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さよならテレビ ドキュメンタリーを撮るということ/阿武野勝彦【1000円以上送料無料】
さよならテレビ ドキュメンタリーを撮るということ/阿武野勝彦【1000円以上送料無料】 (JUGEMレビュー »)
《目次》
プロローグ
第1章 テレビマンとは何者か
第2章 大事なのは、誰と仕事をするか
第3章 表現とタブー
第4章 放送は常に未完である
第5章 世の中には理解不能な現実がある
第6章 ドキュメンタリーを、誰が求めているのか
第7章 「ダメモト」が表現世界を開く──〈司法シリーズ〉のこと
第8章 「ドキュメンタリー・ドラマ」とは何か
第9章 あの時から、ドキュメンタリーは閉塞した世界だった
第10章 題材は探すのではなく、出会うもの
第11章 組織の中の職人は茨の道
第12章 「わかりやすさ」という病
第13章 樹木希林ふたたび
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まず私たちの生命と暮らしを脅かす事実を知ること。それにたいしてどのような認識を持つのか。この国のみならず、世界を壊滅させる災厄とどう向き合うのか。次世代に対してどう責任を取るのか、そもそも責任を取れるのか。自分に何ができるのか。この現実にどう向き合うのか。それを教えるのが教育のはずだが、この国には教育も哲学も存在しない。
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「最悪」の核施設 六ヶ所再処理工場 (集英社新書)
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小出 裕章,渡辺 満久,明石 昇二郎
原発よりもはるかに危険な六ヶ所村再処理工場。私たちの日々の生活が薄氷の上で営まれていることを痛感させられる。同時に、この国には「国民の生命・財産・自由を守り抜く!」と威勢のいいことを言う総理大臣と無能の政治家しかいないことに絶望する。核燃料サイクルと言い、下北半島の再処理工場と言い、3兆円以上の国民の税金がつぎ込まれ、いまだ後始末も将来の見通しもたっていない現実をどう考えているのか。彼らは核兵器を持ちたいという願望と税金をロンダリングして私腹を肥やすことしか眼中にない。北海道の地震だけに目を奪われてはならない。六ヶ所村は今回の震源地の目と鼻の先にあるのだ。
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D.J.ブーアスティン
私にとっては古典の中の古典。三度読みました。そしてその慧眼にいまだに驚いています。
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殺人犯はそこにいる (新潮文庫)
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清水 潔
ジャーナリストと称する職業がある。自称ジャーナリストもいれば、テレビのコメンテーターとしてリベラルに媚びる政権批判をし、名を売り、講演で稼ぐ職業をジャーナリストと呼ぶ者もいる。とんだ茶番である。ジャーナリストとはどこまでも「事実」を追いかける。テレビに出て能天気な解釈や感想を垂れ流している暇などないはずだ。ジャーナリストを志す若い人には清水氏の著作は避けて通れない。その名に値する本物のジャーナリストがここにいる。
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デジタル・ポピュリズム 操作される世論と民主主義 (集英社新書)
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福田 直子
おそらく自民党・安倍政権はSNSを駆使し、分析するデータサイエンス(日本版なのでレベルはまだ低いですが)の重要性に着目し、選挙にどうすれば勝てるか、自分たちに有利な世論を形成し、国民を誘導・分断するにはどうすればいいのかが分かっているのです。そのためのノウハウも蓄積しつつあります。安倍首相の貧困な語彙力からは想像できないカタカナ言葉を聞いていると、それがSNSを分析している集団から教えられたものであることがよくわかります。ただ彼らの致命的な弱点は将来の社会を導く理想がないことです。おそらく、思いもかけない結果が待っていることでしょう。なぜなら、所詮、彼らはアメリカとビッグデータの奴隷でしかないのですから。これからの政治は、好むと好まざるとにかかわらず、この本に書かれていること抜きには語れなくなっているのです。
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 (JUGEMレビュー »)

安倍政権に対するメディアの忖度が云々されていますが、元々同じ穴のムジナなのです。忘れてならないのは、日中戦争から太平洋戦争にかけて、日本の世論と新聞のほぼ全部は好戦的・拡張主義的だったのです。しかも、当時はまだ言論統制体制が発足していなかったのです。この本は、そうした「一貫して好戦的な世論とそれに便乗する新聞」が先導し、近衛文麿はじめ文民政治家がそれに便乗、軍部がさらに便乗、という構図を一次資料で克明に論証しています。安倍政権を支持するネトウヨの皆さんの日本語力では、まともな読解は無理ですので勧めません。一方、正確な歴史を知るためには「世論」の不気味さを知ることだと気づいている若い人には是非一読を勧めます。
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茫漠の曠野 ノモンハン
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松本草平
著者は大分市にある『天心堂へつぎ病院』の院長、松本文六氏の御尊父、松本草平(本名松本弘)氏です。詳しくは、ブログで紹介したいと思いますが、第一次資料として極めて価値の高いものです。40年ぶりに復刻版を出された松本文六氏と出版社に感謝する他ありません。
戦略も何もない、無謀・無慈悲な戦争を語り継ぐことは、最も崇高で重要な人間の営為だと私は考えています。作家の司馬遼太郎氏は、電話で草平氏に次のように伝えてきたそうです。「先生の臨場感のあるノモンハン戦記に出会えて本当にありがとうございました。私は大東亜戦争の折、戦車隊の一員として従軍しましたが、先生の従軍記以上のものを創ることはできません。」と。
一人でも多くの方がこの本を読まれることを望みます。ちなみに松本文六氏は伊方原発差止め訴訟の原告でもあります。その縁で、この本に出会うことができました。
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「南京事件」を調査せよ (文春文庫)
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清水 潔
全国のネトウヨの皆さんへの推薦図書です。清水氏のこの本を読んでから、「南京事件はなかった!」「南京事件は捏造だ!」と叫びましょうネ。
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日本列島の全原発が危ない! 広瀬隆 白熱授業  DAYS JAPAN(デイズジャパン)2018年1月号増刊号
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広瀬隆
広瀬氏をアジテーターだの、オオカミ少年だの、悲観主義に過ぎると言って批判する人がいる。しかし、ブログで何度も述べてきたように、真の悲観主義こそがマインドコントールによって奴隷根性のしみ込んだ私たちの精神を浄化してくれるのだ。そもそも無知では悲観が生まれようもないではないか。国などいくら破れても結構。せめて山河だけでも次世代に残そうと考える人ならぜひとも読むべき本である。いや、これから幾多の春秋に富む若い人にこそすすめたい。
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チャヴ 弱者を敵視する社会
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オーウェン・ジョーンズ,Owen Jones
【本書への賛辞】

「怒りが生んだ、最高の本」
──ガーディアン紙

最高の論争がみなそうであるように、知性に裏打ちされた怒りが本書を支えている。
──エコノミスト誌

暴動や世界中に広がったオキュパイ運動に照らして考えると、分断社会に関する著者の鋭い分析は、
不気味なほど未来を予知していたことがわかる。
──アートフォーラム誌

情熱と、思いやりと、すぐれた道徳性が結実した仕事だ。
──ニューヨーク・タイムズ紙

政治の定説を見直す大胆な試み。著者は戦後のイギリス史を縦横無尽に往き来し、
階級、文化、アイデンティティといった複雑な問題を軽々とまとめてみせ、
結果として「階級」問題に火をつけ、大きな効果をあげている。
──インディペンデント紙

いまの制度が貧しい人々を見捨てていることに対する苛烈な警告──それが本書だ。
──ブログサイト「デイリー・ビースト」

ジョーンズは、「地の塩」だった労働者階級が政治のせいで「地のクズ」と見なされるようになった経緯を見事に説明している。
──タイムズ紙

この本は、新しいタイプの階級嫌悪と、その裏にあるものを痛烈にあばいて見せてくれる。
──ジョン・ケアリー(The Intellectuals and the Masses著者)

これは「イギリスはおおむね階級のない社会である」という考え方への、論理的で情報満載の大反撃だ。
──オブザーバー紙

情熱的で示唆に富む……この声が届くことを心から願う。
──スコットランド・オン・サンデー紙
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 (JUGEMレビュー »)

紹介していない本が山のようにあります。数日前にこの本を本棚の奥から引っ張り出し再読しました。いや〜面白かった。。とにかくこの本のことを忘れていた自分が信じられない。読んでない人に熱烈に勧めます。ハイ。
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新・日米安保論 (集英社新書)
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英語の実際的研究 (1969年)
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秋山 敏
高校生にとって、今でも一押しの不朽の名著。でもこの本をことを知っている英語教師は少ないと思います。是非復刊してほしいものです。
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スノーデン 日本への警告 (集英社新書)
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エドワード・スノーデン,青木 理,井桁大介,金昌浩,ベン・ワイズナー,宮下紘,マリコ・ヒロセ
2017年4月18日、朝日新聞がようやく「パノプティプコン」を取り上げました。遅すぎますね。
これから先の日本社会は、ますます荒廃が進み、国民の不満が頂点に達し、やがて爆発します。それを未然に防ぐために、国は国民の監視を強化します。
実際アメリカでは「愛国者法」により、電子メールや携帯の通話履歴が監視の対象になっています。誰が、いつ、どこで、何を読んで、誰と通信を交わしたか、すべて国に筒抜けです。
「パノプティプコン」とはフランスの哲学者フーコーが用いた概念ですが、国民が刑務所の囚人のように監視される体制を言います。監視者の姿は見えませんが、囚人は監視者不在でも、監視を意識することによって管理統制されるのです。これを「パノプティシズム」と言います。
このシステムから解放されるためには、権力がどう管理・統制しようとしているかを知らねばなりません。この本はそれを知るための第一歩です。あなたが無知のまま、奴隷の人生を送りたければ、読む必要はありません。
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A.ミラー
アリスミラーのこの本は、塾を始めるきっかけになりました。ただ生活のためだけなら、他のことをしていたでしょう。『才能ある子のドラマ』とあわせて、当時の私には衝撃的な本でした。人生はどこでどう転ぶかわかりません。人間の奥深さを知ることで、何とか自分を維持していたのです。この本を読むと当時のことが、ありありと思い出されます。ある意味で、私の人生を方向づけた本かもしれません。
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NHK「東海村臨界事故」取材班

2月18日のブログでも書きましたが、仕事のために読むビジネス書の類は、最終的には効率を重視し、最小の資本と労力の投下で、いかにして最大の利益を上げるかということに尽きていると思います。そのための働き方改革であり、そのための賃上げです。そのための人心掌握術であり、顧客対応です。ビジネス書を読めば読むほど、人間は軽薄になり、視野が狭くなっていきます。もしあなたがそれを自覚するきっかけがほしいなら、是非この本を読むことを勧めます。読書はビジネスのためにするのではないということが分かると思います。この本は私たちの日常の風景を一変させるだけのインパクトを持っています。いわば、ことばの最高の意味における「闖入者」なのです。
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服従
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瀬木 比呂志
この本はまだ発売されていません。自分で読んでいない本を推薦するのは邪道でしょう。しかし、これまでの『絶望の裁判所』『ニッポンの裁判』(ともに講談社現代新書)に続く裁判所、司法批判の第3弾が長編の権力小説だということで、過去2冊の本の面白さからして、推薦に値する本だと思いました。『原発ホワイトアウト』の最高裁判所ヴァージョンだと思います。読んでからコメントを追加したいと思います。
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アモン・シェイ
学校なる場所に通っていた時、毎年夏になると課題図書を読んで、読書感想文を書かねばならないのが苦痛でした。課題図書の選定には学校と書店の密約があるに違いないと思っていたくらいです。

偶然巡り合った面白い本の感想を書くのならまだ我慢できたかもしれません。つくづく学校というところは、余計なことをしてくれると思ったものです。

あまりにめんどうくさいので、「あとがき」を参考に、あらすじを書いて提出したら、トリプルAをもらいました。

学校というところは、もしかしたら、人生の退屈に耐える訓練をする場所だったのかもしれません。この本を読んで、改めてそのことを確認しました。別に先生を責めているわけではありません。それほど自覚的に生きるということは難しいのだとため息をついているだけです。
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選挙 [DVD]
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想田和弘監督の観察映画。音楽による演出は一切なく、徹頭徹尾監督の視点で撮られたドキュメンタリー映画。見終わった後、日本の選挙風土の貧困さが浮かび上がる。この国に民主主義はない、ということを改めて確認し、そこから出発するしかない。その勇気を持つ人には必見の映画です。合わせて『選挙2』もどうぞ。
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マックス ヴェーバー
ウェーバーの死の1年前、1919年、学生達に向けた講演の記録です。
一部抜粋します。

「自分が世間に対して捧げようとするものに比べて、現実の世の中が―自分の立場からみて―どんなに愚かであり卑俗であっても、断じてく挫けない人間。どんな事態に直面しても「それにもかかわらず!」と言い切る自信のある人間。そういう人間だけが政治への「天職」を持つ。」(P105〜106)

「さて、ここにおいでの諸君、10年後にもう一度この点について話し合おうではないか。残念ながら私はあれやこれやいろんな理由から、どうも悪い予感がしてならないのだが、10年後には反動の時代がとっくに始まっていて、諸君の多くの人が―正直に言って私もだが―期待していたことのまずほとんどは、まさか全部でもあるまいが、少なくとも外見上たいていのものは、実現されていないだろう。」(P103〜104)

10年後には、ワイマール体制は機能不全に陥り、1933年にはヒトラーが首相に就任します。

平和憲法は、日本人にとって310万人の命と引き換えに手に入れた唯一と言っていい理念であり、アイデンティティーでした。その唯一の誇りを、日本人は損得勘定で葬り去ろうとしています。言い古された言葉ですが、歴史は繰り返すのです。
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中沢 新一
小学校を卒業するころ、将来なりたい職業として思い描いていたのが、天文学者か生物学者でした。プロ野球選手は、自分のセンスでは無理だと悟りました。物ごころついたころから興味があったのは宇宙や昆虫や植物の世界でした。そんなわけで南方熊樟に出会うのは必然的な成り行きだったのです。人間は言葉によって世界を把握しますが、それ以外の把握の仕方があるはずだと、ずっと思ってきました。南方熊樟は、小林秀雄と同じく、直観による世界の把握の仕方を教えてくれました。この本は、言葉によって構成された世界秩序の外に出て、世界を改めて考えたい人に大いなるヒントをあたえてくれます。安倍政権によるゴキブリのフンのような、あまりにばかばかしい政治状況を見せつけられているので、精神の衛生学として一気に読みました。
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こどもの教育から裏金を使ったオリンピック誘致、原発再稼働、戦争準備から武器の売却、安倍政権の裏の権力としてメディアに絶大な影響力を行使する電通。私たちは電通が作り上げた「箱」の中でいいようにマインドコントロールされている。自分の意見だと思っていたものが、実はそう思わされていただけだということに気づかなければならない。音楽をはじめとする芸能情報、その中で踊らされるミュージシャンやタレント、果てはデザイン業界までを席巻する。今や電通の介在しないメディアはないと言ってもいい。利権あるところに電通あり、です。
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前作『日本はなぜ「基地」と「原発」止められないのか』に続く著者渾身の力作。自分の人生を生きたい人にすすめます。ただそれだけです。18歳で選挙権が与えらる高校生が政治を考える際の基本的なテキストになる日がくるといいですね。無理でしょうが。これ以上余計なコメントはしません。まず手に取ってみてください。
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メディアで取り上げられるよりはるか前から日本会議の存在について私は言及していました。電通と同じくタブー視するメディアには心底失望したものです。報道すればタブーはタブーでなくなるのです。何を恐れているのでしょうか。干されれば、何とか生活をする工面をすればよい。それだけのことです。
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磯崎新
帯に「祝祭都市にスタジアムはいらない」とあります。そもそも2020年まで天災と原発事故をやり過ごし、経済危機を乗り越えて存在しているでしょうか。極めて怪しいですね。偶然書店で手に取って読みました。彼の文章を読むと、建築は現世の権力に奉仕するものではなく、想像力の王国を作るものだと思わされます。建築にそれほど興味のない人でも、読めます。いや、いつのまにか引き込まれているでしょう。
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難関中高一貫校で学び、東大に合格しても、それはもはや知性のバロメーターではありません。この本に書かれていることが真実だと見破れることこそが本物の知性です。ニセの知性は既得権益を守るためにはどんな屁理屈でもひねり出します。おまえは何も知らないと言って他人を見下し、金と権力におもねるのです。ニセの知性は理想の灯を掲げることができません。「脳内お花畑」などという幼稚な言葉を使って揶揄するしかないのです。彼らの決まり文句は、他国が攻めてきたらどうするのかという、それこそ「脳内お花畑」的なものです。「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」とは、まさに至言です。
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烏賀陽弘道
私の元塾生の縁でお会いしたことのある烏賀陽弘道氏の渾身のレポート。事実を丹念に調べ上げ(これがジャーナリストの本来やることです)事実をして語らしめることのできる稀有なジャーナリスト。この本を読まずに福島第一原発の事故の本質に迫ることはできない。ダブル選挙の前に一人でも多くの国民が読むことを期待します。
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松岡正剛氏の本はどれも面白く、シリーズの千夜千冊を除けばほとんど読んでいます。『多読術』は、高校生にぜひ勧めたいと思います。高校時代に、この本を読んでおくと、さまざまな分野の知的見取り図を手に入れることができます。学校の授業だけではなく、この本を手掛かりにして知の荒野に歩みを進めてほしいと思います。
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カント
安倍首相は「この道しかない」と言って消費税を上げ、集団的自衛権の行使を可能にする閣議決定をし、公約とは正反対のTPPを批准することで、日本の文化=アイデンティティーを破壊しようとしています。

もし私たちが生き延びたければ、そのヒントがこの本の中に書かれています。日本は超大国の「夢」を代弁するだけの国になってはなりません。
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山本 太郎
山本氏の国会での質問を、本になって改めて読み直して感じることは、文字通り「みんなが聞きたい」質問をしてくれたということです。安倍首相が小学生に「なぜ政治家になったのですか」と質問された時、「父親も祖父も政治家をしていたからです」と答えていました。小学生相手に、何と言う悲しい答えでしょうか。語るべき理想を持たない政治家など、所詮は官僚に利用されるだけです。それに対して、山本氏には語るべき理想がある。「政治なんてそんなものさ」というリアリストが発散する腐臭を吹き飛ばすさわやかさがある。それは、彼の身体には収まりきれない理想が持つ力そのものです。彼は言います。「力を貸してほしい。少なくとも、あなたが必要だと思われる社会、私が必要だと思われる社会を作っていきたい。そう思うんです」と。日本の総理大臣にふさわしいのはどちらでしょうか。
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ジョン・W・ダワー,ガバン・マコーマック
おそらく、日本人自身よりも海外の知識人のほうが、日本の問題を正確にとらえていると思わせる本です。読み終えて何気なくテレビを見たら、わが大分県選出の国会議員、岩屋毅氏と江藤晟一氏が、2016年ミスユニバース大分県代表を選ぶ催し物に出ていました。名誉顧問だそうです。いかがわしい宗教団体をバックに票を稼ぐだけでは飽き足らず、こんな大会に顔を出して名前を売ろうとする。大分市長の佐藤樹一郎氏も出席していました。このお三方は、こんなことをするために国会議員や市長になったのでしょうか。国民の税金を使ってやることといえば、テレビに出演してにやけた顔をさらすことでしょうか。もう物事の軽重が全く分かっていません。せめてこの本くらい読んではどうでしょうか。私はこの本に書かれていることの大部分に賛成です。
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出版されてすぐ読みました。国会で、読んでもいないのに、安倍首相が躍起になって否定した事実が書かれています。蓮池氏はあちこちから人格攻撃の対象とされてきましたが、自分にも落ち度があったと認めています。自分は総理大臣なのだから落ち度はないと居直る人間とは好対照です。この本を読んで、拉致問題について今一度国民が考えることを望みます。
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2年半ほど前に求めて、一気に読みました。マルクスの『資本論』の中に書かれていることを、著者が自分なりに消化し実践していく過程が書かれているので、一種のドキュメンタリー文学として読めます。きっと著者と同じ思いの若者は全国にたくさんいると思います。かけがえのない一回きりの人生を、充実して生きたいと思っている人に勇気を与える本です。
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今年度ノーベル文学賞受賞作品。チェルノブイリは言うまでもなく、フクシマでさえ人々は忘れたがっています。もう過去のことだと言い聞かせて。しかし、過去のことではなく、まぎれもない現在進行中の現実であり、私たちが生きている世界そのものです。この本を読んだ後、橋下徹が御堂筋をイルミネーションで照らし出し、F1カーに乗って写真を撮っているところを見ました。その時のセリフ。「大阪はここまでできる!」

もう何と言うか、別世界を生きている人間です。彼の発する言葉は文学とは無縁です。人間が言葉を持ったのは、言葉にしがたいものを言葉にしようとするためです。政治家が発する言葉の軽さと言ったらありません。それだけ現実も軽いものになったということでしょう。
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鈴木大拙の言わんとすることが、ようやくわかりかけてきました。年齢を重ね、日本文化の基底にあるものをじっくり味わうことで開示される世界があるのです。日々の生活に追われていては、この本を読み、味わう暇などないでしょうが、それだからこそ手に取ってみてはいかがでしょう。
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人間は、条件次第で、喜々として殺人を犯す。そして、その条件を整備しつつあるのが、安倍政権とその背後でうごめく『日本会議』である。このことに気づいていても、「配慮する」ことを最優先して報道しないメディア(特にNHK・読売新聞・産経新聞)。そしてそこに寄生する学者やコメンテーター、芸能人。このドキュメンタリー映画は、彼らの自画像である。たまには、自らの顔をじっくり眺めてみるがよい。
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私が長年考えてきた問題を解明するヒントになりました。ブログで書いたように、まず感情を基にした結論があって、それを正当化するために人は「知性」を動員するという、ごく当たり前のことが書かれている。つまり、知の粉飾決算報告書である。
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食う寝る遊ぶ 小屋暮らし (JUGEMレビュー »)
中村 好文
中村さんの著作の中では、個人的に最も好きな本です。読んでいるだけで楽しくなります。限りなく優しい、でも、痛烈な文明批評です。これからの生き方のヒントが満載です。それを一人でも多くの人と分かち合いたいと思い、中村好文論・その3の中で引用させていただきました。
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暮らしを旅する
暮らしを旅する (JUGEMレビュー »)
中村 好文
以下は私がアマゾンのレビューに投稿したものです。再録します。
「もし人に幸福な生き方があるとしたら、中村好文さんのような生き方だろうと、ずっと思ってきました。
建築雑誌をパラパラとめくりながら、ふむ、と思って手が止まると、そこには必ずと言っていいほど中村さんの設計した住宅がありました。
文は人なりと言いますが、その人の書く文章のエッセンスがこれほど見事に建築にも表現されている例はめったにありません。
建築に限らず、食の分野でも、ことばと実物の乖離がはなはだしい時代に、中村さんの設計した住宅や美術館に出会うと、どこか安心するのですね。
そういうわけで、著者の本はすべて読ませてもらっています。
この本も偶然、年末に本屋さんで手に入れ、装丁やカバーの手触りを楽しみながら読んでいます。
読みながらいつの間にかほのぼのとしている自分を発見します。
一日に一編か二編を過去の記憶をたどるようにして読んでいます。
この本の平明さ、やさしさがどこから来るのか。そんなことを分析するのは野暮というものです。
とにかくこの素敵な小さな本は、旅のお供にどうぞ!とすすめたくなります。」
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安倍晋三夫妻は、園児に大政翼賛されてうれしいのか?
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    ※追加記事あり。

     

    「森友学園=安倍晋三記念小学校」の問題は、おそらく普通に考えれば、戦後最大の疑獄事件になるはずです。でも、検察が動かないのはどうしてでしょうか。やはり、安倍首相は「立法府の長」だけでなく「司法の長」でもあるということでしょうね。これは代表質問で山本太郎氏がすでに指摘しています。

     

     

    ところで、このスキャンダルの真っ最中に、安倍首相はなんと内閣記者会加盟報道各社のキャップを集めて、高級中華の「赤坂飯店」でオフレコの懇談会を開催しました。もちろんスキャンダルの報道規制が目的だと思います。懇談会に名を借りた買収行為以外の何ものでもありません。

     

     

    しかし、証拠が残るような圧力のかけ方はしていないでしょうね。中華料理を食べて、皆さんで盛り上がっただけでしょう。あとは報道各社の自主規制に任せるという、いつもの流れです。

     

     

    この露骨さというか無邪気さには、めまいがしそうです。これはまさに「共謀罪」に当たりますね()。最高権力者とマスコミの野合ですし、その「団体の性質が一変している」ことも容易に推察されますから。要するに、なりふり構わなくなったということです。

     

     

    ちなみに、英国BBCの社員は政治家の記者会見に出されるコーヒーさえ飲みません。ましてや会食すれば役員でさえ退職させられるのです。欧州で「日本のメディアの意識は、世界で最低レベル・・」と評論されているのを知っているのでしょうか。

     

     

    アップするのを忘れるところでした。「瑞穂の国記念小学院」のホームページで紹介されていた、安倍晋三内閣総理大臣夫人こと「名誉校長 安倍昭恵先生」の「ごあいさつ」は23日午後、突然、写真と挨拶文が削除されました。削除された挨拶文は次の通りです。

     

     

    『籠池先生の教育に対する熱き想いに感銘を受け、このたび名誉校長に就任させていただきました。瑞穂の國記念小學院は、優れた道徳教育を基として、日本人としての誇りを持つ、芯の通った子どもを育てます。そこで備わった「やる気」や「達成感」、「プライド」や「勇気」が、子ども達の未来で大きく花開き、其々が日本のリーダーとして国際社会で活躍してくれることを期待しております。』

     

    しぶしぶ、いやいやながら名誉校長を引き受けた人の言葉とは到底思えません。それともこのあいさつ文も、森友学園が「勝手に」書いたと言うのでしょうか。

     

     

     

    それにしても、夫婦そろって園児に大政翼賛されて、うれしいのでしょうか。

     

    ここから追加記事。

     

    朝日新聞デジタルの記事です。

     

    ― 27日の衆院予算委員会の理事会で、民進党が森友学園の幼稚園の運動会映像を文字にしたパネルの委員会への持ち込みを通告したところ、自民党が拒否。民進が求めた3氏の参考人招致も、審議のテレビ中継も拒んだ。民進の長妻昭氏が記者団に明らかにした。

    パネルについて、自民は「私立学校の教育方針を問題にしたら、国家権力の教育への介入になる」と指摘。民進が「価値観が気にくわないのではなく、政治的中立を逸脱しているからだ」と反論。理事会終了までに決着が付かず、委員会開始後に一部の使用が認められた。

     参考人招致を求めた3氏は、同学園の籠池(かごいけ)泰典理事長、売却交渉をしていた時期に財務省理財局長だった迫田英典・国税庁長官と近畿財務局長だった武内良樹財務省国際局長。民進は「疑いがないというのなら、国会に来てもらえればすっきりとする」と訴えたが、自民は「今の局長に聞けば足りる」と応じなかったという。―

     

    http://www.asahi.com/articles/ASK2W62Q0K2WUTFK00Y.html

     

     

    | 政治 | 23:17 | comments(0) | - |
    私の古寺巡礼15−京都嵐山・宝厳院(ほうごんいん)
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      宝厳院(ほうごんいん)は京都府京都市右京区にある臨済宗天龍寺派の寺院で天龍寺の塔頭(たっちゅう)です。塔頭とは、禅宗寺院で、祖師や門徒高僧の死後その弟子が師の徳を慕い、大寺・名刹に寄り添って建てた塔(多くは祖師や高僧の墓塔)や庵などの小院をいいます。

       

       

      ブログで紹介した天授庵(てんじゅあん)も、南禅寺の塔頭でした。古寺を訪ねていて、この塔頭の立て札を見ると必ず寄るようにしています。

       

       

      宝厳院は、渡月橋から歩いて5分くらいの所にあるのですが、ほとんどの観光客は団体で天竜寺を目指して足早に歩いていました。 天龍寺 はさすがに世界遺産に登録されているだけあって、その庭園は素晴らしいですね。観光客も多いです。でも、私の好みは宝厳院の方です。巨大な公共建築物よりも、住宅の方が面白いと思う性質だからでしょうか。団体だと、時間が制約されているので、宝厳院のような建物に出会うことはできません。それよりも、下調べをして、個人で行かれることを勧めます。

       

      紅葉に染まる嵐山・渡月橋

       

       

      宝厳院入り口

       


       

       

      宝厳院庭園

       

       

       

       

       

      宝厳院を訪れたのは、秋真っ盛りの時節でした。個人的には、紅葉の美しさでは京都の中では一番ではないかと思います。京都には、東福寺や神護寺など紅葉の名所はたくさんありますが、観光地の近くで、こじんまりしていて、これほど美しい紅葉が見られるのは南禅寺・天授庵と宝厳院だと思います。この二つは穴場だと思います。

       

       

      妻と庭園を歩きながら、ここは新緑のころも素晴らしいだろうね、と話しました。でも、ゴールデンウィークの頃の嵐山は遠慮したいですね。あまりに人が多すぎます。喧騒がおさまった5月の下旬が新緑の見頃だと思います。

       

       

      宝厳院を訪ねた後、楽しみにしていた桂離宮を訪ねました。嵐山から車で30分ほどです。往復ハガキを出して拝観許可が下りるまで2年を要しましたが、どういうわけか、あまり感動しませんでした。

       

       

      ブルーノ・タウトが絶賛していたそうですが、広大な敷地の割には、すべてが箱庭的で、やんごとなき方たちの遊び場だと感じたのです。そういう意味では、いかにも京都らしい場所だと言えます。ル・コルビュジェは桂離宮を見て、横の線が多すぎると感想を漏らしたそうです。あまり感心しなかったのでしょうね。ブログでも紹介した、ルイジアナ美術館の方が開放的で私の好みには合っていました。

       

       

      それはともかく、京都市内で手軽に行けて、紅葉と新緑を楽しみたい人には天授庵と宝厳院はお勧めのスポットです。

      | 古寺巡礼 | 13:23 | comments(0) | - |
      「ペンは剣より強し」という確信を育てるのが教育である。
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        「ペン」はもちろん言葉であり「剣」は国家権力を指します。国家権力は自分たちの都合のいいように振る舞い(そのために思想信条の自由や表現の自由を制限します)、利益を独占し、国家を私物化しようとします。挙句に、権力の行使それ自体に愉悦を感じるようになります。権力は絶対的に腐敗するのです。

         

         

        教育はそれに対して、言葉の力で抵抗する人間を育てることを使命にしています。つまり普遍的な倫理と論理と非暴力によって、富の独占をやめさせ、力の行使を最小限に制限し、国民を豊かに、そして自由にします。

         

         

        私は自分の出身校である大分上野丘高校に、何の愛着もなければ、誇りもありません。同窓生が市議や県議や国会議員に立候補しても、同じ高校の出身だからというだけでは応援しません。でも自分の母校を誇りに思えないのは悲しいことです。出来ることなら、青春時代を過ごした学び舎をなつかしく振りかえり、誇りに思いたいものです。

         

         

        しかし、上野丘高校で「ペンは剣より強し」という確信を持っている教師には出会いませんでした。ただただ進学実績を競い、九州大学や東大に何名合格させるかを目標に掲げる高校に、誇りなど持てるわけがありません。もともと能力の高い生徒を集め、入試に関係ない教科は履修させず、受験に有利に働くように「進路指導」することで、教師はどのようにしてプライドを維持していたのでしょうか。こんなことを考える私はひねくれているのでしょうね。

         

         

        しかし、上野丘高校の校章は、まさに「ペンは剣より強し」を象徴するものだったのです。慶應大学の校章も同じですね。

         

        上野丘高校・校章

         

         

         

         

         

        上野丘高校は、この校章を廃止して、替わりに東大の安田講堂のミニチュア版を校章にしてはどうでしょうか。それにしても、生まれ持った能力の差を経済的な格差に還元し、それに拍車をかけることが教育なのでしょうか。ただ、経済格差・教育格差を広げることに貢献しているだけです。パラダイム(ある時代の支配的な価値観・思考の枠組み)は急激に変化します。上野丘高校は富裕層にだけ貢献する高校だとして批判される時代がやってくるかもしれません。

         

         

        おやおや、なんだか皮肉っぽくなってしまいました。でも、「一寸の虫にも五分の魂」です。私たちが、教育だと思わされ、それに疑問を抱かず、経済的な富を蓄積することに血道をあげている間に、森友学園=「安倍晋三記念小学校」の出現を許すことになったのです。以下の動画をご覧ください。これは、私たちの社会が見ないようにしてきた影の部分です。つまり、本質的にはオウム真理教と同じなのです。

         

         

        今度の件で、小沢一郎氏は次のように言っています。

         

        「校長辞任で済むのだろうか。抗議したで済むのだろうか。一国の総理が家族総出で「特殊」な教育を施す一幼稚園を後援し、明に暗に行政機関まで動かし、安倍総理の名前や夫人が校長ということを信じて、すでに多くの子供が応募している。もう関係ない、うるさいから辞めますで済むのか。済むわけがない。」と。まともな意見ですね。

         

         

        この事件の核心は、2月24日の国会で共産党の宮本岳志議員が「2015年9月4日に近畿財務局の9階で森友学園の工事関係者などと会って相談していたのではないか」との質問であらわになりました。

         

         

        「総理動静」と『産経新聞』によると、次の事実が分かります。

         

        9月4日の前日、月3日には、14時17分〜27分の間に、安倍総理は、財務省の岡本薫明官房長、迫田英典理財局長と会談しています。

         

        9月4日は、総理が国会を抜け出して大阪入りした日です。

         

        9月4日の10時〜12時、
        大阪市の近畿財務局9階会議室にて森友学園の小学校建設工事を請け負った設計会社所長、建設会社所長が近畿財務局の池田統括管理官、大阪航空局調査係と会合。埋設物の処理内容や費用についてつめた議論をし、業者側が高額な処理費用を提示するなどしていた。

         

        11時58分
        安倍首相、全日空21便で伊丹空港着。

        12時39分
        安倍首相、大阪市中央区の読売テレビ(編集部注:近畿財務局からは大阪城を挟んで車で10分程度の距離)着。

        13時30分〜14時29分
        安倍首相、番組収録(編集部注:自民党広報のツイートより、9月6日放送の「そこまで言って委員会NP」と思われる)。

        15時3分〜45分
        安倍首相、「情報ライブ ミヤネ屋」生出演。

        16時7分
        安倍首相、故冬柴鉄三元国土交通相の次男、大さん、秘書官らと大阪市北区の海鮮料理店「かき鉄」(同店は冬柴大さんが経営)にて食事。

        同日
        国土交通省「平成27年度サステナブル建築物等先導事業(木造先導型)の採択プロジェクトの決定について」にて、森友学園の安倍晋三記念小学校の校舎及び体育館が選出され6200万円の補助金交付が決定。

         

        9月5日午前
        安倍昭恵夫人、塚本幼稚園にて名誉校長就任の挨拶。

         

         

        以上の時系列をたどれば、学校法人森友学園への国有地払い下げ疑惑の主犯格は、迫田理財局長と彼を動かした政治家だということになります。そもそも、政治家の意図抜きに、役人が異例づくめの危ない橋を渡るはずがありません。政治家の意図を受けて、合法の体裁を整えるべく、役人が針の穴を通すような、アクロバティックな抜け道を細工したということです。ちなみに、理財局長の迫田氏は、安倍総理の父親である安倍晋太郎氏と高校・大学の先輩・後輩にあたるそうです。国有地払い下げ交渉後に、国税庁長官に出世しています。

         

         

        この件は海外のメディアも報道を始めました。今回の事件の核心は、上記の動画にすべてあります。海外のメディアは、国内のメディアと違って、そのことに気づいています。

         

         

        それにしても、文部科学省をはじめとして教育関係者は上の動画をどのように見ているのでしょうか。オウム真理教事件のときと同じく、自分とは関係のない別世界の出来事だと考えて素通りするつもりでしょうか。きっとそうなのでしょうね。

         

        | 政治 | 15:07 | comments(0) | - |
        どう考えても、何度考えても、おかしい!
        0

          ※動画追加しました。削除されないうちにご覧ください。

           

          「この車、ほしいんですけど」

           

          「いや〜、お客さん目が高い!」

           

          「いかほどでしょうか。うちの主人は○○に勤めていて、それなりの影響力があるんですけど・・・。それにおたくの社長さんをよく存じ上げているのでございますよ。

           

          「えっ、そうでございましたか。それは失礼しました。販売価格は600万円です。この前来たお客さんには、どんなに値引きしても590万円がギリギリだと言ったところです。でも、○○様の奥さまでいらっしゃるなら、ボディーに多少傷があるのと、後部座席のシートに髪の毛が落ちていますので、その分を値引きして、60万円で結構でございます」

           

          「えっ、9割も値引きして下さるんですか?」

           

          「もちろんです。うちの社長も日ごろからお世話になっていますし、何と言っても○○様を尊敬申しあげておりますから。同じ思想の持ち主だと常々申しております。あ、そうそう、ボディーの傷を補修するのに、今見積もりを取らせたところ50万円ほどするそうなので、その分も値引きさせていただき、合計10万円で結構でございます」

           

          「ええっ!いつ見積もりを取ったのですか。速いですね。電光石火の裏ワザでも使ったんですか。それにボディーの傷なんて、虫眼鏡で見ても分からないほどですよ」

           

          「ほら、そこはあれ、何と申しますか、スイシンあればサカナ心というではありませんか」

           

          「それを言うなら、水心あれば魚心、じゃありませんか。まあ、まけてもらえるのならそんなことはどうでもいいですけど」

           

          「そうですとも、奥様。それに、うちは韓国人や中国人には車を売りません。これがわが社のポリスですから」

           

          「それを言うなら、ポリシーでしょうけど。まあ、まけてもらえるのならそんなことはどうでもいいですけど・・・」

           

           

          こんなディーラーがあったら、いうまでもなく倒産ですね。でも、車をいくらで売るかはディーラーの勝手です。あくまで、私人間の売買契約ですから。しかし、この車が9億円以上する国有財産だったらどうでしょう。国民は、ふざけるんじゃない!と言って怒るでしょうか。怒らないでしょうね。国民は自分のふところが直接痛みさえしなければ無関心ですから。その結果、国民の財産や税金は、時の政権や官僚たちが、まるでポケットマネーのように好き勝手に使っていいことになっています。

           

           

          森友学園の件は、官僚と民間法人と政治家が絡んだ前例のない最大規模の「取り込み詐欺」だと思うんですけど、相変わらず、読売・産経・NHKの御三家は報道しませんね。それに、あの橋下徹さんもひとこともツイートしません。普段ならイの一番に騒ぎ出す人なんですが。何か理由があるのでしょうか。マスコミは、お隣の国の暗殺事件など報じている暇はないはずなんですけど・・・。

           

           

          民主党時代の小沢一郎氏が同じことをしていたら、朝から晩までメディアはこの話題一色だったはずです。これほどスキャンダラスで、視聴率が稼げるネタもないと思うんですが・・・。

           

           

          そもそも、森友学園の疑惑は検察が動かなければいけない事案です。検察の皆さん、 何も根拠がないのに小沢一郎潰しのためには動きましたよね? これだけの事案が出てきて一切検察が動かなかったら、検察はいったい何のためにあるのでしょう?国民はあなた方にただメシを食わせるほど豊かではありませんよ。小沢氏の場合は完全な冤罪で無罪が確定しましたが、マスコミの態度は180度違いました。

           

           

          それにしても、先日国会でこの問題を追及された時に、安倍首相は次のように答えました。「今話を聞いて初めて知った。その方から小学校を作りたいので、安倍晋三小学校にしたいという話がございましたが、私はそこでお断りをしている」と。

           

           

          これを聞いて、私は椅子からころげ落ちました。椅子からころげ落ちるのは久しぶりです。うっかり油断していました。しかし、もうこの段階で論理的におかしいですよね。なんで瞬間的に180度矛盾していることが言えるのか?「今話を聞いて初めて知った」人がなぜ「安倍晋三小学校にしたいという話がございましたが、私はそこでお断りをしている」なんて言えるのでしょう。私がサイコパス総理だというのもお分かり頂けるでしょう。彼の答弁はこのオンパレードなのです。

           

           

          安倍首相自身が、堂々と、しかも断言口調で、ときにヒステリックに身ぶり手ぶりを交えて、ここまでメチャクチャな理屈を通してきたことで、確実に日本人の知性を低下させたと思います。実際、この種の理屈が強引に通ってしまうなら、小中学生に論理的な思考力を身につけさせるのは難しくなります。私がブログで何度も述べてきたように、結局、論理より力が勝る(剣はペンより強し)という現実を見せつけているのですから。こんな人たちが道徳教育の復権を叫んだり、数の力で共謀罪を成立させようと企んでいるのです。なんだか、うすら寒くなりませんか?

           

           

          私は何も難しいことを言っているわけではありません。ただ「真っ当」で「公正」で「正義」が実現できる日本になって欲しいと思っているだけです。 公正さもなくなり、正義もなくなり、倫理も蹂躙され、一部の既得権益者だけが利益を貪って、大半の国民が人権を抑圧され、怯え、貧困に飢える社会なんてまっぴら御免です。

           

           

          森友学園の件、まとめてみます。まだまだこれからもアゴがはずれるような事実が出てくるでしょうが・・・。

           

          ・首相の妻が名誉校長であることを認識 (問題になり、森友学園のHPから削除)

          ・理事長が日本会議の幹部で首相の教育思想に共感・尊敬の念を持つ

          ・安倍晋三小学校という名前にしたいと言われ認識

          ・振込用紙に安倍晋三の名前

          ・首相の妻が公教育より私立を推薦 (森友学園の講演で明言)

          ・高価格提示の他学校は断られ

          ・近隣の1/10の価格で国から土地購入

          ・結局、国に入ったのは200万円

           

           

           

          政権中枢でこんなことが許されるなら、官僚も「なんで政治家だけ。自分たちも!」と思いますよね。官僚組織がそうなれば公務員だって「ズルイ。自分たちも!」となります。そうなったら一般国民も「政治家や官僚や公務員ばかりズルしている。自分たちも!」となるのは当然です。小中学生に何と言い訳するのでしょうか。モラルハザードなどと横文字を使っている場合ではありません。この国の道徳が崩壊しているのです。それにマスコミが手を貸しています。

           

           

          国民は額に汗して必死に働いているのです。非正規雇用や派遣労働者や若者はブラックな職場で低賃金で働き、 貯金もなかなかできません。生活保護の人はギリギリの生活を強いられています。その一方で、「愛国」を掲げた児童虐待、金儲け、レイシスト団体は安倍政権に取り入り、特権的に優遇を受けている。どう考えても、何度考えても、おかしくありませんか?

           

          | 政治 | 14:20 | comments(0) | - |
          お金より時間を貯めて生きてきた
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            『老建築家夫婦のドキュメンタリー映画「人生フルーツ」』http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=300

            が大分のシネマ5bisで、今月の25日(土曜日)から上映されることになりました。ブログでは2月1日に紹介しました。

             

            この映画は、もともと東海テレビが制作したドキュメンタリーを劇場公開する企画の第10弾です。大分の映画館で公開されないものかと思っていたところ、シネマ5bisで公開が決まりました。うれしいですね。今度は是非スクリーンで見たいと思います。

             

             

             

            この映画を見た多くの人は、理想の老後だ、自分もあんな老後が送りたい、と思うことでしょう。しかし、それは難しいですね。なぜなら、津端夫妻の「理想の老後」は、若い時から信念を持ち、決断し、世の中の支配的な価値観に惑わされず、日々の暮らしをコツコツと積み重ねることによってもたらされたのですから。

             

             

            私はこの映画を見て、ここに至るまでに津端夫妻が乗り越えねばならなかった苦労の全量を思いました。もちろん、それさえ、考えをめぐらせ、工夫することで「楽しく」乗り越えたことでしょうが。

             

             

            あるいは、次のような感想を持つ人もいるかも知れません。津端氏の経歴に注目し、理想の老後を送るためには、やはり学歴をつけて一流の企業に入る必要があるのだと。しかし、それは見当違いというものです。物事を外見だけで判断しています。なぜそうなるのか、考えてみましょう。

             

             

            人間は本能が壊れている生きものです。生きるために必要なほとんどすべてを学習によって後天的に身につけます。その時に最も必要になるのは言語能力です。自ら言葉をつむぐ能力だけでなく、他人の言葉に感応する能力も必要です。

             

             

            言葉はある状況で発せられます。同じ状況下でも、人によって発する言葉は違います。その違いはどこに由来するのか、どちらが正しいのか、それを考えるのも言語能力です。そして自分なりに価値判断を下さなければなりません。

             

             

            その時、最も重要になるのが動機付けです。それは将来の自分の生活を思い描く(pictureする)ことができるかどうかにかかっています。動機付けには具体的なモデルが必要です。はやりの「ライフスタイル」や世の中の空気に影響されて、物真似でやったとしても続きません。早晩挫折するのは目に見えています。その結果、今の社会が前提としている価値を疑うことなく、その範囲内で自分の生活を思い描きます。もちろん選択の幅は狭くなります。世の中のエライさんの発想が貧困なのはこれが原因です。

             

             

            私は塾の教師として、教育の末端・周縁にいながら、このことを考えてきました。塾の教師になろうと考えてなったわけではありません。生活の必要から、仕事として選んだに過ぎません。ただ、自分にとって大事なものは、お金や地位よりも、自由に使える時間だと考えていました。何かになったり、ある地位に就くことを目標とするよりも、人生の時間を何に使うかということを中心に物事を判断してきました。

             

             

            その時、私も妻も、一流と呼ばれる企業に勤め、高額な年収をもらい、都市で生活することを理想としていれば、今のささやかな幸せはなかったでしょう。とにかく田舎に帰ることなど絶対にいやだ、と妻が言い張れば、都会で生活することを選択するか、別れざるを得なかったと思います。

             

             

            何が言いたいのかというと、津端夫妻のような理想の老後」を送りたいと思うなら、価値観を共有できる伴侶と出会い、共有できなければ粘り強く説得し、納得してもらうことが必要だということです。つまり、映画で切り取られた時間枠の中だけで見るのではなく、津端夫妻が、30年以上にわたって、理想とする生活を思い描く力を枯渇させることなく、それを実行し、持続させてきたことに注目すべきだと言いたいのです。

             

             

            私は仕事柄、子どもたちの動機がどこに由来しているのかが気になります。ゲーテがいうように「母親というものは、たとえ世の中がどんなに腐りきっていても、そこに子どもを適応させようとするものだ」というのが真実だとすれば、子どもはお母さんのミニチュアになっている可能性が高いでしょう。

             

             

            塾で勉強を教えながら、子どもたちが自分の理想とする生活を思い描く力をつけられるように、「50年後、もし君たちが生きていて、幸せになっているとしたら、日本はどんな社会になっている必要があるだろうか。」と問いかけることがあります。それは、「自分が尻を叩かれてかろうじて勝ち組に入り、鬱屈した人間になっていたら、世の中や人間をどのように見て、どうするだろうか」と想像するからです。

             

             

            実は、『人生フルーツ』は、若い人たちに、もう一つの(alternativeな)生き方、価値観を提示しているのです。動物と違って、言語存在としての人間は、モデルを必要としています。若い人たちのモデルになる生き方をしている大人が少ない時代だからこそ、特に若い人たちに、この映画を見てもらいたいと思います。津端夫妻の生き方は、人間が幸せに生きるために手放してはならない普遍的な価値を提示しているのですから。私はそう思います。

            | 中高生の皆さんへ | 14:27 | comments(0) | - |
            自衛隊員が死ぬことを願望しているのは誰か?
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              昨日のブログで、私は次のように書きました。

               

              致死量の毒入りペットボトルを公園のベンチに置けば、実際にそれを飲む人がいなくても、誰かが飲む可能性があるとわかっていて置くのだから、法的には故意があるとみなされる。 安倍政権は、誰かが死ぬかもしれないと分かっていて、あえて実行している点で、未必の故意による殺人を実行する政権だ、と。

               

               

              このことに関して、私には忘れられないシーンがあります。それは昨年の9月26日の衆院本会議での出来事です。安倍首相は所信表明演説を中断して、自衛隊員や海上保安官の任務遂行の努力を讃えるために自民党の国会議員に対して起立と拍手を求めました。

               

               

               

              安倍首相は、「現場では夜を徹し、今この瞬間も海上保安庁、警察、自衛隊の諸君が任務に当たっている。」「今この場所から、心からの敬意を表そうではありませんか。」と呼びかけたのです。安倍氏に促された自民党の議員たちが一斉に立ち上がって約10秒間、拍手をし続けました。

               

               

              私はこのシーンをテレビで見ていて、思わず「マンセー!」と叫びました。いや、これは冗談ですが、あのゴロツキ集団、日本維新の会の馬場伸幸幹事長ですら「ちょっと異常な光景だ。落ち着いて真摯(しんし)に議論をしあうという状況ではなく、自画自賛をするためにやっていると、言論の府ではなくなってしまう。」と懸念を示したほどです。

               

               

              この「マンセー!」の中に、安倍首相と自民党の体質というか精神構造が露呈していて、私はあきれるというか、その幼児性に絶句したのです。小沢一郎氏は「異様な光景だ。今までも日本の議会では見られないと思うし、北朝鮮か中国共産党大会みたいで、不安に感じた。」と語りました。まともな感覚ですね。

               

               

              安倍政権が北朝鮮や中国共産党大会の様相を呈してきたとしても、心配はいりません。安倍政権は骨の髄まで対米従属政権ですから。日本が本当に北朝鮮や中国共産党に接近すれば、アメリカ様が黙っていません。日本は内戦状態になります。そのためにアメリカ軍が駐留しているのですから。

               

               

              それはさておき、この「マンセー!」劇の核心は、全体主義国家を連想させたことではありません。そこに露呈していたのは、途方もなく傲慢な特権意識でした。バカに権力を持たせるとこうなるという典型的な悲喜劇だったのです。

               

               

              翌10月11日の国会で、南スーダンでは内戦が再燃し、紛争継続地には自衛隊を派遣しないとする「PKO参加5原則」が完全に崩れているとの指摘がされた時、安倍首相は、「衝突はあったが戦闘行為ではない」という趣旨の答弁をしました。「名を歪める」答弁です。

               

               

              そして翌12日、南スーダンの情勢の認識を質されて、「永田町と比べればはるかに危険」と安倍首相は答弁したのです。本人は、ジョークで切り返したつもりだったのでしょう。

               

               

              しかし、命の危険を日々感じながら任務にあたっている人々が現にいるなかで、こうした冗談を口にする人間と同じ人間が、他方で、自衛隊員や海上保安官の任務遂行の努力を讃えるために、演説を中断して起立と拍手を求めてもいるのです。この種の冗談は、危険な現場に身を置く人々を、人間ではなく、単なるコマ(安倍首相のことばでは「兵隊」)だと見なしていることを意味します。これは、統一的な人格を持った人間にはできないことです。私がサイコパス総理と呼ぶゆえんです。

               

               

              自衛隊員らを称賛する「マンセー!」劇の深層意識は、白井聡氏がいうように「あの身分の低い連中のために、総理大臣がわざわざ演説を中断し、白紙領収書を切れるほどの特権階級たる与党議員がわざわざ席から立って拍手したのだ、ありがたく思え」というもの以外ではあり得ません。

               

               

              それは、あえて言えば、南スーダンで自衛隊員の人命が失われることを見越し、期待すらしていることの表れです。あのスタンディングオベーションは、「この特権階級たるわれわれから感謝されるという身に余る光栄を得た諸君には、もう思い残すことはあるまい」というメッセージでもあったのです。

               

               

              安倍政権はたとえ死者が出ても、南スーダンから自衛隊を撤退させないでしょう。なぜなら、以下のスケジュールを念頭に置いているからです。

               

               

              1:南スーダン駐在の自衛隊PKO部隊に死者が出る。

              2:国家をあげて死者を追悼する。

              3:自衛隊員の英雄化・英霊化。

              4:「軍隊を軍として派遣できない弱腰憲法」「隊員を見殺しにする憲法」「英霊を祀れない憲法」ということで、改憲議論が沸騰。

              5:1年以内に国民投票。

               

               

              国民やマスメディアが黙っていないだろう、と思う人もいるかもしれませんが、児童虐待・愛国教育の「森友学園」による国有地不当払下げ問題一つまともに報道しないマスメディアに期待などできるわけがありません。

               

               

              国家が戦争に突き進めば、「兵隊」や国民は見殺しにされ、捨石にされます。「国のために命をささげた」という言い方は、権力者の身勝手極まりない解釈であり、「死者を讃える」という体裁を取りながら、その実、敬意と哀悼を欠いた傲岸不遜な言い方だということを忘れてはなりません。

              | 戦争・南スーダン | 14:46 | comments(0) | - |
              未必の故意による殺人に手を貸してはならない
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                カフェでテーブルを挟んで二人がコーヒーを飲んでいると想像して下さい。一人が席を立った隙に、もう一人が致死量の毒薬をコーヒーカップに入れて殺害すれば、明白な殺人罪が成立します。

                 

                 

                では、次のようなケースはどうでしょう。面白半分で致死量の毒薬を入れたペットボトルを公園のベンチに置いたとします。誰もペットボトルを飲まず、放置されるか捨てられる可能性もあります。その場合はもちろん犯罪は成立しません。しかし、たまたま通りかかった人がそれを飲んで死んだとします。ペットボトルを置いた人は殺人犯として処罰されないのでしょうか。それはどう考えてもおかしい。

                 

                 

                刑法38条1項は、ある行為が殺人罪として処罰されるためには、相手を殺すという明白な意思(故意)がなければならないと定めています。

                 

                 

                上のケースでは、ペットボトルを置いた時点で、特定の人間を殺すという明白な意図もなく、結果が生じるかどうかも不確定です。犯罪が成立するために必要とされる故意があるかどうかが問題になります。そこで、未必の故意(Involuntary Homicide)という概念が登場します。

                 

                 

                つまり、ペットボトルを飲むかどうかは不確実ではあるものの、誰かが飲む可能性があるかもしれないと分かっていて、あえてそれを放置するのは故意があるのと同じだととらえるのです。

                 

                 

                安倍政権は、誰かが死ぬ可能性があるかもしれないと分かっていて、あえてそれを放置する施策を進めることにおいて、未必の故意による殺人を実行している政権です。

                 

                 

                具体例をあげてみます。東電は、自走式ロボットを福島第一原発2号機の格納容器に入れて、圧力容器近くまで接近させて撮影した画像と放射線測定値(推計値)を今月9日に公表しました。その値は650シーベルトという、過去に計測された経験がない高い数値でした。もちろんその数値に世界中のメディアは震えあがりました。

                 

                 

                650シーベルトという数値が何を意味するか、3・11を経た後でも多くの国民は理解していません。シーベルトとベクレルの違いも分かっていません。

                 

                 

                いま私の手元に『朽ちていった命−被曝治療83日間の記録−』(新潮文庫)という本があります。これは、1999年9月30日に、茨城県東海村の核燃料加工施設・JCO東海事業所で起こった臨界事故で大量の中性子線を浴びて死亡した大内久さんと篠原理人さんのうち、大内さんに焦点を当てた壮絶な闘いのドキュメントです。

                 

                 

                1999年9月30日午前10時。大内さんは核燃料サイクル開発機構の高速実験炉「常陽」で使うウラン燃料の加工作業をしていました。ステンレス製のバケツの中で溶かしたウラン溶液を濾過した後、それを「沈殿槽」という大型の容器に移し替える作業です。

                 

                 

                バケツで7杯目。最後のウラン溶液を流し込み始めた時、大内さんはパシッという音とともに青い光を見ます。臨界に達したときに放たれる「チェレンコフの光」でした。その瞬間、放射線の中でも最もエネルギーの大きい中性子線が身体を突きぬけます。被曝です。

                 

                 

                午前10時35分、放射線が出たことを知らせるエリアモニターのサイレンが事業所内に鳴り響きます。「逃げろ!」と別室にいた上司が叫びます。大内さんは急いでその場を離れ、放射線管理区域の外にある更衣室に逃げ込みます。その直後、突然嘔吐し、意識を失います。

                 

                 

                この本の96ページ以降に以下の写真があります。上は大内久さん(当時35歳。妻と小学校3年生になる息子がいました。)の被曝8日目の右手。下は被曝26日目の写真です。

                 

                 

                現代医学の粋をつくして治療したにもかかわらず、大内さんは被曝から83日目に息を引き取ります。大内さんの妻や妹、東京大学医学部付属病院の前川和彦教授を中心とする最高の医療班は、遭遇したことのない事態に日々直面し、絶望していきます。

                 

                 

                当初、大内さんは8シーベルト以上を浴びた可能性が高いとされていました。もちろん致死率は100%です。最終的に被曝量は20シーベルト前後とされました。福島第一原発2号機の650シーベルトという数値がいかに高いかお分かりいただけると思います。

                 

                 

                ここを新たな地震が襲えば、福島第一原発でのすべての作業は不可能になります。つまり、おおげさな表現ですが、この国は終わるのです。そしてその可能性があることを国連アドバイザーの松村昭雄氏と竹本修三博士(京都大学大学院教授・地球物理学)が指摘しています。3・11以降、重要な情報を発信し、提言してきた実績から見て、この二人は信頼できます。

                 

                 

                その竹本教授の記事のタイトルは、「福島第一原発二号機による地球規模の大惨事の可能性。」です。Potential Global Catastrophe of the Reactor No.2 at Fukushima Daiichi

                以下、カレイドスコープ氏のブログから引用します。

                http://kaleido11.blog.fc2.com/blog-entry-4809.html

                 

                引用開始

                「・・・2011年3月11日の事故において、建物の破壊なしに、2号機は高温と高圧という過酷な環境の中で持ちこたえた。

                しかしながら、長い間使用した原子炉である。長期にわたる放射線照射によって、間違いなく圧力容器は劣化している。

                もし巨大な地震に見舞われたならば、2号機は壊れ、内部に残されていた核燃料とその他デブリが拡散してしまうだろう。

                その時、首都圏は居住することもできなくなる。
                2020年の東京五輪など、まったく問題にならない事態がそこに予想される。

                ・・・冷却用プールに格納されている核燃料棒の数は次のとおりである。1号機=392本。2号機=615本。3号機=566本。
                通常であれば、電動ポンプによって冷却用の水が送り込まれ、これらの燃料棒は冷やされ続けている。もし、電力に滞りがあった場合はどうなるのか

                ・・・つまり、震度6ないし7の地震によって福島第一原発が倒壊するという可能性はある。このことを無視することはできない。

                ・・・しかし、放射線照射を受け続けた結果の劣化ということをまじめに考えてみると、間もなく起こると予想される新たな大地震によって、2号機は深刻な打撃を蒙るかもしれないのである。」引用終了

                 

                このような状況下で、安倍政権は今年4月1日までに、浪江町、富岡町、飯舘村の帰還困難区域を除く全域と、川俣町山木屋地区の避難指示を解除する方針を示しています。さらに帰還困難区域に関しても、5年を目処にその解除を目指す「特定復興拠点」を設け、同拠点の除染費用として2017年度予算から約300億円を計上する見通しです。

                 

                 

                避難している人々を強制的に帰還させるのは、次の地震が襲ったときのことなど全く考えていないサイコパス総理による、未必の故意による殺人そのものです。心ある国民は、合法に名を借りた未必の故意による殺人に手を貸すべきではありません。

                 

                | 原発 | 17:29 | comments(0) | - |
                青春の読書または教育の自由について
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                  「若い時の読書は買ってでもしろ」といいます。いや、正しくは「読書」ではなく「苦労」でしたね。でも、若い時の苦労とおなじく、若い時の読書が将来役に立つかどうかなんてわかりません。そもそも、読書は将来のためを考えたり、費用対効果を考えたりしてするものでしょうか。

                   

                   

                  「当たり前だろ。身銭を切って本を買うんだ。それが有益な情報を含んでいなかったり、ビジネスで役立つことがなかったら、何のために読書なんかするんだ?」と考えている人も多いと思います。一理ありますね。

                   

                   

                  貴重な時間を無駄にするのは申し訳ないので、こういう考えをお持ちの方は以下の文章を読んでも得るものは少ないと思います。他人の与太話なんか聞くんじゃなかったと後悔するのが落ちでしょうから。

                   

                   

                  しかし、ビジネス書であろうが、法律、経済、医学、建築などの専門書であろうが、その本を読むということは、限りある人生の時間を割いていることに変わりはありません。それはもっぱら仕事上の必要のためにする読書だといえます。いや、それは仕事そのものです。

                   

                   

                  お前は何が言いたいのかと訝しく思っている人もいるでしょう。そうです。私は、仕事上の必要のためにする読書とは違う読書があると言いたいのです。仕事のための読書は、読んでいる人を必ずしも幸福にしない、と極論めいたことを言いたいのです。若いころ、私は行き当たりばったり、読みたいものを読みたいときに、何かに突き動かされるようにして読んでいました。植物の成長に水と陽光が欠かせないように。

                   

                   

                  それはどんな読書でしょうか。それは、世界や日常を相対化する読書です。目の前の世界に適応することだけを考え、最短の時間と最小の費用で最適解を求める生き方から解放されるための読書です。言い換えれば、余命数ヶ月と宣告された時に、それでも読みたい本を読むということです。

                   

                   

                  具体例を挙げましょう。前回のブログで、私の父が生前最後に読んだ本のことを書きました。羽仁五郎著『教育の論理−文部省廃止論』です。この本は、職業のいかんにかかわらず、読ませる力を持っています。38年前に書かれた本ですが、彼が予言していた恐るべき内容がことごとく現実化しています。今生きていてこの本を書いているのではないかと思わせるほどです。

                   

                  わが青春の読書。羽仁五郎の著作からは元気をもらいました。本物の思想は、読んで元気が出るかどうかで見分けられる、というのが羽仁五郎の説です。当たっています。仕事のためでもなく、物知りになるためでもない、元気になるための読書です。

                   

                   

                   

                  私のもう一つの愛読書は、昭和14年、軍国主義下の暗い時代に、自由への熱い思いをこめて書かれた名著『ミケルアンヂェロ』(岩波新書)です。権力が跳梁跋扈し、思想信条の自由が侵されようとしていた時代に、自らの身体をその中に横たえるようにして書いたものです。ちなみに、『ミケルアンヂェロ』は、次の一文で始まります。「ミケルアンヂェロは、いま、生きている。うたがうひとは、ダヴィデを見よ。」

                   

                   

                  時流におもねることのない、独特の若々しい切迫した文体。希代のアジテーター。30年ぶりに読み返して、若い時にこの本を読んでいてよかったとつくづく思います。私の批判精神のかなりの部分は、彼に負うていると気づきました。生きていた時には、毀誉褒貶にさらされ、ある種の思想家・学者から批判されていましたが、今読むとどちらが正しかったかわかります。

                   

                   

                  2月7日のブログ『現実と日常の喪失−中高生の読解力が低下している本当の理由』http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=305

                  の中で私は次のように書きました。

                   

                   

                  もともとウソだった日常をうかつにも日常だと勘違いしていたことが分かった後で、日常が回復したというさらなるウソを重ねられているのが、私たちの社会です。『これが現実だ』『これが日常だ』と言われても、『どうせ自分の見たいものしか見ていないだろう』と言いたくなる気分を多くの人が共有しています。」と。

                   

                   

                  私は教師の端くれとして、社会の中で何を支えに生きていけばいいのかわからず、自分を定位できない不安で一杯になっている若い人たちに是非この本を読んでもらいたいと思います。特に教員志望の人たちにとっては、教育の可能性を垣間見せてくれる本だと思います。

                   

                  若いときにいったん燃え上がった理想の炎は、生涯消えることはありません。その小さな炎を手放せば、私たちの<生>の行く手には、暗黒の世界が待ち受けているだけです。「疑う人は、記者クラブ、大手マスメディアを見よ」。

                   

                   

                  この本には引用したい箇所が随所にあります。今回は「序にかえて」から引用します。

                   

                  「プラトンは道徳が教えられるものか、どうか、を問題にしていたが、この問題は、道徳が強制されうるものか、とおきかえれば、答えははっきりしている。道徳は人をひきつけるが、道徳の強制は人を逃走させる。道徳の強制は偽善につながるからだ。

                   

                  道徳に限らず、学問でも芸術でも技術でも、なんでも教育は強制に近づけば、人をひきつける力を失うので、教育が人をひきつけ、教育が有効であるためには、教育は自由であらねばならない。(中略)

                   

                  日本はいまだかつて教育の自由が実現されたことがない。この本は教育の自由に捧げられた詩なのだが、愛がセンチメンタルにおわらないためには論理でなければならない。教育の論理は、愛の論理が政治の論理と交わる点に成立する。

                   

                  教育の自由がどんなにすばらしいものか、教育の自由を無視することがどんなに重大な犯罪か、教育の自由がいかに過去の記憶のためではなく未来の創造のために必要か、諸君の体験のために、ただそのために八十才の老人が青年のようにこの一冊の本を書きおろしたほどに、教育の自由よりも美しいものはないのであろう」

                   

                  羽仁五郎著『教育の論理−文部省廃止論』「序にかえて」より。

                   

                   

                  | 中高生の皆さんへ | 15:45 | comments(0) | - |
                  父の記
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                    父が56年の生涯を閉じた時、私は28歳でした。父は教師をしていましたが、決して理論家ではありませんでした。どちらかというと無口で口べたでした。文章を書くのも得意ではなかったというか、あまり関心がなかったようです。それでも、読むことは嫌いではなく、司馬遼太郎をよく読んでいました。愛煙家で囲碁が趣味でした。

                     

                     

                     

                    明確な文章にならない理論などというものはありません。しかし、<思想>は違います。父は<思想>を持っていました。A B であるという命題の形にならなくても、自分の生き方について安定した統一的な判断基準を持っていたのです。それは、名も無い一人の実践者として身につけた、<核>となる判断基準でした。これをすれば怒られる、これをしたときには喜んでもらえる、ということが少年の私に無意識のうちに浸透していったのです。

                     

                     

                     

                    ラッキョウの皮むきではありませんが、どこまでむいても核のない教育史家の言説のような薄っぺらなものではなく、あくまで自分の実践や経験で得たものを根拠にしていたので、ぶつかり甲斐のある存在でした。父の存在なくして自我を形成することができたかどうか、今となっては判然としません。

                     

                     

                     

                    5歳で実母に死なれ、若いときに戦争を経験したことも大きかったと思います。思えば、昔の教師の中にはこの種の<思想家>が多かった気がします。

                     

                     

                     

                    55歳の時、囲碁の最中に左手に持っていたタバコを落としても気づかず、手がしびれ始めます。一過性の脳虚血性発作でした。糖尿病が原因だったのでしょうか。その年の暮れに入院し、手にしびれが若干残るものの、順調に回復し、リハビリのため別府の病院へ転院します。

                     

                     

                     

                    その当時、私は奈良県生駒市に妻と娘と3人で暮らしていました。あれは確か3月ごろだったと思います。弟から電話がありました。緊迫した不安そうな声でした。父を見舞いに行ったらベッドの上で不安そうに泣いているというではありませんか。言葉を発することができなくなっていたのです。

                     

                     

                     

                    私は飛行機に飛び乗り、病院へ駆けつけました。父のベッドに近づき、その顔を見た時のことは生涯忘れることができません。父は私の顔を見ると身もだえしながら激しく泣き出したのです。元気な時の姿とのあまりのギャップに、私は言葉を失いました。脳梗塞の発症でした。

                     

                     

                     

                    私は泊まり込みで看病しました。そのうち、父は深夜になると下腹部をおさえて苦しむようになります。医師は神経的なものだろうと言いました。しかし、そばで看病している者から見れば、とうてい神経的なものとは思えませんでした。

                     

                     

                     

                    私はもしかしたら癌ではないかと疑い、知り合いに頼んで大分医科大学に転院させました。医大の A 医師から、転院したその日に、父は大腸ガンの末期で、余命2カ月だろうと告げられました。父は脳梗塞と癌を併発していたのです。

                     

                     

                     

                    季節は春爛漫で、桜が満開の中をバスに乗って医大へ通いました。バスの座席に座ると、開け放たれた窓から桜の花びらが舞いこんできました。それを見ていると、間もなく父の命が消えるのだという感慨に襲われ、涙を抑えることができませんでした。

                     

                     

                     

                    桜の花が散り、葉桜となって世間はゴールデンウィークのまっ最中でした。その日は、私に代わって母が付き添っていました。南大分の親戚の家で仮眠をとっていた私に母から電話がありました。駆けつけると、心臓マッサージの最中でした。私は A 医師に「ありがとうございました。もう結構です。」と声をかけました。5月8日の未明、心電図は、一本のか細い線となり、父は56年の生涯を閉じました。

                     

                     

                     

                    葬儀は父の従姉で、丹生小学校の校長をしていた(平山)美津子おばさんが取り仕切ってくれました。その美津子おばさんも、すでに他界しています。葬儀が終わって一週間後、美津子おばさんといっしょに校長会へ挨拶に出向きました。その時の挨拶を私ははっきりと記憶しています。

                     

                     

                     

                    「去る5月8日に、父は56年の生涯を閉じました。父は戦争中に名古屋に動員で駆り出され、文字どおり生死の境を生きる日々を過ごしました。動けなくなった老婆を背負い、焼夷弾が雨あられと降る中を逃げた話を聞かせてくれました。俺には青春がなかった、とも申しておりました。ここにおられる先生方の中には、父と同じ釜の飯を食い、同じ経験をした方も多くいると思います。

                     

                    人間は二度死ぬと申します。一度目は肉体が滅ぶことによる死です。二度目は父の記憶を持っている人々が死ぬことによる死です。父は死にましたが、まだ、ここにいらっしゃる先生方の記憶の中に生きています。父の二度目の死をなるべく遅らせるために、どうかお元気でいつまでも御活躍されることをお祈りしています。生前のご厚誼に対しまして、父に代わって心よりお礼申し上げます。ありがとうございました。」

                     

                     

                     

                    今考えると、28歳の若造が居並ぶ校長を前にして、よくもこんな偉そうなことを言ったものだと思います。しかし、それを言わせたのは、校長会の温かい雰囲気だったのです。

                     

                     

                     

                    その父が生前、最後に読んでいた本です。

                     

                     

                    私が勧めました。あちこちに線が引かれています。糖尿病で視力が落ちていたにもかかわらず、最後まで読み通しています。それだけの力がこの本にはあったのだと思います。詳しくは次回のブログで取り上げます。

                     

                    | 人生 | 18:51 | comments(0) | - |
                    より近くに、より寛容に、よりゆっくりと生きる。
                    0

                      「私にとって、自分の皮膚の外側は、すべて異郷だ。」と言ったのは、言語学者にして文化人類学者の西江雅之氏です。このブログを書き始めてすぐ、氏は他界しました。もとより学問や教育という狭い領域での自己限定にこだわる気質ではなく、その活動範囲は文字通り常軌を逸したものでした。

                       

                       

                      エリック・ホッファーや南方熊楠、イサム・ノグチに影響されて青春時代を過ごした私が、西江雅之氏に惹かれたのは、当然の成り行きでした。以下は氏の言葉を自分なりに解釈した結果、お前はどうするのかという問いに答えたものです。

                       

                       

                      自分の皮膚の外側は、すべて意味のないデタラメが支配する世界だ。目まいがするほどバカバカしいことの連続だ。だから、精神の平衡を保つためには、どこかに自分の居場所を作らなければならない。環境は想像以上の力を持っている。なぜなら、ここにいる自分と、別のところにいる自分は別の自分だと感じさせるからだ。どんな環境にいても自分は自分だというのは、人間の弱さと向き合ったことのない人の考え方だろう。

                       

                       

                      近代社会は経済を筆頭に合理的であることを突き詰めた。その過程で合理的でないもの、効率を阻害するもの、銀行の不動産評価においてマイナスになるもの等を、ノイズとして排除していった。自分にとって必要だと感じていたものが、ことごとくノイズとして処理されていく社会。そんな社会から退却(リトリート)するための避難場所(サンクチュアリ)を作らなければならない。つまり、身体感覚の延長として、ごくあたりまえにコミュニケーションのとれる範囲に生き方を限定すること。つまり、私たちにとって、どこにいるかが決定的に重要なのだ。

                       

                       

                      これは西江氏のような図抜けた生き方、いわば遠心力を最大化するようにして世界を駆け巡った生き方を見て、その一方で、求心力を最大化する生き方もあっていいはずだと考えて、私が導き出した結論です。もとより、遠心力を最大化する生き方は、能力的にも体力的にも無理だと悟った上での自己防衛に他なりません。

                       

                       

                      簡素な住居を作ろうと考え始めた時、私を衝き動かしていたのは、こういった考え方だったのです。『自己救済術としての家作り』とは、まだ誰も使ったことのない言葉ですが、その時の私の気分にピタッと当てはまるものでした。

                       

                      何だかまた小難しい話になってしまいました。今生活している場所に、私は満足しています。買い物に行くのに車が欠かせない不便な場所ですが、それを補って余りあるものがあります。もちろん車で15分ほど行けば、絶品の桜餅も手に入ります。市場主義的な考え方を完全にシャットアウトするのではなく、最小化していく工夫を重ねることで、里山の生活は、私にはこの上ない恵みをもたらしてくれます。

                       

                      「さかいや」謹製・絶品の桜餅。亡き母が茶事で使っていたハマグリをかたどった器に盛りつけました。

                       

                       

                      城下町・臼杵の老舗菓子舗「さかいや」さん。草餅も酒まんじゅうも素朴な味わいで美味しいです。昭和の食文化を思い出す懐かしい味ですね。

                       

                      | 自己救済術としての家作り | 17:50 | comments(0) | - |
                      「名を正す」ということ−その2
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                        『名を正す』ということ」の第1回を書いたのは、今年の1月14日でした。

                        http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=291

                        もう1カ月も前のことです。今回は2回目です。

                         

                         

                        私たちが物事を認識できるのは言葉があるからです。しかし、私たちがモノを見ている時には、言葉を介していないはずだと考えている人が多いかもしれません。本当でしょうか。

                         

                        これまでモノを見たことがない人が、はじめてモノを見た場合、視神経が完全に機能していたとしても、実は何も見えていないのです。

                         

                        例えば、今あなたの前にパソコンがあるとします。それは誰の眼にも見えているはずだと考えます。しかし、パソコンだと分かるのは、脳が言語的概念によって対象を補正するからです。

                         

                         

                        少し難しいですか。具体的に説明しましょう。例えば、生後間もない赤ちゃんの眼はカメラのレンズと同じです。完全に機能しています。しかし、言語的概念によって対象を補正することができないので、モノは見えていません。あるいは、脳梗塞などによって言語中枢が麻痺した場合も同じです。つまり、カメラのレンズや赤ちゃんの眼に近くなるのです。

                         

                        見える対象がモノの場合、ペットボトルを花と勘違いする人はいません。でも、それがゴッホの『ひまわり』ならどうでしょうか。単なる油絵だと思って立ち去る人もいれば、衝撃を受けて一歩も動けなくなる人もいるかもしれません。

                         

                        つまり、対象が単なるモノから文化的・芸術的な作品になれば、人によって見え方は異なります。ましてや、対象が政治のように抽象的なものになれば、人によって意見はバラバラになります。もちろんその背景に利権がからんでいるのは言うまでもありません。異なった意見を丁寧に腑わけしながら優劣を決めるのは時間もかかるし、何よりも高次の価値判断ができる人間が必要になります。

                         

                         

                        その重責を果たすのが、政治家の役目だったはずです。しかし、今の安倍政権には、重責を果たすだけの能力も見識もありません。その結果、すべての言説が等価になってしまいました。明白なウソと真実を見分けることができなくなったのです。

                         

                         

                        象徴的な例をあげましょう。防衛省は当初廃棄したと説明していた(都合が悪くなれば廃棄したことにするのは、この政権の常套手段です)自衛隊の日報の一部を七日に開示しました。その中には、陸自が活動する南スーダンの首都・ジュバ市内で「戦闘が生起した」と明記されていました。

                         

                         

                        憲法九条は「国際紛争を解決する手段」としての武力行使を禁じています。そこで稲田朋美防衛相は、ジュバ市内での「戦闘」は「国際的な武力紛争の一環として行われたものではない」と説明しました。そして、あろうことか、「戦闘」という言葉を「武力衝突」という言葉に言い換えました。「憲法九条上の問題」になるのを避けるためだと自ら説明したのです。

                         

                         

                        これは、万引きを認めれば刑法上の窃盗罪になるため、「店にあったモノをだまってポケットに入れ、レジを通らず、そのまま店を出たにすぎない」と言い張るのと同じです。こんな屁理屈を堂々と国会の場で開陳して見せる人間が、わが国の防衛大臣をしているのです。

                         

                         

                        しかも、南スーダン情勢を巡っては、国連が七日に「大虐殺が起きる恐れが常に存在する」と指摘し、国内で「戦闘」が継続していると批判しています。

                         

                         

                        稲田朋美防衛相の屁理屈こそ、「名を歪める」行為に他なりません。言葉が歪めば世界の像が歪みます。そうなれば重大事態に対処して適切な行動をとることができません。「名を正す」ことが必要なのです。つまり、自衛隊を撤退させなければならないのです。

                         

                        しかし、安倍政権はそれをしません。なぜか。その理由を、中国が代弁しています。南スーダンに派遣されていた中国軍の若者が命を落とした時、中国政府は次のように言いました。「世界平和を守るために中国の兵士は最前線に向かっているのであり、流血と戦争の試練に直面する機会がこれから増えていく。これは中国の大国としての責任だ。」と。

                         

                        安倍政権も同じように考えています。知能の足らない人間を防衛大臣にすえて、国会で屁理屈を言わせてまで、自衛隊を南スーダンにとどまらせるのは、自衛隊員に死んでもらうためです。つまり隊員の命を政治利用しているのです。「名を正す」ことを怠れば、どのような結果になるか、以下の写真が示しています。国民はいい加減に目覚めるべきです。

                         

                         

                         

                        中国派遣部隊の兵士リー・レイさんは22歳の誕生日を迎えた78日、チャットアプリ「微信(ウィーチャット)」に「仲間が全員、無事でありますように」と投稿した。

                        中国でリーさんの帰りを待っていた友人や家族がリーさんのメッセージを読んだのはそれが最後になった。メッセージを投稿した2日後、リーさんの乗っていた装甲車両が携行式ロケット砲による攻撃を受け、リーさんは2時間後に死亡。翌日には別の兵士一人が死亡した。

                         

                        The Wall Street Journal

                        http://jp.wsj.com/articles/

                        SB10780138144506903447704582439702781565844

                         

                        | 政治 | 22:35 | comments(0) | - |
                        若き建築家に幸あれ!
                        0

                          少し早めのバレンタインデーのチョコレートをいただきました。ベルギーのピエール・ルドンです。妻と二人でティ−タイムをしました。さすがにチョコレートの本場ベルギーだけのことはあります。いままで食べた中で一番美味しかった。

                           

                           

                           

                           

                           

                          ベルギーと言えば、昨年の大晦日、教え子のK君夫妻が結婚の報告で遊びに来てくれました。K君のことは、

                          未来塾通信27『うれしい便り−自分自身の人生を生きる』

                          http://www.segmirai.jp/essay_library/essay027.htmlに書いています。

                           

                          K君夫妻

                           

                           

                           

                          その時、構造建築家としてベルギーの設計事務所で働くことが決まったと教えてもらいました。建築家は決して安定した職業ではありませんが、それがK君の覚悟とひたむきさにいっそう拍車をかけることでしょう。別れ際、今度はベルギーで会うことを約束しました。若き建築家に幸あれ!

                          | 中高生の皆さんへ | 23:47 | comments(0) | - |
                          現実と日常の喪失−中高生の読解力が低下している本当の理由
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                            中高生の読解力が低下しているとよく言われます。しかし、読解力の低下について考えるには以下の5つのポイントを検討しなければなりません。

                             

                             

                            1:「読解力が低下している」とはどのような状態を指すのか。

                            2:誰が何によって判断するのか。

                            3:それはすべての中高生に起こっているのか。

                            4:読解力が低下すると本当は何が問題なのか。

                            5:読解力が低下している本当の理由は何か。

                             

                             

                            最低でもこの5つの問いに、具体的に答えることができなければ、読解力の低下をくい止めることができないばかりか、伸ばすこともできません。当たり前ですね。今回は、問5に答えるのが目的なのでその他の問いについては軽く触れるにとどめます。

                             

                             

                            問1について。

                            今後ブログで英語の読解力低下とからめて具体的に書いていきます。

                             

                             

                            問2について。

                            まさか文部科学省が判断するわけではないでしょうね。月2回の勤務で年収1千万を超えるポストに天下る方法を組織ぐるみで考えているエライさん達には、忙しくてとうてい無理でしょう。天下り先に丸投げして判断させるのです。それとも地方自治体の教育委員会がするのでしょうか。それも無理です。理由は1月31日のブログ、『この人を見よ!−横浜市教育委員会・岡田優子教育長』をお読みください。

                            http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=299

                             

                            全国共通学力テストやPISAのテスト結果を見て、読解力に関する問題の点数が低いと判断するのは誰でも出来ます。データ処理を済ませた資料を見れば済むことです。この程度のことで、やれ、読解力が下がっただの、上っただのと騒いでいるのですから、所詮は他人事です。

                             

                             

                            問3について。

                            すべての中高生に起こっているのではない。

                             

                            具体的には、未来塾通信29『驚くべき教育格差−中学受験の意味するもの』をお読みください。

                            http://www.segmirai.jp/essay_library/essay029.html

                             

                            問4について。

                            これは問3とも関連しています。読解力を伸ばしている層にとっては、「中高生の読解力の低下」は他人事です。どうでもいいのです。学力面での中間層が崩壊したのは所得における中間層が崩壊したのと比例しています。

                             

                            政治の目的は、特定の個人や組織を優遇するのではなく、みんなで生きて行くことができる包摂的な社会を作ることです。そのためには国家が民主的に運営されなければなりません。民主的に運営されるためには、国民が正しい情報を選別し、政府を監視し、選挙において体制を変革する意思を示す必要があります。読解力の低下はこれを阻むので問題になるわけです。

                             

                             

                            さて問5です。

                            読解力という以上、まず読まれるべき文章があることが前提になります。ではなぜ、人は文章を書くのでしょうか。これについては2月7日のブログに書きました。文章を書く目的は、本質的には、読者に影響を与えて読者を変えることにあります。映画もそうです。それは単なる金もうけでもなければ、暇つぶしでもありません。

                             

                             

                            つまり、文章を書く目的は、社会のあちこちに穴が開いていることを告げ、そこに落ちたらどうなるかをシュミレーションすることによって、人々が穴に落ちないように注意を喚起することにあります。つまり、想像力によって穴を埋めるのです。

                             

                             

                            しかし、3・11の原発事故で、この国には埋めることのできない穴が開いてしまいました。それまでは、自分はうまく生きられているし、それなりに幸せだと思っていた人がほとんどでした。私もそうでした。

                             

                             

                            しかし、3・11以降、自分はただの操り人形だった、騙されていたと気づいたとき、それでも騙されたままの方がよかった、本当のことなど知らなければよかったと、人々は考えているのでしょうか。多くの人は「何か取り返しのつかないこと」が進行していると、感じているのではないでしょうか。

                             

                             

                            無知・無能・無責任な総理大臣が「完全にアンダーコントロール状態にある」と変な日本語で断言しても、もう元の世界に戻ることはできない、あれだけのことがあった以上、元の世界に戻ることはおかしい、元に戻るより本当のことに気づくことの方が大事だと考えている人も多いはずです。人は何ら根拠も持たずに、まったくの虚言を断言口調で、しかも大声で叫ぶものだということも学んだはずです。

                             

                             

                            要するに、もともとウソだった日常をうかつにも日常だと勘違いしていたことが分かった後で、日常が回復したというさらなるウソを重ねられているのが、私たちの社会です。「これが現実だ」「これが日常だ」と言われても、「どうせ自分の見たいものしか見ていないだろう」と言いたくなる気分を多くの人が共有しています。

                             

                             

                            いうまでもなく、現実や日常は言葉によって支えられています。その現実や日常がウソだということは、それを支えている言葉もウソだということになります。今や、現実も日常も、それを支える言葉もウソだと気づくことでしか希望を持つことができない社会に私たちは生きています。この間の事情は『リップヴァンウィンクルの花嫁』にすべて描かれています。

                             

                             

                            中高生の読解力が低下している本当の理由は、私たちが現実や日常を、すなわち言葉を信じることができなくなったことにあります。つまり、若い人たちに責任転嫁するのは間違っています。テストの点数を上げるために、付け焼刃の特訓などで対処すべきだと考えている教師や教育関係者がいるとしたら、それこそ「ウソの上にウソを重ねる」ゼンマイ仕掛けの自動人形の行為だと言わざるを得ません。

                             

                             

                            | 中高生の皆さんへ | 00:50 | comments(0) | - |
                            日本映画の金字塔 『リップヴァンウィンクルの花嫁』
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                              高校生のとき、ワシントン・アービングの短編集『スケッチブック』の中の「リップ・ヴァン・ウィンクル」を読んだことがあります。確か英語の授業で原文のテキストを使って読みました。当時の上野丘高校は、まだ英語の授業で文学作品を読む余裕があったのです。

                               

                               

                              高校を卒業して、慣れない都会で浪人生活を送っていた時、書店でハードカバーの『リップ・ヴァン・ウィンクル』を見つけました。表紙のイラストがその奇妙な話の中身にぴったりだったので、思わず買ってしまったことを覚えています。

                               

                               

                              そんな思い出があったせいでしょうか、『リップヴァンウィンクルの花嫁』という題名に惹かれてこの映画を見たのは今年になってからです。主人公・皆川七海役の黒木華、里中真白役のCocco、そして安室役の綾野剛の演技が際立っていました。

                               

                               

                               

                              この映画が表現しようとした世界は、まさに現代の日本社会そのものです。あらゆるものが、愛さえもが等価交換的なつじつま合わせに利用される救いのない世界で、主人公の皆川七海は里中真白に出会います。里中真白は等価交換が支える社会の中で贈与の価値を信じている人間として描かれています。

                               

                               

                              ネタばれになるので詳しく書けませんが、里中真白はある意図を持って皆川七海に出会います。それの仲介役が安室です。安室は何でも屋で、どんな仕事でもこなします。が、それは生きていくための仮の姿で、実はそうでもしなければ現実をやり過ごすことができないほど繊細な魂を持っています。

                               

                               

                              岩井俊二監督がこの映画に『リップヴァンウィンクルの花嫁』という題名をつけたのは、まさに慧眼です。もちろんリップヴァンウィンクルは里中真白であり、花嫁は皆川七海です。この二人の女性が、架空の指輪交換で疑似結婚した後、ウエディングドレスを着たままベッドで戯れるシーンがあります。そこで真白は語り始めます。

                               

                               

                              あたしね コンビニとかスーパーとかで買い物しているとき お店の人があたしの買った物をせっせと袋に入れてくれてるときにさ あたしなんかのためにその手がせっせと動いてくれてるんだよ あたしなんかのためにお菓子やお惣菜なんかを袋につめてくれてるわけ それを見てると胸がギュッとして泣きたくなる あたしには幸せの限界があるの 誰よりも早く限界がくる ありんこよりも早く だってこの世界はさ 幸せだらけなんだよ みんながよくしてくれるんだ 宅配便のおやじはあたしがここって言ったところまで運んでくれるし・・・こんな簡単に幸せが手に入ったらあたし壊れるから だから せめておカネ払って買うのが楽 おカネってそのためにあるんだよ 人の真心ややさしさがはっきり見えたら ありがたくてありがたくて壊れちゃうよ だからそれをおカネに置き換えて 見なかったことにするんだ だからこの世界は本当はやさしいんだよ

                               

                               

                              この映画は、ギリシャ悲劇を下敷きに、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』や『機動戦士ガンダム』そして『リップ・ヴァン・ウィンクル』を踏まえていることが分かります。それにモーツァルト、バッハ、メンデルスゾーンの曲が、『銀河鉄道の夜』さながらに異世界の雰囲気を醸し出します。

                               

                               

                              映画という表現手段がなぜあるのか、その問いに対する解答はこの映画の中にすべてあります。それほどこの映画はすばらしい。おそらく、今の世界(日本社会)には救いがないと気づくことによって逆に救われるしかないのだ、ということを、異能の岩井監督が描き切った作品だと思います。去年の世界の映画界の中でもベストワンの作品だと思います。私は180分という長い時間、身じろぎもせず見入ってしまいました。尚、この映画はネットで無料公開されています。

                               

                              | 読書・映画 | 15:10 | comments(0) | - |
                              なぜ書くのか?
                              0

                                私は社会に対して何一つ役立つようなことをしていません。塾教師として、毎日を何とかやりくりして生きているだけです。それでも、一寸の虫にも五分の魂ではありませんが、私にも言いたいことがあります。強権によって、日本の危機的な現実がまるで存在しないかのごとく隠蔽されるのを黙って見ているわけにはいきません。黙っていれば精神衛生上悪いということもありますが、自分の問題と重なることが多くなったので、それをブログで書いています。

                                 

                                 

                                 

                                もとより文章を書く目的はただ一つです。読者にある影響を与えるためです。ずいぶん上から目線な言い方だと感じる人もいるでしょうね。軽妙洒脱なエッセイやグルメ紀行を読んで面白いと感じる人もいるでしょうし、日記は他者を想定していないではないか、と反論する人もいるでしょう。

                                 

                                 

                                 

                                しかし、他人の書いた文章を読んで、「上から目線だ」とか「自己顕示」だという評価しかできない人は、恐らく文章を書く目的について真剣に考えたことのない人です。それゆえ、書かれた文章の本当の目的が分からず、表層的な印象で判断してしまうのです。

                                 

                                 

                                 

                                繰り返しますが、文章を書く目的は、他者に読ませてその人に影響を与えることです。たとえば、読者にある事実を知らせる。自分の判断・評価を示して同調・納得してもらう。問題を指摘して考えてもらう。危機的状況を書いて、行動への意志を持ってもらう。つまり読者を変えること、これこそが文章を書く本当の目的です。

                                 

                                 

                                 

                                 

                                例えば、中高生の皆さんが、大学入試や高校入試で難解な文を読まされたとします。その時、次のように問うてみるのです。この筆者はつまるところ、私にどうしてほしいのか、どうなってほしいのか。そのため、筆者は具体的にどのような経験をし、そこから得た情報をどのように提示し、私を説得し納得させようとしているのか、と。そもそも筆者自身が何をしたいのか不明な文章は、読むに値しません。

                                 

                                 

                                 

                                どんなジャンルの文章であれ、それを読んで設問に答えるテクニックを、ロジックなどと称して塾や予備校で教えていますが、それを真に受けると、上に書いた本質的な問いを発することができなくなります。中高生の読解力が落ちているのは、解決したい問題がないからです。それがなければ、文章を読むことは単なる趣味の問題になってしまいます。そうなれば後は洗練された趣味かどうかだけが問題になります。

                                 

                                 

                                 

                                つまり、何の興味もない文章を、自分の物差しを持たずに読解して正答率を挙げることだけが唯一の目的になります。こうやって身につけた「能力」は、官僚または官僚的組織の中で生きる時に重宝されるだけです。あなたの<生>を豊かなものにはしません。

                                 

                                 

                                 

                                私が影響を受けた文章は、例外なしに、この目的がはっきりと読みとれるものでした。それは、ABであるという命題の形をとってはいませんが、その文章を書いた人の誇りが、すなわちその人の<生>を支えているものが、私に影響を与えたのです。

                                 

                                 

                                 

                                そもそも書いている本人が何をしたいのかわからないような文章を読んで、影響を受けることはありません。影響を受けなければ、これまでと同じ世界で、めでたしめでたしで生きていくだけです。せいぜい、予定調和の自意識過剰集団の中に閉じこもり、空気を読み、小難しい美学的な論争に明け暮れるか、主観的妄想を現実のごとく生きるのが落ちです。

                                 

                                 

                                 

                                教育の目的は、現実の問題が自分自身の問題であることに気付かせることです。そして、現実を変えるためには、自分の考えを示すことが必要だと自覚させることです。

                                 

                                 

                                 

                                したがって、現実の問題を解決するには、政治家やエライさんに任せておけばいい、という意見に私は与することができません。自分自身の問題ではないと考える人は、他人まかせでもいいでしょう。しかし、日々の生活の中で、あるいはこの国で今進行している現実が自分の<生>と無関係なはずがありません。

                                 

                                 

                                 

                                 

                                自分自身で問題を立てることをせず、それを解決したいとも思っていなければ、結局は他人まかせの人生を生きることになります。解くべき問題があるからこそ、その問題を解くにはどのような知見がいるかがわかります。何を知るべきかの基準が出来ます。どんな古典を読むべきかという選択の基準も、あなた自身の問題を解決したいという意志にかかっています。

                                 

                                 

                                 

                                例えば、高名な学者に「あなたはなぜヘーゲルを研究しているのか。それはあなたが遭遇した、あなたの<生>の問題を解くために、どこがどのように役立っているのか」と、問うてみるのです。

                                 

                                 

                                 

                                その問いに対して、誰にでもわかるやさしい言葉で答えることができなければ、その学者は、切実な<生>の問題に出会ったことのない、過去の思想家の権威に寄生するだけの人物です。問題の明確な設定がなければ、欧米の思想家の言説で飾り立てた論文を書いたり、読まされたりすることになります。これは人生の無駄です。

                                 

                                 

                                 

                                今回は文章を書くことをめぐって抽象的な話をしました。具体的な話は、次回以降にしたいと思います。

                                 

                                 

                                | 中高生の皆さんへ | 22:24 | comments(1) | - |
                                私の古寺巡礼14−京都・高山寺・石水院
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                                  今日は日曜日。久しぶりの雨です。前庭の花壇に植えたサザンクロスが紅葉して綺麗です。ときどき水やりをしていましたが、雨が降るとやはり生き生きしてきます。アプローチに植えたブルークッションが春から夏にかけて成長し、鮮やかな青色と芳香で楽しませてくれそうです。

                                   

                                   

                                  中庭には赤のプリンセスを植えました。そういえば、去年は玄関アプローチに百日紅を植えたのでした。枯れたイロハモミジの替わりです。普通、百日紅の花の色は赤か薄紅色または白ですが、今回植えた百日紅は紫色の花が咲きます。

                                   

                                   

                                  ところで、わが家の植栽のほとんどは、『大分植木』さんから購入したものです。娘夫婦の歯科医院の前庭の大きなカツラの木もそうです。『大分植木』には、私の好みの樹木があり、春先や夏、秋に訪ねては樹形を確かめておきます。樹木の性質や植え時、花の色などについて色々と尋ねます。おかげで、現場の職人さんや副社長さんとも20年来の顔見知りになりました。

                                   

                                   

                                  『自己救済術としての家作り』の中でも述べてきましたが、家の周りに樹木を植えると、季節の巡りとともに生きていることを実感できます。便利さや豪華さを競うのではなく、自然に囲まれた生活の方が私には大切です。

                                   

                                   

                                  前置きが長くなりました。今回紹介するお寺は、京都市右京区栂尾にある高山寺・石水院です。

                                   

                                   

                                   

                                  高山寺のある栂尾は、ブログでも紹介した高雄山神護寺からさらに奥に入った山中にあり、古代より山岳修行の場所とされていたようです。ウィキペディアによれば「創建は奈良時代と伝えるが、実質的な開基(創立者)は、鎌倉時代の明恵である。もともとここにあった神護寺の子院が荒廃した跡に神護寺の文覚の弟子であった明恵が入り寺としたものである。「鳥獣人物戯画」をはじめ、絵画、典籍、文書など、多くの文化財を伝える寺院として知られる。境内が国の史跡に指定されており、「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されている。」とのことです。

                                   

                                   

                                  高山寺は二度訪れています。やはり目を引くのは、縁側や濡れ縁の寸法と、庭や遠くに見える山並みとの関係です。実際に行ってみるとその素晴らしさが分かると思います。

                                   

                                  高山寺と言えば、明恵上人の「鳥獣人物戯画」で有名です。

                                   

                                   

                                   

                                   

                                   

                                  私は別に縁側や濡れ縁のフリークではありません。ただ建築と外部の関係、収まりにどうしても目が行ってしまうのです。自宅を設計するときに、まず正方形を描き、その周りに回廊を配置した図面を書き、それに何度も手を加えました。費用の関係で断念しましたが、室内と戸外を結ぶあいまいな空間が好きだったのです。

                                   

                                   

                                  今思えば本家の作りもそうでした。広い庇の下の土の感触は、冬は日向ぼっこの格好の場所となり、夏はひんやりとした空気の流れを作りだしていました。飼っていた猫と縁側にすわり、火箸に刺した焼き芋をフーフー言いながら食べたり、夏にはかき氷を頬張ったりした記憶があります。

                                   

                                   

                                  こういった記憶が、縁側や濡れ縁を見ると、なつかしさや美しさを感じさせるのかもしれません。三つ子の魂百まで、と言います。幼少年期に見た建物の記憶やそのまわりに漂っていた空気感は、今でもはっきりと思い出します。もちろん建築学的な興味からものを見ていたのではありません。ただ、その醸し出す雰囲気の深さ、大きさのようなものが、それを作りだした人間の英知とつながっていることを体で感じていたのかも知れません。

                                  | 古寺巡礼 | 10:02 | comments(0) | - |
                                  「グーグルと人工知能」−その驚くべき進化
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                                    今から8年前、高校生の英語の授業で一冊の本を紹介しました。それが以下の本です。塾や高校の英語教師の間でこの本はほとんど注目されることはありませんでした。

                                     

                                     

                                     

                                    その時には生徒に次のように言いました。

                                     

                                    「英文を書いていて、一番頭を悩ますのが、『文法的には正しくても、自然な表現なのか?もっと適切な表現があるのでは?』ということですね。でも『Google英文ライティング』に紹介された簡単な方法を使えば、自分の書いた英語が自然な英語であるかどうかがすぐにわかるだけでなく、その他によく使われる表現を覚えることもできます。誰かにチェックしてもらう時間やお金のない人には、とても頼もしい本です。もはや英作文の教師は不要な時代が来たのです」と。

                                     

                                     

                                    あれから8年の歳月が流れました。そして驚くべき記事を発見しました。その記事は次のように始まります。

                                     

                                     

                                    「このところ、グーグル翻訳の精度が急激に上がったことが大きな話題になっている。これは突然の仕様変更ではない。グーグルは、「AI」をベースにした企業に生まれ変わろうとしているのだ。」http://courrier.jp/news/archives/75057/

                                     

                                     

                                    グーグルのCEO、スンダー・ピチャイ

                                     

                                     

                                    私の愛読書に、ヘミングウェイの『キリマンジャロの雪』があります。余分な形容詞を削り落とした文章は簡潔で、力強く、独特のリズムがあり、文章そのものよりも行間を読ませるといった類のものです。そのせいか、何度読んでも飽きることがありません。その冒頭部分は今でも暗唱しているほどです。

                                     

                                     

                                    グーグル翻訳の精度が急激に上がったことと、何の関係があるのかといぶかる人もいるでしょう。実は上記の記事の中に『キリマンジャロの雪』が出てくるのです。

                                     

                                     

                                    人間とコンピューターとの新しい関係の研究で有名な、東京大学教授の暦本純一氏が、グーグル翻訳の精度を確かめるために、ヘミングウェイの『キリマンジャロの雪』の冒頭部分を日本語へ翻訳した後、グーグルを使ってその文章を英語へと再度翻訳しました。氏はこの結果をヘミングウェイの原文と並べ、読者にどちらが機械による翻訳かを推測させたのです。

                                     

                                     

                                    まず暦本氏の日本語訳。高校生ならこのくらいの訳は簡単にできるでしょう。

                                     

                                    〈キリマンジャロは雪に覆われた19,710フィートの山で、アフリカで最も高い山と言われている。その西の頂上は、マサイ語で「Ngaje Ngai」、神の家と呼ばれている。 西の頂上近くに、ヒョウの乾燥し凍った死骸がある。ヒョウがその標高で何を求めていたのか、誰も説明したことがない。〉

                                    ヘミングウェイの原文はNO. 1で、グーグル翻訳がNO. 2です。

                                    NO. 1:
                                    Kilimanjaro is a snow-covered mountain 19,710 feet high, and is said to be the highest mountain in Africa. Its western summit is called the Masai
                                    Ngaje Ngai, the House of God. Close to the western summit there is the dried and frozen carcass of a leopard. No one has explained what the leopard was seeking at that altitude.

                                    NO. 2:
                                    Kilimanjaro is a mountain of 19,710 feet covered with snow and is said to be the highest mountain in Africa. The summit of the west is called
                                    Ngaje Ngai in Masai, the house of God. Near the top of the west there is a dry and frozen dead body of leopard. No one has ever explained what leopard wanted at that altitude.

                                     

                                    私はこの英文を読んで驚愕しました。AIの翻訳機能は当分使える代物ではないと思っていたからです。グーグル翻訳のNO. 2の最初の leopard に冠詞の a が、次の leopard に the が脱落していることを除けば、ほぼ完ぺきな英語なのです(やはり冠詞は英語の本質的な部分なので、翻訳は難しいのでしょうね)。ヘミングウェイの文章が簡潔で、中学3年生にも読めるレベルであることを差し引いても、これは驚きです。

                                     

                                     

                                    暦本氏によれば、旧バージョンのグーグル翻訳の能力であれば、同じ日本語を下記のように訳していたであろうと言います。

                                    Kilimanjaro is 19,710 feet of the mountain covered with snow, and it is said that the highest mountain in Africa. Top of the west, Ngaje Ngai in the Maasai language, has been referred to as the house of God. The top close to the west, there is a dry, frozen carcass of a leopard. Whether the leopard had what the demand at that altitude, there is no that nobody explained.

                                    (キリマンジャロは雪に覆われた山の19,710フィートである。アフリカで最も高い山と言われている。マサイ語で「Ngaje Ngai」と呼ばれる西の頂上は、神の家と呼ばれてきた。西に近い頂上、そこには乾燥し、凍ったヒョウの死骸がある。ヒョウがその標高での需要を持っていたかどうか、そこにはない、誰も説明しなかった。)

                                     

                                     

                                    私が引いたアンダーラインの部分を見て下さい。このころは愛嬌がありました。「まだ俺の方が上だな」と笑う余裕があったのです。最新の翻訳を見ると、グーグル翻訳が、気味が悪いほど精度を上げていることに気づくはずです。もはや笑う余裕などありません。

                                     

                                     

                                    CEOのピチャイはキングス・クロスで建設中のロンドン新本社ビルの落成式に出席し、これからのグーグルは「AIファースト」になると繰り返しました。ピチャイが言いたかったのは、うまくいけば、グーグル製品は旧来のコンピューター・プログラミングにおける成果でなく、「機械学習」から生まれるようになる、ということです。



                                    同社のAI研究プロジェクト「グーグル・ブレイン」は、まさに機械学習の研究のために2011年に創設されました。人工の「神経ネットワーク」自体が、まるで幼児のように試行錯誤を繰り返しながら、世界について学習し、人間のような柔軟性を進化させる―

                                     

                                     

                                    人工知能が切り開く未来。何だか空恐ろしくなってきます。人工知能が切り開くのはユートピアではなく、ディストピアだろうと思うのは、年を取った証拠でしょうか。

                                     

                                    | 中高生の皆さんへ | 13:41 | comments(0) | - |
                                    老建築家夫婦のドキュメンタリー!映画『人生フルーツ』
                                    0

                                      今回紹介するのは、東海テレビが制作したドキュメンタリーを劇場公開する企画の第10弾。敗戦から高度経済成長期を経て、信念を持って丁寧に生きる、90歳と87歳の建築家夫婦の暮らしぶりを描いたものです。

                                       

                                       

                                       

                                      私はめったにテレビを見ません。わが家では面白そうな番組を見つけるのは、もっぱら妻の役割になっています。映画『人生フルーツ』を見つけたのも妻でした。90歳と87歳になる老建築家夫妻が主人公とあって、興味を持って見はじめました。映像の美しさと、樹木希林の穏やかな語り口に引き込まれて、あっという間の1時間半でした。

                                       

                                       

                                       

                                       

                                      セレンディピティーではありませんが、ここでも偶然の出会いがありました。日本住宅公団のエースと呼ばれた建築家の津端修一氏は、日本のモダニズム建築の巨匠アントニン・レーモンドに師事していたというのです。そのアントニン・レーモンドに師事していたのが、ブログでも取り上げた吉村順三氏です。吉村氏に師事していたのが、中村好文、益子義弘、永田昌民の各氏で、私が設計依頼したかったとブログで書いた堀部安嗣氏は益子義弘氏に師事しています。

                                       

                                       

                                      ちなみに、アントニン・レーモンドはフランク・ロイド・ライトの下で建築の仕事をしています。こうやって、何もかもが繋がりました。このドキュメンタリーは旧知の友人に会ったような感慨を私に抱かせたのです。

                                       

                                       

                                      しかし、本当に素晴らしいのは、この夫婦の生き方そのものでした。自宅は敷地を雑木林で囲い、津端さんが敬愛するレーモンドの自宅に倣った30畳一間のモダンな平屋建てで、母屋に離れや作業室、書庫などが併設されています。

                                       

                                       

                                      津端さんの声掛けで高森山にどんぐりの苗木を植樹する運動が広がり、ニュータウンのなかにも木々の緑が増え町の様子が変わっていきます。定年後は大学で教えながら二人で育ててきたキッチンガーデンでは、いつの間にか70種類の野菜と50種類の果実が採れるようになりました。

                                       

                                       

                                      採れたものは食卓に並び、作っていない食材などは英子さんがバスや電車を乗り継ぎ名古屋市栄の行きつけのお店まで買いに行きます。津端さんは、どんな料理にして美味しくいただけたかを絵葉書にして買ったお店に送っています。

                                       

                                       

                                      妻の英子さんは「自分ひとりでやれることを見つけて、それをコツコツやれば、時間はかかるけれども何かが見えてくるから、とにかく自分でやること」を津端さんから教わったといいます。

                                       

                                       

                                      二人の生き方に気負いはありません。季節の巡りの中で自然の恵みに感謝し、雑木林を吹き抜けるそよ風を感じ、陽だまりで丸まっている猫のように満ち足りた時を過ごす。 300坪の土地を耕し、道具を作り、種をまき、水をやる。映画の最後の方のシーンで、夫の修一氏さんは庭仕事で疲れ仮眠をとります。妻の英子さんが起こそうとしたとき、修一さんはすでに息を引き取っていました。その美しい顔をなでる英子さんの姿に思わず涙してしまいました。

                                       

                                       

                                      日本の各地で、今若者たちが脱資本主義的、半市場主義的生活を始めていることを、私は頼もしく思っています。彼らは足元をしっかり見据え、自分の時間を将来のためではなく、今この瞬間を生き生きと生きるために使っています。小さな商いを始める者もいれば、里山の豊かさに気づき、そこで等身大の生活を始める者もいます。

                                       

                                       

                                      映画『人生フルーツ』はそんな若者の生き方を、50年以上にわたって自ら実践してみせることで励ましています。いい映画です。

                                       

                                      | 自己救済術としての家作り | 23:34 | comments(0) | - |
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