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さよならテレビ ドキュメンタリーを撮るということ/阿武野勝彦【1000円以上送料無料】
さよならテレビ ドキュメンタリーを撮るということ/阿武野勝彦【1000円以上送料無料】 (JUGEMレビュー »)
《目次》
プロローグ
第1章 テレビマンとは何者か
第2章 大事なのは、誰と仕事をするか
第3章 表現とタブー
第4章 放送は常に未完である
第5章 世の中には理解不能な現実がある
第6章 ドキュメンタリーを、誰が求めているのか
第7章 「ダメモト」が表現世界を開く──〈司法シリーズ〉のこと
第8章 「ドキュメンタリー・ドラマ」とは何か
第9章 あの時から、ドキュメンタリーは閉塞した世界だった
第10章 題材は探すのではなく、出会うもの
第11章 組織の中の職人は茨の道
第12章 「わかりやすさ」という病
第13章 樹木希林ふたたび
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まず私たちの生命と暮らしを脅かす事実を知ること。それにたいしてどのような認識を持つのか。この国のみならず、世界を壊滅させる災厄とどう向き合うのか。次世代に対してどう責任を取るのか、そもそも責任を取れるのか。自分に何ができるのか。この現実にどう向き合うのか。それを教えるのが教育のはずだが、この国には教育も哲学も存在しない。
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「最悪」の核施設 六ヶ所再処理工場 (集英社新書)
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小出 裕章,渡辺 満久,明石 昇二郎
原発よりもはるかに危険な六ヶ所村再処理工場。私たちの日々の生活が薄氷の上で営まれていることを痛感させられる。同時に、この国には「国民の生命・財産・自由を守り抜く!」と威勢のいいことを言う総理大臣と無能の政治家しかいないことに絶望する。核燃料サイクルと言い、下北半島の再処理工場と言い、3兆円以上の国民の税金がつぎ込まれ、いまだ後始末も将来の見通しもたっていない現実をどう考えているのか。彼らは核兵器を持ちたいという願望と税金をロンダリングして私腹を肥やすことしか眼中にない。北海道の地震だけに目を奪われてはならない。六ヶ所村は今回の震源地の目と鼻の先にあるのだ。
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D.J.ブーアスティン
私にとっては古典の中の古典。三度読みました。そしてその慧眼にいまだに驚いています。
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殺人犯はそこにいる (新潮文庫)
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清水 潔
ジャーナリストと称する職業がある。自称ジャーナリストもいれば、テレビのコメンテーターとしてリベラルに媚びる政権批判をし、名を売り、講演で稼ぐ職業をジャーナリストと呼ぶ者もいる。とんだ茶番である。ジャーナリストとはどこまでも「事実」を追いかける。テレビに出て能天気な解釈や感想を垂れ流している暇などないはずだ。ジャーナリストを志す若い人には清水氏の著作は避けて通れない。その名に値する本物のジャーナリストがここにいる。
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デジタル・ポピュリズム 操作される世論と民主主義 (集英社新書)
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福田 直子
おそらく自民党・安倍政権はSNSを駆使し、分析するデータサイエンス(日本版なのでレベルはまだ低いですが)の重要性に着目し、選挙にどうすれば勝てるか、自分たちに有利な世論を形成し、国民を誘導・分断するにはどうすればいいのかが分かっているのです。そのためのノウハウも蓄積しつつあります。安倍首相の貧困な語彙力からは想像できないカタカナ言葉を聞いていると、それがSNSを分析している集団から教えられたものであることがよくわかります。ただ彼らの致命的な弱点は将来の社会を導く理想がないことです。おそらく、思いもかけない結果が待っていることでしょう。なぜなら、所詮、彼らはアメリカとビッグデータの奴隷でしかないのですから。これからの政治は、好むと好まざるとにかかわらず、この本に書かれていること抜きには語れなくなっているのです。
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安倍政権に対するメディアの忖度が云々されていますが、元々同じ穴のムジナなのです。忘れてならないのは、日中戦争から太平洋戦争にかけて、日本の世論と新聞のほぼ全部は好戦的・拡張主義的だったのです。しかも、当時はまだ言論統制体制が発足していなかったのです。この本は、そうした「一貫して好戦的な世論とそれに便乗する新聞」が先導し、近衛文麿はじめ文民政治家がそれに便乗、軍部がさらに便乗、という構図を一次資料で克明に論証しています。安倍政権を支持するネトウヨの皆さんの日本語力では、まともな読解は無理ですので勧めません。一方、正確な歴史を知るためには「世論」の不気味さを知ることだと気づいている若い人には是非一読を勧めます。
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茫漠の曠野 ノモンハン
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松本草平
著者は大分市にある『天心堂へつぎ病院』の院長、松本文六氏の御尊父、松本草平(本名松本弘)氏です。詳しくは、ブログで紹介したいと思いますが、第一次資料として極めて価値の高いものです。40年ぶりに復刻版を出された松本文六氏と出版社に感謝する他ありません。
戦略も何もない、無謀・無慈悲な戦争を語り継ぐことは、最も崇高で重要な人間の営為だと私は考えています。作家の司馬遼太郎氏は、電話で草平氏に次のように伝えてきたそうです。「先生の臨場感のあるノモンハン戦記に出会えて本当にありがとうございました。私は大東亜戦争の折、戦車隊の一員として従軍しましたが、先生の従軍記以上のものを創ることはできません。」と。
一人でも多くの方がこの本を読まれることを望みます。ちなみに松本文六氏は伊方原発差止め訴訟の原告でもあります。その縁で、この本に出会うことができました。
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「南京事件」を調査せよ (文春文庫)
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清水 潔
全国のネトウヨの皆さんへの推薦図書です。清水氏のこの本を読んでから、「南京事件はなかった!」「南京事件は捏造だ!」と叫びましょうネ。
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広瀬隆
広瀬氏をアジテーターだの、オオカミ少年だの、悲観主義に過ぎると言って批判する人がいる。しかし、ブログで何度も述べてきたように、真の悲観主義こそがマインドコントールによって奴隷根性のしみ込んだ私たちの精神を浄化してくれるのだ。そもそも無知では悲観が生まれようもないではないか。国などいくら破れても結構。せめて山河だけでも次世代に残そうと考える人ならぜひとも読むべき本である。いや、これから幾多の春秋に富む若い人にこそすすめたい。
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チャヴ 弱者を敵視する社会
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オーウェン・ジョーンズ,Owen Jones
【本書への賛辞】

「怒りが生んだ、最高の本」
──ガーディアン紙

最高の論争がみなそうであるように、知性に裏打ちされた怒りが本書を支えている。
──エコノミスト誌

暴動や世界中に広がったオキュパイ運動に照らして考えると、分断社会に関する著者の鋭い分析は、
不気味なほど未来を予知していたことがわかる。
──アートフォーラム誌

情熱と、思いやりと、すぐれた道徳性が結実した仕事だ。
──ニューヨーク・タイムズ紙

政治の定説を見直す大胆な試み。著者は戦後のイギリス史を縦横無尽に往き来し、
階級、文化、アイデンティティといった複雑な問題を軽々とまとめてみせ、
結果として「階級」問題に火をつけ、大きな効果をあげている。
──インディペンデント紙

いまの制度が貧しい人々を見捨てていることに対する苛烈な警告──それが本書だ。
──ブログサイト「デイリー・ビースト」

ジョーンズは、「地の塩」だった労働者階級が政治のせいで「地のクズ」と見なされるようになった経緯を見事に説明している。
──タイムズ紙

この本は、新しいタイプの階級嫌悪と、その裏にあるものを痛烈にあばいて見せてくれる。
──ジョン・ケアリー(The Intellectuals and the Masses著者)

これは「イギリスはおおむね階級のない社会である」という考え方への、論理的で情報満載の大反撃だ。
──オブザーバー紙

情熱的で示唆に富む……この声が届くことを心から願う。
──スコットランド・オン・サンデー紙
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 (JUGEMレビュー »)

紹介していない本が山のようにあります。数日前にこの本を本棚の奥から引っ張り出し再読しました。いや〜面白かった。。とにかくこの本のことを忘れていた自分が信じられない。読んでない人に熱烈に勧めます。ハイ。
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英語の実際的研究 (1969年)
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秋山 敏
高校生にとって、今でも一押しの不朽の名著。でもこの本をことを知っている英語教師は少ないと思います。是非復刊してほしいものです。
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スノーデン 日本への警告 (集英社新書)
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エドワード・スノーデン,青木 理,井桁大介,金昌浩,ベン・ワイズナー,宮下紘,マリコ・ヒロセ
2017年4月18日、朝日新聞がようやく「パノプティプコン」を取り上げました。遅すぎますね。
これから先の日本社会は、ますます荒廃が進み、国民の不満が頂点に達し、やがて爆発します。それを未然に防ぐために、国は国民の監視を強化します。
実際アメリカでは「愛国者法」により、電子メールや携帯の通話履歴が監視の対象になっています。誰が、いつ、どこで、何を読んで、誰と通信を交わしたか、すべて国に筒抜けです。
「パノプティプコン」とはフランスの哲学者フーコーが用いた概念ですが、国民が刑務所の囚人のように監視される体制を言います。監視者の姿は見えませんが、囚人は監視者不在でも、監視を意識することによって管理統制されるのです。これを「パノプティシズム」と言います。
このシステムから解放されるためには、権力がどう管理・統制しようとしているかを知らねばなりません。この本はそれを知るための第一歩です。あなたが無知のまま、奴隷の人生を送りたければ、読む必要はありません。
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A.ミラー
アリスミラーのこの本は、塾を始めるきっかけになりました。ただ生活のためだけなら、他のことをしていたでしょう。『才能ある子のドラマ』とあわせて、当時の私には衝撃的な本でした。人生はどこでどう転ぶかわかりません。人間の奥深さを知ることで、何とか自分を維持していたのです。この本を読むと当時のことが、ありありと思い出されます。ある意味で、私の人生を方向づけた本かもしれません。
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NHK「東海村臨界事故」取材班

2月18日のブログでも書きましたが、仕事のために読むビジネス書の類は、最終的には効率を重視し、最小の資本と労力の投下で、いかにして最大の利益を上げるかということに尽きていると思います。そのための働き方改革であり、そのための賃上げです。そのための人心掌握術であり、顧客対応です。ビジネス書を読めば読むほど、人間は軽薄になり、視野が狭くなっていきます。もしあなたがそれを自覚するきっかけがほしいなら、是非この本を読むことを勧めます。読書はビジネスのためにするのではないということが分かると思います。この本は私たちの日常の風景を一変させるだけのインパクトを持っています。いわば、ことばの最高の意味における「闖入者」なのです。
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服従
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瀬木 比呂志
この本はまだ発売されていません。自分で読んでいない本を推薦するのは邪道でしょう。しかし、これまでの『絶望の裁判所』『ニッポンの裁判』(ともに講談社現代新書)に続く裁判所、司法批判の第3弾が長編の権力小説だということで、過去2冊の本の面白さからして、推薦に値する本だと思いました。『原発ホワイトアウト』の最高裁判所ヴァージョンだと思います。読んでからコメントを追加したいと思います。
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アモン・シェイ
学校なる場所に通っていた時、毎年夏になると課題図書を読んで、読書感想文を書かねばならないのが苦痛でした。課題図書の選定には学校と書店の密約があるに違いないと思っていたくらいです。

偶然巡り合った面白い本の感想を書くのならまだ我慢できたかもしれません。つくづく学校というところは、余計なことをしてくれると思ったものです。

あまりにめんどうくさいので、「あとがき」を参考に、あらすじを書いて提出したら、トリプルAをもらいました。

学校というところは、もしかしたら、人生の退屈に耐える訓練をする場所だったのかもしれません。この本を読んで、改めてそのことを確認しました。別に先生を責めているわけではありません。それほど自覚的に生きるということは難しいのだとため息をついているだけです。
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想田和弘監督の観察映画。音楽による演出は一切なく、徹頭徹尾監督の視点で撮られたドキュメンタリー映画。見終わった後、日本の選挙風土の貧困さが浮かび上がる。この国に民主主義はない、ということを改めて確認し、そこから出発するしかない。その勇気を持つ人には必見の映画です。合わせて『選挙2』もどうぞ。
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マックス ヴェーバー
ウェーバーの死の1年前、1919年、学生達に向けた講演の記録です。
一部抜粋します。

「自分が世間に対して捧げようとするものに比べて、現実の世の中が―自分の立場からみて―どんなに愚かであり卑俗であっても、断じてく挫けない人間。どんな事態に直面しても「それにもかかわらず!」と言い切る自信のある人間。そういう人間だけが政治への「天職」を持つ。」(P105〜106)

「さて、ここにおいでの諸君、10年後にもう一度この点について話し合おうではないか。残念ながら私はあれやこれやいろんな理由から、どうも悪い予感がしてならないのだが、10年後には反動の時代がとっくに始まっていて、諸君の多くの人が―正直に言って私もだが―期待していたことのまずほとんどは、まさか全部でもあるまいが、少なくとも外見上たいていのものは、実現されていないだろう。」(P103〜104)

10年後には、ワイマール体制は機能不全に陥り、1933年にはヒトラーが首相に就任します。

平和憲法は、日本人にとって310万人の命と引き換えに手に入れた唯一と言っていい理念であり、アイデンティティーでした。その唯一の誇りを、日本人は損得勘定で葬り去ろうとしています。言い古された言葉ですが、歴史は繰り返すのです。
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中沢 新一
小学校を卒業するころ、将来なりたい職業として思い描いていたのが、天文学者か生物学者でした。プロ野球選手は、自分のセンスでは無理だと悟りました。物ごころついたころから興味があったのは宇宙や昆虫や植物の世界でした。そんなわけで南方熊樟に出会うのは必然的な成り行きだったのです。人間は言葉によって世界を把握しますが、それ以外の把握の仕方があるはずだと、ずっと思ってきました。南方熊樟は、小林秀雄と同じく、直観による世界の把握の仕方を教えてくれました。この本は、言葉によって構成された世界秩序の外に出て、世界を改めて考えたい人に大いなるヒントをあたえてくれます。安倍政権によるゴキブリのフンのような、あまりにばかばかしい政治状況を見せつけられているので、精神の衛生学として一気に読みました。
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こどもの教育から裏金を使ったオリンピック誘致、原発再稼働、戦争準備から武器の売却、安倍政権の裏の権力としてメディアに絶大な影響力を行使する電通。私たちは電通が作り上げた「箱」の中でいいようにマインドコントロールされている。自分の意見だと思っていたものが、実はそう思わされていただけだということに気づかなければならない。音楽をはじめとする芸能情報、その中で踊らされるミュージシャンやタレント、果てはデザイン業界までを席巻する。今や電通の介在しないメディアはないと言ってもいい。利権あるところに電通あり、です。
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前作『日本はなぜ「基地」と「原発」止められないのか』に続く著者渾身の力作。自分の人生を生きたい人にすすめます。ただそれだけです。18歳で選挙権が与えらる高校生が政治を考える際の基本的なテキストになる日がくるといいですね。無理でしょうが。これ以上余計なコメントはしません。まず手に取ってみてください。
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メディアで取り上げられるよりはるか前から日本会議の存在について私は言及していました。電通と同じくタブー視するメディアには心底失望したものです。報道すればタブーはタブーでなくなるのです。何を恐れているのでしょうか。干されれば、何とか生活をする工面をすればよい。それだけのことです。
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磯崎新
帯に「祝祭都市にスタジアムはいらない」とあります。そもそも2020年まで天災と原発事故をやり過ごし、経済危機を乗り越えて存在しているでしょうか。極めて怪しいですね。偶然書店で手に取って読みました。彼の文章を読むと、建築は現世の権力に奉仕するものではなく、想像力の王国を作るものだと思わされます。建築にそれほど興味のない人でも、読めます。いや、いつのまにか引き込まれているでしょう。
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難関中高一貫校で学び、東大に合格しても、それはもはや知性のバロメーターではありません。この本に書かれていることが真実だと見破れることこそが本物の知性です。ニセの知性は既得権益を守るためにはどんな屁理屈でもひねり出します。おまえは何も知らないと言って他人を見下し、金と権力におもねるのです。ニセの知性は理想の灯を掲げることができません。「脳内お花畑」などという幼稚な言葉を使って揶揄するしかないのです。彼らの決まり文句は、他国が攻めてきたらどうするのかという、それこそ「脳内お花畑」的なものです。「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」とは、まさに至言です。
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烏賀陽弘道
私の元塾生の縁でお会いしたことのある烏賀陽弘道氏の渾身のレポート。事実を丹念に調べ上げ(これがジャーナリストの本来やることです)事実をして語らしめることのできる稀有なジャーナリスト。この本を読まずに福島第一原発の事故の本質に迫ることはできない。ダブル選挙の前に一人でも多くの国民が読むことを期待します。
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松岡正剛氏の本はどれも面白く、シリーズの千夜千冊を除けばほとんど読んでいます。『多読術』は、高校生にぜひ勧めたいと思います。高校時代に、この本を読んでおくと、さまざまな分野の知的見取り図を手に入れることができます。学校の授業だけではなく、この本を手掛かりにして知の荒野に歩みを進めてほしいと思います。
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カント
安倍首相は「この道しかない」と言って消費税を上げ、集団的自衛権の行使を可能にする閣議決定をし、公約とは正反対のTPPを批准することで、日本の文化=アイデンティティーを破壊しようとしています。

もし私たちが生き延びたければ、そのヒントがこの本の中に書かれています。日本は超大国の「夢」を代弁するだけの国になってはなりません。
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山本 太郎
山本氏の国会での質問を、本になって改めて読み直して感じることは、文字通り「みんなが聞きたい」質問をしてくれたということです。安倍首相が小学生に「なぜ政治家になったのですか」と質問された時、「父親も祖父も政治家をしていたからです」と答えていました。小学生相手に、何と言う悲しい答えでしょうか。語るべき理想を持たない政治家など、所詮は官僚に利用されるだけです。それに対して、山本氏には語るべき理想がある。「政治なんてそんなものさ」というリアリストが発散する腐臭を吹き飛ばすさわやかさがある。それは、彼の身体には収まりきれない理想が持つ力そのものです。彼は言います。「力を貸してほしい。少なくとも、あなたが必要だと思われる社会、私が必要だと思われる社会を作っていきたい。そう思うんです」と。日本の総理大臣にふさわしいのはどちらでしょうか。
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転換期の日本へ―「パックス・アメリカーナ」か「パックス・アジア」か (NHK出版新書 423)
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ジョン・W・ダワー,ガバン・マコーマック
おそらく、日本人自身よりも海外の知識人のほうが、日本の問題を正確にとらえていると思わせる本です。読み終えて何気なくテレビを見たら、わが大分県選出の国会議員、岩屋毅氏と江藤晟一氏が、2016年ミスユニバース大分県代表を選ぶ催し物に出ていました。名誉顧問だそうです。いかがわしい宗教団体をバックに票を稼ぐだけでは飽き足らず、こんな大会に顔を出して名前を売ろうとする。大分市長の佐藤樹一郎氏も出席していました。このお三方は、こんなことをするために国会議員や市長になったのでしょうか。国民の税金を使ってやることといえば、テレビに出演してにやけた顔をさらすことでしょうか。もう物事の軽重が全く分かっていません。せめてこの本くらい読んではどうでしょうか。私はこの本に書かれていることの大部分に賛成です。
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2年半ほど前に求めて、一気に読みました。マルクスの『資本論』の中に書かれていることを、著者が自分なりに消化し実践していく過程が書かれているので、一種のドキュメンタリー文学として読めます。きっと著者と同じ思いの若者は全国にたくさんいると思います。かけがえのない一回きりの人生を、充実して生きたいと思っている人に勇気を与える本です。
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もう何と言うか、別世界を生きている人間です。彼の発する言葉は文学とは無縁です。人間が言葉を持ったのは、言葉にしがたいものを言葉にしようとするためです。政治家が発する言葉の軽さと言ったらありません。それだけ現実も軽いものになったということでしょう。
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鈴木大拙の言わんとすることが、ようやくわかりかけてきました。年齢を重ね、日本文化の基底にあるものをじっくり味わうことで開示される世界があるのです。日々の生活に追われていては、この本を読み、味わう暇などないでしょうが、それだからこそ手に取ってみてはいかがでしょう。
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人間は、条件次第で、喜々として殺人を犯す。そして、その条件を整備しつつあるのが、安倍政権とその背後でうごめく『日本会議』である。このことに気づいていても、「配慮する」ことを最優先して報道しないメディア(特にNHK・読売新聞・産経新聞)。そしてそこに寄生する学者やコメンテーター、芸能人。このドキュメンタリー映画は、彼らの自画像である。たまには、自らの顔をじっくり眺めてみるがよい。
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私が長年考えてきた問題を解明するヒントになりました。ブログで書いたように、まず感情を基にした結論があって、それを正当化するために人は「知性」を動員するという、ごく当たり前のことが書かれている。つまり、知の粉飾決算報告書である。
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食う寝る遊ぶ 小屋暮らし (JUGEMレビュー »)
中村 好文
中村さんの著作の中では、個人的に最も好きな本です。読んでいるだけで楽しくなります。限りなく優しい、でも、痛烈な文明批評です。これからの生き方のヒントが満載です。それを一人でも多くの人と分かち合いたいと思い、中村好文論・その3の中で引用させていただきました。
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暮らしを旅する
暮らしを旅する (JUGEMレビュー »)
中村 好文
以下は私がアマゾンのレビューに投稿したものです。再録します。
「もし人に幸福な生き方があるとしたら、中村好文さんのような生き方だろうと、ずっと思ってきました。
建築雑誌をパラパラとめくりながら、ふむ、と思って手が止まると、そこには必ずと言っていいほど中村さんの設計した住宅がありました。
文は人なりと言いますが、その人の書く文章のエッセンスがこれほど見事に建築にも表現されている例はめったにありません。
建築に限らず、食の分野でも、ことばと実物の乖離がはなはだしい時代に、中村さんの設計した住宅や美術館に出会うと、どこか安心するのですね。
そういうわけで、著者の本はすべて読ませてもらっています。
この本も偶然、年末に本屋さんで手に入れ、装丁やカバーの手触りを楽しみながら読んでいます。
読みながらいつの間にかほのぼのとしている自分を発見します。
一日に一編か二編を過去の記憶をたどるようにして読んでいます。
この本の平明さ、やさしさがどこから来るのか。そんなことを分析するのは野暮というものです。
とにかくこの素敵な小さな本は、旅のお供にどうぞ!とすすめたくなります。」
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2017年の終わりに。
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    今年も残すところあとわずかとなりました。一年間、面白くもない、不愉快な内容が多かったブログですが、お付き合い頂いた方には心からお礼申し上げます。

     

     

     

    本音を言えば、私は政治などどうでもいいと思っています。この国がどうなろうと、アメリカが北朝鮮を攻撃して日本がその巻き添えを食おうが、それは仕方のないことだというか、自業自得だと思っています。日本人はそれを自ら招き寄せているのですから。

     

     

     

    ただそういった空気にどうしてもなじめない、生理的に順応できない自分を発見し、違和感を吐露せざるを得なかったのです。イデオロギーや宗教に胡散臭さを感じるのも、私の体質の問題でしょう。素朴に考えておかしいという感情から出てくるものこそが信頼に値するものです。そうは言っても、どこかで堪忍袋の緒が切れれば、その時点でブログはやめるつもりです。

     

     

     

    もともと、今の社会に自分の居場所などあるわけがないと思い、それなら自分の居場所を作るしかないと思って生きてきました。私が惹きつけられる人間の姿というか風情は、ことごとく自分の居場所というか精神のありかを自分で作って来た人たちでした。今は独裁主義に順応する生き方がもてはやされる時代です。いや、いつの時代も世の中とはそういうものかもしれません。

     

     

     

    思い返せば、そういった世の中や制度に対する生理的な違和感が私の中で頂点に達したのが、高校3年の時でした。卒業を間近に控えたある日、担任から「○○、お前は卒業アルバムを買わないのか。買わないのは学年でお前一人だぞ。」と言われました。

     

     

     

    「僕は上野丘高校に何の愛着もありません。空白の3年間でした。アルバムを買っても、懐かしくなってページを開くことはないと思います。」と私は答えたのです。その時の担任の表情は覚えていません。ただ「そうか」と言っただけでした。今となっては若気の至りというしかありません。

     

     

     

    その私が塾の教師になって、生徒を上野丘高校に送り出しているのですから、運命の皮肉というか、罰を受けているようなものです。ただ、罪滅ぼしとして、上野丘高校に最も欠けていたと思うもの(今もそれほど変わりはありません)を、英語を教える中で補おうと心がけています。

     

     

     

    ごく単純に言うと、それは今の社会をどうとらえ、どう生きるのかということと切り離して勉強などできないということです。「これほど基本的な事実について無知では、アメリカを始めとして世界の高校生と議論などできるわけがない。いや、議論というよりもコミュニケーションをとることすら不可能だ。英語以前の問題です。」と私はよく言います。英語教師であればなおさらこのことが気になるはずです。

     

     

     

    なぜそうなるのか。その背景には、「高校を卒業して大学に入り、大学を卒業して社会に出て初めて現実と向き合える。それまでは準備段階だから黙って受験勉強に励むべきだ」というイデオロギーがあります。それは、かけがえのない現実が今この瞬間にも進行中だということを忘れさせるのです。

     

     

     

    現実は今ここにあります。遠い未来にあるのではありません。社会のありようを政治や経済も含めて、あるいは税金の使い方や社会保障のあり方も含めて知ること。それを抜きにした勉強など、本来意味を持たないはずです。上野丘高校が劇的に進学実績を伸ばし、卒業生が懐かしく振り返る場所になるためには、世の中を知ることを含めて、今この瞬間を生きることができる世界で一番自由な場所にするしかありません。

     

     

     

    さてもうやめにします。私がこれまでの人生で習得したものは、新しい感情で満たされた日々を送るための技術です。一円のお金も生み出しませんし、自己満足と言われればそれまでかもしれません。しかし。それがなければ人生は無意味だと感じさせるものです。その技術を習得するためには、若い時から訓練を積まなければなりません。それは誰でもいい誰かの人生ではなく、自分自身の人生を生きるためのトレーニングなのです。

     

     

     

    今の安倍政権を見れば分かる通り、政治家は本質的に人間として下らない。まともに相手にする人種ではありません。それより、好きな人とデートする方がよっぽどましです。素敵なカフェに入ってコーヒーでも注文しましょう。しかし、そのコーヒー豆がどこから輸入されているのか、その値段を決めるのも政治です。たまには美味しいコーヒーを飲みながら、そういうことも話題にしてみましょう。

     

     

    来年が皆さんにとってよい年でありますように!

     

    | 教育 | 20:44 | comments(0) | - |
    長野の一塾教師さんへ。
    0

      心温まるコメントをいただきありがとうございます。とても嬉しいです。ご夫婦で塾をなさっているとかで、色々なご苦労をお二人で分け合うことができていいですね。返信しようと思ってコメントを書き始めたのですが、長くなりそうなので、コメント欄ではなくブログを借りて返信することにしました。

       

       

      長野は何度か訪れたことがあります。安曇野の風景はどこか懐かしい心のふるさとのようで、妻といつかこんなところで暮らしてみたいねと話したものです。いわさきちひろ美術館や碌山美術館では旅の疲れを癒しました。2年前、教え子が東京の大手出版社を辞めて、ご主人と上田市に居を構えました。いつか遊びに行くと約束したままになっています。14年間乗り続けている車を廃車にする前に、是非再訪したいと思っています。

       

       

       

      ところで、世の中は長野の一塾教師さんのような方ばかりではありません。「お前のブログは負け犬の遠吠えに過ぎない。九州のド田舎の塾教師がエラそうにほざいているだけだ。お前の言っていることは、上から目線の自己正当化なんだよ!読んでいてヘドが出る。」というコメントも頂戴しています。

       

       

       

      この種のコメントに対しては反論のしようがありません。やむを得ず削除しています。それにしてもこういったコメントを寄せる人は、人生の勝ち負けを決める客観的な基準があると信じているのでしょうね。今回はそれについて考えてみましょう。

       

       

      「勝ち組」になるための基準。

       

       

      1:金、金、金、金、金です。人生でどれくらい稼いだかが勝ち組になるための客観的な基準です。国民の資産を株式市場に投入し、官製相場を維持し、外国人投資家に買ってもらって釣り上げた株で儲けた金です。国民の税金をロンダリングするために規制緩和を叫び、岩盤に加計孝太郎氏だけが通れる小さな穴を開け、自治体から金を巻上げ、それを「合法的に」懐に入れた金です。

       

       

       

      2:高学歴であること。特に東大以外の大学の出身者は勝ち組にはなれません。東大を卒業し、財務省や経産省の官僚になり、政治家を慇懃無礼な手法で操り、自分たちの思い通りの法案を通して権力欲を満足させる地位につくこと。その象徴が国税庁長官に出世した佐川宣寿氏です。東大を中退して小金を稼いだり、「東大ネタ」でテレビに出てギャラを稼いだりしているタレントたちは、勝ち組には入れません。彼らは勝ち組の王道をはずれた芸人に過ぎないと評価されています。

       

       

       

      3:総理大臣と食事ができること。権力に取り入り、権力に利用されていることに気づくどころか庇護されていると思いこめる鈍感さを持っていること。要するにその程度のことで自尊心を満足させることのできるクズであること。最近はお笑い芸人のなかに多い。

       

       

       

      4:政権を批判しないこと。コメンテーター、学者、ジャーナリスト、出版人、放送人として、総理のお友だちになり、前川喜平氏や山尾しおり氏、山口敬之にレイプされた伊藤詩織氏の人格攻撃を飽くことなく続けること。しかしこれは勝ち組になる資格などではなく、人間として負け犬になることを意味します。権力が弱体化すれば、手のひらを返されるのは明らかです。安倍総理が失脚すればお払い箱になります。なぜなら権力とは「立場」と「都合」によって成り立っている砂上の楼閣に過ぎないのですから。

       

       

       

      5:財界のトップに立ち、武器の製造ばかりか輸出に手を染め、使用済み核燃料の処分場も決まらないまま原発を再稼働させる権力をもっていること。またはその集団に連なること。さらに、自然を破壊し、地下水を枯渇させ、膨大な電力を消費するリニア中央新幹線の工事発注に絡んで談合すること。国民の暮らしや地域住民の命を無視しても良心が痛まない人格であること。

       

       

       

      以上見てきたように、人間を単純に勝ち組・負け組に分ける発想そのものが貧困で無神経なのです。いったんこの種の基準を内面化した人間は、「幸福とは何か」について深く考えることができません。彼らは自分の納めた税金が社会的弱者に回されることに腹を立て、生活保護費の支給基準を切り下げることを要求しています。

       

       

       

      それにしても安倍政権が誕生して以来、独裁主義に順応する生き方を勝ち組の生き方だと錯覚する人間が増えてきました。これは間違いなく日本という国の末期症状です。

       

       

       

      おやおや、長野の一塾教師さんへの返信がとんでもないところへ脱線してしまいました。最後に、子供たちや保護者の皆さんに心がけてもらいたいことを述べます。

       

       

       

      それは、社会のなるべく正確な見取り図を持つことです。自己利益を最大化するための見取り図ではなく、社会全体をよくするための見取り図です。海図がなければ安心して航海に乗り出すこともできません。正確な海図があってはじめて困難に備えることもできるし、目的地も分かります。

       

       

       

      目の前の受験勉強に集中するあまり、結果として現実から遠ざけられていること、それでは能力を十分に発揮できないということに気づいてほしいのです。塾教師の仕事は、一歩間違えば、子供たちをゲームとしての受験勉強(『東大ナゾトレ』などで出版社も協力しています)の中にいつまでも囲い込むことになります。

       

       

       

      社会構造のラディカルな変化とともに、大学入試も大きく変わろうとしています。今や子供たちをいつまでも柵の中に押し込めている時代ではありません。たかが一介の塾教師ですが、私は子供たち自身の力で柵の存在に気づいてもらいたいと願って指導しています。自ら問いを発し、それをどこまでも追求していけば、必ず柵の存在に気づくはずです。聡明な保護者の皆さんもきっと同じ考えだと思います。

       

       

       

      そのためには、私自身が「遠投力」を鍛えねばなりません。たまには思いっきり遠くに投げたボールを子供たちに取りに行かせたいですね。数メートルの距離でキャッチボールばかりしていては、子供の能力を伸ばすことはできませんから。

       

       

       

      長野の一塾教師さんから頂いたコメントに勇気づけられて、ついつい偉そうに書いてしまいました。どうかお元気で頑張ってください。ありがとうございました。

       

       

      | 塾・学力 | 16:06 | comments(2) | - |
      この問題が解ければ上野丘高校に合格できます!
      0

        以下がその問題です。新潟県の公立高校の問題ですが、決して難問というわけではありません。

         

         

         

         

        今回のタイトルは、集客力がすべての(つまり資本力にモノを言わせる)塾のキャッチコピーのようで恥ずかしいのですが、せっかくの中身も読んでもらえなければ意味がないので、このタイトルにしました。

         

         

         

        過去、この問題が解けた生徒で上高に不合格になった生徒はいません。もちろん他教科との兼ね合いもありますし、内申点もありますから、この問題が解けたからといって、100%合格できるわけではありません。

         

         

         

        私は生徒の志望校合格可能性を判断する時、模試の点もさることながら、どの問題が解けたかという細かいデータを頭に入れています。Aの問題が解ければ○○高校合格、Bの問題が解ければ○○高校は大丈夫、しかしCの問題が解けなければ○○高校は危ないという風に。これは長く塾を続けてきたおかげで蓄積されたいわば「自家製のデータ」です。

         

         

         

        ところで冬期講習会の少し前から、私がこれまで良問だと思った問題を絞りに絞って『高校入試数学究極の30問』と題するプリントを作り、それを解いてもらっています。これに「じっくり」取り組めば、満点が狙えるはずです。たぶん。上の問題はその第1問です。

         

         

         

        『高校入試数学究極の30問』の中には図形の面積や線分の長さを求めるものが10問ほどあります。クイズのようで、解いている間に力がつく問題です。集中力と発想力が必要とされますが、解説を聞いても分からないようなアクロバティックな数学的センスは必要ありません。

         

         

         

        (1)の問題は絶対に解けなければなりません。

        (2)については、短いヒントを出します。以下は生徒とのやり取りです。

         

         

         

        「(2)の問題は線分の長さを求めるものですが、これまで習った線分の長さの求め方はどんなものがありますか」

         

        「相似比と平行線と線分の比、あと三平方の定理」

         

        「ではこの問題でそれが使えますか?相似の三角形もないし、直角三角形もありません。つまり、それ以外の方法を考えないとね。普通この問題を見た時、情報量が少ないのでどこから手をつけていいかわからないはずです。そんなときどうしますか?」

         

        「・・・・・・・」

         

        「とにかく、15分間はあれこれ考えてみて下さい。あれこれ考えると言いましたが、その中身がイメージできていますか?一本の補助線を引くことで問題を全く違う角度から考えることもできます。」

         

        「えっ、補助線を引くんですか?」

         

        「この問題で補助線を引かずに、次の段階に進めると思っているの?」

         

        「どこに補助線を引くんですか?」

         

        「どこにでも、君の好きなところに。なんならボールペンで君のおでこに引いてもいいよ。冗談だけど。」とまあ、こんなやりとりが続いた後、生徒は集中します。

         

         

         

        もちろん制限時間が経過した後、詳しい解説をします。解説しながら生徒の顔を見ると、思考が深まっているのが手にとるように分かります。一人一人の名前を呼び、理解できたか確認します。決して先を急ぎません。一日で何問やったかなどということは、瑣末なことです。

         

         

         

        ところで、前回のブログで私は次のように書きました。

         

         

         

        「知識は個性や思考と連動し、さまざまな局面で独自の動きをしているのです。一度インプットされた知識は解体され再構成されて、それを使う人間と一体化します。それを知識の質といいます。 

        野球で言えば、ピッチャーの球質が体重移動や指の長さやリリースポイントや天候やその日の体調によって左右されるのと同じなのです。一流のピッチャーはこれらすべての条件を頭に入れ、ピッチングを組み立てています。速い球を投げるだけでは、簡単に打ち崩されてしまいます。」と。

         

         

         

        私がここで書いたことは、数学だけではなく、およそ人間の知識や思考にまつわる問題ではジャンルを問わず当てはまると確信しています。なぜなら今朝の朝日新聞の文化文芸欄で作家の村上春樹氏が翻訳について全く同じことを言っていたからです。私は驚くというか、本質的な発想の類似性に絶句してしまいました。

         

         

         

        以下は村上氏がレイモンド・チャンドラーの長編7作を完訳したことを受けてインタビューに応じたものです。

        ちなみにチャンドラーは私の大好きな作家で、塾の生徒にも『ロング・グッドバイ』を紹介したことがあります。彼が生み出したハードボイルド小説の探偵フィリップ・マーロウの次のセリフは有名です。

         

         

         

        「タフじゃなくては生きていけない。やさしくなくては、生きている資格はない。」原文は「If I wasn't hard, I wouldn't be alive. If I couldn't ever be gentle, I wouldn't deserve to be alive.」です。元京都大学原子炉実験所の小出裕章氏が講演でこの言葉が好きだといった時、私は必死で涙をこらえたのを覚えています。

         

         

         

        村上氏の記事に戻ります。

         

        引用開始

         

        翻訳とは原典を「ばらばらにしてもう一度組み立て直す」作業だと村上さんは言う。

         

         「チャンドラーは、解体して再構築するには絶好のモデルなんです。チャンドラーのようなミステリーを書こうとしても、それはむずかしい。小説は、どう解体するかというところにかかってるんです。そこから何かを学ぶとしたらね」

         

         同じような「解体と再構築」をしている書き手として、村上さんは今年のノーベル文学賞を受けたカズオ・イシグロさんの名を挙げた。

         

         

         「SFをやったり昔のイギリスの執事ものをやったり、書くたびにある種の小説のスタイルを再構築している。彼もチャンドラーが大好きなんです。何度か会って話してるけど、チャンドラーの話になると生き生きしてくる」

         

         村上さんの小説は現実と非現実の世界を行き来するようなものが多いのに、翻訳ではリアリズムの作品を多く手がけるのは、なぜなのか。

         

         

        「非リアリズムのものを書こうと思っても、きちんとしたリアリズムの文章が書けないと、それはできないんです」

         

         「僕は自分の文体を強くしなくちゃいけないと思って『ノルウェイの森』をリアリズムで書いて、そこからずいぶん楽になった。だから翻訳でもリアリズムのものをやって文体を磨き上げたい、文体を引き締める訓練をしたいという気持ちがある」

         

         村上さんは小説でも翻訳でも、原稿に繰り返し手を入れるという。

         

         

        「たいそうな言い方になるかもしれないけど、生きた文章を書くには潜在意識で洗い直す作業が必要なんです。ある程度の時間をおいて無意識のなかを何度も通さないと、文章が立ち上がってこない、本当に

         

         「文章の力は、評価するのがすごく難しい」と村上さん。

         

         

        「家庭風呂と温泉のお湯との違いを表現するのが難しいのと同じです。温泉のお湯の持つ力を出すためには、時間をかけて、潜在意識を何度もくぐらせることがすごく大事になってくる。小説でも翻訳でも、それはまったく同じです」

         

         

        引用終わり

         

         

        アンダーラインの部分をよくお読み下さい。一部語句を入れ替えて書いてみます。

         

        「たいそうな言い方になるかもしれないけど、問題を解決する糸口を見つけるには潜在意識で洗い直す作業が必要なんです。ある程度の時間をおいて無意識のなかを何度も通さないと、アイデアが立ち上がってこない、本当に」

        「無意識のなかを動いている思考の力は、評価するのがすごく難しい」

         

        | 中高生の皆さんへ | 18:11 | comments(1) | - |
        「画竜点睛を欠く(がりょうてんせいをかく)」
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          冬期講習会が迫ってきました。昨日も附属中学に通っている子供をもつお母さんから冬期講習に参加したい旨のお問い合わせをいただきました。今月に入って4人目です。皆さんすでに塾に行っています。かけもちで私の塾にも来たいとのことでした。

           

           

           

          中学3年生の入塾は夏休みの講習会が最後で、それ以降は空席があってもお断りしている旨を説明しました。せっかくお問い合わせいただいたのにお断りするのは心苦しいのですが、今通っている塾での学習の質を高めるようにアドバイスしました。

           

           

           

          講習会の直前まで生徒を募集している塾もあるようですが、これまでの経験から、未来塾ではお断りすることにしています。理由は今来ている生徒さんを大事にするということはもちろんですが、直前になって塾を掛け持ちすれば不合格になる可能性が高くなるのです。

           

           

           

          私の塾でも過去2名ほど直前になってかけ持ちをしたいという生徒がいました。不安なのでしょうね。もちろん選択は自由です。しかし、結果は2名とも舞鶴高校に不合格でした。「この調子でいけば確実に合格するよ」という私の言葉を信じることができなかったのです。

           

           

           

          人より少しでも多くの時間とお金をかけ、塾をかけ持ちすれば受験に有利になると考えているのでしょうが、人間はそれほど単純な生き物ではありません。つねに有利か不利か、受験に役立つかどうかで物事を考えている人は、知識や情報を量で測ろうとします。お金をためるのと同じ感覚でとらえているのですね。必要最小限の投資で最大の利益を上げることを目指す、コスパ至上主義に毒されているのです。

           

           

           

          最近の入試では、知識を単純に問うだけではなく(そうは言っても受験では8割が知識を問う問題です)知識相互の関連やそこから予想される結果を問う問題も増えています。つまり、知識は個性や思考と連動し、さまざまな局面で独自の動きをしているのです。一度インプットされた知識は解体され再構成されて、それを使う人間と一体化します。それを知識の質といいます。

           

           

           

          野球で言えば、ピッチャーの球質が体重移動や指の長さやリリースポイントや天候やその日の体調によって左右されるのと同じなのです。一流のピッチャーはこれらすべての条件を頭に入れ、ピッチングを組み立てています。速い球を投げるだけでは、簡単に打ち崩されてしまいます。

           

           

           

          この最も肝心なことが分からず、言っても聞く耳をもたない生徒には退塾を勧告することにしています。前述の2人にも退塾を勧告しました。知識の習得が単純なブロックの積み上げ作業のようなものだと信じていれば、学ぶことは楽しくないでしょうね。

           

           

           

          ところで皆さんは「画竜点睛を欠く(がりょうてんせいをかく)」という言葉をご存知ですか。数年前までは、塾の生徒でこの言葉を知らない人はいませんでした。ところがいまの中学3年生は、知らない人の方が多いのではないでしょうか。言葉を知らなければ認識の幅も狭まります。つまり思考し行動する幅が狭くなるのです。

           

           

           

          「画竜」は竜の絵を描くこと、「睛」は瞳のことで(「晴」ではありませんよ)「点睛」は瞳を点ずる、描き込むということです。中国の梁の時代、張僧ヨウという絵師が竜の絵を描き、最後に瞳を入れたところ竜が天に昇ったという故事から、「画竜点睛」は大事な仕上げをするという意味です。「画竜点睛を欠く」とは、その仕上げを欠いてしまうことです。

           

           

           

           

          やさしく言えば「物事をりっぱに完成させるための、最後の仕上げを忘れること。また、全体を引き立たせる最も肝心なところが抜けていること。」を意味します。

           

           

           

          おそらくどこの塾でも、先生が良心的で生徒のことを考えていれば「画竜点睛を欠く」ことがないように、最後の仕上げに全力を傾けるはずです。もちろん私もそうするつもりです。冬期講習の期間はそのためにあります。

           

           

           

          墨の濃淡に工夫を凝らし、躍動感や迫力が出るように試行錯誤してきて、肝心な竜の瞳を描き込むことをしなければ、竜が天に昇ることもないでしょうから。

           

          | 中高生の皆さんへ | 15:20 | comments(0) | - |
          主権のない国で主権者を育てることはできるのか?
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            そもそも主権のない国で「主権者」を育てることは可能でしょうか。「何を言ってるんだ、日本が主権国家なのは当たり前だ」と考えている人たちのことはこの際置いておきます。

             

             

             

            彼らは、猿回しのサルにも主体性があると主張しているのですから。テレビをはじめとするメディアに登場し、投げ銭をもらい、拍手喝采されれば自分の芸もまんざらではないと胸を張り、後ろにいる「ご主人様」の存在をしばし忘れるのです。

             

             

             

            今回は、戦後日本が実質的に主権を持ったことはなく、今でもその状態(occupied Japan)が続いていることを歴史的事実としてはっきり認識している人たちに語りかけたいと思います。つまり、最低限の認識を共有するために『知ってはいけない − 隠された日本支配の構造』 (講談社現代新書)くらいは読んでいる人たちだということです。

             

             

             

            いや、これは偉そうな言い方ですね。言い方を変えましょう。日本が独立国ならなぜ沖縄に米軍基地があるのか、福島で収束不可能な原発事故があり、日本列島そのものが巨大な活断層であるにもかかわらず、なぜ原発を廃炉にする決断ができないのかという素朴な疑問を持っている人たちです。

             

             

             

            ところで、18歳から選挙権が与えられるようになって、高校の教育現場では「主権者教育」がされていると聞いています。「政治的中立性」という言葉を疑いもせず、高校生たちに主権者であることが何を意味するのか教えることなどできるのでしょうか。せいぜいのところ、選挙に行きましょうという説教じみた抽象的な訓示に終わるのが関の山です。

             

             

             

            「主権者であることが何を意味するのか」と言いましたが、その答えを知るには、主権者として行動している人の例を取り上げ、その主張を聞かなければなりません。

             

             

             

            なぜなら、主権者であるということは、自分の人生を生きるために欠くことのできない本質的な条件だからです。それは「寄らば大樹の陰」「お上の言うことに逆らってはならない」といった考え方・生き方から自由になることを意味します。

             

             

             

            もちろん自由には危険が伴います。それでも、12月11日のブログに書いたように「大樹」はもはやどこにも見当たりません。「お上」は歴史上かってないほど腐敗を極めています。したがって主権者として自分の人生を生きるためには、ある程度の危険は覚悟しなければならないのです。

             

             

             

            日本国内はもとより、世界には主権者であることがどういう行動に結びつくのか、それを実証する例であふれています。日本にも山本太郎という政治家がいます。彼は12月9日に閉会した特別国会に、日米合同委員会に関する質問主意書を提出し、日本に主権があるのかと問いただしました。この件についてはまた後日取り上げることにします。

             

             

             

            今回は二つの事例だけを取り上げます。

             

            その1:

             

            ドイツ最大の航空会社ルフトハンザのパイロットたちが難民申請を拒否された人たちを強制送還することを拒み、222ものフライトがキャンセルになった。送還対象者の多くはISやタリバンを逃れてきたアフガニスタン人。情勢不安定な地域に人間を追い返すことは、アムネスティ・インターナショナルによると国際法違反。多くが同国最大のフランクフルト空港で行われた。

             

             

             

            ルフトハンザの広報担当者は、「乗客を搭乗させないという最終的な判断は、パイロットにより個別になされた。」と話している。その判断の基準は「安全な飛行が確保されない可能性」があるかどうか。しかし実際は、多くの搭乗拒否が、パイロットによる強制送還を食い止めようとする試みだったとみられている。

             

             

             

            彼らは政府の方針に異を唱えて、自分の良心に従ったのです。つまり主権者教育がしっかりできている国では、たとえ政府の方針であろうと間違っていると判断した時には異を唱え、良心に従った行動が許されるのです。同じ状況に直面したとき、日本の大手航空会社 JALやANAのパイロットに同じことができるでしょうか。ルフトハンザのパイロットたちの行動は主権者教育の格好の事例になるはずです。

             

             

             

            その2:

             

            10日オスロで行われた核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)へのノーベル平和賞授賞式で被爆者サーロー節子さんが行った演説こそ、主権者であることを高らかに謳いあげたものです。中身は日本国憲法前文の精神そのものです。

             

             

             

            高校生たちが勉強させられている、「政治的中立性」というフィルターを通した中身のないスカスカの英文に比べれば、力強い、素晴らしい英語でのスピーチでした。

             

             

             

            一部を抜粋します。

             

             

            「きょう、この会場で皆さまには、広島と長崎で死を遂げた全ての人々の存在を感じてほしいと思います。雲霞(うんか)のような二十数万の魂を身の回りに感じていただきたいのです。一人一人に名前があったのです。誰かから愛されていたのです。彼らの死は、無駄ではなかったと確認しましょう。」

             

             

             

            「広島と長崎(への原爆投下)を残虐行為、戦争犯罪と見なすことをなお拒絶する人たちもいたのです。「正義の戦争」を終わらせた「良い爆弾」だったとするプロパガンダを受け入れたわけです。こうした作り話が破滅的な核軍拡競争をもたらしました。今日に至るまで核軍拡競争は続いています。」

             

             

             

             「今も九つの国が都市を灰にし、地球上の生命を破壊し、私たちの美しい世界を未来の世代が住めないようにすると脅しています。核兵器の開発は、国家が偉大さの高みに上ることを意味しません。むしろ、この上なく暗い邪悪の深みに転落することを意味するのです。こうした兵器は必要悪ではありません。絶対悪なのです。」

             

             

             

            「責任ある指導者であれば、必ずやこの条約に署名するに違いありません。署名を拒否すれば歴史の厳しい審判を受けることになるでしょう。彼らのふるまいは大量虐殺につながるのだという現実を抽象的な理論が覆い隠すことはもはやありません。」

             

             

             

             「核武装した国々の当局者と、いわゆる「核の傘」の下にいる共犯者たちに言います。私たちの証言を聞きなさい。私たちの警告を心に刻みなさい。そして、自らの行為の重みを知りなさい。あなたたちはそれぞれ、人類を危険にさらす暴力の体系を構成する不可欠な要素となっているのです。私たちは悪の陳腐さを警戒しましょう。世界のあらゆる国の、全ての大統領と首相に懇願します。この条約に参加してください。核による滅亡の脅威を永久になくしてください。」

             

             

            このスピーチをNHKは中継しませんでした。「公共放送」「皆様のNHK」が聞いてあきれます。その理由は日本政府が核兵器禁止条約に反対している事と無関係ではないはずです。

             

             

             

            安倍首相はノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロ氏にはすぐに祝意を伝えましたが、サーロー節子さんに対しては完全無視を決め込んでいます。安倍首相がカズオ・イシグロの文学を理解しているとは到底思えません。彼の作品を読んでいないばかりか名前すら知らなかったでしょう。

             

             

             

            なぜなら、文学は死者の声を、あるいは声を発することすらできずに死んでいった人間の魂の叫びを、メタファーの力によって多くの人々と共有する試みだからです。つまり、安倍首相のメンタリティーから最もかけ離れたものです。日本国憲法を「みっともない」と言っている安倍首相のことです、サーロー節子さんのスピーチを「みっともない」と感じていたに違いありません。

             

            | 政治 | 16:42 | comments(0) | - |
            終わりの始まりならいいのだけれど・・・
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              広島高裁が伊方原発の運転を禁止する仮処分の決定を下しましたが、「いかった〜」などと下らないギャグを飛ばして喜ぶ気にはなりません。なぜなら「仮処分は証拠調べの手続きに制約がある」として、停止期間を来年9月末までに限定し、地震想定の甘さや、重大事故対策が不十分といった住民側の主張を認めず、火山対策以外は規制委の判断を「合理的」としたからです。

               

               

               

              火砕流の影響を云々するのであれば、中央構造線が引き起こす地震や南海トラフ地震による伊方原発崩壊の可能性の方をより重視してもらいたかったですね。阿蘇山が巨大噴火を起こして火砕流が伊方原発に届くのであれば、九州はほぼ全滅しているからです。その影響は数年で日本を破滅に導き、運が良ければ、日本人は北海道の一部だけで生き延びているという悲劇的な結末をもたらすかもしれません。

               

               

               

              それと、住民避難の問題を深刻に受け止めてもらいたかったですね。住民を安全に避難させることができなければ原発を動かすことはできないという5層の防御(defense in depth)の考え方を、司法判断の大前提にしなければなりません。まずこの点をクリアしている原発についてのみ安全性を審査すべきです。

               

               

               

              しかし、司法が住民避難の問題に踏み込めば、政府と電力会社が交付金と引き換えに周辺住民の命を買い上げているという事実が明るみに出るので、このまま棄民政策を続けるしかないのです。

               

               

               

              それに何より、過酷事故を恐れて、電力会社は原発を海岸沿いの絶海の孤島のような場所に建設しているので、住民を安全に避難させることなどできません。政府も避難計画は自治体に丸投げしています。原発の安全審査に住民避難を絡めたとき、稼働できる原発は日本には一基もありません。ようするに、政府には国民の命を守る気などさらさらないのです。

               

               

               

              それはともかく、今回の決定で少しホッとしています。以前、RECOMMEND 欄でも紹介しましたが、原発が止まっているこの機会にぜひ以下の2冊の本をお読みください。石黒耀の『死都日本』と元国会事故調委員長の黒川清氏が書いた『規制の虜』です。

               

               

               

               

               

              | 原発 | 10:06 | comments(0) | - |
              少し涙が出ました。
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                私は伊方原発差し止め裁判の原告の一人です。今うれしいニュースが飛び込んできました。広島高裁(野々上友之裁判長)が13日午後、伊方原発の運転差し止めを命じる決定を出しました。高裁レベルでは初めてのことです。感激して少し涙が出てきました。

                 

                 

                 

                伊方原発は瀬戸内海を挟んで広島市から約100キロの距離にあります。それでも3号機の差し止めの決定が出たのです。決定は直ちに効力が生じるため、四国電は来年1月に定期検査が終了しても、司法判断が覆らない限り運転を再開できません。大分地裁もこれに続いてくれるといいのですが。

                 

                 

                 

                何よりも次なる巨大地震が迫っているときに、この勇気ある決定が出たことを、子供たちのために、その子供たちの子供たちのために喜びたいと思います。

                 

                 

                 

                大分地裁の裁判長が、すでに提出した私の意見陳述書を読んでくれているといいのですが。

                 

                『大分地裁裁判長への意見陳述書』

                http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=426

                 

                | 原発 | 14:45 | comments(0) | - |
                冬期講習会直前の時期になりました。
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                  以下の問題は、集中力を持続させるために中3生に解かせた数学の問題です。8人中4人しかできませんでした。全体像を理解し、この方法で解くしかないと決断し、手順を間違えないようにする力が、すなわち自分を信じる力がまだまだ不足しています。

                   

                   

                   

                   

                  ところで、毎年この時期になると、受験生は浮足立ってきます。勉強が上滑りになり、じっくり落ち着いて問題に取り組むことができなくなるのですね。受験がリアルな問題として前景化してくると、誰だれはどこの冬期講習会に行っている、などといった情報が飛び交い、ますます落ち着かなくなってきます。無理もありません。日頃から閉ざされた教室の中で他人のことばかり気にして生活しているのですから。

                   

                   

                   

                  自己宣伝ではありませんが、これまで高校受験での当塾の塾生の合格率は98〜99%です。140人近くが上野丘・舞鶴に合格していますが、毎年5〜6人が合格し続けた結果、集計すればそうなったというだけのことです。地元に密着して30年以上も塾をやっているためか、口コミで地域の優秀な生徒さんが集まってくれるようになったのです。

                   

                   

                   

                  「驚異的な合格率!」などと宣伝するつもりは全くありません。それを自分で言える神経が私にはわかりません。いや、わかりすぎるほどわかっているのです。しかし、金もうけがしたいだけの単なるバカになることがどうしてもできないのです。

                   

                   

                   

                  「そういった発想自体が時代遅れなんだよ!宣伝しないでどうして商品を売るんだ?」と批判されるかもしれませんが、「商品」を売っているという意識が私にはないのです。知性を身につけ、矛盾と欺瞞に満ちた社会を他人や組織に操られることなく、何とか生き延びて幸せになってもらいたいという思いで生徒に勉強を教えているのですが、それが「商品を売る」ことだとはどうしても思えないのです。生徒や親御さんを「お客さん」だとも思いません。「買い物以外に、この世の中で大事なことはない」と思い込まされている「お客さん」を相手に、いったいどうやって勉強を教えることができるでしょう。

                   

                   

                   

                  それどころか「集客」にはかえってマイナスになる内容のブログをこうして書いています。それで、生徒や親御さんとの教育方針のミスマッチを防ごうとしているのです。ある意味「驚異的な合格率!」なる宣伝文句につられて入塾してきそうな「お客さん」にはご遠慮いただいているとも言えます。

                   

                   

                   

                  どこかの塾長のように、第三者になりすまして自塾を宣伝し、一橋大学出身という学歴をニセの管理人に「足元にも及ばない」と言わせて「集客」することなど思いつきもしません。ネット社会とは表の顔と裏の顔の隔たりが大きい社会のことです。「なりすまし」は当たり前だと思っていた方がいいのです。

                   

                   

                   

                  ところで、最近は部活の疲労のためか、授業中に居眠りする生徒が増えてきました。そんな時、私は次のように言います。

                   

                   

                   

                  「部活をした後、あわてて夕食をとり、塾に来れば眠たくなるのは当然だね。眠るなとは言わない。それでなくとも君たちの年頃は眠たい盛りだからね。時々、瞬間的に意識が遠のいている人もいる。でもこれだけは覚えておいて下さい。君たちのお父さんやお母さんが一生懸命働いて月謝を納めているわけです。その上、車で送り迎えもしてもらっている。だから塾に来ている時間くらいは、なんとか我慢しなさい。それが君たちの義務です。僕が一番残念なのは、せっかく塾に来ているにもかかわらず、塾を生かし切れていない人がいることです。頻繁に居眠りをしている人から月謝をもらうわけにはいきません。僕のそういう気持ちが限界に達した時には、退塾を言い渡すので、恨まないように。」と。

                   

                   

                   

                  それにしても、冬「休み」になって学校から解放されたと思う間もなく、塾の冬期講習会で教室の中に何時間も閉じ込められれば、発想のみならず身体も委縮してしまいます。たかが高校入試なのに、それがとてつもなく大きな壁に見えて来て、神経質になればなるほど、解ける問題も解けなくなります。

                   

                   

                   

                  高校入試の時も大学受験の時も、私は子供には普通に家の手伝いをさせていました。「人並みに受験生扱いしてもらいたい」と子供が言った時には「何が受験生だ。甘えるんじゃない!」と叱ったものです。やたら子供のことを心配して情報集めに奔走する今のお母さんからは理解されないでしょうね。それどころか、離婚されるかもしれません。おお〜こわい。

                   

                  | 中高生の皆さんへ | 13:55 | comments(0) | - |
                  後は野となれ山となれ
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                    今回は忘れないようにブログに書き留めておきたいことがあります。12月7日、私が大分駅前で伊方原発の差し止めを訴えるビラを配り、大分地裁で裁判を傍聴していたまさにそのとき、経団連の榊原定征会長は、四国電力の伊方原発(愛媛県伊方町)を視察していました。佐伯勇人社長から再稼働した3号機の運転状況や安全対策の説明を受けた後、記者団に次のように語りました。

                     

                     

                     

                     

                    「原発は重要な電源としてこれからも使用していく。将来は増設や新設も選択肢にしないといけない」「(四国電力は)福島の原発事故を教訓に万全の対応をとっているようだ。しっかり安全を確保してほしい」と。(朝日新聞デジタル)

                     

                     

                    世界の潮流を全く無視した、こうした経済界トップの時代錯誤の発言を見ていると、日本経済が中国に大きく後れをとるどころか、もはや挽回不可能だと改めて思わざるをえません。

                     

                     

                     

                    中国は福島の事故を分析し安全性確保に限界を感じ、更に原発のコストは海上、風力発電より高く経済的な面からも競争には勝てないとして原発を捨て、クリーンエネルギーに切り替えたのです。

                     

                     

                     

                    皆さんは2012年、福島第一原発の事故後わずか1年しかたっていない時点で、日本の財界が大飯原発を再稼働させるために使ったロジックを覚えているでしょうか。彼らはこう言いました。

                     

                     

                     

                    「原発を再稼働しなければ電力コストが上昇して、日本企業の国際競争力は低下する。だから、再稼働しないのであれば、われわれは日本を捨てて製造拠点を海外に移す。そうすれば国内の雇用は消失し、地域経済は壊滅し、法人税収は失われるがそれでもいいのか。」と。「それで日本経済がどれほどのダメージを受けても、それは原発再稼働を渋った政府と日本国民の責任であり、われわれは関知しない。」と。

                     

                     

                     

                    これは明白な恫喝であり究極の自己責任論です。この恫喝に屈して、ヘタレの野田政権は原発再稼働を容認したのです。

                     

                     

                     

                    日本の財界のトップが金儲けの口実に使う「国際競争力の低下」は、原発の再稼働や新設・増設をしないことによってではなく、中国の脱原発への転換によって現実になるでしょう。そのときになって、脱原発へと舵を切れなかった自分たちのふがいなさ、勇気のなさ、不見識を嘆いたところで手遅れです。

                     

                     

                     

                    さらに忘れてならないのは、財界が使ったロジックは日本人の価値観を変えるほどの影響力を持っていたことです。それは、経済活動に倫理や道徳は不要だということを公に宣言するものだったのです。

                     

                     

                     

                    このとき日本人は「1円でもコストの安いところで操業するのが企業の常識である。創業している地域での雇用創出や経済波及効果を保証する義務は企業にはない」という新自由主義の価値観を受け入れたのです。経済評論家や学者たちは、それに異を唱える者を経済音痴だとバカにし、思考を放棄しました。それがやがて格差社会に根を張ったアベノミクスというあだ花を咲かせることになります。

                     

                     

                     

                    一方で、それは常軌を逸した時間外労働を社員に課す原因ともなりました。電通の高橋まつりさんが自殺したのも、こういった企業文化の下地があったからです。しかし、この事件が電通ではなく、名もない中小企業で起こっていたら、どうなっていただろうかと思わずにはいられません。

                     

                     

                     

                    日本の大企業とそのトップは、道を見失っています。以下はその証拠です。

                     

                     

                     

                    国内製造業では神戸製鋼所、日産自動車、三菱マテリアル、東レ(経団連会長のひざ元)とデータ改竄が続出しています。さらに、原発事業に手を出したばかりに、東芝はその結果生じた巨額損失を埋め合わせるため、屋台骨であった半導体メモリーの売却契約を結ばざるを得なくなりました。

                     

                     

                     

                    加えて、リニア中央新幹線関連工事を巡り、東京地検特捜部が偽計業務妨害容疑で大手ゼネコン「大林組」の強制捜査に着手したとのニュースも飛び込んできました。国の財政投融資も活用された総工費9兆円を超える事業での不祥事です。JR東海は無関係だとコメントを出しています。

                     

                     

                     

                    さてもう終わりにしましょう。ここまで見てきたように、原発再稼働を進める財界と政府の根底にある退廃した考え方をひとことで言うなら「後は野となれ山となれ」です。今の私にはこれ以上適切な言葉を思いつくことができません。

                     

                    | 原発 | 23:25 | comments(0) | - |
                    なくてはならないもの
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                      土曜日の午前、初冬の朝の白い光の中で本を読んでいると、背後で突然何かが家にぶつかる音がしました。鈍い音ですが、家を揺るがすような衝撃です。

                       

                       

                      妻がびっくりして駆け寄ってきました。私が背にして座っている大きなFIXのガラス窓の外を見て、悲鳴を上げました。ガラス窓は縦2、5メートル、幅80センチの大きさです。それが6枚連なりR状となって中庭に面しています。

                       

                       

                       

                      妻が悲鳴を上げた瞬間、私は何が起こったのか理解しました。体長20センチはあろうかと思われるヒヨドリがガラス窓に衝突し、テラスの上に落ちていました。窓には産毛がこびりついています。

                       

                       

                      また一つ命を奪ってしまったと思い、自責の念がこみ上げてきました。またというのは、一年に一度くらいの頻度で鳥がわが家の窓にぶつかるからです。たまに山鳩もいますが、ほとんどが猛スピードで飛んでくるヒヨドリです。窓に映った樹木や空の色のために、障害物があることに気づかないのです。

                       

                       

                      ぶつかった直後のヒヨドリ。くちばしを開け、息も絶え絶えの様子です。

                       

                       

                       

                      衝突したヒヨドリが腹を上にしてひっくり返っているときは、首の骨を折って即死状態です。ところが今回のヒヨドリは、かろうじて両足を踏ん張り、ふるえながら立っています。

                       

                       

                      「脳しんとうを起こしているだけで、助かるかもしれないよ。」と言って妻を安心させ、テラスに出てみました。ヒヨドリは人の気配や音を察知した瞬間に逃げる敏感な鳥です。そのヒヨドリが、くちばしを開け、じっとしています。

                       

                       

                       

                       

                      近づくと向きを変えました。さすがにすずめ科の鳥です。すずめに似ていますね。でも大きさが違います。すずめの3倍はあります。飛ぶスピードは断然速く、いつもつがいで行動しています。「ピー」と鋭い甲高い声で鳴きます。フルーツが大好物で、いつも家のジューンベリーやブルーベリーの実を食べにやってきます。

                       

                       

                       

                       

                      スマホで写真を撮ろうと近づきました。逃げません。くちばしをかすかに動かしています。それから小一時間ほどじっとしていました。部屋に戻り見守っていると、首を左右に動かし始めました。これは意識が戻ってきた証拠です。「これは助かるな」と言って妻を呼びました。その瞬間、多少ふらついているようでしたが、中庭の大きなケヤキの枝に飛び移り、裏山の方へ飛び去っていきました。

                       

                       

                       

                      その時読んでいた本は、時々ブログで紹介する『長田弘全詩集』です。その中に「なくてはならないもの」という一編があります。

                       

                       

                      「なくてはならないもの」

                       

                      なくてはならないものの話をしよう。

                      なくてはならないものなんてない。

                      いつもずっと、そう思ってきた。

                      所有できるものはいつか失われる。

                      なくてはならないものは、けっして

                      所有することのできないものだけなのだと。

                      日々の悦びをつくるのは、所有ではない。

                      草。水。土。雨。日の光。猫。

                      石。蛙。ユリ。空の青さ。道の遠く。

                      何一つ、わたしのものはない。

                      空気の澄みきった日の、午後の静けさ。

                      川面の輝き。葉の繁り。樹影。

                      夕方の雲。鳥の影。夕星の瞬き。

                      特別のものなんてない。大切にしたい

                      (ありふれた)ものがあるだけだ。

                      素晴らしいものは、誰のものでもないものだ。

                      真夜中を過ぎて、昨日の続きの本を読む。

                      「風と砂塵のほかは、何も残らない」

                      砂漠の歴史の書には、そう記されている。

                      「すべて人の子はただ死ぬためにのみ

                      この世に生まれる。

                      人はこちらの扉から入って、

                      あちらの扉から出てゆく。

                      人の呼吸の数は運命によって数えられている」

                      この世に在ることは、切ないのだ。

                      そうであればこそ、戦争を求めるものは、

                      なによりも日々の穏やかさを恐れる。

                      平和とは(平凡きわまりない)一日のことだ。

                      本を閉じて、目を瞑る。

                      おやすみなさい。すると、

                      暗闇が音のない音楽のようにやってくる。

                       

                      ※「  」内はフェルドウスィー『王書』より。

                       

                      | 文学・哲学・思想 | 16:52 | comments(0) | - |
                      腐ったトップが居座り続けていたら、この国は滅ぶぜよ!
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                        昨日は昼過ぎから大分駅前で1時間ほど伊方原発の差し止めを訴えるビラを配りました。「こんにちは。伊方原発を止めましょう。よかったら読んで下さい。」と声をかけます。声をかけた人の半分には無視されます。受けとってくれた人には「ありがとうございます。」と頭を下げます。

                         

                         

                         

                        高校生の多くは、まったくの無関心でスマホを見ながら通り過ぎるだけでした。でも、私の目を正面から見つめて「読んでみます!」と言ってくれた女子高生がいました。無視されて当然と思っているので、そういう若者に出会うと、砂漠の中でオアシスに出会ったような気になります。だから私は女子高生が好きです、なんちゃ・・・おっといけない、つい口癖になってしまいました。

                         

                         

                         

                        その後はいつものように大分地方裁判所で裁判の傍聴をしました。裁判所に通うようになってもう一年が過ぎたのかと、時の流れの早さにしばし感慨にふけりました。

                         

                         

                         

                        それにしても四国電力は何を守りたいのでしょうか。会社は黒字ですし、電気も足りているどころか余っています。電源三法、総括原価方式に守られて、さらなる利益を積み上げたいのでしょうね。原発立地にお金をばら撒き、被害想定区域を極端に狭め、住民避難はアリバイ程度にしか考えていません。以下の画像をご覧ください。

                         

                         

                        四国電力のクリーンエアドーム

                         

                         

                         

                        「四国電力」は今年の10月24日、伊方発電所の西側3カ所に、万が一の原発事故に備えてクリーンエアドームの配備を決定したと発表しました。クリーンエアドームは短時間で簡単に設営ができ、空気浄化ユニットが装備されているそうです。

                         

                         

                        報道によれば、セシウムやヨウ素の除去フィルターで、外気から放射性物質の99%以上を除去したクリーンな空気をドームに送ることができるとのことです。3カ所でドーム8基、収容人数の合計は約600人。でも東西に細長い佐田岬半島には原発より西側に約4700人が暮らしています。残りの4000人以上はどうなるのでしょうか。あきらめてもらうほかないということです。

                         

                         

                        いかにも住民のことを考えているようで、これは四国電力の単なるアリバイ作りです。実際に南海トラフ地震が起これば、設営などしている暇はないでしょう。設営場所になっている体育館自体が崩壊する可能性もあります。

                         

                         

                        伊方原発が過酷事故を起こせば、ウランとプルトニウムの混合物であるMOX燃料が熔融し、高濃度の放射性物質が風に乗って愛媛県、大分県をはじめとして瀬戸内海全域を汚染し、関西にまで至るのです。被害は福島原発の比ではありません。大げさではなく、確実に日本は終わります。

                         

                         

                        そもそも、佐田岬半島の住民4700人を避難させることなど不可能です。船で大分県へ避難する訓練をしていましたが、当の避難民が「現実的だとはとても思えない」と言っています。地震や津波によって陸路が寸断された場合にどうやって港まで行けと言うのでしょう。避難訓練はエアドームと同じく全くの茶番でしかありません。

                         

                         

                        それにしても、高濃度の放射性プルームが次々に襲ってくる中、エアドームの中に取り残された人々を、あるいは半島で孤立無援に陥っている人々をいったい誰が救助に向かうのでしょうか。自衛隊や地元の消防団、警察がその役を担わされるのでしょうか。しかし、それは福島のような平たんな地形で放射能汚染の被害を受けなかった場所での救助をイメージしたものです。地形も放射性物質の危険性も、伊方の方が何倍も上です。

                         

                         

                        こういったリスク(保険では補填できないので電力会社は保険に加入できません)を抱えているにもかかわらず、四国電力は伊方原発を稼働させています。電力会社のトップは、株主である銀行の利益とおこぼれにあずかることしか考えていません。

                         

                         

                        政府に対する「忖度」もあるでしょうが、政府を動かしているのは自分たちなので、官僚のセコイ「忖度」とは次元が違います。「忖度」というよりも、圧力に近いのです。それが証拠に、鹿児島の川内原発の再稼働に関しては、安倍首相は九州の財界人に対して「(再稼働は)何とかしますから」と約束までしました。

                         

                         

                         

                        要するに、財界のトップも政権のトップも人命よりも金儲けを優先しているのです。何という道徳的な退廃でしょう。坂本竜馬ではありませんが、「腐ったトップが居座り続けていたら、この国は滅ぶぜよ!」と叫びたくなります。

                         

                         

                        国民の立場に立てば、この期に及んで原発を動かす理由は何一つありません。あるとすればすべて屁理屈か科学に名を借りた詭弁に過ぎません。再稼働の理由の最も強固なものが「経済」でした。今でもリスクマネジメントやリスクコミュニケーション、ゼロリスクなる言葉を使って、国民を煙に巻くバカな経済評論家は後を絶ちません。

                         

                         

                        私は頭がピーマンの彼らを批判してきましたが、豚に真珠、馬の耳に念仏でした。しかし、彼らの出番は終わったのです。用済みです。なぜなら中国までもが脱原発に舵を切ったからです。その理由は発電コストと危険性です。12月4日のNHK『クローズアップ現代』がこのことを取り上げていました。以下の記事、『中国“再エネ”が日本を飲み込む!?』を是非お読みください。

                        http://www.nhk.or.jp/gendai/articles/4072/index.html

                         

                         

                        ネトウヨたちが中国や韓国に対してヘイトスピーチを撒き散らしている間に、中国の首脳は日本のはるか先を見通していたのです。(こんなことを書くと、Y田ゼミ塾長に「お前は中国のスパイか」と言われそうですね)再生可能エネルギーの開発に人的物的資源を大量に投入し、自動車のみならず先端技術では日本のはるか先を行っています。

                         

                         

                        しかも背後には広大な大消費地が控えています。コスト競争では日本は中国に太刀打ちできません。財界と政府のトップに、多少なりとも先見の明と国民の立場に立った構想力があれば、こんな体たらくに陥らずにすんだのです。先端技術の開発を下支えする大学のレベルも今や崩壊寸前です。

                         

                         

                        以上要するに、日本は二つの面で崩壊の危機にあります。

                         

                        その1:地震と津波および放射能汚染によって国土が実質的に消滅する危機。

                        その2:再生可能エネルギーや電気自動車に見られるように、先端技術の開発の遅れにより中国はもとより世界から取り残され、経済が大きく停滞する危機。

                         

                         

                        この危機を回避する方法は一つです。しかし絶望的に難しいでしょう。なぜならそれは私たち一人一人の生き方の転換を必要としているからです。この点では、私は極めて悲観的です。もう一度原発事故が起こって、国土の半分以上が無人の荒野にでもならない限り人々は目覚めないでしょう。私はビラ配りをしてそれを痛感しました。

                         

                         

                        「自分が何もしなくても問題を解決してくれるエリート」などどこにも存在しません。ブログで散々書いたように、エリートは無責任な大衆が妄想と願望で作り出した架空の存在です。ただの人である私たち一人ひとりが行動を起こさない限り、この世界の問題は1ミリも先に進まないし、何も解決しないのです。

                         

                        | 原発 | 17:47 | comments(0) | - |
                        バカでも慶応大学大学院教授になれます。
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                          私は他人をバカ呼ばわりしたことはあまりありません。こういう言葉を使うのは思考の怠慢なのです。本来なら、どこがどうバカなのかを説明しなければなりません。かつては養老孟司氏の『バカの壁』を売らんかなのタイトルだとして批判したこともあります。ですから、私がバカという言葉を使うのは、よほどのことだと御理解下さい、なんちゃって。いやいや、のっけからこれではいけません。

                           

                           

                           

                          言い訳がましいことを言うようですが、バカという言葉を使うのは、批判する対象が本当にバカである場合と、私の語彙力不足が原因です。要するに、他に言葉が思いつかないのです。

                           

                           

                           

                          自分のブログを読み直すとバカという言葉は三度使われていますが、これ以上ないタイミングで適切に使われていると思います。しかもそれは安倍政権がお友だちを優遇するために国家を私物化していることが明らかになって以降のことです。

                           

                           

                           

                          では始めましょう。そうは言っても、なるべく手短に済ませます。時間がもったいないし、疲れるだけですから。今回の批判のお相手は岸博幸氏。テレビでよく見かける官僚上がりの電波芸人、いや、小泉純一郎内閣のときに竹中平蔵元経済財政担当相に秘書官として仕え、今は慶應義塾大学大学院メディアデザイン研究科教授です。

                           

                          岸博幸氏。

                           

                           

                           

                          それにしても、「メディアデザイン研究科」は何を研究しているのでしょうか。テレビに出演し、どうでもいいそれらしいことをしゃべって安倍政権を持ち上げ、ちゃっかりギャラを稼ぐ研究をしているのでしょうね。慶應義塾大学も墜ちるところまで墜ちました。

                           

                           

                           

                          岸博幸氏のような自分のことをバカだとは思っていないバカを批判しようと思ったのは、彼が前文部事務次官の前川喜平氏を「官僚のクズ」と呼んだのがきっかけです。今回は二点だけに絞って書きます。本格的に批判すれば夜が明けてしまいますからね。

                           

                           

                           

                          私は『本物の国語力は生き方とリンクしている』と書きました。中高生の皆さんには退屈で難しいかもしれませんが、そのことを確かめる絶好の教材です。純然たる論理の問題で、堂々とすり替えをやっていながらそのことに気づかない。気づいているとしたら、道徳的に退廃した信用できない人間だということになります。

                           

                           

                          先ず以下の記事をお読みください。逐一批判したいのですが、中高生の皆さんにとって重要だと思われるところだけを青字で批判してみます。

                           

                           

                           

                          ― 岸博幸・慶大院教授インタビュー 「加計学園問題は改革つぶし」「前川は官僚のクズ」―

                          http://www.sankei.com/politics/news/170612/plt1706120032-n1.html

                           

                           

                           

                          岸博幸氏いわく、「前川喜平前事務次官が「総理のご意向」で「行政がゆがめられた」と証言した。だが、特区を活用した加計学園の獣医学部新設に問題があるのであれば、国家戦略特区諮問会議やワーキンググループで異議を唱えればいい話だった。(ハイハイ、後からなら何とでも言えます。それにしても岸博幸氏は元官僚だったはずです。権力のありかにここまで鈍感でよく仕事ができましたね。後に述べる前川氏の「面従腹背」が理解できないのも無理はありません。)

                           

                           

                           

                          でも現実には止められなかったのは、文科省には説得材料がなかったからだ。(因果関係をわざとすりかえています。文科省には説得材料がなかったから、というのは原因ですよね。でも本当の原因は官邸や総理の意向という無言の圧力があったことです。自分の保身のために本当の原因を隠しています。このようにわざと因果関係を切断して、ウソの事実を忍びこませるのが官僚上がりの電波芸人の常套手段です。気を付けましょう。因果関係をたどる力は重要な国語力です。)

                           

                           

                           

                          それは理解できているのだろうか。(オマエが言うな!Y田ゼミ塾長氏の言い方を真似しました。)

                           

                           

                           

                           

                          こんなことで行政がゆがめられたというならば、政治主導は全て行政をゆがめることになる。岸博幸氏は anyとallの違い がわかっていません。段ボール箱の中にリンゴがたくさん入っているとします。その中の一つが腐っていたら、すべてのリンゴが腐っていることになるのでしょうか。岸博幸氏はもう一度ゼロから勉強をし直すべきです。どれでもいいから取りだした任意の一つのリンゴが腐っていれば、すべてが腐っていることになります。これが any です。この違いが分かっていれば「政治主導は全て行政をゆがめることになる」などという結論はバカでなければ出せません。事実は、行政をゆがめる政治主導もあれば、そうでないものもある、です。前川氏は行政をゆがめる政治主導があったと言っているのです。)

                           

                           

                           

                          安倍首相の「ご意向」は岩盤規制の突破だった。(はあ〜?安倍首相の「ご意向」は、岩盤に、お友だちの加計孝太郎氏だけが通れる穴をあけることだったのは明らかです。そのために京都産業大学は弾き飛ばされました。)

                           

                           

                           

                           

                          仮に「総理のご意向」が働いたとしても、間違った行政は修正するのが当然だ。(ここまで来ると、なんだか脱力してきます。「間違った行政は修正するのが当然だ」との発言は、巧妙なすり替えです。これは国家戦略特区ワーキンググループ座長である八田達夫氏の「(総理の意向で)不公平な行政が正されたと考えている。獣医学部の新設制限は日本全体の成長を阻害している」との発言と同じです。前川氏が問題にしたのは、獣医学部新設の是非ではなく、それを決めるプロセスの公平さです。それを「間違った行政」と呼び、「修正するのが当然だ」という結論に持っていこうとしています。巧妙というか、アホらしくて問題にもなりません。)

                           

                           

                           

                           

                          首相が規制改革の意向を表明しても実現できていない改革なんて、腐るほどある。だから、「総理のご意向」があるから逆らえなかったというのは間違っている。

                          安倍内閣が人事権を握っているから逆らえないともいわれるが、本当に日本のために必要だと思うなら、クビを恐れずにやればいい。自慢する気はないが、竹中氏の秘書官として不良債権処理をやっていたときは、竹中氏が失敗したら私も辞めるつもりでいた。人事権を握られたぐらいで何もできないなんて、その程度の志しかない人間が偉そうにモノを言うなと思う。(やれやれ。岸博幸氏よ!あなたたちが「不良債権処理」とやらをやっていたとき、それを妨害する総理や官邸からの圧力があったのか?小泉総理はあなたたちを全面的にバックアップしていたではないか。)

                           

                           

                           

                           

                           前川氏の座右の銘は「面従腹背」だそうだが、論外だ。(岸氏よ、論外はあなたの方だ!そもそも岸氏には「面従腹背」が理解できないのです。本物の国語力は生き方とリンクしているから。前川氏は最終的に国民のことを考えていたからこそ、「面従腹背」を座右の銘とし、精神の平衡を保っていたのです。岸氏のように保身のために「面従」するしか能のない人間に理解できないのも無理はありません。それでいて前川氏を「官僚のクズ」呼ばわりするのですから、どこまで幼稚で「バカ」なのでしょうか。理解できないものを生理的に嫌悪するというネトウヨの生き方を内面化しています。デカルトの「仮装されたポリティーク」でも読んではどうか。どうせ理解できないでしょうが。)

                           

                           

                           

                          疲れたのでやめにします。長い文章をここまで読んでくれた中高生がいるでしょうか。もしいたとしたら、心からありがとうと言いたいです。私が『本物の国語力は生き方とリンクしている』を書いたのも、皆さんに本物の知性を身につけてもらいたいという一心からでした。またお会いしましょう。

                           

                          | 中高生の皆さんへ | 13:05 | comments(0) | - |
                          小学生の英語の授業風景−その2
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                            今回は未来塾の小学校6年生の英語の授業を紹介します。使用しているテキストは英検や高校入試を意識したものではありません。中学校の教科書でもありません。テキストは以前紹介したBeatrix Potterさんの『 Peter Rabbit 』です。

                             

                             

                             

                             

                             

                             

                            ちなみに、この画像にある3ページ分の英語を書き出してみます。

                             

                             

                            Peter gave himself up for lost, and shed big tears ; but his sobs were overheard by some friendly sparrows, who flew to him in great excitement, and implored him to exert himself. Mr. McGregor came up with a sieve, which he intended to pop upon the top of Peter ; but Peter wriggled out just in time, leaving his jacket behind him, and rushed into the tool-shed, and jumped into a can. It would have been a beautiful thing to hide in, if it had not had so much water in it.

                             

                             

                            この英文を小学校6年生がスラスラと音読します。しかも全部読むのにかかる時間はストップウオッチではかると30秒弱です。その後全文暗唱し、最後は暗唱した英文をテキストを見ずに書ける(暗写)ようになっています。

                             

                             

                             

                            御存じの方も多いと思いますが、この文は『 Peter Rabbit 』の中の難しい部分ではありません。この本は半分が可愛らしいイラストですが、それを除くと、このレベルの英文が合計35ページあります。

                             

                             

                             

                            私は文法の説明をほとんどしません。ただ、文の意味は情報提示の流れを意識させながら何度も説明します。次に、英語を見ずに、まず日本語でストーリーを再現してもらいます。この部分が重要です。なぜなら、丸暗記するだけでは、いったん英語を忘れると続きが出てこなくなるからです。「続きはどうだったかな。忘れたら、日本語で言ってみて」と促します。

                             

                             

                             

                            以下は生徒とのやり取りです。

                             

                            「グースベリーのネットにつかまったピーターはどうした? gave himself up for lost したんだね。それで大粒の涙を流している。じゃあ、gave himself up for lost はどんな意味?」

                             

                            「お父さんと同じようにパイにされると思った。あきらめた。」

                             

                            「その通りだね。君たちがそういう状況になったときのことを想像して、この言い方を覚えて。(この時点で、消える音、つながる音を教えているので、子供たちは見事に発音します。読めなければ覚えられないのです。しかも日本語のように一語一語区切って読んだのでは、リスニングができなくなります)」

                             

                            「それから、ピーターの泣き声を聞いてスズメたちが飛んできた。そのときスズメたちのようすはどうだった?」

                             

                            「みんなパニックだった。」

                             

                            「そう。それを表わすのが in great excitement という表現だね。この in という小さな単語に注意して。それからどうしたの。」

                             

                            「ピーターに逃げてくれと言う」

                             

                            「それが imploreという単語。implore は難しい単語だけど、もうダメだとあきらめたピーターを励ますように、頼むように発音しないとね。そこにマクレガ―さんがやってくる。seive はどんな意味だろう。イラストを見るとわかるよ。」

                             

                            「ざる!」

                             

                            「う〜ん、イラストをよく見て。ざるかな?」

                             

                            「ふるい!」

                             

                            「正解!よく知ってるね。(それからひとしきりふるいについて説明する)」

                             

                             

                             

                            こういったやり取りが発音の矯正とともに続きます。まかり間違っても、下線部の「, who」や「, which」は関係代名詞の非制限用法、「, leaving」は分詞構文。最後の would have been は仮定法過去完了などと口にしてはなりません。もちろん中学生に対しても同様です。

                             

                             

                             

                            メタ言語(言葉そのものではなく、その言葉の文法構造を説明する用語)を教えることは、高校生なら多少意味がありますが、小学生に教えてはなりません。それは発話の意欲をそぐだけです。ひいては生き生きとした想像力を枯渇させます。

                             

                             

                             

                            would have been (ウダヴベン)の説明より、まず「あのとき〜していたら、・・・だったんだけど」という言い方を「日本語で」できるだけ多く発表させます。日本語に対応する英語の言い方があるんだと安心させるためです。もちろん対応する言い方がない場合もあります。それはそれで、また深い勉強になります。

                             

                             

                             

                            いずれにせよ、私は中学受験のための対策や先取り学習はしません。必要性も有益性も感じられないからです。ましてや、中学受験に特化した都市部の塾(四谷大塚やY-SAPIXなど)のテキストを使っていることを宣伝したり、授業の代わりに業者の作成したDVDを見せて上前をはねるようなことはできません。それより、小学生の時期は、身体を鍛え、想像力を膨らませ、自然の不思議に目覚めさせる時期です。自然は混沌としていて、偶然性と例外に満ちています。すぐに「わかった」「できた」というのは、何かをじっくり探求する精神から最も遠いのです。

                             

                             

                             

                            それでなくても、ネット社会の出現で、物事を調べるあらゆるプロセスが殺菌され漂白されています。効率よく知識に到達できるので、学びのリアルさが失われてしまったのです。それは生きるということそのものからリアルさが失われることを意味します。世界のあらゆる発明や発見は偶然の僥倖による副産物なのです。当初の予想が外れたことで何かに偶然出会う。そんな経験を蓄積し、受容する場が減っている気がします。

                             

                            | 英語教育 | 21:39 | comments(0) | - |
                            それでも世界はうつくしいと−「長田弘全詩集」より。
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                              11月19日のブログを書いた時、頭にあったのは、イサム・ノグチのような突出した芸術家は、社会的な階層からも、教育制度がもたらす様々な制約、弊害からも自由であるということでした。

                               

                               

                               

                              つまり、彼の作品は、言葉や数式によって精緻に組み立てられた意識的な世界ではなく、身体感覚を全開にして自然の発するメッセージを受けとめている宇宙的でエロス的(生命の根源にあるもの)な作品なのです。

                               

                               

                               

                              そのとき、ワインの話をしました。ワインの味はつまるところ文化的・社会的階層で決まるもので、単なる味覚の問題ではないということを指摘しました。なぜそんなことを話したかというと、ワインの味を最終的に決めるのは生産地の歴史や文化であり、文化である以上、個性的で大量生産にはなじまないもののはずだと言いたかったのです。

                               

                               

                               

                              ワインを「純粋に味覚の問題」だと考えるのは、偏差値に代表される線型の序列性の上に子供たちを位置づける教育のようなものです。偏差値は「テイスティングシート」によって子供たちを「識別」する役割を果たすだけです。一方で、様々な障害を持つ子供たちは「不良品」として別の「市場」に供給されます。

                               

                               

                               

                              大分県立美術館(OPAM)でイサム・ノグチ展を見る。」

                              http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=428

                               

                               

                               

                              そのときテイスティングシートに書かれる言葉は、隣接する数十種類のワインを「識別」するための言葉ではあっても、ワインの味そのものを表現する言葉ではないということです。仮に自由に表現できたとしても、それはある種の「芸風」の域を出ません。差異を識別するだけの言葉は、おそらく何かを探求する言葉としては使えないのです。これはとても大事なことです。  

                               

                               

                               

                              よく考えてみると、私たちが「味覚」という身体性にもとづく独自性の根拠としているようなものも、実は自分がある特定の社会的な諸関係・階層に集団として属していることを語っているに過ぎません。それは自分がどの位置にいるかということを教えてくれはしますが、自分の存在の根拠になるものではないのです。

                               

                               

                               

                              現在、日本の教育は、子供たちに将来少しでもいい値がつくように、つまり自己利益の最大化に奉仕することを目標に運営されています。子供たちは受験という「公平で平等で客観的な」関門をくぐるようになっているのですが、裏で合否を大きく左右している文化的・社会的階層をロンダリングする機能を果たしているのです。

                               

                               

                               

                              日本の高学歴「エリート」たちは、表向きは受験勉強の勝利者として自分がある特定の社会的な関係・階層に集団として属していることを意識しています。(意識していなければ単なるバカです。)それに見合った様々な特権を当然だと思っていることでしょう。しかし、繰り返しになりますが、それは自分がどの位置にいるかということを教えてくれるだけで、自分の存在の根拠になるものではないのです。

                               

                               

                               

                              人間とは不思議な存在です。社会的な成功を遂げても、どこかで自分の存在の根拠になるものを探さざるを得ない生き物だからです。それを放棄すれば内部から腐っていくほかありません。それについてはすでに書きました。

                               

                               

                               

                              「自壊する日本の高学歴「エリート」たち」

                              http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=279

                               

                               

                               

                              日本の教育がめざすべき方向は、人口減少社会の到来を繰り込んだ上で構想されなければなりません。それについては近いうちに書く予定です。

                               

                               

                              さて、高学歴「エリート」たちだけでなく、中高生の皆さんの中で悩み、ひとり震えている人に言いたいことがあります。それでも「世界は美しい」と。

                               

                               

                              以下は「長田弘・全詩集」の518ページから抜粋したものです。

                               

                               

                               

                              世界は美しいと

                              長田弘

                               

                              うつくしいものの話をしよう。

                              いつからだろう。ふと気がつくと、

                              うつくしいということばを、ためらわず

                              口にすることを、誰もしなくなった。

                              そうしてわたしたちの会話は貧しくなった。

                              うつくしいものをうつくしいと言おう。

                              風の匂いはうつくしいと。渓谷の

                              石を伝わってゆく流れはうつくしいと。

                              午後の草に落ちている雲の影はうつくしいと。

                              遠くの低い山並みの静けさはうつくしいと。

                              きらめく川辺の光はうつくしいと。

                              おおきな樹のある街の通りはうつくしいと。

                              行き交いの、なにげない挨拶はうつくしいと。

                              花々があって、奥行きのある路地はうつくしいと。

                              雨の日の、家々の屋根の色はうつくしいと。

                              太い枝を空いっぱいにひろげる

                              晩秋の古寺の、大銀杏(おおいちょう)はうつくしいと。

                              冬がくるまえの、曇り日の、

                              南天の、小さな朱い実はうつくしいと。

                              コムラサキの、実のむらさきはうつくしいと。

                              過ぎてゆく季節はうつくしいと。

                              さらりと老いていく人の姿はうつくしいと。

                              一体、ニュースとよばれる日々の破片が、

                              わたしたちの歴史と言うようなものだろうか。

                              あざやかな毎日こそ、わたしたちの価値だ。

                              うつくしいものをうつくしいと言おう。

                              幼い猫とあそぶ一刻はうつくしいと。

                              シュロの枝を燃やして、灰にして、撒く。

                              何ひとつ永遠なんてなく、いつか

                              すべて塵にかえるのだから、世界はうつくしいと。

                               

                              | 中高生の皆さんへ | 16:00 | comments(0) | - |
                              英語教育を云々する前に、人間としてやるべきことがある。
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                                たまには教室風景でも書いてみましょうか。以下の数学の問題は、二日前の中学3年生のクラスで解いたものです。問題のレベルは特別なテクニックや数学的センスを要するものではなく、じっくり集中して考えれば解けるものです。意欲のある中学生のみなさんは挑戦してみて下さい。塾では8人中6人の生徒が正解しました。

                                 

                                 

                                 

                                 

                                 

                                 

                                毎年この時期になるとこれまで学んだ知識を総動員しなければ解けない問題にチャレンジしています。一見すると問題は難しくなります。しかし逆に言えば楽しくなるのです。数学は試行錯誤の楽しさそのものだと言ってもいいくらいです。

                                 

                                 

                                 

                                たとえて言えば、名前と使い方を覚えた大工道具を使って実際に椅子やテーブルやチェストなどを作る工程に入るわけです。この工程を抜きにしては大工道具の使い方を本当に身につけたとは言えません。

                                 

                                 

                                 

                                つい先日も大工のナベさんに室内のリフォームをお願いしました。温めていたアイデアを伝えると即座に理解して材料を準備してくれます。下準備の時間を含めてわずか2時間、材料費込みで2万円の仕事でしたが、その手順といい、正確さといい、いつもながらのスピードには感嘆するほかありませんでした。相方のOさんのユーモアたっぷりの話しぶりも何とも云えず心がなごみます。大げさではなく、二人の身のこなしはアートそのものです。おそらく数学の問題を解く楽しさの本質はアートなのです。

                                 

                                 

                                 

                                話を元に戻しますが、私は生徒に問題を渡すとき次のように言います。「この問題を解くのに必要な知識は相似と三平方の定理をはじめとして全部で5つあります。残りの3つは何か考えて下さい。後は、知識の組み合わせ方と集中力、自分のやり方が正しいと思えばそれを押し通す勇気が必要です。解き方の分からない問題を前にして考えているときほど充実した時間はないね。解けなければ宿題にします。帰宅してからも考える楽しみがあるのですから最高のプレゼントでしょ。」と。

                                 

                                 

                                 

                                最初の頃は「マジかよ〜」という表情をしていた生徒も、最近ではまんざらでもないようです。試行錯誤の果てに、いくつかの定理や基本的な知識を組み合わせることで正解に近づいていることを実感すること、言い換えれば、それまで思ってもみなかった地平に立っている自分を発見できることが数学の醍醐味ですね。

                                 

                                 

                                 

                                そういうわけで、塾の授業から数学をはずせません。週2回、英語だけに特化した塾にすれば、中学卒業時点で塾生全員とは言わないまでも、8割の生徒を英検2級に合格させる自信があります。現に、いつの間にか2級に合格し、準1級にチャレンジしている生徒もいます。

                                 

                                 

                                 

                                しかし、私たちの国で生きて行くのに英語がそれほど必要でしょうか。英検2級に合格しても、高校入試や大学入試で考慮されることはありません。準1級や1級に合格していれば大学入試で多少は有利になるかもしれませんが、社会に出て仕事に役立つかと言えば、まずそれはないでしょう。中国語ができる人の方が需要はあるでしょう。英検は英語の勉強を続ける意欲につながると思う人が個人的に受験すればいいだけのことです。

                                 

                                 

                                 

                                身も蓋もないことを言えば、日本人が英語を話せないのは技術的なこともありますが、話したいことがそもそもないのです。私はブログを書く前に、内容をすべて英語で発表することをシュミレーションしています。たとえつたない英語でも、聞くに値する中身があれば、耳を傾けてくれる人はいるのです。

                                 

                                 

                                 

                                日本の学校教育では、たとえ少数意見であれ、自分の意見を堂々と発表できるだけの意欲を育てていません。空気を読むだけで、他者に向けて自分の意見を発表する意欲のない若者を育てておきながら、いったいどうやって外国語を勉強しろと言うのでしょうか。

                                 

                                 

                                 

                                それにしても、ろくに英語もできない財界人がグローバリスト養成に躍起になるのはどうしてでしょうか。その方が日本の富をたやすくアメリカに売り渡せるからです。肌の色は黄色ですが、中身は「名誉白人」になろうとしている人間のなんと多いことか。英語教育を云々する前に、人間としてやるべきことがある筈です。

                                 

                                 

                                 

                                森友学園の籠池氏は、下手をすれば偽証罪に問われるリスクを背負って国会で証言しました。しかし、安倍政権は何一つ情報も出さず、証拠となるべき公文書は廃棄されたことになっています。籠池氏は、そんな安倍政権に嘘つき呼ばわりされた挙句、裁判も受けられないまま4ヶ月も勾留されています。

                                 

                                 

                                 

                                一方、学園に深く関与し、国有地取引に「神風」を吹かせた昭恵夫人は安倍首相と自民党に守られて自由を謳歌し、加計学園の加計考太郎氏は雲隠れしたままです。私はこの状況をなんとかすることの方が、英語ができるバカを育てるよりはるかに重要だと思います。これが人間としてやるべきことです。そうではありませんか?

                                 

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