結論から言いましょう。塾は一部で能力上位層を選別する機能を果たしたものの、子供たちの学力を高めるのにまったく貢献してこなかった、それどころかAIに取って代わられるような表層的で一過性の能力・知識を子供たちに注入してきただけだというのが私の結論です。
「学力」をどうとらえるかにもよりますが、教科書に書かれている日本語を正確に読解できる力を学力とすれば、それすら身につけていない子供たちが大量に生み出されているのが現実です。当たり前のように塾に行く子供たちが多い中で、にわかには信じられないかもしれませんが、事実です。
最近出版された『AI vs 教科書が読めない子どもたち』という本の中で、数学者の新井紀子氏がこのことを具体的に立証しています。ちなみにこの本の前半160ページ余りはAIについての記述です。知的な中高生および親御さんなら、色々な発見があると思います。
この本の中で、新井氏は、人間の知的活動のすべてが数式で表現できなければ、AIが人間に取って代わることはない。AIがコンピューター上で実現されるソフトウェアである限り、ロボットが人間の仕事をすべて引き受けてくれたり、人工知能が意思を持ち、自己保存のために人類を攻撃したりするといった考えは妄想だとして一蹴します。数学者として当然の見識ですね。
一方で、人間の仕事の多くがAIに代替される社会がすぐそこに迫っていると指摘しています。この本の真骨頂は、従来の学校教育や塾産業が前提とする「学力」の中身が、まさにAIの得意分野であり、日本の労働力の質は実力をつけてきたAIの労働力の質にそっくりなので、簡単にAIに取って代わられる可能性があると指摘している点にあります。
しかも、全国の多くの中学や高校で実施してきた独自のテストによって、日本の中高生の多くは、歴史や理科の教科書程度の文章を正確に理解できないということを明らかにしています。そして、英語の単語や世界史の年表を憶えたり正確に計算したりすることは、AIにとって赤子の手をひねるようなことだと言います。
さらに、AIに多くの仕事が代替されれば、労働市場は深刻な人手不足に陥っているのに、巷には失業者や最低賃金の仕事を掛け持ちする人々があふれる状況が生まれると予想しています。つまり、経済はAI恐慌の嵐にさらされるというわけです。もちろんこれは日本だけではなく、世界で起ころうとしていることです。
言うまでもなく、資本主義社会では経営者は企業の利益をあげることを最優先しなければなりません。AIを導入することで労働コストが軽減できるなら、それを選択するはずです。日本企業が、雇用慣習の違いを理由にAIの導入を先延ばしにすれば、国際競力を失って倒産するか、外資系企業へ売却されるのが落ちです。
それはともかく、ここ20年余りの間、塾は何をして来たのかという問いに戻りましょう。結論は冒頭に書きましたが、今少し具体的に述べてみます。
消費社会の等価交換と費用対効果の発想が骨の髄までしみ込んでいる塾業界は、まず「学力」を数値やデータを使って計測可能なものと見なしました。要するに確率と統計的な処理によって個人の能力を「見える化」し、それに見合った対価を要求したのです。
しかし、確率と統計的な処理で説明できるのは、子供の能力のごく一部に過ぎません。にもかかわらず、塾は色々なグラフやデータを保護者に示し、限られた言葉で子供たちの「やる気」や「集中力」「根気」「弱点」などを診断します。あたかもそれが最先端の教育であるかのように。
私はこれを巧妙な詐欺だと考えています。なぜなら、人間の知能を科学的に観測する方法がそもそもないからです。皆さんは、文を読んで意味がわかるということがどのようなことか説明できますか。難問にチャレンジしているとき、自分の脳がどのように働いているかモニターできるでしょうか。ましてや知的活動が無意識の世界とどうつながっているかなどわかるはずもありません。
にもかかわらず、人間の知的活動を測定できるかのようなフリをして、まんまと金品をせしめるのは詐欺だと言っているのです。こんなことを言えば、私自身にも批判の矢が帰ってくることは百も承知しています。それについては次回以降に説明します。
この20年、塾がやって来たことは何だったのか。その答えは、最近の塾が提供するサービスを見ればわかります。なぜなら、その内容はこれまでやって来たことをより効率的に圧縮したものだからです。前出の新井紀子氏の発言に耳を傾けてみましょう。
引用開始(趣旨を変えない範囲で短くしています)
― 私が最近最も憂慮しているのは、ドリルをデジタル化して、項目反応理論を用いることで「それぞれの子の進度に合ったドリルをAIが提供します!」と宣伝する塾が登場していることです。こんな能力を子供たちに重点的につけさせることほど無意味なことはありません。問題を読まずにドリルをこなす能力が、もっともAIに代替されやすいからです。
小学生のうちからデジタルドリルに励んで、「勉強した気分」になり、テストでいい点数を取ってしまうと、それが成功体験となってしまって、読解力が不足していることに気付きにくくなります。
中学校に入ってもデジタルドリルをくり返せば、一次方程式のテストで満点がとれて、英単語や漢字は身につきますから、そこそこの成績はとれるはずです。ところが受験勉強に向かい始める中学3年生になると、なぜか成績が下がってしまう。本人はうすうす気づいているはずです。「なんだか学校の先生の言っていることが分からない」「教科書は読んでも分からない」・・・。けれどもどうしてよいかわかりません。だから余計にデジタルドリルに没頭してしまいます。
(こういった生徒は)読解力を身につけないまま、ドリルと暗記だけで大学受験をしている可能性が大きいと思われます。それでも偏差値が50を超える難易度中位の大学に入学できます。しかも今の大学生の半数は、学力試験を免除されるAO入試や推薦入試で入学しています。そして、偶数と奇数を足すとなぜ奇数になるかと尋ねられたら「2+1=3だから」などと大真面目で解答してしまうのです。
問題文に出てくる数字を使ってとりあえず何らかの式に入れて「当てよう」としてしまう。なぜそんなことをしてしまうのか?フレームが決まっているドリルでは、それが最も効率の良い解き方だったからです。
フレームを決めざるを得ないデジタル教材の最大の欠点はここにあります。フレームが決まっていると、子供は教える側が期待しているのとは別の方法で、そのフレームの時だけ発揮できる妙なスキルだけを偏って身につけてしまうのです。
思い出して下さい。フレームが決まっているタスクはAIが最も得意とする作業です。そのような能力は、人間よりはるかにスピードが早く、エラーも少ない、そして何よりも安価なAIに代替されてしまいます。― 引用終わり。
今から15年ほど前、塾のホームページを立ち上げた時、最初にアップしたのが『学力低下は塾のせい』という記事でした。塾の教師が学力低下の原因は塾にあると指摘したのですから、無視されるか、からめ手からの生徒獲得作戦だとして揶揄されるのが落ちでした。
しかし、15年の月日が流れ、『驚くべき教育格差−中学受験の意味するもの−』とともに、今では一番アクセス数が多い記事になっています。この記事の中で指摘したことが、15年の歳月が経過してことごとく現実となりました。新井氏はAIという格好の比較対象を得て、私が書いたことをより説得的に展開しています。長くなるので続きは次回に譲ります。2週間ぶりのブログでしたが、ここまで読んで下さった方に心よりお礼申し上げます。ありがとうございました。