暑い毎日が続いています。元気でやっていますか?部活と課題に追われて疲れている人もいるでしょうね。今この文章を書いている時間、日曜日の午前ですが、戸外はクマゼミの鳴き声で充満しています。夏期講習の授業が聞こえなくなる瞬間もあります。
でも、クマゼミの元気がいいのも2週間くらいです。お盆のころになると不思議と鳴かなくなります。天寿をまっとうするのです。大きな樹木の根っこや、庭の片隅に、吹き寄せられるようにして転がっている死骸を見つけます。そのころにはツクツクホウシが鳴き始めます。
くりかえされる四季のめぐり。今年も夏が来て、つぶれた台風がひんやりした空気を運んできて、そして秋になる・・・。「もう秋か。−それにしても、何故、永遠の太陽を惜しむのか、俺達はきよらかな光の発見に心ざす身ではないのか−季節の上に死滅する人々からは遠く離れて」「また見つかった。−何が、−永遠が。海と溶け合う太陽が。」という、アルチュール・ランボーの『地獄の季節』(小林秀雄訳)の一節が浮かんだりします。
「批評家を内に持たない詩人などいない」と言ったのは、たしかボード・レールでした。ふーむ。納得しますね。
おっと脱線しました。最初から脱線はいけません。まず、以下の画像をご覧ください。塾の自習室に置いてある、エドガー・アラン・ポーの全集です。この全集は1冊平均700ページあります。学生時代に、大枚をはたいて買ったものです。
夏休みにぜひ彼の本を読むことを勧めます。どれも短編なのですぐに読めます。ただし、頭がよくなりたいと思う人に限ります。課題図書を読んで読書感想文を書くのにうんざりしている人、でも好奇心旺盛な人は、すぐ本屋さんに行って買って下さい。
そもそも知性とは何でしょうか。いろいろに定義されていますが、それを的確に言いあらわすのは難しいですね。ぼくは(中高生向けなので、ぼくということばを使います。このほうが自分の素が出て自然ですから)、3・11以降、あると思っていた知性がこの国の中枢には全くなかったのだということが分かって呆然としました。以来、知性とは自分や自分の属する集団の利益を最大化するために政治や経済のことばを使って国民を煙に巻く技術だと考えるようになりました。
はっきり言いましょう。知性は定義するものではなく、感じるものです。それを感じる力こそが知性だといってもいいですね。そこで、肝心なのはそれを備えている具体的人物に出会うことです。
エドガー・アラン・ポーは、それを備えている一人です。明晰な推理力と想像力、ジグソーパズルのピースを的確な場所に置くことのできる判断力。どれをとってもすばらしい。
この詩人・小説家に出会ったのは、ぼくが上野ヶ丘中学2年の時です。同じクラスのS君が読んでいた本がまさにポーだったのです。「モルグ街の殺人事件」「黒猫」「黄金虫」をはじめとして、ぼくの好奇心を刺激するようなタイトルが並んでいました。貸してくれるというので、家に持ち帰って読みました。
その時のことは何と表現すればいいのでしょう。人生ではじめて夢中になって読んだ本だといえばいいのでしょうか。ことばを持たない中学生の脳髄に衝撃が走ったと言えばいいのでしょうか。
ぼくの個人的な経験はさておき、まず手始めに『黄金虫』を読んでみて下さい。世の中には、こんな頭のいい人間(もちろん、『黄金虫』の主人公のことです)がいるのだと感動したものです。そして、後年、その時の経験が私に東京創元社版の全集を買わせることになりました。もっとも、その頃には、小説よりもエドガー・アラン・ポーという人間に興味は移っていましたが。
今日はここまでにします。とにかくだまされたと思って読んでみて下さい。学校の図書館やその他の公共の図書館にもあると思います。この本を読んだ後、しばらく「ぼーっとなっている」としたら、あなたは間違いなく「頭がいい」のです。塾の夏期講習に行くより100倍ためになります。たぶん。