新型コロナの蔓延を見ていると、地球の人口調節機能が働き始めているような気がします。しかし、そんな何の根拠もない「妄想」を論じたところで仕方ありません。むしろ、人類史的な転換点がどのような形で表面化するかを考えてみます。
ウィルスは容易に国境を越えます。社会的地位のいかんにかかわらず感染の危険があります。国家主義の愚かさや、社会的地位に拘泥することの無意味さについて考え直すきっかけを提供しているのです。
前にも書きましたが、戦争と天災、革命と疫病が、人間を規定している様々な条件を全人類的な規模で洗い流し、それまで当然だと思われていた価値や社会システムが相対的なものに過ぎなかったことに気づかせます。いわば円柱を正面から見て長方形だと思っていた人が、上から見ると円に見えるということに気づくのです。そして、生き延びるためには複数の視座が必要なこと、場合によっては旧来の見方を捨てる必要に迫られます。
当然、旧来の価値にしがみつく勢力が金と権力によって新興の価値・勢力をコントロールしようとするでしょう。しかし、コロナのような疫病の場合、対立をあおることは両者の死を意味するので、それもできなくなります。かくして人類史的な新しい段階に入るというわけです。災厄の春は、悪いことばかりではありません。
コロナに関しては、以下のImperial College Londonの記事が参考になります。日本では過度の検査は、医療崩壊を招くと主張する医師や専門家がいますが、だまされてはなりません。適切な検査をせず放置されれば、4,000万人が死ぬと警告しています。
https://www3.nhk.or.jp/news/html
/20200327/k10012353091000.html
一方で、この記事は、外出制限や自宅での隔離などの強力な対策を感染拡大の初期段階で実行し、感染を調べる検査を数多く実施すれば、大幅に状況を変えることができ、亡くなる人は130万人に減少すると分析しています。
現場の医者にとってPCR検査は、原発労働者にとっての線量計の様な物です。PCR検査抑制論は、線量計を持たずに原発の作業をやれと言っているようなものです。
「お医者様」や「専門家」の言うことだからと簡単に信用して、自分で調べようともしない人は、国家資格を盲信する、権威に弱い人です。 学校時代の偏差値序列を大人になっても引きずっています。一言でいえば序列意識が骨の髄まで染み込んでいる人たちです。彼らの生きる道は忖度しかありません。
『私たちは政府によって緩慢な死を強制されている』を書いてから4年になります。忘れてならないのは、日本はまだ原子力緊急事態宣言の発令中だということです。福島第一原発の危険度は、2011年3月11日の夜のままだと政府が公式に認めているのです。その中でオリンピックをやろうという発想はどこから出てくるのでしょうか?
『私たちは政府によって緩慢な死を強制されている。』
http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=152
私たちの悲劇は、キャチフレーズを連発するだけで、具体的な対策となると丸投げして「やってる感」だけを演出するバカがこの国のトップに居座り続けていることです。ウソの上にウソを塗り重ね、心ある国民から全く信用されていません。要は統治機構の体をなしていないのです。
これから私たちが払わなければならない代償がどれほど高くつくか想像もできません。これはすべて安倍政権と官邸官僚がついてきたウソの代償です。そしてそのウソをそのまま垂れ流す官邸記者クラブ系マスコミが良心を放棄した代償です。言わずもがなですが、その代償を払わせられる順番は、最も援助を必要としている最も弱い立場の人たちからです。
先見の明を誇ろうなどとは考えてもいませんが、今日のこの事態はすでに予想しています。見るべきものを見れば、誰にでもわかることです。もし時間があればお付き合い下さい。
私たちは暫定的な足場をたよりに考えるほかない存在である。
http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=365
「希望」という名の災厄− 小池百合子の「バベルの塔」
http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=413