こどもの頃、わが家のそばに靴屋さんがありました。その靴屋の主人は偏屈で、家の一角に仕事場を持ち、そこで一日中仕事をしていました。工房と呼ぶには余りに狭い空間で、生活も決して余裕があるようには見えませんでした。あのころはみんなそんな感じでしたね。
その仕事場は外の通りに面していて、私は開け放たれた窓枠に両手を組み、その上にあごを乗せて仕事ぶりをみていました。大きな力強い手には太い血管が浮き出ていて、いかにも握力が強そうな手でした。木槌で革を叩き、なめし、穴に糸を通し、力強く引っ張ります。畳職人の動きに似ています。そばの棚には革を切るための大小様々な形をした鋏が掛けられていました。木槌の小気味よい音と、革の匂いがするその仕事場が好きで、私は飽くことなく眺めていました。
主人は偏屈で気が短かったため、こども達は彼と目を合わせるのを避けていました。それでも私が彼の仕事ぶりを間近で眺めているときは、こちらを睨みつけるようなことはありませんでした。それどころか、少し嬉しそうな表情を浮かべていました。それはきっと、私が彼の仕事ぶりに興味を持ち、半ば憧れと尊敬の眼差しを向けていたからだろうと思います。
一日を靴一足作るのにかかる時間として認識するような生き方が人間本来の幸福な生き方ではないのか、と最近つくづく思います。作った靴の数でその人の人生が測れるような生き方。日々の暮らしの中で必要とされる最小限の道具をそろえ、それを長く使うこと。愛用する道具で、その人のことが思い出されるようなモノ。
私はよく塾の生徒に言います。「切るモノと同じ数のナイフをそろえるのは、ばかげている。君たちのやってる勉強を見ていると、人より少しでも多くのナイフを手に入れようとしているみたいだ。それでは道具を大事にしようとする気持ちはわいてこないだろう。一回使って捨てるような道具をため込んでどうするつもり?紙も切れる、トマトもピーマンも切れる、魚の骨も切れる、ついでにヒゲも剃れる、そんなナイフがあったらいいと思わないか。勉強するということはそういうナイフを手に入れることなんだよ」と。
人間(ホモサピエンス)は道具を作り、それを使う動物です。その使い方によって、幸福にもなれば、人類を滅ぼすことにもなります。道具の延長としてのテクノロジーは、自然と調和し、私たちの身体感覚の延長として私たち自身で制御できるものであるべきです。
私はこどものころ、『肥後守』という小刀一本で何でも自作しました。その延長で家も建てました。これは私の生活を愉快で幸せなものにすることに役立ちました。だから、宮崎駿監督が言うように「大切なものは、半径3メートルの中に、すべてある」というのがよくわかります。これは想像力によって自分の足元をどこまでも掘り下げていくことによって「地球感覚」に到達した人間のことばです。想像力を欠く人間は「半径3メートル」の世界を狭いと感じ、その中に自足することができません。哀れな人たちです。
ウルグアイのホセ・ムヒカ前大統領も言っています。「私は少しのモノで満足して生きている。質素なだけで、貧しくはない」「モノを買うとき、人はカネで買っているように思うだろう。でも違うんだ。そのカネを稼ぐために働いた、人生という時間で買っているんだよ。生きていくには働かないといけない。でも働くだけの人生でもいけない。ちゃんと生きることが大切なんだ。たくさん買い物をした引き換えに、人生の残り時間がなくなってしまっては元も子もないだろう。簡素に生きていれば人は自由なんだよ」と。