時間は過去から未来へとつながる直線上に存在しているわけではありません。それは、ある場所に積み重なるようにして存在しています。ミルフィーユのように。あるいは枯葉が森の奥に積み重なるようにして。
私たちは風を見ることはできません。木の葉が揺れたり、川面にさざ波が立ったり、こどもたちの髪がなびいたりすることで、風の存在を認識します。同様に、時間を見ることもできません。それは物事の変化として認識されるだけです。朽ちかけた民家を見たり、柿の葉が徐々に色づくのを見たり、久しぶりに会った人の老いの中に時間の経過を読み取ることができるだけです。
時間が直線的なベクトルをもっているというイメージは、おそらく学校で習った数学や物理学の影響でしょう。もちろん数学や物理学は、こんな単純なイメージを提供してはいません。それでも、時間はどこか人間の外部に数学の定理のように存在していると思われがちです。
『私の散歩道』で書いたように、私たちはグローバリズムによって加速された市場社会の「絶対時間」に拘束されて生活しています。しかし、時間は記憶と同様に、その人間の内部に積み重なっているのです。このことは『私とは、私の記憶のことである』の中でも触れました。
なぜこんなことを書くかというと、時間や記憶と同じように、感情もまた積み重なると言いたいためです。ここで言う感情とは、鈴木大拙のいう「霊性」に近いものです。それは宗教的なものではなく、すべてのものの根源にあって、それについて語ろうとしても語りえぬもののことです。
ヴィトゲンシュタインは、語りえぬものについては沈黙しなければならない、と言っています。なぜなら、精神の最深部でとらえられているものは、理解というような合理的判断ではなく、「受け入れられる」かどうかというかたちで存在しているものだからです。それは精神の多層構造の基底部にあって、私たちの行動を深いところで支えているものです。
金沢21世紀美術館の近くにある鈴木大拙館。私の大好きな建築家・谷口吉生氏の設計。ほぼ半日をここで過ごしました。妻が傘を忘れて、歩いて取りに戻った懐かしい場所です(笑)。
重要なことは、感情を育てるには時間がかかるということです。「大器は晩成する」ということばは(今では死語になっていますが)、感情の土台ができていないところに知識を注入すれば、一見賢そうなこどもは育つが、その知識をどう使い、誰のために役立てるのかという観点が抜け落ちる、という経験的な事実に対する警告なのです。
知識と感情の違いは、そこに住めるかどうかです。人間は知識の中には住めませんが、感情で満たされた場所なら住めるのです。感情という土台のないところに、知識だけで建てられた建物は、所詮は砂上の楼閣、バベルの塔に過ぎません。
日々の生活、日々の経済、日々の消費、その時々の都合で課される自分の立場に追われているうちに、私たちが見失った最大のものこそが感情です。しかし、見失ったとはいえ、肉体が滅びない限り、私たちの精神の片隅にうずくまるようにして生きています。前回のブログで書いたアンワルに猛烈な吐き気を催させたもの。最終的には金銭的報酬として報われるしかないマネー資本主義が人間を幸福にするはずはないと感じさせるもの。それを私は「普遍的な感情」と呼んでいます。
それは人種や国境の壁を超えて存在しています。独裁政権下にあって生きることすら困難な状況にある人々、同じ国民でありながら日々の食事にもありつけないこどもたち、一人暮らしで頼る者もいないまま孤独死の不安にさいなまれている老人たち、そういった人々に対してわき上がってくる無条件の感情のことです。
政治の根底にはこの感情がなければなりません。「自己責任」ということばでこの感情にフタをして、見て見ぬふりを決め込む政治家や財界人がどういう経路で登場してきたのか。それは次回のブログ『感情を劣化させた人間たち』で書きます。