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さよならテレビ ドキュメンタリーを撮るということ/阿武野勝彦【1000円以上送料無料】
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《目次》
プロローグ
第1章 テレビマンとは何者か
第2章 大事なのは、誰と仕事をするか
第3章 表現とタブー
第4章 放送は常に未完である
第5章 世の中には理解不能な現実がある
第6章 ドキュメンタリーを、誰が求めているのか
第7章 「ダメモト」が表現世界を開く──〈司法シリーズ〉のこと
第8章 「ドキュメンタリー・ドラマ」とは何か
第9章 あの時から、ドキュメンタリーは閉塞した世界だった
第10章 題材は探すのではなく、出会うもの
第11章 組織の中の職人は茨の道
第12章 「わかりやすさ」という病
第13章 樹木希林ふたたび
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まず私たちの生命と暮らしを脅かす事実を知ること。それにたいしてどのような認識を持つのか。この国のみならず、世界を壊滅させる災厄とどう向き合うのか。次世代に対してどう責任を取るのか、そもそも責任を取れるのか。自分に何ができるのか。この現実にどう向き合うのか。それを教えるのが教育のはずだが、この国には教育も哲学も存在しない。
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「最悪」の核施設 六ヶ所再処理工場 (集英社新書)
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小出 裕章,渡辺 満久,明石 昇二郎
原発よりもはるかに危険な六ヶ所村再処理工場。私たちの日々の生活が薄氷の上で営まれていることを痛感させられる。同時に、この国には「国民の生命・財産・自由を守り抜く!」と威勢のいいことを言う総理大臣と無能の政治家しかいないことに絶望する。核燃料サイクルと言い、下北半島の再処理工場と言い、3兆円以上の国民の税金がつぎ込まれ、いまだ後始末も将来の見通しもたっていない現実をどう考えているのか。彼らは核兵器を持ちたいという願望と税金をロンダリングして私腹を肥やすことしか眼中にない。北海道の地震だけに目を奪われてはならない。六ヶ所村は今回の震源地の目と鼻の先にあるのだ。
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D.J.ブーアスティン
私にとっては古典の中の古典。三度読みました。そしてその慧眼にいまだに驚いています。
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殺人犯はそこにいる (新潮文庫)
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清水 潔
ジャーナリストと称する職業がある。自称ジャーナリストもいれば、テレビのコメンテーターとしてリベラルに媚びる政権批判をし、名を売り、講演で稼ぐ職業をジャーナリストと呼ぶ者もいる。とんだ茶番である。ジャーナリストとはどこまでも「事実」を追いかける。テレビに出て能天気な解釈や感想を垂れ流している暇などないはずだ。ジャーナリストを志す若い人には清水氏の著作は避けて通れない。その名に値する本物のジャーナリストがここにいる。
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デジタル・ポピュリズム 操作される世論と民主主義 (集英社新書)
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福田 直子
おそらく自民党・安倍政権はSNSを駆使し、分析するデータサイエンス(日本版なのでレベルはまだ低いですが)の重要性に着目し、選挙にどうすれば勝てるか、自分たちに有利な世論を形成し、国民を誘導・分断するにはどうすればいいのかが分かっているのです。そのためのノウハウも蓄積しつつあります。安倍首相の貧困な語彙力からは想像できないカタカナ言葉を聞いていると、それがSNSを分析している集団から教えられたものであることがよくわかります。ただ彼らの致命的な弱点は将来の社会を導く理想がないことです。おそらく、思いもかけない結果が待っていることでしょう。なぜなら、所詮、彼らはアメリカとビッグデータの奴隷でしかないのですから。これからの政治は、好むと好まざるとにかかわらず、この本に書かれていること抜きには語れなくなっているのです。
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安倍政権に対するメディアの忖度が云々されていますが、元々同じ穴のムジナなのです。忘れてならないのは、日中戦争から太平洋戦争にかけて、日本の世論と新聞のほぼ全部は好戦的・拡張主義的だったのです。しかも、当時はまだ言論統制体制が発足していなかったのです。この本は、そうした「一貫して好戦的な世論とそれに便乗する新聞」が先導し、近衛文麿はじめ文民政治家がそれに便乗、軍部がさらに便乗、という構図を一次資料で克明に論証しています。安倍政権を支持するネトウヨの皆さんの日本語力では、まともな読解は無理ですので勧めません。一方、正確な歴史を知るためには「世論」の不気味さを知ることだと気づいている若い人には是非一読を勧めます。
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茫漠の曠野 ノモンハン
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松本草平
著者は大分市にある『天心堂へつぎ病院』の院長、松本文六氏の御尊父、松本草平(本名松本弘)氏です。詳しくは、ブログで紹介したいと思いますが、第一次資料として極めて価値の高いものです。40年ぶりに復刻版を出された松本文六氏と出版社に感謝する他ありません。
戦略も何もない、無謀・無慈悲な戦争を語り継ぐことは、最も崇高で重要な人間の営為だと私は考えています。作家の司馬遼太郎氏は、電話で草平氏に次のように伝えてきたそうです。「先生の臨場感のあるノモンハン戦記に出会えて本当にありがとうございました。私は大東亜戦争の折、戦車隊の一員として従軍しましたが、先生の従軍記以上のものを創ることはできません。」と。
一人でも多くの方がこの本を読まれることを望みます。ちなみに松本文六氏は伊方原発差止め訴訟の原告でもあります。その縁で、この本に出会うことができました。
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「南京事件」を調査せよ (文春文庫)
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清水 潔
全国のネトウヨの皆さんへの推薦図書です。清水氏のこの本を読んでから、「南京事件はなかった!」「南京事件は捏造だ!」と叫びましょうネ。
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広瀬隆
広瀬氏をアジテーターだの、オオカミ少年だの、悲観主義に過ぎると言って批判する人がいる。しかし、ブログで何度も述べてきたように、真の悲観主義こそがマインドコントールによって奴隷根性のしみ込んだ私たちの精神を浄化してくれるのだ。そもそも無知では悲観が生まれようもないではないか。国などいくら破れても結構。せめて山河だけでも次世代に残そうと考える人ならぜひとも読むべき本である。いや、これから幾多の春秋に富む若い人にこそすすめたい。
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チャヴ 弱者を敵視する社会
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オーウェン・ジョーンズ,Owen Jones
【本書への賛辞】

「怒りが生んだ、最高の本」
──ガーディアン紙

最高の論争がみなそうであるように、知性に裏打ちされた怒りが本書を支えている。
──エコノミスト誌

暴動や世界中に広がったオキュパイ運動に照らして考えると、分断社会に関する著者の鋭い分析は、
不気味なほど未来を予知していたことがわかる。
──アートフォーラム誌

情熱と、思いやりと、すぐれた道徳性が結実した仕事だ。
──ニューヨーク・タイムズ紙

政治の定説を見直す大胆な試み。著者は戦後のイギリス史を縦横無尽に往き来し、
階級、文化、アイデンティティといった複雑な問題を軽々とまとめてみせ、
結果として「階級」問題に火をつけ、大きな効果をあげている。
──インディペンデント紙

いまの制度が貧しい人々を見捨てていることに対する苛烈な警告──それが本書だ。
──ブログサイト「デイリー・ビースト」

ジョーンズは、「地の塩」だった労働者階級が政治のせいで「地のクズ」と見なされるようになった経緯を見事に説明している。
──タイムズ紙

この本は、新しいタイプの階級嫌悪と、その裏にあるものを痛烈にあばいて見せてくれる。
──ジョン・ケアリー(The Intellectuals and the Masses著者)

これは「イギリスはおおむね階級のない社会である」という考え方への、論理的で情報満載の大反撃だ。
──オブザーバー紙

情熱的で示唆に富む……この声が届くことを心から願う。
──スコットランド・オン・サンデー紙
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 (JUGEMレビュー »)

紹介していない本が山のようにあります。数日前にこの本を本棚の奥から引っ張り出し再読しました。いや〜面白かった。。とにかくこの本のことを忘れていた自分が信じられない。読んでない人に熱烈に勧めます。ハイ。
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英語の実際的研究 (1969年)
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秋山 敏
高校生にとって、今でも一押しの不朽の名著。でもこの本をことを知っている英語教師は少ないと思います。是非復刊してほしいものです。
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スノーデン 日本への警告 (集英社新書)
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エドワード・スノーデン,青木 理,井桁大介,金昌浩,ベン・ワイズナー,宮下紘,マリコ・ヒロセ
2017年4月18日、朝日新聞がようやく「パノプティプコン」を取り上げました。遅すぎますね。
これから先の日本社会は、ますます荒廃が進み、国民の不満が頂点に達し、やがて爆発します。それを未然に防ぐために、国は国民の監視を強化します。
実際アメリカでは「愛国者法」により、電子メールや携帯の通話履歴が監視の対象になっています。誰が、いつ、どこで、何を読んで、誰と通信を交わしたか、すべて国に筒抜けです。
「パノプティプコン」とはフランスの哲学者フーコーが用いた概念ですが、国民が刑務所の囚人のように監視される体制を言います。監視者の姿は見えませんが、囚人は監視者不在でも、監視を意識することによって管理統制されるのです。これを「パノプティシズム」と言います。
このシステムから解放されるためには、権力がどう管理・統制しようとしているかを知らねばなりません。この本はそれを知るための第一歩です。あなたが無知のまま、奴隷の人生を送りたければ、読む必要はありません。
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A.ミラー
アリスミラーのこの本は、塾を始めるきっかけになりました。ただ生活のためだけなら、他のことをしていたでしょう。『才能ある子のドラマ』とあわせて、当時の私には衝撃的な本でした。人生はどこでどう転ぶかわかりません。人間の奥深さを知ることで、何とか自分を維持していたのです。この本を読むと当時のことが、ありありと思い出されます。ある意味で、私の人生を方向づけた本かもしれません。
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NHK「東海村臨界事故」取材班

2月18日のブログでも書きましたが、仕事のために読むビジネス書の類は、最終的には効率を重視し、最小の資本と労力の投下で、いかにして最大の利益を上げるかということに尽きていると思います。そのための働き方改革であり、そのための賃上げです。そのための人心掌握術であり、顧客対応です。ビジネス書を読めば読むほど、人間は軽薄になり、視野が狭くなっていきます。もしあなたがそれを自覚するきっかけがほしいなら、是非この本を読むことを勧めます。読書はビジネスのためにするのではないということが分かると思います。この本は私たちの日常の風景を一変させるだけのインパクトを持っています。いわば、ことばの最高の意味における「闖入者」なのです。
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服従
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瀬木 比呂志
この本はまだ発売されていません。自分で読んでいない本を推薦するのは邪道でしょう。しかし、これまでの『絶望の裁判所』『ニッポンの裁判』(ともに講談社現代新書)に続く裁判所、司法批判の第3弾が長編の権力小説だということで、過去2冊の本の面白さからして、推薦に値する本だと思いました。『原発ホワイトアウト』の最高裁判所ヴァージョンだと思います。読んでからコメントを追加したいと思います。
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アモン・シェイ
学校なる場所に通っていた時、毎年夏になると課題図書を読んで、読書感想文を書かねばならないのが苦痛でした。課題図書の選定には学校と書店の密約があるに違いないと思っていたくらいです。

偶然巡り合った面白い本の感想を書くのならまだ我慢できたかもしれません。つくづく学校というところは、余計なことをしてくれると思ったものです。

あまりにめんどうくさいので、「あとがき」を参考に、あらすじを書いて提出したら、トリプルAをもらいました。

学校というところは、もしかしたら、人生の退屈に耐える訓練をする場所だったのかもしれません。この本を読んで、改めてそのことを確認しました。別に先生を責めているわけではありません。それほど自覚的に生きるということは難しいのだとため息をついているだけです。
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選挙 [DVD]
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想田和弘監督の観察映画。音楽による演出は一切なく、徹頭徹尾監督の視点で撮られたドキュメンタリー映画。見終わった後、日本の選挙風土の貧困さが浮かび上がる。この国に民主主義はない、ということを改めて確認し、そこから出発するしかない。その勇気を持つ人には必見の映画です。合わせて『選挙2』もどうぞ。
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マックス ヴェーバー
ウェーバーの死の1年前、1919年、学生達に向けた講演の記録です。
一部抜粋します。

「自分が世間に対して捧げようとするものに比べて、現実の世の中が―自分の立場からみて―どんなに愚かであり卑俗であっても、断じてく挫けない人間。どんな事態に直面しても「それにもかかわらず!」と言い切る自信のある人間。そういう人間だけが政治への「天職」を持つ。」(P105〜106)

「さて、ここにおいでの諸君、10年後にもう一度この点について話し合おうではないか。残念ながら私はあれやこれやいろんな理由から、どうも悪い予感がしてならないのだが、10年後には反動の時代がとっくに始まっていて、諸君の多くの人が―正直に言って私もだが―期待していたことのまずほとんどは、まさか全部でもあるまいが、少なくとも外見上たいていのものは、実現されていないだろう。」(P103〜104)

10年後には、ワイマール体制は機能不全に陥り、1933年にはヒトラーが首相に就任します。

平和憲法は、日本人にとって310万人の命と引き換えに手に入れた唯一と言っていい理念であり、アイデンティティーでした。その唯一の誇りを、日本人は損得勘定で葬り去ろうとしています。言い古された言葉ですが、歴史は繰り返すのです。
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中沢 新一
小学校を卒業するころ、将来なりたい職業として思い描いていたのが、天文学者か生物学者でした。プロ野球選手は、自分のセンスでは無理だと悟りました。物ごころついたころから興味があったのは宇宙や昆虫や植物の世界でした。そんなわけで南方熊樟に出会うのは必然的な成り行きだったのです。人間は言葉によって世界を把握しますが、それ以外の把握の仕方があるはずだと、ずっと思ってきました。南方熊樟は、小林秀雄と同じく、直観による世界の把握の仕方を教えてくれました。この本は、言葉によって構成された世界秩序の外に出て、世界を改めて考えたい人に大いなるヒントをあたえてくれます。安倍政権によるゴキブリのフンのような、あまりにばかばかしい政治状況を見せつけられているので、精神の衛生学として一気に読みました。
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こどもの教育から裏金を使ったオリンピック誘致、原発再稼働、戦争準備から武器の売却、安倍政権の裏の権力としてメディアに絶大な影響力を行使する電通。私たちは電通が作り上げた「箱」の中でいいようにマインドコントロールされている。自分の意見だと思っていたものが、実はそう思わされていただけだということに気づかなければならない。音楽をはじめとする芸能情報、その中で踊らされるミュージシャンやタレント、果てはデザイン業界までを席巻する。今や電通の介在しないメディアはないと言ってもいい。利権あるところに電通あり、です。
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前作『日本はなぜ「基地」と「原発」止められないのか』に続く著者渾身の力作。自分の人生を生きたい人にすすめます。ただそれだけです。18歳で選挙権が与えらる高校生が政治を考える際の基本的なテキストになる日がくるといいですね。無理でしょうが。これ以上余計なコメントはしません。まず手に取ってみてください。
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メディアで取り上げられるよりはるか前から日本会議の存在について私は言及していました。電通と同じくタブー視するメディアには心底失望したものです。報道すればタブーはタブーでなくなるのです。何を恐れているのでしょうか。干されれば、何とか生活をする工面をすればよい。それだけのことです。
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磯崎新
帯に「祝祭都市にスタジアムはいらない」とあります。そもそも2020年まで天災と原発事故をやり過ごし、経済危機を乗り越えて存在しているでしょうか。極めて怪しいですね。偶然書店で手に取って読みました。彼の文章を読むと、建築は現世の権力に奉仕するものではなく、想像力の王国を作るものだと思わされます。建築にそれほど興味のない人でも、読めます。いや、いつのまにか引き込まれているでしょう。
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難関中高一貫校で学び、東大に合格しても、それはもはや知性のバロメーターではありません。この本に書かれていることが真実だと見破れることこそが本物の知性です。ニセの知性は既得権益を守るためにはどんな屁理屈でもひねり出します。おまえは何も知らないと言って他人を見下し、金と権力におもねるのです。ニセの知性は理想の灯を掲げることができません。「脳内お花畑」などという幼稚な言葉を使って揶揄するしかないのです。彼らの決まり文句は、他国が攻めてきたらどうするのかという、それこそ「脳内お花畑」的なものです。「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」とは、まさに至言です。
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烏賀陽弘道
私の元塾生の縁でお会いしたことのある烏賀陽弘道氏の渾身のレポート。事実を丹念に調べ上げ(これがジャーナリストの本来やることです)事実をして語らしめることのできる稀有なジャーナリスト。この本を読まずに福島第一原発の事故の本質に迫ることはできない。ダブル選挙の前に一人でも多くの国民が読むことを期待します。
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松岡正剛氏の本はどれも面白く、シリーズの千夜千冊を除けばほとんど読んでいます。『多読術』は、高校生にぜひ勧めたいと思います。高校時代に、この本を読んでおくと、さまざまな分野の知的見取り図を手に入れることができます。学校の授業だけではなく、この本を手掛かりにして知の荒野に歩みを進めてほしいと思います。
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カント
安倍首相は「この道しかない」と言って消費税を上げ、集団的自衛権の行使を可能にする閣議決定をし、公約とは正反対のTPPを批准することで、日本の文化=アイデンティティーを破壊しようとしています。

もし私たちが生き延びたければ、そのヒントがこの本の中に書かれています。日本は超大国の「夢」を代弁するだけの国になってはなりません。
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山本 太郎
山本氏の国会での質問を、本になって改めて読み直して感じることは、文字通り「みんなが聞きたい」質問をしてくれたということです。安倍首相が小学生に「なぜ政治家になったのですか」と質問された時、「父親も祖父も政治家をしていたからです」と答えていました。小学生相手に、何と言う悲しい答えでしょうか。語るべき理想を持たない政治家など、所詮は官僚に利用されるだけです。それに対して、山本氏には語るべき理想がある。「政治なんてそんなものさ」というリアリストが発散する腐臭を吹き飛ばすさわやかさがある。それは、彼の身体には収まりきれない理想が持つ力そのものです。彼は言います。「力を貸してほしい。少なくとも、あなたが必要だと思われる社会、私が必要だと思われる社会を作っていきたい。そう思うんです」と。日本の総理大臣にふさわしいのはどちらでしょうか。
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転換期の日本へ―「パックス・アメリカーナ」か「パックス・アジア」か (NHK出版新書 423)
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ジョン・W・ダワー,ガバン・マコーマック
おそらく、日本人自身よりも海外の知識人のほうが、日本の問題を正確にとらえていると思わせる本です。読み終えて何気なくテレビを見たら、わが大分県選出の国会議員、岩屋毅氏と江藤晟一氏が、2016年ミスユニバース大分県代表を選ぶ催し物に出ていました。名誉顧問だそうです。いかがわしい宗教団体をバックに票を稼ぐだけでは飽き足らず、こんな大会に顔を出して名前を売ろうとする。大分市長の佐藤樹一郎氏も出席していました。このお三方は、こんなことをするために国会議員や市長になったのでしょうか。国民の税金を使ってやることといえば、テレビに出演してにやけた顔をさらすことでしょうか。もう物事の軽重が全く分かっていません。せめてこの本くらい読んではどうでしょうか。私はこの本に書かれていることの大部分に賛成です。
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2年半ほど前に求めて、一気に読みました。マルクスの『資本論』の中に書かれていることを、著者が自分なりに消化し実践していく過程が書かれているので、一種のドキュメンタリー文学として読めます。きっと著者と同じ思いの若者は全国にたくさんいると思います。かけがえのない一回きりの人生を、充実して生きたいと思っている人に勇気を与える本です。
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もう何と言うか、別世界を生きている人間です。彼の発する言葉は文学とは無縁です。人間が言葉を持ったのは、言葉にしがたいものを言葉にしようとするためです。政治家が発する言葉の軽さと言ったらありません。それだけ現実も軽いものになったということでしょう。
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鈴木大拙の言わんとすることが、ようやくわかりかけてきました。年齢を重ね、日本文化の基底にあるものをじっくり味わうことで開示される世界があるのです。日々の生活に追われていては、この本を読み、味わう暇などないでしょうが、それだからこそ手に取ってみてはいかがでしょう。
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人間は、条件次第で、喜々として殺人を犯す。そして、その条件を整備しつつあるのが、安倍政権とその背後でうごめく『日本会議』である。このことに気づいていても、「配慮する」ことを最優先して報道しないメディア(特にNHK・読売新聞・産経新聞)。そしてそこに寄生する学者やコメンテーター、芸能人。このドキュメンタリー映画は、彼らの自画像である。たまには、自らの顔をじっくり眺めてみるがよい。
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私が長年考えてきた問題を解明するヒントになりました。ブログで書いたように、まず感情を基にした結論があって、それを正当化するために人は「知性」を動員するという、ごく当たり前のことが書かれている。つまり、知の粉飾決算報告書である。
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食う寝る遊ぶ 小屋暮らし (JUGEMレビュー »)
中村 好文
中村さんの著作の中では、個人的に最も好きな本です。読んでいるだけで楽しくなります。限りなく優しい、でも、痛烈な文明批評です。これからの生き方のヒントが満載です。それを一人でも多くの人と分かち合いたいと思い、中村好文論・その3の中で引用させていただきました。
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暮らしを旅する
暮らしを旅する (JUGEMレビュー »)
中村 好文
以下は私がアマゾンのレビューに投稿したものです。再録します。
「もし人に幸福な生き方があるとしたら、中村好文さんのような生き方だろうと、ずっと思ってきました。
建築雑誌をパラパラとめくりながら、ふむ、と思って手が止まると、そこには必ずと言っていいほど中村さんの設計した住宅がありました。
文は人なりと言いますが、その人の書く文章のエッセンスがこれほど見事に建築にも表現されている例はめったにありません。
建築に限らず、食の分野でも、ことばと実物の乖離がはなはだしい時代に、中村さんの設計した住宅や美術館に出会うと、どこか安心するのですね。
そういうわけで、著者の本はすべて読ませてもらっています。
この本も偶然、年末に本屋さんで手に入れ、装丁やカバーの手触りを楽しみながら読んでいます。
読みながらいつの間にかほのぼのとしている自分を発見します。
一日に一編か二編を過去の記憶をたどるようにして読んでいます。
この本の平明さ、やさしさがどこから来るのか。そんなことを分析するのは野暮というものです。
とにかくこの素敵な小さな本は、旅のお供にどうぞ!とすすめたくなります。」
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この人を見よ!−横浜市教育委員会・岡田優子教育長
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    これまで『この人を見よ!』というタイトルで11人の人物を取り上げてきました。すべて私が尊敬できる人たちばかりです。どんな仕事に就き、どんな大人を目指せばよいのか迷っている中高生の皆さんに是非読んでもらいたいですね。

     

    ところで、今回の『この人を見よ!』は、若い人たちにとって、反面教師となる人物をとりあげました。その人物とは横浜市教育委員会の岡田優子教育長です。なにはともあれ、こういう人間にだけはなってほしくありません。

     

     

    そう判断する理由は以下の通りです。

     

    福島第一原発事故で福島県から横浜市に自主避難した中学1年の男子生徒がいじめを受け、150万円を払わされていた問題で、教育長の岡田優子氏は20日、市議会に「関わった子どもたちが『おごってもらった』と言っているから、いじめには当たらない」と報告し「第三者委員会においても、金銭授受についていじめとは認定できないという結論になっており、新たに認定し直すということは難しい」などと発言した。

     

     

     

    生徒側の代理人によると、生徒は同級生らから「賠償金あるだろ」などと言われ、ゲームセンターで遊ぶ金など総額約150万円を支払わされた。この問題を調査した第三者委員会は「いじめから逃れるためだったと推察できる」としたが、「おごりおごられ行為」をいじめとは認定しなかった。

     

     

    その後、林文子横浜市長は25日の定例会見で「子どもに寄り添った発言ではなかった。大変申し訳ない」と謝罪した。

     

    2017年1月25日
    http://www.asahi.com/articles/ASK1T6FQ1K1TULOB016.html


     

    岡田氏は「第三者委員会」にゆだねなければ、小学5年生が同級生に150万円も払っていることを「普通ではない、異常だ」と判断出来ないのでしょうか。この生徒は度々、「おごれ」と要求されたので、親に隠れてカネを持ち出し、「脅し」に応えていたのです。何度も言いますが、見ようとすれば誰の眼にも見える明白な事実があるのです。私はそれを書いているだけです。教育長ともなれば、「誰の眼にも見える明白な事実」を「見ようと」しなくなるのでしょう。「見ようと」しないことで、岡田氏は何を守ろうとしたのでしょうか。

     

     

    第三者委員会の報告通り「おごってもらったのだから問題ない」のでしょうか。大人でも150万円もおごったりしません。岡田氏は、いじめた側の子どもの声を一方的に聞き届け、「問題なし」と結論付けたのです。

    そもそも、いじめた側が素直に「脅してカネを払わせた」と言うでしょうか。「おごってもらっただけ」と言うに決まっています。

     

     

    こうした不公正な判断により、避難してきた生徒は「二重のショック」を受けたはずです。福島への「差別」と「間違いを間違いだと認めることのできない」学校や教育委員会など、大人への失望感、不信感です。私は「もし自分がこの少年だったら、この社会をどのように見るだろうか、どう行動するだろうか」と考えてこの文章を書いています。

     

     

    それにしても、どういう人生を送れば、岡田氏のように人格が空洞化し、まともな判断力を持たない大人になれるのか。そして、横浜市の教育長という地位につけるのか。逆に、人格が空洞化し、まともな判断力を失った人物でなければ、教育長という地位にはつけないのか。私は今度の事件を、中央、地方を問わず教育行政のトップに位置する人間たちに起こっている、道徳の自壊現象の表れだと考えています。この件については、また改めて述べます。

     

     

    私は2年前のブログ『この人を見よ!− 元国会事故調委員長・黒川清氏』

    http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=45

    の中で、次のように書いています。(ブログの動画は是非見てほしいです。)

     

    「黒川氏は自分のことばで福島第一原子力発電所の事故の本質を語っています。この国には、氏のように自分のことばで発言できる大人の何と少ないことか。これだけ見ても、日本の教育は総体として社会的な責任を自覚できる人間を育てるのに失敗したのだと断言せざるを得ません」と。

     

    | この人を見よ! | 23:22 | comments(0) | - |
    私の古寺巡礼13−奈良・慈光院
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      「私の古寺巡礼」が2か月間中断していました。「自己救済術としての家作り」も途中です。不定期ですが再開したいと思います。

       

      そもそも私が建築に興味を持ったのは、専門的なこと、技術的なことではなく、建築とはそれを設計した人そのもの、その人の精神そのものだと感じたからです。音楽やすぐれた文学も同じですね。ただ、建築は目に見えるもの、手で触れるものとして、ある場所に存在しています。動きません。その精神性に感化された人が、自らその場所を訪ねなければ、出会えないものです。

       

       

      私はルイス・カーンの「エシェリック邸」や「フィッシャー邸」に出会い、建築に目を開かれました。そのことはブログでも書きました。両方とも、入口がどこにあるかわからないような簡素なつくりです。住宅はあくまでそこで生活する人のためのものであって、見栄や社会的な地位の象徴ではない、とカーンは考えていたのでしょう。これがわが家の玄関だ、と主張している住宅はどこか苦手ですね。私は玄関なんてものは、そもそもいらないんじゃないか、と思っています。

       

       

      何より感動したのは、両方とも、写真で見るよりずっと小ぶりでつつましやかだったことです。プロポーションというかスケール感というか、それが絶妙だったのです。

       

       

      思わず魅せられてしまう建築には共通点があります。思い出すだけで気持ちが整理され、一日の時間が充実した新鮮なものになります。それは風土や自然を美しく際立たせる気品に満ちています。人間と人間の営みが美しく素晴らしいものだと教えてくれます。訪れるたびに新たな発見があり、流れた時間と積み重なった記憶を反芻できます。それは取りも直さず、自分の成長と存在を肯定することにつながります。その影響でしょうか、巨大な公共建築物にはあまり興味が無くなってしまいました。

       

       

      今回紹介する奈良の慈光院も、どこか住宅の趣があって、等身大で決して威張っていません。これから家を建てようと考えている人には、住宅は30坪前後が理想的だと言いたいですね。これから先の社会のありようも含めて、理由を書くと長くなるので、ただそう思うとだけ申し上げておきます。

       

      慈光院入口

       

       

      向こうに見えるのは奈良の市街地。広縁のむこうの松とつくばいが、絶妙な位置に配置されている。

       

       

      ああ、この広縁と庇のバランスを見よ!足すことも引くこともできない。あと50センチ縁側が狭かったらというような、この建築の全てをブチ壊すような想像を振り払いました。

       

       

       

       

      この建築のどこがいいかというと、とにかくプロポーションがすばらしい。京都の詩仙堂と同じく、これ以上足すことも引くこともできない、均衡の理想形ともいうべきものが表れています。これほど完ぺきな空間であるにもかかわらず、心穏やかになれるのです。

       

       

      この建築の美質は、内と外の境界の扱い方に集約されています。特に縁側の寸法がすばらしい。私はしばらく見とれていました。庭と呼応する軒の高さ、庇の出、縁側の奥行き、幅、段差が絶妙なスケールで収められています。この建築の設計者は、敷地を動き回り、一日の光の量の変化や風の通り具合を確かめ、視点を変え、季節感を呼び覚まして自分の身体に宿っている美意識を総動員したはずです。「高桐院」「蓮華寺」「詩仙堂」もしかりです。

       

       

      古寺巡礼を続けていると、自分の体温というか体質というか、趣向にとても近い建築に出会います。琴線が共鳴するのです。それは初めて出会ったのに、ずっと前から知っていたような、そんな感じです。私の美意識のルーツはいったいどこに由来しているのか、それはまだいろんなところに存在しているのか、ひょっとしてこれからもそういったものに出会えるのか、と考えると、生きることには意味がある、人生は楽しいと思えてくるのです。

       

       

      | 古寺巡礼 | 15:44 | comments(0) | - |
      伊方原発運転差し止め裁判を傍聴する。
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        今日は午後1時前に大分地方裁判所に行きました。原告として、第2回伊方原発運転差し止め裁判口頭弁論に出廷するためです。ブログリンクしている「疾風自由日記」のS氏(上高の同級生)も原告として来ていました。とまれ、私のような、のほほんと生きてきた人間が裁判の原告になろうと決心したのですから、相当深刻な危機が迫っているということです。

         

         

         

         

        私は塾教師として、出来れば世間の片隅で、子供たちと色々なことを学んだり、調べたり、励まし合ったりする平凡な日々を送りたかったのです。この国の行く末について深刻に思い煩うこともなく、豊かな自然に囲まれた笑い声の響く場所で、自分の<生>を全うすることができれば、他には何もいらないと思ってきました。

         

         

        原発事故は人災です。地震や火山が多い日本に原発を作ること自体が、私たちの生活の中に破局をインプットすることになります。つまり原発は存在そのものが災厄なのです。それを正当化する経済学者や政治家のいかなる論理も屁理屈に過ぎません。

         

         

        『死の舞踏を舞っているのは誰か』

        http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=38

         

         

        原発事故はこれまでの暮らしを一変させます。ある日突然、けたたましいサイレンの音が近づいてきて、白い防護服に身を固めた人間たちが避難命令を下します。病気のお年寄りや、子供たちは何が起こったのかもわからず、ただ右往左往するだけです。そして、二度と家にも故郷にも戻れません。学校に通うこともできなくなります。家族は引き裂かれ、地域は崩壊するのです。これは福島で現実に起こったことです。

         

         

         

        にもかかわらず、安倍政権は何事もなかったように原発を再稼働させています。彼らは政治家失格どころか人間失格です。そういう人間たちを前にして、手をこまねいて何もしないのでは、将来の世代に対して申し開きができません。

         

         

         

        伊方原発が暴走すれば、大分や愛媛はもちろん、放射能は瀬戸内海を汚染して関西にまで到達します。この国は終わるのです。なにも大げさなことを言っているのではありません。見ようとすれば誰の眼にも見える明白な事実があるのです。私はそれを書いているだけです。

         

         

         

        世の中には、権力と財力をほしいままにし、思い通りに会社や財界や国を動かしているエライさんがいます。しかし、今一度原発事故が起これば、エライさんはエライどころか、真っ当で単純な真実に一度も向き合うことのなかった倫理的に退廃した人間たち、自己利益の最大化にしか関心がなかったエゴイストたち、要するに想像力も知性も感情も持たない最低の人間たちだとして糾弾されるでしょう。

         

         

         

        原発は完全に過去の技術です。事故が起こっても原因を究明することができないのですから、未来のない悪魔の技術です。そもそも、フィードバックができない技術は技術ですらありません。核燃料サイクルが完全に破綻した今、原発を続ける合理的な理由はなくなりました。

         

         

         

        福井県の高速増殖炉「もんじゅ」も、技術的に廃炉にするめどは全く立っていません。もんじゅは普通の原発とは異なり、冷却に水ではなく金属ナトリウムを溶かしたものを使っています。ナトリウムは空気に触れると燃え出し、水に触れると爆発します。さらに、事故で鉄も溶かしてしまうことがわかりました。

         

         

         

        政府は廃炉に向けた研究拠点を福井県内に作るとしていますが、廃炉にする技術がないため、研究を続けざるを得ないのが実態です。もちろん廃炉には巨額の税金が投入される見込みですが、政府は費用の見積もりすら公表していません。敗戦が濃厚になった後も、特攻を命じ、若者を無駄死にさせた勢力がそのまま生き延びているのです。

         

         

        未来塾通信51『二つの島をつなぐ』

        http://www.segmirai.jp/essay_library/essay051.html

         

         

        ドイツや台湾は、福島の事故から学び、原発から撤退することを決めました。世界は脱原発へと向かっています。大分地裁の裁判官が、見ようとすれば誰の眼にも見える明白な事実について判断し、歴史に残る判決を出してくれるよう、これからも裁判所通いを続けるつもりです。

         

         

        | 原発 | 23:28 | comments(0) | - |
        どうせ削除されるでしょうが・・・
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          本日(1月25日)の国会中継で自由党の山本太郎氏の代表質問を見ました。見事というしかありません。私は途中で大笑いしたり、手を叩いたりして「いよっ!太郎日本一!」と叫んでしまったくらいです。どうせメディアは無視を決め込み、報道しないでしょうから動画をアップしておきます。

           

           

          私は山本太郎氏の国会質問をブログで何度も取り上げましたが、動画はことごとく削除されています。それほど安倍政権にとっては痛い、本質的な質問をしているということです。国民の目に触れさせないよう、自民党ネットサポーターズクラブやネトウヨを総動員して、必死のもみ消しを図っています。

           

           

          その前に、おまけです。民進党を見下し、挙げ足を取る官僚の作文を読んでいる最中、「訂正云々」を「訂正でんでん」と読んだ場面をアップしておきます。すぐに削除されるでしょうが、でんでんかまいません。もうまともに取り合うのもあほらしくなってきました。

           

           

          さて、では皆さんお待たせしました。いよいよ山本太郎ショーの始まり始まり!

           

          | 政治 | 17:40 | comments(0) | - |
          部活とブラック化する社会
          0

            中高生の皆さん、こんにちは。

             

            前回は部活の根性主義、シゴキを放置していると、それがエスカレートして命を落とす危険があることを、具体的な事件に則して説明しました。そして、これからの社会を生き延びるためには「見ようとすれば誰の眼にも見える明白な事実に対して、適切なことばを与える力」が必要だと言いました。

             

             

            私も部活をしていたので、その功罪はわかっているつもりです。一概に部活を否定するつもりはありません。そうはいっても、行き過ぎた部活動のために、小学生の時は読書好きで知的だった子供が、中学生になった途端、集中力が無くなり、本も読まず、慢性的な疲労のために勉強に対する意欲が減退していくのを目にすると複雑な気持ちになります。

             

             

            そもそも部活はいったい誰のためにあるのでしょうか。 「指導者」が有名になるために生徒が試合で結果を出すことが求められるのであれば、部活動の私物化と言われても仕方ありません。しかし、これは、バスケ部員が顧問の暴力で自殺した大阪市立桜宮高校やその他の“強豪校”に共通する特徴です。

             

             

            そして、“強豪校” に共通する特徴は、犠牲者が出るまで表面化しません。指導者が生徒を殺しても、刑事罰を科され刑務所に行くことはないのです。一時マスコミをにぎわすことはあっても、すぐに忘れ去られ、部活根性主義のエートスは温存されます。なぜでしょうか。それは部活を通じて育成される精神文化は私たちの労働に対する考え方と直結しているからです。つまり、相互に影響を及ぼしあっているため、根が深いのです。

             

             

            例えばこういうことを想像してみて下さい。あなたが高校の吹奏楽部に所属していて(運動部ではありません)、近づくコンクールのために毎日練習をしているとします。

             

             

            その時、定年を迎える顧問の先生が言います。

             

            「一人でも多くの人に音楽を好きになってほしい。コンクールで優勝するために頑張るのは、音楽のすばらしさを理解するチャンスなんだ。心を一つにしなければ、いい演奏もできない。音楽は楽しい。長い人生の中では、辛いことも苦しいこともある。でも、楽器を演奏している間はそれを忘れられる。仲間といっしょに練習した日々の記憶は、きっと君たちの財産になるはずだ。そうなってほしい。君たちといっしょに音楽をやれて楽しかった。ありがとう」と。

             

             

            そこに、これまで全国大会で優勝した実績をもつ顧問が赴任してきます。

             

            「こんな練習の仕方では、予選も勝ち抜けないばかりか、優勝など夢のまた夢だ!お前たち、やる気があるのか!ただ楽しく演奏すればいいというのは負け犬のたわごとだ。世の中、結果を出さなければ認めてもらえない。結果がすべてなんだ!」と活を入れます。

             

             

            なぜこんな話をするかわかりますか。顧問にはそれぞれの言い分があり、どちらが正しいか決めることは難しいということを分かってもらうためです。もちろん、みなさんがどちらのタイプを好むかという、好き嫌いの問題はあるでしょう。ところが、その好き嫌いの問題さえ、よく考えると、社会のありようによって決まっているのです。

             

             

            この国の文化や歴史を重んじ、政治を一部の人間が私物化することを嫌う人たちは、前者の考え方を支持するでしょう。反面、抽象的で美しい一般論に傾きがちで、具体論になると頼りにならない人も多いので、それが弱点となっています。「私たちの社会」や「私たち」を主語にして語りますが、「私たちの社会」とはどんな社会だ、「私たち」とは誰のことだ、と言われると黙りこんでしまいます。要するに、思想的に深みのあるリーダーがいないのですね。

             

             

            それに対して、弱肉強食の競争社会を勝ち抜くことにすべてのリソースをつぎ込んでいる人は後者の考えを支持するでしょう。権力とお金にものを言わせ、マスコミを味方につけ、支離滅裂な経済政策、外交政策を展開する安倍政権と、それを支持する人たちも後者の考え方を内面化しています。時代に逆行しているのですが、そんなことにはおかまいなしです。

             

             

            『ビリギャル本』の出版社、KADOKAWAの取締役である夏野剛氏もきっと後者でしょう。彼は楽天の三木谷浩史氏との対談で「日本史なんか学校で教えなくていい」と公言しているくらいですから。要するに彼らは、この国の文化や歴史などどうでもいい、新手の金儲けがうまいだけの人間で、新しい思考様式をもたらしてくれる文化の先導者でもなんでもありません。

             

             

            一人で何もかもやり、人の何倍も働くことが有能の証しだとする精神文化の象徴のような会社・電通も後者の考えを信奉しています。高橋まつりさんを自殺に追い込んだのも、これを具体化した社是のせいです。日田高校の剣道部の顧問が「指導」と称して生徒を殺してしまったのも、この洗脳文化です。ブラック企業が蔓延する背景には、こういった事情があるのです。

             

             

            ブラック企業で思い出したので、最後にもう一つだけ後者の例を挙げます。自民党の参議院議員で、『ワタミ』の創業者である渡邉 美樹氏がテレビ番組『カンブリア宮殿』の中で作家の村上龍氏と交わした会話です。ちなみに、渡邉 美樹氏は過去に教育再生会議(安倍内閣)委員、神奈川県教育委員会委員を3年間務めている人物です。

             

            大分県の日田高校剣道部顧問を洗脳し、前途ある高校生を死に至らしめた指導方法は自民党の渡辺議員(ワタミ会長)の考えとそっくりです。まるで同じ教団の信者のようです。

             

             

            ワタミ 「『無理』というのはですね、嘘吐きの言葉なんです。途中で止めてしまうから無理になるんですよ」

             

            村上龍  「?」

             

            ワタミ 「途中で止めるから無理になるんです。途中で止めなければ無理じゃ無くなります」

             

            村上龍 「いやいやいや、順序としては『無理だから途中で止めてしまう』んですよね?」

             

            ワタミ 「いえ、途中で止めてしまうから無理になるんです」

             

            村上龍  「?」

             

            ワタミ 「止めさせないんです。鼻血を出そうがブッ倒れようが、とにかく一週間全力でやらせる」

             

            村上龍  「一週間」

             

            ワタミ  「そうすればその人はもう無理とは口が裂けても言えないでしょう」

             

            村上龍  「・・・んん??」

             

            ワタミ  「無理じゃなかったって事です。実際に一週間もやったのだから。『無理』という言葉は嘘だった」

             

            村上龍  「いや、一週間やったんじゃなく、やらせたって事でしょ。鼻血が出ても倒れても」

             

            ワタミ  「しかし現実としてやったのですから無理じゃなかった。その後はもう『無理』なんて言葉は言わせません」

             

            村上龍  「それこそ僕には無理だなあ」
                                      

             

             

            こんな発想の人間が指導者だったり、会社のトップだったりした日には、命はいくつあっても足りません。現に、ワタミの従業員は過労自殺しています。

             

            前回のブログで書いたように「空気を読んでいると殺される社会に私たちは生きている」のです。「見ようとすれば誰の眼にも見える明白な事実に対して、適切なことばを与える力」が必要だと言った理由を理解していただけたでしょうか。

             

            | 中高生の皆さんへ | 23:51 | comments(0) | - |
            部活で殺されないために − 言葉の力を信じる。
            0

              中高生の皆さん、こんにちは。

               

              今回は、大分県で起きたある事件を取り上げます。「本物の国語力」とは何か、という問いに答えるために考えて下さい。塾や予備校で説かれている「国語力」なるものは、受験国語を短時間で効率的に解くテクニックを指します。やたらと「論理的思考力」という言葉が飛び交うだけの、形式論理学の廉価版に過ぎません。

               

               

              義務教育や高校教育の中で行われているのは、人間社会が言葉によって作られているという本質的な条件を個人の中にセットするための最も基礎的な訓練です。言葉を生みだしたのは社会です。ということは、社会の必要やつながりの上に言葉は存在しているのです。その訓練が受験をクリアするためだけに行われているとすれば、学校はみずから社会性を放棄し、逆に、本物の言語能力が育たないように仕向けているという他ありません。

               

               

               

              私が考える本物の言語能力について、以下に結論だけ書きます。

               

              「見ようとすれば誰の眼にも見える明白な事実に対して、適切なことばを与える力」「言葉が本来持っている社会性を信じて、孤立することを恐れず、勇気を持って書いたり発言したりする力」です。孔子の言う「名を正す」を実行する勇気のことです。

               

               

               

              つまり、本物の言語能力を身につけるためには勇気が必要なのです。「えっ、国語力と勇気が関係あるの?」と思っている中高生の皆さんがほとんどでしょうね。勇気は人格に発します。しかし、いわゆる国語力は脳内の抽象的記号操作に過ぎません。私も、このことに改めて気づいたのは、3・11の東日本大震災と福島第一原発の事故を経験した後です。

               

               

               

              本物の言語能力は人の命を救う力を持っています。それを証明してみましょう。中高生の皆さんが、部活で殺されたくなかったら、ぜひ以下をお読みください。

               

               

               

              それは、大分県立竹田高校剣道部の主将だった工藤剣太さん(当時17歳)が、2009年8月22日に顧問教諭Sから暴行を受け搬送先病院で死亡した事件です。この事件は「熱中症による死亡事故」といった報じられ方をしています。数日前のOBSのニュースでも「熱中症による死亡事故」と報道していました。ジャーナリズムが権力の側についているのです。「名を正す」ことが自分たちの仕事だと思っていないのです。つまり言語能力がないのです。

               

               

               

              2009年8月22日に何があったのか。この被害生徒には同じ剣道部の弟さんがいて、弟さんは目の前で兄が教師に暴行され、結果として死亡に至る様子を目撃したそうです。このような事件を「指導死」と言うそうですが、弟の風音(かざと)さんの証言を読んで下さい。

               

               

              ◇      ◇      ◇

               

              2009年の夏〔注:8月1013日〕に合宿があり、その時も練習中の記憶が飛ぶぐらいの稽古で、素振りを1000本、2000本とさせられるものでした。その合宿の直後に剣道部でもインフルエンザが出て、1週間の自宅待機(注:練習なし)となりました。自宅待機明けの練習では、顧問から「足が動かなくなるぐらい練習しろ」と指示が出ました。

               

               

              練習後に、兄が顧問に報告に行くと、「歩いてここまで来ることが出来たということは、『足が動かなくなるぐらい練習しろ』という指示が守られていない」ということで、顧問は兄に言いました。「じゃあ、あした(2009年8月22日)の練習おぼえちょけよ」

               

               

              そして剣太さん(当時17歳)が亡くなった2009年8月22日がやってきます。

               

              小学校から剣道をやって来て、兄が指導者に対して「もう無理です」と言うのを聞いたのは、私はその時が初めてでした。すると、顧問は「おまえの目標は?」というような(その場にはそぐわない)ことを兄に問いかけました。兄が道場内をふらふらと歩いて壁があることに気づかず、そのままぶつかって倒れました(注3)。

               

               

              兄は壁にぶつかった時に(その時はすでに面を取っていたので)額を切って血を出していたのですが、顧問は「演技をするな!」と兄に馬乗りになり、額の血が飛ぶぐらいに往復ビンタをし始めました(注4)。顧問はあとで兄を殴ったことを「気つけ」のためと言っていましたが、見ている部員らは「ただの腹いせ」だと感じていました。

               

              (注3) 「もう無理です」と言ってから壁にぶつかって倒れるまでの剣太さんの様子(資料より)

               

              ○ フラつき壁にぶち当たったり、ひざまずいたり座ったりを繰り返す(みんなで起こす)

              ○ 打ち込んだ後、動かなくなる

              ○ 違う方向を向いたまま動かずみんなで引っ張り向きを変えるが、動かない。打たなくなる。

              ○ 竹刀を払われ落とすが拾おうとせず、持っているかのような仕草をする。

              ○ 体が「く」の字に曲がるほどだったが、何とか踏みとどまり2〜3歩行ったところで倒れる。その後ももがきうずくまる。

              ○ 顧問はふらつく剣太さんを歩いて来た勢いで蹴っている。その時のふるまいについて、顧問は裁判で「足の裏で押した」と答えた。

              ○ 剣太さんは、手をつかずに前のめりに倒れ、面の上から2回水をかけられて意識を戻す。そのあと面を取り、ふらふらと歩いて壁にぶつかる。

               

              (注4) 風音さんが「額の血が飛ぶぐらいの往復ビンタ」を他の部員も、「ケガの出血が飛び散る勢いで」「首が飛ぶぐらい強く」と証言している。何も反応しなくなった剣太さんの様子は「目は見開き、白目をむいていた」、「死んでいるような目だった」という(証言より)。その後水を飲ませられるが、すべて嘔吐する。そういうことのあとで、顧問は剣太さんに以下の「救急車」発言をする。

               

              意識の無くなった兄に、顧問は「じゃあ、救急車呼ぶか?」等と聞いており、私は何というバカなことを…と思いました。

               

               

              兄が亡くなってから、(顧問の暴行を、その場に居ながら)止められなかった自分のことを何回も恨みました。事件後、剣道場にも行けず、教室にも行けなくなりました(注:のちに風音さんは別の高校に転学する)。

              今でも、私には兄の最後の言葉が耳に残っています――「キャプテンやから、がんばるけん」。そう言った兄がすごいと思うし、兄の剣太だからこそ、あそこまで出来たのだと思います。兄は私にとっての誇りです。

               

               

              ◇      ◇      ◇

               

               

              弟さんの証言が下記のサイトで公開されています。


              大分県:剣道部顧問による暴行致死事件(3) 17歳で逝った兄へ

              http://shidou-life.net/ooita3.html

              大分県:剣道部顧問による暴行致死事件(2)私たちの意識改革を!

              http://shidou-life.net/ooita2.html

               

               

              2009年8月22日、もし「あなた」がその場に居合わせていたら、何ができたでしょうか。私は本物の言語能力とは、「見ようとすれば誰の眼にも見える明白な事実に対して、適切なことばを与える力」だと言いました。部活の顧問は絶対権力者です。逆らうことなどできないでしょう。でもこの場合、あなたは部活の顧問に体当たりして次のように言わなければなりません。

               

               

               

              「やめろ!あなたのやっていることは殺人だ!それでも教育者か!」と。

               

               

               

              その時、他の剣道部員も全員で声を出し、最初に声をあげた人を助けるのです。言葉は力を持っています。あなたが、これから先の社会を生き延びたければ、同調圧力に屈することなく、言葉の共同性を信じて、勇気を持って発言しなければなりません。なぜなら、空気を読んでいると殺される社会に私たちは生きているからです。

               

               

              | 中高生の皆さんへ | 17:54 | comments(0) | - |
              人間にはいかんともしがたい能力の差が歴然とある。
              0

                前回は『ビリギャル本』を批判しましたが、実はそんなことに時間を費やしたくはなかったのです。わざわざ時間を割いて詐欺本を批判するほど、私も暇ではありません。ただ、乗りかかった船です。今回は塾教師としての実感にもとづいて坪田氏を批判することにします。この種の本は2匹目のドジョウどころか、3匹目4匹目を狙って、手を替え品を替え登場します。その背景には、著者と出版社(KADOKAWA)の商売上の戦略とは別に、意外と根の深い問題があるからです。

                 

                 

                この本の紹介には次のように書かれています。

                 

                「1300人以上の子ども達を個別指導した経験から、『地頭の悪い子などいない。どの子も、可能性に満ちている』『ダメな人間なんて、いないんです。ダメな指導者がいるだけなんです。でも、ダメな指導者も、ちょっとした気づきで、変われるのです』という著者による、子どもや部下のやる気を引き出す心理学テクニックも満載」と。

                 

                 

                私はまず素朴に、「自分にこのような本が書けるだろうか」と問いかけてみました。答えは断固としてノーです。こういった本を書くには、全くの別人格(良心なき阿呆)にならなければ不可能です。その理由を述べてみましょう。

                 

                 

                第一に、自分の経験的な実感を裏切るようなことは書けません。長年塾をやってきましたが、「どの教科もできない子がいる」という厳然たる事実を無視して、塾教師として生きていく覚悟を固めることはできません。できない子を教えることほど大変なことはないのですから。

                 

                 

                「できない子」というお前の決めつけこそが子供をできなくさせているのだ、などという平等主義に毒された紋切型の観念論に付き合う気はありません。親御さんも自分のこどもを教えれば分かると思います。塾は勉強を挟んで親子が向き合うときの徒労感・絶望感を肩代わりしているとも言えるのです。

                 

                 

                例えばこういう場面を想像して下さい。あなたが陸上競技のコーチだとします。100メートル競走で将来オリンピックに出たいという目標を持った中学生がやってきます。最初に何をしますか。100メートルのタイムを計るでしょう。仮に16秒かかったとします。あなたが有能なコーチなら、それがどれくらいのレベルかわかるはずです。その時、あなたはどのような言葉をかけますか。

                 

                 

                おそらく、こどもの気持ちに配慮しながらも、中学生のときに100メートルを16秒で走っていて、オリンピックに出場した人は今まで一人もいないという事実を告げるでしょう。それとも、夢を持つことは素晴らしい、明日からオリンピック目指して頑張ろうと激励するでしょうか。

                 

                 

                後者は一見子供を尊重しているように見えて、実は子供を傷つけることになります。なぜなら、本来適性のないことにいつまでも子供を縛りつけ、健全なあきらめ感情を弱さの表れだとして否定し、ついには自立のチャンスを奪うことになるからです。

                 

                 

                さて、二人で毎日猛練習に明け暮れて1年が経ったとしましょう。おそらく、100メートルを15秒台で走れるようにはなっていると思います。そんなある日、数人の中学生が同じグラウンドで練習するためにやってきます。彼らは皆100メートルを11秒台で走る選手です。軽くアップしながら、二人の傍を駆け抜けて行きます。そのスピードに圧倒されるはずです。私は中学・高校と陸上部の短距離の選手だったので、この感覚がよくわかります。陸上競技はリレーを別にすれば個人競技です。自分自身の素質や能力に向き合わざるを得ないという点で、勉強に似ています。

                 

                 

                もう一つエピソードを紹介しましょう。家を建てていたとき、大工のナベさんと午後3時の休憩をとっていました。その時、塾の扉を開けて高校生のT君が入ってきました。ちょうどお茶をしていたので、いっしょにどうかと勧めました。T君は、ごく自然にテーブルに座り、10分ほど私たちの世間話に加わりました。その後教室へ入っていきました。その時のナベさんとの会話です。

                 

                 

                ナベさん「先生、あの子は頭がいいやろう」

                私「わかる?」

                ナベさん「そら分かるわ。ワシもいろいろ見てきたけん。」

                私「あの子はこの前の模試で、全県で3番」

                ナベさん「そうやろな。やっぱモノが違うわ。見たら分かるで」

                 

                 

                私がここで言いたいことは、ナベさんのような健全な世間知の持ち主であれば、頭が良いかどうかくらいのことはすぐにわかるということです。社会で問われる能力の基本的な部分は、広い意味の「言語能力」です。おそらくナベさんはT君の話しぶりでそれを感じ取ったのです。

                 

                 

                それに対して、どの教科も同じようにできない子供も、すぐにわかります。塾で3回ほど一緒に勉強して、簡単なテストをすれば判断できます。そういうとき、私は深呼吸して覚悟を決めます。世間の注目を浴びることがなくても、100メートルを16秒で走る子供を、15秒で走れるように指導することにも意味があるのです。

                 

                 

                子供を見ていると、分からなかった問題が分かったときには、何らかの感動がともなっているのがわかります。小さな感動は、人々との間に「通路」らしきものが見えたことを意味します。自分と世界が親しくつながったのと同じです。それは、自分も他の人と同じように、人間の仲間として生きていいのだという安心と喜びに支えられています。同時に自分自身がこの世界に生きている意味がつかめたことを意味します。決して大げさなことを言っているのではありません。私がブログで述べてきたように、「普遍的な感情」につながる萌芽を胚胎しているのですから。

                 

                 

                私が何を言いたいか、もうおわかりでしょう。頭のいい子も悪い子も、断じてこの世に生きなければなりません。坪田氏が向き合っているのは、一度に塾の費用をポンと百数十万円出せる家庭の子供たちです。ビリギャルはその中の一人に過ぎません。すなわち、厳しい現実に直面することを避けて、十分間に合う時間の中で、実質1教科入試の慶応大学に合格したというだけのことです。『ビリギャル本』は、世間の注目を浴びたというよりも、世間の注目を浴びるように画策したマーケティングの産物です。

                 

                 

                私は30年以上にわたって、勉強ができない子供たちの切なさに向き合ってきました。なかなか成績が上がらないという理由で子供を退塾させる親御さんもいます。そういうときは、かなり落ち込みますが、親御さんを責める気にはなれません。私にできることなど、たかが知れているのですから。

                 

                 

                そんな私から見ると、『地頭の悪い子などいない。どの子も、可能性に満ちている』という言い方は、子供が置かれている具体的な環境や条件を無視した、あまりに非現実的な認識です。坪田氏は自分が塾で出会う生徒を子供一般と考えて「どの子も」などと一般化して見せます。これだけで、まともな思考力がないことがわかります。

                 

                 

                さらに、『ダメな人間なんて、いないんです。ダメな指導者がいるだけなんです』などといった空疎で抽象的なキャッチコピーが続きます。彼が子供とまともに向き合い、悪戦苦闘した経験を持っていれば、こういった無神経で粗雑な一般論は決して吐けないはずです。このブログで何度も言っているように、一見取るに足らない些細なことがらの中にこそ、社会のゆがみや問題があらわれているからです。後半の『ダメな指導者がいるだけなんです』は、坪田氏自身のことを言っているのでしょうが・・・。

                 

                 

                 

                次に、この本が中高生や保護者にどのような影響を与えるかを考えてみましょう。厳しい現実と一度も対峙したことのない、プチ裕福なおバカさんに、一時的に夢を見させる効果はあるかもしれませんが、社会に何ら生産的なものをもたらしません。賢い親なら、健全なあきらめの感情を持つことがいかに大事か説いて聞かせるでしょう。いや、これは私が偉そうに言うことではありません。現にほとんどの子供は自分のマイナスをマイナスとして積極的に引き受けて、社会の中で生きて行く術を身につけるものです。

                 

                 

                子供が無意識のうちに持っている現実と折り合う力を無視して、親の見栄や勝手な願望のために『ビリギャル本』を与えれば、子供たちは果てしない自分探しの旅に出て、着地点を見失います。その結果、多くの子供たちの学力低下と意欲低下が起こります。さらに、社会全体に対しては、職能スキルが伝達されないという結果をもたらすのです。

                 

                 

                まともな大人であれば、空疎なキャッチコピーに踊らされることなく、人間には限界がある、という健全なあきらめの感情を前提に、将来の職業なりイメージを固めるための道を開いてやるべきです。長くなりました。もうやめにします。ここまで読んで下さった皆さん、ありがとうございました。

                 

                参考記事

                「ビリギャル本の詐欺性について」

                http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=727

                 

                | 中高生の皆さんへ | 01:01 | comments(0) | - |
                「名を正す」ということ。
                0

                  中高生の皆さん、こんにちは。

                   

                  皆さんは『論語』という本をご存知でしょうか。今から二千数百年前に、孔子によって書かれた本です。

                  その中に次のようなくだりがあります。

                   

                  弟子の子路が孔子に尋ねます。

                  「衛(国の名)の君主が先生に政治をさせたとしましょう。先生はまず何をなさいますか」

                   

                  すると孔子は次のように答えます。「必ずや、名を正す」

                   

                  子路は言います。「これだから、先生は迂遠(うえん)だ」と。

                   

                   

                  「迂遠(うえん)」とは「ある目的に直接役立つものでなく、まわりくどいこと。世事にうとく、実用に適していないこと」を意味します。もちろん、僕も中高生の皆さんも、社会に‘直接’影響を与えることはできませんね。政治家ではないのですから。では、全くの無力なのでしょうか。そんなことはありません。

                   

                   

                  社会に‘直接’ 影響を与えるよりも、たとえ迂遠(うえん)であっても、より大きな影響力を行使することができるのです。孔子が言うように「名を正す」ことによってです。

                   

                   

                  皆さんは、関東軍の731部隊をご存知でしょうか。第二次世界大戦期の大日本帝国陸軍に存在した研究機関のひとつです。生物化学兵器を研究するために人体実験を繰り返しました。そこでは、人体実験で殺される人々を「丸太(マルタ)」と呼んでいました.「一人、二人」と呼ばずに「一本、二本」と数えていたのです。

                   

                   

                  この組織は、そもそも何をしている組織か秘密になっていて、厳重に防護され、部外者が立ち入ることもできませんでした。ですから、人間を「一本、二本」などと隠語で呼ぶ必要はなかったはずです。ではなぜ隠語を使ったのでしょうか。

                   

                   

                  人間を人間扱いせずに、実験によって殺すためには「丸太(マルタ)」と呼ぶ必要があったのです。殺される人間の出身地や名前を知っていたり、家族がいることを想像すれば、残虐無比な人体実験などできません。

                   

                   

                  つまり、彼らは自分自身をだますために「丸太(マルタ)」ということばを使ったのです。孔子が言う「名を正す」とは、人間を「一本、二本」などと呼んではならない、ということです。

                   

                   

                  現実に則さない言葉(名称)を与えることは、人間の思考と判断力とを奪います。そして、人間を人間として扱わないことにつながります。どんなに些細なことであっても、非常に危険なのです。

                   

                   

                  繰り返しますが、実態に則さない言葉(名称)を与えるのは、結局は自分自身をだますためです。そうなると、自分がやっていることが、正しいのか間違っているのかさえ分からなくなります。「周りの人がみんな正しいと言っているのだから、正しいのだろう」という、極めて無責任な判断停止状態に陥ります。

                   

                   

                  そのことに異議を唱える人がいれば、欺瞞言語を駆使して、「お前は現実を知らない素人だ!素人が偉そうに口出しするんじゃない!」と恫喝して黙らせるのです。

                   

                   

                  それだけではありません。正しい言葉を使おうとする者に「非国民」などというレッテルを貼って、口を封じ、社会から排除しようとします。いや、この前の戦争では、殺されさえしたのです。こういうことが続けば、表面上の平穏は維持されますが、やがて暴走が始まり、最後にカタストロフィーがやってきます。

                   

                   

                  私たちは言葉によって現実を認識します。そのことばが歪めば、現実も歪みます。その結果、人々は現実を認識できず、現実でないものに対処しようとします。そのために費やされたすべての労力は無駄になり、無駄どころか事態をさらに悪化させます。

                   

                   

                  敗戦によって日本は歴史的な危機に直面しました。しかし、空腹を抱えながらも、人々は明るい希望を抱きました。なぜか。彼らを取り巻いていた欺瞞言語が崩壊し、暗雲が取り払われたからです。敗戦後の人々の暮らしを写した写真や雑誌を見ると、彼らの笑顔は驚くほど明るいのです。これが「名を正す」ということの力です。それゆえ、孔子は「必ずや、名を正す」と言ったのです。

                   

                   

                  戦災者に野菜無料配給の行列=1946年1月。毎日新聞社提供。

                   

                   

                   

                  青空教室で復活した国民学校=1945年9月。毎日新聞社提供。

                   

                   

                   

                  この行列の中に私たちの父母や祖父母もいたはずです。そして、青空教室で机を並べていたのです。

                   

                   

                  敗戦後72年が経って、私たちの社会は、つらいことをつらいと言い、嫌なものを嫌だと言える社会になったでしょうか。なっていませんね。それでも少しずつ良くなる気配はあります。

                  ブログ『一寸の虫にも五分の魂』http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=282 で述べたように、高橋まつりさんの死をきっかけに、私たちの働き方が見直されるようになってきています。それは人口減少社会の必然的な流れです。

                   

                   

                  しかし、どんな社会であっても、最も重要なことは、現実に対して正しい名を与える勇気を持つということです。そうすることによって、たとえ現実がどんなにひどくつらいものであっても、人間はそれに対処できるようになります。「名を正す」勇気さえ持てば、私たちは過酷な現実を乗りこえて行くことができるのです。

                   

                  | 中高生の皆さんへ | 13:41 | comments(0) | - |
                  天皇陛下の平和主義の原点にあるもの
                  0

                    天皇陛下の昨年8月のおことばにもかかわらず、安倍政権は「有識者会議」なるものをでっち上げ、特例法で退位を認めるという傲岸不遜な挙に出ています。しかし、そもそも「有識者」とは誰のことでしょう。

                     

                     

                    彼らは、安倍政権の意図を忖度し、敷かれたコースの上を従順に走るだけのイヌに過ぎません。イヌに天皇制についての知識や歴史的な洞察力を期待することなど、土台無理な話です。それをマスコミは「有識者」と呼んで恥じることがないのですから、これほど噴飯ものの茶番はありません。最低でも、国会で議論する筋合いのものでしょう。

                     

                     

                    そんな折、天皇陛下の平和主義の原点を再認識させる記事を、昨日の朝日新聞が載せていました。皇室と米国の学者との「平和交流」という見出しです。

                     

                     

                    昭和天皇、現天皇陛下と、書簡をやりとりをしていたのは、米国人の森林学者だったフロイド・シュモー氏(1895〜2001)です。戦後日本の復興や平和運動に携わったシュモー氏との交流を示す英文の書簡15通が、米シアトルのワシントン大図書館で確認されました。

                     

                     

                    米国による原爆投下で壊滅的な被害を受けた広島での支援活動が縁となり、侍従らを通じた手紙のやりとりを半世紀近く重ねていたとのことです。書簡15通のうち10通は、天皇陛下の意向を踏まえ、侍従らがシュモー氏に送ったものでした。専門家は「戦後の日米交流と皇室の関わりを示す貴重な資料」と話しています。

                     

                     

                    シュモー氏は平和主義で知られるキリスト教・クエーカー教徒で、家を失った被爆者向けの復興住宅を建てる救援組織をつくり、1949年夏に広島を訪問しています。天皇陛下が皇太子の時に家庭教師を務めた同じくクエーカー教徒のバイニング夫人とも知人で、その縁もあって皇室に手紙をしたためたとみられます。陛下は皇太子時代の1949年と88年、日本の復興や平和運動に尽くしたシュモー氏と直接面会しています。

                     

                     

                    ノンフィクション作家の保阪正康氏は

                     

                    「今上天皇ご一家とシュモー氏の人間的なつながりを感じさせる書簡だ。天皇の家庭教師だったバイニング夫人と同じクエーカー教徒だったため、親しみを感じたのかもしれない。

                     

                     天皇が自ら手紙を書くような慣行はない。今回の手紙も、侍従長ら要職が代わりに意を伝えている。文面からも、天皇がシュモー氏に礼節を持って接していることがうかがえる。戦争中に苦労したときや、戦後復興で苦難に直面したとき、助けてくれた善意の人たちを「真の友人」と受け止めているからではないか。

                     

                     天皇は戦後、追悼と慰霊の旅を繰り返してきた。歴史と向き合い、悲惨で残酷な戦争を再び繰り返さない、という覚悟を行動で示してきた。その心中には、言葉による励ましだけではなく、広島に家を建てるという具体的な行動で善意を示したシュモー氏の影響があるのかもしれない」と述べています。

                     

                     

                    ここで気になるのが、天皇陛下に影響を与えたクエーカーとはそもそもどのような人たちかということです。12月30日のブログ『手は仕事に、心は神に』で述べた、シェーカー教徒もクエーカー教徒の一派です。少し歴史をひもといてみましょう。

                     

                     

                    クエーカーは、17世紀の中頃のイギリスで、当時のキリスト教の儀式化・神学化に反対したジョージ・フォックスが創設した教派です。

                     

                     

                    フォックスは、真理はそれぞれの魂によびかける神の声にあるとし、それがあらゆる人に内在するとするため、性や人種による差別を否定しました。しかしこのために、クエーカー教徒はピューリタン派を初めとするイギリスの教会や社会より迫害されるようになりました。

                     

                     

                    1681年、イギリスでクエーカー教徒であるが故に投獄されていたウイリアム・ペンは、父親がイングランド国王チャールズ2世に貸していた借金のかたにDelaware川の西側の土地を得、ここに理想郷を作ろうと1682年にNew Castel(現Delaware州)に上陸し、北上しSchuylkil川がDelaware川と合流するあたりに入植しました。そしてこの地域は、所有者にちなんで「ペンシルバニア」(ペンの森)と呼ばれ、また、そこに築かれた街をフィラデルフィア(City of Brotherly Love)と名付けました。

                     

                     

                    フィラデルフィアは、1666年のロンドンの大火事を教訓に、通りを広く、そして網の目状に街作りがなされていて、アメリカで最初に計画的に造られた都市と言われています。現在も通りの幅に余裕があり窮屈感が無いのは、この都市計画思想のおかげです。

                     

                     

                    またウイリアム・ペンはネイティブアメリカンや他の入植者達を平等に扱い、そのため街には城壁を築かず、周辺との境界も明確にしませんでした。さらに彼は投資を呼び込み、街を発展させるため、市内の土地区画購入者には郊外エリアに無料で土地を与えました。

                     

                     

                    こうして街は発展し、ボストンやニューヨークより後に出来たにもかかわらず、工業・金融サービス・船着き場の設備の良さ・そして優れたペンシルバニア産の農産物のおかげでフィラデルフィアは英語圏ではロンドンに次ぐ大都市へと発展していきました。ウイリアム・ペンは1701年にフィラデルフィアを発ち、1718年にイングランドで亡くなっています。

                     

                     

                    1758年、クエーカー教徒は、ロンドンとフィラデルフィアにおける年次会議で、奴隷の開放と売買の禁止を促す宣言を発表しました。彼らは「平和第一主義」を信条とし「質素な生活態度と兵役も拒否する平和主義」を理想としていました。

                     

                     

                    その価値観に基づき、クエーカー教徒は軍備関連に投資をしないことでも知られています。南北戦争をはじめ、戦争にも参加しませんでした。米国においては、宗教的な立場や良心的戦争反対の信念を持つ市民を兵役から免除するために1930年頃には徴兵法が改正されました。信者の数では多数派になったことがないにもかかわらず、その社会的影響力は大きいと言われています。

                     

                     

                    クエーカー教徒は、教育熱心で「人間は皆、無限の可能性を秘めて生まれてきた」という教えに基づいて世界各地に学校を造り、世界の平和のために働く人間を育ててきました。それらの学校では、生徒一人一人の個性を大切に育みながら極めて質の高い授業がなされており、「信じた通りに生きよ」という教育精神が受け継がれています。

                     

                     

                    日本のクエーカー教徒では新渡戸稲造が有名ですが、上で述べたように、戦後今上天皇の家庭教師をされたバイニング夫人とともに、太平洋の掛け橋となりました。

                     

                     

                    これこそが、20年以上にわたって、今上天皇が行ってきた「象徴としての行為」の原点にある思想です。筋金入りだと言っても過言ではありません。多くの国民が天皇に対して敬意を抱くのは当然のことですね。

                     

                     

                    | 政治 | 18:29 | comments(0) | - |
                    おすすめの映画『刑事ジョン・ブック −目撃者』
                    0

                      今回紹介する映画は『刑事ジョン・ブック 目撃者』です。ソ連のチェルノブイリ原発事故の1年前、1985年に撮られた映画です。主演はハリソン・フォード。監督はピーター・ウィアー。1989年の『いまを生きる』の監督です。

                       

                       

                       

                                          

                      年末年始のテレビ番組は見ないことにしているので、代わりに、私のDVDライブラリーから選んで見たのがこの映画です。見た後、とてもすがすがしい気持ちになりました。30年以上前の映画ですが、まったく古さを感じさせず、引き込まれてしまいました。

                       

                       

                      ちなみに、刑事役のハリソン・フォードが素晴らしい。彼が主演した映画は多いですが、この映画は彼の魅力を最大限に引き出しています。

                       

                       

                      私がすがすがしさを感じたのは、文明批評とサスペンスの取り合わせが見事だったからです。そこに、愛し合う男女の別れがからみます。それぞれが生きている世界を捨てられない理由が、宿命的なものとして納得できるのです。そういう意味では、すがすがしさよりも、せつなさが残る映画かもしれません。是非ご覧になることを勧めます。

                       

                       

                      ところで、この映画で大きな役割を果たしているのが、アーミッシュの村です。この映画の本当の主人公はアーミッシュの村だと言ってもいいくらいです。

                       

                       

                      アーミッシュは、歴史的にはヨーロッパで迫害にあったドイツ系のキリスト教宗教改革の急進派で、教会を持たず、実際の生活の中で聖書に書いてあるとおりに生きることを目指している熱心なキリスト教徒です。

                       

                       

                      ニューヨークの西、ペンシルベニア州からカナダにいたるまでの20州にわたり、広い範囲にアーミッシュは住んでいます。十数万人の人口があり、大多数が農業に従事し、今でもその生き方に共感する人がいて、人口が増加しているそうです。

                       

                       

                      アーミッシュにはルールがあり、車を所有できません。代わりに馬車に乗って移動します。プロパンガスは使ってもいいのですが電気をつかってはいけません。電話を家に引くことも許されません。文明の利器がアーミッシュの村では役に立たないどころか、かえって弱点をさらけ出します。ピーター・ウィアー監督は、それを巧みに描いています。

                       

                       

                      あらすじを簡単に紹介しておきます。この映画は、ネタばれしても十分に楽しめる映画です。

                       

                       

                      舞台は1984年、ペンシルベニア州。


                      アーミッシュの村に住むレイチェルは夫を亡くし、幼い息子のサミュエルを連れて姉を訪ねます。列車に乗る2人を見送る義父のイーライが「イギリス人に気をつけろ」と言います。「イギリス人」とは、アーミッシュ以外のアメリカ人の総称です。

                       

                      乗り継ぎのフィラデルフィア駅のトイレに入ったサミュエルは、1人の男が2人組の男に殺されるのをトイレの中から偶然目撃します。殺された男は警官でした。

                       

                      担当刑事のジョン・ブック(ハリソン・フォード)は犯人捜しに協力させるために二人を強引に警察署に連れて行き、サミュエルに容疑者の面通しをさせます。その時、警察署に飾られている表彰写真を見たサミュエルは、それが犯人だと指さします。そこに写っていた人物は、麻薬課のマクフィー刑事でした。

                       

                      ジョンはシェイファー本部長の自宅を訪ねてマクフィー刑事が保管庫に押収した2200万ドル分の麻薬を横領していたことを報告しますが、その直後に駐車場でマクフィー刑事に襲われ腹部を撃たれます。本部長も麻薬横領に関わっていたのです。

                       

                      ジョンはレイチェルとサミュエルを車に乗せて意識がもうろうとなる中、なんとか故郷の村まで送り届けます。そこはアーミッシュの村でした。

                       

                      気を失った後、意識を取り戻したジョンは、サミュエルの命が危ないから病院や警察に知らせてはいけないとレイチェルに言います。幸い弾は脇腹を貫通していたので、レイチェルの手厚い看病でジョンは次第に回復しました。

                       

                      本部長は必死にジョンたちの行方を捜していましたが、閉鎖的で電話も持たないアーミッシュの捜索は困難でした。街まで行ったジョンは相棒のカーター刑事に電話しますが、本部長が黒幕なのでカーターも動きが取れず、しばらく隠れているようにとジョンに指示します。

                       

                      動けるようになったジョンはアーミッシュの服装をして乳搾りなどの仕事を手伝わされます。村人たちはよそ者のジョンを警戒し、特にレイチェルに好意を寄せているダニエルはジョンを邪魔者扱いします。

                       

                      レイチェルにとってジョンは無礼で乱暴な「イギリス人」でしたが、一緒に暮らすうちに打ち解け、カーラジオから流れる音楽に合わせ2人は手を取り、笑い合って踊ります。しかしそれを見た義父のイーライは、レイチェルが掟を破ろうとしていると強く戒めます。

                       

                      ある日、ジョンは村中の人が集まって新婚夫婦のために納屋を建てる作業を手伝います。
                      組み立てが済んだ壁の木組みを四方から起こして、あっという間に納屋が出来上がって行きます。このシーンはこの映画の中でも特に美しいですね。力を合わせて作業しているうちに、いつしか村人たちとジョンには連帯感が生まれて来ます。

                       

                      さすがに昔大工をしていたこともあるハリソン・フォードです。動きが板についています。右から二人目がハリソン・フォード演じるジョン・ブック。

                       

                       

                       

                      作業が終わった後、めいめいが家路につくシーン。

                       

                       

                      ジョンとレイチェルは互いに強く惹かれ合うようになりますが、二人の住む世界は違いすぎます。どちらかが自分の世界を捨てなければ結ばれることはできません。

                       

                      街で電話をかけたジョンは、相棒のカーター刑事が殉職したことを知らされます。本部長が口封じで殺したのだと悟ったジョンは、街の通りでダニエルが観光客の男から執拗な嫌がらせを受けているのを見て怒りを抑えられずに男を殴ってしまいます。非暴力が掟のアーミッシュが暴力を振るったことは街の警官の耳に入り、そこから本部長に報告されてジョンの居場所が突き止められてしまいます。

                       

                      ジョンは村を出る決心をしますが、翌朝本部長がマクフィーとファギーの2人の部下を連れてジョンを殺すために村にやって来ます。ジョンはファギーを穀物貯蔵庫に誘い込んで上から穀物を落して窒息させ銃を奪い、マクフィーを撃ち殺します。

                       

                      本部長はレイチェルを人質にしてジョンに銃を捨てさせますが、サミュエルが鐘を鳴らし、それを聞いた村人たちが駆けつけます。さすがに本部長も村人全員の前でジョンを殺すことはできず、観念します。

                       

                      事件は解決し、ジョンはレイチェルに強く想いを残しながらも自分の世界へと帰って行きます。その後ろ姿にイーライが声をかけます。
                      「イギリス人に気をつけろよ」と。

                       

                      | 読書・映画 | 21:59 | comments(0) | - |
                      あなたは自分一人で何もかもやるつもりなのか?
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                        中高生の皆さん、こんばんは。

                        昨日はある技術(スキル)を身につけたり、学んだりする時の精神的な心構えが重要だということを書きました。おそらく皆さんの中には、「なんだ、精神論かよ!」と思った人もいるでしょうね。知りたいのはテストで効率的に点を取る技術だ、ということでしょう。もちろんわかっていますよ。私も塾教師のはしくれですからね。

                         

                        もしあなたが効率的に点を取る技術を知りたいと望んでいるなら「3ヶ月で国語の偏差値を20上げる」といった宣伝文句にドキッとしたり「学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶應大学に現役合格した話」をすでに読まれているでしょう。

                         

                        で、それを実践してみましたか?宣伝通りの効果は出ているでしょうか。「ビリギャル本」の詐欺性については、近いうちに論じます。そもそも、「3ヶ月で国語の偏差値を20上げる」という文句を信じる時点で、あなたには「国語力」がありません。なぜなら、国語力とは、正確にことばを読み取り、使う能力ですからね。論理的思考力は本物の国語力をつけるための必要条件に過ぎません。

                         

                        例えば、ここに、塾が生徒に解かせる入試の評論文Aがあるとします。様々な出題文の中から、「なぜAを取り上げたか」は教えてもらえません。その理由は、多種多様な過去問を分析し、そこから役に立ちそうな国語の読解ルールなるものを類型化し、それを一律下降的に(難しい言葉ですね。例外的なケースは考えずにただ当てはめれば、ということです)適用すれば、自動的に答えが出るような問題をわざと選んでいるからです。

                         

                        つまり、「3ヶ月で国語の偏差値を20上げる」という宣伝文句は、「国語の読解ルールなるものがあって(これを知らない時点であなたは不利だ、と言いたいのです)、それを当てはめれば都合よく答えが出る問題に、たまたま模試などで当たれば、偏差値が20上がることもある。そのため最短で3ヶ月が必要だ」という意味です。

                         

                        そもそも、国語の読解ルールはいくつあるのでしょうか。3つですか。そんな少ない数ではサッカーすらできません。では20くらい?とても覚えきれません。そこで何となくラッキーな感じがするので7つ。例外的な場合も含めると最大9個、なんちゃって。

                         

                        私は何も冗談や皮肉で言っているのではありません。「ウソだ、十分皮肉が込められている」と感じたあなた、読解力がありますね。でも、「国語力」なるものを舐めてはいけません。今ここで「国語力」の定義はしませんが(そのうち必ずします。私の定義を聞けば、偏差値が20上がることは保証しませんが、元気が出ます)、間違いなく国語力がつくヒントを教えましょう。

                         

                        それは、国語力がある人を友達に持つということです。どうすればそれが分かるのか、ですって?その人と話せばわかります。その人は間違いなく読書家のはずです。私の経験から断言できます。逆に考えて下さい。ろくに本も読まないで国語力がつくかどうかを。

                         

                        もちろん、読書力と国語の問題で高得点を取ることは別の問題だ、という人がいることも知っています。決まって「解法」なり「読解のルール」なりを持ち出す塾や予備校関係者です。当たり前すぎて、涙が出るほどのクソ理論です。読書している最中に、突然設問が出てきたりしたら、誰だって本を投げ出すでしょう。

                         

                        英語も同じです。英語が抜群にできる友達を持つことです。できれば、最近読んだ英語の小説について話せる友達を持って下さい。

                         

                        おや、そこで倒れている人がいますね。あまりに単純な答えを聞いてすべったのでしょうか。だから言ったのです。舐めてはいけないと。そんな漠然とした話ではなく、具体的な方法を教えてほしいと思っている人もいるでしょうね。これから、いやというほど教えてあげます。

                         

                        でもその前に、あなたはなぜ学校に通っているのか考えたことがありますか。自分で死ぬほど努力して、数学も物理も化学も生物も英語も国語も、自分一人で、誰よりもできるようになりたいのですか。あなたの周りを見て下さい、友達がいるではありませんか。自分の弱点は友達に補ってもらえばいいのです。あなたの周りにいる人は競争相手ではないのです。だから、『能をつかんとする人』を読んでもらったのです。

                         

                        もう十年以上も前になりますが、私はかって、『未来塾通信6・学力低下は塾のせい−Part2』http://www.segmirai.jp/essay_library/essay006.html に次のように書きました。

                         

                        「意外に思われるかもしれませんが、今でも良い学校は、私立のトップ校であろうと公立の上位校であろうと、部活や文化祭や生徒会活動に情熱を傾ける共同体的文化を持った学校だと私は確信しています。その中で子どもたちは市民社会的な自由と折り合うすべを、教師よりもむしろ先輩や仲間から学んでいくのです。

                        もちろん、そういったコミューナルな学校文化を嫌悪し、受験情報を求めてウェブ上をさまよい、学校の授業よりも塾や予備校が配信する衛星授業やDVDのほうを信頼し、抜け駆け的な勉強をしている生徒もいるでしょう。

                        いずれにせよ、自立する前の子どもにとって、「個」として出かけ、「個」として学んで帰ってくるような学校がいい学校であるはずはないのです」と。

                         

                        できれば、『未来塾通信6・学力低下は塾のせい−Part2』の全文を読んでもらいたいです。そのときに指摘した問題に対する私なりの処方箋は『100年後の生存戦略・その2−教育』の中で述べるつもりです。

                        | 中高生の皆さんへ | 00:02 | comments(0) | - |
                        『徒然草』第百五十段・「能をつかんとする人」
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                          中高生の皆さん、あけましておめでとうございます。

                           

                          年のはじめなので、今回は上達論について話します。もちろん、普段の勉強だけでなく、スポーツにも当てはまるはずです。

                           

                           

                          これから勉強を始める人、ある教科に苦手意識を持っている人にとって、「できなかったら恥ずかしい、間違ったら馬鹿にされるのではないか」という不安が障害になって上達や理解を妨げているケースが多いのではないでしょうか。僕にも心当たりがあります。

                           

                           

                          だから家庭教師をつけたり、個別指導の塾に通って、この心理的な障害を取り除こうとするのでしょう。でもそれでは解決になりません。もちろん学力もつきません。貧困な学力観は貧困な人間観に基づいています。それはまた次回に話すとして、今回はこの心理的な障害を克服する心構えについて書かれた文章を紹介します。

                           

                           

                          その文章とは、今からおよそ七百年前に書かれた『徒然草』第百五十段です。塾では生徒全員に暗唱してもらっています。七百年を生き延びて、現代でも多くの人を納得させる文章には、古典の名にふさわしい生命力と真理が宿っています。早速読んでみましょう。

                           

                           

                          『徒然草』第百五十段・「能をつかんとする人」

                           

                           

                          能をつかんとする人、「よくせざらんほどは、なまじひに人に知られじ。うちうちよく習ひ得てさし出でたらんこそ、いと心にくからめ」と常に言ふめれど、かく言ふ人、一芸も習ひ得ることなし。

                           

                           

                          いまだ堅固(けんご)かたほなるより、上手の中にまじりて、毀(そし)り笑はるるにも恥ぢず、つれなく過ぎて嗜む人、天性その骨(こつ)なけれども、道になづまず、みだりにせずして年を送れば、堪能(かんのう)の嗜まざるよりは、終(つい)に上手の位にいたり、徳たけ、人に許されて、双なき名を得る事なり。

                           

                           

                          天下のものの上手といへども、始めは不堪(ふかん)の聞えもあり、無下の瑕瑾(かきん)もありき。されども、その人、道の掟正しく、これを重くして放埓(ほうらつ)せざれば、世の博士にて、万人の師となる事、諸道かはるべからず。

                           

                           

                          現代語訳は以下の通りです。意味がわかったら、本文を何回も読んで完全に覚えてしまいましょう。

                           

                           

                          ― 技能を身につけようとする人は、「まだ下手なうちは、迂闊に人に知られないようにしよう。密かに習得してから人前に出れば、それこそ大変立派に見えるだろう」と言いがちであるが、このようなことを言う人は、一芸も物に出来ないのである。



                          全く技能が未熟なうちから、上手な人の中に交じって、けなされたり、笑われたりしても意に介さず、平気でその時期を過ごして打ちこむ人は、生まれつきの才能はなくても、中途半端な状態に留まらず、勝手気ままなことをしないで年月を重ねれば、生まれ持った才能はありながら稽古を重ねない人よりも、最終的には名人の域に達し、長所も伸び、人から認められて名声を得ることができるのだ。



                          天下の名人といえども、最初は下手だと噂され、事実、酷い欠点もあったのである。しかし、そのような人も道の掟を正しく守り、これを尊重して勝手気ままに振る舞わなければ、いずれは天下に知られた大家として、万人の師となることは、どの道でも同じはずである。―

                           

                           

                          う〜ん、いい文章ですね。上達論についてこれ以上簡潔に書かれたものを僕は知りません。上達のためのテクニックばかりがもてはやされるのは、結局はそれがお金になるからです。上達したいという渇望のない人間に、いくらテクニックを教えたところで効果は望めません。教師という仕事の本質的な部分は、この渇望を作りだすことです。

                           

                          続きはまた明日。中高生の皆さんにとって、今年がよい年でありますように!

                           

                          | 中高生の皆さんへ | 14:05 | comments(0) | - |
                          2017年元旦・文化と歴史の断絶を前にして
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                            あけましておめでとうございます。

                             

                            大みそかは、紅白歌合戦も、民放各局の年末特番も見ず、除夜の鐘を聞きながら静かに一年を振り返りました。

                             

                             

                            新春だからすべてをリセットして、また新たな気持ちで前に進んでいこうと思うほど、私はお人好しの単細胞人間ではありません。水に流せないことがあまりにも多いのです。昨年起こったことも、これから起こることも、私には何もかもが茶番に思えてしかたがありません。

                             

                             

                            結末の分かったスト―リーを見せられて面白いとはしゃぐ人間にはどうしてもなれないのです。割り振られた役を、喜々として演じる猿回しのサルになることだけは遠慮します。芸がうまく行って拍手喝采され、人気者になり、悦に入っている自分の姿など、正視に耐えません。

                             

                             

                            テレビは一切見ていなかったのですが、今日の昼過ぎ「面白いのをやってるわよ」という妻のことばに誘われて見たのが、ETV特集 アンコール「女ひとり 70歳の茶事行脚」という番組でした。ETV特集は、まだわずかに残っているNHKの知性であり良心です。

                             

                             

                            番組紹介によると、

                             

                            おもてなしの原点と言われる「茶事」に人生をかけ、全国行脚を決意した女性がいる。日本で数少ない茶事の出張料理人、半澤鶴子さん。茶事とは千利休が確立した4時間ほどの茶会だ。懐石から始まり酒を振るまい、最後にお茶でもてなす。70歳を機に茶事の神髄を極めようと、鍋釜と茶道具をバンに積み、着物姿で車を運転。全国各地で出あった初対面の人々に、その土地の食材を使った料理とお茶をふるまう。2年に渡る旅に密着した。

                             

                            とのことです。

                             

                             

                            亡き母が茶事を趣味にしていたこともあり、思わずひきこまれました。自分の考える茶事を、淡々と実践している半澤鶴子さんの生き方に、心洗われる思いでした。一期一会ということばが、これほどリアリティーを持って感じられたことはありません。本物の文化は、きらびやかな衆目を集める場所にではなく、打ち捨てられた辺境にこそあるのだと、改めて思い知らされました。

                             

                             

                            ウソで固めたオリンピックの誘致合戦で「お・も・て・な・し」がキャッチフレーズになったとき、日本のおもてなし文化もこれで終わりだと思ったものです。何もかもが軽薄でバカバカしい。キャッチフレーズになった「おもてなし」など、おもてなしに値しないことくらい、日本人なら分かろうというものです。

                             

                             

                            そうなのです。安倍政権が大手を振って大道を闊歩しはじめて以来、この国で起こっていることは、文化と歴史の断絶なのです。正月が、カウントダウンに象徴されるような単なるイベントになるのも、歴史の皮肉でしょうね。

                             

                             

                            | 人生 | 18:11 | comments(0) | - |
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