今年の高校入試も順調なすべり出しです。国立高専を志望していた3人のうち、推薦入試を受験したN君、K君がみごとに合格しました。N君は3年間、K君は5年間私の塾に通ってくれました。N君とは入試前に小論文の書き方を勉強しましたが、少しは役に立ったでしょうか。後は一般入試でチャレンジするA君の合格を待つばかりです。上野丘、舞鶴を志望している人も、まず間違いなく合格するでしょう。
昨日は授業の終わりに、適性と「時機」について話しました。そもそも適性とは何でしょうか。その人の才能や性格や将来性のことを指すのでしょうか。ほら、わからないでしょ。ちょっと考えるだけでも意味不明の言葉が、進路を決める時に独り歩きしているのです。このことはすでに書きました。中高生の皆さんにも参考になるのでよかったらお読みください。
『贈る言葉 ・ 中学3年生の皆さんへ。』
http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=318
今回は「時機」について話します。正直に言うと、私は中学、高校、浪人時代を通じて、受験勉強に本気で向き合うことがついにできませんでした。だから「本気で」受験勉強に取り組んでいる人を見ると、ただただ感心するばかりでした。きっと将来の夢をはっきりと思い描いていたのでしょうね。
でも、私のような人間もいるのではないでしょうか。案外多数派かもしれませんね。そのせいか、私は塾教師として、生徒を「本気で」勉強に追い込むことができません。本気になるのはあくまでも生徒の皆さんですから。
いずれにせよ、大切なのは普段の学習環境です。東大に合格することが教育の最良・最高の結果などとは一ミリも思っていない大人がいて、それに変わる価値を示し、ともに知的トレーニングに励む場所が私の塾です。
ところで、人間には、その人の持っている能力が開花する「時機」があるような気がします。「桃栗三年、柿八年」という言葉があります。しばらく会っていない昔の生徒に会うと、それがよく分かります。ああ、やっぱり○○君は「柿」だったんだ。○○さんは「桃」で、○○君は「栗」だったのかもしれないという風に。それぞれに立派な実をならせているのを見るとうれしくなります。
「桃栗三年、柿八年」という言葉は、母が良く唱えていました。私のようなできの悪い息子を育てながら、この子は桃や栗のように三年で実がなりはしない、一人前になるには時間がかかるだろうと自分に言い聞かせていたのだと思います。
そのリズムのよさも手伝って、私もすぐに覚えました。広辞苑第6版によると「芽生えの時から、桃と栗とは三年、柿は八年たてば実を結ぶ意。どんなものにも相応の年数があるということ」とあります。「何かに取り組んだとき、すぐに結果を求めたがる人に対して、まずは地道な努力が大切と、言い聞かせる場合に使われることが多い。」とのことです。
はたしてそうでしょうか。これは「地道な努力が大切と、言い聞かせる」ための言葉でしょうか。もっと深い意味があるような気がします。人間には器というか「時機」がある。実がなるのに8年かかるのに、3年で実をならせようとすれば、果樹であれ、人間であれ、可能性をつぶしてしまう。それどころか、世の中を息苦しく住みにくい場所にしてしまうという昔の人の知恵というか洞察が込められているような気がします。
人生100年の時代だと言われています(私は70歳まで生きることができれば十分だと思っています)。そうであれば、なおのこと期限を区切っていつまでにこれができなければならないと考える必要はないはずです。
そもそも、6・3・3制の学校教育はアメリカから輸入された近代の産物にすぎません。そこでは子供たちの能力の開花時機も一律に決められます。その結果、全員が横並びのドッグレースを走らされることになります。「柿」なのに、「桃」や「栗」と競争させられるのです。もともと無理な競争をさせられているわけですから、当然脱落する子供も出てきます。「桃」や「栗」が「柿」を見下す教育は終わらせるべきです。
言うまでもなく、近代国家は軍隊と学校制度を持つことでスタートしました。その近代が終わりを迎えているときに、近代的な枠組みの中でしか考えられないとしたら、私たちの社会は早晩破綻するしかありません。安倍政権の道徳的・倫理的な退廃は、その予兆なのです。
ではどうすればいいのか。簡単です。まず腐った部分を切除します。放置すれば菌が全身に回り、健康な細胞も壊死します。次に、少子高齢化、人口減少社会の入り口に立っている今こそ、社会の時間軸をとらえ直す絶好のチャンスです。
「働き方改革」だとか「人づくり革命」といった軽薄この上ない言葉は、沈みかけている船の中で、カラ元気を出すための欺瞞言語に過ぎません。私たちは沈みかけた船を捨て、救命ボートに乗り換えて新しい大地を目指さなければなりません。では社会の時間軸をとらえ直すために何をすればいいのか。そのヒントはすでに述べました。
『100年後の生存戦略−教育』
http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=446
さて、話は塾の現場に戻ります。他に取り柄のない私のような人間でも、長い間塾教師を続けていると、否が応でも気づくことがあります。それは、大人が市場社会の絶対時間とコスパ万能主義のとりこになった結果、子供たちの使う言葉が、瞬間芸としての擬音語や擬態語のようなものに退化したということです。
世の中で最も大事なものは経済=お金だと考えれば、言葉をつむぐ必要などありません。新しい社会を構想する言葉も、常識的な物の見方を切り裂く言葉も必要とされなくなります。
私たちは日に何度か胃袋を満たさなければなりません。同様に、私たちの精神も言葉で満たさなければなりません。獲れたばかりの生きのいい魚のような言葉。太陽の光を思う存分浴び、栄養たっぷりの土壌で育ったみずみずしい野菜のような言葉。
人は新しい言葉に出会い、新しい生き方を発見することで「いっちょ、やってみるか」という気になるものです。私が心がけているのは、生徒に「いっちょ、やってみるか」という気を起こさせることです。一方で、理解が遅い生徒に向き合うときは、The time has not come yet.(機未だ熟さず)とつぶやくことにしています。