諸君はこの時代に強ひられ率ゐられて
奴隷のように忍従することを欲するか
むしろ諸君よ さらにあらたな正しい時代をつくれ
―宮沢賢治「生徒諸君に寄せる」
私の塾教師人生もいよいよ終盤に差し掛かってきました。5年後には間違いなくこの業界から引退しているでしょう。この間、塾教師として分をわきまえない言動もありました。特に3・11の原発事故後は、たかが塾教師の分際で自分の考えを発信してきました。伊方原発差し止め訴訟の原告になり、大分地裁の裁判長に意見陳述書も書きました。安倍首相には至近距離でヤジも飛ばしました。
「たかが塾教師の分際で」と書きましたが、「たかがタクシー運転手」であろうと、「たかがお笑い芸人」「たかが自衛隊員」「たかが警察官」「たかが弁護士」「たかが医師」「たかが総理大臣」「たかが裁判官」「たかがノーベル賞作家」であろうと、私は職業に関係なく言説はその言説の価値のみで平等に扱われるべきだと考えています。
もちろん中身を検討すれば価値の優劣はあります。すべての言説が等価であると考えるのはおふざけに過ぎません。しかし、民主主義社会は「肩書」や「立場」の奴隷になることなく、人々が自らの意見を表明することでかろうじて存在できるのです。
こういう考え方は子供っぽいと言われればその通りです。しかしこの認識の裏には、「現実」を子供っぽく信じることができないがゆえの絶望が張り付いています。
権力や地位や名誉を求めることに生来関心がなかったこともありますが、それを追い求めている人間たちがつまるところ自己中心主義者に過ぎず、他者の抱いている価値や痛みに何の関心もないことが経験によって分かったのです。
その証拠に、彼らは他者の惨状を見て慟哭すべき時に酒を酌み交わし談笑しているのです。彼らが葛藤から無縁でいられるのは、彼らの唱える主義主張が他者への冷酷な無関心と張り合わせになっているからです。
では「他者への冷酷な無関心」はどのようにして生まれるのでしょうか。子供を育てる親の問題や生得的な要因もあるでしょうが、匿名のシステムとしての学校教育の影響が特に大きいのです。それを人生で初めて自覚した時のエピソードを話しましょう。
あれは上野丘高校の3年の時です。私は鬱屈した心情を抱えて無気力な高校生活を送っていました。そんなある日、何がきっかけか忘れましたが、同じクラスのK君が教壇に立って話し始めました。ベトナム戦争について滔々と語るK君の表情は真剣でした。あれからおよそ半世紀が経過しますが、その時の記憶はいまだに鮮明です。
K君は私と同じ陸上部に所属する長距離ランナーでしたが、勉強面では落ちこぼれと言ってもいい状態でした。そのK君が、信じられないほど明晰かつ論理的に政治について自分の考えを述べたのです。これほど中身のある話をするには、かなりの本を読み、日ごろから政治について関心を持っていなければできないはずだと感じました。
ところが、K君が話している間、ほとんどの生徒は関心を示しているようには見えませんでした。それどころか、K君が話し終わった後、バカにするような冗談を言う人もいました。「勉強せんか」「頭わるいくせに」という言葉に私は傷つきました。私が学年でただひとり卒業アルバムを買わなかったのも、今思うとその時のことがあったからかもしれません。
そしてふと思います。K君が今上野丘高校の教壇に立ち、同じ話をしたら共感する生徒がいるだろうかと。東大や九大に多くの合格者を出す高校に所属していることでケチなプライドを満足させている人間は、なによりもまず相手の成績と序列を意識するのです。それはもはや若者ではなく小才の利いた小役人、官僚予備軍に過ぎません。
皮肉ではなく、私はこういった経験を積めただけでも上野丘高校に通ってよかったと思います。匿名のシステムを動かしている無意識的な思考を友人や教師の中に垣間見ることができたからです。しかしそれを経験するためにだけ学校に行く価値があると考えるのはマゾヒストです。
おそらく今の上野丘高校の生徒さんたちは、礼儀正しく、優しく、ユーモアもあり序列主義を痛切に意識させられながらも楽しい学校生活を送っていることと思います。
しかし、政治についてどのような態度をとるかが知性のバロメーターだ、というような考えは聞いたことがないか、受け入れられないでしょう。彼らにとって勉強とは受験勉強のことなのですから。K君の話は「勉強」とは関係ないというわけです。
しかし、私はその人の政治意識こそが知性を証明するものだと思っています。「政治の話はあまりしたくないので」という前口上を言う人で、知的な人に会ったことがありません。マックス・ウェーバーも言っているように、政治こそ文化の最高形態なのです。もちろんTPOを考慮する必要はありますが。
私は政治とは何かについてブログに書いています。再掲しますのでお読みください。
「そもそも政治とは、国民に対して、誰もが不可能だと思っていることを可能であると実証して見せる営みを指す。すなわち、現実を絶対化し、その改変を試みる勇気を持たない人間に対して、「現実」は一部の人間の利益に奉仕しているだけであり、したがって取るに足らない思いこみであり、一時的な夢だと喝破して見せることこそが政治の使命だ。」
大分地裁裁判長への意見陳述書http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=426
大分地裁佐藤重憲裁判長、伊方原発差し止め却下。http://oitamiraijuku.jugem.jp/?eid=520
さて今回のタイトルに話を戻します。
「捏造された希望」とは、学校という制度の中を通過する間に、いつの間にか自分のものだと思い込まされた「希望」のことです。優秀な子供であればあるほど、人生の早い段階から周囲の大人や教師から期待され、それに応えている間に本当に自分のやりたいことを見失ってしまうのではないか、と問いかけたいのです。もちろん顰蹙を買うのを覚悟で言っています。
匿名のシステムである学校は社会の必要から生み出されました。だからこそ、それは生徒一人一人の個性に寄り添うようには設計されていないのです。「捏造された希望」が必要になる所以です。
私は塾を始めるとき、生徒に「捏造された希望」を押し付けないということをモットーにしていました。それゆえ東京にあこがれ、「名前が売れている」という理由だけで早稲田大学や慶応大学に行きたいと言う生徒に考え直すようにと言いました。理系で成績がいいから医者になりたいと言う生徒に「君は医者には向いていないよ」とも言いました。親御さんからは独善的な塾教師だと思われていたかもしれません。
そういうわけですから「目指せトップ校!」だの「祝○○高校合格!」「○○大学〇名合格!新記録!」などとやたら!マークの付いたのぼりを掲げたり、教室に大書したりすることは、生活が懸かっているとはいえ、恥ずかしくてできなかったのです。
何事であれ、初発の動機は重要です。塾を商売だと割り切れば成績を上げることを売りにするのが最も簡単で分かりやすいでしょう。しかし、それでは長続きしないと考えました。それは自分がやらなくても大勢の塾経営者がやるでしょう。
かくして、既存の塾を乗り越える思想を懸命に探すこととなったのです。ブランディングだのマーケティングだのと言った横文字で考えることはどこか胡散臭い感じがしました。つまりその時々のはやりの経営戦略や消費者の嗜好に迎合するのではなく、子供と遊んだり学んだりすることで人間に対する認識が深まっていくような、より普遍的な教育を目指したのです。
その時に出会ったのがイギリス人の教育家A・Sニイルでした。ニイルが創設した「世界で一番自由な学校」と言われた『サマーヒル』を2度訪ね、訪問記を朝日新聞の大分版に数回にわたって連載しました。28年前のことです。インターネットもスマホもない時代でした。
私にとってはA・Sニイルこそが、子供たちの個性を洞察する、「捏造された希望」を決して押し付けない教師だったのです。かの作家、ヘンリー・ミラーはA・Sニイルのことを次のように言っています。
‟I know of no educator in the western world who can compare to A.S.Neill. Summerhill is a tiny ray of light in the world of darkness”
「西欧社会でA・Sニイルに比肩する教育家を知らない。サマーヒルは暗黒の世界に灯るかすかな光である」
長くなるので、続きは次回にします。