑」的なものです。「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」とは、まさに至言です。
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烏賀陽弘道
私の元塾生の縁でお会いしたことのある烏賀陽弘道氏の渾身のレポート。事実を丹念に調べ上げ(これがジャーナリストの本来やることです)事実をして語らしめることのできる稀有なジャーナリスト。この本を読まずに福島第一原発の事故の本質に迫ることはできない。ダブル選挙の前に一人でも多くの国民が読むことを期待します。
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松岡正剛氏の本はどれも面白く、シリーズの千夜千冊を除けばほとんど読んでいます。『多読術』は、高校生にぜひ勧めたいと思います。高校時代に、この本を読んでおくと、さまざまな分野の知的見取り図を手に入れることができます。学校の授業だけではなく、この本を手掛かりにして知の荒野に歩みを進めてほしいと思います。
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カント
安倍首相は「この道しかない」と言って消費税を上げ、集団的自衛権の行使を可能にする閣議決定をし、公約とは正反対のTPPを批准することで、日本の文化=アイデンティティーを破壊しようとしています。

もし私たちが生き延びたければ、そのヒントがこの本の中に書かれています。日本は超大国の「夢」を代弁するだけの国になってはなりません。
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山本 太郎
山本氏の国会での質問を、本になって改めて読み直して感じることは、文字通り「みんなが聞きたい」質問をしてくれたということです。安倍首相が小学生に「なぜ政治家になったのですか」と質問された時、「父親も祖父も政治家をしていたからです」と答えていました。小学生相手に、何と言う悲しい答えでしょうか。語るべき理想を持たない政治家など、所詮は官僚に利用されるだけです。それに対して、山本氏には語るべき理想がある。「政治なんてそんなものさ」というリアリストが発散する腐臭を吹き飛ばすさわやかさがある。それは、彼の身体には収まりきれない理想が持つ力そのものです。彼は言います。「力を貸してほしい。少なくとも、あなたが必要だと思われる社会、私が必要だと思われる社会を作っていきたい。そう思うんです」と。日本の総理大臣にふさわしいのはどちらでしょうか。
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転換期の日本へ―「パックス・アメリカーナ」か「パックス・アジア」か (NHK出版新書 423)
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ジョン・W・ダワー,ガバン・マコーマック
おそらく、日本人自身よりも海外の知識人のほうが、日本の問題を正確にとらえていると思わせる本です。読み終えて何気なくテレビを見たら、わが大分県選出の国会議員、岩屋毅氏と江藤晟一氏が、2016年ミスユニバース大分県代表を選ぶ催し物に出ていました。名誉顧問だそうです。いかがわしい宗教団体をバックに票を稼ぐだけでは飽き足らず、こんな大会に顔を出して名前を売ろうとする。大分市長の佐藤樹一郎氏も出席していました。このお三方は、こんなことをするために国会議員や市長になったのでしょうか。国民の税金を使ってやることといえば、テレビに出演してにやけた顔をさらすことでしょうか。もう物事の軽重が全く分かっていません。せめてこの本くらい読んではどうでしょうか。私はこの本に書かれていることの大部分に賛成です。
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出版されてすぐ読みました。国会で、読んでもいないのに、安倍首相が躍起になって否定した事実が書かれています。蓮池氏はあちこちから人格攻撃の対象とされてきましたが、自分にも落ち度があったと認めています。自分は総理大臣なのだから落ち度はないと居直る人間とは好対照です。この本を読んで、拉致問題について今一度国民が考えることを望みます。
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2年半ほど前に求めて、一気に読みました。マルクスの『資本論』の中に書かれていることを、著者が自分なりに消化し実践していく過程が書かれているので、一種のドキュメンタリー文学として読めます。きっと著者と同じ思いの若者は全国にたくさんいると思います。かけがえのない一回きりの人生を、充実して生きたいと思っている人に勇気を与える本です。
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もう何と言うか、別世界を生きている人間です。彼の発する言葉は文学とは無縁です。人間が言葉を持ったのは、言葉にしがたいものを言葉にしようとするためです。政治家が発する言葉の軽さと言ったらありません。それだけ現実も軽いものになったということでしょう。
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鈴木大拙の言わんとすることが、ようやくわかりかけてきました。年齢を重ね、日本文化の基底にあるものをじっくり味わうことで開示される世界があるのです。日々の生活に追われていては、この本を読み、味わう暇などないでしょうが、それだからこそ手に取ってみてはいかがでしょう。
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人間は、条件次第で、喜々として殺人を犯す。そして、その条件を整備しつつあるのが、安倍政権とその背後でうごめく『日本会議』である。このことに気づいていても、「配慮する」ことを最優先して報道しないメディア(特にNHK・読売新聞・産経新聞)。そしてそこに寄生する学者やコメンテーター、芸能人。このドキュメンタリー映画は、彼らの自画像である。たまには、自らの顔をじっくり眺めてみるがよい。
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私が長年考えてきた問題を解明するヒントになりました。ブログで書いたように、まず感情を基にした結論があって、それを正当化するために人は「知性」を動員するという、ごく当たり前のことが書かれている。つまり、知の粉飾決算報告書である。
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食う寝る遊ぶ 小屋暮らし (JUGEMレビュー »)
中村 好文
中村さんの著作の中では、個人的に最も好きな本です。読んでいるだけで楽しくなります。限りなく優しい、でも、痛烈な文明批評です。これからの生き方のヒントが満載です。それを一人でも多くの人と分かち合いたいと思い、中村好文論・その3の中で引用させていただきました。
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暮らしを旅する
暮らしを旅する (JUGEMレビュー »)
中村 好文
以下は私がアマゾンのレビューに投稿したものです。再録します。
「もし人に幸福な生き方があるとしたら、中村好文さんのような生き方だろうと、ずっと思ってきました。
建築雑誌をパラパラとめくりながら、ふむ、と思って手が止まると、そこには必ずと言っていいほど中村さんの設計した住宅がありました。
文は人なりと言いますが、その人の書く文章のエッセンスがこれほど見事に建築にも表現されている例はめったにありません。
建築に限らず、食の分野でも、ことばと実物の乖離がはなはだしい時代に、中村さんの設計した住宅や美術館に出会うと、どこか安心するのですね。
そういうわけで、著者の本はすべて読ませてもらっています。
この本も偶然、年末に本屋さんで手に入れ、装丁やカバーの手触りを楽しみながら読んでいます。
読みながらいつの間にかほのぼのとしている自分を発見します。
一日に一編か二編を過去の記憶をたどるようにして読んでいます。
この本の平明さ、やさしさがどこから来るのか。そんなことを分析するのは野暮というものです。
とにかくこの素敵な小さな本は、旅のお供にどうぞ!とすすめたくなります。」
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ことばの森へ・その2
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    ― ここで、もう一度質問します。皆さんは自分の職業と、どうやって出会うのですか。あるいは、どうすれば自分の職業と出会えると思いますか。

     

     

    市場から送られてくる情報や人脈に頼らず、自分の職業を発見するにはどうすればいいのでしょう。僕の答えは全ての人を納得させるものではないと思います。ただ、規格化されないオリジナルな生き方をしたいと思っている人には、ヒントになるかもしれません。

     

     

    今の社会の分析は簡単に済ませました。忘れた人は思い出して下さい。要するに、単純労働の担い手は必要とされなくなっているということでしたね。そこから導かれる結論は2つです。

     

     

    1、この分野ではだれにも負けないというものを持っていない人は、仕事を得にくいということ。

    2、これまで当然だとされてきた考えを受け入れるだけで、自ら動こうとする意志と気力のない人は、淘汰されるということ。

     

     

    ある職業に就くことは、その分野の専門用語を身につけることを意味します。

     

     

    例えば医師になりたいとします。医学の専門用語を大量に覚えなければ、医師としての仕事はつとまりません。ことばを覚えるということは二つ以上のものの差異を識別するということです。「ことばとは差異に根ざした表現である」とソシュールも言っています。ある病気と他の病気の差異は、その病気につけられた名前を覚えることからスタートします。映像の助けを借りても同じです。映像を見て判断するのもことばによっているのですから。



    そこでもし、みなさんの中の誰かが、何かのきっかけで医学用語に出会ったとします。幸運をもたらす偶然は、悲しい出来事の中にもあると言いました。身近な人が難病にかかって不幸にも亡くなったとします。あなたはその難病の名前を忘れないでしょう。

     

     

     

    それがきっかけで、医学に興味を持ち、次から次に難病の症状、現在の治療法、その名前を全て覚えたとします。いや、覚えなくてもいいのです。ノートにできるだけ書き出すだけでもいい。そしてそのことばを眺めます。そのことばから、苦しんでいた母親や父親、妹や兄の表情を思い出します。その時、難しかった医学の専門用語があなたのものになるのです。

     

     

     

    そして気がつくと、あなたの前には、医師になる道が開けています。これは奇跡でもなんでもありません。ことばは、そういう力を持っているのです。適性とはその分野のことばを覚えることができるということなのです。

     

    もうひとつ例をあげてみましょう。

     

     

    皆さんは未成年者ですが、夕食の時、お父さんが飲んでいた焼酎を一口こっそり飲んだとします。それがS君だとします。S君はその美味しさに衝撃を受けます。こんな美味しいものがあるのかと。

     

     

    その衝撃はS君が大学生になっても残っています。コンパで入ったある居酒屋で、再びあの味に出会います。それ以来、S君は趣味で焼酎のラベルを集めはじめます。居酒屋に入ると決まってそこの主人と焼酎談議を始めるのです。そして焼酎文化の奥深さに魅了されます。部屋に帰って集めたラベルを見ていると、その味とともに、飲んだ場所や、その時交わした会話の内容までもがよみがえってきました。



    その時S君は、よし、一度メーカーを訪ねてみようと思い立つのです。そして地図を頼りに、全国の焼酎メーカーを訪ねます。大きな会社もあれば、家族経営の会社もあります。その土地の気候や風景も記憶します。

     

     

     

    気がついてみると、いつの間にか焼酎については誰よりも詳しくなっています。こうしてある日、S君は焼酎専門の居酒屋を開こうと決心します。そこで出す料理も研究しはじめます。銀行と交渉しながら、彼のノートには焼酎と料理に関することばが、ぎっしりと書き込まれていきます。様々な人と出会い、助け、助けられながら、客の笑い声が絶えず、彼の居酒屋は繁盛します。

     

     

     

    充実した日々を送っていても、S君の勉強意欲は衰えることを知りません。今度はワインを研究するためにイタリアやドイツ、南フランスを旅するようになります。S君の幸福な人生は、焼酎のラベルの収集から始まり、彼のノートの中にぎっしり書き込まれたことばによって花開いたのです。

     

     

     

    皆さんはこの二つの例を夢物語だと思うでしょうか。

     

    動物と違って人間は言葉を使うことができます。ことばがあるからこそ、僕たちは過去を振り返り、未来への展望を持つことができます。

     

     

    僕たちが生きるということの本質には、ことばがあるのです。ことばのセンスを磨き続け、ことばに敏感になって、常にことばのアンテナをはりめぐらして生きていくことで、人生はいくらでも豊かになっていきます。その仕事をしていて幸福だと思える職業についてほしい、と言ったことの意味は、こういうことだったのです。―

     

     

    | 人生 | 12:57 | comments(0) | - |
    ことばの森へ・その1
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      前回に引き続き、職業選択の話をしてみます。

      世の中には様々な仕事があり、どうすればその仕事につけるかという話は、その種の本を読んだり、ネットで検索したりすれば大方のことは分かります。しかし、あくまで大方です。

       

      現に仕事に従事している人から話を聞くことも、インタビュー記事を読むこともできるでしょう。しかし、聞いたり読んだりすることと、実際にその仕事に従事することは別のことです。大きな隔たりがあります。夢を抱いて仕事に就いたものの、こんなはずではなかったと思うことも多いと思います。逆に日々の仕事をこなしていくうちに、面白さが分かり、やりがいを感じてくることもあるでしょう。人はあらゆる職業を経験することはできません。時間は限られていますし、身体は一つしかありませんから。

       

      では、職業選択のミスマッチを避ける方法はあるのでしょうか。もちろん仕事である以上、一から十まで楽しいということはおそらくありません。しかし、その仕事にともなう不快な経験や苦労があったとしても、それでも総体としてこの仕事をしていてよかったと思えるような選択はできると思います。そして、多くの場合、ほとんどの人がやりがいを感じて充実した日々を送れる方法はあると思います。しかも、学歴(出身校)はほとんど関係ありません。役に立つこともあるという程度です。以下は塾のこどもたちに話したことをそのまま再現したものです。

       

      ― 塾に来て勉強するのは何のためでしょう。少しでもいい学校に入って、いい就職をするためですか。でも、「いい」学校や就職って何だろうか。そもそも誰が「いい」と判断するのですか。「いい」って、だれにとって「いい」んでしょうか。何だそんな話かと思いますか。今さらそんなこと言われなくても、社会が判断するにきまってるだろう、と思う人もいるでしょうね。実はその社会自体がどんどん変化しているので、この疑問はとても重要で本質的なことなんですが、今はそのことはひとまず置いておきます。

       

      僕がこんな話をするのは、実は以前テレビで見た忘れられないシーンがあるからです。それがいつまでも心に残っています。東京の深夜2時。24時間営業の弁当店で働いている青年の顔が忘れられないのです。客はいません。惣菜が並んだガラスケースだけが明るく照らされています。そこに調理帽とマスクをつけた青年がぽつんと立っていました。

      僕が大学生だった頃のアルバイトには、きつい半面、どこかそれを糧にできる雰囲気がありました。みんなが寝ている時に働くのだから、楽な仕事ではありませんね。でも、そうしたアルバイト学生を「がんばれよ」と励ます雰囲気が社会にあったのです。夜の向こうには人生を切り開いていくチャンスがいくらでも転がっているというような。

      しかし、状況は変わりました。アベノミクスというカンフル剤を打ったために、数字上は景気が良くなっているように見えます。しかし、持つ者と持たない者の格差は開くばかりです。
      生活保護受給者の数は今年の1月の調査では、217万人に達しています。若い世代の雇用機会も厳しい状況が続いています。

       

      その深夜の弁当店で働く青年の目はうつろで、暗い虚空を見つめていました。調理帽とマスクの間からのぞいた彼の眼差し。「いい経験してるね」と励ませるような雰囲気ではありません。彼の疲労しきった表情から、「絶望」の二文字が浮かんできました。「もう折れかかっています」とつぶやいているようでした。

       

      世の中は劇的に変わりました。全世界の商品がクリック一つで自宅に届くのです。労働者の多くは必要とされなくなりました。正社員も削減されています。原発によって社会がカタストロフィーにいたる可能性を残したまま、富は産業の根幹を握る一部の人達へと集中しています。深刻な問題があっても、だれも責任を取らないまま、僕たちは徐々に貧困と破滅への坂を滑り落ちているのです。

       

      コンピュータ社会の進化で、僕たちは登録番号で認識される単なる記号となっています。そして生活スタイルはますます規格化されています。受け身でぼんやり暮らしていると、用意されたシステムの中で、自分が鋳型にはめられた使い捨ての商品になっていることすら気づかずに人生が終わってしまう可能性もあります。

       

      そんな中でも、ほとんどの人は、いわゆる学校を経由して、その先に就職を考えています。とりあえず、学校や大学に入ることが先決で、卒業間近まではあまり考えない。経済状況によって、就職の門は広くなったり狭くなったりするので、それに合わせて考えるということでしょう。自分の適性について深く考えることもせず、目の前に用意された階段を上るしかない、と思っているのでしょうね。僕は以前、適性とはその人そのもののことだと話しました。自分のことなんてわかるわけがない。だから、そんなとらえどころのないものにこだわっている場合ではない、とりあえず就職するしかないというわけです。それはそのとおりです。今から話す僕の話は、学校に行きながらも、それとは別の回路で自分の職業について考えてみたいと思っている人向けです。役立つかどうかは皆さん次第です。(つづく)

      | 人生 | 12:46 | comments(0) | - |
      職業選択と人間の幸福について
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        人はいったい「職業」というものを、どのようにして決めるのでしょうか。

         

        「自分の適性を考えて、それに合ったものを選択する」という答えは、答えになっているようでなっていません。多くの場合、後から振り返って、この仕事は自分に合っていたと言えるだけのような気がします。つまり「適性」なるものが始めからわかっていて、それに合わせて職業を選択するというのは、どこか無理があるのではないでしょうか。

         

         

         

        考えてみれば、その人の「適性」とは、その人そのもののことです。どんなペースで働きたいか、自分の感性に合っているか、その仕事をしている時に幸福か、といったことは、その人の人間性に関わることです。それがあらかじめ公式のように分かっているはずはありません。なぜなら人間は周囲との関係を絶えず自分の中に繰りこみながら、時間とともに自らを形作って行く存在だからです。

         

         

         

        正直なところ、職業は偶然に大きく左右されて決まると言っていいのではないでしょうか。そして、その偶然は思わぬ人との出会いや、幸運な出来事、いや、不幸な出来事の中にもあります。

         

         

         

        ですから、私は塾のこどもたちに「職業」や「適性」について話をすることはありません。彼らはまさにその「適性」を形作り、探し求めている途上にあるからです。

         

         

         

        職業選択について聞かれることもあります。その時は、自分がどうして塾の教師になったかを包み隠さず話します。そして、上で述べた「適性」についても、自分の考えを述べます。そして、職業を狭い範囲に限定する必要はないと話します。

         

         

         

        「今ある職業が10年後もあるかどうかは分からない。仮にあったとしても、中身は大きく変わっている可能性が高い。企業も同じでしょう。

         

        ただ僕は、できればその仕事をしている時に、君たちが幸福であると感じられる職業に就いてもらいたいと思う。そんなのんきな、当てにならないことで職業を決めていいのか、選択できるパイは限られている、人生は競争だ、世の中は厳しいんだ、と考えている人もいるでしょうね。

         

        でも、ピアノには鍵盤が88しかないのだから、もう新しい曲をつくることはできない、という人はいるでしょうか。88しかない鍵盤から、人間はこれからも無限の音楽を生みだしていくと思います。

         

        職業である以上、自分をあるいは家族を養っていかなければなりません。しかし、家族のありようもどんどん変化していきます。経済的な基盤も重要ですが、実はもっと重要なことがあります。それは自分が幸福になるということです。」

         

         

         

        デビュー当時のビートルズについて、かつて「ニューヨーク・タイムズ」は次のように書きました。

         

         

        They produced a sound that was fresh, energetic and unmistakably their own.

        (彼らの作り出すサウンドは新鮮で、エネルギーに満ちて、そして間違いなく彼ら自身のものだった)

         

         

        | 人生 | 12:38 | comments(0) | - |
        宗主国と交渉しても、植民地と交渉する国はない。
        0
          政治の話題は最小限にしたいと思っています。しかし、いわゆる安保法案が前代未聞のヤクザ的手法によって可決されて3日もたたないうちに、大手メディアから関連する記事がまるで潮が引くように消えて行くのを見て、もう少し続けることにしました。
           
          動機の一つは怒りです。デモに参加する学生を「戦争になったら彼らは戦争を煽る方向に行く」「ただ雰囲気に流されているだけ」などと、偏見と思い込みだけで批判する人間たちへの怒りです。何の権限があって、学生たちの知性をここまで低く見積もって貶めることができるのでしょうか。「変革」と「効率」と「コスト」という言葉しか知らない想像力のない人間が、学生たちが積み上げようとしているものを、足で蹴って壊そうとしているのです。大人としてこれほど下品でみっともないことはありません。
           
          それはさておき、数日前(2015年9月21日)の日本経済新聞の片隅に小さな記事が載っていました。
           
          小見出しは「中国外務省、対日専門部署を廃止 朝鮮半島担当課と統合」です。

          これは何を意味するのでしょうか。
           
          中国政府が、日本をアメリカの完全な属国にすぎないと判断したということです。すなわち「アメリカ合衆国・日本州」の誕生というわけです。さらに、集団的自衛件行使の最初の事例は「南スーダンで、米軍の肩代わりをして中国軍を警護し、中国の権益を守る」ことになりそうです。

          要するに、自衛隊の駆けつけ警護の対象が中国軍なのです。言うまでもなく、これはアメリカの指示です。「中国の脅威」論を押し立てて強行採決した法案の最初の適用が「中国権益の擁護」だとは何とも皮肉なことです。もちろん、安倍首相を熱烈に支持している中国嫌いのネトウヨの皆さんは、この事態を歓迎しているのでしょうね。安倍首相が安保法案の可決を急がされた背景には、米中間で自衛隊に中国軍の警護をさせるという取り決めがあったということでしょう。
           
          アメリカと話を付ければ自衛隊に中国軍の警護をさせる事も簡単に実現できると分かったわけですから、中国が日本を軽視するのも当たり前でしょう。つまり、山本太郎氏が国会で指摘していたように、安保法案は最初から最後まで「アメリカの国益増大のためのもの」だったのです。このことは今年の一月、ジャーナリストの後藤健二さんがまだ生きている時に『未来塾通信54「災厄の犬2−安倍晋三氏」』の中ですでに指摘しています。
           
          ことによると、アメリカを通じて東京都知事であった石原慎太郎に尖閣諸島を買うようにそそのかし、日本の世論を刺激して安保法案を成立させ、日本の軍事力を完全にアメリカの支配下に置かせたのは、中国だったのかもしれません。
           
          中国とアメリカは戦争などできません。なぜなら、経済的に相互が余りにも深く依存し合っているからです。この二つの大国は、徹頭徹尾自国の利益のために行動するという点で、しのぎを削り合うしたたかさを持っています。勢力圏の暗黙の合意があるはずです。日本の「おぼっちゃま」首相とその取り巻きは、指をくわえて見ているしかありません。
           
          中国にとっては、日本が単独で尖閣諸島で軍事衝突を起こすなどという、ろくでもないことをされる方が怖いのです。中国は歴史からそのことを学んでいます。集団的自衛権の行使が認められ、自衛隊が米軍に組み込まれれば、後は日本に関することはアメリカと交渉すればよい、と中国は判断したのです。日本課など不要になるわけです。
           
          安倍首相は「戦後レジームからの脱却」を叫び、結果的に日本が「米国の属国」であることを、世界に向けて高らかに宣言したのです。こうなれば、北方領土をめぐってロシアと交渉することも難しくなるでしょうね。宗主国と交渉しても、植民地と大真面目に交渉する国などありません。
           
          数日前に「米のいいなり、当たらず」と朝日新聞に書いていた神保謙・慶応大学准教授(国際安全保障)や「現実主義の国際政治の論客」である中西寛・京都大学教授は、この事態をどう見ているのか、是非意見を聞きたいものです。

           
           
          | 政治 | 10:39 | comments(0) | - |
          Occupied Japanに寄生する生き物たち
          0
            あれは小学校低学年のころだったと思います。下痢が止まらず、近くの内科医院に行った時のことです。寄生虫の標本の中に「サナダムシ」という名前の生き物を発見しました。生まれて初めて見るその寄生虫は、長い紐のような生き物で、成長すると体調が10メートルにも達すると書かれてありました。「虫」という言葉からはとうていイメージできないその姿は、名前とともに強烈に印象に残りました。これが自分の体の中にいたら、と思うとぞっとしました。軽い吐き気に襲われたのを今でもはっきり覚えています。
             
            以下はウイキペディアの説明。「頭部とそれに続く片節からなる。頭部の先端はやや膨らみ、ここに吸盤や鉤など、宿主に固着するための構造が発達する。それに続く片節は、それぞれに生殖器が含まれており、当節から分裂によって形成され、成熟すると切り離される。これは一見では体節に見えるが、実際にはそれぞれの片節が個体であると見るのが正しく、分裂した個体が繋がったまま成長し、成熟するにつれて離れてゆくのである。そのためこれをストロビラともいう。長く切り離されずに10メートルにも達するものもあれば、常に数節のみからなる数ミリ程度の種もある。切り離された片節は消化管に寄生するものであれば糞と共に排出され、体外で卵が孵化するものが多い。」
             
            私はこれを読みながら、一つ一つの解説が見事なまでに日本社会の隠喩になっていることに驚きました。
             
            「宿主に固着するための構造が発達する」
             
            いくつか具体例を挙げてみます。経団連が武器輸出を推進する要望を出し、その結果、国民の税金が兵器の大量購入に充てられ、防衛費が膨らみ、社会保障費が削減されること。NHKや読売新聞、産経新聞さらにその系列のテレビ局をはじめとする日本のメディアが安倍政権の方針をあたかも現実的で正しいことのように報道していること。それが結局は自分たちの金儲けにつながっているため、批判せずに見て見ぬふりをしていること。政治家がジャパンハンドラーの下僕になっていること。Occupied Japan(占領下の日本)の中で、自己利益の最大化だけを考えていること。要するに、自分たちが日本社会に寄生する「サナダムシ」であることを自覚できていないこと等、を指します。
             
            「一見では体節
            に見えるが、実際にはそれぞれの片節が個体であると見るのが正しく、分裂した個体が繋がったまま成長し、成熟するにつれて離れてゆく」
             
            これは日本の官僚組織と天下りそのものの比喩です。隠喩どころか直喩ですね。そして、官僚から情報をもらうことで「小サナダムシ」になっている学者のことです。
             
            「切り離された片節は消化管に寄生するものであれば糞と共に排出され、体外で卵が孵化するものが多い。」
             
            これは今の体制を再生産するために作られた日本の教育システムのことです。その中で孵化した「小サナダムシ」が、学校というシステムに適応できないこどもたちを排除するようになり、それを「自己責任」という言葉でうやむやにする親たちが増えていくことを指します。
             
            今、日本という国の体内で孵化し巨大な成虫となった「サナダムシ」が、日本列島のいたるところから栄養を吸い上げ、長い歴史と文化をもった国を餓死させようとしています。そのことを国会の場で堂々と指摘する政治家(山本太郎氏のことです)や若者があらわれてきたこと、そして反原発、反安保、反基地、反TPPが、日本の前途に曙光をもたらすと気付き始めた人がいること、それが私たちの国の希望です。

             
             
            | 政治 | 12:46 | comments(0) | - |
            理性の暴力
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              前回のブログの最後で次のように書きました。「NHKも読売新聞も産経新聞も、そして国際政治学者も国際安全保障の学者も、私がここで述べた「強制的な環境」と「意味的な環境」の区別すらついていない、目を覆いたくなるほどの思考弱者に他なりません。」と。

               

               

               

              まるでそれを立証するかのような例が昨日(9月22日)の朝日新聞のインタビュー記事「にっぽんの現在地」に載っていました。タイトルは「国の安全を守るには」。小見出しは「国際秩序が変化、単純に解けぬ9条、解釈変更ありうる」「『鎖国』と同じ、感情論ではなく現実見て議論を」です。持論を展開しているのは「現実主義の国際政治の論客」である、京都大学教授の中西寛氏。

               

               

               

              この記事を読まなくても、小見出しを見ただけで、私はその内容を予想できました。実際に読んでみて、さすがに『安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会』のメンバーに選ばれるだけのことはあると思いました。もちろん皮肉です。しかし、そもそも、一体誰が、どんな価値判断に基づいて『懇談会』のメンバーを選ぶのでしょうか。その際、どのような「実績」が考慮されたのでしょうか。国際政治学者として生計を立てていくためには情報というジグソーパズルのピースが必要です。その情報を、彼らはどこから入手しているのでしょう。

               

               

               

              国際紛争の最前線に出かけて行って、命をかけて情報収集しているのでしょうか。Battlefieldwise(戦場で身に付けた知恵)というような英語はないでしょうが、彼らに最も欠けているのは、戦場や国際政治の最前線で国益をかけて熾烈な戦いをしている現場に立ち会い、自分の目と耳で得た情報です。その情報は血のにおいがするはずです。あるいは自分の先入観を根底から否定される理想の力や生々しい感情が張り付いているはずです。彼らはこういった情報から疎外されています。

               

               

               

              要するに、あらかじめ官僚が選別したピースをありがたく頂戴し、そのピースの多さを披歴しながら、結局は安倍政権の要求する「絵」に沿って、ピースを並べていくだけです。95%以上の憲法学者や、元法制局長官、元最高裁長官が安保法制を違憲だと断定したとき、安倍首相は次のように言いました。「憲法学者の多くが反対しているかもしれないが、国際政治学者は賛成している人の方が多い」と。中西寛氏よ、あなたは政権のアリバイ作りに利用されているだけだ。それを自覚できているのか

               

               

               

              安保法制に反対するデモの盛り上がりについて聞かれたとき、中西寛氏は次のように答えています。「現在の議論は、幕末の『鎖国か開国か』というときの議論と重なるところがあります。江戸幕府は実体としては鎖国というよりも貿易の拠点を限定した体制でした。それが19世紀になって、鎖国という言葉を持ち出して、これが徳川幕府初期からの『祖法』だと言いだした。この祖法という言い方、何か今の憲法に似ています」「私は日本の平和主義がおかしいとか、否定すべきだとは思いません。ただ感情や情緒にとどまっている限り、現代では通用しません」と。

               

               

               

              はい、また出ました「デモは感情論」。それにしても、「現在の議論は、幕末の『鎖国か開国か』というときの議論と重なるところがあります」とは・・・。物は言いようですね。というか、ばかばかしくて反論する気にもなりません。要するに、中西寛氏の主張は現実(安倍政権の言う現実ですが)を肯定するために学問的な「ふりかけ」をかけて、メシの種にしているだけです。

               

               

               

              こんな芸当ができるのは、おそらく幼いころから「感情」を抑圧して、せっせと「学問」に励んできたからでしょう。池田信夫も橋下徹もホリエモンもデモが「嫌い」なのです。デモと投票は民主主義の両輪です。そのくらいのことは冷静に考えればわかるはずです。でも彼らは、権力や体制に歯向かう連中が「嫌い」だという「感情」に支配されているため、この当たり前すぎる理路が理解できません。言い換えれば、彼らは感情の発露に対して「嫉妬」しているのです。「感情論ではなく理性で」、と主張する人間たちの辞書には「理性の暴力」ということばはないのです

               

               

              | 政治 | 18:45 | comments(0) | - |
              「戦争法案」と「姥捨て」
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                これ以上ないかたちで国民を侮辱した「戦争法案」が採決された日、神保謙・慶応大学准教授(国際安全保障)が「米のいいなり、当たらず」と題して朝日新聞(9月18日)で次のように述べていました。

                 

                 

                 

                「日本を取り巻く安全保障環境の最大の変化は、中国の台頭だ。中国が軍事力を急速に拡大させた結果、米国との軍事バランスが崩れ、東アジアでの紛争の抑止、対処の方程式が大きく変化しつつある。自衛隊が米軍への行動に支援を強化する法整備は、中国への抑止力として必要だ(以下略)」

                 

                 

                 

                私はこれを読んで、心底うんざりしました。国際政治なり国際安全保障なりが、客観的な学問として成り立つのかどうかはさておき、この分野の学者でまともな知性を持っている人間を私は知りません。彼らはただ外務省を始めとする官僚や、時の権力者に迎合しているだけです。上記の意見は、常日頃、安倍首相の言っていることと一字一句同じです。こういう紋切型のことばを使うことに何らの疑問も抱かない学者は多いのですが、実は学問の体裁をまとった思考停止集団に他なりません。こういう集団によって、戦争法案は可決されたのです。

                 

                 

                 

                今回は、政権に迎合することしかできないメディアや学者が根本的に見落としていることについて述べます。「日本を取り巻く安全保障環境の変化」という言葉の欺瞞性に論点を絞ります。

                 

                 

                 

                私たち人間は水や空気がなければ死にます。あるいは大地震や火山の噴火などは予知が不可能であるばかりか、避けようがありません。これは人間の力ではどうしようもない、いわば「強制的な環境」です。人間以外の動物にとって、環境とは「強制的な環境」を意味します。

                 

                 

                 

                ところが、文明の発達のおかげで、人間はこのような「強制的な環境」ですら、徐々に変えることができるようになってきました。環境自体を変えることができなくとも、その解釈によって意味を変えることができます。意味を変えることによって、行動のしかたを変えることができます。つまり、気の持ちよう、考え方によって、環境の持つ意味が変わるということです。「強制的な環境」ですら、私たちの意識によって変えることができるのです。

                 

                 

                 

                ところが、本来、「強制的な環境」ではないのに、それを「強制的な環境」だと思い込んでしまった例があります。「楢山節考」で描かれた「姥捨て」です。楢山村の「姥捨て」は、ある共同体が生き延びるために、当然の秩序であるかのように行われました。つまり、本来なら環境の強制性はそれほどないのに、村人は「そういうものだ」と思い込んでしまったのです。

                 

                 

                 

                食糧不足・人口過剰という問題はあったのですが、それを「姥捨て」にむすびつけるほどの必然性があったのでしょうか。調べてみると、食糧事情にはまだゆとりがありました。ただ、「強制的な環境」に対する不安を、<お山まいり>という儀式で鎮める必要があったのです。そのために「姥捨て」を儀式にして、それを伝承したのです。

                 

                 

                 

                「姥捨て」という儀式が成り立つためには、ある種のゆとりが必要です。飢餓状態の村ではこのような儀式は成り立ちません。老人は捨てるまでもなく、餓死するはずですから。しかし、いったん「こういうものだ」と思い込んでしまえば、それを変えることは困難です。儀式を疑ったり、他の方策を考えたりしません。ましてや、問題を考えるために他の村の状態を調べたりしません。そもそも、「問題」だと思っていないのですから。

                 

                 

                 

                このように、私たちの気の持ちよう、考え方しだいで変わる環境は、いわば「意味的な環境」と言えます。安倍政権は、「安全保障環境の変化」を理由に、「意味的な環境」を「強制的な環境」にすり替えました。意識をある範囲に限定し、その範囲の外に意識を向けさせないようにすること。他の方法があることに気づかせないようにすること。そのために、民族に対する差別感情を利用したのです。

                 

                 

                 

                それにしても、なぜ今、戦争法案を可決させる必要があったのでしょうか。中国は確かに軍備を増強しています。しかし、それは自然災害のような「強制的な環境」ではありません。私たちの考え方や行動しだいでいくらでも変更可能な「意味的な環境」に過ぎないのです。外交努力や民間交流、災害救助等によって中国との関係を築くことは、十分に可能です。

                 

                 

                 

                安倍政権が毎度毎度同じことばを使って国民をごまかそうとしたのも、「嘘も百回言えば真実になる」という戦争プロパガンダの実践に他なりません。NHKも読売新聞も産経新聞も、そして国際政治学者も国際安全保障の学者も、私がここで述べた「強制的な環境」と「意味的な環境」の区別すらついていない、目を覆いたくなるほどの思考弱者に他なりません。

                 

                 

                | 政治 | 16:06 | comments(0) | - |
                永観堂−見返り阿弥陀仏
                0

                  私は香りのよいコーヒーを飲みながら静かに本を読むことが好きです。秋の気配が漂う里山を散歩することも、映画を見たり、大学生になった元塾生と湯布院で食事をし、カフェでとりとめのない雑談をするのが好きです。平凡でささやかなひとときですが、時間を金に換算することに血道を上げる生活に比べれば、充実した時間が流れていると思います。

                   


                   
                  昨日は塾の時間に、中学2年生が修学旅行の話をしていたので、それに加わって、京都の観光ガイドを買って出ました。ここ10年以上にわたって、私は秋になると毎年、京都・奈良・滋賀を旅しています。学生時代に京都・奈良・大阪を転々としていたので、地理には通じていますし、名所旧跡はほとんど見て回っています。しかし、白州正子の『かくれ里』を読んでからは、妻と一緒に、滋賀を中心とした山寺を回るようになりました。二人とも晩秋の湖北の風情が気に入っています。

                   


                   
                  愛読書とは、年月が経っても、再読三読するに値する本のことです。読み返してみると、若いころは一体何を読んでいたのだろう、と思うくらい読みが浅かったことに気づかされます。幸運にも、私の書棚にはその種の本が数百冊あります。一銭の金も生みだすことのなかったそれらの本のおかげで、退屈な老後を送らずに済みます。同様に、あらためて歴史を学び直して訪ねた神社仏閣、旧跡からも、以前とは違ったインスピレーションを受けるのです。一体どこを見ていたのだろう、という感慨に打たれます。

                   


                   
                  中学生に勧めた観光コースの一つに、京都東山の麓をたどるコースがあります。南禅寺(参道脇の天授庵は必見ですを出発して、法然院、永観堂、銀閣寺、詩仙堂、曼珠院門跡へと至るコースです。この中では、詩仙堂が私のお気に入りの場所です。生徒には、平安から鎌倉への末世・乱世の時代に、浄土宗が起こった背景を説明した後、永観堂のみかえり阿弥陀仏の話をしました。小さな仏像で、顔を自然に左後ろに向けて、後に続く信者を見つめています。人間的でやさしい、それでいて凛とした空気が漂っています。

                   


                   
                  僧・永観が修業をしているときに、阿弥陀仏が永観を振り返って「永観、おそし」と言葉をかけられたという言い伝えがあります。「永観、おそし」という言葉は、考えようによっては、遅れている 者を叱咤しているようにも受け取れます。「もたもたしているんじゃない!置いて行くぞ!」と。現代風に解釈すれば「格差社会の中で、落ちこぼれている人間は努力しなかったからだ。だからその結果は自己責任として引き受けろ」と言っているようにも聞こえます。もちろん、永観はそのようには受け取りませんでした。永観は千載和歌集に次の歌を残しています。

                   



                  「みな人を渡さんと思う心こそ 極楽にゆくしるべなりけれ」
                   
                  そして、寺の紹介にはこの歌の解釈が書かれています。
                   
                  ・自分よりおくれる者たちを待つ姿勢
                  ・自分自身の位置をかえりみる姿勢
                  ・愛や情けをかける姿勢
                  ・思いやり深く周囲を見つめる姿勢
                  ・衆生とともに正しく前へ進むためのリーダーの把握のふりむき。
                   

                   


                  私たちの国の政治的なリーダーである安倍晋三とその取り巻きは、この姿勢・資質のすべてを欠いています。彼らのやっていることは「地獄にゆくしるべなりけれ」です。
                   

                   

                  | 古寺巡礼 | 15:11 | comments(0) | - |
                  私たちの民主主義は始まったばかりである。
                  0

                    国会前から生まれた安保法制への抗議行動は、この4ヶ月で、全国2000ヶ所以上、延べ130万人以上、数千回を超えると言われる運動へと発展しました。私もデモに参加し、大声を上げました。2015915日、参議院「安全法制特別委員会」の中央公聴会が開かれ、SEALDsのメンバーであり、明治学院大学の学生でもある奥田愛基さんが民主党推薦の公述人として意見陳述しました。国民の声が初めて、国会の内側で響きました。例によって、NHKは中継しませんでした。この奥田愛基さんの声こそ国民の声です。それを中継しないNHKは公共放送としての責任を放棄し、報道機関としての使命も果たしていません。このブログを目にした方は、You Tubeで彼のスピーチを聞いて下さい。


                     

                    この日の中央公聴会の奥田さんのスピーチの最後の部分。
                     

                    「新しい時代はもう始まっています。もう止まらない。すでに私たちの日常の一部になっているのです。 私たちは学び、働き、食べて、寝て、そしてまた路上で声を上げます。できる範囲で、できることを、日常の中で。 私にとって政治のことを考えるのは仕事ではありません。この国に生きる個人としての不断の、そして当たり前の努力です。私は困難なこの4ヶ月の中でそのことを実感することができました。それが私にとっての希望です。 最後に、私からのお願いです。SEALDsの一員ではなく、個人としての、一人の人間としてのお願いです。

                     どうか、どうか政治家の先生たちも、個人でいてください。政治家である前に、派閥に属する前に、グループに属する前に、たった一人の『個』であってください。自分の信じる正しさに向かい、勇気を持って孤独に思考し、判断し、行動してください。

                     みなさんには一人ひとり考える力があります。権利があります。政治家になった動機は人それぞれ様々あるでしょうが、どうか、政治家とはどうあるべきなのかを考え、この国の民の意見を聞いてください。

                     勇気を振り絞り、ある種、賭けかもしれない、あなたにしかできないその尊い行動を取ってください。日本国憲法はそれを保障し、何より日本国に生きる民、一人ひとり、そして私はそのことを支持します。

                     困難な時代にこそ希望があることを信じて、私は自由で民主的な社会を望み、この安全保障関連法案に反対します。」

                     

                    | 政治 | 10:08 | comments(0) | - |
                    考えるとは相互の関連性を考えることである。
                    0

                      昨日、9月14日の参議院安保法制特別委員会での山本太郎氏の発言は、例によって、具体的事実を指摘した素晴らしいものでした。わずか7分の持ち時間で、ここまで権力の暗部に切り込んだ国会議員は山本氏が初めてです。しかし、NHKは山本氏の質疑の直前に中継を打ち切りました。あれほど山本氏が中継するように言っていたにもかかわらずです。受信料を払っている視聴者を完全に裏切ったのです。もはやNHKは公共放送ではなく、安倍政権のための偏向メディアの一つとなりました。新聞テレビを問わず、大手メディアは山本氏の発言を完全に無視しています。彼の発言が事実ではなく、間違っているなら批判すべきです。しかし、それすらしません。山本氏の発言は事実ですし、ことば使い(「売国条約」というのは、戦後70年の歴史を見れば、まさに正鵠を射た表現です。)も価値判断も間違っていません。ただ国会には、その事実を正視できるだけの準備がなかった、つまり器が小さ過ぎたということです。彼の言葉尻をとらえ、それがあたかも問題であるかのように騒いだだけです。私たちの民主主義はまだ始まったばかりです。


                       
                      ところで、前回のブログで私は、考えるとは相互の関連性を考えることだと書きました。そのためには、事実を知らなければなりません。以下に二つの事実を挙げます。この二つの事実の間に関連性はないのでしょうか。想像力と多少の知性があれば関連性があるのは自明の理です。

                      事実その一。
                      2015/09/11 11:50 共同通信
                      【カイロ共同】過激派組織「イスラム国」は10日までに、インターネット上で発行する英字機関誌「ダビク」の最新号で、米国が主導する同組織への軍事作戦「固有の決意」に加わる「連合国」の一員として日本を名指しし、イラクやシリアでの戦闘に参加できない支持者に「日本の外交使節をボスニアやマレーシア、インドネシアで狙え」などと呼び掛けた。
                       記事は、米国とイラン、シリア、ロシアを含めた国際的な「連合国」との戦いを特集。米国務省が「(対イスラム国の)取り組みに加わったパートナー」を列挙した資料を引用し、日本を含め62の国と地域、機関を、連合国の公式メンバーと位置付けた。
                       末尾部分でイラクやシリアに来られない支持者に対し、米国内での攻撃のほか、イスラム圏に滞在するパナマ、日本、サウジアラビアの外交使節、湾岸諸国への攻撃を呼び掛けた。

                      事実その二。
                      経団連「武器輸出推進を」
                      2015年9月11日朝日新聞
                      経団連は10日、武器など防衛装備品の輸出を「国家戦略として推進すべきだ」とする提言を公表した。10月に発足する防衛装備庁に対し、戦闘機などの生産拡大に向けた協力を求めている。
                      提言では、審議中の安全保障関連法案が成立すれば、自衛隊の国際的な役割が拡大するとし、「防衛産業の役割は一層高まり、その基盤の維持・強化には中長期的な展望が必要」と指摘。防衛装備庁に対し、「適正な予算確保」や人員充実のほか、装備品の調達や生産、輸出の促進を求めた。具体的には、自衛隊向けに製造する戦闘機F35について「他国向けの製造への参画を目指すべきだ」とし、豪州が発注する潜水艦も、受注に向けて「官民の連携」を求めた。産業界としても、国際競争力を強め、各社が連携して装備品の販売戦略を展開していくという。

                      | 政治 | 23:23 | comments(0) | - |
                      倫理なき「 経済ヒョーロンカ」の屁理屈
                      0

                        以前テレビを見ていたら、経済ヒョーロンカの池田信夫が「それとこれとは、何の関係もないんだよ!」と大声で叫んでいるのを見かけました。関係は大ありなのですが、故意か又は思考力がないためか(こちらの方でしょう)、相互に関連のある事柄を分断して論じていました(難しいことばで要素還元主義といいます)。これが三流評論家の仕事です。

                         


                         
                        一流の経済学者は、一見無関係に思われる事柄や現象の中に共通性を見つけ出し、一つの体系にまで高めます。なぜそれができるのでしょうか。学者に最も必要とされる倫理的なバックボーンを持っているからです。倫理とは経済的・社会的弱者や少数者のことを常に考えるということであり、9月2日のブログで書いたように「理想の審判者を信じる」ことです。

                         


                         
                        ジグソーパズルのピースを正しい位置に置くためには、完成した時の絵=全体像がイメージされていなければなりません。この絵=全体像こそが倫理です。倫理なき学問は金や権力にいとも簡単に利用されてしまいます。

                         


                         
                        知識や学問に頼らなくても、表情やことば使いを見ていると、その人が倫理的なバックボーンを持っているかどうかはわかります。生半可な知識を持っている人間はそれをひけらかし、相手を自分の得意とする「法律論」や「国際政治の現実」などという袋小路に追い込んで「論破」することに血道をあげます。

                         


                         
                        放射能よりもタバコの方が危険だとあちこちで言っている池田信夫のような人間でも、リスクコミュニケーションやリスクマネジメントなどというカタカナを使ってそれらしく論じると、コロリと騙されてしまう人が、それもかなり高学歴の人に多い。彼らはジグソーパズルのピースをたくさん持っている方が偉いのだと勘違いしています。その程度の「知性」です。

                         


                         
                        なぜこの種の人間が、NHKをはじめ大手メディアの中に、しかも中枢に存在するようになったのでしょうか。

                         

                         

                         

                        東大や慶応大学の医学部、大阪大学、東京工業大学、早稲田大学理工学部といった大学の出身者が、オウム真理教の麻原彰晃になぜあれほど簡単にだまされ、帰依し、無差別殺人に加担したのか、その謎は解き明かされていません。実はこの謎は私たちの社会の集合的な無意識、すなわち根幹にかかわる深さと広がりを持っています。後日、論じてみるつもりです。

                         


                         
                        さて、池田信夫にもどりましょう。彼は、昨日9月14日、アゴラの<こども版>で「反原発がどうして反安保になるの」と題して次のように書いています。「反原発派の人は、原発は100%安全だという考え方を「安全神話」と批判していたのですが、反安保派の人は日本が軍事力をもたなくても100%安全だと信じているようです。それはこういうデモをする文系の学生が期待値という考え方を知らないためでしょう。理系の人は 期待値=確率変数×確率という公式をいつも使います。」

                         


                         
                        彼には「反原発がどうして反安保になるの」か、理解できないのです。そこで、<こども版>であることも忘れ、例によって「期待値」という難しそうな概念を持ち出し、反原発が反安保になるのは「期待値という考え方を知らないためでしょう。」と結論づけます。私はこの屁理屈を読んで、思わず笑ってしまったのですが、気の毒というほかありません。倫理を欠くと、かくも無意味で悲惨な論理を、恥ずかしげもなく公表することになります。

                         


                         
                        この短い文章だけでも、突込みどころが多すぎて、茫然としてしまいます。時間がもったいないので、一か所だけ指摘します。

                         

                         

                         

                        この<こども版>で、池田のおじさんは、「反安保派の人は日本が軍事力をもたなくても100%安全だと信じているようです。」と書いています。あれれ、日本には自衛隊という立派な軍隊があるんですけどね。さらに、「集団的自衛権の行使」を「軍事力」という言葉にすり替えています。これはわざとやっているのではなく、すり替えはこのおじさんの考え方、生き方そのものにまでなっているので、本人にはそれが自覚できないのです。さらに「100%安全だと信じているよう」な人はおそらくいないでしょう。自国を防衛するための個別的自衛権は、ほとんどの国民が認めています。

                         



                        池田のおじさんは、ありもしないことを、さも真実であるかのごとくでっち上げて、それを攻撃するという、頭が悪いだけでなく、卑怯でいやらしいパターンを使っています。こういうのを「ネトウヨおじさん」というのです。よい子の皆さんは、決して真似しないようにしましょうね。

                         



                        ところで、このブログを書いているおじさんは「ネトウヨおじさん」でもなければ「ネトサヨおじさん」でもありません。単なる「おじさん」です。
                         
                         

                        | 政治 | 22:10 | comments(0) | - |
                        「投票したい候補者がいない」という言い訳は許されない。
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                          昨日のブログで紹介した伊藤真氏は、意見陳述の最後にとても重要なことを指摘しました。「国民はここでの議論、そしてこの法案に賛成する議員のことをしっかりと記憶します。18歳で新たに選挙権を与えられた若者も含めて、選挙権という国民の権利を最大限に行使するでありましょう。」と。

                          まさにその通りです。今や若者や有権者の多くが「戦争法案に賛成した議員は落とす」という戦術に打って出ようとしています。これまでは、「投票したい候補者がいない」ということで選挙を棄権していた人も多かったと思います。しかし、落選運動は「当選させたくない候補者」に的を絞るので、「戦争法案に賛成した候補者を落とせそうな野党候補」を支持することになります。つまり、投票行動の基準が一変します。そうなれば、投票率も選挙結果も、政治家や安倍晋三の「お友達」である大手メディアのエライさんや、テレビに出演しては安倍政権を「ヨイショ」していた政治評論家たちの「常識」を覆すものになる可能性があります。

                          「デモで安保反対を叫ぶよりも選挙で意思表示をするべきだ」という旧来の政治家的な発想で屁理屈を並べていた橋下徹にとっては「朗報」です。デモに参加している若者たちは、きっと次回から、欠かさず選挙に行きます。彼等は熱心ですから、どの党が、どの議員が、どんな考えを持ち、自分たちと違うのか同じなのか詳しく調べ上げて、決して棄権などしないでしょう。まして次回の選挙は18歳から選挙権があります。橋下徹の願いどおり、今後は、若者たちも選挙を通じて民主主義を積極的に実践することでしょう。若者を含む大多数の有権者が強い関心を持って参加する正当な選挙によって、民意を反映するまともな政権が出来れば、安倍晋三を支持していた橋下徹も選挙で落とされるでしょう。いや、それはありませんね。彼は政界から完全に引退するのですから。

                          ところで、「デモに参加してるのは、人間が月に行っていないってことを本気で信じてるような奴らだよね」「こどもと一緒にデモに行くなんて脳ミソ腐ってんじゃないの」と言っていたホリエモンこと堀江貴文君はどうするのかな。どうもしないでしょうね。相変わらずテレビに出て、自分は尖鋭的なことを言うから周りからたたかれるのだという被害妄想に似た自己正当化をやっていることでしょう。ここで断言しておきますが、この二人は完全に過去の人です。メディアも紙面を埋めるためだけに、何の価値もないこの二人を取り上げるのをやめるべきです。

                          最後に二つの事実を指摘しておきたいと思います。

                          一つ。2013年のネット選挙解禁にあわせて、総務省は以下のようなガイドラインを発表し、落選運動は「選挙運動」にはあたらない、という見解を示しています。ここでいう「落選運動」のポイントは、
                          (1)特定の候補を落選させる目的があり、
                          (2)他の特定の候補の当選を図る目的がない、ということです。
                           (改正公職選挙法 ガイドライン」第1版 - 総務省p29−30)
                          私たちは安心して落選運動ができるということです。
                           
                          もう一つ。8月30日、NHKの午後7時のニュースは、デモ参加者人数を「主催者発表12万人、警察発表3万人」と報じました。しかし、この報道にはからくりがあることが判明しました。「国会では、先月末に国会前で行われた安保関連法案反対デモに参加した人の人数をめぐる質疑が行われ、警察側は“あくまでも特定エリアの一時点の人数だった”と説明しました。
                          “その3万3千人の根拠。どういう方法で3万3千人と判断したのか”(民主・藤田幸久参院議員)

                          “警察としては全体の参加者の数を発表する立場にはございませんで、あくまでも警察活動に必要な範囲で特定のエリアの一時点における人数の把握に努めておりまして、それぞれの現場に応じた方法で人数の把握をしたということです” (警察庁・斉藤実審議官)」(9月10日TBSニュース)

                          12万人以上が参加したとなると、1960年の安保騒動以来の大人数が国会周辺でデモしたことになり、大変な政治的、社会的出来事になります。今や大手マスコミは「安倍政権にマイナスになるから、国民を誤解するように誘導し、その重要性を過小評価する」ようにしているのです。「サザンのコンサートで意思決定する方が民主主義だ」と言っていた橋下徹君、君の感想が聞きたいな。

                           
                          | 政治 | 16:25 | comments(0) | - |
                          まともな思考ができない災厄の犬たち
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                            昨年の衆議院選挙の前日と今年の1月に、『未来塾通信』NO53・54で安倍晋三を二回にわたって取り上げました。タイトルは『災厄の犬−安倍晋三氏』でした。このときは、まだ敬称をつけていました。しかし、今は敬称をつけることができません。一国の総理大臣を敬称抜きで呼ぶのは悲しいことですが、彼の具体的な言動を知れば知るほど、敬称を付けて呼ぶことは、もはや私には不可能となりました。

                             


                             
                            その時、安倍晋三を痴呆のように支持するネトウヨ(つまり自民党ネットサポーターズクラブおよびその価値観を内面化して思考能力を喪失した人間たち)を批判する必要を感じました。なぜなら、安倍晋三は一人では何もできない「おぼっちゃまくん」だからです。その「ヨイショ組」の一人として、私と同じく塾教師をしている大分市春日町小学校の近くにあるY田ゼミ塾長氏を取り上げました。(詳細は『未来塾通信』NO55・『災厄の犬 ・3− 大分・Yゼミ塾長氏』をご覧ください)

                             

                             
                             
                            私はこの人物の存在を塾の生徒に教えてもらったのですが、「原発の再稼働を支持する!」「尖閣諸島にやってくる中国人を射殺せよ!」に始まり、「古賀茂明!お前の顔を見ると吐き気がするんだよ!ハゲ!」などという、罵詈雑言をブログでわめき散らしています。不特定の第三者に読まれることを前提にしているブログでこの調子ですから、授業ではさぞかし・・・なのでしょう。

                             


                             
                            最近の9月6日のブログのタイトルは「野田聖子の夫は日本人なのか?」です。そして「総裁選挙に出ようとしている野田聖子の夫(韓国料理屋経営)は日本人なのか?こういうのは差別ではない。政治家なら疑われていることをはっきりさせてから出馬するべきだ。日本の総理を決める選挙なのだから。国益に関わることなのだから。」と、主張しています。やれやれ。

                             


                             
                            「こういうのは差別ではない」そうです。選挙に出ようが出まいが、本人とは別人格の夫の職業や国籍を問題にすること自体が差別です。この場合、特に国籍を問題にすることは民族差別・人種差別になります。

                             


                             
                            要するに、Y田ゼミ塾長氏は、安倍首相に対抗すること自体が許せないのでしょう。それを根拠づけるために「国益に関わることなのだから」と言います。野田氏の夫の職業や国籍が、どのように、なぜ、「国益に関わることなの」か、是非説明してもらいたいものです。こんな因果関係が不明瞭な文章を書くこと自体、論理的な思考ができないことを世間に公表することになるのですが、塾の経営は大丈夫でしょうか。

                             


                             
                            Y田ゼミ塾長氏は中央大学法学部法律学科の出身だそうです。今回、司法試験合格者の数が東大を上回ったことを誇らしげに書いていますが、法曹三者を始めとして、元内閣法制局長官,元最高裁長官、憲法学者のほとんどが安保法制に反対している事実をどのようにとらえているのでしょうか。

                             

                             

                            中央大学法学部法律学科でまともに勉強すれば、9月8日、参議院の参考人質疑で、伊藤真氏(弁護士・日弁連憲法問題対策本部副本部長)が展開した論理がまっとうなものであることがわかるはずです。わずか16分です。若い法学徒の皆さんだけでなく、一人でも多くの国民に見てもらいたいと思います。レイシストにして論理的思考力を欠くY田ゼミ塾長氏には理解できないでしょうね。

                             

                             



                             

                            | 政治 | 12:32 | comments(0) | - |
                            衝撃を受けた映画 ―『フォックスキャッチャー』
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                              『フォックスキャッチャー』は、今年見た中で最も衝撃的な映画です。全く予備知識をもたずに見たために、その分だけ衝撃が大きかったのかもしれません。もちろんこの映画のどこに衝撃を受けるかは人によって異なるでしょう。

                               

                               

                              すぐれた小説なり映画は、寓話と隠喩の力を借りて、私たちの感情や無意識の基底部分に訴えかけます。そこまで下りていくと、人間が置かれている様々な条件の違いを超えて、共通性というか祖型というか、人間という存在を形作っている根源的なものに至ります。それは「病理」と言い換えてもいいかもしれません。NetflixまたはPrime Videoで観ることができます。

                               

                               


                               

                               

                              『フォックスキャッチャー』は「マネーボール」「カポーティ」のベネット・ミラー監督が、1996年にアメリカで起こったデュポン財閥の御曹司ジョン・デュポンによるレスリング五輪金メダリスト射殺事件を映画化し、2014年・第67回カンヌ国際映画祭で監督賞を受賞したサスペンスドラマです。

                               


                               

                              ロサンゼルスオリンピックで金メダルを獲得したレスリング選手マーク・シュルツは、デュポン財閥の御曹司ジョン・デュポンから、ソウルオリンピックでのメダル獲得を目指すレスリングチーム「フォックスキャッチャー」に誘われます。同じく金メダリストの兄デイブへのコンプレックスから抜けだすことを願っていたマークは、最高のトレーニング環境を用意してくれるという絶好のチャンスに飛びつきます。

                               

                               

                               

                              やがて兄のデイブもチームに加入することになり、そこから3人の運命は思わぬ方向へと転がっていくのです。とにかく、3人の俳優の鬼気迫る演技に私は圧倒されました。計算されつくしたディテールと伏線が必然的な結末へと収束していく緊張感は、映画でしか味わえないものです。レンタルでリリースされたばかりなので、ぜひご覧ください。

                               

                               

                              デュポン財閥は、もともとは南北戦争の時に火薬を作って儲けた死の商人です。それで財をなして巨大な石油化学関係のコングロマリットを持っている実在の企業です。

                               

                               

                               

                              そこの御曹司ジョン・デュポンは拳銃が好きで、広大な敷地に警察官の射撃場を作り、警察官といっしょに射撃訓練をするほどです。拳銃を持ったまま、レスリングの練習場に入って行き、突然発砲したりします。自分のことを「愛国者だ」と公言するばかりでなく、装甲車を買って敷地内で走らせ『50口径の機関銃がついてないじゃないか!とにかくつけろ!』と怒鳴って周囲を唖然とさせます。

                               

                               

                               

                              自分の空虚さを埋めるために全米のレスリングチームを率いてオリンピックで金メダルをとれば、自分は英雄になれると思っている人物です。具体的に愛する者がいれば、国家という抽象的な枠組みを借りて自分を大きく見せる必要はないのですが・・・。

                               



                              『僕は子どもの頃、友達がいなくてね。悲しかったんだよ。初めて友達ができてうれしかったんだけど、後からわかったんだ。僕のママがお金で買った友達だったよ』とデュポンが言うシーンがあります。要するに彼は母親から承認されたいという欲求を持っているにもかかわらず、莫大な富のせいでそれができないと感じている「おぼっちゃまくん」だったのです。

                               

                               

                              「おぼっちゃまくん」は自分自身の生を生きることができません。周りから期待される役回りや、幼いころから刷り込まれた人間像に沿って自我を形成していきます。周囲にいるのは、金と権力の威力にひれ伏す、人格が空洞化した人間たちばかりです。つまり「こんなことはやりたくないが、お前のためにやっているんだ」という人間に囲まれて育ったということです。その意味では、彼はモラル・ハラスメントの被害者でもあります。

                               

                               

                              モラル・ハラスメントが成立するためには、被害者が、虐待者を「尊敬する」ことによって被害の実態が隠蔽されなければなりません。虐待する側は、金や権力や、親子の情愛に訴えることで、それと引き換えに、「尊敬」と「服従」を手に入れます。

                               

                               

                              ジョン・デュポンは、空虚な人間であり、本当は自分には何もないことをよく知っています。しかし、それを認めて、そこから自らを成長させる、ということができない。そこで自分がうらやむ何かを持っている人間を支配し、その人間に「尊敬させる」ことで、自分の空虚を埋めようとするのです。

                               

                               

                               

                              こうして被害者であったジョン・デュポンが虐待者へと変貌し、モンスターが誕生するのです。これは恐ろしい映画です。このモンスターが最高権力者であった場合、国家はどういう運命をたどるか。ユダヤ人をはじめとする600万人以上の犠牲者がそれを証明しています。

                               

                               

                              この映画を見ながら、私がジョン・デュポンという人格と二重写しで見ていた人物は誰か、それは言わないでおきましょう。この映画は、人間が人間を精神的に支配下に置くとはどういうことか、そこから解放されて生きるにはどうすればいいのかという問いをも発しています。

                               

                              | 読書・映画 | 13:04 | comments(0) | - |
                              人間は「ここまでやれる」−ル・コルビュジェ・その2
                              0

                                初めて「サヴォア邸」を見た時、張りつめた緊張感が伝わってきたのを覚えています。先鋭的な観念が昇華した建築とは、こういう建築をいうのだろうと思いました。世界の建築家が例外なくこの建物に影響を受け、未だにその影響下にあるのも無理はありません。ミース・ファン・デル・ローエの影響から抜け出せずに、外見だけを真似た建築家が後を絶たないのと同様です。

                                以下は
                                「サヴォア邸」

                                 

                                ある人間や作品から影響を受けるということは、実は深刻なことです。わからなくとも、謎であっても、影響は受けます。頭で受けた影響は、器用な物真似となって幾つかの作品を生み出しはしますが、はやりの意匠の一つとして希釈され忘れ去られます。それに対して、からだで受けた影響は無意識の部分へと及び、文字どおり、統一的な人格を破壊する力を持ちます。理性や社会常識の力では封印できない恋愛感情に似ていると言えばいいでしょうか。

                                 

                                建築が持つ「かたちの力」は圧倒的です。物体としてそこに存在していることで、見るものを虜にします。幸いにも私は建築の門外漢であったため、「ロンシャンの礼拝堂」と「ラ・トゥーレットの修道院」から年代をさかのぼって「サヴォア邸」を知りました。そして、軽やかで透明で幾何学的な「サヴォア邸」を設計した人間が、それとは対極にある不定形で濃密な存在感のある「ロンシャンの礼拝堂」と「ラ・トゥーレットの修道院」を設計するに至ったプロセスに何があったのか、それを知りたいと思いました。

                                 

                                当時、私は既存の生き方に辟易し、ありきたりのことばを交わして人生を送ることに何らの希望も見出せずにいました。自分の内部に、自分独自のことばを刻印することが本当に生きるということではないのか、と考えていたのです。言い換えれば、「人間は本当に変わることができるのか」「そのための方法はあるのか」という問題にとらわれていたのです。青臭い哲学的な問いでしょうか。しかし、私は今もこの問題をめぐって考えています。「新しい理想的な社会が到来する」ことを信じているわけではありません。ただ一人の人間が変わることの中に希望というか、ひとつの意味が訪れるのだ、と思っています。

                                 

                                私たちがこの社会で生きていこうとすれば、グローバリズムが支配する世界のシステムと無縁ではいられません。つまり、経済的価値というただ一つの抽象的で非人間的な基準によってあらゆるものが交換可能になっている社会から完全に自由になることはできないということです。多くの人や組織が、塔のように屹立して、より支配権力を強め、人々の注目を浴び、評価され、目立つ存在になろうとしています。塔は、どこからも、だれからも見られ、目につきます。そして周囲を支配します。それはバベルの塔であり、「支配の空間的形態」です。

                                 

                                私は、こういった価値を反転させ、人間が人間らしく生きる方法はないのかと考えていました。私たちは無自覚でいると、この「支配の空間的形態」であるバベルの塔の中へとこどもたちを送り込んでしまいます。何も考えずに、上昇志向にまかせて子育てをしていると、親とこどもの関係が、支配−被支配の関係になってしまいます。

                                 

                                そういったことを考えていたときに、私は「ロンシャンの礼拝堂」と「ラ・トゥーレットの修道院」に出会ったのです。それは目を射るような斬新さと幾何学的な造形の「サヴォア邸」とは正反対の空間=世界でした。重く荒々しい石壁、大地の延長のような洞窟、胎内のような彩色された闇。無意識の底に眠る、海底で育まれた生命の源を感じさせるような空間です。それは、こどものころ海に潜ってじっとしていたときに見た空からの光と海に広がる濃密な闇の記憶を私に呼び覚ましました。世界からいったん退却することを可能にする思想とは、半地下のような場所を作り、自分を半埋葬するような思想ではないのか、ということに思い至ったのです。

                                以下は
                                「ロンシャンの礼拝堂」の外観と内部




                                 

                                荒々しいコンクリートにペンキを塗っただけの、「ラ・トゥーレットの修道院」の半地下礼拝堂。彼はこの修道院について次のように書いています。「比例、質、完成度が、極限にまで到達しえたとき、『えもいわれぬ空間』が現象する。その場が、比喩ではなく、現実に光り輝くのだ」それは「完成度の高さが生み出す衝撃である」と。そして、無神論者であることを指摘されたとき「私は信仰の奇跡を経験したことはありません。しかし、言語にできない空間の奇跡はしばしば経験しています」と答えました。

                                以下はすべて
                                「ラ・トゥーレットの修道院」





                                 

                                ル・コルビュジェは、建築が可能とする空間の両極を提示し、建築家たちの想像力の幅をかってないほどに広げました。そして、すべての欲望が計算され尽くしている世界で、人間が人間らしく生きることのできる空間=世界を創造してみせたのです。それは人間は、「ここまでやれる」ということを示す試みだったような気がしてなりません。

                                 

                                 

                                 

                                | 自己救済術としての家作り | 22:34 | comments(0) | - |
                                私が影響を受けた建築家−ル・コルビュジェ・その1
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                                  ル・コルビュジェは南フランスの海岸で遊泳中、地中海のふところに抱かれるようにして、溺死しました。77歳でした。スイスで時計の文字盤職人をしていた父とピアノ教師の母の次男として生まれました。家業を継ぐために時計職人を養成する地元の装飾美術学校に学びましたが、専門的な大学教育は受けていません。

                                   

                                  私はどういうわけか、「専門的な大学教育は受けていない」というところに惹かれます。いや、逆ですね。これまでの人生で深い影響を受けた人間が、かなりの割合で「正規の学校教育を受けていない」のです。エリック・フォッファーしかりです。

                                   

                                  ル・コルビュジェについて建築史的な解説は不要です。彼が建築界のみならず、芸術創造にかかわる多くの人に与えた影響についてあれこれ言うのは、私の力を超えています。私にできることは、ル・コルビュジェからどのような影響を受けたか、私の個人的な経験を述べることだけです。

                                   

                                  塾を始めて7年が過ぎたころ、私は自分の生き方を考えるのと並行して、「いつでも帰ってこられる定点としての居場所」を作ろうと考えていました。経済的には全く不安定で、将来の見通しの立たない塾教師という仕事を続けていくためには、そういう場所が必要だと感じていたのです。

                                   

                                  イギリスを数年ぶりに訪ねた時、町のたたずまいにしろ、偶然入ったカフェにしろ、以前とまったく変わっていないことに、私は言い知れない安堵感を覚えました。変わっていたのはカフェで働く主人の髪に白いものが混じり、心なしか小さくなったように感じたことだけです。その風情がまたいいのです。その時の経験が尾を引いていたのかもしれません。そういう「定点としての場所」があると、自分は何者なのか、どこへ向かっているのか、どれだけ成長し、あるいはどれだけ道からそれたのかを測定できます。

                                   

                                  その願望がピークに達したころ、ル・コルビュジェの「ロンシャンの礼拝堂」に出会ったのです。そこから、私の建築遍歴はスタートしました。私を何よりも驚かせたのは、「サヴォア邸」を設計した建築家が劇的な変貌を遂げ、「ロンシャンの礼拝堂」や「ラ・トゥーレット修道院」に至るそのプロセスでした。彼が最晩年に設計したこの二つの建築物がなければ、「正規の建築教育を受けていない」私は、ル・コルビュジェに出会うことはなかったと思います。無神論者である彼が、自分の死後、亡骸を一晩「ラ・トゥーレット修道院」に安置してほしいと願ったのはなぜだったのでしょう。私がこの二つの建築物から受けたインスピレーションについては、次回のブログに譲ります。

                                   

                                  | 自己救済術としての家作り | 10:38 | comments(0) | - |
                                  戦争への道は、善意と無知と無関心の敷石で舗装されている。
                                  0

                                    今や山本太郎氏は最も「本質的」で、「具体的」な質問ができる国会議員となりました。前回のブログで「私たちは理想の審判者を信じることができるのか」と題して述べたことが、以下の山本氏の国会質問の中に全て出ています。物事の本質は、具体的な事例を詳しく分析した「後に」見えてくるものです。つまり、山本太郎氏の追及は、具体例に語らせるという論証の王道を行くものです。しかも「理想の審判者」である国民と将来の世代を信じていることがよくわかります。

                                     

                                    前回のブログは、山本太郎氏と安倍首相、中谷防衛大臣および岸田外務大臣とのやり取りを見て、そもそも「国会とは何をするところか」という素朴な疑問に答えるつもりで書きました。日本国憲法41条には、「国会は国権の最高機関であって、国の唯一の立法機関である」と書かれています。したがって、「重要法案の審議をしているに決まってるじゃないか」と形式的な答えをする人もいるかもしれません。しかし、その中身は、採決のスケジュールに合わせた茶番劇でしかありません。「早く質問しろよ!」だの「大げさなんだよ!」挙句に「そんなこと、どうだっていいじゃないか!」という安倍首相のヤジの中に、この茶番劇の本質が余すところなく表れています。

                                     

                                    しかもNHKは安倍首相の「ヤジ」を「自席発言」と言い換えて庇っています。本来なら、日本国憲法41条の趣旨に鑑み、NHKは国会の審議を全て中継する義務があるはずです。国民の税金と受信料で成り立っていることを考えれば最低限の義務のはずです。最低限の義務すら果たさないNHKはもはや「公共放送」の名に値しません。

                                     

                                    しかも、3400億円以上の国民の税金を投入して新社屋を建設することが決まっています。白紙撤回されたオリンピックの新国立競技場どころの話ではありません。新国立競技場に反対するなら、国民はNHKの新社屋建設にも反対しなければならないはずです。関係者が口を固く閉ざしているのは、背後に新国立競技場の問題と同様の利権構造があるからです。

                                     

                                    「そのうちまともになるだろう、職員も色々な人がいるのだから」という意見もあるでしょう。しかし、NHKが今やっていること(一度は出演させた山本太郎氏を「日曜討論」から屁理屈をつけて排除するなどは、まだ序の口です)は、その歴史にはっきりと刻みこまれます。それにしても、メディアに対する信用を失墜させたNHKの責任は余りにも大きい。戦争をはじめとする国家の破滅への道は、善意と無知と無関心の敷石で舗装されています。

                                    | 政治 | 10:49 | comments(0) | - |
                                    「理想の審判者」だけが論争の勝敗を宣言できる。
                                    0

                                      今回は言論の自由の本質を掘り下げて考えたいと思います。例えば、いま二人(あるいは二つの陣営)が論争しているとします。人はどちらの言い分が正しいか、それぞれの判断の根拠を求めるはずです。つまり両者には具体的に論証する責任が生じるのです。

                                       

                                       

                                       

                                      ここで二つの問題が生じます。第一に、私たちは誰のために具体的な論証をするのか、第二に、論争の勝ち負けを誰が判断するのか、ということです。

                                       

                                       

                                       

                                      結論から言うと、「理想的な審判者」のために「具体的な論証」を尽くすのであり、「理想的な審判者」が勝ち負けを判断するのです。この世界のどこかに正確な判断を下すことのできる公平で客観的な審判者が存在することを信じなければ、そもそも論争が生じる余地はありません。単なる主観の押し付け合いは論争ではありません。

                                       

                                       

                                       

                                       

                                      もう少し詳しく説明しましょう。国会での質疑をはじめとして、およそ論争は単なる私的なやり取りとは違って、第三者がそれを見たり、聞いたりしたときに双方の言い分が理解できるという「言語の公開性」を前提としています。

                                       

                                       

                                       

                                       

                                      Aは「具体的論証」ができたのにBはできなかったとします。第三者の多くがBの議論には「具体的論証」が欠けていると判断すれば、その議論は根拠薄弱として却下されます。これは現実に起こっていることです。そういった結果を現実に引き起こしているのが「理想的な審判者」です。

                                       

                                       

                                       

                                       

                                      注意しなければならないのは「具体的な論証」ができたかできなかったかは「理想的な審判者」の審判にかかっているのであって、BがAの判断を受け入れたかどうかにかかっているわけではないということです。さらに審判者の目は「具体的な論証」の要求に相手が正しく応じたかどうかという「態度」にも向けられています。

                                       

                                       



                                      もちろん、私は山本太郎氏と安倍首相の国会でのやり取りを念頭に置いています。相手が自分の非を認めるのが稀有なことだから「具体的な論証」を要求することが無効だというなら、およそ言論を闘わせることに意味などありません。いわゆるリアリストは、いや、低能ヤクザは金と権力だけを信じて、「理想的な審判者」など信じていません。

                                       

                                       

                                       

                                      「理想的な審判者」などどこにいるのか、何を夢のようなことをほざいているのかというお叱りを受けそうです。しかし、もう少しだけお付き合いください。

                                       

                                       

                                       

                                      なるほど、「理想的な審判者」は実体としては存在していません。しかし、理想はまさに理想として存在していることで、論争とその決着の可能性を生じさせています。論争が生じる根拠は、言語存在としてのわれわれが共通に思い描いている「理想としての審判者」を、とりあえず第三者に仮託して、あることの成否をめぐる判断をそこにゆだねるほかはないという共通の要請のうちにあります。

                                       

                                       

                                       

                                       

                                      くどいようですが、論争が生じるのは、理想的な審判者が「存在しない」からではありません。全く逆に、成否をめぐる言葉の喧嘩は、その運動過程の中に必然的に理想の審判者が「存在している」ことを要請しているのです。

                                       

                                       

                                       

                                       

                                      つまり、「具体的論証」を尽くす努力をすればするほど、彼方に、理想としての審判者のイメージが堅固なものとして立ち現れるのです。山本太郎氏の質問に安倍首相が官僚の書いた作文を読むほかなかったのは、彼が言論の価値を、すなわちその背後にいる理想の審判者を全く信じていなかったからです。

                                       

                                       

                                       

                                       

                                      民主主義社会における言論の自由とは、最高権力者と高校生が言論で勝負することを保障する制度です。それを根底で保障しているのが日本国憲法なのです。私たちは「理想的な審判者」の存在を信じて、日々の仕事に忙殺されながらも、時には主権者として声を上げなければなりません。

                                       

                                       

                                      | 政治 | 23:42 | comments(0) | - |
                                      理路を見失った小権力者たち
                                      0

                                        橋下徹大阪市長は、31日のツイッタ―で以下のように述べています。「デモは否定しない。国民の政治活動として尊重されるのは当然。政治家も国民の政治的意思として十分耳を傾けなければならない。ただしデモで国家の意思が決定されるのは絶対にだめだ。しかも今回の国会前の安保反対のデモ。たったあれだけの人数で国家の意思が決まるなんて民主主義の否定だ」「こんな人数のデモで国家の意思が決定されるなら、サザンのコンサートで意思決定する方がよほど民主主義だ」

                                         

                                        この男は一体何が言いたいのでしょう。「サザンのコンサートで意思決定する方がよほど民主主義だ」そうです。自分の言っている意味が分かっているのでしょうか。彼の民主主義に対する理解は小学生並みだと言いましたが、それを自ら証明しています。

                                         

                                        彼は常々言っています。「政治的な発言をするなら国会議員になってやれ」と。なるほど。彼の論理でいくと「国家意思」を決定するのは、国民ではなく、「私の言っていることに間違いはない。私は総理大臣なんですよ」と発言した安倍首相ということになるのでしょうね。それとも、学生団体「SEALDs(シールズ)」に対して「彼ら彼女らの主張は『だって戦争に行きたくないじゃん』という自分中心、極端な利己的考えに基づく」と発言した自民党の武藤貴也衆院議員のような人なのでしょうか。『文化芸術懇話会』にチンピラ捏造作家の百田尚樹を呼んで「沖縄の二つの新聞はつぶさなあかん」と発言させた自民党の議員たちでしょうか。それとも「放言は法案が通ってからにしてくれ」と言った麻生太郎のような人なのでしょうね。やれやれ。

                                         

                                        橋下徹には思想性のかけらもありません。人々が潜在的に持っている閉塞感や終末観および経済的な不安感を掬いあげて、ネガティブに表現することで大衆に迎合する技術に長けているだけです。つまり、思想というものの入り口だけを大袈裟にわめきたてるが、そのプロセスと出口がないのです。

                                         

                                        正確な世界のヴィジョンの持ち合わせもなければ、多くの人を納得させうるだけの論理性もない。要するに、思想の欠落を、性急で、独善的で、みじめったらしい権力行使で補てんしているだけです。これをファシズムの退廃形態というのです。親分にたてつく奴は許さんといった小権力者根性丸出しなのです。やたら相手を罵倒するだけで、批判されている点に、具体的事実に即して冷静に誠実に答えたことがありません。

                                         

                                        彼は論争が公開されているというアリバイ作りのためにツイッタ―を利用しています。しかし、忘れた人もいるかもしれませんが、彼は大飯原発の再稼働にも反対の発言をツイッター等で繰り返していました。だから橋下支持に回ったひともいたはずです。ところが結局はあっさり再稼働を認めました。彼は前言撤回の常習犯です。しかも悪質な確信犯です。

                                         

                                        彼を批判することは意味があると思うので、次回のブログでも続けます。次回は批判の矢が私たちにも帰ってくるような本質的なものにするつもりです。うんざりする人は読む必要はありません。私も半ばうんざりしているのですから。しかし、政治的な発言は先行世代の義務としてもう少し続けます。日本語の読解力を付けたいと思っている学生さんには、もう少しお付き合い願いたいと思います。

                                         

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