自分のことばを持つ、とはどういうことでしょうか。自分のことばを持てば何かいいことがあるのでしょうか。いいことがあるかどうかにかかわらず、人間は自分のことばを持ちたいと考える生き物です。なぜでしょうか。
言語存在としての人間は、そのことによって誰でもいい誰かの人生ではなく、自分の人生を生きることができるからです。今回はそれを少し説明しましょう。
僕はこのブログを中高生に向けて書いていますが、「自分のことばを持つ」ことに関心のある人は少ないように思います。それでも、人は自分の人生を生きたいと考えているはずだ、ということに対する僕の確信は揺らぎません。その確信がなければ、何の利益も生み出さないこんなブログを書きはしません。
人間は本能が壊れている動物です。その代償としてというか、それを補填するためにことばをもったのです。親のこどもに対する愛情は、本能の発露のように思われていますが、実は学習によって身に付けたものです。愛は本能ではなく、学習の産物なのです。愛情深い親や周囲の人から学んだものです。
もちろん、最初にことばがあったわけではありません。こどもは、ことばではなく、しぐさや眼差し、息づかいを通して、自分が大切にされていることを感じ取ります。後になってそういった働きかけの全体を「愛」ということばで呼ぶのだと学ぶのです。ことばは単なる記号ではなく、感情を盛る「器」ですからね。
親からひどい虐待を受けて育ったこどもは、「愛」ということばの実体が分かりません。それを学習するためには、親以外の人間からかなり長い期間にわたって無償の愛情を注いでもらわなければなりません。「愛」ということばを感情で満たす時間が必要なのです。
本題に戻りましょう。前回のブログでは「勇気」ということばを巡って、僕の考えを書きました。それをもう少し分かりやすく説明したいと思います。
普通、「勇気」ということばは、どのような文脈で使われるのでしょうか。具体例を挙げてみますね。
1:好きな相手に勇気を出して告白する。
2:みんなの前で意見を発表するのは勇気がいる。
3:勇気がなかったせいで事業に失敗した。
4:無計画で物事に取り組むのは勇気ではない。
等々。挙げればきりがありません。勇気ということばには、それが流通する「マーケット」があります。ことばの辞書的な意味といってもいいでしょう。社会でもっぱら流通しているのはこの種のことばです。
しかし、このことばに、新しい意味=生命を吹き込む人間がいます。前回のエリック・ホッファーのことばを思い出して下さい。
「自己欺瞞なくして希望はないが、勇気は理性的で、あるがままにものを見る。希望は損なわれやすいが、勇気の寿命は長い。希望に胸を膨らませて困難なことにとりかかるのはたやすいが、それをやりとげるには勇気がいる。絶望的な状況を勇気によって克服するとき、人間は最高の存在になるのである」
ここでは「勇気」と「希望」が対比されています。あることばの意味を正確に理解するためには、類似のことば(概念)と対比する必要があります。何だか国語の授業のようになってきましたが、この文章によって僕たちは「勇気」ということばの新しい使用法を学びます。古い器に新しい酒を盛るわけです。
つまり、ホッファーのことばによって、僕たちは新しい世界を見ることができるのです。それまでぼんやり使っていた流通貨幣としてのことばに、独自の生命が吹き込まれたのです。ことばは世界を切り分けます。そして、よりリアルに現実を見ることができるようになります。
僕の言っていることは難しいでしょうか。僕は「勇気」ということばを使うときには、ホッファーのことばの深さと力強さに拮抗するようにして使いたいと思います。そして、自分の経験と思索によって独自の意味を吹き込んだことばをひとつひとつ増やしていきたいと考えています。なぜなら、独自のことばをもつということは、独自の人生を生きることそのものだからです。