今年も残すところあとわずかとなりました。一年間、面白くもない、不愉快な内容が多かったブログですが、お付き合い頂いた方には心からお礼申し上げます。
本音を言えば、私は政治などどうでもいいと思っています。この国がどうなろうと、アメリカが北朝鮮を攻撃して日本がその巻き添えを食おうが、それは仕方のないことだというか、自業自得だと思っています。日本人はそれを自ら招き寄せているのですから。
ただそういった空気にどうしてもなじめない、生理的に順応できない自分を発見し、違和感を吐露せざるを得なかったのです。イデオロギーや宗教に胡散臭さを感じるのも、私の体質の問題でしょう。素朴に考えておかしいという感情から出てくるものこそが信頼に値するものです。そうは言っても、どこかで堪忍袋の緒が切れれば、その時点でブログはやめるつもりです。
もともと、今の社会に自分の居場所などあるわけがないと思い、それなら自分の居場所を作るしかないと思って生きてきました。私が惹きつけられる人間の姿というか風情は、ことごとく自分の居場所というか精神のありかを自分で作って来た人たちでした。今は独裁主義に順応する生き方がもてはやされる時代です。いや、いつの時代も世の中とはそういうものかもしれません。
思い返せば、そういった世の中や制度に対する生理的な違和感が私の中で頂点に達したのが、高校3年の時でした。卒業を間近に控えたある日、担任から「○○、お前は卒業アルバムを買わないのか。買わないのは学年でお前一人だぞ。」と言われました。
「僕は上野丘高校に何の愛着もありません。空白の3年間でした。アルバムを買っても、懐かしくなってページを開くことはないと思います。」と私は答えたのです。その時の担任の表情は覚えていません。ただ「そうか」と言っただけでした。今となっては若気の至りというしかありません。
その私が塾の教師になって、生徒を上野丘高校に送り出しているのですから、運命の皮肉というか、罰を受けているようなものです。ただ、罪滅ぼしとして、上野丘高校に最も欠けていたと思うもの(今もそれほど変わりはありません)を、英語を教える中で補おうと心がけています。
ごく単純に言うと、それは今の社会をどうとらえ、どう生きるのかということと切り離して勉強などできないということです。「これほど基本的な事実について無知では、アメリカを始めとして世界の高校生と議論などできるわけがない。いや、議論というよりもコミュニケーションをとることすら不可能だ。英語以前の問題です。」と私はよく言います。英語教師であればなおさらこのことが気になるはずです。
なぜそうなるのか。その背景には、「高校を卒業して大学に入り、大学を卒業して社会に出て初めて現実と向き合える。それまでは準備段階だから黙って受験勉強に励むべきだ」というイデオロギーがあります。それは、かけがえのない現実が今この瞬間にも進行中だということを忘れさせるのです。
現実は今ここにあります。遠い未来にあるのではありません。社会のありようを政治や経済も含めて、あるいは税金の使い方や社会保障のあり方も含めて知ること。それを抜きにした勉強など、本来意味を持たないはずです。上野丘高校が劇的に進学実績を伸ばし、卒業生が懐かしく振り返る場所になるためには、世の中を知ることを含めて、今この瞬間を生きることができる世界で一番自由な場所にするしかありません。
さてもうやめにします。私がこれまでの人生で習得したものは、新しい感情で満たされた日々を送るための技術です。一円のお金も生み出しませんし、自己満足と言われればそれまでかもしれません。しかし。それがなければ人生は無意味だと感じさせるものです。その技術を習得するためには、若い時から訓練を積まなければなりません。それは誰でもいい誰かの人生ではなく、自分自身の人生を生きるためのトレーニングなのです。
今の安倍政権を見れば分かる通り、政治家は本質的に人間として下らない。まともに相手にする人種ではありません。それより、好きな人とデートする方がよっぽどましです。素敵なカフェに入ってコーヒーでも注文しましょう。しかし、そのコーヒー豆がどこから輸入されているのか、その値段を決めるのも政治です。たまには美味しいコーヒーを飲みながら、そういうことも話題にしてみましょう。
来年が皆さんにとってよい年でありますように!