今回差し止めを却下したのは、大分地裁の佐藤重憲裁判長です。「具体的な危険はない」というのが根拠です。
佐藤重憲裁判長が考える「具体的な危険」とは、実際に火山が破局噴火を起こした時であり、伊方原発のすぐそばを通る中央構造線が跳ね上がった時であり、南海トラフ地震が巨大津波を起こして伊方原発が全電源喪失した時であり、佐多岬半島の住民約5千人が逃げ場を失って絶望している時であり、大分市の住民が放射能汚染にまみれ、豊後水道や瀬戸内海の海産物が致命的な打撃をこうむったときのことを指すのでしょう。
大分地裁前は、原告団と報道陣で混み合っています。
「疾風自由日記」のSさんも最後尾でのぼりを掲げています。
それが起こるまでは「具体的な危険はない」なんて、いったい誰の顔を思い浮かべて決定を下したのでしょうか。小学生以下の判断力の持ち主です。こんな事だろうと思って、1年前に書いたのが以下の記事です。
「大分地裁裁判長への意見陳述書」
http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=426
折も折、伊方原発の差し止めが却下されたその日(9月28日)に、インドネシアのスラウェシ島ではマグニチュード7,5の巨大地震が起こり、津波と地震で29日現在384人の命が失われています。被害はさらに広がるでしょう。もちろん佐藤裁判長にとっては遠い国の「抽象的な危険」に過ぎません。
佐藤重憲裁判長の今回の判断は、北海道地震の時に泊原発が稼働していたら停電はなかったというネトウヨ経済評論家やIT成金の皆さんと同レベルです。無知というか、視野狭窄というか、絶句するしかないものです。
ましてや、南海トラフ地震が起こり、複数の原発が爆発しているときに台風が日本列島を縦断して放射能を撒き散らすなどという破局的なシナリオは想像すらできないのでしょう。
ドキドキしながら待っていた決定の瞬間。覚悟はしていたものの、正直言って無性に腹が立ちました。
決定要旨を説明する河合弘之弁護士。闘いは終わらない、これからも頑張ろうと挨拶。ところで、私は「原発問題が好き」でも「趣味」でも「生きがい」でもない。そうやって揶揄するあなたやあなたの子供、孫のためにも闘っている。原発のない普通に安心して暮らせる社会を願っているだけである。一日も早く原告を辞めたいのだ!
今回、佐藤重憲裁判長が、四国電力といわゆる原子力ムラの言い分をそのまま追認しただけの決定しか下せなかったのは、匿名のシステム(この場合裁判所という組織を指します)に逃げ込んで裁判官個人としての「良心」や見識を世に問うことが怖かったからです。既成事実を追認するだけの勇気のない裁判官などいりません。追認するならせめて後世の批判に耐えられるだけの論理と根拠を明確に示してもらいたいものです。
そんなわけですから、決定を聞いたとき、私は苦笑いするしかありませんでした。こういう裁判長に当たったのは、運が悪かったということです。安倍政権の下では、福井地裁の樋口英明裁判長(彼は匿名のシステムに呑み込まれることを潔しとせず、良心に基づいて見事な判決を下しました)のような人に当たるのは、宝くじに当たるようなものです。
原発は、使用済み核燃料という致命的な負の遺産を後世に先送りしながら、やっていることといえば水を沸騰させ、蒸気の力でタービンを回して発電することだけです。たかがお湯を沸かすのになぜ核エネルギーを使う必要があるのでしょうか。
総括原価方式によって電力会社が膨大な利潤を生み出せる構造になっているからです。要するに、金です。金。世界での発言力を高めるためには、核兵器による潜在的抑止力が必要だというような妄想に取りつかれている集団はこの際無視します。
それにしても佐藤重憲裁判長のような人間がなぜ司法の世界のみならず政界・経済界に跋扈するようになったのでしょうか。
一番の原因は「国家」が消滅したことです。代わりに、前回のブログでも書いたように、政治権力と大企業が癒着し一体となったコーポラティズムによる統治形態が登場しました。今はこの統治形態に奉仕すべく、教育や医療をはじめとする公的領域の最後の名残が資本によって呑み込まれようとしている時代です。
政府は、「パンとサーカス」を与えて国民を愚民化し、奴隷の自由を真の自由だと勘違いする人々を大量に生みだしました。テレビのグルメ番組を見て食べ歩き、一方でダイエットや健康食品を物色する。あげくの果てに、外資系の保険会社になけなしの金を払い込み、「賢い」投資家になったつもりで損をする。そればかりか、新手の詐欺に引っ掛かる。幻想を追いかけるのは勝手ですが、いまだアメリカの占領下にある国に真の自由などあり得ません。
話がそれました。佐藤重憲裁判長に象徴される人格がどのようにして出来上がるのか。その答えは、彼らが受けた教育にあります。しかし、長くなるのでその話はまたにします。
他人のことを批判するお前は何様だと言われるのは覚悟の上です。私は一介の塾教師に過ぎません。しかし、何のために勉強するのかという問いにはいついかなるときにも答える準備はしています。勉強の手助けをするのも教育でしょうが、それだけならAIにもできます。
私が生徒に向き合っているときに、心の底から願望していることはたった一つです。それは、毎日目にしている世界の風景が、違う世界の風景のように見える力を付けてもらいたいということです。真の知性とは、今とは違う世界を描き出す勇気を持つことを意味します。
オスカーワイルドは1891年に書いています。
“ a map of the world that does not include Utopia is not worth even glancing at, for it leaves out the one country at which Humanity is always landing. And when Humanity lands there , it looks out, and seeing a better country , sets sail ”
「ユートピアを含まない世界地図など一瞥にも値しない。その地図には、人間が繰り返し上陸している国が抜け落ちているからだ。人間はそこに上陸すると、あたりを見渡し、もっとよい国を発見して、船を出すのである」
自分がなじんできた世界以外のものを思い描くこと。目の前のものとは違う「何か」を探すこと。根底から変革された、よりよい未来を思い描くことも、そのために闘うことも教育によって可能になるのだと私は信じています。