ブログを書きながらつくづく思います。何で私ごときが政治について書かなければならないのかと。本来なら、メディアやジャーナリストの仕事のはずです。
しかし、今は大手新聞の一面にSMAPのネタが載る時代です。読売新聞は天皇皇后両陛下のフィリピン訪問をベタ記事扱いで小さく報じるだけです。スポーツや芸能ネタが悪いと言っているのではありません。ただ、優先順位が違うのではないか、と思うのです。
私なら関西電力高浜原発3号機の再稼働を一面トップで報じます。なぜなら私たちの生活と命に直結しているからです。
関西電力は福井県高浜町の高浜原発3号機(出力87万キロワット)を29日午後5時ごろ、3年11カ月ぶりに稼働させる予定です。ウラン・プルトニウム混合酸化物(MOX)燃料を使う初の「プルサーマル発電」で、万が一事故が起これば、被害は甚大なものになるでしょう。
それだけではありません。使用済み核燃料の保管場所もなく、将来の世代に負の遺産を残すだけです。これほど無責任で倫理的に腐敗しきった体制から利益を吸い上げているのは歴代自民党と安倍政権、電力会社、官僚、そしてマスメディアです。
規制委は福島第1原発事故の反省を踏まえ、原子力災害対策指針を改定し、避難計画の対象範囲を原発から半径30キロ圏に拡大しました。高浜の30キロ圏には京都府や滋賀県も含まれます。計画は昨年12月に了承されたのですが、広域避難訓練は実施されていないままです。
しかし、そもそも福島第1原発事故の反省を踏まえるのであれば、再稼働は中止するべきです。以下の動画をご覧ください。
「この動画には年齢制限が設けられている」とは何ごとか。若い人にこそ、心に刻んでほしい動画です。YouTube で見るをクリックしてください。
こんな国で、原発の再稼働など許される道理もありません。それが素朴な国民感情であったはずです。にもかかわらず、なぜ原発は「粛々」と再稼働されるのでしょうか。その理由を考えてみたいと思います。
憲法は、国民が政府を拘束するために政府に課した命令です。これが憲法の最も重要な機能であり、国民が共有すべき最低限の理解です。
しかし、現行憲法を「みっともない」として、その機能を無視し、自らをこの憲法秩序の外に置く総理大臣が今この国のトップに立っています。安保法制について、「国民の皆様にご理解をいただけるように説明を尽くす所存」だとか、憲法9条の範囲内だとか言っても、議論がかみ合わないのは、よって立つ憲法観がまったく異なるからです。
自民党の憲法改正草案を見ると、その底流にあるのは、個人の人権より国家の都合を優先させる、つまり、憲法とは国家が個人を拘束するための命令書であるとの発想です。
この発想は、彼らにとって「都合の悪いことはなかったことにしたい」という一貫した行動原理となってあらわれます。彼らを資金面で全面的にバックアップし、マスメディアに対して絶大な権力を振るってきた東京電力が起こした福島第1原発事故は、「なかったことにしたい」ものの筆頭でしょう。安倍政権が続く以上、原発は「粛々」と再稼働されます。そして、そのアリバイ作りとして避難訓練と称するものが行われるのです。
しかも、避難計画は自治体に丸投げで、国と電力会社は責任を負いません。わが大分県でも先日、愛媛県の伊方原発が事故を起こした時のことを想定して、避難民の受け入れ訓練を行いました。フェリーで避難してきたお年寄りは、計画に疑問を投げかけていました。
そこで私なりに、避難計画が前提としている状況を考えてみました。以下を読めば避難計画がいかに形だけのものであり、眉唾物であるかが分かるはずです。
1:運良く、自分の住んでいる地域にセシウム、ストロンチウム、放射性ヨウ素、プルトニウムなどの放射性物質が降ってくる前に、つまり初期被曝をする前に、原発事故の情報が届くこと(ほとんど想像できない。電力会社は情報を隠すことはあっても、早めに出すなどということはない)。
2:天気が良くて、海も静かであること。つまり、絶好の行楽日和であること(台風が接近していたり、豪雨や雪が降ったりしていないこと。どうやら事故は日中に起こるものであり、寒い夜に事故が起こることは決してないと想定しているようです。)
3:寝たきりや病気のお年寄りがどこに何人いるかを常に正確に把握していること。いざという時、そういった住民の元へ駆けつける人員が常に確保され、医療機器が常備されていること。
4:住民を乗せるタクシーやバスの運転手が被曝を恐れず、事故の中心地に向かうこと。
5:地震で港や道路が破損しておらず、車は渋滞することなくスムーズに流れ、フェリーも普段通り運航できること。
6:何より、住民全員が自分のことは後回しで、他人の命を助けるために自分の命を投げ捨てる覚悟ができていること。
つまり、避難訓練は真冬の深夜、豪雪の中を、接近する津波を想定して、寸断され土砂で埋まった道を、病人やお年寄りを乗せて行わなければ、単なるお遊びでありセレモニーです。
以上のことから、避難訓練はアリバイ作りだということがわかると思います。原発事故が起これば、自分の故郷へは二度と戻れません。戻れたとしても、被曝を覚悟して、劣化した環境で残酷な被曝を強いられる生活になるということです。つまり、避難訓練は故郷を捨てる訓練なのです。これが本質です。
にもかかわらず避難訓練をするのは、一般の国民に「ああやって逃げればいいんだ」と、マスコミを通じてあたかも避難が可能だと思いこませることが目的です。原発推進派は、住民に、半ば強制的に避難訓練をさせることで、故郷を捨てる予行練習をさせているのです。つまり、「故郷を捨てることに慣れさせる」「もうそうなったらしょうがないね」というあきらめの思考回路を作っているのです。しかし、それは永遠に返ってこない故郷と引き換えです。
万が一、死を免れたとしても、被曝した体で生き続けなければなりません。故郷と仕事を失って、この先どうやって生きて行けというのでしょうか。この期に及んで原発を再稼働する理由など何一つありません。