イベント人間ほど信用できないものはありません。世間の耳目を集めるために(最終的にはカネ集めなのですが)絶えず何かを企画する人間、その企画に乗せられて落ち着きを失い、それがなければ身がもたなくなった人間をイベント人間と言います。もちろんこれは私の勝手な定義です。今では、SNSがイベント人間の増殖に拍車をかけています。
ではなぜ人はイベントを欲するのでしょうか。
私たちの日常は、さしたる変化もなく、同じことの繰り返しです。それが家族や親しい友人を中心として、ある場合には数十年にわたって続きます。日常は、長い時間の経過とともに、そして平凡であればある程、その価値が色褪せ、意味を捉えがたくなる宿命を持っています。
そして、その宿命に忍び寄り、土台を切り崩す最大のものこそが「退屈」です。人間は、それが大事だと分かっていればいるほど、時にはそれに唾をかけ、かなぐり捨てたくなる衝動を持っているやっかいな生きものです。つまり、イベントは退屈から逃れるための手っ取り早い手段なのです。
もちろん最大のイベントは戦争です。オリンピックをはじめとする大小さまざまなイベントはすべて戦争へと収斂するベクトルを持っています。そんなバカな、と思うでしょうね。しかし、戦後72年間続いてきた平和が今葬り去られようとしています。日本人の多くは平和に「退屈」し始めているのです。2011年の東日本大震災と福島の原発事故すら、退屈を紛らわすのに足りなかったのです。
戦争はある日突然起こるのではありません。それは日常生活の中で分泌される「退屈」を養分にして徐々に成長していく人類の宿痾のようなものです。今の日本の政治・文化状況を云々するまでもなく、ここまで膨れ上がった大衆の暗い情念を抑えることはほとんど不可能な気がします。
今はやりの不倫も、退屈を紛らわすために、当人たちが自ら招き寄せたものです。不倫は色あせた日常への忌避感覚がその感情的土台となっています。9月21日のブログでも述べましたが、自分の夫に対する感情を「マザコン」という言葉で固定させ、二人の関係を見直すこともせず、かたくなに目と耳を閉ざし、それを脱出願望にまで高めれば、離婚か不倫に行きつく可能性が大きくなります。
http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=409
私は取るに足らない自分の人生を生きる中で気づいたことがあります。それは、夫婦や恋人との関係における倦怠や退屈という感情は一種の「行為」だということです。相手に対してある感情を繰り返し再現してしまうような場合には、そこに、意志的な傾向を認めざるを得ません。つまり、感情的な真実(相手に対する軽蔑感情といったもの)は、それを真実だと思いこむことによって、ますます確実で変更できないものに変わってゆくのですね。
政治家や芸能人に不倫が多いのは、権力を持ち、有名人の仲間入りを果たしたことで、自分は現実を超越した存在だといううぬぼれに骨がらみとらえられてしまうからです。その結果、すべての現実を、それがただ現実であるということだけで、一括して見下すようになります。夫婦関係こそは退屈な現実の象徴です。それを嫌悪し、そこから逃れるための不倫が、相手の家族やこども、何より相手にどんな犠牲を強いるのかを想像できません。
しかし、人間は自分だけが現実から抜け出したり、超越的な人格を持ったりすることはできません。私たちの渇望を満たすものは、現実の条件の中にしかないからです。この点を勘違いすると、どこへ行っても、何を選んで見ても、自分を満足させないという感じが残り、その残ってしまった渇望を満たすために、次から次へと情熱を満たす対象や生き方を求めるようになります。こうなればもはや本当に相手との関係を大切にしようとする感覚はマヒしてしまいます。残るのは破滅と疲労感だけです。
感情は一種の「行為」だといった意味がお分かりいただけたでしょうか。そして、最大のイベントは戦争だといった理由も。
今回のブログを書くきっかけになったのは、映画『パターソン』を観たからです。平凡を絵にかいたようなバスの運転手の一週間を追ったものですが、この映画の監督は、おそらく日常の中にある、ありふれたものの価値を再発見することの意味を問うているのだと思います。
ただ一つ、主人公のパターソンには普通でないところがあります。彼は詩を書く人間なのです。普通なら退屈極まりないと思えるような日常の中で、彼は時間を見つけてはノートに詩を書きつけます。何の利益も生み出さない詩を書くことで、彼は何をしていたのでしょうか。
以前、『たまには塾のことでも書いてみようか。』の中で、詩人の西脇順三郎のことばを引用しました。それは次のようなものです。「人間の存在の現実それ自身はつまらない。詩とはこのつまらない現実を一種独特の興味(不思議な快感)を持って意識させる一つの方法である。」
http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=326
不倫は不倫であるという不安な状態そのものによって人々のロマン的欲望をかきたてている側面があります。不倫は不倫であることに存在理由があるのです。すでに述べたように、その根底には日常に対する倦怠や退屈、さらには蔑視があります。
戦争も同じです。国家間に「不安な状態そのもの」を作りだし、それを「国難」ということばで針小棒大に語るバカが、大衆の中に充満する退屈に火をつけ、燃え上がらせようと画策しています。それにロマン的欲望をかきたてられた政治家やマスメディアが協力しています。これほど心暗くなる光景はありません。私たちはこのことに対して自覚的であるべきです。
それに抵抗する方法は、私たち一人一人がパターソンのような詩人になり、平凡でありきたりな日常が持つ深い恩寵に気づくことです。救いはそこにしかありません。