悲劇を悲劇だと認識せず、喜劇的なオブラートで現実を覆い隠すお笑いと大本営発表を垂れ流すマスメディアによって、2019年もいよいよ幕が下ろされようとしています。
私はと言えば、相も変わらず、金さえ出せば商品としての受験情報やテクニックが手に入ると考える生徒や親御さんを横目に見ながら、そういった予定調和の世界に子供たちを送り出すことに抵抗してきました。今の社会に適応しようとすればするほど、どこかで精神に変調をきたすだろうという予感があるからです。
中高生といえども、知的なトレーニングを積み重ね自分で価値判断を下せる人間になることが人生を切り開く唯一のカギになると私は信じています。そんな塾教師のもとに子供たちを通わせて下さった保護者の皆様には感謝のしようもありません。
塾教師の仕事は生徒を少しでも上位の学校に効率的かつ最小の費用で合格させることだと思われています。しかし、そういった発想は社会的共通資本であるはずの公教育を破壊し、そこで働く教師の意識をまるで有能な塾・予備校講師のそれに塗り替えてしまいました。公立中学校の校長が○○高校に何名合格させたなどと自慢げに吹聴するようになったのです。
公教育の教師が、権威主義的・差別主義的レイシストたる塾教師や、巧妙な成りすましと自画自賛で出身大学を吹聴する学歴コンプレックスに囚われた塾教師と同列になったということです。
もはや打つ手はありません。十分な予算と教員の数を確保し、一人の教師が5〜6人の生徒を看ることができるローテーションを組まない限り、教師の知的レベルは下がる一方で、教師のなり手もいなくなるでしょう。
社会の階層分化が進めば、高校や大学は言うまでもなく、小学校や中学までが本質的には受験予備校・就職予備校として評価されるようになります。人々が教育の内容ではなく、どこの大学に何名合格させたかといったような「実績」で高校を評価すればするほど、この傾向は強まります。毎年春になると、『週刊朝日』や『サンデー毎日』が高校別大学合格者数を年中行事のごとく報じるのもこの傾向を当然のものにしています。
そういった資本主義的予定調和の世界(官僚と原子力ムラ、そして日本語の読み書きすらまともにできない学歴コンプレックスのかたまりである政治家が価値を捏造し、それを内面化することを要求する世界)に子供たちを送り出すことに私は価値を見出すことができません。
理由の第一は、その世界に所属している人間たちの立居振る舞いや、言葉や顔が下品すぎるからです。人格を喪失した人間は同じ表情になり陰翳を失くしていきます。
夫婦は似て来ると言いますが、この政治家夫婦はその内面が顔に余すところなく現れています。それとも似ていると思うのは私だけでしょうか。
河井克行前法相、河井案里参院議員
第二に、彼らは前提を疑う能力を放棄しているので(そうしなければ、予定調和の世界の住人になれません)社会や他人から吹き込まれた価値を平気で撒き散らし、他者とくに若者を傷つけます。
言うまでもなく、世界をよりよき場所にするためには前提を疑う必要があります。しかし、すでに予定調和の世界に生きている人間は、既得権益を守ろうとするばかりではなく、自分の信じている価値観を疑うことができないため、前提を疑う人間を生理的に嫌悪するようになるのです。
さて、こんな自明の分析を述べたところでどうなるものでもありません。そこで、2020年がどんな年になるか予想して今年のブログを締めくくりたいと思います。
年が改まったからと言って、今年の日本社会の動きと来年の動きが断絶するわけではないので、それを前提に私の予感のようなものを述べます。ひとことで言えば、予定調和の世界にひびが入り、激動の年になる予感がしています。その予感を今回のタイトル『2020年、山本太郎はチェ・ゲバラになる。』にしました。どうぞ笑い飛ばして下さい。
参考記事:
『Ecce homo!(この人を見よ!)チェ・ゲバラ』
http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=417
もう終わりにします。今年一年、何の益もない小難しいブログをお読み頂いた方に心よりお礼申し上げます。どうか来年が皆様にとりまして幸せな一年になりますように!